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境界の旅人35 [境界の旅人]

第九章 悪夢




 次の日、由利は常磐井と京都市中央図書館の前で、九時半の開館に間に合うように待ち合わせした。

「今日はバイクじゃないの?」

 常磐井はいつもながらに多少ダサ目のTシャツの上にチェックのシャツを羽織っていた。昨日のように黒一色でまとめた精悍な常磐井の姿に惚れ直していた由利は、ちょっとがっかりしたように言った。

「バイクだと一緒に移動できないじゃん? 今日はバス」

 由利の気持ちなどまったく気がついた様子のない常磐井は、あっさりと否定した。

「えー。なんだぁ。常磐井君の乗ってるバイクって二人乗りできないの?」

「オレのバイクは四百でタンデムはできるけど、免許取得後一年間は、二人乗りはできないんだわ。高速に乗るのも、取得後三年経ってからなんだよな」

「なんかつまんない。後ろに乗っけてもらえるかと思ってたのに」

「いや、そもそも由利用のメットがないからダメっしょ。オレはそんな危ない目に由利を遭わせる気はないよ。まぁ、来年の八月になったらな。琵琶湖を周遊するのとか、吉野の奥のほうへ行くのとか面白いかもな」

「うわぁ、いいなぁ。あたし、十津川の方へ行ってみたい。玉置神社とか」

 ワクワクしたように由利は言った。

「おお、日本最後の秘境か。それいいな。いつか行こうぜ」


 
 図書館の中へ入ると由利は常磐井に言った。

「まず何から手を付けるつもり?」

「そうだな・・・。こういうのは最初にだいたいの当たりを付けてから、だんだんと物事の核心に迫る深層部へと入るべきなんじゃね? だからさ、もしそういう事故が過去に起こったとしたら、まずはそれを記載されているものを捜すべきだと思うんだわ」

「記載されているものって?」

「要するにこれって、市電の事故なんだろ? そしたら市電史みたいなものがあるかどうかを調べてみるのがいいんじゃね?」

 常磐井は参考図書のコーナーへ行って司書の女性に訊いた。

「すみません、教えていただけますか?」

「はい、何でしょう? お伺いいたします」

 普段からはまったく考えられもしないよそいきの口調で、常磐井は尋ねた。

「あの・・・、戦後まもなくの京都の市電について調べたいのですが、なにかそういう年史みたいなものってありますでしょうか?」

 これまで由利には絶対に見せたことのなかった爽やかな笑顔で、常盤井は頼んだ。

「そうですねぇ、ちょっとお調べしますから、お待ちください」

 司書の女性は、興味深げにちらりと常磐井から由利の方へと顔に目を走らせてから答えた。しばらくすると司書が本を何冊か持ってきた。

「だいたいこの中に戦前から戦後の京都市電のことが書いてあると思います」

 そう言って司書が探して見せてくれたのが、『京都府百年の年表 7 建設・交通・通信編』『新聞集成昭和編年史 昭和21年版Ⅰ』『戦後京の二十年』『さよなら京都市電 83年の歩み』だった。

 さっそく由利と常磐井は参考図書のコーナーに備え付けられた机に向かって、京都市電が転落した事件が、実際過去に起こったかどうかを調べ始めた。

「ほら、由利見てみろよ、ここ」

 常磐井が『京都府百年の年表』の昭和21年2月8日の項を見せた。

 北野発京都駅行の満員の市電、堀川中立売で堀川に顚落(死者15人、重軽傷14人)と記載あり。出典「京都新聞 昭和21年2月210日」

「やっぱり、あの事件って過去に起こっていたんだね。それも死者が十五人だって」

「そのころにしたら、15人がいっぺんに死んだなんて結構大変な事故だよな」

「うん、そうだと思う。タイムスリップしたときに現場を見てて、昔のJR福知山線脱線事故の縮小版みたいな感じだったもん」

「その表現はこの場合、ぴったりだな」

 しばらくふたりはまた他の本も同様の記載があるかどうか調べていた。

「あ、これ、常磐井君、これ見て」

 由利は『新聞集成昭和編年史』の中にある大阪毎日新聞の2月10日の記事を指示した。

 燃える市電、堀川へ落つ 死傷五十余、京都北野線の椿事

「ふうん、大阪毎日新聞は、京都新聞に比べるといやにザックリだな。なんだよ、『椿事』って? そんなのどかなもんじゃないっしょ、これは? それにさ、火事って実際にあったの、由利?」

「ううん、火事はなかった。まぁ、新聞が『毎日新聞』だし、大阪でしょ? 当時の新聞ってこんなふうにいい加減だったのかもしれないね」

「実際に現場で取材したっていうより、よその新聞社からのまた聞きっぽい感じがするな」

「それにほら、これ見て。ここにも載ってる」

 由利はまた常磐井に『さよなら京都市電』の本の中年表の昭和21年2月8日の頃を示した。

 北野発京都駅行の満員の市電、堀川中立売で堀川に顚落(死者15人、重軽傷14人)

「まぁ、これはおそらく京都新聞の孫引きなんだろうな」

 常磐井はじっと考え込むように言った。それまで『さよなら京都市電』にパラパラと目を通していた由利はハッとした顔をして相手のほうへ顔を向けた。

「ねぇ、常磐井君、これ見て」

「ん?」

「ほら、これ。『女子運転手』の頃を見て。これにはさ、戦時中は人手不足で一時、女子運転手がいたって。『※女子運転手として働いた人達は、いずれも昭和16年~19年ごろに車掌をしていた。戦争が激しくなり男手が不足しだすと唯一の交通機関である市電を走らせるために、車掌の中から運転手を募集した。しかし応募がなく半ば半強制的に車掌を女子運転手として採用した』って」

「へぇ、そんな時期もあったんだねぇ」

 常磐井は感心したように言った。

「由利さぁ、これって考えてみれば、女子運転手って戦後もしばらく存在していたんじゃね? だってさ、これまで出征していた兵士たちが、戦争が終わったからつって、そんなにすぐには帰ってこられるはずもなかっただろうしな」

「まぁねぇ。シベリア抑留っていうのもあったし、南の島に行ってた人だって引き上げるのに時間は結構かかったはずだよねぇ」

 それから再び本に目を通していた由利は、再び口を開いた。

「ねぇ、これ見てよ! 『※そのころの車両は、単車が多く、ブレーキは手回しであった。女子がこの【まいたまいたブレーキ】を回すのは容易なことではなかった。特に巻き戻ったときに胸部にあたると大変危険なので、剣道着をつけて練習をした。少女たちにとっては大変恥ずかしい服装であった』だって」

※ どちらも『さよなら京都市電 83年の歩み』76・77ページを引用。

「やっぱり由利が言っていたように、GIが女運転手にちょっかいをかけて、この『まいたまいたブレーキ』を回しきれなかったんじゃない?」

「うん。たしかにあの電車は中で事件が起こっていたように思う。何だか様子が変だったもの」

 由利があのときのことを思い出すように言った。

「じゃあ、事件が起こった昭和21年の2月8日以降の京都新聞を閲覧させてもらおうかな。事件の経緯がこんな記事からじゃ、まったく判らんもんな」

 由利は事件が書かれている箇所に付箋を貼ってコピーを取り、そのあとそれを整理してスクラップ・ブックに張り付け、出典と掲載ページを書き入れていた。一方常磐井は昭和21年2月の京都新聞を閲覧を申し込んで、他になにか関連記事がないかと確かめていた。

「ほら、これ見ろよ」

 常磐井はコピーを持って由利の傍へ来た。

「これは2月10日。事件の二日後の京都新聞の記事だよ」

 由利は常磐井が持ってきた京都新聞の記事に目を通した。だがそれには、乗客の中に進駐軍のGⅠが乗っていたことは書かれていたが、事故の原因は調査中とのみ記載されていただけだった。

「なんか歯切れの悪い記事だね、これ」

「ううん、たぶん進駐軍の介入があったんじゃないかな。だから本当のことが書けなかったんだ」

「こんな大きな事故を起こしてたくさんの人を死に至らしめたは事件なのにね。どこの人間であろうと罪は罪のはずなのに、進駐軍の人間だったってことで報道の規制が入ったんだね。やっぱり戦争に負けたってことは、こんなところにまで波及するってことなんだ」

 由利は少し憤慨していた。

「当時の感覚では、そうだったんだろうな」



 気が付けばあっという間に時計の針は1時を回っていた。ふたりは図書館の近くにあるラーメン屋しゃかりき 千丸本店へと行った。

「お腹空いた~。常磐井君は何にする?」

 由利は隣に座った常磐井にも見えるように、メニューを広げた。

「オレは、特製ラーメンの大盛かな? それにごはん大盛、餃子! 由利は?」

「え、そんなに食べるの?」

「あァん? こんなの、男子高校生としてはごく標準だろ?」

「そうなんだ・・・。あたし、男の子とこれまで食事を一緒にしたことないから、分かんなかった」

「じゃあ、これからどんどん一緒に食べようぜ!」

 常磐井の誘いをさりげなくかわして、由利はメニューの説明書きを読んだ。

「う~ん、スープはこくとんとまろとんのどちらかを選べって書いてあるけど、どう違うの?」

「こくとんは濃いめ、まろとんは薄めなんじゃない? ま、由利って東京育ちだからまろとんでいいんじゃね?」

 由利は常磐井に言われた通りに、特製ラーメン並のまろとんスープにすることにした。

 しばらくすると、ふたりのところにそれぞれのラーメンが運ばれて来た。

「うめっ!」

 常磐井は何のてらいもなく、煮卵入りのチャーシュー麺をさも旨そうにすすり上げていた。一方の由利は見たなり疑問に駆られた。たしかにこれまで由利もラーメンは好きでよく食べていた。だが東京で食べていたラーメンと今目の前にあるものとでは、あまりにも様子が違う。

 恐る恐るレンゲでスープをすくうと、心なしかとろみがついている。不思議に思いながら一口飲んだ。

「うわっ、濃い!」

 由利は思わず叫んだ。

「うん、こういうのが京都ラーメンなんだよ」

 常磐井は得意気に言った。

「へー、京都っていったら、あっさりはんなりかなぁって思うのに。なんでラーメンだけはこんなにぎっとぎとで濃いのよ?」

「え? あっさりはんなりは、観光客向けだろ? 京都人の本音は常にぎっとぎとだよ。京都人は人の目の触れないところでは、絶対に懐石料理なんて選ばない。つねにすき焼きやビフテキだよ。豚肉なんかよか、ずっと牛肉が好きなんだ」

「へぇ、そうなんだ。なんか意外」

 由利が一生懸命ラーメンを食べている間に、常磐井も黙々と自分が注文したものを平らげていた。

「ふう、お腹いっぱーい」

 由利が安堵のため息をついた。



 ふたりは店を後にして丸太町通りを東に歩いていった。

「なんか午前中はあっという間に過ぎちまったな」

 ひとごこちつくと、由利は常磐井に尋ねた。

「ねぇ、常磐井君。あたしがタイムスリップして出くわした市電の転落事故は過去で本当に起こったことだってのは、これではっきりしたよね」

「うん、まぁ、そうだな。そして事件が起こったのは、終戦直後の昭和21一年の2月8日のことだった」

 常磐井が付け足した。

「でもさ、そこでは、本来死んではならないはずの、あたしのおじいちゃんとそのお兄さんが亡くなっていた」

「うん。まぁ、そうだな」

「それ、どうしてだと思う?」

「どうしてかって? う~ん。由利、おじいさんにその事故にまつわる手がかりになるようなエピソードみたいなもの、これまでに聞いたことないのかよ? たとえばさ、おじいさんは小さい頃に本当はあの電車に乗るはずだったんだけど、何かの偶然で乗れなくなって、間一髪で死を免れたとかさ」

 由利はしばらく考えていたが、ふと脳裏をよぎるものがあった。

「そう言えば! あたし、京都に初めて来たとき、今の堀川通りの東に細い通りが一本あって、変だなぁって思ったことがあったんだよね。そしたら三郎が・・・」

 三郎ということばを口に出して、由利はハッとした。常磐井は未だに由利が三郎と付き合いが途切れていないと知ったらどんな顔をするだろう。

「三郎が? 三郎ってもしかしてあのけったくそ悪い死霊のことか? いつまでも由利に付きまといやがって。で、あの死霊が何と言ったんだよ」

 常磐井は少し憮然とした調子で言った。

「以前、三郎は・・・大きい二車線の道路っていうのは戦時中に作られた道路であって、本来の堀川通りっていうのは、あの細い東堀川通りなんだって教えてくれたの。その上六十年前には、その細い道路にチンチン電車まで走っていたって」

「へぇ、あんな車一台通るのがやっとみたいなところになぁ・・・。まさか市電が走っていようとはねぇ、オレも由利の話を聞くまでは信じられなかったよ」

「まぁ、昔の人は常磐井君なんかと違って、コンパクトにできていたからねぇ。そんなもんでよかったんじゃない?」

「フン。どうせオレは大男だよ」

 まぁまぁと由利はとりなした。

「うん。それでね、家に帰っておじいちゃんに三郎の言っていたことを話して、それは本当かって訊いたのよ」

「え? 由利、おまえ、おじいさんにあの死霊から聞いたって話したのかよ?」

 常磐井は少し驚いた表情をした。

「そんなはずないでしょ? ばったり学校の友達に会って教えてもらったって、ちゃんと言ったわよ!」

「ああ、それなら良かった」

 常磐井はわざとらしく、胸をなでおろすしぐさをした。由利は小声で「何よ、意地悪ね」とつぶやいた。

「でね、そしたらおじいちゃんは、それは過去の東堀川通りに市電が走っていたのは実際に本当のことだし、おまけにその電車はおじいちゃんが六つか七つのときに、中立売の橋梁で転落事故が起こって、一歩間違えればおじいちゃんも巻き添えを喰らって、死ぬところだったって話をしてくれたことがあったのよ」

「そう、それだよ、由利! そう来なくっちゃな! それでおじいさんは、何って言ってた?」

 常磐井は目を輝かせて、由利に訊ねた。

「おじいちゃんはそのとき、錦市場で働きに行っていたお兄さんにお弁当を届けるために、すぐ上のお兄さんと一緒に市電に乗ろうとしていたらしいんだけど、中立売大宮の電停で知らない女学生に呼び止められたんだって」

「へぇ、知らない女学生? それ何? 一体何者なんだ?」

「そう、その見ず知らずの女学生があまりに必死な様子で『乗るな!』って引き留めるから、おじいちゃんたち、つい乗りそびれたんだって」

「ふうん」

 常磐井はしばらく腕を組みながら、流れる空の雲を見上げて考えていた。

「なんでその女学生は、おじいさんたちを引き留めたんだろうな」

「さあね。だけど事件の直後、おじいちゃんのお母さん、つまりあたしの曾祖母にあたる人がお礼を言いたいからって、助けてくれた女学生をさんざん探したんだけど、結局見つからなかったんだって」

「へぇ。そんなことってあるかぁ。女学生だろ? だってそのころの京都の女学校なんて今なんかと違って、数なんか知れたものだろ? それに今でこそ大卒なんて当たり前だけど、戦前は男ですら旧制中学卒だったら大したものだったんだ。ましてや当時、女学校まで上がらせてもらえる女の子っていうのは、ある程度裕福で親にも教育がある家の子供と相場は限られているはずだ。そんなのすぐ身元がわかりそうなものなのに」

「うん、おじいちゃんも、それは不思議だったって言ってた」

「ふうん、なるほどね。まぁ、この事件に関してはその女学生が鍵を握っているんじゃないか?」

「あ、そうだ。おじいちゃんは『女学生は未来が見えていた、そうとしか考えられない』って言っていたんだよね」

「ふうん。それって意味深だよな。本来ならおじいさんを助けるために現れるはずの謎の女学生は、由利がスリップした世界では現れなかった。それは何か原因があるはずだ」

「そうなのかな?」

「そうだよ。もしオレの仮説通り、次の新月の晩の十一時に、由利があのコンビニからタイムスリップできたなら、何とかしておじいさんたちが電車に乗り込む前に、由利が電停に到着できればいいんだけどな。そこには必ず引き留める女学生が現れたはずだ。何かがその女学生の邪魔をしたんだ。もし次回由利がタイムスリップして間に合えば、その女学生がおじいさんたちを引き留めるのを傍について協力することもできるはずだろ」

「そんなこと・・・あたしにできるのかな?」

 由利は心配そうに顔を曇らせた。

「おれはさ、由利がタイムスリップした次の日に、コンビニがファミリー・マートからセブン・イレブンにいっとき変化してまたもとに戻ったってことにも、何か意味があるように思えてならないんだよね」

「ああ、あの超不可思議な事件?」

「そう。というのもさ、由利がタイムスリップした過去で起こるはずのない出来事っていうのは、実際には、まだ完全に決定されていないことなんじゃないかって気がするんだ。つまり過去を完全に上書きされていない証拠じゃないかって思うんだよ」

「まだ完全に決定されてないこと? 完全に上書きされていない? それってどういう意味?」

「おじいさんが死んでしまったのは、『そうなっていたかもしれない』という、ひとつの可能性としてのヴィジョンなんじゃないか? だってさ、実際におじいさんは過去に謎の女学生に助けられて生き延びた。それが本来の歴史が流れる大筋だ。もし過去が本当に書き換えられてしまったなら、ファミマはセブンに変わったままで、おそらく元に戻ることはなかったはずだ・・・。だからオレは思うんだ、過去を変えられることを望まない『意思』が働いたせいじゃないかって・・・。由利にそれを気づけと意思が教えているように思える」

「ねぇ、その、あたしに気づくよう教えようとしている意思って? それは一体何なの?」

「さあ、強いて言えば『神』って言うか、高次元的存在っていうか、絶対的な存在っていうか」

「ええっ? 神? そんなことってありえるのかな?」

「当事者のおまえがそれを言ってしまったらどうするよ? それを否定してしまったら、この事件はこれ以上先に進めなくなるぞ?」

「そうだね・・・。ゴメン、常磐井君。もともとあたしが変な相談を持ち掛けているっていうのに」

「いや、由利。そんなこと言うなよ。オレだって由利のために、何かの役には立ちたいと思っているんだよ」

「ありがと、常磐井君」

「いいって」

「今思い出したんだけど、以前三郎は自分のことを『時空の番人』だって言ってた。『時空と空間がお互いに絡みあわないように、まっすぐ進んでいるのを見張っているポイントごとの番人』だって」

「ああ、前にもそんなことを言っていたな・・・。じゃあそれが仮に真実だったとしても、由利がタイムスリップしたのは、結局はあいつの職務怠慢が原因ってことだろ? 今回の事件はアイツがしっかり見張り切れてなかったからこそ、起こってしまった事件なんじゃないの?」

「うん。そう言われればそうだよね。」

 由利の中で、過去に三郎に言われたことばが蘇って来た。

「判断を下すのはおれじゃない。それにまだ、そういうふうに命令が下されたわけでもない」

「誰が判断するの?」

「さあ、しかとは解らないけど、おれたちなんかよりはるかに高次元の存在さ。まぁ、安心しろ。高次元の存在っていうのは、人間みたいに非道なことはしない。まぁだからと言って、甘やかしてくれるわけでもないけどな。もっと理性的なものだ。人間の及びもつかない深い慈愛と思慮に基づいて判断は下されるものだから。どんな人間も生まれてきたことにはきちんとした理由があるものさ。もちろん、おまえだってだ。まずはそれを信じろ」



「あ、常磐井君、待って待って! あたし、夏にタイムスリップしたとき、どうしてこんなことが起こるのか三郎に聞いたことがあったのよ! そしたら三郎はタイムスリップすること自体が、本来は起こり得ないゲームのバグのようなものだって言ったの。あたし三郎のことばについカッと来ちゃって、『じゃあ、あたしの存在自体が間違いだったってこと?』って喰ってかかったことがあったのよ。だけど三郎は、今、常磐井君が言ったように三郎よりはるかに高次元の存在は、あたしが消滅するようなことを望んでいないって言ったの、高次元の存在はもっと理性的で、意味もなく残酷なことをしないって」

「へぇ、あいつがそんなことを?」

「そう。だけど、三郎自身は命令されてはいるけど、自分だってその高次元の存在が一体何かっていうのは知らされていないって言ってた」

「ふうん。なるほど」

 気が付けばふたりは鴨川の橋の上にいた。常磐井は日の短い光が金色に照らしている北山のあたりをじっと見て、黙って何かを考えていた。

「オレが今、気になんのは、由利がタイムスリップして起こる事件の場所だよ。堀川中立売付近」

「なんで?」

「あそこはさ、風水的に見ればいわゆる龍道が走っている場所なんだよな」

「龍道? なにそれ?」

「龍道とか龍脈っていうのは、土地のパワーが道のように走っていることを言うんだよ。聞いたことがない? この京都って土地を平安京として選んだのは、『四神相応』っていう土地のパワーに着目したことにあったってこと?」


ーあっー

ー土地にも記憶があり、思念があるんだ・・・。おまえはそういう土地の感情をゆるがすような要因があるのかもな。特にこの辺は土地にパワーがあるから、なおさらだー

「ま、ここはひとつ、兄貴にひと肌脱いでもらおうかな?」

「兄貴? ひと肌? 何よそれ?」

「ああ、オレの兄貴はさ、そういうのにわりと詳しいの。あいつ大学の専攻が史学でさ、それも正統な歴史じゃなくて、闇の日本史に精通してるっていうかな。申し訳ないけど、オレだけだと少しばかり心もとないっていうかさ。ちょっと知恵を借りて来るわ」

「お兄さんにはこの話をどこまでするの?」

 由利は不安そうに訊いた。

「うん? まぁ、差しさわりのないところまで。安心しなよ。由利には迷惑はかけないよ」







「さ、由利さん着きましたよ」

 常磐井の三つ違いの兄にあたる阿野治季は、後ろの座席に乗っていた由利に向かって声を掛けた。

「あ、はい。ありがとうございました」

「さあ、由利。車から降りて」

 それまで兄の隣の助手席に座っていた常磐井はそう言って、由利のほうへ身体を向けた。由利は前の座席に座っているふたりを道中の間、後ろからじっと観察していた。本当にこの兄弟は、双子といってもいいほどよく似ている。

 駐車場から降りて、三人はとある寺院のほうへ向かった。

「これから行くところは、青蓮院の別院である『青龍殿』ってところなんですけどね」

「青龍殿?」

「そうです、青龍殿。青蓮院は天台宗に属しているお寺なんだけど、ここは大護摩堂といって所定の日に護摩を焚いて修法をするところなんです」

 そんなことを言われても由利にはチンプンカンプンだ。美月なら目を輝かせて、この話に聞き入るのだろう。三人は山門に入って中へ進んでいくと、ほどなくお堂の手前に大きな丸い塚に行き当たった。

「ここが将軍塚だよ」

「へぇ、これが?」

 たしかにこれは小ぶりな円墳のようにも見える。だからと言って取り立てていうほど大事なものとも思えない。

「ええ。これからぼくがしようと思っている話の中ではこの将軍塚も大事なモチーフになるんだけど、それよりもまず、大舞台のところまで行きましょう。やはりあそこに立って、実際に京都の街を見下ろしながら話したほうが解りやすいしね」

 治季はにっこり笑って言った。同じ顔をしているけれど、印象は随分と違う。常磐井が太陽なら兄の治季はさながら月といったところだ。兄の治季は、ラルフ・ローレンの服を品よくきちっと着こなしているが、一方の常磐井はいつものようにユニクロやしまむらあたりの服を無頓着に着ている。常磐井はおよそ「装う」ということにまったくと言っていいほど無関心の輩のようだった。

「由利、行こうぜ」

 常磐井が手招きをして由利を呼んだ。

「うん」

 大舞台につくと、京都の街並みが一望のもと、ぐるりとパノラマ状に見渡せた。

「すごい!」

 いくらグーグル・マップで眺めていても、目の前の本物を自分の目で見るほど、たしかなことはない。

「ここはね、昔、和気清麻呂が桓武天皇を連れて来て『ここに遷都してはどうか?』と進言したところなんですよ」

「ああ、その話は前に一度うちの祖父から聞いたことがあります」

「桓武天皇が平安京を造営した帝ってことは由利さんも知ってるでしょう?」

「ええ、はい」

「なんで桓武天皇はそうしたかったか、ご存じですか?」

「えっと・・・。奈良にある平城京では仏教寺院の力が強まって、政治にまで強く介入してきたからって学校では習ったように思います」

「たしかに、それも見逃すことのできない大変重要な一因です。当時の平城京は仏教都市でした。平城京にいる限り、政教分離はできないと桓武天皇は考えた。これが遷都を決断した大きな理由だったのは、間違いないことですよ。ですがね、もうひとつ大きな理由があったんです」

「それは?」

「うん。桓武天皇は天智天皇の皇孫だったんですよ。ひ孫なんです。つまりね、これまで続いてきた天武天皇の血統を絶って即位した天皇なんです」

「天智天皇と天武天皇とですか? ええっと、ふたりは兄弟だったんですよね、たしか?」

「うん、そうね。天智天皇は中大兄皇子って言ったら、由利さんにも分かるかな。天武天皇は大海人皇子のことです」

「そうなんですね。額田王を兄弟で争った歌なら知ってるかも」

「そうそう。『紫野行き、禁野行き』って歌ね。で、話はもとに戻りますが、まぁ、この兄弟の相克はその後何世代にもわたって続くんですよ。これまでの奈良の都は兄の系統を差し置いて、天武天皇の子孫たちが築いてきたものです。だから天智系の桓武天皇にとっては、そんな息苦しい場所から脱出して、全く違う場所で新しい都を作ることが喫緊の課題となったのです」

「まぁ、そういう気持ちは解るわな。自分が天皇になっても、そんなややこしい親戚ばかり周りにいたんじゃ、やりにくくてしょうがねぇもんな」

 常磐井少し茶化してが言った。

「まぁ、そういうことなんです。で、即位して三年後、長岡京の地に遷都しようと桓武天皇は計画するんですが、すぐに頓挫してしまった。というのも造営の責任者だった藤原種継(たねつぐ)が暗殺されてしまったからなんです。まぁ、平城京では遷都に反対する人間も多くて、その不満が種継暗殺を引き起こしたと言われているんですけどね」

「ああ、そうなんですね」

「で、いつの世でもあることだけれど、桓武を帝の座から引きずり下ろすために、弟の早良親王を担ぎ出そうという動きがあったんです。だから桓武は、結構残酷な刑を下して弟を死に至らしめたんですよ。それから桓武の周りはなぜか不幸続きになるんです。母親や妻が死んだりしてね。それは早良の怨霊がなせる業だと噂されたりして。それで余計に桓武天皇は一刻も早く、別の地に都を作りたかったんですよ」

「それがこの平安京なんですね」

「そう。和気清麻呂がこの平安京遷都の立役者なんですけどね、それ以前に彼が奈良の朝廷に仕えていたとき、大事件が起こるんですよ。由利さんは弓削道鏡って名前、聞いたことがあるでしょ?」

「ああ、女帝を垂らし込んだ有名なエロ坊主のことな」

「エロ・・・! 悠季、おまえ、由利さんの前で、何てこと言うんだ。すみませんね、弟がこんなで」

「あ、お気遣いなく。先を続けてください。非常に面白いです」

 由利は笑いをかみ殺しながら返答した。

「はい、では。それで一説によれば、道鏡は女帝である称徳天皇(孝謙天皇)の愛人だったとか。本当かどうかはわかりませんけどね。まぁ、それでも臣下として女帝から寵を賜ったことはたしかなんです。そこまではいいんです。だが権力を持って思いあがった道鏡は、何を血迷ったのか帝位に着こうとした。ですが道鏡は、そもそも皇統とは何の縁もゆかりもない人物なんですよ。宇佐八幡宮より『道鏡が皇位に就くべし』との託宣を受けたなどとデタラメを無理やりでっち上げて、帝位に就こうと画策した。ですが一身を賭してそれを防いだ人間がいた。それが和気清麻呂だったんです」

「へぇ、そんな立派な人だとは知りませんでした・・・」

「そうなんです。天皇に仕えた文官の中では菅原道真と並び称されるくらいの英雄だと思いますね、清麻呂は。それで清麻呂が平安京造営大夫になり、新都をみごと造営することに成功します。そのあと清麻呂は平安京遷都の五年後に六十七歳で永眠しています。まぁ、ここまでは誰でもよく知っている歴史の通説です。ネットでググってみればそんなこと、ぼくがこうやって由利さんにわざわざ説明するまでもなく簡単に分かることですよね。ですがここからが、ぼくの得意とするダーク・ゾーンになるのですが・・・」

 治季は自分で話しながら、思わずクスリとひとり笑いをしていた。

「そうそう、兄貴の真骨頂に入るんだよな。正史には決して書かれることのない闇の歴史」

「うん、まぁ、そこでさっきの将軍塚にたどり着くんですよ」

「そう、あの塚はね、平安遷都のとき、都の守護として2.5メートルほどの武装させた土偶を埋めたと言われているんですよ」

「武装した土偶? それは治季さん、何のためなのでしょうか?」

「実は『将軍塚絵巻』っていうのがありましてね、かなり時代が下がって鎌倉時代に描かれたものなのですが、高山寺に収められています。詞書(ことばがき)はまったくないのですが、その絵を観察すると、平安京遷都の際、王城鎮護のため、ここ華頂山の頂上に築かれた将軍塚の由来を描いたものと判ります。この絵巻の作者は不詳ですが、描線が一気呵成に描かれていましてね、ちょっと今の漫画にも通じるところがあるようにも思えるんですよね」

「それには、どんなことが描かれているのですか?」

「えっとね、大勢の人夫がもっこを担いで土を運んで塚を作る様子や、完成したあと、塚穴に甲冑(かっちゅう)をつけた将軍である坂上田村麻呂の像が立っているところなんかが描かれているんですよ」

「坂上田村麻呂ですか?」

「そう。坂上田村麻呂も忠臣として名高い武将ですよね。桓武天皇に重く用いられて、二度にわたり征夷大将軍を務めたほどです。彼はね、一説によると死後、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神となって京の都を守っていると言われています。」

「将軍塚って田村麻呂の墓じゃないんですか?」

「ええ、彼の墓はまた別のところにあるんです」

「じゃあ、将軍塚には田村麻呂が葬られているわけじゃないんですね」

「そうです。ですがこの将軍の土偶には『汝は坂上田村麻呂たれ』という呪(しゅ)がかかっています。そして一方、神護寺には和気清麻呂の墓があります。彼自身も確固とした決意をしているんです。『我、死してもなお鎮護国家の礎とならん』とね。ふたりの強い思念でこの都は結界を張られているんです」

 由利と常磐井は目をまん丸に見開いて、治季の説明に聞き入っていた。

「面白いことにね、将軍塚と清麻呂の墓を線で結ぶと、その延長線上には天智天皇陵もあるんですよ。これって偶然じゃないです。たぶんその意味を理解してやっていることですね。もともと天智天皇と清麻呂の墓をつないだ直線上にわざわざ将軍塚を作ったんでしょうね。で、実際、将軍塚は国家存亡の危機に陥りそうになると、その前兆として鳴動するっていう不気味な言い伝えも今に伝えられているんですよ」

「えっ? そんなことが?」

「由利さん、あなたは『思念でそんなことができるのか』って考えていますよね?」

「ええ? まぁ、そうです。考えただけで都が守れるものではないって、あたしじゃなくても考えるんじゃないかと思います」

「ですがね、『思念とはそもそも何ぞや』と考えたとき、普通の人は頭の中で自分が勝手に思いついたものだと思うでしょ?」

「え、はい」

「ですが、思念とはそもそもこの世界の原初からあったものです。聖書にもあるじゃないですか。『はじめにことばありき』って。例えば何かの定理ですが、それは考えだしたものではなく、もともとこの世の法則としてあったものを数学者なり物理学者なりが、『発見』したものでしょう? 思念だってそうです。原初からあったものを人間がそれと知らずに、自分のものだと思って使っているのに過ぎないのです」

「はぁ・・・」

 由利は治季の説明を気が遠くなるような思いで聞いていた。

「人間というのは、神の形に似せて作られています。だから、神のように感じ、神のように考えることができるのです。まぁ、神のようにといっても、所詮は真似事ですけどね」

「すみません、お話が高度すぎてよく解らないのです」

「ん? ああ、つまり人間は神のように完全ではないってことですよ。しかし同じ人間でも、思念というか、意思がずばぬけて強い人はいるものです」

 治季は、おだやかな笑みを浮かべて答えた。

「で、当時の世の中で、空海とか菅原道真とか安倍晴明のように非常に優れた人たちは、こういうパワー・スポットを利用することを思いついたんですよ。都をより堅固なものにするためにね。由利さん、あなた四神相応って考え方に基づいてこの平安京が作られたってご存じですか?」

「はい、だいたいは。北が玄武で、東が青龍、南が朱雀で、西が白虎とか。それぞれ、北山、東山、巨椋池、嵐山に応対しているって聞きました」

「そうそう、よくご存じですね。昔の人は力のある土地っていうのを知っていたんですよ。桓武天皇は、平城京に残して来た天武系の連中や、弟の早良親王といった自分が獄死に至らしめた怨霊が怖ろしかった。そのため平安京を風水の四神相応の思想に基づいて作ったんです。怨霊や生霊の思念から都を守りたかったんですね。そういうパワーを持つ都を作った上で、さらに和気清麻呂、坂上田村麻呂の思念を利用して西と東に外敵から守る結界が張られたわけですけど、それをもっと発展させて堅固な形にしようと考えた人が過去にいたんですね」

「それはどういう?」

 治季はそれまで手にしていたiPadを開いて、グーグル・アースを起動させた。グーグル・アースはいったん、丸い球体の地球の姿になると、京都の街へダイブするように近づいて行った。画面は由利たちが見ているのとほぼ変わらぬ今日の街の姿になった。

「由利さん、二条城の近くに神泉苑っていうのがあるんです。今はちっぽけな池にすぎないんですけど、平安の昔は禁苑でして、広大な池が広がっていたという話です。空海なんかは、よくそこで雨ごいの祈祷をしました。それとですね、貴船神社の奥宮なんですが、ここに祀られているのは高龗神(たかおかみのかみ)すなわち龍神なんですよ。水をつかさどる神です。空海は神泉苑と貴船神社が繋がれているってことを知っていたんですね」

「つまり、貴船神社の奥宮と神泉苑は龍道でつながれていたと言うことですか?」

「龍道をご存じでした? それなら話は早いです」

 治季は非常にうれしそうな顔をした。

「龍道って、龍脈とか龍穴とも言って、風水をやられてる人なら、必ず耳にする言葉なんですよ。風水ではエネルギーのことを『気』というんですが、龍道とはそういう多大な『気』の経路のことです。龍道で貴船神社の奥宮と神泉苑はつながっている」

 治季がiPadの画面に出ている貴船神社の奥宮と神泉苑にピンを立てて、それを線で結んだ。

「だいたい、今の京都市を走っている堀川通りがこの龍道と重なるんですね。それで、もう一押し考えたんですよ、昔の賢人は」

「もうひと押し? 兄貴、それは何だ?」

「悠季、もうひとつこの都には大きな守護があることに気が付かないか?」

「あっ? もしかして京都の鬼門を守る比叡山延暦寺のことですか?」

「ピンポーン、当たりです、由利さん、冴えてる!」

「その延暦寺に対応するものがわかるかな? 桓武天皇は天智系で孤立していたって言っただろ? 悠季、おまえが桓武天皇だったら誰に頼る? 兄弟か? 父親か、母親か?」

 兄にそう訊かれると、しばらく常磐井は考えていた。

「うーん、兄弟はそれこそ、天智と天武の骨肉の争いがあるだろう? そう考えると天皇って孤独だよな。父親だって時と場合によれば息子に対峙してくる可能性がある。オレなら姉貴とか母親とか? 女に頼るよな」

「そうだよ、悠季。いい線いってるな」

「じゃあ、母親か姉かの、何か?」

「そう、これまでのことを考えてみろよ?」

「ああ、もしかして墓?」

「そうだ。桓武天皇の母親は、高野新笠といって身分の低い渡来系の女官だったんだが、彼女の墓というかまぁ、陵なんだが、それが大枝のほうにある。それがこれだ」

 またもや治季は、iPadの画面のひとつの場所を指し示した。

「ん? 大枝陵?」

「そう、これが桓武天皇の母親の高野新笠の陵なんだよ。高野新笠の母親は大枝真妹(おおえだまいも)っていって、この大枝の豪族の出だったみたいだな。それで高野新笠は晩年、母方の故郷である大枝の地で隠居していたから、墓が西京区大枝の地にあるらしい。つまり大枝の地一帯は、桓武の本拠地といってもいいんですよ。だから大枝の一族郎党に至るまでこぞって桓武の味方でしょうから、多大なパワーをもらえるはずです」

「なるほどね。で? もしかして比叡山とこの桓武天皇のおっかさんの墓をつなげるの、もしかして?」

「ご名答。するとどうなる?」

 治季は比叡山と高野新笠の陵の墓がつながるように線で結んだ。

 ここに三本の直線ができた。

 将軍塚と和気清麻呂の墓をつなぐ線。
 貴船神社と神泉苑をつなぐ線。
 そして、今言った、比叡山と高野新笠の陵をつなぐ線。


 大きなXの字とその中心を貫く一本の線が地図の中に見える。

「これってどういうことなんだよ?」

 常磐井が兄の顔をいぶかし気に見つめる。

「悠季、分からないか、おまえ。京の街がすっぽりと大きな護符に守られていることが・・・?」

「あ、これはもしかして、六芒星ですか?」

「よく分かりましたね、由利さん。そうです! 京都は大きな六芒星に守られているんです。こんなふうに考えて結界を張った人間がいたんですよ」

「誰なんですか? それ」

「この六芒星の中心はどこにあると思います?」

 常磐井と由利は三本の線がちょうど交差している真ん中を捜した。


「これは・・・?」

 常磐井は信じられないといった顔をした。

「そう、三本の線を通るのは、ちょうど、一条戻橋、そして晴明神社、そして由利さんがタイムスリップをしたあたりですよ」

「それじゃあ・・・」

「そう、あそこは一番京都の土地のパワーが強いところなんでしょうね」

「これを造ったのは安倍晴明ってことですか?」

「そうであるとも言えるし、そうでもないとも言えます。ぼくはさっきも言いましたよね。『意思』とか『思念』はそもそも原初から存在していたと。おそらく晴明もそれに気づいたでしょう。そして彼の意思を引き継いだ無名の人間が過去に何人もいたはずなのです」
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境界の旅人 34 [境界の旅人]

みなさま、こんにちは~!
寒くなってきましたね。本格的な冬の到来ですね~。

今回は本来のボリュームの二回分を一挙に掲載することにしました。
というのも、事件はクリスマスを境に起きるからです。

やはり読んでいるほうも季節にリンクしながらよんだほうがいいかなと思いました。

結構長いけど、頑張って読んでください!







