境界の旅人 32 [境界の旅人]
第八章 父娘
3
「おじいちゃん、大丈夫? タクシー乗り場まで歩ける?」
由利は心配そうに祖父に訊ねた。
「申し訳ありません。弁護士さん。えろうご迷惑をかけてしもて。由利、大丈夫や。明日になったら病院へ行くさかい。今、救急へ行ってもやな、大学出たての半人前の当直医しかおらんやろうし」
佐々木と由利が辰造の両端に立って身体を支えながら、ゆっくりとした足取りで一階までエレベーターを使って降りてから車回しまで行って、タクシーに乗り込んだ。
「由利さん、ひとりで大丈夫ですか?」
佐々木は心なしか心配そうに言った。自分にも由利と同じような年ごろの娘でもいるのだろう。
「あ、はい。とりあえず家で様子を見てみます。何かあれば家の近くには京都第二日赤病院の救急センターもありますから。でもたぶん、そんな大ごとにはならないと思います。佐々木さん、本当にお世話になりました」
「由利さん、気をつけてね」
佐々木はたかだか十六歳の少女にしか過ぎない由利の大人びた冷静な態度に、いい意味でも悪い意味でも感心しているようだった。
「今日はありがとうございました」
由利はタクシーの中から頭を下げて礼を言って、佐々木弁護士と別れた。
車窓から外を見れば、街はクリスマスシーズンに突入したのか、金銀の華やかなデコレーションで飾られていた。
「ふう、もうクリスマスか・・・。季節が過ぎるのって早いね・・・」
月曜の午前中は祖父に付き添って、近くにある行きつけの内科診療所へ行った。
「ふん・・・。まぁ、風邪だね。それに夏バテしてたんじゃないですかねぇ。暑い、暑いっていっているうちに、急にストーンと気温が下がったしね。だいたいの人は身体がついていけなんだよね」
いつも世話になっている先生はそう診断をくだした。
「よかったぁ。おじいちゃん。風邪だって」
それを聞いて、由利はほっと一息ついた。辰造も医師の見立てを聞いて安心したのか、軽口をたたいた。
「最近は地球温暖化の影響なのか、季節は夏と冬ばっかりになって、春と秋がなくなってきとるからねぇ」
「ま、お薬出しときます。あとは二三日、ゆっくり養生して身体を休めてください。小野さん、あんたもトシなんだし、いつまでも若いつもりでいたらあかんで」
先生は笑いながら辰造に釘を刺した。
由利は途中でパン屋によってサンドイッチと野菜ジュースを買ってから、学校へ出かけた。ちょうど四時間目が終わったらしく終業のチャイムが鳴った。
後ろの席に座っていた常磐井は戸口に入って来た由利に気づいたのか、さっと鋭い視線を向けたが、それだけだった。何の感情も浮かべることなくすっと立ち上がり、目も合わすことなく由利の脇を真っすぐに通り過ぎるとと、学食のほうへと向かって行った。
努めて何気ないふりをしてその姿を見ていたが、由利は瞬間的にこの間の船岡山で交わした熱い抱擁と焦れた相手の表情が思い出され、体中にカッと熱い血が駆け巡るのを感じた。
常磐井は、今はこんなに冷たい表情をしているけど、それは単に由利の愛情を失いたくないがために演じている擬態にすぎない。何しろ人前では他人のふりをしろと常磐井に命じたのは由利なのだから。
教室の外から田中春奈が常磐井を呼び止めている声が聞こえる。
「常磐井くぅーん」
春奈のやけに甘ったれた声が響く。
「ん? 田中か? 何?」
いつものように、常磐井のそっけない声が聞こえる。
「常磐井くん、学食へ行くの?」
「うん、そうだけど?」
「あたしも購買へ行くから、途中まで一緒に行こ?」
「あん? ま、いいけど」
常磐井は春奈の誘いにまんざらでもない顔をして応じていた。そのふたりの後ろ姿を、由利は振り返って意地悪く見ていた。
ーきっとあの人の心は、今ここにいるあたしのことでいっぱいなはず。春奈が誘えば常磐井は、デートぐらいは付き合うのかもしれない。あたしに感じた欲望を代わりに春奈で満たそうと、それ以上のこともするかもしれない。だけど単にそれだけのこと。圧倒的な力を誇る彼も、結局あたしに勝つことができないー
