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境界の旅人42 [境界の旅人]

終 章 

 辰造の手術自体は成功したが、その後二度と目を覚ますことはなかった。
 父親の突然の死に悲しみに浸る暇もなく、玲子は葬儀の喪主を務めなければならなかった。話し合う機会を逸したままだったが、行きがかり上、ファレドも辰造の告別式に列席することになった。

 式には人徳者だった故人を偲んで、近所の人や織物関係の仲間など大勢が参列した。美月をはじめとする茶道部の連中も列席していたが、おじいちゃん子だった由利の悲しみを慮ってか、声をかけずにそっと遠巻きに眺めるのみだった。

 そのあと、玲子とファレド、そして今やそのふたりの娘と確定した由利の三人は、火葬場へ行ってお骨が上がるまで、施設に設置された喫茶店でお茶を飲みながら待っていた。玲子とファレドはしばらく無言で座っていたが、とうとうたまりかねたように玲子が口を開いた。

「ねぇ、ラディ。この際だから訊いていい?」

「ドウゾ。何ヲ訊イテモ構イマセンヨ。隠スコトナンテ、アリマセンカラ」

 ファレドは男らしく断言したが、それでも緊張していた。

「ヤスミーナと婚約していたというのは本当なの?」

「アア、ヤッパリソノコトナノデスネ」

 ファレドは大きく息を吐いた。

「やすみーなハ、モトモト親同士ガ決メタ許嫁デシタ。彼女ハ、ワタシト違ッテ、あるじぇりあデ生マレ、ソコデ育ッタ人デス。あるじぇりあデハ、娘ハ親ノ財産デス。結婚モヒトツノ立派ナ取引ナノデス。娘ヲ娶ル婿側ハ娘ノ家ヘ多大ナ持参金ヲ支払ワナクテハナリマセン。デスカラ当ノ娘ガ勝手ニ恋愛ヲシテ純潔ヲ失ウト、価値ヲ失ウノデス。やすみーなノ行動ヤ考エ方ハ、オソラク、彼女ノ住ンデイル世界デハ、当タリ前ナノカモシレマセン。シカシワタシハ、二世トハ言エ、ふらんす人デス。ふらんすデ教育ヲ受ケタ人間ナノデス。ソンナ前時代的ナ価値観ハ受ケ入レラレナイ」

 ファレドは滔々と玲子母娘に説明をした。

「ダカラワタシハ、許嫁ノ話ハ撤回シテクレト彼女ト、ソノ両親ニ何度モ説明シマシタ。ソレニ伴ウ違約金モ、キチント求メラレタダケノ額ヲ払イマシタ。ソシテ私ハ彼女ニ、自分ニハ人生ヲ分カチ合ッテ行イキタイト願ウ恋人ガイテ、近々結婚スルツモリダト言イマシタ。ソレデモ頑ナニ、やすみーなハ信ジヨウトシナカッタ。ダカラ嘘デナイコトヲ証明サセルタメニ、アナタノ写真ヲ見セ、名前モ教エタノデス」

「ああ、だからなのね…。ヤスミーナは私に会いに来たのよ」

「エエッ! ナント…! ソウダッタノデスカ!」

「ラディ、あなたを返してくれと…。そうじゃなかったら、あなたやあなたのお父さんも面目や信用を失うんだって脅されたわ」

 ファレドはそれを聞いて、しばらく呆然としていた。

「マサカ、彼女ガワタシの教エタコトヲ悪用スルトハ…。アナタニソンナ屈辱的ナ思イヲサセテイタナンテ。アア、何テココトダ! 玲子、ドンナニカ辛カッタデショウ? 許シテクダサイ。やすみーなヲ諦メサセルツモリデヤッタコトガ、裏目ニ出テシマッテイタナンテ。私ハ思慮ガ足リナカッタ…」

「ラディ、女はいざとなったら、どんなことでもするものよ。ヤスミーナはわたしに絶対に他の人間に渡したくなったのね」

「ソンナ考エ方ヤ感性ニハ、トテモジャナイガ、ツイテイケナイ。タトエワタシガ、玲子ト出会ワナカッタトシテモ、彼女トノ結婚ナド、考エラレナイ」

「ヤスミーナは、魅力的で美しい人だったわ。それなのにラディは、何の未練もなかったの?」

 今でもそのことに引っ掛かりを感じている玲子は、ラディに質問した。

「玲子! アナタハマダ、自分ノ美シサヲ疑ッテイルノデスカ? コノ世ノ中ノ美ノ形態ハ、多様デス。やすみーなハ花デ例エレバ野生ノ蘭デス。美シイケレド猛々シイ。シカシ私ハ、ソンナ花ニハ惹カレナイ。私ハ日本ニ咲ク一重咲キノ花ノホウガ、ズットズット自分ノ心ニ叶ウノデス。玲子、アナタハ私ニトッテ、桜ダ」

 それを聞いて、玲子は思わず顔に両手を当てて号泣した。ファレドは少しためらっていたが、泣いている玲子の肩に自分の手をそっと重ねた。

「コンナ時ニ不謹慎デスガ、今言ワナイト一生後悔スルコトニナルト思ウノデ、ハッキリト言ウコトニシマス。玲子、愛シテイマス。デキルナラ、今デモアナタト結婚シタイ。コレハ捨テルコトガデキズニ、ズット大事ニ保管シテオイタモノデス」

 ファレドは自分の内ポケットから、四角い箱を取り出した。

「玲子、コレハ私カラアナタヘノ愛ノ気持チデス。モハヤワタシト一緒ニナッテクレトハ言イマセン。デスガ、是非受ケ取ッテ欲シイ」

 ファレドがそっとふたを開けると、ショーメで誂えた繊細な細工のダイヤの指輪がそこに収まっていた。

 ついにファレドへの誤解も解けたのだが、だからと言って、何もかも昔のようには行かないのだと玲子は言った。

「だって私は日本で仕事に就いているのだし、あなたはあなたでナンシーの大学教授の仕事があるでしょう? やはり今の世の中は、ただ愛にだけ生きるようにはできていないと思うのよ。だからあなたとすぐには、結婚できないわ」

 玲子は東京へ帰る晩に、ファレドへこう告げた。

「ソウデスカ。残念デスガ、仕方アリマセンネ」

 ファレドは玲子の立場を理解したが、それでも切なそうだった。

「ラディ。私たち、十六年以上も離れていたの。その間、お互いいろんなことがあったはずよ。どちらかがどちらかのために、自分のこれまでのキャリアを捨ててしまうのは、決していい結果をもたらさないわ。そうよ、急にすべて何もかも元どおりになんかならない。段階的にお互いが納得できるような何らかの対策を講じていかないことには。……だからラディ、また、最初からやり直しましょ?」

「ヤリ直ス?」

「ええ。まずはもう一度友達の段階から始めるの。何事も時間がかかるものだわ。でも今は昔より格段に便利な世の中よ。話そうと思えば、毎日お互いの顔を見て話すことだってできるもの」

 玲子はにっこりとファレドに向かって笑った。よく見れば、玲子の左の薬指にはファレドから渡された指輪がはまっていた。




 ファレドは玲子が東京へ去ったのち、是非にとせがまれて、しばらく辰造の家で実の娘と一緒に暮らすという貴重な体験をした。だが責任ある仕事を抱える身なので、そういつまでも日本で由利と一緒に過ごしているわけにもいかなかった。

 フランスへ帰る前の晩にこの風変りな父と娘は、これまでと同じようにちゃぶ台を囲んで、手作りの夕餉を食べた。

「パパ、寂しくなるわね。とうとう帰っちゃうんだね」

 由利はもはやファレドさんなどと他人行儀には呼ばず、パパと呼んでいた。

「由利、本当デスネ。モットモット一緒ニイテ、オ互イ、イロンナコトヲ教エ合イタカッタデスネ。由利ガ作ッタゴ飯ハ、本当ニオイシカッタデスヨ。ふらんすニ帰レバ、コレガ食ベラレナクナルカト思ウト、非常ニ寂シイデス」

 ファレドも娘との別れは辛そうだった。

「ねぇ、パパ。お願いがあるの」

 突然由利は改まったように言った。

「何デショウ?」

「実はね、あたし、この三月で高校の一年生の単位を全部取得できるのだけど、それが終わったらナンシーへ行きたいと思っているの。どう? パパはそれに賛成してくれる?」

 ファレドは突然の申し出に驚いた。

「ナゼデスカ、由利? マダふらんす語ガ話セナイデショウ? ソレデハ向コウノりせニ転入スルノハ無理デス。タシカニぱりニハ日本人学校ハアリマスガ、なんしーニハ、ナイノジャナイカナ?」

「それについては、あたしなりに対策があるの。残りの高校二年間の単位を通信教育で受けることにします。そして日中はフランス語学校へ通うわ」

「デスガ、何ノタメニふらんすニ来ルノデスカ?」

「理由のひとつはね、すごく単純なことだけどパパのことが好きなの。もっと一緒にいたい。そしてもっとパパのことを知りたい。それにね、パパから直接絵を学びたいの」

「ワタシカラ、絵ヲ?」

「そうよ! パパの絵は素晴らしいもの。ダメ?」

「ダメジャナイデス。ソウ言ッテモラエルノハ非常ニウレシイ。デモ日本ニダッテ、独自ノ芸術ガアルデハナイデスカ? ソレヲ学バナイデ、ふらんすヘ来ルノハ、何トモ惜シイコトダト思イマスヨ」

「うん。それもわかってる。それでもあたしは、自分がこれまで育った国を一度外から見る必要があると思うのよ。そうすればより深く、この国のことを理解できると思うの」

 ファレドは答えに詰まってしばらく沈黙していた。

「デハ、マズ玲子ニモ話シテ、承諾ヲ得ナケレバナリマセンネ」

無理にしかめっ面を作ろうとしても、本音の部分は隠し切れないと見え、ファレドは望外の喜びに輝いていた。




 由利は自分の決意を常磐井にも伝えなければならなかった。

 ふたりは春も近い二月の半ばの日曜の昼下がりに、またいつものように船岡山で待ち合わせた。

 案の定常磐井は由利の計画を知って、口から火を吹く怪獣のように激怒した。

「由利、なぜだ? どうして? きちんとオレが納得できるように説明してみろ!」

「ああ、美月もきっと今の常磐井君みたいに怒るんだろうなぁ」

 由利は少し茶化して言った。

「当然だ。加藤だって、そりゃあ、絶対に怒るさ。あいつだっておまえの親友だと思っているだろうからな」

「うん。ごめんね。今あたしがやろうとしていることは、常磐井君や美月の気持ちを踏みにじることだとよくわかっているの」

「じゃあ、何で?」

「でも自分の心がそう命じるのよ」

「何もよりによってこのタイミングで、高校を辞めてまでフランスに行かなくてもいいじゃないか? フランスへは大学か院で受験するとか、他にも方法はいろいろあるはずだろ?」

「うん…。そう言われちゃうと返事のしようもないね」

 ふたりの間にしばらく重苦しい沈黙が続いた。

「常磐井君、今でもあたしのこと、好き?」 

 由利は単刀直入に尋ねた。

「もちろん!」

「それは前世があたしと恋人同士だったから?」

「……よくわかんねぇけど、それもあると思う」

「でもあたしはね、そういうの、ナシにしたい。何の疑問もなく、誰かがお膳立てした道をただ歩む人生って納得できない」

「待ってくれよ! オレはもっと真剣に由利との将来を考えている!」

「でもね、うちの両親を見てよ。ふたりは昔、熱烈に愛し合っている恋人同士だった。だけど結局、ごく些細なことが原因で別れてしまったじゃない? 恋愛っていっときは、ものすごく燃え上がるものかもしれないけど、その火を生涯、常に変わることなく燃やし続けていくのは並大抵のことじゃないと思うんだよね」

「由利、オレはそうなれるよう、努力していくつもりだよ」

「うん。常磐井君は誠実な人だもん。そのことばに偽りはないと思う。だけどね……。あたし、やっぱりまだ、三郎のことを忘れてはいけない気がするんだ」

「由利、あれは七百年も前の人間だぞ!」

「うん。もちろんこれは恋愛感情じゃない。だけど彼がああなったのは、あたしにも責任の一端がある」

「責任の一端? ねぇよ、そんなもん! クソ喰らえ!」

「常磐井君、あたし、三郎のことを悼みたいのよ」

「何だよ、それ?」

 常磐井は苦り切った表情で手を組み、ぷいっと顔を横に背けた。

「常磐井君。ねぇ、聞いて」

 由利は改まった調子で、常磐井に語りかけた。

「あなたはもともと人から愛される要素をたくさん持っている人よ。わかるでしょ、自分でも……。あなたには太陽みたいにキラキラした活力がみなぎっていて、人を惹きつけずにはいられない。常磐井君だったら、誰でも容易に好きになれる。でも今のあたしは、もっと孤独な人の心に寄り添っていたいの」

 そう言ったとたん、それまで曇っていた空が急に晴れ渡り、雲の切れ間から一条に光が差した。そして心地よい風がさああぁとふたりの間を流れて行った。



―三郎?



「由利! どうして自らに枷を掛けるような道を選んでしまうんだ? 絶対にそれは間違いだぞ?」

 常磐井は納得できない様子だった。

「ねぇ、常磐井君、あたしたちが運命に導かれた宿命の恋人たちなのなら、あえてそれに抗ってみない?」

「え、どういうことだよ?」

「もしあたしたちが本当に何度引き裂かれても、めぐり合うことが運命づけられているなら、ここで一度別れても、絶対に再び出会ってお互いを求め合うはずだと思うの。だから」

「だから……?」

「あなたはきっと立派な武道家になる。あたしはまだ、こうなりたいって将来は決まっていないけど、今から懸命に努力して、自分が納得できる道を探し出すつもりよ」

「由利、何でなんだ……?」

 常磐井は苦しそうにつぶやいた。

「そうやってお互いの道を別々に歩み続けていても、宿命が命じるのなら、あたしたちはきっともう一度出会えるはずよね? わたしはそれに賭けてみたい」

 花のように由利は微笑んだ。そして常磐井の胸に手を当てると思いっきり背伸びをして、相手のくちびるに初めて自分のほうからくちびるを押し当てた。

「由利…」

 常磐井は目を大きく見開いたまま、ただ相手の名前をつぶやいた。由利は彼から二、三歩離れるともう一度口角をぎゅっと上げた。その瞳は潤んだせいで日の光に反射して、濡れた石のようにきらめいた。

「常磐井君、大好きよ。愛している、心の底から」

 ふたりはこれ以上ないほどしっかりと抱き合って、お互いの瞳を見つめ合った。

「ふたりに結ばれている絆を誰よりも強く感じているの。だから、あなたも信じて。その日がきっと訪れることを……。わたしたちが再び出会えるその日を―」

                ―完―



読者のみなさまへ

この小説はフィクションですが、京都案内という意味を兼ねまして、一般の方々がご利用できるお店や場所・地名などは一部実名で書かせていただいております。一方、由利や美月の通う「桃園高校」および、宗教団体等はすべて架空です。そしてこの作品に出てくる宗教的概念もすべてフィクションであることを予めご了承ください。








皆さま、最後までおつきあいくださいまして、

本当にありがとうございます!


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境界の旅人41 [境界の旅人]

第11章 跳躍

4

 祖父は坂上田村麻呂さながら、唐綾威(おどし)の甲冑に身を固めていた。背中では儀式用の鏑(かぶら)矢(や)ではなく、実戦用の征箭(そや)を刺し、刀全体と帯取りの鎖には銀で飾られた兵庫(ひょうご)鎖(ぐさりの)太刀(たち)、そして短い腰刀を佩(は)いていた。

ヴィグネーシュヴァラは辰造を見ると、ハッとして深々と頭を下げた。

「そうだ、失念しておりました。これはご無礼なことを。大将軍さま、あなたさまがいらっしゃいましたね。この都はあなたさまのような清い気で護られるのが一番です」

「お、おじいちゃん! ど、どうして?」

 あまりのことに、由利は身がわなわなと震えていた。

「由利。今起こっている一連のことは、すべて偶然ではない。わしは子供のころに命を助けてくれたあの女学生の顔は、ずっと忘れずに覚えておった。この時間のゆがみは経若の過ちではない。これは、天がわしのために仕組んだ符牒だったのじゃ。おまえがわしのもとへ参ったとき、わしはそのことを一瞬で悟った。そしておまえは、自分の成すべきことをした。よくやった。わしはおまえのことを誇りに思う」

「えっ? 符牒って? どういうことなの?」

 またもや由利は決壊しそうだった。

「はは、由利。おまえは賢い。それに肝も据わっておれば、思いやりもある。ほんに優れた娘やったが、せやけど、泣き虫やったな。怒っていても涙をこぼすからの」

 祖父はいつもの京ことばに戻って、優しく由利に笑いかけた。

「符牒というのはな、由利。これはわしがこの世に生まれてくる前に天とわしの間で取り決めがあったということや。わしは誰に無理強いされて、この京都を護るのやない。天からのおたずねがあって、ただわしが、そのお役目を自ら進んで引き受けたっちゅうだけのことや。だから経若の前におまえが姿を現したのも、言わば天の計らい。わしの番が回ってきたというこっちゃ」

「じゃ、じゃあ、最初から仕組まれていたってこと?」

「うん、まぁ、このことに関してはな。言ってみりゃ、これは変えることのできない宿命。せやけど、その与えられた宿命の中で自分の身をどう処していくかは、それぞれ個人の器量によるわけや。たとえ間違ってもいいねん。それは人間の自由意志が尊重されているということや。人は神仏のように一挙に悟ることはできん。ひとつひとつ経験を積んで、その中に込められた意味を考えて納得していく。それが、人間がこの世に生まれてきた目的や。わかるかな?」

「わからない、わかりたくなんかない!」

 由利は小さな駄々っ子のように泣きわめいた。

「はは。ほんの短い間やったけど、あの家でおまえと一緒に過ごせて楽しかったなぁ。毎日ふたりでご飯を作って、食卓を囲んで食べて。他愛ない話をして。ああいうんをほんまの幸せって言うんやなぁ。わしは天がこの今生で最後に授けてくれたおまえとの思い出を、決して忘れることはないやろう。おおきに、ほんま、おおきにな。由利」

「おじいちゃん!」

 また由利のまつ毛に、涙が絡んで大きく珠を作った。

「おじいちゃんが行ってしまったら、あたしはどうすればいいの? あの家でひとりぽっちよ? ねぇ、そうでしょう?」

「ほらほら、また! 泣いたらあかんで、由利。せやけど、おまえはひとりぼっちじゃないで。おまえはいろんな人から愛されておるやないか……」

 辰造は慈しみにあふれたまなざしで由利を見た。

「わしはここにしばしとどまって、お役目をまっとうする。そしていつか天がもうよいと言ってくださるまでここに根を張って頑張るつもりじゃ」

 辰造はこれまで見せたことのない威厳ある武士(もののふ)そのものの表情になって、何千もの灯が光る京の街を睥睨(へいげい)した。

「由利、達者でな」

 辰造は、由利に背を向けて将軍塚のほうへ歩いて行き、そしてすーっとその中へ吸い込まれるように、消えていった。

「おじいちゃん、おじいちゃん!」

―こういうときこそ、心を尽くしたことばで寿ぐものぞ―



 由利は心の中の声に命じられるままに、経若の持っていた舞扇を再び開いた。舞や詩など知らなくても、身体が勝手に動いている。

〆今日よりは 顧みなくて 大君の  醜(しこ)の御盾と 出で立つ吾は  
〔今日からは身を顧みることなく、大君(天皇)の強い盾となって我は出で立つのである〕
            『万葉集巻』二十・四三七三より引用

 これは万葉集に収められている防人(さきもり)が詠んだ詩だ。たしかにこの詩は、自ら京の護りの礎となった、辰造の心情にそぐわしいのかもしれない。

 だが決然とした力強い意志を秘めたことばの裏には、これまで過ごしてきた家族を思いやる心情も隠されているように由利には思えた。これ以上ないほどの切なさを覚えながら、その一方で祖父の武士らしい潔さに心を打たれていた。



 舞い終えたとき、これまでに起こった一切のことは終わっていた。気が付けば三郎の姿がない。

「三郎は? 三郎!」

 そこには金色に輝くヴィグネーシュヴァラから、またもとの姿に戻った小山が立っていた。

「小野さん……」

「こ、小山先輩?」

「うん。何だか元に戻っちゃったみたいだよ。ボクに憑いていた難しい名前の神さまもどっかへ行ったみたいだ」

「さ、三郎は? 三郎はどこへ行ったんですか?」

「うん、何だか神さまに、番人はもうしなくてもいいって言われたらしいよ」

 小山は他人事のように説明した。

「それで?」

「汝はいづちへも去れってさ」

「それって、どこへでも行けってこと?」

「そうなんじゃないかなぁ」

 小山もはっきりとは確信が持てないでいるようだ。

「で、三郎は?」

「三郎は消えた」

「消えた…? それってどういうこと?」

 由利は明らかに恐慌をきたしていた。

「さあねぇ。どうなんだろう? ボクもそこのところはよくわからないよ。彼がいるにふさわしい別の次元に移行したんじゃないかな?」

「そんな…」

 由利はまた目に涙を浮かべた。

「小野さん。キミがこれほど経若を思って泣くのはたぶん、キミの中にいた経若のお姉さんと同調しているからだと思うよ。お姉さんはそりゃあ、弟の経若のことを可愛がっていたんだ」

「でも経若は、弟だってことが不満だったんですよね? だってどんなに男として優れていても弟だったら、有無を言わさず恋愛対象から外されてしまうから」

 由利が言ったセリフを聞いて、小山は首を傾げた。

「でもね、こんなことを言うと、ロマンティックな恋愛を夢想している人には興ざめかもしれないけど、結局のところ、こういう男女のことって陰と陽の気の交換ってことに過ぎないんだよね。ほら、小野さんも太極図ってどこかで見たことあるだろう?」

「えっと、そうだ。韓国の国旗の中にもありますよね?」

「そうそう。円の中に白と黒の勾玉みたいなのが向き合って合わさってるでしょ?」

「ええ、ありますね」

「ほら、あれってさ、よく見れば円の中に勾玉みたいなのが相対してお互いがお互いを抱き込むような形をしているでしょう? 白なら白の円の中心に黒の点、反対側には白の点がね」

「ああ、勾玉の真ん中の穴みたいなもののことですか?」

「そうそう。あれもちゃんと意味があってね、あれは極まったところに、また相反するものが生まれているって印だよ。一対のものが完璧に結び合っている象徴だよね。ほら『満つれば虧(か)く』ってことわざがあるだろう? 物事はマックスになったら、それ以上に肥大することはないんだ」

「そうなんですか?」

 由利は腑に落ちないという顔をした。

「だからさ、もともと男女というものは陰であり陽だから、お互いが欠けたもの同士で、完璧になりたいという欲求があるんだ。男女の交わりっていうのも結局のところ、それを満たす一手段に過ぎないってことなんだろうけどなぁ」

「小山さんの言っていることが難しすぎてわかりません」

 由利はちょっと上目遣いで小山をにらんだ。

「んー。つまりさ、男女の交わりの究極的な目的って子を成すことだよね? つまり神の創造の真似事を、人間はそれとは知らずにしているんだよ。経若もどこかでそのことに気が付いて、煩悩を捨てられればいいんだけどね。彼は決して孤立しているわけではないんだ」

 話し合っている間に由利たちのもとへ、タクシーが二台やって来た。

「ほら、もうじき夜が明けるよ。ボクは常盤井君を家まで送っていく。キミは別の一台に乗って。病院へ帰らないとね」

 小山はかなり重たいはずの常盤井を軽々と抱えながら器用に片方の手で由利に手を振って、タクシーに乗り込んだ。

 気が付けば辺りはすでに、東の空が白々としていた。

「三郎……」

 由利は自分の手に残された三郎の舞扇を、しっかりとその胸に抱きしめた。
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境界の旅人 40 [境界の旅人]

第11章 跳躍

3

「小山先輩!」


 あまりに意外な人物が現れたので、由利は今の危機的状況をいっとき忘れてしまっていた。

 どんな力が及んだのかはわからなかったが、三郎は床に転がりビクビクと痙攣していた。

 身体の大きな常盤井が失神したせいで、その全体重をかけられた由利は、息が詰まりかけていた。だが小山はそこから引っ張り出してくれた。

「小山さん。常盤井君が……!」

「ああ、あいつに痛めつけられたんだね?」

 小山と由利が常盤井の傍に行って様子を見ると、上半身が血まみれになっていた。

「常盤井君、常盤井君!」

「ああ、これは酷いな」

「ああ、どうしよう! 常盤井君が死んじゃう!」

 由利は気を失っている常盤井を、意識を取り戻させようとして狂ったように揺すぶった。

「常盤井君! 目を覚まして! ねぇ、お願いよ! 常盤井君!」

「小野さん、あまり彼を揺さぶらないほうがいいよ。あ、それにここはボクに任せてくれるかな? 何かできそうな気がするんだ」

 小山は自分の両手をそれぞれ、常盤井が負ったふたつの刀創にかざした。すると手から光が出て、常盤井の患部から出血が収まり、傷口は次第に小さくなり、やがて消失した。

「やっぱりね。ほら、これで一応傷は癒えた。大丈夫。彼は死なないよ。ただかなり血を失っているね」

 べっとりと血がついていた常盤井の服も、光に当てられているうちに元通りになっていた。

 由利は小山の超人的な行為に、ただただ唖然として見入っていた。

「小山先輩……」

「彼はこのまましばらく、そっと眠らせてやったほうがいい」

「常盤井君……。…ごめんなさい。あたしのせいで……」

 いつも生気にあふれていた常盤井の死人のように青ざめた顔を見て、また由利は涙が込み上げてきた。そしてそれまで自分が着ていたダッフルコートを脱ぎ、小山に手伝ってもらいながら、地面に体温が奪われないように上半身を包(くる)んだ。

「小山先輩、どうしてここへ?」

 少し気を取り直した由利は小山に訊ねた。

「うん、それがねぇ。自分でもイマイチこの状況を把握できてないんだけど、ふと気が付いたら勝手に飛行機に乗ってしまっていたというか……。どうも、おかしいんだよねぇ。まぁ、でも年が明けたらセンター試験だし、帰るにはちょうどいい頃合いだったかもね」

 暢気に笑って小山は自分のことを説明した。

「で、結構夜も遅くに飛行機が関空に着いてねぇ。それからはるかに乗って京都駅まで来たのはいいんだけど、ボクの中にある何かが、なぜか家に帰ることを許してくれないんだよね。で、とりあえず駅前のネットカフェでシャワーを浴びたあと、しばらくそこで休憩していたんだ。だけど日が変わった辺りで今度は東山へ向かえっていう声が聞こえてきてね。こんな夜更けで大雨が降ってるし。ヨーロッパからの長旅で疲れてもいたしね。お願いです、カンベンしてくださいよって感じなんだけど、逆らえないんだよ。ま、それでも結局はタクシーを拾ってここまで来たんだけどね。ふふふ」

