境界の旅人 31 [境界の旅人]


第八章 父娘



「ただいまー」

 玄関の戸を開けると、中から湯気に包まれた温かい空気が由利を包んだ。

「おう、由利か」

 祖父の辰造が夕餉の用意をしていたようだ。

「あ、おじいちゃん。ゴメンね。遅くなって。あたしも手伝うよ」

「ああ、もうじきに出来上がるから、ええで。そこに座っとき」

 達造が味噌汁の鍋をおたまでかき回しながら、思い出したように言った。

「ああ、由利。そういえば、ようわからんけど、どこかの法律事務所から書留を由利宛に送ってきおったんや。ちゃぶ台の上にあるさかい、見てみい」

「法律事務所? へぇ、何だろ?」

 たしかにちゃぶ台には一通の封書が置いてあった。宛名はたしかに祖父の言った通り、由利宛だ。

「どこの法律事務所・・・? 佐々木俊哉法律事務所・・・?」

 由利は頭を傾げながら後ろの所書きを見た。

「東京都大田区? 何? 一体この佐々木法律事務所サマはあたしに何の用なんだろ?」

「由利、棚にハサミがあるやろ、それで開封してみいや」

「うん」

 由利は封筒の端をハサミで切って開封し、中を読んだ。手紙の文面は手書きだった。



 突然のお便り、失礼いたします。

 私は佐々木法律事務所を営んでおります弁護士、佐々木俊哉と申します。
 私はある方より依頼の命を受けてこの手紙を書いております。

 なぜならば依頼人は、由利さんが八月の中頃にフランス国立研究所に宛てて出されたラシッド・カドゥラ氏の消息を尋ねる手紙を偶然ご覧になる機会があり、ご自分がもしかしたら、お母さまの玲子さん、そしてお嬢さまの由利さんとのご縁につながる人間かもしれないと思われたからです。

 依頼人は由利さんのお母さまの玲子さんがフランス国立研究所に在籍されていたおり、一時期交際されたことがありました。ですが由利さんの手紙をお読みになるまで、由利さんという存在自体をまったくご存じではありませんでした。

 つまり依頼人は由利さんの手紙を読んで初めて、玲子さんにお嬢さまがいらっしゃったことをお知りになったのです。

 手紙と一緒に同封されたお母さまの玲子さんと一緒に写っておられる男性をラシッド・カドゥラ氏だと、由利さんは認識されていますでしょうか?

 だとすれば残念ながら、その男性はカドゥラ氏ではありません。

 ともかく当方は、由利さんのことについて何一つ知りません。また由利さんが一体どういう目的で、あのお手紙を出されたのかも、一切承知しておりません。

 そんなわけで私は、まずは由利さんから細かい事情を詳しくお伺いするように、依頼人に命じられております。

 つきましては一度、ご都合のつく日に私がそちらに参りまして、お話を少しばかりお聞かせくださる時間を作っていただけますでしょうか。

 なお、お返事はこちらのメールのほうへお返しくださいませ。





 由利は手紙を読んで真っ青になった。

「どうしよう・・・」

 由利はぺたんと畳に尻をついてつぶやいた。

「どうした、由利?」

 辰造は由利がちゃぶ台に放り出した手紙を手に取って読んだ。

「由利、これはどういうこっちゃ? きちんとわしに説明してみなさい。何、怒りゃあせん。どうせ玲子の相手のことやろ? 玲子は由利にまったく父親のことを言っていないんと違うか?」

「うん・・・」

 由利は秘して黙っていたこれまでのいきさつをすべて祖父に説明した。それを辰造はふんふんと真剣な顔でひとつひとつ聞いたあと、ため息をつきながらこう言った。

「そうか・・・。由利も難儀なこっちゃな。せやけどな、こういうことは、たとえいっとき嫌な思いをしたとしても、知らないよりは知ってしまったほうが、後々楽なもんやで。そりゃあ、由利だって自分の父親がどんな人間かは知りたいやろ。それに知る権利があると思うで」

「おじいちゃん、これって・・・。もしかしてフランスのあたしのお父さんにあたる人がすでに結婚もして子供もいて幸せに暮らしているところに、この手紙を目にして不愉快に感じているんだとしたら? どうしよう・・・だから弁護士を自分の代理人に立てて、交渉しようとしているとも考えられるよね?」

