境界の旅人16 [境界の旅人]



「あー、よく食べた。何食べたっけ? スープでしょ、前菜でしょ、サラダでしょ、それから当然スパゲティも食べたし・・・。それからビステッカを食べて、そうそう鯛のアクアパッツァも食べたんだっけ? 締めのドルチェはティラミスをふたつ食べたんだった~。あ~おいしかったぁ、幸せぇ・・・!」

 由利は芙蓉子に長らく自分が悩んできた出生にまつわる話を聞かせられた。どんな悲惨な真実が隠されているのかと思いきや、案外話は玲子の一途な純愛を証明するような内容だった。由利は安堵するあまり湧き出る食欲を抑えられず、バカ食いをしてしまったのだ。でも芙蓉子は「由利ちゃん、よかったわね」とニコニコして食べるのを見守ってくれていた。
 一気に解放されて気が緩んだせいか、どっと疲れを感じた。由利は家に帰ったなり、なおざりに蒲団を敷いてそのまま倒れこむように眠ってしまった。
 目が覚めて窓を開けると、まだ外は明るい。時計を見ると六時前だった。
 蒲団に入ったままでカバンを引き寄せ、中を開いてガサゴソと探ると昼間芙蓉子からもらった例の写真が入ったファイルを取り出した。

「これがもしかしたらというか、確実にわたしのお父さんにあたる人」

 由利はその写真をじっと見つめて、つぶやいてみた。

「パパ、初めまして。あたしが由利です」

写真の中の男は思いやりに溢れた優しそうな人物に見える。こんな人が無慈悲に自分の子供を妊娠している恋人を捨て去ったりできるのだろうか。由利は頭をひねった。

「ラディか・・・。それしか判らないのかな、本当に?」

 由利はふっと玲子が先日言ったことばを思い出した。

『ママね、七月の二十日までは学会でニューヨークに行かなきゃならないの。帰ってくるのが二十一になると思うから、それからにしてもらっていい?』

―ということは、少なくとも二十日はあの家にママは完全にいないはず・・・とすると?― 

 由利はニヤリと蒲団の中で笑った。



「暑いー。朝、温度計見たら、すでに二十六度あったよ。七月でこれだったら先が思いやられる・・・」

 朝食を食べながら、由利が開口一番にぼやいた。梅雨が明けた京都は猛烈に暑い。ただ暑いだけではなくてじっとりした湿気がどうにも気持ち悪い。

「まぁ、盆地やしな。仕方がないんや。」

 辰造はぼやく孫娘を慰めた。

「おじいちゃんがいつだか言っていた意味が解ったよ。やっぱり京都の家は、少しでも夏に涼しくする工夫がいるって。そうじゃなかったら、とってもじゃないけど住めないもん。だけどどうしてこんな冬は寒いわ、夏は暑いわってところを都にしようと昔の人は思ったんだろ?」
「そりゃあ、まぁ、桓武天皇に『ここに遷都しなはれ』と勧めた家来の和気清麻呂はんあたりに訊かんと、ほんまのことは判らんのとちゃうか? まぁ、風水的にここはよかったと言われとるみたいやけどな」
「風水?」
「そうや。この地はな、風水的に四神相応(しじんそうおう)ちゅう考えに適った土地なんや」
「四神相応? 何それ?」
「うん、何や知らんけど、北山からずっと山が連なっておるやろ? それが玄武、東山一体が青龍、そんで嵐山付近が白虎や。そんで今は埋められたけど南に巨椋池っていうのが昔あってな、それが朱雀や。土地に四つの神さんの力があるっちゅうて、ここを都にしようと決められたそうや」
「何だ、それ?」
「わしも風水や陰陽道のことは、よう知らん。がまぁ、そういう思想に基づいて、平城京から長岡京、そんで平安京に移されたっちゅう話やで」
「ふうん」

 由利は少し憮然とした様子で味噌汁をすすっていたが、おもむろに口を開いた。

「あ、おじいちゃん。あたしね、お母さんに会いに東京へ行ってくる」
「ふん、そうか」

 少しの間、ふたりには気まずい空気が流れた。玲子と辰造はまだ仲直りをしていないのだ。おそらくふたりともしようと思えばできるはずなのだろうが、ばつが悪くてそれもできないままでいるらしい。

「で、いつからいつまで?」
「えっとね。二十日から二十三日まで。だから二十日の日にここを出て行って、二十三日の夜までには帰ってくるから」
「そうかぁ。ほんなら気を付けて行きや。お土産はそうや、近為(きんため)の『柚こぼし』を買うといたるわ。玲子はあれが好きなんや」

