境界の旅人 34 [境界の旅人]
みなさま、こんにちは~!
寒くなってきましたね。本格的な冬の到来ですね~。
今回は本来のボリュームの二回分を一挙に掲載することにしました。
というのも、事件はクリスマスを境に起きるからです。
やはり読んでいるほうも季節にリンクしながらよんだほうがいいかなと思いました。
結構長いけど、頑張って読んでください!
第九章 悪夢
1
ただの風邪だと診断されたわりには辰造の症状は一進一退をくりかえし、いつまでもぐずぐずと治らなかった。
その日も由利が学校から帰ってきてから一緒にとった晩御飯にも達造はほとんど手を付けず、時間が経つごとにだんだんと具合が悪くなり、ついに十時ごろには熱も上がり始めた。体温計で熱を測ると三十八度を越していた。
「うわ、すごい熱だよね。どうしよう? 病院へ行こうか、おじいちゃん?」
「まぁ、由利。三十八度やったら、まだ病院へ行くこともないわな。はぁ、歳をとるっちゅうことは、こういうことなんやなぁ。ポンコツやぁ。由利。どもない、どもない」
祖父はひとりで心細い孫娘の気持ちが解っているらしく、熱が高くても安心させようとした。
「こんなときはどうしたらいいんだっけ?」
由利はとりあえず、「風邪 熱が高い時の対処法」と検索した。
『熱があるときの身体は、健康時よりさらに多くの水分を消費しています。なので水分を必要としてる身体にすばやく浸透するように作られているスポーツドリンクを補給しましょう』
「ああ、やっぱり湯冷ましなんかより、スポーツドリンクを飲ませるのがいいのか・・・。もうすぐ十一時だから、コンビニで買うしかないか」
由利は普段着の上から厚手のダッフルコートを羽織り、近所のファミマへと向かった。
そこでコンビニの壁に備え付けてある冷蔵庫の戸を開けて、五百ミリリットルサイズのスポーツドリンクを一端手に取ってから、ふと考えた。
「こんなふうにキンキンに冷えたのを飲ませると、おじいちゃんのようなお年寄りにはかえって身体に負担をかけるかもしれない」
思い直すと由利は、常温で保存されている棚へ行き、ポカリスエット、DAKARA、アクエリアスなどいろいろな商品をまんべんなく買い物かごの中に入れた。それからレジへ行ってお金を払うと外へ出た。
ところが外の光景はまたいつぞやと同じように変わっていた。
またもや由利はタイムスリップしていた。
やはりこの前と同じように時間は夕方だった。だがこちらの側の世界も由利の住んでいる世界と同じく、季節は夏ではなく冬に移行している。買い物かごを下げている主婦も会社帰りの男性も、行きかう人はみな寒そうに首をすくめ外套の前を深く掻き合わせて、せかせかと足早に由利の前を通り過ぎて行った。
その傍を当たり前のようにチンチン電車が、警笛を鳴らしながら通り抜けていく。しかし驚いたことに電車はどうやら中でトラブルが起こっているようだった。何を話しているのか通りにいる由利の耳にはつぶさには判らないが、何か人が言い争っているような怒号が響いてくる。
由利がその異常さを感じ取って恐怖に目を見開いていると、やがて電車はスピードを落とすことなく突っ込むよう堀川へ走って行った。そして橋梁のところでカーブを曲がり切れず、大きくガタンガタンを車体を左右に揺れらすと、真っ逆さまに川に突っ込んだのだ。
電車が崩れる爆音とともに電車の中の乗客の絶叫がこちらにもが響いて来た。
「!」
由利は口に手を当てて、信じられぬ思いで目の前で起こった惨劇を見ていた。
「何てこと・・・」
しばらくすると、そこらへんに住んでいる人たちで辺りは人だかりができた。
ほどなく半被に消防帽をかぶった地元の自警団の人々や消防団員や警察官が、何十人もわらわらと走ってきて、電車の中に閉じ込められている人を必死になって外へ出すために救出作業をしていた。川の流れに入った自警団の人々が、ジャッキを使って閉まっている電車の戸を無理やりこじ開けると、人々がうめきながらが折れ重なるように倒れている。
「おーい! 戸が開いたぞ! 中にいる連中を運べ!」
何人もの警察員が総出になって、次々と担架に人を乗せていく。担架はどこで集めてきたのか五、六個ほどあった。その中には物干しざおに毛布を掛けた、どう見ても即席で作られたものとおぼしきものも混じっていた。
中には自力で電車の窓からから這い出てくる人間もいたが、電車の底になったところから折れ重なる人々の下敷きになっている人もかなりいる。
電車が橋梁から落ちたこともそれなりに衝撃だったが、それ以前にこの電車は満員だったことがさらにこの事件を悲惨なものにした。
周りにいた人の中には、家人の安否を必死になって確かめようとしている人も大勢いた。
「早く、早く! うちの人を助けて!」
「お母ちゃん!」
人々の泣き叫ぶ声が由利の耳にもリアルに届く。それはさながら阿鼻叫喚の地獄のさまを呈しているかのようだった。
そうこうしているうちに電車の中から五、六人の進駐軍のGIが他の人々を押しのけ、われ先ともがくように戸口から飛び出して来た。
それぞれに体格はよいが教養も品格もないのは一目瞭然で、いかにもプア・ホワイトの階層の人間が駆り出されて日本に来たように由利の目には映った。
彼らは口々に「damn it!(ちくしょう)」といまいまし気に悪態をついていた。
GIらをいぶかし気に見つめていると、その中のひとりが日本人にしては上背のある由利に声を掛けてきた。
「Hey , beautiful girl, com’on!(よう、かわい子ちゃん、こっち来な)」
それを聞くと由利は怒りが込み上げて来て、思わず言い返してしまった。
「Why don't you try to help these people? It is a shameful thing to do nothing(どうして助けようとしないのよ? 恥ずかしいとは思わないの?)」
「アッ、オー。 Fuckin’ Jap girl ! (日本の腐れアマが!)」
由利が啖呵を切ったのを聞いて、その中のひとりはこれ以上ないほど汚い言葉で由利をののしって行ってしまった。
由利が恐る恐るその人垣の中へ入っていくと、自分には夏にかたくなな表情を見せた曾祖母にあたる人が血相を変えた顔で、泣きながら電車に向かって呼びかけていた。
「康夫! 辰造! お母ちゃんやで! いるんなら返事しいや! やっちゃん! たっちゃん!」
曾祖母は狂ったように叫んでいる。かなりの人が大けがをしていたし、中には救出される前にすでに亡くなった人もいたようだった。
担架を担いできた自警団の男の人が、用意されたむしろの上に小さな子供ふたりの身体を並べ、その顔に白い布を掛けようとしていた。
それは祖父の辰造とそのすぐ上の兄に違いなかった。
曾祖母は自分の小さな息子たちを見ると、はじかれたようにそこへ躍り出た。
「あんた、何すんねん。その子らは死んでなんかいいひんで! そんな縁起でもないもん、掛けんとってや! たっちゃん。お母ちゃんが迎えに来たで。もう安心や。ほら、やっちゃん! 眠っとらんと目を覚ましい」
狂ったように曾祖母は、ふたりの子供の身体をゆすっていた。
「奥さん! 奥さん! しっかりしいや。もう坊(ぼん)らは息をしとらんやないか。気をしっかり持たんとあかんえ。奥さん!」
半狂乱になっている曾祖母は、そこから離れようとしない。
「ええ、あんたら何を言うとるんや! そんなはずあるかいな! さっきまで元気に跳ね回っとったんやで! うちは子供を家に連れて帰ろう思(おも)てるのに、何するんや!」
そこへ白衣を着た医者らしい人が来て、辰造たちの手を取って脈を診た。
「先生、どうですか? うちの息子らは? また元気になれるんやろ? さあ、やっちゃん、たっちゃん。ほれ、起きや。お母ちゃんと家に帰るんやで」
曾祖母は目の前の現実を認めることができずにそう言った。隣の家の年配の夫婦が医師に言った。
「この人の旦那さんはまだ出征中でして、まだ戻ってきいひんのですわ。うちらが責任もって何とかしますさかい。先生、申し訳ありまへん」
「うん。そうか、この奥さんは一度にこないな可愛い坊らを失のうてしもたんや。ほんまにお気の毒なことやったな・・・。しばらくは正気が戻らんかもしれへん。あんたらもご苦労なことやけど、隣のよしみで、よくこの奥さんの面倒を見たってくれへんか」
「へぇ、先生」
医師は他にもたくさんの死者やけが人が待っているので、曾祖母ひとりにはかかずらわっている暇がなかった。ちらりと憐憫のこもったまなざしで泣き崩れる祖母を見ると、その場を立ち去って行った。
由利はその一部始終を見て、戦慄した。
ーこれは一体どういうこと? おじいちゃんが死んでしまった!
