境界の旅人 11 [境界の旅人]
第三章 異変
2
いつもはおとなしい由利が、人が変わったように、いきなり激昂したのを見て、常磐井を含め、まわりの人間は虚をつかれ、ぽかんとしていた。
由利はとっさに立ち上がって、口を押えながら一目散に洗面所のほうへと走って行った。急に吐き気がしてトイレでゲーゲーと戻した。お昼食べたものはほとんど消化されていたので、ほとんど胃液しか出て来なかった。
真っ青な顔をして女子トイレから出て来ると、出口付近で美月が心配そうな顔をして待っていた。
「由利・・・。大丈夫なの?」
「うん・・・。どうしちゃったのかな、あたし」
「もしかして、アレじゃないよね?」
「まさか! 違うよ、美月。そんなはずないでしょ。変な冗談言わないでよ!」
美月の見当はずれな質問に、由利は少なからず気を悪くした。
「由利、今ね、うちのお母さんに車出してもらうように頼んだから」
「えっ、そんな悪いよ。わざわざ車で迎えに来てもらうだなんて・・・」
「いいよ。こんなときは、素直に人の好意に甘えるもんだよ」
人の親切に慣れていない由利を、美月は叱った。だがそうやって親身に案じてくれることばが今の由利にはうれしく感じられる。
「うん、そう言ってくれるなら。ありがと、美月」
四月の日も落ちて、辺りがうっすらと夕闇に染まるころ、ふたりは美月の母親の車を待った。しばらくするとマスタード色のゴルフが校門近くに止まった。そこからセミロングの髪にベージュのワンピースを着た女性が下りて来た。誰かを捜すように辺りをキョロキョロと顔を巡らせている。
「お母さん! こっちこっち!」
美月が手招きすると、その女性は小走りになって駆けてきた。
「お友だちの具合が悪くなったんだって?」
「そうなのよ。ありがと、お母さん」
「申し訳ありません、お忙しい時間にわざわざ車まで出していただいて・・・」
うつむいていた由利は、さらにぺこりと頭を下げた。
「いえ、いいのよ。遠慮しないで。ちっとも構わないわ。それよりどうお、具合は?」
「はい、だいぶ良くなりました」
「そう? 病院へ行ってみる?」
「いえ、一旦、家に帰ります・・・。ちょっと横になりたくて」
「それなら家に行きましょうか」
美月の母親は、そう言いながら再びキーホルダーを手にすると、車のほうへ向かおうとした。
「お母さん、彼女があたしの新しいクラスメートで、名前が小野ゆ・・・」
紹介しようと名前を言いかけた途端、顔を上げた由利を見た美月の母親の顔色が変わった。
「れ、玲子!?」
「まぁ、それにしてもびっくりしちゃったわぁ。一瞬目の前に玲子が立っているんじゃないかと思ったのよ。さすが親子ね、よく似てるわ。まさか美月が入学した高校のクラスメイトが、玲子のひとり娘だったなんて・・・。何という偶然かしら!」
美月の母親は笑いながらハンドルを切った。美人の母親と似ていると言われて、由利は複雑な気分だった。
「うちの母をご存じだったんですね?」
「ふふ、ご存じも何も。小学校から高校まで一緒よ。親友だったわ」
「ええっ? 本当なの? お母さん、そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったのよ!」
美月が母親に向かってブツブツ文句を言った。
「だって、小野さんってだけじゃ、玲子の子ってわかりこっないでしょう? だってこっちは東京の学校へ行っていると信じているんですもの」
「そうですよね。小野なんて名前はありふれていますから」
由利は美月の母親に助け船を出した。
「そうそう、そういうところなんて玲子にそっくりよ。玲子もよくそんな感じで私を助けてくれたわ」
美月の母親は昔を懐かしむように言った。
「えっ? うちの母がですか? 信じられない。いつもあたしには小言ばっかりで。うっとしい母親です」
「まぁ、玲子も親となって自分の子を育てるとなったら、いつもいつも優しいばっかりではいられないでしょ。わが子なら、叱るのも親の務めよ。うちの美月なんかは、そりゃもう・・・」
