境界の旅人18 [境界の旅人]
五章 捜索
1
東京から京都へ戻って翌日学校へ行ってみると、美月が手ぐすねを引いて待ち構えていた。補講が終わる昼休みになると、わざわざふたりきりになれるように、日ごろは使われていない茶道部の顧問室に入り、中から鍵を掛けた。
「ね、ね、由利! どうだった?」
美月は興奮にわくわくした調子で尋ねた。
「うん。お母さんの出張中に家探ししてみた」
「それで? なんかヒントになるものは出てきたの?」
「うん。確証はないんだけど、お母さんが当時勤務していた研究所の職員名簿が出て来てね、お母さんの恋人らしい人が載っていた」
由利はそういいながら、スマホに収めた写真を見せた。美月はそれを見ると少し顔を曇らせた。
「あら・・・ん、いやあねぇ。白黒で小さいし、それにこれ、えらく不鮮明な写真じゃん。由利、こんなのしかなかったの?」
「うん、だけどまぁ、ラディと呼ばれる可能性があって、かつうちのお母さんと恋愛対象になりそうな年回りの人物って言ったら、この人ぐらいしかいなかったんだもん」
「ふぅん。これ、何て読むの? ラシッド・カハドラ?」
「Hは読まないんじゃない? フランス語表記だと思うし。ラシッド・カドゥラだと思うけど」
「ふうん。ラシッド、ラシッド。どこかで聞いたことがあったような。あ、ハールーン=アル=ラシードか! 千夜一夜物語の!」
「そうそう、アッバース朝に君臨した偉大なる帝王のことだよ」
「出ました! 由利って世界史好きだもんなぁ」
「何よ。日本史オタクには言われたくありません」
「あ、ゴメン、由利。怒んないで」
由利の機嫌を損ねると肝心の話の先が効けなくなるので、美月は低姿勢で謝った。
「まぁまぁ、そうかしこまらないでよ、美月。でもさ、地中海に面した北アフリカのイスラム文化圏の国は基本的にアラビア語を使うらしいから、こんな名前の男性は今も昔も結構いるんじゃない?」
「ふうん、そうなんかなぁ。それで由利のパパがこの人だと一応仮定したとして、これからどうすんの?」
「うん。まぁねぇ。それが問題なんだよね」
「由利、Facebookでこの人の名前、検索してみた?」
「うん。だけどラシッド・カドゥラ(Rashid Khadra)で検索してみたらさぁ、意外とありふれた名前らしくて相当な人数が引っかかるんだよね」
「どれ?」
美月は、由利が差し出したスマホを受け取ってその画面を次々とスクロールしていった。
「う~ん、検索人数六十七か。ン? こんなハゲ散らかした油ギッシュなおっさんなんか、問題外ね。厚かましい、何おんなじ名前名乗ってんの!」
美月は明らかに同姓同名の別人物に向かって、悪態をついていた。
「そうはいってもね、美月。ラディは今、四十五歳のはずだよ、この名簿によれば。そりゃあね、二十代は髪の毛フサフサでスレンダーでも、この年齢層になるとハゲでデバラのデブって可能性は大いにあるんだよ」
「まぁ、あっちの人は劣化が激しいって言うからねぇ」
美月も一応それには同意した。
「でもさ、このオヤジは歳が五十八だよ。多少の誤差はあるとしても、コイツは始めから想定外でしょう」
美月はスマホの画面の中の、陽気に笑っている何の罪もないラシッド・カドゥラ氏を思い切り愚弄した。
「まぁ、明らかに別人と思われる人を除外していって、その中からもしかしたらこの人はって思われる人にDMを送るしか方法はないかな?」
由利は美月の叩いた無駄口にはまったく関与せず、最善の連絡方法は何かを熟考していた。
「うん、あたしもとりあえずそうするのが一番だと思う」
美月は唯の真剣な面持ちに気圧されて、真面目に答えた。
「えっと、文面はどうしようか?」
由利は考えながら、美月に訊いた。
「そうねぇ、あんまり込み入ったことを見ず知らずの他人に教えるのも物騒だから、最小限の情報だけでいいんじゃない?」
