境界の旅人 33 [境界の旅人]

第八章 父娘

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 その日もいつものように茶道部の連中は、新部長である鈴木千晶の厳しい指導のもとに集い、散会した。小山の代わりにとなった千晶は母親が茶の湯の師範でその関係上、五歳のころより茶の湯の稽古を始めた。実にその道十年以上のベテランである。ブリリアントさでは遠く及ばないものの、多少エキセントリックな言動が多かった小山とは違い、千秋は逆に手堅いお点前をすることで定評があった。

 いつもなら一緒に帰るはずの美月は、めずらしく用事ができたからといって先に帰って行った。だいたいいつも六時を過ぎたころに校門を後にするのだが、その日に限って早い時間に稽古が終わった。時計を見ると、まだ五時半を過ぎたところだった。

「そうだ・・・。そういえばここんところ、ずっと彼とは話していない」

 船岡山で喧嘩別れして以来、由利は常磐井とメールもしていなければ、まともに口を利いてさえいなかった。

「弓道部はまだ練習しているのかな?」

 そう思うと由利は無性に常磐井の弓を打つ姿を見たくなった。キリキリと弦を引くときの力強い全体のフォルム、的に狙いを定めているときの眼光鋭く厳しい精悍な表情。そんなピンと緊張した瞬間の常磐井は、由利の目にたまらなく魅力的に映った。そんな彼を遠巻きに見つめているのが好きだった。

 由利は中の人間には分らぬように、そっと弓道場の外の窓から中を伺い見ていた。弓道部員たちは由利がこっそりと垣間見ていることなど露知らず、黙々と弓をひたすら打っていた。

「小野さん」

 そんな由利の背後から聞き覚えのある声がする。どきりとして振り向くと、それは春奈だった。

「ああ、田中さん・・・」
「どうしたの、小野さん。弓道部に何か用? それとも誰かお目当ての人でもいるの?」

 春奈は空とぼけたふりをして、恋敵を牽制するためか、由利がここを訪ねてきたわけを訊き出そうとした。

「えっ? ううん、別に。部活が早く終わったし、ちょっと通りすがりに何となく眺めていただけど?」
「へぇ、何となく見ていたにしては、えらく熱心だったような気がするけど?」
「あら、そう? そんなつもりはないけど?」

 挑発には乗らず素知らぬ顔をして、由利は春奈の問いに応じた。

「そうなんだ。あたしね、常磐井君を待っているのよ」

 春奈は由利にことさらにひけらかすように言った。その口調もどこか得意そうだった。

「そうなの?」

 悔しそうな顔を見られると期待していた春奈は、由利の動かぬ表情を見て少し調子が狂ったようだ。

「小野さん、あなた以前言ったわよね、あなたは常磐井君には全く関心がないって。だからたとえあたしが常磐井君と付き合ったとしても、それに文句を言ったりしないって」
「ああ、たしかにそんなことを言った覚えもあったかな。それが一体どうかしたの?」

 春奈がじっと由利を疑い深げに凝視していると、そこに他の部員に交じって練習を終えた常磐井が、弓を携えながら道着姿で戸口に現れた。

「常磐井君!」

 春奈が救われたような顔をして常磐井のほうへ転ぶように駆けて行くと、由利にことさらに誇示するように常磐井の腕に取りすがった。常磐井は向かい側にいる人物が由利だと判ると目が泳いだ。だがそれも一瞬で、またもとの表情に戻った。

「こんばんは、常磐井君」

 由利は常磐井に、他人行儀なあいさつをした。

「お、おう」
「うん、部活の帰りにちょうど田中さんとそこで会ったから、お話をしていたの」
「ああ、そうなんだな」

 常磐井はぶっきらぼうに答えたが、ごくんと唾を飲んだのか、喉ぼとけが動くのが見えた。

「実はね、あたしたち、これから三条へ行って映画を見ることになっているんだ!」

 春奈は昂った声で宣言した。

「ああ、今日は金曜日だものね。花金ってわけね。ステキ」

 由利はふふっと口元をほころばせた。

「ねえっ、悠季君?」

 春奈はいかにも親しげに常磐井の名前を呼び、同意を求めるようにちらっと見上げた。

「あ、ああ」
「何を見るの?」

 由利は春奈に訊ねた。

「ラ・ラ・ランドよ」
「へぇ、オシャレじゃない? ミュージカル仕立てだしね。主役のエマ・ストーンもキュートだし、ライアン・ゴズリングもハンサムだし。デートで見るにはピッタリな映画ね」
「うふふ、でしょ?」
「でもね、ちょおっとネタバレになっちゃうんだけど、結末が悲しいの。結局のところお互いに思いあっていた恋人たちは結ばれないのよね」

 そう言いながら、由利はさっと視線を常磐井の顔へと走らせた。

「あらっ、小野さん! だめよ、結末を言っちゃ!」
「ああ、ごめん、ごめん。つい。だけどこの映画は最後どうなるこうなるってことより、恋愛のプロセスを重点に描かれているから。結末をちょっとぐらい知っていてもまったく遜色はないはずよ。楽しんできてね」
「小野さんは、これからまっすぐお家に帰るの?」
「そうね、さっきまでそうしようかなって思ったけど、ちょっと気が変わったなぁ、実はね、いつも行く秘密の場所があるの。そこへ行ってから帰ろうかなって」
「秘密の場所? へぇ~」

 春奈がバカにしたように訊いた。

「そう、いろんな意味で大事な場所なんだけどね、あたしにとっては。今日はそこで少しひとりでいたいなって気分かしら。ああ、邪魔してごめんね。じゃあ!」

 由利はふたりのもとを離れた。


 
 由利はひとりで船岡山へ到着すると、いつものように自転車をふもとに止めて、ひとりで階段を上がって行った。もう日もとっぷりと暮れて、道路の途中途中の街灯だけがひっそりと辺りを照らしていた。日中は比較的暖かいのだが、さすがに11月の中旬ともなれば日が落ちるととたんに気温が下がる。由利はコートの襟のボタンをきっちりと閉じて風が中に入らないようにした。

 この山から見下ろす街の灯は、闇の中にで宝石箱をひっくり返したように赤、青、黄色、白、紫と様々な色が交じり合いきらきらと瞬いていた。いつもの由利なら、常磐井に背後からその身をすっぽりと繭のように包まれて、うっとりとその夜景を眺めているのに、ひとりきりで見るとなぜだかその光も非常に心細くて寂しいものに思える。

 ふと目から一筋涙が流れた。

「おまえが言い出したことじゃないのか? 学校では他人のフリをしろとな。それなのに何で泣く?」

 ふと気が付くと傍に三郎が立っていた。

「三郎!」

 驚いたように由利が叫んだ。

「三郎君、あなた、調伏されたんじゃなかったの?」
「誰が調伏されたって? おれがか? ふふふっ、あんな生臭さ坊主に何ほどのことができる? 全く聞いて呆れるとはこのことだ」

 由利はあの辛い滝行も結局、何の役にも立たなかったことを知って愕然とした。

「おれが調伏されて、この世から消えてしまえばよかったと思っているのか?」

 確かめるように三郎は訊いた。三郎は死霊なのかもしれないが、由利にとって危機から救ってくれた恩人でもある。だがそれとはまた別に、曰く言い難い懐かしさを三郎に感じていた。

「ううん、そんなふうには思っていない・・・。やっぱり三郎に会えると嬉しいもん」

 それを聞くと心なしか三郎の目許が和らいだように感じた。

「三郎・・・。あたし、あなたにいつか会ったことがあったのかしら?」

 いつも不敵な三郎の顔に、初めて動揺の影が走った。

「いつかだと・・・? それはどういう意味だ?」
「あたしが生まれる前・・・。過去生であたしが女御だったときに・・・」
「おまえが女御だったとき? そんなこと、誰がおまえに教えた?」

 三郎の目は怒りと驚きで大きく見開かれていた。

「ううん。誰にも教えてもらってなんかいない。何度かあたしの意識だけが昔に飛んだの。気が付けばあたしは今の小野由利じゃなくて、帝の女御だった・・・」
「そうだな。おまえはたしかにそうだった・・・。本当に美しくて、淑やかで、それでいて侵しがたい威厳があって・・・おれの誇り、おれの憧れだった・・・。傍近くかしずいているだけで、どれほど幸せだったことか・・・」

 三郎は思いがけないことを言った。

「じゃあ、あれは本当のこと?」

 三郎の瞳は潤んで夜景の光にキラキラときらめいていた。だがその問いには答えなかった。

「この船岡山はな、平安の昔から長らく死体捨て場だったんだぞ。未浄化霊がうようよしているんだ。そんな沈んだ気持ちでいると、また近衛邸のときみたいに化け物たちとお見合いすることになるぞ?」
「うん。だけど・・・」
「おまえ、あいつのことをどう思っているんだ? 好きなのか、それとも嫌いなのか?」
「判らない」

 由利はポツリと答えた。

「常磐井君は、自分じゃおそらく自覚していなんだろうけど、ものすごくセクシーなんだと思う。あたしはたぶん、彼のそういうところに惹かれているんだろうとは思うけど・・・」

 三郎はどこか由利を心配そうに見やった。

「常磐井君は本当に親切で優しいし、いつも思いやってもくれている。だけどあたしには、彼の生き方やものの考え方には違和感があるの。それに早熟な彼の性急な愛の求め方っていうのにも」
「そうだな、たしかにあいつは、おまえに欲望を抱いている」
「うん。それもわかってる。常磐井君は太陽みたいな人よ。強烈すぎるの。遠くで神のように仰ぎ見ている分にはいいの。だけど近くに寄ってこられるとその熱さでこっちが焼け死んでしまう、イカロスのようにね。だから今のあたしは応じられない」