そのとき、周りを囲んでいた人々の中からひとり、由利に声を掛けて来たものがいた。
「あんた、アメリカさんやろ?」
「えっ?」
戦後すぐの日本人から見たら、コーカソイドの血を受けついている者はことごとく皆、アメリカ人だった。
「あいつらやで。さっきのGIが、運転手にちょっかいをかけて来よったんや」
その男はどうも電車にいて助かった人らしかった。
「あいつらさえ、勝手し放題しいひんかったら、こないなことにはならんかったんや。ほれ、見てみい! あんな小さい子供まで、巻き添えを食って死んでしもうたやないかい!」
人々の憎悪が一身に由利へと向かった。
「戦争に勝ったからって、何してもええと思とるとちゃうんか!」
「アメリカはこの国から出て行け!」
「せや、せや! アメリカは出て行け!」
由利は後ずさりしながらその輪から離れると、面罵されたことに耐え切れずに泣きながら、中立売橋を後にして一条戻橋へと駆けて行った。
由利は一条戻橋の前に立ち、以前三郎に言われたことを思い出した。
『この橋はこの世とあの世を繋ぐ橋なんだ。昔からおまえみたいな人間っていうのは一定数いたらしいな。この橋はそのためのツールさ。そういう場合はこの橋を通れば、また元の世界に戻れる』
あのとき、三郎は由利にそう教えてくれた。
由利は恐る恐る橋を渡った。
渡り切ると三郎が以前言った通り、由利はもとの世界に戻っていた。
「やっぱり三郎の言っていたことは正しい。とすると元の世界に戻るときは必ずこの一条戻橋を渡ればいいんだ」
原因を突き止めたいと思う気持ちと同時に、過去に子供の状態で死んでしまった祖父は今の世界で一体どうしているのかが気になる。気がつけば由利はまたもや家のほうまで駆けだしていた。
家に戻ると祖父はさっきと同じように床に臥せって寝ていた。
「あ、良かった・・・」
ふうっと大きく由利は安堵の一息ついた。
「おじいちゃん、具合はどう?」
それまで辰造はうつらうつらと眠っていたようだが、由利の声で目が覚めたようだ。
「あ、由利か」
「おじいちゃん、これ。熱があるときはスポーツドリンクを飲むといいんだって。とりあえず買ってきたから飲んでみて」
「おお、そうか。おおきに、おおきに」
由利が祖父の肩を持って起き上がるのを手伝った。
「おお、熱があるときはこういうもんが何や知らん、飲みやすいわ」
辰造はおいしそうにゴクゴクと飲んでいた。
由利は抱き起こしたときにつかんだ祖父の身体が、以前と比べてやけに軽いような気がした。
「おじいちゃん、朝になったら病院へいこうね。今晩だけはちょっと辛抱してね」
自分の部屋に戻った由利は、蒲団の上にばたんと転がった。身体は疲れていたけれど、興奮していてとても眠れるどころではない。
寝ころびながら、これまでの一連の事件の起こった経緯のことを反芻した。
「どうしてあんな事件が起こったんだろう・・・。あたしが過去に介入しすぎたから? そもそもどうしてあたしがさっき、タイムスリップすることができたんだろう・・・」
由利は頭を抱えて、夏のときと今回のタイムスリップの類似点を思い出そうとした。
「えっと、夏にタイムスリップしたときはどうしていたんだっけ? そうそう、あたしは一学期の期末試験の勉強をしていて・・・、そうだ、英語のスペルを練習していたんだった。そのとき赤ペンの芯がなくなって、コンビニに買いに行ったんだったっけ?」
しばらくじっと天井の木目を見つめたまま、自問自答をしていた。
「そう、あのときも夜遅く出かけたんだった。場所はやっぱり同じファミマだった。じゃあ場所も同じだし、タイムスリップする条件として当てはまるものはやっぱりファミマっていう場所と特定の時間なのかな?」
由利は仰向けになった身体を反転させて、今度は両手に顔を載せた。
「あのときは何時だったっけ? 十二時前? いや、もっと早い時刻だったはず。たしかあのとき、お店の中はあたしと店員のふたりだけでがらんとしていた。日をまたいでいるわけでもないのにって、それがなんか変だなって思ったんだよね」
蒲団の傍に置いてあるスタンドの電球をじっと見つめながら気持ちを集中させた。
「さっき、おじいちゃんは十時頃に具合が悪くなってきたんだった。熱いとか寒いとか言い出したのよね。体温を測ったら三十八度あった。スポーツドリンクが発熱した身体に良さそうと思って、それでコンビニに出かけようと思ったのよ。そのときでせいぜい十時四十五分ぐらい・・・。コンビニは家から五分ぐらいのところだし、着いて十時五十分、それからスポーツドリンクを買って・・・。店から出たのは十一時ぐらいだったはず・・・!」
由利はガバっと蒲団から跳ね起きた。
「そうよ、そういえば夏にタイムスリップしたときだって、ちょうどそれぐらいの時間だった。タイムスリップする条件は、おそらくコンビニの場所と時間なんだわ!」
2
翌日、由利は祖父を連れて近くの診療所まで行った。
「別段、こうどこが悪いってこともなさそうなんだけどねぇ・・・まぁ、すこし喉が腫れてるかなぁ」
医師は辰造の身体に聴診器を当てて頭を傾げていた。
「先生、わしもここんとこ、ゴタゴタ続きだったんで、ちょっと緊張して疲れていたんですよ」
「ハハ、小野さん、あんた、その歳で知恵熱かい? ハハハ」
先生がおかしそうに笑った。
「せやけど、こう、ちょくちょく体調を壊しておったんじゃなぁ・・・。お孫さんやって、毎回小野さんに付き添ってこんなふうに遅刻ばっかりさせたら可哀そうやで」
「いえ、あたしはちっとも構いません」
由利は遠慮がちに小さく手を横に振った。
「いや、そんなことないやろ。由利ちゃん、あんたもしっかり勉強せなあかん立場やで。高校生のときに学んだことは一生の財産になるんや。生涯の基盤やで」
由利を諭すように先生は言った。
「小野さん。一度、きっちり病院へ行って検査を受けてみはったらどうです? 車かて車検ちゅうもんもあるやろ」
「いいや、先生。わしと車を一緒にせんといてください。人間は車と違うて悪いところがあっても、部品の取り換えは不可能ですわ。それにわしはもう、子供ン頃から病院ちゅうところは、かなん。人間どうせ、いつかは死ぬ。死ぬときは死ぬときですわ」
「まぁ、あんた、そんな子供みたいな聞き分けのないことを言わんと」
「いや、先生、わしはいいですわ。今度も熱さましを出しといてくださいよ」
「そうですかぁ、まぁそんなら小野さんの言う通りにしときまひょ。一応頓服出しておきますわ。でも何かあったら、すぐに来てくださいよ。我慢は禁物でっせ」
最近はこの手のわがままな老人に手を焼いているのか、先生は辰造には強く検査を勧めなかった。
「わかっとる、わかっとります」
「ほなら、小野さんお大事に」
無事に祖父を家に送り届けると由利は、自転車のカゴに通学カバンを入れ、学校へと向かった。
堀川通りを北上している途中で信号が赤に変わったので、由利は歩道の手前で停車して待っていた。
いつもと変わらぬ見慣れた風景だが、東西に走る道路を挟んで向かい側の建物を見て違和感を覚えた。
「あれ? あの建物って、ああだっけ?」
しかしその建物は、古い建物が取り壊されて新しく建て替えられたものでもなく、ずっと昔からこの街にあったようにそれなりに古びている。
「うーん、なんか変だなぁ」
信号が赤から青に変わったので由利はそれ以上考えることもなく、そのことは学校へ行く前にきれいさっぱりと忘れてしまった。
だがこのとき感じた由利の違和感は、単なる気のせいではなかった。
「場所と時間さえ一致すれば、向こうの世界へ行けるとすれば、今夜だって可能なはず!」
由利は夜の十時四十五分ぐらいに寒くないように、オーバーを来て、ファミマへと出かけようとした。玄関でスニーカーのひもを結んでいると、辰造が心配げに玄関へやって来た。
「由利、もう真夜中やで、どこへ行くんや?」
「うん、コンビニ。ちょっと買いたいものがあるの」
「ふうん、そうかぁ。気を付けて行きや。遅くならんようにな」
昔人間の辰造は本来なら、たとえ近くのコンビニであろうと、夜中の若い娘のひとり歩きは許せるものではなかった。だが無下に「行くな」と怒りつけたところで孫娘は反感を募らせるだけだろう。辰造は玲子のことで懲りていた。
「うん。すぐに帰って来るから、大丈夫だよ」
由利は祖父に疑いを持たれぬように、何気なさを装って外へと出た。
好奇心と恐れがない交じって、心臓がバクバクしている。
「また、あっちの世界に出たら・・・。もし、電車がもう一度自分の前に通り過ぎたら」と思うと、由利は緊張してきておかしくなりそうだった。
店の中へ入って雑誌を取って読むふりをして、十一時になるのをじりじりしながら待った。そして十一時ちょうどになるのを見計らうと、由利は弾かれたように戸口へと向かった。
目をぎゅっとつむったままコンビニの扉を抜けて外へ出ると、眼前の堀川通りは相変わらず車が行き来している。
赤く流れていく車のバックティルを見ているうちに、ほっとした気持ちは次第に失望へと変わっていた。
「あっちの世界には行けなかった・・・ 何が悪かったんだろう・・・?」