第九章 悪夢



 ただの風邪だと診断されたわりには辰造の症状は一進一退をくりかえし、いつまでもぐずぐずと治らなかった。

 その日も由利が学校から帰ってきてから一緒にとった晩御飯にも達造はほとんど手を付けず、時間が経つごとにだんだんと具合が悪くなり、ついに十時ごろには熱も上がり始めた。体温計で熱を測ると三十八度を越していた。

「うわ、すごい熱だよね。どうしよう? 病院へ行こうか、おじいちゃん?」

「まぁ、由利。三十八度やったら、まだ病院へ行くこともないわな。はぁ、歳をとるっちゅうことは、こういうことなんやなぁ。ポンコツやぁ。由利。どもない、どもない」

 祖父はひとりで心細い孫娘の気持ちが解っているらしく、熱が高くても安心させようとした。

「こんなときはどうしたらいいんだっけ?」

 由利はとりあえず、「風邪 熱が高い時の対処法」と検索した。
 
『熱があるときの身体は、健康時よりさらに多くの水分を消費しています。なので水分を必要としてる身体にすばやく浸透するように作られているスポーツドリンクを補給しましょう』

「ああ、やっぱり湯冷ましなんかより、スポーツドリンクを飲ませるのがいいのか・・・。もうすぐ十一時だから、コンビニで買うしかないか」

 由利は普段着の上から厚手のダッフルコートを羽織り、近所のファミマへと向かった。

 そこでコンビニの壁に備え付けてある冷蔵庫の戸を開けて、五百ミリリットルサイズのスポーツドリンクを一端手に取ってから、ふと考えた。

「こんなふうにキンキンに冷えたのを飲ませると、おじいちゃんのようなお年寄りにはかえって身体に負担をかけるかもしれない」

 思い直すと由利は、常温で保存されている棚へ行き、ポカリスエット、DAKARA、アクエリアスなどいろいろな商品をまんべんなく買い物かごの中に入れた。それからレジへ行ってお金を払うと外へ出た。
 
 ところが外の光景はまたいつぞやと同じように変わっていた。

 またもや由利はタイムスリップしていた。

 やはりこの前と同じように時間は夕方だった。だがこちらの側の世界も由利の住んでいる世界と同じく、季節は夏ではなく冬に移行している。買い物かごを下げている主婦も会社帰りの男性も、行きかう人はみな寒そうに首をすくめ外套の前を深く掻き合わせて、せかせかと足早に由利の前を通り過ぎて行った。

 その傍を当たり前のようにチンチン電車が、警笛を鳴らしながら通り抜けていく。しかし驚いたことに電車はどうやら中でトラブルが起こっているようだった。何を話しているのか通りにいる由利の耳にはつぶさには判らないが、何か人が言い争っているような怒号が響いてくる。

 由利がその異常さを感じ取って恐怖に目を見開いていると、やがて電車はスピードを落とすことなく突っ込むよう堀川へ走って行った。そして橋梁のところでカーブを曲がり切れず、大きくガタンガタンを車体を左右に揺れらすと、真っ逆さまに川に突っ込んだのだ。

 電車が崩れる爆音とともに電車の中の乗客の絶叫がこちらにもが響いて来た。

「!」

 由利は口に手を当てて、信じられぬ思いで目の前で起こった惨劇を見ていた。

「何てこと・・・」

 しばらくすると、そこらへんに住んでいる人たちで辺りは人だかりができた。

 ほどなく半被に消防帽をかぶった地元の自警団の人々や消防団員や警察官が、何十人もわらわらと走ってきて、電車の中に閉じ込められている人を必死になって外へ出すために救出作業をしていた。川の流れに入った自警団の人々が、ジャッキを使って閉まっている電車の戸を無理やりこじ開けると、人々がうめきながらが折れ重なるように倒れている。

「おーい! 戸が開いたぞ! 中にいる連中を運べ!」

 何人もの警察員が総出になって、次々と担架に人を乗せていく。担架はどこで集めてきたのか五、六個ほどあった。その中には物干しざおに毛布を掛けた、どう見ても即席で作られたものとおぼしきものも混じっていた。

 中には自力で電車の窓からから這い出てくる人間もいたが、電車の底になったところから折れ重なる人々の下敷きになっている人もかなりいる。

 電車が橋梁から落ちたこともそれなりに衝撃だったが、それ以前にこの電車は満員だったことがさらにこの事件を悲惨なものにした。

 周りにいた人の中には、家人の安否を必死になって確かめようとしている人も大勢いた。

「早く、早く! うちの人を助けて!」
「お母ちゃん!」

 人々の泣き叫ぶ声が由利の耳にもリアルに届く。それはさながら阿鼻叫喚の地獄のさまを呈しているかのようだった。
 そうこうしているうちに電車の中から五、六人の進駐軍のGIが他の人々を押しのけ、われ先ともがくように戸口から飛び出して来た。
 それぞれに体格はよいが教養も品格もないのは一目瞭然で、いかにもプア・ホワイトの階層の人間が駆り出されて日本に来たように由利の目には映った。

 彼らは口々に「damn it!(ちくしょう)」といまいまし気に悪態をついていた。
 GIらをいぶかし気に見つめていると、その中のひとりが日本人にしては上背のある由利に声を掛けてきた。

「Hey , beautiful girl, com’on!(よう、かわい子ちゃん、こっち来な)」

 それを聞くと由利は怒りが込み上げて来て、思わず言い返してしまった。

「Why don't you try to help these people? It is a shameful thing to do nothing(どうして助けようとしないのよ? 恥ずかしいとは思わないの?)」

「アッ、オー。 Fuckin’ Jap girl ! (日本の腐れアマが!)」

 由利が啖呵を切ったのを聞いて、その中のひとりはこれ以上ないほど汚い言葉で由利をののしって行ってしまった。



 由利が恐る恐るその人垣の中へ入っていくと、自分には夏にかたくなな表情を見せた曾祖母にあたる人が血相を変えた顔で、泣きながら電車に向かって呼びかけていた。

「康夫! 辰造! お母ちゃんやで! いるんなら返事しいや! やっちゃん! たっちゃん!」

 曾祖母は狂ったように叫んでいる。かなりの人が大けがをしていたし、中には救出される前にすでに亡くなった人もいたようだった。

 担架を担いできた自警団の男の人が、用意されたむしろの上に小さな子供ふたりの身体を並べ、その顔に白い布を掛けようとしていた。

 それは祖父の辰造とそのすぐ上の兄に違いなかった。

 曾祖母は自分の小さな息子たちを見ると、はじかれたようにそこへ躍り出た。

「あんた、何すんねん。その子らは死んでなんかいいひんで! そんな縁起でもないもん、掛けんとってや! たっちゃん。お母ちゃんが迎えに来たで。もう安心や。ほら、やっちゃん! 眠っとらんと目を覚ましい」

 狂ったように曾祖母は、ふたりの子供の身体をゆすっていた。

「奥さん! 奥さん! しっかりしいや。もう坊(ぼん)らは息をしとらんやないか。気をしっかり持たんとあかんえ。奥さん!」

 半狂乱になっている曾祖母は、そこから離れようとしない。

「ええ、あんたら何を言うとるんや! そんなはずあるかいな! さっきまで元気に跳ね回っとったんやで! うちは子供を家に連れて帰ろう思(おも)てるのに、何するんや!」

 そこへ白衣を着た医者らしい人が来て、辰造たちの手を取って脈を診た。

「先生、どうですか? うちの息子らは? また元気になれるんやろ? さあ、やっちゃん、たっちゃん。ほれ、起きや。お母ちゃんと家に帰るんやで」

 曾祖母は目の前の現実を認めることができずにそう言った。隣の家の年配の夫婦が医師に言った。

「この人の旦那さんはまだ出征中でして、まだ戻ってきいひんのですわ。うちらが責任もって何とかしますさかい。先生、申し訳ありまへん」

「うん。そうか、この奥さんは一度にこないな可愛い坊らを失のうてしもたんや。ほんまにお気の毒なことやったな・・・。しばらくは正気が戻らんかもしれへん。あんたらもご苦労なことやけど、隣のよしみで、よくこの奥さんの面倒を見たってくれへんか」

「へぇ、先生」

 医師は他にもたくさんの死者やけが人が待っているので、曾祖母ひとりにはかかずらわっている暇がなかった。ちらりと憐憫のこもったまなざしで泣き崩れる祖母を見ると、その場を立ち去って行った。

 由利はその一部始終を見て、戦慄した。

ーこれは一体どういうこと? おじいちゃんが死んでしまった!

 そのとき、周りを囲んでいた人々の中からひとり、由利に声を掛けて来たものがいた。

「あんた、アメリカさんやろ?」
「えっ?」

 戦後すぐの日本人から見たら、コーカソイドの血を受けついている者はことごとく皆、アメリカ人だった。

「あいつらやで。さっきのGIが、運転手にちょっかいをかけて来よったんや」

 その男はどうも電車にいて助かった人らしかった。

「あいつらさえ、勝手し放題しいひんかったら、こないなことにはならんかったんや。ほれ、見てみい! あんな小さい子供まで、巻き添えを食って死んでしもうたやないかい!」

 人々の憎悪が一身に由利へと向かった。

「戦争に勝ったからって、何してもええと思とるとちゃうんか!」
「アメリカはこの国から出て行け!」
「せや、せや! アメリカは出て行け!」

 由利は後ずさりしながらその輪から離れると、面罵されたことに耐え切れずに泣きながら、中立売橋を後にして一条戻橋へと駆けて行った。



 由利は一条戻橋の前に立ち、以前三郎に言われたことを思い出した。

『この橋はこの世とあの世を繋ぐ橋なんだ。昔からおまえみたいな人間っていうのは一定数いたらしいな。この橋はそのためのツールさ。そういう場合はこの橋を通れば、また元の世界に戻れる』

 あのとき、三郎は由利にそう教えてくれた。

 由利は恐る恐る橋を渡った。
 渡り切ると三郎が以前言った通り、由利はもとの世界に戻っていた。

「やっぱり三郎の言っていたことは正しい。とすると元の世界に戻るときは必ずこの一条戻橋を渡ればいいんだ」

 原因を突き止めたいと思う気持ちと同時に、過去に子供の状態で死んでしまった祖父は今の世界で一体どうしているのかが気になる。気がつけば由利はまたもや家のほうまで駆けだしていた。

 家に戻ると祖父はさっきと同じように床に臥せって寝ていた。

「あ、良かった・・・」

 ふうっと大きく由利は安堵の一息ついた。

「おじいちゃん、具合はどう?」

 それまで辰造はうつらうつらと眠っていたようだが、由利の声で目が覚めたようだ。

「あ、由利か」

「おじいちゃん、これ。熱があるときはスポーツドリンクを飲むといいんだって。とりあえず買ってきたから飲んでみて」

「おお、そうか。おおきに、おおきに」

 由利が祖父の肩を持って起き上がるのを手伝った。

「おお、熱があるときはこういうもんが何や知らん、飲みやすいわ」

 辰造はおいしそうにゴクゴクと飲んでいた。
 由利は抱き起こしたときにつかんだ祖父の身体が、以前と比べてやけに軽いような気がした。

「おじいちゃん、朝になったら病院へいこうね。今晩だけはちょっと辛抱してね」

 自分の部屋に戻った由利は、蒲団の上にばたんと転がった。身体は疲れていたけれど、興奮していてとても眠れるどころではない。

 寝ころびながら、これまでの一連の事件の起こった経緯のことを反芻した。

「どうしてあんな事件が起こったんだろう・・・。あたしが過去に介入しすぎたから? そもそもどうしてあたしがさっき、タイムスリップすることができたんだろう・・・」

 由利は頭を抱えて、夏のときと今回のタイムスリップの類似点を思い出そうとした。

「えっと、夏にタイムスリップしたときはどうしていたんだっけ? そうそう、あたしは一学期の期末試験の勉強をしていて・・・、そうだ、英語のスペルを練習していたんだった。そのとき赤ペンの芯がなくなって、コンビニに買いに行ったんだったっけ?」

 しばらくじっと天井の木目を見つめたまま、自問自答をしていた。

「そう、あのときも夜遅く出かけたんだった。場所はやっぱり同じファミマだった。じゃあ場所も同じだし、タイムスリップする条件として当てはまるものはやっぱりファミマっていう場所と特定の時間なのかな?」

 由利は仰向けになった身体を反転させて、今度は両手に顔を載せた。

「あのときは何時だったっけ? 十二時前? いや、もっと早い時刻だったはず。たしかあのとき、お店の中はあたしと店員のふたりだけでがらんとしていた。日をまたいでいるわけでもないのにって、それがなんか変だなって思ったんだよね」

 蒲団の傍に置いてあるスタンドの電球をじっと見つめながら気持ちを集中させた。

「さっき、おじいちゃんは十時頃に具合が悪くなってきたんだった。熱いとか寒いとか言い出したのよね。体温を測ったら三十八度あった。スポーツドリンクが発熱した身体に良さそうと思って、それでコンビニに出かけようと思ったのよ。そのときでせいぜい十時四十五分ぐらい・・・。コンビニは家から五分ぐらいのところだし、着いて十時五十分、それからスポーツドリンクを買って・・・。店から出たのは十一時ぐらいだったはず・・・!」

 由利はガバっと蒲団から跳ね起きた。

「そうよ、そういえば夏にタイムスリップしたときだって、ちょうどそれぐらいの時間だった。タイムスリップする条件は、おそらくコンビニの場所と時間なんだわ!」




 翌日、由利は祖父を連れて近くの診療所まで行った。

「別段、こうどこが悪いってこともなさそうなんだけどねぇ・・・まぁ、すこし喉が腫れてるかなぁ」

 医師は辰造の身体に聴診器を当てて頭を傾げていた。

「先生、わしもここんとこ、ゴタゴタ続きだったんで、ちょっと緊張して疲れていたんですよ」

「ハハ、小野さん、あんた、その歳で知恵熱かい? ハハハ」

 先生がおかしそうに笑った。

「せやけど、こう、ちょくちょく体調を壊しておったんじゃなぁ・・・。お孫さんやって、毎回小野さんに付き添ってこんなふうに遅刻ばっかりさせたら可哀そうやで」

「いえ、あたしはちっとも構いません」

 由利は遠慮がちに小さく手を横に振った。

「いや、そんなことないやろ。由利ちゃん、あんたもしっかり勉強せなあかん立場やで。高校生のときに学んだことは一生の財産になるんや。生涯の基盤やで」

 由利を諭すように先生は言った。

「小野さん。一度、きっちり病院へ行って検査を受けてみはったらどうです? 車かて車検ちゅうもんもあるやろ」

「いいや、先生。わしと車を一緒にせんといてください。人間は車と違うて悪いところがあっても、部品の取り換えは不可能ですわ。それにわしはもう、子供ン頃から病院ちゅうところは、かなん。人間どうせ、いつかは死ぬ。死ぬときは死ぬときですわ」

「まぁ、あんた、そんな子供みたいな聞き分けのないことを言わんと」

「いや、先生、わしはいいですわ。今度も熱さましを出しといてくださいよ」

「そうですかぁ、まぁそんなら小野さんの言う通りにしときまひょ。一応頓服出しておきますわ。でも何かあったら、すぐに来てくださいよ。我慢は禁物でっせ」

 最近はこの手のわがままな老人に手を焼いているのか、先生は辰造には強く検査を勧めなかった。

「わかっとる、わかっとります」

「ほなら、小野さんお大事に」

 無事に祖父を家に送り届けると由利は、自転車のカゴに通学カバンを入れ、学校へと向かった。

 堀川通りを北上している途中で信号が赤に変わったので、由利は歩道の手前で停車して待っていた。

 いつもと変わらぬ見慣れた風景だが、東西に走る道路を挟んで向かい側の建物を見て違和感を覚えた。

「あれ? あの建物って、ああだっけ?」

 しかしその建物は、古い建物が取り壊されて新しく建て替えられたものでもなく、ずっと昔からこの街にあったようにそれなりに古びている。

「うーん、なんか変だなぁ」

 信号が赤から青に変わったので由利はそれ以上考えることもなく、そのことは学校へ行く前にきれいさっぱりと忘れてしまった。 
 だがこのとき感じた由利の違和感は、単なる気のせいではなかった。



「場所と時間さえ一致すれば、向こうの世界へ行けるとすれば、今夜だって可能なはず!」

 由利は夜の十時四十五分ぐらいに寒くないように、オーバーを来て、ファミマへと出かけようとした。玄関でスニーカーのひもを結んでいると、辰造が心配げに玄関へやって来た。

「由利、もう真夜中やで、どこへ行くんや?」

「うん、コンビニ。ちょっと買いたいものがあるの」

「ふうん、そうかぁ。気を付けて行きや。遅くならんようにな」

 昔人間の辰造は本来なら、たとえ近くのコンビニであろうと、夜中の若い娘のひとり歩きは許せるものではなかった。だが無下に「行くな」と怒りつけたところで孫娘は反感を募らせるだけだろう。辰造は玲子のことで懲りていた。

「うん。すぐに帰って来るから、大丈夫だよ」

 由利は祖父に疑いを持たれぬように、何気なさを装って外へと出た。

 好奇心と恐れがない交じって、心臓がバクバクしている。

「また、あっちの世界に出たら・・・。もし、電車がもう一度自分の前に通り過ぎたら」と思うと、由利は緊張してきておかしくなりそうだった。

 店の中へ入って雑誌を取って読むふりをして、十一時になるのをじりじりしながら待った。そして十一時ちょうどになるのを見計らうと、由利は弾かれたように戸口へと向かった。




 目をぎゅっとつむったままコンビニの扉を抜けて外へ出ると、眼前の堀川通りは相変わらず車が行き来している。

 赤く流れていく車のバックティルを見ているうちに、ほっとした気持ちは次第に失望へと変わっていた。

「あっちの世界には行けなかった・・・ 何が悪かったんだろう・・・?」

 由利は何気なくコンビニの戸口のほうへ向けると、思わず自分の目を疑った。何度も何度も瞬きをして見ていたが、何も変わらない。

 ここにあったコンビニはたしかにずっとファミリー・マートのはずだった。なのに今はどういうわけか、セブン・イレブンに変化している。

「ええっ?」 

 信じられない気持ちで再びコンビニの中へ入ると、さっきと同じ店員がきょとんとした顔で由利を見ていた。たださっきと違うのは、店員の制服もファミマのものからセブンのものへと変わっていることだった。

「ここって、昔っからセブン・イレブンでしたっけ?」

 由利はつい、店員に心に思っていたままの単刀直入な質問をしてしまった。

「あ、僕が知る限りでは、ここは昔からセブン・イレブンですが・・・」

 大学生ふうの店員は妙なことを質問する由利を不審な目で見ながら、それでもきちんと答えてくれた。それを聞いて、また由利は表へと走り出した。そしてスマホを取り出すと、常磐井へ発信した。

 常磐井はすぐに電話に出てくれた。

「由利? どうした、こんな夜更に?」

「もしもし、常磐井君?」

 気が付けば由利は涙を流していた。

「由利?」

「常磐井君!」

 由利の尋常ならざる様子に常磐井もびっくりしたようだった。

「どうした、由利? 落ち着け。落ち着いて話をしてみろ」

「常磐井君、助けて! あたし、気が狂ったのかもしれない」

 常磐井は由利が今、何かが原因で恐慌を来していることに気が付いた。

「由利、由利。今どこにいる?」

「今、家の外・・・」

「誰かに追いかけられているのか?」

「ううん、違う」

「怪我は?」

「してない、大丈夫」

「そうか。よし、分かった。今からおまえんちへ行くよ。だけどおじいさんはどうした?」

「ああ、おじいちゃん! そうだ、おじいちゃんのことがあった」

「とにかく急いで家へ帰れ。そしておじいさんにきちんと顔を見せるんだ。まずは安心させてやらないと。いいか、分かったな」

「う、うん。それからどうしたらいいの?」

「そしたら、おじいさんには用を足しに行くようなふりでもして、そっと部屋から出るんだ。ちゃんと寒くないようにコートを着て外に出てて。そのころにはオレはおまえのところへ着いているはずだから」

「うん、分かった」

「じゃあな、いったん電話は切るからな」

 由利はスマホをポケットの中へ戻すと、一目散に家へ駆けて戻った。


 祖父の部屋はすでに灯りが消されていた。

「おじいちゃん・・・ただいま。もう寝ちゃった?」

「うん、由利か。いや、今、電気を消したところや」

「ごめんね。ちょっと遅くなっちゃって・・・」

「まぁ、何事もなかったんなら、それでええわ」

「あたし、ちょっと美月に電話するから。うるさいだろうし、下でしてる」

「ん、まぁ、おまえもあんまり遅うならんようにな」

「うん、おやすみ」

 由利はそのまま階段を降りてから忍び脚で玄関に行き、スニーカーを手に取るとそのまま玄関を出た。玄関でガサゴソ音を立てたくなかったからだ。

 そっと引き戸を閉めて玄関を出たところで、由利はスニーカーをきちんと履くためにかがんだ。

「由利・・・」

 目を上げると黒いヘルメットをかぶり黒い皮ジャンを着た人間がすっくと由利の前に立っていた。

「!」

 いきなり暴漢のような人間が現れて自分の前に立ちふさがったので、由利は思わず悲鳴を上げそうになった。

「だめだよ、由利。悲鳴なんかあげちゃ。気づかれるだろ? オレだよ」

 被っていたヘルメットを取ると、それは常磐井だった。

「と、常磐井君・・・? どうしてヘルメットなんか被っているの?」

「おまえ、オレがすたこらペダル踏んで自転車で来ると思ってた?」

「うん」

「ま、いいや。こっちに来なよ」

 常磐井が尻餅をついていた由利の手を取って立ち上がらせた。その途中で常盤井の頭が唯の顔に近づいて行った。真っ暗な道でふたりは固く抱き合ったまま、しばらく彫像のように動かなかった。

 しばらく行くと、堀川通りに黒いホンダのバイクが留めてあった。

「うわ、すごい・・・」

「うん。四百ccさ」

「何でもできるんだね、常磐井君」

「まぁな。オレ、誕生日が四月だからさ、夏休みに中型バイクの免許を取ったのさ」

「あんなに合宿、合宿で忙しかったのに! タフ!」

「ははは、頑丈なのがオレの一番の取柄かもな」

 常磐井が笑うと急に、それまでの暗い雰囲気が吹き飛んだ。

「由利、さっきはどうしたんだ。泣いてたじゃないか」

「うん・・・。あのときは本当にびっくりして・・・」

「ねぇ、この先にファミリー・マートがあるの知ってる?」

「う、うん? そんなのあったかな?」

「ねぇ、今からそこへ一緒に行ってもらってもいい?」

「え、ああ、別にいいけど」

 由利は常磐井に付き添ってもらってさっきにコンビニまで行った。しかし今度はやはり元の通り、ファミリー・マートに戻っていた。

「ええ? これって一体どうなっているの? あたし、頭がおかしくなったんだろうか?」

 常磐井は由利がまたパニックになっているのを見て、気を逸らそうとした。

「まぁ、とにかくさ、こんなところで由利がぎゃあぎゃあ言っていても寒いばっかりだし、とりあえずファミマに入って何か温かいもんでも飲もうぜ。話は飲みながら聞くし」

 店に入ると、店員は由利の顔をみて「また来たのか」というような顔をした。今度の制服はやはりファミリー・マートのものに戻っている。

 由利は店員に再び質問をせずにはいられなかった。

「すみません、変なことを何度も言うようですが、さっきあたし『ここは昔からセブン・イレブンでしたっけ?』って訊きましたよね?」

「いえ、お客さま。『ここは昔からファミリー・マートでしたっけ?』って訊かれましたけど?」

 店員はうんざりして、もういい加減にしてくれというような顔をしていた。

「あー、すンません」

 常磐井は店員をとりなすように謝った。

「さてと、まぁ座って話を聞くわ。由利は何にする?」
「なんか甘くて温かいものがいい」

 常磐井はレジに貼ってあるメニューを見て言った。

「んじゃ、キャラメルラテか、宇治抹茶ラテか、濃厚ココアか。どれにする?」

 常磐井はのんびり訊ねる。由利はこんなときにさえ悠長に構えている常磐井を見ていらいらしていた。

「ん、もう。何でもいい!」
「じゃあ、キャラメルラテだな」

 常磐井はさっさとレジでお金を払うと自分はブラックを頼み、セルフマシーンでカップにコーヒーの液体を落とし込んでいた。

「さあ、座りなよ。どうした? 初めから言ってみ?」

「初めから? すんごく長い話になるよ。それでもいいの? それにいくら常磐井君にしても信じられない話かもしれないけど・・・」

 興奮して猛々しくなっている由利を見て、常磐井はなだめるように優しく諭した。

「いいよ。だって、由利がオレに話さないことには何も解らないだろ?」

 由利は順を追って常磐井に語って聞かせた。

 夏にタイムスリップしたこと、昨日も突然タイムスリップしたこと、タイムスリップした先の世界はどちらも戦後まもなくの世界であって、そこで幼児の祖父に出会い、昨日のタイムスリップでは、祖父は落ちると運命づけられていた電車に乗って、死んでしまったことを。

 常磐井はコンビニに常設されたテーブルに肘をつきながら、由利の言うことにじっと耳を傾けていた。

「ふうん。おじいさんが死んじまうのはちょっとヤバいかもな。だっておじいさんがいなくなるってことは、由利や由利のお母さんがこの世界に存在しないってことだかんな」

 常磐井はそれを聞いたあと、冷えてしまったコーヒーを一口飲んだ。

「そうよ! おじいちゃんがあのとき死んでしまったのが本当なら、当然、あたしはこの世に存在しない。それにおじいちゃんだって、今ああやってあの家で寝てるってはずがないもの」

「ふ・・・ん。まぁたしかにね。だが時間が流れていく上で無限のパラレルワールドが存在するって聞いたことがあるぞ」

「それってあくまでも仮説でしょ?」

「まあね、それを証明する方法なんてないわな。だけど今、由利とおじいさんはここにこうやって存在しているんだし、今それをどうこう言ってみても仕方ないんじゃない?」

「そうなの・・・かな?」

「人がひとりこの世にいなくなるっていうと、それはそれで相関関係がかなり変わっていくよ。『風が吹けば桶屋が儲かる』方式で思わぬところに波及が行きそうだから。いきなり由利がこの世にいなくなるってことはなさそうな気がする」

「そっか。じゃあ、とりあえずそのことは、今は考えないでおく。それでね、あたしはふたつのタイムスリップしたときの共通点を考えてみたの。ひとつはどちらもこのコンビニで買い物をしたあとだった。ふたつめはどっちも時間が夜の十一時あたりだったってこと」

「ふうん、それで?」

「で、あたしはそれが本当かどうかを試したかったのよ。だから十時四十五分ごろに家を出て、コンビニに到着して、それで十一時かっきりに、コンビニを出たの」

「それでタイムスリップしたの?」

「ううん。起こらなかった」

 由利は少し残念そうな顔をした。

「じゃあ、由利の立てた仮説は成立しなかったんだな。だけどじゃあ、さっきなんであんなにパニクっていたんだよ?」

「あたしは自分がタイムスリップしなかったことに、半分ホッとしてたけど、半分がっかりしていたの。それでタイミングが合わなかったのかなぁっって。もう一度やってみたらどうなるのかなって考えたのよ。で、ふと振り返ってコンビニを見たら、それまでファミリー・マートだったものが突然、セブン・イレブンに変わっていたの!」

「へぇ? それで?」

 常磐井の沈着冷静な顔色が少し動いた。

「あたしはどうしても事の真偽を確かめたくて、あそこにいる店員さんに、つい『ここは昔からセブン・イレブンでしたっけ?』って訊いたのよ」

「それでさっきオレと一緒にここへ来て、もう一回店員に尋ねたら、『ずっとファミリー・マートでした』って答えたって言うわけだな、つまり、いっときセブン・イレブンに変わったコンビニがもと通りのファミリー・マートに戻っていたと、そういうこと?」

「うん・・・」

「そうか・・・。そりゃあさ、そんな目にあったら、パニックになっても仕方ないな。ま、少なくともオレは、おまえのことを理解したから、安心しろや」

「うん。…ありがと」

「タイムスリップしたのは、昨日の十一時だよな」

「あ、うん」

「じゃあ、その前、タイムスリップしたのは、いつのことか思い出せる?」

「えっと、あれは一学期の期末試験前のことだった。あたしは赤ボールペンが無くなったんで買いに行ったのよ」

「その日は何をしていたか覚えている?」

 しばらく由利は考えていた。

「そういえば・・・その日は美月に今宮神社に連れて行ってもらったんだった。『夏越しの祓え』だからって茅野輪をくぐって・・・」

「それって夏越の祓えのお祭りの当日のこと?」

「お祭り? ううん。別段、行事をしているふうではなかった」

 常磐井は由利の話を聴きながらスマホを見ていた。

「ふうん、六月三十日より前ってことだよな、それじゃ」

 それから常磐井は不思議なアプリを起動させた。

「常磐井君、それって何?」

「これ? これは月の満ち欠けカレンダー。昨日は新月だった。ということはおそらくその夏に由利がタイムスリップした日も新月の日だったんじゃない?」

「新月?」

「そう、新月ってのは、地球と太陽の間に月がぴったり重なって、太陽からの光が全く地上に届かない状態のことさ。地球から見れば、太陽の光が届かないんで、月の光が全く失われて真っ暗になっている状態のことだよ」

「その新月とタイムスリップって、一体何の関係があるの?」

「まぁ、これも仮説だけどさ、新月の日のことを昔は『朔日』って言って、一種の魔が生じるときでもあるんだよね。太陽という神の光が届かない時間っていうかさ、こういうときってそんな不思議なことが起こりやすいって昔から言われているんだな」

「じゃあ常磐井君、その六月の新月の日っていつだったの?」

「うんと六月二十○□日かな?」

「そう言われればそうなのかもしれない。たしかに六月の下旬だった」

「もし、この仮定が正しいなら、次の新月は 12月の23日。月の周期は約二十九日だし、今の暦は昔の太陰暦とは違うから、必ずしも月初めが『朔日』とは限らないしな」

「次は12月23日・・」

「まぁ、その日までまだ少し時間がある。それまでに少し解明しておきたいこともあるだろ? この電車の事件だけど、それが本当に起こったことなのか? 起こったとすればいつ起こったのか? それをまず調べておいた方がいいんじゃないかな?」

「うん。それはそうかもしれない」

「あしたは土曜日だし、一緒に図書館へ行こうや。戦後すぐの新聞なら図書館は持っているはずだよ、それを閲覧させてもらって、事の真偽を確かめに行こうぜ」

「うん!」

 由利は初めて嬉しそうな顔を常盤井に見せた。

「はぁ、常磐井君に話せて、少しホッとした。ホッとしたらお腹が空いてきちゃった」

 由利は棚に置いてあったサンドイッチと野菜ジュースを買って席に戻るとおいしそうに食べ始めた。

「女の子ってこういうところが解らないところだよなぁ。さっきまであんなにパニクっていたのに、今はよくもまぁ、こんなふうにパクパク食べることができるもんだな」

 常磐井は由利が夢中になってサンドイッチをがっついている姿を見て苦笑した。それを横目で見ながら由利は反論した。

「まぁ、女は男と違って、柔軟性が高いんじゃないの?」
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境界の旅人 33 [境界の旅人]

第八章 父娘

4 

 その日もいつものように茶道部の連中は、新部長である鈴木千晶の厳しい指導のもとに集い、散会した。小山の代わりにとなった千晶は母親が茶の湯の師範でその関係上、五歳のころより茶の湯の稽古を始めた。実にその道十年以上のベテランである。ブリリアントさでは遠く及ばないものの、多少エキセントリックな言動が多かった小山とは違い、千秋は逆に手堅いお点前をすることで定評があった。

 いつもなら一緒に帰るはずの美月は、めずらしく用事ができたからといって先に帰って行った。だいたいいつも六時を過ぎたころに校門を後にするのだが、その日に限って早い時間に稽古が終わった。時計を見ると、まだ五時半を過ぎたところだった。

「そうだ・・・。そういえばここんところ、ずっと彼とは話していない」

 船岡山で喧嘩別れして以来、由利は常磐井とメールもしていなければ、まともに口を利いてさえいなかった。

「弓道部はまだ練習しているのかな?」

 そう思うと由利は無性に常磐井の弓を打つ姿を見たくなった。キリキリと弦を引くときの力強い全体のフォルム、的に狙いを定めているときの眼光鋭く厳しい精悍な表情。そんなピンと緊張した瞬間の常磐井は、由利の目にたまらなく魅力的に映った。そんな彼を遠巻きに見つめているのが好きだった。

 由利は中の人間には分らぬように、そっと弓道場の外の窓から中を伺い見ていた。弓道部員たちは由利がこっそりと垣間見ていることなど露知らず、黙々と弓をひたすら打っていた。

「小野さん」

 そんな由利の背後から聞き覚えのある声がする。どきりとして振り向くと、それは春奈だった。

「ああ、田中さん・・・」
「どうしたの、小野さん。弓道部に何か用? それとも誰かお目当ての人でもいるの?」

 春奈は空とぼけたふりをして、恋敵を牽制するためか、由利がここを訪ねてきたわけを訊き出そうとした。

「えっ? ううん、別に。部活が早く終わったし、ちょっと通りすがりに何となく眺めていただけど?」
「へぇ、何となく見ていたにしては、えらく熱心だったような気がするけど?」
「あら、そう? そんなつもりはないけど?」

 挑発には乗らず素知らぬ顔をして、由利は春奈の問いに応じた。

「そうなんだ。あたしね、常磐井君を待っているのよ」

 春奈は由利にことさらにひけらかすように言った。その口調もどこか得意そうだった。

「そうなの?」

 悔しそうな顔を見られると期待していた春奈は、由利の動かぬ表情を見て少し調子が狂ったようだ。

「小野さん、あなた以前言ったわよね、あなたは常磐井君には全く関心がないって。だからたとえあたしが常磐井君と付き合ったとしても、それに文句を言ったりしないって」
「ああ、たしかにそんなことを言った覚えもあったかな。それが一体どうかしたの?」

 春奈がじっと由利を疑い深げに凝視していると、そこに他の部員に交じって練習を終えた常磐井が、弓を携えながら道着姿で戸口に現れた。

「常磐井君!」

 春奈が救われたような顔をして常磐井のほうへ転ぶように駆けて行くと、由利にことさらに誇示するように常磐井の腕に取りすがった。常磐井は向かい側にいる人物が由利だと判ると目が泳いだ。だがそれも一瞬で、またもとの表情に戻った。

「こんばんは、常磐井君」

 由利は常磐井に、他人行儀なあいさつをした。

「お、おう」
「うん、部活の帰りにちょうど田中さんとそこで会ったから、お話をしていたの」
「ああ、そうなんだな」

 常磐井はぶっきらぼうに答えたが、ごくんと唾を飲んだのか、喉ぼとけが動くのが見えた。

「実はね、あたしたち、これから三条へ行って映画を見ることになっているんだ!」

 春奈は昂った声で宣言した。

「ああ、今日は金曜日だものね。花金ってわけね。ステキ」

 由利はふふっと口元をほころばせた。

「ねえっ、悠季君?」

 春奈はいかにも親しげに常磐井の名前を呼び、同意を求めるようにちらっと見上げた。

「あ、ああ」
「何を見るの?」

 由利は春奈に訊ねた。

「ラ・ラ・ランドよ」
「へぇ、オシャレじゃない? ミュージカル仕立てだしね。主役のエマ・ストーンもキュートだし、ライアン・ゴズリングもハンサムだし。デートで見るにはピッタリな映画ね」
「うふふ、でしょ?」
「でもね、ちょおっとネタバレになっちゃうんだけど、結末が悲しいの。結局のところお互いに思いあっていた恋人たちは結ばれないのよね」

 そう言いながら、由利はさっと視線を常磐井の顔へと走らせた。

「あらっ、小野さん! だめよ、結末を言っちゃ!」
「ああ、ごめん、ごめん。つい。だけどこの映画は最後どうなるこうなるってことより、恋愛のプロセスを重点に描かれているから。結末をちょっとぐらい知っていてもまったく遜色はないはずよ。楽しんできてね」
「小野さんは、これからまっすぐお家に帰るの?」
「そうね、さっきまでそうしようかなって思ったけど、ちょっと気が変わったなぁ、実はね、いつも行く秘密の場所があるの。そこへ行ってから帰ろうかなって」
「秘密の場所? へぇ~」

 春奈がバカにしたように訊いた。

「そう、いろんな意味で大事な場所なんだけどね、あたしにとっては。今日はそこで少しひとりでいたいなって気分かしら。ああ、邪魔してごめんね。じゃあ!」

 由利はふたりのもとを離れた。


 
 由利はひとりで船岡山へ到着すると、いつものように自転車をふもとに止めて、ひとりで階段を上がって行った。もう日もとっぷりと暮れて、道路の途中途中の街灯だけがひっそりと辺りを照らしていた。日中は比較的暖かいのだが、さすがに11月の中旬ともなれば日が落ちるととたんに気温が下がる。由利はコートの襟のボタンをきっちりと閉じて風が中に入らないようにした。

 この山から見下ろす街の灯は、闇の中にで宝石箱をひっくり返したように赤、青、黄色、白、紫と様々な色が交じり合いきらきらと瞬いていた。いつもの由利なら、常磐井に背後からその身をすっぽりと繭のように包まれて、うっとりとその夜景を眺めているのに、ひとりきりで見るとなぜだかその光も非常に心細くて寂しいものに思える。

 ふと目から一筋涙が流れた。

「おまえが言い出したことじゃないのか? 学校では他人のフリをしろとな。それなのに何で泣く?」

 ふと気が付くと傍に三郎が立っていた。

「三郎!」

 驚いたように由利が叫んだ。

「三郎君、あなた、調伏されたんじゃなかったの?」
「誰が調伏されたって? おれがか? ふふふっ、あんな生臭さ坊主に何ほどのことができる? 全く聞いて呆れるとはこのことだ」

 由利はあの辛い滝行も結局、何の役にも立たなかったことを知って愕然とした。

「おれが調伏されて、この世から消えてしまえばよかったと思っているのか?」

 確かめるように三郎は訊いた。三郎は死霊なのかもしれないが、由利にとって危機から救ってくれた恩人でもある。だがそれとはまた別に、曰く言い難い懐かしさを三郎に感じていた。

「ううん、そんなふうには思っていない・・・。やっぱり三郎に会えると嬉しいもん」

 それを聞くと心なしか三郎の目許が和らいだように感じた。

「三郎・・・。あたし、あなたにいつか会ったことがあったのかしら?」

 いつも不敵な三郎の顔に、初めて動揺の影が走った。

「いつかだと・・・? それはどういう意味だ?」
「あたしが生まれる前・・・。過去生であたしが女御だったときに・・・」
「おまえが女御だったとき? そんなこと、誰がおまえに教えた?」

 三郎の目は怒りと驚きで大きく見開かれていた。

「ううん。誰にも教えてもらってなんかいない。何度かあたしの意識だけが昔に飛んだの。気が付けばあたしは今の小野由利じゃなくて、帝の女御だった・・・」
「そうだな。おまえはたしかにそうだった・・・。本当に美しくて、淑やかで、それでいて侵しがたい威厳があって・・・おれの誇り、おれの憧れだった・・・。傍近くかしずいているだけで、どれほど幸せだったことか・・・」

 三郎は思いがけないことを言った。

「じゃあ、あれは本当のこと?」

 三郎の瞳は潤んで夜景の光にキラキラときらめいていた。だがその問いには答えなかった。

「この船岡山はな、平安の昔から長らく死体捨て場だったんだぞ。未浄化霊がうようよしているんだ。そんな沈んだ気持ちでいると、また近衛邸のときみたいに化け物たちとお見合いすることになるぞ?」
「うん。だけど・・・」
「おまえ、あいつのことをどう思っているんだ? 好きなのか、それとも嫌いなのか?」
「判らない」

 由利はポツリと答えた。

「常磐井君は、自分じゃおそらく自覚していなんだろうけど、ものすごくセクシーなんだと思う。あたしはたぶん、彼のそういうところに惹かれているんだろうとは思うけど・・・」

 三郎はどこか由利を心配そうに見やった。

「常磐井君は本当に親切で優しいし、いつも思いやってもくれている。だけどあたしには、彼の生き方やものの考え方には違和感があるの。それに早熟な彼の性急な愛の求め方っていうのにも」
「そうだな、たしかにあいつは、おまえに欲望を抱いている」
「うん。それもわかってる。常磐井君は太陽みたいな人よ。強烈すぎるの。遠くで神のように仰ぎ見ている分にはいいの。だけど近くに寄ってこられるとその熱さでこっちが焼け死んでしまう、イカロスのようにね。だから今のあたしは応じられない」

 そういいながら由利は傍らの三郎には、常磐井の情熱とはまた別な日だまりのような優しさを感じていた。

「それじゃあ、さっきみたいに適当に他の女と遊ばせておけばいいじゃないか?」

 三郎は由利をなぐさめるように言った。

「理屈で言えばそうよ。だけど実際ああいうふうにされちゃうと、解っていても悲しくなるもんなんだね」
「ふうん。困ったお姫さまだな」

だが突然三郎は、何かを聞きつけたようにビクンと身体を震わせた。

「おやおや、そろそろ若君のご登場らしい。おれはあいつに嫌われているからな。じゃあな」

 そう言うと三郎は姿が見えなくなった。ほどなく常磐井が息せき切って、由利がいる場所へ来た。

「由利!」
「あら、常磐井君」

 由利は何事もなかったかのようにふるまった。

「どうしたの? もう映画は終わったの?」
「バカっ! こんな人気のいない寂しい場所へおまえみたいな女の子がひとりで来ちゃダメだろ? もし変質者に襲われでもしたらどうするんだ? 何かあったらと思うとオレはもう生きた心地もしなかった」

 実際に船岡山は京都市内でも物騒なところで、過去にいくつか殺人事件も起こっていた。だがだからこそ、高校生同士が人に知られることなく会うには格好の場所でもあったのだ。

「あら、血相変えて駆けつけて来るから、何があったかと思いきや、そんなことだったの? それに田中さんはどうしたの?」
「由利! どうしてこんなあてつけがましい真似をするんだよ! 田中との約束なんて、そんなのクソ喰らえだよ。あの場で即座に断った」
「あたしのことは気にしないで、あなたはあなたで田中さんと楽しくデートすればよかったじゃない? あたしはそれで一向に構わないんだけど」

 それを聞くと思わず常磐井は、激しい怒りに駆られてパシッと由利の頬をぶった。

「きゃっ」

 常磐井としては相当手加減して軽く平手うちしたつもりなのだろうが、しまったと思ったときには由利の身体はその衝撃に耐えられず、吹っ飛ばされるように倒れた。

「由利! すまん、大丈夫か?」

 地面に倒れ込む前に、常磐井はとっさに身体が動いて由利を受け止めた。抱き起こすと、由利は今の衝撃で鼻と口の中の血管が切れたらしく血を流していた。急いで常磐井はポケットからハンカチを出してその血を拭いた。

「すごいね、常磐井君の力って。一瞬意識が飛んでた。常盤君ならあっという間に、素手であたしを殺せちゃうね・・・。こんな目に遭うとあながち常磐井君の心配っていうのも、間違っていないんだなって今、実感しちゃった・・・」

 そう言いながら、由利は常磐井の腕の中で、思わず顔に手を当ててぽろぽろと涙をこぼした。

「由利、お願いだ。だからもう、これ以上オレを弄ぶようなことはしないでくれ、頼む」

 常磐井は由利に懇願した。

「ごめんなさい。だけど田中さんが勝ち誇ったようにあなたの傍にいるのを見ると、なんだか急に常磐井君が遠い存在に思えて」
「そうさせているのはおまえじゃないか、由利!」
「めちゃくちゃを言っているのは、自分でもよく分かっているのよ」 
「おまえは本当に女王さまだよ、由利。オレは結局、いつもおまえの言いなりだ、だから何でも言うことを聞く。どうすればいいんだ、言ってくれ」


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境界の旅人 32 [境界の旅人]

