明日から最後の推敲 [雑文]

去年の4月に約半年掛けて書いたものを
二か月寝かせて、その三分の二を削り取り、
いわば、ぶよぶよとしたぜい肉的部分を切り落とした。


これに約二か月かかって、
それが終わったのが、今年の一月末。


人間っていうのは、自分が一生懸命書いたものに
固執しがちでバサっと削除したり直したりすることが
なかなかできないものなので、

それから約一か月ほど寝かせておいて、
その間、編み物や読書などしていた。

だけど、頭のどこかで気になっているんですねぇ。
今日、ありがたいことに主人がプリントアウトしてくれて、
私はまったく他人が書いたものを読むような気持で
原稿にアカを入れなければならない。

結構、今、緊張しています。



そして四月にはプロが文体なり構成なりを批評していれる
有料のサイトに預けます。

今回は時代劇なので、もしかしたら致命的に間違っているところもあると思うので、
かなりのお叱りも受ける覚悟でいます。


それを直して、全体の使う漢字、ひらがなにすることばなどを統一し、チェックをしたあと、
さる新人賞に応募するつもりでいます。


小説を作るって、結構体力がいるので、趣味だといっても
いつまでこれができるんだろうと不安になりますが、
できるところまでやろうと思います。


書いているときは孤独でとても苦しいのですが、しかし
それでも一つの作品をゼロから作り出す作業というのは、
やはり何とも言えない達成感があります。


私、高校では日本史は取ってないので、
とにかく戦国時代の通史、それから
「天下人になるということはどういうことか」
「江戸幕府とはどういうしくみか」
「江戸初期の人の風俗、楽しみとはなにか」

などまったく知らなかったので、本は軽く50冊以上読みました。
これまで、歴史は書物を中心に考察されてきたのですが、
新に図像学といって、当時描かれた絵を基にして、
歴史を考えるという新たな分野も出てきたりして、
絵を見ながら、本に描かれているところを探して理解するのが
本当に大変でした。


でも、本を書くという目的がなければ、こんな面倒くさいことは金輪際やらなかったと思います。

本を書くことは、旅をすることに似ている、、、、と思います。
思いっきり想像力を働かせて、自分でその世界を作り、その中を歩いているような感覚。


あしたからは精神を集中してコトに当たろうと思っています。
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癒したがりの卑しさ [雑文]

最近、仏教の歴史の本を読んでいる。

大雑把にいって、タイやチベット、中国、日本の宗教が
ひとくくりに「仏教」と言ってしまえるのなら、

「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」なんか
もっと狭義のひとつの宗教と言えそうだ。

だいたい、三つとも「旧約聖書」(旧約聖書という言い方はキリスト教だけで通じるものだけど)
という同じ聖典を使っているわけだし。



仏教の始祖と言われる、ゴータマ・ブッダは
おそらく、自分が新しい宗教の始祖だと思って活動してないと思う。
(そういう意味ではイエスも同じかな)

たぶんゴータマさんは自分はバラモン教を信奉していて、
その教義にある「輪廻転生」から解脱して、二度と今生に生まれ変わらない涅槃へ
いくために修行していたのだ。


だから、生きているときには、「涅槃」へ行くためのハウツーを説いていたのであって、
まさか自分がホトケとして拝まれるようになるとは思いもしなかったに違いない。


原始仏教からテーラワーダ仏教ぐらいは、ブッダの教えの片鱗ぐらいは残しているが、
大乗仏教となると、これはもう別の宗教というか、
カトリックでいえば、カタリ派ぐらいの異端宗教へと変容していくのだねぇ。



だけど不思議なことに仏教って、「異端審問」ってことをやらないんだわw
昔カトリックなんかはキリストをどう位置付けするかで侃々諤々の論争をしていた。

神に最も近い人間とする「アリウス派」は論争に敗れ、異端。
母マリアの神性を認めていた「ネストリウス派」も異端。
これは景教として日本にまで来ているよ。(太秦寺はもともと景教寺院ではなかったかといわれている)


だけど仏教ってどんどん変容しても、
「まぁ、それが好きならそれを信仰すれば? こっちはこっちでやりまっさ」
って感じでどんどんお経も増えるのよね~。
(浄土三部経のひとつ、大無量寿経で実は中国製って言われてる)
(あと、父母恩重経は、儒教色の強い中国で生まれた偽経であって、
 そもそもインドには「孝行」という考えはなかったとか)


もともとゴータマさんは輪廻転生を脱出する方法を編み出したのであって、
ゴータマさんを拝んだって、呪文を唱えたって、輪廻転生の輪から逃れることができないはず。

だけど、いつしか人はゴータマさんを拝む対象に変容させ、
なおかつ、実在しないもっともっと強力な仏がいると夢想する。


それは大日如来であったり、弥勒菩薩であったり、阿弥陀如来だったりするんだね。
なんかここらあたりは、仏教のグノーシス化なのではないかとすら思えてしまう。





でも、私はキリスト教で育ったんで、キリスト教には普通の人より
親しんでいるけど、
仏教はさっぱりだったんだよね。

だってさ、手塚治虫先生のあの超巨編「ブッダ」を読んだって、
なぜうちの仏壇には阿弥陀さんがいるのかはわからないじゃないの。



そこには大乗仏教の教えがあって、空の教えがあって、中国の善導さんというえらいお坊さんが
浄土思想というものを説かなければ、出て来ないものだったんだね。


でも、仏教世界って深淵で、なかなか華厳の教えとか、空の思想とか理解できないので、
まだまだ仏教関係の本は読み続けると思います。



でも私がなんとなく感じるのには、仏教はインドで信仰されなくなったのではなく、
ヒンズー教に同化していって、吸収されてしまったんでしょう。


だって、帝釈天なんてインドラだよ。
弁天さんだって、川の女神サラヴァスティ、
ブラフマーは梵天、
大黒さんはマハーカーラ、
お稲荷さんはダキニと
私達が拝んでいる神様のほとんどはインドのヒンズー教の神様なんだもん。


