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奈良 元興寺 極楽坊へ [ひとつの考察]

皆さま、こんにちは。

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先日奈良へ行ってきました。
で、世界遺産にも登録されています『元興寺』っていうところへも行ってきたんですよ。

私は、歴史に詳しいと思っていらっしゃる方もいるかと思うけど、
実はそういうことは全くありませんで、

全体的な通史というものに非常に詳しいのは夫のほうです。

で、彼が「奈良へ行ったなら『元興寺』にも行ってみたい」
っていうので、
「『元興寺』? にゃんや、そりゃ?」

ってことで、真の歴史好きの夫からレクチャーを受ける。

なんでも『元興寺』っていうのは、もともと飛鳥にあった飛鳥寺(法興寺)が
奈良に移って『元興寺』となったそうなのであります。
飛鳥寺ができたのは588年のことだから六世紀。
仏教が伝わってすぐにできたお寺なのでしょう。


平城京にあってこの『元興寺』はもんのすごくでっかいお寺だった。
平城の一つの区画を坊条っていうんだっけ?
その一番小さい区画を8個分あったということです。
すごいなぁ、平安京にある京都御苑並みにでかかったということです。

しかし、こういう巨大なお寺って、本当はとてつもなく維持費が大変なんです。
だいたいにしてそこに修行しているお坊さんたちの三度三度の食費をどこから調達することができたかというと、それはバックにやっぱり巨大な荘園というものがあるからこそ、そういうことができたんですよね。

いつの時代も幅を利かせていたのは金の力です。


ところが、平安京へ遷都するとき、お寺は随行することを許されませんでした。
帝の覚えがめでたくない。ここで荒廃が始まるわけですよ。
で、時代が進んでいくと平重衡が南都を焼いたことにより、だんだんとこの壮大な『元興寺』も勢力を縮小していかざるを得なくなってのですね。

みてくだい。もともとあった、南大門も、お寺の心臓部ともいえる、金堂も講堂も、当時はふたつあった塔も焼亡してしまいました。

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それでどうにか奇跡的に残ったのが、今日、極楽坊といわれる部分だけです。
この極楽坊というのは当時は東室南階大房の一部分のことを指しました。

極楽坊ってどういうところかというと、ひらたく言えば、お坊さんたちの宿坊ですね。


ところで、お坊さんっていえば、すぐにお寺の僧侶と結びつきますが、本当はこの宿坊に住んでいるから、「お坊さん」坊の主は「坊主」です。
坊って房だと思うんですよ。「房」って部屋っていう意味もあります。
(ことばの変遷って面白いですね)

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で、まぁ奈良時代は超巨大で勢力を持っていたお寺もだんだんと時代がたつにつれ、極楽坊だけが残されて非常に貧しいお寺となったのです。


本当はこのお寺は「真言律宗」というちゃんとした教派もあるにはあったのですが、
もう後ろ盾になってくれる天皇とか貴族とはいませんので、ともかく「寺」として生き延びていくことに必死になるんですね。

で、それを支えてくれていたのが、民衆です。
で『元興寺』はこの民衆に支えられて生きてきたわけですよ。

だから、なんていうか、曼荼羅もありゃ、阿弥陀さんもあったり、聖徳太子なんかも祭られていたりで、宗教のごった煮の寺と化していきました。

でも、案外とそういったごたまぜ状態が却ってよかったみたいで、元興寺ってお寺の仏像やなんかの修復の技術を身に着けて、全国の仏さんが痛んだところを直していくんですね。

で、今日「元興寺文化財研究所」って機関を持っているんですよねぇ。

実にひょうたんから駒というか、何がきっかけで
生き残れるかってのは思案のほかって感じがしました。

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まぁ、国宝として極楽堂ていうのと禅室(僧坊)っていうのが残っているんですね。これが非常に古い。

入ってみると、軒が非常に低くて、平均的日本人なら鴨居に頭が閊えてしまう。
昔の人って小さかったんだなぁって思います。

この極楽坊の周りはたぶん長い歴史の間に積み重なった、卒塔婆が一か所に集められています。
で、なんというかその姿がですね


手塚治虫の「どろろ」の漫画に出てくる「地獄堂」そっくり。

手塚先生はこれをモデルにされたのではないだろうか?って思いました。
名前も元興寺のほうは「極楽堂」どろろは「地獄堂」だし。

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結構、奈良へ行くと京都の寺とはまた趣の違う面もたくさんあっ非常に興味深いです。


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『こじらせ女子』に対するオバサンのイチ考察 [ひとつの考察]

皆さま、こんにちは。

いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか?


最近、自作の小説を置いておくためにテキトーなところはないかと
物色してnoteにたどり着いたんですが、
あそこってわたしみたいなバーサンはほとんどおらず、
比較的若い人が書いているみたいなんですが、
読めば読むほど、悩める場なんだなぁと
しみじみします。

今の若い子たちは、それこそsmapが歌っていた「世界でひとつの花」のように
なんか個性的に、NO1に生きなければならないという過酷な刷り込みをされて
そのため、平凡に生きることを許されず、疲弊しているように思えるんですよね。

たしかにわたしが若い頃のように
「女は男や親の言うことを聞いていれば間違いがないんだ!」とか
「女が妙に頭がいいのはけしからん!」とか
「早く嫁に行け!」などと言われなくて
今の若い人たちは幸せだなぁと思っていました。
しかし、そういう重しがなくなると、却って選択肢が多すぎて
もがき苦しんでいる人のなんと多いことか…。

今日はちょっとそういう方を取り上げてみたいと思いました。

まずですね、だいぶ古い本になるのですが、
『女子をこじらせて』

女子をこじらせて

女子をこじらせて

  • 出版社/メーカー: ポット出版
  • 発売日: 2011/12/06
  • メディア: Kindle版



の雨宮まみさんですね。
「こじらせ女子」という言葉の発端はこの人にあるらしく、
世間に皆目疎いわたしは、
「そもそも『こじらせ女子』とはなんぞや?」と思って今更ながら
手に取って読んでみた一冊です。

感想はですね。これほどに繊細な感受性を持っていて、知的な雨宮さんなのに、
完全に進む方向が間違っているとしか思えない!ってことです。

この方は、お母さんが教育ママで、小さいころから「頑張る」ことを強要されてきた方ですね。
親の期待に応えるべく、一生懸命お勉強をして、地元では一番の進学校に合格する。

ここまではいいんですよ。

で、大学受験するために上京したホテルにAVヴィデオがあった。
そこからこの人の人生が狂い始めるみたいです。

女だって、性欲っていう本能があるんだから、まぁ、こういうものに興味があっても
全然かまわないと思うんですよね。

ただこの人はたぶん、全然免疫がなかったのかな。

それでなんだかんだでAVライターになるんですよ。

もうね、ここら辺がオバサンにとってはめっちゃ驚きなのね。

雨宮さんが人と群れることをよしとせず、
また、男にもてたいとも思わず、
完全に一匹オオカミで生きてける自信とタフな根性があるんなら
AVライターでもなんでもやっていてくださいよって思うのね。

だけど、この人は人一倍傷つきやすく、人に愛されたいと思う願望が強いのに
どうしてこんな、誰が見ても間違っているみたいな道を突き進むのだろうかと。

この人、自分の容姿に自信がないんです。それでも大学生のとき、
バニーガールのバイトもやっていたんですよね。
わたしにしてみれば、ああいう網タイツ履いて、バニーコート着て、ハイヒールを履けた時点で
「あ、やっぱりあたしもそれなりに大したものなのだな」って納得して
普通のOL生活を始めると思います、たぶんね。

しかし、この人はAV女優を見て非常にうらやましい、輝いて見えるって思うらしいんです。
たしかにAV女優は身体がきれいであるってことが絶対必要条件だとは思うのですが、
ですが、一部の人をのぞいて、こういう人ってAV女優であることを
ひた隠しにしているものでしょ?