由利は何気なくコンビニの戸口のほうへ向けると、思わず自分の目を疑った。何度も何度も瞬きをして見ていたが、何も変わらない。
ここにあったコンビニはたしかにずっとファミリー・マートのはずだった。なのに今はどういうわけか、セブン・イレブンに変化している。
「ええっ?」
信じられない気持ちで再びコンビニの中へ入ると、さっきと同じ店員がきょとんとした顔で由利を見ていた。たださっきと違うのは、店員の制服もファミマのものからセブンのものへと変わっていることだった。
「ここって、昔っからセブン・イレブンでしたっけ?」
由利はつい、店員に心に思っていたままの単刀直入な質問をしてしまった。
「あ、僕が知る限りでは、ここは昔からセブン・イレブンですが・・・」
大学生ふうの店員は妙なことを質問する由利を不審な目で見ながら、それでもきちんと答えてくれた。それを聞いて、また由利は表へと走り出した。そしてスマホを取り出すと、常磐井へ発信した。
常磐井はすぐに電話に出てくれた。
「由利? どうした、こんな夜更に?」
「もしもし、常磐井君?」
気が付けば由利は涙を流していた。
「由利?」
「常磐井君!」
由利の尋常ならざる様子に常磐井もびっくりしたようだった。
「どうした、由利? 落ち着け。落ち着いて話をしてみろ」
「常磐井君、助けて! あたし、気が狂ったのかもしれない」
常磐井は由利が今、何かが原因で恐慌を来していることに気が付いた。
「由利、由利。今どこにいる?」
「今、家の外・・・」
「誰かに追いかけられているのか?」
「ううん、違う」
「怪我は?」
「してない、大丈夫」
「そうか。よし、分かった。今からおまえんちへ行くよ。だけどおじいさんはどうした?」
「ああ、おじいちゃん! そうだ、おじいちゃんのことがあった」
「とにかく急いで家へ帰れ。そしておじいさんにきちんと顔を見せるんだ。まずは安心させてやらないと。いいか、分かったな」
「う、うん。それからどうしたらいいの?」
「そしたら、おじいさんには用を足しに行くようなふりでもして、そっと部屋から出るんだ。ちゃんと寒くないようにコートを着て外に出てて。そのころにはオレはおまえのところへ着いているはずだから」
「うん、分かった」
「じゃあな、いったん電話は切るからな」
由利はスマホをポケットの中へ戻すと、一目散に家へ駆けて戻った。
祖父の部屋はすでに灯りが消されていた。
「おじいちゃん・・・ただいま。もう寝ちゃった?」
「うん、由利か。いや、今、電気を消したところや」
「ごめんね。ちょっと遅くなっちゃって・・・」
「まぁ、何事もなかったんなら、それでええわ」
「あたし、ちょっと美月に電話するから。うるさいだろうし、下でしてる」
「ん、まぁ、おまえもあんまり遅うならんようにな」
「うん、おやすみ」
由利はそのまま階段を降りてから忍び脚で玄関に行き、スニーカーを手に取るとそのまま玄関を出た。玄関でガサゴソ音を立てたくなかったからだ。
そっと引き戸を閉めて玄関を出たところで、由利はスニーカーをきちんと履くためにかがんだ。
「由利・・・」
目を上げると黒いヘルメットをかぶり黒い皮ジャンを着た人間がすっくと由利の前に立っていた。
「!」
いきなり暴漢のような人間が現れて自分の前に立ちふさがったので、由利は思わず悲鳴を上げそうになった。
「だめだよ、由利。悲鳴なんかあげちゃ。気づかれるだろ? オレだよ」
被っていたヘルメットを取ると、それは常磐井だった。
「と、常磐井君・・・? どうしてヘルメットなんか被っているの?」
「おまえ、オレがすたこらペダル踏んで自転車で来ると思ってた?」
「うん」
「ま、いいや。こっちに来なよ」
常磐井が尻餅をついていた由利の手を取って立ち上がらせた。その途中で常盤井の頭が唯の顔に近づいて行った。真っ暗な道でふたりは固く抱き合ったまま、しばらく彫像のように動かなかった。
しばらく行くと、堀川通りに黒いホンダのバイクが留めてあった。
「うわ、すごい・・・」
「うん。四百ccさ」
「何でもできるんだね、常磐井君」
「まぁな。オレ、誕生日が四月だからさ、夏休みに中型バイクの免許を取ったのさ」
「あんなに合宿、合宿で忙しかったのに! タフ!」
「ははは、頑丈なのがオレの一番の取柄かもな」
常磐井が笑うと急に、それまでの暗い雰囲気が吹き飛んだ。
「由利、さっきはどうしたんだ。泣いてたじゃないか」
「うん・・・。あのときは本当にびっくりして・・・」
「ねぇ、この先にファミリー・マートがあるの知ってる?」
「う、うん? そんなのあったかな?」
「ねぇ、今からそこへ一緒に行ってもらってもいい?」
「え、ああ、別にいいけど」
由利は常磐井に付き添ってもらってさっきにコンビニまで行った。しかし今度はやはり元の通り、ファミリー・マートに戻っていた。
「ええ? これって一体どうなっているの? あたし、頭がおかしくなったんだろうか?」
常磐井は由利がまたパニックになっているのを見て、気を逸らそうとした。
「まぁ、とにかくさ、こんなところで由利がぎゃあぎゃあ言っていても寒いばっかりだし、とりあえずファミマに入って何か温かいもんでも飲もうぜ。話は飲みながら聞くし」
店に入ると、店員は由利の顔をみて「また来たのか」というような顔をした。今度の制服はやはりファミリー・マートのものに戻っている。
由利は店員に再び質問をせずにはいられなかった。
「すみません、変なことを何度も言うようですが、さっきあたし『ここは昔からセブン・イレブンでしたっけ?』って訊きましたよね?」
「いえ、お客さま。『ここは昔からファミリー・マートでしたっけ?』って訊かれましたけど?」
店員はうんざりして、もういい加減にしてくれというような顔をしていた。
「あー、すンません」
常磐井は店員をとりなすように謝った。
「さてと、まぁ座って話を聞くわ。由利は何にする?」
「なんか甘くて温かいものがいい」
常磐井はレジに貼ってあるメニューを見て言った。
「んじゃ、キャラメルラテか、宇治抹茶ラテか、濃厚ココアか。どれにする?」
常磐井はのんびり訊ねる。由利はこんなときにさえ悠長に構えている常磐井を見ていらいらしていた。
「ん、もう。何でもいい!」
「じゃあ、キャラメルラテだな」
常磐井はさっさとレジでお金を払うと自分はブラックを頼み、セルフマシーンでカップにコーヒーの液体を落とし込んでいた。
「さあ、座りなよ。どうした? 初めから言ってみ?」
「初めから? すんごく長い話になるよ。それでもいいの? それにいくら常磐井君にしても信じられない話かもしれないけど・・・」
興奮して猛々しくなっている由利を見て、常磐井はなだめるように優しく諭した。
「いいよ。だって、由利がオレに話さないことには何も解らないだろ?」
由利は順を追って常磐井に語って聞かせた。
夏にタイムスリップしたこと、昨日も突然タイムスリップしたこと、タイムスリップした先の世界はどちらも戦後まもなくの世界であって、そこで幼児の祖父に出会い、昨日のタイムスリップでは、祖父は落ちると運命づけられていた電車に乗って、死んでしまったことを。
常磐井はコンビニに常設されたテーブルに肘をつきながら、由利の言うことにじっと耳を傾けていた。
「ふうん。おじいさんが死んじまうのはちょっとヤバいかもな。だっておじいさんがいなくなるってことは、由利や由利のお母さんがこの世界に存在しないってことだかんな」
常磐井はそれを聞いたあと、冷えてしまったコーヒーを一口飲んだ。
「そうよ! おじいちゃんがあのとき死んでしまったのが本当なら、当然、あたしはこの世に存在しない。それにおじいちゃんだって、今ああやってあの家で寝てるってはずがないもの」
「ふ・・・ん。まぁたしかにね。だが時間が流れていく上で無限のパラレルワールドが存在するって聞いたことがあるぞ」
「それってあくまでも仮説でしょ?」
「まあね、それを証明する方法なんてないわな。だけど今、由利とおじいさんはここにこうやって存在しているんだし、今それをどうこう言ってみても仕方ないんじゃない?」
「そうなの・・・かな?」
「人がひとりこの世にいなくなるっていうと、それはそれで相関関係がかなり変わっていくよ。『風が吹けば桶屋が儲かる』方式で思わぬところに波及が行きそうだから。いきなり由利がこの世にいなくなるってことはなさそうな気がする」
「そっか。じゃあ、とりあえずそのことは、今は考えないでおく。それでね、あたしはふたつのタイムスリップしたときの共通点を考えてみたの。ひとつはどちらもこのコンビニで買い物をしたあとだった。ふたつめはどっちも時間が夜の十一時あたりだったってこと」
「ふうん、それで?」
「で、あたしはそれが本当かどうかを試したかったのよ。だから十時四十五分ごろに家を出て、コンビニに到着して、それで十一時かっきりに、コンビニを出たの」
「それでタイムスリップしたの?」
「ううん。起こらなかった」
由利は少し残念そうな顔をした。
「じゃあ、由利の立てた仮説は成立しなかったんだな。だけどじゃあ、さっきなんであんなにパニクっていたんだよ?」