第八章 父娘



「おじいちゃん、大丈夫? タクシー乗り場まで歩ける?」

 由利は心配そうに祖父に訊ねた。

「申し訳ありません。弁護士さん。えろうご迷惑をかけてしもて。由利、大丈夫や。明日になったら病院へ行くさかい。今、救急へ行ってもやな、大学出たての半人前の当直医しかおらんやろうし」

 佐々木と由利が辰造の両端に立って身体を支えながら、ゆっくりとした足取りで一階までエレベーターを使って降りてから車回しまで行って、タクシーに乗り込んだ。

「由利さん、ひとりで大丈夫ですか?」

佐々木は心なしか心配そうに言った。自分にも由利と同じような年ごろの娘でもいるのだろう。

「あ、はい。とりあえず家で様子を見てみます。何かあれば家の近くには京都第二日赤病院の救急センターもありますから。でもたぶん、そんな大ごとにはならないと思います。佐々木さん、本当にお世話になりました」
「由利さん、気をつけてね」

 佐々木はたかだか十六歳の少女にしか過ぎない由利の大人びた冷静な態度に、いい意味でも悪い意味でも感心しているようだった。

「今日はありがとうございました」

 由利はタクシーの中から頭を下げて礼を言って、佐々木弁護士と別れた。
 車窓から外を見れば、街はクリスマスシーズンに突入したのか、金銀の華やかなデコレーションで飾られていた。

「ふう、もうクリスマスか・・・。季節が過ぎるのって早いね・・・」





 月曜の午前中は祖父に付き添って、近くにある行きつけの内科診療所へ行った。

「ふん・・・。まぁ、風邪だね。それに夏バテしてたんじゃないですかねぇ。暑い、暑いっていっているうちに、急にストーンと気温が下がったしね。だいたいの人は身体がついていけなんだよね」

 いつも世話になっている先生はそう診断をくだした。

「よかったぁ。おじいちゃん。風邪だって」

 それを聞いて、由利はほっと一息ついた。辰造も医師の見立てを聞いて安心したのか、軽口をたたいた。

「最近は地球温暖化の影響なのか、季節は夏と冬ばっかりになって、春と秋がなくなってきとるからねぇ」

「ま、お薬出しときます。あとは二三日、ゆっくり養生して身体を休めてください。小野さん、あんたもトシなんだし、いつまでも若いつもりでいたらあかんで」

 先生は笑いながら辰造に釘を刺した。





 由利は途中でパン屋によってサンドイッチと野菜ジュースを買ってから、学校へ出かけた。ちょうど四時間目が終わったらしく終業のチャイムが鳴った。

 後ろの席に座っていた常磐井は戸口に入って来た由利に気づいたのか、さっと鋭い視線を向けたが、それだけだった。何の感情も浮かべることなくすっと立ち上がり、目も合わすことなく由利の脇を真っすぐに通り過ぎるとと、学食のほうへと向かって行った。

 努めて何気ないふりをしてその姿を見ていたが、由利は瞬間的にこの間の船岡山で交わした熱い抱擁と焦れた相手の表情が思い出され、体中にカッと熱い血が駆け巡るのを感じた。

 常磐井は、今はこんなに冷たい表情をしているけど、それは単に由利の愛情を失いたくないがために演じている擬態にすぎない。何しろ人前では他人のふりをしろと常磐井に命じたのは由利なのだから。

 教室の外から田中春奈が常磐井を呼び止めている声が聞こえる。

「常磐井くぅーん」

 春奈のやけに甘ったれた声が響く。

「ん? 田中か? 何?」

 いつものように、常磐井のそっけない声が聞こえる。

「常磐井くん、学食へ行くの?」
「うん、そうだけど?」
「あたしも購買へ行くから、途中まで一緒に行こ?」
「あん? ま、いいけど」

 常磐井は春奈の誘いにまんざらでもない顔をして応じていた。そのふたりの後ろ姿を、由利は振り返って意地悪く見ていた。



ーきっとあの人の心は、今ここにいるあたしのことでいっぱいなはず。春奈が誘えば常磐井は、デートぐらいは付き合うのかもしれない。あたしに感じた欲望を代わりに春奈で満たそうと、それ以上のこともするかもしれない。だけど単にそれだけのこと。圧倒的な力を誇る彼も、結局あたしに勝つことができないー



 ひとりの人間の心を征服し屈服させて従わせてしまう自分に、ほの暗い喜びを覚えて有頂天になっていた。そして頭のてっぺんからつま先に至るまで、身体中が耐えがたい甘いうずきに支配されて、由利はふるえた。



「由利」

 ぼうっとしていると、美月が声を掛けて来た。

「あ、美月。おはよ」
「どうだったの、おじいちゃんの様子は?」
「うん。風邪だって。大したことなくて良かった」
「そっか~。一安心だね。昨日LINEもらったときは心配しちゃったよ。うちのお母さんに言ったら、『由利ちゃんひとりじゃ大変だろうから』って、夕飯前にお惣菜をたくさん作って由利んちへ持って行くって。レンジでチンしたら食べられるように全部しておくってさ。だから家に帰ったらまず冷蔵庫を点検してねって」
「えっ? 芙蓉子さんが? 芙蓉子さんだってお家の仕事で忙しいだろうに。何か申し訳ないなぁ」
「まぁさ、相手はベテラン主婦ですから。たまには頼ってもいいんじゃない?」
「ありがと、いつも美月と芙蓉子さんにはお世話になりっぱなしで」
「いいよ。そんなこと。うちのお母さんも好きでやってるんだしさ」

 突然、由利の表情が明るくなった。

「ねぇ、美月、ちょっと報告したいことがあるの!」
「えっ? もしかしたら、例の件?」

 由利がこっくんと首を縦に振ったとたん、美月の目がきらきらと輝きだした。



 いつものごとく茶道部の顧問室に鍵を掛けて、由利は日曜日に起こった佐々木弁護士がした一連の話を語って聞かせた。

「え~。良かったじゃん! 大進展じゃないの、由利! で、それでDNA鑑定はいつすることになったの?」
「うん、佐々木さんが早速手配をしてくれたみたいで、日曜日の夜に連絡が入って明日の夜に鑑定の人がウチに来ることになってるの」
「そっかぁ。で、それってどれぐらいで判るの?」
「ん~。なんか一か月ほどだって。本当はもっと早く出るらしいけど、日本とフランスってふたつの国をまたいでいるじゃん? 念のため、フランスと日本のふたつの機関で鑑定してもらうらしいよ。結果はあたしのところに直接来るんじゃなくて、弁護士さんのところへ来て、その結果をあたしが聞くって感じらしい」
「へぇ、そうなんだ! その人がお父さんだったらいいよねぇ、由利。何かいい人っぽいじゃない?」

 由利は一瞬無表情になったが、思い出したように顔が明るくなった。

「そんなことよりね、美月のアドヴァイスがすごく役に立ったの! 何と何と、さっき小山さんからメールが届いたんだよ」
「え、何て何て?」
「うん。これ見てよ!」

 由利は自分のスマホを美月に渡した。



 こんにちは、小野さん。

 ボクが日本からベルリンへ来て、約三か月が経ちました。
 加藤さんや、他の茶道部員の人たちが懐かしいです。みんな元気で新部長の鈴木さんについてお稽古に励んでいると確信しています。
 

 さて、今回はぜひともお知らせしたいことがあったので、このメールを書いています。
 ボクは十一月の頭にパリで行われるコンクールに向けて準備していたのですが、コンクールでのボクの評価は辛くも、一位なしの二位でした。


 相変わらず演奏のスタイルについて指摘を受けていて、指導通りに弾いていればきっと一位だったと言われるのですが、仕方がない。ボクはどんなにピアノの大家であろうと根本的に自分の信念を曲げる指導は受ける気が無いので、この結果は甘んじて受け入れるしかありません。


 いや実は、そんなことを小野さんに知らせたいために、メールしたのではありません。
 ボクとベルリンの先生とが一緒にパリに行ってコンクールを受けたあと、かなり大きな規模のレセプション・パーティが開かれました。パーティの主旨はあまりコンクールとは関係なく、『多分野の芸術家たちの文化交流』ということでした。 

 招待を受けたのは各分野で活躍している芸術家で、音楽家はもちろんのこと、美術分野の画家や彫刻家、そのほか写真家、ダンサー、俳優、作家などいろいろな方面の芸術家が集まっていました。

 そのパーティの席でベルリンの先生がボクの約束通り、フランス在住で、やはりピアノの大家で通っている知人に小野さんの手紙を見せました。
 パリの知人はこの手紙を読んでもさっぱりと心あたりがないらしく、頭を傾げていました。

『科学者とはあまりつながりがないのでね。でも必要とあらばパリの十六区にあるこの研究所に、ラシッド・カドゥラ氏を捜して、ユリ・オノに連絡を取るように働きかけてもよい』と言ってくれたのです。

 ですがそうこうしているうちに、ちょうど地方からパリに出張中でたまたまこのパーティに出席していた人が、先生たちの見ている写真がちょうど目に入ったらしく、驚いた様子で『ちょっとその手紙を見せてください』とひったくるようにして手紙と写真をもぎ取ると、しばらくの間、手紙と写真を代わる代わる穴が開くくらいじっと見つめているのです。

 ボクはその人の切羽詰まった様子にびっくりしてしまいしたが、その人は『この手紙と写真のコピーをとらせて欲しい』と先生の許可を一応得て、どこかへ消えてしまいました。

 三十分ほど経過したころでしょうか、その人はボクの先生に件の手紙を返すと『急に要件を思い出したから』といってそそくさとパーティの会場から去って行きました。

 その人はボクの目から見れば歳の頃は四十代半ば、背の高さは平均的フランス人にしてはやや高く、百八十センチくらい。痩身の白人男性でした。目や髪は黒っぽい色で、そしてどことなく風貌が小野さんに似ているように思えたのです。

 先生のフランスの知人に『あの人は一体誰ですか?』と尋ねても、『たまたまあなたと同じように、招かれた人と同行する形でパーティに来た人で名簿にも載っていないし、誰かから正式に紹介された人ではないから分からない』としか返事がありませんでした。ですがそれでも先生の知り合いは親切な人で、パーティ会場であちこちの人にその人が誰かを訊いて廻ってくれました。

 その結果『どうも画家で、どこかの都市のエコール・ド・ボザール(美術大学)で教鞭をとっている人ではないか』という話でした。

 それでボクは思い出したのですが、この人が小野さんの探していたお父さんであるとすれば、あれほどに鋭い小野さんの美的感覚は、やはりお父さん譲りのものだったのだと合点がいくような気がしました。

 小野さんをぬか喜びさせたあとで失望させたくないので、あまり断定的なことは言えないのですが、その人はたしかに手紙を見て驚愕していました。しかしその驚きの中には、隠そうとしても隠しきれぬ喜びの表情が入っていたようにボクには見受けられたのです。

 その人から何らかの連絡が小野さんのほうにあればいいのですが。ものごとがよい方向へ行くことを願っています。


 それでは元気で。 ボクもセンター試験には間に合うように日本へ帰国するつもりです。茶道部のみんなにもよろしくお伝えください。

 ごあいさつがてらお知らせまで。

                      
 小山 薫





「何これ、何これ! どういうこと?」

 美月は感動のあまり、スマホを持って顧問室の中を踊るようにくるくると駆け回った。

「やっぱり、この人、十中、八九、由利のお父さんなんじゃないかな!」
「うん。そんな気がする。たしかに小山さんの言う通り悪い人じゃなさそうな感じはするけどさ。だけどさ」
「何、由利?」
「お母さんとはどんな別れ方をしたのかはよく分からないけど、たとえうちのお母さんと恋仲である間は誠実な恋人だったとしてもさ、別れて十六年以上経っているんだよ。もうとっくに奥さんや子供がいるのかもしれない」
「でもよ、由利! その人のほうからがDNA鑑定したいって言いだしたんでしょ? 決して悪い方向には行かないんじゃない? たとえ法的に親子関係になるとかそういうんじゃなくても、その人と血の繋がりが確認できたら、由利ははっきりとした自分の父方のルーツが判るわけじゃない。それはそれでいいと思うよ」
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境界の旅人 31 [境界の旅人]


第八章 父娘



「ただいまー」

 玄関の戸を開けると、中から湯気に包まれた温かい空気が由利を包んだ。

「おう、由利か」

 祖父の辰造が夕餉の用意をしていたようだ。

「あ、おじいちゃん。ゴメンね。遅くなって。あたしも手伝うよ」

「ああ、もうじきに出来上がるから、ええで。そこに座っとき」

 達造が味噌汁の鍋をおたまでかき回しながら、思い出したように言った。

「ああ、由利。そういえば、ようわからんけど、どこかの法律事務所から書留を由利宛に送ってきおったんや。ちゃぶ台の上にあるさかい、見てみい」

「法律事務所? へぇ、何だろ?」

 たしかにちゃぶ台には一通の封書が置いてあった。宛名はたしかに祖父の言った通り、由利宛だ。

「どこの法律事務所・・・? 佐々木俊哉法律事務所・・・?」

 由利は頭を傾げながら後ろの所書きを見た。

「東京都大田区? 何? 一体この佐々木法律事務所サマはあたしに何の用なんだろ?」

「由利、棚にハサミがあるやろ、それで開封してみいや」

「うん」

 由利は封筒の端をハサミで切って開封し、中を読んだ。手紙の文面は手書きだった。



 突然のお便り、失礼いたします。

 私は佐々木法律事務所を営んでおります弁護士、佐々木俊哉と申します。
 私はある方より依頼の命を受けてこの手紙を書いております。

 なぜならば依頼人は、由利さんが八月の中頃にフランス国立研究所に宛てて出されたラシッド・カドゥラ氏の消息を尋ねる手紙を偶然ご覧になる機会があり、ご自分がもしかしたら、お母さまの玲子さん、そしてお嬢さまの由利さんとのご縁につながる人間かもしれないと思われたからです。

 依頼人は由利さんのお母さまの玲子さんがフランス国立研究所に在籍されていたおり、一時期交際されたことがありました。ですが由利さんの手紙をお読みになるまで、由利さんという存在自体をまったくご存じではありませんでした。

 つまり依頼人は由利さんの手紙を読んで初めて、玲子さんにお嬢さまがいらっしゃったことをお知りになったのです。

 手紙と一緒に同封されたお母さまの玲子さんと一緒に写っておられる男性をラシッド・カドゥラ氏だと、由利さんは認識されていますでしょうか?

 だとすれば残念ながら、その男性はカドゥラ氏ではありません。

 ともかく当方は、由利さんのことについて何一つ知りません。また由利さんが一体どういう目的で、あのお手紙を出されたのかも、一切承知しておりません。

 そんなわけで私は、まずは由利さんから細かい事情を詳しくお伺いするように、依頼人に命じられております。

 つきましては一度、ご都合のつく日に私がそちらに参りまして、お話を少しばかりお聞かせくださる時間を作っていただけますでしょうか。

 なお、お返事はこちらのメールのほうへお返しくださいませ。





 由利は手紙を読んで真っ青になった。

「どうしよう・・・」

 由利はぺたんと畳に尻をついてつぶやいた。

「どうした、由利?」

 辰造は由利がちゃぶ台に放り出した手紙を手に取って読んだ。

「由利、これはどういうこっちゃ? きちんとわしに説明してみなさい。何、怒りゃあせん。どうせ玲子の相手のことやろ? 玲子は由利にまったく父親のことを言っていないんと違うか?」

「うん・・・」

 由利は秘して黙っていたこれまでのいきさつをすべて祖父に説明した。それを辰造はふんふんと真剣な顔でひとつひとつ聞いたあと、ため息をつきながらこう言った。

「そうか・・・。由利も難儀なこっちゃな。せやけどな、こういうことは、たとえいっとき嫌な思いをしたとしても、知らないよりは知ってしまったほうが、後々楽なもんやで。そりゃあ、由利だって自分の父親がどんな人間かは知りたいやろ。それに知る権利があると思うで」

「おじいちゃん、これって・・・。もしかしてフランスのあたしのお父さんにあたる人がすでに結婚もして子供もいて幸せに暮らしているところに、この手紙を目にして不愉快に感じているんだとしたら? どうしよう・・・だから弁護士を自分の代理人に立てて、交渉しようとしているとも考えられるよね?」

 由利は最悪のシナリオを想定して、思わず泣きだした。

「もしかしたらそんなこともあるかもしれん。しかしな、ここまで来たんや。しっかり物事を見定めなあかんやろ。そんならな、わしも一緒にその佐々木さんという弁護士に会(お)うたるわ。何、可愛い孫娘にばかり辛い思いはさせんて」





 そのあと由利は何度か東京の佐々木弁護士とメールのやりとりをしたあと、学校のない日曜日の午後に京都駅に隣接しているホテル・グランヴィアの一室にて祖父を交えて会うことになった。

 由利と辰造が指定された番号の部屋に入ると、佐々木弁護士が椅子から立ち上がって、ふたりにあいさつした。

「はじめまして、小野さん。そして由利さん。私が弁護士の佐々木俊哉と申します」

 由利たちに自己紹介した佐々木は、歳の頃は四十半ばぐらいのいかにも弁護士然とした知的な感じの男だった。

「今日は、依頼人の要請に応じてこちらにご足労いただきまして、誠にありがとうございます」

「いえ、とんでもないことです。弁護士さんもわざわざ東京からおいでなさったんでしょ?」

 由利に付き添ってきた辰造は、佐々木と名乗った男に深々とお辞儀した。

「いえいえ。これが私どもの仕事ですから。ではお座りください」

 由利と辰造は部屋に設置されたソファに腰を下ろした。佐々木はテーブルに自分が必要な書類を拡げてから言った。

「では、早速ですがお話に移らせてくださいね。これから伺うお話は個人情報にあたることですので、私たちには守秘義務というのがあります。従って関係のない第三者には漏らすことはありません。またもしこの話し合いが終わった時点で、依頼人と由利さんの接点が確認できなかった場合は、依頼人のほうへ『該当せず』としてあなたの報告を控えまして、お借りいたしました書類などはすべてお返しし、またこちらが持っている由利さんに関するすべての資料を破棄いたします。まずそれを事前に申し上げておきます。よろしいですか」

「はい」

 ちょっと緊張して居住まいを正しながら、由利は答えた。

「では、メールでお知らせしておりました、戸籍謄本、母子手帳を持ってきていただけましたでしょうか?」

「はい。ここに」

「では、お預かりしますね」

 由利がテーブルにファイルを差し出すと、それを見て不備がないか佐々木はチェックしていた。

「それでは由利さん、あなたの生年月日を教えていただけますか?」

「はい。20○×年の▽月□日です」

 佐々木は由利の戸籍謄本を見ながら、うなずいた。

「とすると・・・お母さまの玲子さんはあなたがお腹にいたときには、ちょうどフランスで勤務されていた頃と重なりますね・・・。お母さまはそのとき、結婚されていなかったということですか?」

「はい。母は未婚であたしを産みました」

「では、あなたの法的な父親にあたる人はいないということですかね」

「はい、そうです」

「失礼ですが、これまでの家族形態を教えていただけますか?」

「生まれてからずっと母と私だけです」

「ということは、お母さまはこれまで結婚なさっていないのですね?」

「はい、一度もありません」

「なるほど、なるほど」

「では由利さん、あなたはどのような動機で、フランス国立研究所宛てにラシッド・カドゥラ氏の消息を求める手紙を書かれたのでしょうか?」

「はい。それは・・・、あたしが自分の父親のことを知りたかったからです」

「しかしそのことは、お母さまに訊けば、ある程度のことは判るのでは?」

「はい、たしかにその通りなのです・・・。でも理由はまったく分からないのですが、母は絶対にあたしの父親のことを教えようとしませんでした」

「ほぉ、そうなのですね。お母さまはあなたの父親にあたる方を、どう思っていらっしゃると感じますか?」

「・・・判りません。ただあたしの父親にあたる人とのことは、結果的に母にとっては苦い思い出になっているような気がします」

「そうなんですね。ではどうしてあなたは、カドゥラ氏をご自分の父親ではないかと考えられたのでしょうか?」

「はい、あたしは自分のことを生粋の日本人ではないと思っています。それも韓国や中国といったアジア系の人とのハーフではなく、おそらくコーカソイド系の人とのハーフではないかと・・・。それにさっき弁護士さんがおっしゃったように、母があたしを妊娠している時期とフランスに滞在している時期が重なるんです。ですからフランス国籍を持つ人か母のような外国人かは判りませんが、少なくともその当時パリに住んでいた男性との間の子供なのではないかと思っているのです」

「ほうほう。まぁ、それはしごく妥当なお考えですね。ではどうやって、カドゥラ氏という人物を特定したのですか?」

「はい、まずあたしの母の親友である人から、あたしの父親にあたる人はムスリムで、母から『ラディ』と呼ばれていたと聞きました。そしてフランス国立研究所宛てに出した手紙に添付しました写真ですが、それも母の親友が所持していたものを譲り受けたものです。そこには母とあたしの父親と思われる男性が写っています。で、今年の夏のことになりますが、あたしは東京の自宅へわざと母の出張中を狙って忍び込み、在職当時の研究所の職員名簿を見つけ出しました。その中からラディと呼べそうなイスラム文化圏の名前の男性で、この写真に似た人を捜したのです。写真を撮られた当時の母はおそらく二十五歳ぐらいだと思いますが、男性もそれほど歳が離れているとは思えません。ですから母の年齢にプラス・マイナス五歳ぐらいの人を条件として捜しました。そしてそれをすべて満たす人がラシッド・カドゥラ氏でした」

「ははぁ、そうでしたか・・・。なるほどねぇ」

 しばらくじっと自分の手帖をみて佐々木は考えこんでいたが、やがてこう切り出した。

「それでは、あなたのカドゥラ氏の消息を尋ねる理由というのは、ご自分のお父さんではないかと思ったいうことで、よろしいですね?」

「はい、そうです」

「では今日、わたしがこちらに来ました本当の主旨を申し上げましょう。依頼人はやはりあなたのことをご自分の娘ではないかと思われたそうなのです。今、由利さんのお話や生まれたときの時期や状況などを聞くと、親子関係である可能性が十分にあると考えられますね」

「ええ? そうなのですか? じゃあ、その方はラシッド・カドゥラさんではないとおっしゃるのなら、一体どんな方なのですか? お名前を教えてください」

「はい、それがですね。残念ながらまだお名前をお聞かせすることはできないのです」

「な…なぜですか?」

「何よりも先にDNAの鑑定を受けていただいて、その結果をお待ちください。依頼人はまずは、彼とあなたがはっきりと親子関係であるということを証明させるべきだと考えています。依頼人もあなたの手紙を読まれたあと、一刻も早くあなたに会いたいと思われたようです。ですが、よく調べもせずに仲良くなったあとで、親子ではなかったという事実が判明したとなれば、結局あなたは二度父親を失うことになるからと思いとどまられたのです。ですから今は名前や身元を伏せさせていただいているのです」

「それは先方さんがおっしゃることは、もっともやと思いますわ。よう確かめもせずに父親や言うて来られても、あとで違(ちご)うてたとなると、由利の傷つき方も、半端ないもんやと思いますわ」

 辰造はしょんぼりとうなだれている由利の肩を、なだめるように叩いた。

「な、由利。先方さんは深謀遠慮のあるお人やと、おじいちゃんは思うで。ここは少し冷静になって結果を待たんとあかんやろ。何にしても話はそれからや」

「うん」

「なぁ、なにをがっかりしてるんや、ええ? 由利。依頼人さんが実のある人でよかったとわしゃ思うで。どちらにしろ、一歩前進やろうが?」

「うん・・・」

「本当にお疲れさまでした。由利さんはまだお若いですし、さぞ緊張されてお疲れになったでしょう。今ルームサービスでお茶とケーキを運ばせますから。どうぞ一服なさってください。由利さん、今日はいろいろと言いづらいことを根ほり葉ほり伺って、申し訳ありませんでしたね。私も双方にとっていい結果が出ることを望んではいますが・・・。小野さんも付き添っていただきまして本日はありがとうございました」

 そこで佐々木弁護士は由利に言った。

「ここでお写真を一枚、撮らせてもらっていいですか? もし鑑定の結果、あなたと依頼人の親子関係が成立するとすれば、あなたの写真をぜひ見たいと希望されているのです。どうです、由利さん? 依頼人がお父さまだと判れば、送らせてもらってもいいですか?」

「はい、もちろんです」

 由利は少し不安が混じった顔で、返事した。

「それでは、その白い壁のところをバックにして撮りましょうか? 由利さん、。もっとにっこり笑っていただけますか?」

 由利はできるだけにっこりと微笑もうとしたが、その表情はどことなくぎこちないものとなった。


 
 ホテルの人間がお茶とケーキを運んできたので、三人はしばしの間、当たり障りのない世間話をした。
 由利の緊張がほぐれてきたのを見て、佐々木はさらっとスマホのシャッターを何枚か切った。

「ああ、やっぱりさっきの写真よりこっちのほうが、断然生き生きとしていますね。ほら、ご覧ください。こっちを使いましょう」

 佐々木は自分が撮った写真を由利と辰造に見せた後、心持ち嬉しそうに言った。そしてこれからのスケジュールを告げた。

「ではこちらで用意しましたDNA鑑定をする人間が近日中にお宅をおじゃましますので、そのときはまたよろしくお願いしますね。学校もあるでしょうし、夜の七時ぐらいに伺いたいと思います」

「えっ。自宅にですか?」

「ああ、検査自体は非常に簡単でしてね。綿棒で由利さんの口の中を拭えばそれでおしまいですよ。まぁ、せいぜい十分もあれば充分でしょう」

「そんな簡単なことで?」

「ええ、人の体液で調べるのが一番確実です。九十五パーセントの確率ですよ」

「へぇ、そうなんですね」

「ええ。そうなんですよ。まぁ、伺うときはあらかじめ前日に電話を差し上げますので」

「わかりました、ではよろしくお願いします」





 要件が済んだので、由利と辰造が部屋を辞するために立ち上がろうとした。しかし由利の傍に終始黙って座っていた辰造は、ふらりとよろめいた。

「おじいちゃん!」

「小野さん、大丈夫ですか?」

 佐々木がつつっと近寄って、辰造を支えた。

「小野さん、とりあえず、こちらのソファで横になられては?」

「いやぁ、お世話をかけてすまんこってす。わしもちょっと緊張しとったんかなぁ。ハハハ」

 辰造は冗談めかして笑おうとしたが、その顔は真っ青だった。
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ベル・エポックのパリへようこそ! [読書・映画感想]

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みなさま、こんにちは。

さて、わたくし、先日、『響けユーフォニアム』ファンの聖地、出町は桝形商店街にある出町座へと行ってまいりました。

出町とは、京都は上京区の鴨川の端にある町のことです。

昔の京都の境界とはここまでで、鴨川を渡ると、もはやそこは京都ではなかったのです。ここはまぁ、鯖街道の拠点でもあり、まぁ、旅の出発点でもあったので、町を出る、つまり、出町となったのではないかと予想されます。

もとい、この出町座はですねぇ、ちょっと面白い映画館でして、京都にもアート系の映画館は二、三ありますが、出町座はそれの二番館みたいな役割をしています。京都の京都シネマで1週間しかやらなくて見そびれた映画などがこの出町座で上映されていたりします。

さて、わたくしがこれから紹介しようと思います、『ディリリとパリの時間旅行』っていうのもその類なのですね。

これは、実はフランスのアニメでして、最初から最後までフランスらしい美意識で打ち抜かれた作品なのです。

かてて加えて、ベル・エポック(美しい時代)と銘打たれたころのパリを舞台にして、すてきな冒険が繰り広げられます。

第一次世界大戦がはじまると、世の中、ものすごく様変わりしちゃうんですよ。それまで時間はゆったりと進んでいました。

それまでは貴婦人は長い髪の毛を結いあげ、ドレスを着つけるのに、二時間、三時間ほど時間をかけていたのです。

しかし、戦争になってマシンガンや戦車が出て来ますと、とてもじゃないけど、そんなことをしている時間の余裕がなくなり、長い髪の毛を切って断髪にし、さっさと機敏な行動をするために、コルセットなどという窮屈なものははずし、裳裾を引くようなドレスは丈を詰めて、ひざ下のスカートになるわけなのですね。


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 (原題は『パリのディリリ』というみたいですね)

ちょっとこのポスターをよく見ると、ん?と思われた方もいらっしゃいますでしょうか?



ここには、20世紀初頭にパリで活躍した有名人が載っていると思うのです。一番前の白い服をきた肌の浅黒い女のコが主人公のディリリ。そしてその隣の背の高い男のコがディリリのボーイフレンド、オレル。そして、もう反対側に立っている貴婦人が当時のパリで大変有名だった歌姫エマ・カルヴェです。

というようにですね、時系列にすれば10年や20年ほどのタイムラグがあって、本当はすれ違わなかったかもしれないけれど、当時パリで大変有名だった、あるいは現代において大変有名になった人々がぞろぞろと登場します。

ポスターを見て「おや?」と思う人がいますか?

わたくし、三分の一もわからなかったかもしれないですが、「ああ、この人ってもしかしたら、〇〇じゃないかなぁ」と思いながら見ているのは楽しいです。

(ちなみにボーイフレンドの横にいる、青いドレスをきた女性は、かの高名な物理学者、マリー・キュリー夫人です。学習漫画の偉人伝ではおなじみの人ですよね)



~~~~~~~~~~

1900年にパリは万国博覧会を開いたことはご存じでしょうか?

日本からは川上音二郎と妻の貞奴が招かれていたようです。

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当時のヨーロッパはジャポニズムって、日本風な芸術が流行っていたので、新劇の女優である貞奴さんはあちこちでモテモテだったみたいです。



さて、簡単なあらすじ。

1900年にパリで万国博覧会が行われたことは前述しました。

その中には、カヤック族のパビリオンも含まれていました。そこではカヤック族の模擬家族がカヤック族の一日を再現していました。そこへ木に登ってするするとカヤック族の女の子に近づいてきた少年がいました。名前をオレル。

「ねぇ、キミ。フランス語話せるかな?」

「ええ、カヤック語より得意なくらいよ」

 そうやって、約束の時間に現れた女の子はなんと、フランス風の真っ白なドレスを着て現れました。少年はびっくり。

ディリリはフランスにわたる前はニュー・カレドニアできちんとしたフランス風の教育を受けていたのですが、こっそり興味をひかれた忍び込んだ船が出航してしまい、そのままフランスに来てしまったとのこと。

でも、ディリリはフランスに憧れていたので、このことには満足していました。そして、ディリリは実はフランス人と現地人の混血児でした。

「いつも、窮屈な思いをしていたの。明るい肌をしているから、のけ者にされていた。だからフランスに来たら、すんなり受け入れてもらえるかなって思ったら、今度は『肌が黒い』といって差別される」

どうも、ディリリは万国博覧会が終わったら、ふるさとへ帰ろうと思っていたようです。でも、ずっと博覧会で働いていたので、パリをじっくり見物したことがないのが残念だとオレルに言いました。

「それなら、ボクに任せなよ。ボクはお届けもの屋をしているから、パリの隅から隅まで知っているよ」

というふうに、ディリリとオレルはパリのいろんなところを冒険します。

で、ですね、アニメの作りが非常に変わっていて、ところどころ、背景は写真なんですよ(加工はされていると思うけど)。それがなんだか非常に不思議な世界を構築しているんですよね。

オレルは華やかな表通りから、普段はまっとうな人なら物騒だからと近づかない裏通りまで、まさにパリの隅から隅まで、ディリリに案内してくれるのです。それが、見ている側にとって非常に面白い。

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ところが、パリには誘拐事件が立て続けに起こっていました。さらわれるのはだいたいみんなディリリのような年端も行かない少女ばかり。

しかし、これは近年女性の地位があがり、世の中に台頭してきたことをよく思わない「男性支配団」という秘密結社の秘密だということがわかったのです…。



~~~~~~~~~

ここからしゃべってしまうと、面白くないので、ここまでにしておきますが、これって多少、フランスの歴史に関係あるのかなって思う所見を述べさせていただきます。

みなさん、ご存じのように、フランスは世界で初めて「人権宣言」をした国ですよね。

フランス革命は、人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖などを唱えました。

ね、自由、平等、友愛、がフランス革命のスローガンでしたよね。すべての人が平等であるべきだ、っていうのは、当時差別があって当たり前という世の中にあっては天地がひっくりかえるほどの価値観の転換だったわけよ。

ですが、この平等というのは、女性とか、有色人種とか入っていなかったのです。

ディリリは女の子で、カヤック族とのハーフですから、そこらへんが思いっきり抵触しているわけよね。

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まぁ、いきなり女性もどんな人種も平等、というふうにはならなかったのです。

そしてこんな国でありながら、一皮めくるとフランスって国は、結構家父長制の強い国でありまして、フランス革命後、台頭してきたナポレオンなんてその権化であって、彼は女が出しゃばってるのが本当に許せなかったみたいですね。「女は家でつつましやかに、家事や裁縫でもしているのが望ましい」って思っていたみたいです。案外、こういう考え方って根強く一定のフランス人の中にあるみたいですね。

男性支配団というのは、そういった女が世の中に出しゃばっているのが、気に入らない男たちばっかで作られた秘密結社で、女の子をさらってきては、その子を男に従順な存在となるよう、家畜化というかペット化というか、奴隷化させようとしていたのよね。

まぁ、これは物語だからかなりわかりやすくカリカチュアライズされてあるけど、いまだにDV男が結構な数で存在しているフランスは、このことにもっと留意すべきなのかもしれないと思いました。もちろん、フランス以上に、男が幅を利かせている日本も同様です。

男も女あってこその男だし、また反対に女だって、男あっての女なんですよ。

女を否定することは、結局は男である自分をも否定することになる、とよくよく考えてみればわかることだと思います。





でも、お話はやはり最後はハッピーエンドになって、女の子たちは、ぶじ救出されるのだけど、その方法がまた、非常に美しい。

なんとレッド・ツェッペリン号が救出に来てくれるんですよ。

その部分が、なんていうのかなぁ、日本のアニメとも、アメリカのディズニーとも違うアプローチで、非常にフランス的演出なんですね。

行ってみれば、ローラン・プティ・バレエの美術を見ているようだった。非常に人工的でありながらも、繊細なんですよねぇ。

う~ん、さすが、フランス!

ビバ、フランス!

って感じで、フランスの底意地みたいなものを感じました。

最後のエンドロールで、ディリリと救出された女の子たちで踊るシーンが非常にかわいいので、載せておきますね。

https://www.youtube.com/watch?v=P56ALdTzmC4
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境界の旅人 30 [境界の旅人]

第八章 父娘



「最近、ずいぶんと日が暮れるのが早くなったよねぇ」

 薄く日の名残りの残る窓の外を見て、美月がため息をついた。

「うーん。そりゃあ、ま、『秋の日はつるべ落とし』って昔から言うくらいだしね。でもさ、あたしは京都の夏の暑さがこたえていたから、むしろ涼しくなってくれてほっとしてる」

 お茶室の傍に設けられた水屋で、稽古で使った黒い楽茶碗を拭きながら由利は答えた。

「こないだ、炉開きもされたもんね。そっかぁ、もう十一月だもんね」
「うん」

 由利はことば少なに答えた。

「ね、あれからフランスのほうからは何か連絡があった?」
「ううん。何の音沙汰もなし」
「えっと、あの手紙を出したのはいつだっけ?」
「八月のお盆の頃かな。だから二か月半は丸々経ってる」

 顔色にこそ出していないが、由利ほどその手紙の返事が来るのを待ち望んでる人間はいないはずだ。気にならないはずがない。

「そっか・・・」

 美月は由利の恬淡とした表情から、かえって物事の深刻さを推し量った。

「でもさ、由利。もう少し待って何の反応も無かったらまた、次の案を考えようよ。何かいいこと思いつくかもしれないし」
「ありがとう。美月。気を遣ってくれて。だけどね『返事がない』ってことがひとつの立派な返事なんだよ。あの手紙は結局、あたしの父親にあたる人のところにたどり着けなかったか、あるいはたどり着いたとしても、当の本人が死んだか、それとも父親のくせにあたしやお母さんを捨てたことに一片の悔いもなければ、何の興味もない人間ってことなんだよ、きっと」

 由利のことばには、いつまで待っても名乗り出て来ない父親に対する恨みがこもっていた。

「由利・・・」
「ああ、もうこんな話よそうよ。気持ちが余計に暗くなっちゃう」

 由利の口調はサバサバしていたが、どこか表情が荒んでいた。



下足箱へ行って、由利が靴を履き替えるとつま先のほうに何かが入っているような違和感がある。脱いで調べると小さな紙きれが入っていた。さっと美月に悟られぬように文面に目を走らせると「いつものところで待ってる」とだけ記されていた。

 いつもならふたりで自転車を走らせながら北大路から堀川通りを抜けて南下して行く。だが由利は、自転車置き場のところで美月に言った。

「あっ、そうだ、美月。あたしうっかり忘れるところだったんだけどね、これからおじいちゃんの血圧の薬を取りに行かなきゃならなかったんだ。悪いんだけどあたし、道が反対方向だからここでバイバイしなくちゃ」

 由利がいかにも今思い出したように、もっともな口実を言った。それを聞いた美月は、目の端をきらりときらめかせながら口角を少し上げた。

 由利はさっと自転車にまたがると、そのまま行ってしまった。それを美月はじっと黙って見送ったあと、こっそりつぶやいた。

「由利…。女子校で鍛えられたあたしの目を欺けるとでも思ってんの? アイツはガチで肉食系だよ? 由利はただでさえ傷つきやすいのに…、痛い目に遭わなきゃいいけど」



 由利が向かったのは船岡山だった。船岡山公園のふもとで自転車を止めようとすると、先客はすでに来ているようで、黒くて大きな自転車が止められていた。それを見るやいなや由利は、急かされたように駆け足で頂上に続く階段を昇って行った。

 あらかじめ待ち合わせしていたのは昼間でもめったと人がこない場所で、その木立の影に潜ませるように相手は待っていた。

  由利は相手に、学校ではただのクラスメイトとしてしか自分に接してはいけないと固く約束させていた。まったく気のないそぶりをさせて、自分の席の脇や廊下をすれ違いざまに通り過ぎる相手の姿を見ているのが好きだったのだ。

「常磐井君!」
「由利!」

 ふたりはお互いの名前を呼びあったあとは、まるでN極とS極の磁石がくっつくように固く抱擁を交わした。

 常磐井の大きな温かい腕に抱きしめられながらキスされていると、まるで極上の真綿に包まれているかのような安心感がある。由利は緊張から解放されるこの一瞬がたまらなく好きだった。背の高さがコンプレックスである由利は常磐井が相手だと、幼い頃のように、素直に可愛い女の子に戻れるような気がする。今は目を閉じながら、自分を無条件にこうして受け入れ、抱きしめてくれる相手がもたらす陶酔感にうっとりと浸っていた。

 驚くほど長いキスのあと、やっとふたりは顔を離して会話した。

「ねぇ、オレって、いつまで他人のフリしてなきゃなんないの?」

 常磐井は不満げに漏らした。

「いつまでって、いつまでもよ」
「なんで?」
「なんでって、理由はないけど・・・。それにあたし、こんなふうに優しい顔もいいんだけど、学校では口許をきりっと引き締めている常磐井君を見ているほうが好きかも・・・。いわゆるギャップ萌えってヤツかな」

 由利はふふっと笑ったあと常磐井の胸に顔を埋めた。こんな態度に出られると常磐井は強く出ることができない。ちょっと困ったように由利の背中に手を当てた。

「こんなふうにデレデレしているところ、他の人には見られたくないの。誰にも知られていない秘密って甘美で、より恋に熱中できる気がする」
「それってさぁ、前世からのサガ?」
「まぁ、たしかに女御さまと中将は世を忍ぶ恋をしていたよね」
「由利・・・。ねぇ、いつまでこんなふうにキスだけなんだよ?」

 焦れに焦れたあげく、とうとうしびれを切らしたように常磐井は迫って来た。

「常磐井君、それは前にも何回も言ったよね。あたしは今のままの、この状態が好きなの」
「え、オレは嫌だ! 由利が好きだから、もっと触れていたい!」

「それは・・・常磐井君が男だから言えるセリフなんじゃない? 女は元には戻れないのよ」

「一度男を知ったら、元に戻れないってこと? もしかしてそれは遡逆性ってことを言ってるのか?」
「まぁ、それもあるけど・・・。あたしたち、まだたった十六歳の高校一年生なんだよ。行きつくところまで言ったからって、それでどうなるもんでもないじゃない?」
「由利・・・・・・。恋なんて、どうなる、こうなるって、理屈が先に来るもんじゃないっしょ。好きだからじゃ理由にならないの?」

常磐井は真顔で由利に懇願した。

「ねぇ、男の人ってとかく忘れがちなんだと思うけど、女の側にはこういう快楽には必ず妊娠っていう危険をはらんでいるんだよ」
「妊娠なんてそんなこと・・・絶対に由利にはさせないよ」

 常磐井のささやく声には幾分かいらだちが含まれていた。

「常磐井君・・・。こういうことにはね、絶対なんてこと、ありえないと思うの。そうすることは、まだお金も儲けたことのない子供のあたしたちがやることじゃないと思ってる。おのれの分をわきまえていないっていうか、不遜っていうか」
「そんなの、いつの時代でも、やってるヤツはもっと早くにでもやってるさ。不遜だの分不相応だのって、そんな理屈っぽいこと考えてるもんか」