動機はどうしてもたくさんのお金を稼ぎたい、ってことじゃないですか。

しかもソープかなんかで働いているなら、まだしも不特定多数の人に顔をさらしているんだから、
いつバレるんじゃないかとびくびくしながら生きて行かなきゃならない。
自分の親に対しても、非常に親不孝な所業だと思うよ。


ちょっと考えてみれば、そういうことはすぐにわかりそうだと思うんだよね。
なのに、あんなに勉強することを強要していた親も
AVの出版社に勤めることを反対しない。

同じ親の立場に立つものとして非常にこれは不思議でしたね。
なんか親のほうも「どういうことが美しいのか、人としてまっとうな生き方とはなにか」って
美意識が欠如しているのかなぁって考えこんでしまう。

ただ、こういう既成概念を覆すためにあえてそれをやっている人もいるにはいるけど、
それには俯仰不屈の鉄の信念が必要ですよ。


それをイージーに「あ、やりたいの? おやんなさいな。でも自己責任だからね」
なんて親としては言えないはずだと思うんですよね。




まぁ、わたしとしては雨宮さんが「男」なら「まぁ、そういういばらの道を進むのか」と
不本意ながらも黙認するでしょうが、雨宮さんは女でしょ?
どうしてそういう「男」の後ろ暗い本音の部分の携わる仕事に女が付かなきゃならないのか、
それが大いに疑問でしたわ。


普段、ガラスのような心を抱えて悩んでいる雨宮さんなのに、
AVの仕事に就いています、って他人に言うことには抵抗がなかったのかって
本当に不思議です。

私は、雨宮さんほどデリケートじゃないと思うけど、
仕事がAV関係っていうのは嫌だ!って思う。

なんか自らの手で、幸せを逃しているような気がしてならないんですよね。

あと、もうひとり「この人もちょっとなぁ~」と思う人が。
最近、ツィッターかなんかのネットニュースで読んだんですが、
700万かけて整形したタレントさんの話。

この人も雨宮さんと一緒で、親に勉強を強要されて、
大学まで必死になって生きてきた人。

大学になってバイトでメイドカフェで働くんですよ。
そこがね、わたしにしてみれば進む道が間違っているって思うんですよ。
だってさ、メイドカフェって、性格とかその人が持っているいいところなんて
まりっきり無視して、「いかに美しいか、いかに美しい身体をしているか」だけが
特化されて評価されるところじゃない?

そんなところで、普通の容貌をしている人が評価されるはずがない。

そこで、この人はものすごく世の中に対して、不公平感を募らせるんですよね。
で、やっぱりもてたいからキレイになろうって美容整形するんですよ。

まぁ、わたしはあんまり自分の顔に対してコンプレックスがありすぎて
一日中そのことばかり考えて前に進めないって思うくらいなら、
整形したほうがいいと思うんです。

実際にきれいな二重になって人生変わった人って多いと思うし。

ですがね、この人の場合はやりすぎなんですよ。
やりすぎて「不気味の谷」までいっちゃっているんですよね。

もっと人に気づかれない程度にすればよかったものを
ここまでくるとだれがどう見たって「整形美人」なんだなって解ってしまう。

この人は「誰かに愛されたい」と思って自分がキレイになりたいから
そうしたんだろうけど、一体誰に愛されたかったのでしょう?

不特定多数の人間のアイドルになることと
ひとりの人にきちんと愛されるってことは、似ているようで
全然違うことだと思います。

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雨宮さんにしても、このタレントさんにしても
たとえば、普通の優秀なサラリーマンが「この人と結婚したいな」とは
絶対に思ってもらえないようなところへ行ってしまっているんですよ。

モテ子になろうとして、キワモノになってしまっている。


まともな男性のだれが、AVライターや、アニメ顔の美女を
自分の母親に紹介したいと思うでしょうか?


戦略からして全く行ってはいけない方向に行ってしまっているっていうのが、
なんかとっても残念だと思うんですよね。



雨宮さんはもうすでに亡くなっておられるそうで、ことばもありません。
もし、大学生ぐらいのときにしっかりとした意見を持った大人が傍で
助言をしてあげていたなら、もっと幸せになっていたと思うのです。





幸せはもっとひっそりとしたもので、全世界に「私は今、幸せです!」と
表明しなくてもいいんですよ。


幸せは、平凡でいいんです。人から見て「平凡」と思われるようなことがら。
人口に膾炙されてきたようなことがらでも
その人にしてみれば、初めて経験することばかりでしょ?

結婚して、妊娠して、出産して、子供を育てる…。
当たり前のことですが、経験しなきゃわからないことばかりです。

そういうことに、まず気が付いてください。




自分が冴えない不美人でも、
相手の男性ももっさりした人でも
自分たちが心を通わせて、お互いのことを
思いあえたらそれでいいじゃないですか。


ふたりで見つめた空の色が美しかったり、
道で咲いている花がキレイだったりして
「きれいだね」
「そうだね」

って自分の思いを言の葉にして、
それを「そうだね」ってうなずいて笑ってくれる人が傍にいてさえくれれば―。






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ある感慨 [ひとつの考察]

かなり古い話になってしまいますが、
一年ぐらい前?におしどり夫婦として超有名な芸能人の夫婦が
壮絶なバトルをして、離婚した事件(事件って言っていいのかどうか)がありましたね。

こういうと、「あー、あの人かな」ってピキーンと来るかなと思うのですが、
まぁ、わたしが実際そのexご夫婦に関わったわけでもないので、名前はあえて伏せます。
別にこの方を糾弾するのが、このトピの趣旨でもないので。

夫婦って一方的だどっちかが完全に悪くてどっちかが完全に正しいみたいなことって
実は(まあ、DVなどを除いて)ないんだろうと思うんですよね。

一般的に旦那さんや奥さんが、最後の一線を踏み外して、不倫をするっていうのは、
そこまでに至らせてしまった一方のこれまでの夫婦の在り方にも問題があったろうな
っていうのは常々思うんですよね。



で、なんで今、こういうことを書くかっていうと、
どういうわけかyoutubeの動画が、「木村藤子」さんのサイトにたどりついたんですよ。

わたし、普段はまったくテレビみない人間なんで、
たま~にこの木村さんの名前は小耳にはさんだ程度だったんですが、
ゲストがこの有名な夫婦の奥さんのほうだったんです。
ちょっと興味があってこの動画を最後まで全部みました。