ひとりの人間の心を征服し屈服させて従わせてしまう自分に、ほの暗い喜びを覚えて有頂天になっていた。そして頭のてっぺんからつま先に至るまで、身体中が耐えがたい甘いうずきに支配されて、由利はふるえた。
「由利」
ぼうっとしていると、美月が声を掛けて来た。
「あ、美月。おはよ」
「どうだったの、おじいちゃんの様子は?」
「うん。風邪だって。大したことなくて良かった」
「そっか~。一安心だね。昨日LINEもらったときは心配しちゃったよ。うちのお母さんに言ったら、『由利ちゃんひとりじゃ大変だろうから』って、夕飯前にお惣菜をたくさん作って由利んちへ持って行くって。レンジでチンしたら食べられるように全部しておくってさ。だから家に帰ったらまず冷蔵庫を点検してねって」
「えっ? 芙蓉子さんが? 芙蓉子さんだってお家の仕事で忙しいだろうに。何か申し訳ないなぁ」
「まぁさ、相手はベテラン主婦ですから。たまには頼ってもいいんじゃない?」
「ありがと、いつも美月と芙蓉子さんにはお世話になりっぱなしで」
「いいよ。そんなこと。うちのお母さんも好きでやってるんだしさ」
突然、由利の表情が明るくなった。
「ねぇ、美月、ちょっと報告したいことがあるの!」
「えっ? もしかしたら、例の件?」
由利がこっくんと首を縦に振ったとたん、美月の目がきらきらと輝きだした。
いつものごとく茶道部の顧問室に鍵を掛けて、由利は日曜日に起こった佐々木弁護士がした一連の話を語って聞かせた。
「え~。良かったじゃん! 大進展じゃないの、由利! で、それでDNA鑑定はいつすることになったの?」
「うん、佐々木さんが早速手配をしてくれたみたいで、日曜日の夜に連絡が入って明日の夜に鑑定の人がウチに来ることになってるの」
「そっかぁ。で、それってどれぐらいで判るの?」
「ん~。なんか一か月ほどだって。本当はもっと早く出るらしいけど、日本とフランスってふたつの国をまたいでいるじゃん? 念のため、フランスと日本のふたつの機関で鑑定してもらうらしいよ。結果はあたしのところに直接来るんじゃなくて、弁護士さんのところへ来て、その結果をあたしが聞くって感じらしい」
「へぇ、そうなんだ! その人がお父さんだったらいいよねぇ、由利。何かいい人っぽいじゃない?」
由利は一瞬無表情になったが、思い出したように顔が明るくなった。
「そんなことよりね、美月のアドヴァイスがすごく役に立ったの! 何と何と、さっき小山さんからメールが届いたんだよ」
「え、何て何て?」
「うん。これ見てよ!」
由利は自分のスマホを美月に渡した。
こんにちは、小野さん。
ボクが日本からベルリンへ来て、約三か月が経ちました。
加藤さんや、他の茶道部員の人たちが懐かしいです。みんな元気で新部長の鈴木さんについてお稽古に励んでいると確信しています。
さて、今回はぜひともお知らせしたいことがあったので、このメールを書いています。
ボクは十一月の頭にパリで行われるコンクールに向けて準備していたのですが、コンクールでのボクの評価は辛くも、一位なしの二位でした。
相変わらず演奏のスタイルについて指摘を受けていて、指導通りに弾いていればきっと一位だったと言われるのですが、仕方がない。ボクはどんなにピアノの大家であろうと根本的に自分の信念を曲げる指導は受ける気が無いので、この結果は甘んじて受け入れるしかありません。
いや実は、そんなことを小野さんに知らせたいために、メールしたのではありません。
ボクとベルリンの先生とが一緒にパリに行ってコンクールを受けたあと、かなり大きな規模のレセプション・パーティが開かれました。パーティの主旨はあまりコンクールとは関係なく、『多分野の芸術家たちの文化交流』ということでした。
招待を受けたのは各分野で活躍している芸術家で、音楽家はもちろんのこと、美術分野の画家や彫刻家、そのほか写真家、ダンサー、俳優、作家などいろいろな方面の芸術家が集まっていました。
そのパーティの席でベルリンの先生がボクの約束通り、フランス在住で、やはりピアノの大家で通っている知人に小野さんの手紙を見せました。