そしてついにブッダもヴィシュヌの化身(アバタール)のひとつと見なされているの。


非常に興味深い。

やっぱりもっともっと追求せずにはいられないよね。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


さて、ここまでが前ふりです。長いね。


私、たいてい編み物しているときは、ラジオを聴くみたいに、
YouTubeを流しながら仕事していることが多いんだけど、


この間、たしか松原タニシさんのラジオ番組で
融通念仏宗のお坊さんとの対談があったんですよね。


いろいろ面白い話をされていましたが、
そのとき、お坊さんが
「人はとかく可哀そうな人も見ると、親切をしたくなるものだ。
 で親切をするとどういうわけか、気持ちよくなれるものなんだ。
 ともすれば(自分が気持ちよくなりたいがために)人を癒そうとする卑しさがある。
 だから親切をするときは、気を付けなければならない。
 
 親切をしてあげた、と思ってはいけない、親切をさせてもらう機会を仏さまに与えてもらったと
 感謝するべきなので、決して驕ってはならないのだ」


 う~ん、めっちゃ深く、含蓄のあるお話で、私、思わず雷に打たれたようにハッとなりましたね。

 それにね、親切って、しているほうは親切と思っていても、
 相手にとってはすごぶる迷惑、ということも大いにある。


 歩いていて道を聞かれるぐらいなら、即答したらいいと思うけど、
 やっぱり人になにか特別なことをしようと思うときは、
 よくよく考えなきゃならないんだよね。


 うちの母は、よく贈り物で本当にがらくたみたいなものを送ってきたよ。
 だけどさ、「よかったでしょ? センスいいでしょ? 嬉しいでしょ?」

 で「ありがと、ありがと、ありがと」
 を三か月くらい言い続けないとめっちゃ怒りまくる人だったね。

 認証欲求が強すぎるのかなと今なら冷静に分析できるけど
 人に何かを上げるときはぶっちゃけ「何が欲しいか」聞いてみるのが一番いいと思う。

 サプライズがなくていや!っていう人もいると思うけど、
 私、サプライズのプレゼントで嬉しいと思ったこと一度もないもん。笑

 まぁ、嬉しいのは食べ物ぐらいかな。
 でも、今、ダイエット中なので、甘いものもらうと困るしね。


 話は脱線しまくりですが、とにかく、自分の今の行動は「偽善かもしれない」と
 一度疑ってみてもいいと思うよ。

 自分は善人だと信じて疑わない人は、自分は悪人だ、悪いことをあえて相手にやっているな、
 と意識的にやっている人より、鈍い分だけ罪が重いと私などは思うのであります。







 


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純粋に趣味 [雑文]

皆さま、こんにちは~、
今日はさっぶいですね~。
師走なのに、一月下旬並みの寒さなのだそうです。


さて、今回はちょっとだけ、ディープなお話をしようかな~~と思っています。

書くべきかどうか、かなり悩んでいたんだけどね~。
















































































さて、
私、結構悩んできたことがあるんですよね。

私ねぇ、実ははっきりと「これがずっと好きでした!」っていうものがないのよ。
結構熱しやすく冷めやすいタイプというか~。


私ね、自分からなんかやってみようと思って本格的にやり出したのが、
長男が大学に入ってからなのよね。


それまで金も暇もなかったというか、
暇があっても、何かを習う金がない。


仕方がないので、その間は図書館で本を借りて読んでおりましたね。


ま、本を読むのだけは、これまでの人生を通じて欠かさない習慣かもしれない。



で、ですけどね~

私、あるとき物語が書きたくなったのよね。
で、最初できたものを誰かに読んでもらいたかったのよね~。

だけどさ、素人が最初に描いたものなんて、ぶっちゃけ読めるような代物じゃないのよね。

で、まぁ、それでもぼちぼちではあるけど、続けていたんです。
ここにもUPしてたりしてさ、

だけどこういうところに載せたとしても、的確な批評はもらえないわけよ。
当然だけど、みんな素人だから。


で、私はある時から、自分の書いたものをプロの方にお金を払って
文章を添削してもらったり、物語の構成の良し悪しを分析してもらうようになったんです。

お金払っている以上、みなさんそれなりにきちんとした文章のプロだし、
的外れな批評なんか皆無なんだよね~。


私は自分の小説なんか、お遊びで書いていると思っています。
プロになんか今更なろうとも思っていません。
これはね、才能がないからそういうふうにいいわけしてるんだろう、見苦しいと
読んだ方は思われるかもしれないけど、

もうね、作家も旬っていうものがあって、
わたしみたいな古い人間は、新しい時代の人の話は書けないんだよね。
それはわかっているのよ。


ただ、自分個人として作品の質を高めていきたいなと思うのね。

やっぱ、文章って難しい。だからこそやりがいがあるんだけど。
ま、でも自分だけで書いていて自己完結しちゃうと、どうしても自分に甘くなるんだよね。

それで一年に一度、どこかの公募に応募してます。

大きな大賞だったら、一次を通るのも難しいといわれています。
だからね、一次に通るだけでもいいのよ。


その努力を自分で認めてあげたいと最近は思うようになったかな。

面白いことに、私はどうしてもジャンルが定まらないんだよね。

結構、あっちこっちに手を着けています。
というのも、興味の対象がそのときどきで移るからで、
結局、自分の興味の持てないテーマは書けないということなのよね。

今は歴女でもないのに、歴史ものを書いています。

時代はちょうど、大坂夏の陣を挟んだ江戸の初期ですので、
そのときの世相を掴もうと思うと、案外難しい。

大河ドラマも、時代考証はきちんとしているけれども、
それを鵜呑みはできないところもあるんだよね、映像だから嘘もあるというか。


だから、絵画資料としてその当時描かれたものを見るんだけど、
これが結構難しいよね~。
なかなか素人の手に余るというか…。


あっちこっち旅もしました。やっぱり実際に事件が起こった場所に行ってみるのも大事だよね。


本もめっちゃ買いました。図録が多いので、結構お金かかったかな。
趣味なのに、こんなにお金かけていいのだろうか、と思うけど、
自分の興味あるものを調べて、それをもとにお話を作るって
結構高等なお遊びだよなと自分で納得しています。