そして、この録画は今からおよそ6・7年前のものだったんですね。
そこで、木村さんが
「あなたのその性格は右か左で、振れ幅が大きすぎる。そういう両極端なところを治さないと
 今に離婚するハメになる」

この意味するところはおそらく、妻として悋気ばっかりじゃなく、
もっと寛容な気持ちで接しないと
旦那さんはいずれ、しんどすぎてつきあってられなくなるっていう
意味なんじゃないかなぁって思うんですよ。

ただわたしはこの動画を見ただけでは、
別にこの女優さんばかりが悪いとも思わなかっただろうと思うけど、
別れ際のあのすさまじいバトルは、彼女がそれまで良妻賢母の誉れがなまじ高かっただけに、
本当にはたから見ていても青天の霹靂のようにも思われ、
実に見苦しいものだったと言わざるを得ないなぁと思ったの。

まぁ、いろんなことが原因で別れるにせよ、
一時期は本当に愛し合っていたんでしょ?どうして、自分のブログに「〇〇さんは大きらいです」とか
なんでああいう風に一方的に自分の言い分ばっかりをyoutubeにUPしたりするのか。
なんだか非常に子供っぽくて幼稚ですよ。

こんなことを世間に向かって書く必要があるのかなって思うんですよね。
夫婦間のことなんて、内輪で弁護士挟んでやるべきことを粛々とやればいいだけのこと。


別れても、相手の幸せを祈るとか、相手の社会的立場を守るという
美徳はどこへ行った?って思うんですよ。
マスコミを味方につけて、元ご夫君をやり込めようと思ったのかもしれないけど、
結局大騒ぎして名を貶めたのは女優さんのほうでしょう。

いや、離婚するときは双方心底うんざりしているものだと思うけど、
分別のある大人としてもっと理性的にふるまう必要があると思うんですよね。

しかし、実際はそうじゃなかった。

おそらく奥さんは精神的なDV妻だったといえるかなと思います。
これは目に見えない形の分だけ余計に厄介だと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

わたしがなんでこういうことを言うかっていうと、
まぁ、わたしの近い身内にこういう人がいたからです。
あんまり詳しくいうと、自分の不幸自慢にみたいになって、
却って嫌味になるからあんまり言わないけど、

女優の奥さんも、自分の身内も
おそらく「自己愛性人格障害」なんだろうなって確信しています。
自分ばっかりが可愛いのね。全く自分のこれまでしてきた行いを反省しない。
全部、全部自分に起こった都合の悪いことは人のせい。

あの、木村藤子さんにカウンセリング受ける時に
切々と「主人の身体が心配なんです」って言ってたセリフ。
あれは、仕事をやらせたくないんだろうなって思ったのよね、見てる方は。

うちの身内と口調が一緒。
なんか芝居がかっているっていうかねぇ、ものすごく「いいひと」を演じているように思える。
そうやって、いいひとを演じている自分に酔っているんだと私には思われるんです。

わたしは身内に対して「いや、でもきっといつかはわかってくれる」と思って接してきましたが、
こういうボーダーの人って、説得しようとして説得しきれるもんじゃないんですよね。

だって絶対に自分が正しいと信じ込んでいるんだもん。
いつも「でも、だって」の応酬なんですよ。
人の価値観は平気で踏みつけにしておいて、
どうして自分の価値観ばかりがまかり通ると思っているのだろう。



女優の元奥さんのほうも世間じゃ、「掃除の達人」と知られ、本まで出していましたが、
旦那さんの部屋に押し入って、だんなさんの大事にしていたDVDを全部捨てちゃって
自分好みの部屋に替えちゃったっていうのを読んで「ああ、なんてそっくり」って思いました。

うちの身内も、一番大事なのは「人の気持ち」じゃなくて「自分の気持ち」なんですよ。
どんな大事なものも、どんなにひとめに触れられたくないと思っていたものでも、
勝手に暴いて勝手に処分して、本当にひどかった。
そして「ああ、きれいになった。わたしって本当にきれい好き」って悦に入っているんですよねぇ。

今から思えば、本当に嫌な気持ちにさせる、エキセントリックな人でした。






まぁ、これ以上言うと愚痴になるからやめておいて、

だから、旦那さんのほうは大変だったけれど、離婚して正解だったと思うのです。
そして、また新しい幸せ、自己の充実を希求していってほしいと思います。
昨日のトピでも「身内なんかナンボのもんじゃい」って書きましたが、
血縁なんていざとなると、ほんとうに頼りにならないものです。

遠くの親戚より、近くの友人です。
そしてこういうご縁を結べたすべてのことに感謝したいと思います。
また、このご縁を長く続かせるために、自己の確立も大事なことですよね。
ムダに人に依存しない。
助けてもらったときは、深く感謝する。




だから、この歳になると、友達を大事にしていかなければならないなぁと痛感しています。
そしてステキな友人にめぐり合うためには、心境を高めるために自分もできる限り努力して、
人付き合いのスキルや、楽しい話が出来る知識が必要になってくるのですね。






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19世紀のイギリスの階級社会 [ひとつの考察]

皆さま、こんにちは。

この間、『高慢と偏見』のレビューを書いていて、
ふと「ダーシーさんって、どういう身分なんだろう?」と疑問を感じてしまいました。
わたし、原作も読んでいるのに、時代背景には無頓着でした。

初めはてっきり貴族かなと思ったのですが、英語で「ミスター・ダーシー」と呼ばれているし、
爵位の中で身分が低い准男爵のバロネットでさえ、イギリスでは敬意を払われて
「サー・ジョン(この場合はファーストネームが入る)」と呼ばれているのに、
貴族だったら絶対にミスターなんて呼ばれないはずなのです。

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ダーシーさんの叔母でレディ・キャサリンって本当に高慢ちきな人がいて
この人は自分の娘を大金持ちの甥のもとへ嫁がせようという心づもりだったので、
ダーシー氏がエリザベスを見初めて結婚するかもしれないという噂を耳にし、
エリザベスに結婚を辞退させようと乗り込んでくるシーンがあります。

そのとき、エリザベスは
「あなたは身分の低い家の娘と私を貶められますが、私は紳士の娘です。
ジェントルマンであるダーシーさんとの身分の隔たりはありません。
わたしは自分が幸福になれるかもしれない有利な申し出をお断りする必要はないと思っています」
ってカンジで啖呵切るんですよね。

これ、ドラマを見ていた限りは「うん? なんだろ?」ぽかーんとみていたのですが、

確かにレディ・キャサリンっていうのは「レディ」とついてはいるものの、
夫の身分というのは「サー」の称号がつく「ナイト(騎士)」に過ぎないのですよ。
つまり、レディという敬称はついたとしても、彼女は貴族じゃないってことです。