 辰造は仲たがいしていると言っても、しっかり娘の好物は覚えていた。

 

 夏休みに入ってもしばらく学校は午前中に補講があった。そうでもしないと文科省が決めたコマ数では教科書全部の内容は網羅できない。だからその流れで昼食を挟んでその後は、だいたいの生徒は部活にいそしんでいた。

「ね、由利。あたしたちが映画を見ている間、うちのお母さんと話したんでしょ?」

 教室でお昼を食べながら、美月が興味津々といったふうに訊ねた。

「うん。美月、お母さんとあたしのセッティングをやってくれたんだね。サンキュ」
「で、どうだった?」
「どうって。芙蓉子さんから聞かされてるんじゃないの?」
「ああ、ダメダメ。あの人ああ見えて、口がめっちゃ堅いから。ただお母さんはさ、由利ちゃんは話が終わったあと、安心したのか、バカ食いしてたって笑って話してくれたから、結果的には明るい方向に行ったのかなって、あたしなりに忖度したんだよね」
「あ~、忖度、忖度ね! 大事だよね」

 由利は笑って言った。

「うん、結構びっくりなこといっぱいあった。でも一番良かったのは、わたしのお父さんらしき人の写真を芙蓉子さんが持っていて、それをあたしにくれたことかな!」
「へぇ! それって今持ってる?」
「うん。見る?」
「見る見る!」

 由利がカバンから写真の入っているファイルを取り出した。美月は待ちきれずにひったくるように由利からそれを取り上げると、食い入るようにその写真をのぞき込んだ。

「何これ! いや~ん、すてきぃ。ハンサムじゃーん!」
「そうかな?」
「そうだよ~。それで、それで? イケメンパパは何て名前なの?」
「ラディだって」
「ラディ? それしか判らないの? 何か犬みたいじゃん」

 美月は訝しげな顔をした。

「何よ、犬みたいって。失礼ねぇ」

 由利は軽く文句を言った。

「うん、うちのお母さん、どうも口が重いらしくてさ。親友の芙蓉子さんにさえ、きちんとした相手の本当の名前を言ってないらしいんだよね」
「ねぇ、それってさ、玲子さんに訊くわけにはいかないの?」
「本当はそれが一番いいんだろうけどね、だけど教えてくれるはずないだろうしな、今までのことを考えると」
「それもそうだよね」
「でも、あたしにはちょっとした作戦があるんだよね」
「どれどれ、どんな?」
「うん、今度東京に行ったとき、それを試してみようと思うんだ。もしそれが成功したら、美月に手伝ってもらうと思う。だから待ってて」
「う~ん、よく解んないけど、まあいいや」

 そこへ同級の茶道部員がやって来た。

「美月~。この間お茶会で使った建水どこへしまったの?」
「あれっ? 理沙ちゃんどうしたの? もとの場所に置いたはずだけどぉ?」
「うん、それがさ、探しても見つからないんだよねぇ。小山部長に今日はあれを使うからって言われてて、準備してるんだけどさ」
「え~、そうだった? 理沙ちゃん、ごめんね。おかしいなぁ、それじゃ今から探しに行くわ」

 美月は理沙と呼んだ女子生徒に謝ってから、由利に声を掛けた。

「じゃあ、そういうことだから。ゴメン、由利。理沙ちゃんと先に部室に行ってるわ」
「ん、じゃあ、美月。あとでね」

 美月はバタバタと弁当箱を片付けると、理沙と一緒に足早に去って行った。小山はいつも茶道具同士の取り合わせに細心の注意を払っているので、部員がちょっとでも自分の指示通りに動いてないと知ると、機嫌がとたんに悪くなる。だから周りの部員たちは小山のご機嫌取りに必死だった。
 由利は部室へ行く前に借りていた本を返そうと一旦、自分の教室のある棟を出て、図書室や職員室のある本館のほうへと向かった。



 放課後、由利が部室へ向かっている途中で、紺色の稽古着姿の常磐井を見かけた。
 いつもムスッとして愛想のない常磐井が、どういうわけか今は、目の前でぼうっと突っ立って、由利の顔を凝視していた。

「えっ?」

 あまりにありえない状況に、由利はびっくりして足を止めた。常磐井はハッと我に返ったようで、照れくさそうにさっと頭を下げると、その場からそそくさと立ち去って行った。

「何だろ。常磐井君、どうしちゃったのかしら?」

 不思議に思いながら歩いていると、また向こうから、先程反対方向へ行ったたはずの常磐井が、大股でスタスタと歩いて来る。今度はいつもの通りニコリともせず、目の端だけで由利を一瞥しただけだった。

