境界の旅人 28 [境界の旅人]

第七章 前世



 気が付けば由利は常磐井の身体にもたれながら、タクシーに乗っていた。

「ん・・・、ここは?」
「あ、まだ眠っていていいよ。今はタクシーの中。もうすぐ家に着くから安心して」

 肩に回されていた手が小さな子どもをなだめるように、ぽんぽんと二回軽く打った。由利は体中が重たくて抗う力もなく、言われた通りに再び目を閉じた。
やがて車は家に到着したらしく、うっすらと目を開けると辰造が外で待っているのが見える。

「こんばんは。ぼくは由利さんのクラスメイトで常磐井悠季といいます」
「ああ、あんたが常磐井君か、名前だけは由利からうかごうてます。なんや合宿に連れて行ってもらって、えらいお世話になってしまって」
「いえ、そんな。とんでもないことですよ。ところでぼく、夕方に出町柳で偶然由利さんと出会ったんですが、由利さんはちょっと具合が悪そうだったんです。それで下鴨神社の参道で涼んでいたんですが、急に気を失ってしまわれて・・・。こんなことなら、神社なんかでぐずぐずしないで、もっと早くお家に返してあげるべきでした」

 常磐井はいつになく非常に礼儀正しい態度で、理路整然と尤もそうな口実を祖父に説明していた。由利はそれをぼうっと遠くで聞きながら「策士め。おじいちゃんまで取り込んじゃって・・・」と心の中で毒づいていた。

「まぁ、それにしても、よう由利を運んできてくれたなぁ。おおきに、ほんまにおおきに」

 しきりに祖父が礼を言っているのが聞こえる。

「いえ、そんなことは」
「由利、由利! 起きや! 着いたで!」

 辰造がタクシーの中にいる由利に声を掛けた。

「あ、おじいさん。今はそっとしてあげてください。由利さん、たぶん熱中症なんですよ。昼間、暑い中をずっと水分を取らないで歩いていたみたいだから。疲れているんじゃないかな?」

 そういうと常磐井はぐったりしている由利を赤ん坊でも抱えるようにひょいと抱き上げた。

「おじいさん、ぼくが中まで由利さんを運びますから」
「いや、そうかぁ? なんか悪いなぁ。ホレ、この子は大きいから、重たいやろ?」
「いいえ」

 きっぱりと常磐井は答えた。祖父は相手の筋骨隆々とした身体を見て、その答えに偽りはないと納得したようだ。





 由利が再び目を開けると、きらきらと銀のうろこを光らせながら、部屋の中を何かが悠然と泳いでいるのが見える。

「きれい・・・」

 由利はうっとりしてそれを眺めていた。

「あなたはだあれ? どうしてこんなところで泳いでいるの?」

 由利は夢見心地で、ぼんやりと心の中に沸き起こった疑問を声に出してつぶやいていた。すると銀のうろこで光るものは悲し気に言った。

「わたしのことをお忘れですか、女御さま? 何と情けない。中将殿のことは思い出していただけましたのに。わたしは名前さえも憶えておられない・・・。口惜しゅうございます。あなたさまにはあれほど心を込めてお仕えして参りましたものを・・・」

 声は恨めし気に掻き口説いた。

「えっ?」
「ではせめて、これをわたしのよすがとして偲んでくだされ」

 それから次の瞬間には由利はまばゆいばかりの神々しい光に身体を包まれていた。





 気が付けば由利は二階の自分の蒲団に寝かされていた。

「あれぇ?」

 由利は寝床から起き上がって、階段を下りて行った。下の居間では辰造がテレビを見ていた。

「お、由利。少しは元気になったか?」
「もしかして常磐井君がここまで連れて来てくれたの?」
「そうやで。突然おまえのケータイちゅうんかスマホちゅうんか知らんけど、そこから常磐井君が電話を掛けたらしい。てっきり由利からの電話やと思ったら、知らん男の声やろ? それにしてもたまげたわ」
「え、常磐井君から電話があったの?」
「そうなんや。この家の番号が判らんから、おまえの電話を借りたっちゅうことや。今どきの高校生にしてはえらい礼儀正しい子で、びっくりしたわ」

 それはおじいちゃんを懐柔させるための偽装に決まってるじゃないの、と由利は心の中で思ったが、今は黙っていることにした。

「へぇ、どうやってパスワードが判ったんだろ?」
「あ、それもなんか言い訳しよったで。とりあえずおまえの親指を当てて、解除したんだと」
「あ、なるほど。本人が気絶していても、親指の指紋さえ合っていれば、そういうことができるわけよね」

ーそのついでに、あちこちアプリを開いてあたしの秘密を嗅ぎ出そうとチェックしていたに違いないー

「そいで由利を家につれて帰りたいから、住所を教えてくれっちゅうってな。それにしても下鴨神社の参道なんかで倒れたら、表の車道までかなりの距離もあるし、負ぶってくるのは大変やろうと思って心配していたら、なんやタクシーから出てきよったんは雲を突くような大男でなぁ。軽々とおまえを担いでおったわ。あれが道場やってるちゅう家の息子か? 常磐井君を見たら、ほんまに金剛力士みたいなんでたまげたわ。最近の高校生はデカいんやなぁ」