娘には「どうしてプロになろうとしないんだ!」って
しょっちゅう言われていたんだけど、
それって私にしたら重たいことなんだよね。

仕事になったら、楽しくなくなるじゃないの。


私は、ものすご~く内向的な人間なので、
別に自分の作品をたくさんの人に読んでもらって、
「すご~い、素敵です」とか賛辞を貰わなくてもいいかなって思ってます。

っていうか、そういう自分ではどうにもならないことを他人に期待していると
自分のやっていることが空しくなってしまうんだよね。

自分が一番に楽しむ、自分が納得できる文章にする、


劇中の人物同士が、敵対しあったり、喧嘩したりしますね。
それは、どんな人間にも自分なりの大儀というか、正義があるからなんですよ。

他人から見て悪人と思われる人でも、当の本人からみたら、相手のほうが悪人に思えてしまう、
それはその人の世界観が他人と違うからなんだな~と思います。


小説を書くということは、神のような視座をもって、俯瞰的に見ること、
つまり、自分自身の分析にもなることだな、と思いながら書いています。



現実世界は、案外辻褄の合わないことが多いのだけれど、
物語の世界は整合性が求められます。

だから、時代劇で実在して人物の行動を描く場合、
その意味づけを考えるの。

たいてい意味不明の出来事をやらかして、謎な部分が多いんだけれど、
それをどう料理するか、それが小説を書く醍醐味かもしれないですね。

小説を書こうと決めて、資料集めや、プランを練っている時、実際に書き始めたとき、
そして推敲しているとき、

どの段階もそれなりに辛くて、早く終わらせたいと思ってドキドキしていたりするんだけど、
終わっちゃうと、なんだか寂しくなってまた書きたいな~とか思ってしまう。

不思議ですね。





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菊池桃子さんにまつわる思い出 [雑文]

こんにちは。sadafusaです。

う~、すっかり秋ですね。
今年の京都は、冷え込みが深かったらしいので、
いつになく紅葉がきれいです。

この間まで、どこもここも観光地ががらーんとしていて、
観光で成り立っている京都は大打撃でした。

いまはね、日本全国から人が押し寄せていますね。

だからなのか、いつもバスはコミコミ。
流しのタクシーは捕まりません。

やっぱ、GOタクシーのアプリ入れなきゃな~と
思っている次第でございますね。


今は世界全体もそうなのでしょうが、
もちろん日本も経済的苦境に立たされているので、
多少、ジモティとして不便な環境を強いられてしまうのですが、
世界中の人々、カモン、カモン、京都へ。



さて、今日のお題は「菊池桃子さんにまつわる思い出」ですが、
別段、わたくし菊池桃子さんのファンというわけでもなく、
実際にお会いしたこともありません。

が、私、最近よくYOUTUBEでケンケン先生の観相学を視聴しています。
で、たまたま菊池桃子さんのお顔を観相学の観点から
判断されていたのですが、全体の印象してい「ほとんど吉相」とのことでした。

先生はたいてい眉の形、眉間のしわや
眉間の幅、眉と目の幅、目の形、鼻の孔の向き方、大きさなどから、
吉相、凶相を判断されているように思いますね。

でもたいていの人の顔というのは、吉凶入り交じっているので、
説明を聞いて、「ふぅ~ん」と思うだけですね。

ただ、これまでの観相から見て思うのは、
いくら美男美女でも、なんとなく感じ悪いなぁと思う顔ってあるじゃないですか、
「ハンサムだけどなんか好きになれない」とかさ
そういうのって、たいていその受けた印象って合っていて、
凶相ってことが多いんだなぁってことです。


でも、まぁ、ど素人なので、そういうもんなのか、で楽しんでみているだけですが…。


さて、昔、うちの家族が精神をわずらって、結構長い期間、
精神科に入院していたのですが、
そこの看護師さん、どういうわけかびっくりするほど美人さん揃いなんですよ。

精神科の病棟って、少し離れていて一般の人が入れないから、
この美貌を拝めるのは、入院している人とお見舞いに来る家族だけ。

ある日、わたくし病院へ行きましたら、なんと菊池桃子さんそっくりの方が
ナースステーションにおられたんですよ。

でねぇ、めちゃくちゃ美人でびっくりして
「どうしてこれほど美人の方が、こんな地味なところにお務めなんだろう」
って思ったんですよね。

女優にならなくても、もっと華やかそうなお仕事ありそうじゃないですか。
看護師だとしても、なにもこんな閉ざされた精神科にいなくてもよさそうなものなのに…。

とも思ったんですが、
心を病んだ人だからこそ、こんな天女みたいな美貌の人にお世話されると癒されるんかなと
そのとき思ったんですね。



しばらくして、また全く別の病院で、またまた菊池桃子さんに激似の方が
受付しておられるのに遭遇しました。

この方は前者の精神科のお務めの方とはまた別人です。
ですが、菊池桃子さんのようなお顔なんです。
超絶美女です。


で、ケンケン先生の占断を見て、なんとなくこう思ったんですよね。

菊池桃子さんタイプの顔の人って、もともと徳が高い顔なのかも。
たまたま菊池さんは女優さんになられたけど、
こういう人は優しくてしっかりした方が多いのかもなぁ…と思った、
という


そういうたわいもない話でした!

ちゃん、ちゃん!

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F.プーランク 『愛の小径』に寄せて [雑文]

先日、夫がBASEにてフルートのCDを買いました。

saori tokumoto.jpg

フルート 徳本早織さん
ピアノ  市川未来さん

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夫は地元の音楽家のコンサートによく出かけますが、そのとき
この方のフルートが非常によかったのだとか。

そうなのかと思って一緒に聞いたのですが、本当によいのです。

フルートのイメージとはしては銀色の音でしょうか。
鈴が鳴り響く音ともまた違い、非常にまろやかです。
フルートから発せられた銀色の音の粒がいつしか細かい光となって
蒼穹に吸い込まれていくような
それを聞いている人の心もいつしか清い音で清められていくような
そんな楽器かなと思います。


演目も非常に考えられていて、
みんなになじみのある、フォーレの「シシリエンヌ」に始まり、
ドビュッシーの「月の光」とか、美しい曲がいっぱい。

私はその中でも、ふたつの曲にとても心が惹かれました。
ひとつはE・ブロの『メロディー』。

そしてもうひとつはF・プーランクの『愛の小径』ですね。


クラシックってそれこそ、ビバルディやバッハの昔ぐらいから年代順に聞き重ねていくと、
そのうち耳が肥えてきて、近現代の音楽っていいな、って思えるようになるものなんですよね。