 そういいながら由利は傍らの三郎には、常磐井の情熱とはまた別な日だまりのような優しさを感じていた。

「それじゃあ、さっきみたいに適当に他の女と遊ばせておけばいいじゃないか?」

 三郎は由利をなぐさめるように言った。

「理屈で言えばそうよ。だけど実際ああいうふうにされちゃうと、解っていても悲しくなるもんなんだね」
「ふうん。困ったお姫さまだな」

だが突然三郎は、何かを聞きつけたようにビクンと身体を震わせた。

「おやおや、そろそろ若君のご登場らしい。おれはあいつに嫌われているからな。じゃあな」

 そう言うと三郎は姿が見えなくなった。ほどなく常磐井が息せき切って、由利がいる場所へ来た。

「由利!」
「あら、常磐井君」

 由利は何事もなかったかのようにふるまった。

「どうしたの? もう映画は終わったの?」
「バカっ! こんな人気のいない寂しい場所へおまえみたいな女の子がひとりで来ちゃダメだろ? もし変質者に襲われでもしたらどうするんだ? 何かあったらと思うとオレはもう生きた心地もしなかった」

 実際に船岡山は京都市内でも物騒なところで、過去にいくつか殺人事件も起こっていた。だがだからこそ、高校生同士が人に知られることなく会うには格好の場所でもあったのだ。

「あら、血相変えて駆けつけて来るから、何があったかと思いきや、そんなことだったの? それに田中さんはどうしたの?」
「由利! どうしてこんなあてつけがましい真似をするんだよ! 田中との約束なんて、そんなのクソ喰らえだよ。あの場で即座に断った」
「あたしのことは気にしないで、あなたはあなたで田中さんと楽しくデートすればよかったじゃない? あたしはそれで一向に構わないんだけど」

 それを聞くと思わず常磐井は、激しい怒りに駆られてパシッと由利の頬をぶった。

「きゃっ」

 常磐井としては相当手加減して軽く平手うちしたつもりなのだろうが、しまったと思ったときには由利の身体はその衝撃に耐えられず、吹っ飛ばされるように倒れた。

「由利! すまん、大丈夫か?」

 地面に倒れ込む前に、常磐井はとっさに身体が動いて由利を受け止めた。抱き起こすと、由利は今の衝撃で鼻と口の中の血管が切れたらしく血を流していた。急いで常磐井はポケットからハンカチを出してその血を拭いた。

「すごいね、常磐井君の力って。一瞬意識が飛んでた。常盤君ならあっという間に、素手であたしを殺せちゃうね・・・。こんな目に遭うとあながち常磐井君の心配っていうのも、間違っていないんだなって今、実感しちゃった・・・」

 そう言いながら、由利は常磐井の腕の中で、思わず顔に手を当ててぽろぽろと涙をこぼした。

「由利、お願いだ。だからもう、これ以上オレを弄ぶようなことはしないでくれ、頼む」

 常磐井は由利に懇願した。

「ごめんなさい。だけど田中さんが勝ち誇ったようにあなたの傍にいるのを見ると、なんだか急に常磐井君が遠い存在に思えて」
「そうさせているのはおまえじゃないか、由利!」
「めちゃくちゃを言っているのは、自分でもよく分かっているのよ」 
「おまえは本当に女王さまだよ、由利。オレは結局、いつもおまえの言いなりだ、だから何でも言うことを聞く。どうすればいいんだ、言ってくれ」


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境界の旅人 32 [境界の旅人]

第八章 父娘



「おじいちゃん、大丈夫? タクシー乗り場まで歩ける?」

 由利は心配そうに祖父に訊ねた。

「申し訳ありません。弁護士さん。えろうご迷惑をかけてしもて。由利、大丈夫や。明日になったら病院へ行くさかい。今、救急へ行ってもやな、大学出たての半人前の当直医しかおらんやろうし」

 佐々木と由利が辰造の両端に立って身体を支えながら、ゆっくりとした足取りで一階までエレベーターを使って降りてから車回しまで行って、タクシーに乗り込んだ。

「由利さん、ひとりで大丈夫ですか?」

佐々木は心なしか心配そうに言った。自分にも由利と同じような年ごろの娘でもいるのだろう。

「あ、はい。とりあえず家で様子を見てみます。何かあれば家の近くには京都第二日赤病院の救急センターもありますから。でもたぶん、そんな大ごとにはならないと思います。佐々木さん、本当にお世話になりました」
「由利さん、気をつけてね」

 佐々木はたかだか十六歳の少女にしか過ぎない由利の大人びた冷静な態度に、いい意味でも悪い意味でも感心しているようだった。

「今日はありがとうございました」

 由利はタクシーの中から頭を下げて礼を言って、佐々木弁護士と別れた。
 車窓から外を見れば、街はクリスマスシーズンに突入したのか、金銀の華やかなデコレーションで飾られていた。

「ふう、もうクリスマスか・・・。季節が過ぎるのって早いね・・・」





 月曜の午前中は祖父に付き添って、近くにある行きつけの内科診療所へ行った。

「ふん・・・。まぁ、風邪だね。それに夏バテしてたんじゃないですかねぇ。暑い、暑いっていっているうちに、急にストーンと気温が下がったしね。だいたいの人は身体がついていけなんだよね」

 いつも世話になっている先生はそう診断をくだした。

「よかったぁ。おじいちゃん。風邪だって」

 それを聞いて、由利はほっと一息ついた。辰造も医師の見立てを聞いて安心したのか、軽口をたたいた。

「最近は地球温暖化の影響なのか、季節は夏と冬ばっかりになって、春と秋がなくなってきとるからねぇ」

「ま、お薬出しときます。あとは二三日、ゆっくり養生して身体を休めてください。小野さん、あんたもトシなんだし、いつまでも若いつもりでいたらあかんで」

 先生は笑いながら辰造に釘を刺した。





 由利は途中でパン屋によってサンドイッチと野菜ジュースを買ってから、学校へ出かけた。ちょうど四時間目が終わったらしく終業のチャイムが鳴った。

 後ろの席に座っていた常磐井は戸口に入って来た由利に気づいたのか、さっと鋭い視線を向けたが、それだけだった。何の感情も浮かべることなくすっと立ち上がり、目も合わすことなく由利の脇を真っすぐに通り過ぎるとと、学食のほうへと向かって行った。

 努めて何気ないふりをしてその姿を見ていたが、由利は瞬間的にこの間の船岡山で交わした熱い抱擁と焦れた相手の表情が思い出され、体中にカッと熱い血が駆け巡るのを感じた。

 常磐井は、今はこんなに冷たい表情をしているけど、それは単に由利の愛情を失いたくないがために演じている擬態にすぎない。何しろ人前では他人のふりをしろと常磐井に命じたのは由利なのだから。

 教室の外から田中春奈が常磐井を呼び止めている声が聞こえる。

「常磐井くぅーん」

 春奈のやけに甘ったれた声が響く。

「ん? 田中か? 何?」

 いつものように、常磐井のそっけない声が聞こえる。

「常磐井くん、学食へ行くの?」
「うん、そうだけど?」
「あたしも購買へ行くから、途中まで一緒に行こ?」
「あん? ま、いいけど」

 常磐井は春奈の誘いにまんざらでもない顔をして応じていた。そのふたりの後ろ姿を、由利は振り返って意地悪く見ていた。



ーきっとあの人の心は、今ここにいるあたしのことでいっぱいなはず。春奈が誘えば常磐井は、デートぐらいは付き合うのかもしれない。あたしに感じた欲望を代わりに春奈で満たそうと、それ以上のこともするかもしれない。だけど単にそれだけのこと。圧倒的な力を誇る彼も、結局あたしに勝つことができないー



 ひとりの人間の心を征服し屈服させて従わせてしまう自分に、ほの暗い喜びを覚えて有頂天になっていた。そして頭のてっぺんからつま先に至るまで、身体中が耐えがたい甘いうずきに支配されて、由利はふるえた。



「由利」

 ぼうっとしていると、美月が声を掛けて来た。

「あ、美月。おはよ」
「どうだったの、おじいちゃんの様子は?」
「うん。風邪だって。大したことなくて良かった」
「そっか~。一安心だね。昨日LINEもらったときは心配しちゃったよ。うちのお母さんに言ったら、『由利ちゃんひとりじゃ大変だろうから』って、夕飯前にお惣菜をたくさん作って由利んちへ持って行くって。レンジでチンしたら食べられるように全部しておくってさ。だから家に帰ったらまず冷蔵庫を点検してねって」
「えっ? 芙蓉子さんが? 芙蓉子さんだってお家の仕事で忙しいだろうに。何か申し訳ないなぁ」
「まぁさ、相手はベテラン主婦ですから。たまには頼ってもいいんじゃない?」
「ありがと、いつも美月と芙蓉子さんにはお世話になりっぱなしで」
「いいよ。そんなこと。うちのお母さんも好きでやってるんだしさ」

