境界の旅人 10 [境界の旅人]
第三章 異変
1
「じゃあ、オレたちは稽古があるから。これで」
男子弓道部員は、弓道場の入口まで由利と美月を連れてくると、そこに待機していた女子弓道部員に引き渡した。
ふたりは女子弓道部員に誘導されて、二回にある見学席へと向かった。
「えっと、入部希望ですか?」
二階の階段を一緒に昇りながら、女子部員が少し怪訝な顔をして尋ねた。
「え、は、はい。少し興味があったので」
本当は違う、と答えても良かった。だがそれでは、弓道部そのものを貶めているような気がしたので、一応ふたりはこの場では気のあるそぶりをした。
「あらぁ、変ねぇ。どうして男子ったらこんなに気が利かないのかしら?」
女子部員はボソッとぼやいた。
「どうかされたんですか?」
美月はすかさず訊いた。
「ええ。もう女子の練習は終わってしまったんですよ。これからは男子の練習が始まるんです。どうせ来てもらうんだったら明日でもよかったのにねぇ・・・」
だがそう言ったあとで、せっかくここまで足を運んでくれた由利たちに申し訳ないとでも思ったのか、こう付け加えた。
「でも男子が弓を打つのは、女子とは違って、矢の通る道は真っ直ぐだし、何といっても速いです。やはり迫力のあるものですから是非見て行ってくださいね」
由利たちが案内された見学席から下の方を見下ろすと、二十人足らずの男子部員が射場の奥のほうに固まってきちんと正座していた。そこへ遅れて常磐井が入って来ると、皆のほうへ一礼してから末席ので正座した。するとそれまで静かだった会場のあちこちが少しざわついた気がした。
「今日は、練習というより、新入部員勧誘のための一種のデモンストレーションなんです」
女子部員はふたりに説明した。
「あの、男子部員の方たちが右手に付けている手袋みたいなものは何ですか?」
由利がふと気になって女子部員に訊ねた。
「ああ、あれは『かけ』って言います。弓を引くときは親指を弦に引っかけて、他の指で親指を押さえるようにするんです。で、かけには親指のところには木型が入っていて、弦を引っ張ったとき、指に食い込まないようにできてるんですよ。やはり弓を引くときは相当な力が一点に集中しますからね、かけなしではすぐに親指を痛めてしまうんです。ですからかけは、弓を引くときにはなくてはならない大事なものです」
「へぇ~」
由利と美月が感心すると、女子部員は少し気をよくしたらしい。
「ほら今でもものすごく大事なものを『かけがえのない』っていうでしょう? あれは『かけ』から来ているんです。「かけ」の替えがない。つまり今使っている「かけ」しかないってことです。つまりそれこそがかけがえのない大事なものじゃないですか」
「そうなんですか!」
由利と美月は異口同音に叫んだ。
「日常でも、私たちは知らず知らずのうちに弓と関連したことばって案外たくさん使ってるんですよ」
「たとえば、他には? 是非この機会に教えてください。知りたいです」
ワクワクしたように美月が女子部員をせっついた。女子部員はそれを見て少しほほを緩めた。
「ふふ、そうですねぇ、私たち、普段『やばい』ってよく言いますよね?」
「はい、やばい。ええ、普通に使いますね」
「当たり前のことを言うようですが、弓は今でも歴とした武器なんですよ。もともとは人を殺傷するために使ったんですから。弓を放つ場所というのは『射場』と今は言うんですけど、昔は『矢場』と言ったんです。で、的から矢を抜くときは、一旦矢場から人を退かせるんですよ。そうしないと万が一、矢を放ってしまう人がいたりしますからね。そうなることを防ぐんですよ」
「はぁあ、そうなんですね」
美月が相づちを打った。
「だから、矢場に人がいる、すなわち『矢場居』とは的場に入る人にとっては非常に危険な状態にある、ってことなんです」
「へぇ~」
「もうね、『手の内を見せる』とか『ズバリ』とか。そういった感じで日常生活に浸透していることばって結構あるんですよ」
女子部員は笑いながらそう説明した。
「うわぁ、今のを教えていただいただけでもここに来てよかったって思います。本当に勉強になります。ありがとうございます!」
美月は知的好奇心が満たされ、またキラキラした目で礼を言った。
「いえいえ、とんでもない。弓道って武道の中では一番女子に人気があるんですよ。もし今日の男子の演武を見て興味がわいたのであれば、ご足労ですけど明日、もう一度ここに足を運んでもらって女子の練習を見てもらうのが一番なんですけど」
女子部員はやはり武道をたしなんでいるせいか非常に礼儀正しく、隙なくぴしりとした印象が残る。
「それにね、うちの部の流派は競技に勝つことより、儀礼とか精神性を重んじるんですよね。もともと神事から派生した流派なんです」
「神事から派生したって、どういうことですか?」
美月は質問した。
「例えば、神社よく神社などで弓を射ることがあるでしょう? あれは神さまに捧げるものなんですよ。だからとても形には厳しいです。でもこれから見ていてもらうとわかると思うのですが、とても端正なものですよ」