 由利は最悪のシナリオを想定して、思わず泣きだした。

「もしかしたらそんなこともあるかもしれん。しかしな、ここまで来たんや。しっかり物事を見定めなあかんやろ。そんならな、わしも一緒にその佐々木さんという弁護士に会(お)うたるわ。何、可愛い孫娘にばかり辛い思いはさせんて」





 そのあと由利は何度か東京の佐々木弁護士とメールのやりとりをしたあと、学校のない日曜日の午後に京都駅に隣接しているホテル・グランヴィアの一室にて祖父を交えて会うことになった。

 由利と辰造が指定された番号の部屋に入ると、佐々木弁護士が椅子から立ち上がって、ふたりにあいさつした。

「はじめまして、小野さん。そして由利さん。私が弁護士の佐々木俊哉と申します」

 由利たちに自己紹介した佐々木は、歳の頃は四十半ばぐらいのいかにも弁護士然とした知的な感じの男だった。

「今日は、依頼人の要請に応じてこちらにご足労いただきまして、誠にありがとうございます」

「いえ、とんでもないことです。弁護士さんもわざわざ東京からおいでなさったんでしょ?」

 由利に付き添ってきた辰造は、佐々木と名乗った男に深々とお辞儀した。

「いえいえ。これが私どもの仕事ですから。ではお座りください」

 由利と辰造は部屋に設置されたソファに腰を下ろした。佐々木はテーブルに自分が必要な書類を拡げてから言った。

「では、早速ですがお話に移らせてくださいね。これから伺うお話は個人情報にあたることですので、私たちには守秘義務というのがあります。従って関係のない第三者には漏らすことはありません。またもしこの話し合いが終わった時点で、依頼人と由利さんの接点が確認できなかった場合は、依頼人のほうへ『該当せず』としてあなたの報告を控えまして、お借りいたしました書類などはすべてお返しし、またこちらが持っている由利さんに関するすべての資料を破棄いたします。まずそれを事前に申し上げておきます。よろしいですか」

「はい」

 ちょっと緊張して居住まいを正しながら、由利は答えた。

「では、メールでお知らせしておりました、戸籍謄本、母子手帳を持ってきていただけましたでしょうか?」

「はい。ここに」

「では、お預かりしますね」

 由利がテーブルにファイルを差し出すと、それを見て不備がないか佐々木はチェックしていた。

「それでは由利さん、あなたの生年月日を教えていただけますか?」

「はい。20○×年の▽月□日です」

 佐々木は由利の戸籍謄本を見ながら、うなずいた。

「とすると・・・お母さまの玲子さんはあなたがお腹にいたときには、ちょうどフランスで勤務されていた頃と重なりますね・・・。お母さまはそのとき、結婚されていなかったということですか?」

「はい。母は未婚であたしを産みました」

「では、あなたの法的な父親にあたる人はいないということですかね」

「はい、そうです」

「失礼ですが、これまでの家族形態を教えていただけますか?」

「生まれてからずっと母と私だけです」

「ということは、お母さまはこれまで結婚なさっていないのですね?」

「はい、一度もありません」

「なるほど、なるほど」

「では由利さん、あなたはどのような動機で、フランス国立研究所宛てにラシッド・カドゥラ氏の消息を求める手紙を書かれたのでしょうか?」

「はい。それは・・・、あたしが自分の父親のことを知りたかったからです」

「しかしそのことは、お母さまに訊けば、ある程度のことは判るのでは?」

「はい、たしかにその通りなのです・・・。でも理由はまったく分からないのですが、母は絶対にあたしの父親のことを教えようとしませんでした」

「ほぉ、そうなのですね。お母さまはあなたの父親にあたる方を、どう思っていらっしゃると感じますか?」

「・・・判りません。ただあたしの父親にあたる人とのことは、結果的に母にとっては苦い思い出になっているような気がします」

「そうなんですね。ではどうしてあなたは、カドゥラ氏をご自分の父親ではないかと考えられたのでしょうか?」

「はい、あたしは自分のことを生粋の日本人ではないと思っています。それも韓国や中国といったアジア系の人とのハーフではなく、おそらくコーカソイド系の人とのハーフではないかと・・・。それにさっき弁護士さんがおっしゃったように、母があたしを妊娠している時期とフランスに滞在している時期が重なるんです。ですからフランス国籍を持つ人か母のような外国人かは判りませんが、少なくともその当時パリに住んでいた男性との間の子供なのではないかと思っているのです」