 辰造はほれぼれと感心したように言う。

「いやいや。彼は特例中の特例だから。百八十八センチなんて、そうそう探したって見つからないよ」
「せやけど、由利とやったらお似合いやんか」

 常磐井の体育会系らしい爽やかで折り目正しい態度を気に入ったのか、辰造はやたらとほめる。

「背の高さだけで言えばね」

 由利は仏頂面で答えた。

「何や、由利。常磐井君はおまえの恩人とちゃうんか? もっと感謝せなあかんで」

ー神社の中で本当は何があったかおじいちゃんも知ったら、そんなに笑ってはいられないんだからー

「あー、はいはい」



「そっかぁ。常磐井君がここまでタクシーで連れて来てくれたのか」

 しばらくして由利がぽつんと言った。

「そうやで、ついでやしって二階のおまえの部屋まで運んでくれたわ」
「ふうん。ヤツはとうとうあたしの家どころか、あたしの部屋まで侵入してきたのか。『機を見るに敏なり』とはまさにこのことね・・・」

 くよくよしていても仕方がないので、由利はとりあえず冷たくなったお味噌汁を温めて、冷蔵庫にあったキムチと冷や奴で夕飯を済ませた。

「ふうん。何や知らんけど、食欲だけはあるみたいやな。とりあえず大丈夫みたいやな」

 祖父はほっとしたように言った。

「うん、おじいちゃん、いつも心配かけてごめんね」



 気が付けば身体中が汗でベッタベタだ。しかもおろしたてのコテラックのワンピースは倒れたのと、蒲団に寝かされていたので、しわくちゃになっていた。情けない姿に変わり果てた洋服を見て由利は鏡に向かってつぶやいた。

「何て可哀そうなあたしのコテラックちゃんなの。おお、よしよし。大丈夫。明日由利ちゃんがクリーニング屋さんに連れて行ってきれいにしてもらうから。それに小山さんとのデートには、しっかり役立ってくれたんだからいいのよ、よく頑張ってくれました! パチパチ」

 まず歯ブラシにクリニカを塗って歯を徹底的に磨き、最後はマウスウオッシュで念入りにうがいした。そのあと風呂に入ってさっぱりしたあと、快適な温度にまでコントロールされた部屋で、由利は蒲団に寝転がりながらスマホを開いた。
 美月からメッセージが入っていた。

「ねぇ、由利。びっくりよ。小山先輩が急にベルリンのほうへピアノの修行に出かけちゃったんだって! 知ってた?」 

 由利は初めてそれを聞いたように装った。

「ええっ? 小山さんがベルリンへ! それは初耳! 知らなかった~」
「あたしも寝耳に水だよ。何でも小山さんの肝入りで二年生の鈴木先輩が部長を務めることになったんだって!」
「へ~、しばらく小山さんはあっちにいるつもりなのかな?」

 由利は美月に白々しい質問をする。

「どうもそうらしいよ」
「そうなんだねぇ・・・。なんかショック・・・」

 由利は昼間小山に告白された内容を思い出していた。だがこれは誰にも言うつもりはなかった。

「ねぇ、あさっては『五山の送り火』だからあたしンちに来ない? 会社のビルの屋上からだとよく見えるよ。おかあさんもね、ぜひいらっしゃいって。ね、一緒に浴衣を着ない?」

 美月が次々と新しいメッセージを送って来る。

「ええっ、あたし浴衣なんて持ってないよ! それに今まで着たことないし」
「大丈夫。うちは着物屋だよ? 浴衣なんて腐るほど持ってるし。心配しないで。貸してあげる。お母さんは着付けの先生だから、そっちのほうも心配もないよ!」
「え~、何か申し訳ないような気が・・・。いいの?」
「うん。由利なら大歓迎だよ。ぜひ!」
「ところで『五山の送り火』って何?」
「知らない? ほら東の方向に『大』って文字が書いてある山が見えるでしょ? 送り火の日にはその字に火が灯されて、この世を訪れていたご先祖さまの霊をお送りするのよ」
「ああ、大文字焼きのことか!」
「ちょっと。その大文字焼きって言うのは、間違いだからね。どら焼きみたいに言わないで」

 また歴女の辛辣なクレームが入ったので、素直に謝った。

「ごめん、ゴメン。無知で~」
「ね、考えてみて? 決まったら返事ちょうだいね!」
「うん。とりあえず明日おじいちゃんに訊いてみるね。きょうはもう、寝ちゃったみたいだから」

 由利のコメントがいつもより若干短く乗ってこないのを見て、美月は早々と切り上げようと決めたらしかった。

「了解! じゃおやすみ」
 由利も心配している美月に悪いと思いつつ、会話を短めに終わらせてくれたのはありがたかった。感謝の気持ちを込めて、チップとデールのおやすみスタンプを押した。

 そしてやはりというべきか、常磐井からも当然のようにメッセージが入っていた。

「やぁ、由利ちゃん、少しは元気になったのかな? オレとのキスに気絶するほど感激してもらえたなんて、かえってこっちが恐縮しちゃいます。今度はもっと濃厚なのをしてあげるね♡ お蔭様で由利ちゃんの可愛いお部屋にも入らせてもらったし。由利ちゃんの愛読書が何かも知ることができてよかった。案外、硬いものを読んでいるんでびっくりです。高校生がモーパッサンって結構すごいなと思って帰ってきました。それじゃね(^^)/」