 突然、由利の表情が明るくなった。

「ねぇ、美月、ちょっと報告したいことがあるの!」
「えっ? もしかしたら、例の件?」

 由利がこっくんと首を縦に振ったとたん、美月の目がきらきらと輝きだした。



 いつものごとく茶道部の顧問室に鍵を掛けて、由利は日曜日に起こった佐々木弁護士がした一連の話を語って聞かせた。

「え~。良かったじゃん! 大進展じゃないの、由利! で、それでDNA鑑定はいつすることになったの?」
「うん、佐々木さんが早速手配をしてくれたみたいで、日曜日の夜に連絡が入って明日の夜に鑑定の人がウチに来ることになってるの」
「そっかぁ。で、それってどれぐらいで判るの?」
「ん~。なんか一か月ほどだって。本当はもっと早く出るらしいけど、日本とフランスってふたつの国をまたいでいるじゃん? 念のため、フランスと日本のふたつの機関で鑑定してもらうらしいよ。結果はあたしのところに直接来るんじゃなくて、弁護士さんのところへ来て、その結果をあたしが聞くって感じらしい」
「へぇ、そうなんだ! その人がお父さんだったらいいよねぇ、由利。何かいい人っぽいじゃない?」

 由利は一瞬無表情になったが、思い出したように顔が明るくなった。

「そんなことよりね、美月のアドヴァイスがすごく役に立ったの! 何と何と、さっき小山さんからメールが届いたんだよ」
「え、何て何て?」
「うん。これ見てよ!」

 由利は自分のスマホを美月に渡した。



 こんにちは、小野さん。

 ボクが日本からベルリンへ来て、約三か月が経ちました。
 加藤さんや、他の茶道部員の人たちが懐かしいです。みんな元気で新部長の鈴木さんについてお稽古に励んでいると確信しています。
 

 さて、今回はぜひともお知らせしたいことがあったので、このメールを書いています。
 ボクは十一月の頭にパリで行われるコンクールに向けて準備していたのですが、コンクールでのボクの評価は辛くも、一位なしの二位でした。


 相変わらず演奏のスタイルについて指摘を受けていて、指導通りに弾いていればきっと一位だったと言われるのですが、仕方がない。ボクはどんなにピアノの大家であろうと根本的に自分の信念を曲げる指導は受ける気が無いので、この結果は甘んじて受け入れるしかありません。


 いや実は、そんなことを小野さんに知らせたいために、メールしたのではありません。
 ボクとベルリンの先生とが一緒にパリに行ってコンクールを受けたあと、かなり大きな規模のレセプション・パーティが開かれました。パーティの主旨はあまりコンクールとは関係なく、『多分野の芸術家たちの文化交流』ということでした。 

 招待を受けたのは各分野で活躍している芸術家で、音楽家はもちろんのこと、美術分野の画家や彫刻家、そのほか写真家、ダンサー、俳優、作家などいろいろな方面の芸術家が集まっていました。

 そのパーティの席でベルリンの先生がボクの約束通り、フランス在住で、やはりピアノの大家で通っている知人に小野さんの手紙を見せました。
 パリの知人はこの手紙を読んでもさっぱりと心あたりがないらしく、頭を傾げていました。

『科学者とはあまりつながりがないのでね。でも必要とあらばパリの十六区にあるこの研究所に、ラシッド・カドゥラ氏を捜して、ユリ・オノに連絡を取るように働きかけてもよい』と言ってくれたのです。

 ですがそうこうしているうちに、ちょうど地方からパリに出張中でたまたまこのパーティに出席していた人が、先生たちの見ている写真がちょうど目に入ったらしく、驚いた様子で『ちょっとその手紙を見せてください』とひったくるようにして手紙と写真をもぎ取ると、しばらくの間、手紙と写真を代わる代わる穴が開くくらいじっと見つめているのです。

 ボクはその人の切羽詰まった様子にびっくりしてしまいしたが、その人は『この手紙と写真のコピーをとらせて欲しい』と先生の許可を一応得て、どこかへ消えてしまいました。

 三十分ほど経過したころでしょうか、その人はボクの先生に件の手紙を返すと『急に要件を思い出したから』といってそそくさとパーティの会場から去って行きました。

 その人はボクの目から見れば歳の頃は四十代半ば、背の高さは平均的フランス人にしてはやや高く、百八十センチくらい。痩身の白人男性でした。目や髪は黒っぽい色で、そしてどことなく風貌が小野さんに似ているように思えたのです。

 先生のフランスの知人に『あの人は一体誰ですか?』と尋ねても、『たまたまあなたと同じように、招かれた人と同行する形でパーティに来た人で名簿にも載っていないし、誰かから正式に紹介された人ではないから分からない』としか返事がありませんでした。ですがそれでも先生の知り合いは親切な人で、パーティ会場であちこちの人にその人が誰かを訊いて廻ってくれました。

 その結果『どうも画家で、どこかの都市のエコール・ド・ボザール(美術大学)で教鞭をとっている人ではないか』という話でした。

 それでボクは思い出したのですが、この人が小野さんの探していたお父さんであるとすれば、あれほどに鋭い小野さんの美的感覚は、やはりお父さん譲りのものだったのだと合点がいくような気がしました。

 小野さんをぬか喜びさせたあとで失望させたくないので、あまり断定的なことは言えないのですが、その人はたしかに手紙を見て驚愕していました。しかしその驚きの中には、隠そうとしても隠しきれぬ喜びの表情が入っていたようにボクには見受けられたのです。

 その人から何らかの連絡が小野さんのほうにあればいいのですが。ものごとがよい方向へ行くことを願っています。


 それでは元気で。 ボクもセンター試験には間に合うように日本へ帰国するつもりです。茶道部のみんなにもよろしくお伝えください。

 ごあいさつがてらお知らせまで。

                      
 小山 薫





「何これ、何これ! どういうこと?」

 美月は感動のあまり、スマホを持って顧問室の中を踊るようにくるくると駆け回った。

「やっぱり、この人、十中、八九、由利のお父さんなんじゃないかな!」
「うん。そんな気がする。たしかに小山さんの言う通り悪い人じゃなさそうな感じはするけどさ。だけどさ」
「何、由利?」
「お母さんとはどんな別れ方をしたのかはよく分からないけど、たとえうちのお母さんと恋仲である間は誠実な恋人だったとしてもさ、別れて十六年以上経っているんだよ。もうとっくに奥さんや子供がいるのかもしれない」
「でもよ、由利! その人のほうからがDNA鑑定したいって言いだしたんでしょ? 決して悪い方向には行かないんじゃない? たとえ法的に親子関係になるとかそういうんじゃなくても、その人と血の繋がりが確認できたら、由利ははっきりとした自分の父方のルーツが判るわけじゃない。それはそれでいいと思うよ」
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境界の旅人 31 [境界の旅人]


第八章 父娘



「ただいまー」

 玄関の戸を開けると、中から湯気に包まれた温かい空気が由利を包んだ。

「おう、由利か」

 祖父の辰造が夕餉の用意をしていたようだ。

「あ、おじいちゃん。ゴメンね。遅くなって。あたしも手伝うよ」

「ああ、もうじきに出来上がるから、ええで。そこに座っとき」

 達造が味噌汁の鍋をおたまでかき回しながら、思い出したように言った。

「ああ、由利。そういえば、ようわからんけど、どこかの法律事務所から書留を由利宛に送ってきおったんや。ちゃぶ台の上にあるさかい、見てみい」

「法律事務所? へぇ、何だろ?」

 たしかにちゃぶ台には一通の封書が置いてあった。宛名はたしかに祖父の言った通り、由利宛だ。

「どこの法律事務所・・・? 佐々木俊哉法律事務所・・・?」

 由利は頭を傾げながら後ろの所書きを見た。

「東京都大田区? 何? 一体この佐々木法律事務所サマはあたしに何の用なんだろ?」

「由利、棚にハサミがあるやろ、それで開封してみいや」

「うん」

 由利は封筒の端をハサミで切って開封し、中を読んだ。手紙の文面は手書きだった。



 突然のお便り、失礼いたします。

 私は佐々木法律事務所を営んでおります弁護士、佐々木俊哉と申します。
 私はある方より依頼の命を受けてこの手紙を書いております。

 なぜならば依頼人は、由利さんが八月の中頃にフランス国立研究所に宛てて出されたラシッド・カドゥラ氏の消息を尋ねる手紙を偶然ご覧になる機会があり、ご自分がもしかしたら、お母さまの玲子さん、そしてお嬢さまの由利さんとのご縁につながる人間かもしれないと思われたからです。

 依頼人は由利さんのお母さまの玲子さんがフランス国立研究所に在籍されていたおり、一時期交際されたことがありました。ですが由利さんの手紙をお読みになるまで、由利さんという存在自体をまったくご存じではありませんでした。

 つまり依頼人は由利さんの手紙を読んで初めて、玲子さんにお嬢さまがいらっしゃったことをお知りになったのです。

 手紙と一緒に同封されたお母さまの玲子さんと一緒に写っておられる男性をラシッド・カドゥラ氏だと、由利さんは認識されていますでしょうか?

