民衆に迎合しない教皇  『ヤング・ポープ THE YOUNG POPE』 [読書・映画感想]

皆さま、こんにちは。

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先日、あの超二枚目俳優のジュード・ロウが、初めてドラマの主人公、
それも、な、なんと教皇になるというすごい作品を見ました。

この作品、すごく難しいんですよ。
見ていて一対どんな人を視聴者として想定して作った作品なのかなぁって、頭ひねりました。
聖職者か、聖書学者か、インテリか…。(わたしはその中のどれとも違いますけど)
とてもじゃないけですけど、キリスト教にはほとんど馴染みのない人、
いや、同じキリスト教徒であってもローマン・カトリックではない人は
最後まで見通すことが難しいんじゃないかなって思いました。

筋だって、あってなきがごとしみたいな、山場や盛り上がりもないしね。

ただ、ジュード・ロウが妙に美しい。
今まで、いろんな役をやってきた彼だけど、
これほどまでに彼の美貌が引き立てられた作品って
ないんじゃないかなって正直思いました。

というのも、もともと本来の美貌っていうのもあるとは思うんですが、
やはり、彼自身の渾身の演技力がものを言っていると思うんですよね。

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また、背景や描写が非常に美しいんですよ。
ロケ地がヴァチカンだけあって、さらりとカメラに収められた背景は
お宝の宝庫です。

それに単なるエンタメ・ドラマとは全く逆のアプローチで
真面目にカトリックとは、真の信仰とは何かと考察しているんです。

これまで「教皇の日曜日」などローマ教皇を取り扱った作品もあったけれど、
それは遠回しにローマ・カトリックを小ばかにしているところがありました。
だけど、これは違います。




話はですね、
まぁ、これは事実ではなく全部フィクションです。

コンクラーベが行われるのです。
そして、選ばれたのはなんとなんと、
非常にハンサムで、史上最年少のアメリカ人だったのです。

なぜ、彼が選ばれたのか…。
それは、ヴァチカンの保守派と改革派の折り合いが上手くいかず、
とりあえず、妥協案としてどちらの勢力にも属さない、傀儡としての存在が欲しかった。

それならば、まだまだ若くて、しかもアメリカ人ならよかろう、ってことで
ジュード・ロウが選ばれたのです。
イケメンだから、たとえ傀儡の無能な教皇であっても、いや、そうだからこそ
法皇グッズも飛ぶように売れて、
大いにヴァチカンの財源を潤してくれるだろうとも期待していたのですね。

こんないきさつがあり、
これまでの教皇のスタッフたちは、この若輩のアメリカ人なら
いともたやすく御すことができるはずだと高を括っていました。

ですが、ですが、そうは問屋は降ろしませんでした。

新教皇はピウス13世と名乗ります。
彼は民衆の前に出て、顔を見せながらスピーチすることをまず拒否します。
もちろん教皇の肖像を民衆の前に出すことも拒否。
写真や録画することも禁止。

時代を逆行するような同性愛も禁じ、中絶も禁じるのですね。
スタッフ同士のなれ合いも禁じます。


ヴァチカンは一種の緊張した空気に包まれました。

教皇が民衆の前に出なくなることで、民衆のヴァチカン離れは甚だしく、
これではローマ・カトリックには未来はないのではないかとまで思えるのです。


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ですが、ピウス13世はいいます。
「もし存続だけを願っているのだとしたら、なんと愚かなことだ。
 それだけの存在なら、早くほろんだほうがましだ」

こうやって、ピウス13世はどの人間にも、その胸の中にかたいしこりのようなものを
残すのですね。
しかしそのしこりは、
やがてひとりの人間に「深くものを考えさせる」という動機になっていくのです。


このシーンを見て、ブッダとダイバダッタの対立を思い出しました。
ダイバダッタはブッダの高弟でしたが、組織の運営にたけていました。
「先生、この教団を世界一のものにしてみせますぜ」
と息巻いて師にいったところ、師であるブッダは悲しい顔をしながら首を横に振りました。
「集団が巨大になると、腐敗していく」

