境界の旅人12 [境界の旅人]

第三章 異変



「ああ、あと二週間足らずで期末試験だねぇ。もう七月か」

 しみじみと美月が言った。

「ホントに早いねぇ、この間入学式をしたような気がするのに」
「なんだかんだで、あれからもう三か月が経っちゃったんだよ」

 ふたりは靴を履き替えると、自転車置き場のほうへ向かった。京都の街はバスなどの交通機関を使うよりも自転車のほうが、時間の融通も利いて便利だった。

「ねぇ、今から今宮神社の茅野輪(ちのわ)をくぐりに行かない?」
「え、いいけど。茅野輪って何?」

 由利はこの手の習俗習慣については何も知らない。ふたりの間には、すでに「教える」「教わる」という一定のパターンが定着しつつあった。

「茅野輪っていうのは、文字通り、茅(ちがや)っていう植物で編まれた大きな輪のことを言うのよ。今どこの神社へ行っても、たいてい入口に茅野輪が置いてあるはずだけどね。東京にだってあるはずだよ」
「東京に住んでいたときは、そもそも神社ってところに縁がなかった」
「ふうん、そうだったんだ。でね、一年のほぼ真ん中にあたる六月の末に、この輪を通ることで、正月から半年分についた厄を祓うのよ。これを夏越の祓えって言うんだよ」
「へぇ、よくそんなこと細々と覚えてるもんだね」

 つくづく感心したように由利が言った。

「あら、面白いじゃないの。興味あることなら、すぐに頭に入るものじゃない?」

 由利は美月の持論には、あえて逆らわなかった。

「そっか、じゃあ行ってみるとしましょうか?」

 今宮神社は京都市の北部紫野の地にあり、かなり大きな神社で大徳寺とも地続きだ。
 ふたりが今宮神社の境内に入ると、拝殿の前に竹で作られた鳥居の下に、大きく編まれた茅野輪が下げられていた。

「わ、大きい」

 由利が感嘆してつぶやいた。

「ね、来てよかったでしょ?」
「うん」

 由利がさっそく輪をくぐり抜けようと、スタスタと茅野輪のほうへと向かった。

「ちょ、ちょっと待った! 由利」

 美月は由利の腕をひっぱった。

「何よ、せっかく厄を祓おうとしたのに」

 美月が人差し指を振り子のように、チッチと左右に振った。

「くぐるにもね、作法っていうのがあるの。さあ、今からあたしと一緒にやるのよ。輪はね、八の字を書くように三回廻るの。…まずは正面に向かってお辞儀」

 こうなったら、四の五の文句を言わず、美月の言われた通りにすべきなのを由利は比較的早い段階で学習していた。

「それから左足で茅野輪をまたぎ、左回りで正面に戻る」
「今度は右足でまたいで、右回り」
「三回目は一回目と一緒で左足から」

 それが終わると、美月は拝殿に向かって手を合わせながら唱えた。

「祓いたまえ 清めたまえ 守りたまえ 幸(さきわ)えたまえ」

 由利は黙って美月がそれを言うのをそばで聞き、美月が頭を下げると一緒になってぺこりと頭を下げた。

「さて、これでよしっと。半年分の厄や穢れは落ちました」
「そっかぁ、よかったぁ」

 由利はそれを聞いて、少し気持ちが楽になった。本当にあの気持ちの悪い一連のことから解放されればいいのだけれど。

「ねぇねぇ、由利。せっかくここまで来たんだから、あぶり餅食べてかない?」
「え、あぶり餅って?」
「もう、由利って本当に何にも知らないんだねぇ。今宮神社と言えば『あぶり餅』はつきものだよ」
「えっ、そうなの?」
「さ、行こ、行こ!」