常磐井は鼻白んだように言い放った。

「それにね、常磐井君にとって先に進むことは大事なのかもしれないけど、今のあたしには必要じゃないの。どうして恋愛のプロセスのひとつひとつを大事にしないで、先をそんなに急くのよ? あたしはね、常磐井君、いい? したくないのよ!」

由利は嫌悪の情も露わにして、常磐井を拒んだ。

「でもさ、少なくともキスはいいと思ってるんでしょ?」
「え、うん。まあね」
「じゃあ、きっとその先もいいよ」

 そうやって常磐井はもう一度由利を強く抱きしめ、気を引こうとした。だが由利は、そんな姑息な手を使った相手をぴしゃっと遮った。

「ねぇ、こんなにしつこいんなら、あたしもう帰る。あなたとは金輪際こういうことしない!」

 由利はさっさと元来た階段に通じる道へ戻ろうとした。

「ま、待てよ! せっかくやっとふたりきりになれたのに! 顔に似合わず気が短いんだからな、由利は」
「ねぇ、常磐井君って自分の将来はどう考えているの?」

 突然、由利はくるりと踵を返すと、まったく関係のなさそうな質問をした。

「オレの将来? そうだなぁ、まあ、どっか今の自分の成績に見合うような大学へ入って、やっぱ部活は武道系をやって、将来はオヤジの跡をついで道場を経営していくと思うけど?」

 戸惑ってはいたが、常磐井は誠実に答えた。

「ね? 常磐井君の中には、そんな明確な将来のビジョンがある。だけどその中にあたしはどう関わっていけるのかな? それを考えたことある?」
「えっ? 愛し合っててオレと一緒になって、オレの子供産んで・・・。道場主の妻として母として生きていくんじゃダメなの?」

 由利は呆れたようにじっと常磐井を見つめた。

「それってさ、要するに常磐井悠季の『妻』としての人生であって、小野由利としての人生っていう意味を為さないような気がするんだけど?」
「えっ? それ、どういう意味?」
「だからさ、極論を言うようだけど、あなたは道場主の妻なってくれるのなら、あたし以外の誰でも構わないんじゃない? たとえばさ、常磐井君のことが未だに大好きな田中春奈なら、きっとふたつ返事で妻になってくれるよ。それのどこにあたしの存在意義があるの?」
「えーっ。そんなぁ。オレにだって選ぶ権利っていうのがあるだろ? なってくれるなら誰でもいいなんてはずないじゃないか! 内助の功っていうのも、めっちゃくちゃ大事なことだと思うけど。愛を仲立ちにして、一生懸命夫婦して道場を切り盛りするっていうのはダメなわけ、由利にとっては?」
「まあね、だって道場をどうこうするのはあなたの夢であって、あたしの夢じゃないもん。まぁあたしも武道に精進しているのなら、まぁそれもあり得るかもしれないけどさ」
「じゃあ由利にも教えてあげるよ。今からなら十分に上達できるさ」

 常磐井は機嫌を損ねた由利を必死になってとりなした。

「人に言われてやるのは嫌なの! 自分が心の底からそう思えるんじゃなきゃ!」

 そのことばに常磐井はちょっとむっとしたようだった。

「じゃあ、由利の夢とか、やりたいことって何なんだよ? それをオレにまず教えてくれよ」
「あたしのやりたいこと・・・。そうね。今は茶道をやっているけど。でもそれが生きがいってところまでには行ってないかな? だからやりたいことはまだ見つかっていない・・・」
「それじゃ、オレの夢を一緒に叶えるっていうのの、どこがいけないわけ?」

由利は身体に巻き付いていた常磐井の腕を振りほどいた。

「ねぇ、常磐井君。あなたは前世のあたしたちがあの女御と中将という恋人同士だったと信じている。でも女御は帝の妃でしょ? おそらくふたりは前世では夫婦になれなかったんだよね。だから常磐井君は今生でこそ、女御の生まれ変わりのあたしと添い遂げるために生まれてきたんだと思ってるんでしょ? 出逢いは必然だったんだって」
「うん。そう思ってるよ。由利に出会ったことは奇跡だよ」
「だけどあたしは、あなたが信じているその『ミラクル・ロマンス』なんてもの、端から信じちゃいないのよ。あたしは結局、そういうことはどうでもいいの。今あるのは現実だけ。選択肢は星の数ほど広がっているの! あたしたちは自分の持って生まれてきた能力や努力のいかんで、その中から可能な限り最良のものを選択することができる! もしあたしたちが今結ばれたとしても、結婚なんてずっと先のことじゃない? その間にあなたやあたしが心変わりをしないって保障がどこにある? あたしはいったん、あなたとそういう関係を結んでから別れるのは嫌だ!」
「オレたちに限って、そんなこと絶対にあるはずないっ! 少なくともオレはそんなことには絶対にならない、絶対にだ!」

 若者らしい潔癖さを持ち合わせている常磐井は、怒気をはらんで言い切った。

「由利、おまえは今のこのオレの金無垢のように混じりけのない愛を、将来性とか保障と言う損得ずくの秤にかけて貶めようっていうのか? オレは由利を相対的に愛するなんてこと、これまで一度だって考えたことがない! どんなことがあっても由利に対するこの愛は変わらない! 絶対だ。由利が今考えてることこそ、そろばんづくで卑しいって思わないのか?」

 常磐井になじられると、由利の頬は平手を受けたように紅潮した。

「何よっ! もう、放して! 常磐井君はあたしの気持ちなんて、解りっこなんかないんだから!」
「由利! 由利! 待てってば!」

 由利は一度も振り返らず、一目散に坂を駆け下りて行った。






~~~~~~~~~~~~~~~

やっと季節的に追いつきました…。
由利と常盤井って仲がいいのか悪いのかわからないですねぇ。

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境界の旅人 29 [境界の旅人]

第七章 前世



 たとえ相手から見て大して魅力的とは思えない文面だったとしても、少なくとも他のダイレクトメールよりは多少なりとも目立って、係員の手にとって開封され読んでもらえる努力はできると思う。


 由利はそう思って、寺町通にある和紙の店『紙司 柿本』へ行って、何かフランス人から見て「美しい」と思える便箋封筒はないかと探していた。

「あ、これ」

 由利が手に取ったのは、黒谷和紙で『草』と銘打ってある洋封筒と揃いの便箋だった。黒谷という名からして、左京区にある新選組で有名な『金戒光明寺』の付近なのかと思えば、どうもそうではないらしい。説明を聞くと綾部市黒谷町で作られた手漉きの紙とのこと。

 柔らかな薄緑の色が非常に美しい。

 本来なら一番格式のあるのは白だと思うのだが、それだとインパクトに欠ける。かといってあまりインパクトにこだわって柄が入ってしまうとキワモノに間違われて、またゴミ箱へ直行という可能性も考えられる。

 これがぎりぎりの由利の自己主張だった。

 買ってきた便箋をプリンターにセットして印字し、最後は自分の名前をアルファベットではなく漢字で『小野由利』と署名した。

「フランスまで料金はいくらかかるのかな?」

 由利が郵便局のウェブサイトまで行って調べると、フランスまでの定型郵便物で二十五グラムまでは、航空便で110円とあった。

 別に由利は切手を集める趣味もないので、近くの郵便局へ行って局員に相談した。

「あ、すみません。フランスに手紙を送るんですけど、何かあっちの人が喜びそうな切手ってありませんか?」

 受け付けてくれたのは人の好さそうな中年男性だった。

「そうねぇ、今のところこれしかないんだけど」

 局員は九十二円の慶弔用切手を取り出して来た。

「これね、本当は結納とか結婚式なんかに使われるんだけど、案外外人さんはこういう柄を好むんじゃないかな。それと差額用海外グリーティングっていうのがあるよ」
 なるほど、慶弔用切手は金色の扇の中に赤と青の松の模様が描かれていて、いかにも外人受けしそうだ。差額用グリーティング切手は葛飾北斎の『波』と「赤富士」こと『凱風快晴』をアレンジした二種類があった。

 どっちもいいなと思われたので、二枚購入して、足りない2円分はエゾユキウサギが描かれている二円切手を購入した。結局ずらずらと何枚も封筒に張ることになってしまったが、それがかえって受け取り手には良いインパクトを与えるかもしれない。

 最後に由利はバランスの良いように封筒に宛名のほうもひとつひとつ丁寧に書き、後ろには自分の住所や名前を書いた。

 由利はポストに投函する前に思わず手を合わせて祈った。

「必ず、ラディにこの手紙が渡りますように」




 五山の送り火の日に、結局由利は美月の家に行くことになった。

「由利!」
「ああ、由利ちゃん、いらっしゃい。ささ、どうぞ上がって」

 ビルの中の住居部分の玄関で、美月と芙蓉子が歓迎してくれた。

 
 美月にメッセージがあった翌朝、由利は辰造にそのことを申し出た。すると祖父はあっさりと許可してくれた。

「そうか、そんなふうに誘ってくださったんなら、ご厚意に甘えさせてもらって帯正さんところに寄せてもらったらええよ。あそこのビルは大きいから、大文字やら他の文字やらもよう見えるやろ」

 しかし自分が友人のところで楽しんでいる間、祖父は家でぽつねんとひとりですごしていなければならないのかと思うと、由利の心がとがめた。

「でも・・・、その間、おじいちゃんはどうするの?」
「ああ、わしのことか? わしも毎年、仕事先の能衣装のお店から他の仕事仲間と一緒に呼ばれとるのよ。だからおまえも心配しんと行ってきよし」



 まず由利は奥の間に通されると、すでに部屋には大きな姿見が備えられ着付け用の畳紙が敷かれていた。その横には長方形の乱れ箱に何枚かの浴衣と帯がきちんとたたまれて置かれてあった。芙蓉子はにこにこして由利に言った。

「由利ちゃんが好きそうなものをいくつか用意してみたの。好きなものを選んでみて」
「え、いいんですか? こんな高価なもの。おことばに甘えちゃってもいいのかなぁ」

 由利は遠慮がちに言った。

「何言ってるの、遠慮しないで。私が由利ちゃんに着せてみたいんだから」 

 そう言いながら、芙蓉子はたたまれてあった浴衣を一枚一枚広げていった。黄色地にスイカの模様のポップな柄、白地に美しくプリントされている紫陽花のもの、それと濃紺の地に白く染め抜かれた鉄砲百合があった。

「さあ、どれにする?」

 芙蓉子はが試すように由利に訊く。由利は迷わず答えた。

「じゃあ、この紺地に百合のものを・・・。涼しそうだし」
「あら、驚いた。大人の選択ね、由利ちゃん。とてもシックよ。昔はね、浴衣といったら藍で染めるのが一般的だったのよ。そして浴衣といえば東京染めと相場が決まっているのよ」
「えっ? 着物といえば京都じゃないんですか?」
「そうね、でも、『粋(いき)』で勝負するとしたら、お江戸の意匠には敵わないのよ。今でも『粋でいなせ』なのは東京染めなの」
「ああ、そうなんですね。じゃあ、どうして紺色一色なんですか?」

 ついでなので由利は後学のために芙蓉子に質問した。

「そうね、昔は藍が一番廉価に染められるってことが一番の原因だったと思うのだけど、それに何というのかしら、目で涼をとるというか、まぁ、涼しさを演出していたのよね。それに多色刷りになると、お金がかかるでしょ? だから白地に紺という二色、まぁ厳密に言えば一色で江戸っ子の心意気を表現したのだと思うわ」
「そうなんですか。昔の人も大変ですね」
「そうよ、昔は、ちょっと町人が派手な恰好をすると上から睨まれるの。やっぱりお江戸は将軍のお膝元でもあるけれど、それだけに支配階級が庶民に贅沢をせぬようにと圧力を掛けてきたから。でもね、だからってしおれてお上の言う通り、貧相な恰好するのなんて江戸っ子のプライドが許さないのよ。だからどんなに上からきついお達しがあろうと、その制限の中からびっくりするような斬新な意匠が生み出したのね。お江戸の文化は反骨精神に溢れているのよ」
「へぇ」

 口を動かしながらも芙蓉子はテキパキと由利の身体に浴衣を着つけていった。
 ささっと浴衣を着せ終えると、芙蓉子は箱から真っ白な中に字模様が浮かび上がる博多帯を取り出して、その上から締めた。

「昔なら、こういう場合は赤の独鈷柄にするはずなんだけどね、それだと野暮ったく感じるのよ。流行って不思議なものね。だけど今はこんな感じがクールなのよね」

 たしかに紺と白だけのツートンカラーの大人っぽいコーディネートは、背丈もある由利には似合っていた。

「それにね、最近はこんなふうに遊び感覚で、あえて帯にも帯締めをするの。するとね、全体が締るのよ」

 芙蓉子は帯の上に、黒に近い濃紺の帯締めを締め、その上に透明な紺色のガラスの帯留めを付けた。

「うわっ、ステキ! かっこいい!」

 由利は思わず歓声を上げた。

「ふふ、そうでしょ? さ、それじゃね、そこに座ってね。髪を軽くまとめてあげるわ」

 そう言って由利を鏡台の椅子に座らせると、由利は手慣れた手つきで由利の髪をまとめ始めた。「くるりんぱ」を三つ重ねてあっという間にふわっとしたアップになった。最後に芙蓉子は由利の髪に涼し気な水色の気泡入りのガラスのかんざしを付けた。

「うわ、芙蓉子さん、すごい! 魔法みたいです」
「ふふ。慣れればそんなの、すぐできるわよ」

 支度が終わったころに、美月が由利たちのところに顔を出した。
 美月はどうも自室で着替えたらしい。ピンクが多めであとは白と水色の花柄のレトロポップな浴衣に黄色と水色のツートンカラーの帯を可愛らしく蝶々結びにしていた。頭はトップの位置にツインテールにしてお団子にしていた。

 由利とは全く別路線の選択だったが、これは呉服屋の娘に生まれて、浴衣など生まれた頃から着尽くしたあとの究極の選択なのだろう。一見、何も着物のことをわかっていない素人のように見えて、それでいてぴたりと決まっている。

「どう、お母さん? 由利は?」
「ちょっと見てよ、美月。素敵でしょ?」

 芙蓉子はうれしそうに答えた。

「あら~、超正統派の装いですね~。着物雑誌の表紙にしたいくらい」
「でしょ? だけどこういうの、実は昔風のずんぐりむっくりした人には似合わないコーディネートよ。やはりね、こういうすらっと上背があって手足が長いモデル体型の人じゃないと」
「そうだよねぇ」
「そうそう、着せ甲斐があったわ。楽しいものね、きれいな子に着つけるのは」

 美月と芙蓉子は親子してプロの目で由利を見て喜んでいる。やはり長い間、着物に接している仕事をしているせいか、純粋に自分の考えたコーディネートが決まると嬉しいものらしい。

 由利もきれいな浴衣を着せてもらえたのが嬉しかったので、しばらくはしゃいでいたのだが、ふとぽろりと涙がこぼれた。

「ど、どうしたの、由利ちゃん?」

 由利が急に泣き出したので芙蓉子は慌てた。
「芙蓉子さん、あ、あたし、ごめんなさい。こんなによくしてもらったのに、泣いたりして。でも何だか情けなかったんです」
「どうして?」
「あたしには半分はどこの血が入っているのかわからないけど、もう半分は日本の血が入っているはずなのに日本文化さえきっちり享受しているとは言いがたいじゃないですか? それじゃ正々堂々と胸を張って『私は日本人です』って言えないような気がして」

 それを聞いて美月は一瞬ハッとした顔をしたが、横にいる芙蓉子に目顔で制した。

「まぁまぁ、由利ったら。何を言うかと思ったら・・・。今どき百パーセント純血の日本人の女の子だって、着物なんか自分で着られない子がほとんどだよ。だってそういう習慣が廃れてるんだもん。当然でしょ?」

 美月はわざとぶっきらぼうに言った。

「それにさ、自分のことをそういうふうに貶めるのは、どうかなって思うよ。聞き苦しいよ」
「美月、由利ちゃんにそこまで言わなくても・・・」

 芙蓉子は美月を止めにかかった。

「ううん、お母さん、止めないで。あたしは由利の親友だと思っているから、キツイことを承知であえて言わせてもらう。由利。そんなこと言ったって知ったら、きっと由利のおじいさんが悲しむよ。それにさ、誰も由利をそんなふうに見てなんかいないじゃん。もし自分で着物を着られるようになりたいんだったらさ、泣き言を言う前に自分で着られるように訓練すればいいだけの話。物事は理性で考えないと。別に異国の血を引いているから、着られないなんて馬鹿なこと考えてないよね?」

 美月の容赦ないことばが由利の心を打った。

「あたしもさ、着物屋の娘だから、一応自分で着物は着られるよ。それは何も特別な能力があったからじゃなくて、単に練習したからでしょ? そんなに着物をひとりで着れない自分が許せないんだったら、あたしが明日からでも特訓してあげるよ。毎日うちに通ってきなよ。ありがたいことに、新学期までお茶のお稽古もないことだし」
「・・・美月。あたしちょっとどうかしてた。ありがとう」

 由利は涙にふるえる声で謝った。

「うん。由利はさ、敏感で感受性に富んでいるだけど、時々誤作動を起こしちゃうんだよね。さあ、行こ行こ。八時に大文字が点灯するからそれまでにご飯を食べないと」

 美月の自社ビルの屋上は仕事の関係で招待された人で結構込み合っていた。さすがに皆、和装業界の人間だけあって、老若男女、それぞれ趣向を凝らした装いをしていて圧巻だった。

「ほら、由利! 見て! 『大文字』に灯りがついたよ」

 よくよく見ると『大』の文字に火が灯されたらしく、小さな灯りがどんどんと拡がって大きくなっていく。

「うわ、すごい。初めてみるなぁ」
「これは京都の四大伝統行事って言われているんだよ。京都にゆかりのある人間なら、これを見なきゃ」
「へぇ。そうなんだぁ」

 しばらくすると、今度は『妙』と『法』の字が同時に点火された。それに目を奪われているうちに、次は船形と左大文字が、そして最後に『鳥居形』に火が灯された。

「ねぇ、これってどんな意味があるの?」

 由利は歴女の美月に訊ねた。

「うん? 五山の送り火っていうのはね、もともとお精霊(しょうらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世に送り届けるために、焚かれるものなんだよね。まぁ、お精霊さんを送るやり方は各地によってそれぞれで、ほら、有名なところでは長崎の『精霊流し』っていうのもあるじゃない? でもまぁ、どれも基本的にはお盆にお迎えしたご先祖さまの霊が道に迷わないように火を灯して、お送りするためのものなんじゃないかな?」
「じゃあ、大の字にはどんな意味があるの?」
「大は『大日如来』のことじゃない? 密教では一番偉い仏さまのことだよ」
「じゃあ、妙は?」
「ああ、妙と法はたぶん、『妙法蓮華経』っていうお経のタイトルから来ているんだよ。だから主に信仰しているのは日蓮宗なんじゃないかな?」
「じゃあ、船形は?」
「ああ、船形? あれは小乗仏教に対する大乗仏教のシンボルだから日本の仏教全般にも言えることだと思うけど、まぁ、厳密に言えば浄土教、すなわち浄土宗とか浄土真宗を指すんじゃないかな」

 美月はどこどこまでも淀みがない。

「じゃあ、きっと鳥居は神社のシンボルだから神道を表しているんだろうね」

 それを受けて由利が言った。

「そうだね、まぁどんな宗教、宗派であろうと、ご先祖さまがあの世から来てくださって、また戻って行かれるってところでは一致しているんじゃない? 京都には、比叡山や東寺なんかの密教系や南禅寺や大徳寺なんかの禅宗、それに知恩院やら本願寺やらってそれこそ山のようにいろんな宗派の大本山があるから。みんな仲良く共存しているんだよ。またしていかなきゃ、生きていけなかったんだろうし」
「へぇ、そうなんだ・・・」

 ふたりはしばらく黙って文字を見つめていた。

「ああ、だんだん火が小さくなって消えていくね。ねぇ、美月、これっていつ頃からやっている風習なの?」
「うん。まぁ、諸説あって、あの『大』の字は弘法さんの字だっていう人もいるんだけど、空海って平安時代の人じゃない? そんな古い風習じゃないはずだよねぇ。あとはさ、近衛信尹(のぶただ)が書いたとかいろいろ言われてるけど、ようするに俗説で、本当のことはわからない」
「ねぇ、じゃあ、室町時代の人は五山の送り火って見てたのかなぁ?」
「うーん、どうだろ? 五山の送り火って謎が多いんだよね。一般的には近世、つまり江戸時代になってから始まったって言われてるからねぇ。中世の人っておそらくこの送り火は見てないんじゃないかな」
「ふうん。そうなんだ」
「うん。こういう大がかりな風習って平和なときじゃないと、できないものだから。どの時代も戦争になるととたんにこういう行事って中止にされちゃうものだし」
「そうなんだね・・・」

 ふたりは一番最後に灯された、西山の微かにともる鳥居形を見ながら、この夏の盆を送った。 











来週は一気に11月にお話は飛びます。それにしても長いお話ですねぇ。
作者の私自身がうんざりするほど、長いですわw

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境界の旅人 28 [境界の旅人]

第七章 前世



 気が付けば由利は常磐井の身体にもたれながら、タクシーに乗っていた。

「ん・・・、ここは?」
「あ、まだ眠っていていいよ。今はタクシーの中。もうすぐ家に着くから安心して」

 肩に回されていた手が小さな子どもをなだめるように、ぽんぽんと二回軽く打った。由利は体中が重たくて抗う力もなく、言われた通りに再び目を閉じた。
やがて車は家に到着したらしく、うっすらと目を開けると辰造が外で待っているのが見える。

「こんばんは。ぼくは由利さんのクラスメイトで常磐井悠季といいます」
「ああ、あんたが常磐井君か、名前だけは由利からうかごうてます。なんや合宿に連れて行ってもらって、えらいお世話になってしまって」
「いえ、そんな。とんでもないことですよ。ところでぼく、夕方に出町柳で偶然由利さんと出会ったんですが、由利さんはちょっと具合が悪そうだったんです。それで下鴨神社の参道で涼んでいたんですが、急に気を失ってしまわれて・・・。こんなことなら、神社なんかでぐずぐずしないで、もっと早くお家に返してあげるべきでした」

 常磐井はいつになく非常に礼儀正しい態度で、理路整然と尤もそうな口実を祖父に説明していた。由利はそれをぼうっと遠くで聞きながら「策士め。おじいちゃんまで取り込んじゃって・・・」と心の中で毒づいていた。

「まぁ、それにしても、よう由利を運んできてくれたなぁ。おおきに、ほんまにおおきに」

 しきりに祖父が礼を言っているのが聞こえる。

「いえ、そんなことは」
「由利、由利! 起きや! 着いたで!」

 辰造がタクシーの中にいる由利に声を掛けた。

「あ、おじいさん。今はそっとしてあげてください。由利さん、たぶん熱中症なんですよ。昼間、暑い中をずっと水分を取らないで歩いていたみたいだから。疲れているんじゃないかな?」

 そういうと常磐井はぐったりしている由利を赤ん坊でも抱えるようにひょいと抱き上げた。

「おじいさん、ぼくが中まで由利さんを運びますから」
「いや、そうかぁ? なんか悪いなぁ。ホレ、この子は大きいから、重たいやろ?」
「いいえ」

 きっぱりと常磐井は答えた。祖父は相手の筋骨隆々とした身体を見て、その答えに偽りはないと納得したようだ。





 由利が再び目を開けると、きらきらと銀のうろこを光らせながら、部屋の中を何かが悠然と泳いでいるのが見える。

「きれい・・・」

 由利はうっとりしてそれを眺めていた。

「あなたはだあれ? どうしてこんなところで泳いでいるの?」

 由利は夢見心地で、ぼんやりと心の中に沸き起こった疑問を声に出してつぶやいていた。すると銀のうろこで光るものは悲し気に言った。

「わたしのことをお忘れですか、女御さま? 何と情けない。中将殿のことは思い出していただけましたのに。わたしは名前さえも憶えておられない・・・。口惜しゅうございます。あなたさまにはあれほど心を込めてお仕えして参りましたものを・・・」

 声は恨めし気に掻き口説いた。

「えっ?」
「ではせめて、これをわたしのよすがとして偲んでくだされ」

 それから次の瞬間には由利はまばゆいばかりの神々しい光に身体を包まれていた。





 気が付けば由利は二階の自分の蒲団に寝かされていた。

「あれぇ?」

 由利は寝床から起き上がって、階段を下りて行った。下の居間では辰造がテレビを見ていた。

「お、由利。少しは元気になったか?」
「もしかして常磐井君がここまで連れて来てくれたの?」
「そうやで。突然おまえのケータイちゅうんかスマホちゅうんか知らんけど、そこから常磐井君が電話を掛けたらしい。てっきり由利からの電話やと思ったら、知らん男の声やろ? それにしてもたまげたわ」
「え、常磐井君から電話があったの?」
「そうなんや。この家の番号が判らんから、おまえの電話を借りたっちゅうことや。今どきの高校生にしてはえらい礼儀正しい子で、びっくりしたわ」

 それはおじいちゃんを懐柔させるための偽装に決まってるじゃないの、と由利は心の中で思ったが、今は黙っていることにした。

「へぇ、どうやってパスワードが判ったんだろ?」
「あ、それもなんか言い訳しよったで。とりあえずおまえの親指を当てて、解除したんだと」
「あ、なるほど。本人が気絶していても、親指の指紋さえ合っていれば、そういうことができるわけよね」

ーそのついでに、あちこちアプリを開いてあたしの秘密を嗅ぎ出そうとチェックしていたに違いないー

「そいで由利を家につれて帰りたいから、住所を教えてくれっちゅうってな。それにしても下鴨神社の参道なんかで倒れたら、表の車道までかなりの距離もあるし、負ぶってくるのは大変やろうと思って心配していたら、なんやタクシーから出てきよったんは雲を突くような大男でなぁ。軽々とおまえを担いでおったわ。あれが道場やってるちゅう家の息子か? 常磐井君を見たら、ほんまに金剛力士みたいなんでたまげたわ。最近の高校生はデカいんやなぁ」

 辰造はほれぼれと感心したように言う。

「いやいや。彼は特例中の特例だから。百八十八センチなんて、そうそう探したって見つからないよ」
「せやけど、由利とやったらお似合いやんか」

 常磐井の体育会系らしい爽やかで折り目正しい態度を気に入ったのか、辰造はやたらとほめる。

「背の高さだけで言えばね」

 由利は仏頂面で答えた。

「何や、由利。常磐井君はおまえの恩人とちゃうんか? もっと感謝せなあかんで」

ー神社の中で本当は何があったかおじいちゃんも知ったら、そんなに笑ってはいられないんだからー

「あー、はいはい」



「そっかぁ。常磐井君がここまでタクシーで連れて来てくれたのか」

 しばらくして由利がぽつんと言った。

「そうやで、ついでやしって二階のおまえの部屋まで運んでくれたわ」
「ふうん。ヤツはとうとうあたしの家どころか、あたしの部屋まで侵入してきたのか。『機を見るに敏なり』とはまさにこのことね・・・」

 くよくよしていても仕方がないので、由利はとりあえず冷たくなったお味噌汁を温めて、冷蔵庫にあったキムチと冷や奴で夕飯を済ませた。

「ふうん。何や知らんけど、食欲だけはあるみたいやな。とりあえず大丈夫みたいやな」

 祖父はほっとしたように言った。

「うん、おじいちゃん、いつも心配かけてごめんね」



 気が付けば身体中が汗でベッタベタだ。しかもおろしたてのコテラックのワンピースは倒れたのと、蒲団に寝かされていたので、しわくちゃになっていた。情けない姿に変わり果てた洋服を見て由利は鏡に向かってつぶやいた。

「何て可哀そうなあたしのコテラックちゃんなの。おお、よしよし。大丈夫。明日由利ちゃんがクリーニング屋さんに連れて行ってきれいにしてもらうから。それに小山さんとのデートには、しっかり役立ってくれたんだからいいのよ、よく頑張ってくれました! パチパチ」

 まず歯ブラシにクリニカを塗って歯を徹底的に磨き、最後はマウスウオッシュで念入りにうがいした。そのあと風呂に入ってさっぱりしたあと、快適な温度にまでコントロールされた部屋で、由利は蒲団に寝転がりながらスマホを開いた。
 美月からメッセージが入っていた。

「ねぇ、由利。びっくりよ。小山先輩が急にベルリンのほうへピアノの修行に出かけちゃったんだって! 知ってた?」 

 由利は初めてそれを聞いたように装った。

「ええっ? 小山さんがベルリンへ! それは初耳! 知らなかった~」
「あたしも寝耳に水だよ。何でも小山さんの肝入りで二年生の鈴木先輩が部長を務めることになったんだって!」
「へ~、しばらく小山さんはあっちにいるつもりなのかな?」

 由利は美月に白々しい質問をする。

「どうもそうらしいよ」
「そうなんだねぇ・・・。なんかショック・・・」

 由利は昼間小山に告白された内容を思い出していた。だがこれは誰にも言うつもりはなかった。

「ねぇ、あさっては『五山の送り火』だからあたしンちに来ない? 会社のビルの屋上からだとよく見えるよ。おかあさんもね、ぜひいらっしゃいって。ね、一緒に浴衣を着ない?」

 美月が次々と新しいメッセージを送って来る。

「ええっ、あたし浴衣なんて持ってないよ! それに今まで着たことないし」
「大丈夫。うちは着物屋だよ? 浴衣なんて腐るほど持ってるし。心配しないで。貸してあげる。お母さんは着付けの先生だから、そっちのほうも心配もないよ!」
「え~、何か申し訳ないような気が・・・。いいの?」
「うん。由利なら大歓迎だよ。ぜひ!」
「ところで『五山の送り火』って何?」
「知らない? ほら東の方向に『大』って文字が書いてある山が見えるでしょ? 送り火の日にはその字に火が灯されて、この世を訪れていたご先祖さまの霊をお送りするのよ」
「ああ、大文字焼きのことか!」
「ちょっと。その大文字焼きって言うのは、間違いだからね。どら焼きみたいに言わないで」

 また歴女の辛辣なクレームが入ったので、素直に謝った。

「ごめん、ゴメン。無知で~」
「ね、考えてみて? 決まったら返事ちょうだいね!」
「うん。とりあえず明日おじいちゃんに訊いてみるね。きょうはもう、寝ちゃったみたいだから」

 由利のコメントがいつもより若干短く乗ってこないのを見て、美月は早々と切り上げようと決めたらしかった。

「了解! じゃおやすみ」
 由利も心配している美月に悪いと思いつつ、会話を短めに終わらせてくれたのはありがたかった。感謝の気持ちを込めて、チップとデールのおやすみスタンプを押した。

 そしてやはりというべきか、常磐井からも当然のようにメッセージが入っていた。

「やぁ、由利ちゃん、少しは元気になったのかな? オレとのキスに気絶するほど感激してもらえたなんて、かえってこっちが恐縮しちゃいます。今度はもっと濃厚なのをしてあげるね♡ お蔭様で由利ちゃんの可愛いお部屋にも入らせてもらったし。由利ちゃんの愛読書が何かも知ることができてよかった。案外、硬いものを読んでいるんでびっくりです。高校生がモーパッサンって結構すごいなと思って帰ってきました。それじゃね(^^)/」

 視線をスマホから机に移すと、机の上にはモーパッサンの『ベラミ』が置いてあるのが見えた。

「何言ってんのよ、この筋肉バカ! ったく! 脳みそも筋肉でできてるんじゃないの? 能天気なことばっかり言ってくれちゃって! あたしはアンタの彼女じゃない! キスだって全然よくなかった。ってか、気持ち悪い! それに人の部屋に何勝手に入ってんの! アンタはあたしの一体何を解ってるっての! どうせスケベなアンタなんて考えてることはひとつよ! もうっ! 常磐井悠季のバカバカバカっ!」

 由利はむかむか来て、スマホを蒲団の外へと放り出した。

「ふうっ」

 由利は蒲団に大の字に寝転がって、ため息をついた。

「何だかすごい一日だったような気がする・・・。いや、気がするんじゃなくて実際、すごい日だった」

 日中は小山と一緒に世にも美しい茶碗を見て心を揺さぶられていた。小さな黒い茶碗の中には、ミクロコスモスといっていいほどの広大な宇宙が広がっていた。そのあまりの美しさにふたりはただ呆然としてことばもなく見惚れていた。

 あたしは、小山さんとは恋人同士にはなれないかもしれないけど、ほら、今日だって、あのお茶碗を一緒に見て美しいと感じることで、十分に意義のある時間を共有できたと思いませんか? 

 心でつながっているんです、芸術を愛することを媒体にして。

 たとえまっとうな男だったしても、誰でもこんな風になれるなんて思っていません。そう思えば単なる身体のつながりなんて空しい。

 由利は昼間、小山に告げたことばを思い出した。
 黒い夜空に瞬く天の川のような碗。小山はその価値を由利ならきっと理解できると思って一緒に行くことを決意したという。

 由利は本当の意味での「愛し合う」ってどんなことだろうと天井を見つめながら考えた。

 同じ価値観を共有できる人と感動を共にすること。これも間違っていないと思う。でもこれは比較的穏やかで理知的な愛だ。

 真実を知らされてたとしても、由利の心の中で未だに小山は、燦然と輝く王子さまの位置を失っていなかった。小山が身に着けている人を圧倒するような知性のパワー。それにまだ世に出ていないにせよ、彼女自身がすでに本物の芸術家であり茶道家だった。昼間、由利は小山に「あなたは奇跡が生ましめた油滴天目茶碗だ」と言った。

 ―そのことばに嘘偽りはないー。


 だが由利はその同じ日に、まったく正反対の「性愛」の有無を言わせない理屈抜きの力強さにも触れてしまった。

 たしかに由利は以前から、常磐井が弓を打つときのことばでは表現できない緊張感、的に向かうときの真剣な表情を好ましいと見ていた。だがそれだけで、内面はほとんど理解できているとは言いがたい。

彼が何を信じ、何を大事に生きているのかー。それすら知らない。

 お互い理解しあっているならともかく、そんなろくに知らない異性とくちびるという最も敏感な部分を接触させるだなんて、理性的に考えれば不快感を覚えて当然な行為のはずだ。それなのにずっと触れられていたいと思った自分は、一体どうしたというのだろう。

 由利は自分のくちびるに指で触れてあのときの常磐井のくちびるの感触を思い出していた。

 ほんのわずかの時間だけれど、それをきっかけにして常磐井とふたりで時代を飛び越えてしまった。

 飛び越えた先の時代の女御も臣下である中将に懸想され、思いがけず抱きすくめられていた。そして恐怖に怯えながらも、男の愛撫に恍惚となったことに戸惑っていた。今の由利には女御の気持ちがよく分かる。

 常磐井と中将には、立ち振る舞いそして佇まいに隙がない。そこに一種の男らしいなまめかしさがにじみ出ていた。自分もそんなセンシュアルな力に惹かれてしまったのだろうか。

 由利は苦々しげにくちびるを噛んだ。

「あたしと常磐井君が、前世では室町時代の女御と中将だった? まさか! それじゃまんま、『セーラームーン』じゃないの! クィーン・セレニティとエンディミオンってか? アホくさ。そんなはずないじゃない!」

 由利はひとつ世代が上の『セーラームーン』のアニメが好きだった。

 ※出逢ったときの懐かしい まなざし忘れないー。
  不思議な奇跡クロスして 何度も巡り合う
(※『美少女戦士 セーラームーン』『ムーンライト伝説』より引用)

「そんなバカな! 昔の人間の身体に入ったからって、どうしてそれが自分の前世だと断定できるの! たまたまよ、たまたま! 常磐井君はあんまり自分の体験が生々しすぎて、それにつられてあたしを愛していると思い込んでいるだけよ!」

 由利はむしゃくしゃする気持ちを抑えかねて、今度は蒲団からむくっと上半身だけを起こした。

「あれっ?」

 短パンをはいている右の太ももの内側に今まで見たこともないようなあざができていたのを見つけた。真っ白な皮膚にピンク色の、何か不思議な文様が浮き上がって見えるのだ。突然、由利はあっと叫んだ。

「もしかして、これって・・・ウロコの形?」

 由利は夢うつつでみた、不思議なヴィジョンを思い出した。

―ではせめて、これをわたしのよすがとして偲んでくだされ―


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境界の旅人 27 [境界の旅人]

第七章 前世



「お放しください、中将どの。あなたさまは宮中をお守りする武人ではございませんか! 今ご自分がなさっていることが、どういうことかお分かりですか? このようなけしからぬことをなさるなどと・・・。 人を呼びますよ!」
「いいえ、放しません。わたしがどんなにあなたに想い焦がれていたか、このたぎるような思いを知っていただくまでは・・・」

 中将は女性の黒髪をつかむという乱暴なことをやめ、今度は姫の細い肩を抱き寄せると、姫の細い身体をすっぽりと両腕に包んで抱きしめた。

「初めてお見掛けしたときから、あなたに憧れ続けてきたのです。このようなむくつけき大男がまた、なにをかいわんやと思召されているのでしょう? でもあなたさまを忘れることができないのです! たとえあなたが主上のものであったとしても!」

 恐怖を感じるその一方で、中将のたくましい腕の中で身をも焦がすような熱いことばに酔いしれて、姫は陶然としていた。身体の奥からぞくぞくするような甘美な疼きが、泉のようにあふれ出しくる。

「中将どの、後生でございます、その手をお放しくださりませ」

 姫の抵抗も虚しく、中将は相手の朱に染まったこめかみからおとがいにかけて、情熱的に唇をなんどもさ迷わせたあと、蜂がようやく花芯へとたどり着くように、自分の唇を相手に押し当てた。その瞬間、橘姫は帝の妃という立場も何もかもすべてを忘れて、自分の身体を相手に委ねていた。

「あなたがわたしの目の前で扇を落とされたとき・・・、神仏は我が願いを聞き届けてくださったと思いました・・・。お慕いしているのです、橘の君。こんなにも自分をおさえられなくなるほど・・・」

 長い抱擁のあと中将は、姫に上ずった声でささやいた。
姫には直観的に自分の求めていたものに出会えたという確信があった。それはなんという歓喜に包まれた瞬間だったろう。だがかろうじて今はまだ、理性が本能より勝っていた。





~~~~~~~~~

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境界の旅人 26 [境界の旅人]

第七章 前世



 四時を過ぎても八月の太陽は衰えることもなく地表をじりじりと焦がしている。油を溶かし入れたような川面はそんな強烈な日差しを浴びて、ギラギラと強烈な光を反射していた。対岸に植えられた並木はその照り返しを受けて琥珀色に燃え立っていた。


「ありがとう、小野さん」

 小山は頬に涙の跡をつけたままで、そう言った。

「あは、恥ずかしいな。ボクときたら人前で泣いていたんだね」

 小山は手の甲で顔を拭った。

「そんな・・・。ちっとも恥ずかしくなんかないですよ」

「そう言えば、小野さん。ほら、ボクが『革命』を弾いていたとき、キミが音楽室に来ただろう?」

「ああ、はい」

「実はあのとき、かなり悩んでいたんだ。先生に今の自分のピアノのアプローチは古すぎて、一般受けしないって。でもいくら先生に言われたからって、唯々諾々と自分が納得できない演奏をするのはたまらなく嫌だったんだ・・・。結局のところ芸術家は、最後は自分の美意識を信じるしかない。そしてキミはそんなボクのピアノを感動をしながら聞いてくれた。ボクが信じる美しさを認めてくれたんだよ。そのときひらめいたんだ。小野さんならもしかして、ボクの世界をきちんと理解してくれるんじゃないかって」

「先輩・・・」

「あのときボクは苦しくて、無性に油滴天目茶碗が見たかったんだ。もちろんひとりで行くつもりだったんだけどね。でもキミと一緒に行ってみたくなったんだよ。キミが、ボクにとって世界一美しい茶碗を見て何て言うのか、それが知りたかった」

「ああ、それであんなに唐突に誘ってくれたんですね?」
「うん。ボクが思った通り、キミはあの茶碗を見て感動してくれた、これ以上ないほど。だからなのかな。ボクは気が緩んでしまったせいか、ついこんなみっともない告白をしてしまった・・・」
「みっともないだなんて、先輩。ちっともそんなことないです。人は誰しもひとりでなんか生きていけないものですもん。孤独にさいなまれるときはきっと、誰でもそんなふうになるもんじゃないかしら? もちろんあたしだってそうです」

「うん。相手がキミで良かったと心の底から思っているよ。しかもボクのことを解ってくれて、こんなふうに力づけて励ましてくれて。ボクは救われたよ」

 由利と小山はしばらく無言でお互いを見つめ合った。
 ふと由利は思い出したように、バッグから封筒をひとつ取り出した。

「小山さん、これ。思わず忘れるところでした。この間お約束していた、手紙と写真です」
「ああ、そうそう。大事なものだよ。これがなくっちゃベルリンの先生に、キミのお父さんの話が切り出せないからね」

 小山は笑いながら、ブレザーの内ポケットに封筒を仕舞った。

「まぁ、どれだけボクがこの件に関して役に立てるかは解らないけど。でもできるだけのことはやってみるつもりだよ」
「小山さん、本当にありがとうございます。ここまで親身になってもらえるなんて、本当にうれしいです」
「いやいや、それはお互いさまさ」