「ん、じゃ、『今から十六年前に、あなたがフランス国立研究所の研究員だった場合、わたしにご連絡ください。お報せしたいことがあります』とかは?」
「え~、由利。それガチで怪しい……。まるでフィッシング詐欺みたいじゃない?」
いったんとダメ出した後に、美月もしばらく沈思黙考していた。
「でもさぁ、これが本当に由利のパパなら、由利の苗字が小野ってのを見れば、すぐにピンと来るんじゃない? 玲子さんと何らかの関わりがある人物だって。これぐらいにしておいたほうが無難かもよ」
「そうだね……。とりあえずはこれでDM出してみるか。英語でいいよね?」
「いいんじゃない?フランス語なんて、いくらグーグル翻訳サマに頼るにしても、こっちはまったくフランス語がわからないんだからさ。グーグルサマがよく仕出かすトンチンカンな翻訳には、こっちは手の入れようもないじゃん? それに向こうからフランス語で返事が返ってきたりしたら却って面倒じゃん?」
「そうだよね。じゃあ、そうしよっかな」
さっそくノートに英文を書いているとと美月は、さりげなく探りを入れた。
「ねぇ、さっき、田中春奈がね、由利と常磐井君のことで騒いでいたけど?」
「へ? 何て?」
ドキリとして由利は美月に訊き返した。
「なんか由利のこと、清滝のほうへ自分を差し置いて、抜け駆けでデートへ行くって騒いでいたわよ」
「え~、耳ざとい! どうやって知ったんだろ?」
「じゃあ、本当なの?」
「ううん、清滝へ行くのは本当だけど、デートはデマ」
美月は遠慮してこれ以上は訊いてこないだろうが、変に勘繰られても困る。由利は、ここはきちんと説明するべきだと判断した。
「ほら、前にも美月もあたしに指摘したことがあったじゃん? あたしが何か超常現象でも見えるんじゃないのって?」
「ああ、あったね。たしかに」
美月は同意した。
「実はね、美月。あたし、最近本当に変なものが見えるんだよ」
「え、マジで?」
美月は心底驚いたような顔をした。
「うん。だけどこういうの、京都に来てからだったんだよね。それでどうしていいのか分からなくて誰にも言えずに悩んでいたら、常磐井君も実は霊感っていうの? そういうのが強い人だったみたいで」
「常磐井君って霊感があるの? ガチで?」
「どうもそうみたいよ」
「それで彼は、あたしがそれに悩んでいるのが判ったみたい」
「そんなの、どうやったら判るわけ?」
美月はちょっと意地悪な質問をしてきた。
「さあ、それは何とも。彼は元からそういう力が備わっていたみたいだし。よく解んないけど、霊能者独特の勘が働くんじゃない?」
「ふうん、そういうもんなのかな?」
「ま、それはともかく、彼の家って合気道の道場なんだってさ」
「なあに、常磐井君って合気道の家に生まれたくせに、その上、弓道もしているってこと?」
「どうもそうらしい」
「何で? 霊能力と関係あんの、それって?」
美月は興味に駆られて、根ほり葉ほり訊いてくる。
「さあ。解んない。そんなこと訊いたことないもん。で、常磐井君がそういう超常現象みたいなのには『滝行』が効くって教えてくれたの。だから道場の人達と一緒に八月の頭に一週間ほど合宿に行かないかって誘われたんだけど?」
由利は美月の前では、努めてさりげなくふるまった。
「合宿? じゃあ大勢で行くの?」
「うん。マイクロバスで行くって。中には女の子も何人かは混じっているらしいよ」
「ふうん。でさ、田中春奈は常磐井君をデートに誘ったら、断られたってめちゃくちゃ怒りまくってたよ。それは絶対に、由利の差し金だって」
「まぁ、あたしは田中さんに常磐井君にアタックすることは邪魔はしないって言ったけど、それに対して常磐井君がどうリアクションするかまでは、責任は持てないよ」
唯はちょっと美月には憤慨したように答えた。春奈がたぶんこっぴどく常磐井に振られた場面を想像して、半ば春奈に同情しながらも心の中で喜んでいる自分がいることに、由利はひどく動揺を覚えた。