当時のイギリスは大きくいって、三つの階級にわけられたようです。
「上流階級」
「中流階級」
「労働者階級」
ですね。

で、この上流階級ですが、どういう人たちなのかというと、
まぁ、王室に出入りできる、王室貴族ですね。それともう一つ、ジェントリです。
貴族は皆さまもよくご存じのように、伯爵とか公爵とかタイトルを持っている人たちです。
ジェントリがこの場合ちょっと難しくて、一応爵位を持たない地主と規定できるのだそうです。
とはいえ、全く爵位がないわけでなく、伯爵(Earl)、子爵、男爵。つまり、これらの人は爵位を持っていたとしても王室に出入りできない貴族なんでしょうねぇ、おそらく。

さらにジェントリには階級がありまして、
准男爵(バロネット)、騎士(サー)、従騎士(エクスワイヤ)、そして紳士(ジェントルマン)となるわけですね。

まぁ、それでもレディ・キャサリンは自分は騎士の妻であるってことにものすごく誇りをもっているわけ。

ですが、ダーシーさんは金持ちかもしれないけど、地位的にはただの『ジェントルマン」にすぎないわけですよ。


ですからエリザベスはこういったんですよ。
「まぁ、うちと比べて多少お金を持ってるかもしんないけど、あんただって実のところ、貴族じゃないんだよ。身分としては同じジェントリなんだよ。騎士ぐらいでモタモタ言わないで」

すごいです。はっきり言いますなぁ。



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ダーシーさんの年収は1万ポンド。親友のビングリー氏はその半分の5000ポンド、そしてレディ・キャサリンは6000ポンド。そしてエリザベスのベネット家は2000ポンドだそうです。


こう聞くと、ベネット家は貧乏なんだね、って思うでしょ。その日ぐらしなんだね、って思うじゃない?違うのね。

この人たちは、仕事をしないで、地代などで上がる年収入がこれだけなんですよ。
じゃあ、小作などの庶民はどれだけお金を稼いでいたかっていうと、だいたい100ポンド内外ということです。
それに比べたらすごいでしょ。20倍年収があるんだよね。

ですから、たとえ爵位はなかったとしても、イギリスのジェントルマンっていうのは、歴然としたお金持ち階級だったってことですね。

また、ダーシーさんは爵位こそないけれど、広大な荘園を持っていて財産は貴族並みにあったということです。


まぁ、今の日本の感覚でいえば、ベネットさんちのお父さんの年収入は2000万で、レディ・キャサリンの家の6000万にはおよばないかもしれないけど、平均的な年収のサラリーマン一家から比べたら、どっちもお金持ちじゃないですか。要はそういうことなんですよ。
それをことさらにレディ・キャサリンは「あなたの家のような低い地位の方と…」と貶めるけど、そんなの、本当の貴族から見たら、目くそ鼻くそって話だよね、ってこと。



でも、このまえ、書いた『ダウントン・アビー』のグランサム伯爵家というのは、たしかダーシーさんの年収より、ずっとずっと多かったような気もするんだけど…。(解説が書いてあったサイトが探しきれない!)
ジェントルマンのダーシーさんは財産は貴族並みにあったけど、
すごい貴族はもっとすごい!ってことです。

でもよく考えてみると、このジェントリの人々っていうのは、もともと先祖が貴族の次男か三男であった可能性もあるわけで、だからこそ、爵位はなくとも、これだけの財産を残すことができるわけですよね。
つまり例えば、3世代前の先祖が貴族の長男でなく部屋住みに甘んじて、その後、ジェントルマンの身分で生きていたとしても、また原嗣相続のお蔭で、本家に女ばっかりしか生まれなかったりすると財産が転がり込んで来る可能性もあるわけですね。

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あ、それで今気が付きました。
このレディ・キャサリンこと、キャサリン・ド・バーグ夫人っていうのは未亡人なのですよ。
ということは、この人は娘しかいないので、ド・バーグ家の財産っていうのは誰か、他の親戚の男にもっていかれているってことですよね。
それはもしかしてダーシーさんかなぁと。
でも、年収がどうして女所帯なのに6000ポンドも入ってくるのだろう???

(不動産の相続の際、限嗣封土権(fee tail)は、「男子のみ相続可能(fee tail male)」「女子のみ相続可能(fee tail female)」「特定の者のみ相続(fee tail special)」とあったそうです。)
→他のサイトに書いてありました。

相続の仕方にも違いがあるってことか…。



それでも、レディ・キャサリンは甥のダーシーさんと自分の娘が結婚するのが道義的にも正しいはずだ、と思っているんですよ。
それなのに、どこの馬の骨ともわからないエリザベスが、まるでトンビが油揚げをかっさらうようにして、自分の甥と結婚するのが許せなかったんでしょう。
この人の結婚観というのは、家の財産のために結婚するのですよ。
だけど、エリザベスはもうちょっと啓蒙された人間で、お互いに尊敬しあい、理解しあい、愛し合える二人だからこそ、結婚するんですね。そりゃ財産があったほうがいいに決まってます。




もともとイギリスは上流階級の人口がフランスなんかと比べてものすごく少ないんだそうです。

で。じゃあ上流階級と中産階級とどこが違うと思うでしょ?
それはたぶん、「働いているか」どうかなんだと思うんですよね。
いくらお金もちでも、商売していたら「中産階級」。そこに身分の差が生じるんでしょうね。

たしか、「ミス・ポター」って映画みたとき、ベアトリクス・ポターはジェントリだったのに対し、ユアン・マクレガーが演じていた恋人は印刷屋さんで働いていたので、ポターの家の人が「あんな家の男と!」って軽蔑していたのを思い出しました。


まぁ、こういう状態が第一次世界大戦が終わるまで続くのですね。
自由・平等・友愛と一言で言いますが、なかなか実現するのには時間がかかったってことですよ。




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元気なうちに考えておくこと [ひとつの考察]

生まれて初めて体験するようなすごい台風が過ぎ去った思ったら、息継ぎをする間もなく、
北海道に大地震が起こってしまいました。

うわぁ~、災害列島日本です。
なんか神様がお怒りなのですかねぇ。人々が慢心しているから?

いやぁ、そんなことよりわたしは日本人の和を尊ぶ気質が本当にすごいなと思います。
北海道の方々、みんなで水や食べ物を分け合って昨日は過ごされたみたいです。

それに、わずか一日で北海道の電気が3分の1復活したんですよね。
それってすごいことだと思います。

災害地のみなさま、お風呂に入れなかったり、お水がなかったり、暑かったり寒かったり、わたしの想像もつかないような、いろいろな困難に見舞われているとお察しします。一日でも早く、回復に向かうよう、切にお祈りいたします。



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さて、誕生日のことです。
こんな歳にもなりますと、誕生日祝ってもらうのもありがたいような、ありがたくないようなで複雑な気持ちになるのですが、でもやはり、つつがなく今日の日を迎えられたことに感謝しようと思いました。

これまでは、夫婦で外食してお祝いすることが多かったのですが、やはり寝る前の夜にお酒を飲んで、消化の悪いものを食べる、しかも夏バテしているときに食べると、ものすごく身体にダメージをくらっちゃうので、今年からは、外食じゃなくて、お昼に少しおいしいものを食べるのがいいなと夫にお願いしました。