 それから小山は少し改まった口調で由利に言った。

「実はね・・・、ボクはこれからこの足で関空に行って、ベルリンへと立つ予定なんだ」

 由利はそれを聞いてびっくりした。

「えっ? 本当ですか! 一体何時のフライトなんですか」

 思わずバッグからスマホを取り出して時間を確認した。

「うん。八時かな」
「えっ、とすると時間的にギリギリじゃないですか! 急がなきゃ」
「まぁ、今から大阪駅に向かって関空快速に乗れば、着くのは五時半ぐらいになるかな。六時までに着けばいいんだから、楽勝さ」
「で、でも。小山先輩、手ぶらじゃないですか! 荷物は?」
「ああ、あらかじめ関空の方へ送ってあるんだ」
「じゃあ、本当に文字通り、あのお茶碗にあいさつしてから出発するつもりだったんですね!」
「ああ。今度の旅はいつもより少し長くなりそうなんだ。向こうでコンクールを受けるつもりでいるんでね。だから帰るのは年明けになるかな」
「そんなに長い間ですか?」

 由利は急に小山がいなくなることを聞いて少しショックを受けていた。

「うん。でも受験に間に合うように帰るつもりではいるんだ。ただ進路をまだはっきりと決めていない。東京の大学で音楽教育を受けるか、ヨーロッパにするか、あるいはアメリカにするかは。まぁどのみち音楽の道で生きていくつもりでいるんだけどね。でもとりあえず、選択肢はたくさんあったほうがいいと思うから」 

「加藤さんから作曲のほうへ進まれるって聞いています」

「うん。プレイヤーだけでやっていける自信がないっていうのが本音なんだ。でもまぁ、音楽を創ったりアレンジするほうが興味があるし。それに今更ピアノ科に進んでも意味がないような気がしてね」

「そうなんですね。でも・・・こんなに急にお別れになるなんて」

 由利は大きくため息をついた。

「そんな別れだなんて。大げさだな、小野さんは。単にしばらく日本を留守にするだけだよ」

 小山はそういうとまた誰に聞かせるでもなく、しゃべった。

「日本は本当に美しいもので溢れている。だけどやはり島国のせいか、排他的で同調圧力の強い国だし。自分の将来を考えると、他民族でいろんな価値観が混在している欧米みたいな多民族国家で暮らすほうが楽なんじゃないかとも思うんだけどね。だけどそれも実際に住んでみないと、自分にとって住みやすいかどうかなんて判らないことだし・・・。ハハ、変わり者だと、心配ごとが尽きなくてイヤになっちゃうよ」

 小山はまたいつもの穏やかな表情に戻っていた。

「小野さん、今日はありがとう。キミはボクに生きていく勇気を与えてくれたよ。まさにキミはボクの恩人さ。これで心置きなく出発することができる」
「こちらのほうこそ。小山先輩。本当にありがとうございました。道中お気をつけて。そして必ず元気な顔をみせてくださいね」
「うん。茶道部はボクの後任として二年生の鈴木さんにやってもらうことにした。話はすでにつけてあって、彼女のほうも部長を快く引き受けてくれた。まぁ、彼女もしっかりと手堅い人だから、安心して任せることができる。小野さん、しっかりお手前ができるように精進してね。帰って来たらボクの前でお点前をして見せてもらうよ」
「えっ、そんなぁ」
「いやいや。期待しているし。それに小野さんならできる」

 小山は励ますようににっこり笑った。

「はい、頑張ります。小山先輩」
「うん」
「行ってらっしゃい!」

 小山は由利に手を挙げて左右に振ると、くるりと回って大阪駅に向けて歩いて行った。



 出町柳駅に着くと、すでに五時を過ぎていた。由利は地下の改札から今出川通りに出る長い階段を伝って地上に出ると、アスファルトから立ち上る焼けつくような熱気にクラリとめまいがしそうだった。

「あ、暑い・・・」

 お昼に小山と一緒に紅茶を飲んで以来、由利は水分を取っていなかったことに気が付いた。
 普通なら美術館を出たあとで、付近のカフェに入ってお茶を飲むなりして、水分を補給すれば良かったのだろうが、小山の衝撃的な告白のせいでそれもままならなかった。

「あ、ヤバイ。脱水症状になっちゃう。水、水」

 地下の出口をすぐ出たところのファミマへ駆けこむようにして入ると、由利は迷うことなくいろはすのれもんスパークリングを買った。もう喉が渇いてヒリつき身体が干からびそうになっていた。お店を出るやいなやもどかし気にキャップを開け人目も気にせずぐぐぐと飲むと、ボトルの水の半分が一気に無くなっていた。

「ふぅっ。生き返った」

 思わず由利は安堵の息をついた。

「おいっ! 小野!」

 突然後ろの方で聞き覚えのある声がした。驚いて由利が振り向くと、それは常磐井だった。「桃園高等学校弓道部」と白く染め抜かれた紺色のTシャツを着、よれよれのジーンズを履いていた。先ほどの小山のファッショナブルな恰好とは真逆のベクトルを示したいでたちだった。紫の布袋を入れた弓を肩に預けながら右手に持ち、左手には旅行バッグを下げていた。

「あ、常磐井君!」

「あんたさぁ、何やってんの? 乙女がいくら何でもその飲み方はないっしょ? 腰に手を当ててラッパ飲みって、まるでオヤジじゃね?」

 常磐井は笑いながら半ば呆れたように言った。

「だって、喉がカッラカラだったんだもん」

 迂闊な姿を常磐井に見られて、由利は少しバツが悪かった。

「ん、まぁ。小野のありえないカッコの目撃者がオレだから許してやるけどぉ」
「うん。ゴメン。今のは見なかったことにして」

 傍の常磐井に構わず、また由利は相変わらずぐいぐいと残りの水を喉に流し込んだ。

「はあー、やっと身体の細胞のひとつひとつが潤いましたってカンジ!」

 それを見て常磐井は眉をひそめた。

「おい、大丈夫なのか? 京都の夏を甘く見んなよ、小野。家ン中にいてエアコン付けてたって熱中症になる人もいるんだかんな。外出するときは水を持ち歩いて、定期的に飲むのは関西の夏場の鉄則っしょ?」
「うん。今、水を飲みながら君の言う通りだなって実感してた」

 ひとごこちついた由利は、改めて常磐井のほうへ向き直った。

「あ、常磐井君ね。五日ぐらい前に行衣を返しにお家に行ったの。そしたらお母さんが出て来られて常磐井君は長野に合宿だっておっしゃってたけど?」
「ん? ああ。おふくろからLINEのメッセージがあったから知ってるよ」
「あ、じゃ、もしかして今、合宿の帰り?」
「ああ。それでやっと家の近くに着たと思ったら、小野が道の真ん中で仁王立ちで水を飲んでんのが見えて思わずびっくり」
「もう、そればっか言わないでよ!」
「いや、あんまりにもシュールな光景だったからさぁ」

 由利は文句を言ったあと、それでも合宿で世話になった礼をまだ常磐井に言ってないことに気が付いた。

「あ、でも、常磐井君。合宿のときはいろいろとありがとう。お蔭様ですっかり憑き物は落ちたんじゃないかな? あれから三郎にもまったく会わなくなったし」
「そのことでちょっとあんたに話があるんだけど・・・少し時間取れる?」
「え? うん。あんまり長くならない程度ならね」

 由利は念を押した。

「じゃさ、こんなふうにオバサンみたいに通りで立ち話っていうのもなんだし、ちょっと歩いて話さね?」

 一見冗談めかしている常磐井の顔の裏には何となく深刻そうな気配も感じられた。由利はこの話は意外と時間がかかりそうだと判断した。

「ん。じゃちょっと待ってね。おじいちゃんに電話するから。とりあえずあたしが今出町柳にいるって言っておかないと」

 由利は常磐井から少し離れて、家の黒電話に電話した。

「あ、おじいちゃん。うん。今ね、京阪に乗って出町柳に着いたところ。そうそう。すぐ帰るつもりではいるんだけど、ちょっと友達に会っちゃって、誰? ああ、この間、合宿に誘ってくれた子だけど。知ってるよね? クラスメイトの常磐井悠季君。お礼もまだ言ってなかったんで。うん。うん。あんまり遅くなるようだったらまた連絡するね」

 祖父と電話している間、常磐井は近くにあった自販機でお茶を二本かったらしく綾鷹を由利に手渡した。

「はい、これ」
「えっ? いいの? 待って待って。お金は払うから」

 由利がガサゴソと財布を取り出そうとすると、常磐井はそれを手で押しとどめた。

「いいよ、いいよ。こんなもんぐらい。それよかさ、さっきみたいに五百ミリリットルの水を急に摂取するのって、案外身体に負担掛けるかんな。これを歩きながらチビチビ飲んでおきなよ」
「あ、ありがとう!」

 常磐井のさりげない優しさが嬉しかった。歩きながら常磐井が由利に訊いた。

「ね、小野ってさ、いつもそうやってしょっちゅう連絡してんの、家の人に?」
「だっておじいちゃんが心配するもの」
「ふうん。女の子って大変なんだな」
「まぁ、最近は怖い事件が多いじゃない? うちはあたしとおじいちゃんのふたり暮らしだしさ。こんなふうにあたしが外に出れば、おじいちゃんが家にひとりで待っているでしょ、遅くなれば何かあったのかとずっと気を揉ませることになるじゃない? それって八十近くの老人には結構酷だと思うんだよね。だからやっぱりお互い、それなりに気遣いしないとね」
「ふうん。そんなもんなんかな」
「そりゃあ、そんなでっかい身体でおまけに武術の達人の常磐井君だったら、襲われるってこととはまったく無縁でしょうけど」
「ハハ。まあな」

 すぐそばの鴨川を見ると燃えるような日を浴びて水面が目が痛くなるほど鋭い光を放っていた。身体に不快な汗がまとわりついてくる。世界がじわっと湿ったオレンジ色の空気に包まれているようだった。今、このタイミングで家のある方向、すなわち西日をまともに受けて帰るのはためらわれた。

「ねぇ、常磐井君、京都の夏っていっつもこんなふうなの? まるで蒸し風呂の中にいるみたい」
「まぁ、そうだよな。そこは否定できないね」
「はぁ~あっつい! かといってお店に入るとそれはそれで凍えるほど寒いんだよね。赤道直下から北極へ急に行ったみたいで。。じゃあさ、せっかくここまで来たんだし、やっぱり下鴨神社に行こうよ。緑に包まれているからさ、ここよか少しは涼しそうじゃない?」

 由利は常磐井にも自分のお気に入りの場所へ行くことを提案した。

「ん。じゃそうするか」

 だが、夕方の下鴨神社の参道は、普段よりもなお一層ひっそりと静まり返って、より闇が濃いように感じた。林冠を通して地表に届く透明な木漏れ日も今は黄色く濁っていた。

「ねぇ、何だかいつもの清々しい雰囲気がなくなってない? どことなく不気味っていうか・・・?」
「そりゃ、神社に参拝するのは清澄なご神気が満ちている午前中って、昔から相場は決まっているんじゃね? 夜の神社は魔の領域と化すんだよ。しかも今は昼と夜の分かれ目、『たそがれどき』、『逢魔がどき』だしな。何かが出て来てもおかしかない時刻ではあるわなぁ」

 常磐井は由利が怖がっているのをどこか面白がっていた。

「何よ! 知っているならどうして、反対してくれなかったのよ」
「へぇ、お姫さまの『敢えて』の選択かと、オレは気を利かせたつもりだったんだけどな」
「何それ! 京男ってサイアクね、しんねりむっつりと意地悪でさ!」
「へへぇ、そりゃ、悪うござんした」
「悪いわよ!」

 しばらくお互いに不機嫌なのを隠そうともせずに黙り込んで歩いていたが、そのうち常磐井が半歩下がって由利をじろじろと観察しているのに気が付いた。

「あんた、今日はえらくめかしこんでんじゃね?」
「あら、ファッションとはまるきり縁のなさそうな常磐井君でも、そんなことわかるの? うん。今日はね、うんとオシャレして北浜でおデートしてたの」

 由利は少しあてつけがましく言った。

「ええっ、おデートぉ?」

 とたんに常磐井の顔色が変わった。

「由利ちゃんが他の男とおデート? 由利ちゃんがオレ以外の誰とそんなことするの? えっ、誰とよ?」

 相手がいきなり『由利ちゃん』となれなれしく呼び、尋問口調になったのが由利の癇に障った。

「何でそんな個人的なこと、常磐井君にいっちいち報告する必要があるの? あたしたち、タダのクラスメイトじゃなかったっけ?」

 由利は牽制する意味でそう言った。

「あれぇ? 由利ちゃん。オレって由利ちゃんのカレシじゃなかったのぉ?」
「あら、いつからそうことになってたの? 全然気が付かなかったわ。それにあたしのこと、『由利ちゃん』なんて気安く呼ばないでよ!」

 由利は媚びるような態度の常磐井を突っぱねた。

「ねぇ、今、誰か付き合っているヤツっているの? 由利ちゃん、それはねぇわ。頼む、教えてくれよぉ」

 どこか甘えてすねた口調とは裏腹に、常磐井の表情には激しい憤りが感じられた。自分の土地を不当に侵された領主のような。身体の大きな常磐井がこんなふうにいつもより間合いを狭めてくると、由利は思わず恐怖を感じた。

「あ、あたしが誰と付き合っていたって、常磐井君には関係ないでしょ?」

 由利はそれでも気丈に言い返した。だがいつもならどんなときでもヘラヘラと笑って斜に構えている常磐井の面ざしは、いつになく真剣だった。


「そいつが好きなのか?」

 常盤井の瞳は、青い炎が燃え盛っている。

「好きな人っていうか、別にそんなんじゃないし」
「じゃあ、誰なんだよ? オレの知ってるヤツ?」

 常磐井がじりじりと由利に迫ってくる。由利は思わず後ずさった。真後ろには大きな杉の木があった。

「茶道部の部長の小山さんよ。ふたりで北浜の東洋陶磁美術館へ行って、国宝って言われるお茶碗を見てきただけよ!」
「そうか・・・。小山って三年の? あいつ、男の恰好しているけど、たしか女だよな? へへっ、あいつってLGBTなの?」
「何よ、常磐井君ってそういう失礼なことしか言えないわけ? 今どきそんなこというと差別主義者になるんだからね! 小山さんはステキな人よ。センスもいいし、会話も面白いし、感性も豊かだし。誰かさんと違ってキチンと女の子をエスコートしてくれるし。そういう言い方はないんじゃないの?」
「ああ、別に相手が小山なら、あんたが何をしてようとオレは一向に構わないよ。そんなの、結局おままごとなんだし。所詮小山は女なんだから。あいつに一体何ができる? 男のオレに適うはずもねぇし」

 すると常磐井は有無を言わさないほどの強い力でゆっくりと由利の両肩を持って、傍にある太い木の幹に身体を押し付け、大きな腕を拡げて由利の全身を抱きしめた。

「由利ちゃん・・・」
「と、常磐井君! 放して!」

 力ではまったく及ばない由利は、叫ぶしかなかった。
 だがそんな懇願をまったく無視して、由利の顔に常磐井は自分の頭を近づけてきた。

 ーえっ? もしかして、これってキス?

 そう思ったのも束の間で次の瞬間には由利はどういうわけか目を閉じて、そのまま相手に身体ごとすべてを預けてしまっていた。

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境界の旅人 25 [境界の旅人]

第六章 告白



 気が付けばふたりが美術館を辞したのは、天目茶碗を見てからたっぷり一時間以上は経っていた。その間ずっと由利と小山はこの茶碗を見続けていたことになる。
 ふたりはしばらく土佐堀川の岸辺をぶらぶらと散歩した。

「ボクはね、何か気持ちが落ち着かなくなるとき、無性にこの茶碗を見たくなるんだ。あの茶碗には南宋時代の『士大夫』の心意気が詰まっているように思える」
「それってどういうことですか? たしか士大夫って宋時代以降の科挙官僚と地主と文人の三者を兼ね合わせた人のことを言うんじゃなかったでしたっけ? 要するにイギリスで言えば、ジェントリ階級の人かと?」
「あはは、そうだね。ジェントリとは言い得て妙だよね。士大夫は特権階級である貴族とは自ら一線を引いた存在でね。何者でもない人間が厳しい科挙を潜り抜けて、実力のみで権力をつかんだんだから。ボクはね、彼らの気骨ある精神にすごく惹かれるんだ。特に北宋の士大夫である『蘇軾(そしょく)』がボクのお気に入りでね。彼は北宋時代最高の芸術家と呼ばれ、詩・書の達人でもあるんだよ」
「そしょく? ですか」

 由利は西洋史には抜群に強くても、東洋史のことについてはあんまり知らなかった。

「ああ、彼って蘇東坡(そうとうば)とも言われているんだけど、ほら、小野さん、『トンポーロー』って知ってる?」
「ああ、あの豚の角煮のことですね?」
「そうそう。あれって、『東坡肉』って書いて、『トンポーロー』って読ませるんだ。この料理の発案者は、他ならぬこの蘇軾なんだ」
「えーっ! そうだったんですか! お料理の名前の由来まではまったく知りませんでした」
「彼の生きた時代、すなわち十一世紀の中国って、なぜか豚肉を食べる習慣が途絶えた時代でもあったんだよ」
「ホントに? 中国料理っていったら豚肉って、現代人は連想するのに」
「うん、だけどまぁ、宋の時代は羊の肉を食べるのが専らの習慣になっていたらしくてね。蘇軾は天下に並ぶものがいないほどの大秀才で、各地の知事を歴任し、文部大臣にまで出世した人なんだけど、かならずしも時の趨勢は彼の味方ではなくて、結構左遷とか島流しとか悲惨な目に遭っているんだよね」
「確かに優秀な人って時代を先取りするから、世間の人の理解を得るのは難しいって言いますよね」
「うん。彼は左遷された先の土地の人々が食べるものがなくて飢えで苦しんでいるとき、豚肉を食べる習慣がないことに気が付き、自ら野生の豚、すなわち猪を狩って捌き、この料理を作って広めたっていうんだ。そこで『食猪肉詩(豚肉の詩)』っていうのを作ってたりするんだよ」
「豚肉の詩? ふふっ、どんな内容なんですか?」
「豚肉はこんなにおいしいのに、どういうわけかめっちゃ安い。金持ちは見向きもしないし、貧乏人は食い方を知らない。少量の水でじっくりと火を通してごらん。びっくりするほど旨いぜ。オレは毎日、毎日喰ってるぜ! みんなも豚肉を食べようぜって、そんな感じ」
「うふふ。おかしい!」
「そう。彼は諧謔趣味の強い人で、自分のどんな過酷な運命に遭ってもこんなふうにすっとぼけた詩を作って楽観的に笑い飛ばすような、そんな強靭な精神力を持つ人だったんだ。晩年なんかは、海南島に息子ともども流されたりしたんだけど、紙はなくても字は書けるって、浜辺の砂に棒きれで字を書いて、息子に詩作の勉強をさせたりもしているんだ」
「不撓不屈 の魂ですね」
「そう、そういう蘇軾に憧れて、ボクもできるなら彼のように強い人でありたいと思ったんだ」

 由利は小山のセリフに不穏なものを感じて眉をひそめた。

「小山さんは十分に強いじゃないですか。それに蘇軾のように、悲惨な運命にあるわけでもないでしょう?」

  由利がそういうと、 小山は少し立ち止まって沈黙していた。

「実はね、ぼくが女子トイレで小野さんと鉢合わせしたとき、ボクはいつになく饒舌になって自分のことを弁護した。だけどそこにはかなり嘘も混じっていた・・・」
「えっ?」
「小野さん、ボクはあのときキミに偉そうに啖呵を切ったでしょ? 周囲から誤解を招きたくないからこんなふうに男の恰好をしているだけだって。何の他意もないって」
「はい、小山さんはあのとき、たしかにそう言われました」
「ボクはこう見えて、実は女でしょ? そしたらどんな格好をしていても男が好きになるのがノーマルだよね」
「ええ・・・そうですね」








小山は由利に衝撃的な告白をします。 それを受けて由利はどうするんでしょう?  ハラハラドキドキの回ですよ~。 続きはこちらで!!

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境界の旅人 24 [境界の旅人]

第六章 告白



 由利は小山と日曜日の十一時に始発である出町柳の改札で、待ち合わせをすることにした。 
普段はほとんど身なりには無頓着な由利は、いつになくおしゃれをしてこの日に備えた。
 日ごろの練習時のお茶の道具の取合せでさえ神経質なほどうるさい小山のことだ、今日も絶対に完璧に決めて来るに違いない。おそらく小山の頭の中には、『センスがない=頭の回転がよろしくない』という図式が成り立っているはずだ。由利は小山に軽蔑されたくなかった。
 どんなコーディネートなら、小山とマッチできるか。それにはまず小山がどんな格好をしているかを予想しなければならない。
 小山は芸術家タイプなので、あまりトラディショナルすぎる恰好はしないと思う。おそらくコンサヴァ路線かもしれないが、それを程よく着崩したものではないかと考えられた。
 由利はこの前上京したときに、母親の玲子にねだって買ってもらった『コテラック』の白地のプリント・ワンピース、その上にワンピースに合わせて買った薄地のニットのピンクのカーディガンを着ていくことにした。コテラックは遊び心があるデザインとフランスらしい中間色のプリントのバランスが絶妙で、前々から着てみたかったブランドだった。日頃はポール・スチュアート、ブルックス・ブラザーズ、ジョゼフあたりの手堅いスーツを着ている玲子は「そんなものは中学生の分際では高級すぎる」とこれまで決して買おうとしなかった。しかし娘に四か月も分かれて独り暮らしを余儀なくされた玲子の財布のひもは、案外と緩く「仕方ないわねぇ」と苦笑しながらも買ってくれた。そのついでにHP(アシュペ)フランスに寄ってスザンナ・ハンターのバッグもまんまとせしめた。
 普通の高校生なら大人っぽすぎて、てんで似合わない服も、手足が長く上背のある由利は難なく着こなした。

 こうやって準備万端にして改札口で待っていると、小山もほどなくして現れた。
 思った通り今日はやはり私服だった。
 紺色の七分袖の麻のテーラードジャケットに白いスキニーパンツ、そしてインナーはV字衿のボーダーカットソー。そして素足にキャンパスシューズ。手には差し色として目にも鮮やかなトルコ・ブルーのオロビアンコのウェストバックを軽く肩にかけていた。全体的に白と紺ですっきりとまとめて、清潔感があるコーディネートだった。

「やあ、小野さん。待った?」

 小山は明るく声を掛けて来た。

「いえ、あたしも今来たばかりです」
「そう? じゃあ行こうか」

 小山は何気なく由利の装いに一瞥をくれると、満足げに微笑んだ。

「小野さん、今日はおしゃれして来たんだね」

 由利は小山にほめられて心の中でガッツポーズをした。

 

 約小一時間で電車は北浜へ到着した。時計を見るともうすぐ正午になる。

「もうすぐお昼だね。先にお昼食べてからにしようか?」

 小山が提案した。

「小野さんは可愛い感じのお店が好き? それとも大人っぽいのがいいのかな?」
「えっ? これからお昼を食べに行くお店のことですか?」
「うん。ボクの頭の中には二三の案があるんだけど、どれが小野さんの好みかなって思って」

―まるで本物のデートみたいー

 いや、たとえ本当の男子とデートしたとしても精神的に幼過ぎて、こんなふうにスマートには行かないだろう。

「あ、あたしが選んでいいんですか?」
「うん。お好きなティストでどうぞ」
「それじゃあ、可愛いコースで!」
「OK。それじゃあ、行こうか」

 小山が案内してくれたのは、北浜駅から歩いてすぐのところにある「北浜レトロ」という店だった。赤レンガ造りの古いビルを改造してティー・ルームにしたのだが、全体にブリティッシュ・ティストで統一されており、小山が言う通りどんな女の子でもキュンとするような可愛さだ。

 壁に設けられた羽目板には目に心地よいペパーミントグリーンに塗られており、一階がテイク・アウト用のケーキとこの店の自慢のひとつであるオリジナル・ブレンド・ティー、そしてお茶のときに使用するティー・スプーン、ティー・コゼー、トレイなどの小物が販売されていた。まるで女の子の夢やあこがれがぎゅっと凝縮してこの店に詰まっているかのようだ。

「うわっ、カワイイ!」

 由利は思わず、声を上げた。それを見て小山は口角を上げた。

「いつもはわびさびのティストの和のお茶ばっかり飲んでいるから、たまにはこんなふうに華やかな紅茶の専門店もいいかなと思ってね。そら、喫茶室は二階だよ」

 二階に昇っていくと、お昼どきとあって、そろそろ満席になりそうな気配だった。

 クラシックな白いエプロンを掛けたウェイトレスに案内された。

「何人さまですか?」
「ふたりです」

 小山がよく通るハスキーな声で答えた。その途端、店内で自分たちのおしゃべりに打ち興じていた女の子たちの視線が一斉に小山と由利に集まり一瞬の沈黙のあと、ほぅっとため息をつくのがあちこちで聞こえた。ファッション誌から飛び出したかのようなカップルがデートをしていると、そこにいる誰しもが思っただろう。
 喫茶室にはどのテーブルにもバラの花柄の臙脂のクロスがかかり、椅子も黒いニスが塗られて、いかにも英国製であると見て取れる。まるで十九世紀のヴィクトリア朝の時代にタイムスリップしたかのようだ。
 川沿いの窓際の席に案内されると、そこから土佐堀川の大きな流れが見えた。

「うわ、この建物、すごく雰囲気があってステキですね」
「そうだねぇ、この建物は二十世紀の初頭に株の仲買業者の事務所として建てられたらしいけど、いろいろと変遷があって、今から二十五年ほど前に空きビルになっていたところを今のオーナーが紅茶専門店として作り直したってことだよ。まぁだけど、もともといい建物なんだろうね。国の登録有形文化財に指定されているってことだし」
「へぇ、そうなんですね・・・。小山先輩、その、登録有形文化財に指定される条件って、何なんですか?」
「さあね、選定基準ってどうなんだろうね。ボクもそういう方面には明るくないんではっきりしたことは言えないけど、昔は趣があるいい建物って言うだけでは、文化的価値があるとはみなされなかったらしい。だから壊すのには惜しいと思われる建物も、結構容赦なく壊されたって話だけどね。このビルみたいに登録有形文化財として残ったものは、おそらくラッキーだったんだろうね」

 由利は瞬間的に家の近くの廃屋に近い変電所を思い浮かべた。

「うちの近くにボロボロの洋館があって、昔をよく知っている人に聞くと、どうもそれは変電所だったらしいっていうんですよ」
「ふうん、そうなんだね。それだったらその建物も産業遺産として登録されるべきだろうにね。蹴上の発電所もたしか産業遺産か何かに指定されていたんじゃなかったのかな」

 しかしあの変電所は歴とした産業遺産のはずなのに、何の保護もされずに打ち捨てられたままで朽ち果てていくだけだ。だが由利は感傷に浸るのをやめて、今は小山とのデートだけに集中した。

「ねぇ、先輩、あたし北浜って初めて来ましたけど、大阪でもこんなにクラシックな場所ってあるんですね」
「そうだね。ここは明治の洋風建築が立ち並んでいる一画だからね。東京の人たちなんかは、大阪っていうとすぐに道頓堀あたりを連想するみたいだけど、それは間違った先入観だよ。大阪だって東京や京都に匹敵するような垢抜けた場所はたくさんあるよ。ま、ボク的にはこの北浜界隈は日本の中で一番洗練された界隈だと思っているんだ。東京の日本橋も、昔はこんな感じだったのかもしれないけど、今は頭の上を高速道路の高架があるだろう?」
「それはそうですよね。あそこはこんなふうに空が広々としていませんもん」

 由利も小山の言うことに同意した。

「小山さん、ここってちょっとパリっぽくないですか? あ、中州にバラ園がありますね」
「ハハハ。ああ、あそこは中之島公園のバラ園だよ」
「五月ごろはバラが咲いてきれいでしょうねぇ。あたし、実は一度もパリに行ったことが無いけど、シテ島やサン・ルイ島ってセーヌ川の中州でしょう? あれにちょっと似ているような気がする」
「あはは、そう言われればそうかな。中州にある街って意味じゃ同じだものね」

 この店は紅茶の専門店だけあって、数えきれぬほどの紅茶の種類があった。紅茶だけが載っている専用のメニューを開くと、オレンジやザクロ、シナモンやクローブなどのフルーツや香辛料で味付けされたオリジナル・ブレンドがずらりと並んでいた。またその名前もいちいち「エリザベス・ガーデン」「ビクトリアン・ウェディング」「天使の歌声」など乙女心をくすぐるようなネーミングで、由利などは選ぶのにさんざ迷ってやっと「プリンセス・ローズ」というお茶に決めた。一方の小山はろくにメニューも見ずに「ああ、ミルクティが飲みたいから、アッサムで」とウェイトレスに告げた。
 しばらくして注文していたサンドイッチとお茶が銀のお盆に入れて運ばれてきた。由利はツナと野菜。小山はいかにもイギリスらしいティストのサーモンとクリームチーズのサンドイッチ。どちらもウェッジウッドのお皿に盛りつけられている。トマトの赤とレタスの緑のコントラストが食欲をそそる。

「おいしい!」

 由利は気持ちがよいほどパクパクと平らげていく。

「小野さんは苦労してきたわりに、生きる喜びとでも言えばいいかな、そういうのを率直に表現するから、一緒にいるボクも何だか幸せな気分になるよ。それってすごく大きな魅力だね」

 小山はテーブルに頬杖を突きながら、目を細めて由利を見ていた。

「え、そ、そうですか?」

 由利はドギマギしながら言った。

「うん。きっとお母さんの愛情を一身に浴びて育ったんじゃないかな」

 小山は玲子について、これまで由利が思っても見なかったことを言った。

 

 昼食を食べた後は、本来の目的である大阪市立東洋陶磁美術館へと向かった。

「ねぇ、先輩。あたし、うっかりして東洋陶磁美術館について、あんまり下調べをしてなかったんですけど、一体どんな美術館なんですか」
「ああ、この美術館は結構特殊でね。昔、安宅英一って実業家が自分の会社である安宅産業に東洋陶磁を収集させていたんだ。それを『安宅コレクション』って言うんだけど、それがもう超弩級の一級品ばっかりでね。その数何と千点あまり。その中には実際に二点の国宝と十三点の重要文化財があるから、聞いただけでもどれだけすごいかがわかるだろう?」
「ふうん、安宅コレクションですか・・・?」
「うん。まぁ、残念なことに安宅産業が破たんして、この膨大なコレクションも手放さなきゃならない羽目に陥ったんだ。だけど散逸することを恐れてなのか、住友グループは安宅コレクションを大阪市に一括寄贈することにしたんだね。こういう美術品って、ただそこらへんに仕舞っておくだけじゃ、本当の意味できちんと保管したことにならないんだ。芸術品の保持者っていうのは、単にそれを所有するだけではなく、次世代にも伝える義務があるんでね。常にコンディションをベストにしておかなきゃならない。それだったらただ保管するだけじゃなくて、いっそのこと美術館を作って、あまねく世間の人に門戸を開いてこの素晴らしい芸術品を見てもらった方がいいだろう?」

 由利はぽかんとして、小山が滔々と熱く語るのを聞いていた。小山はふと我に返って由利に言った。

「あ、ゴメン、つい話し込んじゃって。これぐらいにしとくよ。実際に大事なのは、自分の目できちんとものを見ることだからね」



 由利は小山に連れられて美術館の二階にある常設展示の中の中国陶磁室のエリアへと入っていった。
 中国エリアは三つの展示室に分けられており、一番手前の部屋が後漢から宋まで。真ん中は宋時代のみ。そして三番目は明から清にわたる陶磁が陳列されてある。

「小野さんはどんなのが好き?」

 後漢時代からひとつひとつ丹念に見ている由利に小山は尋ねた。

「そうですねぇ、明や清の時代のようにカラフルなものも技巧的には優れているとは思うんですけど、あたし、どっちかというとコバルトで染められた絵付けのものとか、白磁や青磁で細工されたものが好きかなぁ。フォルムに緊張感があるっていうのかしら。単にデコラティブだと言うだけでなく、精神性の高さみたいなものも感じるんです」

 それを聞くと、小山はわが意を得たりと言わんばかりに、にっこり笑った。

「さすがだね。やっぱり小野さんは審美眼があるんだね。たしかに明や清のものは、技巧的には非常に凝ったものが多い。でもこんなふうに華やかな絵付けっていうのは、漢民族本来の感性ではなく、やっぱり異民族のものなんだ」
「なるほど。清も征服王朝ですものね」
「うん。ボクは何と言っても陶磁器は宋の時代のものに極まると思っているよ」
「そうですね。そうかもしれないです」

一緒に歩いていると、由利はひとつの作品の前で足を止めた。

「ほら、小山さん。この南宋時代の『青磁鳳凰耳花生』って見てくださいよ。無駄のないフォルムなのに鳳凰をモチーフにされた持ち手だけが斬新にデフォルメされた意匠で。今見ても随分とモダンな感じがします」
「そうだね。これ重要文化財だよ」
「あ、ホントだ」
「小野さん、こっちに来てごらん。ボクがこの世の中で一番好きな陶磁器を見せてあげる」

 小山が少し興奮したように、由利をその部屋のある一画へといざなった。

「ほら、これだよ」

 それは一見すれば本当に黒くて小さな茶碗だった。だがよくよく見れば、黒い水の上に油を垂らしたように銀の雫が一面に細かく散っている。

「あっ・・・」

 由利は引き込まれるように茶碗の中をのぞいた。

「あ、底が青い・・・。小山さん、まるで夜空のようです! 天の川がぎゅっと凝縮されて、このお茶碗の中に閉じ込められたみたい」
「これをキミに見せたかったんだ・・・」

 由利はしばらくことばもなく、ただじっと小山と一緒にその茶碗を眺めていた。

「このお茶碗、何ていうんですか?」
「油滴天目茶碗っていうんだ。中国じゃ建盞(けんさん)って呼ばれているようだけど。国宝だよ」
「国宝・・・? そうなんですね。どうしたらこんなに美しいものが創れるんでしょうか?」
「茶碗にかけられた黒い釉薬の中に入っている鉄の成分が何かの拍子でこんなふうに油が散ったように浮かび上がるらしい」
「じゃあ、全くの偶然?」
「そう。もともと黒い茶碗を焼いていたはずなのに、ときどき何万分、いや何十万分の一の確率でこんな奇跡が起こるんだ。しかもこれは奇跡の中の奇跡。まさしく神が作ったものとしか思えない。他にも曜変天目とか灰被天目(はいかつぎてんもく)とかいろいろな種類があるにはあるんだけど、ボクはこの油滴天目が一番好きなんだ」
「このお茶碗の金色の縁がまたアクセントになっていていいですね」
「ああ、これって金覆輪(きんぷくりん)って言って、元来は縁が欠けないように補強するものなんだけどこのお茶碗ほど、この金覆輪が似合うものって他にはないと思う」

 うっとりと茶碗に見惚れたまま、小山は言った。

「油滴天目茶碗ってたしかに他にもあるけど、ひとつひとつの雫がこれまどまで細かく均等に散っているものってないんだ。今じゃこんな茶碗は、本家の中国ですら残っていない。おそらくこれは鎌倉時代に海を渡って伝えられたんだろうね。そして大事に大事にされて今日まで残っているんだ。見ているとこの茶碗に対するそんな歴代の所有者の愛情も感じ取れるような気がするよ」







読者のみなさまへ

この小説はフィクションですが、京都案内という意味を兼ねまして、一般の方々がご利用できるお店や場所・地名などは一部実名で書かせていただいております。一方、由利や美月の通う「桃園高校」および、宗教団体等はすべて架空です。そしてこの作品に出てくる宗教的概念もすべてフィクションであることを予めご了承ください。

※    ※    ※

本来なら魔界的京都観光が主なこの作品ですが、今回、京都から出て、私が日本で一番洗練されていると思っているロマンティックな都会、北浜を紹介させていただきました。並木が続く大きな川が流れていて、その周辺にはバラ園や、美術館、フェスティバルホール、そしてレトロな建物が点在しています。由利と小山みたいなおしゃれなカップルだったら、やっぱり北浜が似合うと思ったんですね。

由利と小山がデートに使った、英国式ティー・ルーム、北浜レトロは実在します。とてもチーズケーキがおいしい店です。北浜にはほかにも五感など、関西らしいおおらかさのある、本当にいろんなおしゃれなお店がありますが、ここはその一つです。北浜に行ったら、ぜひ訪ねて見てください。

そして、大阪市立東洋陶磁美術館。ここはお茶碗好きにはたまらない美術館でしょう。普段は東洋陶磁の常設だけですが、企画展では、ヘレンドの特集をしたり、オーストリアの女流陶芸家、ルーシー・リー展など開催されています。


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境界の旅人 23 [境界の旅人]

第六章 告白



 由利は一生懸命電子辞書とグーグル翻訳を駆使しながら、フランス国立研究所に宛てて、英文の手紙を書いた。
 本当は手書きのほうが、より親密さが伝わって好感度が増すのかもしれない。だがやはりここは何よりも読みやすさを優先に考えると、英文はワープロ書きにして最後の署名だけを自筆にするのが最良だという結論に至った。

 その翌日、由利は小山部長へ謝りに音楽室へと向かった。階段の途中からピアノの音が響いて来る。
 聞き覚えのある曲だ。

「ショパンの革命のエチュード?」

 虹色に輝く真珠を思わせる、粒のそろった柔らかな音色の連なり。
 小山がこんなピアノを弾くとは知らなった。由利は音楽室のドアの傍に立って、じっと耳を澄ませていた。
 小山は弾き終わるとドアの陰に潜む気配を感じ取り、誰何するために椅子から立ち上がった。

「ああ、小野さん。来てくれたんだね…」
「部長……、あたし……、いろいろと不躾なことを言っちゃって…、その、申し訳ありませんでした」

 由利は小山に向かって深々と頭を下げた。

「いや、いいんだよ。ボクこそ悪かったね。最初からきちんと説明すべきだったんだ」

 小山は由利の目が濡れているのに気が付いた。

「小野さん……泣いていたの?」
「あ、あたしったら……」

 由利は自分の目の縁をごしごしと手でこすった。

「どうしたの? 何かイヤなことでもあった?」
「あ、そんなんじゃないんです! 小山さんのピアノがものすごく心に響いて。こんな革命って、初めて聞きました。普通はもっとぱぁっと派手に弾くじゃないですか。あ、あたし、門外漢なんで、頓珍漢なことを言ってるのかもしれないですけど、こう、苦悩に耐えに耐えているような、そんな感じがして」
「ハハ、そんなふうに聞いてくれてたなんて、光栄だね。先生からは奏法がオールド・ファッションだから、もっとクールに弾けって言われるんだけど、どうもね」
「オールド・ファッションだなんて。あたし、ピアノでこんなに感動したの、初めてです」
「へぇ、小野さんは感受性がものすごく鋭いんだね。初めてお茶室に来たときも、お茶碗の美しさに心奪われていたものね。たいていの人はよほどその曲を聴き込まない限り、ピアノのこんな微細なタッチなんて聞き分けられないもんだよ」
「そんなこと、これまで考えたこともなかったです……」
「そう? でも小野さんのこんな芸術的気質は、きっとご両親のどちらかから譲られた天賦のものだと思うけどね」

 由利はハッとしたように顔をあげ、またポロポロと涙をこぼした。

「どうしたの、小野さん。ボクはまた、キミを傷つけるようなこと、言っちゃったのかな?」
「い、いいえ。いいえ!」

 ふと由利は、小山なら自分の今の気持ちを理解してくれる気がした。

「す、すみません。小山先輩。と、唐突なことを言うようですが、じ、実はお願いがあるんです」

 緊張のあまり、ことばが震えた。

「落ち着いて、小野さん。ボクは何にも気分を害してないから。ゆっくりでいいから話してごらん」
「あ、あたし……今、自分の父親が誰なのかを捜しているんです。それで小山さんにお力を借りられたらと思って……」
「それ、どういうこと? 詳しく聞かせてもらっていいかな?」

 由利は母親の玲子とラディに関するこれまでの経緯を話した。小山は真剣な面持ちで、黙って最後まで聞いていた。

「ふぅん、なるほど。で、キミはボクにどうしてもらいたいの?」
「実は、美月……いえ、加藤さんにも相談したんです。そしたら彼女、部長は英語に堪能だから、これを見せて添削をしてもらうようにって、助言してくれて」

 眼鏡の奥にある小山の目が、キラリと光った。

「ふうん、その英語の手紙、今持ってる?」
「あ、はい」

 由利は、昨日自分が書いた手紙のファイルを渡した。小山はファイルからA4用紙の紙を取り出すと、しばらくそれにじっと目を注いでいた。

「うん、そうだね。よく書けていると思うよ。これでいいんじゃない? ……強いて言うなら、ここの助動詞のcan を過去形に換えると、よりポライトな表現になるかな?」

 小山は譜面台に紙を当てて、カチっとボールペンの芯を出すと、アカで訂正した。

「はい、これ」
「あ、ありがとうございます」
「うん。どういたしまして」

 小山がファイルに入れて唯に返そうとしたとき、はらりと床に何かが落ちた。それは芙蓉子からもらった玲子とラディの写真だった。 
 それを小山がかがんで拾った。

「これ、お父さんとお母さん?」
「ええ、母です。男性のほうはまだ、父と決まったわけじゃないけど」

 小山はまじまじと、写真を見つめていた。

「でも……小野さんはどっちかというと、お母さんよりも、この男性にそっくりにボクには思えるけど……?」
「えっ?」
「ほら、このおでこの感じとか、フェイスラインとか。あとは全体的な顔の配置っていうかな……。よく似ているよ」
「ホントに?」

