境界の旅人 6 [境界の旅人]

第二章 疑問
 


「ただいまー」
 由利は玄関の戸をガラガラと開けて家の中へ入ると、靴を脱がずにそのまま玄関と居間の間にかけられている目隠しののれんをくぐり、真っすぐ家の中へ一直線に引かれた土間の奥へと進んだ。祖父は台所へ入って来た由利を見て、安心したように声をかけた。
「おお、由利。帰って来たんか。何や、えろう遅かったやないか、なんぞあったんかと思うて、心配しとったところやで」
 辰造は味噌汁に入れるための大根を千六本に刻み終えたところだった。
「ああ、ゴメン、ゴメン。途中で学校の友だちにばったり会っちゃって。つい話し込んじゃったもんだから」
 由利は祖父の手伝をするために、流しで自分の手を洗いながら謝った。
「ああ、そうかぁ。もう友達もできたんか。それやったらええけどなぁ」
 由利が帰って来たので、辰造はあらかじめ頭とはらわたを取り除いたにぼしと昆布の入った鍋を火にかけた。

 居間でちゃぶ台を挟み、ふたりできちんと正座して晩御飯を食べた。
 献立は塩サバの焼き物、そして大根の千六本とわかめの味噌汁。そして件のお揚げと分葱のぬた。
 そして箸休めとして、昆布の佃煮と柴漬けが食卓に出された。至って質素。しかし家で作った湯気の立った食事は、一人で食べるコンビニご飯と違って格段においしい。
 夕餉を食べながら由利は辰造に訊いた。
「ねぇ、どうしてこの家って、こんなふうに家の一方にドスーンとまっすぐコンクリートで固められた土間があるの? 台所へ行くのにいちいちつっかけに履き替えなきゃならないの、面倒じゃない?」
「ああ、この土間はな、『通り庭』とか『走り庭』とか呼ばれるもんなんやで。昔から京都にある町屋は基本的にはみんなこんなふうな作りやで」
「何でなの?」
 由利は不思議に駆られて祖父に訊ねた。こんなふうに廊下もなくて、縦に長い続き部屋は奥の部屋まで行くには必ず途中の部屋を通らければならないので、プライバシーも保てず、使いづらいと思ったからだ。
「それはな、まぁ、理由もいろいろあんねんけどな。京町屋っちゅうんはたいてい間口が狭うて、奥行きが長い。由利は聞いたことないか? 『京の町屋はうなぎの寝床』ってな」
「ううん、聞いたことない」
「そうか、今の子は何にも知らんのやなぁ」
「うん。だってここに来るまで見たこともなかったんだから仕方ない」
 由利は少し口をとがらせて答えた。
「ま、いいわ。それはおまえたちの責任というより、わしら大人の責任や」
 祖父は機嫌を損じた孫娘をなだめるように言った。
「せやしな、こういう『うなぎの寝床』の京町屋は、奥行きばっかりがめっぽう長いやろ。それなのに京都は盆地やしな、夏はえろう暑い。だから夏はこういうふうに玄関から裏庭まで一直線に道を通して、風がすうっと家の奥まで入るようにしてあるんや。家に暑い空気が籠らんようにするためにな」
「そんなので涼しくなるの?」
「まぁ、昔は冷房みたいなしゃれたもんは無いからなぁ」
「ふうん。でも、そりゃそうだよね」
 由利はサバの身をほぐしながら相づちを打った。
「そんでもって昔は今みたいに台所に換気扇みたいなものもない。それにやな、そもそも京町屋はどこも隣の家とぴったりくっついておるやろ? だから換気扇を付けたとしても、煮炊きした空気を側面に逃がすわけにもいかんのや。それで昔の人も考えたんやろな。こういう作り庭の上は吹き抜けになっておって、『火袋』っちゅう一種の換気口が取付られたんや。まぁ、雨の日もあるよって、そこから雨が入ってきてはたまらんから、屋根の上に『煙出し』って小さい屋根がついている。由利も今度外に出たら、よく辺りを観察してみるといい。つまりかまどによって熱せられた空気は、天井に向かって上昇していく。そこから熱気は火袋を通って外へ出ると。そういうこっちゃ」
「ふうん、そうなんだね。たしかに夏なんかはクーラーもないところで熱気が籠っていたら住めないよ」
「そうやろ? それにたいていの場合、昔はへっつい(かまどのこと)の側には井戸が掘られていたもんやで。うちはだいぶ昔に井戸が枯れてしもうたんで、井戸を埋めてしまって、今はのうなってしもうたんやけどな」
「ふうん。たしかに井戸から水を汲み上げて濡れることも考えたら、やっぱり土間のほうが便利なんかなぁ」
「まあな、しかし京都も家というのは何事も冬よりも、夏のことを考えて作られているもんやから、冬は寒いんや。土間にストーブを置いてもな、ほとんど地面に熱が取られてしまって暖かくなりよらん。一月二月はしんしんと底冷えがするさかい、足先がじんじんと冷えてきよる。まぁ、これまでずっとそうやって過ごして来たけれど、冬場の炊事ってもんも、なかなかにあれは辛いもんがあるわ」
「ああ、だから兼好法師も『家の作りやうは夏をむねとすべし』って言っているんだね」
「おお、由利。『徒然草』か。よう知っとるな」
「うん、中学のとき、国語の時間で習った」
「そうやで。昔からこの日本ちゅうところは、それだけ夏は暑くて、大変やったっちゅうことやな」
「ふうん。他に特徴は?」
「あとは採光の問題や」
「採光?」
「そうや。由利は気が付いているか? 京町屋は側面に窓がない。こういうふうに両端がべったりと隣の家にくっついているとよその土地のように窓をつけるわけにはいかんのや。だから工夫せんと家の中は昼間でも真っ暗や。昔は今みたいに電気が通っているわけやないからな。電灯を点けるっちゅうこともできなかったんや」
「ああ、なるほど。それはそうだね」
「だからさっきの換気の話にもつながるわけやけど、要するに外光を求めるとすれば、それは自分とこの天井をどうするかしかなかったっちゅうことやな。それで天窓や」
「そうか、昔の京都の町屋は光をどうやって取り入れるかが最重要事項だったんだね。でもさ、機能性ってこともあるかもしれないけど、天窓ってきれいだよね」
 由利は初めて祖父の家に来たとき、天窓を通して暗い室内に明るい光が洩れ入るのを見て神秘的で美しいと思った。中学生のとき、訳もわからず読んだ谷崎純一郎の随筆『陰翳礼讃』で述べられている暗闇の中の底に浮かぶ光の美というものが、これで少し解った気がしたのだ。
「そうやねん。だから天窓を付けたり、細長い間取りでも裏庭や中庭を付けたりしてそこから光を取り入れるように設計されているんや。一口に京町屋いうてもいろいろと種類があってな、八百屋や魚屋みたいに店土間あるとこや、勤め人が住む仕舞屋、商家が使う町屋、いろいろあるんや。この家は西陣やさかい、わしのところは昔から機を織るのが生業(なりわい)やったやろ。だからこの家は京町屋の中でも「織屋建」ちゅうて、本来なら奥座敷にするような中庭に面した一番いい場所に重たい機でも耐えられるように土間にしてあるんや。そしてその機の上を明り取りのために吹き抜けにして、天窓を三つも付けてある。つまり機を織る人間のことを一番に考えて、なるべく光を多く取り入れた場所で仕事をしやすうしとるんや」