 視線をスマホから机に移すと、机の上にはモーパッサンの『ベラミ』が置いてあるのが見えた。

「何言ってんのよ、この筋肉バカ! ったく! 脳みそも筋肉でできてるんじゃないの? 能天気なことばっかり言ってくれちゃって! あたしはアンタの彼女じゃない! キスだって全然よくなかった。ってか、気持ち悪い! それに人の部屋に何勝手に入ってんの! アンタはあたしの一体何を解ってるっての! どうせスケベなアンタなんて考えてることはひとつよ! もうっ! 常磐井悠季のバカバカバカっ!」

 由利はむかむか来て、スマホを蒲団の外へと放り出した。

「ふうっ」

 由利は蒲団に大の字に寝転がって、ため息をついた。

「何だかすごい一日だったような気がする・・・。いや、気がするんじゃなくて実際、すごい日だった」

 日中は小山と一緒に世にも美しい茶碗を見て心を揺さぶられていた。小さな黒い茶碗の中には、ミクロコスモスといっていいほどの広大な宇宙が広がっていた。そのあまりの美しさにふたりはただ呆然としてことばもなく見惚れていた。

 あたしは、小山さんとは恋人同士にはなれないかもしれないけど、ほら、今日だって、あのお茶碗を一緒に見て美しいと感じることで、十分に意義のある時間を共有できたと思いませんか? 

 心でつながっているんです、芸術を愛することを媒体にして。

 たとえまっとうな男だったしても、誰でもこんな風になれるなんて思っていません。そう思えば単なる身体のつながりなんて空しい。

 由利は昼間、小山に告げたことばを思い出した。
 黒い夜空に瞬く天の川のような碗。小山はその価値を由利ならきっと理解できると思って一緒に行くことを決意したという。

 由利は本当の意味での「愛し合う」ってどんなことだろうと天井を見つめながら考えた。

 同じ価値観を共有できる人と感動を共にすること。これも間違っていないと思う。でもこれは比較的穏やかで理知的な愛だ。

 真実を知らされてたとしても、由利の心の中で未だに小山は、燦然と輝く王子さまの位置を失っていなかった。小山が身に着けている人を圧倒するような知性のパワー。それにまだ世に出ていないにせよ、彼女自身がすでに本物の芸術家であり茶道家だった。昼間、由利は小山に「あなたは奇跡が生ましめた油滴天目茶碗だ」と言った。

 ―そのことばに嘘偽りはないー。


 だが由利はその同じ日に、まったく正反対の「性愛」の有無を言わせない理屈抜きの力強さにも触れてしまった。

 たしかに由利は以前から、常磐井が弓を打つときのことばでは表現できない緊張感、的に向かうときの真剣な表情を好ましいと見ていた。だがそれだけで、内面はほとんど理解できているとは言いがたい。

彼が何を信じ、何を大事に生きているのかー。それすら知らない。

 お互い理解しあっているならともかく、そんなろくに知らない異性とくちびるという最も敏感な部分を接触させるだなんて、理性的に考えれば不快感を覚えて当然な行為のはずだ。それなのにずっと触れられていたいと思った自分は、一体どうしたというのだろう。

 由利は自分のくちびるに指で触れてあのときの常磐井のくちびるの感触を思い出していた。

 ほんのわずかの時間だけれど、それをきっかけにして常磐井とふたりで時代を飛び越えてしまった。

 飛び越えた先の時代の女御も臣下である中将に懸想され、思いがけず抱きすくめられていた。そして恐怖に怯えながらも、男の愛撫に恍惚となったことに戸惑っていた。今の由利には女御の気持ちがよく分かる。

 常磐井と中将には、立ち振る舞いそして佇まいに隙がない。そこに一種の男らしいなまめかしさがにじみ出ていた。自分もそんなセンシュアルな力に惹かれてしまったのだろうか。

 由利は苦々しげにくちびるを噛んだ。

「あたしと常磐井君が、前世では室町時代の女御と中将だった? まさか! それじゃまんま、『セーラームーン』じゃないの! クィーン・セレニティとエンディミオンってか? アホくさ。そんなはずないじゃない!」

 由利はひとつ世代が上の『セーラームーン』のアニメが好きだった。

 ※出逢ったときの懐かしい まなざし忘れないー。
  不思議な奇跡クロスして 何度も巡り合う
(※『美少女戦士 セーラームーン』『ムーンライト伝説』より引用)

「そんなバカな! 昔の人間の身体に入ったからって、どうしてそれが自分の前世だと断定できるの! たまたまよ、たまたま! 常磐井君はあんまり自分の体験が生々しすぎて、それにつられてあたしを愛していると思い込んでいるだけよ!」

 由利はむしゃくしゃする気持ちを抑えかねて、今度は蒲団からむくっと上半身だけを起こした。

「あれっ?」

 短パンをはいている右の太ももの内側に今まで見たこともないようなあざができていたのを見つけた。真っ白な皮膚にピンク色の、何か不思議な文様が浮き上がって見えるのだ。突然、由利はあっと叫んだ。

「もしかして、これって・・・ウロコの形?」

 由利は夢うつつでみた、不思議なヴィジョンを思い出した。

―ではせめて、これをわたしのよすがとして偲んでくだされ―


nice!(2)  コメント(4) 