 小山はさも可笑しそうに、含み笑いをした。



「邪魔だ! 消えろ!」

 小山の攻撃から回復したらしく、三郎はふたりの背後に忍び寄って反撃に出ようとした。だが小山は、すかさずグッと右腕を突き出し、三郎の前に手をかざした。

「破ッ!」

 三郎の身体は再び、目には見えない大きな力で、宙に高く浮きあがったかと思うと次の瞬間、ドーンと地面に打ち付けられた。

「三郎!」

 由利は無我夢中で叫んだ。

「小山先輩! これじゃあ三郎が死んじゃう!」

 由利は小山に縋りついて、やめさせようとした。

「小野さん、知ってた? こいつはそもそも肉体を持ってないんだ。思念の力で、自分が生きていたときの形を作って動いているのに過ぎないんだよ。だから物理的な攻めっていうのも、効いてるようで、実はそんなでもない。ただこいつは相当に思い上がっていたみたいだから、今みたいに屈辱的な目に遭わされるのが、何よりこたえているのさ」

 いつものごとく小山は、理路整然と由利に説明をした。

「小山先輩、どうしてそんなこと知っているんですか? それにどうやったら今みたいなことができるんですか?」

 由利は声を潜めて質問した。

「本当だよね……? どうしてボクはこんなことができるんだろうね?」

 小山は答えながらも、自分の身に起きた不可解な現象に驚いているようだった。

「ただし、これだけはわかる。ボクの中でこれまでずっと眠っていたものが、今覚醒しつつあるってのが」

 たしかに由利も現に今、別人格の女の魂が身体の中にとどまって、小山の話を由利と一緒に聞いている。では小山の場合も同じなのだろうか。

「じゃあ、小山先輩、何か違う人格が自分の中に存在しているって感じなのですか?」

「どうなんだろう? ボクもこんな体験は初めてだから、具体的にどうこうとは言えないけど……」

 だが小山は、急にピンとはじかれたような表情をした。

「…ああ、そうなんだ…。だんだんわかってきたよ」

 小山は言った。

「この……、小野さんが三郎と呼んでいる男はね、生きている間は経若と名乗っていた。この経若はね、室町の初め頃を生きた。つまり十四世紀の人間なんだ」

「十四世紀?」

「そう。彼はおよそ七百年近い昔の人間ってことだよね」

「そんな昔の?」

 由利は三郎の真実を知って、ことばもなかった。

「うん……。彼自身の両親は、舞で身を立てている賤しい身分の芸人だったんだ。だが経若の母親は、彼を産む前にある皇族に気に入られて、寵を受けていたらしい。それで身ごもって赤子を生んだ」

「じゃあ、今あたしの身体の中にいる女の人って?」

「ああ、その人じゃないかな。魂が重なって見えるから」

 今の小山には、いろんなことが透けて見えるようだ。

「経若は、小野さんの中にいる女性とは異父姉弟だった。だけどこの経若の姉に対する愛執の念がすさまじくてね。もはや常軌を逸していた」

「でも父親が違っていたって、一応は姉と弟なんでしょう? じゃあ近親相姦を犯していたってことですか?」

「いや、その女の人は別の男を愛していたんだ。常盤井君が彼女の恋人の生まれ変わりみたいだね。だけど経若は横恋慕していたんだよ。そして死んだあとも煩悩がこの世にとどまり続け、天界に上がって浄化するのを拒否するんだよ」

「どうして?」

「うん。煩悩は言ってみれば人間の欲のことだ。欲って聞くと悪いことだと思われがちだけど、一概にはそうとも言えないんだよ よりよい人間になりたいって欲があるから人間、努力もする。経若はもともと非常に優れた男だったんだけど、それだけに自負心も強くて、なかなか浄化できないんだ。だから一計を案じ、その念の強さを見込んで、経若をこの京都の地場を護る番人に据えた」

「それは一体、誰が?」

 由利は小山に訊き返した。
「う~ん。まぁ、この世界を作った何者かじゃない? まぁ、それを俗っぽく神と呼んでもいいけどさ。まぁ、高位の存在とか真理とか秩序ってところなんじゃないかな?」

 以前にも由利は、今の説明と似たことを三郎や常盤井の口から聞いたことがあった。

「で、まぁ、経若はこの番人に据えられて、ずっと真面目に務めてきたんだよね。そこには何の問題もなかった。これまではね」

「これまでは?」

「うん。だけどこいつは、小野さんが京都に来てからは尋常でいられなかった」

「どうして?」

「だって小野さんは、シスコンの経若のお姉さんの生まれ変わりじゃない? それなのにキミが経若の目の前に現れたんだ。そしたらもう経若は、とてもじゃないけど正気でいられるわけがない」

「そんな! 覚えてもいない前世のことを言われても…」

「彼もまぁ、一応自分の執着を自覚はしていたみたいなんだ。だけど理性で抑えていても、無意識のうちにその念がこぼれていくんだ。それが実に始末に悪い」

「始末に悪いって…。どうしてなんですか?」

「これまでいろいろと、小野さん自身の周りで、変異があったでしょう? そうじゃない?」

「あ、はい」

「御所の近衛邸で魑魅魍魎どもに絡まれたり、戦後すぐの世界へタイムスリップしたり……。龍道も強い思念とパワーを持つから、経若の持ち続けていた強い情念に感応し、同調してしまって、こんな不思議なことが次々と起きてしまったんだろうな」

「……」

「だがいったん、こんなことが起きてしまうと、経若は時空の番人としての務めをきちんと果たしているとは言えないだろう?」


「…そうですね」

 常ににこやかな表情を崩さなかった小山は、ここに来て突然厳しい表情に変わった。

「だがうまくしたもので、秩序は、こんなトラブルを常に想定して、事前にそれを防ぐためのチェック機関を設けていたみたいなんだね」

「それは、一体……?」

「それがこのボクという存在だ」

 小山はこともなげに言い切った。そこには迷いが微塵も感じられない。由利は小山が完全に覚醒しているのだと悟った。

「小山先輩が?」

「そう。ボクが発動(はつどう)されたんだ」

「小山先輩が発動された……?」

「ボクは裁定者だ。ボクのような人間は、いつの時代にも、どの場所にも、必ず用意されている。秩序が要請して発動させない限り、ボクは覚醒しないまま一生を終えるはずだった」

 そこまで言うと、小山はすっくと立ちあがって、地面に倒れている経若に向かって叫んだ。

「経若! さあ、立て!」

 その声は、たしかに小山自身から発せられたものだったが、しかしこれまでとどこか違っていた。小山の声には、どこかで増幅器にでもかけられたかのような金属っぽい音が混じってキンキンと周囲に響き渡った。

 経若はもはや観念し、頭を下げて小山の前に立った。

「我が名はヴィグネーシュヴァラ。その意味するところは障害除去である」

 小山はそう宣言した。気が付けば小山自身が発光体のように白金に輝いていた。

「我々の授かっている役目は、時空の番人が誤作動した場合、時間と空間を修正することだ」

 経若は押し黙ったまま、うなだれている。

「経若よ。汝は本来の時空の番人たる職務を怠り、自らの邪念でこの世の秩序を乱した。そしてそれを修正するどころか、地に眠る臥龍を起こし、結界を鎮護する将軍まで鳴動させた。その罪は重いぞ?」

「はい。承知しております」

「よろしい。汝には理(ことわり)なく過去や未来に介入することは許されていない。だが自らの欲で、現世を生きる人間の運命を捻じ曲げ、あまつさえ生殺与奪の権をふるって、歴史に介入しようとした。この罪、到底許すこと能わず。我々はこれまで幾度となく贖罪の機会を与えてきたはずだ。しかし汝はことごとくそれ撥ねつけてきた。それは一体何ゆえだ?」

「姉上を愛し続けること、それこそがわたくしのこの世にとどまる存在理由です。わたくしが姉上を希求することを止めてしまっては、もはやそれはわたくしとは言えませぬ」

 金色に発光するヴィグネーシュヴァラは、それを聞いて激怒した。

「経若! 汝の存在理由だと? 愛欲など、生きている者のみが持ち得る煩悩だ! 一度亡者と成り果てたなら、もはや諦めるしか道はない! これほど長い年月が経っても、まだ悟ろうとせぬか! 愚か者めが!」

「ええ。わたくしはこのまま、愚か者でいとうござりまする」

 ヴィグネーシュヴァラには迷いがないらしく、冷厳な面差しで宣告した。

「それでは望みどおりにしてやろう。汝の魂を消滅させることにする」

 それまで黙ってふたりのやりとりを見ていた由利の口から、姉の、弟を説得しようとすることばがほとばしり出た。

「経若! み仏に慈悲を乞いなされ。強情を張らず、赦してほしいと頼むのじゃ!」

「姉上、わたくしなんぞの魂のひとつ、ここで消えてしまったからとて、それが一体何でしょう?」

「なぜじゃ、経若? なぜそれほどまでに妾に執着する? まずは浄土に行って憩いなされ。それこそが真の悦楽というものぞ」

 必死になって姉上は弟をいさめた。

「わたくしは気が遠くなるような長い、長い時を時空の番人として、たったひとりでこの京都を守って参りました。その間、わたくしはあなたと中将が生まれ変わり死に変わりながら、幾度となく愛し合うのを端から眺めるしか術がなかったのです。ですが姉上、あなたは弟のわたくしが辛い思いを抱えながら血の涙を流していようと、一顧だにされることはなかった……」

「馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な! 経若! そなたとの今生の縁は切れたのじゃ、すでに終わってしまったことじゃ。固執してはならぬ、放念せよ」

「憐れな奴…」

 ヴィグネーシュヴァラは印を結び、真言を低く唱えた。

 そのとたん経若の周りには金色の光が取り囲み、ぐるぐると旋回した。

「うわぁああああ!」

 経若は苦しみだし、だんだんと今形を作っている姿が萎びていく。

 由利ははじかれたように経若のもとへ駆け寄り、金色に光ってもはや輪郭を留めぬあやふやな形を力の限り抱きしめた。

「いやいやいや! こんなのはイヤッ!」

 そして由利はヴィグネーシュヴァラに向かって叫んだ。

「お願い! 三郎を助けてあげて!」

 ヴィグネーシュヴァラは由利に言った。

「いや、たったひとつ、ここで終わらせてやることがせめてもの慈悲である」

「違う! じゃあ、あたしも三郎と一緒に苦しみを共にします!」

 それを聞いて、ヴィグネーシュヴァラとなった小山は、苦悶の表情を顔に浮かべた。

「だが汝に罪はない」

「いいえ! 三郎の気持ちを知ろうともせず、無関心でいたこと。それこそがあたしの犯した大きな罪です!」

「では汝を失った常盤井はどうするのだ?」

「常盤井君は立派な人よ。きっとわかってくれる……。たとえあたしがいなくても、必ず運命を切り拓き、自分の人生をまっとうできるはず」

 どう説得しても由利の意志が固いのを知って、ヴィグネーシュヴァラも決断した。

「経若、感謝するのだな。由利が汝の魂を救った。だが汝のせいで結界を鎮護する者がいなくなった。代わりに汝が鎮護せよ」

「そ、そんな! どうして三郎ばかり辛い責めを負わせるのですか?」

 由利は小山に食って掛かった。

「経若の煩悩は往生を遂げるには邪魔なものだが、しかし逆に言えば、これほど強い執着こそが、この土地を魔の手から護るはずだ」

 そのときまた、背後から人が現れた。

「あいや、お待ちくだされ、ヴィグネーシュヴァラさま。それがしをお忘れでござりましょうや? あなたさまが万が一のときに、天が用意されたお方なら、この京師の鎮護国家の礎となる者も、いつの世にも用意されているのでござる。今こそ、それがしの出番でござる」

 その声を聴いて由利は驚愕した。

「お、おじいちゃん!」

「とうとうそれがしがこの世に生まれて、お役に立てるときが参った」

 それは紛れもなく大鎧に身を固めた姿の祖父の辰造だった。






みなさま、こんばんは。
いかがでしたでしょうか?

さて、前回にあと2回で終わる、と言っていましたが、
申し訳ありません。いえ、来週は最終回ではなく、2話、残っていました。


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境界の旅人 39 [境界の旅人]

第11章 跳躍



 常盤井は由利がタイムスリップしたのを見届けたあと、コンビニから外へ出てそのまま一条戻り橋へと北上していた。だが途中で、ポツポツと雨が降り出した。

「ん? 雨? ……雨なんか降るなんて、天気予報で言ってなかったんじゃねぇの?」

 常盤井は不審げに天を振り仰いだ。今日は新月だから月が出ていないのはもちろんだが、空は厚い雲に覆われているらしく、星すら見えない。街のネオンは灯るには灯っていたが、どことなく不気味さを感じさせる。

「雷か?」

 突然稲妻が四方八方に走って、漆黒の夜空を青白く照らした。ドォオオンと雷鳴がする。

「光ったのと音が同時だ。結構、近いな」

 そう思ったのと同時に、地も裂けよとばかりにすさまじい轟音が、あたり一面に鳴り響いた。

 川通り沿いに植えられた背の高いニセアカシアの木に雷が落ちた。天から火を噴いた斧で叩き割られたかのように、一瞬にして太い幹がいくつにも裂かれ、バリバリと火の粉を散らしながら崩れ落ちた。

「えっ? 目の前で落雷? マジやばくね?」

 常盤井はしばらくあっけに取られて、倒れた木を眺めていた。ふと目を逸らすと、そこには由利を抱きかかえた三郎が立っていた。

「お…おまえ……!」

 常盤井は相手を見て、一瞬ことばを詰まらせた。だが三郎はそんなことなど物ともせず、超然としていた。

「こいつ! まだ性懲りなく由利に付きまとっているのか? なぜ由利を抱えている? 何かちょっかいでも出したのか?」

 常盤井は由利を取り返そうとしたが、三郎はそれを瞬間的に察知して、さっと身をかわした。

「相変わらずだな、常盤井」

「由利をオレに返せ!」

「返せだと? なぜだ? 由利はおまえのものではあるまい?」

「何だと?」

「ふ、われはおまえなんぞに、何のかんのと文句を言われる筋合いにはない」

 三郎は片方の口角だけを上げ、薄く嗤った。

 だが急にそれまで何事もなかった堀川通が、ゴゴゴゴゴという地鳴りの音と共に、北から南へと地面が波打った。まるでゴツゴツとした巨大な背骨のひとつひとつがうねりながら突然地表に突き出るかのように。

「うわっ、何だ、今のは!」

 三郎もそれを見て青ざめた。

「龍道が動いた……!」

 堀川通のアスファルトが隆起したかと思うとそれを突き破って、それまで這いつくばるように伏していた龍が、ゆっくりと地表に頭をもたげた。

 大きな双眸は、水晶がはめ込まれたかのごとく炯々(けいけい)と輝き、口辺に長髯をたくわえ、前足と後足には三本の鋭い爪があった。

 その姿は紛れもなく龍の姿だ。そしてそれは決して侵されることのない神威というものを、見る者に深く感じさせた。

 龍は宙に向けて一度大きく咆哮すると、その猛々しい声はあまねく地に轟き、周囲の山々を震撼させた。

 そして鱗を銀色に光らせながら、龍は巡察するかのように京の町の上空を低く飛行した。だがしばらくそれを続けていたかと思うと、雷雲を身にまとわせながら、とぐろを巻くように大きく上昇し旋回させた。やがて天高く舞い上がると、東の空へと飛んで行ってしまった。




 それまで三郎の腕の中で眠っていた由利が、突然目を開いた。しかも驚いたことに由利は、常盤井がこれまで一度として耳にしたことのない口調でしゃべり出した。

「やれやれ、この娘が時と時との間を、こう何度も行ったり来たりを繰り返さば、地に眠る臥龍が目覚めるのも必然……。忠義ものの龍はすわ一大事と、華頂山へご注進に参ってしもうたわ。いったんこうなってしまったからには、将軍殿が黙ってはおるまい。のう、経若(つねわか)?」

「御意」

 三郎はいつもの不遜な態度とは打って変わって、いかにも身分の重々しい貴人に仕えるように、恭しく接していた。

 常盤井は由利の顔をまじまじと凝視した。たしかに身体こそ由利のものだったが、まったく別の人格が話しているのは間違いない。常盤井は由利の身体に潜む別人格に向かって尋問した。

「おまえは誰だ?」

 常盤井から乱暴におまえ呼ばわりされた別人格の女は、いささか気分を害したらしい。

「ホホホ。おやまぁ、とんだごあいさつじゃな、中将。いや、今は常盤井と言ったか? そなたと妾(わらわ)は二世を契りし仲であったと言うにのう?」

 女は呆れた顔をしながらも、辛辣な嫌味を言った。

「中将? 一体誰のことだ?」

 それを聞いた常盤井は、一瞬にして真っ青になった。

「おやおや、昔の自分のこともすっかり忘れてしもうておるのか……。まぁ、生まれ変わって前世を覚えておらぬなら、それも致し方なきことであろうか」

 由利は少し寂し気に漏らすと、三郎に命じた。

「さあ、経若。急ぎ参ろうぞ。このままでは都が大変なことになる」

「はっ」

 常盤井はふたりのやり取りに疑問を持った。そこには単なる主従という関係以上のものがあると感じたからだ。

「あなたとその男とは、どういう縁(えにし)がおありなのですか?」

 今度は態度を改め、常盤井は目の前の相手に丁重に尋ねた。

「経若か? これは妾(わらわ)の弟である」

「えっ? 弟?」

 常盤井は思いがけない答えに、目を見張った。

「中将。おまえも追って後から参れ。そしてわれらに合力いたせ。よいな」

 由利の中の女は当たり前のように常盤井を中将と呼んで命令した。そして次の瞬間、由利を抱えた三郎の姿はそこから消えた。

「ちくしょうっ! 一体どうなってるんだよっ!」

 常盤井は毒づきながらヘルメットを被ってバイクにまたがると、そのまま華頂山頂上を目指して疾走した。




「姉上、着き申した」

「降ろせ」

 由利が命令すると、三郎は腰の重心を垂直に下げて、そっと由利を地面に立たせた。

 山の頂に降り立つと、荒れ狂った風が長い髪を巻き上げ、せわしなく由利のほほを打った。山々を通り抜ける風が、地鳴りのように山の峰々に響いてくる。

「将軍殿はどこにおられる?」

 由利はあたりを見渡した。

 三郎は上空に指を指して、由利に注意を促した。

「ほれ、ご覧ください。あそこに」

 将軍塚を少しばかり行ったところに、京都の町を見渡せる崖がある。その崖の上の空間に、風が竜巻のように激しく渦巻いていた。闇の中で目をよくよく凝らすと、そこには鎧甲冑に身を包んだ巨大な人形(ひとがた)の姿が浮かんでいた。おそらく将軍である坂上田村麻呂の魂を宿した土偶が、世の不穏を感じて出現したものだろう。 

「おお、将軍殿は都の安寧を乱した者がいると、お怒りであらせられる」

「姉上、わたくしにお任せあれ。鎮めて見せまする」

 三郎は、一切の諸仏菩薩の本地である大日如来の法力を、あまねく自分自身の身体へ流入させるために、まずは右手を下に人差し指を一本立て、その上にやはり人差し指をピンと伸ばした左手を重ねた大日如来自身を表す智拳印(ちけんいん)を組んだ。

 そのあとやはり大日如来の憤怒身である不動明王を表す独股印(どっこのいん)を手で結んで、真言を唱えた。

 このように順次、それぞれ大日如来の化身仏を表すとされる印を両手でさまざまに結びながら、それぞれの仏を表す真言を唱えていった。

 すると真言が功を奏したのか、それまで宙に浮かんでいた土偶の苦しみもがくような叫喚が、あたりに響き渡った。

 だが三郎は、土偶が反撃して放った大きな力をまともに受けて、全身を強く地面に叩きつけられた。

「ぐわっ!」

 小柄な三郎はうめき声をあげて、地に突っ伏した。

「経若!」

 由利は駆け寄って三郎を介抱した。

「経若! 経若、もう止めよ。そなたのやり方は間違うておるぞ。力で無理やり押さえつけるのは、わが一族のやり方ではない。われらは、古(いにしえ)より、この世に生きとし生きるものすべてを踊りながらめでたいことば寿いで参った。すべからくこの世に生を受けたものは、寿がれるべきなのじゃ」

 由利は気絶している三郎の懐を探り、舞扇を取り出した。

「そうじゃ、われらはめでたいことばを連ねて舞い踊る。それこそがわれらの本領であろう」

 そして舞扇を両手に捧げ持ち、天に向かって軽く一礼してから、型を取った。
 ゆるゆると扇を広げながら、坂上田村麻呂を寿ぐ詩を歌った。




〆大将軍に参りて
参りてみよばやりや見事

十二の柱を磨きたて
黄金の垂木をかけ揃え
ひわだのせあげやりや美事

大将軍と申せしは
事のあらんな神あれば
三千世界を廻りやる

三千世界を廻りては
ぎをぎて衆生を助けやる

  (日向国宮崎郡大瀬町村に伝わる,民謡「大将軍」を参照)




 由利の中の別人格の女はよく通る、それでいてふくよかな声で、歌いながら舞い踊った。

 『三千世界』とは仏教用語で言うところの、全世界、全宇宙のことだ。もしもひとたび有事があれば、無辜の衆生(しゅじょう)を助けるために、大将軍は馳せ参じると寿いでいる。大将軍とはそのような神であらばこそ、たとえ世界の果てからだろうと駆けつけて、衆生を守ってくれると寿いでいるのだ。

 たったひとりで孤独に耐えて都を守り続けていた坂上田村麻呂の魂にとって、これほど嬉しく慰められる唄は、またとないはずだ。

 地に倒れていた経若も目覚め、由利がひとりで舞っているのに気づくと、自分も急いでその横に並んで一緒に舞い謡った。

 ふたりが一心に舞っているところへ、常盤井が将軍塚にたどり着いた。何しろ下界では、暴風暴雨が吹き荒れていたので、バイクでは前進するのがなかなか困難だったのだ。

 常盤井はこのふたりの舞を見て唖然となった。由利と三郎は一糸乱れることなく、完全に同調していた。しかもただ同調するのではなく、途中途中でシンメトリックな動きをする。ふたりの頭の傾げ方、宙にかざした手の角度など、まさに合わせ鏡を見ているようにぴったりと息が合っていた。

 由利が手に持つ舞扇の金銀や朱に塗られた色だけが、ほの暗い闇の中から鮮やかに浮かび上がった。

「これは……? 姉弟(きょうだい)だと言っていたのは、文字どおりの意味だったのか?」

 常盤井はふたりの目にも綾な舞にしばし見惚れていた。

 ふたりはめでたく舞い納める意味でさらに一番、祝言を舞ってさらに将軍を寿いだ。




〆なほ千秋や万歳と

 俵を重ねて面々に

 俵を重ねて面々に

 俵を重ねて面々に

 楽しうなるこそ目出たけれ              
                    『靱猿』より引用




 ふたりが舞い終えると、それまで空に低く立ち込めていた厚い雲も吹き払われ、星さえも瞬いた。そしてこれまで将軍の周りを囂々(ごうごう)と旋回していした竜巻もだんだんと風の渦が収まって、やがて消えた。

 宙に浮いていた将軍をかたどった土偶も、最後にはバラバラと崩れ、もとの土くれに戻って、地面へと落ちた。先ほどまで将軍と一緒についていた龍も、今は貴船神社の奥宮へと雲と共に戻っていったらしい。

 それを三郎が見て、つぶやいた。

「ああ、将軍殿は本当に神上がりして、天に昇ってしまわれたらしいな」

「とすると、どうなるのじゃ? 経若」

 由利は尋ねた。

「都を何があっても護るという堅い決意も、いわば一種の執着ですから、そこから解き放たれてしまった魂を、再び地上に呼び返すことはできますまい」

 三郎は少し考えるように言った。

「さようか……」

「でも、かようなことなぞ、今に始まったことではありませぬ、姉上。さきほどの将軍の魂魄も、真(まこと)の意味での坂上田村麻呂のものではありえませぬ。千年以上も人の魂をこの世に留まり続けさせるは、案外と難しきことゆえ。そしてまた、このような結界に使われる人間は高潔でなければ。いわばこの将軍塚は何代にもわたり、そのような徳の高き男たちに引き継がれて参ったのです」

「場を守るということは、さほどに大事なことか? 経若」

「ええ、大事です。ことに京の都におきましては。この地にかような魂が宿ることで、日の本は太平でいられるのですから。結界が崩れてしまっては、元も子もないでしょう」

「だが今、代わりとなる魂など、どこに求めればよいと言うのじゃ?」

 由利の中に潜む女は眉をひそめて、弟に尋ねた。

「いや、いるでしょう、そこに。しっかりと都を守ってくれそうな屈強な若者が」

「えっ?」

 とっさに由利は三郎が見ている先を目で追った。そこには常盤井が立っていた。

「まさか……? 経若。もしや、あの者を人柱に立てようと言うのではあるまいな」

「いえ、そのまさかです。頭もいい、力も度胸もある。それに曲がったことを嫌う真っすぐで潔癖な性分。ははは、実にいい。常盤井など二、三百年ほどは、しっかりここを護ってくれそうじゃないですか」

「やめよ、経若! かようなこと、妾は認めぬ。人の涙の上に立った安寧など」

 由利の中に宿った女は、三郎の前に身体を大の字に広げて行く手を阻もうとした。

「姉上、お退きください」

 三郎は由利の体を軽くかわして、常盤井へと近づいて行った。手には短刀を持っている。

「!」

 由利はそれを見て、とっさに背後から三郎に抱き着いて阻止しようとした。

「やめて! やめて! 三郎! 常盤井君にこれ以上近づかないで!」

「おや、今度はおまえか、由利」

 三郎は自分の身体に取りすがった由利を、乱暴に振り払った。その拍子に由利は勢いよく地面に二転、三転した。

「まぁ、たしかに可哀そうと言えば、可哀そうだ。だが運命なんてものは、いつも間尺に合わぬ理不尽なものよ」

 冷酷に嗤いながら、三郎はうそぶいた。

「いやっ! ダメっ!」

 由利は立ち上がろうとしたが、目に見えぬ力が動きを封じた。

「由利。さあ、われが常盤井を手にかけるところを、しかとその目に焼き付けるがいい!」

「この怨霊め! 何をする!」

 常盤井が歯向かおうとすると、三郎がやはり術を使ってか、身体の自由を奪った。

 これまで絶対に腕力で負けたことのない常盤井だったが、今はこの華奢で小柄な少年の術中にはまって、身動きが取れない。

「常盤井。おのれは、怨霊だの、死霊だのとやかましいわ。われはな、天に命じられ、やらねばならぬことをやっているまで!」

「そんなの、嘘よ! あなたは常盤井君が邪魔なだけなんだわ!」

「黙れ!」

 三郎は狂ったように叫んだ。

「お願い、お願い! 三郎! 常盤井君を殺さないで! 彼が死ぬところを見るくらいなら、あたしが代わりに結界になるっ! それならいいでしょ?」

「聞いたか、常盤井? 何と健気なことだ、由利が必死になっておまえの命乞いをしているぞ? ……おまえは昔から目障りなヤツだった。前世でもわれから姉上を取り上げた……。あろうことか今生でもっ……!」