「そっか~。機織りも大変だね」
「まぁ、最近は、普通の和装用の帯なんかは予算のこともあるさかい、手機なんかでは織らんけどな。ほとんどが機械織や」
 辰造は今年七十九歳になるが、それでも毎日機に向かっている。
「じゃあ、今、おじいちゃんは何を織ってるの」
「まぁ、主に能衣装や歌舞伎のような舞台衣装、あとは婚礼衣装がほとんどやな。もう今はそれぐらいしか需要もあり、かつ採算も取れて、織る価値のあるもんはないっちゅうことなんやろうな」
「ふうん」
 ふと由利は夕方、三郎に説明されたことが頭をよぎった。
「ね、おじいちゃん。夕方にね。友達に会ったって言ったでしょ?」
「うん、そうやな。その友達がどうかしたんか?」
「でね、その人が教えてくれたんだけど、今の堀川通りって戦時中にできたもので、本来の堀川通りって東側のあの細い通りなんだって?」
「せやせや」
 辰造はうんうんと首を振った。
「で、その人が言うにはね、そこに昔はチンチン電車も走っていたって」
「そうやで。昔、わしらが若い頃の交通機関はバスじゃのうて、もっぱら市電やったもんや」
 そう言いながら、辰三はふと、宙に目を向け、箸を持つ手を止めた。
「どうしたの?」
「そうや、そうや。今までとんと思い出すことも無くて忘れておったけどな。わし、実はひょんなことで命拾いしたことがあってな」
「え? おじいちゃん、命拾い? 何それ?」
「あれはな、戦争が終わって、まだ間もない頃やったと思う。そやそや。わしがまだ小学校へ上がったばっかりの冬のことだったんかいなぁ。わしがまだ六、七歳の頃やったと思うんや」
「わしにはたくさん兄弟がおったんやけど、その当時、二番目の兄ちゃんがまだ旧制中学の学生やってんな」
「おじいちゃんてそんなに兄弟がいたの」
「そうや、わしは六人兄弟の五番目や。せやけど昔なんて、どこの家でもそんなもんやで」
 日本は明治から第二次世界大戦が終わるまで、政府の『富国強兵』政策で子だくさんが当たり前だった。
「けど終戦直後やさかい、食糧難でな。三度三度のご飯を食べるのが本当に大変やったんや。ほんで少しでも家族の口が潤うようにと学校が終わったあと兄ちゃんは、知り合いのつてで錦小路の八百屋で働らかせてもらいに行っとったんや。それで店が閉まったあと、給金のかわりに売れ残った野菜をもらって来てくれていた。だがその日兄ちゃんは、どういうわけかお母ちゃんが作ってくれた握り飯を玄関に忘れて行ったんや」
「それで?」
 由利は先を知りたがった。
「仕方がない、それでお母ちゃんが、つまり由利のひいおばあちゃんにあたる人のことやけどな、わしのすぐ上の、二つ違いの小さい兄ちゃんに、大きい兄ちゃんに弁当を持っていってやってくれと遣いを頼んたんや。家には他にもまだ小さい妹がいたし、夕ご飯の支度もあったしな。その当時は今みたいにガスみたいな便利なもんもない。まず火を起こすっちゅうことが大変だったんや。それでお母ちゃんは自分で届けてやることができなかったんやろう」
「だが小学三年生だった小さい兄ちゃんは、ひとりで市電に乗ってそんな遠くまで行ったことがない。そやから小さい兄ちゃんに頼まれて、わしも付き添って行ったんや」
「うん。小学三年生だったら、夕方ひとりで遠くにお遣いに行くのは、ちょっとおっかないかもね」
「まあ、わしら昔の子供は今の子供たちと違うて、おぼこかったからな。だが家から大宮中立売の停留所で電車を来るのを待っていると、どこからともなく見知らぬお姉ちゃんが現れてな。『この電車に乗ったらあかん』とわしら兄弟が電車に乗るのを何度も何度もしつこいぐらいに引き留めるんや。普段ならそんな見ず知らずの他人の言うことなんか、わしらも聞かへん。せやけどそのお姉ちゃんの顔は、こう、言うに言われんような、何かしら切迫した様子が見て取れたんやなぁ。それでわしと兄ちゃんはとうとうそのお姉ちゃんに逆らえなくて、結局電車には乗らなんだ。だがな、その電車はなんと停留所を出てすぐ、堀川を渡るときに転落してしもうたんや」
「ええっ、それでどうなったの?」
 由利はそれを聞いたびっくりした。昔、あの川でそんな大惨事が起きていようとは。
「それがえろう大変な事故でな。大怪我をした人、死んだ人もたくさんいたんや。事故が起こったあと、騒ぎを聞きつけてお母ちゃんが血相を変えて現場に駆けつけて来たんや。だかどこを探しても、わしら兄弟はおらん。お母ちゃんはもしやと思って、大宮中立売の停留所まで探しに来たんや。案の定そこには取り残されたわしらがおったっちゅうわけや。わしらももし、あの電車に乗っていたら、今頃はここにおらんかったかもしれん。思わぬ命拾いをしたもんや」
「へえっ、そんなことがあったの?」
「そうなんや。本当に不思議なことやった。あのお姉ちゃん、子供のわしにはすっかり大人に見えたけど、本当はいくつぐらいやったんかなぁ。何とのう制服みたいなんを着ていたように思うし、まだ女学生ぐらいやったんかなぁ。そうやったら生きていたらもう九十を越しているはずや。ずいぶんと色の白うてほっそりした別嬪さんやった。そうや、由利。おまえにちょっと似ておったかもしれんなぁ」
 アハハと辰造は笑った。
「もう、おじいちゃんたら!」
 そう言って祖父が茶化して来たのをいさめると、改めて由利は祖父に問い直した。
「で、おじいちゃん、その女の人は結局どういう素性の人かわかったの?」
「いや、それがな、皆目判らんかった」
 辰造は口に柴漬けを放り込むとポリポリと美味しそうな音を立てた。そのあと、湯飲みから由利が淹れたお茶をぐいっとひとくち飲んで、再び話を続けた。
「そのお姉ちゃんのことを話したら、お母ちゃんは息子たちの命の恩人にひとことお礼が言いたい言うてなぁ、いろいろと近所の知り合いや親せきにも心当たりを聞いて回ってくれたんや。そやけど誰もそんな女の子は知らんと言うんやな・・・。しかもあのとき、電車は満員で人がぎょうさん乗っていたというのに、その女学生を停留所で見かけたという人もおらん。しかしどういうわけで、あのお姉ちゃんは、わしら兄弟だけを引き留めたのか・・・。不思議なことやが、あの人は未来を見ていたんや。そうとしか考えられん。今思うとあれは神さんかご先祖さんが、ああいう形でわしと兄ちゃんを守ってくれたのかもしれん・・・」