射場には本座と呼ばれる位置に、七つの白木白布の胡床(きしょう)が一列に等間隔に並べられていた。
奥の控えで正座して待機していた男子部員のうち七人が立ち上がり、射場のほうへと向かって行った。
よく見れば皆、弓道着におろしたての真っ白な足袋をつけている。そして左手に長い弓の先端である、上弭(うわはず)と言われる部分を地に向け、右手には二本の矢を手に携えていた。彼らは射場に足を踏み入れる前にまず一礼し、しずしずと摺り足で胡床の後ろを進んで所定の本座の位置につくと、皆同時に胡床に腰を下ろした。
やがて「起立」の声と共に一斉に立ち上がり、「礼」という声にまた一糸乱れぬことなく頭を下げた。
それから射手たちは一旦座って、また立ち上がり、また座るという動作を繰り返した。
「どうして立ったり座ったりを繰り返しているのかしら?」
それを聞いて横の女子部員が苦笑しながら言った。
「これは座射(ざしゃ)一手っていう弓を射る形式です。射位といって、射場内の弓を射る位置のところで一度座って、矢をつがえ、その後立って矢を射るんです」
それから射手たちは座りながらそれまで携えて来たふたつの矢を互い違いに持つと、再び立ち上がった。そして複雑な作法で後で矢を射るためのもう一本の矢を右手で持ちながら、矢を放った。
「うわぁ、難しそう。ただでさえ的に矢を当てるのに集中しなければならないのに」
美月が遠慮なく思ったことを言う。
「すみません、勝手なことを言っちゃって。美月、そんなふうに茶化しちゃ失礼じゃない」
由利が珍しく美月たしなめた。だが女子部員は笑ってとりなした。
「いいえ、構いませんよ。実際、あなたが言う通りなんです。弓道は礼儀を重んじますから、一般の大会、審査はこの坐射で行われるのが基本です。勝つために的に当てることばかりにかまけてこの練習を日頃怠っていると、いざ本番ってときに複雑な作法の手順に気を取られ、本来の目的である弓を引くことに集中できなくなるんですよ。だけどそうなってしまったら、それこそ本末転倒もいいところでしょう? だから試合で平常心を保つためにも、普段から常にこの作法を練習して、体にその手順を染み込ませることが大事なんですよね」
「中り(あたり)!」
「外れ!」
審判員の声が辺りに響いた。
「ねぇ、弓道って『あたり』と『はずれ』しかないの?」
美月がこそっと由利に訊いた。
「うーん、さあねぇ。まぁ、武道だからねぇ。アーチェリーみたいなゲーム感覚ではないのかもね。○か×かの二択しかないんじゃない?」
「そっか、生きるか死ぬか、それだけなんだね、たぶん」
それを横で聞いていた女子部員がまた美月に解説した。
「弓道はね、競技として大きく分けると、近的(きんてき)と遠的(えんてき)のふたつに分かれます。今、おふたりに見てもらっているのは近的です。最近は競技と言えば近的がほとんどです。近的は射位から二十八メートル先の直径三十六センチの的を射ます。射る矢の数は大会によって異なるんですけど、だいたい二本から多くて十二本程度かしら。今おふたりがおっしゃったように、的に中ればどこに刺さろうとも○、外れれば×です。真ん中が何点といった得点的(まと)使われません。的に矢が数多く中った人が勝ちです」
「へぇ、そうなんですね」
選手が二回交代したあと、常磐井が他の部員と共に射場に入って来た。とたんに女子生徒の黄色い声援が弓道場に響き渡った。
「あらぁ。常磐井君ったら新入部員のくせにもう女生徒にこんなに人気があるんですね」
女子部員がやれやれといったように首を振った。
「常磐井君って新入部員なんでしょ? それなのになんでもう迎える側になってデモンストレーションなんかしてるんだろ?」
美月はまた、ぼそっとつぶやいた。
「彼はね、すでに中学のときに弓道大会の中学生の部で個人優勝もしてるし、上位入賞を何度もしているんですよ。うちの上級生の部員にはそんな華々しい戦果を挙げた人っていませんしね。彼は特別です」
常磐井は射場に入る前に一礼した後、定められた位置につくと、やはり他の男子部員と同様に複雑な作法で、矢を二本つがえた。
大きく足を扇のように広げて床をぐっと踏みしめると、今度はゆっくりと視線を矢筋に沿って的の中心に移し、顔を的の正面へと向けた。それから両手で弓を頭の少し上あたりまで捧げ持った。矢と両肩の水平な線がきれいに並行の線を描きながら、両腕が大きく均等に左右に開かれギリギリと矢が引き絞られる。
由利は常磐井から遠く離れた見学席にいるはずなのに、彼のすぐ傍らで見ているような錯覚にとらわれた。
今、矢をまさに放たんとしている姿は、この上もなく静かだ。決して猛々しく叫んだり、大袈裟な身振りや動作で表現しなくても、緊張した全身の筋肉は力強く膨張し、内に秘められた闘志は青い炎となって全身を包んでいるようだった。
満身の力を込めながら集中して狙いを定めると、矢は放たれた。
バァーン!