「やめてぇ!」

 三郎は由利のことばを無視して淡々とさやを抜き、短刀を常盤井の右肩にぐさっと刺した。

「うわ、痛ってぇ……。てめぇ、何しやがんだよっ!」

 短刀が引き抜かれたあとは血がどくどくと流れた。

「ああ、何度生まれ変わろうが、オレたちを結ぶ絆の強さは絶対だ。おまえのつけ入る隙などないっ!」

 常盤井は三郎を睨みつけながら言い切った。

「やめて、常盤井君、三郎を挑発しないで!」

 由利は常盤井に懇願した。

「鎮護国家の礎になると誓え! でなければ、おまえの目の前で、今度は由利をめった刺しにして地獄に送ってやる」

 三郎は狂気に取り憑かれた目で凄んだ。

「三郎……おまえ、由利を愛していたんじゃないのか?」

「われは姉上だけをお慕いしている。たとえ由利が姉上の生まれ変わりであっても、しょせんは器が違う。現世(うつしよ)にあられたときのあの麗しの姉上ご自身ではないからな」

 三郎は心の痛みに耐えかねたようにわめいた。 

「三郎!」

 由利は絶叫した。

「ふ、面白い。相思相愛の絆とは、このように強いものだとはな。おまえたちは止むことなく互いを求め合う。そうだ。何ならふたり仲良く一緒になって人柱に立つか? 案外それもよかろう」

 三郎は踵を返して今度は由利のほうへ向かって来た。目には邪悪な光を宿し、爛々と赤く輝いた。

「由利。さらばだ……」

 三郎が刃を持った手を高々と振り上げて、心臓めがけて一気に振り下ろそうとした、まさにその瞬間、常盤井はとっさに動いて由利を自分の身体で覆った。

「うっ!」

 常盤井は鋭いうめき声をあげた。

「常盤井君!」

「由利……、大丈夫だったか?」

 常盤井はささやくように、由利に訊いた。

「常盤井…く…ん?」

「よかった……。由利が無事なら……」

 常盤井はほっとため息をつくと、渾身の力を振り出して、ふるえる掌を由利の頬に当てた。

「ゆ…ゆ…り…。あ…、……いし…」
 常盤井はことばの終わらぬうちにがっくりと首をうなだれ、そのまま動かなくなった。

「い……や……。こんなのいやっ!」

 由利は泣きながら、頬に当てられた手を握り締めた。

「だ、だめ、だめよ! 常盤井君、お願い! 死んじゃいやっ!」

 そのとき闇に紛れて、三郎の背後に立った人物がいた。

「ねぇ、キミ。自分の失態を人のせいばかりにするのは、どんなもんなんでしょうね?」

 その人物は、もう一度短刀を振り上げようとした三郎の右手を軽々とつかみ、それをぎゅっと捻じり上げていた。あまりに強い力だったので、さすがの三郎も手に持っていた短刀を落とした。

「くそっ、何だ? きさま?」

 三郎が振り返ると、そこには意外な人物がたたずんでいた。

「あ、あなたは……!」

 その人物は常盤井の身体ごしに、由利へにっこり笑いかけた。

「やあ、小野さん、久しぶりだね」

 そこにはベルリンへ行ったはずの小山が立っていた。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

みなさま、こんばんは。

私、実はすごい不眠症でして、去年の9月ぐらいからすこしでも現状を改善したいと
頑張ってきました。

毎日一時間のウォーキング、そして食事療法、ブルーライトの制御とかほんといろいろ。
生活習慣を変えると一口で言ってもそれはそれで結構大変なんだよね。

で、ここんところ、やっぱり小説の連載のリアクションなんかを知りたくて
ついついブログとかSNSのほうを覗く回数が多くなってきてたりして。

で、やはりね、視覚から入る情報っていうのは結構刺激が強く、睡眠を妨げるものであるって
言われているのを見て、
あ、じゃ、もう9時からはスマホもパソコンも見る生活から一線を引こうとおもったわけです。
だから今回、UPするのがこんなに早いのね。

もう、残すところ、あと二回かなぁ、この小説。

長かったですね~、ホント。

今日の個所は、常盤井がなかなか決まらなくて、
何十回と書き直しした、結構辛い個所でした。

出来上がったのを見ると、かなり偉丈夫、って感じになってくれて
「常盤井、おまえ、オトコやん!」って思わず声かけてしまった…(笑)

娘が言うには(読者一号&結構強烈なアドバイザー)
「この小説は主人公の由利と常盤井が全く魅力に欠ける!」
とのことでした…。

仕方ないじゃん、そういうこともあるわwで
赦してください。

実はね、次のお話の案はすでに決まっていて、
こうこう、こういう話で、こういう設定でってノートに記してあるの。

だけど、今、アウトプットばっかりしてインプットが全くされてない状態なんだなぁ。
小説も読み、音楽も聴き、映画やドラマもたくさん見て、
自分の心を肥えさせなければならないんだなぁ。
(身体は痩せなければなりませんが…)

なにかこう、自分自身の一番神聖で清浄な部分を集めて
美しい話が書けたらなぁと思います。

ではでは、みなさま、ごきげんよう!





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境界の旅人 38 [境界の旅人]

第11章 跳躍



 由利はコンビニの自動扉が開くと、勢いよく外へ飛び出した。

 もはや二十一世紀の現代の京都ではなく、そこには以前タイムスリップしたままの変わらぬ風景が広がっていた。昭和二十一年の京都の町は、やはり疲弊してすすけていた。

「やった、タイムスリップに成功したんだ!」

 由利は心の中で快哉を叫んだ。だがそうやって、いつまでも感慨に浸ってばかりはいられない。

 転落するはずの電車が来たときに、祖父たちが電車に乗り込むのを何としても阻止しなければ。

 由利は今いる堀川中立売から、一気に大宮中立売の電停まで走った。距離にして二百メートル強といったところだろう。

 始発の北野駅から、電車がひっきりなしにやって来る。この時代は市電だけが人々の由利一の公共の交通機関だった。

 辰造たちらしき二人組の少年は、まだ通りに現れる気配すらない。由利はどきどきして待っていた。だが当の本人たちが来ないのであれば、電車を見過ごすしかない。

「乗られないんですか?」

 入口のステップのところに立っている車掌は、電停に立っている由利を見て声をかけた。

「あの、すみません。乗りません」

 由利は小さな声で答えた。車掌はいぶかしげな面持ちで由利を見つめたが、すぐに自分の職務に立ち戻った。

「お乗りの方はいらっしゃいませんか? お降りの方はいらっしゃいませんか?」

 確認し終えるとチンチンと手元にある小さな鐘を二回鳴らし、大きな声で「出発!」と運転手に声をかけた。

 由利は何人もの車掌に同じ質問をされながらも電停に立って、何台もの電車をイライラしながら見送った。

 たとえ手持ちの衣装の中では、一番この時代にしっくりくるものだとしても、水色のカッター・シャツにエンブレム付きでグレイのフラノ地のブレザー、ロイヤル・ブルーのタータンチェックのスカート、牛角のついたダッフルコートに黒革のローファーという出で立ちは、この貧しい時代にあって、あまりに鮮やかすぎ、人目に付きすぎる。行き交う人々はどういった素性の少女なのだろうと、贅沢な装いの由利を遠巻きながらじっと観察していた。

「はぁっ、行く前は遅れちゃいけないってことばかり気を取られていたけど、結構早く着きすぎちゃったのかなぁ。一体、今何時なんだろう?」

 由利は思い切って、すぐ傍にいた勤め人らしい男性に時間を尋ねた。

「あの、恐れ入りますが、時間を教えていだだけますでしょうか?」

 相手の男は自分の時計を見た。

「ああ、五時十五分を過ぎたころだね」

「ありがとうございます」

 由利はそっとため息をつきながら、頭を下げた。

「ということは……」

 由利は素早く頭を巡らせた。二月八日の日没は、たしか五時半を少し過ぎる時分のはずだ。それはあらかじめ調べておいた。

「以前にここに来たときは、日没は過ぎていたかもしれないけど、真っ暗だったわけじゃない。京都は周りを山に囲まれているから、はっきりとした日没の時間がつかみにくいんだけど……。せいぜいであと十分ほどすれば、おじいちゃんたちが来るはず」

 由利はじりじりしながら、祖父たちが現れるのを待った。



 やがて大宮通りのほうから、小さな子供がふたり、手をつなぎながらこっちへやって来る。

「来た!」

 子供たちは電停のプラットフォームに上って、電車が来るのを待った。由利はなるべくふたりの視覚に入らないところに立ち、少し離れた場所で見守った。

「もうすぐ、この子たちを引き留める女学生が現れるのよね……」

 由利は辺りをぐるりと見渡した。だがそれらしき女学生は、中立売通りを見ても、大宮通りの上がりの方向、下がりの方向どちらを見ても、今のところ現れる兆しはない。

「どうしたんだろう……?」

 またもや由利はだんだんと不安に駆られてきた。だがそんな気持ちにはおかまいなく、通りの向こうから電車がやって来るのが見えた。

「女学生は来ない……」

 由利は真冬だというのに、脇の下にじっとりと冷や汗を掻いているのがわかった。だが大宮通りのほうから、小学校の五、六年生ぐらいの女の子が何やら叫びながらこっちへ駆けて来た。

「あ、もしかしたら、あの子なのかな?」

 祖父のことば通りなら女学生が現れるはずなのだが、長い年月の間に知らず知らずのうちに記憶が改ざんされることはよくある。今度のこともそれに違いないと由利は思った。

 現れるべき人間が現れたので由利は束の間、ホッとしていたが、ちょうどそのとき大宮通りを大八車にたくさんの家財道具を積んで横切る男がいた。何しろひとりで大荷物を引っ張っているので、なかなか前に進まない。走って来た女の子は、壁のような大八車に行く手を阻まれ、立ち往生していた。

「あっ。そんな……!」

 由利は絶望的な気持ちになった。
 とうとう電車はプラットフォームに入って来た。今から女の子を捕まえてここに戻ってくるのでは間に合わない。

 前の扉からは、一日の労働で疲れた顔をした人間が、ぞろぞろと降りて来る。後ろの扉へは、これまた仕事を終えたばかりの男たちが、順序良く電車に乗って行った。辰造たちもおとなしく、列の一番後ろについて皆が乗るのを待っている。このままでは辰造たち兄弟は電車に乗ってしまう。

「待って!」

 突然、見ず知らずの女学生が声を掛けてきたので、ふたりの少年はびっくりして目を大きく見開いた。

「やっちゃん、たっちゃんだよね。こんばんは」

 由利は必死だった。

「何やこいつ? 何でぼくらの名前を知っとんねん?」

 辰造の兄である康夫が、乱暴な口を利いた。女学生とはいえ見知らぬ人間に声をかけられたことに、ふたりとも警戒しているのだ。

「ねぇ、この電車には、乗っちゃダメ!」

「何でやねん? ぼくら、お母ちゃんに頼まれて、にいちゃんに弁当を届けに行くんや! 邪魔せんといてや」

 康夫はそう言いながら、電車のステップに足を乗せようとした。瞬間的にむしろに並べられた、冷たくなった小さな体を思い出して、由利はすくみ上がった。

「お願い、お願いよ。電車に乗らないで」

 由利の声は震えていた。由利の懇願の仕方があまりに切羽詰まっているので、このふたりの少年は足を止めて、どうしようかとお互い顔を見合わせた。

「だけど、お母ちゃんに……」

「うん、お母さんにおつかいを頼まれたのよね。だけどわたしも、あなたたちのお母さんに頼まれて、ここに来たのよ。もうお弁当は届けなくてもいいからって」

 ふたりはじっと由利の顔を見つめた。

「あ、ぼく、こいつのこと知ってるで、にいちゃん」

 今度は弟の辰造が、敵愾心も露わに由利をねめつけた。

「だいぶ前にも一度、うちの近くで会うたことがあったんや。そしたらお母ちゃんがな、何や怪しい、うさんくさい人やから、近づかんときって言わはったんやで。それにやな、お母ちゃんが言うとったけど、こいつ、アメリカとのあいの子やって」

 由利が一瞬ひるんだ顔をしたのを見て、兄の康夫のほうがすかさず、さらに追い打ちをかけた。

「嘘つかんときや! うっとこのお母ちゃんが、あんたみたいな見ず知らずの人に、そんなことを頼むはずないわ!」

 そこまで看破されて、由利は進退が極まった。

―お願いっ、助けて!

 思わず由利は、何者かに祈った。

 それから努めて何事も無かったかのように、ふたりの少年に向かってにっこりと微笑んだ。

「うん、わかってる。それじゃあ、この一本だけ見送ってくれないかな。どうしても行きたいのなら、次の電車に乗ればいい。言うことを聞いてくれたら、お姉さん、君たちにいいものあげようと思うんだけど」

 由利は魅惑的なことばで少年たちを釣ろうとした。そしてとっさに自分のポケットの中に手を突っ込んで、子供たちが喜ぶようなものはないかとまさぐった。すると指先にサイコロ状のものが当たった。

―あっ、常盤井君がくれたチロル・チョコだ―

「ねぇ、君たち、チョコレート食べたくない?」

 由利はポケットにあったチロル・チョコをひとつ取り出し、手品でよくやるようにチョコを親指と人差し指に挟んで、少年たちの目の前をゆっくりと横切らせた。

 その場にいた人は誰しも、その小さな四角い粒に目を吸い寄せられた。光沢のある赤い紙で包まれたチロル・チョコは、戦後まもないこの時代にあって、抗うことのできない強烈な力を発揮した。たちまち少年たちは、うっとりと目の前に差し出された小さな粒を見て、ごくんと唾を飲み込んだ。

「もしこの電車に乗らないでくれたら、このチョコレート、君たちにあげるよ」

 少年たちはもう一度顔を見合わせた。そうこうしているうちに戸口に立つ車掌が、少年たちに言った。

「あんたたち、乗るの? それとも乗らないの?」

 由利はポケットにあった残りのチョコレートを両手に載せ、少年たちの目の前に差し出した。

「ほらっ、どう? このチョコ、君たちに全部あげるから! ね、お願い、この電車だけには乗らないで! お願い! ほかのことは言うことを聞かなくていいから!」

 少年たちの目は由利の手に載せられた三粒のチロル・チョコにくぎ付けになった。由利は少しずつゆっくりと後ずさりして、ふたりが電車のステップから離れるように誘導した。幼い男の子たちは催眠術でも掛けられたかのように、ふらふらとついてきた。

 やがて人であふれかえっている電車の戸は閉まり、動き出した。それと同時に先ほど大宮通りで通せんぼされていた少女が電停に駆け寄ってきた。少年たちはその少女を見ると、声を挙げた。


「ねぇちゃんや! ねぇちゃん!」

 駆け寄ってきた少女は、どうも辰造たちの姉らしかった。

「ああ、しんど。よかった、間に合ったんやね。やっちゃん、たっちゃん、お母ちゃんがな、お弁当を届けなくてもいいって言わはってんよ。となりの小父さんが街へ行く用事があるさかい、代わりに届けてくれるんやて」

「ほなら、約束やで! チョコレート、ちょうだいな」

「ああ、そうだったわね、はい、どうぞ」

 チョコレートを手渡すと、辰造たち兄弟三人はうれしさのあまり、飛び跳ねるように家に帰って行った。それを見て由利は、安堵のあまり深く息を吐いた。

 それから事故が起きて人垣に囲まれる前に一条戻り橋を目指して駆けだそうとしたが、どういうわけかまた、突然自分の視界が狭まり紫色になって立っていられくなった。



―ああ、どうしよう。こんなところで気絶したら元の世界へ戻れなくなってしまうのに―

 本来ならそのまま道路に頭から真っ逆さまに激突したのだろうが、そのとき由利をさっと受け止めてくれる人間がいた。
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境界の旅人 37 [境界の旅人]

第十章 真実




 結局ファレドは、二十二日に関空に到着してそのまま京都のホテルへ一泊することになった。一方玲子は娘の由利と会うため、ホテル・オークラ京都で十二時半に食事をするために京料理・入舟の個室で待ち合わせすることになった。

「あら、由利。どうしたの、あなた和食が好きだったかしら? 洋食にしてもいいのよ」

 玲子はびっくりして由利に問い質した。

「ああ、いいのよ。たまにはこういうしっとりしたのもいいかなって。あたし、京都に来て、茶道部に入ったじゃない? 今、そういうのに凝っているの」

「そうなの?」

 母は別にそれ以上は追求してこなかった。

 由利は佐々木と相談して、ファレドが一応フランス育ちのリベラルなムスリムとはいえ、ハラルに則していない食材を使っている可能性が高い料理を食べさせるのは避けた方がいいだろうという一応の結論に達したため、日本食にしたのだ。だがこの場合ふたりが言い争って決裂せずに、仲良く食事をしてくれたらの話だったが。

 あらかじめ部屋を二つ取って、一方の部屋で佐々木と通訳の女性と由利と辰造の四人が待機していた。

 もう一方には先にファレドに入室してもらい、あとから玲子が入るという算段になっていた。その間、ファレドに接するのは、佐々木に一任した。最悪の場合を考慮して、あまり父と娘の双方に情が移りすぎないようにとの配慮からだった。



 由利たちはファレドがレストランにやってくるちょっと前に先に個室へと入っていた。

「うわ、ドキドキする」

 由利は胸を押さえて言った。

「まぁまぁ、そう言わんと。まずは成り行きを見守るこっちゃな。まぁ、せやけど玲子は依怙地になるところがあるからな。フランスさんがやって来ても、そう、すんなりと事が運ぶかどうかはわからんな」

 辰造が達観したようなことを言う。

「そんなおじいちゃん! 初めから諦めたようなことを言わないでよ」

「まぁまぁ、おふたりとも落ち着いて」

 佐々木がとりなすように言った。

「玲子さんだって、このセッティングをおふたりの娘である由利さんがしたんだと知ったら、そんなに無下には扱わないでしょう。やはり両親の仲が良いというのは子供の悲願ですからね。きっと落ち着いて話し合いをされると思いますよ」



 由利は時計をみると十二時半を過ぎていた。玲子は必ず時間を守る人間なので、おそらくすでに部屋の中にいるはずだ。しばらくすると隣の部屋から、ガタっと乱暴に椅子を引く音がするので、佐々木は様子を見るために、立ち上がった。

「ちょっと様子を見てきましょう」

「佐々木さん、あたしも行きます! いえ、行かせてください」

 由利と佐々木が、部屋の中へ入ると、憤った顔をした玲子が退室しようとしてか、戸口の前に立っていた。

「ママ・・・?」

「由利? どうしてこんなことをするの? ああ、こういう茶番劇を演じるように、あの男から言われてたの?」

 強い口調で玲子が尋問した。

「ママ・・・」

 由利はふと自分の視線を、テーブルの向こう側に立っている男性に向けた。ファレドは手紙の通りに誠実で温厚そうな紳士だった。

「オオ、アナタガ、ユリサンデスネ? オアイシタカッタデス」

 ファレドはこの部屋にいる少女が初めて会う自分の娘だとわかったようで、感の極まった表情をしながら片言の日本語をしゃべった。

「よして、ラディ! あなたなんかに大事な由利は絶対に渡せないわ!  由利は、由利はね、私だけのものよ、私だけの娘なの! あなたなんか関係ないのよ。帰ってよ!」

 玲子の目から涙がみるみるうちに溢れて来た。

「ママ、ママ! 落ち着いて。落ち着いてよ。きっとママはファレドさんのことを誤解しているんだと思うの。ね?」

「この人はね、由利。誠実そうな善人面で私に近づいてきて、さも真剣に愛しているかのように甘いことばで私を誘惑していたくせに、実は歴とした婚約者がいたのよ! それなのに、そんなことも知らず、私は由利をお腹に宿して・・・!」

 玲子は床に膝間づいて号泣した。

「レイコ、オネガイデス、ワタシノハナシヲ、ドウカ、キイテクダサイ」

 ファレドはそう言ってから、玲子の方へ歩み寄ろうとした。

「来ないで! 私と娘の傍に来ないでよ! ラディ、あなた何しに来たの? 早くフランスの奥さんのところへ帰って!」

「ママ、ママ! ファレドさんは独身よ。奥さんなんていらっしゃらないわ。一度も結婚したことがないの。ママのことを未だに愛してるって、おっしゃってるのよ」

「そんなの嘘よ! ラディ、帰って、帰って!」

 由利はここまで取り乱した母を見たことがなかった。

「ママ・・・」

 そこへ辰造が入って来た。

「玲子!」

 辰造はいつにない大声で、娘の玲子を叱った。

「お、お父さん!」

 玲子は思いがけない父親の出現に一瞬あっけにとられたようだった。

「玲子、よう聞きや。ファレドさんはわざわざフランスから、おまえに自分のことを釈明しに来はったんやで。それに由利がどんな気持ちでこの話し合いを取りまとめたかを想像してみい!」

「・・・・・・」

 玲子はことばもなく、父の怒号に耐えていた。

「話は最後まできちんと聞くもんや。それからやろ、判断するんは! 子供の前で見苦しく取り乱すもんやないで!」

「おじいちゃん、お母さんを怒らないであげて」

「お母さん、さあ、立って」

 由利は玲子に手を貸した。その横をよろよろと辰造が胸を苦しそうに押さえたまま歩いていく。その顔は真っ青だった。

「ダイジョウブデスカ?」

 辰造を見てファレドが心配そうに声をかけた。

「み、水をくれ」

 辰造はテーブルに乗せられた水の入ったコップを取って口に運ぼうとした。

「気分が悪い・・・」

 そうひとこと言うと、辰造はいきなり、仰向けになってドーンと倒れた。

「おじいちゃん? おじいちゃん!」

 由利は悲鳴に近い声で祖父を呼んだ。

「お父さん!」

 それを後ろから見ていた佐々木は店のものに大声で言った。

「大変だ、すみません。救急車を呼んでください! お願いします!」



 辰造が救急車で病院に運び入れられると、すぐにICUに運ばれた。
 由利たちがタクシーに乗って病院へ着くと、救急車で運ばれた辰造に付き添って行った玲子が、がらんとした待合のほうでひとりポツンと座っていた。

「ママ・・・。おじいちゃんはどうなった?」

「救急車の中でもお父さんは、ものすごく悶え苦しんでいて・・・。今はICUに入れられて、どこが悪いのか調べているところらしいの」

「じゃあ、あたしたちはどうしてたらいいの?」

「一応家族は、病院で待機していてくださいって。おそらくどんなに早くても診断が終わるのは、二、三時間後だって」

 これまでの一部始終を見ていた佐々木は、おずおずと申し出た。

「大変なことになりましたね。いろんな問題が山積みですが、まずはおじいさまのことが目下のところ、一番大事なことです。わたしたちはいったん、宿に引き上げることにします。何かありましたら、またご連絡ください。取り合えずファレドさんのことは我々がしっかりサポートすることにしましょう」

 通訳の女性がこのことをファレドに告げた。ファレドは由利を見て、悲しそうな顔をした。

「ファレドさん、そんなにがっかりなさらないでください。あたしが母に何が起こったのかをあとでききちんと訊き出して見ます。今日はお会いできてうれしかったです」

 由利がそう言うと、通訳がそれをファレドに伝えた。ファレドは由利の心遣いを理解して、口許を少しだけ上げてうなずいた。ファレドと佐々木たち一行は、その場を去って行った。

「お父さん、こんなふうになるんだったら、もっと早く会うんだった」

 玲子が呆然として言った。

「そうよ、ママは頑固だと思ったよ。そりゃあ、おじいちゃんは昔人間だから、たしかに昔風のことをいうかもしれないけど、こんなに何十年も絶縁するほどのことはなかったと思う」

「そうかもしれない・・・。でも、人をそんなふうに責めるのは簡単よ、由利」

「ね、ママ。それより、この手紙読んでみて」

 由利はファレドが自分によこした手紙を玲子に渡した。

「これは?」

「うん、ファレドさんが日本に来る前に、わたしに書いてくれた手紙だよ」



 玲子は渡された手紙を最後まで目を通すと、深いため息をひとつ付いた。

「まさかラディが、ずっと独身を通していたなんて。どうして?」

 玲子は信じられないといったようにつぶやいた。

「ママ。ママはさっき、ファレドさんには婚約者がいたって言ってたけど、あれはどういうことなの?」

 玲子はしばらく考え込むようにじっと黙っていたが、ようやく決心がついたように口を開いた。

「もうこうなってしまったら、あなたには洗いざらい話さなきゃならなくなったってことよね。ごめんなさい。私、これまでずっと由利に無理強いをしてきたのかもしれない、自分の父親はどんな人なのかを考えちゃいけないって。だけどこういうのも子供に対する一種の暴力だったのかもしれないわね」

「ううん、ママ。そんなふうに自分ばかりを責めないで。あたしには理由は分からなかったけど、ママが苦しんでいたのは解っていたよ」

 由利は玲子の手首をぎゅっとつかんでから、顔を見上げた。玲子の目には涙がにじんでいる。

「この手紙にも書いてある通り、私は最初、フランス国立研究所に勤務したてのとき、同じ職場で働いているラシッドと仲が良くなったのね。私はそれまでに日本でフランス語もある程度勉強していたんだけど、やはり現地にきて戸惑うことも多くて。で、彼のほうは大学時代からパリに住んでいたから、土地のことに詳しくて、よくいろんなことを相談していたの。あるとき、アルジェリア人同士の仲間内でパーティをするから遊びに来ないかと誘われたのが、そもそものラディとの出会いのなれそめなのよ」

「そっか。うん・・・そのことは手紙にも書いてあったね」

「そうね。それでラディとはすぐに恋仲になったの。当時ラディは駆け出しの新進画家だったんだけど、彼のような芸術家は私にとっては非常に新鮮で魅力的に映ったの。それまで知っていた小難しい理屈ばかりこねていた男性とは違って、とてもロマンティックでムードがあって優しくて。それでいて男らしい包容力もあってね。私はもうラディに夢中だったわ」

