境界の旅人 25 [境界の旅人]

第六章 告白



 気が付けばふたりが美術館を辞したのは、天目茶碗を見てからたっぷり一時間以上は経っていた。その間ずっと由利と小山はこの茶碗を見続けていたことになる。
 ふたりはしばらく土佐堀川の岸辺をぶらぶらと散歩した。

「ボクはね、何か気持ちが落ち着かなくなるとき、無性にこの茶碗を見たくなるんだ。あの茶碗には南宋時代の『士大夫』の心意気が詰まっているように思える」
「それってどういうことですか? たしか士大夫って宋時代以降の科挙官僚と地主と文人の三者を兼ね合わせた人のことを言うんじゃなかったでしたっけ? 要するにイギリスで言えば、ジェントリ階級の人かと?」
「あはは、そうだね。ジェントリとは言い得て妙だよね。士大夫は特権階級である貴族とは自ら一線を引いた存在でね。何者でもない人間が厳しい科挙を潜り抜けて、実力のみで権力をつかんだんだから。ボクはね、彼らの気骨ある精神にすごく惹かれるんだ。特に北宋の士大夫である『蘇軾(そしょく)』がボクのお気に入りでね。彼は北宋時代最高の芸術家と呼ばれ、詩・書の達人でもあるんだよ」
「そしょく? ですか」

 由利は西洋史には抜群に強くても、東洋史のことについてはあんまり知らなかった。

「ああ、彼って蘇東坡(そうとうば)とも言われているんだけど、ほら、小野さん、『トンポーロー』って知ってる?」
「ああ、あの豚の角煮のことですね?」
「そうそう。あれって、『東坡肉』って書いて、『トンポーロー』って読ませるんだ。この料理の発案者は、他ならぬこの蘇軾なんだ」
「えーっ! そうだったんですか! お料理の名前の由来まではまったく知りませんでした」
「彼の生きた時代、すなわち十一世紀の中国って、なぜか豚肉を食べる習慣が途絶えた時代でもあったんだよ」
「ホントに? 中国料理っていったら豚肉って、現代人は連想するのに」
「うん、だけどまぁ、宋の時代は羊の肉を食べるのが専らの習慣になっていたらしくてね。蘇軾は天下に並ぶものがいないほどの大秀才で、各地の知事を歴任し、文部大臣にまで出世した人なんだけど、かならずしも時の趨勢は彼の味方ではなくて、結構左遷とか島流しとか悲惨な目に遭っているんだよね」
「確かに優秀な人って時代を先取りするから、世間の人の理解を得るのは難しいって言いますよね」
「うん。彼は左遷された先の土地の人々が食べるものがなくて飢えで苦しんでいるとき、豚肉を食べる習慣がないことに気が付き、自ら野生の豚、すなわち猪を狩って捌き、この料理を作って広めたっていうんだ。そこで『食猪肉詩(豚肉の詩)』っていうのを作ってたりするんだよ」
「豚肉の詩? ふふっ、どんな内容なんですか?」
「豚肉はこんなにおいしいのに、どういうわけかめっちゃ安い。金持ちは見向きもしないし、貧乏人は食い方を知らない。少量の水でじっくりと火を通してごらん。びっくりするほど旨いぜ。オレは毎日、毎日喰ってるぜ! みんなも豚肉を食べようぜって、そんな感じ」
「うふふ。おかしい!」
「そう。彼は諧謔趣味の強い人で、自分のどんな過酷な運命に遭ってもこんなふうにすっとぼけた詩を作って楽観的に笑い飛ばすような、そんな強靭な精神力を持つ人だったんだ。晩年なんかは、海南島に息子ともども流されたりしたんだけど、紙はなくても字は書けるって、浜辺の砂に棒きれで字を書いて、息子に詩作の勉強をさせたりもしているんだ」
「不撓不屈 の魂ですね」
「そう、そういう蘇軾に憧れて、ボクもできるなら彼のように強い人でありたいと思ったんだ」

 由利は小山のセリフに不穏なものを感じて眉をひそめた。

「小山さんは十分に強いじゃないですか。それに蘇軾のように、悲惨な運命にあるわけでもないでしょう?」

  由利がそういうと、 小山は少し立ち止まって沈黙していた。

「実はね、ぼくが女子トイレで小野さんと鉢合わせしたとき、ボクはいつになく饒舌になって自分のことを弁護した。だけどそこにはかなり嘘も混じっていた・・・」
「えっ?」
「小野さん、ボクはあのときキミに偉そうに啖呵を切ったでしょ? 周囲から誤解を招きたくないからこんなふうに男の恰好をしているだけだって。何の他意もないって」
「はい、小山さんはあのとき、たしかにそう言われました」
「ボクはこう見えて、実は女でしょ? そしたらどんな格好をしていても男が好きになるのがノーマルだよね」
「ええ・・・そうですね」








小山は由利に衝撃的な告白をします。 それを受けて由利はどうするんでしょう?  ハラハラドキドキの回ですよ~。 続きはこちらで!!

https://note.mu/sadafusa_neo/n/n30c2f2d61b78


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