境界の旅人 24 [境界の旅人]

第六章 告白



 由利は小山と日曜日の十一時に始発である出町柳の改札で、待ち合わせをすることにした。 
普段はほとんど身なりには無頓着な由利は、いつになくおしゃれをしてこの日に備えた。
 日ごろの練習時のお茶の道具の取合せでさえ神経質なほどうるさい小山のことだ、今日も絶対に完璧に決めて来るに違いない。おそらく小山の頭の中には、『センスがない=頭の回転がよろしくない』という図式が成り立っているはずだ。由利は小山に軽蔑されたくなかった。
 どんなコーディネートなら、小山とマッチできるか。それにはまず小山がどんな格好をしているかを予想しなければならない。
 小山は芸術家タイプなので、あまりトラディショナルすぎる恰好はしないと思う。おそらくコンサヴァ路線かもしれないが、それを程よく着崩したものではないかと考えられた。
 由利はこの前上京したときに、母親の玲子にねだって買ってもらった『コテラック』の白地のプリント・ワンピース、その上にワンピースに合わせて買った薄地のニットのピンクのカーディガンを着ていくことにした。コテラックは遊び心があるデザインとフランスらしい中間色のプリントのバランスが絶妙で、前々から着てみたかったブランドだった。日頃はポール・スチュアート、ブルックス・ブラザーズ、ジョゼフあたりの手堅いスーツを着ている玲子は「そんなものは中学生の分際では高級すぎる」とこれまで決して買おうとしなかった。しかし娘に四か月も分かれて独り暮らしを余儀なくされた玲子の財布のひもは、案外と緩く「仕方ないわねぇ」と苦笑しながらも買ってくれた。そのついでにHP(アシュペ)フランスに寄ってスザンナ・ハンターのバッグもまんまとせしめた。
 普通の高校生なら大人っぽすぎて、てんで似合わない服も、手足が長く上背のある由利は難なく着こなした。

 こうやって準備万端にして改札口で待っていると、小山もほどなくして現れた。
 思った通り今日はやはり私服だった。
 紺色の七分袖の麻のテーラードジャケットに白いスキニーパンツ、そしてインナーはV字衿のボーダーカットソー。そして素足にキャンパスシューズ。手には差し色として目にも鮮やかなトルコ・ブルーのオロビアンコのウェストバックを軽く肩にかけていた。全体的に白と紺ですっきりとまとめて、清潔感があるコーディネートだった。

「やあ、小野さん。待った?」

 小山は明るく声を掛けて来た。

「いえ、あたしも今来たばかりです」
「そう? じゃあ行こうか」

 小山は何気なく由利の装いに一瞥をくれると、満足げに微笑んだ。

「小野さん、今日はおしゃれして来たんだね」

 由利は小山にほめられて心の中でガッツポーズをした。

 

 約小一時間で電車は北浜へ到着した。時計を見るともうすぐ正午になる。

「もうすぐお昼だね。先にお昼食べてからにしようか?」

 小山が提案した。

「小野さんは可愛い感じのお店が好き? それとも大人っぽいのがいいのかな?」
「えっ? これからお昼を食べに行くお店のことですか?」
「うん。ボクの頭の中には二三の案があるんだけど、どれが小野さんの好みかなって思って」

―まるで本物のデートみたいー

 いや、たとえ本当の男子とデートしたとしても精神的に幼過ぎて、こんなふうにスマートには行かないだろう。

「あ、あたしが選んでいいんですか?」
「うん。お好きなティストでどうぞ」
「それじゃあ、可愛いコースで!」
「OK。それじゃあ、行こうか」

 小山が案内してくれたのは、北浜駅から歩いてすぐのところにある「北浜レトロ」という店だった。赤レンガ造りの古いビルを改造してティー・ルームにしたのだが、全体にブリティッシュ・ティストで統一されており、小山が言う通りどんな女の子でもキュンとするような可愛さだ。

 壁に設けられた羽目板には目に心地よいペパーミントグリーンに塗られており、一階がテイク・アウト用のケーキとこの店の自慢のひとつであるオリジナル・ブレンド・ティー、そしてお茶のときに使用するティー・スプーン、ティー・コゼー、トレイなどの小物が販売されていた。まるで女の子の夢やあこがれがぎゅっと凝縮してこの店に詰まっているかのようだ。

「うわっ、カワイイ!」

 由利は思わず、声を上げた。それを見て小山は口角を上げた。

「いつもはわびさびのティストの和のお茶ばっかり飲んでいるから、たまにはこんなふうに華やかな紅茶の専門店もいいかなと思ってね。そら、喫茶室は二階だよ」

 二階に昇っていくと、お昼どきとあって、そろそろ満席になりそうな気配だった。

 クラシックな白いエプロンを掛けたウェイトレスに案内された。

「何人さまですか?」
「ふたりです」

 小山がよく通るハスキーな声で答えた。その途端、店内で自分たちのおしゃべりに打ち興じていた女の子たちの視線が一斉に小山と由利に集まり一瞬の沈黙のあと、ほぅっとため息をつくのがあちこちで聞こえた。ファッション誌から飛び出したかのようなカップルがデートをしていると、そこにいる誰しもが思っただろう。
 喫茶室にはどのテーブルにもバラの花柄の臙脂のクロスがかかり、椅子も黒いニスが塗られて、いかにも英国製であると見て取れる。まるで十九世紀のヴィクトリア朝の時代にタイムスリップしたかのようだ。
 川沿いの窓際の席に案内されると、そこから土佐堀川の大きな流れが見えた。

「うわ、この建物、すごく雰囲気があってステキですね」
「そうだねぇ、この建物は二十世紀の初頭に株の仲買業者の事務所として建てられたらしいけど、いろいろと変遷があって、今から二十五年ほど前に空きビルになっていたところを今のオーナーが紅茶専門店として作り直したってことだよ。まぁだけど、もともといい建物なんだろうね。国の登録有形文化財に指定されているってことだし」
「へぇ、そうなんですね・・・。小山先輩、その、登録有形文化財に指定される条件って、何なんですか?」
「さあね、選定基準ってどうなんだろうね。ボクもそういう方面には明るくないんではっきりしたことは言えないけど、昔は趣があるいい建物って言うだけでは、文化的価値があるとはみなされなかったらしい。だから壊すのには惜しいと思われる建物も、結構容赦なく壊されたって話だけどね。このビルみたいに登録有形文化財として残ったものは、おそらくラッキーだったんだろうね」

 由利は瞬間的に家の近くの廃屋に近い変電所を思い浮かべた。

「うちの近くにボロボロの洋館があって、昔をよく知っている人に聞くと、どうもそれは変電所だったらしいっていうんですよ」
「ふうん、そうなんだね。それだったらその建物も産業遺産として登録されるべきだろうにね。蹴上の発電所もたしか産業遺産か何かに指定されていたんじゃなかったのかな」

 しかしあの変電所は歴とした産業遺産のはずなのに、何の保護もされずに打ち捨てられたままで朽ち果てていくだけだ。だが由利は感傷に浸るのをやめて、今は小山とのデートだけに集中した。

「ねぇ、先輩、あたし北浜って初めて来ましたけど、大阪でもこんなにクラシックな場所ってあるんですね」
「そうだね。ここは明治の洋風建築が立ち並んでいる一画だからね。東京の人たちなんかは、大阪っていうとすぐに道頓堀あたりを連想するみたいだけど、それは間違った先入観だよ。大阪だって東京や京都に匹敵するような垢抜けた場所はたくさんあるよ。ま、ボク的にはこの北浜界隈は日本の中で一番洗練された界隈だと思っているんだ。東京の日本橋も、昔はこんな感じだったのかもしれないけど、今は頭の上を高速道路の高架があるだろう?」
「それはそうですよね。あそこはこんなふうに空が広々としていませんもん」

 由利も小山の言うことに同意した。

「小山さん、ここってちょっとパリっぽくないですか? あ、中州にバラ園がありますね」
「ハハハ。ああ、あそこは中之島公園のバラ園だよ」
「五月ごろはバラが咲いてきれいでしょうねぇ。あたし、実は一度もパリに行ったことが無いけど、シテ島やサン・ルイ島ってセーヌ川の中州でしょう? あれにちょっと似ているような気がする」
「あはは、そう言われればそうかな。中州にある街って意味じゃ同じだものね」