放つと同時に右手が勢いよく後方へと放たれ、両腕が横に一直線に伸び、身体が大の字になった。
矢を放ったそのままの姿勢が数秒続いた。
「中(あた)り!」
どっとその場が湧いた。
「!・・・」
気が付けば由利は両の眼はうっすらと涙の膜におおわれていた。だがなぜか急に額から、冷や汗がしたたり落ちた。
「すごい! ど真ん中に命中だ!」
だが人々の喝采がくぐもって遠くから聞こえる・・・。
それを聞きながらふっと由利は意識が薄れていくような気がした。
「皆中(かいちゅう)! 各々方、**さまが放たれた矢、二十本すべて皆中でござりまする!」
やはり弓道場と同じく、人々の驚きどよめく声が聞こえる。
「なんと、また!」
「さすがじゃ! やはり天下に名のとどろいた豪傑にござりまするなぁ!」
気が付けば由利はまったく別の場所に座っていた。
ダ
ーえっ? あ、あたしは・・・?ー
由利は御簾が降ろされた大床に金や紅が鮮やかな繧繝縁(うんげんへり)の厚畳の上に座っていた。五色の飾り紐が付いた桧扇で顔の半ばまでかざし、身体が埋まってしまうほど幾重にも重なった襲(かさね)の色目も麗しいたもとの大きい着物を着ていた。
ー重たい・・・ー
つぶやこうとしたのだが、口が自分の思うように開いてくれない。
大床の前の庭には、弓を持ち片肌を脱いだ男が遠くに立っていた。どうもあの男が今、矢を放って的に当たったらしい。由利はそう推測した。
だが肝心の皆中にした当人の名前だけが、どういうわけだが聞き取れない。
「ほう、女御、そこもとのひいきの**がまた、的中であるぞ」
由利は隣の男の声にハッとなった。横にゆっくりと顔を巡らすと、やはり同じような厚畳の上に座り、冠を付け直衣を着用していた。「女御」とこの男は自分を呼んだ。するとこの男は帝で、自分はその妃ということになる。
天下に並ぶべくもない男にどう応えるべきかと考えていたのだが、今度は口から勝手にことばがすらすらと出て来る。
「まあ、主上(おかみ)。酷い言われようでございます。わたくしは主上の妃なれば、すでに身も心も主上だけに捧げて参りましたのに」
「はは、まあまあ。よいではないか。やつはそなたを自分の命を呈して、窮地から救い出してくれた男ぞ。もそっとうれしそうな顔をしてもよいと思うがの」
「そんな・・・。主上。もちろんそれは、うれしいともありがたいとも思うておりますとも」
「さようか」
帝は女御の完璧すぎる返答にぽつりと返したきり、しばらく沈黙していた。が、持っていた扇でどこか苛立たし気にぴしゃりと膝を打った。
「しかしそれにしても一度も外さぬとは、ソツがなさ過ぎて小癪な奴じゃ。それでは今しばらく続けさせようかの。あと何回放てば、的を逸らすであろうのかの? のう、女御」
女御は帝のことばの端々に弓を放った男に対する嫉妬がにじみ出ていることに気が付いた。そしてやんわりと取り成した。
「主上・・・。さりながらもうよいではありませぬか。ご自分の大事な臣下を、それ、そのように試すような真似をなさらずとも」
「ほれ、そこもとは何かと、あやつをかばい立てする。そこがどうも気に入らぬ」
「ほほ、お戯れもそこまでになさいまし。どうぞ、主上からも褒めてやってくださりませ。すべては主上の栄えのためでございますよ。今日の宴に花を添えてくれたのです。ほかの殿ばらではこうはいかなかったでしょうから」
女は努めて声を抑えてはいるが、誇らしげな気持ちでいっぱいだった。女の身体の中にいる由利にはそれがわかった。
「おお、そうよ。**は朕にとってたしかに大事な男。そうじゃの。女御の言うとおり、朕からもねぎらってやるとするか」
「それでこそ、わが君さまでござります」
女御は頭を下げた。
それから女はそばに控えている女房にそっとささやいた。
「さあ、**を御前に連れて参れ。主上からお褒めのおことばがあるゆえ。妾(わらわ)からも褒美を取らせよう」
「かしこまりました」
しばらくすると件の男は大床の前に現れ膝をついた。
「主上、参上いたしました」
帝はそれを聞いて機嫌よく声を掛けた。
「**よ、ようやった。さすがじゃ。それ、褒美を取らそう」
