境界の旅人 20 [境界の旅人]

 こうやってどうにか滝行の一日が終わった。門下生の男子たちは腹筋で腹は割れ、首にも肩にも腕にも筋肉が付き、まるで全員が金剛力士のようだった。こんな男たちにとってもはや夏の滝行などはただの水遊びにすぎないらしい。由利のように騒ぎ立てる人間は誰一人としておらず、みな涼しい顔をしてシャワーでも浴びるかのように滝に打たれていた。あまつさえ滝行だけでは鍛え足りないのか、待っている間はたいていの人間は腹筋運動や腕立て伏せをして時間をつぶしていた。

「この人たち、同じ人間なの? 信じられない」

 自分と彼らの間に横たわる限りない基礎体力の差を思い知り、由利は密かにため息をついた。
 次の朝、起きてみるとしほりに言われた通り、体中が打撲したような痛みがあった。足の裏が何となくヒリヒリすると思って確かめると、踏ん張りすぎたせいなのか、ところどころ赤くなって水膨れができていた。

「ひぇ~、たったの一分のことなのに!」

 驚いている由利を見て、傍にいたしほりが言った。

「ああ、私も最初の年はそんなふうになったわよ。最後はずるりと全部足の裏の皮が剥がれたんだけどね」
「ええっ? 本当ですか?」
「まあ、何事も経験。私、小野さんが滝壺に入ったとき、この人はもう、恐怖に打ち勝ったんだなってものすごく感心したよ。見ていてわかったもの。結局ね、武道の効能っていうのは単に相手じゃなくて自分の弱さに克服することに尽きるのよ。こういう気持ちはね、社会に出たらあらゆる場面で必要とされる能力よ。たとえパワハラやセクハラする上司がいても、間合いを見て、堂々とことばで応酬することもできるようになるの。一歩自分を押し出す力が身につくのよ。だから今日も頑張りましょう」

 しほりはちゃんと由利のことを見ていた。それにそんなふうに激励されると非常にうれしかった。

 その日は昨日と全く同じ手順を踏んで滝行をした。だが昨日の滝壺に入った時点で、いみじくもしほりに褒められた通り、めそめそ泣きごとを言っても物事は好転しないと覚悟を決めてしまったので、昨日のような恐怖をさほどには感じなかった。
 二日目は朝に一回、昼に一回。その次の日は朝に二回、昼に一回と少しずつ行の回数を増やして、四日目には他の人間と同じように、朝二回、昼二回の行をこなせるようになった。しかも回数を増やしていくごとに滝に打たれている時間も、次第に長くなって途中からは皆と同じように五分ぐらいまで打たれていられるまでに進歩した。
 だが傍で指導している行者の由利を見る眼は、どこか厳しいものがあった。
 五日目までは、ほとんど何も変わらずただただ滝の水圧に耐えているだけの苦行に過ぎなかった。
 だが六日目になると、次第に恐れや痛み以外の何かが由利の心の中の空白に生ずるようになった。一瞬その正体を突き止めたと思うのだが、次の瞬間には空を切るように、するりと手の内から逃げ去ってしまう。由利は次第にもどかしさを募らせていた。


 しかし最終日の七日目の最後の行のときに、由利は目をつぶって「南無大日大聖不動明王」と唱えていた。だんだんと没我の状態になり、由利の意識は心の中の光っている一点に集中した。するとふっと意識が飛ぶのを感じた。



 気が付けばまた由利は、以前自分が気絶したときに見た時と同じ時間、同じ場所にいた。
 この間と同じように、由利は御簾が降ろされた大床に金や紅が鮮やかな繧繝縁(うんげんへり)の厚畳の上に座っていた。

「皆中(かいちゅう)! 各々方、中将さまが放たれた矢、二十本すべて皆中でござりまする!」


 大床の前の庭には、弓を持ち片肌を脱いだ男が遠くに立っていた。
この前はどう耳をすませても聞き取れなかったことばが、今の由利にはやすやすと理解できた。 
 そう、この男は「中将」だった。


「ほう、女御、そこもとのひいきの季温(すえはる)がまた、的中であるぞ」 


 自分の横に座っている帝も、今度は中将のことを「季温」と呼ぶのがわかった。

ーこの男の名は、季温というのか・・・ー 

 由利はだんだんと心が昂って来るのを感じた。

「まあ、主上(おかみ)。酷い言われようでございます。わたくしは主上の妃なれば、身も心も主上に捧げております」

 自分の横に座っている男に向かって 由利はやすやすと心にもない嘘をついた。

「はは、まあまあ。よいではないか。やつはそなたを自分の命を呈して窮地から救い出してくれた男ぞ。もそっとうれしそうな顔をしてもよいと思うがの」
「そんな・・・。主上。もちろんそれは、うれしいともありがたいとも思うておりますとも」
「さようか」