 この店は紅茶の専門店だけあって、数えきれぬほどの紅茶の種類があった。紅茶だけが載っている専用のメニューを開くと、オレンジやザクロ、シナモンやクローブなどのフルーツや香辛料で味付けされたオリジナル・ブレンドがずらりと並んでいた。またその名前もいちいち「エリザベス・ガーデン」「ビクトリアン・ウェディング」「天使の歌声」など乙女心をくすぐるようなネーミングで、由利などは選ぶのにさんざ迷ってやっと「プリンセス・ローズ」というお茶に決めた。一方の小山はろくにメニューも見ずに「ああ、ミルクティが飲みたいから、アッサムで」とウェイトレスに告げた。
 しばらくして注文していたサンドイッチとお茶が銀のお盆に入れて運ばれてきた。由利はツナと野菜。小山はいかにもイギリスらしいティストのサーモンとクリームチーズのサンドイッチ。どちらもウェッジウッドのお皿に盛りつけられている。トマトの赤とレタスの緑のコントラストが食欲をそそる。

「おいしい!」

 由利は気持ちがよいほどパクパクと平らげていく。

「小野さんは苦労してきたわりに、生きる喜びとでも言えばいいかな、そういうのを率直に表現するから、一緒にいるボクも何だか幸せな気分になるよ。それってすごく大きな魅力だね」

 小山はテーブルに頬杖を突きながら、目を細めて由利を見ていた。

「え、そ、そうですか?」

 由利はドギマギしながら言った。

「うん。きっとお母さんの愛情を一身に浴びて育ったんじゃないかな」

 小山は玲子について、これまで由利が思っても見なかったことを言った。

 

 昼食を食べた後は、本来の目的である大阪市立東洋陶磁美術館へと向かった。

「ねぇ、先輩。あたし、うっかりして東洋陶磁美術館について、あんまり下調べをしてなかったんですけど、一体どんな美術館なんですか」
「ああ、この美術館は結構特殊でね。昔、安宅英一って実業家が自分の会社である安宅産業に東洋陶磁を収集させていたんだ。それを『安宅コレクション』って言うんだけど、それがもう超弩級の一級品ばっかりでね。その数何と千点あまり。その中には実際に二点の国宝と十三点の重要文化財があるから、聞いただけでもどれだけすごいかがわかるだろう?」
「ふうん、安宅コレクションですか・・・?」
「うん。まぁ、残念なことに安宅産業が破たんして、この膨大なコレクションも手放さなきゃならない羽目に陥ったんだ。だけど散逸することを恐れてなのか、住友グループは安宅コレクションを大阪市に一括寄贈することにしたんだね。こういう美術品って、ただそこらへんに仕舞っておくだけじゃ、本当の意味できちんと保管したことにならないんだ。芸術品の保持者っていうのは、単にそれを所有するだけではなく、次世代にも伝える義務があるんでね。常にコンディションをベストにしておかなきゃならない。それだったらただ保管するだけじゃなくて、いっそのこと美術館を作って、あまねく世間の人に門戸を開いてこの素晴らしい芸術品を見てもらった方がいいだろう?」

 由利はぽかんとして、小山が滔々と熱く語るのを聞いていた。小山はふと我に返って由利に言った。

「あ、ゴメン、つい話し込んじゃって。これぐらいにしとくよ。実際に大事なのは、自分の目できちんとものを見ることだからね」



 由利は小山に連れられて美術館の二階にある常設展示の中の中国陶磁室のエリアへと入っていった。
 中国エリアは三つの展示室に分けられており、一番手前の部屋が後漢から宋まで。真ん中は宋時代のみ。そして三番目は明から清にわたる陶磁が陳列されてある。

「小野さんはどんなのが好き?」

 後漢時代からひとつひとつ丹念に見ている由利に小山は尋ねた。

「そうですねぇ、明や清の時代のようにカラフルなものも技巧的には優れているとは思うんですけど、あたし、どっちかというとコバルトで染められた絵付けのものとか、白磁や青磁で細工されたものが好きかなぁ。フォルムに緊張感があるっていうのかしら。単にデコラティブだと言うだけでなく、精神性の高さみたいなものも感じるんです」

 それを聞くと、小山はわが意を得たりと言わんばかりに、にっこり笑った。

「さすがだね。やっぱり小野さんは審美眼があるんだね。たしかに明や清のものは、技巧的には非常に凝ったものが多い。でもこんなふうに華やかな絵付けっていうのは、漢民族本来の感性ではなく、やっぱり異民族のものなんだ」
「なるほど。清も征服王朝ですものね」
「うん。ボクは何と言っても陶磁器は宋の時代のものに極まると思っているよ」
「そうですね。そうかもしれないです」

一緒に歩いていると、由利はひとつの作品の前で足を止めた。

「ほら、小山さん。この南宋時代の『青磁鳳凰耳花生』って見てくださいよ。無駄のないフォルムなのに鳳凰をモチーフにされた持ち手だけが斬新にデフォルメされた意匠で。今見ても随分とモダンな感じがします」
「そうだね。これ重要文化財だよ」
「あ、ホントだ」
「小野さん、こっちに来てごらん。ボクがこの世の中で一番好きな陶磁器を見せてあげる」

 小山が少し興奮したように、由利をその部屋のある一画へといざなった。

「ほら、これだよ」

 それは一見すれば本当に黒くて小さな茶碗だった。だがよくよく見れば、黒い水の上に油を垂らしたように銀の雫が一面に細かく散っている。

「あっ・・・」

 由利は引き込まれるように茶碗の中をのぞいた。

「あ、底が青い・・・。小山さん、まるで夜空のようです! 天の川がぎゅっと凝縮されて、このお茶碗の中に閉じ込められたみたい」
「これをキミに見せたかったんだ・・・」

 由利はしばらくことばもなく、ただじっと小山と一緒にその茶碗を眺めていた。

「このお茶碗、何ていうんですか?」
「油滴天目茶碗っていうんだ。中国じゃ建盞(けんさん)って呼ばれているようだけど。国宝だよ」
「国宝・・・? そうなんですね。どうしたらこんなに美しいものが創れるんでしょうか?」
「茶碗にかけられた黒い釉薬の中に入っている鉄の成分が何かの拍子でこんなふうに油が散ったように浮かび上がるらしい」
「じゃあ、全くの偶然?」
「そう。もともと黒い茶碗を焼いていたはずなのに、ときどき何万分、いや何十万分の一の確率でこんな奇跡が起こるんだ。しかもこれは奇跡の中の奇跡。まさしく神が作ったものとしか思えない。他にも曜変天目とか灰被天目(はいかつぎてんもく)とかいろいろな種類があるにはあるんだけど、ボクはこの油滴天目が一番好きなんだ」
「このお茶碗の金色の縁がまたアクセントになっていていいですね」
「ああ、これって金覆輪(きんぷくりん)って言って、元来は縁が欠けないように補強するものなんだけどこのお茶碗ほど、この金覆輪が似合うものって他にはないと思う」

 うっとりと茶碗に見惚れたまま、小山は言った。

「油滴天目茶碗ってたしかに他にもあるけど、ひとつひとつの雫がこれまどまで細かく均等に散っているものってないんだ。今じゃこんな茶碗は、本家の中国ですら残っていない。おそらくこれは鎌倉時代に海を渡って伝えられたんだろうね。そして大事に大事にされて今日まで残っているんだ。見ているとこの茶碗に対するそんな歴代の所有者の愛情も感じ取れるような気がするよ」







読者のみなさまへ

この小説はフィクションですが、京都案内という意味を兼ねまして、一般の方々がご利用できるお店や場所・地名などは一部実名で書かせていただいております。一方、由利や美月の通う「桃園高校」および、宗教団体等はすべて架空です。そしてこの作品に出てくる宗教的概念もすべてフィクションであることを予めご了承ください。

※    ※    ※

本来なら魔界的京都観光が主なこの作品ですが、今回、京都から出て、私が日本で一番洗練されていると思っているロマンティックな都会、北浜を紹介させていただきました。並木が続く大きな川が流れていて、その周辺にはバラ園や、美術館、フェスティバルホール、そしてレトロな建物が点在しています。由利と小山みたいなおしゃれなカップルだったら、やっぱり北浜が似合うと思ったんですね。

