セルフ前世療法体験? [雑文]

皆さま、こんにちは。

昼間は未だに暑いけど、夜エアコンを掛けて寝なくてもよくなり
少し身体が楽です。


さて、私はもともと精神世界とかいろんな宗教のドグマなどを比較したりするのが
好きなのです。




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さて、そんなこんなで
最近、こんな本を読みました。




セルフ前世療法 誘導音声DL特典付き: 繰り返してしまう自分の前世トラウマがみえる (クラブハウスブック)

セルフ前世療法 誘導音声DL特典付き: 繰り返してしまう自分の前世トラウマがみえる (クラブハウスブック)

  • 作者: 根本恵理子
  • 出版社/メーカー: クラブハウス
  • 発売日: 2020/09/08
  • メディア: Kindle版




この著者の根本さんと言う方は、東大で心理学を学んでいらっしゃいます。
そしてお医者さんになろうとして、三度医学部を試みるも失敗。

そして、江原さんの「オーラの泉」を見て、前世というものに興味を持ち、
ブライアン・ワイス博士の「前世療法」にたどり着く。



前世療法 米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘 (PHP文庫)

前世療法 米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘 (PHP文庫)

  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2019/04/03
  • メディア: Kindle版




このですね、ワイス博士はもともとセラピストで、退行療法といって心の問題を抱える人に催眠状態に持って言って、トラウマを受けたところまで戻ってその原因を突き止めるのを仕事とされていたのです。
ですが、どういうわけかある患者さんは、幼少期どころか、自分が生まれる前の体験を語るのですよ。

初めワイス博士は「人がありもしない前世を語るなど、これは潜在意識が間違ってそういうふうに持っていっているに違いない」と思い、何度も何度も、前世へ行かないように、行かないように持っていこうとするのですが、やはりどうしても前世へと移行してしまう。

しかも、それもひとりやふたりではなく次々と前世をみてしまう患者を目の前にして
とうとう博士も「前世」というものを認めざるを得なかったというのが
ごく簡単な内容のあらましです。

現在、この「前世療法」というのは、欧米ではごくごく当たり前な
カウンセリングのひとつとして認められており、保険もきくんだそうな…。

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ただ、わたくしの場合ですね、
神秘的なことに興味あるくせに、疑いぶかいんだよね。

「引き寄せの法則」みたいな現世利益的なメソッドなんか絶対に信じない。
願えば叶うのであれば、どうしてロシアとウクライナは未だに戦争をしているの。
皆が平和になってほしいと願っているのに!



とまぁ、きちんと心理学を勉強もせず、ちょこっとセミナーを受けて
へプノセラピストを名乗っている人は怖い。
法外なお金を払わされるのも業腹だし、
下手したら、変なトラウマを受け付けられるかもしれんじゃん。


というわけで、この「セルフ」でってところがいいなと思ったんでした。
だって、失敗したってタダじゃん。


で、この本には、ダウンロードすると、根本先生の催眠に誘導する音声がゲットできるの。

で、やってみました。

不思議ね。これまで三回やってみたけど、全部ちがっていた。

ひとつ目の私は大航海時代の南インドのゴアに住んでいるヒンズー教徒の漁師だった。
ヒンズーの教えも好きなんだけど、近くに建っているカトリックの大聖堂のステンドグラスが
とても美しくて、思わず床にひれ伏し、ガラスを通して七色に輝く光に神の神性を感じてしまうんだな。
神父さんはそんな私を見て、「カトリックに改宗すればいいのに」ってしきりと勧めるんだけど
そんなに気にとうていなれない。

また、わたしは好きな女の子がいて相思相愛なんだけど、なんとその女の子はムスリマなんだよね。
娘の父親が「おまえがムスリムに改宗しない限り、絶対に結婚は認めない」っていうんだな。

仕方ないムスリムになるかなぁと思いながら、心の片隅で
「神というものは、人がどうこうと線引きをして定義できるものじゃないのに」って思っていたのでした。


非常に私らしい前世のような気がします。笑

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ふたつめはアフガニスタンの裕福な主婦。
男の子ふたりに恵まれ、旦那さんも優しくてお金持ち。
上から下まで、青い絹の服を着て、翡翠のピアスをしています。