 自分の美しい青春時代を語る玲子の横顔は、いつになく喜びに輝いているように由利には思えた。

「そう、ファレドさんはそんなに素敵な人だったのね、よかった。自分の父親にあたる人がそんなすばらしい人だって知ることができて」

「娘のあなたにこんなことを言うのは恥ずかしいんだけど、私たちが深い仲になるのはそう時間はかからなかったの。私は全然後悔なんかしてなかった」

「じゃあ、なぜ? ファレドさんはお母さんに指輪を用意して、プロポーズをするつもりだったって書いてあったけど」

「そうよね、今から考えると、なぜ彼に会ってきちんと事の真偽を確かめなかったのかと悔やまれるわ。だけど、わたしはあの女のことばを信じてしまったのよ!」

「ママ、あの女って?」

「ある日、研究所に電話がかかって来たの。電話を取った事務員に誰何すると『ヤスミーナ』と名乗る女性からだと言ったわ」

「ヤスミーナ?」

「そう、ヤスミーナってジャスミンのことよ。ムスリマの女性にはよくある名前なの。だから私はラディの知り合いか何かなのかと思って、警戒することなく電話に応じたの」

「それで?」

「ええ、その人は『大切なお話があるから、仕事がひけたら、ぜひ会いたい』って言ったきり、電話で要件を述べることはなかったわ。それで、私は研究所からほど近いカフェを指定して、そこで待ち合わせすることになった。それで実際に会ってみると、その人は『わたしからラディを返して欲しい』というのよ」

「ええ? それってどういうことなの?」

 由利はびっくりして玲子を問い質した。

「ええ、そうなの、私も今、あなたが言ったのと同じことをヤスミーナと名乗る女性に言ったわ。ものすごい美女だったわね。ブロンズ色の肌で彫りが深くてね、それでいて瞳は真っ青な海のような色なの。まずこの人の美しさ、女王ように毅然とした態度に気圧されてしまっていたわね。聞くところによると、彼女はラディの生まれたときからの許嫁(いいなずけ)であって、アラブ人社会では親同士が決めたこの契約は絶対だっていうのよ。そのとき、こんな美しい人が婚約者なのだったら、今の話は本当かもしれないと一瞬心が怯んだのを覚えているわ。でも私はラディを愛していたし、信じていたから、そんなはずがないってヤスミーナに言い返したわ。でも」

「でも?」

「ヤスミーナは言ったの。『ラディがあなたに近づいたのは、あなたが異教徒だから』だって。『イスラム社会では、男性が同じイスラム教徒の女と不適切な関係を持つことは大きな罪だけど、レイコはムスリマじゃないから、その罪を問われることはない。だからラディが息抜きのために付き合っているのに過ぎない。ラディがあなたのようなブディストの東洋人と真面目に結婚など考えるはずがない』って。それで『もうすぐ私たちは結婚する。だから彼は今、自分の女関係の身辺整理をしている。だからわたしは彼に頼まれて、あなたに別れるように言って欲しいと命じられた』と言ってきたの」

「まさか、そんな話をママは信じたの?」

「ええ、そのまさかよ」

 玲子はぽたりと涙をこぼした。

「ヤスミーナは言ったわ。『アルジェリア人の人間関係は一種の氏族社会が浸透しているから、親同士のこういった約束は絶対だって。もしレイコが意地を張ってラディと別れないののなら、ラディはもちろんのこと、ラディの父親もアラブ人同士の仲間内から信頼を失えば、面目も失うんだって。それにきちんと婚約もしないうちから、男に身体を任せてしまうようなふしだらな女は、誰も相手になんかしないものだって。ラディとあなたは絶対にうまくいきっこないのだ』と罵倒されたのよ」

「どうしてヤスミーナって人は、そんな込み入った事情まで知っていたのかしら?」

「そうよ、私も耳を疑ったわ。私とラディが真剣に付き合っていることなんて、ほとんどの人は知らないことだわ。深い関係だなんて、どうしてヤスミーナが知っているんだろうって思ったわ。だけどつぎの瞬間、これはラディが直接ヤスミーナに話したに違いないって思ったの。そのとき、逆上してしまったのよ。私はラディにとっては、単に尻軽のお気楽な遊び相手に過ぎなかったんだって。ちょうど私は時を重ねて、あなたを身ごもったことを悟ったの。で、決心したのよ。ここは一刻も早くパリから離れて、日本に生活の基盤を求めるべきだってね。職場には適当な理由をつけて辞めたのよ。それから東京の郊外に家を借りて、すぐに保育所へこれから生まれる子供が入れるように手続きを取ったわ。さいわいなことに日本の国は母子家庭を優先して子供を保育所に入れてくれるから、助かったのだけれどね」

「ママ、大変だったのね。でも理解できる、その気持ち。あたしがママだったらきっと同じことをしていると思うよ。愛している人から裏切られたと思ったらそんなふうに自暴自棄になると思う。だけどママはちゃんとあたしをこの世に産み出して、育ててくれたじゃない?」 

「由利、ありがとう」

 母と娘はぎゅっとお互いを抱きしめあった。







 四時過ぎぐらいに、玲子母娘はICUの看護師に呼ばれた。

「小野辰造さんのご家族の方でいらっしゃいますか?」

「あ、はい」

「五時過ぎくらいから担当となられた先生の説明がありますが、その前に患者さんと少しだけお話ができます。お話しされますか?」

「はい」

 由利が答える前に玲子がすでに答えていた。

 看護師に命じられる通り、部屋に入る前に頭にキャップをしマスクを着け、手をまず石鹸で洗い、そのあと再びアルコールで完全に消毒して、中へ通された。

 看護師に誘導され、透明なビニールで仕切られた一画に通されると、複雑な機器に囲まれたベッドで辰造は横たわっていた。身体にはいろいろと点滴の袋が下がっていた。

「お父さん!」

 玲子はすでに悲しみと自己嫌悪で決壊しそうになっていた。それを見て看護師は玲子に言った。

「患者さまは今、非常に重篤な状態にありますので、くれぐれを興奮させるようなことはおっしゃらないでくださいね。お時間は二三分もめどにお願いします」

 玲子は辰造の手をしっかりと握り締めた。

「お父さん、わたしよ。玲子よ、玲子が来たわよ。由利も一緒よ」

「玲子か・・・」

「ええ、お父さん」

「よう戻って来てくれた」

「ごめんなさい。もっと早くに来るべきだった」

「ええ、ええ、玲子、謝らんかて。結局顔が見れたんやさかい。わしは満足やわ。せやけどな」

「お父さん、何?」

「玲子、意地を張らんと人を赦さな。分ったな」

「ええ、ラディのことね。ありがとう・・・」

 この期に及んでも、辰造は娘のことを案じていた。玲子は涙ながらに大きくうなずいた。辰造はそれを見ると、今度は横にいた由利のほうに目を移した。

「由利か・・・」

「おじいちゃん・・・」

 弱弱しい祖父を見て、由利は絶句した。

「由利・・・これまでのいろんなこと、ほんまにおおきにな」

「おじいちゃん!」

「おまえと一緒にいられて楽しかったわ」
 
 看護師がタイミングを見計らって言った。

「これ以上話されると、患者さまの身体に負担がかかりすぎますので」

 玲子と由利は涙ながらに退室した。
 部屋の外に出ると、看護師が由利たちに向かって言った。

「これから担当医となられます先生からのお話があります。おそらく手術の話になると思います」

 しばらくすると小部屋に通され、医師から説明があった。

「お父さまは『大動脈解離』ですね」

「それはどういう病気なのですか?」

「はい。大動脈は、外膜、中膜、内膜の三層構造となっているんですね。ですが、何らかの原因で内側にある内膜に裂け目ができ、その外側の中膜の中に血液が入り込んで長軸方向に大動脈が裂けることを大動脈解離と言うんです。辰造さんの場合はICUに入ってこられた段階で、まずは痛みを和らげ、収縮期血圧を100~120mmHg以下に保つことを目標に、十分な薬物療法が行なわれました。今のところは落ち着いてはいますが」

 医師は液晶の画面に図を映し出して説明した。

「ですが裂け目が心臓に近い箇所にまで及んでいますので、手術は必至となります。手術では、裂け目がある部分の血管が人工血管に置き換えられます」

 説明は一時間以上にわたった。
 それだけでもへとへとになっていたのだが、さらに説明は辰造が倒れたときに脳挫傷した可能性もあるとかで脳外科医の見解、そして麻酔医からの麻酔をかけたときの生還のリスクなどそれぞれに一時間近くも話され、しかもそれらがノンストップで淀みなく行われるわけではなく、ひとつの話が終わったあと、またたっぷり三十分以上は待たされるので、疲れ方も半端なかった。その時点で時計はすでに八時を回っていた。

「ママ、これで全部話が終わったんだろうか?」

「どうなのかしらね。いずれにせよ、全部聞かなきゃ手術してもらえないんだから。聞くしかないのよ」

 玲子は少し憮然とした面持ちで言った。

「ねぇ、ママ。お医者さん、ひとりひとり、言うことが微妙にずれてなかった?」

「まぁ、それぞれが専門とするところが違うから、そんなもんなんでしょ?」

「インフォームドコンセントってさ、あれってするだけムダじゃない? だってさ、それを聞いて、手術を拒否する力なんか家族のあたしたちにはないじゃない? ずうっと言われっぱなしでさ」

 由利は母親に向かって不服そうに文句を言った。

「まぁ、この世の中、訴訟社会だからね、そうしないと万が一のとき、訴えられることもあるから、仕方ないのよ」

 玲子は由利をなだめたが、ふと思いついたように言った。

「あ、由利。すっかり取り乱して忘れていたけど、私はとりあえず会社に電話しなきゃ。こんな状態じゃ、しばらくここにいるしかないでしょうしね。まさか由利をひとりにさせるわけにも行かないし。ここでちょっと待ってて」

 玲子はいったんICUの病棟から離れて行った。

「うん」

 由利は疲労困憊して、何をするでもなくぼうっと椅子に腰かけていた。だたでさえ祖父のことが心配なのに、状況や手術の説明をくどくどと聞いたり、入院や手術するための同意書などの煩雑な事務手続きをするのは身体を妙に疲弊させた。

 すると向こうのほうから両手に買い物バッグを下げた男の人が近づいて来た。廊下が暗かったので判らなかったが、それはファレドだった。由利は驚いて、はじかれたように立ち上がった。

「ユリサン!」

「ファレドさん! どうして?」

「アナタタチ、オ昼カラ、何ニモ、食ベテナイノデハナイデスカ?」

 ファレドは一方の手に提げていた買い物袋を由利に手渡した。中には手に持って食べやすいような手巻き寿司、咀嚼しやすいスフレなどの咀嚼しやすいお菓子、そして飲み物などがたくさん入っていた。

「うわぁ、ありがとうございます。早速ですけど、いただきますね」

「ドウゾ、ドウゾ」

 由利はとりあえず、カラカラに喉が渇いていたので、グレープフルーツジュースを飲んだ。

「ファレドさん、ものすごく日本語がお上手なんですね」

 ひとごこちついたあと、由利はファレドに言った。

「日常会話グライナラ、ドウニカコウニカ話セルミタイデス」

「せっかくはるばるフランスから来ていただいたのに、こんなことになってしまって」

「イエイエ。レイコヤ、アナタガピンチノトキニ、居合ワセルコトガデキテ、カエッテヨカッタノカモシレマセン」

 そうこうしているうちに、玲子が帰って来た。由利の傍にファレドがいるのを見てびっくりしていた。

「ラディ!」

「ママ。ファレドさんが、あたしたちに差し入れを持って来てくれたの」

「そ・・・うなの? それはどうも御親切に。ありがとう。ラディ」

 玲子はラディにどう接していいのかわからず、戸惑っていた。

「レイコ、コレハアナタニ」

 ラディは玲子にもう一方の手提げ袋を差し出した。

「レイコ、佐々木サンニ、聞キマシタ。レイコハ、日帰リデ京都ニ来タノダト。ダカラ、泊ル用意ハ、シテナイノデハナイカト思イ、差シ出ガマシイデスガ、通訳ノ女性ニ頼ンデ、身ノ回リノ物ヲ買ッテモラッタノデス。ワタシハ、レイコニ失礼ナノデ、中身ハドンナモノガハイッテイルカ、ハワカリマセンガ、タブン役ニ立ツト思イマス」

 ファレドは玲子たちが病院に缶詰にされている間、玲子の身を案じておそらく自分のできることをしたのだろう。今の状況では病院から一歩も出られないのはたしかなので、この気遣いは女である玲子にとっては理屈抜きで非常にうれしかった。玲子はファレドの昔から変わらぬ優しさに触れて、ことばが出ないようだった。

「サアサア、レイコモ、ナニカ口ニイレタホウガイイデスヨ。レイコハ、コレガ好キデシタネ、好ミガ変ワッテナケレバイイノデスガ」

 ファレドは玲子にオランジーナとオムレットを手渡した。

「ラディ、こんな些細なことまで覚えていたの?」

 玲子は感激のあまりほろほろと涙を流した。玲子はファレドに昔の恋が決裂した原因を仔細に聞いて納得したわけではなかったけれど、すでにそんなことはどうでも良かったらしかった。少なくとも自分の一大事のときに、こうやって傍に寄り添ってくれているのだから。

 ひんやりとしてのど越しのよいジュースと甘いお菓子は、それまで緊張して張り詰めた気持ちでいた玲子と由利には何よりおいしく感じられた。そんなふたりを見ているファレドの目は優しく和んでいた。



 九時を過ぎたところで、看護師が玲子たちに手術の用意ができたと告げに来た。

「先生と手術室の用意ができ次第、オペを始めます」

 しかしそうは言ってもなかなか、始まらなかった。由利はだんだんと焦って来た。

「どうしよう・・・」

 由利たちは、手術前の家族が待つ専用の控室に留まるように言われていた。

 由利は待合室で待機しているときは、何をするわけでもなく時間を持て余していたので、常磐井には祖父が倒れた状況を詳しく文章にしてLineで送っていた。常磐井も一応、由利が今どんな状態に置かれているかは理解したようだった。常磐井からは「十時を過ぎたら、あとはお母さんがついているのだから、とりあえずそこは任せておまえは家に戻って来い」と伝えてきた。

 たっぷり一時間待って辰造は可動する寝台に乗せられ、三人の看護師に付き添われて、手術室までやってきた。

 玲子はラディと辰造の傍に行った。

「お父さん、頑張ってね。私ずっとここで待っています」

 辰造は玲子の傍にファレドがいるのを見ると、ふっと安心したようにわずかに微笑んだ。

「玲子、幸せになるんやで、幸せにな」

「ファレドさん。ほんまにありがとう。玲子をよろしくお頼申します」

「辰造サン・・・」

 辰造はそれだけを言い残して、手術室に運ばれていった。

 看護師は玲子たちに告げた。

「手術の目安ですが、一応手術は明日のお昼ぐらいまでかかると思っておいてください」

「そんなに時間がかかるのですか!」

 玲子は驚いて看護師に訊いた。

「ええ、大手術ですよ、小野さん。病院には家族の方用の仮眠室もございますので、そこで待機してください。途中で緊急事態になるかもしれませんのでね」

「じゃあ、由利、そこへ行きましょうか?」

 由利は勇気を出して母に告げた。

「ママ、ごめんなさい、あたし、ちょっと用を思い出したの! すぐにここに戻って来るから、いいかな?」

「用って何? そんなに急ぐこと?」

 玲子は怪訝な顔をして訊いた。だが娘の顔からは必死なものが漂ってきたので、それ以上止めだてすることはできそうもなかった。

「すみません、ファレドさん。あたしがいない間、母と一緒にいてもらっていいですか?」

「モチロン、構イマセンヨ。ワタシハココニ、レイコトイマス」
「ありがとうございます! じゃあ!」

 由利はそう言い残すと、その場を駆け出した。

 病院の玄関の外に出ると、待機しているタクシーに乗り、由利は運転手に自分の家の住所を言った。スマホを見ると十時十五分を過ぎている。家に着くのがおそらく十分、制服はすでに用意されて自分の部屋に掛かっている。それに三つ折りのソックスも机の上にきちんと置かれている。たしかローファーの革靴も下駄箱のすぐ出るところに置いたのを今朝も確認していたはずだ。

「由利、落ち着け、落ち着くのよ」

 由利はパニックになりそうな自分へ冷静になるように言い聞かせた。

 タクシーが家の前に着くと、由利はバッグからキーホルダーを取り出して、鍵穴に差し込もうとした、だが手が震えてなかなか鍵穴に入らない。

「ううっ、もうあたしったら」

 鍵穴に鍵を突っ込んで何度ガチャガチャやっても、くるりと解錠してくれない。

「もう、何やってんだよ、由利」

 背後から、誰かが自分の手を取って鍵を回してくれた。だがもう声だけで、それが常磐井だと判った。

「常磐井君、来てくれたのね!」

「うん。大変だったな、おじいさんのこと。十時ぐらいからここでずっと待ってた。だけどもうここでのんびりしてる暇はねぇよ。早く着替えろ! おれは下で待ってる」

「うん」

 由利は急いで、それまで着ている服を脱ぎ捨てると、学校の制服のブラウスを着、スカートを履き、最後にブレザーを着た。そしてこの日のためにわざわざ用意した、白いソックスを三つ折りにして、その上に紺のダッフルコートを着た。

 由利が急いで降りてくると、常磐井は下駄箱にローファーがあるのを見つけておいてくれたのだろう、靴はすでに玄関に出ていた。

 玄関を出ると、やはり常磐井が由利に代わって玄関に鍵を掛けてくれた。

「まだ、十時四十五分だ。ゆっくり行っても充分に間に合う。大丈夫だ。焦らなくていい。由利。今は雑念を振り払ってひとつのことだけに集中しろ、いいな」

「うん」

 コンビニに着くと、やはり店の中には店員以外、人がいなかった。時計を見ると、まだ十一時になるまでには五分ほど時間の余裕があった。

 気が付けば、常磐井はカウンターの前に置いてあるチロルチョコを五つほど買っていた。

「常磐井君。よくそんなチョコレートなんか買う気持ちの余裕があるね」

「いや、ピンチなときほど、こういうことが必要だとオレは思うけどね。はい、食べて」

 常磐井はチロルチョコの紙を剥いて由利に手渡した。

「ふぅ、甘い・・・!」

「そう、今日の由利は頭の使い方が半端なかっただろう? だから甘いものが効くんだ」

 そう言いながら自分もひとつ食べて、残りの三つを由利のポケットに入れた。

「じゃあ、打ち合わせ通り、おれは一条戻橋の西側に立って待っているから。しっかりやれよ!」

 時計が十一時を指した。

「じゃあ、常磐井君、頑張ってくる!」

「おう!」

 由利は常磐井の瞳を見つめて言った。常磐井は行けと言うようにうなずいた。

 コンビニの自動扉を開けて由利は外へと駆け出して行った。

 常磐井が遅れて外へ出ると、すでに由利の姿はそこにはなかった。



読者のみなさまへ

この小説はフィクションですが、京都案内という意味を兼ねまして、一般の方々がご利用できるお店や場所・地名などは一部実名で書かせていただいております。一方、由利や美月の通う「桃園高校」および、宗教団体等はすべて架空です。そしてこの作品に出てくる宗教的概念もすべてフィクションであることを予めご了承ください。




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境界の旅人 36 [境界の旅人]

第十章 真実



 すでに師走にも入って二三日ほど過ぎたある日の夜遅く、由利がメールをチェックしていると佐々木弁護士からメールが届いていた。

「何だろう・・・? DNA鑑定の結果が分かったのかな?」

 由利は不安な気持ちで佐々木からのメールを開いた。



「由利さん、こんにちは。いつもお世話になっております。
 ご都合のつく時間にこちらへ一度お電話をいただけませんか?
 多少時間が遅くても結構です。夜はだいたい一時まで起きています。
 一刻も早くご連絡を差し上げたいことがあります」



 メールの文面を見から、由利は思わず部屋に掛かっている柱時計を見上げて、今何時なのかをチェックした。十時半。文面では一時まで大丈夫ということらしいので、とりあえず電話を掛けた。電話は三コールもしないうちに相手が応答した。

「ああ、由利さんですか?」

 佐々木の声は明るかった。

「はい。メールを拝見しまして、夜分遅くて失礼かとは思ったのですが、お電話させていただきました」

「そうですか。由利さん、DNA鑑定の結果が判りましたよ!」

 やはりそのことだった。由利の心臓は一気に跳ね上がった。

「そ、それで結果は?」

「はい、相手の方とは、親子関係であるということが立証されました。日本の機関、フランスの機関、どちらも同じ結果が出ています」

「そ、それで? あたしはどうしたらいいのでしょうか?」

 由利の頭の中は真っ白になった。

「由利さん、落ち着いてよく聞いてくださいね。相手の方の名前は、ラフィク・ファレド(Rafik Khoulaed)とおっしゃる方で・・・」

「ラ、ラヒ・・・?」

 発音が非常に難しい。一度聞いただけでは覚えきれなかった。

「ハハ、難しいですね。ラフィク」

「ラフィク?」

「そうです。名前がラフィク。そして苗字がファレド」

「ハレド?」

「いえ、ドレミファのファ、です。ファレド」

「ファレド?」

「そうです。ラフィク・ファレド氏です」

 由利は急いでそこらへんにある紙の上に、ラフィク・ファレドとメモをした。

「この名前ってイスラム圏の名前ですよね?」

「そうですね。でもこの方は、いわゆるアルジェリア系フランス人なんですね。お父さまがアルジェリア人でお母さまがフランス人ですが、国籍はフランスです」

「そうなのですか・・・」

 由利は初めて知らされた新たな事実に呆然としていた。

「で、それでですね。私、ファレド氏からお手紙を預かっています。ただファレド氏はもちろん英語もおできになるけれど、このような繊細な内容については自国語であるフランス語を使ってしか書けないとおっしゃっていたんですね。ですから彼がお書きになったフランス語の手紙を、いったんきちんとした日本語にして由利さんのほうへお届けして欲しいという希望がありまして。やはり誤解が双方にあっては困るとおっしゃいましてね。翻訳に少し手間取りましてね。だからこんなにご連絡するのが遅くなりました」

「そうなんですか・・・」

「近いうちにお手紙を届けにそちらへ伺いたいのです。由利さんはこの週末の土曜日か日曜日にお時間を空けることはできますか?」

「ええ。あたしは土曜でも日曜でもどちらでも構いません。でもできれば、祖父があまり体調が思わしくないので、できれば佐々木さんには自宅にの方へ来ていただきたいのですが」

「おや、おじいさまのお加減はよろしくないのですか?」

「ええ。そうなんです」

「それは由利さんもご心配でしょうね」

 佐々木は少し由利に同情しているようだった。

「ありがとうございます」

 ふたりの間には少し沈黙が続いた。気を取り直すように佐々木が言った。

「ああ、ファレド氏が実のお父さまと判ったことですし、寄せていただくことにいたしましょう。それでは土曜日の昼イチでどうです? つまりの土曜日の一時ぐらいに由利さんのお宅へ伺うということでよろしいでしょうか?」

「はい、ぜひ! お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」



 その週末の土曜日に佐々木は由利と辰造が住む家へとやって来た。

「さっそくですが、由利さん、これがうちの事務所が専門の業者を雇って、日本語訳させた手紙です、どうぞご覧ください」

 そういって佐々木は由利に手紙を渡した。


 ユリ、わたしのまだ見ぬ最愛の娘。

 このような出会いを用意してくれていた運命に、限りなく感謝しています。

 わたしは現在、フランスの東北部のナンシーという都市の美術大学で教鞭をとりつつ、自身の作品も手掛けています。

 そう、わたしの生業は画家です。驚かれましたでしょうか? 

 ナンシーで職を得て当地に住んでいますが、実は生まれも育ちもパリなのです。ですからパリに行く機会があれば、かならず自分と青春を共に過ごした画家仲間に会うのが習慣となっています。

 あのときもそうでした。

 ちょうどそのときパリに赴く用事があったので、わたしは本来の仕事を済ませたあと、画家仲間に連れられて、『他分野の芸術家の交流パーティ』というものに出席しました。まったくの偶然ですが、広いパーティ会場の一角に通りかかると、五、六人の人々が一枚の写真を取り囲むように見入っているではありませんか。わたしも気になって、ふとその写真へ傍目からちらりと目を走らせました。

 するとそこにはなんと、若い時分のわたしとこれまでの自分の人生で最も愛しくて片時も忘れられない女性であるレイコが写っていたのです。
このときのわたしの気持ちをあなたにどう説明したら、解ってもらえるでしょう? 