境界の旅人 27 [境界の旅人]

第七章 前世



「お放しください、中将どの。あなたさまは宮中をお守りする武人ではございませんか! 今ご自分がなさっていることが、どういうことかお分かりですか? このようなけしからぬことをなさるなどと・・・。 人を呼びますよ!」
「いいえ、放しません。わたしがどんなにあなたに想い焦がれていたか、このたぎるような思いを知っていただくまでは・・・」

 中将は女性の黒髪をつかむという乱暴なことをやめ、今度は姫の細い肩を抱き寄せると、姫の細い身体をすっぽりと両腕に包んで抱きしめた。

「初めてお見掛けしたときから、あなたに憧れ続けてきたのです。このようなむくつけき大男がまた、なにをかいわんやと思召されているのでしょう? でもあなたさまを忘れることができないのです! たとえあなたが主上のものであったとしても!」

 恐怖を感じるその一方で、中将のたくましい腕の中で身をも焦がすような熱いことばに酔いしれて、姫は陶然としていた。身体の奥からぞくぞくするような甘美な疼きが、泉のようにあふれ出しくる。

「中将どの、後生でございます、その手をお放しくださりませ」

 姫の抵抗も虚しく、中将は相手の朱に染まったこめかみからおとがいにかけて、情熱的に唇をなんどもさ迷わせたあと、蜂がようやく花芯へとたどり着くように、自分の唇を相手に押し当てた。その瞬間、橘姫は帝の妃という立場も何もかもすべてを忘れて、自分の身体を相手に委ねていた。

「あなたがわたしの目の前で扇を落とされたとき・・・、神仏は我が願いを聞き届けてくださったと思いました・・・。お慕いしているのです、橘の君。こんなにも自分をおさえられなくなるほど・・・」