「あたしは自分がタイムスリップしなかったことに、半分ホッとしてたけど、半分がっかりしていたの。それでタイミングが合わなかったのかなぁっって。もう一度やってみたらどうなるのかなって考えたのよ。で、ふと振り返ってコンビニを見たら、それまでファミリー・マートだったものが突然、セブン・イレブンに変わっていたの!」
「へぇ? それで?」
常磐井の沈着冷静な顔色が少し動いた。
「あたしはどうしても事の真偽を確かめたくて、あそこにいる店員さんに、つい『ここは昔からセブン・イレブンでしたっけ?』って訊いたのよ」
「それでさっきオレと一緒にここへ来て、もう一回店員に尋ねたら、『ずっとファミリー・マートでした』って答えたって言うわけだな、つまり、いっときセブン・イレブンに変わったコンビニがもと通りのファミリー・マートに戻っていたと、そういうこと?」
「うん・・・」
「そうか・・・。そりゃあさ、そんな目にあったら、パニックになっても仕方ないな。ま、少なくともオレは、おまえのことを理解したから、安心しろや」
「うん。…ありがと」
「タイムスリップしたのは、昨日の十一時だよな」
「あ、うん」
「じゃあ、その前、タイムスリップしたのは、いつのことか思い出せる?」
「えっと、あれは一学期の期末試験前のことだった。あたしは赤ボールペンが無くなったんで買いに行ったのよ」
「その日は何をしていたか覚えている?」
しばらく由利は考えていた。
「そういえば・・・その日は美月に今宮神社に連れて行ってもらったんだった。『夏越しの祓え』だからって茅野輪をくぐって・・・」
「それって夏越の祓えのお祭りの当日のこと?」
「お祭り? ううん。別段、行事をしているふうではなかった」
常磐井は由利の話を聴きながらスマホを見ていた。
「ふうん、六月三十日より前ってことだよな、それじゃ」
それから常磐井は不思議なアプリを起動させた。
「常磐井君、それって何?」
「これ? これは月の満ち欠けカレンダー。昨日は新月だった。ということはおそらくその夏に由利がタイムスリップした日も新月の日だったんじゃない?」
「新月?」
「そう、新月ってのは、地球と太陽の間に月がぴったり重なって、太陽からの光が全く地上に届かない状態のことさ。地球から見れば、太陽の光が届かないんで、月の光が全く失われて真っ暗になっている状態のことだよ」
「その新月とタイムスリップって、一体何の関係があるの?」
「まぁ、これも仮説だけどさ、新月の日のことを昔は『朔日』って言って、一種の魔が生じるときでもあるんだよね。太陽という神の光が届かない時間っていうかさ、こういうときってそんな不思議なことが起こりやすいって昔から言われているんだな」
「じゃあ常磐井君、その六月の新月の日っていつだったの?」
「うんと六月二十○□日かな?」
「そう言われればそうなのかもしれない。たしかに六月の下旬だった」
「もし、この仮定が正しいなら、次の新月は 12月の23日。月の周期は約二十九日だし、今の暦は昔の太陰暦とは違うから、必ずしも月初めが『朔日』とは限らないしな」
「次は12月23日・・」
「まぁ、その日までまだ少し時間がある。それまでに少し解明しておきたいこともあるだろ? この電車の事件だけど、それが本当に起こったことなのか? 起こったとすればいつ起こったのか? それをまず調べておいた方がいいんじゃないかな?」
「うん。それはそうかもしれない」
「あしたは土曜日だし、一緒に図書館へ行こうや。戦後すぐの新聞なら図書館は持っているはずだよ、それを閲覧させてもらって、事の真偽を確かめに行こうぜ」
「うん!」
由利は初めて嬉しそうな顔を常盤井に見せた。
「はぁ、常磐井君に話せて、少しホッとした。ホッとしたらお腹が空いてきちゃった」
由利は棚に置いてあったサンドイッチと野菜ジュースを買って席に戻るとおいしそうに食べ始めた。
「女の子ってこういうところが解らないところだよなぁ。さっきまであんなにパニクっていたのに、今はよくもまぁ、こんなふうにパクパク食べることができるもんだな」
常磐井は由利が夢中になってサンドイッチをがっついている姿を見て苦笑した。それを横目で見ながら由利は反論した。
「まぁ、女は男と違って、柔軟性が高いんじゃないの?」
寒くなってきましたね。本格的な冬の到来ですね~。
今回は本来のボリュームの二回分を一挙に掲載することにしました。
というのも、事件はクリスマスを境に起きるからです。
やはり読んでいるほうも季節にリンクしながらよんだほうがいいかなと思いました。
結構長いけど、頑張って読んでください!
第九章 悪夢
1
ただの風邪だと診断されたわりには辰造の症状は一進一退をくりかえし、いつまでもぐずぐずと治らなかった。
その日も由利が学校から帰ってきてから一緒にとった晩御飯にも達造はほとんど手を付けず、時間が経つごとにだんだんと具合が悪くなり、ついに十時ごろには熱も上がり始めた。体温計で熱を測ると三十八度を越していた。
「うわ、すごい熱だよね。どうしよう? 病院へ行こうか、おじいちゃん?」
「まぁ、由利。三十八度やったら、まだ病院へ行くこともないわな。はぁ、歳をとるっちゅうことは、こういうことなんやなぁ。ポンコツやぁ。由利。どもない、どもない」
祖父はひとりで心細い孫娘の気持ちが解っているらしく、熱が高くても安心させようとした。
「こんなときはどうしたらいいんだっけ?」
由利はとりあえず、「風邪 熱が高い時の対処法」と検索した。
『熱があるときの身体は、健康時よりさらに多くの水分を消費しています。なので水分を必要としてる身体にすばやく浸透するように作られているスポーツドリンクを補給しましょう』
「ああ、やっぱり湯冷ましなんかより、スポーツドリンクを飲ませるのがいいのか・・・。もうすぐ十一時だから、コンビニで買うしかないか」
由利は普段着の上から厚手のダッフルコートを羽織り、近所のファミマへと向かった。
そこでコンビニの壁に備え付けてある冷蔵庫の戸を開けて、五百ミリリットルサイズのスポーツドリンクを一端手に取ってから、ふと考えた。
「こんなふうにキンキンに冷えたのを飲ませると、おじいちゃんのようなお年寄りにはかえって身体に負担をかけるかもしれない」
思い直すと由利は、常温で保存されている棚へ行き、ポカリスエット、DAKARA、アクエリアスなどいろいろな商品をまんべんなく買い物かごの中に入れた。それからレジへ行ってお金を払うと外へ出た。
ところが外の光景はまたいつぞやと同じように変わっていた。
またもや由利はタイムスリップしていた。
やはりこの前と同じように時間は夕方だった。だがこちらの側の世界も由利の住んでいる世界と同じく、季節は夏ではなく冬に移行している。買い物かごを下げている主婦も会社帰りの男性も、行きかう人はみな寒そうに首をすくめ外套の前を深く掻き合わせて、せかせかと足早に由利の前を通り過ぎて行った。
その傍を当たり前のようにチンチン電車が、警笛を鳴らしながら通り抜けていく。しかし驚いたことに電車はどうやら中でトラブルが起こっているようだった。何を話しているのか通りにいる由利の耳にはつぶさには判らないが、何か人が言い争っているような怒号が響いてくる。
由利がその異常さを感じ取って恐怖に目を見開いていると、やがて電車はスピードを落とすことなく突っ込むよう堀川へ走って行った。そして橋梁のところでカーブを曲がり切れず、大きくガタンガタンを車体を左右に揺れらすと、真っ逆さまに川に突っ込んだのだ。
電車が崩れる爆音とともに電車の中の乗客の絶叫がこちらにもが響いて来た。
「!」
由利は口に手を当てて、信じられぬ思いで目の前で起こった惨劇を見ていた。
「何てこと・・・」
しばらくすると、そこらへんに住んでいる人たちで辺りは人だかりができた。
ほどなく半被に消防帽をかぶった地元の自警団の人々や消防団員や警察官が、何十人もわらわらと走ってきて、電車の中に閉じ込められている人を必死になって外へ出すために救出作業をしていた。川の流れに入った自警団の人々が、ジャッキを使って閉まっている電車の戸を無理やりこじ開けると、人々がうめきながらが折れ重なるように倒れている。
「おーい! 戸が開いたぞ! 中にいる連中を運べ!」
何人もの警察員が総出になって、次々と担架に人を乗せていく。担架はどこで集めてきたのか五、六個ほどあった。その中には物干しざおに毛布を掛けた、どう見ても即席で作られたものとおぼしきものも混じっていた。
中には自力で電車の窓からから這い出てくる人間もいたが、電車の底になったところから折れ重なる人々の下敷きになっている人もかなりいる。
電車が橋梁から落ちたこともそれなりに衝撃だったが、それ以前にこの電車は満員だったことがさらにこの事件を悲惨なものにした。
周りにいた人の中には、家人の安否を必死になって確かめようとしている人も大勢いた。
「早く、早く! うちの人を助けて!」
「お母ちゃん!」
人々の泣き叫ぶ声が由利の耳にもリアルに届く。それはさながら阿鼻叫喚の地獄のさまを呈しているかのようだった。