夫は娘を招いて、ウナギをごちそうしてくれました。あと、デパ地下でかったちょっとしたオードブルと白ワインを飲みました。

わたし、本当にお酒が飲めなくなって、グラスに軽く一杯か二杯で十分でした。つくづく年取ったなぁと思いました。


で、まぁ、このように元気なときじゃないと話せないことを娘と三人で話し合ったのです。

実は自分たちが死んだあと、すなわちお葬式と埋葬のことについて話し合ったのですね。
わたしは、ここを続けて読んでいらっしゃる方はよくご存じだと思うのですが、籍だけは日本聖公会という教会にあるのですが、まったく教会に行っていません。

まぁ、それにはいろいろと理由があるのですが、今ここではあえて書きません。
夫自身も別に信じている宗教はないようです。

我々夫婦は、神様入ると思っているし、死んだあとの世っていうのも信じてはいるんだけど、それがそれぞれの宗教に縛られたくはないと思っているんですね。
つまり、神様はいるけど、神様というのはキリスト教とかイスラム教とか仏教の教義に定義されるものじゃないんですよ。ある程度霊能力のある人はあの世というか霊的な世界を垣間見ることはできたとしても、その奥義をきちんと理解しているとはとうていいいがたいのではないかと。

神は人間に認めてもらえなくても、また、きがついてもらえなかろうと、定義されなかろうと、また人間が滅び去ろうとも、て原初から存在して、存在し続けるものなんです。

ま、この話もあんまり深く掘り下げないでおこうと思います。深くなにかの宗教に帰依されて、その信仰をきちんと守っておられる方はそれはそれで大変尊いものだとも思っています。



で、お葬式のとき、お寺さんを呼ぶにしても、教会でミサをあげるにしてもえらくお金がかかるわけですよ。なんかそういうの、普通にやると軽く300万以上かかってしまうんで…。

昔はそれでもよかったのかもしれませんが、今は平均寿命も延びて来て、リタイア後の生活が厳しくなることも予想に入れると、そうそうそんな贅沢なことはしていられないんですね。

ですから、かなり前からあるところと契約して、必要最低限度の葬儀はできるようにしてあるんです。

棺とか、霊きゅう車とか、お骨にしてもらうにもそれなりにお金がかかるんですよ。

あと、お墓なんですが、わたしあの、石だらけのじめ~っとした墓場の雰囲気が好きじゃなくて。
それにいつまでも、骨壺に収められてかろうとの中で朽ち果てずに「ある」ってことが、なんとなくイメージ的に嫌なんですよ。

それで!最近、発見したんですが、樹木葬ってところがあるんですね。
まぁ、樹木葬というのもなんだかいろいろありまして、単なる墓場にお花を植えてあるみたいなものもあれば、桜の木の下にずらりと植えるもの、本当に人が自分のイメージする死後の在り方ってさまざまなんですよ。

わたしはできれば、あんまり長い時間自分がこの世を生きていたことを後世の人に知られたくないタイプね。ひっそりと忘れていってほしいのです。とにかく凡人ですので。


わたしが今、死んだら、大阪にあるきれいな薔薇園であるメモリアルパークにしようと思っています。
いろんな設定があるのですが、夫婦で入って、どっちも死んじゃって、最後の一人が13回忌を迎えたところで、合祀するというものらしいです。

わたしが死んでも生きてことを思い出してくれるのは子供ぐらいだろうと思うので、それぐらいがちょうどいいんじゃないかなと思うんですよ。墓参りも大変だしね。そのころ、子供がどこに住んでいるのかわからないし。
自分の眠るところが墓石じゃないってところも気に入っています。


ただ、やはり、公園を美しく保つ管理は結構大変なんじゃないかなーって思うんですよね。薔薇の花って手入れが大変だし。

まぁ、京都にもこんなふうなメモリアルパークができれば、大阪まで出向く必要もないんで、それはそれでいいんですけどね。でもしばらく様子見かなぁと思います。だって会社が経営破たんしたら、すぐにこんな霊園草ぼうぼうになって怖い感じになるものね。

それでも、それなりに死後の準備も怠りなくお金を貯めないといかんなぁとしみじみ思いました。

死ぬのも結構お金使って大変です。


娘に釘をさされました。
「万が一お父さんが先に死んじゃったら、お母さんしょっちゅうお墓に行って、勝手に珍しい薔薇とか植えたりして、公園の管理員の人に迷惑がられるタイプだよね。やめようね」

たしかにそうかも…。



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ピサンキづくり [ひとつの考察]

京都でも早いところでは桜が開花しております。
みなさまのところではいかがですかぁ~。


さてさて。
先日、わたしは京都ハリストス正教会というところへお邪魔して、
ウクライナのイースターエッグこと、ピサンキというものを作ってまいりました!!

京都ってところはね、仏教寺院が死ぬほど多いところなんだけど、
案外キリスト教会も多いところなんだよね。

でも、今回はそりゃおんなじキリスト教会でも、東方正教会でございますよ!
オーソドックスなのでございます。

ここでちらっと解説いたしますと、ローマ帝国にはもともとキリスト教会はひとつだったのですが、
東西にローマ帝国は分裂いたします。西は今のカトリック教会です。
東の、いわゆるビザンチン帝国で信仰されたのが、今日のオーソドックス(正教会)です。
もともと教義などは一緒だったのですが、長い年月が経つうち、どんどん枝分かれしていったといいますか、違って生きているのですね。

正教会はカトリックと比べるとたぶんに多くギリシャ哲学の影響を受けているし、もともとの原始キリスト教の形を深くとどめているということかしらん。

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めんどくさいことはこの辺にして、ピサンキにいきましょう。

イースターというのは、キリストの復活をお祝いするキリスト教の中では一番大切な行事です。
(クリスマスじゃないのよ~、知ってた~?)

本当のことをいえば、クリスマスもイースターのどの日だったかという記載はないの。
ただ、一年で一番日が短く、暗い日に、歓びが生まれたってことと、
春の到来にあわせて、芽吹くころに再生のまつりをする、ってことが人々の気持ちと一致していた、ってことが大事だったわけです。

で、再生の象徴である、卵をかざるわけですよ。

はい、で、作りましたです。
要するに、中身を抜いた卵があらかじめ用意されておりまして、
その上に蜜ろうを溶かしながら、絵付けをしていく、一種のろうけつ染めみたいなものなのです。

指導していれる先生が「は~い、では描きましょう!」ってあなた、
ちょっと参考にするデザイン画はないんですか?
「自由に描いていいですよ!」

は~い、ここらへんでわたしの中の裁断基準の針がキチーンと鳴りました。
1ディセミナーを二時間で終わらせるには、こんないい加減なことではいけませんよ~。

素人は二時間で無理なくやれるだろうというデザイン画をあらかじめ用意しておかないと~。
だって何もないところから考えるって結構難しいことなんですよね。

ですので、もうなんでもいいや、ってことでずんずんと蜜ろうを溶かして描いて行きました。
ただね、この蜜ろうってヤツが本当にチビチビしか描線がかけなくて、たんびたんびに蜜ろうを細かくちぎったものをイチイチ入れるのが本当にめんどくさい!