 だとすれば残念ながら、その男性はカドゥラ氏ではありません。

 ともかく当方は、由利さんのことについて何一つ知りません。また由利さんが一体どういう目的で、あのお手紙を出されたのかも、一切承知しておりません。

 そんなわけで私は、まずは由利さんから細かい事情を詳しくお伺いするように、依頼人に命じられております。

 つきましては一度、ご都合のつく日に私がそちらに参りまして、お話を少しばかりお聞かせくださる時間を作っていただけますでしょうか。

 なお、お返事はこちらのメールのほうへお返しくださいませ。





 由利は手紙を読んで真っ青になった。

「どうしよう・・・」

 由利はぺたんと畳に尻をついてつぶやいた。

「どうした、由利?」

 辰造は由利がちゃぶ台に放り出した手紙を手に取って読んだ。

「由利、これはどういうこっちゃ? きちんとわしに説明してみなさい。何、怒りゃあせん。どうせ玲子の相手のことやろ? 玲子は由利にまったく父親のことを言っていないんと違うか?」

「うん・・・」

 由利は秘して黙っていたこれまでのいきさつをすべて祖父に説明した。それを辰造はふんふんと真剣な顔でひとつひとつ聞いたあと、ため息をつきながらこう言った。

「そうか・・・。由利も難儀なこっちゃな。せやけどな、こういうことは、たとえいっとき嫌な思いをしたとしても、知らないよりは知ってしまったほうが、後々楽なもんやで。そりゃあ、由利だって自分の父親がどんな人間かは知りたいやろ。それに知る権利があると思うで」

「おじいちゃん、これって・・・。もしかしてフランスのあたしのお父さんにあたる人がすでに結婚もして子供もいて幸せに暮らしているところに、この手紙を目にして不愉快に感じているんだとしたら? どうしよう・・・だから弁護士を自分の代理人に立てて、交渉しようとしているとも考えられるよね?」

 由利は最悪のシナリオを想定して、思わず泣きだした。

「もしかしたらそんなこともあるかもしれん。しかしな、ここまで来たんや。しっかり物事を見定めなあかんやろ。そんならな、わしも一緒にその佐々木さんという弁護士に会(お)うたるわ。何、可愛い孫娘にばかり辛い思いはさせんて」





 そのあと由利は何度か東京の佐々木弁護士とメールのやりとりをしたあと、学校のない日曜日の午後に京都駅に隣接しているホテル・グランヴィアの一室にて祖父を交えて会うことになった。

 由利と辰造が指定された番号の部屋に入ると、佐々木弁護士が椅子から立ち上がって、ふたりにあいさつした。

「はじめまして、小野さん。そして由利さん。私が弁護士の佐々木俊哉と申します」

 由利たちに自己紹介した佐々木は、歳の頃は四十半ばぐらいのいかにも弁護士然とした知的な感じの男だった。

「今日は、依頼人の要請に応じてこちらにご足労いただきまして、誠にありがとうございます」

「いえ、とんでもないことです。弁護士さんもわざわざ東京からおいでなさったんでしょ?」

 由利に付き添ってきた辰造は、佐々木と名乗った男に深々とお辞儀した。

「いえいえ。これが私どもの仕事ですから。ではお座りください」

 由利と辰造は部屋に設置されたソファに腰を下ろした。佐々木はテーブルに自分が必要な書類を拡げてから言った。

「では、早速ですがお話に移らせてくださいね。これから伺うお話は個人情報にあたることですので、私たちには守秘義務というのがあります。従って関係のない第三者には漏らすことはありません。またもしこの話し合いが終わった時点で、依頼人と由利さんの接点が確認できなかった場合は、依頼人のほうへ『該当せず』としてあなたの報告を控えまして、お借りいたしました書類などはすべてお返しし、またこちらが持っている由利さんに関するすべての資料を破棄いたします。まずそれを事前に申し上げておきます。よろしいですか」

「はい」

 ちょっと緊張して居住まいを正しながら、由利は答えた。

「では、メールでお知らせしておりました、戸籍謄本、母子手帳を持ってきていただけましたでしょうか?」

「はい。ここに」

「では、お預かりしますね」

 由利がテーブルにファイルを差し出すと、それを見て不備がないか佐々木はチェックしていた。

「それでは由利さん、あなたの生年月日を教えていただけますか?」

「はい。20○×年の▽月□日です」

 佐々木は由利の戸籍謄本を見ながら、うなずいた。

「とすると・・・お母さまの玲子さんはあなたがお腹にいたときには、ちょうどフランスで勤務されていた頃と重なりますね・・・。お母さまはそのとき、結婚されていなかったということですか?」

「はい。母は未婚であたしを産みました」

「では、あなたの法的な父親にあたる人はいないということですかね」

「はい、そうです」

「失礼ですが、これまでの家族形態を教えていただけますか?」

「生まれてからずっと母と私だけです」

「ということは、お母さまはこれまで結婚なさっていないのですね?」

「はい、一度もありません」

「なるほど、なるほど」

「では由利さん、あなたはどのような動機で、フランス国立研究所宛てにラシッド・カドゥラ氏の消息を求める手紙を書かれたのでしょうか?」

「はい。それは・・・、あたしが自分の父親のことを知りたかったからです」

「しかしそのことは、お母さまに訊けば、ある程度のことは判るのでは?」

「はい、たしかにその通りなのです・・・。でも理由はまったく分からないのですが、母は絶対にあたしの父親のことを教えようとしませんでした」

「ほぉ、そうなのですね。お母さまはあなたの父親にあたる方を、どう思っていらっしゃると感じますか?」

「・・・判りません。ただあたしの父親にあたる人とのことは、結果的に母にとっては苦い思い出になっているような気がします」

「そうなんですね。ではどうしてあなたは、カドゥラ氏をご自分の父親ではないかと考えられたのでしょうか?」

「はい、あたしは自分のことを生粋の日本人ではないと思っています。それも韓国や中国といったアジア系の人とのハーフではなく、おそらくコーカソイド系の人とのハーフではないかと・・・。それにさっき弁護士さんがおっしゃったように、母があたしを妊娠している時期とフランスに滞在している時期が重なるんです。ですからフランス国籍を持つ人か母のような外国人かは判りませんが、少なくともその当時パリに住んでいた男性との間の子供なのではないかと思っているのです」

「ほうほう。まぁ、それはしごく妥当なお考えですね。ではどうやって、カドゥラ氏という人物を特定したのですか?」

「はい、まずあたしの母の親友である人から、あたしの父親にあたる人はムスリムで、母から『ラディ』と呼ばれていたと聞きました。そしてフランス国立研究所宛てに出した手紙に添付しました写真ですが、それも母の親友が所持していたものを譲り受けたものです。そこには母とあたしの父親と思われる男性が写っています。で、今年の夏のことになりますが、あたしは東京の自宅へわざと母の出張中を狙って忍び込み、在職当時の研究所の職員名簿を見つけ出しました。その中からラディと呼べそうなイスラム文化圏の名前の男性で、この写真に似た人を捜したのです。写真を撮られた当時の母はおそらく二十五歳ぐらいだと思いますが、男性もそれほど歳が離れているとは思えません。ですから母の年齢にプラス・マイナス五歳ぐらいの人を条件として捜しました。そしてそれをすべて満たす人がラシッド・カドゥラ氏でした」

「ははぁ、そうでしたか・・・。なるほどねぇ」

 しばらくじっと自分の手帖をみて佐々木は考えこんでいたが、やがてこう切り出した。

「それでは、あなたのカドゥラ氏の消息を尋ねる理由というのは、ご自分のお父さんではないかと思ったいうことで、よろしいですね?」

「はい、そうです」

「では今日、わたしがこちらに来ました本当の主旨を申し上げましょう。依頼人はやはりあなたのことをご自分の娘ではないかと思われたそうなのです。今、由利さんのお話や生まれたときの時期や状況などを聞くと、親子関係である可能性が十分にあると考えられますね」

「ええ? そうなのですか? じゃあ、その方はラシッド・カドゥラさんではないとおっしゃるのなら、一体どんな方なのですか? お名前を教えてください」

「はい、それがですね。残念ながらまだお名前をお聞かせすることはできないのです」

「な…なぜですか?」

「何よりも先にDNAの鑑定を受けていただいて、その結果をお待ちください。依頼人はまずは、彼とあなたがはっきりと親子関係であるということを証明させるべきだと考えています。依頼人もあなたの手紙を読まれたあと、一刻も早くあなたに会いたいと思われたようです。ですが、よく調べもせずに仲良くなったあとで、親子ではなかったという事実が判明したとなれば、結局あなたは二度父親を失うことになるからと思いとどまられたのです。ですから今は名前や身元を伏せさせていただいているのです」

「それは先方さんがおっしゃることは、もっともやと思いますわ。よう確かめもせずに父親や言うて来られても、あとで違(ちご)うてたとなると、由利の傷つき方も、半端ないもんやと思いますわ」

 辰造はしょんぼりとうなだれている由利の肩を、なだめるように叩いた。

「な、由利。先方さんは深謀遠慮のあるお人やと、おじいちゃんは思うで。ここは少し冷静になって結果を待たんとあかんやろ。何にしても話はそれからや」

「うん」

「なぁ、なにをがっかりしてるんや、ええ? 由利。依頼人さんが実のある人でよかったとわしゃ思うで。どちらにしろ、一歩前進やろうが?」

「うん・・・」

「本当にお疲れさまでした。由利さんはまだお若いですし、さぞ緊張されてお疲れになったでしょう。今ルームサービスでお茶とケーキを運ばせますから。どうぞ一服なさってください。由利さん、今日はいろいろと言いづらいことを根ほり葉ほり伺って、申し訳ありませんでしたね。私も双方にとっていい結果が出ることを望んではいますが・・・。小野さんも付き添っていただきまして本日はありがとうございました」

 そこで佐々木弁護士は由利に言った。

「ここでお写真を一枚、撮らせてもらっていいですか? もし鑑定の結果、あなたと依頼人の親子関係が成立するとすれば、あなたの写真をぜひ見たいと希望されているのです。どうです、由利さん? 依頼人がお父さまだと判れば、送らせてもらってもいいですか?」

「はい、もちろんです」

 由利は少し不安が混じった顔で、返事した。

「それでは、その白い壁のところをバックにして撮りましょうか? 由利さん、。もっとにっこり笑っていただけますか?」

 由利はできるだけにっこりと微笑もうとしたが、その表情はどことなくぎこちないものとなった。


 
 ホテルの人間がお茶とケーキを運んできたので、三人はしばしの間、当たり障りのない世間話をした。
 由利の緊張がほぐれてきたのを見て、佐々木はさらっとスマホのシャッターを何枚か切った。