そうこうしているうちに電車の中から五、六人の進駐軍のGIが他の人々を押しのけ、われ先ともがくように戸口から飛び出して来た。
それぞれに体格はよいが教養も品格もないのは一目瞭然で、いかにもプア・ホワイトの階層の人間が駆り出されて日本に来たように由利の目には映った。
彼らは口々に「damn it!(ちくしょう)」といまいまし気に悪態をついていた。
GIらをいぶかし気に見つめていると、その中のひとりが日本人にしては上背のある由利に声を掛けてきた。
「Hey , beautiful girl, com’on!(よう、かわい子ちゃん、こっち来な)」
それを聞くと由利は怒りが込み上げて来て、思わず言い返してしまった。
「Why don't you try to help these people? It is a shameful thing to do nothing(どうして助けようとしないのよ? 恥ずかしいとは思わないの?)」
「アッ、オー。 Fuckin’ Jap girl ! (日本の腐れアマが!)」
由利が啖呵を切ったのを聞いて、その中のひとりはこれ以上ないほど汚い言葉で由利をののしって行ってしまった。
由利が恐る恐るその人垣の中へ入っていくと、自分には夏にかたくなな表情を見せた曾祖母にあたる人が血相を変えた顔で、泣きながら電車に向かって呼びかけていた。
「康夫! 辰造! お母ちゃんやで! いるんなら返事しいや! やっちゃん! たっちゃん!」
曾祖母は狂ったように叫んでいる。かなりの人が大けがをしていたし、中には救出される前にすでに亡くなった人もいたようだった。
担架を担いできた自警団の男の人が、用意されたむしろの上に小さな子供ふたりの身体を並べ、その顔に白い布を掛けようとしていた。
それは祖父の辰造とそのすぐ上の兄に違いなかった。
曾祖母は自分の小さな息子たちを見ると、はじかれたようにそこへ躍り出た。
「あんた、何すんねん。その子らは死んでなんかいいひんで! そんな縁起でもないもん、掛けんとってや! たっちゃん。お母ちゃんが迎えに来たで。もう安心や。ほら、やっちゃん! 眠っとらんと目を覚ましい」
狂ったように曾祖母は、ふたりの子供の身体をゆすっていた。
「奥さん! 奥さん! しっかりしいや。もう坊(ぼん)らは息をしとらんやないか。気をしっかり持たんとあかんえ。奥さん!」
半狂乱になっている曾祖母は、そこから離れようとしない。
「ええ、あんたら何を言うとるんや! そんなはずあるかいな! さっきまで元気に跳ね回っとったんやで! うちは子供を家に連れて帰ろう思(おも)てるのに、何するんや!」
そこへ白衣を着た医者らしい人が来て、辰造たちの手を取って脈を診た。
「先生、どうですか? うちの息子らは? また元気になれるんやろ? さあ、やっちゃん、たっちゃん。ほれ、起きや。お母ちゃんと家に帰るんやで」
曾祖母は目の前の現実を認めることができずにそう言った。隣の家の年配の夫婦が医師に言った。
「この人の旦那さんはまだ出征中でして、まだ戻ってきいひんのですわ。うちらが責任もって何とかしますさかい。先生、申し訳ありまへん」
「うん。そうか、この奥さんは一度にこないな可愛い坊らを失のうてしもたんや。ほんまにお気の毒なことやったな・・・。しばらくは正気が戻らんかもしれへん。あんたらもご苦労なことやけど、隣のよしみで、よくこの奥さんの面倒を見たってくれへんか」
「へぇ、先生」
医師は他にもたくさんの死者やけが人が待っているので、曾祖母ひとりにはかかずらわっている暇がなかった。ちらりと憐憫のこもったまなざしで泣き崩れる祖母を見ると、その場を立ち去って行った。
由利はその一部始終を見て、戦慄した。
ーこれは一体どういうこと? おじいちゃんが死んでしまった!
そのとき、周りを囲んでいた人々の中からひとり、由利に声を掛けて来たものがいた。
「あんた、アメリカさんやろ?」
「えっ?」
戦後すぐの日本人から見たら、コーカソイドの血を受けついている者はことごとく皆、アメリカ人だった。
「あいつらやで。さっきのGIが、運転手にちょっかいをかけて来よったんや」
その男はどうも電車にいて助かった人らしかった。
「あいつらさえ、勝手し放題しいひんかったら、こないなことにはならんかったんや。ほれ、見てみい! あんな小さい子供まで、巻き添えを食って死んでしもうたやないかい!」
人々の憎悪が一身に由利へと向かった。
「戦争に勝ったからって、何してもええと思とるとちゃうんか!」
「アメリカはこの国から出て行け!」
「せや、せや! アメリカは出て行け!」
由利は後ずさりしながらその輪から離れると、面罵されたことに耐え切れずに泣きながら、中立売橋を後にして一条戻橋へと駆けて行った。
由利は一条戻橋の前に立ち、以前三郎に言われたことを思い出した。
『この橋はこの世とあの世を繋ぐ橋なんだ。昔からおまえみたいな人間っていうのは一定数いたらしいな。この橋はそのためのツールさ。そういう場合はこの橋を通れば、また元の世界に戻れる』
あのとき、三郎は由利にそう教えてくれた。
由利は恐る恐る橋を渡った。
渡り切ると三郎が以前言った通り、由利はもとの世界に戻っていた。
「やっぱり三郎の言っていたことは正しい。とすると元の世界に戻るときは必ずこの一条戻橋を渡ればいいんだ」
原因を突き止めたいと思う気持ちと同時に、過去に子供の状態で死んでしまった祖父は今の世界で一体どうしているのかが気になる。気がつけば由利はまたもや家のほうまで駆けだしていた。
家に戻ると祖父はさっきと同じように床に臥せって寝ていた。
「あ、良かった・・・」
ふうっと大きく由利は安堵の一息ついた。
「おじいちゃん、具合はどう?」
それまで辰造はうつらうつらと眠っていたようだが、由利の声で目が覚めたようだ。
「あ、由利か」
「おじいちゃん、これ。熱があるときはスポーツドリンクを飲むといいんだって。とりあえず買ってきたから飲んでみて」
「おお、そうか。おおきに、おおきに」
由利が祖父の肩を持って起き上がるのを手伝った。
「おお、熱があるときはこういうもんが何や知らん、飲みやすいわ」
辰造はおいしそうにゴクゴクと飲んでいた。
由利は抱き起こしたときにつかんだ祖父の身体が、以前と比べてやけに軽いような気がした。
「おじいちゃん、朝になったら病院へいこうね。今晩だけはちょっと辛抱してね」
自分の部屋に戻った由利は、蒲団の上にばたんと転がった。身体は疲れていたけれど、興奮していてとても眠れるどころではない。
寝ころびながら、これまでの一連の事件の起こった経緯のことを反芻した。
「どうしてあんな事件が起こったんだろう・・・。あたしが過去に介入しすぎたから? そもそもどうしてあたしがさっき、タイムスリップすることができたんだろう・・・」
由利は頭を抱えて、夏のときと今回のタイムスリップの類似点を思い出そうとした。
「えっと、夏にタイムスリップしたときはどうしていたんだっけ? そうそう、あたしは一学期の期末試験の勉強をしていて・・・、そうだ、英語のスペルを練習していたんだった。そのとき赤ペンの芯がなくなって、コンビニに買いに行ったんだったっけ?」
しばらくじっと天井の木目を見つめたまま、自問自答をしていた。
「そう、あのときも夜遅く出かけたんだった。場所はやっぱり同じファミマだった。じゃあ場所も同じだし、タイムスリップする条件として当てはまるものはやっぱりファミマっていう場所と特定の時間なのかな?」
由利は仰向けになった身体を反転させて、今度は両手に顔を載せた。
「あのときは何時だったっけ? 十二時前? いや、もっと早い時刻だったはず。たしかあのとき、お店の中はあたしと店員のふたりだけでがらんとしていた。日をまたいでいるわけでもないのにって、それがなんか変だなって思ったんだよね」
蒲団の傍に置いてあるスタンドの電球をじっと見つめながら気持ちを集中させた。
「さっき、おじいちゃんは十時頃に具合が悪くなってきたんだった。熱いとか寒いとか言い出したのよね。体温を測ったら三十八度あった。スポーツドリンクが発熱した身体に良さそうと思って、それでコンビニに出かけようと思ったのよ。そのときでせいぜい十時四十五分ぐらい・・・。コンビニは家から五分ぐらいのところだし、着いて十時五十分、それからスポーツドリンクを買って・・・。店から出たのは十一時ぐらいだったはず・・・!」
由利はガバっと蒲団から跳ね起きた。
「そうよ、そういえば夏にタイムスリップしたときだって、ちょうどそれぐらいの時間だった。タイムスリップする条件は、おそらくコンビニの場所と時間なんだわ!」
2
翌日、由利は祖父を連れて近くの診療所まで行った。
「別段、こうどこが悪いってこともなさそうなんだけどねぇ・・・まぁ、すこし喉が腫れてるかなぁ」
医師は辰造の身体に聴診器を当てて頭を傾げていた。
「先生、わしもここんとこ、ゴタゴタ続きだったんで、ちょっと緊張して疲れていたんですよ」
「ハハ、小野さん、あんた、その歳で知恵熱かい? ハハハ」
先生がおかしそうに笑った。