 長い抱擁のあと中将は、姫に上ずった声でささやいた。
姫には直観的に自分の求めていたものに出会えたという確信があった。それはなんという歓喜に包まれた瞬間だったろう。だがかろうじて今はまだ、理性が本能より勝っていた。





~~~~~~~~~

so-netブログの読者のみなさま。
いつも応援してくださいましてありがとうございます。
課金しているのにもかかわらず、驚くほどたくさんの方が読んでくださっています。
本当に感謝、感謝。言葉もありません。


今日も、ここから先はnoteでお楽しみください。


https://note.mu/sadafusa_neo/n/n93f0bc2269be
nice!(3)  コメント(2) 

境界の旅人 26 [境界の旅人]

第七章 前世



 四時を過ぎても八月の太陽は衰えることもなく地表をじりじりと焦がしている。油を溶かし入れたような川面はそんな強烈な日差しを浴びて、ギラギラと強烈な光を反射していた。対岸に植えられた並木はその照り返しを受けて琥珀色に燃え立っていた。


「ありがとう、小野さん」

 小山は頬に涙の跡をつけたままで、そう言った。

「あは、恥ずかしいな。ボクときたら人前で泣いていたんだね」

 小山は手の甲で顔を拭った。

「そんな・・・。ちっとも恥ずかしくなんかないですよ」

「そう言えば、小野さん。ほら、ボクが『革命』を弾いていたとき、キミが音楽室に来ただろう?」

「ああ、はい」

「実はあのとき、かなり悩んでいたんだ。先生に今の自分のピアノのアプローチは古すぎて、一般受けしないって。でもいくら先生に言われたからって、唯々諾々と自分が納得できない演奏をするのはたまらなく嫌だったんだ・・・。結局のところ芸術家は、最後は自分の美意識を信じるしかない。そしてキミはそんなボクのピアノを感動をしながら聞いてくれた。ボクが信じる美しさを認めてくれたんだよ。そのときひらめいたんだ。小野さんならもしかして、ボクの世界をきちんと理解してくれるんじゃないかって」

「先輩・・・」

「あのときボクは苦しくて、無性に油滴天目茶碗が見たかったんだ。もちろんひとりで行くつもりだったんだけどね。でもキミと一緒に行ってみたくなったんだよ。キミが、ボクにとって世界一美しい茶碗を見て何て言うのか、それが知りたかった」

「ああ、それであんなに唐突に誘ってくれたんですね?」
「うん。ボクが思った通り、キミはあの茶碗を見て感動してくれた、これ以上ないほど。だからなのかな。ボクは気が緩んでしまったせいか、ついこんなみっともない告白をしてしまった・・・」
「みっともないだなんて、先輩。ちっともそんなことないです。人は誰しもひとりでなんか生きていけないものですもん。孤独にさいなまれるときはきっと、誰でもそんなふうになるもんじゃないかしら? もちろんあたしだってそうです」

「うん。相手がキミで良かったと心の底から思っているよ。しかもボクのことを解ってくれて、こんなふうに力づけて励ましてくれて。ボクは救われたよ」

 由利と小山はしばらく無言でお互いを見つめ合った。
 ふと由利は思い出したように、バッグから封筒をひとつ取り出した。

「小山さん、これ。思わず忘れるところでした。この間お約束していた、手紙と写真です」
「ああ、そうそう。大事なものだよ。これがなくっちゃベルリンの先生に、キミのお父さんの話が切り出せないからね」

 小山は笑いながら、ブレザーの内ポケットに封筒を仕舞った。

「まぁ、どれだけボクがこの件に関して役に立てるかは解らないけど。でもできるだけのことはやってみるつもりだよ」
「小山さん、本当にありがとうございます。ここまで親身になってもらえるなんて、本当にうれしいです」
「いやいや、それはお互いさまさ」

 それから小山は少し改まった口調で由利に言った。

「実はね・・・、ボクはこれからこの足で関空に行って、ベルリンへと立つ予定なんだ」

 由利はそれを聞いてびっくりした。

「えっ? 本当ですか! 一体何時のフライトなんですか」

 思わずバッグからスマホを取り出して時間を確認した。

「うん。八時かな」
「えっ、とすると時間的にギリギリじゃないですか! 急がなきゃ」
「まぁ、今から大阪駅に向かって関空快速に乗れば、着くのは五時半ぐらいになるかな。六時までに着けばいいんだから、楽勝さ」
「で、でも。小山先輩、手ぶらじゃないですか! 荷物は?」
「ああ、あらかじめ関空の方へ送ってあるんだ」
「じゃあ、本当に文字通り、あのお茶碗にあいさつしてから出発するつもりだったんですね!」
「ああ。今度の旅はいつもより少し長くなりそうなんだ。向こうでコンクールを受けるつもりでいるんでね。だから帰るのは年明けになるかな」
「そんなに長い間ですか?」

 由利は急に小山がいなくなることを聞いて少しショックを受けていた。

「うん。でも受験に間に合うように帰るつもりではいるんだ。ただ進路をまだはっきりと決めていない。東京の大学で音楽教育を受けるか、ヨーロッパにするか、あるいはアメリカにするかは。まぁどのみち音楽の道で生きていくつもりでいるんだけどね。でもとりあえず、選択肢はたくさんあったほうがいいと思うから」 

「加藤さんから作曲のほうへ進まれるって聞いています」

「うん。プレイヤーだけでやっていける自信がないっていうのが本音なんだ。でもまぁ、音楽を創ったりアレンジするほうが興味があるし。それに今更ピアノ科に進んでも意味がないような気がしてね」

「そうなんですね。でも・・・こんなに急にお別れになるなんて」

 由利は大きくため息をついた。

「そんな別れだなんて。大げさだな、小野さんは。単にしばらく日本を留守にするだけだよ」

 小山はそういうとまた誰に聞かせるでもなく、しゃべった。