自分にお鉢が回って来て、美月はどきりとした顔をした。
「もう~、やめてよ、お母さん。今はあたしのことなんかいいから!」
「あ~、はいはい」
この人は小さい頃から母のことを知っている。もしかしたら、辰造の知らない玲子のことも知っているかもしれない。もちろん由利には決して打ち明けることのない玲子の秘密も。この偶然と出会って、由利の胸は不安と期待で早鐘のように高鳴った。
しばらく沈黙が続いてから、美月の母が口を切った。
「ああ、自己紹介がまだだったわね、由利ちゃん。私は加藤芙蓉子(ふゆこ)です。私のことはこれから美月のお母さんじゃなくて、芙蓉子と呼んでね」
芙蓉子は美月と同じように、可愛らしい外見ながらも、しゃきしゃきとものを言う人間のようだった。
「それにしても月日が経つのは早いものね・・・。大きいお腹を抱えてきた玲子に会ったのは、ついこの間のことのように思えるのにね・・・」
ワンテンポ遅れて、芙蓉子はハッと自分が不用意に口を滑らせたことに気付た。だがつとめて何事もなかったかのようにふるまった。改めて由利は芙蓉子が母の秘密の共犯者なのを知った。
ほどなく車は由利の家の前で止まった。玄関先で連絡を受けたのか、辰造が心配そうに立っていた。
「ありゃりゃ、これはこれは! 誰やと思うたら、帯正さんとこの芙蓉ちゃんやったんか! わざわざ由利のために車を出してもろうたそうで、ほんま、すまんことでしたわ」
「まあ、小野のおじさん。何をおっしゃいますやら。小さい時は本当にご厄介になってばっかりでしたのに、最近はご無沙汰ばかりしてしまって」
芙蓉子は辰造に向かって深々と礼をした。
「いやいや、そんなことちっとも構へんよ。忙しゅうしておられるんやさかい」
口下手で実直な辰造は照れくさそうな顔をしながら、手を横にふった。
「それにしても由利のクラスメイトっちゅうんは、芙蓉ちゃんのお嬢さんやったんか。ちっとも気が付かんと失礼なことをしました」
「いいえ、私もさっき、由利ちゃんが玲子のお嬢さんだと知ったところなんです。ほら、今は個人情報保護法とかで昔のようにクラスメイトの名簿も配らないし、連絡するのも本人同士がスマホで連絡とるでしょう? 親もなかなか自分の子供がどんな友達と付き合っているのかは把握できないものなんですわ」
「まぁ、わしらには因果なご時世やねぇ」
一通りあいさつが済むと芙蓉子は車の後ろの扉を開き、ぐったりと座っていた由利を身体を包み込むようにして道路に立たせた。
「あら、由利ちゃん。やっぱり顔色があんまりよくないわね」
「大丈夫か、由利」
辰造も心配そうに尋ねた。
「由利ちゃんのように背の高い子は、循環器が身体の成長に追いつけないから、よくこんなふうに倒れたりするものなのよね。だけど吐いたっていうのがちょっと気になるわ。おじさん、差し出がましいとは思いますが、今夜一晩由利ちゃんをわたくしどものところでお預かりしても構いませんでしょうか? 年ごろのお嬢さんだから、実のおじいさまといえど、頼みにくいこともあるでしょうし・・・」
「どうする、由利? おまえさえそれでよければ、芙蓉ちゃんに甘えさせてもらってもいいんやで? わしに気兼ねすることなんかあらへん」
「はい、お気遣いありがとうございます。でもたぶん大丈夫だと思います」
由利は小さな声で芙蓉子に礼を言った。
「そう? でも万が一のことを考えて、明日は府立医大の病院に検査に行きましょう。私が病院まで付き添うから。保険証を持って、八時二十分になったら出かけられるように支度をしておいてね」
芙蓉子はおそらく東京で気を揉んでいるに違いない玲子に代わって、母親のように甲斐甲斐しく由利の面倒をみるつもりのようだった。
「由利、おかいさんでも作るか?」
に二階で蒲団を敷いて寝ている由利の枕元に、心配げに辰造が来て尋ねた。
「ううん、さっきちょっと気持ち悪くなって吐いちゃったから、今はいいかな」
「そうか、それじゃほうじ茶でも淹れて持って来てやるわ。何か水分をとらんとな」