 思わず我を忘れて人垣をかき分けるように進んで行き、写真を持っている人の手からひったくるように取り上げると、しげしげとその写真を見つめました。

 やはりそれは間違いなく自分とレイコでした。

 わたしは写真を取り囲んでいた連中に向かって訊ねました。「あなたがたはどういうわけでこの写真を見ているのか」と。

 するとその中の中心人物らしき男が進み出て、それまで自分の傍らに付き添っている東洋人の少年を指して答えました。

「自分はピアニストでこの若い東洋人を一人前にするために指導しているのだが、彼は日本の友人から手紙を託されて、写真の人物を捜しているのだそうだ」

 わたしは彼が友人から託されたという手紙に再び目を通しました。

『私は十六年前に当研究所で研究員として在籍していたレイコ・オノの娘で、ユリ・オノといいます。私は今、ある理由があって母と同時期に貴研究所に在籍していたラシッド・カドゥラ氏と連絡が取りたいのですが、もし貴研究所が現在のカドゥラ氏の住所をご存じであれば、カドゥラ氏に連絡を取っていただき、レイコの娘がカドゥラ氏からの連絡を望んでいるとお伝えして欲しいのです・・・』

 

 その手紙はこの写真に写っているわたしのことを『ラシッド・カドゥラ氏』だと勘違いしているようでした。わたしも彼も名前が「ラフィク」と「ラシッド」とRで始まるアラブ系の名前です。ですからふたりとも皆に「ラディ」と呼ばれていました。 

 ラシッドは、わたしとレイコをつなぐキューピッドのような存在です。わたしはパリ育ちといいましたが、移民一世の父はアラブ街がある十八区に家を持っていました。そこでわたしは育ったのです。ラシッドは父の故国であるアルジェリアからパリに留学するに際し、故国でつながりのあるわたしの父のつてを頼って、フランスにいる間ずっとわたしの家に下宿していたのです。 

 ラシッドは大学院を出たあと、レイコと同じ研究所に勤めていました。つまり彼はレイコと同僚の仲だったのです。わたしはあるとき仲間内の集まりで、彼からレイコを紹介されたのです。出会いはそこから始まりました。この写真も彼らのかつての職場であった研究所の前でラシッドが撮ってくれたものです。 

 彼は今、アルジェリアに帰っています。やはりあのパーティで出会ったピアニストが働きかけてくれたのか、かつての勤め先であったフランス国立研究所経由でユリの手紙が送られて来たそうで、しばらくしてわたしにラシッドから連絡が届きました。

 さて話は元に戻りますが、わたしはこのときまで、レイコは日本に帰って結婚したのだとばかり思っていました。ですからユリも当然、レイコがその結婚した日本人男性の間に生まれた娘だと信じていました。

 わたしはとりあえずこの手紙と写真をコピーしなければならないと思い、件のピアニストに許しを得た上で借り受け、パーティ会場の事務室までコピーを取りに行ったのです。

 レイコの娘であるユリがわたしを捜す理由は何だろうと、その間ずっと考えていました。さきほどユリの友人であるという東洋人の少年はまぁせいぜいで十七、八歳ぐらいでしょう。東洋人は我々の目からは非常に若く見えるのです。実際にレイコも初めてわたしの目の前に現れたとき、どうみても高校生ぐらいにしか見えなかったことを思い出しました。

 そのとき、ハッと閃くことがあったのです。

 もしかしたらユリはわたしの娘ではないのか。そしてユリにわたしの血が流れているのなら、もはやそれは生粋の日本人とは言えず、そのことでユリは苦しんでいるのではないかと。そうだとしたら当然彼女は自分の父親と自分の血の繋がりを疑うはずでしょう。

 それでわたしはこのデリケートな問題を解明するため、専門家を雇うことにしました。それが佐々木氏というわけです。

 佐々木氏はわたしに代わって、よく調査をしてくれました。そこで驚くべき真実が次々と浮かび上がったのです。レイコは突然わたしの前から姿を消しました。当時、近々結婚するつもりで指輪も用意し、プロポーズをしようと思っていた矢先の出来事でした。

 ほんの束の間のことかもしれませんが、わたしには本当に彼女と愛して合っていたという確信があります。

 わたしはなぜレイコが目の前から消えたのか解らず理由を知ろうとして、何度もレイコに連絡をとりました。

 レイコは「あなたのことは恋人として愛していた。だが異国人同士の国際結婚には、いろいろと乗り越えなければならない障害が多々ある。やはり将来のことを考えれば、お互い気心の知れた同胞との結婚のほうが望ましいと思う。だからこれ以上接近してこないでほしい」と返答してきたのです。

 このレイコの木を鼻でくくるようなあまりに冷たすぎる答えに、立ち直れずにこれまでずっと苦しんできました。

 ですがたとえ別れたにせよ、わたしがレイコを心から愛していたのは紛れもなく本当のことですし、今も依然として彼女への愛の火は消えずに燃えています。この心の真実だけは誰にも否定することはできません。

 レイコとの辛い別れのあと、わたしは父親が強く勧める女性と結婚することも一時期考えましたが、しかしそれも断りました。未だにレイコが心の中を占めているのに、それを隠して偽ったまま他の女性を妻にすることは、その女性はもちろんのこと、結局自分をも幸せにしないと考え抜いた結果です。

 佐々木氏の調査の結果、聞けばレイコは日本に帰ったあと、一度も結婚していないと聞きました。わたしは驚きを禁じ得ませんでした。レイコのような魅力的な女性はまたといません。

 当時からレイコに好意を持っている男性がたくさんいたことを知っていました。なぜ彼女は今日の日まで結婚もせず、独身を貫いているのでしょう。もちろん世の中には独身主義の女性もいることは承知しています。でもわたしにはレイコはそういう類の人間だとは思えません。レイコはきわめて女性らしい感性を備えていたと思うのです。 

 そしてDNA鑑定の結果、あなたはわたしの娘であることが判明した。 佐々木氏から、あなたの写真も送ってもらいました。東洋人に特有の、絹のように光沢がある肌、真っすぐなダーク・ヘアーがエキゾチックで、なんて美しい少女なのだろうと感動しました。何よりも意志の強そうな光を宿した目がレイコに生き写しだとわたしには思われます。

 こんな少女が自分の娘であるとは信じられない思いです。

レイコはなぜ、父親であるわたしの出自についてあなたに何も話そうとはしないのでしょうか? わたしはユリにとって恥ずべき父親だとレイコに思われているのでしょうか?

 これはわたしの直観ですが、レイコは何かとんでもない勘違いをしているように思えるのです。

 一度わたしは日本へ行って、レイコとそのことを話す必要があると感じています。

 知らなかったとはいえ、わたしはこれまでにユリを育てる全責任をレイコに押し付けてきました。今更父親風を吹かせるわけではありませんが、ユリと血縁で結ばれていると判った今は、自分にできることは何かを考えています。そしてそれをレイコとユリに申し出るのが、父親であるわたしにできるせめてもの誠意ではないかと考えているのです。

 ですがその一方でレイコは、わたしと会うことを拒否してくるかもしれないと案じています。

 ユリ、どうにかわたしとレイコが話し合えるように、場を設けて欲しいのです。会えばきっとこれまでの誤解が溶けるのではないかと、つい期待をしてしまいます。まぁ、それでも、もとの愛し合うふたりに戻ることはないと判ってもいますが。

 もちろんユリ、あなたにもじかにお目にかかりたいと心から望んでいます。

 あなたのほうからも、あなたが今、どんな気持ちでいるのかを正直に聞かせてください。わたしは無理やり、あなたがた親子のところへねじ込むつもりはありません。

  ナンシーより愛をこめて  ラフィク・ファレド





 由利は一読すると、その翻訳された手紙を傍らに座っている祖父のほうへ渡した。辰造もそれを読み終わるとふたりは深いため息をついた。


 佐々木は由利に訊ねた。


「どうですか、お父さまからの手紙は? 率直にどう思われたのかをお聞かせいただけますか?」

「画家だったんですね。この・・・ファレドさんとおっしゃる方って」

「ええ。風景画家でしてね。ナンシーの風景が気に入ってよく絵を描いておられます。結構画家としてはフランスでも有名な方ですよ」

 そう言いながら、佐々木は絵葉書を何枚か由利に手渡した。

「ファレド氏が描かれたものです」

 そこには繊細な風景が描かれていた。早春のやさしい緑が印象的な絵だった。

「魅力的な絵ですね。色調がとてもきれい」

 由利が感想を言った。

「そうですね、日本ではまだ写実が流行っていますが、ヨーロッパではとっくに写実表現は廃れているんですね。ファレド氏が描くものはもっと魂のフィルターを通した心象風景というべきものでしょうね。私は何分、絵画のことには詳しくないので、それ以上のことは申し上げられないのですが」

 佐々木がすこし寂しげに微笑んだ。

「その・・・ファレドさんはもしかして、独身なのですか?」

「はい、ずっと独身でいらっしゃいますね。一度も結婚されたことはないと伺っています」

「ママを・・・、いえ、母のことを未だに愛しているって書いてありましたけど」

「ええ。どうも玲子さんのことが忘れられないらしいです」

「佐々木さん、あたしはまだ高校生なので、大人の事情というものはまだまだ理解できないところも多いのですが、この文面を読む限りでは、ファレドさんは非常に知性の高くて誠実な方のような気がします。ねぇ、おじいちゃん、どう思う?」

「そうやな、わしもこの人から悪い印象は受けんな。せやけど気になるのが、どうして玲子がファレドさんのところから、突然姿を消したかっちゅうことやな。別れるにしてもこんな別れ方はないやろとわしも思う。相手も結婚を眼中にいれて付き合っていたと書いてあったな。しかも玲子はそのとき妊娠していたんやろ? それなのに自分の勝手で、子供の由利を片親にするというのも無責任な話やと思うわな」

 辰造は忌憚のない意見を言った。

「そうだよね。それにファレドさんがDVとかならともかくこれだけ誠実な人だったのに、もし別れたにしても娘のあたしに何の情報を与えないっていうのは、不自然すぎる気がする」

「ふうむ。そやな、たしかに何かわけがあるんやろうな」

 由利はしばらく考えたあと、佐々木に訊ねた。

「このファレドさんという方はムスリムなのですか?」

「ああ、そのようです。国籍はフランスでパリ育ちといっても、ファレド氏は少年時代は十八区にあるアラブ人街で育ちましたから。でも成人に達してアラブ人のコミュニティから離れられたあとは、さほど信仰に篤いわけでもないようです。ハラル料理しか食べないとか、一日五回の礼拝を欠かさないとかそういう戒律を遵守しようとはまったく思っていないみたいですよ。外見からはいたってごく普通のフランス人にしか見えません。まぁ、ファレド氏はもともと何と言ってもご母堂がフランス人ですからね」

「そうなんですね。それではイスラム教の戒律が原因で仲が悪くなったというのでもなさそうですよね。じゃあ、母は何が原因で別れようと思ったんだろう? 佐々木さん、文面にも書いてある通り『レイコは何かとんでもない勘違いをしているように思える』というのはあながち間違いでもないような気がするんです」

「そうですか? あなたはファレド氏がおっしゃる通り、お母さまとファレド氏が再会することに賛成ですか?」

「ええ。母の本当の気持ちを聞かないことには、この話は前に進まないと思うんです。あたしとファレドさんが陰でこそこそ会うことはよくないと思うんですね。やはり母の承諾を得るべきだとも思いますし・・・。母はそんな行き当たりばったりの不誠実な人間じゃないと信じています。もしファレドさんを嫌いになるなら嫌いになるだけの理由があるはずです。あたしだって両親の間に何があったかのかを知りたいんです。それからファレドさんと今後付き合うか、付き合わないかを決めたいです」

「そうですか、それではどうします?」

 佐々木は質問してきた。

「そうですね。母には何か理由を付けて京都に来てもらおうかなって、今考えています。それに母もいつまでも意地を張ってないで、祖父とも会うべきだとも思っていますし」

「そうですか。ではそのことをファレドさんにお伝えしてもよろしいですか?」

「ええ。少し作戦を練りたいと思います。ファレドさんはもし日本にいらっしゃるとしても、年内なんてとても無理ですよね」

「いや、そうでもないみたいです。もうすでにいつでも渡航できるように準備はなさっているみたいですよ」

「じゃあ、もしクリスマスに来てくださいってお願いしたら、京都にいらっしゃることができるのでしょうか?」

「おそらく可能だと思いますよ。そのことについてはご心配なくと言われています」

「あの、こんなこと訊いていいのかどうか」

 由利は困ったようにおずおずと尋ねた。

「ええ、どうぞ。言ってください。構いませんよ。ファレド氏については、知る限りのことについては正直に答えるように言われています」

「ファレドさんて、お金持ちなのですか? だってこういう突然の旅行って、お金がかかると思うんですよね、その、渡航費とか。えっとその、つまり、これまでだって結構調査費用のためのお金もたくさん使われていると思うんですよね。だから無理させていたら、申し訳ないなって思っちゃって。なんか生意気言って、すみません」

「ああ、ファレドさんのお父上が一代で財産を築かれて、それをそっくり相続されていますからね、まぁ、実際、結構な資産家だと思いますよ」

 佐々木は笑いながら言った。

「ああ、そうなんですね。ファレドさんのお金を当てにしているって勘繰られちゃうと、ちょっと嫌なんです。あたしは結局、自分の父方のルーツは何なのか知りたかっただけなので、その人の善意とか罪悪感を利用して養育費や学費を出してもらおうとか、そんな虫のいいことを考えているわけじゃないんです」

「ええ、ええ。お気持ち、解りますよ。でも大丈夫です。由利さんがそういうふうにファレドさんのことを心配なさっていたってお聞きになったら、かえって喜ばれるように思いますけどね」

「そうですか・・・」

 佐々木は由利を励ました。

「物事がいいふうに行くことも私も願っています。では後日メールをお待ちしていますよ」

「はい、本当にいろいろとお世話になります。なるべく早くお返事するようにしますね」





 由利は玲子にLineのメッセージを送った。

「ママ、元気? なんだかんだで今年も十二月に入っちゃったね。ところでママに会いたいんだけど、ちょっと学校の部活やなんかで今年は年末まで忙しいの。で、できることならクリスマスあたりで一度会いたいんだけど、ママってクリスマスあたりに京都に来れない? 理想を言えば一泊二日でもいいし、まぁそれが無理なら日帰りでもいいけど。できればちょっとリッチなレストランでご飯なんかを食べられればいいかなって思ってる。ママの都合を教えて。今日の夜は何にも予定がないので、電話できるようなら電話をちょうだい」



 すると玲子から、十一時過ぎに電話がかかって来た。

「由利?」

「ああ、ママ!」

「あなた、最近どうしたの? ちっとも連絡をよこさないから、少し心配してたの。彼氏でもできてべったりなのかなって」

「いやいや、カレシだなんて。そういう人は今のところはいないかな」

 そう言いながら、由利は脳裏に常磐井の姿を思い浮かべた。

「そういうママはどうなのよ? 信彦さんとはうまくいっているの?」

 何気ないふりをしてついでのように、母に訊いた。

「ああ、信彦? あら言ってなかったっけ? そんなのとっくの昔に別れちゃったわよ」

「あれ、ママ。振られちゃったの?」

「ううん。私から別れを切り出したの。何だかお互い共通点があまりないんですもの。一緒にいても楽しくないのよ。話と言ったら車のことばっかりだし」

「へぇ、そうだったんだった」

 由利は内心、母が恋人と別れたことを聞いて安心していた。

「じゃあさぁ、ママはどんな人が好きなの?」

「そうねぇ、ロマンティックな人かな。話が上手で。ふたりで展覧会とか映画とか行って楽しい人かなぁ」

「へぇ、ママって絵なんかに興味あるの? 初めて聞いた!」

「あら、そうだった? これでもフランスにいたときはしょっちゅう、あちこちの美術館へ行ったものよ」

「おそらくはファレドさんと一緒にだったんだろうと思うけど」と由利は心の中で思った。 

「それからね、由利。ママね、京都には多分、二十七日ぐらいには身体が空くと思うの。まぁ、仕事納めは二十八日だけど、まぁ、一日ぐらい早く切り上げてもいいように一生懸命仕事するわ。そうねぇ、由利とふたりで湯布院あたりに温泉でも行きたいなって思うんだけど、どう?」

「実はね、おじいちゃんの具合があまり良くないのよ」

「えっ・・・お父さんが?」

 玲子がびっくりしたように訊いてきた。

「どんなふうに具合がよくないの?」

「うん、よく解らないんだけど、先月ぐらいから時々熱が出たりお腹壊したりしていて、よくお医者さんに掛かっているのよ。だからあたし、おじいちゃんをひとりにして出かけるってことは当分できないだよね」

「そうなの・・・?」

 玲子の声は心持ち沈んでいた。

「うん。だから、まぁ、本当のことを言うと、ママがおじいちゃんに会ってくれるのが一番うれしいんだけどね。おじいちゃんもママに会いたいって口に出さないけど、京都に来てくれたらめちゃくちゃ喜ぶと思うんだよね」

「まぁ、由利のその気持ちは解らないでもないけど」

 玲子はそれまでとは打って変わって、急に冷めて堅い声を出した。

「私にはそれはできそうもないわ」

「じゃあ、あたしたち、会えないって言うの? それはちょっと酷いよ」

「由利。そうは言ってないでしょ? とりあえず今月は二十三日が空いているの。朝早く出てお昼にどこかで一緒にごはんを食べましょうよ」

 由利はアプリで二十三日は何か予定は入っていなかったかどうか確かめた。すっかり忘れていたが、それはタイムスリップ決行の日だった。今、母と約束すれば、それを佐々木に伝えることになり、ナンシーに住んでいるファレド氏に伝えられることになる。

「大丈夫だろうか」と由利は自問自答した。だが今の母との約束を取り付けないとまた問題が先延ばしにされてしまう。それはやはり避けたかった。

「どう?」

「うん、OKよ。じゃあ、ママ。素敵なところを捜しておくから。楽しみにしていて」

「ありがと、それじゃあね」



 由利は母と二十三日に会うことになったと佐々木に電話で報告することにした。

「そうですか。それじゃあ、それにそのようにファレド氏に伝えないといけないな」

 佐々木は電話口で由利に答えた。

「どこかのレストランで個室を用意してもらって、それであらかじめファレドさんに先に部屋へ入っていてもらうのが、一番この場合うまくいくように思います。事前に母にファレドさんが日本に来ていると言ってしまうと、会うこと自体を拒否するような気がするんです」

「それはそうかもしれないですね」

 佐々木の由利の申し出に同意した。

「あたしはおそらく別室で待機しているほうがいいと思うんですよね。たぶん母とファレドさんはフランス語で話し合うんじゃないかとも思いますし。話がどういうふうに展開するかはわかりませんけど、親子で話すのはそれからなんじゃないかとも思います」

「まぁ、そうでしょうね。それが順当だと思いますね。当日は私もその場所に行きます。通訳もつけるようにしましょう。たぶん由利さんもファレド氏と事前に会うことは控えられた方が無難でしょうね。何しろ娘のあなたのことも大事でしょうが、でもある意味血のつながりという決して否定できないものがあるから安心できる部分もあるのですよ。それに引き換え、ファレド氏にとっては玲子さんのことは未だに過去のことではないらしいのですね。その日は彼にとっては雌雄をかけた戦いになるでしょうし。相当緊張されているはずです。だからあなたとなごやかにお話しする気持ちの余裕もないでしょうからね」



 そのあと、由利はとりあえず美月に学校でそのことを報告しなければならなかった。


ふたりはまたいつものごとく、茶道部の顧問室に籠った。由利はファレド氏からもらった手紙を見せながら、これまでのことを美月に話して聞かせた。

「美月、ありがとう! これまでのことはすべて美月のお蔭だよ!」

 由利は美月の両手を握って礼を言った。

「本当に良かったね、由利。やっと念願が叶ったね」

 美月の目にも感動の涙が浮かんでいた。

「美月があのとき、小山先輩にも添削してもらったほうがいいって言ってくれたことが、功を奏したんだよね。先輩はあたしがフランス国立研究所へ送る手紙を添削したあと、手紙と写真のコピーを自分にも欲しいと申し出てくれたの。何かの折にそれを見せる機会があるかもしれないからって。結局のところ、小山先輩のベルリンの先生がパリのパーティ会場でパリのピアニストの友人にあの手紙を見せたことで、ファレドさんの目に留まることになったんだもの」

「そうなんだねぇ、そんな偶然ってあるんだね」

「うん」

「それにしても、お父さんがラシッド・カドゥラさんじゃなくて、ラフィク・ファレドさんっていうのには驚いた。結局、由利がお母さんの書斎で捜した写真とは違う人だったんだね」

「あの写真は不鮮明でイマイチ、決め手に欠けてた」

「でも、実はお父さんの家の下宿人だなんて・・・」

「すごい偶然」

「うん。すごいよ。それにさ、結局こうなってみると、由利って、日本の血が半分、アルジェリアの血が四分の一、フランスの血が四分の一なんだよ。すごすぎるね。いろんな血が入っている」

「うん。本当にそう。でも判ってよかった。やっぱり諦めないで捜してよかったって思っているよ」



 そのあと由利はもうひとり大事な人間に、報告しなければならないことがあった。由利はいつものように部活を終えたあと、急いで船岡山へと向かった。

「常磐井君!」

「由利!」

「どうしよう、常磐井君。タイムスリップする日と、父と母が会う日がバッティングしてしまって」

「うん。だけどタイムスリップは夜の十一時じゃないか。お父さんやお母さんが会うのは、お昼なんだろ? 大丈夫だよ」

「うん。それはそうなんだけど。でも一嵐来そうな予感がして」

「どうして? お父さんはお母さんに会いたがっているじゃないのか?」

「そうだけど。だけど問題はむしろお母さんのほうなの。ほら、『可愛さ余って憎さ百倍』ってことわざがあるじゃない? お母さんのこれまでの言動を見ていると、それがぴったりだと思うのよ。きっとお母さんはファレドさんのことを深く愛していたと思うの。よく分からないけど真実はどうであれ、お母さんにとっては裏切りに近いことが過去に起こったんだと思うんだ。それでそれが引き金になって、ファレドさんのことを強く憎むようになったのよ。きっと今でもその憎しみは薄れていないと思う。だってあたしには未だあんなにもかたくなに、父親のことを話すことを拒んできたんだから」

「そうだよな。いくら離婚した夫婦だって、普通は子供には自分の片親のことぐらい、もうちょっと冷静に話すもんな。やっぱりそれは少し常軌を逸しているような気がする」

「でしょ? 怖いのよ、あたし」

「でも誤解が解ければいい方向へ行くんじゃないかな?」

 常磐井は由利を元気づけるように励ました。

「大丈夫。オレがついてる」

「うん・・・ありがと」

「ああ、礼なんていいって」

「あたしね、ちょっと考えたんだけど、あっちの世界にはこっちの私服を着ていくのは、止めたほうがいいような気がするの」

「なんで?」

「だって考えても見てよ? 終戦直後だよ。常磐井君も実際にその場にいたらきっと解ると思うんだけど、よくもってくらい、みんなすすけた格好をしているの。街に色がないっていうか。みんな継ぎだらけのぼろぼろの服を着てるの。そんなところにあたしが、現代人が着ているようなファスト・ファッションの服なんて着ていけないよ! 周囲から完全に浮いているの」

「じゃあ、どうする?」

「うん、制服を着ていくことにする。まぁ、あたしは他のみんながよくやるみたいな制服のスカートの丈を縮める加工は一切してないから。結局それが一番オーソドックスで無難なんじゃないかって気がする」

「そうだな。白い三つ折りのソックスに革靴を履くべきなんだろうな、それじゃ」

「そう。終戦直後のあっちの世界の人から見たら、それこそびっくりするほどハイカラで贅沢な装いなのかもしれないけど、それでも一応ありえない奇妙な恰好ではないと思うんだよね」

「そうかもしれないな。そしたら、十一時に十分まえぐらいにオレもそのコンビニに着くようにする。だから由利もそれぐらい制服を着て、コンビニに来い。そして十一時に決行だな」

「常磐井君も一緒に来てくれるのよね?」

 常磐井はじっと由利の目を見た。

「本当はそうしてやりたいと思う。だけど、オレは行ってはいけないような気がするんだ」

「ええっ、どうして? どうして一緒に来てくれないの? ひとりで行くんじゃ心細いよ! それにあの悲惨な事故をまたひとりで見るのは嫌だ!」

「うん。それは解る。よく解るんだ。だけど過去の世界に干渉する人間は、なるべく少ないほうがいいと思う。オレがもし過去へ由利と一緒にタイムスリップしたなら、それが過去の何かに波及して、オレたちの住んでいる今の世界が変わるかもしれんじゃないか。オレはそれを恐れる」

 それを聞くと由利は顔に手を当てて泣き出した。

「怖い、怖いよ!」

 常磐井は由利の手をそっと顔から外して、由利の涙に塗れた瞳をじっと見つめた。

「いいか、由利。よく聞けよ。やることはひとつ、本来なら死ぬはずのない子供の頃のおじいさんとそのお兄さんをチンチン電車に乗せないようにすること。それだけだ。そんな簡単なこと、できないはずないだろう? こういうときこそ、冷静でいなくちゃ。滝行のことを考えてみろ? 怖気づいてびくびくしているほうが身体にこたえただろう? それと一緒だ」

 由利はあの水圧に耐えていたときのことを瞬時に思い起こした。

「タイムスリップしたら、まず、大宮中立売の電停まで駆けて行って・・・」

 由利は自分に言い聞かせるように手順を言った。

「そう、そこでふたりの男の子が来るのを待つ」

「そして本来なら、このふたりに乗らないように言う女学生が現れるのよね。その人が現れるのを待って、引き留めるのを他の人に邪魔されぬよう、見届ければいいんだわ」

「そう、それだけだよ。ほら、簡単だろ?」

 常磐井はにっこりと笑って見せた。

「助け終わったら? あたしはどうすればいいの?」

「それで任務完了だ。おそらく間髪入れずに電車事故が起きるだろうけど、人だかりができる前に由利はさっさと中立売橋を渡って一目散に東堀川通りを北上してから、もう一度一条戻橋を通ってこっちの世界へ戻って来い。オレはそこで待ってるから」

「うん。絶対にそこで待っていてね」

「由利。大丈夫だ、勇気を出して。おじいさんや由利自身を助けるのは、由利しかいないんだ」


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境界の旅人35 [境界の旅人]

第九章 悪夢




 次の日、由利は常磐井と京都市中央図書館の前で、九時半の開館に間に合うように待ち合わせした。

「今日はバイクじゃないの?」

 常磐井はいつもながらに多少ダサ目のTシャツの上にチェックのシャツを羽織っていた。昨日のように黒一色でまとめた精悍な常磐井の姿に惚れ直していた由利は、ちょっとがっかりしたように言った。

「バイクだと一緒に移動できないじゃん? 今日はバス」

 由利の気持ちなどまったく気がついた様子のない常磐井は、あっさりと否定した。

「えー。なんだぁ。常磐井君の乗ってるバイクって二人乗りできないの?」

「オレのバイクは四百でタンデムはできるけど、免許取得後一年間は、二人乗りはできないんだわ。高速に乗るのも、取得後三年経ってからなんだよな」

「なんかつまんない。後ろに乗っけてもらえるかと思ってたのに」

「いや、そもそも由利用のメットがないからダメっしょ。オレはそんな危ない目に由利を遭わせる気はないよ。まぁ、来年の八月になったらな。琵琶湖を周遊するのとか、吉野の奥のほうへ行くのとか面白いかもな」

「うわぁ、いいなぁ。あたし、十津川の方へ行ってみたい。玉置神社とか」

 ワクワクしたように由利は言った。

「おお、日本最後の秘境か。それいいな。いつか行こうぜ」


 
 図書館の中へ入ると由利は常磐井に言った。

「まず何から手を付けるつもり?」

「そうだな・・・。こういうのは最初にだいたいの当たりを付けてから、だんだんと物事の核心に迫る深層部へと入るべきなんじゃね? だからさ、もしそういう事故が過去に起こったとしたら、まずはそれを記載されているものを捜すべきだと思うんだわ」

「記載されているものって?」

「要するにこれって、市電の事故なんだろ? そしたら市電史みたいなものがあるかどうかを調べてみるのがいいんじゃね?」

 常磐井は参考図書のコーナーへ行って司書の女性に訊いた。

「すみません、教えていただけますか?」

「はい、何でしょう? お伺いいたします」

 普段からはまったく考えられもしないよそいきの口調で、常磐井は尋ねた。

「あの・・・、戦後まもなくの京都の市電について調べたいのですが、なにかそういう年史みたいなものってありますでしょうか?」

 これまで由利には絶対に見せたことのなかった爽やかな笑顔で、常盤井は頼んだ。

「そうですねぇ、ちょっとお調べしますから、お待ちください」

 司書の女性は、興味深げにちらりと常磐井から由利の方へと顔に目を走らせてから答えた。しばらくすると司書が本を何冊か持ってきた。

「だいたいこの中に戦前から戦後の京都市電のことが書いてあると思います」

 そう言って司書が探して見せてくれたのが、『京都府百年の年表 7 建設・交通・通信編』『新聞集成昭和編年史 昭和21年版Ⅰ』『戦後京の二十年』『さよなら京都市電 83年の歩み』だった。