帝は自分が今着ている着物を脱いで、それをそばの女房に渡した。
「主上から御衣(おんぞ)を賜りました」
取次の女房が帝から手渡された衣をまた捧げ持ち、その男に手渡した。
「これは身に余る光栄!」
拝領された御衣を押し頂きながら、男は深々とこうべを垂れた。
「ほれ、女御、なにかことばをかけてやれ。女御が口を閉じていては、**も皆中にした甲斐がなというものじゃ」
由利もこの女が胸を高鳴らせながら何を言うのだろうかと、じっと耳をそばだてた。
「このたびそなたは、類なき弓の技でもって畏(かしこ)くも尊い主上を寿いだ。まことにめでたくも天晴なこと・・・。九重(宮中のこと)も二重(矢が二十本皆中したこと)の歓びに包まれておりましょうぞ」
静かに女はそう言った。
「ありがたきおことば、身に沁みましてでございます」
またしても男は深々と頭を下げたが、ふいに御簾ごしに顔をこちらに向けた。当然のことだが、初めて見る顔だ。やはり武勇の誉が高いとはいえ、典型的な貴人の容貌だと由利は思った。
だがその男の目を見た瞬間、由利は心の中で思わず声を上げた。
「あっ!」
「由利! 由利!」
身体を揺さぶられて、由利はうっすらと目を開けた。
「美月・・・?」
由利はまたもとの世界に戻ったのだとわかった。
「由利、気分はどう?」
美月が心配そうに尋ねた。
「あ、あれ? どうしちゃったのかな、あたし」
「うん、急に様子がおかしいなと思ってたら、ふら~と椅子から倒れて失神してた」
「失神? どのくらい?」
「うん、失神って言ってもほんの一、二分のことだけどね」
ーたったそれだけの間にあれだけの夢を見ていたんだー
由利は身震いした。
「大丈夫ですか?」
さきほどの女子弓道部員もそばに駆け寄って、心配そうに見ていた。
「あ、大丈夫・・・だと思います」
由利は後ろに両手をついて、上半身をそろりと起こした。
「今日はいろんなところに見学に行っていて、皆さんの活動が素晴らしいので感激しすぎちゃって・・・」
「そうだよ、由利は感受性が強すぎるんだよ。何でもかんでも感動しちゃってたからさぁ、テンション高くなりすぎて、身体がそれについていけなかったんじゃない?」
しばらくすると常磐井が血相を変えて由利たちのほうへ駆けつけて来た。
「倒れたんだって? おい、大丈夫か?」
そういいながら常磐井は床に倒れていた由利を抱き起こそうとしてかがんだ。だが再び、肩に常磐井の掌が置かれた瞬間、由利は一瞬だったが、体が青白く光る雷で貫かれたように感じ身ぶるいした。そして思わずその手を乱暴に振り払った。
「やめて! あたしに触らないで!」
1
「じゃあ、オレたちは稽古があるから。これで」
男子弓道部員は、弓道場の入口まで由利と美月を連れてくると、そこに待機していた女子弓道部員に引き渡した。
ふたりは女子弓道部員に誘導されて、二回にある見学席へと向かった。
「えっと、入部希望ですか?」
二階の階段を一緒に昇りながら、女子部員が少し怪訝な顔をして尋ねた。
「え、は、はい。少し興味があったので」
本当は違う、と答えても良かった。だがそれでは、弓道部そのものを貶めているような気がしたので、一応ふたりはこの場では気のあるそぶりをした。
「あらぁ、変ねぇ。どうして男子ったらこんなに気が利かないのかしら?」
女子部員はボソッとぼやいた。
「どうかされたんですか?」
美月はすかさず訊いた。
「ええ。もう女子の練習は終わってしまったんですよ。これからは男子の練習が始まるんです。どうせ来てもらうんだったら明日でもよかったのにねぇ・・・」
だがそう言ったあとで、せっかくここまで足を運んでくれた由利たちに申し訳ないとでも思ったのか、こう付け加えた。
「でも男子が弓を打つのは、女子とは違って、矢の通る道は真っ直ぐだし、何といっても速いです。やはり迫力のあるものですから是非見て行ってくださいね」
由利たちが案内された見学席から下の方を見下ろすと、二十人足らずの男子部員が射場の奥のほうに固まってきちんと正座していた。そこへ遅れて常磐井が入って来ると、皆のほうへ一礼してから末席ので正座した。するとそれまで静かだった会場のあちこちが少しざわついた気がした。