「ええっ、ど、どうして?」

 驚愕のあまり、由利は思わず声を上げた。

「ん? 何だ、あんた。いきなり変な声を出すなよ」

 不審げな面持ちで常磐井が、由利の傍に近づいて来た。

「い、いやっ! こっちに来ないで!」
「小野、どうしたんだよ? 何かあったのか?」

 常磐井の真剣な表情を見て、やっと由利は目の前の人物が本物だと悟った。

「ち、ちょっと前に常磐井君にそっくりな人が通り過ぎて行って……。あ、あたしがさっき見た常磐井君って、一体……?」

 由利の顔がまた、恐怖に覆われていった。

「お、おい。小野。落ち着け、落ち着いてくれ」

 常磐井は恐慌を来し掛けている由利の両肩を揺さぶった。

「え?」

 由利と常磐井の視線と視線が重なった。由利の姿を映した常磐井の瞳には、単なる親切以上の何か切迫したニュアンスが感じ取れた。

「あんたがさっき見たのは、おそらくオレの兄貴」
「えっ? 兄…貴?」

 由利は狐につままれたような顔をした。

「そう。兄貴は今、大学の一回生だけど、ここのOBなんだ。オレと同じ弓道部だったんで、夏休みに入ったから後輩の指導に来ていたのさ。実際オレは兄貴とは三つ違うんだがな、他人が見るとそっくりに見えるらしい」
「そっくりなお兄さん?」
「そうだ。だけど性格は全然違う。兄貴は美人に目がないからな。だからどうせ、鼻の下を伸ばして、あんたに見惚れてでもいたんじゃじゃないのか?」

 常磐井の言う通りだった。

「さっきの人って、常磐井君のお兄さんだったの?」

 常磐井は呆れたような少し情けない顔をして、由利をしみじみと見つめた。

「あんた……」
「な、何?」

 こんなふうに至近距離でじっと見つめられると、由利はもう、どうしていいかわからない。カァっと頭に血が上っているのが自分でもわかる。由利は平静を保とうとぎゅっと目をつぶり、両手に力を入れてこぶしを握った。

「何してんの、それ?」

 目敏い常磐井は、面白がって由利の不思議な行動のわけを訊いてきた。

「自分を見失わないようにしているの!」

 由利は恥ずかしさのあまり、やぶれかぶれになって叫んだ。

「小野。あんた、案外、ドジなんだな」

 常磐井は突然こらえられないといったように、腹を抱えながら、笑い出した。

「だ、だって…もう、びっくりしちゃって」
「さっきのあんたの慌てふためいた顔! リプレイして見せてやりたいよ! ハハハ」
「あ、あ、あたしはまた、例の三郎の仕業かと……」

 三郎と言ってしまって、由利はハッと口をつぐんだ。急にふたりの間の空気が張りつめた。

「小野……。前々から気になっていたんだ。あんたも、もしかしたら、見えてるのかなってね」
「あんたもって、どういう意味?」

 由利は真剣に訊き返した。

「小野、見えるんだろ? 普通の人間には見えないものが」
「常磐井君……。ということは、あなたも見えていたのね、三郎のことが」
「あいつ……三郎って名乗っているのか」
「三郎のこと、知ってるの?」
「あいつは死霊だよ」

 常磐井は躊躇することなく断言した。

「死霊……?」

 由利も三郎が生身の人間ではないことはわかっていた。だが由利は、『死霊』ということばの重さに改めて愕然となった。はっきり死霊と認識することで、三郎と自分との間に決して超えることのできない境界ができたように感じた。

「おそらくあいつは、何等かの想念の力で動いているんだ」
「想念?」
「そうだな、三郎の命が尽きるときに、この世に残した未練や執着みたいなもの…かな」
「未練や執着……?」

 由利はかみ締めるように、常磐井の言ったことばを反芻した。

「小野、あんたはあいつになるべく関わらないようにしろ」
「関わらないようにしろって言ったって、別に好きでそうしているわけじゃ・・・」
「じゃあ、あんたの霊格を上げて、あいつに付け込られる隙を与えないようにしろ」