「日本は本当に美しいもので溢れている。だけどやはり島国のせいか、排他的で同調圧力の強い国だし。自分の将来を考えると、他民族でいろんな価値観が混在している欧米みたいな多民族国家で暮らすほうが楽なんじゃないかとも思うんだけどね。だけどそれも実際に住んでみないと、自分にとって住みやすいかどうかなんて判らないことだし・・・。ハハ、変わり者だと、心配ごとが尽きなくてイヤになっちゃうよ」

 小山はまたいつもの穏やかな表情に戻っていた。

「小野さん、今日はありがとう。キミはボクに生きていく勇気を与えてくれたよ。まさにキミはボクの恩人さ。これで心置きなく出発することができる」
「こちらのほうこそ。小山先輩。本当にありがとうございました。道中お気をつけて。そして必ず元気な顔をみせてくださいね」
「うん。茶道部はボクの後任として二年生の鈴木さんにやってもらうことにした。話はすでにつけてあって、彼女のほうも部長を快く引き受けてくれた。まぁ、彼女もしっかりと手堅い人だから、安心して任せることができる。小野さん、しっかりお手前ができるように精進してね。帰って来たらボクの前でお点前をして見せてもらうよ」
「えっ、そんなぁ」
「いやいや。期待しているし。それに小野さんならできる」

 小山は励ますようににっこり笑った。

「はい、頑張ります。小山先輩」
「うん」
「行ってらっしゃい!」

 小山は由利に手を挙げて左右に振ると、くるりと回って大阪駅に向けて歩いて行った。



 出町柳駅に着くと、すでに五時を過ぎていた。由利は地下の改札から今出川通りに出る長い階段を伝って地上に出ると、アスファルトから立ち上る焼けつくような熱気にクラリとめまいがしそうだった。

「あ、暑い・・・」

 お昼に小山と一緒に紅茶を飲んで以来、由利は水分を取っていなかったことに気が付いた。
 普通なら美術館を出たあとで、付近のカフェに入ってお茶を飲むなりして、水分を補給すれば良かったのだろうが、小山の衝撃的な告白のせいでそれもままならなかった。

「あ、ヤバイ。脱水症状になっちゃう。水、水」

 地下の出口をすぐ出たところのファミマへ駆けこむようにして入ると、由利は迷うことなくいろはすのれもんスパークリングを買った。もう喉が渇いてヒリつき身体が干からびそうになっていた。お店を出るやいなやもどかし気にキャップを開け人目も気にせずぐぐぐと飲むと、ボトルの水の半分が一気に無くなっていた。

「ふぅっ。生き返った」

 思わず由利は安堵の息をついた。

「おいっ! 小野!」

 突然後ろの方で聞き覚えのある声がした。驚いて由利が振り向くと、それは常磐井だった。「桃園高等学校弓道部」と白く染め抜かれた紺色のTシャツを着、よれよれのジーンズを履いていた。先ほどの小山のファッショナブルな恰好とは真逆のベクトルを示したいでたちだった。紫の布袋を入れた弓を肩に預けながら右手に持ち、左手には旅行バッグを下げていた。

「あ、常磐井君!」

「あんたさぁ、何やってんの? 乙女がいくら何でもその飲み方はないっしょ? 腰に手を当ててラッパ飲みって、まるでオヤジじゃね?」

 常磐井は笑いながら半ば呆れたように言った。

「だって、喉がカッラカラだったんだもん」

 迂闊な姿を常磐井に見られて、由利は少しバツが悪かった。

「ん、まぁ。小野のありえないカッコの目撃者がオレだから許してやるけどぉ」
「うん。ゴメン。今のは見なかったことにして」

 傍の常磐井に構わず、また由利は相変わらずぐいぐいと残りの水を喉に流し込んだ。

「はあー、やっと身体の細胞のひとつひとつが潤いましたってカンジ!」

 それを見て常磐井は眉をひそめた。

「おい、大丈夫なのか? 京都の夏を甘く見んなよ、小野。家ン中にいてエアコン付けてたって熱中症になる人もいるんだかんな。外出するときは水を持ち歩いて、定期的に飲むのは関西の夏場の鉄則っしょ?」
「うん。今、水を飲みながら君の言う通りだなって実感してた」

 ひとごこちついた由利は、改めて常磐井のほうへ向き直った。

「あ、常磐井君ね。五日ぐらい前に行衣を返しにお家に行ったの。そしたらお母さんが出て来られて常磐井君は長野に合宿だっておっしゃってたけど?」
「ん? ああ。おふくろからLINEのメッセージがあったから知ってるよ」
「あ、じゃ、もしかして今、合宿の帰り?」
「ああ。それでやっと家の近くに着たと思ったら、小野が道の真ん中で仁王立ちで水を飲んでんのが見えて思わずびっくり」
「もう、そればっか言わないでよ!」
「いや、あんまりにもシュールな光景だったからさぁ」

 由利は文句を言ったあと、それでも合宿で世話になった礼をまだ常磐井に言ってないことに気が付いた。

「あ、でも、常磐井君。合宿のときはいろいろとありがとう。お蔭様ですっかり憑き物は落ちたんじゃないかな? あれから三郎にもまったく会わなくなったし」
「そのことでちょっとあんたに話があるんだけど・・・少し時間取れる?」
「え? うん。あんまり長くならない程度ならね」

 由利は念を押した。

「じゃさ、こんなふうにオバサンみたいに通りで立ち話っていうのもなんだし、ちょっと歩いて話さね?」

 一見冗談めかしている常磐井の顔の裏には何となく深刻そうな気配も感じられた。由利はこの話は意外と時間がかかりそうだと判断した。

「ん。じゃちょっと待ってね。おじいちゃんに電話するから。とりあえずあたしが今出町柳にいるって言っておかないと」

 由利は常磐井から少し離れて、家の黒電話に電話した。

「あ、おじいちゃん。うん。今ね、京阪に乗って出町柳に着いたところ。そうそう。すぐ帰るつもりではいるんだけど、ちょっと友達に会っちゃって、誰? ああ、この間、合宿に誘ってくれた子だけど。知ってるよね? クラスメイトの常磐井悠季君。お礼もまだ言ってなかったんで。うん。うん。あんまり遅くなるようだったらまた連絡するね」