で、本当のこといったら、どんなに簡単なものでもいいからデザイン画をもらってそれをゆっくりと丁寧に描いて行けばそれなりにいいものが出来ただろう…とは思うのですが、なんにせよ、時間がない!
ね、ろうけつ染めなんで何回も染織を繰り返し、また蜜ろうをかけて染まって欲しくないところをカバーしていくわけですよ。いや、そんな気の遠くなること、二時間じゃないできなぁあ~い。しかも最後は描いた密ろうの線を蝋燭の火でちびちび溶かして、拭き取らなきゃならないんです!!


IMG_1125.jpg



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が、とりあえず、やけくそになってやってみました。

これですよ!

IMG_1143.JPG

やけくそなのに、二個も作っているわたしの根性って~!

まぁきれいなものが出来るに越したことはないが、それだったら買えばいいだけの話です。
でもね、こういうのは迷った時、赤に染めるに限る。
赤ってやっぱりきれいで派手な色なんですよ!


文句ばっかり言っててごめんなさい!でも、楽しかった!



正教会の婦人会のみなさんはとても親切で、4日に復活祭のお菓子、クリーチ(イタリアのパンのパネトーネとほぼ一緒)を作られるそうで、正教会の信者じゃないわたしもお手伝いしてもいいよ、と許可を頂きました。


行きたいんだけど、実はねイマイチ体調が良くないんですよね~。
行けたらいいなぁ~。
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BO-SAN [ひとつの考察]

ここ、ニ三日、本当に4月のようにあったかい日が続きましたね。
日の光の明るさが違います。

こういう明るい日差しを見ただけで人間って心が晴れ渡っていくもんですね。

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さて、わたしもここしばらく編み物疲れっていうんでしょうか…。
多少、うんざりしてきたんですよ。マンネリのような気がして。

こういう時は別のことをするべきなんです。

そ、こ、で!

文芸のほうにとりかかろうかなぁ~という気持ちになってきました。

で、今回はプロットがすでに決まっておりまして、室町時代にしようかと。
能のような、あるいは上田秋成の『雨月物語』のような、ああいう雰囲気いいなぁと
思って、資料を集めております。


で、能にはかならず諸国一見の僧っていうのがでてくるんですよ。
冒頭に「これなるは~、旅のひじりなり~」って、その一言だけなのですが
わたしはどうも、細かいこと調べて自分がその世界をある程度頭の中で構築しないと
書けないタイプなんですよ。

で、意外と日本のしつらいとか風俗とか装束って書けそうで書けない。

第二次世界大戦後の日本ってそれまでの日本の世界とかなりかけ離れているんですねぇ。

室町時代は今の日本文化の直接的な祖先ってことらしいです。
室町時代になってはじめ畳を部屋に敷き詰めたらしいです。
そしてこの時代に完成した『書院づくり』っていうのが、今の日本間の基本のような気がします。

そして、知っているようで知らないこと。
それは『お坊さんの生態』じゃないですか?

わたしの住んでいる京都なんて、それこそ犬も歩けば、棒じゃなくて、寺に行きついてしまうくらい
そこたらへんにうじゃうじゃうじゃとお寺があるというのに、わたしときたら

うちの身内が亡くなったとき、どんなお経を読まれていたのかとか
宗派によって坊さんの格好が違うのかとか
なんだかいろいろとあるだろうに、知らない…。


昔、雪が降ったら今みたいにダウンがないんだし、どうやって凌いでいたのだろう?

夫に「ね~、昔の人がさ、雪のときに着る、ほら~、日本海味噌のゆきちゃんが被っている、合掌造りの屋根みたいなん、頭にのせとるやん、アレ、なんていうん?」と訊きました。

「合掌造りの屋根…。いや、あれは簑(みの)というものじゃないの?」

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あまりに、お坊さんに対して無知すぎるので
この本を読むことにしました。



室町お坊さん物語 (講談社現代新書)

室町お坊さん物語 (講談社現代新書)

  • 作者: 田中 貴子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1999/06
  • メディア: 新書



1999年に出版されたもので、ちょっと古いのですが、とても参考になりました。
この本は南北朝時代の天台宗の鎮増というお坊さんの手記なんですが、結構面白い。

わたしは天台宗といったら天台宗、顕密であってありとあらゆる仏教の経典に精通しているお勉強系に強い宗教なのだと思っていました。

ただそれは天台宗のある一面であって、中をのぞいてみるといろいろな決まりを奉じる、いろんな流派が比叡山の中に混在しているということを知りました。

幕末で有名な『金戒光明寺』は俗に京都の人間は「黒谷さん」と呼びますが、実はあれは比叡山にある黒谷を本拠地にしていた『黒谷流』というのが、比叡山の闘争に敗れて、この地で旗揚げしたのですね。
あと三井寺も有名なお寺です。そういったお寺と比叡山は仲が良いのだと思っていましたが、実は仲たがいした結果なのだと知りました。

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面白いのは、比叡山にはいろんな厳しい修行があることです。

『千日回峰』というのはわりと世の中に知られている荒行だと思います。
そのほかにも実は、比叡山にはもっと過酷な行でしられている『十二年籠山』というのがあるのです。

そして天台宗で修行しているお坊さんのブログを読んでいますと、やはり今でもこの『十二年籠山』行っていうのはあるらしいです。

どんな行かというと、めんどくさいので、これを読んで。
http://ssk.doorblog.jp/archives/16881512.html


だいたいこの行にパスするためのテストが本当に鬼畜ですよねぇ。
ほとんど眠らせないで、瞑想していると仏が見えて来る…。

それって脳が睡眠とらないことによって疲弊してバグって見えるのでは…?な~んていうと
殺されそうですが、昔のお坊さんってこういう観想みたいな行をよくやられたようです。

こうやって人間を極言の状態においやることによって、別の次元に魂は移行してしまうという
そういうトリップをしてしまうらしい。

実際のこの行をやっておられた方は、三回ドクターストップをかけられたほどなんだとか。
そして十二年とはいうものの、後釜が決まらないうちは続けなければならないという掟により、結局二十年、行をなされたわけですよね。う~ん、人生の一番いいときをこ~んな地味で辛い行に耐え抜くその精神力っていったらないと思います。

あと、坊さんの衣装とか…。袈裟にも五条袈裟とか七条袈裟とかあるらしいです。
わたしが住んでいるのは西陣ですので、着物関係を生業としているおうちが多かった。
そこで「宗教衣裳」というおうちがあってそこの人曰く、
「坊さんの衣装ってすごくお金かかっているもんだし、なんかの法要があると、新調されて結構それで昔はもうかっていたんだけど、最近のお坊さんはそういうことはどうでもいいらしくて、衣装のことになると極端に吝い(しわい)」とボヤいておられましたっけね~。

私たちが連想するところの墨染の衣というのは、要するに作務衣よりもうちょっとマシぐらいの作業着なのだそうです。

ああいうので、法要するのはナシなんだそうです。ふうん。

知れば知るほど、興味は尽きませんね。
こうなったら、全く創作とは別なのですが、面白いです。


夫がこんなのどう?と見せてくれました。



美坊主図鑑~お寺に行こう、お坊さんを愛でよう

美坊主図鑑~お寺に行こう、お坊さんを愛でよう

  • 作者: 日本美坊主愛好会
  • 出版社/メーカー: 廣済堂出版
  • 発売日: 2012/03/01
  • メディア: 単行本



イケメンのお坊さんかぁ~。
まぁ、癒し系というのはわかるけど、「クリーミー系」とはどういう感じなのでしょうか?
クリームのように『濃い』北村一輝顔なのでしょうか?
あるいは甘~いお顔なのでしょうか?