このふたつの曲って20世紀入ってからのものです。
私も若い時は、近現代特有の不協和音とか、不安定な半音の上がり下がりに
どうも馴染めないでいましたが、最近はそういうのが逆に美しいと思えるようになりました。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


さて、このプーランクの『愛の小径』ですが、
聞いていると、なぜか昔の「小暮サーカス」とか「木下サーカス」などで
演奏されていた「美しい天然」をちょっとだけ連想するんですよ。

「美しい天然」って聞いてもピンとこない方もたくさんいらしゃるだろうから、
昔、サーカスやちんどん屋がよく鳴らしていた曲と思って下さったら
おわかりになろうかと思います。
何なら、しっかりYOUTUBEでも検索できますので、そっちでどんな曲かを聞かれてもいいかな
とは思いますね。


「美しい天然」のイメージは一言で言うと、中原中也の詩、「サーカス」に出て来る
「ゆや~ん、ゆよ~ん、ゆやゆよん」という言葉がぴったりです。

どこか物悲しくて、うらぶれていて、健康的じゃない。


うちの息子がまだ幼児のとき、そういうものを非常に怖がっていて、
リングリングサーカスとかシルクドソレイユのような完璧に演出されて
洗練されたショーであれば、喜んで見るのです。


非常に古い話になるのですが、一度里帰りした折、
久しぶりにあった祖父母は、孫をなんとか喜ばせてやろうと思い、
ちょうどその時、郷里に来ていた木下サーカスに連れて行ったのです。

サーカスのテントの隙間から漂う、動物の糞の臭い、
薄暗い空間。

周りを見渡す息子の目には不安の影が見えました。

「大丈夫、これから面白いのが始まるから」
祖父母は一生懸命孫を励ますのです。

ですが、この美しい天然のメロディを奏でるトランペットの音が響いたとたん、
息子は思わず、吐いてしまったのでした。


今でも、何とも言えない情けない表情を見せた父や母の顔が目に浮かびます。
喜んだ顔を見たかったのに、吐かせてしまった。

亡くなった父のことをふと思い出すとき、申し訳ないことをしたなと
懐かしさと寂しさがないまぜになった気持ちになります。


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なんでこんなことを書いたかと言いますと、
「美しき天然」とこの「愛の小径」はなぜか始まる音が一緒で、
それでもってふたつとも短調で、ワルツというか三拍子なんですよ。


ですが似ているのはそこまでで、このふたつには天と地との差があります。
愛の小径は三拍子といっても、アーフタクトなんですよね。

ワルツは、1,2、3, 1,2,3 と拍子をとりますが、
アーフタクトは1,2、は休符で3から始まります。

だから短調に、おんなじ硬い調子でタンタンタン、タンタンタンと音を刻むのではなく、
タッタータ、タッタータ、と円を描くワルツを踊るように緩急があるのですね。


せめて、あのときサーカスの音楽が「愛の小径」であったらなら、
息子の反応もかなり違っていて、両親の悲しい顔を見ることもなかったのじゃないかと
考えたりします。


まぁ、しかしそんなことを覚えているのも
今は主人とわたしだけかもしれないです。


昔語りをしました。


しかし、今は秋。
フルートを聞くには絶好の季節になりました。







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寂しさと決断とコミュニティ [雑文]

こんにちは~。sadafusaです。

めっきり日も短くなりましたね。
最近、何が嫌かというと一年の経つのが妙に早く感じられるんです。

というのも、夏がめちゃくちゃ暑いじゃないですか。
もうさ、夏を楽しむって気分になれないんですよ。

じりじりと太陽に照らされた真夏のアスファルト道路なんて歩けたもんじゃないしね。

こんなに熱してしまった地表に「遣り水」なんて風情なんかまったくもってそぐわないですよね。
せいぜい、水蒸気になって余計あたりをもやもや蒸し暑くするだけですしね~。


そう、何が言いたいかと言うと梅雨が明けると、夏は秋が来るまでひたすら
凌ぐものになっちゃったってことです。

しかもうちのエアコンがまた性能悪くて~。
これまで二度付け替えようとしたけど、立地条件がこの家に住み始めたときと
かなり変わってしまっていて、大手の電気屋の下請け工事の人なんか
すぐに断って来るんだよね~。

だから、余計に辛いんだよね。
ダイキンのうるるとさららだったらもっと違うだろうに。

そう、だから夏の7,8、9,10月の中旬ぐらいまで、およそ三か月半ほど
ひぃひぃ言って耐えているだけだから、その時間の分が充実してないのよ。
だから余計に一年が短く感じてしまう。


さて、昨今は自民党と統一教会との癒着問題が取りざたされてますね~。

まぁ、別に今更そういうの、私にとってショッキングでもないというか。
うちの旦那の父親は自民党の政治家で、
こういうカルト的な宗教団体ってごそっとそのまま、いい票田になるんですよ。

だってさ、そこの教団の支部長さんが「政治家の〇〇先生を、この支部全員で盛り立てましょう~」
とか言うと、み~んな右にならえで投票してくれるんだもん。
そういうのを嫁に来た時からず~っと見てきました。

政治家っていうのは、恐ろしいもので自分の票田のためなら、
孫でも売り渡しますね。

なんとうちの義理の父親は、さる右翼系のカルト教団の寄宿舎つきの中高六年生の学校へ
私たち親を無視して、娘を入学させようと画策していました。

私はそれに激怒して、絶縁を言い渡しました。

すごいよね~。

そういう人たちなんですよ。政治家って。
人間ってお金とか権力を一度手に入れて「先生」って呼ばれると
その座を絶対に手放したくないんだなぁと思います。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

反対に、私の実母は宗教ジプシーでした。

自分を「不幸」と決めつけ、ありとあらゆる宗教団体に3~5年ほど在籍して
「ここは違う!」といってまた別の宗教へ鞍替えするんですよ。

うちの母親はちょっとボーダー気質なんかなと思うんだけど、
独断するのとか、人の反感を買うのなんかは案外平気で
それだから、宗教ジプシーできるんだよね。


でも私がこれまで観察してきて思うことは、
こういうカルト宗教というところは、
上の人が右か左か、ゆく道を決めてくれるのよ。
だから葛藤がないわけ。従っていれば楽じゃん。