祖父はそう言い残して、階下へ降りて行こうとした。
「おじいちゃん。心配かけてごめんね。あたしったら、部活動の勧誘活動が楽しすぎて、ついはしゃぎすぎたのね。うん、たぶんそれだけだから」
「そうか、でもまぁ、大事を取って静かに寝とき。具合悪うなったら、我慢しんと言うんやで」
「うん。ありがとね、おじいちゃん」
トントンと祖父が階段を下りていく音が響いた。由利は弓道場でほんの一二分意識が途切れた時に見たビジョンを天井を見つめながら、思い返していた。
「あれは単なる夢だったの?」
この間の妙に生々しいセンシュアルな夢といい、今日の突然の過去へのトリップといい、京都に来てからの由利は、かなり変だった。
「あたしはいつの時代かはわからないけど、十二単みたいな装束を着ていて、女御と呼ばれていた。その段で行くとたぶん、横に座っていた人は帝ね。だってあたしが中に入っていた女の人は『主上』と呼び掛けていたし」
由利は自分の見たビジョンをひとつひとつ口に出して、整理しようとしていた。
「でもあのカップルは仲がよさそうでいて、実はそうでもなかったような気がする。帝の口調がどことなくとげを含んでいて、あの女御と臣下の男の間を疑って嫉妬しているような感じだった・・・」
いかにも武官らしく巻纓冠(けんえいのかん)を被り、顔面の左右を緌(おいかけ)でおおい、帖紙(たとう)にくるまれた矢を背に抱いた、凛々しい男の姿を見て、女御が心の底から喜んでいたのを由利は知っている。でも巧妙に扇で顔を隠し、傍らの帝や周囲の人間に自分の気持ちを悟られぬよう細心の注意を払いながらだったのだが。
たしかに女御とあの武官とは、ただならぬ関係のように由利には思えた。
「これって三郎と関係あるのかしら?」
ふと唯は、妖怪たちから三郎に助けてもらったことを思い出した。
それに常磐井のことも・・・。
御簾の内から見た公卿の顔。彼の容貌こそまったく見知らぬ男のものだったが、女御である由利を見上げたあの目の色は―。
「あれは常磐井君の・・・? いや、まさか。そんな・・・」
まるで姿かたちは似ていないのだが、あの男の切迫した目の表情は、常磐井をどことなく彷彿とさせた。
最近由利は、常磐井のことを考えるとドキドキする。
―なぜだろう―
ピンチを助けられて彼を意識しているうちに、感謝が好意に代わりいつしか恋情になるパターンが存在することは、知識として知っていた。ありえないことではない。今の自分もその恋愛パターンに陥っているのかもしれない。だが常磐井は親切心で助け起こそうとしただけなのに、由利はそんな彼を満身の力を込めて突き飛ばしてしまった・・・。
「どうしてあんなことしてしまったんだろう」
由利は蒲団の端をぎゅっと握りしめながら、ため息をついた。
2
いつもはおとなしい由利が、人が変わったように、いきなり激昂したのを見て、常磐井を含め、まわりの人間は虚をつかれ、ぽかんとしていた。
由利はとっさに立ち上がって、口を押えながら一目散に洗面所のほうへと走って行った。急に吐き気がしてトイレでゲーゲーと戻した。お昼食べたものはほとんど消化されていたので、ほとんど胃液しか出て来なかった。
真っ青な顔をして女子トイレから出て来ると、出口付近で美月が心配そうな顔をして待っていた。
「由利・・・。大丈夫なの?」
「うん・・・。どうしちゃったのかな、あたし」
「もしかして、アレじゃないよね?」
「まさか! 違うよ、美月。そんなはずないでしょ。変な冗談言わないでよ!」
美月の見当はずれな質問に、由利は少なからず気を悪くした。
「由利、今ね、うちのお母さんに車出してもらうように頼んだから」
「えっ、そんな悪いよ。わざわざ車で迎えに来てもらうだなんて・・・」
「いいよ。こんなときは、素直に人の好意に甘えるもんだよ」
人の親切に慣れていない由利を、美月は叱った。だがそうやって親身に案じてくれることばが今の由利にはうれしく感じられる。
「うん、そう言ってくれるなら。ありがと、美月」