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境界の旅人 5 [境界の旅人]



「ありゃりゃ、しもたなぁ。白みそを切らしていたんやったなぁ」 
   通り庭にしつらえてある台所の棚を見て、辰造がひとりごとを言った。
   最近は由利も、辰造のそばで晩御飯の手伝いをするようになった。本当ならば辰造ひとりで作ってしまった方がさっさとできて早いのだが、横で孫娘が手伝いともいえぬような手伝いをしていても、ちっとも嫌な顔もせず丁寧に教えてくれる。その甲斐もあって手伝いを始めた当初は手伝いというよりも邪魔しているのに過ぎなかったのだが、最近は御汁の上に浮かせるネギぐらいならさっさと切れるようになってきた。
 今晩はパリパリに焼いたお揚げと分葱の「ぬた」を作ろうとしていたところだった。
「どうしたの、おじいちゃん?」
「う~ん、しもたなぁ、白みそがないわ」
 祖父と暮らすようになってから、献立に白みそを使ったものが多くなった。辰造が作るものはお揚げや豆腐と季節の野菜といったシンプルな素材のものが多かったけれど、由利にはそれが妙においしく感じられた。
「じゃあ、あたしが今からスーパーまで、ひとっ走りしてくるよ」
「ああ、あかん、あかん。スーパーのはな、なんや知らん、味のうて」
「味のうて?」
   由利はぽかんとして訊き返した。
「味ないってこっちゃ」
 祖父は言い直した。
「味ない?」
「はは、由利は『味ない』は解らんか?『おいしくない』ということや」
「ああ、だから味が無いのか。なるほど、なるほど」 
 由利はようやく祖父の言っている意味が解った。
「じゃあ、どこで買ってきたらいいの? 大丸? それとも錦? まだ五時前だし、時間は十分にあるよ」
「そうやな。ほな、行ってきてもらおうかな。うちら上京に住んでいるもんは、昔から白みそっちゅうたら、本田さんの白みそに決まっているんや」
「へ~ぇ、でもおじいちゃん。それは権高い京都人の一種の京都ブランド信仰ってヤツじゃない?」
 由利は少し意地悪く質問した。
「いやいや、由利。京都人はそんな酔狂な見栄っ張りじゃないわ。みそっちゅうもんは生きているんや。麹を使って昔ながらの製法で作られたもんは、何や知らんが旨い。高いと言ってもな、せいぜいスーパーで売ってるもんとでは何百円ぐらいかの違いやろう?」
「そうなのかな?」
「そうやで。人間、生きてる限りは腹が空く。三度三度の飯を粗末にしていると、人は人生の悦びというものを忘れてしまうんや」
 由利はそれを聞いて東京で一生懸命働いていた母、玲子のことを瞬間的に思い出した。もちろん祖父の言うことも一理ある。きれいに掃き清められた部屋。きちんとたたまれた洗濯物。心を込めて作った料理。それを盛り付けるための吟味された器。だがそんなふうに日常の細々とした些末なことにばかりに比重置いていると、大局的な人生の目的を見失ってしまう。
   マルチビタミン・ゼリーとカロリーメイトを食べながら、仕事で徹夜している母の姿が目に浮かんだ。
   祖父の言い分もわかるが、母がそれに反抗する気持ちも理解できる気がして、由利の胸中は複雑だった。
「場所はな、一条通りを御所に向かって、室町通に面しとるし、すぐや」
「室町通り・・・」
   祖父に教えられた通りに行くと、比較的広い通りの角にひときわ大きな白壁の店が現れた。玄関には柿渋色に、『丸に丹』の字を染め抜いたのれんが下がっている。
「うひゃ~、すごい。高級そう」
 高校生がひとりで入るには気おくれしそうな外観だったが、なにせ祖父に頼まれたお小遣いなので引き返すわけにはいかない。
 店に一歩足を踏み入れた途端、ずらっと大きな樽にさまざまな味噌が盛られており、店の中はふわっと麹のいい香りで満たされていた。
「おいでやす。何にいたしまひょ?」
 三角巾をきりっと被った、それでいて優しい物腰の店員さんに訊ねられた。はんなりした京ことばがよく似合っている。由利はここにいる自分がひどく場違いでいたたまれない気がしたが、勇気を振り絞った。
「えっと料理用の白みそが欲しいんです」
「どないなお料理でひょ?」
「えっとぉ、分葱とお揚げのぬたを作っていたんですけど・・・」
「ああ、かしこまりました。そんなら、これどすやろなぁ」
 店員があらかじめパックに充填されたものを手渡してくれた。

 無事に買い物を終えると緊張から解放されて、帰路はぶらぶらとそこらへんを探索しながら歩いて行った。ここいらはただ歩いているだけでも、ひどく楽しい。さっきのような古い老舗の味噌屋もあれば、ものすごくモダンなパティスリーやお洒落なベーカリーもある。
 由利は縦方向に伸びる室町通を一条通りから、中立売まで下がって行った。それからその角を曲がって西へ行き、途中でスマホを検索してみると『楽美術館』といって茶道で使う楽焼きの茶碗を扱う専門の小さな美術館があることも発見した。
「へぇ、今度行ってみよ」
 由利はスマホのリマインダーに『楽美術館』とタイピングした。

 堀川通りに出ようとした手前あたりで、由利は思いがけず赤レンガでできた古い建物を見つけた。
 その建物は補修工事もこれまで施されることもなかったのか、うらぶれてぼろぼろだがその昔には由緒ある建物だったに違いないある種の風格をにじませていた。
 由利はこの赤レンガの朽ち果てた建物を見て、英国児童文学の傑作と言われているフィリッパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』を思い出した。この目の前の建物からはピアスの作品の中に出て来るような、時代を経て安アパートに成り下がった貴族のマナーハウスの威厳のようなものが漂ってくるのだ。
「ここって何なんだろう?」
 興味に駆られて思わず近寄ってみると、赤いレンガの壁に今はさまざまなエアコンの室外機がぶら下がっている。本来は窓も縦方向に大きく取られていた。だがそれが東側に向いているせいで眩しすぎて朝もゆっくり眠れないためなのか、あるいは断熱材として用いられたのか、内側から改めて別の木の板で小さく囲われていた。それがかえってこの建物をひどく貧乏くさいものにさせていた。建物の後ろは駐車場になっている。よく見ればすべてアスファルトで舗装されておらず、ある部分だけは大きな御影石がいくつもはめ込まれていた。
 表に回って建物の正面を見てみたいと思い、由利は中立売通りを一端出て東堀川通りを下がると、その建物の入口はどこかと探した。だが由利の予想に反して、そこには建物に似つかわしい大きな入口はなく、普段歩いていたなら見逃してしまうほどの、細い細い路地が奥へと続いていた。由利は恐る恐るその奥へと進んで行くと、建物の入口に「白梅寮」と書かれた看板が取り付けてあった。扉もない入口をくぐると玄関先に十個ほどの郵便受けがあった。その中に投函されているダイレクトメールや不動産屋のチラシを見れば、つい最近のものだとわかる。
「あ、ここってたぶんアパートなんだ。少なくとも今でも人が住んでいるみたい」
 もう一度、東堀川通りに戻って建物の全体を見ると、外壁の塗装はボロボロだけれど、入り口の上にアーチ型の窓が設けられており、その上に何かの紋章らしき飾りが剥がれ落ちた形跡がある。アングロサクソン系のプロテスタント教会のような形からして、同支社大学のアーモスト館か、烏丸下立売の角にある聖アグネス教会などと同時代、同傾向の建物と思われる。おそらく作ったのは明治時代に活躍したヴォーリスかガーディナー。あるいはそれに準ずる位置にあった日本人建築家だろう。察するに、それが以前は別の目的で作られた何かだったことだけは解るのだ。