奥には料理や掃除をしてくれる小間使いがいます。
私は窓辺に座って、色とりどりの絹糸で刺繍をしています。
ひとさし、ひとさし、丁寧に刺していきます。

主婦の私は幸せにひたっていました、
仕合せな一生を送ったみたいです。

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みっつめは江戸時代の大津。
私は奉公に出されたばかりの飯盛り女。
旅をするお侍さんにシジミ汁とおにぎりを渡すのですが、
お侍さんは横柄でおっかない。

まだ子供の私は、しょっちょう失敗をして店の女将さんに怒鳴られて
おしおきに食事抜きのこともしょっちゅうです。

家に帰りたいけど、口減らしのために奉公に出されたので、
帰るところはありません。
夜中に蒲団の中で仕事が辛くて、家が恋しくてひとり泣いています


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とまぁ、時代も場所もさまざまです。
でも、だからといって、これが本当に自分の前世かといわれると自信ないですねぇ。

潜在意識のフタが空いているという意味では
小説書いている時も同じだからなぁ。


ただ、人の生き方を俯瞰的に眺めるという意味では
それなりに意義はあるのかもしれないです。

まぁ、始めたばっかりで何とも言えませんが、
飽きなければしばらくやっていると思います。


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屋上屋を架す [雑文]

皆さま、こんにちは。

最近、脱稿して一息ついたものの、
私、実は夜ウォーキングしていたとき、
ひどい捻挫をしてしまったんです。

これまでほとんど毎日歩いていたのですが、
それも出来ず、身体の調子が非常に悪い。

整骨院に通っているのですが、
人間の身体って私のように大きな衝撃を受けたときは
最大限に筋肉が伸びるんだそうです。

でも、その反射でその後、急に縮むのだそうです。
私は靭帯もかなり損傷していて、そっちも痛いのですが、
とにかくふくらはぎの深部の筋肉が縮んだせいで、血の巡りが悪く、
足が冷たい。お風呂に入っても表面部分が温まるだけで、深部が温まらない。

というわけで、この暑いのに、エアコンですらかけているのに、
ひざ下だけはごっつい遠赤外線が織り込んであるレッグウォーマーみたいなのを
付けていますね。

あと、かてて加えて、最近喪失感があって~。
そもそもあんまり精神が安定してないのに、
ケガをしたせいか、鬱っぽいです。

心療内科行こうかなってググってみたけど、みんな「要 予約」なんですよね。
まぁ、わかるんですよ。要予約じゃなきゃ、待たせられるし…。

だけど、思いついとき、心に決めた時、行きたいんだ…。
タイミングが合わないと、また機会を逃すことになる…。

かといって、私のように常に情緒不安定な人間って
心療内科へ行ったとて、ってところがあるんだよね~。

結局、「カウンセリングを受けてください」みたいになるんだよ。
いや、カウンセリングは8年ほど通いましたから、もういいです。

あ~、あたしはこんなもやもやしたもやもやした気持ちを抱えて
これから死ぬときが来るまで生きなきゃならないのか、
…ユーウツです。ものすごく…!


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さて、今日は単なる言葉によるうっぷん晴らしです。
私はたいていリアル世界の人にはあんまり文句をいいません。
それは、不思議な感覚だけど、愚痴を言った後、
ものすごく落ち込むんだよね~。

自分の中のもうひとりの自分が「恥を知れ」って怒って来るんですよ。
他人は解決できない問題は言わないことにしています。
だって聞かされている側に立つと、いやな気持になるんだもん。。




さて。

最近、プロじゃない方の小説を目にすることが多いのです。
時には、非常に面白いものに出くわすので、
馬鹿にしたもんじゃないんですよね。

ただ、いつも気になるのが、
美形キャラの人物描写かな。

みんな、「屋上屋を架す」って言葉知ってる?