四月の日も落ちて、辺りがうっすらと夕闇に染まるころ、ふたりは美月の母親の車を待った。しばらくするとマスタード色のゴルフが校門近くに止まった。そこからセミロングの髪にベージュのワンピースを着た女性が下りて来た。誰かを捜すように辺りをキョロキョロと顔を巡らせている。
「お母さん! こっちこっち!」
美月が手招きすると、その女性は小走りになって駆けてきた。
「お友だちの具合が悪くなったんだって?」
「そうなのよ。ありがと、お母さん」
「申し訳ありません、お忙しい時間にわざわざ車まで出していただいて・・・」
うつむいていた由利は、さらにぺこりと頭を下げた。
「いえ、いいのよ。遠慮しないで。ちっとも構わないわ。それよりどうお、具合は?」
「はい、だいぶ良くなりました」
「そう? 病院へ行ってみる?」
「いえ、一旦、家に帰ります・・・。ちょっと横になりたくて」
「それなら家に行きましょうか」
美月の母親は、そう言いながら再びキーホルダーを手にすると、車のほうへ向かおうとした。
「お母さん、彼女があたしの新しいクラスメートで、名前が小野ゆ・・・」
紹介しようと名前を言いかけた途端、顔を上げた由利を見た美月の母親の顔色が変わった。
「れ、玲子!?」
「まぁ、それにしてもびっくりしちゃったわぁ。一瞬目の前に玲子が立っているんじゃないかと思ったのよ。さすが親子ね、よく似てるわ。まさか美月が入学した高校のクラスメイトが、玲子のひとり娘だったなんて・・・。何という偶然かしら!」
美月の母親は笑いながらハンドルを切った。美人の母親と似ていると言われて、由利は複雑な気分だった。
「うちの母をご存じだったんですね?」
「ふふ、ご存じも何も。小学校から高校まで一緒よ。親友だったわ」
「ええっ? 本当なの? お母さん、そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったのよ!」
美月が母親に向かってブツブツ文句を言った。
「だって、小野さんってだけじゃ、玲子の子ってわかりこっないでしょう? だってこっちは東京の学校へ行っていると信じているんですもの」
「そうですよね。小野なんて名前はありふれていますから」
由利は美月の母親に助け船を出した。
「そうそう、そういうところなんて玲子にそっくりよ。玲子もよくそんな感じで私を助けてくれたわ」
美月の母親は昔を懐かしむように言った。
「えっ? うちの母がですか? 信じられない。いつもあたしには小言ばっかりで。うっとしい母親です」
「まぁ、玲子も親となって自分の子を育てるとなったら、いつもいつも優しいばっかりではいられないでしょ。わが子なら、叱るのも親の務めよ。うちの美月なんかは、そりゃもう・・・」
自分にお鉢が回って来て、美月はどきりとした顔をした。
「もう~、やめてよ、お母さん。今はあたしのことなんかいいから!」
「あ~、はいはい」
この人は小さい頃から母のことを知っている。もしかしたら、辰造の知らない玲子のことも知っているかもしれない。もちろん由利には決して打ち明けることのない玲子の秘密も。この偶然と出会って、由利の胸は不安と期待で早鐘のように高鳴った。
しばらく沈黙が続いてから、美月の母が口を切った。
「ああ、自己紹介がまだだったわね、由利ちゃん。私は加藤芙蓉子(ふゆこ)です。私のことはこれから美月のお母さんじゃなくて、芙蓉子と呼んでね」
芙蓉子は美月と同じように、可愛らしい外見ながらも、しゃきしゃきとものを言う人間のようだった。
「それにしても月日が経つのは早いものね・・・。大きいお腹を抱えてきた玲子に会ったのは、ついこの間のことのように思えるのにね・・・」
ワンテンポ遅れて、芙蓉子はハッと自分が不用意に口を滑らせたことに気付た。だがつとめて何事もなかったかのようにふるまった。改めて由利は芙蓉子が母の秘密の共犯者なのを知った。
ほどなく車は由利の家の前で止まった。玄関先で連絡を受けたのか、辰造が心配そうに立っていた。