 拝殿から行きに通った立派な朱塗りの楼門の方向へ引き返すと、今度はそこを通らずに、東門のほうへと向かった。

「この神社ってなかなか立派だね」
「そうだよ。ここは八坂神社とか下鴨神社ほど有名じゃないから観光客にはあまり知られてないけど、とても古くて格式のある神社なんだって。何でも平安京ができる前からあったらしいよ。それにここは、もともと疫病を鎮めるために作られた神社でもあるんだよね」
「へぇ、そうなの?」
「うん。昔はどうも桜の花が咲くころに、疫病が流行ったみたいでね。『やすらい祭り』って花鎮めのお祭りが今でも残っているんだけどさ、きれいな花傘を立てて踊るんだよね」
「ああ、花笠を頭に被って踊るやつ?」
「それは頭に被る笠。今宮のは差す傘。大きな赤い傘に造花をつけて街を練り歩くんだよね」
「ふうん」
「それがいわゆる『よりまし』っていうのかなぁ。疫病はきらびやかなものに憑りつくと昔の人は考えたんだよね」
「へ~え、面白い」
「そう。だから花傘を振り回して、疫病を取りつかせてから、川かなんかに流したんだよね」
「まぁ、昔は今みたいに薬がないから、そうやってお祀りするしか方法がなかったんだろうね」

 由利はひたすら関心して美月の説明を聞いていた。

「今日は講釈はこれぐらいにして、さ、早く食べに行こ!」

東門をくぐると、きれいな石畳の道が伸びており、神社の門を出てすぐに道を隔てて両側に、ほとんど同じような店があった。軒先には、小さな餅を突き刺すための竹を細かく割いた串が、たくさん並べられて干されていた。

「えっとね、北側が一和さんで、南側がかざりやさんかな」
「どっか違うの?」
「ううん、違わない。だけど、うちは昔から食べるなら一和さんと決まってるんだ」
「ハハハ。京都の人間は窮屈じゃのう、いちいちそんなもんまで決まっておるのか。それじゃ、あえていつもとは違うかざりやさんに入ろうよ」

 由利はお道化て由利に提案した。



「おいしい~」

 ふたりはお店の人にお茶を入れてもらって、お皿に盛ってあるあぶり餅を頬張った。

「うん、この白みそダレが何ともいえず絶妙!」
「でしょ?」

 またもや、ふたりは顔を見合わせ、にっこりと微笑みあった。

「テスト前だから、部活もないし、たまにふたりでこんなふうにのんびりと、道草喰っているのも悪くないないね」

 由利が、串にささった小さな餅をしごきながらしゃべった。

「あー、今の由利を小山部長が見たら大変だわ」

 それを聞いて、由利は餅でのどを詰まらせそうになった。

「ちょっと、美月! 変なこと言わないでよ! 小山先輩がそこいるのかと思って一瞬、ビビったじゃないの!」
「あは、ごめん、ごめん。だけどさぁ、小山先輩って本当に変わった人だよね」
「まぁ、真面目な求道者って感じだと思うけど。別に言うほど変わっていないんじゃない?」
「ああ、由利がそう思うのはさ、他のお茶の先生について習ったことがないからだよ」
「ん、なんで?」
「あたしが中学にいたころ、部活で教えに来てた先生はね『お茶というものは頭で考えるものじゃなくて、感じるものなんです』っていってさ」
「何、それ? ブルース・リー? 『Don’t think, Just feel』まるでジークンドーじゃん」

 由利はアハハと笑いながら、茶化した。

「あは、何それ、マジウケる。違うよ。あたしが言いたいのはね、お茶ってたいていの場合は、小山先輩が教えるように教わらないって言いたいの!」
「じゃあ、本来はどうなのよ?」
「まぁ、割り稽古するじゃない、それでさ、いろいろと変わった所作があるでしょ? なんでこんなことするんだろうって思う所作がいっぱいあるじゃない? それを質問すると『質問しちゃいけません』『意味を考えてはいけません』って言われるもんなんだよ」
「ああ、部長はそういうことは絶対に言わないよね。一番最初の日に何をするのかと思えば、茶室じゃなくて視聴覚教室に行って、自作のパワーポイント使って『茶の湯について』ってガイダンスをしてたもんね」
「そうそう、まずお茶の起源に始まって、中世あたりの闘茶とか唐物荘厳の末に、京や堺の町衆が『市中の散居』と称して自宅の離れに庵を作ったのが『茶の湯』の始まりとかなんとか、滔々と説明してたじゃん?」
「そうだっけ? うん。そうだった。金持ちが屋敷の離れに掘っ立て小屋みたいなのを建てて、貧乏ごっこしているような話だったね」
「そうだよ。それから冬と夏では炉と風炉があって、お点前の仕方が違うとかさ、あと建水とか茶杓とか棗とかさ、一番簡単な『平手前』のときの茶道具の説明とかしてたじゃない」
「うん、そうだね」