 小山は写真と由利を、もう一度交互に見比べた。

「うん。たぶんこの人が本当のお父さんで間違いないんじゃないかな?」

「あ、はい」

「それとね、次に会うときまでに、その手紙とその写真のコピーを一部ずつ、ボクにくれない? ピアノの世界って案外狭いもので、仲間内で情報が常に飛び交っているもんなんだ。安請け合いはできないけど、今度厄介になるベルリンの先生は、世間では情報通で知られているんだ。だから小野さんの事情を話して、物事がタイミングよく運べば、ひょっとして何かわかるかもしれない。先生のオーソリティに訴えれば、こんな研究機関の事務局でも動いてくれるような気がするんだ」

 小山は由利が想像もつかない方法で、父親捜しに協力してくれることを申し出てくれた。

「ええっ、本当にいいんですか? 小山さん、ありがとうございます!」

 由利は小山の私心のない望外の親切が、心に染みた。

「え、じゃあ、すぐに書面と写真のコピーをお持ちしますね」
「小野さん。次の日曜、何か予定が入ってる?」

 唐突に小山が尋ねた。

「えっ? 次の日曜ですか? ちょっと待ってくださいね」

 由利はスマホのカレンダー・アプリを見て確認した。

「ああ、今のところは何にも予定は入っていません」
「そう。それじゃあ、もし小野さんさえよければ、その日はボクに付き合ってくれないかな? 一緒に北浜まで行ってほしいんだ」
「き、北浜ですか?」
「うん。北浜に大阪市立東洋陶磁美術館ってのがあるんだ。そこへボクと行かない?」
「う、うれしいです!」

 由利は素直に喜んだ。
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境界の旅人 22 [境界の旅人]

第六章 告白



 由利は合宿の間はスマホを開かないことに決めていた。

祖父の辰造は、スマホはおろかガラケーですら使ったことがなく、未だに黒い固定電話一本切りでしのいでいた。

 だからもし緊急の用事があれば、一週間滞在する民宿のほうに連絡をくれるように、電話番号の控えを紙に書いて渡していた。母親の玲子にも合宿する建前の理由を話して、よほどのことがない限り連絡は控えてくれと頼んでいた。

 だいたいリアルな世界で交わるべき人がたくさんいる場面で、目の前にいる人たちとのやり取りをないがしろにしてまでSNSを優先してしまうのは本末転倒だと思うのだ。それに由利はこれ見よがしに自分の今の状況をいちいちSNSにさらすことも、どこかゆがんだ自己顕示欲が垣間見えているような気がして、好きではなかった。

 合宿から家に戻ると由利は落としてあった電源を入れて、スマホを再起動させた。
 美月からLINEのメッセージが届いていたので、まず真っ先に由利はそれを読んだ。

「由利、滝行頑張ってる? それともこれを読むのは滝行から帰って来たあとかな? 例の事件が起こって以来、茶道部のみんなが由利のことを心配しています。とくに部長の小山さんが『もともと自分が紛らわしい恰好をしたせいで、ナイーブな小野さんを混乱させたのは申し訳なかった』と悔やんでいました。とにかくいろいろ実際に会って話さなければならないことがいっぱいあります。合宿から帰って来たら、一度あたしにメッセしてね。」

 いかにも美月らしい、簡潔でいて、それでいて思いやりにあふれた文章だった。
 それから気になっていた、facebookを開いてみた。
 結局あれから、ラシッド・カドゥラという名前で、四十歳から五十歳までの男性という条件を満たしていれば、国籍がどうであろうとDMを送ることに決めたのだ。由利の探しているラシッド・カドゥラ氏は、玲子と同じように、留学生という可能性も捨てきれなかったからだ。
 これに該当する人間は十七名いた。DMには『今から十六年前にフランス国立研究所で研究員として働いているのであれば連絡がほしい』という文章を付けて一斉配信した。
 しかしそのほとんどどれもが由利を失望させるに足る内容だった。

「オウ、ユリ、ユー・アー・ヴェリィ・ビューティフル・ガール! ソー・キュート!」
 
「私は、フランス国立研究所の研究員ではないが、その側に住んでいた。これからも楽しい付き合いをしよう!」
 
「何だ、こりゃ? この人たち、あたしの書いた文章の主旨をちゃんと理解してる?」

 中には高校生の由利が読んでも、かなり怪しいと判るような英文で書かれたものもあって、読むのにかなり労力を要した。もし英語やフランス語が母語でない外国人だったとしても、曲がりなりにも天下のフランス国立研究所の研究員であれば、相当に高い知性の持ち主のはずだ。

 だから簡単な英語の単語のスペルが間違っていたり、三単現のSなど忘れるはずがない。要するにこれらすべてのラシッド・カドゥラ氏は、フランス国立研究所の研究員どころか、研究所にもフランスにも縁もなければゆかりもない人間ということになる。ただ彼らの目にはエキゾチックに映る由利のアイコンの写真に、性的な興味を掻き立てられて、送り返して来ただけに過ぎなかった。

 由利はこれには心底落胆した。いたたまれなくなって美月にLINE電話をした。すると美月はほどなく応答してくれた。

「あ、由利! 元気? 久しぶり! これでもう、十日ぐらい連絡とってなかったよ」

 いつものように電話に出た美月の声は、屈託がなく明るかった。その声を聞くと由利は、急に身体の奥から元気が湧き出て来るような気がした。

「うん。ごめんね。滝行ってやってみて初めて解ったんだけど、かなり危険を伴うものだったんだ。だから修行中は下界のことに気を取られて集中できないと怪我しそうな気がしたんで、ずっとスマホの電源を落としていたの」
「下界・・・? ふふ。そうなんだね。でも由利のことだから、おそらくそんなことだろうと思ってた」
「美月。メッセージ読んだよ。ありがとね。小山部長にも悪いことしちゃった」
「そうだねぇ、小山さん、ああ見えて繊細なところもあるから。由利があの日、泣いて帰ったって聞いたら、えらくショックを受けてた」
「そうなんだ。ああ、どうしよう? ね、美月、明日会えない? 時間あるかな?」
「いいけど? 相談?」
「うん。小山さんのことももちろんあるけど。他にもいろいろと困ったことが起こって・・・。どうしていいか分かんなくて途方にくれているとこ」
「いいよ、いいよ、この美月サンに任せなさいって。とりあえず今晩は、ひとりでヤキモキするのはナシにして。ね、いい?」

「うん、わかった。ありがとね、美月」



 そこで由利は美月と北大路ビブレの傍のスタバで翌日の十一時に待ち合わせすることになった。

 由利が店に入るとすでに美月は席に座っていて、季節のおすすめフラペチーノを飲んでいた。

「おはよ。由利も何か頼んできたら?」

 そこで由利はいろいろ迷ったあげく、豆乳アイスラテのグランデを選んだ。注文した豆乳ラテを選んで席に戻ると、美月はちょっとびっくりしたように言った。

「グランデ・サイズ? ちょっと大きすぎない?」
「うん。でもここで長居するにはちょうどいいサイズだと思うし」
「そっか。で、相談したいことって何?」

 美月は単刀直入に訊いてきた。

「ね、あたしが合宿へ行く前に、facebookで結構たくさんのラシッド・カドゥラさんにDM送ったじゃない?」
「うんうん。それで? 返事帰って来たの?」

 美月は突然目を輝かせた。

「それがね、全部バツみたい」
「ダメだったの?」

 輝いていた顔が途端にくもった。

「うん・・・。だって、その人たちには『フランス国立研究所に在籍していた研究員だった場合、連絡してください』って送ったのに、変な勘違いしていてさ。みんな援助交際か疑似恋愛かなんかだと思っているんだよね」
「何人返して来たの?」
「えっと、九人ぐらいかな」
「あとは?」
「返事がない」

 ふたりともしばらくうなだれて、無言でコーヒーをすすりながら考えていた。

「ねぇ、こうしたらいいんじゃない?」 

 ようやく美月が顔を上げて切り出した。

「ほら、facebookのDMっていう方法自体、お手軽すぎて相手にされないんだと思うんだよね。こんなんは読まれもせずに最初っから迷惑メールとみなされて、ゴミ箱直行なんだよ。やっぱりこれはきちんと書面にして、直接フランス国立研究所宛てに送るべきなんじゃないかな?」
「じゃ、どう書くの?」
「うんと。そうだな・・・。こういうのはどう? 『私は、十六年前に当研究所で研究員として在籍していた小野玲子の娘で、小野由利といいます。私は今、ある理由があって母と同時期に貴研究所に在籍していたラシッド・カドゥラ氏と連絡が取りたいのですが、もし貴研究所が現在のカドゥラ氏の住所をご存じであれば、カドゥラ氏に連絡を取っていただき、小野玲子の娘がカドゥラ氏からの連絡を望んでいるとお伝えして欲しいのです……』こんなのはどう?」
「うん・・・。でも、研究所に直接ラディの住所を教えてもらうことはできないのかな?」
「いや、それはできないと思うよ。個人情報だもん。見ず知らずの人間に、そうおいそれとは教えるはずないと思う。こんなふうに面倒でまだるっこしく見える方法しかないけど、それでも向こうからしたら、少なくともこっちの誠意は伝わるんじゃないかな・・・?」
「そうだね、やっぱり美月の言う通り、それでいいのかもしれない。あとはあたしの住所とメアドを書けばいい?」
「うん・・・。まぁ、これも一か八かだけど、少なくともfacebookよりも軽い扱いは受けないんじゃないかな? 事務局の人が親切な人だったら、調べてカドゥラさんに連絡を取ってくれる可能性はあると思う。ま、これもあんまり確実とは言いがたいけどね」
「そうだね、やるだけの価値はあるのかも」
「うん、そうだよ。何もやらないよりはマシだよ。もしダメだったらまた次の方法を一緒に考えようよ」

 美月はとかく暗い方向へ傾きがちな由利を励ました。

「ありがとう、美月。そうだね、まずはそれでやってみるよ。あとはね、今の茶道部っていうか、小山さんのこと。どうなってるのかきちんと教えてくれる?」
「うん。今んとこ茶道部はね、九月までお休みなんだ」
「ええっ? 今度、夏のお茶会あるんじゃなかったの?」
「うん。本来ならお盆は、浴衣を着てお茶会をするのが、毎年の恒例みたいなんだけど、小山部長がね『自分のせいで部員がひとり失意に駆られているのに、残された人間だけで楽しくお茶会を開いてお点前なんかできるはずがないって』って言ったんで、取りやめになったんだ」
「えっ、そうなの? あたしが合宿へ行っているうちにそんな深刻な事態になってたなんて。滝行へ行ったのは、ちゃんとした別な理由あるからだって部長は知ってるよね? あたし、ちゃんと小山さんに説明したはずだけど」
「うん。でもそれは単なる口実だと思ってるかもしれないね、小山さんは」
「あ、そんな…。あたし早く小山さんに会わなきゃ」
「うん。たしかに由利は、なるべく早く小山さんに会う必要があるね。誤解は早いとこ解かなきゃ。今は部はやってないけど、小山さんはたぶん毎日学校に来てるんじゃないかな?」
「どうして?」
「音楽室でピアノの練習しているって聞いたよ。小山さんは家にもグランドピアノがあるし、防音装置もあるらしくて、外に出る必要はないんだそうだけど、何ての、一種の気分転換なんだって」
「そうなんだ・・・。何かあたしの知らない間に、みんなにすごい迷惑を掛けちゃったんだね」

 しゅんとして由利が言った。

「そんな・・・あたしもみんなも由利に迷惑をかけられたなんて思っちゃいないよ。だけどさ、でもこんなことを言うと、由利が傷つくと思って今まで言うのを控えていたんだけどね。この際だからはっきり言っていいかな?」

 いつもの美月にしては、妙に歯切れの悪い尋ね方をした。

「え、何? 美月や部の他のみんなが思っていることを聞かせて。絶対に怒ったりしないし」
「うん・・・。小山さんのこと、たしかにあたしとか他の一年生は、由利がまったく気が付いていないって解ってた。そのことはあたしも他の子たちも由利に言おうとしたんだけど・・・」
「したんだけど・・・? 何?」
「うん。何てか由利は、いわゆるガールズ・トークっていうかさ、そういうのに水を向けても、鈍感っていうかさ、まったく乗ってこないんだよね。だけどあたしは女同士の秘密の共有っていうのも、それはそれで立派なコミュニケーション・スキルのひとつでもあると思っているんだよね。由利はもともと内向的だから、そんなちょっと悪意の入った根回しができないのはわかっていた。だけどそういうのをことさらに疎んじるのも、もしかしたら、由利の中にお母さんとの確執がトラウマになってるのかもって思っていたんだ・・・」

 美月は一度ことばを切って、相手の反応を確かめているようだった。

「うん…。ごめんね、美月。たしかにあたしは、そういうのにあんまりかかわらないようにしてたかもしれない…」

 由利はテーブルの一点に目を定めたまま、ぽそりとつぶやいた。

「ごめん。…たしかに毎日今度こそ言わなきゃって思っていたんだけど、結局タイミングを逃して、こんなことになってしまって。でもだれも由利を仲間外れにしようなんて思ってなかったんだ・・・。ホント、ごめん」
「そうなんだ・・・」

「でもね、あたし由利がさっきスタバに入って来たとき、これまでと何か雰囲気が違うなって気がしたんだ。少し大人になったっていうか。それにどことなくきれいになった気がした! それって精神的に成長した証なんじゃないの? おそらく滝行のお蔭とか?」

 美月がまた突然、思いがけないことを言い出した。

「何? それ? おだてても何にも出ないよ?」

「ううん。由利に今更お世辞を言ってどうするのよ? もしかしたら常磐井君と何かあったの?」

 探るように美月が訊いた。

「まさか。まぁ彼は合宿でも、相も変わらずオレさまでナルシストだったけど?」
「へぇ、なぁに、なぁに、それ?」

 由利の辛辣な口調に美月はふふと笑いながら質問した。

「道場の人達ってみんなめちゃくちゃ身体を鍛えていて、『北斗の拳』のケンシロウみたいにマッチョなんだよね。筋肉ムキムキでさぁ。びっくりする。それにさ常磐井君なんてさ、何を思ったのか上半身裸で濡れたままあたしに近づいてきて、『オレのこと見惚れた?』とかって訊いてくるの。もうバッカじゃないの? あんなゴツい身体で側をうろちょろされたら、どうしたって意識せざるを得ないじゃないの」
「あはは、カワイイじゃん? きっと由利にステキって褒めてもらいたかったんだよ。それで?」
「いやいや、ガン無視だよ」
「あたし思うんだけど、常磐井君、由利のこと、本当に好きなんじゃないかな?」
「えっ、どうして?」

 美月には話さなかったけれど、由利はそれでも滝行のあとで凍えている自分を案じて、常磐井がさりげなく温かいお茶を勧めてくれたことを思い出した。

「だって、常磐井君って由利を見つめるときの表情がね、いかにもって顔をしてるんだもん。見てるこっちのほうが切なくなってきちゃう」
「まさかぁ。そんなロマンティックな柄ですか? あの常磐井君が? 何かの間違いじゃないの?」

 冗談を言いながら由利は、兄の治季から教えられたことを思い出して、息苦しさを感じた。

「やっぱり男の子って、由利みたいに女子濃度が高くなくて、それでいて外見が大人っぽい子に憧れるんだね。なんとなく透明度が高くて、ミステリアスな感じがするもの」

 美月は心底羨ましそうに由利を見つめた。

「何言ってんの。あたしなんて中学のとき『デカ女』ってさんざバカにされてきたんだよ。こんなあたしに誰が・・・」
「ううん、それは違うよ、由利。もうみんなそろそろ大人になりかけている。これまでの由利はいわゆる『醜いアヒルの子』だったんだよ。だけど今は羽根も生え変わってきれいな白鳥に変わったんじゃないかな。あたしさっきも言ったでしょ? 由利はきれいになったって。ある意味うらやましいよ、そんな由利が」

 美月が真剣な調子で言うのを、由利は目を見張って聞いていた。

「たしかにね、入学したての頃は、由利はスタイルこそ抜群だったけど、こうクソ真面目で堅そうだなって言う印象は否めなかった。だけど今は違う。それだけはハッキリ分かるよ」
「そうかなぁ。それ、褒め過ぎじゃない? 自覚はまったくないけど・・・」
「そんなことないって。美月サンの言うことを信じなさいって」
「ありがと。そんなふうに美月に認められると、あたしも少しは自信が持てるような気がする」
「で、やっぱり滝に打たれるって危険なの?」

 美月は急に話題を変えた。

「うん。最初は夏に滝に打たれるなんて楽勝じゃん、涼しくてサイコーって思ってたんだけど、滝の落差が十二メートルあって、落ちるときの水圧が半端なくてね、ずっと鈍器に殴られ続けているような感じで痛いのなんのって・・・」
「それで修行自体の効果はあったの?」
「う~ん、どうかな? 滝行って近くのお寺の行者さんが付かないとやれないもんらしくて」
「やっぱり危険なんだね」
「で、帰り際にその行者さんにね、あたしは大きな白い蛇に憑かれているって言われたの」
「えーっ! マジで? それでどうすることになったの?」
「まぁまぁ、白い蛇は神聖だから、悪さはしないって言ってたけど。だけど念のため肌身離さず付けていなさいって、お札をくれたの」
「ひゃあ、そりゃ、『サスペリア』なんて見に行けないはずだよ」
「でしょ? でも大丈夫。帰って来てからは、超常現象には今のところ遭っていません」




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境界の旅人 21 [境界の旅人]

第五章 捜索



 すさまじい地獄のような聖滝からの合宿を終えて戻ると、京の街はアスファルトから陽炎が立つほど熱く、今度は灼熱地獄にいるような気がする。

「あ、暑い・・・」

 たったの一週間しか留守にしていないのに、妙に家が懐かしかった。

「おじいちゃん! ただいま帰りましたぁ」

 玄関で孫娘の声が聞こえると、 辰造は機を織る手を止めて、走り庭の方まで顔を出した。

「由利か、おかえり」

「おじいちゃん、ただいま」

由利は冷蔵庫から麦茶を出して、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干した。

「どうやった、合宿は?」

「うん、やっぱり体育会系っていうか、武道家たちの集まりだけあって、結構ハードだった」
「そうか。まぁ、ほんなら夕飯まで自分の部屋でほっこりしとき。晩御飯はわしが用意するから」

 由利は申し訳ないと思いながら、祖父のことばに甘えた。



 ずっと自分だけには難しい顔をしていた行者が、帰りがけにマイクロバスに乗ろうとしている由利に声を掛けた。

「ちょっと、小野さん」

 行者は遠くのほうから由利に手招きをして呼びかけた。

「あ、はい」

 由利は行者にいい印象を与えていないのだと感じていたので、呼び止められたのは意外だった。

「小野さんね、ちょっとこっちまで来てくれるか?」

 行者は由利に声をかけたあと、門下生の男子にこう命じた。

「あ、君ら、わしは小野さんに少し話があるから、出発するのを五分ほど遅らせてくれるか?」

 人目の付かないところまで行者は由利を連れて行くと、懐から懐紙に包まれた短冊のようなものを渡した。

「これは、わしが小野さんのために書いた護符や。これをこれから必ず肌身離さず身に着けておきなさい。わかったね?」
「あ、わざわざ私のために? ありがとうございます」

 驚きながらも由利は行者にお礼を言った。

「本来、行者というものは頼まれてもいないことを人に為すことはないんやが、少し気になってね。脅かすようで恐縮なんだが、小野さんはどうも因縁が絡み合った業の深い生まれのようや。何か気が付いていたかね?」
「えっ、それは・・・はい。気が付いていました。四月に京都に引っ越してきたのですが、それからいろいろと不思議な目に遭って・・・。今回、門外漢だったあたしがこの滝行へ参加した理由もそれです」
「ふむ・・・。それはおそらくあなたのみ魂さんがこの土地に御縁があったからやろうな。あなたは要するに呼ばれたんやな」
「呼ばれた?」
「そう。それにあなたの身体には、うろこが銀色に輝く大きい蛇が空中を泳ぎながら幾重にも巻き付いて見えるんや・・」
「へ・・・び、ですか?」

 それを聞いて由利はぶるっと身体を震わせた。

「蛇と一言で言ってもいろいろあってな。非常に霊格の高いものもいる。神様として祀っている神社もあるくらいだ。ましてや銀色に輝いているのだから、小野さんに憑いているものは決して悪いものではないとは思う。むしろ非常に守られているとも言えるのだが、どうもな、何か引っかかるんでな」

 由利は不安な気持ちで行者の話を聞いていた。

「しかし人生を恐れてばかりではあかんのや。これからは努めて、正しい行いをするように心がけなさい。結局今生において善行を施して徳を積むことだけが、過去世に犯した罪障を消すんでな。まぁ、そんなことを急に言われても、小野さんには信じられないかもしれないが・・・。また何か困ったことがあったら、遠慮なくまたわしのところに来なさい。力になれることがあったら協力するから」
「あ、ありがとうございます。そんなに気にかけていただいて」

 由利は蒲団の上に転がりながら、帰り間際の行者とのやりとりを思い出していた。

「まぁ、蛇まで憑りついているのが行者さんに見えたのなら、そりゃたまげるよねぇ・・・」

 しばらくするとまたスマホのバイブレーターが鳴った。常磐井からだった。

「由利ちゃん、お疲れ~。もしかしたら道場の行衣持ち帰ってない?」

 また常磐井は第二の人格のものいいで尋ねてきた。
 そう言われてみれば由利は行者に気を取られて、うっかりしほりに行衣を返すのを忘れていたかもしれない。カバンを見ると、濡れたままの行衣が水着と一緒にビニール袋に入っていた。それを確認すると、由利は常磐井に返信した。

「あ、ゴメン。持ち帰っちゃったみたい。家でもう一度洗って、干してから道場まで届けるんでいいかな?」
「あ、届けてくれるの? サンキュ。こっちに持って来てくれるのは助かります。ぼくが由利ちゃんちに採りに行ってもよかったんだけど(笑)。別に急ぐものじゃないじゃないから、時間のあるときでいいから。道場のほうはいつも三時に開くので、それ以前なら自宅のほうにお願いします(^^♪」



 由利はわざわざこのために誂えた帖紙に、これまた祖父に押し付けられた菓子折りを風呂敷に包んで、常磐井の家に行こうとしていた。
 由利が洗濯機で洗濯して干した行衣をそのまま畳んで風呂敷に包もうとしたら、祖父に見咎められた。

「由利、よそさんからお借りしたもんを、そういうふうにぞんざいに扱うもんやない。そういうのは、貸してくれたその人の顔を下駄で踏むように失礼なことなんやで」
「え、じゃあ、おじいちゃん。どうしたらいいの?」
「面倒やと思うやろうけど、もう一度、糊がけしてキチンとアイロンをかけるんや。それから新品の帖紙にきれいに畳んで入れて、感謝の気持ちを表すために菓子折りのひとつも付けにゃ」
「ええ? だってあたし、常磐井君にはちゃんと合宿費用も渡したし、それでいいんじゃないの?」

 東京育ちで今どきのドライな考え方に慣れた由利は反論した。

「せやけどな、由利。よう考えてみい。むこうさんは道場さんなんやろ? それやのに、何の関係もない由利に声を掛けてくれはったんやから、先方さんのご厚意に感謝せな。それがご縁を繋ぐってことなんや」
「ご縁・・・?」
「そやで。この世間で一番大事なんはご縁やで。わしがこの歳でこうやって機を織っておられるのも、ご縁があったればこそや」
「そんなものなのかねぇ。うん、解ったよ。ありがと。おじいちゃん」

 ここは素直に祖父の言いつけに従った。



「ここらへんだっけな」

 203号系統のバスを出町柳で下車すると、由利はグーグル・マップを片手に常磐井の家を確かめていた。彼の家と道場は鴨川を越えて下鴨神社の近くにあった。
 由利は初めて下鴨神社の参道を通ったときの感動を思い出した。その感激は今も薄れていない。

この神社の境内に茂る森は『糺(ただす)の森』と言われ、この土地に平安京を定めるより以前、山城の国といわれていた頃よりもはるかに昔から生えている原生林なのだという。じりじりと照り付ける太陽も、ここだけは天然の天蓋のように鬱蒼と茂る背の高い木々に遮断され心地よい風が吹き抜けていく。さらに参道に沿って流れる小川のせせらぎも清らかで、ここだけは常な清澄な空気で満たされている。

 せっかく下鴨神社の近くまできたので、多少遠回りでも由利は途中までこの参道を通り、途中からそこを抜けて、常磐井の家へと向かった。

「えっと、三時までは道場は開いてないってことだから、ご自宅のほうへ行けばいいのね。きっと常磐井君のお母さんが出て来られるんだろうなぁ。ああ、何だか緊張する」

 由利は玄関の前でもう一度みだしなみを整えて深呼吸をした。すると突然玄関の引き戸が開いて常磐井が出てきた。どうも出かけるところだったらしい。

「あ、常磐井君!」

 すると常磐井は目を大きく見張って、由利を見た。

「ああ、あなたはいつぞやの! 桃園高校で見かけたクール・ビューティ! どうしたんですか、こんなところにまで?」

 それは常磐井ではなく、どうも兄のほうらしかった。常磐井の兄は小走りで由利のほうへ駆けてきて、由利が持っている荷物をさっと持ってくれた。間近でよく見ればたしかに常磐井とはよく似ているけれど、多少顔のパーツのニュアンスが異なる。

「ああ、常盤井君のお兄さまですね。こんにちは」

 由利は少し気遅れしながら、相手に向かって頭を下げた。

「えっとこの間、合宿に参加させていただいたのですけど、行衣をお返しするのを忘れていて・・・。それをお返しにあがりに・・・」
「ああ、そうなの? じゃあえっと、きみの名前は?」
「あ、小野です。小野由利といいます」
「ふうん。由利さんね。ちょっと待っててくれる?」

 常磐井の兄はもう一度玄関に入って、奥に向かって声を掛けた。

「叔母さん! 叔母さん! 悠季のお客さんだよ!」

廊下の奥のほうで「はぁーい」という女の声がする。常磐井の兄がこの家の主婦にあたる人に向かって『叔母さん』と呼び掛けるのを、由利は一瞬奇異に感じた。
 しばらくして奥からこの家の主婦らしい人が応対に玄関まで出てきた。小柄できれいな人だったが、あまり常磐井に似ているとは思えない。

 由利はあわててあらかじめ練習しておいた口上を述べた。

「は、初めまして。あ、あたし、常磐井悠季君のクラスメイトで小野由利と申します。この間は合宿にお誘いいただきまして本当にありがとうございます。今日はお借りしていた行衣をお届けに上がりました」

 すると主婦とおぼしき人は由利が息子のクラスメイトだとわかるとにっこりと笑って、行衣を受け取った。

「まあまあ、ご丁寧に。恐れ入ります。悠季はね、今度は高校の弓道のほうの合宿とやらで、長野のほうへ行って留守にしていますねんよ。何やしょっちゅう出たり入ったりしてせわしない子ですねん」

 常磐井の屈託のない笑顔に出会えるのをちょっぴり期待していただけに、少し由利はがっかりした。

「そうなんですか…。それでは常磐井君がお帰りになったらよろしくお伝えください。それからこれ、家の者がこちらさまへお渡しするようにと預かってまいりました。どうぞお納めください」

 ぺこんと由利はお辞儀をすると、風呂敷をさっとほどいて菓子折りを玄関に置き、相手のほうに手を添えて渡した。由利は内心、このときほど茶道を習ってよかったと思ったことはなかった。

「まあまあ、お気遣いいただいて、却ってこちらが恐れ入ります」

 常磐井の母親は、由利のきちんとしたあいさつに好印象を持ったようだった。それをすぐ傍で見ていた常磐井の兄がこう言った。

「叔母さん、ぼく、ちょうど家に帰るところだったし、ついでにこのお嬢さんを車に乗せて送っていくよ。こんなに暑かったらバス停まで歩くのも大変だろうし」
「ああ、治(はる)ちゃん。ほんならおことばに甘えてもいいやろか。こんなに暑いさかいなぁ。そうしてくれると助かるわ。ほな、小野さんでしたっけ? お気をつけてお帰りやす。こないに暑いところをほんまにおおきに」

 常磐井の母親ははんなりときれいな京ことばを話した。そして、「治ちゃん」と呼んだ常磐井の兄にもう一度声を掛けた。

「治ちゃん、お父さん、お母さんにもわたしからよろしく言っていたと伝えてな」
「うん、わかったよ。じゃあね、叔母さん。叔父さんや悠季にもよろしく」

 玄関を出たところで常磐井の兄は、少し改まった調子で由利に訊ねた。

「小野さん、これから少し時間が取れそうですか?」
「え? 時間ですか? ええ、まあ」
「このすぐ近くにわらび餅がめちゃくちゃおいしいお店があるんだけど、そこでお茶しませんか?」
 
 常磐井の兄が連れて行ってくれたところは、『宝泉』という茶寮だった。 

 茶寮と称される建物は新しく建てたものではなく元は普通に人が済む住宅だったらしい。だが京都の真ん中に建てられたにしては、庭も充分すぎるほど広く、しかも凝った作りだったので、古い建物を壊すことなく茶寮用に作り直したようだった。

表通りに面しておらず、奥まった住宅街にぽつんとあるので京都人だけが知っている秘密の隠れ家っぽい風情だが、それでも最近は「ぐるなび」などが宣伝しているせいで結構たくさんのお客で賑わっていた。
 由利たちは庭に面した奥の座敷に通された。中に通されると全館が夏向けの葦戸(よしど)に取り換えられ、それがいかにも目に涼し気に映る。だが実際それだけでは暑さをしのげるものではないので、きちんと空調と取り付けられていた。

 常磐井の兄は弟のように茶目っ気がない分、静かににこやかに話す態度はやはり大学生らしい落ち着きがあり、好感が持てた。

「最初にお見かけしたとき、小野さんが大人びたすごい美人だったから、思わず見入ってしまって、びっくりさせて申し訳ないです。それにしてもまだ高校生なのに、すっぴんでこうも完成された子っているんだなぁ」

「そんな。あたしなんか別に背が高いだけで、別段大したことなんかありません」

「あのときは不躾に声をかけて失礼しました。見ず知らずの男に突然あいさつされちゃったら、びっくりしたでしょう?」
「いいえ、あのとき後から常磐井君が歩きてきたんです。だから、なぜ常磐井君がふたりいるのって、そっちのほうに驚いてしまって・・」
「あはは、そうなんですね。でもこうして再び会えるなんて光栄です」

 常磐井の兄は静かな雰囲気の男だったが、会ったなりこんな気恥しいことばを難なく口にできるあたり、よほど経験豊かなプレイボーイなのかもしれない。由利はちょっと用心した。

「あ、ぼくは悠季の兄で、阿野治季(はるき)というんです」


 阿野という名前を聞いて、由利は心臓が跳ね上がるのではないかと思うほど驚愕した。

「え? 阿野・・・? 阿野さんとおっしゃるのですか、常磐井ではなく? でも治季さんは、常磐井君と実のご兄弟なんじゃないのですか?」

 驚きながら由利が問い詰めるのを聞くと、治季はハハハと笑いながら説明した。

「ああ。あなたはご存じないんですね。おっしゃる通り、ぼくたちは正真正銘、血の繋がった兄弟ですよ。第一そっくりでしょ? ですが常磐井の叔父、つまりこの人がぼくたちの母の弟にあたるんですが、この夫婦には長らく子供に恵まれなくてね。しかも道場をやっているんで、どうしても男の子の後継者が欲しかったんですよ。で、まぁ幸運なことにぼくも悠季も体格に恵まれて、武道をするための素養はあったものですから。でもさすがにぼくたちの実の父親に『道場を継がせるための跡取りにさせるから、長男を差し出せ』とは言えなかったみたいでね。それで次男坊の悠季が中学に上がるのを待って、正式に養子にして道場の跡を継がせることにしたんです。だから弟は小学生までは阿野悠季だったんですよ」
「じゃあ、さきほど治季さんが『叔母さん』と呼んでらした方は・・・?」
「ああ、あの人は要するに、叔父の連れ合いで、ぼくには義理の叔母にあたる人です。まぁ、弟は気を遣っているのかおふくろって呼んでいるみたいですけどね」

 由利は心に引っかかることを、用心しながら目の前の治季にそれとなく水を向けてみた。

「ご兄弟ともに『はるき』『ゆうき』って対になっているんですね。『それに季』っていう字も」
「ああ、治季に悠季ね。うちの家ってよくわかんないんですけど、昔は帝に仕える殿上人だったらしいんですよ」
「殿上人?」
「ああ、殿上人っていうのは、貴族でもランクがありましてね。たしか五位以上だったかなぁ、何でもその位がないと帝が住む御所には上がれなかったらしいんですよね」
「へぇ、そうなんですね」

 由利は治季に相づちを打った。

「ああ、それでまぁその時から、うちの家は代々、男には『季』っていう字をつけるのが、まぁ、一種の伝統っていうのかなぁ。うちの親父も実際、『煕季』と言うんです」

 由利は何喰わぬ顔をしながらも、びっしょりと冷や汗を掻きながらそれを聞いていた。

「京都ってこんなふうに伝統を守っていらっしゃるおうちが多くて、東京から来た新参者のあたしなんかはびっくりすることばっかりです」
「いやいや。何をおっしゃいます、由利さん。京都の人間は、それぐらいしか矜持を保つ術(すべ)がなかったっていうことですよ。実際ぼくらは、明治天皇がこの京都から江戸に行幸するときにさえ、随行されることを許されなかったんですよ」

 由利がどう返事をしていいのか黙っていると、助け船を出すように治季はまた話を元に戻した。

「でもね、ぼくたちの名前は、最初、『はるき』『ゆうき』ではなく、『はるすえ』『ひさすえ』って読ませたんですよ。それで母があまりにその読みは時代遅れだからって、途中でやめさせたって話です。戸籍謄本には名前の読みまで記載しなくてもいいらしいのでね」
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境界の旅人 20 [境界の旅人]

 こうやってどうにか滝行の一日が終わった。門下生の男子たちは腹筋で腹は割れ、首にも肩にも腕にも筋肉が付き、まるで全員が金剛力士のようだった。こんな男たちにとってもはや夏の滝行などはただの水遊びにすぎないらしい。由利のように騒ぎ立てる人間は誰一人としておらず、みな涼しい顔をしてシャワーでも浴びるかのように滝に打たれていた。あまつさえ滝行だけでは鍛え足りないのか、待っている間はたいていの人間は腹筋運動や腕立て伏せをして時間をつぶしていた。

「この人たち、同じ人間なの? 信じられない」

 自分と彼らの間に横たわる限りない基礎体力の差を思い知り、由利は密かにため息をついた。
 次の朝、起きてみるとしほりに言われた通り、体中が打撲したような痛みがあった。足の裏が何となくヒリヒリすると思って確かめると、踏ん張りすぎたせいなのか、ところどころ赤くなって水膨れができていた。

「ひぇ~、たったの一分のことなのに!」

 驚いている由利を見て、傍にいたしほりが言った。

「ああ、私も最初の年はそんなふうになったわよ。最後はずるりと全部足の裏の皮が剥がれたんだけどね」
「ええっ? 本当ですか?」
「まあ、何事も経験。私、小野さんが滝壺に入ったとき、この人はもう、恐怖に打ち勝ったんだなってものすごく感心したよ。見ていてわかったもの。結局ね、武道の効能っていうのは単に相手じゃなくて自分の弱さに克服することに尽きるのよ。こういう気持ちはね、社会に出たらあらゆる場面で必要とされる能力よ。たとえパワハラやセクハラする上司がいても、間合いを見て、堂々とことばで応酬することもできるようになるの。一歩自分を押し出す力が身につくのよ。だから今日も頑張りましょう」

 しほりはちゃんと由利のことを見ていた。それにそんなふうに激励されると非常にうれしかった。

 その日は昨日と全く同じ手順を踏んで滝行をした。だが昨日の滝壺に入った時点で、いみじくもしほりに褒められた通り、めそめそ泣きごとを言っても物事は好転しないと覚悟を決めてしまったので、昨日のような恐怖をさほどには感じなかった。
 二日目は朝に一回、昼に一回。その次の日は朝に二回、昼に一回と少しずつ行の回数を増やして、四日目には他の人間と同じように、朝二回、昼二回の行をこなせるようになった。しかも回数を増やしていくごとに滝に打たれている時間も、次第に長くなって途中からは皆と同じように五分ぐらいまで打たれていられるまでに進歩した。
 だが傍で指導している行者の由利を見る眼は、どこか厳しいものがあった。
 五日目までは、ほとんど何も変わらずただただ滝の水圧に耐えているだけの苦行に過ぎなかった。
 だが六日目になると、次第に恐れや痛み以外の何かが由利の心の中の空白に生ずるようになった。一瞬その正体を突き止めたと思うのだが、次の瞬間には空を切るように、するりと手の内から逃げ去ってしまう。由利は次第にもどかしさを募らせていた。


 しかし最終日の七日目の最後の行のときに、由利は目をつぶって「南無大日大聖不動明王」と唱えていた。だんだんと没我の状態になり、由利の意識は心の中の光っている一点に集中した。するとふっと意識が飛ぶのを感じた。



 気が付けばまた由利は、以前自分が気絶したときに見た時と同じ時間、同じ場所にいた。
 この間と同じように、由利は御簾が降ろされた大床に金や紅が鮮やかな繧繝縁(うんげんへり)の厚畳の上に座っていた。

「皆中(かいちゅう)! 各々方、中将さまが放たれた矢、二十本すべて皆中でござりまする!」


 大床の前の庭には、弓を持ち片肌を脱いだ男が遠くに立っていた。
この前はどう耳をすませても聞き取れなかったことばが、今の由利にはやすやすと理解できた。 
 そう、この男は「中将」だった。


「ほう、女御、そこもとのひいきの季温(すえはる)がまた、的中であるぞ」 


 自分の横に座っている帝も、今度は中将のことを「季温」と呼ぶのがわかった。

ーこの男の名は、季温というのか・・・ー 

 由利はだんだんと心が昂って来るのを感じた。

「まあ、主上(おかみ)。酷い言われようでございます。わたくしは主上の妃なれば、身も心も主上に捧げております」

 自分の横に座っている男に向かって 由利はやすやすと心にもない嘘をついた。

「はは、まあまあ。よいではないか。やつはそなたを自分の命を呈して窮地から救い出してくれた男ぞ。もそっとうれしそうな顔をしてもよいと思うがの」
「そんな・・・。主上。もちろんそれは、うれしいともありがたいとも思うておりますとも」
「さようか」

 帝は由利のそつのなさすぎる返答にぽつりと返したきり、しばらく沈黙していた。が、持っていた扇でどこか苛立たし気にぴしゃりと膝を打った。この男は自分と中将の関係にうすうす気が付いているのかもしれないと危ぶみ、由利は内心焦りを感じた。

「しかしそれにしても一度も外さぬとは、そつがなさ過ぎて小癪な奴じゃ。それでは今しばらく続けさせようかの。あと何回放てば、的を逸らすであろうのかの? のう、女御」

 帝のことばの端々に、中将に対する嫉妬がにじみ出ている。だが何事もなかったかのように、花のような笑顔でやんわりと帝を取り成した。

「主上・・・。しかしながら、もうよいではありませぬか。ご自分の大事な臣下を、それそのように試すような真似をなさらずとも」

 笑いかけると帝は思わずうっとりと自分に見惚れている。嫉妬に駆られていても、女御の美しさには平伏しているのだ。由利は自分の美しさの威力を充分に知っていた。

「ほれ、そこもとは何かと、あやつをかばい立てする。そこがどうも気に入らぬ」

 いかにもくやしそうに帝は、由利が中将の味方をすると腹を立てる。

「ほほ、お戯れもそこまでになさいまし。どうぞ主上からも褒めてやってくださりませ。すべては主上の栄えのためでございますよ。今日の宴に花を添えてくれたのです。ほかの殿ばらではこうはいかなかったでしょうから」

 由利は努めて声を抑えていたが、誇らしげな気持ちでいっぱいだった。

「おお、そうよ。季温は朕にとってたしかに大事な男。そうじゃの。女御の言うとおり、朕からもねぎらってやるとするか」
「それでこそ、わが君さまでござります」

 由利は頭を下げた。自分の想い人はこの帝も認めざるを得ないほど有能な男なのだと思うと、嬉しさと誇らしさで胸がはちきれそうになる。由利はまだ誰にも気づかれていない自分の膨らみつつある腹を、庇うように大きな袖で覆った。だが今は、この命運を懸けた秘密の恋を何としてでも周囲に悟られてはならない。由利は用心深くそばに控えている女房にそっとささやいた。

「さあ、阿野中将(あののちゅうじょう)を御前に連れて参れ。主上からお褒めのおことばがあるゆえ。妾(わらわ)からも褒美を取らせよう」

ー阿野中将ー

 自分が入っている女御の口からその名前を吐いた途端、由利は心がかき乱されるような気がした。これほど全身全霊で愛した人の懐かしい名前の響きを、なぜ自分はこれまで忘れてなんかいられたのだろうか。

「かしこまりました」

 しばらくすると阿野中将は大床の前に現れ膝をついた。

「主上、参上いたしました」

 帝はそれを聞いて、傍からはさも機嫌よく見えるように声を掛けた。

「季温よ、ようやった。さすがじゃ。それ、褒美を取らそう」

 帝は自分が今着ている着物を脱いで、それをそばの女房に渡した。

「主上から御衣(おんぞ)が賜りました」

 取次の女房が帝から手渡された衣をまた捧げ持ち、その男に手渡した。

「これは身に余る光栄!」

 拝領された御衣を押し頂きなら、阿野中将は深々とこうべを垂れた。

「ほれ、女御、なにかことばをかけてやれ。女御が口を閉じていては、季温も皆中にした甲斐がないというものじゃ」

 胸を高鳴らせながら、由利は中将を寿ぐことばを瞬時に探した。

「このたびそなたは、類なき弓の技でもって畏(かしこ)くも尊い主上を寿いだ。まことにめでたくも天晴なこと・・・。九重(宮中のこと)も二重(矢が二十本皆中したこと)の歓びに包まれておりましょうぞ」
「ありがたきおことば、身に沁みましてでございます。橘の女御さま」

 またしても中将は深々と頭を下げたが、ふいに御簾ごしに顔を由利のほうへ向けた。

「あっ!」

 目の前で見ている公卿の顔は、たしかに由利の生きている世界では知らない男だった。だが自分を見つめる瞳の中に宿る光は。

ーああ、あたしは忘れはしなかった。たとえ何度、姿や形を変えて生まれ変わろうと、この愛しい人を決して忘れるはずがないー


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こんにちは、作者のsadafusaです

もう、気づいていらっしゃる方もいらっしゃるかとは思いますが、
この話は『聖徴』の続編なのです。

もっと作品を楽しみたい! なになに? 知らなかった読みたい! と思われた方は
こちらのほうから!

https://note.mu/sadafusa_neo/n/n702354198f51?magazine_key=md221e51d5929

おかげ様で、大変ご好評をいただき、順調に売れております。

また、前回、この「境界の旅人」ですが、こちらのブログのほうの読者さまも
沢山ご購読いただきました。ありがとうございます!
このnoteは会員じゃない方も、簡単にお手続きでご購読できます。
お考え中の方は、この機会にぜひ!!