パリの知人はこの手紙を読んでもさっぱりと心あたりがないらしく、頭を傾げていました。
『科学者とはあまりつながりがないのでね。でも必要とあらばパリの十六区にあるこの研究所に、ラシッド・カドゥラ氏を捜して、ユリ・オノに連絡を取るように働きかけてもよい』と言ってくれたのです。
ですがそうこうしているうちに、ちょうど地方からパリに出張中でたまたまこのパーティに出席していた人が、先生たちの見ている写真がちょうど目に入ったらしく、驚いた様子で『ちょっとその手紙を見せてください』とひったくるようにして手紙と写真をもぎ取ると、しばらくの間、手紙と写真を代わる代わる穴が開くくらいじっと見つめているのです。
ボクはその人の切羽詰まった様子にびっくりしてしまいしたが、その人は『この手紙と写真のコピーをとらせて欲しい』と先生の許可を一応得て、どこかへ消えてしまいました。
三十分ほど経過したころでしょうか、その人はボクの先生に件の手紙を返すと『急に要件を思い出したから』といってそそくさとパーティの会場から去って行きました。
その人はボクの目から見れば歳の頃は四十代半ば、背の高さは平均的フランス人にしてはやや高く、百八十センチくらい。痩身の白人男性でした。目や髪は黒っぽい色で、そしてどことなく風貌が小野さんに似ているように思えたのです。
先生のフランスの知人に『あの人は一体誰ですか?』と尋ねても、『たまたまあなたと同じように、招かれた人と同行する形でパーティに来た人で名簿にも載っていないし、誰かから正式に紹介された人ではないから分からない』としか返事がありませんでした。ですがそれでも先生の知り合いは親切な人で、パーティ会場であちこちの人にその人が誰かを訊いて廻ってくれました。
その結果『どうも画家で、どこかの都市のエコール・ド・ボザール(美術大学)で教鞭をとっている人ではないか』という話でした。
それでボクは思い出したのですが、この人が小野さんの探していたお父さんであるとすれば、あれほどに鋭い小野さんの美的感覚は、やはりお父さん譲りのものだったのだと合点がいくような気がしました。
小野さんをぬか喜びさせたあとで失望させたくないので、あまり断定的なことは言えないのですが、その人はたしかに手紙を見て驚愕していました。しかしその驚きの中には、隠そうとしても隠しきれぬ喜びの表情が入っていたようにボクには見受けられたのです。
その人から何らかの連絡が小野さんのほうにあればいいのですが。ものごとがよい方向へ行くことを願っています。
それでは元気で。 ボクもセンター試験には間に合うように日本へ帰国するつもりです。茶道部のみんなにもよろしくお伝えください。
ごあいさつがてらお知らせまで。
小山 薫
「何これ、何これ! どういうこと?」
美月は感動のあまり、スマホを持って顧問室の中を踊るようにくるくると駆け回った。
「やっぱり、この人、十中、八九、由利のお父さんなんじゃないかな!」
「うん。そんな気がする。たしかに小山さんの言う通り悪い人じゃなさそうな感じはするけどさ。だけどさ」
「何、由利?」
「お母さんとはどんな別れ方をしたのかはよく分からないけど、たとえうちのお母さんと恋仲である間は誠実な恋人だったとしてもさ、別れて十六年以上経っているんだよ。もうとっくに奥さんや子供がいるのかもしれない」
「でもよ、由利! その人のほうからがDNA鑑定したいって言いだしたんでしょ? 決して悪い方向には行かないんじゃない? たとえ法的に親子関係になるとかそういうんじゃなくても、その人と血の繋がりが確認できたら、由利ははっきりとした自分の父方のルーツが判るわけじゃない。それはそれでいいと思うよ」
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「おじいちゃん、大丈夫? タクシー乗り場まで歩ける?」
由利は心配そうに祖父に訊ねた。
「申し訳ありません。弁護士さん。えろうご迷惑をかけてしもて。由利、大丈夫や。明日になったら病院へ行くさかい。今、救急へ行ってもやな、大学出たての半人前の当直医しかおらんやろうし」