由利と小山がデートに使った、英国式ティー・ルーム、北浜レトロは実在します。とてもチーズケーキがおいしい店です。北浜にはほかにも五感など、関西らしいおおらかさのある、本当にいろんなおしゃれなお店がありますが、ここはその一つです。北浜に行ったら、ぜひ訪ねて見てください。

そして、大阪市立東洋陶磁美術館。ここはお茶碗好きにはたまらない美術館でしょう。普段は東洋陶磁の常設だけですが、企画展では、ヘレンドの特集をしたり、オーストリアの女流陶芸家、ルーシー・リー展など開催されています。


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境界の旅人 23 [境界の旅人]

第六章 告白



 由利は一生懸命電子辞書とグーグル翻訳を駆使しながら、フランス国立研究所に宛てて、英文の手紙を書いた。
 本当は手書きのほうが、より親密さが伝わって好感度が増すのかもしれない。だがやはりここは何よりも読みやすさを優先に考えると、英文はワープロ書きにして最後の署名だけを自筆にするのが最良だという結論に至った。

 その翌日、由利は小山部長へ謝りに音楽室へと向かった。階段の途中からピアノの音が響いて来る。
 聞き覚えのある曲だ。

「ショパンの革命のエチュード?」

 虹色に輝く真珠を思わせる、粒のそろった柔らかな音色の連なり。
 小山がこんなピアノを弾くとは知らなった。由利は音楽室のドアの傍に立って、じっと耳を澄ませていた。
 小山は弾き終わるとドアの陰に潜む気配を感じ取り、誰何するために椅子から立ち上がった。

「ああ、小野さん。来てくれたんだね…」
「部長……、あたし……、いろいろと不躾なことを言っちゃって…、その、申し訳ありませんでした」

 由利は小山に向かって深々と頭を下げた。

「いや、いいんだよ。ボクこそ悪かったね。最初からきちんと説明すべきだったんだ」

 小山は由利の目が濡れているのに気が付いた。

「小野さん……泣いていたの?」
「あ、あたしったら……」

 由利は自分の目の縁をごしごしと手でこすった。

「どうしたの? 何かイヤなことでもあった?」
「あ、そんなんじゃないんです! 小山さんのピアノがものすごく心に響いて。こんな革命って、初めて聞きました。普通はもっとぱぁっと派手に弾くじゃないですか。あ、あたし、門外漢なんで、頓珍漢なことを言ってるのかもしれないですけど、こう、苦悩に耐えに耐えているような、そんな感じがして」
「ハハ、そんなふうに聞いてくれてたなんて、光栄だね。先生からは奏法がオールド・ファッションだから、もっとクールに弾けって言われるんだけど、どうもね」
「オールド・ファッションだなんて。あたし、ピアノでこんなに感動したの、初めてです」
「へぇ、小野さんは感受性がものすごく鋭いんだね。初めてお茶室に来たときも、お茶碗の美しさに心奪われていたものね。たいていの人はよほどその曲を聴き込まない限り、ピアノのこんな微細なタッチなんて聞き分けられないもんだよ」
「そんなこと、これまで考えたこともなかったです……」
「そう? でも小野さんのこんな芸術的気質は、きっとご両親のどちらかから譲られた天賦のものだと思うけどね」

 由利はハッとしたように顔をあげ、またポロポロと涙をこぼした。

「どうしたの、小野さん。ボクはまた、キミを傷つけるようなこと、言っちゃったのかな?」
「い、いいえ。いいえ!」

 ふと由利は、小山なら自分の今の気持ちを理解してくれる気がした。

「す、すみません。小山先輩。と、唐突なことを言うようですが、じ、実はお願いがあるんです」

 緊張のあまり、ことばが震えた。

「落ち着いて、小野さん。ボクは何にも気分を害してないから。ゆっくりでいいから話してごらん」
「あ、あたし……今、自分の父親が誰なのかを捜しているんです。それで小山さんにお力を借りられたらと思って……」
「それ、どういうこと? 詳しく聞かせてもらっていいかな?」

 由利は母親の玲子とラディに関するこれまでの経緯を話した。小山は真剣な面持ちで、黙って最後まで聞いていた。

「ふぅん、なるほど。で、キミはボクにどうしてもらいたいの?」
「実は、美月……いえ、加藤さんにも相談したんです。そしたら彼女、部長は英語に堪能だから、これを見せて添削をしてもらうようにって、助言してくれて」

 眼鏡の奥にある小山の目が、キラリと光った。

「ふうん、その英語の手紙、今持ってる?」
「あ、はい」

 由利は、昨日自分が書いた手紙のファイルを渡した。小山はファイルからA4用紙の紙を取り出すと、しばらくそれにじっと目を注いでいた。

「うん、そうだね。よく書けていると思うよ。これでいいんじゃない? ……強いて言うなら、ここの助動詞のcan を過去形に換えると、よりポライトな表現になるかな?」

 小山は譜面台に紙を当てて、カチっとボールペンの芯を出すと、アカで訂正した。

「はい、これ」
「あ、ありがとうございます」
「うん。どういたしまして」

 小山がファイルに入れて唯に返そうとしたとき、はらりと床に何かが落ちた。それは芙蓉子からもらった玲子とラディの写真だった。 
 それを小山がかがんで拾った。

「これ、お父さんとお母さん?」
「ええ、母です。男性のほうはまだ、父と決まったわけじゃないけど」

 小山はまじまじと、写真を見つめていた。

「でも……小野さんはどっちかというと、お母さんよりも、この男性にそっくりにボクには思えるけど……?」
「えっ?」
「ほら、このおでこの感じとか、フェイスラインとか。あとは全体的な顔の配置っていうかな……。よく似ているよ」
「ホントに?」

 小山は写真と由利を、もう一度交互に見比べた。

「うん。たぶんこの人が本当のお父さんで間違いないんじゃないかな?」

「あ、はい」

「それとね、次に会うときまでに、その手紙とその写真のコピーを一部ずつ、ボクにくれない? ピアノの世界って案外狭いもので、仲間内で情報が常に飛び交っているもんなんだ。安請け合いはできないけど、今度厄介になるベルリンの先生は、世間では情報通で知られているんだ。だから小野さんの事情を話して、物事がタイミングよく運べば、ひょっとして何かわかるかもしれない。先生のオーソリティに訴えれば、こんな研究機関の事務局でも動いてくれるような気がするんだ」

 小山は由利が想像もつかない方法で、父親捜しに協力してくれることを申し出てくれた。

「ええっ、本当にいいんですか? 小山さん、ありがとうございます!」

 由利は小山の私心のない望外の親切が、心に染みた。

「え、じゃあ、すぐに書面と写真のコピーをお持ちしますね」
「小野さん。次の日曜、何か予定が入ってる?」

 唐突に小山が尋ねた。

「えっ? 次の日曜ですか? ちょっと待ってくださいね」

 由利はスマホのカレンダー・アプリを見て確認した。

「ああ、今のところは何にも予定は入っていません」
「そう。それじゃあ、もし小野さんさえよければ、その日はボクに付き合ってくれないかな? 一緒に北浜まで行ってほしいんだ」
「き、北浜ですか?」
「うん。北浜に大阪市立東洋陶磁美術館ってのがあるんだ。そこへボクと行かない?」
「う、うれしいです!」

 由利は素直に喜んだ。
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境界の旅人 22 [境界の旅人]

第六章 告白



 由利は合宿の間はスマホを開かないことに決めていた。

祖父の辰造は、スマホはおろかガラケーですら使ったことがなく、未だに黒い固定電話一本切りでしのいでいた。

 だからもし緊急の用事があれば、一週間滞在する民宿のほうに連絡をくれるように、電話番号の控えを紙に書いて渡していた。母親の玲子にも合宿する建前の理由を話して、よほどのことがない限り連絡は控えてくれと頼んでいた。

 だいたいリアルな世界で交わるべき人がたくさんいる場面で、目の前にいる人たちとのやり取りをないがしろにしてまでSNSを優先してしまうのは本末転倒だと思うのだ。それに由利はこれ見よがしに自分の今の状況をいちいちSNSにさらすことも、どこかゆがんだ自己顕示欲が垣間見えているような気がして、好きではなかった。