決断っていうのは、それなりにしんどいもので、
右か左か、そのたびに決めなきゃいけないんですよ。

右か左、どっちにしても100パーセント全部が全部、善であり悪ということはない。

どっちもメリットがあり、デメリットがあるんだよ。
しかし決めた以上、自分自身がその後始末をしなきゃならないわけよ。

だから~、決められない、葛藤を抱えたくない、って人は
結構簡単にこういうカルト系の宗教に入ってしまうね。

それに、だいたいにしてこんなところに入る人というのは
寂しい人が多い。

それはしょせん作られたものであるにせよ、
連帯意識っていうのは、こういう寂しい人たちにはたまらない魅力があるわけよね。

その教会にいけば「おかえりなさい」と笑顔で出迎えてくれる。
自分の話を聞いてくれる。

やっと自分の居場所を見つけられることができた!と思う人はいるでしょう。

そこをカルト集団の幹部は見抜いているだよね。
その人の財産を全部没収したり、子供を二世、三世信者へと仕立てる。



自分の行動すべてに責任を持って生きて行けっていうのは、
実は非常に人間力のある、賢い人にだけ許される行動なのであって、
我々のような下々の人間っていうのは、
肩を寄せ合って生きて行くのがせいぜいってことを
今の政治家は本当は知っているくせに、知らないふりをしているね。
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不調の原因 [雑文]

こんにちは、sadafusaです。


さて、私8月21日に結構大きなけがをしまして、今日に至っています。
一度は結構快方に向かっていたのですが、
「わぁい、治った~」と浮かれて、デパートに行ってウィンドウショッピングしてたら、
そのあと、治りかけていた靭帯二か所がまた悪くなって、元の木阿弥状態になったんですね~。


さすがの私もこれにはかなりへこみました。
「もう、若くはないのね」

知っていましたよ、ちゃんとそのぐらい。
しかし年を取ると若いときみたいに傷の回復力も遅くなるってことを
身をもって実感させていただきました。
トホホ。


私ねぇ、結構ひとりっきりでやる趣味が多くて、
これまで別段、おしゃべりする相手がいなくても一向に構わなかったのですよぉ。

それにさ、小説のプロットの話なんか、普通の人は興味なさすぎて
聞いてもらえそうもないし…。


これまで一時間ほど歩きながら、プロットやキャラクターの設定をぼうっと考えたり、
途中で素敵な花やお屋敷があったら、カメラに収めたり、
素敵で雰囲気のある人がいたら、それはさすがにカメラに収めるのは失礼なので、
心のカメラに収めて、あとでメモをしていたりで
これまで結構楽しく暮らしてきたんですよ。


歩くってね、気分が変わってとてもいいの。
それに私みたいなもともと運動音痴にはちょうどいい運動にもなるし。


しかしそれが出来なくなった今、とてもストレスを抱えてしまうようになりました。

アウトプットしたあとは、大量のインプットをするのです。
だから、めちゃくちゃドラマも見るし、映画も見るし、
本も読むし、漫画も読む。YouTubeだって一日中見ていられるほど集中力あったんだけど、

突然、視界がカラーから灰色に変わったっていうかなぁ、
何をしていても楽しさを感じられなくなったっていうかなぁ、
お年寄りの自殺って多分こういう気分から回復できない人がやるんだろうなぁと
実感しましたよ。


ただ、私にとって何よりだったんは、家の近くに娘夫婦が住んでいてくれたこと、
夫の存在が大だったかなぁと思うんですね。

彼らがいなきゃ、私本当にひとりぼっちですし~。
いや、友達だと思ってくれている人は案外多いんだけど、
私、他人サマの思惑が気になって、人と会って家に帰ると
どっと疲れるんですわw

だから、こういう気の置けない家族はとてもとても大切な存在です。

まぁ、それでも怪我のほうもすこしずつ回復しているだろうし、
きっとそのうち、また元に戻って散歩できていますように。


また、面白い話のネタが思いつけますように。

奇麗なものを見て感動できる心が取り戻せますように。
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セルフ前世療法体験? [雑文]

皆さま、こんにちは。

昼間は未だに暑いけど、夜エアコンを掛けて寝なくてもよくなり
少し身体が楽です。


さて、私はもともと精神世界とかいろんな宗教のドグマなどを比較したりするのが
好きなのです。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、そんなこんなで
最近、こんな本を読みました。




セルフ前世療法 誘導音声DL特典付き: 繰り返してしまう自分の前世トラウマがみえる (クラブハウスブック)

セルフ前世療法 誘導音声DL特典付き: 繰り返してしまう自分の前世トラウマがみえる (クラブハウスブック)

  • 作者: 根本恵理子
  • 出版社/メーカー: クラブハウス
  • 発売日: 2020/09/08
  • メディア: Kindle版




この著者の根本さんと言う方は、東大で心理学を学んでいらっしゃいます。
そしてお医者さんになろうとして、三度医学部を試みるも失敗。

そして、江原さんの「オーラの泉」を見て、前世というものに興味を持ち、
ブライアン・ワイス博士の「前世療法」にたどり着く。



前世療法 米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘 (PHP文庫)

前世療法 米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘 (PHP文庫)

  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2019/04/03
  • メディア: Kindle版




このですね、ワイス博士はもともとセラピストで、退行療法といって心の問題を抱える人に催眠状態に持って言って、トラウマを受けたところまで戻ってその原因を突き止めるのを仕事とされていたのです。
ですが、どういうわけかある患者さんは、幼少期どころか、自分が生まれる前の体験を語るのですよ。

初めワイス博士は「人がありもしない前世を語るなど、これは潜在意識が間違ってそういうふうに持っていっているに違いない」と思い、何度も何度も、前世へ行かないように、行かないように持っていこうとするのですが、やはりどうしても前世へと移行してしまう。

しかも、それもひとりやふたりではなく次々と前世をみてしまう患者を目の前にして
とうとう博士も「前世」というものを認めざるを得なかったというのが
ごく簡単な内容のあらましです。

現在、この「前世療法」というのは、欧米ではごくごく当たり前な
カウンセリングのひとつとして認められており、保険もきくんだそうな…。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ただ、わたくしの場合ですね、
神秘的なことに興味あるくせに、疑いぶかいんだよね。

「引き寄せの法則」みたいな現世利益的なメソッドなんか絶対に信じない。
願えば叶うのであれば、どうしてロシアとウクライナは未だに戦争をしているの。
皆が平和になってほしいと願っているのに!