佐々木と由利が辰造の両端に立って身体を支えながら、ゆっくりとした足取りで一階までエレベーターを使って降りてから車回しまで行って、タクシーに乗り込んだ。
「由利さん、ひとりで大丈夫ですか?」
佐々木は心なしか心配そうに言った。自分にも由利と同じような年ごろの娘でもいるのだろう。
「あ、はい。とりあえず家で様子を見てみます。何かあれば家の近くには京都第二日赤病院の救急センターもありますから。でもたぶん、そんな大ごとにはならないと思います。佐々木さん、本当にお世話になりました」
「由利さん、気をつけてね」
佐々木はたかだか十六歳の少女にしか過ぎない由利の大人びた冷静な態度に、いい意味でも悪い意味でも感心しているようだった。
「今日はありがとうございました」
由利はタクシーの中から頭を下げて礼を言って、佐々木弁護士と別れた。
車窓から外を見れば、街はクリスマスシーズンに突入したのか、金銀の華やかなデコレーションで飾られていた。
「ふう、もうクリスマスか・・・。季節が過ぎるのって早いね・・・」
月曜の午前中は祖父に付き添って、近くにある行きつけの内科診療所へ行った。
「ふん・・・。まぁ、風邪だね。それに夏バテしてたんじゃないですかねぇ。暑い、暑いっていっているうちに、急にストーンと気温が下がったしね。だいたいの人は身体がついていけなんだよね」
いつも世話になっている先生はそう診断をくだした。
「よかったぁ。おじいちゃん。風邪だって」
それを聞いて、由利はほっと一息ついた。辰造も医師の見立てを聞いて安心したのか、軽口をたたいた。
「最近は地球温暖化の影響なのか、季節は夏と冬ばっかりになって、春と秋がなくなってきとるからねぇ」
「ま、お薬出しときます。あとは二三日、ゆっくり養生して身体を休めてください。小野さん、あんたもトシなんだし、いつまでも若いつもりでいたらあかんで」
先生は笑いながら辰造に釘を刺した。
由利は途中でパン屋によってサンドイッチと野菜ジュースを買ってから、学校へ出かけた。ちょうど四時間目が終わったらしく終業のチャイムが鳴った。
後ろの席に座っていた常磐井は戸口に入って来た由利に気づいたのか、さっと鋭い視線を向けたが、それだけだった。何の感情も浮かべることなくすっと立ち上がり、目も合わすことなく由利の脇を真っすぐに通り過ぎるとと、学食のほうへと向かって行った。
努めて何気ないふりをしてその姿を見ていたが、由利は瞬間的にこの間の船岡山で交わした熱い抱擁と焦れた相手の表情が思い出され、体中にカッと熱い血が駆け巡るのを感じた。
常磐井は、今はこんなに冷たい表情をしているけど、それは単に由利の愛情を失いたくないがために演じている擬態にすぎない。何しろ人前では他人のふりをしろと常磐井に命じたのは由利なのだから。
教室の外から田中春奈が常磐井を呼び止めている声が聞こえる。
「常磐井くぅーん」
春奈のやけに甘ったれた声が響く。
「ん? 田中か? 何?」
いつものように、常磐井のそっけない声が聞こえる。
「常磐井くん、学食へ行くの?」
「うん、そうだけど?」
「あたしも購買へ行くから、途中まで一緒に行こ?」
「あん? ま、いいけど」
常磐井は春奈の誘いにまんざらでもない顔をして応じていた。そのふたりの後ろ姿を、由利は振り返って意地悪く見ていた。
ーきっとあの人の心は、今ここにいるあたしのことでいっぱいなはず。春奈が誘えば常磐井は、デートぐらいは付き合うのかもしれない。あたしに感じた欲望を代わりに春奈で満たそうと、それ以上のこともするかもしれない。だけど単にそれだけのこと。圧倒的な力を誇る彼も、結局あたしに勝つことができないー
ひとりの人間の心を征服し屈服させて従わせてしまう自分に、ほの暗い喜びを覚えて有頂天になっていた。そして頭のてっぺんからつま先に至るまで、身体中が耐えがたい甘いうずきに支配されて、由利はふるえた。
「由利」
ぼうっとしていると、美月が声を掛けて来た。
「あ、美月。おはよ」
「どうだったの、おじいちゃんの様子は?」