ああ、どうしても読みたくなります。

んで、わたし、レビュー読むのも好きなんですが、
ポジティブなレビューより、ネガティブなレビューのほうが断然面白い。

>はっきり言って気持ち悪い。昔の美しい顔をされた僧侶が女難の相があるといって、自らの顔に傷をつけたりという話があるのに、この本に出てる坊さんは、俺ってかっこいいだろ的な顔で撮られている。坊さんやめてくれと思う。
こんな本を布教の一環などというのはやめていただきたい。仏教とは何の関係もない。坊さんコスプレのただのハゲたちの本。

ただのハゲたちの本…! 爆笑です。

>日蓮宗の糞坊主どもが釈尊と日蓮の遺言である戒律を破る破戒僧へと超変貌した証拠!
中尾堯が日蓮の遺文や生涯を研究しても、日蓮宗の坊主は学者任せのマニュアル坊主だ!
こうした事を俗世に顧み、出家後の妻帯を持つのも仏罰は免れない!
仏罰は生きているときに起きる現症で無く、死直後に起きる現症である!
鳩摩羅什三蔵を真似ても、鳩摩羅什三蔵のような僧侶でありながら翻訳したり、講義したり、説法できる僧侶は日蓮宗を含むすべての宗派に及び出来る僧侶は存在しない!
般若湯と遊蕩を好む日本の坊主には、糞坊主・海坊主の名が相応しい!

フフフ、激しくていいですね、こういうのも好きです。

たぶん、一回読んで「へぇ~!」でポイする本だとは思うのですが、中古で1円で売っていました。思わずぽちりそうで怖いです(笑)
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自己認証欲求とパワハラ ⑤ [ひとつの考察]

今日は、ちょっとまた見方を変えて、
職場全体について考えてみたいと思います。

あなたと上司の二者間の問題でも結構辛いのですが、
それが職場の人間全員の知るところとなり、
あなたは上司に八つ当たりされ、なぶりものにされてもいい人間なんだ、
という認識が職場全体に蔓延するのも結構きついです。

どうしてそういうことになるか、というと
やはり他の人間はあなたをいじめている上司が恐いので
その巻き添えにはなりたくないし、

また、そうやってずっとあなたを上司がいじめている状態が続きますと
みんなそんなもんだ、と何も疑問に思わなくなるという環境になってしまうのです。

人間って、実は右か左かっていう、決断を目の前に突き付けられると
その右か左を選ぶことにすごく葛藤が生じるんですね。

あんまり自分でそういう葛藤が生じる責任のある決断をしたくないのです。
で、なんとなく上司があなたをいじめているのをみなが見過ごしているのなら、
それが正しいんだ、で思考停止して問題を棚上げにしてしまう傾向があるのです。

あとですね、集団の中のひとりとして存在している自分と
個人で行動している自分とは少しく、心理状態が違うのです。

自分ひとりでは絶対にやらないことでも、一つの集団になると
群れ意識ができるというか、その集団の中での結束力が強くなり、
排他的になりやすいものです。

ですから非常に仲のよい職場に新たに赴任してきた新人が
ちょっと今まで在籍した職員と毛並みの違う人だったりすると
排他的になっている人々はますます結束力が強くなり、
その人を排除しようと躍起になったりするものです。

ですが、ここはもともと仕事をするところであって、
自分と意見を異にする立場の人間であっても、ビジネス・マナーはきっちり守って
お互いにそれなりの敬意を払って仕事すべきなのです。

どうもこの群れ意識に支配されいると、本来絶対に守らなければならない
こんな大事なことをすっぽりと忘れがちになる人は案外多くいるような気がします。

また、こんな場合はパワハラをする人間は上司に限らず、
長いことそこに勤めているパートのおばさんなどが実際の影の権力者だったりすることも
よくある話です。

新しく赴任してきた上司にこのおばさんが、非常に無礼な態度をとって
職場の雰囲気が悪くなるということも多々あります。
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自己認証欲求とパワハラ ④ [ひとつの考察]

みなさん、こんにちは~。

考えてみれば、昨日が冬至だったんですね、一年で一番日が短い日。
イエス・キリストが生まれたのは12月25日ってことになっていますが、
それはね、キリスト教が広まる前、ヨーロッパで信じられていたドルイド教の影響なんです。

本当はキリストの誕生日は今のクリスマスの、12月25日じゃない。

ただ、一年で一番闇が深い日、その日に神さまは人知れず地上に
自らの分身でもある彼を贈った。

そういう一縷の希望を見出す日なのです。

あ、ついでにいうと巷ではよくX'mas って表記があるの見かけるけどアレ、間違いだから。

本当はXmasです。

Xっていうのはたぶんギリシャ語の「ハリストス」の頭文字だと思う。

クリスマスはChristmasなんであって、そこには省略形のアポストロフィは入らないんです。

よろしい?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さてと、前回は上司からの故のない叱責はどう起こるかってことをお話ししました。
多分に自己を正当化して、自己認証欲求に駆られた叱責と言うのは
とどまることを知らない。

そしてそれは単に、その人を満座の前で恥をかかせた、という以上に
眼には見えない深い深い、心の傷をその人に負わせてしまうことになるのです。

厄介なのは、この叱責から逃れようととうとう会社を辞めたとしても、
なにかの拍子にこのぬぐいがたい、無力感とか罪悪感がむくむくともたげて来て
本来ならうまくいくはずのことも、うまくいかなくなる、
っていう悪循環に陥ることが多々あるということです。


職場のいじめがエスカレートして、誰も自分の見方をしてくれないとき、
そんなときは本当につらい。

ですが、勇気を出して言って欲しいときもあります。
「やめてください!」と。

そうじゃないと、いじめはさらにエスカレートしていくことにもなります。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、ちょっと話はそれるのですが、ここでちょっと「メタ認知」ってことも
考えて欲しいと思うのです。

叱責というのは、ミスを犯した人自身に問題があるはずのものなのですが、
ここでお話ししましたように、
ミスをした以上の度の過ぎた叱責、あるいはいじめに対しては
決してあなたの資質が問題なのではありません。


私も実を言えば、学生から社会人になって3年間、
パワハラに会っていました。


だから常に「自分のどこが悪いんだろう。自分のどこを改めたらなら、上司がにっこり笑ってうんといってもらえるのだろう」という今から思えば、自分を抱きしめてやりたいくらい、そのころの私は健気に悩んでいました。

ですが、今だから言えますが、いじめを受けている人間というのは、
単に力が弱くていじめても誰にも文句も言われず存分に痛めつけられることができる実に都合のよい存在だから、いじめているにすぎないことがほとんどです。
そして、周囲の人間もあなたを庇って、上司を諫めることができません。自分が巻き添えを喰らって、新たなターゲットにされてはかなわないからですね。