 さっそく由利と常磐井は参考図書のコーナーに備え付けられた机に向かって、京都市電が転落した事件が、実際過去に起こったかどうかを調べ始めた。

「ほら、由利見てみろよ、ここ」

 常磐井が『京都府百年の年表』の昭和21年2月8日の項を見せた。

 北野発京都駅行の満員の市電、堀川中立売で堀川に顚落(死者15人、重軽傷14人)と記載あり。出典「京都新聞 昭和21年2月210日」

「やっぱり、あの事件って過去に起こっていたんだね。それも死者が十五人だって」

「そのころにしたら、15人がいっぺんに死んだなんて結構大変な事故だよな」

「うん、そうだと思う。タイムスリップしたときに現場を見てて、昔のJR福知山線脱線事故の縮小版みたいな感じだったもん」

「その表現はこの場合、ぴったりだな」

 しばらくふたりはまた他の本も同様の記載があるかどうか調べていた。

「あ、これ、常磐井君、これ見て」

 由利は『新聞集成昭和編年史』の中にある大阪毎日新聞の2月10日の記事を指示した。

 燃える市電、堀川へ落つ 死傷五十余、京都北野線の椿事

「ふうん、大阪毎日新聞は、京都新聞に比べるといやにザックリだな。なんだよ、『椿事』って? そんなのどかなもんじゃないっしょ、これは? それにさ、火事って実際にあったの、由利?」

「ううん、火事はなかった。まぁ、新聞が『毎日新聞』だし、大阪でしょ? 当時の新聞ってこんなふうにいい加減だったのかもしれないね」

「実際に現場で取材したっていうより、よその新聞社からのまた聞きっぽい感じがするな」

「それにほら、これ見て。ここにも載ってる」

 由利はまた常磐井に『さよなら京都市電』の本の中年表の昭和21年2月8日の頃を示した。

 北野発京都駅行の満員の市電、堀川中立売で堀川に顚落(死者15人、重軽傷14人)

「まぁ、これはおそらく京都新聞の孫引きなんだろうな」

 常磐井はじっと考え込むように言った。それまで『さよなら京都市電』にパラパラと目を通していた由利はハッとした顔をして相手のほうへ顔を向けた。

「ねぇ、常磐井君、これ見て」

「ん?」

「ほら、これ。『女子運転手』の頃を見て。これにはさ、戦時中は人手不足で一時、女子運転手がいたって。『※女子運転手として働いた人達は、いずれも昭和16年~19年ごろに車掌をしていた。戦争が激しくなり男手が不足しだすと唯一の交通機関である市電を走らせるために、車掌の中から運転手を募集した。しかし応募がなく半ば半強制的に車掌を女子運転手として採用した』って」

「へぇ、そんな時期もあったんだねぇ」

 常磐井は感心したように言った。

「由利さぁ、これって考えてみれば、女子運転手って戦後もしばらく存在していたんじゃね? だってさ、これまで出征していた兵士たちが、戦争が終わったからつって、そんなにすぐには帰ってこられるはずもなかっただろうしな」

「まぁねぇ。シベリア抑留っていうのもあったし、南の島に行ってた人だって引き上げるのに時間は結構かかったはずだよねぇ」

 それから再び本に目を通していた由利は、再び口を開いた。

「ねぇ、これ見てよ! 『※そのころの車両は、単車が多く、ブレーキは手回しであった。女子がこの【まいたまいたブレーキ】を回すのは容易なことではなかった。特に巻き戻ったときに胸部にあたると大変危険なので、剣道着をつけて練習をした。少女たちにとっては大変恥ずかしい服装であった』だって」

※ どちらも『さよなら京都市電 83年の歩み』76・77ページを引用。

「やっぱり由利が言っていたように、GIが女運転手にちょっかいをかけて、この『まいたまいたブレーキ』を回しきれなかったんじゃない?」

「うん。たしかにあの電車は中で事件が起こっていたように思う。何だか様子が変だったもの」

 由利があのときのことを思い出すように言った。

「じゃあ、事件が起こった昭和21年の2月8日以降の京都新聞を閲覧させてもらおうかな。事件の経緯がこんな記事からじゃ、まったく判らんもんな」

 由利は事件が書かれている箇所に付箋を貼ってコピーを取り、そのあとそれを整理してスクラップ・ブックに張り付け、出典と掲載ページを書き入れていた。一方常磐井は昭和21年2月の京都新聞を閲覧を申し込んで、他になにか関連記事がないかと確かめていた。

「ほら、これ見ろよ」

 常磐井はコピーを持って由利の傍へ来た。

「これは2月10日。事件の二日後の京都新聞の記事だよ」

 由利は常磐井が持ってきた京都新聞の記事に目を通した。だがそれには、乗客の中に進駐軍のGⅠが乗っていたことは書かれていたが、事故の原因は調査中とのみ記載されていただけだった。

「なんか歯切れの悪い記事だね、これ」

「ううん、たぶん進駐軍の介入があったんじゃないかな。だから本当のことが書けなかったんだ」

「こんな大きな事故を起こしてたくさんの人を死に至らしめたは事件なのにね。どこの人間であろうと罪は罪のはずなのに、進駐軍の人間だったってことで報道の規制が入ったんだね。やっぱり戦争に負けたってことは、こんなところにまで波及するってことなんだ」

 由利は少し憤慨していた。

「当時の感覚では、そうだったんだろうな」



 気が付けばあっという間に時計の針は1時を回っていた。ふたりは図書館の近くにあるラーメン屋しゃかりき 千丸本店へと行った。

「お腹空いた~。常磐井君は何にする?」

 由利は隣に座った常磐井にも見えるように、メニューを広げた。

「オレは、特製ラーメンの大盛かな? それにごはん大盛、餃子! 由利は?」

「え、そんなに食べるの?」

「あァん? こんなの、男子高校生としてはごく標準だろ?」

「そうなんだ・・・。あたし、男の子とこれまで食事を一緒にしたことないから、分かんなかった」

「じゃあ、これからどんどん一緒に食べようぜ!」

 常磐井の誘いをさりげなくかわして、由利はメニューの説明書きを読んだ。

「う~ん、スープはこくとんとまろとんのどちらかを選べって書いてあるけど、どう違うの?」

「こくとんは濃いめ、まろとんは薄めなんじゃない? ま、由利って東京育ちだからまろとんでいいんじゃね?」

 由利は常磐井に言われた通りに、特製ラーメン並のまろとんスープにすることにした。

 しばらくすると、ふたりのところにそれぞれのラーメンが運ばれて来た。

「うめっ!」

 常磐井は何のてらいもなく、煮卵入りのチャーシュー麺をさも旨そうにすすり上げていた。一方の由利は見たなり疑問に駆られた。たしかにこれまで由利もラーメンは好きでよく食べていた。だが東京で食べていたラーメンと今目の前にあるものとでは、あまりにも様子が違う。

 恐る恐るレンゲでスープをすくうと、心なしかとろみがついている。不思議に思いながら一口飲んだ。

「うわっ、濃い!」

 由利は思わず叫んだ。

「うん、こういうのが京都ラーメンなんだよ」

 常磐井は得意気に言った。

「へー、京都っていったら、あっさりはんなりかなぁって思うのに。なんでラーメンだけはこんなにぎっとぎとで濃いのよ?」

「え? あっさりはんなりは、観光客向けだろ? 京都人の本音は常にぎっとぎとだよ。京都人は人の目の触れないところでは、絶対に懐石料理なんて選ばない。つねにすき焼きやビフテキだよ。豚肉なんかよか、ずっと牛肉が好きなんだ」

「へぇ、そうなんだ。なんか意外」

 由利が一生懸命ラーメンを食べている間に、常磐井も黙々と自分が注文したものを平らげていた。

「ふう、お腹いっぱーい」

 由利が安堵のため息をついた。



 ふたりは店を後にして丸太町通りを東に歩いていった。

「なんか午前中はあっという間に過ぎちまったな」

 ひとごこちつくと、由利は常磐井に尋ねた。

「ねぇ、常磐井君。あたしがタイムスリップして出くわした市電の転落事故は過去で本当に起こったことだってのは、これではっきりしたよね」

「うん、まぁ、そうだな。そして事件が起こったのは、終戦直後の昭和21一年の2月8日のことだった」

 常磐井が付け足した。

「でもさ、そこでは、本来死んではならないはずの、あたしのおじいちゃんとそのお兄さんが亡くなっていた」

「うん。まぁ、そうだな」

「それ、どうしてだと思う?」

「どうしてかって? う~ん。由利、おじいさんにその事故にまつわる手がかりになるようなエピソードみたいなもの、これまでに聞いたことないのかよ? たとえばさ、おじいさんは小さい頃に本当はあの電車に乗るはずだったんだけど、何かの偶然で乗れなくなって、間一髪で死を免れたとかさ」

 由利はしばらく考えていたが、ふと脳裏をよぎるものがあった。

「そう言えば! あたし、京都に初めて来たとき、今の堀川通りの東に細い通りが一本あって、変だなぁって思ったことがあったんだよね。そしたら三郎が・・・」

 三郎ということばを口に出して、由利はハッとした。常磐井は未だに由利が三郎と付き合いが途切れていないと知ったらどんな顔をするだろう。

「三郎が? 三郎ってもしかしてあのけったくそ悪い死霊のことか? いつまでも由利に付きまといやがって。で、あの死霊が何と言ったんだよ」

 常磐井は少し憮然とした調子で言った。

「以前、三郎は・・・大きい二車線の道路っていうのは戦時中に作られた道路であって、本来の堀川通りっていうのは、あの細い東堀川通りなんだって教えてくれたの。その上六十年前には、その細い道路にチンチン電車まで走っていたって」

「へぇ、あんな車一台通るのがやっとみたいなところになぁ・・・。まさか市電が走っていようとはねぇ、オレも由利の話を聞くまでは信じられなかったよ」

「まぁ、昔の人は常磐井君なんかと違って、コンパクトにできていたからねぇ。そんなもんでよかったんじゃない?」

「フン。どうせオレは大男だよ」

 まぁまぁと由利はとりなした。

「うん。それでね、家に帰っておじいちゃんに三郎の言っていたことを話して、それは本当かって訊いたのよ」

「え? 由利、おまえ、おじいさんにあの死霊から聞いたって話したのかよ?」

 常磐井は少し驚いた表情をした。

「そんなはずないでしょ? ばったり学校の友達に会って教えてもらったって、ちゃんと言ったわよ!」

「ああ、それなら良かった」

 常磐井はわざとらしく、胸をなでおろすしぐさをした。由利は小声で「何よ、意地悪ね」とつぶやいた。

「でね、そしたらおじいちゃんは、それは過去の東堀川通りに市電が走っていたのは実際に本当のことだし、おまけにその電車はおじいちゃんが六つか七つのときに、中立売の橋梁で転落事故が起こって、一歩間違えればおじいちゃんも巻き添えを喰らって、死ぬところだったって話をしてくれたことがあったのよ」

「そう、それだよ、由利! そう来なくっちゃな! それでおじいさんは、何って言ってた?」

 常磐井は目を輝かせて、由利に訊ねた。

「おじいちゃんはそのとき、錦市場で働きに行っていたお兄さんにお弁当を届けるために、すぐ上のお兄さんと一緒に市電に乗ろうとしていたらしいんだけど、中立売大宮の電停で知らない女学生に呼び止められたんだって」

「へぇ、知らない女学生? それ何? 一体何者なんだ?」

「そう、その見ず知らずの女学生があまりに必死な様子で『乗るな!』って引き留めるから、おじいちゃんたち、つい乗りそびれたんだって」

「ふうん」

 常磐井はしばらく腕を組みながら、流れる空の雲を見上げて考えていた。

「なんでその女学生は、おじいさんたちを引き留めたんだろうな」

「さあね。だけど事件の直後、おじいちゃんのお母さん、つまりあたしの曾祖母にあたる人がお礼を言いたいからって、助けてくれた女学生をさんざん探したんだけど、結局見つからなかったんだって」

「へぇ。そんなことってあるかぁ。女学生だろ? だってそのころの京都の女学校なんて今なんかと違って、数なんか知れたものだろ? それに今でこそ大卒なんて当たり前だけど、戦前は男ですら旧制中学卒だったら大したものだったんだ。ましてや当時、女学校まで上がらせてもらえる女の子っていうのは、ある程度裕福で親にも教育がある家の子供と相場は限られているはずだ。そんなのすぐ身元がわかりそうなものなのに」

「うん、おじいちゃんも、それは不思議だったって言ってた」

「ふうん、なるほどね。まぁ、この事件に関してはその女学生が鍵を握っているんじゃないか?」

「あ、そうだ。おじいちゃんは『女学生は未来が見えていた、そうとしか考えられない』って言っていたんだよね」

「ふうん。それって意味深だよな。本来ならおじいさんを助けるために現れるはずの謎の女学生は、由利がスリップした世界では現れなかった。それは何か原因があるはずだ」

「そうなのかな?」

「そうだよ。もしオレの仮説通り、次の新月の晩の十一時に、由利があのコンビニからタイムスリップできたなら、何とかしておじいさんたちが電車に乗り込む前に、由利が電停に到着できればいいんだけどな。そこには必ず引き留める女学生が現れたはずだ。何かがその女学生の邪魔をしたんだ。もし次回由利がタイムスリップして間に合えば、その女学生がおじいさんたちを引き留めるのを傍について協力することもできるはずだろ」

「そんなこと・・・あたしにできるのかな?」

 由利は心配そうに顔を曇らせた。

「おれはさ、由利がタイムスリップした次の日に、コンビニがファミリー・マートからセブン・イレブンにいっとき変化してまたもとに戻ったってことにも、何か意味があるように思えてならないんだよね」

「ああ、あの超不可思議な事件?」

「そう。というのもさ、由利がタイムスリップした過去で起こるはずのない出来事っていうのは、実際には、まだ完全に決定されていないことなんじゃないかって気がするんだ。つまり過去を完全に上書きされていない証拠じゃないかって思うんだよ」

「まだ完全に決定されてないこと? 完全に上書きされていない? それってどういう意味?」

「おじいさんが死んでしまったのは、『そうなっていたかもしれない』という、ひとつの可能性としてのヴィジョンなんじゃないか? だってさ、実際におじいさんは過去に謎の女学生に助けられて生き延びた。それが本来の歴史が流れる大筋だ。もし過去が本当に書き換えられてしまったなら、ファミマはセブンに変わったままで、おそらく元に戻ることはなかったはずだ・・・。だからオレは思うんだ、過去を変えられることを望まない『意思』が働いたせいじゃないかって・・・。由利にそれを気づけと意思が教えているように思える」

「ねぇ、その、あたしに気づくよう教えようとしている意思って? それは一体何なの?」

「さあ、強いて言えば『神』って言うか、高次元的存在っていうか、絶対的な存在っていうか」

「ええっ? 神? そんなことってありえるのかな?」

「当事者のおまえがそれを言ってしまったらどうするよ? それを否定してしまったら、この事件はこれ以上先に進めなくなるぞ?」

「そうだね・・・。ゴメン、常磐井君。もともとあたしが変な相談を持ち掛けているっていうのに」

「いや、由利。そんなこと言うなよ。オレだって由利のために、何かの役には立ちたいと思っているんだよ」

「ありがと、常磐井君」

「いいって」

「今思い出したんだけど、以前三郎は自分のことを『時空の番人』だって言ってた。『時空と空間がお互いに絡みあわないように、まっすぐ進んでいるのを見張っているポイントごとの番人』だって」

「ああ、前にもそんなことを言っていたな・・・。じゃあそれが仮に真実だったとしても、由利がタイムスリップしたのは、結局はあいつの職務怠慢が原因ってことだろ? 今回の事件はアイツがしっかり見張り切れてなかったからこそ、起こってしまった事件なんじゃないの?」

「うん。そう言われればそうだよね。」

 由利の中で、過去に三郎に言われたことばが蘇って来た。

「判断を下すのはおれじゃない。それにまだ、そういうふうに命令が下されたわけでもない」

「誰が判断するの?」

「さあ、しかとは解らないけど、おれたちなんかよりはるかに高次元の存在さ。まぁ、安心しろ。高次元の存在っていうのは、人間みたいに非道なことはしない。まぁだからと言って、甘やかしてくれるわけでもないけどな。もっと理性的なものだ。人間の及びもつかない深い慈愛と思慮に基づいて判断は下されるものだから。どんな人間も生まれてきたことにはきちんとした理由があるものさ。もちろん、おまえだってだ。まずはそれを信じろ」



「あ、常磐井君、待って待って! あたし、夏にタイムスリップしたとき、どうしてこんなことが起こるのか三郎に聞いたことがあったのよ! そしたら三郎はタイムスリップすること自体が、本来は起こり得ないゲームのバグのようなものだって言ったの。あたし三郎のことばについカッと来ちゃって、『じゃあ、あたしの存在自体が間違いだったってこと?』って喰ってかかったことがあったのよ。だけど三郎は、今、常磐井君が言ったように三郎よりはるかに高次元の存在は、あたしが消滅するようなことを望んでいないって言ったの、高次元の存在はもっと理性的で、意味もなく残酷なことをしないって」

「へぇ、あいつがそんなことを?」

「そう。だけど、三郎自身は命令されてはいるけど、自分だってその高次元の存在が一体何かっていうのは知らされていないって言ってた」

「ふうん。なるほど」

 気が付けばふたりは鴨川の橋の上にいた。常磐井は日の短い光が金色に照らしている北山のあたりをじっと見て、黙って何かを考えていた。

「オレが今、気になんのは、由利がタイムスリップして起こる事件の場所だよ。堀川中立売付近」

「なんで?」

「あそこはさ、風水的に見ればいわゆる龍道が走っている場所なんだよな」

「龍道? なにそれ?」

「龍道とか龍脈っていうのは、土地のパワーが道のように走っていることを言うんだよ。聞いたことがない? この京都って土地を平安京として選んだのは、『四神相応』っていう土地のパワーに着目したことにあったってこと?」


ーあっー

ー土地にも記憶があり、思念があるんだ・・・。おまえはそういう土地の感情をゆるがすような要因があるのかもな。特にこの辺は土地にパワーがあるから、なおさらだー

「ま、ここはひとつ、兄貴にひと肌脱いでもらおうかな?」

「兄貴? ひと肌? 何よそれ?」

「ああ、オレの兄貴はさ、そういうのにわりと詳しいの。あいつ大学の専攻が史学でさ、それも正統な歴史じゃなくて、闇の日本史に精通してるっていうかな。申し訳ないけど、オレだけだと少しばかり心もとないっていうかさ。ちょっと知恵を借りて来るわ」

「お兄さんにはこの話をどこまでするの?」

 由利は不安そうに訊いた。

「うん? まぁ、差しさわりのないところまで。安心しなよ。由利には迷惑はかけないよ」







「さ、由利さん着きましたよ」

 常磐井の三つ違いの兄にあたる阿野治季は、後ろの座席に乗っていた由利に向かって声を掛けた。

「あ、はい。ありがとうございました」

「さあ、由利。車から降りて」

 それまで兄の隣の助手席に座っていた常磐井はそう言って、由利のほうへ身体を向けた。由利は前の座席に座っているふたりを道中の間、後ろからじっと観察していた。本当にこの兄弟は、双子といってもいいほどよく似ている。

 駐車場から降りて、三人はとある寺院のほうへ向かった。

「これから行くところは、青蓮院の別院である『青龍殿』ってところなんですけどね」

「青龍殿?」

「そうです、青龍殿。青蓮院は天台宗に属しているお寺なんだけど、ここは大護摩堂といって所定の日に護摩を焚いて修法をするところなんです」

 そんなことを言われても由利にはチンプンカンプンだ。美月なら目を輝かせて、この話に聞き入るのだろう。三人は山門に入って中へ進んでいくと、ほどなくお堂の手前に大きな丸い塚に行き当たった。

「ここが将軍塚だよ」

「へぇ、これが?」

 たしかにこれは小ぶりな円墳のようにも見える。だからと言って取り立てていうほど大事なものとも思えない。

「ええ。これからぼくがしようと思っている話の中ではこの将軍塚も大事なモチーフになるんだけど、それよりもまず、大舞台のところまで行きましょう。やはりあそこに立って、実際に京都の街を見下ろしながら話したほうが解りやすいしね」

 治季はにっこり笑って言った。同じ顔をしているけれど、印象は随分と違う。常磐井が太陽なら兄の治季はさながら月といったところだ。兄の治季は、ラルフ・ローレンの服を品よくきちっと着こなしているが、一方の常磐井はいつものようにユニクロやしまむらあたりの服を無頓着に着ている。常磐井はおよそ「装う」ということにまったくと言っていいほど無関心の輩のようだった。

「由利、行こうぜ」

 常磐井が手招きをして由利を呼んだ。

「うん」

 大舞台につくと、京都の街並みが一望のもと、ぐるりとパノラマ状に見渡せた。

「すごい!」

 いくらグーグル・マップで眺めていても、目の前の本物を自分の目で見るほど、たしかなことはない。

「ここはね、昔、和気清麻呂が桓武天皇を連れて来て『ここに遷都してはどうか?』と進言したところなんですよ」

「ああ、その話は前に一度うちの祖父から聞いたことがあります」

「桓武天皇が平安京を造営した帝ってことは由利さんも知ってるでしょう?」

「ええ、はい」

「なんで桓武天皇はそうしたかったか、ご存じですか?」

「えっと・・・。奈良にある平城京では仏教寺院の力が強まって、政治にまで強く介入してきたからって学校では習ったように思います」

「たしかに、それも見逃すことのできない大変重要な一因です。当時の平城京は仏教都市でした。平城京にいる限り、政教分離はできないと桓武天皇は考えた。これが遷都を決断した大きな理由だったのは、間違いないことですよ。ですがね、もうひとつ大きな理由があったんです」

「それは?」

「うん。桓武天皇は天智天皇の皇孫だったんですよ。ひ孫なんです。つまりね、これまで続いてきた天武天皇の血統を絶って即位した天皇なんです」

「天智天皇と天武天皇とですか? ええっと、ふたりは兄弟だったんですよね、たしか?」

「うん、そうね。天智天皇は中大兄皇子って言ったら、由利さんにも分かるかな。天武天皇は大海人皇子のことです」

「そうなんですね。額田王を兄弟で争った歌なら知ってるかも」

「そうそう。『紫野行き、禁野行き』って歌ね。で、話はもとに戻りますが、まぁ、この兄弟の相克はその後何世代にもわたって続くんですよ。これまでの奈良の都は兄の系統を差し置いて、天武天皇の子孫たちが築いてきたものです。だから天智系の桓武天皇にとっては、そんな息苦しい場所から脱出して、全く違う場所で新しい都を作ることが喫緊の課題となったのです」

「まぁ、そういう気持ちは解るわな。自分が天皇になっても、そんなややこしい親戚ばかり周りにいたんじゃ、やりにくくてしょうがねぇもんな」

 常磐井少し茶化してが言った。

「まぁ、そういうことなんです。で、即位して三年後、長岡京の地に遷都しようと桓武天皇は計画するんですが、すぐに頓挫してしまった。というのも造営の責任者だった藤原種継(たねつぐ)が暗殺されてしまったからなんです。まぁ、平城京では遷都に反対する人間も多くて、その不満が種継暗殺を引き起こしたと言われているんですけどね」

「ああ、そうなんですね」

「で、いつの世でもあることだけれど、桓武を帝の座から引きずり下ろすために、弟の早良親王を担ぎ出そうという動きがあったんです。だから桓武は、結構残酷な刑を下して弟を死に至らしめたんですよ。それから桓武の周りはなぜか不幸続きになるんです。母親や妻が死んだりしてね。それは早良の怨霊がなせる業だと噂されたりして。それで余計に桓武天皇は一刻も早く、別の地に都を作りたかったんですよ」

「それがこの平安京なんですね」

「そう。和気清麻呂がこの平安京遷都の立役者なんですけどね、それ以前に彼が奈良の朝廷に仕えていたとき、大事件が起こるんですよ。由利さんは弓削道鏡って名前、聞いたことがあるでしょ?」

「ああ、女帝を垂らし込んだ有名なエロ坊主のことな」

「エロ・・・! 悠季、おまえ、由利さんの前で、何てこと言うんだ。すみませんね、弟がこんなで」

「あ、お気遣いなく。先を続けてください。非常に面白いです」

 由利は笑いをかみ殺しながら返答した。

「はい、では。それで一説によれば、道鏡は女帝である称徳天皇(孝謙天皇)の愛人だったとか。本当かどうかはわかりませんけどね。まぁ、それでも臣下として女帝から寵を賜ったことはたしかなんです。そこまではいいんです。だが権力を持って思いあがった道鏡は、何を血迷ったのか帝位に着こうとした。ですが道鏡は、そもそも皇統とは何の縁もゆかりもない人物なんですよ。宇佐八幡宮より『道鏡が皇位に就くべし』との託宣を受けたなどとデタラメを無理やりでっち上げて、帝位に就こうと画策した。ですが一身を賭してそれを防いだ人間がいた。それが和気清麻呂だったんです」

「へぇ、そんな立派な人だとは知りませんでした・・・」

「そうなんです。天皇に仕えた文官の中では菅原道真と並び称されるくらいの英雄だと思いますね、清麻呂は。それで清麻呂が平安京造営大夫になり、新都をみごと造営することに成功します。そのあと清麻呂は平安京遷都の五年後に六十七歳で永眠しています。まぁ、ここまでは誰でもよく知っている歴史の通説です。ネットでググってみればそんなこと、ぼくがこうやって由利さんにわざわざ説明するまでもなく簡単に分かることですよね。ですがここからが、ぼくの得意とするダーク・ゾーンになるのですが・・・」

 治季は自分で話しながら、思わずクスリとひとり笑いをしていた。

「そうそう、兄貴の真骨頂に入るんだよな。正史には決して書かれることのない闇の歴史」

「うん、まぁ、そこでさっきの将軍塚にたどり着くんですよ」

「そう、あの塚はね、平安遷都のとき、都の守護として2.5メートルほどの武装させた土偶を埋めたと言われているんですよ」

「武装した土偶? それは治季さん、何のためなのでしょうか?」

「実は『将軍塚絵巻』っていうのがありましてね、かなり時代が下がって鎌倉時代に描かれたものなのですが、高山寺に収められています。詞書(ことばがき)はまったくないのですが、その絵を観察すると、平安京遷都の際、王城鎮護のため、ここ華頂山の頂上に築かれた将軍塚の由来を描いたものと判ります。この絵巻の作者は不詳ですが、描線が一気呵成に描かれていましてね、ちょっと今の漫画にも通じるところがあるようにも思えるんですよね」