 合宿から家に戻ると由利は落としてあった電源を入れて、スマホを再起動させた。
 美月からLINEのメッセージが届いていたので、まず真っ先に由利はそれを読んだ。

「由利、滝行頑張ってる? それともこれを読むのは滝行から帰って来たあとかな? 例の事件が起こって以来、茶道部のみんなが由利のことを心配しています。とくに部長の小山さんが『もともと自分が紛らわしい恰好をしたせいで、ナイーブな小野さんを混乱させたのは申し訳なかった』と悔やんでいました。とにかくいろいろ実際に会って話さなければならないことがいっぱいあります。合宿から帰って来たら、一度あたしにメッセしてね。」

 いかにも美月らしい、簡潔でいて、それでいて思いやりにあふれた文章だった。
 それから気になっていた、facebookを開いてみた。
 結局あれから、ラシッド・カドゥラという名前で、四十歳から五十歳までの男性という条件を満たしていれば、国籍がどうであろうとDMを送ることに決めたのだ。由利の探しているラシッド・カドゥラ氏は、玲子と同じように、留学生という可能性も捨てきれなかったからだ。
 これに該当する人間は十七名いた。DMには『今から十六年前にフランス国立研究所で研究員として働いているのであれば連絡がほしい』という文章を付けて一斉配信した。
 しかしそのほとんどどれもが由利を失望させるに足る内容だった。

「オウ、ユリ、ユー・アー・ヴェリィ・ビューティフル・ガール! ソー・キュート!」
 
「私は、フランス国立研究所の研究員ではないが、その側に住んでいた。これからも楽しい付き合いをしよう!」
 
「何だ、こりゃ? この人たち、あたしの書いた文章の主旨をちゃんと理解してる?」

 中には高校生の由利が読んでも、かなり怪しいと判るような英文で書かれたものもあって、読むのにかなり労力を要した。もし英語やフランス語が母語でない外国人だったとしても、曲がりなりにも天下のフランス国立研究所の研究員であれば、相当に高い知性の持ち主のはずだ。

 だから簡単な英語の単語のスペルが間違っていたり、三単現のSなど忘れるはずがない。要するにこれらすべてのラシッド・カドゥラ氏は、フランス国立研究所の研究員どころか、研究所にもフランスにも縁もなければゆかりもない人間ということになる。ただ彼らの目にはエキゾチックに映る由利のアイコンの写真に、性的な興味を掻き立てられて、送り返して来ただけに過ぎなかった。

 由利はこれには心底落胆した。いたたまれなくなって美月にLINE電話をした。すると美月はほどなく応答してくれた。

「あ、由利! 元気? 久しぶり! これでもう、十日ぐらい連絡とってなかったよ」

 いつものように電話に出た美月の声は、屈託がなく明るかった。その声を聞くと由利は、急に身体の奥から元気が湧き出て来るような気がした。

「うん。ごめんね。滝行ってやってみて初めて解ったんだけど、かなり危険を伴うものだったんだ。だから修行中は下界のことに気を取られて集中できないと怪我しそうな気がしたんで、ずっとスマホの電源を落としていたの」
「下界・・・? ふふ。そうなんだね。でも由利のことだから、おそらくそんなことだろうと思ってた」
「美月。メッセージ読んだよ。ありがとね。小山部長にも悪いことしちゃった」
「そうだねぇ、小山さん、ああ見えて繊細なところもあるから。由利があの日、泣いて帰ったって聞いたら、えらくショックを受けてた」
「そうなんだ。ああ、どうしよう? ね、美月、明日会えない? 時間あるかな?」
「いいけど? 相談?」
「うん。小山さんのことももちろんあるけど。他にもいろいろと困ったことが起こって・・・。どうしていいか分かんなくて途方にくれているとこ」
「いいよ、いいよ、この美月サンに任せなさいって。とりあえず今晩は、ひとりでヤキモキするのはナシにして。ね、いい?」

「うん、わかった。ありがとね、美月」



 そこで由利は美月と北大路ビブレの傍のスタバで翌日の十一時に待ち合わせすることになった。

 由利が店に入るとすでに美月は席に座っていて、季節のおすすめフラペチーノを飲んでいた。

「おはよ。由利も何か頼んできたら?」

 そこで由利はいろいろ迷ったあげく、豆乳アイスラテのグランデを選んだ。注文した豆乳ラテを選んで席に戻ると、美月はちょっとびっくりしたように言った。

「グランデ・サイズ? ちょっと大きすぎない?」
「うん。でもここで長居するにはちょうどいいサイズだと思うし」
「そっか。で、相談したいことって何?」

 美月は単刀直入に訊いてきた。

「ね、あたしが合宿へ行く前に、facebookで結構たくさんのラシッド・カドゥラさんにDM送ったじゃない?」
「うんうん。それで? 返事帰って来たの?」

 美月は突然目を輝かせた。

「それがね、全部バツみたい」
「ダメだったの?」

 輝いていた顔が途端にくもった。

「うん・・・。だって、その人たちには『フランス国立研究所に在籍していた研究員だった場合、連絡してください』って送ったのに、変な勘違いしていてさ。みんな援助交際か疑似恋愛かなんかだと思っているんだよね」
「何人返して来たの?」
「えっと、九人ぐらいかな」
「あとは?」
「返事がない」

 ふたりともしばらくうなだれて、無言でコーヒーをすすりながら考えていた。

「ねぇ、こうしたらいいんじゃない?」 

 ようやく美月が顔を上げて切り出した。

「ほら、facebookのDMっていう方法自体、お手軽すぎて相手にされないんだと思うんだよね。こんなんは読まれもせずに最初っから迷惑メールとみなされて、ゴミ箱直行なんだよ。やっぱりこれはきちんと書面にして、直接フランス国立研究所宛てに送るべきなんじゃないかな?」
「じゃ、どう書くの?」
「うんと。そうだな・・・。こういうのはどう? 『私は、十六年前に当研究所で研究員として在籍していた小野玲子の娘で、小野由利といいます。私は今、ある理由があって母と同時期に貴研究所に在籍していたラシッド・カドゥラ氏と連絡が取りたいのですが、もし貴研究所が現在のカドゥラ氏の住所をご存じであれば、カドゥラ氏に連絡を取っていただき、小野玲子の娘がカドゥラ氏からの連絡を望んでいるとお伝えして欲しいのです……』こんなのはどう?」
「うん・・・。でも、研究所に直接ラディの住所を教えてもらうことはできないのかな?」
「いや、それはできないと思うよ。個人情報だもん。見ず知らずの人間に、そうおいそれとは教えるはずないと思う。こんなふうに面倒でまだるっこしく見える方法しかないけど、それでも向こうからしたら、少なくともこっちの誠意は伝わるんじゃないかな・・・?」
「そうだね、やっぱり美月の言う通り、それでいいのかもしれない。あとはあたしの住所とメアドを書けばいい?」
「うん・・・。まぁ、これも一か八かだけど、少なくともfacebookよりも軽い扱いは受けないんじゃないかな? 事務局の人が親切な人だったら、調べてカドゥラさんに連絡を取ってくれる可能性はあると思う。ま、これもあんまり確実とは言いがたいけどね」
「そうだね、やるだけの価値はあるのかも」
「うん、そうだよ。何もやらないよりはマシだよ。もしダメだったらまた次の方法を一緒に考えようよ」

 美月はとかく暗い方向へ傾きがちな由利を励ました。

「ありがとう、美月。そうだね、まずはそれでやってみるよ。あとはね、今の茶道部っていうか、小山さんのこと。どうなってるのかきちんと教えてくれる?」
「うん。今んとこ茶道部はね、九月までお休みなんだ」
「ええっ? 今度、夏のお茶会あるんじゃなかったの?」
「うん。本来ならお盆は、浴衣を着てお茶会をするのが、毎年の恒例みたいなんだけど、小山部長がね『自分のせいで部員がひとり失意に駆られているのに、残された人間だけで楽しくお茶会を開いてお点前なんかできるはずがないって』って言ったんで、取りやめになったんだ」
「えっ、そうなの? あたしが合宿へ行っているうちにそんな深刻な事態になってたなんて。滝行へ行ったのは、ちゃんとした別な理由あるからだって部長は知ってるよね? あたし、ちゃんと小山さんに説明したはずだけど」
「うん。でもそれは単なる口実だと思ってるかもしれないね、小山さんは」
「あ、そんな…。あたし早く小山さんに会わなきゃ」
「うん。たしかに由利は、なるべく早く小山さんに会う必要があるね。誤解は早いとこ解かなきゃ。今は部はやってないけど、小山さんはたぶん毎日学校に来てるんじゃないかな?」
「どうして?」
「音楽室でピアノの練習しているって聞いたよ。小山さんは家にもグランドピアノがあるし、防音装置もあるらしくて、外に出る必要はないんだそうだけど、何ての、一種の気分転換なんだって」
「そうなんだ・・・。何かあたしの知らない間に、みんなにすごい迷惑を掛けちゃったんだね」