「ありゃりゃ、これはこれは! 誰やと思うたら、帯正さんとこの芙蓉ちゃんやったんか! わざわざ由利のために車を出してもろうたそうで、ほんま、すまんことでしたわ」
「まあ、小野のおじさん。何をおっしゃいますやら。小さい時は本当にご厄介になってばっかりでしたのに、最近はご無沙汰ばかりしてしまって」
芙蓉子は辰造に向かって深々と礼をした。
「いやいや、そんなことちっとも構へんよ。忙しゅうしておられるんやさかい」
口下手で実直な辰造は照れくさそうな顔をしながら、手を横にふった。
「それにしても由利のクラスメイトっちゅうんは、芙蓉ちゃんのお嬢さんやったんか。ちっとも気が付かんと失礼なことをしました」
「いいえ、私もさっき、由利ちゃんが玲子のお嬢さんだと知ったところなんです。ほら、今は個人情報保護法とかで昔のようにクラスメイトの名簿も配らないし、連絡するのも本人同士がスマホで連絡とるでしょう? 親もなかなか自分の子供がどんな友達と付き合っているのかは把握できないものなんですわ」
「まぁ、わしらには因果なご時世やねぇ」
一通りあいさつが済むと芙蓉子は車の後ろの扉を開き、ぐったりと座っていた由利を身体を包み込むようにして道路に立たせた。
「あら、由利ちゃん。やっぱり顔色があんまりよくないわね」
「大丈夫か、由利」
辰造も心配そうに尋ねた。
「由利ちゃんのように背の高い子は、循環器が身体の成長に追いつけないから、よくこんなふうに倒れたりするものなのよね。だけど吐いたっていうのがちょっと気になるわ。おじさん、差し出がましいとは思いますが、今夜一晩由利ちゃんをわたくしどものところでお預かりしても構いませんでしょうか? 年ごろのお嬢さんだから、実のおじいさまといえど、頼みにくいこともあるでしょうし・・・」
「どうする、由利? おまえさえそれでよければ、芙蓉ちゃんに甘えさせてもらってもいいんやで? わしに気兼ねすることなんかあらへん」
「はい、お気遣いありがとうございます。でもたぶん大丈夫だと思います」
由利は小さな声で芙蓉子に礼を言った。
「そう? でも万が一のことを考えて、明日は府立医大の病院に検査に行きましょう。私が病院まで付き添うから。保険証を持って、八時二十分になったら出かけられるように支度をしておいてね」
芙蓉子はおそらく東京で気を揉んでいるに違いない玲子に代わって、母親のように甲斐甲斐しく由利の面倒をみるつもりのようだった。
「由利、おかいさんでも作るか?」
に二階で蒲団を敷いて寝ている由利の枕元に、心配げに辰造が来て尋ねた。
「ううん、さっきちょっと気持ち悪くなって吐いちゃったから、今はいいかな」
「そうか、それじゃほうじ茶でも淹れて持って来てやるわ。何か水分をとらんとな」
祖父はそう言い残して、階下へ降りて行こうとした。
「おじいちゃん。心配かけてごめんね。あたしったら、部活動の勧誘活動が楽しすぎて、ついはしゃぎすぎたのね。うん、たぶんそれだけだから」
「そうか、でもまぁ、大事を取って静かに寝とき。具合悪うなったら、我慢しんと言うんやで」
「うん。ありがとね、おじいちゃん」
トントンと祖父が階段を下りていく音が響いた。由利は弓道場でほんの一二分意識が途切れた時に見たビジョンを天井を見つめながら、思い返していた。
「あれは単なる夢だったの?」
この間の妙に生々しいセンシュアルな夢といい、今日の突然の過去へのトリップといい、京都に来てからの由利は、かなり変だった。
「あたしはいつの時代かはわからないけど、十二単みたいな装束を着ていて、女御と呼ばれていた。その段で行くとたぶん、横に座っていた人は帝ね。だってあたしが中に入っていた女の人は『主上』と呼び掛けていたし」
由利は自分の見たビジョンをひとつひとつ口に出して、整理しようとしていた。
「でもあのカップルは仲がよさそうでいて、実はそうでもなかったような気がする。帝の口調がどことなくとげを含んでいて、あの女御と臣下の男の間を疑って嫉妬しているような感じだった・・・」