常磐井はこわい顔をして命令した。

「霊格? で、でも。だって、どうやって・・・」
「そうだな・・・」

 しばらく常磐井は考えていた。

「オレんちは実は合気道の道場で、夏の間は門下生の人間たちと一緒に滝行(たきぎょう)をしに行くんだけど、小野も一緒に来い!」
「滝行?」

 思いがけないことを言われ、由利は素っ頓狂な声で訊き返した。

「ああ。オレも中学生のころ、一時期変なのに憑かれて大変だったんだ。だけど滝行をやって一か月ぐらい経ったら、精神修養ができたっていうかな、精神のステージが上がるっていうんかな。それから大丈夫になったんだ。小野も一度試してみろ」
「それって、いつやるの?」
「まずはとりあえず、八月の頭に一週間かな。京都に愛宕山ってあるの、知ってるだろ?」

 由利は黙ってスマホを取り出すと、グーグル・マップで位置を検索した。

「あ、ここか。うん」
「ここに清滝川っていうのが流れているんだけど、その渓流に聖(ひじり)滝っていうのがあるんだ」
「聖滝? へぇ」

 由利は人差し指と中指を使って画面を拡大した。

「あれ? わかんなくなっちゃった」
「どれ、貸してみ」

 常磐井は由利の手からスマホを取り上げると自分が操作して、聖滝の場所を画面に出した。

「あ、ありがと」

 常磐井の意外な行動に半ば唖然としながら、由利は礼を言った。

「行くときはオレんちの道場から、マイクロバスで途中まで行くから。そこからは山を登って三十分ぐらいの行程かな」
「あたしみたいな門外漢も参加して大丈夫なの?」
「うん」
「ね、滝行ってどうするものなの? なんか白い着物みたいなのを着るのかな?」
「ん? そうねぇ。本来は素肌の上から着るみたいだけど、透けて見えるしな。せっかく世俗の垢を落とすために滝に打たれに来たのに、そんなのを見ちゃうと男どもはかえって煩悩を掻き立てられるわなぁ。ハハハ」
「ちょっと常磐井君! 人が真剣に質問しているのに!」
「いや、ワリィ、ワリィ。小野があんまり思い詰めているみたいだったからさ。ちょっと気分をほぐしてやったほうがいいかなって思って」
「何それ? 全然フォローになっていない気がする」

 由利は怒った口調でいったが、それでも常磐井が親しく話しかけてくれるのが内心うれしかった。

「ああ、滝行に参加する仲間のうちには女子たちも二三人いるから大丈夫。みんなスクール水着を着て、その上から水垢離用の行衣を着てるよ。大丈夫、安心して」

 そして常磐井は由利のスマホの画面を一旦閉じると、今度はキーパッド画面を出して、ぱぱぱと素早く数字を打ち込んだ。途端に今度は常盤井の胸に付けられた胴着のポケットから、ブーンブーンとバイブレータの音が鳴り響いた。常磐井は自分の電話番号を由利のスマホからかけたらしい。にっと笑って発信番号を切ってから、スマホを由利に返した。

「ハイ、これでお互いの電話番号がわかりマシタ。小野、あとからきちんとオレの電話番号を登録しておけよ。そしたらお互いのLineが無事開通するから。まぁ、聖滝行きのことでわかんないことがあったら、オレにLineして。ま、別に何にもなくてもLineしてくれると、もっと嬉しいけど」
「え?」

 勝手に言いたいことだけいうと、常磐井は「じゃな」と手を挙げて弓道場のほうへ去って行った。


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コメント 4

Yui

急展開ですね。由利ちゃん、霊格をあげるために滝行に行くんでしょうか?なんかスクール水着というのが妙にリアルで笑ってしまいました。由利のような経験をしたら怖いでしょうね。いろいろな伏線がからみあっているんでしょうか? 早めに行った東京で家探しするのかなあ。常磐井くんとの進展もどうなんでしょう。
いろいろ今後の展開が楽しみです。待っています。
by Yui (2019-08-05 10:23) 

sadafusa

Yuiさん、

そうなんです! 
この先、仏語の個所があるので、よろしかったら、
チェックお願いします。間違えている可能性大なので…。

常磐井君は、なんてか、みかけか中身が乖離しているんですよ。
パッと見はストイックに見えるんだけど、その実、エロエロ大魔王だったりして(これはちょっと言い過ぎか…)

by sadafusa (2019-08-05 16:31) 

Yui

仏語はご期待に応えられるかどうか(笑)
常磐井くんはそうなんだ。お兄さんもいるんですよね。不思議な展開にトキメキです。

by Yui (2019-08-07 18:30) 

sadafusa

ん、まぁ、どう転んでも自分ってものが出てしまうんですねー。
by sadafusa (2019-08-08 13:36) 

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