 由利はそんなことは、当たり前じゃないかという顔をした。

「でもね、お茶の世界ではそういうことが、当たり前じゃないんだよ、普通は。ひとつひとつ歩き方がなってない、建水を持っている位置がおかしい、座る位置が変とかさ。注意ばっかりされて、終わるころには、達成感もなく疲労感だけが残ってモヤモヤしてくるもんなんだよね」
「へぇ、そういうもんなの? ン~、ちょっとヤなカンジ。意味もなく叱られると、不必要にビクビクするし、あたしなんか小心者だから緊張して何も考えられなくなりそう」
「うん。だけど部長はさ、『本来茶の湯の、どんなに取るに足りないような所作であっても、それは先人が考えに考えた挙句のことだ』っていってたじゃん?」
「うん。そうだね。そこには意味があるってよく言ってるよね」
「そう、例えば割り稽古のとき、茶巾で茶碗を拭くときに『ゆ』の字を書け、って言われたじゃない? それで誰かがついどうして、『ゆ』の字なんんですか? って訊いたじゃない」
「ああ、そんなことがあったね」
「そしたらさ、部長は『本来茶碗の底をきれいに拭き取ることだけが目的なんだったら、どんなふうに拭いたとしても目的を達せられればそれでいいはずだ』って説明したでしょ」
「うん」
「しかしどうすれば、目的も達せられて、傍から見ても充分に美しいと思える所作になるのかと試行錯誤した末、それは『あ』でも『い』でも『う』でもなく、『ゆ』の字を茶碗の底に描くのが一番動作としては柔らかく優雅に映るという結論に至ったんだろうって。例えていうなら、昔の西洋の男性が、目上の人に敬意をこめて頭を下げるときに、手をくるくると旋回させる『レヴェランス』を見てみれば、『ゆ』の字の意味がわかるって」
「もうさ、『レヴェランス』とか。あの人の言うことは、イチイチ芸術的すぎて、却って混乱するような説明だったけどね」

「それにさ、小山先輩は『人間は新しいことを、三つ同時に覚えて実行することは、不可能だ』ってよく言うじゃない? 最初は歩き方だけを徹底的に練習させられたでしょ。まずやっちゃいけないことを教えるのよね。畳のへりは踏まない。摺り足で歩く、歩く歩幅も色分けしたシートを作ってきてその上を歩かせたじゃない? それをスマホでビデオ撮影して本人に見せてどこが悪いのか、どういうのがいいのか実際に画像で見せて納得させるでしょ、ああいうのってすごっく合理的だと思うな。口で注意されるのは、本当のとこ、何を言われているのかよく理解できないことが多いしね」

「そうだね。部長はだいたい六割できたところで次に移行する。『一度には絶対に完璧に理解できないから、らせん状に習得していくべきだ』ってね。それに部長よく言ってるよね、『これまでの教え方は、たいていの子なら一年か二年で終えることができるバイエルの教本を、十年かけて終えるようなものだって。それが終わったなら、次にツェルニー百番やら三十番や、バッハのインベンションなどぎっしり待っているのに、それをやる前に人生が終わってしまう』って」
「言い得て妙っていうか・・・。でもたしかに、そうなんだよね」

 美月は感心したように言った。

「小山部長は無意識のもろさを力説するじゃない? 普段楽々と何の造作もなくできていることが、いったん緊張する環境下に置かれると、いとも簡単にできなくなってしまうって。そこで『自分は今、こう動いている』と認識しながら聴覚も視覚も使って、もっとゆっくり所作をすることが大事だって。そうすることによって脳のいろいろな部分で記憶させることができるからって」