「うん。風邪だって。大したことなくて良かった」
「そっか~。一安心だね。昨日LINEもらったときは心配しちゃったよ。うちのお母さんに言ったら、『由利ちゃんひとりじゃ大変だろうから』って、夕飯前にお惣菜をたくさん作って由利んちへ持って行くって。レンジでチンしたら食べられるように全部しておくってさ。だから家に帰ったらまず冷蔵庫を点検してねって」
「えっ? 芙蓉子さんが? 芙蓉子さんだってお家の仕事で忙しいだろうに。何か申し訳ないなぁ」
「まぁさ、相手はベテラン主婦ですから。たまには頼ってもいいんじゃない?」
「ありがと、いつも美月と芙蓉子さんにはお世話になりっぱなしで」
「いいよ。そんなこと。うちのお母さんも好きでやってるんだしさ」
突然、由利の表情が明るくなった。
「ねぇ、美月、ちょっと報告したいことがあるの!」
「えっ? もしかしたら、例の件?」
由利がこっくんと首を縦に振ったとたん、美月の目がきらきらと輝きだした。
いつものごとく茶道部の顧問室に鍵を掛けて、由利は日曜日に起こった佐々木弁護士がした一連の話を語って聞かせた。
「え~。良かったじゃん! 大進展じゃないの、由利! で、それでDNA鑑定はいつすることになったの?」
「うん、佐々木さんが早速手配をしてくれたみたいで、日曜日の夜に連絡が入って明日の夜に鑑定の人がウチに来ることになってるの」
「そっかぁ。で、それってどれぐらいで判るの?」
「ん~。なんか一か月ほどだって。本当はもっと早く出るらしいけど、日本とフランスってふたつの国をまたいでいるじゃん? 念のため、フランスと日本のふたつの機関で鑑定してもらうらしいよ。結果はあたしのところに直接来るんじゃなくて、弁護士さんのところへ来て、その結果をあたしが聞くって感じらしい」
「へぇ、そうなんだ! その人がお父さんだったらいいよねぇ、由利。何かいい人っぽいじゃない?」
由利は一瞬無表情になったが、思い出したように顔が明るくなった。
「そんなことよりね、美月のアドヴァイスがすごく役に立ったの! 何と何と、さっき小山さんからメールが届いたんだよ」
「え、何て何て?」
「うん。これ見てよ!」
由利は自分のスマホを美月に渡した。
こんにちは、小野さん。
ボクが日本からベルリンへ来て、約三か月が経ちました。
加藤さんや、他の茶道部員の人たちが懐かしいです。みんな元気で新部長の鈴木さんについてお稽古に励んでいると確信しています。
さて、今回はぜひともお知らせしたいことがあったので、このメールを書いています。
ボクは十一月の頭にパリで行われるコンクールに向けて準備していたのですが、コンクールでのボクの評価は辛くも、一位なしの二位でした。
相変わらず演奏のスタイルについて指摘を受けていて、指導通りに弾いていればきっと一位だったと言われるのですが、仕方がない。ボクはどんなにピアノの大家であろうと根本的に自分の信念を曲げる指導は受ける気が無いので、この結果は甘んじて受け入れるしかありません。
いや実は、そんなことを小野さんに知らせたいために、メールしたのではありません。
ボクとベルリンの先生とが一緒にパリに行ってコンクールを受けたあと、かなり大きな規模のレセプション・パーティが開かれました。パーティの主旨はあまりコンクールとは関係なく、『多分野の芸術家たちの文化交流』ということでした。
招待を受けたのは各分野で活躍している芸術家で、音楽家はもちろんのこと、美術分野の画家や彫刻家、そのほか写真家、ダンサー、俳優、作家などいろいろな方面の芸術家が集まっていました。
そのパーティの席でベルリンの先生がボクの約束通り、フランス在住で、やはりピアノの大家で通っている知人に小野さんの手紙を見せました。
パリの知人はこの手紙を読んでもさっぱりと心あたりがないらしく、頭を傾げていました。
『科学者とはあまりつながりがないのでね。でも必要とあらばパリの十六区にあるこの研究所に、ラシッド・カドゥラ氏を捜して、ユリ・オノに連絡を取るように働きかけてもよい』と言ってくれたのです。