   そうやって頭をひねりながら、その場所から離れようとしたとき、中立売橋を渡って歩道を少し北へあがったところに、やはり桃園高校の制服を着た、御所で妖怪どもから救ってくれた例の少年が佇んでいた。
「あれは・・・三郎?」
 由利は急いで道を横切り、その少年のところへ駆けて行った。三郎は土手に掛かった背の高いガードレールに肘をついて上半身をもたれさせ、物思いにふけっているようだった。群れから一羽だけはぐれた鳥のような横顔に由利の胸はうずいた。
「ねぇ、ちょっと! あなた!」
 びっくりしたように少年が振り返った。
「また、おまえなのか?」
 少年は大きく目を見開いて由利を凝視したきり、絶句した。
「おれともあろう者がおまえの気配だけはどうも察知できないらしい・・・。何でなんだろうな」
 そんな三郎の困惑などものともせず、由利は自分の心の中にあった疑問を集中砲火のように浴びせかけた。
「ねぇ、あなた。桃園高校の生徒だったのね! 入学式の日にあなたを見たわよ!」
「ああ、そうだったな・・・。おまえにはおれのことが見えるようだからな、・・・どういうわけだか」
 三郎は不機嫌そうな低い声でつぶやいた。由利にはそれが聞こえなかったらしい。
「え、今なんて言ったの? あたしがあなたを会うと何か不都合なことでもあるの? ねぇ、この間の御所の近衛邸で出会ったお化けは一体何だったの?」
 三郎は呆れたように言った。
「そういっぺんにたくさんの質問をするなよ、どれから答えたらいいんだ?」
 そう言いながら、三郎は苦笑した。笑うと案外と年相応に可愛かった。
「ねぇ、あなた。うちの学校の生徒なんでしょ?」
「ふふ。うん、まぁ、そういうことにしておこうか」
 三郎はまた曖昧な答えをして、由利を煙に巻いた。
「なあに? 『そういうことにしておこうか』って? じゃあ、違うって言うの? だけど、現にあなた、今うちの学校の制服を着ているじゃない?」
「まぁ、人間の中では、おまえのようにごくごくまれに、おれのことが見えるヤツもいるからな。そんなときは、こういう恰好をしているほうが、今の街になじんで怪しまれなくて済む」
「生きてる人間? じゃあ、あなたって何なの? ユーレイ? 妖怪?」
 その問いには、三郎は終始無言だった。もともと端から答える気が無いらしい。仕方なく由利は話題を変えた。
「あなた三郎って呼ばれていたわよね」
「ん? 何?」
「あたしはね、あなたの名前は三郎なのかって訊いているの!」
「ああ、おれの名前を尋ねているのか? 今のおれには名前なんて不必要なものだ。そうだな、おまえが三郎と呼びたいなら、そう呼べばいい」
 また質問をはぐらかされ、正直由利はイライラしてきて大きくため息をついた。でもここで諦めては真実は聞き出せなくなる。それで思い直し、なるべく冷静さを取り戻そうとした。
「・・・しょうがないわね。じゃあ、本当はどうだか知らないけど、あなたは三郎よ」
「うん、三郎。それでいいんじゃないか?」
「では三郎クン、ここで何をしていたの?」
「ああ、おれか? ここで昔を偲んでいた」
 三郎はまた、由利の予想していた答えとはかなりかけ離れたことを言った。
「昔?」
「そうだ・・・。ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がしてな・・・。どんなに懐かしい、そこに留まっていたいと願っていても、時の流れには何人と言えど、逆らえない。それと同時に過去へも決して逆行することはできない」
 三郎が急にいわくありげなことを言うので、由利は何と答えていいかわからなかった。それに三郎はこんな制服を着ていても、どこか俗人離れしたようなところがあった。
「時代が移りゆくにつれ、たとえ地理的には同じ場所に立っていたとしても、目に映る景色はまった違っているものだ。解ってはいるが、ときどきそれが、妙に切なくなってな・・・」
 三郎は由利の気持ちを知ってか知らずか、こんなことを言った。
「もともとこの堀川は鴨川の元流だったんだ。その昔、鴨川は暴れ川でしょっちゅう氾濫を繰り返していた。だが桓武天皇がこの山城の地に平安京を造営される際、市中にこのような大河があるのはよろしくないと仰せになったので、,出町の辺りで高野川と合流させたんだ」
 三郎は由利に中立売より北に上がった堀川を指さした。
「それでもともと鴨川の水路だったここに掘割の運河を作ったんだ。この堀川は、今いる中立売から一条戻り橋にかけて川幅は広く取られているし、しかも川底が深い。運河にしては他には例もないほど、ものすごく深く掘られていて、だいたい長さにして四丈・・・いや、十二メートルぐらいかな。だからまぁ、いわば人為的に作られた渓谷だったんだ。だが今はどこぞの価値もわからない小役人がこういう由緒ある運河を、どういう意図でやったのかは知らんが、大枚をはたいてこんなつまらない公園もどきに作り変えてしまったんだけどな」
「あ、ほんとだ」
 堀川をのぞくと、セメントで塗り固められたせせらぎが流れ、その脇には遊歩道がつけられている。だが掃除を十分されておらず通る人もないその場所は、ひどく猥雑で汚らしく見えた。それをじっと眺め続けている三郎の姿はなぜか容易にことばをかけられない厳しさを漂わせていた。由利は声をかけることもできず、仕方がないのでしばらく辺りを見渡していた。
「すごいね。三郎クン。ここら辺の地理と歴史に詳しいんだね」
 少し間が開いたあと、由利は改めて三郎に話しかけた。
「いや、別に。ここに長く住んでいれば、自然と事情にも詳しくなる」
「長く住んでいたらって・・・。三郎クン、それじゃまるで何百年も生きてた仙人みたいじゃないの」
 それを聞いて三郎はすこしやるせない顔をした。残念なことにわずかな徴に気づかなかった由利は、地元の歴史に詳しそうな三郎に質問した。
「ねぇ、三郎クン。不思議に思っていたんだけど、ここって西側に大きな堀川通りがあるのに、東側には一方通行しかできそうもないこんな細い道があるのはなぜなの?」
 三郎は思いがけない質問をされて、気がそがれたようだった。
「あ、ああ。こっちの大きな通りは戦時中に類焼を防ぐためと、軍用の車を迅速に通すために家を壊してできた道だ。他にも御池通りと五条通りもそうだ。あの通りだって二車線あって広いだろ? だから元来の堀川通りとはそっちの側の細い道のことなのさ」
「え、この道?」
「そうだ。これだけで驚いていてはだめだ。しかもこっちの細い道路はなんと今から六十年も前まではそれこそチンチン電車が走ってたんだぜ?」
「え、そうなの? こんなせまい道なのに?」
「ああ、そうだ」
 三郎は場所を移動して、中立売橋を少し下がった場所を指さした。
「ほら、あれを見てみろ」
「ん? あ、なんか斜めに赤レンガが敷き詰められた跡があるけど? これって橋の跡?」
「そうだ、これが昔の北野線の電車が走っていた橋梁の跡なのさ」
「へぇ~」
 由利は三郎の知識の深さに感心しながら、歩道から今は東堀川通りと呼ばれている、かつての堀川通りをしげしげと眺めた。
「さ、もう帰れよ。家でおじいさんが白みそを買ってくるのを待っているんじゃなかったのか?」
 ぶっきらぼうにしか話さない三郎の声にわずかだが優しさが含まれていた。
「うん! ああ、そうそう。もう帰んなきゃ」
「そうだ、今頃、家でおじいさんが心配しておられるだろう。早く帰ってやれ」
.   家路を一歩踏みかけて、由利はふと心の中で疑問が沸き起こった。なぜ三郎は由利の家のそんな立ち入った事情まで知っているのかと。
「え、三郎クン! どうしてそんなことまで、あなたが知っているの?」
 もう一度後ろを振り返ったときには、三郎は既にそこにはいなかった。