「それには、どんなことが描かれているのですか?」

「えっとね、大勢の人夫がもっこを担いで土を運んで塚を作る様子や、完成したあと、塚穴に甲冑(かっちゅう)をつけた将軍である坂上田村麻呂の像が立っているところなんかが描かれているんですよ」

「坂上田村麻呂ですか?」

「そう。坂上田村麻呂も忠臣として名高い武将ですよね。桓武天皇に重く用いられて、二度にわたり征夷大将軍を務めたほどです。彼はね、一説によると死後、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神となって京の都を守っていると言われています。」

「将軍塚って田村麻呂の墓じゃないんですか?」

「ええ、彼の墓はまた別のところにあるんです」

「じゃあ、将軍塚には田村麻呂が葬られているわけじゃないんですね」

「そうです。ですがこの将軍の土偶には『汝は坂上田村麻呂たれ』という呪(しゅ)がかかっています。そして一方、神護寺には和気清麻呂の墓があります。彼自身も確固とした決意をしているんです。『我、死してもなお鎮護国家の礎とならん』とね。ふたりの強い思念でこの都は結界を張られているんです」

 由利と常磐井は目をまん丸に見開いて、治季の説明に聞き入っていた。

「面白いことにね、将軍塚と清麻呂の墓を線で結ぶと、その延長線上には天智天皇陵もあるんですよ。これって偶然じゃないです。たぶんその意味を理解してやっていることですね。もともと天智天皇と清麻呂の墓をつないだ直線上にわざわざ将軍塚を作ったんでしょうね。で、実際、将軍塚は国家存亡の危機に陥りそうになると、その前兆として鳴動するっていう不気味な言い伝えも今に伝えられているんですよ」

「えっ? そんなことが?」

「由利さん、あなたは『思念でそんなことができるのか』って考えていますよね?」

「ええ? まぁ、そうです。考えただけで都が守れるものではないって、あたしじゃなくても考えるんじゃないかと思います」

「ですがね、『思念とはそもそも何ぞや』と考えたとき、普通の人は頭の中で自分が勝手に思いついたものだと思うでしょ?」

「え、はい」

「ですが、思念とはそもそもこの世界の原初からあったものです。聖書にもあるじゃないですか。『はじめにことばありき』って。例えば何かの定理ですが、それは考えだしたものではなく、もともとこの世の法則としてあったものを数学者なり物理学者なりが、『発見』したものでしょう? 思念だってそうです。原初からあったものを人間がそれと知らずに、自分のものだと思って使っているのに過ぎないのです」

「はぁ・・・」

 由利は治季の説明を気が遠くなるような思いで聞いていた。

「人間というのは、神の形に似せて作られています。だから、神のように感じ、神のように考えることができるのです。まぁ、神のようにといっても、所詮は真似事ですけどね」

「すみません、お話が高度すぎてよく解らないのです」

「ん? ああ、つまり人間は神のように完全ではないってことですよ。しかし同じ人間でも、思念というか、意思がずばぬけて強い人はいるものです」

 治季は、おだやかな笑みを浮かべて答えた。

「で、当時の世の中で、空海とか菅原道真とか安倍晴明のように非常に優れた人たちは、こういうパワー・スポットを利用することを思いついたんですよ。都をより堅固なものにするためにね。由利さん、あなた四神相応って考え方に基づいてこの平安京が作られたってご存じですか?」

「はい、だいたいは。北が玄武で、東が青龍、南が朱雀で、西が白虎とか。それぞれ、北山、東山、巨椋池、嵐山に応対しているって聞きました」

「そうそう、よくご存じですね。昔の人は力のある土地っていうのを知っていたんですよ。桓武天皇は、平城京に残して来た天武系の連中や、弟の早良親王といった自分が獄死に至らしめた怨霊が怖ろしかった。そのため平安京を風水の四神相応の思想に基づいて作ったんです。怨霊や生霊の思念から都を守りたかったんですね。そういうパワーを持つ都を作った上で、さらに和気清麻呂、坂上田村麻呂の思念を利用して西と東に外敵から守る結界が張られたわけですけど、それをもっと発展させて堅固な形にしようと考えた人が過去にいたんですね」

「それはどういう?」

 治季はそれまで手にしていたiPadを開いて、グーグル・アースを起動させた。グーグル・アースはいったん、丸い球体の地球の姿になると、京都の街へダイブするように近づいて行った。画面は由利たちが見ているのとほぼ変わらぬ今日の街の姿になった。

「由利さん、二条城の近くに神泉苑っていうのがあるんです。今はちっぽけな池にすぎないんですけど、平安の昔は禁苑でして、広大な池が広がっていたという話です。空海なんかは、よくそこで雨ごいの祈祷をしました。それとですね、貴船神社の奥宮なんですが、ここに祀られているのは高龗神(たかおかみのかみ)すなわち龍神なんですよ。水をつかさどる神です。空海は神泉苑と貴船神社が繋がれているってことを知っていたんですね」

「つまり、貴船神社の奥宮と神泉苑は龍道でつながれていたと言うことですか?」

「龍道をご存じでした? それなら話は早いです」

 治季は非常にうれしそうな顔をした。

「龍道って、龍脈とか龍穴とも言って、風水をやられてる人なら、必ず耳にする言葉なんですよ。風水ではエネルギーのことを『気』というんですが、龍道とはそういう多大な『気』の経路のことです。龍道で貴船神社の奥宮と神泉苑はつながっている」

 治季がiPadの画面に出ている貴船神社の奥宮と神泉苑にピンを立てて、それを線で結んだ。

「だいたい、今の京都市を走っている堀川通りがこの龍道と重なるんですね。それで、もう一押し考えたんですよ、昔の賢人は」

「もうひと押し? 兄貴、それは何だ?」

「悠季、もうひとつこの都には大きな守護があることに気が付かないか?」

「あっ? もしかして京都の鬼門を守る比叡山延暦寺のことですか?」

「ピンポーン、当たりです、由利さん、冴えてる!」

「その延暦寺に対応するものがわかるかな? 桓武天皇は天智系で孤立していたって言っただろ? 悠季、おまえが桓武天皇だったら誰に頼る? 兄弟か? 父親か、母親か?」

 兄にそう訊かれると、しばらく常磐井は考えていた。

「うーん、兄弟はそれこそ、天智と天武の骨肉の争いがあるだろう? そう考えると天皇って孤独だよな。父親だって時と場合によれば息子に対峙してくる可能性がある。オレなら姉貴とか母親とか? 女に頼るよな」

「そうだよ、悠季。いい線いってるな」

「じゃあ、母親か姉かの、何か?」

「そう、これまでのことを考えてみろよ?」

「ああ、もしかして墓?」

「そうだ。桓武天皇の母親は、高野新笠といって身分の低い渡来系の女官だったんだが、彼女の墓というかまぁ、陵なんだが、それが大枝のほうにある。それがこれだ」

 またもや治季は、iPadの画面のひとつの場所を指し示した。

「ん? 大枝陵?」

「そう、これが桓武天皇の母親の高野新笠の陵なんだよ。高野新笠の母親は大枝真妹(おおえだまいも)っていって、この大枝の豪族の出だったみたいだな。それで高野新笠は晩年、母方の故郷である大枝の地で隠居していたから、墓が西京区大枝の地にあるらしい。つまり大枝の地一帯は、桓武の本拠地といってもいいんですよ。だから大枝の一族郎党に至るまでこぞって桓武の味方でしょうから、多大なパワーをもらえるはずです」

「なるほどね。で? もしかして比叡山とこの桓武天皇のおっかさんの墓をつなげるの、もしかして?」

「ご名答。するとどうなる?」

 治季は比叡山と高野新笠の陵の墓がつながるように線で結んだ。

 ここに三本の直線ができた。

 将軍塚と和気清麻呂の墓をつなぐ線。
 貴船神社と神泉苑をつなぐ線。
 そして、今言った、比叡山と高野新笠の陵をつなぐ線。


 大きなXの字とその中心を貫く一本の線が地図の中に見える。

「これってどういうことなんだよ?」

 常磐井が兄の顔をいぶかし気に見つめる。

「悠季、分からないか、おまえ。京の街がすっぽりと大きな護符に守られていることが・・・?」

「あ、これはもしかして、六芒星ですか?」

「よく分かりましたね、由利さん。そうです! 京都は大きな六芒星に守られているんです。こんなふうに考えて結界を張った人間がいたんですよ」

「誰なんですか? それ」

「この六芒星の中心はどこにあると思います?」

 常磐井と由利は三本の線がちょうど交差している真ん中を捜した。


「これは・・・?」

 常磐井は信じられないといった顔をした。

「そう、三本の線を通るのは、ちょうど、一条戻橋、そして晴明神社、そして由利さんがタイムスリップをしたあたりですよ」

「それじゃあ・・・」

「そう、あそこは一番京都の土地のパワーが強いところなんでしょうね」

「これを造ったのは安倍晴明ってことですか?」

「そうであるとも言えるし、そうでもないとも言えます。ぼくはさっきも言いましたよね。『意思』とか『思念』はそもそも原初から存在していたと。おそらく晴明もそれに気づいたでしょう。そして彼の意思を引き継いだ無名の人間が過去に何人もいたはずなのです」
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境界の旅人 34 [境界の旅人]

みなさま、こんにちは~!
寒くなってきましたね。本格的な冬の到来ですね~。

今回は本来のボリュームの二回分を一挙に掲載することにしました。
というのも、事件はクリスマスを境に起きるからです。

やはり読んでいるほうも季節にリンクしながらよんだほうがいいかなと思いました。

結構長いけど、頑張って読んでください!







第九章 悪夢



 ただの風邪だと診断されたわりには辰造の症状は一進一退をくりかえし、いつまでもぐずぐずと治らなかった。

 その日も由利が学校から帰ってきてから一緒にとった晩御飯にも達造はほとんど手を付けず、時間が経つごとにだんだんと具合が悪くなり、ついに十時ごろには熱も上がり始めた。体温計で熱を測ると三十八度を越していた。

「うわ、すごい熱だよね。どうしよう? 病院へ行こうか、おじいちゃん?」

「まぁ、由利。三十八度やったら、まだ病院へ行くこともないわな。はぁ、歳をとるっちゅうことは、こういうことなんやなぁ。ポンコツやぁ。由利。どもない、どもない」

 祖父はひとりで心細い孫娘の気持ちが解っているらしく、熱が高くても安心させようとした。

「こんなときはどうしたらいいんだっけ?」

 由利はとりあえず、「風邪 熱が高い時の対処法」と検索した。
 
『熱があるときの身体は、健康時よりさらに多くの水分を消費しています。なので水分を必要としてる身体にすばやく浸透するように作られているスポーツドリンクを補給しましょう』

「ああ、やっぱり湯冷ましなんかより、スポーツドリンクを飲ませるのがいいのか・・・。もうすぐ十一時だから、コンビニで買うしかないか」

 由利は普段着の上から厚手のダッフルコートを羽織り、近所のファミマへと向かった。

 そこでコンビニの壁に備え付けてある冷蔵庫の戸を開けて、五百ミリリットルサイズのスポーツドリンクを一端手に取ってから、ふと考えた。

「こんなふうにキンキンに冷えたのを飲ませると、おじいちゃんのようなお年寄りにはかえって身体に負担をかけるかもしれない」

 思い直すと由利は、常温で保存されている棚へ行き、ポカリスエット、DAKARA、アクエリアスなどいろいろな商品をまんべんなく買い物かごの中に入れた。それからレジへ行ってお金を払うと外へ出た。
 
 ところが外の光景はまたいつぞやと同じように変わっていた。

 またもや由利はタイムスリップしていた。

 やはりこの前と同じように時間は夕方だった。だがこちらの側の世界も由利の住んでいる世界と同じく、季節は夏ではなく冬に移行している。買い物かごを下げている主婦も会社帰りの男性も、行きかう人はみな寒そうに首をすくめ外套の前を深く掻き合わせて、せかせかと足早に由利の前を通り過ぎて行った。

 その傍を当たり前のようにチンチン電車が、警笛を鳴らしながら通り抜けていく。しかし驚いたことに電車はどうやら中でトラブルが起こっているようだった。何を話しているのか通りにいる由利の耳にはつぶさには判らないが、何か人が言い争っているような怒号が響いてくる。

 由利がその異常さを感じ取って恐怖に目を見開いていると、やがて電車はスピードを落とすことなく突っ込むよう堀川へ走って行った。そして橋梁のところでカーブを曲がり切れず、大きくガタンガタンを車体を左右に揺れらすと、真っ逆さまに川に突っ込んだのだ。

 電車が崩れる爆音とともに電車の中の乗客の絶叫がこちらにもが響いて来た。

「!」

 由利は口に手を当てて、信じられぬ思いで目の前で起こった惨劇を見ていた。

「何てこと・・・」

 しばらくすると、そこらへんに住んでいる人たちで辺りは人だかりができた。

 ほどなく半被に消防帽をかぶった地元の自警団の人々や消防団員や警察官が、何十人もわらわらと走ってきて、電車の中に閉じ込められている人を必死になって外へ出すために救出作業をしていた。川の流れに入った自警団の人々が、ジャッキを使って閉まっている電車の戸を無理やりこじ開けると、人々がうめきながらが折れ重なるように倒れている。

「おーい! 戸が開いたぞ! 中にいる連中を運べ!」

 何人もの警察員が総出になって、次々と担架に人を乗せていく。担架はどこで集めてきたのか五、六個ほどあった。その中には物干しざおに毛布を掛けた、どう見ても即席で作られたものとおぼしきものも混じっていた。

 中には自力で電車の窓からから這い出てくる人間もいたが、電車の底になったところから折れ重なる人々の下敷きになっている人もかなりいる。

 電車が橋梁から落ちたこともそれなりに衝撃だったが、それ以前にこの電車は満員だったことがさらにこの事件を悲惨なものにした。

 周りにいた人の中には、家人の安否を必死になって確かめようとしている人も大勢いた。

「早く、早く! うちの人を助けて!」
「お母ちゃん!」

 人々の泣き叫ぶ声が由利の耳にもリアルに届く。それはさながら阿鼻叫喚の地獄のさまを呈しているかのようだった。
 そうこうしているうちに電車の中から五、六人の進駐軍のGIが他の人々を押しのけ、われ先ともがくように戸口から飛び出して来た。
 それぞれに体格はよいが教養も品格もないのは一目瞭然で、いかにもプア・ホワイトの階層の人間が駆り出されて日本に来たように由利の目には映った。

 彼らは口々に「damn it!(ちくしょう)」といまいまし気に悪態をついていた。
 GIらをいぶかし気に見つめていると、その中のひとりが日本人にしては上背のある由利に声を掛けてきた。

「Hey , beautiful girl, com’on!(よう、かわい子ちゃん、こっち来な)」

 それを聞くと由利は怒りが込み上げて来て、思わず言い返してしまった。

「Why don't you try to help these people? It is a shameful thing to do nothing(どうして助けようとしないのよ? 恥ずかしいとは思わないの?)」

「アッ、オー。 Fuckin’ Jap girl ! (日本の腐れアマが!)」

 由利が啖呵を切ったのを聞いて、その中のひとりはこれ以上ないほど汚い言葉で由利をののしって行ってしまった。



 由利が恐る恐るその人垣の中へ入っていくと、自分には夏にかたくなな表情を見せた曾祖母にあたる人が血相を変えた顔で、泣きながら電車に向かって呼びかけていた。

「康夫! 辰造! お母ちゃんやで! いるんなら返事しいや! やっちゃん! たっちゃん!」

 曾祖母は狂ったように叫んでいる。かなりの人が大けがをしていたし、中には救出される前にすでに亡くなった人もいたようだった。

 担架を担いできた自警団の男の人が、用意されたむしろの上に小さな子供ふたりの身体を並べ、その顔に白い布を掛けようとしていた。

 それは祖父の辰造とそのすぐ上の兄に違いなかった。

 曾祖母は自分の小さな息子たちを見ると、はじかれたようにそこへ躍り出た。

「あんた、何すんねん。その子らは死んでなんかいいひんで! そんな縁起でもないもん、掛けんとってや! たっちゃん。お母ちゃんが迎えに来たで。もう安心や。ほら、やっちゃん! 眠っとらんと目を覚ましい」

 狂ったように曾祖母は、ふたりの子供の身体をゆすっていた。

「奥さん! 奥さん! しっかりしいや。もう坊(ぼん)らは息をしとらんやないか。気をしっかり持たんとあかんえ。奥さん!」

 半狂乱になっている曾祖母は、そこから離れようとしない。

「ええ、あんたら何を言うとるんや! そんなはずあるかいな! さっきまで元気に跳ね回っとったんやで! うちは子供を家に連れて帰ろう思(おも)てるのに、何するんや!」

 そこへ白衣を着た医者らしい人が来て、辰造たちの手を取って脈を診た。

「先生、どうですか? うちの息子らは? また元気になれるんやろ? さあ、やっちゃん、たっちゃん。ほれ、起きや。お母ちゃんと家に帰るんやで」

 曾祖母は目の前の現実を認めることができずにそう言った。隣の家の年配の夫婦が医師に言った。

「この人の旦那さんはまだ出征中でして、まだ戻ってきいひんのですわ。うちらが責任もって何とかしますさかい。先生、申し訳ありまへん」

「うん。そうか、この奥さんは一度にこないな可愛い坊らを失のうてしもたんや。ほんまにお気の毒なことやったな・・・。しばらくは正気が戻らんかもしれへん。あんたらもご苦労なことやけど、隣のよしみで、よくこの奥さんの面倒を見たってくれへんか」

「へぇ、先生」

 医師は他にもたくさんの死者やけが人が待っているので、曾祖母ひとりにはかかずらわっている暇がなかった。ちらりと憐憫のこもったまなざしで泣き崩れる祖母を見ると、その場を立ち去って行った。

 由利はその一部始終を見て、戦慄した。

ーこれは一体どういうこと? おじいちゃんが死んでしまった!

 そのとき、周りを囲んでいた人々の中からひとり、由利に声を掛けて来たものがいた。

「あんた、アメリカさんやろ?」
「えっ?」

 戦後すぐの日本人から見たら、コーカソイドの血を受けついている者はことごとく皆、アメリカ人だった。

「あいつらやで。さっきのGIが、運転手にちょっかいをかけて来よったんや」

 その男はどうも電車にいて助かった人らしかった。

「あいつらさえ、勝手し放題しいひんかったら、こないなことにはならんかったんや。ほれ、見てみい! あんな小さい子供まで、巻き添えを食って死んでしもうたやないかい!」

 人々の憎悪が一身に由利へと向かった。

「戦争に勝ったからって、何してもええと思とるとちゃうんか!」
「アメリカはこの国から出て行け!」
「せや、せや! アメリカは出て行け!」

 由利は後ずさりしながらその輪から離れると、面罵されたことに耐え切れずに泣きながら、中立売橋を後にして一条戻橋へと駆けて行った。



 由利は一条戻橋の前に立ち、以前三郎に言われたことを思い出した。

『この橋はこの世とあの世を繋ぐ橋なんだ。昔からおまえみたいな人間っていうのは一定数いたらしいな。この橋はそのためのツールさ。そういう場合はこの橋を通れば、また元の世界に戻れる』

 あのとき、三郎は由利にそう教えてくれた。

 由利は恐る恐る橋を渡った。
 渡り切ると三郎が以前言った通り、由利はもとの世界に戻っていた。

「やっぱり三郎の言っていたことは正しい。とすると元の世界に戻るときは必ずこの一条戻橋を渡ればいいんだ」

 原因を突き止めたいと思う気持ちと同時に、過去に子供の状態で死んでしまった祖父は今の世界で一体どうしているのかが気になる。気がつけば由利はまたもや家のほうまで駆けだしていた。

 家に戻ると祖父はさっきと同じように床に臥せって寝ていた。

「あ、良かった・・・」

 ふうっと大きく由利は安堵の一息ついた。

「おじいちゃん、具合はどう?」

 それまで辰造はうつらうつらと眠っていたようだが、由利の声で目が覚めたようだ。

「あ、由利か」

「おじいちゃん、これ。熱があるときはスポーツドリンクを飲むといいんだって。とりあえず買ってきたから飲んでみて」

「おお、そうか。おおきに、おおきに」

 由利が祖父の肩を持って起き上がるのを手伝った。

「おお、熱があるときはこういうもんが何や知らん、飲みやすいわ」

 辰造はおいしそうにゴクゴクと飲んでいた。
 由利は抱き起こしたときにつかんだ祖父の身体が、以前と比べてやけに軽いような気がした。

「おじいちゃん、朝になったら病院へいこうね。今晩だけはちょっと辛抱してね」

 自分の部屋に戻った由利は、蒲団の上にばたんと転がった。身体は疲れていたけれど、興奮していてとても眠れるどころではない。

 寝ころびながら、これまでの一連の事件の起こった経緯のことを反芻した。

「どうしてあんな事件が起こったんだろう・・・。あたしが過去に介入しすぎたから? そもそもどうしてあたしがさっき、タイムスリップすることができたんだろう・・・」

 由利は頭を抱えて、夏のときと今回のタイムスリップの類似点を思い出そうとした。

「えっと、夏にタイムスリップしたときはどうしていたんだっけ? そうそう、あたしは一学期の期末試験の勉強をしていて・・・、そうだ、英語のスペルを練習していたんだった。そのとき赤ペンの芯がなくなって、コンビニに買いに行ったんだったっけ?」

 しばらくじっと天井の木目を見つめたまま、自問自答をしていた。

「そう、あのときも夜遅く出かけたんだった。場所はやっぱり同じファミマだった。じゃあ場所も同じだし、タイムスリップする条件として当てはまるものはやっぱりファミマっていう場所と特定の時間なのかな?」

 由利は仰向けになった身体を反転させて、今度は両手に顔を載せた。

「あのときは何時だったっけ? 十二時前? いや、もっと早い時刻だったはず。たしかあのとき、お店の中はあたしと店員のふたりだけでがらんとしていた。日をまたいでいるわけでもないのにって、それがなんか変だなって思ったんだよね」

 蒲団の傍に置いてあるスタンドの電球をじっと見つめながら気持ちを集中させた。

「さっき、おじいちゃんは十時頃に具合が悪くなってきたんだった。熱いとか寒いとか言い出したのよね。体温を測ったら三十八度あった。スポーツドリンクが発熱した身体に良さそうと思って、それでコンビニに出かけようと思ったのよ。そのときでせいぜい十時四十五分ぐらい・・・。コンビニは家から五分ぐらいのところだし、着いて十時五十分、それからスポーツドリンクを買って・・・。店から出たのは十一時ぐらいだったはず・・・!」

 由利はガバっと蒲団から跳ね起きた。

「そうよ、そういえば夏にタイムスリップしたときだって、ちょうどそれぐらいの時間だった。タイムスリップする条件は、おそらくコンビニの場所と時間なんだわ!」




 翌日、由利は祖父を連れて近くの診療所まで行った。

「別段、こうどこが悪いってこともなさそうなんだけどねぇ・・・まぁ、すこし喉が腫れてるかなぁ」

 医師は辰造の身体に聴診器を当てて頭を傾げていた。

「先生、わしもここんとこ、ゴタゴタ続きだったんで、ちょっと緊張して疲れていたんですよ」

「ハハ、小野さん、あんた、その歳で知恵熱かい? ハハハ」

 先生がおかしそうに笑った。

「せやけど、こう、ちょくちょく体調を壊しておったんじゃなぁ・・・。お孫さんやって、毎回小野さんに付き添ってこんなふうに遅刻ばっかりさせたら可哀そうやで」

「いえ、あたしはちっとも構いません」

 由利は遠慮がちに小さく手を横に振った。

「いや、そんなことないやろ。由利ちゃん、あんたもしっかり勉強せなあかん立場やで。高校生のときに学んだことは一生の財産になるんや。生涯の基盤やで」

 由利を諭すように先生は言った。

「小野さん。一度、きっちり病院へ行って検査を受けてみはったらどうです? 車かて車検ちゅうもんもあるやろ」

「いいや、先生。わしと車を一緒にせんといてください。人間は車と違うて悪いところがあっても、部品の取り換えは不可能ですわ。それにわしはもう、子供ン頃から病院ちゅうところは、かなん。人間どうせ、いつかは死ぬ。死ぬときは死ぬときですわ」

「まぁ、あんた、そんな子供みたいな聞き分けのないことを言わんと」

「いや、先生、わしはいいですわ。今度も熱さましを出しといてくださいよ」

「そうですかぁ、まぁそんなら小野さんの言う通りにしときまひょ。一応頓服出しておきますわ。でも何かあったら、すぐに来てくださいよ。我慢は禁物でっせ」

 最近はこの手のわがままな老人に手を焼いているのか、先生は辰造には強く検査を勧めなかった。

「わかっとる、わかっとります」

「ほなら、小野さんお大事に」

 無事に祖父を家に送り届けると由利は、自転車のカゴに通学カバンを入れ、学校へと向かった。

 堀川通りを北上している途中で信号が赤に変わったので、由利は歩道の手前で停車して待っていた。

 いつもと変わらぬ見慣れた風景だが、東西に走る道路を挟んで向かい側の建物を見て違和感を覚えた。

「あれ? あの建物って、ああだっけ?」

 しかしその建物は、古い建物が取り壊されて新しく建て替えられたものでもなく、ずっと昔からこの街にあったようにそれなりに古びている。

「うーん、なんか変だなぁ」

 信号が赤から青に変わったので由利はそれ以上考えることもなく、そのことは学校へ行く前にきれいさっぱりと忘れてしまった。 
 だがこのとき感じた由利の違和感は、単なる気のせいではなかった。



「場所と時間さえ一致すれば、向こうの世界へ行けるとすれば、今夜だって可能なはず!」

 由利は夜の十時四十五分ぐらいに寒くないように、オーバーを来て、ファミマへと出かけようとした。玄関でスニーカーのひもを結んでいると、辰造が心配げに玄関へやって来た。

「由利、もう真夜中やで、どこへ行くんや?」

「うん、コンビニ。ちょっと買いたいものがあるの」

「ふうん、そうかぁ。気を付けて行きや。遅くならんようにな」

 昔人間の辰造は本来なら、たとえ近くのコンビニであろうと、夜中の若い娘のひとり歩きは許せるものではなかった。だが無下に「行くな」と怒りつけたところで孫娘は反感を募らせるだけだろう。辰造は玲子のことで懲りていた。

「うん。すぐに帰って来るから、大丈夫だよ」

 由利は祖父に疑いを持たれぬように、何気なさを装って外へと出た。

 好奇心と恐れがない交じって、心臓がバクバクしている。

「また、あっちの世界に出たら・・・。もし、電車がもう一度自分の前に通り過ぎたら」と思うと、由利は緊張してきておかしくなりそうだった。

 店の中へ入って雑誌を取って読むふりをして、十一時になるのをじりじりしながら待った。そして十一時ちょうどになるのを見計らうと、由利は弾かれたように戸口へと向かった。