ですがそうこうしているうちに、ちょうど地方からパリに出張中でたまたまこのパーティに出席していた人が、先生たちの見ている写真がちょうど目に入ったらしく、驚いた様子で『ちょっとその手紙を見せてください』とひったくるようにして手紙と写真をもぎ取ると、しばらくの間、手紙と写真を代わる代わる穴が開くくらいじっと見つめているのです。
ボクはその人の切羽詰まった様子にびっくりしてしまいしたが、その人は『この手紙と写真のコピーをとらせて欲しい』と先生の許可を一応得て、どこかへ消えてしまいました。
三十分ほど経過したころでしょうか、その人はボクの先生に件の手紙を返すと『急に要件を思い出したから』といってそそくさとパーティの会場から去って行きました。
その人はボクの目から見れば歳の頃は四十代半ば、背の高さは平均的フランス人にしてはやや高く、百八十センチくらい。痩身の白人男性でした。目や髪は黒っぽい色で、そしてどことなく風貌が小野さんに似ているように思えたのです。
先生のフランスの知人に『あの人は一体誰ですか?』と尋ねても、『たまたまあなたと同じように、招かれた人と同行する形でパーティに来た人で名簿にも載っていないし、誰かから正式に紹介された人ではないから分からない』としか返事がありませんでした。ですがそれでも先生の知り合いは親切な人で、パーティ会場であちこちの人にその人が誰かを訊いて廻ってくれました。
その結果『どうも画家で、どこかの都市のエコール・ド・ボザール(美術大学)で教鞭をとっている人ではないか』という話でした。
それでボクは思い出したのですが、この人が小野さんの探していたお父さんであるとすれば、あれほどに鋭い小野さんの美的感覚は、やはりお父さん譲りのものだったのだと合点がいくような気がしました。
小野さんをぬか喜びさせたあとで失望させたくないので、あまり断定的なことは言えないのですが、その人はたしかに手紙を見て驚愕していました。しかしその驚きの中には、隠そうとしても隠しきれぬ喜びの表情が入っていたようにボクには見受けられたのです。
その人から何らかの連絡が小野さんのほうにあればいいのですが。ものごとがよい方向へ行くことを願っています。
それでは元気で。 ボクもセンター試験には間に合うように日本へ帰国するつもりです。茶道部のみんなにもよろしくお伝えください。
ごあいさつがてらお知らせまで。
小山 薫
「何これ、何これ! どういうこと?」
美月は感動のあまり、スマホを持って顧問室の中を踊るようにくるくると駆け回った。
「やっぱり、この人、十中、八九、由利のお父さんなんじゃないかな!」
「うん。そんな気がする。たしかに小山さんの言う通り悪い人じゃなさそうな感じはするけどさ。だけどさ」
「何、由利?」
「お母さんとはどんな別れ方をしたのかはよく分からないけど、たとえうちのお母さんと恋仲である間は誠実な恋人だったとしてもさ、別れて十六年以上経っているんだよ。もうとっくに奥さんや子供がいるのかもしれない」
「でもよ、由利! その人のほうからがDNA鑑定したいって言いだしたんでしょ? 決して悪い方向には行かないんじゃない? たとえ法的に親子関係になるとかそういうんじゃなくても、その人と血の繋がりが確認できたら、由利ははっきりとした自分の父方のルーツが判るわけじゃない。それはそれでいいと思うよ」
2019-11-23 20:03
nice!(2)
コメント(6)
バタバタしていて読むのがいつもより遅くなってしまいましたが、ありがとうございます〜今回もまた進展が! 小山さんの頑張りも嬉しいです。ちょっと由利ちゃんが悪女な気分になっているようなところは気になりますが、季節とともに少しずつ父親の謎も解明されるのかな、とドキドキしています。あとおじいちゃん、お大事に!(笑)
冬の京都の描写も楽しみです。また1週間後をワクワクしながら待っております。
どうぞお身体に気をつけて下さいませ。
by おかもん (2019-11-23 22:21)
おかもんさま
いつもいつもありがとうございます!!