「せやけど、こう、ちょくちょく体調を壊しておったんじゃなぁ・・・。お孫さんやって、毎回小野さんに付き添ってこんなふうに遅刻ばっかりさせたら可哀そうやで」
「いえ、あたしはちっとも構いません」
由利は遠慮がちに小さく手を横に振った。
「いや、そんなことないやろ。由利ちゃん、あんたもしっかり勉強せなあかん立場やで。高校生のときに学んだことは一生の財産になるんや。生涯の基盤やで」
由利を諭すように先生は言った。
「小野さん。一度、きっちり病院へ行って検査を受けてみはったらどうです? 車かて車検ちゅうもんもあるやろ」
「いいや、先生。わしと車を一緒にせんといてください。人間は車と違うて悪いところがあっても、部品の取り換えは不可能ですわ。それにわしはもう、子供ン頃から病院ちゅうところは、かなん。人間どうせ、いつかは死ぬ。死ぬときは死ぬときですわ」
「まぁ、あんた、そんな子供みたいな聞き分けのないことを言わんと」
「いや、先生、わしはいいですわ。今度も熱さましを出しといてくださいよ」
「そうですかぁ、まぁそんなら小野さんの言う通りにしときまひょ。一応頓服出しておきますわ。でも何かあったら、すぐに来てくださいよ。我慢は禁物でっせ」
最近はこの手のわがままな老人に手を焼いているのか、先生は辰造には強く検査を勧めなかった。
「わかっとる、わかっとります」
「ほなら、小野さんお大事に」
無事に祖父を家に送り届けると由利は、自転車のカゴに通学カバンを入れ、学校へと向かった。
堀川通りを北上している途中で信号が赤に変わったので、由利は歩道の手前で停車して待っていた。
いつもと変わらぬ見慣れた風景だが、東西に走る道路を挟んで向かい側の建物を見て違和感を覚えた。
「あれ? あの建物って、ああだっけ?」
しかしその建物は、古い建物が取り壊されて新しく建て替えられたものでもなく、ずっと昔からこの街にあったようにそれなりに古びている。
「うーん、なんか変だなぁ」
信号が赤から青に変わったので由利はそれ以上考えることもなく、そのことは学校へ行く前にきれいさっぱりと忘れてしまった。
だがこのとき感じた由利の違和感は、単なる気のせいではなかった。
「場所と時間さえ一致すれば、向こうの世界へ行けるとすれば、今夜だって可能なはず!」
由利は夜の十時四十五分ぐらいに寒くないように、オーバーを来て、ファミマへと出かけようとした。玄関でスニーカーのひもを結んでいると、辰造が心配げに玄関へやって来た。
「由利、もう真夜中やで、どこへ行くんや?」
「うん、コンビニ。ちょっと買いたいものがあるの」
「ふうん、そうかぁ。気を付けて行きや。遅くならんようにな」
昔人間の辰造は本来なら、たとえ近くのコンビニであろうと、夜中の若い娘のひとり歩きは許せるものではなかった。だが無下に「行くな」と怒りつけたところで孫娘は反感を募らせるだけだろう。辰造は玲子のことで懲りていた。
「うん。すぐに帰って来るから、大丈夫だよ」
由利は祖父に疑いを持たれぬように、何気なさを装って外へと出た。
好奇心と恐れがない交じって、心臓がバクバクしている。
「また、あっちの世界に出たら・・・。もし、電車がもう一度自分の前に通り過ぎたら」と思うと、由利は緊張してきておかしくなりそうだった。
店の中へ入って雑誌を取って読むふりをして、十一時になるのをじりじりしながら待った。そして十一時ちょうどになるのを見計らうと、由利は弾かれたように戸口へと向かった。
目をぎゅっとつむったままコンビニの扉を抜けて外へ出ると、眼前の堀川通りは相変わらず車が行き来している。
赤く流れていく車のバックティルを見ているうちに、ほっとした気持ちは次第に失望へと変わっていた。
「あっちの世界には行けなかった・・・ 何が悪かったんだろう・・・?」
由利は何気なくコンビニの戸口のほうへ向けると、思わず自分の目を疑った。何度も何度も瞬きをして見ていたが、何も変わらない。
ここにあったコンビニはたしかにずっとファミリー・マートのはずだった。なのに今はどういうわけか、セブン・イレブンに変化している。
「ええっ?」
信じられない気持ちで再びコンビニの中へ入ると、さっきと同じ店員がきょとんとした顔で由利を見ていた。たださっきと違うのは、店員の制服もファミマのものからセブンのものへと変わっていることだった。
「ここって、昔っからセブン・イレブンでしたっけ?」
由利はつい、店員に心に思っていたままの単刀直入な質問をしてしまった。
「あ、僕が知る限りでは、ここは昔からセブン・イレブンですが・・・」
大学生ふうの店員は妙なことを質問する由利を不審な目で見ながら、それでもきちんと答えてくれた。それを聞いて、また由利は表へと走り出した。そしてスマホを取り出すと、常磐井へ発信した。
常磐井はすぐに電話に出てくれた。
「由利? どうした、こんな夜更に?」
「もしもし、常磐井君?」
気が付けば由利は涙を流していた。
「由利?」
「常磐井君!」
由利の尋常ならざる様子に常磐井もびっくりしたようだった。
「どうした、由利? 落ち着け。落ち着いて話をしてみろ」
「常磐井君、助けて! あたし、気が狂ったのかもしれない」
常磐井は由利が今、何かが原因で恐慌を来していることに気が付いた。
「由利、由利。今どこにいる?」
「今、家の外・・・」
「誰かに追いかけられているのか?」
「ううん、違う」
「怪我は?」
「してない、大丈夫」
「そうか。よし、分かった。今からおまえんちへ行くよ。だけどおじいさんはどうした?」
「ああ、おじいちゃん! そうだ、おじいちゃんのことがあった」
「とにかく急いで家へ帰れ。そしておじいさんにきちんと顔を見せるんだ。まずは安心させてやらないと。いいか、分かったな」
「う、うん。それからどうしたらいいの?」
「そしたら、おじいさんには用を足しに行くようなふりでもして、そっと部屋から出るんだ。ちゃんと寒くないようにコートを着て外に出てて。そのころにはオレはおまえのところへ着いているはずだから」
「うん、分かった」
「じゃあな、いったん電話は切るからな」
由利はスマホをポケットの中へ戻すと、一目散に家へ駆けて戻った。
祖父の部屋はすでに灯りが消されていた。
「おじいちゃん・・・ただいま。もう寝ちゃった?」
「うん、由利か。いや、今、電気を消したところや」
「ごめんね。ちょっと遅くなっちゃって・・・」
「まぁ、何事もなかったんなら、それでええわ」
「あたし、ちょっと美月に電話するから。うるさいだろうし、下でしてる」
「ん、まぁ、おまえもあんまり遅うならんようにな」
「うん、おやすみ」
由利はそのまま階段を降りてから忍び脚で玄関に行き、スニーカーを手に取るとそのまま玄関を出た。玄関でガサゴソ音を立てたくなかったからだ。
そっと引き戸を閉めて玄関を出たところで、由利はスニーカーをきちんと履くためにかがんだ。
「由利・・・」
目を上げると黒いヘルメットをかぶり黒い皮ジャンを着た人間がすっくと由利の前に立っていた。
「!」
いきなり暴漢のような人間が現れて自分の前に立ちふさがったので、由利は思わず悲鳴を上げそうになった。
「だめだよ、由利。悲鳴なんかあげちゃ。気づかれるだろ? オレだよ」
被っていたヘルメットを取ると、それは常磐井だった。
「と、常磐井君・・・? どうしてヘルメットなんか被っているの?」
「おまえ、オレがすたこらペダル踏んで自転車で来ると思ってた?」
「うん」
「ま、いいや。こっちに来なよ」
常磐井が尻餅をついていた由利の手を取って立ち上がらせた。その途中で常盤井の頭が唯の顔に近づいて行った。真っ暗な道でふたりは固く抱き合ったまま、しばらく彫像のように動かなかった。
しばらく行くと、堀川通りに黒いホンダのバイクが留めてあった。
「うわ、すごい・・・」
「うん。四百ccさ」
「何でもできるんだね、常磐井君」
「まぁな。オレ、誕生日が四月だからさ、夏休みに中型バイクの免許を取ったのさ」
「あんなに合宿、合宿で忙しかったのに! タフ!」
「ははは、頑丈なのがオレの一番の取柄かもな」
常磐井が笑うと急に、それまでの暗い雰囲気が吹き飛んだ。
「由利、さっきはどうしたんだ。泣いてたじゃないか」
「うん・・・。あのときは本当にびっくりして・・・」
「ねぇ、この先にファミリー・マートがあるの知ってる?」
「う、うん? そんなのあったかな?」
「ねぇ、今からそこへ一緒に行ってもらってもいい?」
「え、ああ、別にいいけど」
由利は常磐井に付き添ってもらってさっきにコンビニまで行った。しかし今度はやはり元の通り、ファミリー・マートに戻っていた。
「ええ? これって一体どうなっているの? あたし、頭がおかしくなったんだろうか?」
常磐井は由利がまたパニックになっているのを見て、気を逸らそうとした。
「まぁ、とにかくさ、こんなところで由利がぎゃあぎゃあ言っていても寒いばっかりだし、とりあえずファミマに入って何か温かいもんでも飲もうぜ。話は飲みながら聞くし」
店に入ると、店員は由利の顔をみて「また来たのか」というような顔をした。今度の制服はやはりファミリー・マートのものに戻っている。