屋上の上にさらに屋上を建てることだよ、
つまり、無駄なことのたとえなんだね。

似たような言葉に「蛇足」っていうのもあるかも。
こっちのほうがもっと頻度としては軽い気がする。

私、常々美女とか美男って書く時は気を付けていることがあるの。
それは「美しい」と連発しない。
また直接「美しい」というダイレクトな表現を使わないってこと。

向こうから「超絶美少女」が歩いてきた。

って書かれていたら、もうそれ以上書くことはない。
だって超絶美少女なんだからさ。

なんてのかな、こういうの、やっちゃいけない典型だと思うんだよね。
超絶美少女ってことばには、「どんな風に魅力的なのか」を創造させる余地がないもん。

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たとえば、主人公が横断歩道で信号が青になるのを待っていたとする。


ふと対岸を見るとですね、セーラー服の女の子がひとり佇んでいた。

割と背の高い子で、すらっとしている。
主人公は
「こんなに背が高いんだから、バスケとかバレーボールをしているのかなぁ」
とぼんやり考えていた。

青になると他の人と同じように女の子もこちらに向かって歩き出した。
おそらく校則では膝丈のはずのスカートは、
放課後になると思いっきりたくし上げられているのだろう、
ミニスカートの下にはぜい肉のついていないまっすぐな足が伸びている。
女の子は主人公に見つめられているとも知らず、颯爽とこちらに向かって歩を進めてきた。

赤みがかった膝小僧が初々しい。

思わず主人公は近づいて来るその子の顔を凝視した。
そこには切れ長の瞳がキラキラと輝いていた。

そしてすれ違いざまにわずかな風になびいていた髪から
シャンプーの清潔な香が漂って来る。

しかしそれも一瞬で、女の子はほとんど主人公を気に留めることもなく、
横断歩道を渡り切る。そしてさらに早い足取りでどんどん通りを進み、
やがてその姿は人込みの中へ溶け込んでいった。

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とこんなふうにします。絶対に「超絶美少女」とは書かないですね、私は。

この中には「美少女」とか「美しい」とかあえて書くことを止めました。
ほっそりと奇麗な足の描写とか、髪の毛とか、切れ長の目って書いただけで
たぶんこの子が「超絶美少女」だということがわかるんじゃないかな。。。


とにかく、「美人で」とか「この上なく美しい」とか
書き過ぎる。美しい、美しい、って書くと、それはフォルテシモの表現となってしまいますので、
それ以上書くと、くどいのです。
で、つい私は、「屋上屋を架す」と思ってしまうのです。

まぁ、そうは言ってもなかなかね、さりげなく「美しさ」を表現するって難しいことだから。
私も日々苦労はしています。


そうそう、もう一つ大事なことを書き忘れていた。
美人ってなにも外見だけじゃないんですよね。
やっぱり姿も美しいければ、内面も美しくないと厳密な意味で
「美しい人」というか「人を魅力するに十分な人」とはなり得ないんじゃないかな。

だから余計に「超絶美少女」って書くのは危険なんですよ。
それに、なんか「超絶」って言葉自体、なんだかそぐわない気がする。
超絶技巧とはいうけど、超絶美少女って使い方は特殊だと思うんだな~。
こういう時は、面倒くさがらず「超絶 使い方」とググって見ましょう。


そんなん言ったら、マネキンが一番きれいという事になってしまう。
欠点も含めてその人の持ち味になるような、そんな描き方ができたら…と思いますね~。



だいたい主人公か、主人公が好きになる子は「美形」が多いもんだよね。
なかなか中年の禿親父を好きになるというプロットにするのは、
よほどの力量が必要だと思う。あんまり共感されないから。

だからと言って、美男美女、美男美女、美しくて、きれいで、美しくて、きれいで

っていうのも、芸がない、

そんな愚痴でございました。


愚痴なので、かる~くスルーしてくださいましましね。
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小説を書く時、仲間は必要か [雑文]

こんにちは。

残暑も厳しいですねぇ。気温が高くてしんどいというより、
蒸し暑くて辟易しますね。

今日は私の悩みを聞いてください。
出口のないループのような愚痴になる予感もあります…。

私は八月の終わりぐらいに、それまで書いていた小説をやっと脱稿できました。
時代は江戸で徳川家の家門である殿様とその殿様の注文を受けた絵師の話がメインなのです。

そもそもこの小説は娘に「こんな面白い画家をNHKの日曜美術館で紹介されていたから、この人の小説を書いてみたら?」と勧められたことにあります。


それを言われるまでその画家の名前すら知りませんでした。
ですが名前こそ、知られていなかったものの、描いている絵がことごとく、
国宝か重要文化財に指定されているので、上手い画家だったことには違いないのですね。