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境界の旅人4 [境界の旅人]



 常磐井はそのあと何事もなかったかのように、のっそりと自分の席へと向かっていたが、さっきから固まったように突っ立っている由利のところまで来ると、ふっと足を止めた。
「おい、そこの背の高い彼女」
「え、え? あ、あたしのことですか?」
「決まってんじゃん。ねぇ、あんた以外に背の高い人、他にいないっしょ?」
「あ・・・」
 辛辣な常磐井の口の利き方に由利は再びうつむいた。
「な、あんた。どうしてオレがこうやって話しかけてんのに、人の顔をちゃんと見ようとしないのよ?」
 由利はそう言われると、おずおずと顔を半分だけ上げて相手を見た。
「そりゃあさ、もちろんいじめる側が悪いは悪いに決まっちゃいるけどよぉ。だけどあんたもいけないっていっちゃ、いけないんだぜ。どうしてそんなにウジウジ自信なさげに背を丸めてるの? な、ああいうヤツラに隙を見せちゃいけないんだよ。いじめる奴らってのは、人の弱みを嗅ぎ当てるのが天才的にうまい。実際それがその人にとって本当に長所か短所かは別にしてな」
 そのことばを聞くと由利はハッとなって、相手の顔を見つめた。常磐井も由利の瞳をしばらくの間じっと見つめると、ふっと表情を緩めた。
「あんたさ、見たとこ、スタイルよさげじゃん。もっとすっと背を伸ばして。オレみたいによ。もっと自信をもって堂々としてろや、な?」
 常磐井はそう言い残して、また来た時のように大股で自分の席へと戻っていった。

 激動のホームルームが終わると美月は由利のところへ近づいて来た。
「大丈夫だった? 小野さん」
「うん、ありがとう。でもまぁ、ああいうことって今までにも結構あったし。だけど最後びっくり」
「ああ、常磐井君ね。あたしもびっくりした」
 美月もそれには同意した。
「うん・・・彼のおかげで助かったのはたしかだけど・・・でもなんか・・・見た目もやることも派手な人だったね」
「だけどさぁ、スカッと爽快だったよ。あんな中二病のチビが、ネチネチ言いがかりつけてきてさぁ。みっともないったらないわ。それにしてもすごかったね。常磐井君、机が」
「そう、あれってそうとう固いはずだよ。あんなことってある?」
 信じられないと言った面持ちで由利がつぶやいた。
「だけど割れてた!」
 そういうと、クスクスとふたりとも顔を見合わせて笑った。
「ね、小野さん、これからあたしのこと、美月って呼んで。加藤さんなんて呼ばれるとなんか他人行儀で」
「じゃあ、あたしは由利ね」
 またふたりはにっこり微笑みあった。呼び方を変えただけなのにふたりの距離はぐっと縮まった。

「でも自業自得ね。ハメ外して調子に乗るからああいうことになんのよ」
 美月は当然と言った顔をした。
「でも、ちょっとハメを外したにしては、可哀そうすぎるくらいの制裁だったんじゃないかな?」
「何言ってんの、由利。あなた、いじめられた当事者だよ? 何事もはじめが肝心。ああいう手合いにはあれくらいきびしいので丁度いいのよ」
 美月も可愛らしい見かけによらず、結構手厳しかった。
「ね、由利のおうちはどこ? あたしはね、二条城の近くなんだ」
「へぇ、二条城?」
「行ったことない?」
「うん、まだね」
「じゃあ、今度一緒に行こう。あたしが案内したげる。で、由利のおうちはどこらへんなの?」
「えっと、あたしは堀川を下がって今出川まで行った辺りかな」
「ああ、西陣織会館があるところね! あたしのお母さん、あそこで着付けの先生してんの」
「へぇ~、着付けの先生? 美月のお母さんってすごいね」
「ううん、そうでもないよ。だってあたしんち、着物の会社だからさ、これも販売促進活動の一環かな」
「でも、改めて考えてみればそうだよねぇ、あたしたちが着物着る機会って言ったら、成人式ぐらいしかないもんね」
「でしょ? やっぱり自分で着られないってところに和服の限界があるのよ。やっぱりそういった意味でも和装業界も努力しないとね」
 そういいながら、下足箱にたどり着くと、由利は靴を履き替えた。見れば美月は何やらスニーカーのひもをごそごそいじっている。
「あ、美月。あたし外出たところで待ってるね」
「うん、お願い! ゴメン。何だかスニーカーのひもが緩いのよ。直したらすぐに行くから!」
「いいよ、いいよ。気にしないでゆっくり直してきて。あたしは大丈夫だし」
 由利が外に出て、玄関から校庭を眺めた。すでに桜の季節も過ぎ、あたりの木々は柔らかな黄緑色の新緑に覆われていた。清々しい気持ちでゆっくり腕をのぼしながら、もう一度辺りを見渡すと、校門近くのすずかけの木の下にひとりの小柄な男子生徒が佇んでいるのを見かけた。
 どこかで見たことのある顔のような気がして、じっと彼の顔に目を注いだ。
「!」
 相手も由利が自分のことに気が付いたことを悟って、すぐに視線をこっちのほうに向けて来た。わずかだが、その瞳の中にはいわく言いがたい敵意がにじんでいた。
「なんで・・・?」
 由利の顔がみるみるうちに青ざめて行った。
「あれは・・・三郎?」
 由利は信じられないといった口調でつぶやいた。
「どうしてあの子が? あの子もここの高校の生徒だっていうの?」
 ちょうどそのとき、美月が由利のもとへやって来た。
「お待たせ~。ごめんね、待った?」
「う、ううん」
「どうしたの、由利? 顔が真っ青よ」
「ううん、何でもないの。大丈夫」
 もう一度由利が視点をもとの場所へと戻すと、三郎の姿はかき消されたようにいなくなっていた。