「ほうほう。まぁ、それはしごく妥当なお考えですね。ではどうやって、カドゥラ氏という人物を特定したのですか?」

「はい、まずあたしの母の親友である人から、あたしの父親にあたる人はムスリムで、母から『ラディ』と呼ばれていたと聞きました。そしてフランス国立研究所宛てに出した手紙に添付しました写真ですが、それも母の親友が所持していたものを譲り受けたものです。そこには母とあたしの父親と思われる男性が写っています。で、今年の夏のことになりますが、あたしは東京の自宅へわざと母の出張中を狙って忍び込み、在職当時の研究所の職員名簿を見つけ出しました。その中からラディと呼べそうなイスラム文化圏の名前の男性で、この写真に似た人を捜したのです。写真を撮られた当時の母はおそらく二十五歳ぐらいだと思いますが、男性もそれほど歳が離れているとは思えません。ですから母の年齢にプラス・マイナス五歳ぐらいの人を条件として捜しました。そしてそれをすべて満たす人がラシッド・カドゥラ氏でした」

「ははぁ、そうでしたか・・・。なるほどねぇ」

 しばらくじっと自分の手帖をみて佐々木は考えこんでいたが、やがてこう切り出した。

「それでは、あなたのカドゥラ氏の消息を尋ねる理由というのは、ご自分のお父さんではないかと思ったいうことで、よろしいですね?」

「はい、そうです」

「では今日、わたしがこちらに来ました本当の主旨を申し上げましょう。依頼人はやはりあなたのことをご自分の娘ではないかと思われたそうなのです。今、由利さんのお話や生まれたときの時期や状況などを聞くと、親子関係である可能性が十分にあると考えられますね」

「ええ? そうなのですか? じゃあ、その方はラシッド・カドゥラさんではないとおっしゃるのなら、一体どんな方なのですか? お名前を教えてください」

「はい、それがですね。残念ながらまだお名前をお聞かせすることはできないのです」

「な…なぜですか?」

「何よりも先にDNAの鑑定を受けていただいて、その結果をお待ちください。依頼人はまずは、彼とあなたがはっきりと親子関係であるということを証明させるべきだと考えています。依頼人もあなたの手紙を読まれたあと、一刻も早くあなたに会いたいと思われたようです。ですが、よく調べもせずに仲良くなったあとで、親子ではなかったという事実が判明したとなれば、結局あなたは二度父親を失うことになるからと思いとどまられたのです。ですから今は名前や身元を伏せさせていただいているのです」

「それは先方さんがおっしゃることは、もっともやと思いますわ。よう確かめもせずに父親や言うて来られても、あとで違(ちご)うてたとなると、由利の傷つき方も、半端ないもんやと思いますわ」

 辰造はしょんぼりとうなだれている由利の肩を、なだめるように叩いた。

「な、由利。先方さんは深謀遠慮のあるお人やと、おじいちゃんは思うで。ここは少し冷静になって結果を待たんとあかんやろ。何にしても話はそれからや」

「うん」

「なぁ、なにをがっかりしてるんや、ええ? 由利。依頼人さんが実のある人でよかったとわしゃ思うで。どちらにしろ、一歩前進やろうが?」

「うん・・・」

「本当にお疲れさまでした。由利さんはまだお若いですし、さぞ緊張されてお疲れになったでしょう。今ルームサービスでお茶とケーキを運ばせますから。どうぞ一服なさってください。由利さん、今日はいろいろと言いづらいことを根ほり葉ほり伺って、申し訳ありませんでしたね。私も双方にとっていい結果が出ることを望んではいますが・・・。小野さんも付き添っていただきまして本日はありがとうございました」

 そこで佐々木弁護士は由利に言った。

「ここでお写真を一枚、撮らせてもらっていいですか? もし鑑定の結果、あなたと依頼人の親子関係が成立するとすれば、あなたの写真をぜひ見たいと希望されているのです。どうです、由利さん? 依頼人がお父さまだと判れば、送らせてもらってもいいですか?」