とまぁ、きちんと心理学を勉強もせず、ちょこっとセミナーを受けて
へプノセラピストを名乗っている人は怖い。
法外なお金を払わされるのも業腹だし、
下手したら、変なトラウマを受け付けられるかもしれんじゃん。


というわけで、この「セルフ」でってところがいいなと思ったんでした。
だって、失敗したってタダじゃん。


で、この本には、ダウンロードすると、根本先生の催眠に誘導する音声がゲットできるの。

で、やってみました。

不思議ね。これまで三回やってみたけど、全部ちがっていた。

ひとつ目の私は大航海時代の南インドのゴアに住んでいるヒンズー教徒の漁師だった。
ヒンズーの教えも好きなんだけど、近くに建っているカトリックの大聖堂のステンドグラスが
とても美しくて、思わず床にひれ伏し、ガラスを通して七色に輝く光に神の神性を感じてしまうんだな。
神父さんはそんな私を見て、「カトリックに改宗すればいいのに」ってしきりと勧めるんだけど
そんなに気にとうていなれない。

また、わたしは好きな女の子がいて相思相愛なんだけど、なんとその女の子はムスリマなんだよね。
娘の父親が「おまえがムスリムに改宗しない限り、絶対に結婚は認めない」っていうんだな。

仕方ないムスリムになるかなぁと思いながら、心の片隅で
「神というものは、人がどうこうと線引きをして定義できるものじゃないのに」って思っていたのでした。


非常に私らしい前世のような気がします。笑

~~~~~~~~~~~~~~~~~
ふたつめはアフガニスタンの裕福な主婦。
男の子ふたりに恵まれ、旦那さんも優しくてお金持ち。
上から下まで、青い絹の服を着て、翡翠のピアスをしています。

奥には料理や掃除をしてくれる小間使いがいます。
私は窓辺に座って、色とりどりの絹糸で刺繍をしています。
ひとさし、ひとさし、丁寧に刺していきます。

主婦の私は幸せにひたっていました、
仕合せな一生を送ったみたいです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

みっつめは江戸時代の大津。
私は奉公に出されたばかりの飯盛り女。
旅をするお侍さんにシジミ汁とおにぎりを渡すのですが、
お侍さんは横柄でおっかない。

まだ子供の私は、しょっちょう失敗をして店の女将さんに怒鳴られて
おしおきに食事抜きのこともしょっちゅうです。

家に帰りたいけど、口減らしのために奉公に出されたので、
帰るところはありません。
夜中に蒲団の中で仕事が辛くて、家が恋しくてひとり泣いています


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とまぁ、時代も場所もさまざまです。
でも、だからといって、これが本当に自分の前世かといわれると自信ないですねぇ。

潜在意識のフタが空いているという意味では
小説書いている時も同じだからなぁ。


ただ、人の生き方を俯瞰的に眺めるという意味では
それなりに意義はあるのかもしれないです。

まぁ、始めたばっかりで何とも言えませんが、
飽きなければしばらくやっていると思います。


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屋上屋を架す [雑文]

皆さま、こんにちは。

最近、脱稿して一息ついたものの、
私、実は夜ウォーキングしていたとき、
ひどい捻挫をしてしまったんです。

これまでほとんど毎日歩いていたのですが、
それも出来ず、身体の調子が非常に悪い。

整骨院に通っているのですが、
人間の身体って私のように大きな衝撃を受けたときは
最大限に筋肉が伸びるんだそうです。

でも、その反射でその後、急に縮むのだそうです。
私は靭帯もかなり損傷していて、そっちも痛いのですが、
とにかくふくらはぎの深部の筋肉が縮んだせいで、血の巡りが悪く、
足が冷たい。お風呂に入っても表面部分が温まるだけで、深部が温まらない。

というわけで、この暑いのに、エアコンですらかけているのに、
ひざ下だけはごっつい遠赤外線が織り込んであるレッグウォーマーみたいなのを
付けていますね。

あと、かてて加えて、最近喪失感があって~。
そもそもあんまり精神が安定してないのに、
ケガをしたせいか、鬱っぽいです。

心療内科行こうかなってググってみたけど、みんな「要 予約」なんですよね。
まぁ、わかるんですよ。要予約じゃなきゃ、待たせられるし…。

だけど、思いついとき、心に決めた時、行きたいんだ…。
タイミングが合わないと、また機会を逃すことになる…。

かといって、私のように常に情緒不安定な人間って
心療内科へ行ったとて、ってところがあるんだよね~。

結局、「カウンセリングを受けてください」みたいになるんだよ。
いや、カウンセリングは8年ほど通いましたから、もういいです。

あ~、あたしはこんなもやもやしたもやもやした気持ちを抱えて
これから死ぬときが来るまで生きなきゃならないのか、
…ユーウツです。ものすごく…!


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さて、今日は単なる言葉によるうっぷん晴らしです。
私はたいていリアル世界の人にはあんまり文句をいいません。
それは、不思議な感覚だけど、愚痴を言った後、
ものすごく落ち込むんだよね~。

自分の中のもうひとりの自分が「恥を知れ」って怒って来るんですよ。
他人は解決できない問題は言わないことにしています。
だって聞かされている側に立つと、いやな気持になるんだもん。。




さて。

最近、プロじゃない方の小説を目にすることが多いのです。
時には、非常に面白いものに出くわすので、
馬鹿にしたもんじゃないんですよね。

ただ、いつも気になるのが、
美形キャラの人物描写かな。

みんな、「屋上屋を架す」って言葉知ってる?

屋上の上にさらに屋上を建てることだよ、
つまり、無駄なことのたとえなんだね。

似たような言葉に「蛇足」っていうのもあるかも。
こっちのほうがもっと頻度としては軽い気がする。

私、常々美女とか美男って書く時は気を付けていることがあるの。
それは「美しい」と連発しない。
また直接「美しい」というダイレクトな表現を使わないってこと。

向こうから「超絶美少女」が歩いてきた。

って書かれていたら、もうそれ以上書くことはない。
だって超絶美少女なんだからさ。

なんてのかな、こういうの、やっちゃいけない典型だと思うんだよね。