本当は信仰を支えあうためだけの同士なのに、
いつしか教団だけが独り歩きし、
運営費だ、なんだとお金がかかって
本当に大事な魂の救済がなおざりにされるのです。

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ピウス13世ははじめアンチ・クリストのような人間なんだと
彼を選んだことを皆に後悔させました。

しかし、よくよく考えてみれば、信仰とはなにか、神の愛とはなにか、を
誰よりも考えていたのはこの年若いアメリカ人の教皇なのですね。

ピウス13世は、母親が子供を甘やかすような説教は一切しませんでした。
これまでの教皇がしてきたように心地よい説教というものは
結局のところ、心に残らないのですね。

結果的に人々は神から離れていく。

そして安直な奇跡も否定します。

昔、日本にもイエズス会の宣教師がたくさんやってきました。

その中でも有名なフロイスはポルトガル人でしたが、
イタリア人のヴァリニャーノは、ルネッサンス的な合理的精神の持ち主でした。
ヴァリニャーノはフロイスが金色の光に包まれた夕焼けや、梅雨に一時晴れ上がった空を見て、
「奇跡だ、これは瑞兆だ、これかそが神の恩寵だ」
とおおげさに騒ぎ立てるのを軽蔑していました。

劇中でも、聖痕(スティグマータ)がある羊飼いと、
多くの不治の病の子供を癒して18歳で死んだグァテマラの少女という
ふたりの人物が出て来るのですが、
それらの奇跡をなかなか教皇は認めようとしません。

教皇はそういう物理的な奇跡より、
各々の人の中に起こる心境の変化こそが
内なる奇跡なのではないかと思っているフシがあるのです。

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ヴァチカンに長年勤める聖職者ならだれでも経験する
「神の不在」というものをピウス13世も体験しました。
若い頃の燃えるような信仰心はどこかへ行って、
「神はいないのではないか」という虚無感に駆られるのですね。

こういう神の不在というのは、かの有名なマザー・テレサも長年苦しんでいた症状なのです。

そんなフロイスの言うように、人は祈れば簡単に神に通じて
瑞兆が見られるなんてことはほとんどありません。


まぁ、そういったことをピウス13世は、シニカルに、またある時にはファンキーに
周りの人間に訴え、理解させていくのです。

また中絶の問題に対しても、世の中のフェミニズム団体がどんなに反対して
「これはヴァチカンの後退だ」とデモをしたとしても、
こういうのです。
「よくよく、根源に戻って考えて欲しい。
 中絶というのは、そもそもどんな場合であれ、それは命の抹殺だ、
 それをヴァチカンが認めるわけにはいかないのだ」と。


ヴァチカンが認めなかった時代の人間は、中絶をするということに
罪悪感を抱き、それを一生後悔しながら、償っていくものものなのだ。

だがもし、ヴァチカンがそれを「やむなし」として認めてしまったなら、
人間は贖罪の気持ちすら抱かない―。

などなどなど…。

結構、見ているだけで頭を使ってしまう、難しいドラマでした。
罰を受けて償ったとしても、罪は罪として依然としてそこに存在する。
罪は消えることはない―。

人はどうしたって罪を犯してしまう存在です。
でも、20世紀に入ってヴァチカンはあまりにも世間に迎合しすぎてきたと
ピウス13世は考えたのです。

ヴァチカンは罪を犯した人間に「大丈夫だよ」と気休めをいう存在であってはいけない。
やはり人々の良心を揺るがすような存在であらねばならない。

そうでなければ、人はやすやすと悪に手を染めるようになるものだ、と。
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現世利益とは真逆の価値観。
誰にでも楽しめる作品ではないけれど、
それでも「考えてみたい」と思う方にはいいかもしれないです。


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