こんなに醜い感情を抱いたのは初めてだ。
だが心の奥底では理解していた、恋情というものがひとたび絡むと、人はこんなにも身勝手になれるものなのだと。
由利は部室へ行く前に本を返却するため、図書室や職員室のある本館へと向かった。そのあと女子トイレへ入った。
茶道部は図書室と同じ本館にある。普段本館にはほとんど人気(ひとけ)がないのだが、今日に限ってトイレには先客がいた。用を済ませ、由利は洗面所で備え付けの青い液体石鹸で手を洗っていた。すると先にトイレに入っていた人間も、手を洗いに由利の傍に近づいて来た。
「やぁ、小野さん」
由利はその声に一瞬違和感を覚えた。そしてその声が誰のものかわかると、腰を抜かしそうになった。
「えっ、え! 小山部長!」
由利は泡だらけの手で、小山のほうへ振り向いた。
「な、何で部長がこんなところにいるんですか! ここは女子トイレですよ!」
由利が気色ばんで相手を詰問していると、部室からその声を聞きつけて、部員たちが何ごとかと駆けつけてきた。
「由利! どうしたの!」
「だ、だって小山部長が、男なのに、に女子トイレに入っていて……」
部員たちは、本来なら当然糾弾されるべきはずの部長を責めるでもなく、かといって由利を慰めるでもなく、どう言うべきかを考えあぐねたように、むっつりと押し黙っていた。
「あー。小野さんは知らなかったんですね。おことばですが、ボクは、あなたが思っておられるような変態ではありません」
小山は妙に冷めた口調で説明しだした。こんな口調のときは、部長が激怒しているときだ。茶道部員は全員、身をもってそれを知り抜いていた。
「ボクは普段こういう恰好をしていますが、性別は女です」
「え、え? おんな…?」
由利は目が点になった。
「だって、だって小山部長はどう見たって、お、男……じゃあないですか」
ふっと小山は嗤った。
「ほらね、あなたが今言ったことばの中に、答えはすでに隠されています。現代社会で『男に見える=男である』という定義は、もはや成立しませんよ、小野さん。まぁ、ボクは身長が180センチありますからねぇ。体形も肩幅も男並みにありますし、どっちかと言えば、いかついほうです。だからでしょうか、ブレザーにスカートだとよく誤解を受けるのですねぇ、男が女装をしているって」
由利は目だけを大きく見開き、凍り付いたように固まっていた。
「ですからブレザーにスラックスのほうが、ボクにとっても、見る側にとってもストレスがないんですね。つまりですね、ボクは本来生まれ持った性と合致する恰好をするより、男の恰好をするほうが無難なんだと、ある段階で気づいたんです」
「えっ? なっ…」
小山は、唯にひとことも口を挟ませなかった。
「ですが男に見えるからと言って、ボクは心まで男だと認識しておりません。まだボクには恋愛経験がないんで、自分のセクシャル・ディレクション、すなわち性的指向も完全には把握しきれてはおりませんが、おそらくホモセクシャルでもなく、バイセクシャルでもなく、ヘテロセクシャルだと確信しています」
「セ、セ、セクシャル・ディレクションですか?」
「そうです。ボクはセクシャル・マイノリティの方々を差別するつもりはありません。ですが、自分は同性愛者ではないと、ここではっきりあなたに申し上げておきましょう。ですから性的倒錯趣味があってこのトイレを拝借していたのではなく、ボクは身体的生理欲求に従って、ここに入ったまでです」
小山は憮然と言い放ち、茶道部全員の衆人環視の中でも、何食わぬ顔で手を洗った。
「皆さん、いつまでそんなふうにボケっと突っ立ってるんですか? さあ、お茶のお稽古を始めますよ」
小山は部員を叱ると、さっさとひとりで部室へ行ってしまった。女子トイレには美月と由利だけが残された。
「由利、ちょっと大丈夫? まさか由利がまだ小山先輩の正体に気づいてなかったなんて。だけどまた気絶しないでね」