 帝は由利のそつのなさすぎる返答にぽつりと返したきり、しばらく沈黙していた。が、持っていた扇でどこか苛立たし気にぴしゃりと膝を打った。この男は自分と中将の関係にうすうす気が付いているのかもしれないと危ぶみ、由利は内心焦りを感じた。

「しかしそれにしても一度も外さぬとは、そつがなさ過ぎて小癪な奴じゃ。それでは今しばらく続けさせようかの。あと何回放てば、的を逸らすであろうのかの? のう、女御」

 帝のことばの端々に、中将に対する嫉妬がにじみ出ている。だが何事もなかったかのように、花のような笑顔でやんわりと帝を取り成した。

「主上・・・。しかしながら、もうよいではありませぬか。ご自分の大事な臣下を、それそのように試すような真似をなさらずとも」

 笑いかけると帝は思わずうっとりと自分に見惚れている。嫉妬に駆られていても、女御の美しさには平伏しているのだ。由利は自分の美しさの威力を充分に知っていた。

「ほれ、そこもとは何かと、あやつをかばい立てする。そこがどうも気に入らぬ」

 いかにもくやしそうに帝は、由利が中将の味方をすると腹を立てる。

「ほほ、お戯れもそこまでになさいまし。どうぞ主上からも褒めてやってくださりませ。すべては主上の栄えのためでございますよ。今日の宴に花を添えてくれたのです。ほかの殿ばらではこうはいかなかったでしょうから」

 由利は努めて声を抑えていたが、誇らしげな気持ちでいっぱいだった。

「おお、そうよ。季温は朕にとってたしかに大事な男。そうじゃの。女御の言うとおり、朕からもねぎらってやるとするか」
「それでこそ、わが君さまでござります」

 由利は頭を下げた。自分の想い人はこの帝も認めざるを得ないほど有能な男なのだと思うと、嬉しさと誇らしさで胸がはちきれそうになる。由利はまだ誰にも気づかれていない自分の膨らみつつある腹を、庇うように大きな袖で覆った。だが今は、この命運を懸けた秘密の恋を何としてでも周囲に悟られてはならない。由利は用心深くそばに控えている女房にそっとささやいた。

「さあ、阿野中将(あののちゅうじょう)を御前に連れて参れ。主上からお褒めのおことばがあるゆえ。妾(わらわ)からも褒美を取らせよう」

ー阿野中将ー

 自分が入っている女御の口からその名前を吐いた途端、由利は心がかき乱されるような気がした。これほど全身全霊で愛した人の懐かしい名前の響きを、なぜ自分はこれまで忘れてなんかいられたのだろうか。

「かしこまりました」

 しばらくすると阿野中将は大床の前に現れ膝をついた。

「主上、参上いたしました」

 帝はそれを聞いて、傍からはさも機嫌よく見えるように声を掛けた。

「季温よ、ようやった。さすがじゃ。それ、褒美を取らそう」

 帝は自分が今着ている着物を脱いで、それをそばの女房に渡した。

「主上から御衣(おんぞ)が賜りました」

 取次の女房が帝から手渡された衣をまた捧げ持ち、その男に手渡した。

「これは身に余る光栄!」

 拝領された御衣を押し頂きなら、阿野中将は深々とこうべを垂れた。

「ほれ、女御、なにかことばをかけてやれ。女御が口を閉じていては、季温も皆中にした甲斐がないというものじゃ」

 胸を高鳴らせながら、由利は中将を寿ぐことばを瞬時に探した。

「このたびそなたは、類なき弓の技でもって畏(かしこ)くも尊い主上を寿いだ。まことにめでたくも天晴なこと・・・。九重(宮中のこと)も二重(矢が二十本皆中したこと)の歓びに包まれておりましょうぞ」
「ありがたきおことば、身に沁みましてでございます。橘の女御さま」

 またしても中将は深々と頭を下げたが、ふいに御簾ごしに顔を由利のほうへ向けた。

「あっ!」

 目の前で見ている公卿の顔は、たしかに由利の生きている世界では知らない男だった。だが自分を見つめる瞳の中に宿る光は。

ーああ、あたしは忘れはしなかった。たとえ何度、姿や形を変えて生まれ変わろうと、この愛しい人を決して忘れるはずがないー


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