「ああ、やっぱりさっきの写真よりこっちのほうが、断然生き生きとしていますね。ほら、ご覧ください。こっちを使いましょう」

 佐々木は自分が撮った写真を由利と辰造に見せた後、心持ち嬉しそうに言った。そしてこれからのスケジュールを告げた。

「ではこちらで用意しましたDNA鑑定をする人間が近日中にお宅をおじゃましますので、そのときはまたよろしくお願いしますね。学校もあるでしょうし、夜の七時ぐらいに伺いたいと思います」

「えっ。自宅にですか?」

「ああ、検査自体は非常に簡単でしてね。綿棒で由利さんの口の中を拭えばそれでおしまいですよ。まぁ、せいぜい十分もあれば充分でしょう」

「そんな簡単なことで?」

「ええ、人の体液で調べるのが一番確実です。九十五パーセントの確率ですよ」

「へぇ、そうなんですね」

「ええ。そうなんですよ。まぁ、伺うときはあらかじめ前日に電話を差し上げますので」

「わかりました、ではよろしくお願いします」





 要件が済んだので、由利と辰造が部屋を辞するために立ち上がろうとした。しかし由利の傍に終始黙って座っていた辰造は、ふらりとよろめいた。

「おじいちゃん!」

「小野さん、大丈夫ですか?」

 佐々木がつつっと近寄って、辰造を支えた。

「小野さん、とりあえず、こちらのソファで横になられては?」

「いやぁ、お世話をかけてすまんこってす。わしもちょっと緊張しとったんかなぁ。ハハハ」

 辰造は冗談めかして笑おうとしたが、その顔は真っ青だった。
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ベル・エポックのパリへようこそ! [読書・映画感想]

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みなさま、こんにちは。

さて、わたくし、先日、『響けユーフォニアム』ファンの聖地、出町は桝形商店街にある出町座へと行ってまいりました。

出町とは、京都は上京区の鴨川の端にある町のことです。

昔の京都の境界とはここまでで、鴨川を渡ると、もはやそこは京都ではなかったのです。ここはまぁ、鯖街道の拠点でもあり、まぁ、旅の出発点でもあったので、町を出る、つまり、出町となったのではないかと予想されます。

もとい、この出町座はですねぇ、ちょっと面白い映画館でして、京都にもアート系の映画館は二、三ありますが、出町座はそれの二番館みたいな役割をしています。京都の京都シネマで1週間しかやらなくて見そびれた映画などがこの出町座で上映されていたりします。

さて、わたくしがこれから紹介しようと思います、『ディリリとパリの時間旅行』っていうのもその類なのですね。

これは、実はフランスのアニメでして、最初から最後までフランスらしい美意識で打ち抜かれた作品なのです。

かてて加えて、ベル・エポック(美しい時代)と銘打たれたころのパリを舞台にして、すてきな冒険が繰り広げられます。

第一次世界大戦がはじまると、世の中、ものすごく様変わりしちゃうんですよ。それまで時間はゆったりと進んでいました。

それまでは貴婦人は長い髪の毛を結いあげ、ドレスを着つけるのに、二時間、三時間ほど時間をかけていたのです。

しかし、戦争になってマシンガンや戦車が出て来ますと、とてもじゃないけど、そんなことをしている時間の余裕がなくなり、長い髪の毛を切って断髪にし、さっさと機敏な行動をするために、コルセットなどという窮屈なものははずし、裳裾を引くようなドレスは丈を詰めて、ひざ下のスカートになるわけなのですね。


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 (原題は『パリのディリリ』というみたいですね)

ちょっとこのポスターをよく見ると、ん?と思われた方もいらっしゃいますでしょうか?



ここには、20世紀初頭にパリで活躍した有名人が載っていると思うのです。一番前の白い服をきた肌の浅黒い女のコが主人公のディリリ。そしてその隣の背の高い男のコがディリリのボーイフレンド、オレル。そして、もう反対側に立っている貴婦人が当時のパリで大変有名だった歌姫エマ・カルヴェです。

というようにですね、時系列にすれば10年や20年ほどのタイムラグがあって、本当はすれ違わなかったかもしれないけれど、当時パリで大変有名だった、あるいは現代において大変有名になった人々がぞろぞろと登場します。

ポスターを見て「おや?」と思う人がいますか?

わたくし、三分の一もわからなかったかもしれないですが、「ああ、この人ってもしかしたら、〇〇じゃないかなぁ」と思いながら見ているのは楽しいです。

(ちなみにボーイフレンドの横にいる、青いドレスをきた女性は、かの高名な物理学者、マリー・キュリー夫人です。学習漫画の偉人伝ではおなじみの人ですよね)



~~~~~~~~~~

1900年にパリは万国博覧会を開いたことはご存じでしょうか?

日本からは川上音二郎と妻の貞奴が招かれていたようです。

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当時のヨーロッパはジャポニズムって、日本風な芸術が流行っていたので、新劇の女優である貞奴さんはあちこちでモテモテだったみたいです。



さて、簡単なあらすじ。

1900年にパリで万国博覧会が行われたことは前述しました。

その中には、カヤック族のパビリオンも含まれていました。そこではカヤック族の模擬家族がカヤック族の一日を再現していました。そこへ木に登ってするするとカヤック族の女の子に近づいてきた少年がいました。名前をオレル。

「ねぇ、キミ。フランス語話せるかな?」

「ええ、カヤック語より得意なくらいよ」

 そうやって、約束の時間に現れた女の子はなんと、フランス風の真っ白なドレスを着て現れました。少年はびっくり。

ディリリはフランスにわたる前はニュー・カレドニアできちんとしたフランス風の教育を受けていたのですが、こっそり興味をひかれた忍び込んだ船が出航してしまい、そのままフランスに来てしまったとのこと。

でも、ディリリはフランスに憧れていたので、このことには満足していました。そして、ディリリは実はフランス人と現地人の混血児でした。

「いつも、窮屈な思いをしていたの。明るい肌をしているから、のけ者にされていた。だからフランスに来たら、すんなり受け入れてもらえるかなって思ったら、今度は『肌が黒い』といって差別される」

どうも、ディリリは万国博覧会が終わったら、ふるさとへ帰ろうと思っていたようです。でも、ずっと博覧会で働いていたので、パリをじっくり見物したことがないのが残念だとオレルに言いました。

「それなら、ボクに任せなよ。ボクはお届けもの屋をしているから、パリの隅から隅まで知っているよ」

というふうに、ディリリとオレルはパリのいろんなところを冒険します。

で、ですね、アニメの作りが非常に変わっていて、ところどころ、背景は写真なんですよ(加工はされていると思うけど)。それがなんだか非常に不思議な世界を構築しているんですよね。

オレルは華やかな表通りから、普段はまっとうな人なら物騒だからと近づかない裏通りまで、まさにパリの隅から隅まで、ディリリに案内してくれるのです。それが、見ている側にとって非常に面白い。

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ところが、パリには誘拐事件が立て続けに起こっていました。さらわれるのはだいたいみんなディリリのような年端も行かない少女ばかり。

しかし、これは近年女性の地位があがり、世の中に台頭してきたことをよく思わない「男性支配団」という秘密結社の秘密だということがわかったのです…。



~~~~~~~~~

ここからしゃべってしまうと、面白くないので、ここまでにしておきますが、これって多少、フランスの歴史に関係あるのかなって思う所見を述べさせていただきます。

みなさん、ご存じのように、フランスは世界で初めて「人権宣言」をした国ですよね。

フランス革命は、人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖などを唱えました。

ね、自由、平等、友愛、がフランス革命のスローガンでしたよね。すべての人が平等であるべきだ、っていうのは、当時差別があって当たり前という世の中にあっては天地がひっくりかえるほどの価値観の転換だったわけよ。

ですが、この平等というのは、女性とか、有色人種とか入っていなかったのです。

ディリリは女の子で、カヤック族とのハーフですから、そこらへんが思いっきり抵触しているわけよね。

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まぁ、いきなり女性もどんな人種も平等、というふうにはならなかったのです。

そしてこんな国でありながら、一皮めくるとフランスって国は、結構家父長制の強い国でありまして、フランス革命後、台頭してきたナポレオンなんてその権化であって、彼は女が出しゃばってるのが本当に許せなかったみたいですね。「女は家でつつましやかに、家事や裁縫でもしているのが望ましい」って思っていたみたいです。案外、こういう考え方って根強く一定のフランス人の中にあるみたいですね。

男性支配団というのは、そういった女が世の中に出しゃばっているのが、気に入らない男たちばっかで作られた秘密結社で、女の子をさらってきては、その子を男に従順な存在となるよう、家畜化というかペット化というか、奴隷化させようとしていたのよね。

まぁ、これは物語だからかなりわかりやすくカリカチュアライズされてあるけど、いまだにDV男が結構な数で存在しているフランスは、このことにもっと留意すべきなのかもしれないと思いました。もちろん、フランス以上に、男が幅を利かせている日本も同様です。

男も女あってこその男だし、また反対に女だって、男あっての女なんですよ。

女を否定することは、結局は男である自分をも否定することになる、とよくよく考えてみればわかることだと思います。





でも、お話はやはり最後はハッピーエンドになって、女の子たちは、ぶじ救出されるのだけど、その方法がまた、非常に美しい。

なんとレッド・ツェッペリン号が救出に来てくれるんですよ。

その部分が、なんていうのかなぁ、日本のアニメとも、アメリカのディズニーとも違うアプローチで、非常にフランス的演出なんですね。

行ってみれば、ローラン・プティ・バレエの美術を見ているようだった。非常に人工的でありながらも、繊細なんですよねぇ。

う~ん、さすが、フランス!