 しゅんとして由利が言った。

「そんな・・・あたしもみんなも由利に迷惑をかけられたなんて思っちゃいないよ。だけどさ、でもこんなことを言うと、由利が傷つくと思って今まで言うのを控えていたんだけどね。この際だからはっきり言っていいかな?」

 いつもの美月にしては、妙に歯切れの悪い尋ね方をした。

「え、何? 美月や部の他のみんなが思っていることを聞かせて。絶対に怒ったりしないし」
「うん・・・。小山さんのこと、たしかにあたしとか他の一年生は、由利がまったく気が付いていないって解ってた。そのことはあたしも他の子たちも由利に言おうとしたんだけど・・・」
「したんだけど・・・? 何?」
「うん。何てか由利は、いわゆるガールズ・トークっていうかさ、そういうのに水を向けても、鈍感っていうかさ、まったく乗ってこないんだよね。だけどあたしは女同士の秘密の共有っていうのも、それはそれで立派なコミュニケーション・スキルのひとつでもあると思っているんだよね。由利はもともと内向的だから、そんなちょっと悪意の入った根回しができないのはわかっていた。だけどそういうのをことさらに疎んじるのも、もしかしたら、由利の中にお母さんとの確執がトラウマになってるのかもって思っていたんだ・・・」

 美月は一度ことばを切って、相手の反応を確かめているようだった。

「うん…。ごめんね、美月。たしかにあたしは、そういうのにあんまりかかわらないようにしてたかもしれない…」

 由利はテーブルの一点に目を定めたまま、ぽそりとつぶやいた。

「ごめん。…たしかに毎日今度こそ言わなきゃって思っていたんだけど、結局タイミングを逃して、こんなことになってしまって。でもだれも由利を仲間外れにしようなんて思ってなかったんだ・・・。ホント、ごめん」
「そうなんだ・・・」

「でもね、あたし由利がさっきスタバに入って来たとき、これまでと何か雰囲気が違うなって気がしたんだ。少し大人になったっていうか。それにどことなくきれいになった気がした! それって精神的に成長した証なんじゃないの? おそらく滝行のお蔭とか?」

 美月がまた突然、思いがけないことを言い出した。

「何? それ? おだてても何にも出ないよ?」

「ううん。由利に今更お世辞を言ってどうするのよ? もしかしたら常磐井君と何かあったの?」

 探るように美月が訊いた。

「まさか。まぁ彼は合宿でも、相も変わらずオレさまでナルシストだったけど?」
「へぇ、なぁに、なぁに、それ?」

 由利の辛辣な口調に美月はふふと笑いながら質問した。

「道場の人達ってみんなめちゃくちゃ身体を鍛えていて、『北斗の拳』のケンシロウみたいにマッチョなんだよね。筋肉ムキムキでさぁ。びっくりする。それにさ常磐井君なんてさ、何を思ったのか上半身裸で濡れたままあたしに近づいてきて、『オレのこと見惚れた?』とかって訊いてくるの。もうバッカじゃないの? あんなゴツい身体で側をうろちょろされたら、どうしたって意識せざるを得ないじゃないの」
「あはは、カワイイじゃん? きっと由利にステキって褒めてもらいたかったんだよ。それで?」
「いやいや、ガン無視だよ」
「あたし思うんだけど、常磐井君、由利のこと、本当に好きなんじゃないかな?」
「えっ、どうして?」

 美月には話さなかったけれど、由利はそれでも滝行のあとで凍えている自分を案じて、常磐井がさりげなく温かいお茶を勧めてくれたことを思い出した。

「だって、常磐井君って由利を見つめるときの表情がね、いかにもって顔をしてるんだもん。見てるこっちのほうが切なくなってきちゃう」
「まさかぁ。そんなロマンティックな柄ですか? あの常磐井君が? 何かの間違いじゃないの?」

 冗談を言いながら由利は、兄の治季から教えられたことを思い出して、息苦しさを感じた。

「やっぱり男の子って、由利みたいに女子濃度が高くなくて、それでいて外見が大人っぽい子に憧れるんだね。なんとなく透明度が高くて、ミステリアスな感じがするもの」

 美月は心底羨ましそうに由利を見つめた。

「何言ってんの。あたしなんて中学のとき『デカ女』ってさんざバカにされてきたんだよ。こんなあたしに誰が・・・」
「ううん、それは違うよ、由利。もうみんなそろそろ大人になりかけている。これまでの由利はいわゆる『醜いアヒルの子』だったんだよ。だけど今は羽根も生え変わってきれいな白鳥に変わったんじゃないかな。あたしさっきも言ったでしょ? 由利はきれいになったって。ある意味うらやましいよ、そんな由利が」

 美月が真剣な調子で言うのを、由利は目を見張って聞いていた。

「たしかにね、入学したての頃は、由利はスタイルこそ抜群だったけど、こうクソ真面目で堅そうだなって言う印象は否めなかった。だけど今は違う。それだけはハッキリ分かるよ」
「そうかなぁ。それ、褒め過ぎじゃない? 自覚はまったくないけど・・・」
「そんなことないって。美月サンの言うことを信じなさいって」
「ありがと。そんなふうに美月に認められると、あたしも少しは自信が持てるような気がする」
「で、やっぱり滝に打たれるって危険なの?」

 美月は急に話題を変えた。

「うん。最初は夏に滝に打たれるなんて楽勝じゃん、涼しくてサイコーって思ってたんだけど、滝の落差が十二メートルあって、落ちるときの水圧が半端なくてね、ずっと鈍器に殴られ続けているような感じで痛いのなんのって・・・」
「それで修行自体の効果はあったの?」
「う~ん、どうかな? 滝行って近くのお寺の行者さんが付かないとやれないもんらしくて」
「やっぱり危険なんだね」
「で、帰り際にその行者さんにね、あたしは大きな白い蛇に憑かれているって言われたの」
「えーっ! マジで? それでどうすることになったの?」
「まぁまぁ、白い蛇は神聖だから、悪さはしないって言ってたけど。だけど念のため肌身離さず付けていなさいって、お札をくれたの」
「ひゃあ、そりゃ、『サスペリア』なんて見に行けないはずだよ」
「でしょ? でも大丈夫。帰って来てからは、超常現象には今のところ遭っていません」




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境界の旅人 21 [境界の旅人]

第五章 捜索



 すさまじい地獄のような聖滝からの合宿を終えて戻ると、京の街はアスファルトから陽炎が立つほど熱く、今度は灼熱地獄にいるような気がする。

「あ、暑い・・・」

 たったの一週間しか留守にしていないのに、妙に家が懐かしかった。

「おじいちゃん! ただいま帰りましたぁ」

 玄関で孫娘の声が聞こえると、 辰造は機を織る手を止めて、走り庭の方まで顔を出した。

「由利か、おかえり」

「おじいちゃん、ただいま」

由利は冷蔵庫から麦茶を出して、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干した。

「どうやった、合宿は?」

「うん、やっぱり体育会系っていうか、武道家たちの集まりだけあって、結構ハードだった」
「そうか。まぁ、ほんなら夕飯まで自分の部屋でほっこりしとき。晩御飯はわしが用意するから」

 由利は申し訳ないと思いながら、祖父のことばに甘えた。



 ずっと自分だけには難しい顔をしていた行者が、帰りがけにマイクロバスに乗ろうとしている由利に声を掛けた。

「ちょっと、小野さん」

 行者は遠くのほうから由利に手招きをして呼びかけた。

「あ、はい」

 由利は行者にいい印象を与えていないのだと感じていたので、呼び止められたのは意外だった。

「小野さんね、ちょっとこっちまで来てくれるか?」

 行者は由利に声をかけたあと、門下生の男子にこう命じた。

「あ、君ら、わしは小野さんに少し話があるから、出発するのを五分ほど遅らせてくれるか?」

 人目の付かないところまで行者は由利を連れて行くと、懐から懐紙に包まれた短冊のようなものを渡した。

「これは、わしが小野さんのために書いた護符や。これをこれから必ず肌身離さず身に着けておきなさい。わかったね?」
「あ、わざわざ私のために? ありがとうございます」