わたくし、日本史にはほとんど興味がなくて、
というのも日本の武家社会には片諱という習慣がございまして、
例えば、信長の家来だったら信長の「信」という字を貰うか、あるいは「長」という字を貰う人が続出するので、みんな同じような信康とか、信雄とか、似たような名前ばっかり。
覚えにくいんですよ。

未だに京都所司代を務めていた人の名前が板倉重勝なのか、勝重なのか覚えられないし、






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あ、そうそう、すぐに脱線しますね。

小説の話だったです。

で、四月の頭から書き始めて、八月いっぱいまで書いていました。
字数にして約20万字あまり。

その前の半年は関連する本を約50冊ほど読んで勉強していました。
いやぁ、日本史って難しいですねぇ。
政治史と徳川家の話と、絵画史ですかね~。
あと、17世紀初頭の、人々の暮らしとか、お金の値とか…。


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まぁ、そんなことはモノを書くなら当たり前なんですけどね。


私は、小さい頃から小説を書きたいなぁと思ったことは一切ありませんでした。
本を読むのは好きでしたが、だからといって高尚な本が好きだったわけじゃありません。

小説書いてみたいなと思ったのは、子育てが終わった四十代後半からです。
初めは人称などどうやって決めていっていいのかすらわからず、本当に暗中模索でした。

結局、誰にも教えてもらわないで一人で書いていたんですよね。
でもさ、ひとりで書いていると自分が本当に正しい道を歩いているのかどうかでさえ、
覚束ないものなんですよ。


それでプロになりたいわけじゃないですが、公募に出すわけですね。
最初なんか、一次選考なんて通りすらしないです。

でも、誰かに読んでもらってなにがしかの反応が知りたいわけですよ。

でもね、私、ある時わかったんです。
素人の人に批評してもらうのは、あまりにも無謀だということを。
モノを書いたことすらない人になにがしか利益のあることを聞こうとしても無駄です。

なぜなら彼らはその道に精通しているわけじゃないから。

また、批評してもらうのに、ただのところも危険だと思いました。
noteを検索していたら、それはどういうシステムなのかわからないのですが、
あるセミプロみたいな方に、自分の書いた小説を批評してもらい、それをnoteに掲載しているのがありました。

読んでいて、怖くて鳥肌立ちました。
もしこの批評される方が100パーセント正しいとしても、
放たれる言葉がどうしようもなく、きつい。

こんな批評を頂戴したら、私なら自殺したくなりますね。

しかもその方は駄目であることを、きちんと「こういう表現がダメだからやめましょう」
とはおっしゃらないで「稚拙すぎて読むに堪えない。こんなものをまともな思考を持った人間が書いたとは思えない」ってすごいですね…。


これね、感覚的に「駄目だ、とか、面白くない」なら誰でも言えるんですよ。
いくら文章がダメだからといって「まともな思考を持った人間が書いたものとは思えない」なんて
人格攻撃じゃないですか。

そうではなく、ダメなところをきちんとわかりやすく指摘し、どうすれば改善できるのか、
詳しく相手に伝えることができるのが、ものを教える人の基本的な姿勢だと思います。
もちろん、改善したからといってプロの書く作品には遠く及ばないでしょう。
しかし上達するように指導するのが、この場合一番大事なことです。
文章がダメなら内容を云々しなくても、まずそのことを何よりも先に伝えてあげるべきなのです。

私はそう、強く思いましたね。



まぁね、私も日ごろ思うところはあって、
それはイラストや漫画を添削されているペガサスハイドさんも仰っていることなのですが、
「出来ないことを無理してやることよりも、今、自分ができることは、100パーセントできるようにしておく」ってことです。