ビバ、フランス!

って感じで、フランスの底意地みたいなものを感じました。

最後のエンドロールで、ディリリと救出された女の子たちで踊るシーンが非常にかわいいので、載せておきますね。

https://www.youtube.com/watch?v=P56ALdTzmC4
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境界の旅人 30 [境界の旅人]

第八章 父娘



「最近、ずいぶんと日が暮れるのが早くなったよねぇ」

 薄く日の名残りの残る窓の外を見て、美月がため息をついた。

「うーん。そりゃあ、ま、『秋の日はつるべ落とし』って昔から言うくらいだしね。でもさ、あたしは京都の夏の暑さがこたえていたから、むしろ涼しくなってくれてほっとしてる」

 お茶室の傍に設けられた水屋で、稽古で使った黒い楽茶碗を拭きながら由利は答えた。

「こないだ、炉開きもされたもんね。そっかぁ、もう十一月だもんね」
「うん」

 由利はことば少なに答えた。

「ね、あれからフランスのほうからは何か連絡があった?」
「ううん。何の音沙汰もなし」
「えっと、あの手紙を出したのはいつだっけ?」
「八月のお盆の頃かな。だから二か月半は丸々経ってる」

 顔色にこそ出していないが、由利ほどその手紙の返事が来るのを待ち望んでる人間はいないはずだ。気にならないはずがない。

「そっか・・・」

 美月は由利の恬淡とした表情から、かえって物事の深刻さを推し量った。

「でもさ、由利。もう少し待って何の反応も無かったらまた、次の案を考えようよ。何かいいこと思いつくかもしれないし」
「ありがとう。美月。気を遣ってくれて。だけどね『返事がない』ってことがひとつの立派な返事なんだよ。あの手紙は結局、あたしの父親にあたる人のところにたどり着けなかったか、あるいはたどり着いたとしても、当の本人が死んだか、それとも父親のくせにあたしやお母さんを捨てたことに一片の悔いもなければ、何の興味もない人間ってことなんだよ、きっと」

 由利のことばには、いつまで待っても名乗り出て来ない父親に対する恨みがこもっていた。

「由利・・・」
「ああ、もうこんな話よそうよ。気持ちが余計に暗くなっちゃう」

 由利の口調はサバサバしていたが、どこか表情が荒んでいた。



下足箱へ行って、由利が靴を履き替えるとつま先のほうに何かが入っているような違和感がある。脱いで調べると小さな紙きれが入っていた。さっと美月に悟られぬように文面に目を走らせると「いつものところで待ってる」とだけ記されていた。

 いつもならふたりで自転車を走らせながら北大路から堀川通りを抜けて南下して行く。だが由利は、自転車置き場のところで美月に言った。

「あっ、そうだ、美月。あたしうっかり忘れるところだったんだけどね、これからおじいちゃんの血圧の薬を取りに行かなきゃならなかったんだ。悪いんだけどあたし、道が反対方向だからここでバイバイしなくちゃ」

 由利がいかにも今思い出したように、もっともな口実を言った。それを聞いた美月は、目の端をきらりときらめかせながら口角を少し上げた。

 由利はさっと自転車にまたがると、そのまま行ってしまった。それを美月はじっと黙って見送ったあと、こっそりつぶやいた。

「由利…。女子校で鍛えられたあたしの目を欺けるとでも思ってんの? アイツはガチで肉食系だよ? 由利はただでさえ傷つきやすいのに…、痛い目に遭わなきゃいいけど」



 由利が向かったのは船岡山だった。船岡山公園のふもとで自転車を止めようとすると、先客はすでに来ているようで、黒くて大きな自転車が止められていた。それを見るやいなや由利は、急かされたように駆け足で頂上に続く階段を昇って行った。

 あらかじめ待ち合わせしていたのは昼間でもめったと人がこない場所で、その木立の影に潜ませるように相手は待っていた。

  由利は相手に、学校ではただのクラスメイトとしてしか自分に接してはいけないと固く約束させていた。まったく気のないそぶりをさせて、自分の席の脇や廊下をすれ違いざまに通り過ぎる相手の姿を見ているのが好きだったのだ。

「常磐井君!」
「由利!」

 ふたりはお互いの名前を呼びあったあとは、まるでN極とS極の磁石がくっつくように固く抱擁を交わした。

 常磐井の大きな温かい腕に抱きしめられながらキスされていると、まるで極上の真綿に包まれているかのような安心感がある。由利は緊張から解放されるこの一瞬がたまらなく好きだった。背の高さがコンプレックスである由利は常磐井が相手だと、幼い頃のように、素直に可愛い女の子に戻れるような気がする。今は目を閉じながら、自分を無条件にこうして受け入れ、抱きしめてくれる相手がもたらす陶酔感にうっとりと浸っていた。

 驚くほど長いキスのあと、やっとふたりは顔を離して会話した。

「ねぇ、オレって、いつまで他人のフリしてなきゃなんないの?」

 常磐井は不満げに漏らした。

「いつまでって、いつまでもよ」
「なんで?」
「なんでって、理由はないけど・・・。それにあたし、こんなふうに優しい顔もいいんだけど、学校では口許をきりっと引き締めている常磐井君を見ているほうが好きかも・・・。いわゆるギャップ萌えってヤツかな」

 由利はふふっと笑ったあと常磐井の胸に顔を埋めた。こんな態度に出られると常磐井は強く出ることができない。ちょっと困ったように由利の背中に手を当てた。

「こんなふうにデレデレしているところ、他の人には見られたくないの。誰にも知られていない秘密って甘美で、より恋に熱中できる気がする」
「それってさぁ、前世からのサガ?」
「まぁ、たしかに女御さまと中将は世を忍ぶ恋をしていたよね」
「由利・・・。ねぇ、いつまでこんなふうにキスだけなんだよ?」

 焦れに焦れたあげく、とうとうしびれを切らしたように常磐井は迫って来た。

「常磐井君、それは前にも何回も言ったよね。あたしは今のままの、この状態が好きなの」
「え、オレは嫌だ! 由利が好きだから、もっと触れていたい!」

「それは・・・常磐井君が男だから言えるセリフなんじゃない? 女は元には戻れないのよ」

「一度男を知ったら、元に戻れないってこと? もしかしてそれは遡逆性ってことを言ってるのか?」
「まぁ、それもあるけど・・・。あたしたち、まだたった十六歳の高校一年生なんだよ。行きつくところまで言ったからって、それでどうなるもんでもないじゃない?」
「由利・・・・・・。恋なんて、どうなる、こうなるって、理屈が先に来るもんじゃないっしょ。好きだからじゃ理由にならないの?」

常磐井は真顔で由利に懇願した。

「ねぇ、男の人ってとかく忘れがちなんだと思うけど、女の側にはこういう快楽には必ず妊娠っていう危険をはらんでいるんだよ」
「妊娠なんてそんなこと・・・絶対に由利にはさせないよ」

 常磐井のささやく声には幾分かいらだちが含まれていた。

「常磐井君・・・。こういうことにはね、絶対なんてこと、ありえないと思うの。そうすることは、まだお金も儲けたことのない子供のあたしたちがやることじゃないと思ってる。おのれの分をわきまえていないっていうか、不遜っていうか」
「そんなの、いつの時代でも、やってるヤツはもっと早くにでもやってるさ。不遜だの分不相応だのって、そんな理屈っぽいこと考えてるもんか」

常磐井は鼻白んだように言い放った。

「それにね、常磐井君にとって先に進むことは大事なのかもしれないけど、今のあたしには必要じゃないの。どうして恋愛のプロセスのひとつひとつを大事にしないで、先をそんなに急くのよ? あたしはね、常磐井君、いい? したくないのよ!」

由利は嫌悪の情も露わにして、常磐井を拒んだ。

「でもさ、少なくともキスはいいと思ってるんでしょ?」
「え、うん。まあね」
「じゃあ、きっとその先もいいよ」

 そうやって常磐井はもう一度由利を強く抱きしめ、気を引こうとした。だが由利は、そんな姑息な手を使った相手をぴしゃっと遮った。

「ねぇ、こんなにしつこいんなら、あたしもう帰る。あなたとは金輪際こういうことしない!」

 由利はさっさと元来た階段に通じる道へ戻ろうとした。

「ま、待てよ! せっかくやっとふたりきりになれたのに! 顔に似合わず気が短いんだからな、由利は」
「ねぇ、常磐井君って自分の将来はどう考えているの?」

 突然、由利はくるりと踵を返すと、まったく関係のなさそうな質問をした。

「オレの将来? そうだなぁ、まあ、どっか今の自分の成績に見合うような大学へ入って、やっぱ部活は武道系をやって、将来はオヤジの跡をついで道場を経営していくと思うけど?」

 戸惑ってはいたが、常磐井は誠実に答えた。

「ね? 常磐井君の中には、そんな明確な将来のビジョンがある。だけどその中にあたしはどう関わっていけるのかな? それを考えたことある?」
「えっ? 愛し合っててオレと一緒になって、オレの子供産んで・・・。道場主の妻として母として生きていくんじゃダメなの?」