 祖父と電話している間、常磐井は近くにあった自販機でお茶を二本かったらしく綾鷹を由利に手渡した。

「はい、これ」
「えっ? いいの? 待って待って。お金は払うから」

 由利がガサゴソと財布を取り出そうとすると、常磐井はそれを手で押しとどめた。

「いいよ、いいよ。こんなもんぐらい。それよかさ、さっきみたいに五百ミリリットルの水を急に摂取するのって、案外身体に負担掛けるかんな。これを歩きながらチビチビ飲んでおきなよ」
「あ、ありがとう!」

 常磐井のさりげない優しさが嬉しかった。歩きながら常磐井が由利に訊いた。

「ね、小野ってさ、いつもそうやってしょっちゅう連絡してんの、家の人に?」
「だっておじいちゃんが心配するもの」
「ふうん。女の子って大変なんだな」
「まぁ、最近は怖い事件が多いじゃない? うちはあたしとおじいちゃんのふたり暮らしだしさ。こんなふうにあたしが外に出れば、おじいちゃんが家にひとりで待っているでしょ、遅くなれば何かあったのかとずっと気を揉ませることになるじゃない? それって八十近くの老人には結構酷だと思うんだよね。だからやっぱりお互い、それなりに気遣いしないとね」
「ふうん。そんなもんなんかな」
「そりゃあ、そんなでっかい身体でおまけに武術の達人の常磐井君だったら、襲われるってこととはまったく無縁でしょうけど」
「ハハ。まあな」

 すぐそばの鴨川を見ると燃えるような日を浴びて水面が目が痛くなるほど鋭い光を放っていた。身体に不快な汗がまとわりついてくる。世界がじわっと湿ったオレンジ色の空気に包まれているようだった。今、このタイミングで家のある方向、すなわち西日をまともに受けて帰るのはためらわれた。

「ねぇ、常磐井君、京都の夏っていっつもこんなふうなの? まるで蒸し風呂の中にいるみたい」
「まぁ、そうだよな。そこは否定できないね」
「はぁ~あっつい! かといってお店に入るとそれはそれで凍えるほど寒いんだよね。赤道直下から北極へ急に行ったみたいで。。じゃあさ、せっかくここまで来たんだし、やっぱり下鴨神社に行こうよ。緑に包まれているからさ、ここよか少しは涼しそうじゃない?」

 由利は常磐井にも自分のお気に入りの場所へ行くことを提案した。

「ん。じゃそうするか」

 だが、夕方の下鴨神社の参道は、普段よりもなお一層ひっそりと静まり返って、より闇が濃いように感じた。林冠を通して地表に届く透明な木漏れ日も今は黄色く濁っていた。

「ねぇ、何だかいつもの清々しい雰囲気がなくなってない? どことなく不気味っていうか・・・?」
「そりゃ、神社に参拝するのは清澄なご神気が満ちている午前中って、昔から相場は決まっているんじゃね? 夜の神社は魔の領域と化すんだよ。しかも今は昼と夜の分かれ目、『たそがれどき』、『逢魔がどき』だしな。何かが出て来てもおかしかない時刻ではあるわなぁ」

 常磐井は由利が怖がっているのをどこか面白がっていた。

「何よ! 知っているならどうして、反対してくれなかったのよ」
「へぇ、お姫さまの『敢えて』の選択かと、オレは気を利かせたつもりだったんだけどな」
「何それ! 京男ってサイアクね、しんねりむっつりと意地悪でさ!」
「へへぇ、そりゃ、悪うござんした」
「悪いわよ!」

 しばらくお互いに不機嫌なのを隠そうともせずに黙り込んで歩いていたが、そのうち常磐井が半歩下がって由利をじろじろと観察しているのに気が付いた。

「あんた、今日はえらくめかしこんでんじゃね?」
「あら、ファッションとはまるきり縁のなさそうな常磐井君でも、そんなことわかるの? うん。今日はね、うんとオシャレして北浜でおデートしてたの」

 由利は少しあてつけがましく言った。

「ええっ、おデートぉ?」

 とたんに常磐井の顔色が変わった。

「由利ちゃんが他の男とおデート? 由利ちゃんがオレ以外の誰とそんなことするの? えっ、誰とよ?」

 相手がいきなり『由利ちゃん』となれなれしく呼び、尋問口調になったのが由利の癇に障った。

「何でそんな個人的なこと、常磐井君にいっちいち報告する必要があるの? あたしたち、タダのクラスメイトじゃなかったっけ?」

 由利は牽制する意味でそう言った。

「あれぇ? 由利ちゃん。オレって由利ちゃんのカレシじゃなかったのぉ?」
「あら、いつからそうことになってたの? 全然気が付かなかったわ。それにあたしのこと、『由利ちゃん』なんて気安く呼ばないでよ!」

 由利は媚びるような態度の常磐井を突っぱねた。

「ねぇ、今、誰か付き合っているヤツっているの? 由利ちゃん、それはねぇわ。頼む、教えてくれよぉ」

 どこか甘えてすねた口調とは裏腹に、常磐井の表情には激しい憤りが感じられた。自分の土地を不当に侵された領主のような。身体の大きな常磐井がこんなふうにいつもより間合いを狭めてくると、由利は思わず恐怖を感じた。

「あ、あたしが誰と付き合っていたって、常磐井君には関係ないでしょ?」

 由利はそれでも気丈に言い返した。だがいつもならどんなときでもヘラヘラと笑って斜に構えている常磐井の面ざしは、いつになく真剣だった。


「そいつが好きなのか?」

 常盤井の瞳は、青い炎が燃え盛っている。

「好きな人っていうか、別にそんなんじゃないし」
「じゃあ、誰なんだよ? オレの知ってるヤツ?」

 常磐井がじりじりと由利に迫ってくる。由利は思わず後ずさった。真後ろには大きな杉の木があった。

「茶道部の部長の小山さんよ。ふたりで北浜の東洋陶磁美術館へ行って、国宝って言われるお茶碗を見てきただけよ!」
「そうか・・・。小山って三年の? あいつ、男の恰好しているけど、たしか女だよな? へへっ、あいつってLGBTなの?」
「何よ、常磐井君ってそういう失礼なことしか言えないわけ? 今どきそんなこというと差別主義者になるんだからね! 小山さんはステキな人よ。センスもいいし、会話も面白いし、感性も豊かだし。誰かさんと違ってキチンと女の子をエスコートしてくれるし。そういう言い方はないんじゃないの?」