「今日は、練習というより、新入部員勧誘のための一種のデモンストレーションなんです」
女子部員はふたりに説明した。
「あの、男子部員の方たちが右手に付けている手袋みたいなものは何ですか?」
由利がふと気になって女子部員に訊ねた。
「ああ、あれは『かけ』って言います。弓を引くときは親指を弦に引っかけて、他の指で親指を押さえるようにするんです。で、かけには親指のところには木型が入っていて、弦を引っ張ったとき、指に食い込まないようにできてるんですよ。やはり弓を引くときは相当な力が一点に集中しますからね、かけなしではすぐに親指を痛めてしまうんです。ですからかけは、弓を引くときにはなくてはならない大事なものです」
「へぇ~」
由利と美月が感心すると、女子部員は少し気をよくしたらしい。
「ほら今でもものすごく大事なものを『かけがえのない』っていうでしょう? あれは『かけ』から来ているんです。「かけ」の替えがない。つまり今使っている「かけ」しかないってことです。つまりそれこそがかけがえのない大事なものじゃないですか」
「そうなんですか!」
由利と美月は異口同音に叫んだ。
「日常でも、私たちは知らず知らずのうちに弓と関連したことばって案外たくさん使ってるんですよ」
「たとえば、他には? 是非この機会に教えてください。知りたいです」
ワクワクしたように美月が女子部員をせっついた。女子部員はそれを見て少しほほを緩めた。
「ふふ、そうですねぇ、私たち、普段『やばい』ってよく言いますよね?」
「はい、やばい。ええ、普通に使いますね」
「当たり前のことを言うようですが、弓は今でも歴とした武器なんですよ。もともとは人を殺傷するために使ったんですから。弓を放つ場所というのは『射場』と今は言うんですけど、昔は『矢場』と言ったんです。で、的から矢を抜くときは、一旦矢場から人を退かせるんですよ。そうしないと万が一、矢を放ってしまう人がいたりしますからね。そうなることを防ぐんですよ」
「はぁあ、そうなんですね」
美月が相づちを打った。
「だから、矢場に人がいる、すなわち『矢場居』とは的場に入る人にとっては非常に危険な状態にある、ってことなんです」
「へぇ~」
「もうね、『手の内を見せる』とか『ズバリ』とか。そういった感じで日常生活に浸透していることばって結構あるんですよ」
女子部員は笑いながらそう説明した。
「うわぁ、今のを教えていただいただけでもここに来てよかったって思います。本当に勉強になります。ありがとうございます!」
美月は知的好奇心が満たされ、またキラキラした目で礼を言った。
「いえいえ、とんでもない。弓道って武道の中では一番女子に人気があるんですよ。もし今日の男子の演武を見て興味がわいたのであれば、ご足労ですけど明日、もう一度ここに足を運んでもらって女子の練習を見てもらうのが一番なんですけど」
女子部員はやはり武道をたしなんでいるせいか非常に礼儀正しく、隙なくぴしりとした印象が残る。
「それにね、うちの部の流派は競技に勝つことより、儀礼とか精神性を重んじるんですよね。もともと神事から派生した流派なんです」
「神事から派生したって、どういうことですか?」
美月は質問した。
「例えば、神社よく神社などで弓を射ることがあるでしょう? あれは神さまに捧げるものなんですよ。だからとても形には厳しいです。でもこれから見ていてもらうとわかると思うのですが、とても端正なものですよ」
射場には本座と呼ばれる位置に、七つの白木白布の胡床(きしょう)が一列に等間隔に並べられていた。
奥の控えで正座して待機していた男子部員のうち七人が立ち上がり、射場のほうへと向かって行った。
よく見れば皆、弓道着におろしたての真っ白な足袋をつけている。そして左手に長い弓の先端である、上弭(うわはず)と言われる部分を地に向け、右手には二本の矢を手に携えていた。彼らは射場に足を踏み入れる前にまず一礼し、しずしずと摺り足で胡床の後ろを進んで所定の本座の位置につくと、皆同時に胡床に腰を下ろした。
やがて「起立」の声と共に一斉に立ち上がり、「礼」という声にまた一糸乱れぬことなく頭を下げた。