由利は店員に再び質問をせずにはいられなかった。
「すみません、変なことを何度も言うようですが、さっきあたし『ここは昔からセブン・イレブンでしたっけ?』って訊きましたよね?」
「いえ、お客さま。『ここは昔からファミリー・マートでしたっけ?』って訊かれましたけど?」
店員はうんざりして、もういい加減にしてくれというような顔をしていた。
「あー、すンません」
常磐井は店員をとりなすように謝った。
「さてと、まぁ座って話を聞くわ。由利は何にする?」
「なんか甘くて温かいものがいい」
常磐井はレジに貼ってあるメニューを見て言った。
「んじゃ、キャラメルラテか、宇治抹茶ラテか、濃厚ココアか。どれにする?」
常磐井はのんびり訊ねる。由利はこんなときにさえ悠長に構えている常磐井を見ていらいらしていた。
「ん、もう。何でもいい!」
「じゃあ、キャラメルラテだな」
常磐井はさっさとレジでお金を払うと自分はブラックを頼み、セルフマシーンでカップにコーヒーの液体を落とし込んでいた。
「さあ、座りなよ。どうした? 初めから言ってみ?」
「初めから? すんごく長い話になるよ。それでもいいの? それにいくら常磐井君にしても信じられない話かもしれないけど・・・」
興奮して猛々しくなっている由利を見て、常磐井はなだめるように優しく諭した。
「いいよ。だって、由利がオレに話さないことには何も解らないだろ?」
由利は順を追って常磐井に語って聞かせた。
夏にタイムスリップしたこと、昨日も突然タイムスリップしたこと、タイムスリップした先の世界はどちらも戦後まもなくの世界であって、そこで幼児の祖父に出会い、昨日のタイムスリップでは、祖父は落ちると運命づけられていた電車に乗って、死んでしまったことを。
常磐井はコンビニに常設されたテーブルに肘をつきながら、由利の言うことにじっと耳を傾けていた。
「ふうん。おじいさんが死んじまうのはちょっとヤバいかもな。だっておじいさんがいなくなるってことは、由利や由利のお母さんがこの世界に存在しないってことだかんな」
常磐井はそれを聞いたあと、冷えてしまったコーヒーを一口飲んだ。
「そうよ! おじいちゃんがあのとき死んでしまったのが本当なら、当然、あたしはこの世に存在しない。それにおじいちゃんだって、今ああやってあの家で寝てるってはずがないもの」
「ふ・・・ん。まぁたしかにね。だが時間が流れていく上で無限のパラレルワールドが存在するって聞いたことがあるぞ」
「それってあくまでも仮説でしょ?」
「まあね、それを証明する方法なんてないわな。だけど今、由利とおじいさんはここにこうやって存在しているんだし、今それをどうこう言ってみても仕方ないんじゃない?」
「そうなの・・・かな?」
「人がひとりこの世にいなくなるっていうと、それはそれで相関関係がかなり変わっていくよ。『風が吹けば桶屋が儲かる』方式で思わぬところに波及が行きそうだから。いきなり由利がこの世にいなくなるってことはなさそうな気がする」
「そっか。じゃあ、とりあえずそのことは、今は考えないでおく。それでね、あたしはふたつのタイムスリップしたときの共通点を考えてみたの。ひとつはどちらもこのコンビニで買い物をしたあとだった。ふたつめはどっちも時間が夜の十一時あたりだったってこと」
「ふうん、それで?」
「で、あたしはそれが本当かどうかを試したかったのよ。だから十時四十五分ごろに家を出て、コンビニに到着して、それで十一時かっきりに、コンビニを出たの」
「それでタイムスリップしたの?」
「ううん。起こらなかった」
由利は少し残念そうな顔をした。
「じゃあ、由利の立てた仮説は成立しなかったんだな。だけどじゃあ、さっきなんであんなにパニクっていたんだよ?」
「あたしは自分がタイムスリップしなかったことに、半分ホッとしてたけど、半分がっかりしていたの。それでタイミングが合わなかったのかなぁっって。もう一度やってみたらどうなるのかなって考えたのよ。で、ふと振り返ってコンビニを見たら、それまでファミリー・マートだったものが突然、セブン・イレブンに変わっていたの!」
「へぇ? それで?」
常磐井の沈着冷静な顔色が少し動いた。
「あたしはどうしても事の真偽を確かめたくて、あそこにいる店員さんに、つい『ここは昔からセブン・イレブンでしたっけ?』って訊いたのよ」
「それでさっきオレと一緒にここへ来て、もう一回店員に尋ねたら、『ずっとファミリー・マートでした』って答えたって言うわけだな、つまり、いっときセブン・イレブンに変わったコンビニがもと通りのファミリー・マートに戻っていたと、そういうこと?」
「うん・・・」
「そうか・・・。そりゃあさ、そんな目にあったら、パニックになっても仕方ないな。ま、少なくともオレは、おまえのことを理解したから、安心しろや」
「うん。…ありがと」
「タイムスリップしたのは、昨日の十一時だよな」
「あ、うん」
「じゃあ、その前、タイムスリップしたのは、いつのことか思い出せる?」
「えっと、あれは一学期の期末試験前のことだった。あたしは赤ボールペンが無くなったんで買いに行ったのよ」
「その日は何をしていたか覚えている?」
しばらく由利は考えていた。
「そういえば・・・その日は美月に今宮神社に連れて行ってもらったんだった。『夏越しの祓え』だからって茅野輪をくぐって・・・」
「それって夏越の祓えのお祭りの当日のこと?」
「お祭り? ううん。別段、行事をしているふうではなかった」
常磐井は由利の話を聴きながらスマホを見ていた。
「ふうん、六月三十日より前ってことだよな、それじゃ」
それから常磐井は不思議なアプリを起動させた。
「常磐井君、それって何?」
「これ? これは月の満ち欠けカレンダー。昨日は新月だった。ということはおそらくその夏に由利がタイムスリップした日も新月の日だったんじゃない?」
「新月?」
「そう、新月ってのは、地球と太陽の間に月がぴったり重なって、太陽からの光が全く地上に届かない状態のことさ。地球から見れば、太陽の光が届かないんで、月の光が全く失われて真っ暗になっている状態のことだよ」
「その新月とタイムスリップって、一体何の関係があるの?」
「まぁ、これも仮説だけどさ、新月の日のことを昔は『朔日』って言って、一種の魔が生じるときでもあるんだよね。太陽という神の光が届かない時間っていうかさ、こういうときってそんな不思議なことが起こりやすいって昔から言われているんだな」
「じゃあ常磐井君、その六月の新月の日っていつだったの?」
「うんと六月二十○□日かな?」
「そう言われればそうなのかもしれない。たしかに六月の下旬だった」
「もし、この仮定が正しいなら、次の新月は 12月の23日。月の周期は約二十九日だし、今の暦は昔の太陰暦とは違うから、必ずしも月初めが『朔日』とは限らないしな」
「次は12月23日・・」
「まぁ、その日までまだ少し時間がある。それまでに少し解明しておきたいこともあるだろ? この電車の事件だけど、それが本当に起こったことなのか? 起こったとすればいつ起こったのか? それをまず調べておいた方がいいんじゃないかな?」
「うん。それはそうかもしれない」
「あしたは土曜日だし、一緒に図書館へ行こうや。戦後すぐの新聞なら図書館は持っているはずだよ、それを閲覧させてもらって、事の真偽を確かめに行こうぜ」
「うん!」
由利は初めて嬉しそうな顔を常盤井に見せた。
「はぁ、常磐井君に話せて、少しホッとした。ホッとしたらお腹が空いてきちゃった」
由利は棚に置いてあったサンドイッチと野菜ジュースを買って席に戻るとおいしそうに食べ始めた。
「女の子ってこういうところが解らないところだよなぁ。さっきまであんなにパニクっていたのに、今はよくもまぁ、こんなふうにパクパク食べることができるもんだな」
常磐井は由利が夢中になってサンドイッチをがっついている姿を見て苦笑した。それを横目で見ながら由利は反論した。
「まぁ、女は男と違って、柔軟性が高いんじゃないの?」
2019-12-07 20:44
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コメント(7)
こんばんは。
おじいさん子だった私は辰じぃちゃんの子とが心配で新宿仕方ないです〜ああ、本当に大丈夫ですよね? まだドキドキしています。
>女の子ってこういうところが解らないところだよななぁ。
ここには爆笑しました。それまでムダに緊張していたのかも(^_^;) 今日、たくさん読んだ分、クリスマスには一体何が!? と気になってしまいますが、自分には経験のない出来事だし、年齢だって由利の倍以上生きているのに、あらゆる場面にドキドキして自分が主人公になっております←図々しい(; ̄ー ̄A
今日は大雪に相応しい(?)寒い1日でした。どうぞ皆さま、お身体に気をつけて下さいませ。次回もまた楽しみにしています! ありがとうございました(*´ω`*)
by おかもん (2019-12-07 21:08)
おかもんさま
一週間ってあっという間ですよねぇ~。
もう師走ですよ!