「・・・マジですか・・・。そんなの無理」
そう言って虚脱したように由利はつぶやいた切り、ガクッとこうべをうなだれた。
誰もがじっと見ているいたたまれない雰囲気の中で、お点前をやらされ、おそらく怒りが頂点に達していた小山の容赦ないチェックが止めどなく入り、その日の由利はボロボロだった。
「普通の人はだいたい小山さんに会ってしばらくすると、気づくもんなんだけどねぇ」
今さらながら美月がまた、言い訳した。
「だって最初から男だって信じて疑わなかったんだから、仕方ないよ! 美月、どうしてそんな大事なことあたしに教えてくれなかったの? 今日ほど茶道部のみんなを恨めしく思った日なんてなかったよ!」
泣きながら、取り返しのつかないことをやってしまったと由利は自責の念に駆られていた。
「由利・・・。小山さんは別にそれほど気を悪くなんかしていないよ。あとできちんと謝れば赦してくれるに決まってるって」
美月は精一杯慰めようとした。しかしそれがかえって由利の逆鱗に触れた。
「もう、みんな嫌い! なんであたしだけが、バカみたいに本当のこと、知らされてなかったのよっ! ひとりだけ仲間外れにされていた気分だよ! 嫌い、嫌い! 美月も、理沙ちゃんも他の茶道部の連中も!」
「由利! 待ってってば!」
美月が止めるのも聞かず、由利はひとり走り去っていった。
由利は帰るなり、蒲団を敷いて寝床の中にもぐりこんだ。
「おい、由利、どないしたんや。調子でも悪いんか」
「うん」
怒気のはらんだ声で由利は返事をした。
「そうか、ほんならお汁とおかずを残しておくしな、お腹が減ったら食べるんやで」
祖父はこういったことには慣れていると見え、あまり深く由利を追求しないでいてくれるのがありがたかった。
タオルケットにくるまって、混乱した気持ちを抱えながら目をつぶっていると、突然由利のスマホのバイブレーションが鳴った。取り上げてみるとLINEのアイコンに未読メッセージを示す②の赤いマークが付いていた。
「ん、誰?」
泣いて帰ってしまった由利を気遣って、美月がメッセージを送って来てくれたのかもしれない。画面を開いて確かめると、意外なことにそれは何と常磐井悠季からだった。
「はろー、由利ちゃん。元気ぃ?」
いつものぶっきらぼうな態度とはひどくかけ離れた文面に、由利はたまげた。しかもその下にはディズニーのオーロラ姫が投げキスをすると画面がハートで包まれるという、手の込んだスタンプが張り付けてあった。
「何これ? これ本当にあの常磐井君なの?」
由利は信じられないものを見たかのように、画面に向かってつぶやいていた。
「こんにちは、常磐井君」
半ばおっかなびっくりで由利は生真面目に返事を返した。するとすぐに返事は既読に変わった。
「由利ちゃん、滝に行く準備はできた?」
一瞬これはLINEのなりすまし詐欺かと疑ったが、滝のことを話題しているので、どうやら本人に間違いなさそうだった。
「はい、水着はアシックスで競泳用の脚付き水着の黒を二枚買いました」
「そっか。滝行はうちの道場の毎年の恒例行事なので、行衣は道場でたくさん保管してるから大丈夫よ。夏の滝行といっても結構水は冷たいので、長袖の上着はマストアイテムよ(⋈◍>◡<◍)。✧♡ それじゃ体調を整えておいてね」
それを見て思わず由利は吹き出した。
「別の人格に憑依されてるんじゃないの、この人?」
しかし常磐井にこんなふうにメッセージを送られてきただけで、さっきまでの沈んだ気持ちが嘘のように晴れて来る。
「わかりました。当日はどうすればいいの?」
「ぼくんちの道場に八時に集合です。修行に必要な持ち物や道場へ行くまでの地図は添付しておきますので、それで確認してください。解らないことがあればいつでもLineして♪」