 驚きながらも由利は行者にお礼を言った。

「本来、行者というものは頼まれてもいないことを人に為すことはないんやが、少し気になってね。脅かすようで恐縮なんだが、小野さんはどうも因縁が絡み合った業の深い生まれのようや。何か気が付いていたかね?」
「えっ、それは・・・はい。気が付いていました。四月に京都に引っ越してきたのですが、それからいろいろと不思議な目に遭って・・・。今回、門外漢だったあたしがこの滝行へ参加した理由もそれです」
「ふむ・・・。それはおそらくあなたのみ魂さんがこの土地に御縁があったからやろうな。あなたは要するに呼ばれたんやな」
「呼ばれた?」
「そう。それにあなたの身体には、うろこが銀色に輝く大きい蛇が空中を泳ぎながら幾重にも巻き付いて見えるんや・・」
「へ・・・び、ですか?」

 それを聞いて由利はぶるっと身体を震わせた。

「蛇と一言で言ってもいろいろあってな。非常に霊格の高いものもいる。神様として祀っている神社もあるくらいだ。ましてや銀色に輝いているのだから、小野さんに憑いているものは決して悪いものではないとは思う。むしろ非常に守られているとも言えるのだが、どうもな、何か引っかかるんでな」

 由利は不安な気持ちで行者の話を聞いていた。

「しかし人生を恐れてばかりではあかんのや。これからは努めて、正しい行いをするように心がけなさい。結局今生において善行を施して徳を積むことだけが、過去世に犯した罪障を消すんでな。まぁ、そんなことを急に言われても、小野さんには信じられないかもしれないが・・・。また何か困ったことがあったら、遠慮なくまたわしのところに来なさい。力になれることがあったら協力するから」
「あ、ありがとうございます。そんなに気にかけていただいて」

 由利は蒲団の上に転がりながら、帰り間際の行者とのやりとりを思い出していた。

「まぁ、蛇まで憑りついているのが行者さんに見えたのなら、そりゃたまげるよねぇ・・・」

 しばらくするとまたスマホのバイブレーターが鳴った。常磐井からだった。

「由利ちゃん、お疲れ~。もしかしたら道場の行衣持ち帰ってない?」

 また常磐井は第二の人格のものいいで尋ねてきた。
 そう言われてみれば由利は行者に気を取られて、うっかりしほりに行衣を返すのを忘れていたかもしれない。カバンを見ると、濡れたままの行衣が水着と一緒にビニール袋に入っていた。それを確認すると、由利は常磐井に返信した。

「あ、ゴメン。持ち帰っちゃったみたい。家でもう一度洗って、干してから道場まで届けるんでいいかな?」
「あ、届けてくれるの? サンキュ。こっちに持って来てくれるのは助かります。ぼくが由利ちゃんちに採りに行ってもよかったんだけど(笑)。別に急ぐものじゃないじゃないから、時間のあるときでいいから。道場のほうはいつも三時に開くので、それ以前なら自宅のほうにお願いします(^^♪」



 由利はわざわざこのために誂えた帖紙に、これまた祖父に押し付けられた菓子折りを風呂敷に包んで、常磐井の家に行こうとしていた。
 由利が洗濯機で洗濯して干した行衣をそのまま畳んで風呂敷に包もうとしたら、祖父に見咎められた。

「由利、よそさんからお借りしたもんを、そういうふうにぞんざいに扱うもんやない。そういうのは、貸してくれたその人の顔を下駄で踏むように失礼なことなんやで」
「え、じゃあ、おじいちゃん。どうしたらいいの?」
「面倒やと思うやろうけど、もう一度、糊がけしてキチンとアイロンをかけるんや。それから新品の帖紙にきれいに畳んで入れて、感謝の気持ちを表すために菓子折りのひとつも付けにゃ」
「ええ? だってあたし、常磐井君にはちゃんと合宿費用も渡したし、それでいいんじゃないの?」

 東京育ちで今どきのドライな考え方に慣れた由利は反論した。

「せやけどな、由利。よう考えてみい。むこうさんは道場さんなんやろ? それやのに、何の関係もない由利に声を掛けてくれはったんやから、先方さんのご厚意に感謝せな。それがご縁を繋ぐってことなんや」
「ご縁・・・?」
「そやで。この世間で一番大事なんはご縁やで。わしがこの歳でこうやって機を織っておられるのも、ご縁があったればこそや」
「そんなものなのかねぇ。うん、解ったよ。ありがと。おじいちゃん」

 ここは素直に祖父の言いつけに従った。



「ここらへんだっけな」

 203号系統のバスを出町柳で下車すると、由利はグーグル・マップを片手に常磐井の家を確かめていた。彼の家と道場は鴨川を越えて下鴨神社の近くにあった。
 由利は初めて下鴨神社の参道を通ったときの感動を思い出した。その感激は今も薄れていない。

この神社の境内に茂る森は『糺(ただす)の森』と言われ、この土地に平安京を定めるより以前、山城の国といわれていた頃よりもはるかに昔から生えている原生林なのだという。じりじりと照り付ける太陽も、ここだけは天然の天蓋のように鬱蒼と茂る背の高い木々に遮断され心地よい風が吹き抜けていく。さらに参道に沿って流れる小川のせせらぎも清らかで、ここだけは常な清澄な空気で満たされている。

 せっかく下鴨神社の近くまできたので、多少遠回りでも由利は途中までこの参道を通り、途中からそこを抜けて、常磐井の家へと向かった。

「えっと、三時までは道場は開いてないってことだから、ご自宅のほうへ行けばいいのね。きっと常磐井君のお母さんが出て来られるんだろうなぁ。ああ、何だか緊張する」

 由利は玄関の前でもう一度みだしなみを整えて深呼吸をした。すると突然玄関の引き戸が開いて常磐井が出てきた。どうも出かけるところだったらしい。

「あ、常磐井君!」

 すると常磐井は目を大きく見張って、由利を見た。

「ああ、あなたはいつぞやの! 桃園高校で見かけたクール・ビューティ! どうしたんですか、こんなところにまで?」

 それは常磐井ではなく、どうも兄のほうらしかった。常磐井の兄は小走りで由利のほうへ駆けてきて、由利が持っている荷物をさっと持ってくれた。間近でよく見ればたしかに常磐井とはよく似ているけれど、多少顔のパーツのニュアンスが異なる。

「ああ、常盤井君のお兄さまですね。こんにちは」

 由利は少し気遅れしながら、相手に向かって頭を下げた。

「えっとこの間、合宿に参加させていただいたのですけど、行衣をお返しするのを忘れていて・・・。それをお返しにあがりに・・・」
「ああ、そうなの? じゃあえっと、きみの名前は?」
「あ、小野です。小野由利といいます」
「ふうん。由利さんね。ちょっと待っててくれる?」

 常磐井の兄はもう一度玄関に入って、奥に向かって声を掛けた。

「叔母さん! 叔母さん! 悠季のお客さんだよ!」

廊下の奥のほうで「はぁーい」という女の声がする。常磐井の兄がこの家の主婦にあたる人に向かって『叔母さん』と呼び掛けるのを、由利は一瞬奇異に感じた。
 しばらくして奥からこの家の主婦らしい人が応対に玄関まで出てきた。小柄できれいな人だったが、あまり常磐井に似ているとは思えない。

 由利はあわててあらかじめ練習しておいた口上を述べた。

「は、初めまして。あ、あたし、常磐井悠季君のクラスメイトで小野由利と申します。この間は合宿にお誘いいただきまして本当にありがとうございます。今日はお借りしていた行衣をお届けに上がりました」

 すると主婦とおぼしき人は由利が息子のクラスメイトだとわかるとにっこりと笑って、行衣を受け取った。

「まあまあ、ご丁寧に。恐れ入ります。悠季はね、今度は高校の弓道のほうの合宿とやらで、長野のほうへ行って留守にしていますねんよ。何やしょっちゅう出たり入ったりしてせわしない子ですねん」