読者のみなさまへ

この小説はフィクションですが、京都案内という意味を兼ねまして、一般の方々がご利用できるお店や場所・地名などは一部実名で書かせていただいております。一方、由利や美月の通う「桃園高校」および、宗教団体等はすべて架空です。そしてこの作品に出てくる宗教的概念もすべてフィクションであることを予めご了承ください。


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境界の旅人3 [境界の旅人]



「本当に入学式にはわしが付いて行かなくてもいいんか?」
 朝食を食べながら辰造は由利に訊いた。
「うん、もう高校生だもん。そんないつまでも保護者に付き添われるような歳でもないし。大丈夫」
「まぁ、そうやな」
 辰造は味噌汁をすすりながら答えた。
「学校へは歩いてだって行ける距離だもん。京都って本当に東京と違って楽よね。街がこじんまりとコンパクトにまとまっているもん」
「まぁ、四方が山に囲まれている土地やしな、そりゃ東京みたいに広がりようもないわな」
 由利は居間に掛かっている年代物の柱時計を見た。
「うわ、もうこんな時間? 急がないと」
 由利はバタバタと自分が食べていたご飯茶碗と汁椀を重ねて、隣の土間の流しへと運んだ。
「ああ、由利。急いでやると粗相するからわしがやっとく。おまえはもう学校へ行き」
「うん、おじいちゃん、ごめんね!」
 バタバタとカバンを抱えて由利は玄関へと走った。
「由利、あんまり慌てたらあかんで。事故にあったらどないするんや? 気ぃ付けて行きや!」
「うん、おじいちゃん! 行ってきまーす」

 入学式も済ませ、新しく桃園高校の新一年生となった生徒たちは、クラスごとに担任となる教師に引率されて教室へと向かって行った。他の生徒たちは中学校か塾かで一緒だったらしく、それぞれ見知った顔を見つけてはほっとしたように声を掛け合っていた。由利はまるっきり京都に地縁もないので、黙って歩いていた。そこへ誰かが後ろからタタタと駆け寄ってきてポンと背中を叩いた。びっくりして振り返ると、それはどうも新しくクラスメイトになるはずのひとりの女子生徒だった。小柄でちまっとしている佇まいは、リスのような小動物か、あるいはゆるキャラを彷彿とさせる独特の愛嬌があった。
「こんにちは」
 突然、こんなふうにあいさつをされると、どんなふうに返していいものか、由利には見当もつかない。
「あ、こ、こんにちは」
 仕方なく相手の言ったことばをオウム返しした。
「あたし、加藤美月っていいます。よろしくね」
 にっこり笑って相手が自己紹介した。
「あ、あ。あたしは小野由利」
 由利はドギマギしながら、自分の名前を言った。
「あ、あなた、小野さんっていうんだね。ああ、この列ってあいうえお順に並んでいるんだ。小野さんの苗字が『お』だから、『か』で始まる名前のあたしがその後ろ」
なるほど、と言うように美月はまた由利に向かって、にっこりと微笑んだ。げっ歯目っぽいつぶらな瞳がきらきらと輝いている。
「さっきからすごく気になっていたの。すごく背が高いんだなって」
 たしかに由利は女子としてはずば抜けて身長が高く、百七十二センチある。中学生のとき、百六十五センチを過ぎた辺りから、これ以上伸びませんようにと祈り続けていたにもかかわらず、結局こんなに伸びてしまった。
「え、うん。まぁ」
「いいなぁ、憧れちゃう」
「え? 憧れる?」
「うん、そう。すらっとしていて素敵だなぁって。式の間中、うっとりして見てた! まるでランウェイを歩くファッション・モデルみたいじゃない? あ~、いいなぁ。あたしなんて百五十五センチしかないんだよ。超チビじゃん。うちのお兄ちゃんがね、『おまえは走るより転がったほうが早い』って言うんだよ? ひどくない? もう、いやんなる。小野さんみたいに背が高かったら、世界も違って見えるだろうね」
「え、そんなことないと思うけど」
 たしかに背が高い美女は素敵だろうと思う。だが背が高いだけじゃ、美女にはなれない。
「え~。ご謙遜!」
 美月は由利の肩をポンと叩こうとしたが、背が高すぎてできなかったので、わざわざ伸び上がった。初対面にしては妙に距離感が近いのだが、その遠慮ない無邪気さが由利には心地よく、悪い気はしなかった。
あれこれふたりが話しているうちに教室に到着した。担任は廊下で待っている生徒たちに向かって行った。
「え~、皆さん。静かに! これから君たちは一年間、ぼくが受け持つ一年三ホームの生徒となります。教室に入ると机の左側に各々の名前が書いてあるから、そこにまず座るように。解ったら返事して」
「はーい」
 まるで気のない返事がユニゾンとなって廊下に響いた。
「じゃ、小野さん、またあとでね。このホームルームが終わったら。いいかな?」
「え、うん。いいけど」
「うん、良かった。じゃあね!」
 美月は小さく手を振りながら、自分に割り当てられた席に向かって行った。