 目をぎゅっとつむったままコンビニの扉を抜けて外へ出ると、眼前の堀川通りは相変わらず車が行き来している。

 赤く流れていく車のバックティルを見ているうちに、ほっとした気持ちは次第に失望へと変わっていた。

「あっちの世界には行けなかった・・・ 何が悪かったんだろう・・・?」

 由利は何気なくコンビニの戸口のほうへ向けると、思わず自分の目を疑った。何度も何度も瞬きをして見ていたが、何も変わらない。

 ここにあったコンビニはたしかにずっとファミリー・マートのはずだった。なのに今はどういうわけか、セブン・イレブンに変化している。

「ええっ?」 

 信じられない気持ちで再びコンビニの中へ入ると、さっきと同じ店員がきょとんとした顔で由利を見ていた。たださっきと違うのは、店員の制服もファミマのものからセブンのものへと変わっていることだった。

「ここって、昔っからセブン・イレブンでしたっけ?」

 由利はつい、店員に心に思っていたままの単刀直入な質問をしてしまった。

「あ、僕が知る限りでは、ここは昔からセブン・イレブンですが・・・」

 大学生ふうの店員は妙なことを質問する由利を不審な目で見ながら、それでもきちんと答えてくれた。それを聞いて、また由利は表へと走り出した。そしてスマホを取り出すと、常磐井へ発信した。

 常磐井はすぐに電話に出てくれた。

「由利? どうした、こんな夜更に?」

「もしもし、常磐井君?」

 気が付けば由利は涙を流していた。

「由利?」

「常磐井君!」

 由利の尋常ならざる様子に常磐井もびっくりしたようだった。

「どうした、由利? 落ち着け。落ち着いて話をしてみろ」

「常磐井君、助けて! あたし、気が狂ったのかもしれない」

 常磐井は由利が今、何かが原因で恐慌を来していることに気が付いた。

「由利、由利。今どこにいる?」

「今、家の外・・・」

「誰かに追いかけられているのか?」

「ううん、違う」

「怪我は?」

「してない、大丈夫」

「そうか。よし、分かった。今からおまえんちへ行くよ。だけどおじいさんはどうした?」

「ああ、おじいちゃん! そうだ、おじいちゃんのことがあった」

「とにかく急いで家へ帰れ。そしておじいさんにきちんと顔を見せるんだ。まずは安心させてやらないと。いいか、分かったな」

「う、うん。それからどうしたらいいの?」

「そしたら、おじいさんには用を足しに行くようなふりでもして、そっと部屋から出るんだ。ちゃんと寒くないようにコートを着て外に出てて。そのころにはオレはおまえのところへ着いているはずだから」

「うん、分かった」

「じゃあな、いったん電話は切るからな」

 由利はスマホをポケットの中へ戻すと、一目散に家へ駆けて戻った。


 祖父の部屋はすでに灯りが消されていた。

「おじいちゃん・・・ただいま。もう寝ちゃった?」

「うん、由利か。いや、今、電気を消したところや」

「ごめんね。ちょっと遅くなっちゃって・・・」

「まぁ、何事もなかったんなら、それでええわ」

「あたし、ちょっと美月に電話するから。うるさいだろうし、下でしてる」

「ん、まぁ、おまえもあんまり遅うならんようにな」

「うん、おやすみ」

 由利はそのまま階段を降りてから忍び脚で玄関に行き、スニーカーを手に取るとそのまま玄関を出た。玄関でガサゴソ音を立てたくなかったからだ。

 そっと引き戸を閉めて玄関を出たところで、由利はスニーカーをきちんと履くためにかがんだ。

「由利・・・」

 目を上げると黒いヘルメットをかぶり黒い皮ジャンを着た人間がすっくと由利の前に立っていた。

「!」

 いきなり暴漢のような人間が現れて自分の前に立ちふさがったので、由利は思わず悲鳴を上げそうになった。

「だめだよ、由利。悲鳴なんかあげちゃ。気づかれるだろ? オレだよ」

 被っていたヘルメットを取ると、それは常磐井だった。

「と、常磐井君・・・? どうしてヘルメットなんか被っているの?」

「おまえ、オレがすたこらペダル踏んで自転車で来ると思ってた?」

「うん」

「ま、いいや。こっちに来なよ」

 常磐井が尻餅をついていた由利の手を取って立ち上がらせた。その途中で常盤井の頭が唯の顔に近づいて行った。真っ暗な道でふたりは固く抱き合ったまま、しばらく彫像のように動かなかった。

 しばらく行くと、堀川通りに黒いホンダのバイクが留めてあった。

「うわ、すごい・・・」

「うん。四百ccさ」

「何でもできるんだね、常磐井君」

「まぁな。オレ、誕生日が四月だからさ、夏休みに中型バイクの免許を取ったのさ」

「あんなに合宿、合宿で忙しかったのに! タフ!」

「ははは、頑丈なのがオレの一番の取柄かもな」

 常磐井が笑うと急に、それまでの暗い雰囲気が吹き飛んだ。

「由利、さっきはどうしたんだ。泣いてたじゃないか」

「うん・・・。あのときは本当にびっくりして・・・」

「ねぇ、この先にファミリー・マートがあるの知ってる?」

「う、うん? そんなのあったかな?」

「ねぇ、今からそこへ一緒に行ってもらってもいい?」

「え、ああ、別にいいけど」

 由利は常磐井に付き添ってもらってさっきにコンビニまで行った。しかし今度はやはり元の通り、ファミリー・マートに戻っていた。

「ええ? これって一体どうなっているの? あたし、頭がおかしくなったんだろうか?」

 常磐井は由利がまたパニックになっているのを見て、気を逸らそうとした。

「まぁ、とにかくさ、こんなところで由利がぎゃあぎゃあ言っていても寒いばっかりだし、とりあえずファミマに入って何か温かいもんでも飲もうぜ。話は飲みながら聞くし」

 店に入ると、店員は由利の顔をみて「また来たのか」というような顔をした。今度の制服はやはりファミリー・マートのものに戻っている。

 由利は店員に再び質問をせずにはいられなかった。

「すみません、変なことを何度も言うようですが、さっきあたし『ここは昔からセブン・イレブンでしたっけ?』って訊きましたよね?」

「いえ、お客さま。『ここは昔からファミリー・マートでしたっけ?』って訊かれましたけど?」

 店員はうんざりして、もういい加減にしてくれというような顔をしていた。

「あー、すンません」

 常磐井は店員をとりなすように謝った。

「さてと、まぁ座って話を聞くわ。由利は何にする?」
「なんか甘くて温かいものがいい」

 常磐井はレジに貼ってあるメニューを見て言った。

「んじゃ、キャラメルラテか、宇治抹茶ラテか、濃厚ココアか。どれにする?」

 常磐井はのんびり訊ねる。由利はこんなときにさえ悠長に構えている常磐井を見ていらいらしていた。

「ん、もう。何でもいい!」
「じゃあ、キャラメルラテだな」

 常磐井はさっさとレジでお金を払うと自分はブラックを頼み、セルフマシーンでカップにコーヒーの液体を落とし込んでいた。

「さあ、座りなよ。どうした? 初めから言ってみ?」

「初めから? すんごく長い話になるよ。それでもいいの? それにいくら常磐井君にしても信じられない話かもしれないけど・・・」

 興奮して猛々しくなっている由利を見て、常磐井はなだめるように優しく諭した。

「いいよ。だって、由利がオレに話さないことには何も解らないだろ?」

 由利は順を追って常磐井に語って聞かせた。

 夏にタイムスリップしたこと、昨日も突然タイムスリップしたこと、タイムスリップした先の世界はどちらも戦後まもなくの世界であって、そこで幼児の祖父に出会い、昨日のタイムスリップでは、祖父は落ちると運命づけられていた電車に乗って、死んでしまったことを。

 常磐井はコンビニに常設されたテーブルに肘をつきながら、由利の言うことにじっと耳を傾けていた。

「ふうん。おじいさんが死んじまうのはちょっとヤバいかもな。だっておじいさんがいなくなるってことは、由利や由利のお母さんがこの世界に存在しないってことだかんな」

 常磐井はそれを聞いたあと、冷えてしまったコーヒーを一口飲んだ。

「そうよ! おじいちゃんがあのとき死んでしまったのが本当なら、当然、あたしはこの世に存在しない。それにおじいちゃんだって、今ああやってあの家で寝てるってはずがないもの」

「ふ・・・ん。まぁたしかにね。だが時間が流れていく上で無限のパラレルワールドが存在するって聞いたことがあるぞ」

「それってあくまでも仮説でしょ?」

「まあね、それを証明する方法なんてないわな。だけど今、由利とおじいさんはここにこうやって存在しているんだし、今それをどうこう言ってみても仕方ないんじゃない?」

「そうなの・・・かな?」

「人がひとりこの世にいなくなるっていうと、それはそれで相関関係がかなり変わっていくよ。『風が吹けば桶屋が儲かる』方式で思わぬところに波及が行きそうだから。いきなり由利がこの世にいなくなるってことはなさそうな気がする」

「そっか。じゃあ、とりあえずそのことは、今は考えないでおく。それでね、あたしはふたつのタイムスリップしたときの共通点を考えてみたの。ひとつはどちらもこのコンビニで買い物をしたあとだった。ふたつめはどっちも時間が夜の十一時あたりだったってこと」

「ふうん、それで?」

「で、あたしはそれが本当かどうかを試したかったのよ。だから十時四十五分ごろに家を出て、コンビニに到着して、それで十一時かっきりに、コンビニを出たの」

「それでタイムスリップしたの?」

「ううん。起こらなかった」

 由利は少し残念そうな顔をした。

「じゃあ、由利の立てた仮説は成立しなかったんだな。だけどじゃあ、さっきなんであんなにパニクっていたんだよ?」

「あたしは自分がタイムスリップしなかったことに、半分ホッとしてたけど、半分がっかりしていたの。それでタイミングが合わなかったのかなぁっって。もう一度やってみたらどうなるのかなって考えたのよ。で、ふと振り返ってコンビニを見たら、それまでファミリー・マートだったものが突然、セブン・イレブンに変わっていたの!」

「へぇ? それで?」

 常磐井の沈着冷静な顔色が少し動いた。

「あたしはどうしても事の真偽を確かめたくて、あそこにいる店員さんに、つい『ここは昔からセブン・イレブンでしたっけ?』って訊いたのよ」

「それでさっきオレと一緒にここへ来て、もう一回店員に尋ねたら、『ずっとファミリー・マートでした』って答えたって言うわけだな、つまり、いっときセブン・イレブンに変わったコンビニがもと通りのファミリー・マートに戻っていたと、そういうこと?」

「うん・・・」

「そうか・・・。そりゃあさ、そんな目にあったら、パニックになっても仕方ないな。ま、少なくともオレは、おまえのことを理解したから、安心しろや」

「うん。…ありがと」

「タイムスリップしたのは、昨日の十一時だよな」

「あ、うん」

「じゃあ、その前、タイムスリップしたのは、いつのことか思い出せる?」

「えっと、あれは一学期の期末試験前のことだった。あたしは赤ボールペンが無くなったんで買いに行ったのよ」

「その日は何をしていたか覚えている?」

 しばらく由利は考えていた。

「そういえば・・・その日は美月に今宮神社に連れて行ってもらったんだった。『夏越しの祓え』だからって茅野輪をくぐって・・・」

「それって夏越の祓えのお祭りの当日のこと?」

「お祭り? ううん。別段、行事をしているふうではなかった」

 常磐井は由利の話を聴きながらスマホを見ていた。

「ふうん、六月三十日より前ってことだよな、それじゃ」

 それから常磐井は不思議なアプリを起動させた。

「常磐井君、それって何?」

「これ? これは月の満ち欠けカレンダー。昨日は新月だった。ということはおそらくその夏に由利がタイムスリップした日も新月の日だったんじゃない?」

「新月?」

「そう、新月ってのは、地球と太陽の間に月がぴったり重なって、太陽からの光が全く地上に届かない状態のことさ。地球から見れば、太陽の光が届かないんで、月の光が全く失われて真っ暗になっている状態のことだよ」

「その新月とタイムスリップって、一体何の関係があるの?」

「まぁ、これも仮説だけどさ、新月の日のことを昔は『朔日』って言って、一種の魔が生じるときでもあるんだよね。太陽という神の光が届かない時間っていうかさ、こういうときってそんな不思議なことが起こりやすいって昔から言われているんだな」

「じゃあ常磐井君、その六月の新月の日っていつだったの?」

「うんと六月二十○□日かな?」

「そう言われればそうなのかもしれない。たしかに六月の下旬だった」

「もし、この仮定が正しいなら、次の新月は 12月の23日。月の周期は約二十九日だし、今の暦は昔の太陰暦とは違うから、必ずしも月初めが『朔日』とは限らないしな」

「次は12月23日・・」

「まぁ、その日までまだ少し時間がある。それまでに少し解明しておきたいこともあるだろ? この電車の事件だけど、それが本当に起こったことなのか? 起こったとすればいつ起こったのか? それをまず調べておいた方がいいんじゃないかな?」

「うん。それはそうかもしれない」

「あしたは土曜日だし、一緒に図書館へ行こうや。戦後すぐの新聞なら図書館は持っているはずだよ、それを閲覧させてもらって、事の真偽を確かめに行こうぜ」

「うん!」

 由利は初めて嬉しそうな顔を常盤井に見せた。

「はぁ、常磐井君に話せて、少しホッとした。ホッとしたらお腹が空いてきちゃった」

 由利は棚に置いてあったサンドイッチと野菜ジュースを買って席に戻るとおいしそうに食べ始めた。

「女の子ってこういうところが解らないところだよなぁ。さっきまであんなにパニクっていたのに、今はよくもまぁ、こんなふうにパクパク食べることができるもんだな」

 常磐井は由利が夢中になってサンドイッチをがっついている姿を見て苦笑した。それを横目で見ながら由利は反論した。

「まぁ、女は男と違って、柔軟性が高いんじゃないの?」
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境界の旅人 33 [境界の旅人]

第八章 父娘

4 

 その日もいつものように茶道部の連中は、新部長である鈴木千晶の厳しい指導のもとに集い、散会した。小山の代わりにとなった千晶は母親が茶の湯の師範でその関係上、五歳のころより茶の湯の稽古を始めた。実にその道十年以上のベテランである。ブリリアントさでは遠く及ばないものの、多少エキセントリックな言動が多かった小山とは違い、千秋は逆に手堅いお点前をすることで定評があった。

 いつもなら一緒に帰るはずの美月は、めずらしく用事ができたからといって先に帰って行った。だいたいいつも六時を過ぎたころに校門を後にするのだが、その日に限って早い時間に稽古が終わった。時計を見ると、まだ五時半を過ぎたところだった。

「そうだ・・・。そういえばここんところ、ずっと彼とは話していない」

 船岡山で喧嘩別れして以来、由利は常磐井とメールもしていなければ、まともに口を利いてさえいなかった。

「弓道部はまだ練習しているのかな?」

 そう思うと由利は無性に常磐井の弓を打つ姿を見たくなった。キリキリと弦を引くときの力強い全体のフォルム、的に狙いを定めているときの眼光鋭く厳しい精悍な表情。そんなピンと緊張した瞬間の常磐井は、由利の目にたまらなく魅力的に映った。そんな彼を遠巻きに見つめているのが好きだった。

 由利は中の人間には分らぬように、そっと弓道場の外の窓から中を伺い見ていた。弓道部員たちは由利がこっそりと垣間見ていることなど露知らず、黙々と弓をひたすら打っていた。

「小野さん」

 そんな由利の背後から聞き覚えのある声がする。どきりとして振り向くと、それは春奈だった。

「ああ、田中さん・・・」
「どうしたの、小野さん。弓道部に何か用? それとも誰かお目当ての人でもいるの?」

 春奈は空とぼけたふりをして、恋敵を牽制するためか、由利がここを訪ねてきたわけを訊き出そうとした。

「えっ? ううん、別に。部活が早く終わったし、ちょっと通りすがりに何となく眺めていただけど?」
「へぇ、何となく見ていたにしては、えらく熱心だったような気がするけど?」
「あら、そう? そんなつもりはないけど?」

 挑発には乗らず素知らぬ顔をして、由利は春奈の問いに応じた。

「そうなんだ。あたしね、常磐井君を待っているのよ」

 春奈は由利にことさらにひけらかすように言った。その口調もどこか得意そうだった。

「そうなの?」

 悔しそうな顔を見られると期待していた春奈は、由利の動かぬ表情を見て少し調子が狂ったようだ。

「小野さん、あなた以前言ったわよね、あなたは常磐井君には全く関心がないって。だからたとえあたしが常磐井君と付き合ったとしても、それに文句を言ったりしないって」
「ああ、たしかにそんなことを言った覚えもあったかな。それが一体どうかしたの?」

 春奈がじっと由利を疑い深げに凝視していると、そこに他の部員に交じって練習を終えた常磐井が、弓を携えながら道着姿で戸口に現れた。

「常磐井君!」

 春奈が救われたような顔をして常磐井のほうへ転ぶように駆けて行くと、由利にことさらに誇示するように常磐井の腕に取りすがった。常磐井は向かい側にいる人物が由利だと判ると目が泳いだ。だがそれも一瞬で、またもとの表情に戻った。

「こんばんは、常磐井君」

 由利は常磐井に、他人行儀なあいさつをした。

「お、おう」
「うん、部活の帰りにちょうど田中さんとそこで会ったから、お話をしていたの」
「ああ、そうなんだな」

 常磐井はぶっきらぼうに答えたが、ごくんと唾を飲んだのか、喉ぼとけが動くのが見えた。

「実はね、あたしたち、これから三条へ行って映画を見ることになっているんだ!」

 春奈は昂った声で宣言した。

「ああ、今日は金曜日だものね。花金ってわけね。ステキ」

 由利はふふっと口元をほころばせた。

「ねえっ、悠季君?」

 春奈はいかにも親しげに常磐井の名前を呼び、同意を求めるようにちらっと見上げた。

「あ、ああ」
「何を見るの?」

 由利は春奈に訊ねた。

「ラ・ラ・ランドよ」
「へぇ、オシャレじゃない? ミュージカル仕立てだしね。主役のエマ・ストーンもキュートだし、ライアン・ゴズリングもハンサムだし。デートで見るにはピッタリな映画ね」
「うふふ、でしょ?」
「でもね、ちょおっとネタバレになっちゃうんだけど、結末が悲しいの。結局のところお互いに思いあっていた恋人たちは結ばれないのよね」

 そう言いながら、由利はさっと視線を常磐井の顔へと走らせた。

「あらっ、小野さん! だめよ、結末を言っちゃ!」
「ああ、ごめん、ごめん。つい。だけどこの映画は最後どうなるこうなるってことより、恋愛のプロセスを重点に描かれているから。結末をちょっとぐらい知っていてもまったく遜色はないはずよ。楽しんできてね」
「小野さんは、これからまっすぐお家に帰るの?」
「そうね、さっきまでそうしようかなって思ったけど、ちょっと気が変わったなぁ、実はね、いつも行く秘密の場所があるの。そこへ行ってから帰ろうかなって」
「秘密の場所? へぇ~」

 春奈がバカにしたように訊いた。

「そう、いろんな意味で大事な場所なんだけどね、あたしにとっては。今日はそこで少しひとりでいたいなって気分かしら。ああ、邪魔してごめんね。じゃあ!」

 由利はふたりのもとを離れた。


 
 由利はひとりで船岡山へ到着すると、いつものように自転車をふもとに止めて、ひとりで階段を上がって行った。もう日もとっぷりと暮れて、道路の途中途中の街灯だけがひっそりと辺りを照らしていた。日中は比較的暖かいのだが、さすがに11月の中旬ともなれば日が落ちるととたんに気温が下がる。由利はコートの襟のボタンをきっちりと閉じて風が中に入らないようにした。

 この山から見下ろす街の灯は、闇の中にで宝石箱をひっくり返したように赤、青、黄色、白、紫と様々な色が交じり合いきらきらと瞬いていた。いつもの由利なら、常磐井に背後からその身をすっぽりと繭のように包まれて、うっとりとその夜景を眺めているのに、ひとりきりで見るとなぜだかその光も非常に心細くて寂しいものに思える。

 ふと目から一筋涙が流れた。

「おまえが言い出したことじゃないのか? 学校では他人のフリをしろとな。それなのに何で泣く?」

 ふと気が付くと傍に三郎が立っていた。

「三郎!」

 驚いたように由利が叫んだ。

「三郎君、あなた、調伏されたんじゃなかったの?」
「誰が調伏されたって? おれがか? ふふふっ、あんな生臭さ坊主に何ほどのことができる? 全く聞いて呆れるとはこのことだ」

 由利はあの辛い滝行も結局、何の役にも立たなかったことを知って愕然とした。

「おれが調伏されて、この世から消えてしまえばよかったと思っているのか?」

 確かめるように三郎は訊いた。三郎は死霊なのかもしれないが、由利にとって危機から救ってくれた恩人でもある。だがそれとはまた別に、曰く言い難い懐かしさを三郎に感じていた。

「ううん、そんなふうには思っていない・・・。やっぱり三郎に会えると嬉しいもん」

 それを聞くと心なしか三郎の目許が和らいだように感じた。

「三郎・・・。あたし、あなたにいつか会ったことがあったのかしら?」

 いつも不敵な三郎の顔に、初めて動揺の影が走った。

「いつかだと・・・? それはどういう意味だ?」
「あたしが生まれる前・・・。過去生であたしが女御だったときに・・・」
「おまえが女御だったとき? そんなこと、誰がおまえに教えた?」

 三郎の目は怒りと驚きで大きく見開かれていた。

「ううん。誰にも教えてもらってなんかいない。何度かあたしの意識だけが昔に飛んだの。気が付けばあたしは今の小野由利じゃなくて、帝の女御だった・・・」
「そうだな。おまえはたしかにそうだった・・・。本当に美しくて、淑やかで、それでいて侵しがたい威厳があって・・・おれの誇り、おれの憧れだった・・・。傍近くかしずいているだけで、どれほど幸せだったことか・・・」

 三郎は思いがけないことを言った。

「じゃあ、あれは本当のこと?」

 三郎の瞳は潤んで夜景の光にキラキラときらめいていた。だがその問いには答えなかった。

「この船岡山はな、平安の昔から長らく死体捨て場だったんだぞ。未浄化霊がうようよしているんだ。そんな沈んだ気持ちでいると、また近衛邸のときみたいに化け物たちとお見合いすることになるぞ?」
「うん。だけど・・・」
「おまえ、あいつのことをどう思っているんだ? 好きなのか、それとも嫌いなのか?」
「判らない」

 由利はポツリと答えた。

「常磐井君は、自分じゃおそらく自覚していなんだろうけど、ものすごくセクシーなんだと思う。あたしはたぶん、彼のそういうところに惹かれているんだろうとは思うけど・・・」

 三郎はどこか由利を心配そうに見やった。

「常磐井君は本当に親切で優しいし、いつも思いやってもくれている。だけどあたしには、彼の生き方やものの考え方には違和感があるの。それに早熟な彼の性急な愛の求め方っていうのにも」
「そうだな、たしかにあいつは、おまえに欲望を抱いている」
「うん。それもわかってる。常磐井君は太陽みたいな人よ。強烈すぎるの。遠くで神のように仰ぎ見ている分にはいいの。だけど近くに寄ってこられるとその熱さでこっちが焼け死んでしまう、イカロスのようにね。だから今のあたしは応じられない」

 そういいながら由利は傍らの三郎には、常磐井の情熱とはまた別な日だまりのような優しさを感じていた。

「それじゃあ、さっきみたいに適当に他の女と遊ばせておけばいいじゃないか?」

 三郎は由利をなぐさめるように言った。

「理屈で言えばそうよ。だけど実際ああいうふうにされちゃうと、解っていても悲しくなるもんなんだね」
「ふうん。困ったお姫さまだな」

だが突然三郎は、何かを聞きつけたようにビクンと身体を震わせた。

「おやおや、そろそろ若君のご登場らしい。おれはあいつに嫌われているからな。じゃあな」

 そう言うと三郎は姿が見えなくなった。ほどなく常磐井が息せき切って、由利がいる場所へ来た。

「由利!」
「あら、常磐井君」

 由利は何事もなかったかのようにふるまった。

「どうしたの? もう映画は終わったの?」
「バカっ! こんな人気のいない寂しい場所へおまえみたいな女の子がひとりで来ちゃダメだろ? もし変質者に襲われでもしたらどうするんだ? 何かあったらと思うとオレはもう生きた心地もしなかった」

 実際に船岡山は京都市内でも物騒なところで、過去にいくつか殺人事件も起こっていた。だがだからこそ、高校生同士が人に知られることなく会うには格好の場所でもあったのだ。

「あら、血相変えて駆けつけて来るから、何があったかと思いきや、そんなことだったの? それに田中さんはどうしたの?」
「由利! どうしてこんなあてつけがましい真似をするんだよ! 田中との約束なんて、そんなのクソ喰らえだよ。あの場で即座に断った」
「あたしのことは気にしないで、あなたはあなたで田中さんと楽しくデートすればよかったじゃない? あたしはそれで一向に構わないんだけど」

 それを聞くと思わず常磐井は、激しい怒りに駆られてパシッと由利の頬をぶった。

「きゃっ」

 常磐井としては相当手加減して軽く平手うちしたつもりなのだろうが、しまったと思ったときには由利の身体はその衝撃に耐えられず、吹っ飛ばされるように倒れた。

「由利! すまん、大丈夫か?」

 地面に倒れ込む前に、常磐井はとっさに身体が動いて由利を受け止めた。抱き起こすと、由利は今の衝撃で鼻と口の中の血管が切れたらしく血を流していた。急いで常磐井はポケットからハンカチを出してその血を拭いた。

「すごいね、常磐井君の力って。一瞬意識が飛んでた。常盤君ならあっという間に、素手であたしを殺せちゃうね・・・。こんな目に遭うとあながち常磐井君の心配っていうのも、間違っていないんだなって今、実感しちゃった・・・」

 そう言いながら、由利は常磐井の腕の中で、思わず顔に手を当ててぽろぽろと涙をこぼした。

「由利、お願いだ。だからもう、これ以上オレを弄ぶようなことはしないでくれ、頼む」

 常磐井は由利に懇願した。

「ごめんなさい。だけど田中さんが勝ち誇ったようにあなたの傍にいるのを見ると、なんだか急に常磐井君が遠い存在に思えて」
「そうさせているのはおまえじゃないか、由利!」
「めちゃくちゃを言っているのは、自分でもよく分かっているのよ」 
「おまえは本当に女王さまだよ、由利。オレは結局、いつもおまえの言いなりだ、だから何でも言うことを聞く。どうすればいいんだ、言ってくれ」


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