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東京から京都へ戻って翌日学校へ行ってみると、美月が手ぐすねを引いて待ち構えていた。補講が終わる昼休みになると、わざわざふたりきりになれるように、日ごろは使われていない茶道部の顧問室に入り、中から鍵を掛けた。
「ね、ね、由利! どうだった?」
美月は興奮にわくわくした調子で尋ねた。
「うん。お母さんの出張中に家探ししてみた」
「それで? なんかヒントになるものは出てきたの?」
「うん。確証はないんだけど、お母さんが当時勤務していた研究所の職員名簿が出て来てね、お母さんの恋人らしい人が載っていた」
由利はそういいながら、スマホに収めた写真を見せた。美月はそれを見ると少し顔を曇らせた。
「あら・・・ん、いやあねぇ。白黒で小さいし、それにこれ、えらく不鮮明な写真じゃん。由利、こんなのしかなかったの?」
「うん、だけどまぁ、ラディと呼ばれる可能性があって、かつうちのお母さんと恋愛対象になりそうな年回りの人物って言ったら、この人ぐらいしかいなかったんだもん」
「ふぅん。これ、何て読むの? ラシッド・カハドラ?」
「Hは読まないんじゃない? フランス語表記だと思うし。ラシッド・カドゥラだと思うけど」
「ふうん。ラシッド、ラシッド。どこかで聞いたことがあったような。あ、ハールーン=アル=ラシードか! 千夜一夜物語の!」
「そうそう、アッバース朝に君臨した偉大なる帝王のことだよ」
「出ました! 由利って世界史好きだもんなぁ」
「何よ。日本史オタクには言われたくありません」
「あ、ゴメン、由利。怒んないで」
由利の機嫌を損ねると肝心の話の先が効けなくなるので、美月は低姿勢で謝った。
「まぁまぁ、そうかしこまらないでよ、美月。でもさ、地中海に面した北アフリカのイスラム文化圏の国は基本的にアラビア語を使うらしいから、こんな名前の男性は今も昔も結構いるんじゃない?」
「ふうん、そうなんかなぁ。それで由利のパパがこの人だと一応仮定したとして、これからどうすんの?」
「うん。まぁねぇ。それが問題なんだよね」
「由利、Facebookでこの人の名前、検索してみた?」
「うん。だけどラシッド・カドゥラ(Rashid Khadra)で検索してみたらさぁ、意外とありふれた名前らしくて相当な人数が引っかかるんだよね」
「どれ?」
美月は、由利が差し出したスマホを受け取ってその画面を次々とスクロールしていった。
「う~ん、検索人数六十七か。ン? こんなハゲ散らかした油ギッシュなおっさんなんか、問題外ね。厚かましい、何おんなじ名前名乗ってんの!」
美月は明らかに同姓同名の別人物に向かって、悪態をついていた。
「そうはいってもね、美月。ラディは今、四十五歳のはずだよ、この名簿によれば。そりゃあね、二十代は髪の毛フサフサでスレンダーでも、この年齢層になるとハゲでデバラのデブって可能性は大いにあるんだよ」
「まぁ、あっちの人は劣化が激しいって言うからねぇ」
美月も一応それには同意した。
「でもさ、このオヤジは歳が五十八だよ。多少の誤差はあるとしても、コイツは始めから想定外でしょう」
美月はスマホの画面の中の、陽気に笑っている何の罪もないラシッド・カドゥラ氏を思い切り愚弄した。
「まぁ、明らかに別人と思われる人を除外していって、その中からもしかしたらこの人はって思われる人にDMを送るしか方法はないかな?」
由利は美月の叩いた無駄口にはまったく関与せず、最善の連絡方法は何かを熟考していた。
「うん、あたしもとりあえずそうするのが一番だと思う」
美月は唯の真剣な面持ちに気圧されて、真面目に答えた。
「えっと、文面はどうしようか?」
由利は考えながら、美月に訊いた。
「そうねぇ、あんまり込み入ったことを見ず知らずの他人に教えるのも物騒だから、最小限の情報だけでいいんじゃない?」
「ん、じゃ、『今から十六年前に、あなたがフランス国立研究所の研究員だった場合、わたしにご連絡ください。お報せしたいことがあります』とかは?」