「はい、皆さん、それでは改めてぼくから祝いのことばを言わせてもらいます。入学おめでとう! ようこそ、桃園高校へ。わが校は今宮神社や大徳寺も近く、学校も百年以上の歴史があります。ぼくは担任の篠崎雅宏といいます。君たちはこれから一年間、ぼくと一緒にすごすわけです。ぼくが教える教科は社会科領域。ですから君たちとはこの三年の間に地理、日本史、世界史、あるいは公民を教えることになります。これからもよろしく」
 篠崎と名乗る担任はこうあいさつした。篠崎は年の頃、三十代半ば、ベテランの中堅教師といったところだった。
「さてと。ぼくが自己紹介したところで、これからみんなにも自己紹介をしてもらおうかな」
 篠崎が提案した。クラスの中は一気にざわめいた。
「まあ、みんなの中にはお互いにどこかで顔見知りの人間もいるだろうけど、それでも中には全く知らない人もいるだろうからね。じゃあ、まず、自分の名前、そして出身中学。あとはそうだな、自分の好きなものとか、趣味とか、なんでもいいや。一言言ってください」 
クラスの中は再び騒然としたが、担任はそういうとこには慣れっこなのだろう、軽く手を叩いて鎮めた。
「はーい、みんな。静粛に。じゃあ、一番右側の列から行きます」
篠崎は一番前に座っている女子生徒の机に近寄って行って、机のそばに貼られている名前を一瞬じっと見つめ、読み上げようとした。
「じゃあ、あなたね。えっと山下・・・さいかさんと呼ぶのかな?」
「あ、あやかと呼びます」
最近の名前は親の願いがこもった凝った名前が多く、読むのにも苦労する。しかしこの程度では、苦労の内にも入らなかった。
「そうか、どうもありがとう。じゃ、山下さんからね」
 山下と呼ばれた女子生徒は、おずおずと立ち上がって自己紹介した。
「あ、こんにちは。一条中学から来ました、山下彩加といます。中学のときは卓球部に入ってました。あ、あとジャニーズの『嵐』の大野クンと『トワイス』が好きです。よろしくお願いします」
 次は男子生徒が立ち上がった。
「あ~、あざ~っす。あれは鴨東中学から来た斎藤卓也といいます。中学は、えっと、そのサッカー部で、ポジションはセンターバックをやっていました! 引き続き高校でもサッカーやろうと思っています。一年間よろしくっす」
 斎藤と名乗った男子生徒は、ぺこりと恥ずかしそうに頭を下げた。こうやってどんどん自己紹介が進んでいった。
 真ん中ぐらいに来ると、美月が立ち上がった。
「えっと、洛桜女子中学から来ました、加藤美月といいます」
 そう言った途端、クラスからほうっといったため息のような声があちこちから漏れ聞こえた。
「え~っと、あたしは中学のときは茶道部でした。それでいわゆる世間でいうところの歴女ですので、趣味は御朱印集めです」
 篠崎はそれを聞いて嬉しそうに、茶々を入れた。
「御朱印集めかぁ。それは頼もしい。それじゃ、加藤さんはどんな時代が好きなの? やっぱり戦国時代か幕末?」
「いいえ、先生。中世です。鎌倉と室町。現代日本の根底にある精神文化が成立した時代ですから」
「すばらしい! ぼくも君みたいな生徒がいると、授業のやりがいがあるよ。加藤さん、一年間よろしく」
 美月が自分の紹介が終わったので席に着こうとすると、ひとりの男子が手を挙げた。
「あ、質問でーす」
 美月が促した。
「あ、どうぞ」
「加藤さんは中学から大学まである名門女子高の洛女から、なんでまた、ここへ入学してきたんですかぁ」
 美月はああ、といった顔をして、澄まして答えた。
「それはぁ、女ばっかだと息が詰まるからです。それに中学から大学まで一緒に学ぶ人間がずうっと同じっていうのは、コミュニケーションスキルが鍛えられないって意味では残念な環境なのかなって考えたんです。あたしはこの高校に在学する間、なるべくこれまでとは違うタイプの人達と接することで、変化と刺激を自らに課して、人間力を鍛えたいんですよ。こんなあたしですが一年間よろしくお願いします」
 美月がちょこんと頭をさげるとへぇとクラスのあちこちから感嘆したような声が聞こえた。美月は可愛らしい見かけによらず、結構はきはきした頭の切れる子だった。
 こうやってとうとう由利の番になった。由利は少し緊張の面持ちで席から立ち上がった。その途端、男子から声が上がった。
「すげ~っ、背たけーっ!」
 予想していた反応とはいえ、由利の身体はビクッと震えた。 
「えっと・・・小野由利といいます。東京から来ました。まだこちらに来たばかりなので・・・京都のことはまったくわかりません」
 由利はボソボソとほとんど聞き取れないような声であいさつした。
 そこでまた見るからに中二病チックな男子生徒の何人かが挙手した。
「あ、ハイハイ、ハーイ、質問ですっ」
「あんまり変な質問を女子にするなよ、坂本」
 篠崎は何となくこれから発する質問の内容が察しられたと見えて、坂本と呼んだ男子生徒にそれとなく牽制した。
「小野さんは身長何センチあるんですか?」
 実に気分の悪い質問だ。ちらりと横目を走らすと、坂本はそれほど背が高くない。おそらく由利より低いだろう。結局こういう質問というのは、相手を貶めて自分のコンプレックスを正当化しようとする卑劣な手段だ。由利は質問の本当のねらいを理解していた、だから失礼な質問を無視して、あえて答えないでおく選択肢も頭に浮かんだ。だが相手をそれとなく観察するに、クラスのみんなの面前で恥をかかせては禍根を残す面倒なタイプのような気がした。仕方なくここは少し譲って正直に答えた。
「百七十二センチです」
「あはは、やべっ!」
 坂本が笑い出すと、その雰囲気に引きずられて、急にクラスの雰囲気が悪い方向へと向かった。
「いるんだよなぁ、こんなヤツ!」
「そうそ、いるいるっ! クラスには必ずひとりいはいる、バカでかい女!」
 由利を容赦なく揶揄する声が響き渡る。クラス中が由利を嘲笑する声で充満した。
「ちょ、ちょっと君たち、いい加減にしなさい! ほらっ、みんな! そこまでにしないか!」
 だがもはや、篠崎の注意は男子生徒たちの耳には届かない。
「はい、はい。質問、しつもーん」
 別の男子生徒が懲りずにまた手を挙げた。よきにつれ悪きにつれ、この場で一度強い結束が生まれてしまうと、もはや担任といえど生徒たちを抑えることはできなかった。
「小野さんてハーフなんですか?」
「ちょっと、あんたたち! やめなさいよ! これってもう、歴然としたいじめじゃないの!」
 美月は立ち上がって、男子生徒たちに向かって叫んだ。
「うるせーな、このガリ勉チビ! おまえはすっこんでろ!」
 また先ほどの失礼な質問をした坂本が、美月にヤジを浴びせた。
 たしかに母親の玲子ははっきりと教えてくれなかったけれど、由利を身ごもったのはフランスに行った時代と重なる。由利はどう考えても純粋な日本人ではなかった。身長の高いのももちろんそうだったし、顔の彫りも深く、色も抜けるように白かった。それに髪や目の色も真っ黒とはいいがたい。
「あ、そうです・・・」
 由利は消え入るような声で答えた。怒りと恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
 自分のクラスメイトの中に異国の血が混じっている人間がいるとわかると、急にクラス中は好奇心に駆られた目をして由利の一挙手一投足を観察していた。
「どこの国なんですかぁ」
「・・・・・・」
「どこの国って訊いているんですけどぉ~」
 男子たちは是が非でも由利に答えさせようと迫った。
「・・・フランス・・・です」
「すっげー、かっけー」
 クラス中がどっと沸いた。
 そのとき、部屋のうしろのほうでひっそりと席についていたひとりの男子生徒が、すっと立ち上がった。
 ものすごく背が高い。どう見ても百八十センチは軽く超えていた。少年は由利を執拗にからかっていた生徒たちの中心だった坂本の許へ、無言では足早に近づいて行った。
それに気が付かずに他の生徒たちと一緒にげらげらと笑い転げていた坂本は、ふいに横を見ると長身の同級生が席の横に立っていたので、その威圧的な態度に驚いてはじかれたように立ち上がった。
「な、何だよ、文句でもあんのか、おまえ」
 坂本は目の前の相手に向かって精一杯の虚勢を張った。
「なぁ、おまえ。坂本って言ったっけ? これもせっかくの機会だしさぁ、是非、オレの身長も訊いてくンないかなぁ」
 ふたりの身長差は二十センチ以上あった。これではまるで大人と子供だ。
「えっ・・・?」
「だからさぁ、オレにもよ、さっきの彼女にやったみたいに訊いてくれっつって頼んでんだよ、ああ?」
 長身の男子生徒は敵意をむき出しにして言った。それから坂本の胸倉をグイっとつかんで自分のほうへ引き寄せた。
「何なら体重のほうも訊いてくれてもいいんだぜ? オレって見かけよりずっと重いの。筋トレ欠かしたことねぇからな。へへっ」
 相手は身体が小さいので、つま先だちにならざるを得ない。
「世の中には、いろんな人間がいんだよ。おまえみたいにコンパクトなチビもいれば、オレのようにバカでかい人間もいんのよ。ほらっ、『みんな違って、みんないい』っつうでしょ? わかってンのか、ええっ?」
 こうやってすごむと十五歳の少年とは思えないほどの迫力がある。突然彼はクラスメイトに向かって自己紹介をし始めた。
「オレは常磐井悠季。身長は百八十八センチ。体重は八十キロ。で、趣味はそうだな・・・。喧嘩?」
 そういうと、狂暴な目をぎらりと件の男子生徒のほうに向けた。
「だがそれをしちゃうと、相手に必ず大けがをさせて病院送りになっちまうんで、シャレになんねぇ。だから今は自主的に止めてます・・・」
 常磐井と名乗った少年は、つかんでいた相手の胸倉をもう一度自分のほうへもう一度ぎゅっと引き寄せてから、座っていた席へと乱暴に放り投げた。
「だが理不尽なこととか、弱いものいじめが大嫌いなんで、今後この部屋で同じようなことが起きたら、誰だろうと絶対に許しません。オレが必ず天誅を下すってことを覚えといてください。ってことでそこンとこ、どうぞよろしくっ」
 そういうと、坂本が座っていた机に、拳を作り満身の力を込めて振り下ろした。