 美月が机に肘をつき掌にあごを乗っけながら、思い出すように言った。

「たしか緊張すると、頭が真っ白になるときってあるもんね」

 由利も同意した。

「そういうときは、もちろんこれまでやって来た、熟練の程度もものを言うだろうけどさ、意識して自分のやってきたこと、瞬時に思い出すことも、案外役には立つはずだって」
「彼って何かって言うと、小山先輩ってピアノの練習方法とお茶を対比させるよね」
「うん・・・。聞くところによると小山先輩は芸大を受験するみたいだよ」
「えっ、音楽のほう? だからかぁ」
「うん、一度音楽室でピアノ弾いているのを見たことがあったけど、めちゃっくちゃ上手かった。たしかリストの『波を渡るパオラの聖フランチェスコ』って曲、弾いてた」
「波を渡るパオラ・・・? なーに、その小難しいタイトル?」
「うん、これさ、うちの親戚の音大行ってたお姉さんが弾いてたから知ってるんだけど、よくコンコールかなんかで弾かれる曲なんだって。ピアノ科の音大生が弾くにしろ、かなり難易度が高いみたいだよ」
「そっかぁ。たしかにピアノは、ふっと途中で忘れちゃったりして、詰まったりしたら大変だもんね。そういう魔の瞬間に自分が襲われたとき、自分をどう立てなおすのかを小山先輩なりに模索して出した結論なんだろうね。それを茶道にも活かしているのかな」
「うん、そうかもしれない」
「ふうん。じゃあ、小山先輩は音大のピアノ科を受験するのかな?」

 ふと由利は訊ねた。

「いやぁ、作曲に行くって小耳にはさんだ気がする」
「美月って何? 耳がダンボなんじゃないの? すごい地獄耳!」
「何よ、たまたまよ、たまたま。別に人のことをコソコソと嗅ぎ出そうなんて思っていないって」
「そりゃまぁ、そうだろうけどさ・・・。でも作曲コースへ行くのは解る気がする。あの人、すっごく理屈っぽいもん。楽理とかめっちゃ詳しそう」

 

 しばらくして美月が改まった調子で由利に言った。

「ねぇ、由利。ここに入学したばかりのとき、うちのお母さんが由利を乗っけて家まで送って行ったことがあったじゃない?」
「うん・・・」

 急に周りの空気がぴんと張りつめた。

「あのとき、うちのお母さんは何か由利のお母さんのことについて知っているようだった。気が付いていた?」

 由利はそれには答えず、じっと美月の目を見つめた。

「ね、お母さんに直接由利に会ってもらうように、あたしから取り計らおうか?」
「それって・・・」
「うん、それって、とにかくデリケートな話だろうから、あたしは同席することを遠慮する。由利だって、どんなことをうちの母親から聞かせられるのかわからないし、あたしがいたら嫌でしょ。知られたくないことだって、きっとあるはず。だから、うちの母に直接尋ねて」
「いいの?」
「うん、うちの母が知っていることなら、とりあえず答えてくれると思う。それにあたしは、由利にはそれを知る権利があると思うよ。それがたとえいいことであっても、悪いことであっても」
「うん・・・。ありがと、美月」

 帰り道、自転車を押しながら、由利は美月に話しかけた。

「そういえば、ここんとこ、椥辻君見かけないね。一時はずっと教室にいたのに」
「え、椥辻君? 誰それ?」

 美月はぽかんとした顔をして、問い返した。

「え、だってほら、弓道部を見学したとき、美月は、椥辻君と親しそうにしゃべっていたじゃない? 椥辻君は、室町時代から続く小さい流派の家元の息子だって話していたでしょ?」
「ええ? 何のこと? だいたい由利、椥辻君なんて、うちのクラスにそんな子いないじゃない? いや、あたしの知る限り、そういう名前の子は全学年にすらいないよ」

 怪訝そうな顔をして、美月は言った。それを見て由利は何と答えていいのかわからなかった。
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