ここにUPしてすぐに感想を毎回書いてくださる人ってそうそういらっしゃらないんですよねぇ~。
感謝していますし、本当にうれしいです。
さて、話は後半になってどっと動くんですよね。
小山さんは誠実な人で、きちんと頼まれたことをやってくれた人なんですよねぇ。
由利のこういうところは、実はわたくしめの実体験をもとにしているんですよねぇ。(笑)
わたし、こういう風に男の子を支配するのが好きでした。
とはいえ、こういうふうにほの暗い喜びに満たされる状態っていうのは、実を言えば由利がそうとう常盤井に惹きつけられているってことなんですよね。
こういう障害をわざと二人の間につくることによって、より恋愛が甘美になるんですよね。恋愛が燃え上がるのは障害があればこそって、由利は本能的にわかっていたんでしょうね。
次回はそういった意味で、動きがありますね。
楽しみにしていてください!
いつも応援ありがとうございます!!
by sadafusa (2019-11-24 09:14)
由利ちゃん、ちょっと魔女っぽい。前世で女御だったからでしょうか、男性の心を惑わすのもお手のものですね。
恋というのはやっぱり身体を交えないうちが華だよなあと思います。身体の関係が入ってしまうとどうしても女に受け身の要素が芽生えがちだしね。
お父さんは画家でエコール・ド・ボザールの先生なのかなあ?
展開が常に楽しみです。
by Yui (2019-11-25 18:52)
Yuiさま
おはようございます。
由利のこういった手練手管っていうのは、まぁ、地のものなのでしょうね。前世の影響かもしれないです。
そうそう、カラダのつながりができるとね、女ってどうしても身体の構造上、受け身になるっていうか、男がどうしても攻めになるでしょう?
これまで自分でさえも知らなかった未知の領域へ他人の身体の侵入を受け入れることだから、どうしても気分は「侵された」ってなりがちだと思うんですよ。
男のほうは「所有した」って気持ちになるだろうし。
そこでもう、勝負があったっていうか。
でも、男っていうのは、そういったわかりやすいエサに飛びついてくるでしょう?
そこを上手に操作してやると、女が上位に立てるわけですね。
株でいうところの信用取引のようなものでしょうか?
株の値段が下がっていてもそれを逆手にとって儲けることができるという…。(はまり方が半端ないような…)
お父さんは芸術家でした。美大の先生もしているみたいです。
由利は資質的にはお母さんではなくて、お父さんの血が濃いようです。
これからはドトーの展開ですよ。(笑)
by sadafusa (2019-11-26 11:41)
>男性の「所有した」って感覚。
これはねえ、その通りなんでしょうね。よく車に例えられますのね、女を。こういうのは私もすごい違和感なんだけど。カッコいい車を所有するのが好きっていうのは単純な征服欲だよね。
フランスの美大の先生かぁ。これは見知った知識なんですが、フランスのエコール系の給与は日本の大学の専任の先生と比べるととても低いそうです。だいたい社会的に成功してからエコールに呼ばれるので一種の名誉職みたい。フランスの給与体系自体、日本とはかなり異なるみたいです。例えばインフルエンザにかかると自動的にに3週間休みになり、その間は無給になって失業手当てがもらえるそうです。その間の仕事は職場が代わりの人を3週間雇うということです。正社員と非正規の区別がないようです。休みが取りやすいという点では羨ましいです。
by Yui (2019-11-27 09:19)
Yuiさま
そうなんですよね。おっしゃる通りです。
うちの娘の美大の講師枠も非常に厳しく、教授として招聘された人ならともかく、講師だと期間が2年に限られているそうです。ただ講師はいい先生を引き抜きたいので、年収だけはいいそうです。でも2年間だけですからねぇ。
ここからネタばれかも…???
設定としては、由利のお父様は、いいおうちのお坊ちゃまなんですよ。お父さんが移民一世なのですが、商売に成功していたのですね。だから、息子には画家という道楽をさせてやれるだけの余裕があったということにしています。
絵だけで食べていけるほど、フランスの社会も甘くないと思いますね。
by sadafusa (2019-11-27 19:21)