「え~、由利。それガチで怪しい……。まるでフィッシング詐欺みたいじゃない?」
いったんとダメ出した後に、美月もしばらく沈思黙考していた。
「でもさぁ、これが本当に由利のパパなら、由利の苗字が小野ってのを見れば、すぐにピンと来るんじゃない? 玲子さんと何らかの関わりがある人物だって。これぐらいにしておいたほうが無難かもよ」
「そうだね……。とりあえずはこれでDM出してみるか。英語でいいよね?」
「いいんじゃない?フランス語なんて、いくらグーグル翻訳サマに頼るにしても、こっちはまったくフランス語がわからないんだからさ。グーグルサマがよく仕出かすトンチンカンな翻訳には、こっちは手の入れようもないじゃん? それに向こうからフランス語で返事が返ってきたりしたら却って面倒じゃん?」
「そうだよね。じゃあ、そうしよっかな」
さっそくノートに英文を書いているとと美月は、さりげなく探りを入れた。
「ねぇ、さっき、田中春奈がね、由利と常磐井君のことで騒いでいたけど?」
「へ? 何て?」
ドキリとして由利は美月に訊き返した。
「なんか由利のこと、清滝のほうへ自分を差し置いて、抜け駆けでデートへ行くって騒いでいたわよ」
「え~、耳ざとい! どうやって知ったんだろ?」
「じゃあ、本当なの?」
「ううん、清滝へ行くのは本当だけど、デートはデマ」
美月は遠慮してこれ以上は訊いてこないだろうが、変に勘繰られても困る。由利は、ここはきちんと説明するべきだと判断した。
「ほら、前にも美月もあたしに指摘したことがあったじゃん? あたしが何か超常現象でも見えるんじゃないのって?」
「ああ、あったね。たしかに」
美月は同意した。
「実はね、美月。あたし、最近本当に変なものが見えるんだよ」
「え、マジで?」
美月は心底驚いたような顔をした。
「うん。だけどこういうの、京都に来てからだったんだよね。それでどうしていいのか分からなくて誰にも言えずに悩んでいたら、常磐井君も実は霊感っていうの? そういうのが強い人だったみたいで」
「常磐井君って霊感があるの? ガチで?」
「どうもそうみたいよ」
「それで彼は、あたしがそれに悩んでいるのが判ったみたい」
「そんなの、どうやったら判るわけ?」
美月はちょっと意地悪な質問をしてきた。
「さあ、それは何とも。彼は元からそういう力が備わっていたみたいだし。よく解んないけど、霊能者独特の勘が働くんじゃない?」
「ふうん、そういうもんなのかな?」
「ま、それはともかく、彼の家って合気道の道場なんだってさ」
「なあに、常磐井君って合気道の家に生まれたくせに、その上、弓道もしているってこと?」
「どうもそうらしい」
「何で? 霊能力と関係あんの、それって?」
美月は興味に駆られて、根ほり葉ほり訊いてくる。
「さあ。解んない。そんなこと訊いたことないもん。で、常磐井君がそういう超常現象みたいなのには『滝行』が効くって教えてくれたの。だから道場の人達と一緒に八月の頭に一週間ほど合宿に行かないかって誘われたんだけど?」
由利は美月の前では、努めてさりげなくふるまった。
「合宿? じゃあ大勢で行くの?」
「うん。マイクロバスで行くって。中には女の子も何人かは混じっているらしいよ」
「ふうん。でさ、田中春奈は常磐井君をデートに誘ったら、断られたってめちゃくちゃ怒りまくってたよ。それは絶対に、由利の差し金だって」
「まぁ、あたしは田中さんに常磐井君にアタックすることは邪魔はしないって言ったけど、それに対して常磐井君がどうリアクションするかまでは、責任は持てないよ」
唯はちょっと美月には憤慨したように答えた。春奈がたぶんこっぴどく常磐井に振られた場面を想像して、半ば春奈に同情しながらも心の中で喜んでいる自分がいることに、由利はひどく動揺を覚えた。
こんなに醜い感情を抱いたのは初めてだ。