「ああ、別に相手が小山なら、あんたが何をしてようとオレは一向に構わないよ。そんなの、結局おままごとなんだし。所詮小山は女なんだから。あいつに一体何ができる? 男のオレに適うはずもねぇし」

 すると常磐井は有無を言わさないほどの強い力でゆっくりと由利の両肩を持って、傍にある太い木の幹に身体を押し付け、大きな腕を拡げて由利の全身を抱きしめた。

「由利ちゃん・・・」
「と、常磐井君! 放して!」

 力ではまったく及ばない由利は、叫ぶしかなかった。
 だがそんな懇願をまったく無視して、由利の顔に常磐井は自分の頭を近づけてきた。

 ーえっ? もしかして、これってキス?

 そう思ったのも束の間で次の瞬間には由利はどういうわけか目を閉じて、そのまま相手に身体ごとすべてを預けてしまっていた。

nice!(3)  コメント(2) 

境界の旅人 25 [境界の旅人]

第六章 告白



 気が付けばふたりが美術館を辞したのは、天目茶碗を見てからたっぷり一時間以上は経っていた。その間ずっと由利と小山はこの茶碗を見続けていたことになる。
 ふたりはしばらく土佐堀川の岸辺をぶらぶらと散歩した。

「ボクはね、何か気持ちが落ち着かなくなるとき、無性にこの茶碗を見たくなるんだ。あの茶碗には南宋時代の『士大夫』の心意気が詰まっているように思える」
「それってどういうことですか? たしか士大夫って宋時代以降の科挙官僚と地主と文人の三者を兼ね合わせた人のことを言うんじゃなかったでしたっけ? 要するにイギリスで言えば、ジェントリ階級の人かと?」
「あはは、そうだね。ジェントリとは言い得て妙だよね。士大夫は特権階級である貴族とは自ら一線を引いた存在でね。何者でもない人間が厳しい科挙を潜り抜けて、実力のみで権力をつかんだんだから。ボクはね、彼らの気骨ある精神にすごく惹かれるんだ。特に北宋の士大夫である『蘇軾(そしょく)』がボクのお気に入りでね。彼は北宋時代最高の芸術家と呼ばれ、詩・書の達人でもあるんだよ」
「そしょく? ですか」

 由利は西洋史には抜群に強くても、東洋史のことについてはあんまり知らなかった。

「ああ、彼って蘇東坡(そうとうば)とも言われているんだけど、ほら、小野さん、『トンポーロー』って知ってる?」
「ああ、あの豚の角煮のことですね?」
「そうそう。あれって、『東坡肉』って書いて、『トンポーロー』って読ませるんだ。この料理の発案者は、他ならぬこの蘇軾なんだ」
「えーっ! そうだったんですか! お料理の名前の由来まではまったく知りませんでした」
「彼の生きた時代、すなわち十一世紀の中国って、なぜか豚肉を食べる習慣が途絶えた時代でもあったんだよ」
「ホントに? 中国料理っていったら豚肉って、現代人は連想するのに」
「うん、だけどまぁ、宋の時代は羊の肉を食べるのが専らの習慣になっていたらしくてね。蘇軾は天下に並ぶものがいないほどの大秀才で、各地の知事を歴任し、文部大臣にまで出世した人なんだけど、かならずしも時の趨勢は彼の味方ではなくて、結構左遷とか島流しとか悲惨な目に遭っているんだよね」
「確かに優秀な人って時代を先取りするから、世間の人の理解を得るのは難しいって言いますよね」
「うん。彼は左遷された先の土地の人々が食べるものがなくて飢えで苦しんでいるとき、豚肉を食べる習慣がないことに気が付き、自ら野生の豚、すなわち猪を狩って捌き、この料理を作って広めたっていうんだ。そこで『食猪肉詩(豚肉の詩)』っていうのを作ってたりするんだよ」
「豚肉の詩? ふふっ、どんな内容なんですか?」
「豚肉はこんなにおいしいのに、どういうわけかめっちゃ安い。金持ちは見向きもしないし、貧乏人は食い方を知らない。少量の水でじっくりと火を通してごらん。びっくりするほど旨いぜ。オレは毎日、毎日喰ってるぜ! みんなも豚肉を食べようぜって、そんな感じ」
「うふふ。おかしい!」
「そう。彼は諧謔趣味の強い人で、自分のどんな過酷な運命に遭ってもこんなふうにすっとぼけた詩を作って楽観的に笑い飛ばすような、そんな強靭な精神力を持つ人だったんだ。晩年なんかは、海南島に息子ともども流されたりしたんだけど、紙はなくても字は書けるって、浜辺の砂に棒きれで字を書いて、息子に詩作の勉強をさせたりもしているんだ」
「不撓不屈 の魂ですね」
「そう、そういう蘇軾に憧れて、ボクもできるなら彼のように強い人でありたいと思ったんだ」

 由利は小山のセリフに不穏なものを感じて眉をひそめた。

「小山さんは十分に強いじゃないですか。それに蘇軾のように、悲惨な運命にあるわけでもないでしょう?」

  由利がそういうと、 小山は少し立ち止まって沈黙していた。

「実はね、ぼくが女子トイレで小野さんと鉢合わせしたとき、ボクはいつになく饒舌になって自分のことを弁護した。だけどそこにはかなり嘘も混じっていた・・・」
「えっ?」
「小野さん、ボクはあのときキミに偉そうに啖呵を切ったでしょ? 周囲から誤解を招きたくないからこんなふうに男の恰好をしているだけだって。何の他意もないって」
「はい、小山さんはあのとき、たしかにそう言われました」
「ボクはこう見えて、実は女でしょ? そしたらどんな格好をしていても男が好きになるのがノーマルだよね」
「ええ・・・そうですね」








小山は由利に衝撃的な告白をします。 それを受けて由利はどうするんでしょう?  ハラハラドキドキの回ですよ~。 続きはこちらで!!

https://note.mu/sadafusa_neo/n/n30c2f2d61b78


nice!(2)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。