それから射手たちは一旦座って、また立ち上がり、また座るという動作を繰り返した。
「どうして立ったり座ったりを繰り返しているのかしら?」
それを聞いて横の女子部員が苦笑しながら言った。
「これは座射(ざしゃ)一手っていう弓を射る形式です。射位といって、射場内の弓を射る位置のところで一度座って、矢をつがえ、その後立って矢を射るんです」
それから射手たちは座りながらそれまで携えて来たふたつの矢を互い違いに持つと、再び立ち上がった。そして複雑な作法で後で矢を射るためのもう一本の矢を右手で持ちながら、矢を放った。
「うわぁ、難しそう。ただでさえ的に矢を当てるのに集中しなければならないのに」
美月が遠慮なく思ったことを言う。
「すみません、勝手なことを言っちゃって。美月、そんなふうに茶化しちゃ失礼じゃない」
由利が珍しく美月たしなめた。だが女子部員は笑ってとりなした。
「いいえ、構いませんよ。実際、あなたが言う通りなんです。弓道は礼儀を重んじますから、一般の大会、審査はこの坐射で行われるのが基本です。勝つために的に当てることばかりにかまけてこの練習を日頃怠っていると、いざ本番ってときに複雑な作法の手順に気を取られ、本来の目的である弓を引くことに集中できなくなるんですよ。だけどそうなってしまったら、それこそ本末転倒もいいところでしょう? だから試合で平常心を保つためにも、普段から常にこの作法を練習して、体にその手順を染み込ませることが大事なんですよね」
「中り(あたり)!」
「外れ!」
審判員の声が辺りに響いた。
「ねぇ、弓道って『あたり』と『はずれ』しかないの?」
美月がこそっと由利に訊いた。
「うーん、さあねぇ。まぁ、武道だからねぇ。アーチェリーみたいなゲーム感覚ではないのかもね。○か×かの二択しかないんじゃない?」
「そっか、生きるか死ぬか、それだけなんだね、たぶん」
それを横で聞いていた女子部員がまた美月に解説した。
「弓道はね、競技として大きく分けると、近的(きんてき)と遠的(えんてき)のふたつに分かれます。今、おふたりに見てもらっているのは近的です。最近は競技と言えば近的がほとんどです。近的は射位から二十八メートル先の直径三十六センチの的を射ます。射る矢の数は大会によって異なるんですけど、だいたい二本から多くて十二本程度かしら。今おふたりがおっしゃったように、的に中ればどこに刺さろうとも○、外れれば×です。真ん中が何点といった得点的(まと)使われません。的に矢が数多く中った人が勝ちです」
「へぇ、そうなんですね」
選手が二回交代したあと、常磐井が他の部員と共に射場に入って来た。とたんに女子生徒の黄色い声援が弓道場に響き渡った。
「あらぁ。常磐井君ったら新入部員のくせにもう女生徒にこんなに人気があるんですね」
女子部員がやれやれといったように首を振った。
「常磐井君って新入部員なんでしょ? それなのになんでもう迎える側になってデモンストレーションなんかしてるんだろ?」
美月はまた、ぼそっとつぶやいた。
「彼はね、すでに中学のときに弓道大会の中学生の部で個人優勝もしてるし、上位入賞を何度もしているんですよ。うちの上級生の部員にはそんな華々しい戦果を挙げた人っていませんしね。彼は特別です」
常磐井は射場に入る前に一礼した後、定められた位置につくと、やはり他の男子部員と同様に複雑な作法で、矢を二本つがえた。
大きく足を扇のように広げて床をぐっと踏みしめると、今度はゆっくりと視線を矢筋に沿って的の中心に移し、顔を的の正面へと向けた。それから両手で弓を頭の少し上あたりまで捧げ持った。矢と両肩の水平な線がきれいに並行の線を描きながら、両腕が大きく均等に左右に開かれギリギリと矢が引き絞られる。
由利は常磐井から遠く離れた見学席にいるはずなのに、彼のすぐ傍らで見ているような錯覚にとらわれた。
今、矢をまさに放たんとしている姿は、この上もなく静かだ。決して猛々しく叫んだり、大袈裟な身振りや動作で表現しなくても、緊張した全身の筋肉は力強く膨張し、内に秘められた闘志は青い炎となって全身を包んでいるようだった。
満身の力を込めながら集中して狙いを定めると、矢は放たれた。
バァーン!