だが心の奥底では理解していた、恋情というものがひとたび絡むと、人はこんなにも身勝手になれるものなのだと。
由利は部室へ行く前に本を返却するため、図書室や職員室のある本館へと向かった。そのあと女子トイレへ入った。
茶道部は図書室と同じ本館にある。普段本館にはほとんど人気(ひとけ)がないのだが、今日に限ってトイレには先客がいた。用を済ませ、由利は洗面所で備え付けの青い液体石鹸で手を洗っていた。すると先にトイレに入っていた人間も、手を洗いに由利の傍に近づいて来た。
「やぁ、小野さん」
由利はその声に一瞬違和感を覚えた。そしてその声が誰のものかわかると、腰を抜かしそうになった。
「えっ、え! 小山部長!」
由利は泡だらけの手で、小山のほうへ振り向いた。
「な、何で部長がこんなところにいるんですか! ここは女子トイレですよ!」
由利が気色ばんで相手を詰問していると、部室からその声を聞きつけて、部員たちが何ごとかと駆けつけてきた。
「由利! どうしたの!」
「だ、だって小山部長が、男なのに、に女子トイレに入っていて……」
部員たちは、本来なら当然糾弾されるべきはずの部長を責めるでもなく、かといって由利を慰めるでもなく、どう言うべきかを考えあぐねたように、むっつりと押し黙っていた。
「あー。小野さんは知らなかったんですね。おことばですが、ボクは、あなたが思っておられるような変態ではありません」
小山は妙に冷めた口調で説明しだした。こんな口調のときは、部長が激怒しているときだ。茶道部員は全員、身をもってそれを知り抜いていた。
「ボクは普段こういう恰好をしていますが、性別は女です」
「え、え? おんな…?」
由利は目が点になった。
「だって、だって小山部長はどう見たって、お、男……じゃあないですか」
ふっと小山は嗤った。
「ほらね、あなたが今言ったことばの中に、答えはすでに隠されています。現代社会で『男に見える=男である』という定義は、もはや成立しませんよ、小野さん。まぁ、ボクは身長が180センチありますからねぇ。体形も肩幅も男並みにありますし、どっちかと言えば、いかついほうです。だからでしょうか、ブレザーにスカートだとよく誤解を受けるのですねぇ、男が女装をしているって」
由利は目だけを大きく見開き、凍り付いたように固まっていた。
「ですからブレザーにスラックスのほうが、ボクにとっても、見る側にとってもストレスがないんですね。つまりですね、ボクは本来生まれ持った性と合致する恰好をするより、男の恰好をするほうが無難なんだと、ある段階で気づいたんです」
「えっ? なっ…」
小山は、唯にひとことも口を挟ませなかった。
「ですが男に見えるからと言って、ボクは心まで男だと認識しておりません。まだボクには恋愛経験がないんで、自分のセクシャル・ディレクション、すなわち性的指向も完全には把握しきれてはおりませんが、おそらくホモセクシャルでもなく、バイセクシャルでもなく、ヘテロセクシャルだと確信しています」
「セ、セ、セクシャル・ディレクションですか?」
「そうです。ボクはセクシャル・マイノリティの方々を差別するつもりはありません。ですが、自分は同性愛者ではないと、ここではっきりあなたに申し上げておきましょう。ですから性的倒錯趣味があってこのトイレを拝借していたのではなく、ボクは身体的生理欲求に従って、ここに入ったまでです」
小山は憮然と言い放ち、茶道部全員の衆人環視の中でも、何食わぬ顔で手を洗った。
「皆さん、いつまでそんなふうにボケっと突っ立ってるんですか? さあ、お茶のお稽古を始めますよ」
小山は部員を叱ると、さっさとひとりで部室へ行ってしまった。女子トイレには美月と由利だけが残された。
「由利、ちょっと大丈夫? まさか由利がまだ小山先輩の正体に気づいてなかったなんて。だけどまた気絶しないでね」
「・・・マジですか・・・。そんなの無理」