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境界の旅人19 [境界の旅人]

みなさま、こんにちは。

いつも『境界の旅人』をお読みいただきましてありがとうございます。

今回はちょっと訳がありまして、noteのほうからお読みください。


https://note.mu/sadafusa_neo/n/n8de664b45367
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境界の旅人18 [境界の旅人]

五章 捜索



 東京から京都へ戻って翌日学校へ行ってみると、美月が手ぐすねを引いて待ち構えていた。補講が終わる昼休みになると、わざわざふたりきりになれるように、日ごろは使われていない茶道部の顧問室に入り、中から鍵を掛けた。

「ね、ね、由利! どうだった?」

 美月は興奮にわくわくした調子で尋ねた。

「うん。お母さんの出張中に家探ししてみた」
「それで? なんかヒントになるものは出てきたの?」
「うん。確証はないんだけど、お母さんが当時勤務していた研究所の職員名簿が出て来てね、お母さんの恋人らしい人が載っていた」

 由利はそういいながら、スマホに収めた写真を見せた。美月はそれを見ると少し顔を曇らせた。

「あら・・・ん、いやあねぇ。白黒で小さいし、それにこれ、えらく不鮮明な写真じゃん。由利、こんなのしかなかったの?」
「うん、だけどまぁ、ラディと呼ばれる可能性があって、かつうちのお母さんと恋愛対象になりそうな年回りの人物って言ったら、この人ぐらいしかいなかったんだもん」
「ふぅん。これ、何て読むの? ラシッド・カハドラ?」
「Hは読まないんじゃない? フランス語表記だと思うし。ラシッド・カドゥラだと思うけど」
「ふうん。ラシッド、ラシッド。どこかで聞いたことがあったような。あ、ハールーン=アル=ラシードか! 千夜一夜物語の!」
「そうそう、アッバース朝に君臨した偉大なる帝王のことだよ」
「出ました! 由利って世界史好きだもんなぁ」
「何よ。日本史オタクには言われたくありません」
「あ、ゴメン、由利。怒んないで」

 由利の機嫌を損ねると肝心の話の先が効けなくなるので、美月は低姿勢で謝った。

「まぁまぁ、そうかしこまらないでよ、美月。でもさ、地中海に面した北アフリカのイスラム文化圏の国は基本的にアラビア語を使うらしいから、こんな名前の男性は今も昔も結構いるんじゃない?」
「ふうん、そうなんかなぁ。それで由利のパパがこの人だと一応仮定したとして、これからどうすんの?」
「うん。まぁねぇ。それが問題なんだよね」
「由利、Facebookでこの人の名前、検索してみた?」
「うん。だけどラシッド・カドゥラ(Rashid Khadra)で検索してみたらさぁ、意外とありふれた名前らしくて相当な人数が引っかかるんだよね」
「どれ?」

 美月は、由利が差し出したスマホを受け取ってその画面を次々とスクロールしていった。
「う~ん、検索人数六十七か。ン? こんなハゲ散らかした油ギッシュなおっさんなんか、問題外ね。厚かましい、何おんなじ名前名乗ってんの!」

美月は明らかに同姓同名の別人物に向かって、悪態をついていた。

「そうはいってもね、美月。ラディは今、四十五歳のはずだよ、この名簿によれば。そりゃあね、二十代は髪の毛フサフサでスレンダーでも、この年齢層になるとハゲでデバラのデブって可能性は大いにあるんだよ」
「まぁ、あっちの人は劣化が激しいって言うからねぇ」
 美月も一応それには同意した。
「でもさ、このオヤジは歳が五十八だよ。多少の誤差はあるとしても、コイツは始めから想定外でしょう」

 美月はスマホの画面の中の、陽気に笑っている何の罪もないラシッド・カドゥラ氏を思い切り愚弄した。

「まぁ、明らかに別人と思われる人を除外していって、その中からもしかしたらこの人はって思われる人にDMを送るしか方法はないかな?」

 由利は美月の叩いた無駄口にはまったく関与せず、最善の連絡方法は何かを熟考していた。
 
「うん、あたしもとりあえずそうするのが一番だと思う」

 美月は唯の真剣な面持ちに気圧されて、真面目に答えた。

「えっと、文面はどうしようか?」

由利は考えながら、美月に訊いた。

「そうねぇ、あんまり込み入ったことを見ず知らずの他人に教えるのも物騒だから、最小限の情報だけでいいんじゃない?」
「ん、じゃ、『今から十六年前に、あなたがフランス国立研究所の研究員だった場合、わたしにご連絡ください。お報せしたいことがあります』とかは?」
「え~、由利。それガチで怪しい……。まるでフィッシング詐欺みたいじゃない?」

 いったんとダメ出した後に、美月もしばらく沈思黙考していた。

「でもさぁ、これが本当に由利のパパなら、由利の苗字が小野ってのを見れば、すぐにピンと来るんじゃない? 玲子さんと何らかの関わりがある人物だって。これぐらいにしておいたほうが無難かもよ」
「そうだね……。とりあえずはこれでDM出してみるか。英語でいいよね?」
「いいんじゃない?フランス語なんて、いくらグーグル翻訳サマに頼るにしても、こっちはまったくフランス語がわからないんだからさ。グーグルサマがよく仕出かすトンチンカンな翻訳には、こっちは手の入れようもないじゃん? それに向こうからフランス語で返事が返ってきたりしたら却って面倒じゃん?」
「そうだよね。じゃあ、そうしよっかな」

 さっそくノートに英文を書いているとと美月は、さりげなく探りを入れた。

「ねぇ、さっき、田中春奈がね、由利と常磐井君のことで騒いでいたけど?」
「へ? 何て?」

 ドキリとして由利は美月に訊き返した。

「なんか由利のこと、清滝のほうへ自分を差し置いて、抜け駆けでデートへ行くって騒いでいたわよ」
「え~、耳ざとい! どうやって知ったんだろ?」
「じゃあ、本当なの?」
「ううん、清滝へ行くのは本当だけど、デートはデマ」

 美月は遠慮してこれ以上は訊いてこないだろうが、変に勘繰られても困る。由利は、ここはきちんと説明するべきだと判断した。

「ほら、前にも美月もあたしに指摘したことがあったじゃん? あたしが何か超常現象でも見えるんじゃないのって?」
「ああ、あったね。たしかに」

 美月は同意した。

「実はね、美月。あたし、最近本当に変なものが見えるんだよ」
「え、マジで?」

 美月は心底驚いたような顔をした。

「うん。だけどこういうの、京都に来てからだったんだよね。それでどうしていいのか分からなくて誰にも言えずに悩んでいたら、常磐井君も実は霊感っていうの? そういうのが強い人だったみたいで」
「常磐井君って霊感があるの? ガチで?」
「どうもそうみたいよ」
「それで彼は、あたしがそれに悩んでいるのが判ったみたい」
「そんなの、どうやったら判るわけ?」

 美月はちょっと意地悪な質問をしてきた。

「さあ、それは何とも。彼は元からそういう力が備わっていたみたいだし。よく解んないけど、霊能者独特の勘が働くんじゃない?」
「ふうん、そういうもんなのかな?」
「ま、それはともかく、彼の家って合気道の道場なんだってさ」
「なあに、常磐井君って合気道の家に生まれたくせに、その上、弓道もしているってこと?」
「どうもそうらしい」
「何で? 霊能力と関係あんの、それって?」

 美月は興味に駆られて、根ほり葉ほり訊いてくる。

「さあ。解んない。そんなこと訊いたことないもん。で、常磐井君がそういう超常現象みたいなのには『滝行』が効くって教えてくれたの。だから道場の人達と一緒に八月の頭に一週間ほど合宿に行かないかって誘われたんだけど?」

 由利は美月の前では、努めてさりげなくふるまった。

「合宿? じゃあ大勢で行くの?」
「うん。マイクロバスで行くって。中には女の子も何人かは混じっているらしいよ」
「ふうん。でさ、田中春奈は常磐井君をデートに誘ったら、断られたってめちゃくちゃ怒りまくってたよ。それは絶対に、由利の差し金だって」
「まぁ、あたしは田中さんに常磐井君にアタックすることは邪魔はしないって言ったけど、それに対して常磐井君がどうリアクションするかまでは、責任は持てないよ」

 唯はちょっと美月には憤慨したように答えた。春奈がたぶんこっぴどく常磐井に振られた場面を想像して、半ば春奈に同情しながらも心の中で喜んでいる自分がいることに、由利はひどく動揺を覚えた。

 こんなに醜い感情を抱いたのは初めてだ。

 だが心の奥底では理解していた、恋情というものがひとたび絡むと、人はこんなにも身勝手になれるものなのだと。



 由利は部室へ行く前に本を返却するため、図書室や職員室のある本館へと向かった。そのあと女子トイレへ入った。

 茶道部は図書室と同じ本館にある。普段本館にはほとんど人気(ひとけ)がないのだが、今日に限ってトイレには先客がいた。用を済ませ、由利は洗面所で備え付けの青い液体石鹸で手を洗っていた。すると先にトイレに入っていた人間も、手を洗いに由利の傍に近づいて来た。

「やぁ、小野さん」

 由利はその声に一瞬違和感を覚えた。そしてその声が誰のものかわかると、腰を抜かしそうになった。

「えっ、え! 小山部長!」

 由利は泡だらけの手で、小山のほうへ振り向いた。

「な、何で部長がこんなところにいるんですか! ここは女子トイレですよ!」

 由利が気色ばんで相手を詰問していると、部室からその声を聞きつけて、部員たちが何ごとかと駆けつけてきた。

「由利! どうしたの!」
「だ、だって小山部長が、男なのに、に女子トイレに入っていて……」

 部員たちは、本来なら当然糾弾されるべきはずの部長を責めるでもなく、かといって由利を慰めるでもなく、どう言うべきかを考えあぐねたように、むっつりと押し黙っていた。

「あー。小野さんは知らなかったんですね。おことばですが、ボクは、あなたが思っておられるような変態ではありません」 

 小山は妙に冷めた口調で説明しだした。こんな口調のときは、部長が激怒しているときだ。茶道部員は全員、身をもってそれを知り抜いていた。

「ボクは普段こういう恰好をしていますが、性別は女です」
「え、え? おんな…?」

 由利は目が点になった。

「だって、だって小山部長はどう見たって、お、男……じゃあないですか」

 ふっと小山は嗤った。

「ほらね、あなたが今言ったことばの中に、答えはすでに隠されています。現代社会で『男に見える=男である』という定義は、もはや成立しませんよ、小野さん。まぁ、ボクは身長が180センチありますからねぇ。体形も肩幅も男並みにありますし、どっちかと言えば、いかついほうです。だからでしょうか、ブレザーにスカートだとよく誤解を受けるのですねぇ、男が女装をしているって」

 由利は目だけを大きく見開き、凍り付いたように固まっていた。

「ですからブレザーにスラックスのほうが、ボクにとっても、見る側にとってもストレスがないんですね。つまりですね、ボクは本来生まれ持った性と合致する恰好をするより、男の恰好をするほうが無難なんだと、ある段階で気づいたんです」
「えっ? なっ…」

 小山は、唯にひとことも口を挟ませなかった。

「ですが男に見えるからと言って、ボクは心まで男だと認識しておりません。まだボクには恋愛経験がないんで、自分のセクシャル・ディレクション、すなわち性的指向も完全には把握しきれてはおりませんが、おそらくホモセクシャルでもなく、バイセクシャルでもなく、ヘテロセクシャルだと確信しています」
「セ、セ、セクシャル・ディレクションですか?」
「そうです。ボクはセクシャル・マイノリティの方々を差別するつもりはありません。ですが、自分は同性愛者ではないと、ここではっきりあなたに申し上げておきましょう。ですから性的倒錯趣味があってこのトイレを拝借していたのではなく、ボクは身体的生理欲求に従って、ここに入ったまでです」

 小山は憮然と言い放ち、茶道部全員の衆人環視の中でも、何食わぬ顔で手を洗った。

「皆さん、いつまでそんなふうにボケっと突っ立ってるんですか? さあ、お茶のお稽古を始めますよ」

 小山は部員を叱ると、さっさとひとりで部室へ行ってしまった。女子トイレには美月と由利だけが残された。

「由利、ちょっと大丈夫? まさか由利がまだ小山先輩の正体に気づいてなかったなんて。だけどまた気絶しないでね」
「・・・マジですか・・・。そんなの無理」

 そう言って虚脱したように由利はつぶやいた切り、ガクッとこうべをうなだれた。


 

 誰もがじっと見ているいたたまれない雰囲気の中で、お点前をやらされ、おそらく怒りが頂点に達していた小山の容赦ないチェックが止めどなく入り、その日の由利はボロボロだった。

「普通の人はだいたい小山さんに会ってしばらくすると、気づくもんなんだけどねぇ」

 今さらながら美月がまた、言い訳した。

「だって最初から男だって信じて疑わなかったんだから、仕方ないよ! 美月、どうしてそんな大事なことあたしに教えてくれなかったの? 今日ほど茶道部のみんなを恨めしく思った日なんてなかったよ!」

 泣きながら、取り返しのつかないことをやってしまったと由利は自責の念に駆られていた。

「由利・・・。小山さんは別にそれほど気を悪くなんかしていないよ。あとできちんと謝れば赦してくれるに決まってるって」

 美月は精一杯慰めようとした。しかしそれがかえって由利の逆鱗に触れた。

「もう、みんな嫌い! なんであたしだけが、バカみたいに本当のこと、知らされてなかったのよっ! ひとりだけ仲間外れにされていた気分だよ! 嫌い、嫌い! 美月も、理沙ちゃんも他の茶道部の連中も!」
「由利! 待ってってば!」

 美月が止めるのも聞かず、由利はひとり走り去っていった。



 由利は帰るなり、蒲団を敷いて寝床の中にもぐりこんだ。

「おい、由利、どないしたんや。調子でも悪いんか」
「うん」
怒気のはらんだ声で由利は返事をした。

「そうか、ほんならお汁とおかずを残しておくしな、お腹が減ったら食べるんやで」

 祖父はこういったことには慣れていると見え、あまり深く由利を追求しないでいてくれるのがありがたかった。 



 タオルケットにくるまって、混乱した気持ちを抱えながら目をつぶっていると、突然由利のスマホのバイブレーションが鳴った。取り上げてみるとLINEのアイコンに未読メッセージを示す②の赤いマークが付いていた。

「ん、誰?」

 泣いて帰ってしまった由利を気遣って、美月がメッセージを送って来てくれたのかもしれない。画面を開いて確かめると、意外なことにそれは何と常磐井悠季からだった。

「はろー、由利ちゃん。元気ぃ?」

 いつものぶっきらぼうな態度とはひどくかけ離れた文面に、由利はたまげた。しかもその下にはディズニーのオーロラ姫が投げキスをすると画面がハートで包まれるという、手の込んだスタンプが張り付けてあった。

「何これ? これ本当にあの常磐井君なの?」

 由利は信じられないものを見たかのように、画面に向かってつぶやいていた。

「こんにちは、常磐井君」

 半ばおっかなびっくりで由利は生真面目に返事を返した。するとすぐに返事は既読に変わった。

「由利ちゃん、滝に行く準備はできた?」

 一瞬これはLINEのなりすまし詐欺かと疑ったが、滝のことを話題しているので、どうやら本人に間違いなさそうだった。

「はい、水着はアシックスで競泳用の脚付き水着の黒を二枚買いました」
「そっか。滝行はうちの道場の毎年の恒例行事なので、行衣は道場でたくさん保管してるから大丈夫よ。夏の滝行といっても結構水は冷たいので、長袖の上着はマストアイテムよ(⋈◍>◡<◍)。✧♡  それじゃ体調を整えておいてね」

 それを見て思わず由利は吹き出した。

「別の人格に憑依されてるんじゃないの、この人?」

 しかし常磐井にこんなふうにメッセージを送られてきただけで、さっきまでの沈んだ気持ちが嘘のように晴れて来る。

「わかりました。当日はどうすればいいの?」

「ぼくんちの道場に八時に集合です。修行に必要な持ち物や道場へ行くまでの地図は添付しておきますので、それで確認してください。解らないことがあればいつでもLineして♪」




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境界の旅人17 [境界の旅人]

第四章 秘密



 由利は持っていた合鍵で、春まで自分が住んでいたマンションの一室のドアを解錠した。
 一階に常駐している管理人は、十二時から十二時半までの三十分間、全館見回りのため、入り口にある管理人室の席をはずす。万が一にも玲子の帰宅よりも前に管理人に出くわして、由利が家に入って行くところを不用意に見られたくない。管理人がいなくなったのを見計らって、由利は入口を無事通過した。
 
「はぁ、見つからずに済んだ。よかったぁ」

 また誰かに見咎められるのが嫌で、一応が外出せずに済むように、駅の近くのコンビニでおにぎりとジュースは買っておいた。
 玄関で靴を脱ぐ前に、由利は自分の長い髪を真ん中で二つに分けてツインテールにすると、そこからさらに三つ編みにして最後にゴムで留めた。

「まだ帰ってきてもいないのに、廊下や部屋にあたしの長い髪が落ちていたら、やっぱりそれはおかしいでしょ?」

 髪を束ねたあと、上り口を見るともう髪の毛が落ちている。

「ヤバイ、やばい」

 由利は持ってきたガムテープで玄関口をぐるりと用心深く拭いた。それをやはり用意してきたビニール袋に捨てた。
 几帳面できれい好きな玲子らしく、しっかりどの部屋も掃除がいき届いていた。特に由利が京都へ行ってからは、汚す人間がいなくなったので、余計にすっきりと片付いているような気がした。
 キッチンと続きのリビングに入ると、備え付けのリビングボードには由利が赤ちゃんの頃からこれまでの成長の記録として、節目節目に撮られた写真がずらりと並んでいた。

「あれっ、これは?」

 由利の見たことのない写真がきれいなフォトフレームに入れられて飾られていた。それは中学校の卒業式の日の由利だった。額の中の自分は、幾分気弱げに口角を上げて写っていた。撮影された日からほんの五か月ほどしか経っていないはずなのに、過去の自分がずいぶんと幼く思えた。


 このマンションは3LDKで、十二畳の大きなリビングと続きの六畳のキッチンがあり、そのほかに部屋が三つあった。ひとつは由利の部屋。もうひとつは玲子の寝室。中学校に上がるまで由利は、母の部屋に置かれたダブルベッドで玲子と一緒に眠ることのほうが多かった。完全にひとりで眠るようになったのは中学校へ入ってからだ。
 そして残されたもうひとつの部屋は、玲子の書斎だった。この部屋には玲子の仕事関係の書類、研究資料などが置いてあった。実は由利が小学校三年生ぐらいに勝手にこの部屋に入り込んだことがあった。それでパソコンをいじって大事なデータを吹っ飛ばしたのだ。それ以来玲子は用心のために、この部屋には施錠するようになった。

「まさかわたしがいなくなっても、鍵をかけてるってことはないよね、ママ?」

 そう言いながらぐるっとドアのノブをまわすと、思った通り鍵は掛けられておらず、部屋のドアは開いた。

「うは、やった!」

 由利はバンザイをしながら歓声を上げた。

「だけど、待って、待って。迂闊なことはできないんだからね」

 由利は慎重に玲子の部屋の書棚の段を、ひとつひとつカメラに収めて行った。そして念には念を入れて、最初にどのような状態だったのか、部屋全体の写真を撮った。

「ママがフランスに行っていたときの、職員名簿みたいなものがあればいいんだけど」

 由利は玲子の戸棚にそれらしきものはないかと物色した。横文字の本がたくさん入れられており、それをひとつひとつ引っ張り出してはみるものの、ほとんどなんらかの研究書らしく、難しそうな数式か化学式のようなものが羅列されていた。

「うわっ、何これ? 呪文みたい・・・」

 数学の不得意な由利は顔をしかめた。

「変だなぁ。何かあっても良さそうなのに・・・」

 玲子は悲しい思い出のよすがになりそうなものはすべて処分したのだろうか。由利はがっかりして玲子の机の椅子にどっかと腰を下ろした。

「あれから何時間、ここで本棚から本を出したり入れたりしたんだろ。さすがに疲れた・・・」

 ふと足元に視線を落とすと、机の一番下の引き出しをまだ開けてないことに気づいた。

「もしかして・・・?」

 由利は取っ手を引いて開けようとした。だが引き出しには鍵がかかっていた。

「うん! 何なのよ、これ!」

 由利は机に突っ伏して頭を抱えた。鍵はどこにある? 玲子は鍵を捨ててしまったのだろうか?
 いや、そんなはずはない。もしここにフランス時代のものが入っていたとして、鍵を捨ててしまう可能性があるだろうか。

「そんな。鍵を捨ててしまうくらいなら、あたしなら初めから何も残さずに処分してる。でも捨てきれないからこそ、こうやって残してあるんだし。それなら絶対に開けられるようにしてあるはず」

 その鍵は一体どこにあるだろう?

 由利は稲妻に撃たれたように、突然脳裏に閃めくものがあった。

「ママは昔あたしの乳歯が抜けたとき、きれいな外国製のそれ用の箱に入れていた・・・。えっとあれは・・・真鍮製で 箱の上にティンカーベルみたいな妖精がついていたような」

 由利が保育園に通っていたころ、乳歯が抜けると他の園児たちの親は、屋根の上に放り投げていた。

それは「今度は生えてくる永久歯が丈夫でありますように」というおまじないなのだが、玲子はそうはしなかったのだ。

「こんなかわいい歯を捨てられるもんですか」

 由利にはそう言いながら玲子が、抜けた由利の乳歯をその箱に入れていた、薄っすらとした記憶が蘇った。内側はきれいな緋色のビロード張りで、指輪の箱のように畝が作ってあり、そこに乳歯を差し入れ固定させるようになっていた。

「あそこに鍵が入っていたような気がする・・・」

 由利ははじかれたように立ち上がると、今度は玲子の寝室へ行ってクローゼットの戸を開けた。

「たしかママの慶弔用の真珠のイヤリングやネックレスをしまっている、日ごろめったに開かない引き出しがあったはず」

 クローゼットに備え付けられている引き出しは二重ひきだしになっていて、普段よく使う引き出しの後ろに、めったに使わない引き出しがあるのだ。由利は順番を間違わないように写真を撮った後、ひとつひとつ、奥に隠された引き出しを暴いていった。

一番下の奥の引き出しに、真珠のネックレスと共に妖精が付いた銀色の小箱が収められていた。

「神さま、お願いっ! どうぞ鍵が入っていますように!」

 そう言いながらふたを開けると、思った通り、小さい由利の乳歯のそばに鍵がひそませてあった。それを緊張にふるえる手でこわごわ掴んで、由利は机の鍵穴に差し込んだ。
 カチッと解錠の音がする。

「ビンゴ!」

 やはり由利が睨んだとおり、その鍵は机の鍵だったのだ。
 ドキドキしながら由利が机の引き出しを開けると、中にはほとんど横文字のものばかり入っていた。
 またもや写真を撮ったあとに、背表紙に印字されたタイトルを読んでいった。

「うへぇ、みんなフランス語だから、何て書いてあるのか、予想もつかないわ」

 だがその中に、ひとつの白くて分厚い年鑑のような冊子があった。由利はそれを見てピンと心に響くものがあった。

表紙には『Centre national de la recherche scientifique』と書かれてある。

「ん? Recherché って英語でいうところの、リサーチじゃないのかな。つまりこれって、英語に直すと『Scientific research national center 』って言う意味?」

 由利は自信がないので、グーグル翻訳を仏→英に直して確かめた。
 中をパラパラめくると、やはり研究者名簿のようだった。一ページには八人ぐらいの研究員ひとりひとり名前と写真が載っていた。

「だけどこんなに分厚い本の中を、どうやって調べたらいいの?」

 しばらく考えて由利はとりあえず、後ろの索引のほうを調べることにした。

「まずママの名前があるかどうかを調べないと」

 玲子は小野玲子だからOの索引で調べられるかどうか、それを確かめた。

「Ono, Reiko ああ、あった、あった。516ページか」

 516ページを調べると確かに玲子の写真と、フランス語で玲子の簡単な履歴と博士号取得時の論文のタイトルとその掲載誌名が載ってるようだった。

「これってどういう分類方法?」

 由利は見出しをの文字を読んでみた。

「Institut des sciences de l'ingénierie et des systems…? ママってそういえば『工学システム科学』ってところにいたって聞いたような気がする。多分ここがそうなんだ」

 由利はもう一度、芙蓉子がくれた写真を見た。

「あ、ここって」

 見出しの下に工学システム科学研究所の建物が写っていた。由利はじっとふたつの写真に写っている建物を見比べた。

「うーん、なるほど。ここって研究所の敷地内で撮られたものなんだわ。それじゃあやっぱり芙蓉子さんが言ってた通り、十中八九はラディはママと同じ研究所の同僚だったと考えていい。ふたりとも同じ職場で働いていたんなら、きっとラディもここにいるはず」

 玲子と同じ付近の写真を丹念に調べて行った。
「pierre? え、ぴ、ピエール・・・? 苗字は何て読むんだろ? いや、どっちにしろピエールなんて名前に用はないわ。これは? ギュスターヴか。違う、ラディのせめて苗字が判ればなぁ。こんなに苦労はしなくて済んだんだけどな」

 そうやってページをめくっていると一人の男の写真が目に留まった。

「え、この人・・・」

 名前を読んでみた。

「Rashid Khadra・・・ ラシッド・カ・・・ドラ?」

 自分が持参してきた芙蓉子から渡された写真を、ラシッド・カドゥラと表された人物の写真の側に置いて二つを見比べた。

「似てると思えば似てるけど、別人のような気もする。こんな小さな写真じゃ確信がもてないなぁ。でもラシッドって名前は、ニック・ネームとしてラディと呼ばれる可能性は捨てきれない」

 そしてカドゥラ氏のプロフィールに記載されている生年月日を見た。

「ママより三つ年上なんだ。とすると、この人は今四十五歳ってことか」

 とりあえず由利はその人物の写真と履歴の箇所を、何枚も写真に収めた。

「まぁ、解んないことは京都に帰ってから調べればいいし。収穫はあった」

 昼過ぎにこの家に入って来たのに、気が付けばとっくに時計は九時を回っていた。
 由利はともかく一旦玲子の部屋から出て、自分の部屋でコンビニで買ってきた、おにぎりとジュースを食べた。へとへとだったけれど、何かを食べると元気が出た。少し気力と体力が共に回復したところで、再び部屋に入り写真を慎重に確かめながら、まず研究者名簿を机の引き出しに元通りにしまい鍵を掛けた。その鍵を真鍮製の小箱に戻し、それをまたもとからあった真珠のネックスレスが入っている引き出しの箱に戻し、その引き出しをまた元通りの場所に収めた。由利は作業を黙々とこなしているうちに、何となしに入れ子状になっているマトリョーシカをひとつひとつ胎内に戻しているような気がして、ひとりで声に出して笑った。
 何もかも元の通りになっているかどうかを念入りに写真と見比べながら確認してから、最後にガムテープで丹念に自分の痕跡を消し去り、玲子の書斎から出た。

由利は思わず大きなため息をついた。

「ホントは泊っていきたいところなんだけど、やっぱり予定が繰り上がってママが突然帰って来たら大変だしなぁ。仕方ない。今日と明日はカプセルホテルで泊まるとしますか。あ、その前にラーメン食べに行こっと」
 由利は夜更けに再び、自分の家から外へ出た。
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境界の旅人16 [境界の旅人]



「あー、よく食べた。何食べたっけ? スープでしょ、前菜でしょ、サラダでしょ、それから当然スパゲティも食べたし・・・。それからビステッカを食べて、そうそう鯛のアクアパッツァも食べたんだっけ? 締めのドルチェはティラミスをふたつ食べたんだった~。あ~おいしかったぁ、幸せぇ・・・!」

 由利は芙蓉子に長らく自分が悩んできた出生にまつわる話を聞かせられた。どんな悲惨な真実が隠されているのかと思いきや、案外話は玲子の一途な純愛を証明するような内容だった。由利は安堵するあまり湧き出る食欲を抑えられず、バカ食いをしてしまったのだ。でも芙蓉子は「由利ちゃん、よかったわね」とニコニコして食べるのを見守ってくれていた。
 一気に解放されて気が緩んだせいか、どっと疲れを感じた。由利は家に帰ったなり、なおざりに蒲団を敷いてそのまま倒れこむように眠ってしまった。
 目が覚めて窓を開けると、まだ外は明るい。時計を見ると六時前だった。
 蒲団に入ったままでカバンを引き寄せ、中を開いてガサゴソと探ると昼間芙蓉子からもらった例の写真が入ったファイルを取り出した。

「これがもしかしたらというか、確実にわたしのお父さんにあたる人」

 由利はその写真をじっと見つめて、つぶやいてみた。

「パパ、初めまして。あたしが由利です」

写真の中の男は思いやりに溢れた優しそうな人物に見える。こんな人が無慈悲に自分の子供を妊娠している恋人を捨て去ったりできるのだろうか。由利は頭をひねった。

「ラディか・・・。それしか判らないのかな、本当に?」

 由利はふっと玲子が先日言ったことばを思い出した。

『ママね、七月の二十日までは学会でニューヨークに行かなきゃならないの。帰ってくるのが二十一になると思うから、それからにしてもらっていい?』

―ということは、少なくとも二十日はあの家にママは完全にいないはず・・・とすると?― 

 由利はニヤリと蒲団の中で笑った。



「暑いー。朝、温度計見たら、すでに二十六度あったよ。七月でこれだったら先が思いやられる・・・」

 朝食を食べながら、由利が開口一番にぼやいた。梅雨が明けた京都は猛烈に暑い。ただ暑いだけではなくてじっとりした湿気がどうにも気持ち悪い。

「まぁ、盆地やしな。仕方がないんや。」

 辰造はぼやく孫娘を慰めた。

「おじいちゃんがいつだか言っていた意味が解ったよ。やっぱり京都の家は、少しでも夏に涼しくする工夫がいるって。そうじゃなかったら、とってもじゃないけど住めないもん。だけどどうしてこんな冬は寒いわ、夏は暑いわってところを都にしようと昔の人は思ったんだろ?」
「そりゃあ、まぁ、桓武天皇に『ここに遷都しなはれ』と勧めた家来の和気清麻呂はんあたりに訊かんと、ほんまのことは判らんのとちゃうか? まぁ、風水的にここはよかったと言われとるみたいやけどな」
「風水?」
「そうや。この地はな、風水的に四神相応(しじんそうおう)ちゅう考えに適った土地なんや」
「四神相応? 何それ?」
「うん、何や知らんけど、北山からずっと山が連なっておるやろ? それが玄武、東山一体が青龍、そんで嵐山付近が白虎や。そんで今は埋められたけど南に巨椋池っていうのが昔あってな、それが朱雀や。土地に四つの神さんの力があるっちゅうて、ここを都にしようと決められたそうや」
「何だ、それ?」
「わしも風水や陰陽道のことは、よう知らん。がまぁ、そういう思想に基づいて、平城京から長岡京、そんで平安京に移されたっちゅう話やで」
「ふうん」

 由利は少し憮然とした様子で味噌汁をすすっていたが、おもむろに口を開いた。

「あ、おじいちゃん。あたしね、お母さんに会いに東京へ行ってくる」
「ふん、そうか」

 少しの間、ふたりには気まずい空気が流れた。玲子と辰造はまだ仲直りをしていないのだ。おそらくふたりともしようと思えばできるはずなのだろうが、ばつが悪くてそれもできないままでいるらしい。

「で、いつからいつまで?」
「えっとね。二十日から二十三日まで。だから二十日の日にここを出て行って、二十三日の夜までには帰ってくるから」
「そうかぁ。ほんなら気を付けて行きや。お土産はそうや、近為(きんため)の『柚こぼし』を買うといたるわ。玲子はあれが好きなんや」

 辰造は仲たがいしていると言っても、しっかり娘の好物は覚えていた。

 

 夏休みに入ってもしばらく学校は午前中に補講があった。そうでもしないと文科省が決めたコマ数では教科書全部の内容は網羅できない。だからその流れで昼食を挟んでその後は、だいたいの生徒は部活にいそしんでいた。

「ね、由利。あたしたちが映画を見ている間、うちのお母さんと話したんでしょ?」

 教室でお昼を食べながら、美月が興味津々といったふうに訊ねた。

「うん。美月、お母さんとあたしのセッティングをやってくれたんだね。サンキュ」
「で、どうだった?」
「どうって。芙蓉子さんから聞かされてるんじゃないの?」
「ああ、ダメダメ。あの人ああ見えて、口がめっちゃ堅いから。ただお母さんはさ、由利ちゃんは話が終わったあと、安心したのか、バカ食いしてたって笑って話してくれたから、結果的には明るい方向に行ったのかなって、あたしなりに忖度したんだよね」
「あ~、忖度、忖度ね! 大事だよね」

 由利は笑って言った。

「うん、結構びっくりなこといっぱいあった。でも一番良かったのは、わたしのお父さんらしき人の写真を芙蓉子さんが持っていて、それをあたしにくれたことかな!」
「へぇ! それって今持ってる?」
「うん。見る?」
「見る見る!」

 由利がカバンから写真の入っているファイルを取り出した。美月は待ちきれずにひったくるように由利からそれを取り上げると、食い入るようにその写真をのぞき込んだ。

「何これ! いや~ん、すてきぃ。ハンサムじゃーん!」
「そうかな?」
「そうだよ~。それで、それで? イケメンパパは何て名前なの?」
「ラディだって」
「ラディ? それしか判らないの? 何か犬みたいじゃん」

 美月は訝しげな顔をした。

「何よ、犬みたいって。失礼ねぇ」

 由利は軽く文句を言った。

「うん、うちのお母さん、どうも口が重いらしくてさ。親友の芙蓉子さんにさえ、きちんとした相手の本当の名前を言ってないらしいんだよね」
「ねぇ、それってさ、玲子さんに訊くわけにはいかないの?」
「本当はそれが一番いいんだろうけどね、だけど教えてくれるはずないだろうしな、今までのことを考えると」
「それもそうだよね」
「でも、あたしにはちょっとした作戦があるんだよね」
「どれどれ、どんな?」
「うん、今度東京に行ったとき、それを試してみようと思うんだ。もしそれが成功したら、美月に手伝ってもらうと思う。だから待ってて」
「う~ん、よく解んないけど、まあいいや」

 そこへ同級の茶道部員がやって来た。

「美月~。この間お茶会で使った建水どこへしまったの?」
「あれっ? 理沙ちゃんどうしたの? もとの場所に置いたはずだけどぉ?」
「うん、それがさ、探しても見つからないんだよねぇ。小山部長に今日はあれを使うからって言われてて、準備してるんだけどさ」
「え~、そうだった? 理沙ちゃん、ごめんね。おかしいなぁ、それじゃ今から探しに行くわ」

 美月は理沙と呼んだ女子生徒に謝ってから、由利に声を掛けた。

「じゃあ、そういうことだから。ゴメン、由利。理沙ちゃんと先に部室に行ってるわ」
「ん、じゃあ、美月。あとでね」

 美月はバタバタと弁当箱を片付けると、理沙と一緒に足早に去って行った。小山はいつも茶道具同士の取り合わせに細心の注意を払っているので、部員がちょっとでも自分の指示通りに動いてないと知ると、機嫌がとたんに悪くなる。だから周りの部員たちは小山のご機嫌取りに必死だった。
 由利は部室へ行く前に借りていた本を返そうと一旦、自分の教室のある棟を出て、図書室や職員室のある本館のほうへと向かった。



 放課後、由利が部室へ向かっている途中で、紺色の稽古着姿の常磐井を見かけた。
 いつもムスッとして愛想のない常磐井が、どういうわけか今は、目の前でぼうっと突っ立って、由利の顔を凝視していた。

「えっ?」

 あまりにありえない状況に、由利はびっくりして足を止めた。常磐井はハッと我に返ったようで、照れくさそうにさっと頭を下げると、その場からそそくさと立ち去って行った。

「何だろ。常磐井君、どうしちゃったのかしら?」

 不思議に思いながら歩いていると、また向こうから、先程反対方向へ行ったたはずの常磐井が、大股でスタスタと歩いて来る。今度はいつもの通りニコリともせず、目の端だけで由利を一瞥しただけだった。

「ええっ、ど、どうして?」

 驚愕のあまり、由利は思わず声を上げた。

「ん? 何だ、あんた。いきなり変な声を出すなよ」

 不審げな面持ちで常磐井が、由利の傍に近づいて来た。

「い、いやっ! こっちに来ないで!」
「小野、どうしたんだよ? 何かあったのか?」

 常磐井の真剣な表情を見て、やっと由利は目の前の人物が本物だと悟った。

「ち、ちょっと前に常磐井君にそっくりな人が通り過ぎて行って……。あ、あたしがさっき見た常磐井君って、一体……?」

 由利の顔がまた、恐怖に覆われていった。

「お、おい。小野。落ち着け、落ち着いてくれ」

 常磐井は恐慌を来し掛けている由利の両肩を揺さぶった。

「え?」

 由利と常磐井の視線と視線が重なった。由利の姿を映した常磐井の瞳には、単なる親切以上の何か切迫したニュアンスが感じ取れた。

「あんたがさっき見たのは、おそらくオレの兄貴」
「えっ? 兄…貴?」

 由利は狐につままれたような顔をした。

「そう。兄貴は今、大学の一回生だけど、ここのOBなんだ。オレと同じ弓道部だったんで、夏休みに入ったから後輩の指導に来ていたのさ。実際オレは兄貴とは三つ違うんだがな、他人が見るとそっくりに見えるらしい」
「そっくりなお兄さん?」
「そうだ。だけど性格は全然違う。兄貴は美人に目がないからな。だからどうせ、鼻の下を伸ばして、あんたに見惚れてでもいたんじゃじゃないのか?」

 常磐井の言う通りだった。

「さっきの人って、常磐井君のお兄さんだったの?」

 常磐井は呆れたような少し情けない顔をして、由利をしみじみと見つめた。

「あんた……」
「な、何?」

 こんなふうに至近距離でじっと見つめられると、由利はもう、どうしていいかわからない。カァっと頭に血が上っているのが自分でもわかる。由利は平静を保とうとぎゅっと目をつぶり、両手に力を入れてこぶしを握った。

「何してんの、それ?」

 目敏い常磐井は、面白がって由利の不思議な行動のわけを訊いてきた。

「自分を見失わないようにしているの!」

 由利は恥ずかしさのあまり、やぶれかぶれになって叫んだ。

「小野。あんた、案外、ドジなんだな」

 常磐井は突然こらえられないといったように、腹を抱えながら、笑い出した。

「だ、だって…もう、びっくりしちゃって」
「さっきのあんたの慌てふためいた顔! リプレイして見せてやりたいよ! ハハハ」
「あ、あ、あたしはまた、例の三郎の仕業かと……」

 三郎と言ってしまって、由利はハッと口をつぐんだ。急にふたりの間の空気が張りつめた。

「小野……。前々から気になっていたんだ。あんたも、もしかしたら、見えてるのかなってね」
「あんたもって、どういう意味?」

 由利は真剣に訊き返した。

「小野、見えるんだろ? 普通の人間には見えないものが」
「常磐井君……。ということは、あなたも見えていたのね、三郎のことが」
「あいつ……三郎って名乗っているのか」
「三郎のこと、知ってるの?」
「あいつは死霊だよ」

 常磐井は躊躇することなく断言した。

「死霊……?」

 由利も三郎が生身の人間ではないことはわかっていた。だが由利は、『死霊』ということばの重さに改めて愕然となった。はっきり死霊と認識することで、三郎と自分との間に決して超えることのできない境界ができたように感じた。