 常磐井の屈託のない笑顔に出会えるのをちょっぴり期待していただけに、少し由利はがっかりした。

「そうなんですか…。それでは常磐井君がお帰りになったらよろしくお伝えください。それからこれ、家の者がこちらさまへお渡しするようにと預かってまいりました。どうぞお納めください」

 ぺこんと由利はお辞儀をすると、風呂敷をさっとほどいて菓子折りを玄関に置き、相手のほうに手を添えて渡した。由利は内心、このときほど茶道を習ってよかったと思ったことはなかった。

「まあまあ、お気遣いいただいて、却ってこちらが恐れ入ります」

 常磐井の母親は、由利のきちんとしたあいさつに好印象を持ったようだった。それをすぐ傍で見ていた常磐井の兄がこう言った。

「叔母さん、ぼく、ちょうど家に帰るところだったし、ついでにこのお嬢さんを車に乗せて送っていくよ。こんなに暑かったらバス停まで歩くのも大変だろうし」
「ああ、治(はる)ちゃん。ほんならおことばに甘えてもいいやろか。こんなに暑いさかいなぁ。そうしてくれると助かるわ。ほな、小野さんでしたっけ? お気をつけてお帰りやす。こないに暑いところをほんまにおおきに」

 常磐井の母親ははんなりときれいな京ことばを話した。そして、「治ちゃん」と呼んだ常磐井の兄にもう一度声を掛けた。

「治ちゃん、お父さん、お母さんにもわたしからよろしく言っていたと伝えてな」
「うん、わかったよ。じゃあね、叔母さん。叔父さんや悠季にもよろしく」

 玄関を出たところで常磐井の兄は、少し改まった調子で由利に訊ねた。

「小野さん、これから少し時間が取れそうですか?」
「え? 時間ですか? ええ、まあ」
「このすぐ近くにわらび餅がめちゃくちゃおいしいお店があるんだけど、そこでお茶しませんか?」
 
 常磐井の兄が連れて行ってくれたところは、『宝泉』という茶寮だった。 

 茶寮と称される建物は新しく建てたものではなく元は普通に人が済む住宅だったらしい。だが京都の真ん中に建てられたにしては、庭も充分すぎるほど広く、しかも凝った作りだったので、古い建物を壊すことなく茶寮用に作り直したようだった。

表通りに面しておらず、奥まった住宅街にぽつんとあるので京都人だけが知っている秘密の隠れ家っぽい風情だが、それでも最近は「ぐるなび」などが宣伝しているせいで結構たくさんのお客で賑わっていた。
 由利たちは庭に面した奥の座敷に通された。中に通されると全館が夏向けの葦戸(よしど)に取り換えられ、それがいかにも目に涼し気に映る。だが実際それだけでは暑さをしのげるものではないので、きちんと空調と取り付けられていた。

 常磐井の兄は弟のように茶目っ気がない分、静かににこやかに話す態度はやはり大学生らしい落ち着きがあり、好感が持てた。

「最初にお見かけしたとき、小野さんが大人びたすごい美人だったから、思わず見入ってしまって、びっくりさせて申し訳ないです。それにしてもまだ高校生なのに、すっぴんでこうも完成された子っているんだなぁ」

「そんな。あたしなんか別に背が高いだけで、別段大したことなんかありません」

「あのときは不躾に声をかけて失礼しました。見ず知らずの男に突然あいさつされちゃったら、びっくりしたでしょう?」
「いいえ、あのとき後から常磐井君が歩きてきたんです。だから、なぜ常磐井君がふたりいるのって、そっちのほうに驚いてしまって・・」
「あはは、そうなんですね。でもこうして再び会えるなんて光栄です」

 常磐井の兄は静かな雰囲気の男だったが、会ったなりこんな気恥しいことばを難なく口にできるあたり、よほど経験豊かなプレイボーイなのかもしれない。由利はちょっと用心した。

「あ、ぼくは悠季の兄で、阿野治季(はるき)というんです」


 阿野という名前を聞いて、由利は心臓が跳ね上がるのではないかと思うほど驚愕した。

「え? 阿野・・・? 阿野さんとおっしゃるのですか、常磐井ではなく? でも治季さんは、常磐井君と実のご兄弟なんじゃないのですか?」

 驚きながら由利が問い詰めるのを聞くと、治季はハハハと笑いながら説明した。

「ああ。あなたはご存じないんですね。おっしゃる通り、ぼくたちは正真正銘、血の繋がった兄弟ですよ。第一そっくりでしょ? ですが常磐井の叔父、つまりこの人がぼくたちの母の弟にあたるんですが、この夫婦には長らく子供に恵まれなくてね。しかも道場をやっているんで、どうしても男の子の後継者が欲しかったんですよ。で、まぁ幸運なことにぼくも悠季も体格に恵まれて、武道をするための素養はあったものですから。でもさすがにぼくたちの実の父親に『道場を継がせるための跡取りにさせるから、長男を差し出せ』とは言えなかったみたいでね。それで次男坊の悠季が中学に上がるのを待って、正式に養子にして道場の跡を継がせることにしたんです。だから弟は小学生までは阿野悠季だったんですよ」
「じゃあ、さきほど治季さんが『叔母さん』と呼んでらした方は・・・?」
「ああ、あの人は要するに、叔父の連れ合いで、ぼくには義理の叔母にあたる人です。まぁ、弟は気を遣っているのかおふくろって呼んでいるみたいですけどね」

 由利は心に引っかかることを、用心しながら目の前の治季にそれとなく水を向けてみた。

「ご兄弟ともに『はるき』『ゆうき』って対になっているんですね。『それに季』っていう字も」
「ああ、治季に悠季ね。うちの家ってよくわかんないんですけど、昔は帝に仕える殿上人だったらしいんですよ」
「殿上人?」
「ああ、殿上人っていうのは、貴族でもランクがありましてね。たしか五位以上だったかなぁ、何でもその位がないと帝が住む御所には上がれなかったらしいんですよね」
「へぇ、そうなんですね」

 由利は治季に相づちを打った。

「ああ、それでまぁその時から、うちの家は代々、男には『季』っていう字をつけるのが、まぁ、一種の伝統っていうのかなぁ。うちの親父も実際、『煕季』と言うんです」

 由利は何喰わぬ顔をしながらも、びっしょりと冷や汗を掻きながらそれを聞いていた。

「京都ってこんなふうに伝統を守っていらっしゃるおうちが多くて、東京から来た新参者のあたしなんかはびっくりすることばっかりです」
「いやいや。何をおっしゃいます、由利さん。京都の人間は、それぐらいしか矜持を保つ術(すべ)がなかったっていうことですよ。実際ぼくらは、明治天皇がこの京都から江戸に行幸するときにさえ、随行されることを許されなかったんですよ」

 由利がどう返事をしていいのか黙っていると、助け船を出すように治季はまた話を元に戻した。

「でもね、ぼくたちの名前は、最初、『はるき』『ゆうき』ではなく、『はるすえ』『ひさすえ』って読ませたんですよ。それで母があまりにその読みは時代遅れだからって、途中でやめさせたって話です。戸籍謄本には名前の読みまで記載しなくてもいいらしいのでね」
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境界の旅人 20 [境界の旅人]

 こうやってどうにか滝行の一日が終わった。門下生の男子たちは腹筋で腹は割れ、首にも肩にも腕にも筋肉が付き、まるで全員が金剛力士のようだった。こんな男たちにとってもはや夏の滝行などはただの水遊びにすぎないらしい。由利のように騒ぎ立てる人間は誰一人としておらず、みな涼しい顔をしてシャワーでも浴びるかのように滝に打たれていた。あまつさえ滝行だけでは鍛え足りないのか、待っている間はたいていの人間は腹筋運動や腕立て伏せをして時間をつぶしていた。

「この人たち、同じ人間なの? 信じられない」

 自分と彼らの間に横たわる限りない基礎体力の差を思い知り、由利は密かにため息をついた。
 次の朝、起きてみるとしほりに言われた通り、体中が打撲したような痛みがあった。足の裏が何となくヒリヒリすると思って確かめると、踏ん張りすぎたせいなのか、ところどころ赤くなって水膨れができていた。