たとえば話自体のセンスも悪く、構成も悪く、登場人物の魅力にも乏しいかもしれないです。
でも正しい日本語を書くことなら(文法として正しいのか)努力次第でできるわけですよ。

主語と述語がきちんとあっているのか、とか、修飾語は正しいのか、とか
文章がねじれていないか、とか。
単語を重複して使っていないかとか(これはね、推敲しても推敲しても、なかなか全部発見できない難しい作業なんだけど)

とりあえず、何度も何度も推敲します。
でも、それが多すぎるとは思いません。もっと徹底されている方はなんぼでもいらっしゃると思います。


あと、無知による思い込みっていうのも、払拭しなければならない大事なことだと思いました。
実はわたくし、ついこないだまで、薙刀と槍って同じようなもんだろうと思い込んでいました。
しかしふっと「薙刀という名称と槍という名称が違う以上、なにかが違うはずだ」と思い、調べてみました。薙刀というのは刀と一緒で、半身だけ刃なんですね。それに反して槍というのは、遠いところからグサッと相手を衝くので両側が刃なのです。

平安時代は薙刀が主流だったらしいですけど、戦国時代になると長槍オンリーになっていったらしいです。


とこのように、文章も難しいけど、時代に即したものの名称なんかも細かく調べて行ったほうがいいんんですよね~。文章を書き続けて行くと、そういうことを「疑ってみる」っていうセンスも培われていくような気がします。(最初はそういうものに疑問すら感じられないものです)


自分が思う小説というのは、ある時代、ある国、ある場所、さらには実在の人物の姿を借りて、
自分の世界観、自分の思考、自分の信念を書く作業であって、嘘の塊なんです。

しかしそういう大きな嘘をつく時は細かいところは真実を書かないと、読者には非常に薄っぺらい印象しか与えられないものなんじゃないかなぁと思っています。

ま、これは私の考えなのでそれとはまた別な考えをお持ちの方もいらっしゃいましょうが、
芸術には「これが正解」というものがないのが、非常に難しいところではありますね。






こないだ、noteでアマチュアの大人の文芸クラブの会員を募集していました。
しかし、募集の要綱のところに
「プロは目指さない文学好きが集まって、ワイワイ楽しくやりましょう」
ってところにちょっとひっかかりを感じてしまって…。

いや、プロにはおそらくなれないでしょう。
しかし、プロの書いたものに少しでもいいから、
近づくような努力はすべきだと思うんですよね。

正しい文章が書けたなら、もっと美しい文章を目指すべきだと思うし、
それが出来たなら、もっと上手な構成ができるように目指すべきだと思うし…。

「どうせアマチュアだから、下手でいい!」
で推敲もしない人とは仲良くなれない気がするんだなぁ…。
どうもそこらへんの温度差というのが気になる。

文章の上達の進捗状況なんて、本当に人それぞれなんで、
「この人はもう、プロと言ってもいいんじゃないか」と思う人もいれば、
「いやぁ、何から何まで全部できてない!」と思わされる人も中にはいるわけですよ。


ピアノだってさ、バイエルが覚束ない人と
ツェルニー50番とスクリャーピンのエチュードを習っている人とは
おのずと悩みが違うんですよね。

でも文章の世界って、ピアノほどはっきりとレベルの違いが人には判断つけにくいものなんだと思うのですよ。


と言う訳で、誰かに相談したいと思っても、できないのが現状です。
結局ね、自分が書いたものを後で読んでみて、
「あ、ここはいかんなぁ」と思えたなら、上達している証拠です。

で、まぁ、最終的な結論としてはですね、
作品をひとつ書いたなら、プロにお金を払って添削してもらう、あるいは講評してもらうことです。

決して安くはないです。しかし相手もお金というものが介在している以上、
「へたくそ!」とか「読むに堪えないので5ページで止めてしまった」とは言えない訳です。
まぁ、実に嫌な言い方になりますけど、そういう風に放言してしまうのが、
やはりプロになりきれていない人の忸怩たる思いというか、
ジレンマがそこに現れているような気がしないでもないですけどね…。




やはり「常に先達はあらまほしきものなり」、というようにですね、
プロに教えてもらうのが、一番近道のような気がします。
非常に孤独ですが…。






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