放つと同時に右手が勢いよく後方へと放たれ、両腕が横に一直線に伸び、身体が大の字になった。
矢を放ったそのままの姿勢が数秒続いた。
「中(あた)り!」
どっとその場が湧いた。
「!・・・」
気が付けば由利は両の眼はうっすらと涙の膜におおわれていた。だがなぜか急に額から、冷や汗がしたたり落ちた。
「すごい! ど真ん中に命中だ!」
だが人々の喝采がくぐもって遠くから聞こえる・・・。
それを聞きながらふっと由利は意識が薄れていくような気がした。
「皆中(かいちゅう)! 各々方、**さまが放たれた矢、二十本すべて皆中でござりまする!」
やはり弓道場と同じく、人々の驚きどよめく声が聞こえる。
「なんと、また!」
「さすがじゃ! やはり天下に名のとどろいた豪傑にござりまするなぁ!」
気が付けば由利はまったく別の場所に座っていた。
ダ
ーえっ? あ、あたしは・・・?ー
由利は御簾が降ろされた大床に金や紅が鮮やかな繧繝縁(うんげんへり)の厚畳の上に座っていた。五色の飾り紐が付いた桧扇で顔の半ばまでかざし、身体が埋まってしまうほど幾重にも重なった襲(かさね)の色目も麗しいたもとの大きい着物を着ていた。
ー重たい・・・ー
つぶやこうとしたのだが、口が自分の思うように開いてくれない。
大床の前の庭には、弓を持ち片肌を脱いだ男が遠くに立っていた。どうもあの男が今、矢を放って的に当たったらしい。由利はそう推測した。
だが肝心の皆中にした当人の名前だけが、どういうわけだが聞き取れない。
「ほう、女御、そこもとのひいきの**がまた、的中であるぞ」
由利は隣の男の声にハッとなった。横にゆっくりと顔を巡らすと、やはり同じような厚畳の上に座り、冠を付け直衣を着用していた。「女御」とこの男は自分を呼んだ。するとこの男は帝で、自分はその妃ということになる。
天下に並ぶべくもない男にどう応えるべきかと考えていたのだが、今度は口から勝手にことばがすらすらと出て来る。
「まあ、主上(おかみ)。酷い言われようでございます。わたくしは主上の妃なれば、すでに身も心も主上だけに捧げて参りましたのに」
「はは、まあまあ。よいではないか。やつはそなたを自分の命を呈して、窮地から救い出してくれた男ぞ。もそっとうれしそうな顔をしてもよいと思うがの」
「そんな・・・。主上。もちろんそれは、うれしいともありがたいとも思うておりますとも」
「さようか」
帝は女御の完璧すぎる返答にぽつりと返したきり、しばらく沈黙していた。が、持っていた扇でどこか苛立たし気にぴしゃりと膝を打った。
「しかしそれにしても一度も外さぬとは、ソツがなさ過ぎて小癪な奴じゃ。それでは今しばらく続けさせようかの。あと何回放てば、的を逸らすであろうのかの? のう、女御」
女御は帝のことばの端々に弓を放った男に対する嫉妬がにじみ出ていることに気が付いた。そしてやんわりと取り成した。
「主上・・・。さりながらもうよいではありませぬか。ご自分の大事な臣下を、それ、そのように試すような真似をなさらずとも」
「ほれ、そこもとは何かと、あやつをかばい立てする。そこがどうも気に入らぬ」
「ほほ、お戯れもそこまでになさいまし。どうぞ、主上からも褒めてやってくださりませ。すべては主上の栄えのためでございますよ。今日の宴に花を添えてくれたのです。ほかの殿ばらではこうはいかなかったでしょうから」
女は努めて声を抑えてはいるが、誇らしげな気持ちでいっぱいだった。女の身体の中にいる由利にはそれがわかった。
「おお、そうよ。**は朕にとってたしかに大事な男。そうじゃの。女御の言うとおり、朕からもねぎらってやるとするか」
「それでこそ、わが君さまでござります」
女御は頭を下げた。
それから女はそばに控えている女房にそっとささやいた。
「さあ、**を御前に連れて参れ。主上からお褒めのおことばがあるゆえ。妾(わらわ)からも褒美を取らせよう」
「かしこまりました」
しばらくすると件の男は大床の前に現れ膝をついた。
「主上、参上いたしました」
帝はそれを聞いて機嫌よく声を掛けた。
「**よ、ようやった。さすがじゃ。それ、褒美を取らそう」