超絶美少女ってことばには、「どんな風に魅力的なのか」を創造させる余地がないもん。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

たとえば、主人公が横断歩道で信号が青になるのを待っていたとする。


ふと対岸を見るとですね、セーラー服の女の子がひとり佇んでいた。

割と背の高い子で、すらっとしている。
主人公は
「こんなに背が高いんだから、バスケとかバレーボールをしているのかなぁ」
とぼんやり考えていた。

青になると他の人と同じように女の子もこちらに向かって歩き出した。
おそらく校則では膝丈のはずのスカートは、
放課後になると思いっきりたくし上げられているのだろう、
ミニスカートの下にはぜい肉のついていないまっすぐな足が伸びている。
女の子は主人公に見つめられているとも知らず、颯爽とこちらに向かって歩を進めてきた。

赤みがかった膝小僧が初々しい。

思わず主人公は近づいて来るその子の顔を凝視した。
そこには切れ長の瞳がキラキラと輝いていた。

そしてすれ違いざまにわずかな風になびいていた髪から
シャンプーの清潔な香が漂って来る。

しかしそれも一瞬で、女の子はほとんど主人公を気に留めることもなく、
横断歩道を渡り切る。そしてさらに早い足取りでどんどん通りを進み、
やがてその姿は人込みの中へ溶け込んでいった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



とこんなふうにします。絶対に「超絶美少女」とは書かないですね、私は。

この中には「美少女」とか「美しい」とかあえて書くことを止めました。
ほっそりと奇麗な足の描写とか、髪の毛とか、切れ長の目って書いただけで
たぶんこの子が「超絶美少女」だということがわかるんじゃないかな。。。


とにかく、「美人で」とか「この上なく美しい」とか
書き過ぎる。美しい、美しい、って書くと、それはフォルテシモの表現となってしまいますので、
それ以上書くと、くどいのです。
で、つい私は、「屋上屋を架す」と思ってしまうのです。

まぁ、そうは言ってもなかなかね、さりげなく「美しさ」を表現するって難しいことだから。
私も日々苦労はしています。


そうそう、もう一つ大事なことを書き忘れていた。
美人ってなにも外見だけじゃないんですよね。
やっぱり姿も美しいければ、内面も美しくないと厳密な意味で
「美しい人」というか「人を魅力するに十分な人」とはなり得ないんじゃないかな。

だから余計に「超絶美少女」って書くのは危険なんですよ。
それに、なんか「超絶」って言葉自体、なんだかそぐわない気がする。
超絶技巧とはいうけど、超絶美少女って使い方は特殊だと思うんだな~。
こういう時は、面倒くさがらず「超絶 使い方」とググって見ましょう。


そんなん言ったら、マネキンが一番きれいという事になってしまう。
欠点も含めてその人の持ち味になるような、そんな描き方ができたら…と思いますね~。



だいたい主人公か、主人公が好きになる子は「美形」が多いもんだよね。
なかなか中年の禿親父を好きになるというプロットにするのは、
よほどの力量が必要だと思う。あんまり共感されないから。

だからと言って、美男美女、美男美女、美しくて、きれいで、美しくて、きれいで

っていうのも、芸がない、

そんな愚痴でございました。


愚痴なので、かる~くスルーしてくださいましましね。
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小説を書く時、仲間は必要か [雑文]

こんにちは。

残暑も厳しいですねぇ。気温が高くてしんどいというより、
蒸し暑くて辟易しますね。

今日は私の悩みを聞いてください。
出口のないループのような愚痴になる予感もあります…。

私は八月の終わりぐらいに、それまで書いていた小説をやっと脱稿できました。
時代は江戸で徳川家の家門である殿様とその殿様の注文を受けた絵師の話がメインなのです。

そもそもこの小説は娘に「こんな面白い画家をNHKの日曜美術館で紹介されていたから、この人の小説を書いてみたら?」と勧められたことにあります。


それを言われるまでその画家の名前すら知りませんでした。
ですが名前こそ、知られていなかったものの、描いている絵がことごとく、
国宝か重要文化財に指定されているので、上手い画家だったことには違いないのですね。

わたくし、日本史にはほとんど興味がなくて、
というのも日本の武家社会には片諱という習慣がございまして、
例えば、信長の家来だったら信長の「信」という字を貰うか、あるいは「長」という字を貰う人が続出するので、みんな同じような信康とか、信雄とか、似たような名前ばっかり。
覚えにくいんですよ。

未だに京都所司代を務めていた人の名前が板倉重勝なのか、勝重なのか覚えられないし、






~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

あ、そうそう、すぐに脱線しますね。

小説の話だったです。

で、四月の頭から書き始めて、八月いっぱいまで書いていました。
字数にして約20万字あまり。

その前の半年は関連する本を約50冊ほど読んで勉強していました。
いやぁ、日本史って難しいですねぇ。
政治史と徳川家の話と、絵画史ですかね~。
あと、17世紀初頭の、人々の暮らしとか、お金の値とか…。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まぁ、そんなことはモノを書くなら当たり前なんですけどね。


私は、小さい頃から小説を書きたいなぁと思ったことは一切ありませんでした。
本を読むのは好きでしたが、だからといって高尚な本が好きだったわけじゃありません。

小説書いてみたいなと思ったのは、子育てが終わった四十代後半からです。
初めは人称などどうやって決めていっていいのかすらわからず、本当に暗中模索でした。

結局、誰にも教えてもらわないで一人で書いていたんですよね。
でもさ、ひとりで書いていると自分が本当に正しい道を歩いているのかどうかでさえ、
覚束ないものなんですよ。


それでプロになりたいわけじゃないですが、公募に出すわけですね。
最初なんか、一次選考なんて通りすらしないです。

でも、誰かに読んでもらってなにがしかの反応が知りたいわけですよ。

でもね、私、ある時わかったんです。