「はい、もちろんです」

 由利は少し不安が混じった顔で、返事した。

「それでは、その白い壁のところをバックにして撮りましょうか? 由利さん、。もっとにっこり笑っていただけますか?」

 由利はできるだけにっこりと微笑もうとしたが、その表情はどことなくぎこちないものとなった。


 
 ホテルの人間がお茶とケーキを運んできたので、三人はしばしの間、当たり障りのない世間話をした。
 由利の緊張がほぐれてきたのを見て、佐々木はさらっとスマホのシャッターを何枚か切った。

「ああ、やっぱりさっきの写真よりこっちのほうが、断然生き生きとしていますね。ほら、ご覧ください。こっちを使いましょう」

 佐々木は自分が撮った写真を由利と辰造に見せた後、心持ち嬉しそうに言った。そしてこれからのスケジュールを告げた。

「ではこちらで用意しましたDNA鑑定をする人間が近日中にお宅をおじゃましますので、そのときはまたよろしくお願いしますね。学校もあるでしょうし、夜の七時ぐらいに伺いたいと思います」

「えっ。自宅にですか?」

「ああ、検査自体は非常に簡単でしてね。綿棒で由利さんの口の中を拭えばそれでおしまいですよ。まぁ、せいぜい十分もあれば充分でしょう」

「そんな簡単なことで?」

「ええ、人の体液で調べるのが一番確実です。九十五パーセントの確率ですよ」

「へぇ、そうなんですね」

「ええ。そうなんですよ。まぁ、伺うときはあらかじめ前日に電話を差し上げますので」

「わかりました、ではよろしくお願いします」





 要件が済んだので、由利と辰造が部屋を辞するために立ち上がろうとした。しかし由利の傍に終始黙って座っていた辰造は、ふらりとよろめいた。

「おじいちゃん!」

「小野さん、大丈夫ですか?」

 佐々木がつつっと近寄って、辰造を支えた。

「小野さん、とりあえず、こちらのソファで横になられては?」

「いやぁ、お世話をかけてすまんこってす。わしもちょっと緊張しとったんかなぁ。ハハハ」

 辰造は冗談めかして笑おうとしたが、その顔は真っ青だった。
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コメント 4

Yui

急展開ですね。おじいちゃん、大丈夫でしょうか。
弁護士が代理人で調査に来るとは思いませんでした。さすが現代ですね。いきなり遺伝子検査ですか。まあ、間違っていたら確かにがっかりなので先に検査するのは確実かもしれないですね。
由利ちゃんの出した手紙は直接的ではなかったけれど、一歩踏み出したことになるのかな?
by Yui (2019-11-16 21:31) 

おかもん

おじいちゃん!ヽ(ill゚д゚)ノ 話が進んできましたが、おじいちゃんはこれから心配が増えるばかりのような……親子関係って難しいですよね。頑なに父親のことを言わないのは何故なのか、他人だって気になるのだから当事者はもっと知りたいですよね……ああ、また1週間先が待ち遠しいです。驚いても辛い出来事が起きませんように。
by おかもん (2019-11-16 21:57) 

sadafusa

Yuiさま

連日コメントいただけて非常にうれしいです、また光栄です!

さて、そうそう、代理人が来たんですよ。DNA鑑定のサイトへ行って、ず~っと概要を読み漁っていました。

でも、ググればグーグル先生がたいていなんでも教えてくれるので、いい世の中になりました。

家にこもったきりでも、PCがあれば小説書けますからね!

由利の手紙は2wayだったでしょう?
直接、研究所に出したのと、小山さんに託したのと。
まぁ、ナゾは徐々に解き明かされて行きます。
by sadafusa (2019-11-17 09:30) 

sadafusa

おかもんさま

おはようございます!
今回もさっそく素敵なコメントくださいまして、本当に光栄です。
一週間先が待ち遠しいなんて…。作者冥利に尽きますね!!
ありがとうございます!

そうですねぇ。おじいちゃん、心配です。

そう、頑なに娘にも言わない秘密ってなんだろうって思うでしょ?
言わないんじゃなくて、おそらく言えないんですね。

人が第三者を徹底的に憎むときっていうのは、その人の存在を否定したり、尊厳を踏みにじるときなんじゃないでしょうか?

それを頭の片隅に置いておいて、これからの展開を楽しみにしてください。


う~ん、結構驚くようなことがいっぱいです。
後味は悪くはないとは思うのですが…

ん~、これから先はいいますまい。
ではでは~
by sadafusa (2019-11-17 09:39) 

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