「うおぉおおおおお~ッ!」

 常磐井が発した奇声と同時に部屋中にガーンという破壊音が響き渡った。
「以上です」
 教室は水を打ったように静まり返った。


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奈良 元興寺 極楽坊へ [ひとつの考察]

皆さま、こんにちは。

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先日奈良へ行ってきました。
で、世界遺産にも登録されています『元興寺』っていうところへも行ってきたんですよ。

私は、歴史に詳しいと思っていらっしゃる方もいるかと思うけど、
実はそういうことは全くありませんで、

全体的な通史というものに非常に詳しいのは夫のほうです。

で、彼が「奈良へ行ったなら『元興寺』にも行ってみたい」
っていうので、
「『元興寺』? にゃんや、そりゃ?」

ってことで、真の歴史好きの夫からレクチャーを受ける。

なんでも『元興寺』っていうのは、もともと飛鳥にあった飛鳥寺(法興寺)が
奈良に移って『元興寺』となったそうなのであります。
飛鳥寺ができたのは588年のことだから六世紀。
仏教が伝わってすぐにできたお寺なのでしょう。


平城京にあってこの『元興寺』はもんのすごくでっかいお寺だった。
平城の一つの区画を坊条っていうんだっけ?
その一番小さい区画を8個分あったということです。
すごいなぁ、平安京にある京都御苑並みにでかかったということです。

しかし、こういう巨大なお寺って、本当はとてつもなく維持費が大変なんです。
だいたいにしてそこに修行しているお坊さんたちの三度三度の食費をどこから調達することができたかというと、それはバックにやっぱり巨大な荘園というものがあるからこそ、そういうことができたんですよね。

いつの時代も幅を利かせていたのは金の力です。


ところが、平安京へ遷都するとき、お寺は随行することを許されませんでした。
帝の覚えがめでたくない。ここで荒廃が始まるわけですよ。
で、時代が進んでいくと平重衡が南都を焼いたことにより、だんだんとこの壮大な『元興寺』も勢力を縮小していかざるを得なくなってのですね。

みてくだい。もともとあった、南大門も、お寺の心臓部ともいえる、金堂も講堂も、当時はふたつあった塔も焼亡してしまいました。

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それでどうにか奇跡的に残ったのが、今日、極楽坊といわれる部分だけです。
この極楽坊というのは当時は東室南階大房の一部分のことを指しました。

極楽坊ってどういうところかというと、ひらたく言えば、お坊さんたちの宿坊ですね。


ところで、お坊さんっていえば、すぐにお寺の僧侶と結びつきますが、本当はこの宿坊に住んでいるから、「お坊さん」坊の主は「坊主」です。
坊って房だと思うんですよ。「房」って部屋っていう意味もあります。
(ことばの変遷って面白いですね)

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で、まぁ奈良時代は超巨大で勢力を持っていたお寺もだんだんと時代がたつにつれ、極楽坊だけが残されて非常に貧しいお寺となったのです。


本当はこのお寺は「真言律宗」というちゃんとした教派もあるにはあったのですが、
もう後ろ盾になってくれる天皇とか貴族とはいませんので、ともかく「寺」として生き延びていくことに必死になるんですね。

で、それを支えてくれていたのが、民衆です。
で『元興寺』はこの民衆に支えられて生きてきたわけですよ。

だから、なんていうか、曼荼羅もありゃ、阿弥陀さんもあったり、聖徳太子なんかも祭られていたりで、宗教のごった煮の寺と化していきました。

でも、案外とそういったごたまぜ状態が却ってよかったみたいで、元興寺ってお寺の仏像やなんかの修復の技術を身に着けて、全国の仏さんが痛んだところを直していくんですね。

で、今日「元興寺文化財研究所」って機関を持っているんですよねぇ。

実にひょうたんから駒というか、何がきっかけで
生き残れるかってのは思案のほかって感じがしました。

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まぁ、国宝として極楽堂ていうのと禅室(僧坊)っていうのが残っているんですね。これが非常に古い。

入ってみると、軒が非常に低くて、平均的日本人なら鴨居に頭が閊えてしまう。
昔の人って小さかったんだなぁって思います。

この極楽坊の周りはたぶん長い歴史の間に積み重なった、卒塔婆が一か所に集められています。
で、なんというかその姿がですね


手塚治虫の「どろろ」の漫画に出てくる「地獄堂」そっくり。

手塚先生はこれをモデルにされたのではないだろうか?って思いました。
名前も元興寺のほうは「極楽堂」どろろは「地獄堂」だし。

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結構、奈良へ行くと京都の寺とはまた趣の違う面もたくさんあっ非常に興味深いです。


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