素人の人に批評してもらうのは、あまりにも無謀だということを。
モノを書いたことすらない人になにがしか利益のあることを聞こうとしても無駄です。

なぜなら彼らはその道に精通しているわけじゃないから。

また、批評してもらうのに、ただのところも危険だと思いました。
noteを検索していたら、それはどういうシステムなのかわからないのですが、
あるセミプロみたいな方に、自分の書いた小説を批評してもらい、それをnoteに掲載しているのがありました。

読んでいて、怖くて鳥肌立ちました。
もしこの批評される方が100パーセント正しいとしても、
放たれる言葉がどうしようもなく、きつい。

こんな批評を頂戴したら、私なら自殺したくなりますね。

しかもその方は駄目であることを、きちんと「こういう表現がダメだからやめましょう」
とはおっしゃらないで「稚拙すぎて読むに堪えない。こんなものをまともな思考を持った人間が書いたとは思えない」ってすごいですね…。


これね、感覚的に「駄目だ、とか、面白くない」なら誰でも言えるんですよ。
いくら文章がダメだからといって「まともな思考を持った人間が書いたものとは思えない」なんて
人格攻撃じゃないですか。

そうではなく、ダメなところをきちんとわかりやすく指摘し、どうすれば改善できるのか、
詳しく相手に伝えることができるのが、ものを教える人の基本的な姿勢だと思います。
もちろん、改善したからといってプロの書く作品には遠く及ばないでしょう。
しかし上達するように指導するのが、この場合一番大事なことです。
文章がダメなら内容を云々しなくても、まずそのことを何よりも先に伝えてあげるべきなのです。

私はそう、強く思いましたね。



まぁね、私も日ごろ思うところはあって、
それはイラストや漫画を添削されているペガサスハイドさんも仰っていることなのですが、
「出来ないことを無理してやることよりも、今、自分ができることは、100パーセントできるようにしておく」ってことです。

たとえば話自体のセンスも悪く、構成も悪く、登場人物の魅力にも乏しいかもしれないです。
でも正しい日本語を書くことなら(文法として正しいのか)努力次第でできるわけですよ。

主語と述語がきちんとあっているのか、とか、修飾語は正しいのか、とか
文章がねじれていないか、とか。
単語を重複して使っていないかとか(これはね、推敲しても推敲しても、なかなか全部発見できない難しい作業なんだけど)

とりあえず、何度も何度も推敲します。
でも、それが多すぎるとは思いません。もっと徹底されている方はなんぼでもいらっしゃると思います。


あと、無知による思い込みっていうのも、払拭しなければならない大事なことだと思いました。
実はわたくし、ついこないだまで、薙刀と槍って同じようなもんだろうと思い込んでいました。
しかしふっと「薙刀という名称と槍という名称が違う以上、なにかが違うはずだ」と思い、調べてみました。薙刀というのは刀と一緒で、半身だけ刃なんですね。それに反して槍というのは、遠いところからグサッと相手を衝くので両側が刃なのです。

平安時代は薙刀が主流だったらしいですけど、戦国時代になると長槍オンリーになっていったらしいです。


とこのように、文章も難しいけど、時代に即したものの名称なんかも細かく調べて行ったほうがいいんんですよね~。文章を書き続けて行くと、そういうことを「疑ってみる」っていうセンスも培われていくような気がします。(最初はそういうものに疑問すら感じられないものです)


自分が思う小説というのは、ある時代、ある国、ある場所、さらには実在の人物の姿を借りて、
自分の世界観、自分の思考、自分の信念を書く作業であって、嘘の塊なんです。

しかしそういう大きな嘘をつく時は細かいところは真実を書かないと、読者には非常に薄っぺらい印象しか与えられないものなんじゃないかなぁと思っています。

ま、これは私の考えなのでそれとはまた別な考えをお持ちの方もいらっしゃいましょうが、
芸術には「これが正解」というものがないのが、非常に難しいところではありますね。






こないだ、noteでアマチュアの大人の文芸クラブの会員を募集していました。
しかし、募集の要綱のところに
「プロは目指さない文学好きが集まって、ワイワイ楽しくやりましょう」
ってところにちょっとひっかかりを感じてしまって…。

いや、プロにはおそらくなれないでしょう。
しかし、プロの書いたものに少しでもいいから、
近づくような努力はすべきだと思うんですよね。

正しい文章が書けたなら、もっと美しい文章を目指すべきだと思うし、
それが出来たなら、もっと上手な構成ができるように目指すべきだと思うし…。

「どうせアマチュアだから、下手でいい!」
で推敲もしない人とは仲良くなれない気がするんだなぁ…。
どうもそこらへんの温度差というのが気になる。

文章の上達の進捗状況なんて、本当に人それぞれなんで、
「この人はもう、プロと言ってもいいんじゃないか」と思う人もいれば、
「いやぁ、何から何まで全部できてない!」と思わされる人も中にはいるわけですよ。


ピアノだってさ、バイエルが覚束ない人と
ツェルニー50番とスクリャーピンのエチュードを習っている人とは
おのずと悩みが違うんですよね。

でも文章の世界って、ピアノほどはっきりとレベルの違いが人には判断つけにくいものなんだと思うのですよ。


と言う訳で、誰かに相談したいと思っても、できないのが現状です。
結局ね、自分が書いたものを後で読んでみて、
「あ、ここはいかんなぁ」と思えたなら、上達している証拠です。

で、まぁ、最終的な結論としてはですね、
作品をひとつ書いたなら、プロにお金を払って添削してもらう、あるいは講評してもらうことです。

決して安くはないです。しかし相手もお金というものが介在している以上、
「へたくそ!」とか「読むに堪えないので5ページで止めてしまった」とは言えない訳です。
まぁ、実に嫌な言い方になりますけど、そういう風に放言してしまうのが、
やはりプロになりきれていない人の忸怩たる思いというか、
ジレンマがそこに現れているような気がしないでもないですけどね…。




やはり「常に先達はあらまほしきものなり」、というようにですね、
プロに教えてもらうのが、一番近道のような気がします。
非常に孤独ですが…。






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