 由利は呆れたようにじっと常磐井を見つめた。

「それってさ、要するに常磐井悠季の『妻』としての人生であって、小野由利としての人生っていう意味を為さないような気がするんだけど?」
「えっ? それ、どういう意味?」
「だからさ、極論を言うようだけど、あなたは道場主の妻なってくれるのなら、あたし以外の誰でも構わないんじゃない? たとえばさ、常磐井君のことが未だに大好きな田中春奈なら、きっとふたつ返事で妻になってくれるよ。それのどこにあたしの存在意義があるの?」
「えーっ。そんなぁ。オレにだって選ぶ権利っていうのがあるだろ? なってくれるなら誰でもいいなんてはずないじゃないか! 内助の功っていうのも、めっちゃくちゃ大事なことだと思うけど。愛を仲立ちにして、一生懸命夫婦して道場を切り盛りするっていうのはダメなわけ、由利にとっては?」
「まあね、だって道場をどうこうするのはあなたの夢であって、あたしの夢じゃないもん。まぁあたしも武道に精進しているのなら、まぁそれもあり得るかもしれないけどさ」
「じゃあ由利にも教えてあげるよ。今からなら十分に上達できるさ」

 常磐井は機嫌を損ねた由利を必死になってとりなした。

「人に言われてやるのは嫌なの! 自分が心の底からそう思えるんじゃなきゃ!」

 そのことばに常磐井はちょっとむっとしたようだった。

「じゃあ、由利の夢とか、やりたいことって何なんだよ? それをオレにまず教えてくれよ」
「あたしのやりたいこと・・・。そうね。今は茶道をやっているけど。でもそれが生きがいってところまでには行ってないかな? だからやりたいことはまだ見つかっていない・・・」
「それじゃ、オレの夢を一緒に叶えるっていうのの、どこがいけないわけ?」

由利は身体に巻き付いていた常磐井の腕を振りほどいた。

「ねぇ、常磐井君。あなたは前世のあたしたちがあの女御と中将という恋人同士だったと信じている。でも女御は帝の妃でしょ? おそらくふたりは前世では夫婦になれなかったんだよね。だから常磐井君は今生でこそ、女御の生まれ変わりのあたしと添い遂げるために生まれてきたんだと思ってるんでしょ? 出逢いは必然だったんだって」
「うん。そう思ってるよ。由利に出会ったことは奇跡だよ」
「だけどあたしは、あなたが信じているその『ミラクル・ロマンス』なんてもの、端から信じちゃいないのよ。あたしは結局、そういうことはどうでもいいの。今あるのは現実だけ。選択肢は星の数ほど広がっているの! あたしたちは自分の持って生まれてきた能力や努力のいかんで、その中から可能な限り最良のものを選択することができる! もしあたしたちが今結ばれたとしても、結婚なんてずっと先のことじゃない? その間にあなたやあたしが心変わりをしないって保障がどこにある? あたしはいったん、あなたとそういう関係を結んでから別れるのは嫌だ!」
「オレたちに限って、そんなこと絶対にあるはずないっ! 少なくともオレはそんなことには絶対にならない、絶対にだ!」

 若者らしい潔癖さを持ち合わせている常磐井は、怒気をはらんで言い切った。

「由利、おまえは今のこのオレの金無垢のように混じりけのない愛を、将来性とか保障と言う損得ずくの秤にかけて貶めようっていうのか? オレは由利を相対的に愛するなんてこと、これまで一度だって考えたことがない! どんなことがあっても由利に対するこの愛は変わらない! 絶対だ。由利が今考えてることこそ、そろばんづくで卑しいって思わないのか?」

 常磐井になじられると、由利の頬は平手を受けたように紅潮した。

「何よっ! もう、放して! 常磐井君はあたしの気持ちなんて、解りっこなんかないんだから!」
「由利! 由利! 待てってば!」

 由利は一度も振り返らず、一目散に坂を駆け下りて行った。






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やっと季節的に追いつきました…。
由利と常盤井って仲がいいのか悪いのかわからないですねぇ。

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境界の旅人 29 [境界の旅人]

第七章 前世



 たとえ相手から見て大して魅力的とは思えない文面だったとしても、少なくとも他のダイレクトメールよりは多少なりとも目立って、係員の手にとって開封され読んでもらえる努力はできると思う。


 由利はそう思って、寺町通にある和紙の店『紙司 柿本』へ行って、何かフランス人から見て「美しい」と思える便箋封筒はないかと探していた。

「あ、これ」

 由利が手に取ったのは、黒谷和紙で『草』と銘打ってある洋封筒と揃いの便箋だった。黒谷という名からして、左京区にある新選組で有名な『金戒光明寺』の付近なのかと思えば、どうもそうではないらしい。説明を聞くと綾部市黒谷町で作られた手漉きの紙とのこと。

 柔らかな薄緑の色が非常に美しい。

 本来なら一番格式のあるのは白だと思うのだが、それだとインパクトに欠ける。かといってあまりインパクトにこだわって柄が入ってしまうとキワモノに間違われて、またゴミ箱へ直行という可能性も考えられる。

 これがぎりぎりの由利の自己主張だった。

 買ってきた便箋をプリンターにセットして印字し、最後は自分の名前をアルファベットではなく漢字で『小野由利』と署名した。

「フランスまで料金はいくらかかるのかな?」

 由利が郵便局のウェブサイトまで行って調べると、フランスまでの定型郵便物で二十五グラムまでは、航空便で110円とあった。

 別に由利は切手を集める趣味もないので、近くの郵便局へ行って局員に相談した。

「あ、すみません。フランスに手紙を送るんですけど、何かあっちの人が喜びそうな切手ってありませんか?」

 受け付けてくれたのは人の好さそうな中年男性だった。

「そうねぇ、今のところこれしかないんだけど」

 局員は九十二円の慶弔用切手を取り出して来た。

「これね、本当は結納とか結婚式なんかに使われるんだけど、案外外人さんはこういう柄を好むんじゃないかな。それと差額用海外グリーティングっていうのがあるよ」
 なるほど、慶弔用切手は金色の扇の中に赤と青の松の模様が描かれていて、いかにも外人受けしそうだ。差額用グリーティング切手は葛飾北斎の『波』と「赤富士」こと『凱風快晴』をアレンジした二種類があった。

 どっちもいいなと思われたので、二枚購入して、足りない2円分はエゾユキウサギが描かれている二円切手を購入した。結局ずらずらと何枚も封筒に張ることになってしまったが、それがかえって受け取り手には良いインパクトを与えるかもしれない。

 最後に由利はバランスの良いように封筒に宛名のほうもひとつひとつ丁寧に書き、後ろには自分の住所や名前を書いた。

 由利はポストに投函する前に思わず手を合わせて祈った。

「必ず、ラディにこの手紙が渡りますように」




 五山の送り火の日に、結局由利は美月の家に行くことになった。

「由利!」
「ああ、由利ちゃん、いらっしゃい。ささ、どうぞ上がって」

 ビルの中の住居部分の玄関で、美月と芙蓉子が歓迎してくれた。

 
 美月にメッセージがあった翌朝、由利は辰造にそのことを申し出た。すると祖父はあっさりと許可してくれた。

「そうか、そんなふうに誘ってくださったんなら、ご厚意に甘えさせてもらって帯正さんところに寄せてもらったらええよ。あそこのビルは大きいから、大文字やら他の文字やらもよう見えるやろ」

 しかし自分が友人のところで楽しんでいる間、祖父は家でぽつねんとひとりですごしていなければならないのかと思うと、由利の心がとがめた。

「でも・・・、その間、おじいちゃんはどうするの?」
「ああ、わしのことか? わしも毎年、仕事先の能衣装のお店から他の仕事仲間と一緒に呼ばれとるのよ。だからおまえも心配しんと行ってきよし」



 まず由利は奥の間に通されると、すでに部屋には大きな姿見が備えられ着付け用の畳紙が敷かれていた。その横には長方形の乱れ箱に何枚かの浴衣と帯がきちんとたたまれて置かれてあった。芙蓉子はにこにこして由利に言った。

「由利ちゃんが好きそうなものをいくつか用意してみたの。好きなものを選んでみて」
「え、いいんですか? こんな高価なもの。おことばに甘えちゃってもいいのかなぁ」

 由利は遠慮がちに言った。

「何言ってるの、遠慮しないで。私が由利ちゃんに着せてみたいんだから」 

 そう言いながら、芙蓉子はたたまれてあった浴衣を一枚一枚広げていった。黄色地にスイカの模様のポップな柄、白地に美しくプリントされている紫陽花のもの、それと濃紺の地に白く染め抜かれた鉄砲百合があった。

「さあ、どれにする?」

 芙蓉子はが試すように由利に訊く。由利は迷わず答えた。

「じゃあ、この紺地に百合のものを・・・。涼しそうだし」
「あら、驚いた。大人の選択ね、由利ちゃん。とてもシックよ。昔はね、浴衣といったら藍で染めるのが一般的だったのよ。そして浴衣といえば東京染めと相場が決まっているのよ」
「えっ? 着物といえば京都じゃないんですか?」
「そうね、でも、『粋(いき)』で勝負するとしたら、お江戸の意匠には敵わないのよ。今でも『粋でいなせ』なのは東京染めなの」
「ああ、そうなんですね。じゃあ、どうして紺色一色なんですか?」

 ついでなので由利は後学のために芙蓉子に質問した。

「そうね、昔は藍が一番廉価に染められるってことが一番の原因だったと思うのだけど、それに何というのかしら、目で涼をとるというか、まぁ、涼しさを演出していたのよね。それに多色刷りになると、お金がかかるでしょ? だから白地に紺という二色、まぁ厳密に言えば一色で江戸っ子の心意気を表現したのだと思うわ」
「そうなんですか。昔の人も大変ですね」
「そうよ、昔は、ちょっと町人が派手な恰好をすると上から睨まれるの。やっぱりお江戸は将軍のお膝元でもあるけれど、それだけに支配階級が庶民に贅沢をせぬようにと圧力を掛けてきたから。でもね、だからってしおれてお上の言う通り、貧相な恰好するのなんて江戸っ子のプライドが許さないのよ。だからどんなに上からきついお達しがあろうと、その制限の中からびっくりするような斬新な意匠が生み出したのね。お江戸の文化は反骨精神に溢れているのよ」
「へぇ」