いかにも武官らしく巻纓冠(けんえいのかん)を被り、顔面の左右を緌(おいかけ)でおおい、帖紙(たとう)にくるまれた矢を背に抱いた、凛々しい男の姿を見て、女御が心の底から喜んでいたのを由利は知っている。でも巧妙に扇で顔を隠し、傍らの帝や周囲の人間に自分の気持ちを悟られぬよう細心の注意を払いながらだったのだが。
たしかに女御とあの武官とは、ただならぬ関係のように由利には思えた。
「これって三郎と関係あるのかしら?」
ふと唯は、妖怪たちから三郎に助けてもらったことを思い出した。
それに常磐井のことも・・・。
御簾の内から見た公卿の顔。彼の容貌こそまったく見知らぬ男のものだったが、女御である由利を見上げたあの目の色は―。
「あれは常磐井君の・・・? いや、まさか。そんな・・・」
まるで姿かたちは似ていないのだが、あの男の切迫した目の表情は、常磐井をどことなく彷彿とさせた。
最近由利は、常磐井のことを考えるとドキドキする。
―なぜだろう―
ピンチを助けられて彼を意識しているうちに、感謝が好意に代わりいつしか恋情になるパターンが存在することは、知識として知っていた。ありえないことではない。今の自分もその恋愛パターンに陥っているのかもしれない。だが常磐井は親切心で助け起こそうとしただけなのに、由利はそんな彼を満身の力を込めて突き飛ばしてしまった・・・。
「どうしてあんなことしてしまったんだろう」
由利は蒲団の端をぎゅっと握りしめながら、ため息をついた。
2019-06-30 00:57
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コメント(8)
sadafusaさま、Yuiです。今まさに空の上からこれを書いています。海外出張中の飛行機の中なのです。飛行機の中でもインターネットできるなんて良い時代がきたものです。
作中、お母様の幼馴染の登場ですね。母の秘密の共犯者なんですね。由利ちゃんには出生の秘密があるんですものね。こういう秘密がある家って、なんか独特の雰囲気があるものです。あ、それはタブー…。というものですね。登場人物の今と昔が絡み合ってなかなか複雑な趣です。これは時間かかるわ。なかなか収束しないとおっしゃっていたのがわかります。続きを楽しみにしております。
by Yui (2019-07-04 14:40)
Yuiさま
こんにちは。お仕事で飛行機で飛んでおられるときも
わたしのつたない小説を読んでもらって非常に感謝しています。
この話は、自分の地元の京都の話でもあるんだけど、
やっぱ、ワールドワイドな視点が入っていると、結構面白いかなぁと
思ってそういう設定にしました。
なんかイチイチ引っかかって大変でした。
知らないことばっかりで。
あんまり嘘っぽいとしらけるかなぁと思ったりして。
実はね、この先、フランス語の個所も出てくるんです。
間違っている可能性がとても大きいので、
そのときは、どうぞ、ご指摘お願いします(涙)
今日も、ぶいさまが理系の大学院は卒業じゃなくて
修了だよ、って教えてくださって。
本当になんて感謝していいかわからないくらいです。
by sadafusa (2019-07-04 20:52)
玲子さんは私なんてとても覚束ない秀才とお見受けいたしますが(
by Yui (2019-07-05 20:51)
ごめんなさい、なぜか切れてしまいました。
玲子さんに一言いいたいのは(
by Yui (2019-07-05 21:19)
あれ、うまくいきませんね。
またときを改めます。
by Yui (2019-07-05 21:21)
待ちます。接続が上手くいかないのかもしれないですね。
by sadafusa (2019-07-05 21:31)
玲子さんに一言言いたいのは、シングルマザーで子育てするなら、東京じゃなくてパリだよ、ということです。
by Yui (2019-07-06 00:07)
ふふ、玲子も多分そう思っていたでしょう。
おそらく。
by sadafusa (2019-07-06 07:39)