「ひぇ~、たったの一分のことなのに!」

 驚いている由利を見て、傍にいたしほりが言った。

「ああ、私も最初の年はそんなふうになったわよ。最後はずるりと全部足の裏の皮が剥がれたんだけどね」
「ええっ? 本当ですか?」
「まあ、何事も経験。私、小野さんが滝壺に入ったとき、この人はもう、恐怖に打ち勝ったんだなってものすごく感心したよ。見ていてわかったもの。結局ね、武道の効能っていうのは単に相手じゃなくて自分の弱さに克服することに尽きるのよ。こういう気持ちはね、社会に出たらあらゆる場面で必要とされる能力よ。たとえパワハラやセクハラする上司がいても、間合いを見て、堂々とことばで応酬することもできるようになるの。一歩自分を押し出す力が身につくのよ。だから今日も頑張りましょう」

 しほりはちゃんと由利のことを見ていた。それにそんなふうに激励されると非常にうれしかった。

 その日は昨日と全く同じ手順を踏んで滝行をした。だが昨日の滝壺に入った時点で、いみじくもしほりに褒められた通り、めそめそ泣きごとを言っても物事は好転しないと覚悟を決めてしまったので、昨日のような恐怖をさほどには感じなかった。
 二日目は朝に一回、昼に一回。その次の日は朝に二回、昼に一回と少しずつ行の回数を増やして、四日目には他の人間と同じように、朝二回、昼二回の行をこなせるようになった。しかも回数を増やしていくごとに滝に打たれている時間も、次第に長くなって途中からは皆と同じように五分ぐらいまで打たれていられるまでに進歩した。
 だが傍で指導している行者の由利を見る眼は、どこか厳しいものがあった。
 五日目までは、ほとんど何も変わらずただただ滝の水圧に耐えているだけの苦行に過ぎなかった。
 だが六日目になると、次第に恐れや痛み以外の何かが由利の心の中の空白に生ずるようになった。一瞬その正体を突き止めたと思うのだが、次の瞬間には空を切るように、するりと手の内から逃げ去ってしまう。由利は次第にもどかしさを募らせていた。


 しかし最終日の七日目の最後の行のときに、由利は目をつぶって「南無大日大聖不動明王」と唱えていた。だんだんと没我の状態になり、由利の意識は心の中の光っている一点に集中した。するとふっと意識が飛ぶのを感じた。



 気が付けばまた由利は、以前自分が気絶したときに見た時と同じ時間、同じ場所にいた。
 この間と同じように、由利は御簾が降ろされた大床に金や紅が鮮やかな繧繝縁(うんげんへり)の厚畳の上に座っていた。

「皆中(かいちゅう)! 各々方、中将さまが放たれた矢、二十本すべて皆中でござりまする!」


 大床の前の庭には、弓を持ち片肌を脱いだ男が遠くに立っていた。
この前はどう耳をすませても聞き取れなかったことばが、今の由利にはやすやすと理解できた。 
 そう、この男は「中将」だった。


「ほう、女御、そこもとのひいきの季温(すえはる)がまた、的中であるぞ」 


 自分の横に座っている帝も、今度は中将のことを「季温」と呼ぶのがわかった。

ーこの男の名は、季温というのか・・・ー 

 由利はだんだんと心が昂って来るのを感じた。

「まあ、主上(おかみ)。酷い言われようでございます。わたくしは主上の妃なれば、身も心も主上に捧げております」

 自分の横に座っている男に向かって 由利はやすやすと心にもない嘘をついた。

「はは、まあまあ。よいではないか。やつはそなたを自分の命を呈して窮地から救い出してくれた男ぞ。もそっとうれしそうな顔をしてもよいと思うがの」
「そんな・・・。主上。もちろんそれは、うれしいともありがたいとも思うておりますとも」
「さようか」

 帝は由利のそつのなさすぎる返答にぽつりと返したきり、しばらく沈黙していた。が、持っていた扇でどこか苛立たし気にぴしゃりと膝を打った。この男は自分と中将の関係にうすうす気が付いているのかもしれないと危ぶみ、由利は内心焦りを感じた。

「しかしそれにしても一度も外さぬとは、そつがなさ過ぎて小癪な奴じゃ。それでは今しばらく続けさせようかの。あと何回放てば、的を逸らすであろうのかの? のう、女御」

 帝のことばの端々に、中将に対する嫉妬がにじみ出ている。だが何事もなかったかのように、花のような笑顔でやんわりと帝を取り成した。

「主上・・・。しかしながら、もうよいではありませぬか。ご自分の大事な臣下を、それそのように試すような真似をなさらずとも」

 笑いかけると帝は思わずうっとりと自分に見惚れている。嫉妬に駆られていても、女御の美しさには平伏しているのだ。由利は自分の美しさの威力を充分に知っていた。

「ほれ、そこもとは何かと、あやつをかばい立てする。そこがどうも気に入らぬ」

 いかにもくやしそうに帝は、由利が中将の味方をすると腹を立てる。

「ほほ、お戯れもそこまでになさいまし。どうぞ主上からも褒めてやってくださりませ。すべては主上の栄えのためでございますよ。今日の宴に花を添えてくれたのです。ほかの殿ばらではこうはいかなかったでしょうから」

 由利は努めて声を抑えていたが、誇らしげな気持ちでいっぱいだった。

「おお、そうよ。季温は朕にとってたしかに大事な男。そうじゃの。女御の言うとおり、朕からもねぎらってやるとするか」
「それでこそ、わが君さまでござります」

 由利は頭を下げた。自分の想い人はこの帝も認めざるを得ないほど有能な男なのだと思うと、嬉しさと誇らしさで胸がはちきれそうになる。由利はまだ誰にも気づかれていない自分の膨らみつつある腹を、庇うように大きな袖で覆った。だが今は、この命運を懸けた秘密の恋を何としてでも周囲に悟られてはならない。由利は用心深くそばに控えている女房にそっとささやいた。

「さあ、阿野中将(あののちゅうじょう)を御前に連れて参れ。主上からお褒めのおことばがあるゆえ。妾(わらわ)からも褒美を取らせよう」

ー阿野中将ー

 自分が入っている女御の口からその名前を吐いた途端、由利は心がかき乱されるような気がした。これほど全身全霊で愛した人の懐かしい名前の響きを、なぜ自分はこれまで忘れてなんかいられたのだろうか。

「かしこまりました」

 しばらくすると阿野中将は大床の前に現れ膝をついた。

「主上、参上いたしました」

 帝はそれを聞いて、傍からはさも機嫌よく見えるように声を掛けた。

「季温よ、ようやった。さすがじゃ。それ、褒美を取らそう」

 帝は自分が今着ている着物を脱いで、それをそばの女房に渡した。

「主上から御衣(おんぞ)が賜りました」

 取次の女房が帝から手渡された衣をまた捧げ持ち、その男に手渡した。

「これは身に余る光栄!」

 拝領された御衣を押し頂きなら、阿野中将は深々とこうべを垂れた。

「ほれ、女御、なにかことばをかけてやれ。女御が口を閉じていては、季温も皆中にした甲斐がないというものじゃ」

 胸を高鳴らせながら、由利は中将を寿ぐことばを瞬時に探した。

「このたびそなたは、類なき弓の技でもって畏(かしこ)くも尊い主上を寿いだ。まことにめでたくも天晴なこと・・・。九重(宮中のこと)も二重(矢が二十本皆中したこと)の歓びに包まれておりましょうぞ」
「ありがたきおことば、身に沁みましてでございます。橘の女御さま」

 またしても中将は深々と頭を下げたが、ふいに御簾ごしに顔を由利のほうへ向けた。

「あっ!」

 目の前で見ている公卿の顔は、たしかに由利の生きている世界では知らない男だった。だが自分を見つめる瞳の中に宿る光は。

ーああ、あたしは忘れはしなかった。たとえ何度、姿や形を変えて生まれ変わろうと、この愛しい人を決して忘れるはずがないー


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こんにちは、作者のsadafusaです

もう、気づいていらっしゃる方もいらっしゃるかとは思いますが、
この話は『聖徴』の続編なのです。

もっと作品を楽しみたい! なになに? 知らなかった読みたい! と思われた方は
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おかげ様で、大変ご好評をいただき、順調に売れております。

また、前回、この「境界の旅人」ですが、こちらのブログのほうの読者さまも
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