帝は自分が今着ている着物を脱いで、それをそばの女房に渡した。
「主上から御衣(おんぞ)を賜りました」
取次の女房が帝から手渡された衣をまた捧げ持ち、その男に手渡した。
「これは身に余る光栄!」
拝領された御衣を押し頂きながら、男は深々とこうべを垂れた。
「ほれ、女御、なにかことばをかけてやれ。女御が口を閉じていては、**も皆中にした甲斐がなというものじゃ」
由利もこの女が胸を高鳴らせながら何を言うのだろうかと、じっと耳をそばだてた。
「このたびそなたは、類なき弓の技でもって畏(かしこ)くも尊い主上を寿いだ。まことにめでたくも天晴なこと・・・。九重(宮中のこと)も二重(矢が二十本皆中したこと)の歓びに包まれておりましょうぞ」
静かに女はそう言った。
「ありがたきおことば、身に沁みましてでございます」
またしても男は深々と頭を下げたが、ふいに御簾ごしに顔をこちらに向けた。当然のことだが、初めて見る顔だ。やはり武勇の誉が高いとはいえ、典型的な貴人の容貌だと由利は思った。
だがその男の目を見た瞬間、由利は心の中で思わず声を上げた。
「あっ!」
「由利! 由利!」
身体を揺さぶられて、由利はうっすらと目を開けた。
「美月・・・?」
由利はまたもとの世界に戻ったのだとわかった。
「由利、気分はどう?」
美月が心配そうに尋ねた。
「あ、あれ? どうしちゃったのかな、あたし」
「うん、急に様子がおかしいなと思ってたら、ふら~と椅子から倒れて失神してた」
「失神? どのくらい?」
「うん、失神って言ってもほんの一、二分のことだけどね」
ーたったそれだけの間にあれだけの夢を見ていたんだー
由利は身震いした。
「大丈夫ですか?」
さきほどの女子弓道部員もそばに駆け寄って、心配そうに見ていた。
「あ、大丈夫・・・だと思います」
由利は後ろに両手をついて、上半身をそろりと起こした。
「今日はいろんなところに見学に行っていて、皆さんの活動が素晴らしいので感激しすぎちゃって・・・」
「そうだよ、由利は感受性が強すぎるんだよ。何でもかんでも感動しちゃってたからさぁ、テンション高くなりすぎて、身体がそれについていけなかったんじゃない?」
しばらくすると常磐井が血相を変えて由利たちのほうへ駆けつけて来た。
「倒れたんだって? おい、大丈夫か?」
そういいながら常磐井は床に倒れていた由利を抱き起こそうとしてかがんだ。だが再び、肩に常磐井の掌が置かれた瞬間、由利は一瞬だったが、体が青白く光る雷で貫かれたように感じ身ぶるいした。そして思わずその手を乱暴に振り払った。
「やめて! あたしに触らないで!」
2019-06-23 00:07
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コメント(2)
由利はタイムスリップしたのか?それとも前世の記憶なんでしょうか。女御だったのですね。しかも心ならずもっという感じかな。
これからの展開は楽しみですね。
先日、赤坂の塩◯という和菓子屋さんへ久しぶりに行ったのですが、記憶の味とは違っていて、とくに塩味加減が違うなあっとおもってしまいました。でもって今日、夫と一緒に友人の教えてくれた都立大学の和菓子屋さん ち◯とに行って和菓子と抹茶のセットを頂いてきてこちらはとても美味しくて満足。味覚も一期一会ですね。つくづく、人生を大切に生きたいと思います。
by Yui (2019-06-23 20:16)
ふふふん。
いい感じに事件が起きそうでしょ?
そうそう、「心ならずも」って表現、合っていますね。
そうかぁ、そうなんですよ。私も最近、その手の体験多いですね。
老舗の味が変わっているという…。
私も歳が歳ですので、味蕾が若いときの半分ぐらいに減っているらしいので、それで昔のようにおいしく感じないのかなぁとか思ったりします。
あと、なんていうか、そのときの体調よね。
そう、人生っていつどこで何が起きるかわからないので、
毎日、その日、その日が大切にしないといけないですね。
by sadafusa (2019-06-23 20:31)