 口を動かしながらも芙蓉子はテキパキと由利の身体に浴衣を着つけていった。
 ささっと浴衣を着せ終えると、芙蓉子は箱から真っ白な中に字模様が浮かび上がる博多帯を取り出して、その上から締めた。

「昔なら、こういう場合は赤の独鈷柄にするはずなんだけどね、それだと野暮ったく感じるのよ。流行って不思議なものね。だけど今はこんな感じがクールなのよね」

 たしかに紺と白だけのツートンカラーの大人っぽいコーディネートは、背丈もある由利には似合っていた。

「それにね、最近はこんなふうに遊び感覚で、あえて帯にも帯締めをするの。するとね、全体が締るのよ」

 芙蓉子は帯の上に、黒に近い濃紺の帯締めを締め、その上に透明な紺色のガラスの帯留めを付けた。

「うわっ、ステキ! かっこいい!」

 由利は思わず歓声を上げた。

「ふふ、そうでしょ? さ、それじゃね、そこに座ってね。髪を軽くまとめてあげるわ」

 そう言って由利を鏡台の椅子に座らせると、由利は手慣れた手つきで由利の髪をまとめ始めた。「くるりんぱ」を三つ重ねてあっという間にふわっとしたアップになった。最後に芙蓉子は由利の髪に涼し気な水色の気泡入りのガラスのかんざしを付けた。

「うわ、芙蓉子さん、すごい! 魔法みたいです」
「ふふ。慣れればそんなの、すぐできるわよ」

 支度が終わったころに、美月が由利たちのところに顔を出した。
 美月はどうも自室で着替えたらしい。ピンクが多めであとは白と水色の花柄のレトロポップな浴衣に黄色と水色のツートンカラーの帯を可愛らしく蝶々結びにしていた。頭はトップの位置にツインテールにしてお団子にしていた。

 由利とは全く別路線の選択だったが、これは呉服屋の娘に生まれて、浴衣など生まれた頃から着尽くしたあとの究極の選択なのだろう。一見、何も着物のことをわかっていない素人のように見えて、それでいてぴたりと決まっている。

「どう、お母さん? 由利は?」
「ちょっと見てよ、美月。素敵でしょ?」

 芙蓉子はうれしそうに答えた。

「あら~、超正統派の装いですね~。着物雑誌の表紙にしたいくらい」
「でしょ? だけどこういうの、実は昔風のずんぐりむっくりした人には似合わないコーディネートよ。やはりね、こういうすらっと上背があって手足が長いモデル体型の人じゃないと」
「そうだよねぇ」
「そうそう、着せ甲斐があったわ。楽しいものね、きれいな子に着つけるのは」

 美月と芙蓉子は親子してプロの目で由利を見て喜んでいる。やはり長い間、着物に接している仕事をしているせいか、純粋に自分の考えたコーディネートが決まると嬉しいものらしい。

 由利もきれいな浴衣を着せてもらえたのが嬉しかったので、しばらくはしゃいでいたのだが、ふとぽろりと涙がこぼれた。

「ど、どうしたの、由利ちゃん?」

 由利が急に泣き出したので芙蓉子は慌てた。
「芙蓉子さん、あ、あたし、ごめんなさい。こんなによくしてもらったのに、泣いたりして。でも何だか情けなかったんです」
「どうして?」
「あたしには半分はどこの血が入っているのかわからないけど、もう半分は日本の血が入っているはずなのに日本文化さえきっちり享受しているとは言いがたいじゃないですか? それじゃ正々堂々と胸を張って『私は日本人です』って言えないような気がして」

 それを聞いて美月は一瞬ハッとした顔をしたが、横にいる芙蓉子に目顔で制した。

「まぁまぁ、由利ったら。何を言うかと思ったら・・・。今どき百パーセント純血の日本人の女の子だって、着物なんか自分で着られない子がほとんどだよ。だってそういう習慣が廃れてるんだもん。当然でしょ?」

 美月はわざとぶっきらぼうに言った。

「それにさ、自分のことをそういうふうに貶めるのは、どうかなって思うよ。聞き苦しいよ」
「美月、由利ちゃんにそこまで言わなくても・・・」

 芙蓉子は美月を止めにかかった。

「ううん、お母さん、止めないで。あたしは由利の親友だと思っているから、キツイことを承知であえて言わせてもらう。由利。そんなこと言ったって知ったら、きっと由利のおじいさんが悲しむよ。それにさ、誰も由利をそんなふうに見てなんかいないじゃん。もし自分で着物を着られるようになりたいんだったらさ、泣き言を言う前に自分で着られるように訓練すればいいだけの話。物事は理性で考えないと。別に異国の血を引いているから、着られないなんて馬鹿なこと考えてないよね?」

 美月の容赦ないことばが由利の心を打った。

「あたしもさ、着物屋の娘だから、一応自分で着物は着られるよ。それは何も特別な能力があったからじゃなくて、単に練習したからでしょ? そんなに着物をひとりで着れない自分が許せないんだったら、あたしが明日からでも特訓してあげるよ。毎日うちに通ってきなよ。ありがたいことに、新学期までお茶のお稽古もないことだし」
「・・・美月。あたしちょっとどうかしてた。ありがとう」

 由利は涙にふるえる声で謝った。

「うん。由利はさ、敏感で感受性に富んでいるだけど、時々誤作動を起こしちゃうんだよね。さあ、行こ行こ。八時に大文字が点灯するからそれまでにご飯を食べないと」

 美月の自社ビルの屋上は仕事の関係で招待された人で結構込み合っていた。さすがに皆、和装業界の人間だけあって、老若男女、それぞれ趣向を凝らした装いをしていて圧巻だった。

「ほら、由利! 見て! 『大文字』に灯りがついたよ」

 よくよく見ると『大』の文字に火が灯されたらしく、小さな灯りがどんどんと拡がって大きくなっていく。

「うわ、すごい。初めてみるなぁ」
「これは京都の四大伝統行事って言われているんだよ。京都にゆかりのある人間なら、これを見なきゃ」
「へぇ。そうなんだぁ」

 しばらくすると、今度は『妙』と『法』の字が同時に点火された。それに目を奪われているうちに、次は船形と左大文字が、そして最後に『鳥居形』に火が灯された。

「ねぇ、これってどんな意味があるの?」

 由利は歴女の美月に訊ねた。

「うん? 五山の送り火っていうのはね、もともとお精霊(しょうらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世に送り届けるために、焚かれるものなんだよね。まぁ、お精霊さんを送るやり方は各地によってそれぞれで、ほら、有名なところでは長崎の『精霊流し』っていうのもあるじゃない? でもまぁ、どれも基本的にはお盆にお迎えしたご先祖さまの霊が道に迷わないように火を灯して、お送りするためのものなんじゃないかな?」
「じゃあ、大の字にはどんな意味があるの?」
「大は『大日如来』のことじゃない? 密教では一番偉い仏さまのことだよ」
「じゃあ、妙は?」
「ああ、妙と法はたぶん、『妙法蓮華経』っていうお経のタイトルから来ているんだよ。だから主に信仰しているのは日蓮宗なんじゃないかな?」
「じゃあ、船形は?」
「ああ、船形? あれは小乗仏教に対する大乗仏教のシンボルだから日本の仏教全般にも言えることだと思うけど、まぁ、厳密に言えば浄土教、すなわち浄土宗とか浄土真宗を指すんじゃないかな」

 美月はどこどこまでも淀みがない。

「じゃあ、きっと鳥居は神社のシンボルだから神道を表しているんだろうね」

 それを受けて由利が言った。

「そうだね、まぁどんな宗教、宗派であろうと、ご先祖さまがあの世から来てくださって、また戻って行かれるってところでは一致しているんじゃない? 京都には、比叡山や東寺なんかの密教系や南禅寺や大徳寺なんかの禅宗、それに知恩院やら本願寺やらってそれこそ山のようにいろんな宗派の大本山があるから。みんな仲良く共存しているんだよ。またしていかなきゃ、生きていけなかったんだろうし」
「へぇ、そうなんだ・・・」

 ふたりはしばらく黙って文字を見つめていた。

「ああ、だんだん火が小さくなって消えていくね。ねぇ、美月、これっていつ頃からやっている風習なの?」
「うん。まぁ、諸説あって、あの『大』の字は弘法さんの字だっていう人もいるんだけど、空海って平安時代の人じゃない? そんな古い風習じゃないはずだよねぇ。あとはさ、近衛信尹(のぶただ)が書いたとかいろいろ言われてるけど、ようするに俗説で、本当のことはわからない」
「ねぇ、じゃあ、室町時代の人は五山の送り火って見てたのかなぁ?」
「うーん、どうだろ? 五山の送り火って謎が多いんだよね。一般的には近世、つまり江戸時代になってから始まったって言われてるからねぇ。中世の人っておそらくこの送り火は見てないんじゃないかな」
「ふうん。そうなんだ」
「うん。こういう大がかりな風習って平和なときじゃないと、できないものだから。どの時代も戦争になるととたんにこういう行事って中止にされちゃうものだし」
「そうなんだね・・・」

 ふたりは一番最後に灯された、西山の微かにともる鳥居形を見ながら、この夏の盆を送った。 











来週は一気に11月にお話は飛びます。それにしても長いお話ですねぇ。
作者の私自身がうんざりするほど、長いですわw

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