そう言って虚脱したように由利はつぶやいた切り、ガクッとこうべをうなだれた。
誰もがじっと見ているいたたまれない雰囲気の中で、お点前をやらされ、おそらく怒りが頂点に達していた小山の容赦ないチェックが止めどなく入り、その日の由利はボロボロだった。
「普通の人はだいたい小山さんに会ってしばらくすると、気づくもんなんだけどねぇ」
今さらながら美月がまた、言い訳した。
「だって最初から男だって信じて疑わなかったんだから、仕方ないよ! 美月、どうしてそんな大事なことあたしに教えてくれなかったの? 今日ほど茶道部のみんなを恨めしく思った日なんてなかったよ!」
泣きながら、取り返しのつかないことをやってしまったと由利は自責の念に駆られていた。
「由利・・・。小山さんは別にそれほど気を悪くなんかしていないよ。あとできちんと謝れば赦してくれるに決まってるって」
美月は精一杯慰めようとした。しかしそれがかえって由利の逆鱗に触れた。
「もう、みんな嫌い! なんであたしだけが、バカみたいに本当のこと、知らされてなかったのよっ! ひとりだけ仲間外れにされていた気分だよ! 嫌い、嫌い! 美月も、理沙ちゃんも他の茶道部の連中も!」
「由利! 待ってってば!」
美月が止めるのも聞かず、由利はひとり走り去っていった。
由利は帰るなり、蒲団を敷いて寝床の中にもぐりこんだ。
「おい、由利、どないしたんや。調子でも悪いんか」
「うん」
怒気のはらんだ声で由利は返事をした。
「そうか、ほんならお汁とおかずを残しておくしな、お腹が減ったら食べるんやで」
祖父はこういったことには慣れていると見え、あまり深く由利を追求しないでいてくれるのがありがたかった。
タオルケットにくるまって、混乱した気持ちを抱えながら目をつぶっていると、突然由利のスマホのバイブレーションが鳴った。取り上げてみるとLINEのアイコンに未読メッセージを示す②の赤いマークが付いていた。
「ん、誰?」
泣いて帰ってしまった由利を気遣って、美月がメッセージを送って来てくれたのかもしれない。画面を開いて確かめると、意外なことにそれは何と常磐井悠季からだった。
「はろー、由利ちゃん。元気ぃ?」
いつものぶっきらぼうな態度とはひどくかけ離れた文面に、由利はたまげた。しかもその下にはディズニーのオーロラ姫が投げキスをすると画面がハートで包まれるという、手の込んだスタンプが張り付けてあった。
「何これ? これ本当にあの常磐井君なの?」
由利は信じられないものを見たかのように、画面に向かってつぶやいていた。
「こんにちは、常磐井君」
半ばおっかなびっくりで由利は生真面目に返事を返した。するとすぐに返事は既読に変わった。
「由利ちゃん、滝に行く準備はできた?」
一瞬これはLINEのなりすまし詐欺かと疑ったが、滝のことを話題しているので、どうやら本人に間違いなさそうだった。
「はい、水着はアシックスで競泳用の脚付き水着の黒を二枚買いました」
「そっか。滝行はうちの道場の毎年の恒例行事なので、行衣は道場でたくさん保管してるから大丈夫よ。夏の滝行といっても結構水は冷たいので、長袖の上着はマストアイテムよ(⋈◍>◡<◍)。✧♡ それじゃ体調を整えておいてね」
それを見て思わず由利は吹き出した。
「別の人格に憑依されてるんじゃないの、この人?」
しかし常磐井にこんなふうにメッセージを送られてきただけで、さっきまでの沈んだ気持ちが嘘のように晴れて来る。
「わかりました。当日はどうすればいいの?」
「ぼくんちの道場に八時に集合です。修行に必要な持ち物や道場へ行くまでの地図は添付しておきますので、それで確認してください。解らないことがあればいつでもLineして♪」
2019-08-18 00:04
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