そういうふうに周囲がこういう図式に対して無関心になると、ますます上司は増長しますね。



それはともかく、
本当は、いじめている側の内面にはもっと大きな問題があって
それでイライラしているのに過ぎないんですよ。

だから、今ここで起こっているいじめの相関図をもっと高い位置で俯瞰してみる、
そういう「メタ認知」ってことに思いを馳せて欲しいのですね。


今、クドクドと怒っているあなたの上司は
実は奥さんとうまくいってなくて離婚の危機にさらされているのかもしれないし、

あるいは独身で、仕事するしか自分に選択がなく、休日なんかはひとりで惨めにごはんをたべなきゃならない、で泣いているかもしれませんしね。

まあ、いろいろと問題があるのですよね。
要するに八つ当たりをしているのです。
しかし、あなたがこの人の生きたサンドバッグになる必要なんて全然ないのです。

「やめてくれ!」とはっきり言いましょう。まずはそこからなんです。

「どうせ、そんなこと言っても無駄」と思っている人も多いと思います。
確かにそういう人には言っても無駄なことがほとんどだとは思いますが、
まずは「やめてください」といいましょう。


「お叱りは受けますが、そんな暴力的なことばを使わないでください」と
勇気を出して、まずは言ってみること。自分の決心を表明すること。
これだけでもあなたの上司は「?」と思うはずです。

そう声に出すことで、あなたの上司は「こいつのために叱ってやっているんだ」
という都合のよい自己陶酔から覚めることができるのです。


そして脳の監視機能が遅ればせながら働き出し、「うしろめたさ」という
いやな気持に襲われるはずです。


それがパワハラから逃れる第一歩なのです。
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自己認証欲求とパワハラ ③ [ひとつの考察]

皆さん、おはようございます。

気がつけば12月も今日は21日ですね。今年も残す所あとわずかです。

このトピ、結構思いつきで書いて、本来なら
ベルばらの二次に興味ある方しか、このブログにたどり着くはずのないものだと思うのですが、
思いのほかよく読んでくださっているようです、


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
わたし、常々思いますに、

お仕事って、結局のところ、「お金を稼ぐ手段」なんだと思うのです。

世の中には、お医者さんや看護師さんなど居なくてはならない人々もいらっしゃいます。
それはそれで本当にありがたいことだと思うんです。

こういう方は時としてはお金のことを度外視して働いておられる場合も多々あると思います。


でも、世の中というのはわたしのように、平凡でたいした能力がなくても
働かなくては生きてはいけない世の中なんですね。

ですから職場で「ごくつぶし!」とか「給料泥棒!」とか
酷いことばをなげつけられて、じっと我慢している人もたくさんいるかと思います。
でも、そういう酷いことばをなげつけられていると、いつのまにかその人は
「自分はそういうことばをなげつけられても仕方がない人間なんだ」と
怒りのこぶしを下ろして、がっくり肩を落として生きる気力も目的もなくなってしまうことがあります。

でも、この世の中、どんな人もそんなふうに裁かれて、尊厳まで失って生きていくことは間違っていると思います。

それは許されないことなんですよね。

日本国憲法も言っていますよね。「基本的人権の尊重」

人は自分が幸せになるために生きて行ってもいいんです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、前回はどのような仕組みで人は気持ちよくなることをやめられないかをお話ししました。

自前で調達することができる麻薬物質ドーパミンがでることで、
人は脳に快楽を感じるということです。


ドーパミンは、早い話が頑張ったとき生成されるのです。

でも、図らずも最近はネットと言うツールがでてきたことで
自己認証欲求が満たされることを偶然に知り、
そういうSNSの依存をしている人が多い、って話をしましたよね。



今回は少し、本題の核心に少し触れていくのですが、
ドーパミンって他にも出ることがあるのです。

ふつう、「怒る」っていうか人を叱責するときっていいうのは
決していい気持ちにはならないものなのですね。

子供を叱ったときが、親御になられた人ならわかると思いますが、
叱るという行為は案外親も疲れると感じたことがありませんでしか?

子供にうわ~んと泣かれたりしたら、
「ああ、可哀そうだったかな」とか「いいすぎたかしら?」と
反省されることもあるのは当然です。


人ってもともと頭の中にそういう自分の行動に対するチェック機能があるもんなんですよ。
どうやってそれを知らせるか、というと
なんとな~く嫌な気持ちになるんですよ、後ろめたくなるとか。


ですが、ときとしてそういうチェック機能が働かなくなる場合があります。

それは自分の行動は正しいのだ、相手のためを思ってやっているのだ、
と制裁することに対して、「これこれ正しい理由で自分は正しいことをやっているんだ」と
思えた時ですね。

こういう場合がちょっと厄介です。

たとえば、上司が部下であるあなたに
「叱ってやっている」「あなたのためを思えばこそ、愛の鞭をふるってやっている」という
理由付けをして叱責の名を借りて、いじめをしているとき。

こういう時には反対にドーパミンが出るんですよね。

こういう人はね、結局自分では気がついていないけど、
自分の快楽に溺れているんです。

これは本人はあなたをいじめているという意識すらないですから
いつまでも、いつまでも繰り返しますね。
そして、説教をしたりすると、ますます自己認証欲求も満たされて、
「わたしはこの職場にはいなくてはならない大事な人間なんだ」とますます増長してしまう、
という悪循環が出来てしまうのです。

そして、毎日叱責されると、その職場は硬直します。
みんなその人に、あなたのように度外れの叱責をされるのがいやなので、
あなたはますます孤立します。

ですが、こういう職場環境は非常によくない。
だってそういう特定の人を精神的にやり込めて毎日毎日すぎていくとすれば、
職場では一番大事な相互の信頼関係がなくなってしまうし、

なにより、「この職場は病んでいる」という認識すら、あまりに毎日執拗に繰り返されていることで、わかんなくなってしまうことも多々あります。


わたしは以前、石森章太郎の『サイボーグ009』をひさかたぶりに、それこそ
ん十年ぶりで読んだことがあるのですが、なにかと言うと「女のくさったような奴」という
セリフがしょっちゅうでてくるんですよ。

この漫画が連載されている当時は「女の腐ったような奴」ということばは
頻繁に使われて過ぎていて「別段どうってことないじゃん」と思っていたのだと思うのです。

ですが、そういうことばを禁止されて淘汰されたあと、この漫画のこの文句を読んでいると、
いかに侮蔑度が強い、聞くに堪えない汚いことばであるか、っていうことが
よくわかります。

同じように、この職場は毎日、上司の行き過ぎた叱責に慣れ過ぎて
いかにそれが尋常ではない非人間的なことが毎日行われているかってことを
問題にもしなくなってしまうのです。


これが、この問題の一番怖いところです。

そして、いじめられた人はひとり、どんどん追い詰められて、時には「自裁」という行為にまで及びます。

そして人がひとり死んで初めて、周囲や上位の管理職の人間たちが
そこで非人道的な行為が行われていたかを知るわけですが、

失われた命が戻ってくるわけじゃないですよね。





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