辰造さんね、どうなっちゃうんでしょうか?
過去の世界では死んでしまいますが…。
この事件ね、本当にあったことなんですよ。
それと、旧変電所が最初よくわからなくて
「ここなんだろう~」とずうっと長い間ギモンだったんです。
京都って完全に由緒あるものはきっちり保護されていますけど、
案外明治以降の建物とか昭和の初めの建物なんか、置き去りにされているもの沢山あるんですね。
私は案外そういう朽ち果てていく運命のものってもんになんかうさん臭さというか、ミステリアスなものを感じて惹かれるんですよ。
で、いつかは市電のこの事件をモチーフに物語書いてみたいなって思ったのがきっかけです。
いやぁ、主人公と同調して読んでもらえるって、作者だったらみんなそういうふうに読者に思ってほしいと思うところだと思います。
作者冥利に尽きますね!!
ありがとうございます!
by sadafusa (2019-12-08 10:09)
少し与太話をさせてください。
実は劇中で、由利がコンビニへ行って、スポーツ飲料と共に、アイスクリームを買うことにしていたのですが、それを読んでいた夫が
「タイムスリップしてもアイスクリームをビニール袋に入れて持ち歩いているんかと思うと、溶けるんじゃないかと思って気が削がれるから、ここを削れ!」とかいいがかりをつけて来るんです。
でも、読み手ってそういうどうでもいいことでも、気になるもんなのかもしれないと思い、そこは言われた通り削除しました。
あとですね、痛恨の個所がありまして、
それは書く前から常盤井と由利がバイクに乗って夜の街を疾走するってシーンを描きたいって思っていたんですよ。
で、どんなバイクがかっこいいかなぁとか思って、その手詳しい方のブログに行って、「ホンダかぁ、ヤマハかぁ、スズキかぁ」とか言いながら物色していたわけです!
しかし、タンデムって16歳で免許を取っていたとしても、一年間は禁止なんですよ。そして高速道路は免許を取ってから二年後だったかな…。タハハ。
ちょっとガクーっとなって、「ああ、何のためにここまで頑張ってきたんだ…」ってちょっと書くのやめようかなって思ったんですけど、
「いや、もうゴールは見えている!」
と気を取り直して書いたんです。
楽屋裏って結構間抜け(笑)
by sadafusa (2019-12-08 21:48)
おはようございます。
400ccバイク、これかな〜と画像検索しながらふたりの姿を脳内再生してました! 一度バイクのうしろに乗せてもらったことがありますが、体重移動とかムリ!(; ̄ー ̄A 由利ならスマートに出来そうです。
京都の市電のことは知らなかったので、こちらも検索しました。ありがとうございます。
創作の裏話などを読ませていただき、一字一字を大事に読まなくては、とこれまで以上に思いました。
今日も寒い1日になりそうです。どうぞお身体に気をつけて下さいませ。
by おかもん (2019-12-09 08:57)
おかもんさま、
またまたお返事いただきましたw
お優しいのね…(笑)
もともと小説って自分でこもって書くものだとは思うんですよ。
特に骨子の部分で自分の思う通りに書くべきだと強く思います。
というのも、結局、こういうものって自分の美意識っていうのかなぁ「こうやったほうがいい」っていう心の声を聴いたほうが満足度は高いっていうかな。
人の感受性ってそれぞれなので、おそらくいろんな人の意見を聞いているとだんだんわかんなくなっていくような気がするんです。
まぁ、それでもだいたいをざざっと書き上げたところで、一応夫と娘は読んでくれるんですが、夫は50代、男性だし、娘はアラサーなので、それなりに感受性は違う。
娘は結構、官能的な部分が嫌いで、「ちょっと、これはどうなの?」って顔をしかめて、削除を要求したりします。(特に聖徴のあのシーンは嫌がっていた)
一方、夫は先ほどの「アイスクリームが気になって気になってしょうがない」という些末なことに気を取られるタイプ。
まぁまぁ、意見を聞いて直すこともあれば、直さないこともあるかな。
バイクは本当に本当に残念で、ここまで書いて「ああっ!」と思って、「あ~あ、常盤井、大学生にしようかなぁ」と思い詰め、かなり考えたんですけど、そうすると大幅に設定を変更しなきゃいけないし、そもそも大学生とだったらどうやって出会うの?
ああ、これって書き直しできないわ!
ってそこで、悶々としてしまって…。
はたから見たらアホみたいなんだけど、結構本人は真剣でした。
で、どうしてもバイクから離れられなくて、結局こういうバイクのよすがみたいなものだけにとどまってしまったんですけどね。
変電所は崩れそうになりながらも、2018年まで建っていたのですが、その後解体されてしまって今はないんですよ。
本当なら産業遺産として残っていてもよさそうだけどなぁ、惜しいなぁって感じです。
ただ、京都って「ここって昔はなんだったの?」って思う洋風のなにかのよすがっていうのは散歩しているとよく出くわすんですよ。
たとえば、息子が通っていた公立中学校の壁は、赤レンガでした。きっとここは昔、何かだったんです。だけどそれもネットなんかで探してもわからなくて~。おそらくもっときっちり調べたらわかるはずだとは思うんですけどね。
そうやって過去の出来事も、その時代に生きている人が死んじゃうと歴史の闇に飲み込まれていくもんなんですね。
それを思うとなんか妙に切ないというか不思議な気持になります。
by sadafusa (2019-12-09 12:22)
sadafusaさま、またまた出遅れてしまいました。すっかり寒くなってきましたね。由利はタイムスリップの謎に挑戦しているんでしょうか?
ファミマとセブンイレブンが入れ替わっていたら、それはこわいわ。どっちの自分が本当かも疑問に感じてきそう。常磐井くん、ここでは落ち着いていてナイスガイですね。バイクに乗っているのも漢でカッコいいです。あとは死にゆく運命のおじいちゃん、(いや私たちみんな死にゆく運命ですが)心配だなあ。
by Yui (2019-12-10 16:27)
Yuiさま
本当に本格的な冬の到来ですね。
好むと好まざるとにかかわらず、タイムスリップした先で、実の祖父が死んでしまったら、自分の存続が危ないので、やはり何か策を講じなければならないでしょう?
そうそう、ファミマとセブンが変わっていたら、絶対に恐いです。
こういうとき、好きな女の子が困っていたら、落ち着いて相談に乗ってくれる男子じゃないと全然好きになれないと思います。
常盤井はあれだけ強く由利に迫っていたんだから、やはりこれぐらい包容力がないとなぁ、と思います。
武道やっている子はいざとなれば、却って冷静沈着になれるものなのかも。
おじいちゃんねぇ、ちょっと心配ですよね。
これから物語はどんどんクライマックスに向かって行きます。
これまでのいろいろなことが、一本の線につながっていきます。
応援よろしくお願いします!!
by sadafusa (2019-12-10 17:50)