「おそらくあいつは、何等かの想念の力で動いているんだ」
「想念?」
「そうだな、三郎の命が尽きるときに、この世に残した未練や執着みたいなもの…かな」
「未練や執着……?」

 由利はかみ締めるように、常磐井の言ったことばを反芻した。

「小野、あんたはあいつになるべく関わらないようにしろ」
「関わらないようにしろって言ったって、別に好きでそうしているわけじゃ・・・」
「じゃあ、あんたの霊格を上げて、あいつに付け込られる隙を与えないようにしろ」

常磐井はこわい顔をして命令した。

「霊格? で、でも。だって、どうやって・・・」
「そうだな・・・」

 しばらく常磐井は考えていた。

「オレんちは実は合気道の道場で、夏の間は門下生の人間たちと一緒に滝行(たきぎょう)をしに行くんだけど、小野も一緒に来い!」
「滝行?」

 思いがけないことを言われ、由利は素っ頓狂な声で訊き返した。

「ああ。オレも中学生のころ、一時期変なのに憑かれて大変だったんだ。だけど滝行をやって一か月ぐらい経ったら、精神修養ができたっていうかな、精神のステージが上がるっていうんかな。それから大丈夫になったんだ。小野も一度試してみろ」
「それって、いつやるの?」
「まずはとりあえず、八月の頭に一週間かな。京都に愛宕山ってあるの、知ってるだろ?」

 由利は黙ってスマホを取り出すと、グーグル・マップで位置を検索した。

「あ、ここか。うん」
「ここに清滝川っていうのが流れているんだけど、その渓流に聖(ひじり)滝っていうのがあるんだ」
「聖滝? へぇ」

 由利は人差し指と中指を使って画面を拡大した。

「あれ? わかんなくなっちゃった」
「どれ、貸してみ」

 常磐井は由利の手からスマホを取り上げると自分が操作して、聖滝の場所を画面に出した。

「あ、ありがと」

 常磐井の意外な行動に半ば唖然としながら、由利は礼を言った。

「行くときはオレんちの道場から、マイクロバスで途中まで行くから。そこからは山を登って三十分ぐらいの行程かな」
「あたしみたいな門外漢も参加して大丈夫なの?」
「うん」
「ね、滝行ってどうするものなの? なんか白い着物みたいなのを着るのかな?」
「ん? そうねぇ。本来は素肌の上から着るみたいだけど、透けて見えるしな。せっかく世俗の垢を落とすために滝に打たれに来たのに、そんなのを見ちゃうと男どもはかえって煩悩を掻き立てられるわなぁ。ハハハ」
「ちょっと常磐井君! 人が真剣に質問しているのに!」
「いや、ワリィ、ワリィ。小野があんまり思い詰めているみたいだったからさ。ちょっと気分をほぐしてやったほうがいいかなって思って」
「何それ? 全然フォローになっていない気がする」

 由利は怒った口調でいったが、それでも常磐井が親しく話しかけてくれるのが内心うれしかった。

「ああ、滝行に参加する仲間のうちには女子たちも二三人いるから大丈夫。みんなスクール水着を着て、その上から水垢離用の行衣を着てるよ。大丈夫、安心して」

 そして常磐井は由利のスマホの画面を一旦閉じると、今度はキーパッド画面を出して、ぱぱぱと素早く数字を打ち込んだ。途端に今度は常盤井の胸に付けられた胴着のポケットから、ブーンブーンとバイブレータの音が鳴り響いた。常磐井は自分の電話番号を由利のスマホからかけたらしい。にっと笑って発信番号を切ってから、スマホを由利に返した。

「ハイ、これでお互いの電話番号がわかりマシタ。小野、あとからきちんとオレの電話番号を登録しておけよ。そしたらお互いのLineが無事開通するから。まぁ、聖滝行きのことでわかんないことがあったら、オレにLineして。ま、別に何にもなくてもLineしてくれると、もっと嬉しいけど」
「え?」

 勝手に言いたいことだけいうと、常磐井は「じゃな」と手を挙げて弓道場のほうへ去って行った。


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境界の旅人15 [境界の旅人]



  ひとりきりで由利が校門から外へ出ると、プップーと車のクラクションが鳴った。音はマスタード色のゴルフから出されたものだった。

「由利ちゃん!」

 美月の母親の芙蓉子(ふゆこ)がドアのガラスを引き下げて由利の名前を呼んだ。

「芙蓉子さん!」

 由利は驚きながらも、芙蓉子の車のほうへ駆けよった。

「由利ちゃん、お昼まだでしょ? これから一緒に食べない?」
 にっこり笑って芙蓉子が誘った。

「ええ? いいんですか?」
「もちろん」

 美月が自分との約束をきちんと守ってくれたと、このとき由利はようやく悟った。

 
芙蓉子が立寄った先は、鴨川が一望できるしゃれたイタリアンの店だった。
川に臨む窓は大きなガラス張りになっていて、店内は明るい光で満たされていた。ふたりは案内された窓際の席に着いた。

「しばらくは雨ばかりだったけど、今日はお天気がいいから気持ちいいわね」
「ホントですね。川面が太陽にあたってキラキラ輝いていて・・・」

 外は身体にまとわりつくような暑さだったが店内はエアコンでほどよく除湿されているとみえ、カラッと乾いて気持ちがよかった。

「由利ちゃん、あなた何にする?」

 芙蓉子は手元のメニューを見ながら、、向かいの席に座った由利に訊ねた。だが由利は食欲などこれっぽっちもない。カラカラになった喉の渇きを癒すために、注がれたグラスの水を、ぐっと一気に飲み干した。

「ここはね、全般的にお食事もおいしいのだけど、お野菜がすべて地元の京野菜だけを使っているのよ。サラダがとってもカラフルできれいなの。これを是非由利ちゃんに食べさせてあげたいなって思って」
「へぇ、そうなんですね。それはとっても楽しみです」

 由利はまったく上の空で、機械的に口を動かしているだけだった。

「由利ちゃん、緊張しているの?」

 芙蓉子はそんな由利を気遣って、口許に少し笑みを浮かべた。

「え・・・あ、は、はい」
「ふふ。大丈夫よ、由利ちゃん。ちょっと深呼吸して。息を止めているじゃないの!」

 由利は言われた通りに大きく息を吸って吐き出した。

「いい? よく聞いて、由利ちゃん。これから私が話して聞かせる内容は、あなたがたぶん想像しているような恐ろしい秘密なんて、一切ないわ。玲子が性的に不品行だった結果とか、フランスに行って知らない男に乱暴されたとかそういうことはないから。だから安心しなさい」

 それを聞くと急に力の入っていた全身が一気に弛緩し、由利はぐったりと背もたれにもたれかかった。

「玲子からはお父さんのこと、どのくらい聞かされているの?」
「全く聞かされていないです。あたしの父親は行きずりのムスリムの男だったとしか・・・」
「ま、玲子ったら。そんなことを言ったら由利ちゃんがものすごく傷つくでしょうに。そんなこともわきまえていないなんて、困った人ね」

 やれやれといった調子で芙蓉子は首を振った。

「え、それじゃ、そうじゃなかったんですか?」
「もちろんそうよ。まぁまぁ、由利ちゃん、落ち着いて。ひとつひとつ話していってあげるから。あのクソ真面目な玲子が行きずりの恋なんて器用なマネができるはずないじゃないの。それは真っ赤な嘘よ」
「じゃ、なんで!」
「たぶん玲子は、あなたのお父さんと別れたことにものすごく打ちのめされて、まだその痛手から立ち直り切れてないのね。きっとその人のことを未だに愛していて、忘れられないのじゃないかしらね。だけど玲子は、もしそんな弱音をうっかりあなたの前で吐いてしまったら、もう二度と自分が立ち直れなくなるって思っているのかもしれない・・・」
「え、そんな」

 母親の親友だった芙蓉子から、母親の親友から、今まで思いつきもしなかった母の一面を聞かされ由利は戸惑った。ことばに詰まっていると、芙蓉子はカバンから一枚の写真を取り出した。

「これはね、玲子のフランス時代の写真。大学院を出てすぐに渡仏したときだと思うから、まだ二十四、五歳ぐらいの頃よ」

 由利はテーブルの上に置かれた写真を手に取ってまじまじと眺めた。

 どこかの白い建物の庭らしきところで、玲子が見知らぬ異国の男と一緒に写っていた。写真の玲子は生真面目な中にもどこかはにかんだ表情をして微笑んでいた。だが何より由利を瞠目させたのは、一緒に写っている若い男の玲子に対するしぐさだった。男は背後から玲子の両肩に両手を添えていた。そっと包み込むように肩に置かれた手の表情。それが何よりも雄弁にふたりの関係を物語っていた。

「この人・・・、いくつぐらいなんだろ?」

 写真の中の異国の青年は、いかにも育ちの良いエリートといった感じの、誠実そうな人間に見えた。

「そうね、玲子とそんなにいくつもは離れてはいないんじゃないかしら。まだ青年って感じだもの」

 ウェイトレスがアミューズとして聖護院蕪のスープを運んできた。

「ほらほら、由利ちゃん、食べて。食べて」

 由利は思っていたより自分が生まれた真相が悲惨な展開にならずに済んだのがわかって、少し食欲が戻って来た。サーブされたきれいな器に入ったスープを一口飲んだ。

「おいしい・・・」
「そうでしょ? きっと喜んでくれると思ってたわ」

 芙蓉子は優しく微笑んだ。

「玲子はね、フランスに行ってから私に『好きな人ができた』って言って、この写真を添えて手紙を送って来てくれたのよ。私が知る限りこの恋は、玲子にとって最初で最大のものだったと思うのよ。だいたいあの玲子が写真を送って来るだなんて。手紙の中でこの人のことを『ラディ』って呼んでいるの」
「ラディ? それはニック・ネームですよね?」
「おそらくはね」
「ママは相手はムスリムだって言ってたけど・・・。この人ってそうなのかな?」
「どうかしら? まぁ、ラディってあんまりフランス語っぽい響きがないのはたしかよね。でもフランスは第二次世界大戦までは北アフリカを植民地に持っていたから、イスラム圏の出身の人も結構多いの。それを考えあわせればこの人は、彫りが深くて肌も白いから、おそらくチュニジアとかモロッコあたりの出身じゃないかとも思うのよ。あるいはそんな人を親に持った二世か三世かもしれない」
「他には・・・? 芙蓉子さん、何かご存じのことってあるんですか」
「ごめんなさい、由利ちゃん。あとはその人が当時は玲子と同じ職場の同僚だってことぐらいしか・・・。あなたのお父さんに関しては、それぐらいしか知らさられてないのよ。玲子はとにかく小学生の頃から自分のことをペラペラとしゃべる子じゃなかったの。特にこんな自分の恋に関してはなおさらね」
「どうしてなんだろう?」
「たぶん、一途で内に秘めるタイプなのよ。由利ちゃんだって好きな人ができても、おそらく美月にだって即刻報告しないタイプに見えるけどな、どう?」
「それは、たぶんそうです・・・ね」
「ね? 結構古風なのよ、玲子も、由利ちゃんも。でも玲子はこのラディに相当夢中だったんだと思うのよ、今にして思えば」
「そうですか・・・」

 由利は沈んだ声で言った。

「でもね、由利ちゃん。玲子とあなたの父親にあたる人との間に何が起こって別れたのかは、たしかに私にもわからない。だけど一時であるにせよ、ふたりは本当に愛し合っていたことは真実よ。あなたは玲子とあなたのお父さんにあたる人が真剣に愛し合った末に生まれた子なの。だからあなたは自分の出自や玲子がシングル・マザーであることを恥に思う必要はないのよ。堂々としていらっしゃい」

 由利はそれを聞くと思わず、ぽろぽろと涙を流した。

「芙蓉子さん、あたし・・・ずっと母のお荷物なんだと思っていたんです。心ならずも妊娠したことをずっと悔やんでいるんじゃないかって。母はあんなふうに責任感の強い人だから、自分の中に命を授かったことを知って、使命感からあたしを産んでくれたんだろうって。でもあたしが生まれていなかったら、きっと母はこんなに苦しむこともなかっただろうって思っているのは辛かった・・・」
「由利ちゃん・・・。ずっとひとりで重いものを抱えて悩んでいたのね、可哀そうに。でもそうじゃない、そうじゃないのよ。真相は反対よ。おそらく玲子はきっとあなたがいなかったら生きていけなかったと思うわ。あなたを一人前に育てることが玲子の心の張りや支えになってきたと思うの。だけど玲子は不器用なところがあるから、自分の弱みを娘に見せられなかったのね」
「ふ、芙蓉子さん」

 由利は涙で顔がぐしゃぐしゃになった。芙蓉子さんは黙ってバッグからタオルハンカチを渡してやった。

「玲子はね、ある晩、大きなお腹を抱えて、私に会いに来たのよ」
「それはどういう?」
「玲子は大きな声で泣いていた、泣いていたの」

 芙蓉子は当時を思い出すように言った。

「どうしたの?ってわけを聞こうとしても玲子は『ラディとは結婚できなくなった』と答えてくれた以外は何も教えてくれなかった。だけどおそらく、私を頼るしか他に当てがなかったのね。玲子は私に手をついて頼んだわ。『お産をする間だけ、傍について欲しい』って」
「それで芙蓉子さんはどうなさったんですか?」
「私? 私もそのときすでにお腹に美月がいたの。だから女ひとりで子供を産まなければならない玲子の心細さは、痛いぐらい分かったわ。だから当時私が通っていた産院で、あなたを産むことができるように手続きをとって。幸い私の母の実家が山科にあって、祖母がその春に亡くなって空き家になっていたのよ。母に頼んでしばらくは玲子にそこで静養してもらっていたわ」
「え、本当に?」
「そう、そしてあなたが生まれて一か月になるのを待って新幹線に乗れるようになると、ふたりで東京へ戻って行ったわ。たぶん玲子はあなたの面倒を見てくれる保育園を捜した後、復職したんでしょうね」
「そうだったんですか」
「ええ。玲子にしてみれば、高校を卒業したあと、お父さんと大喧嘩して京都を飛び出したわけでしょう? 女ひとりでも生きて見せるって啖呵を切って家を出たのに、フランスで恋に破れて父親のいない子を出産しにおめおめと戻るなんて虫のいいことができなかったんでしょうね。私の母もそこらへんの事情をよく知っていたからね、玲子を可哀そうに思ったのか、山科の家に滞在することを承知してくれたの」
「そうだったんですか・・・。あたしそんなこと全然知らなくて」

 自分の出生にまつわることで思ってもみなかったドラマが展開されていた。そしてどういう偶然からか恩人であるこの人とそれとは知らずに再会していた。由利は運命の力に感動していた。

「ふふ。そうそう、由利ちゃんの名前を付けたのは、実はこの私なのよ」
「ええっ? そうだったんですか!」

 由利はまたひとつ思いがけない事実を知らされて、目を大きくまん丸に見開いていた。

「そうなのよ。生まれたばかりの由利ちゃんは色が透き通るように白くってね。ハーフの赤ちゃんって新生児の間は髪も金色で瞳も青みがかっているの。それが本当にきれいで可愛くてね。それでね、あなたが生まれたとき、産院のロビーに立派な鉄砲百合が何本も活けてあったの」
「鉄砲百合・・・?」
「ええ、鉄砲百合よ。それはそれは、真っ白で、凛としていてね。その花を見ているうちに赤ちゃんのあなたの姿と重なって見えたの。この子もこれから生きていく先々でいろんな困難が待ち構えているだろうけど、こんなふうに気高く毅然として、一本芯の通った女の子に育って欲しいと思ったの・・・。それで玲子に「ゆり」ってつけたらって提案したのよ」
「へぇ。そうだったんですね。じゃあ美月はおそらく・・・」
「そう、生まれたとき、月がね、満月できれいだったから」
「ふふふっ、あたしたちのネーミングの理由って結構単純なんですね」
「あら、名前なんてものはね、それぐらいでちょうどいいのよ。だけど由利ちゃんが名前に違わず、きれいな女の子に成長したのを見てうれしかったわ」
「そんな、あたしなんて」
「あら、何を言っているの、由利ちゃん、もっと自信を持ちなさい」
「でも・・・あたしなんて……こんなふうにあり得ないほど背が高くて…。この間も男子にからかわれて…。そういうのが、本当に嫌で…」
「由利ちゃん、ダメよ。自己憐憫は」

 今まで優しかった芙蓉子は、急にピシリと厳しい態度をとった。

「自己憐憫ですか?」
「そう。自己憐憫なんてまっとうな人間が最も犯してはならない愚行よ。きちんと自分と向き合って冷静に分析することも努力もせずに、可哀そうだなんて自分を甘やかしてはダメ」

 そう言われると由利は途端にしゅんとなった。

「背の高さなんてものは所詮、相対的なもの。たしかに由利ちゃんの身長は、ここ、日本では男並みに高いのかもしれない。だけどそれが一体何? きっとあなたのお父さんの国に行けば、女としてはやや背が高いかなって程度よ。あなたの悩みはフランスやイギリスへ行った時点で瞬時に解消されるの。それに北欧に行けば身長が百八十センチを越した女性なんてそこら中にゴロゴロしてるわ」
「そうなんですか!」
「そうよ。背の高さが自分を卑下する理由になんかならないわ。いい? そんなことで悩んでいること自体ナンセンスよ。そもそも美しさなんて時代と場所が変わればびっくりするくらい変わるものなの。そんなものに一喜一憂しているなんて馬鹿らしいと思うわ」
「・・・たしかにそうですよね」
「いい? よく聞いて。どんなに自分がすばらしいと思われる資質を持っていたとしても、当の本人がそれを認められなかったら、人の賞賛も心に響かないものよ。たとえば世の中の人にうらやましがられる金髪だって、それが美しいと認められない人は真っ黒に染めるものなの」
「え、そうなんですか?」

 それを聞いて由利はびっくりした。天然の金髪は人類の2パーセントしかないと何かで読んで覚えがある。たいていの人は憧れて金髪に染めるものだが、せっかく人もうらやむ金髪に生まれながら黒髪に染める人もいるなんて。

「そんな人は自分の良さが認められなくて、ないものねだりするのね。由利ちゃん、今のあなたがそうよ。あなたは長所をたくさん持っている。まずはその長所に自分自身が気づいてそれを認めてあげなくては」
「でも・・・何をやってもママには適わないし」
「ふふ。そういうところ、玲子にそっくり。よく玲子も高校生のころはそう言ってひがんでいた」
「ええっ、ママが?」
「そうよ。玲子だって高校生の頃は、自分の才能も、自分の美しさも、何にも気づいていなかったわね」
「でもママは・・・あたしなんかと違ってものすごく頭が良くて」
「それは違うわ。玲子は努力の人よ。高校に入ったときの成績は、実はこの私のほうが勝っていた。でも帝都大を目指すって決めてから、血のにじむような努力をしてきたのを私は知っているわ。だからその姿に心を動かされて周りの先生やクラスメイトも助けてやろうって気にさせたのよ」
「そうなんですか?」
「ええ、そう。そうなのよ。人間は意志の力が運命を左右するの」

 そのことばは由利の心に直に入って行って、慈雨のようにうるおした。由利はまた涙がじわりと出てきた。

「ありがとう、芙蓉子さん。あたし、もうちょっと自分のことを大事にしようと思います」

 それから何かが吹っ切れたのか、由利は芙蓉子が仰天するほどよく食べた。


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境界の旅人14 [境界の旅人]

第四章 秘密



 期末試験も残すところあと一日になった。三時間目で今日の試験が終わって、家に帰るとLineに未読のメッセージが入っていた。玲子からだ。

「今日は十時ごろには手が空くので、必ず電話してね」

ユーモアのセンスに乏しい玲子が選んだにしては可愛いスタンプが、メッセージの下に一緒に付けてあった。

 風呂に入ってから、軽く浴室を冷水で掃除したあと、時計を見れば十時を過ぎていた。由利は玲子に電話をあわてて電話をかけた。

「もしもし、ママ?」
「ああ、由利、元気にしてる?」

「うん」

 嬉しそうな玲子声が聞こえる。最後に電話してから二週間以上、間が空いていた。


「由利、学校はいつから休み?」
「えっと、今月の半ばぐらいかな」
「じゃあ、学校が終わったら、一旦、顔を見せに東京へ戻っていらっしゃい。久しぶりに親子水入らずでおいしいものでも食べましょうよ」
「うん!!!!!」
「それからショッピングにでも行ってお洋服でも買ってあげようかな。好きなのを買いなさい」
「わーい、ほんと?」
「ええ。由利、おねだりしていいわよ」
 玲子もひとりきりで寂しくなったらしい。
「いつ帰ろうか?」
「あ、そうだわ」
 玲子が思い出したように言った。
「言った傍から申し訳ないんだけど、ママね、七月の二十日までは学会でニューヨークに行かなきゃならないの。帰ってくるのが二十一になると思うから、それからにしてもらっていい?」
「二十一日? その日に成田に着くってこと?」
「時間はまだわからないけど、たぶんその日は遅くなると思うのね。だからそうね、二十二日以降にしてもらえると助かるんだけど・・・。由利は何か予定があった?」
「うん、たぶん部活が毎日入っているはずだけど、いいよ、そんなの。家庭の事情だし。ママは休みが取れそう?」
「そうね。じゃあ、二十二、二十三と休みを取らせてもらえるよう、職場に掛け合ってみるわ。何かあったらまた連絡するから」
「うん、ママも。いくら若く見えてもトシなんだから無理は禁物じゃぞ」

 お道化て由利が、母親を労わった。

「あはは、そうよね。ママもオバサンらしくおとなしくしておくわ。ありがと、由利。こっちに来るのを楽しみにしているから。それまで風邪をひかないように大事にしていてね。じゃね。おやすみなさい」
「うん、ママもね。おやすみなさい」

 玲子との電話での会話は、女同士につきもののだらだらとした長話もなく、実にあっさりとしたものだった。
 そのあとスマホのカレンダーアプリに帰省の予定を記入して、由利は明日の地理のテストの勉強をするためにノートと教科書を開いた。


 由利にとっては三郎の存在自体が、ひとつの大きな謎だった。
 三郎は自分のことを「時間と空間がお互いに絡みあわないように、まっすぐ進んで行くのを見張っている、ポイントごとの番人」だと説明した。

 美月は「椥辻(なぎつじ)三郎」と会話したことなどすっかり忘れていた。いや単に「忘れた」というより、まったく覚えていない。三郎が何らかの方法で美月やクラスメイトの記憶を改ざんしてしまっている。

「時間と空間の番人・・・。それって一体どういう意味よ?」

 まったく信じがたいことだが、その段で考えていくと、三郎は普通の人間ではないということになる。
 いつから番人になったのかは知らないが、少なくとも昨日や今日ではないはずだ。それならいつぞや『昔を偲んでいた』というセリフも理解できる。過去のある時点から何かをきっかけにして、必ず死ぬ運命にある人間を超えた存在として、三郎が今日まで生きてきたのであれば。
「三郎は、あたしのことを『土地の感情をゆるがすような要因がある』存在かもしれないって言ってた。それってどういう意味なんだろう? 解らない・・・そんなの解るはずがない」
 由利は京都に来てから自分の身の回りに起こった超常現象を、ひとつひとつ思い返してみた。
 最初は京都に来たばかりのとき、まず御所の近衛邸で妖怪たちに襲われた。
 三郎は化け物たちのことを、煩悩が強すぎてこの世にとどまっている者たちだと言った。由利はそのとき、何かのはずみで物の怪たちが棲息している次元のチャンネルに合ってしまったらしい。これは一応三郎の説明で納得できる。
 そしてふたつめは、中世の京(みやこ)に魂だけがタイムスリップしてでその時代の女御の身体の中へと入ってしまった。女御はおそらく帝の臣下と道ならぬ恋をしていた。
 最後のみっつめは、第二次世界大戦直後の京都へタイムスリップしたこと。
 この三つは、状況が似ているようで似ていない。 

 由利はふと弓道部を見学した日のことを思い出した。
 由利と美月が一緒になって三郎と話していたとき、常磐井が三郎に一瞬向けたあの険しい目つき。三郎を見たときの常磐井の反応はいつもと違い、明らかにおかしかった。たぶん常磐井は、三郎が尋常な人間でないことに勘づいている。

「あのとき、常磐井君は実はあたしと美月を三郎から引き離したくて、弓道部の見学をしろって言ったんじゃないかな?」

 地理の教科書を見つめながら、由利はぼんやり考えた。

「常磐井君なら、何か知ってるかもしれない」

 おそらく常磐井は由利の力になってくれるに違いない。とはいえ確固とした根拠はないのだが…。女御と公卿の秘密の恋には常磐井が、何らかの形で関わっているように思えてならない。それだけに常磐井に安易に近づくのはためらわれた。
 由利はここまで考えて、ほうーっと長いため息をひとつ付いた。

「いやいや、解決の糸口のつかないことでぐちゃぐちゃ悩んでいるより、明日のテストのことに集中しようっと」

 由利はイヤホンをつけ、今ハマっているジャスティンの『パーパス』のアルバムの音量をいつもより大きくした。





 一学期の期末試験も最終日を迎えた。
 精神的に開放された桃園高校の生徒たちの多くは、連れ立ってマックかモスバーガーで昼食を食べ、そのあと映画を見に行く。行先はJR二条駅近くの「東宝シネマズ二条」か、あるいは繁華街にある「Movix京都」だろう。おそらくはアイドル映画かアクション映画をみんなで見るはずだ。


 美月も出町の商店街に比較的新しくできた「出町座」で一緒に見ようと誘ってきた。

「ねぇ、由利。出町座で『サスペリア』見ない?」
「『サスペリア』? 何か聞いたことがあるような・・・?」

 由利は首をかしげた。

「そうだよ。1977年に作られた映画だもん」
「それ、どんな映画?」

 由利は嫌な予感に襲われて、質問した。

「ん~、オカルトかな? HDリマスター版なんだって。鬼才ダリオ・アルジェントが創造したゴシックホラーの金字塔だよ?」

 理屈の好きな美月は、また難しいことを言ってきた。

「却下。無理無理。怖いの、絶対に見ない主義」
「え~、そうなのぉ~。怖いの見るとすっきりしていいのに」

 いやいや、と由利は心の中で顔を横に振った。現実世界でもそうとう怖い思いをしているのに、映画まで怖いのはお断り。だがよくしたもので、やはりオカルト好きの友人が美月と一緒に見たいと申し出たらしく、しつこく誘ってこなかった。

 三時間目が終了するベルがなるや否や生徒たちは喜び勇んで帰る用意をした。

「美月! 出町座は座席指定できないんだから、早く行くよ!」
「うん、チカちゃん。わかった!」

 美月たちはあわてて教室を飛び出していった。

 気が付けば教室にはちらほらとしか人が残っていなかった。由利はこのあと予定がなかったので、のんびりと帰り支度していると、これまでほとんど話したことがないクラスメイトがおずおずと近づいて来た。
 それは、クラスの女子カーストでは最上位についている河本春奈だった。

「ねぇ、小野さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど・・・?」

 華やかな雰囲気があり、きゅんととがったあごと大きな瞳が印象的だった。だが由利にとって普段は、まったくと言っていいほど交わりの無い子だった。上目遣いで挑むようにじっとこちらを見上げて来る。その瞳の中に不穏なものが隠されていることを由利は感じ取った。

「河本さん。うん、聞きたいことって? なあに?」

 相手に自分が警戒していることを悟らせないように、少し鈍いふりを装った。

「あの・・・、小野さんってもしかしたら、常磐井君と付き合ってるの?」

 春奈は由利の心の内を探るように訊いた。春奈の鋭さに由利は驚いた。

「え、常磐井君? ううん。ないない、そんなの。付き合ってなんか」

 由利はとっさに両手を振って、全否定した。

「そうなの?」

 それでもどこか疑いを向けた目で、春奈は問い質した。

「うん」
「じゃあ、もしあたしが常磐井君にコクって、付き合うことになったとしても小野さんは別段あたしに文句はないよね?」
「え、うん。あたしと常磐井君とはそういう意味では、何の関係もないし。彼がどんな人と付き合おうが、あたしが文句言える筋合いはないのは確かだけど?」
「ふうん。そうなんだ。それ、本当?」

 春奈の目はそれでもどこか警戒の色があった。

「うん。そう。だけどどうして?」
「常磐井君の視線をたどっていくと、たいてい小野さんに突き当たるから。常磐井君、小野さんのことが好きなのかなって」
「常磐井君が実際にあたしをどう思っているかなんて・・・そんなこと、あたしにだって解らないよ。でもあたしは彼のことを何とも思ってないし。河本さんが気にすることないんじゃない?」

 実際は何とも思っていないどころか、相当常磐井のことが気になっていたが、春奈の前で自分の本心をさらすわけにはいかなかった。

「じゃあ、あたしがもし常磐井君と付き合うことになったとしても小野さん、邪魔してこないでね」
「もちろん。それはもう」

 由利の答えを聞いて春奈は、一応納得したようだ。

「あたし・・・絶対に彼のこと、振り向かせて見せるから!」

 春奈は由利に宣言した。しかし由利は心の中で、河本春奈の幼稚な態度にムカっと来ていた。ことばで恋敵から言質を取って牽制しようとしても、なるようにしかならないのが男女の仲だ。だからと言って今の自分は、春奈の恋敵ですらないのだが…。

「あ、うん。河本さん。頑張ってね」
「うん。言いたかったことはそれだけ。じゃね」

 由利から逃げ去るように春奈は、バタバタと教室を飛び出して行った。






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「コミュ障なんです」と自分から言うな! [雑文]

最近、話もしないうちから
「あたし、コミュ障なんです」と言ってくる人が多い。

BBAは世間のことに疎いから、
はっ? 『コミュ障』とはなんぞや?って思うわけですよ。

皆さまもご存じの通り、『コミュ障』とは『コミュニケーション障害』の略です。

ついBBAは意地が悪いので、
「ということは、アナタどこかで、『コミュニケーション障害』と診断を下されたのですか?」
って訊いてみたくなります。

たぶん、そうではないでしょう。
自分で『コミュ障』であると宣言しているのですよ。

そこで私は、ちょっとムカっと来るんですわw
だってさ、こういう人ってたぶん、
自分と話が合いそうもない人に『コミュ障』ですっていって
線引きしてるんだよね。つまり「あんたとはしゃべれませんですわ」って、
言ってるんだよね。

本当にド失礼だと思います。
そういう場合、
「あ、そう? じゃあ、私とおしゃべりするの苦痛だろうから、失礼しますね」
っていって別の席に移ります。
そんなめんどくさいヤツの面倒なんか誰が見るか。

たぶん、こういう人間はプライド高いくせに、努力しない。

おそらく自分の得意領域のことなら、
何時間でも微に入り細に入りしゃべっていられるのでしょう。

ですが、自分に共通の接点がないと見極めるや、
こういうふうに宣言してしまうんでしょうね。

まぁ、はにかみやさんも本当にいるから二十代前半ぐらいだったら
わたしも多めに見ます。

しかしね、30も過ぎたいい大人が
「わたし、『コミュ障』なんです」って恥ずかし気もなく言うな。
みっともない。

実をいうと、私だって知らない人と話すのは苦手です。
しかし、こういうもんは、あらかじめ時事ニュース見るとか、
共通の話題って常に仕入れておけば、何かしら話は1時間ぐらいならできますよ。

話するのが苦手なら、せめて聞き上手になるとかさ。

とにかく、無為無策でボケーっとして何の努力もしない癖に、
「あたしって神経質で繊細だから」
と言ってはばからない。どこがじゃ!
こういう人は、どっか何かが欠如している!


コミュニケーションを円滑に進めるには、
やはり不断の努力が必要なのです。
はじめっからうまい人間なんかおらんわ!

BBAは怒っています!



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境界の旅人13 [境界の旅人]


 
 その晩、由利は試験勉強に余念がなかった。だいたいどの科目も四十五分単位で切り上げて次に移ることに決めている。そんなふうに時間配分をしたほうが自分にとって効率的だと思っていたからだ。
 そのとき由利は、ジャスティン・ビーバーの『パーパス』を聞きながら、ボールペンを使って新聞の広告の裏に英単語のスペルの練習をしていた。漢字とか英語のスペルというのは、実際自分の手を使って覚えたほうが確実にものになる。

「あれっ?」

 今、『acquaintance(知り合い)』という単語を書いていた。こういうcとqがくっついている単語はとかく間違いやすいので、結構念入りに書いて、身体に染み込ませるように覚えなければならない。だが途中で書いている文字が徐々にかすれていき、とうとうインクが出なくなった。
 ボールペンを持ち上げ、ペン軸を見るとほとんどインクがない。

「ああ、なんでこう調子が乗ってきているときになくなるかな」

 イラっとした調子でぶつくさとひとりごとを言った。由利には密かなこだわりがあって、ボールペンにはうるさい。だがそのこだわりというのは「自分にとって書きやすいか否か」という一点にあるので、見栄えやブランドなどは一切関係ない。このボールペンは自宅よりちょっと離れたファミマで売っていたものをたまたま買ったのだが、それがなかなか使い勝手がいいということに気づいた。それ以来、ボールペンはとりあえずそこで買うことにしている。

「ん? 今何時?」

 時計を見ると十時半。祖父はすでに床に就いている。

「仕方ないなぁ。気分転換に夜中のお散歩と行きますか」

 由利は近場にお買い物専用のミニ・バッグに財布を投げ入れると、物音で祖父を起こさぬよう音を立てないように階段を降り、そっと玄関の引き戸を引いて、外へ出た。
 ファミマへ行くと、まだ人で結構にぎわっている時間のはずなのに、めずらしく店員のほかは誰もいなかった。とりあえずお目当てのボールペンの赤と黒を二本ずつ買い、眠気覚ましのためにコーヒーマシンに氷の入ったMサイズのカップをセットしてコーヒーを淹れると、蓋をして店の外に出た。

「ん?」

 外が妙に明るい。
 空を見ると西の空はオレンジ色に染まっていた。太陽はまだ沈んだばかりのようだ。

「え、なんで?」

 由利は思わず、もう一度ファミマのほうへ振り替えると、ついさっきまでそこにあったはずの店舗が跡形もなく消え去り、現れたのは映画でしか見たことのないような古い京都の街並みだった。
 びっくりして思わず横軸を走る中立売通りを見ると、目の前をガタゴトと音を立ててN軌道の市電が自分のそばを通り抜けて行った。

「え、どうして? あたしったらまた変な世界に来ちゃった?」

 そしていつぞや三郎が教えてくれた通り、市電は堀川に掛かっている橋梁を渡って、あの道幅の狭い東堀川通りへと向かって行った。

「今いる時代はいつごろなんだろう?」

 仕方がないのでとりあえず由利は、元来た道をたどって自分が住んでいる家のほうへと歩いた。たしかに道は変わっていないのだが、現れた街の風景はまったく違う。
 どの家も黒い瓦に玄関の横の窓には黒い桟が取り付けてあり、なんとなく町全体が黒っぽくすすけて、陰気に見えた。すれ違う人はたいてい男の人はカーキ色の開襟シャツ着て、女の人は和服にモンペを履きその上に割烹着を付けていた。

「男の人の恰好って、戦争中に着るよう義務づけられていた、いわゆる国民服ってものなのかな?」

 通る人、通る人みな一様に背が小さく小柄で、男でも百七十センチある人はほとんどいない。逆にそういう人たちからすれば、由利は雲を突くような大女に見えるはずだ。しかも二十一世紀の現代に生きる女子高生らしく、由利はユニクロで買ったバミューダ・パンツにブラ付きノースリーブを着、その上にシャツを羽織り素足にはナイキのスニーカーを履いていた。だがこんなごくありふれた格好でも七十年以上も昔の時代にあっては完全に周りから浮いていた。
 ひとりの小さな男の子が由利のほうへ駆けよって来た。

「ギブ・ミー・チョコレート」

 たどたどしい英語でチョコレートをねだった。だが由利は、生憎アイスコーヒーの他には食べるものを何も持っていなかった。

「あ、ごめんね。今チョコレート持ってなくて・・・。あ、そうだ、これ、アイスコーヒーだけど良かったら飲んでみない? ミルクもお砂糖も入ってなくて苦いとは思うんだけど」

 由利は少しかがんで、コーヒーのカップが入った白いビニール袋を差し出した。男の子は黙ってそのビニール袋を受け取ると、誰にも横取りされまいとして、ぎゅっとビニールの持ち手を握りしめ、抱えるように走り去っていった。それを見て由利は、この時代に生きる子供の厳しさというものを、肌身を通して直接感じた。

「まだほんの小さな子なのに・・・。あんな必死な感じ、『飽食の時代』って言われているあたしたちの世代には絶対に見られないもんだわ。日本もかつてはこんな時代があったんだ・・・」

 しみじみとそう言うと、ふと立ち止まって考えこんだ。

「ということは、あたしが今いる時代は、第二次世界大戦直後の京都ってこと? さっきのおじさんはたぶん戦後の物不足のせいで他に着るものがないから、国民服を着続けているってことなんじゃないかな」

 由利は少し冷静になって、こう類推した。

「じゃあ、あたしが住んでいる家はどうなっているの?」

 興味に駆られて、由利は小走りになって家のほうへと向かった。
 由利がもとの世界で住んでいた場所にいくと、見知らぬ家が建っていた。だがよくよく観察すると、家の形自体は、由利が祖父と住んでいた家と変わりがない。一見違って見えたのは、たぶん七十年も時代が経つうちに、玄関や窓などを修繕したせいなのだろう。
 なるほどと思いながら、家のほうをうかがうと中からこの家の主婦とおぼしき女性が玄関から出てきた。

「たっちゃーん! たっちゃーん!」

 女の人は口に手を当てて誰かを呼んでいる。

「おーい、たっちゃん! 辰造!」

 由利は主婦が口にした名前を聞いてハッとなった。「辰造」は祖父の名前だ。

ーするとこの人は、あたしのひいおばあちゃんなんだー

 曾祖母にあたるはずの主婦は、じっと様子を見ていた由利に気が付いたとみえ、不審そうな顔をして頭から足の先までさっと視線を走らせたあと尋ねた。

「あ、あの・・・。なんぞうちにご用でもありましたん?」
「あ、いいえ。何でもありません。すみません」

 そうやって由利が急いでその場を立ち去ろうとすると、通りの角からひとりの小さい男の子が由利のいる方向へ駆け寄って来た。
 まだ幼稚園児ぐらいの小さな子だ。学生帽を被りランニングに半ズボンを履いて、足は草履をつっかけていた。

「辰造! もうすぐ夕飯だから、もう家にお入り」

 どうやらこの子が祖父の辰造らしい。由利は祖父の可愛らしい姿に少し頬を緩めた。

「いやや! もうちょっと遊びたい!」
「あかん! 早ううちにお入り」

 曾祖母は目の端でちらっと由利の姿を見ながら、祖父の両肩に手を回して、急き立てるように家の奥へと入って行ってしまった。たぶん曾祖母は未来から来た由利のいでたちを見て何者かを類推することができず、警戒したのだろう。



 複雑な気持ちを抱えながらも由利は、堀川通りのほうへ歩いた。すれ違う人、すれ違う人がじろじろと由利を見ていく。居心地の悪さといったらない。だがふと由利は、ここに来たばかりの頃に見たあの赤いレンガの建物の姿を思い出した。今行けばきっと何のために建てられたものなのかがはっきり分かる気がした。だからそのまま今歩いている横の通りをまっすぐ直進して、堀川にかかる橋に足を踏み入れた。すると今は橋の下が公園となっている川には、滔々と水が流れていた。

「ああ、昔の堀川はちゃんと水が流れていたんだね」

 そのまま、東堀川通りを南に向かって中立売通に向かうと由利の住む世界では見られない用水路が通りに沿って走っており、それが堀川に流れ込んでいた。

「へぇ、中立売通りって昔はこんな用水路があったんだ・・・」

 たかだか時間が七十年を経ただけだというのに、街の様子がこれほど変わってしまったことに由利は少なからず驚いていた。
 例の場所へ行くと由利が春に見たときのように、見る影もなく落ちぶれ果てた老貴婦人のような姿は、そこにはなかった。代わりに目の前に現れたのは、こじんまりとしているが化粧漆喰が施された瀟洒な洋風建築だった。
 戦争に敗れたせいで手入れもされず、荒んだ民家ばかりがある中で、華やかな赤い色のレンガが組まれたこの建物だけは周囲にひときわ異彩を放っていた。入口までのアプローチも土地を切り売りされて人がかろうじて通れるだけのみすぼらしい路地ではなく、堂々として大きな石畳が敷き詰められていた。

 かつてはその石畳を縁取るように色鮮やかな植物も植えられていたに違いなかった。だが戦時中は花を愛でようという気持ちも贅沢と見なされていたのか、植物も根こそぎ抜き取られたらしく、そこだけ土がむき出しになっていた。それが由利の目には痛々しく移った。

「この建物って本当はこんなに立派だったのね」

 ひとりごとをつぶやいたはずなのに、そのつぶやきに対して答えが返って来た。

「ここはな、市電を走らせるために建てられた変電所だったんだ」

 いつの間に現れたのかすぐそばに三郎が立って、由利と一緒に変電所を眺めていた。

「三郎!」

 由利はあっけに取られ、しばらくは声も出せずに呆然と突っ立っていた。虚脱している由利をみて、三郎はニヤリと笑った。

「これが作られたのはもうすぐ二十世紀も訪れようかっていう1895年。明治28年のことだ。日本で最初に市電が通ったのがここ、京都だった。蹴上発電所で発電された電気を利用して市電を走らせたわけなんだが、いかんせん距離的に遠いからな。だからここに変電所を設けたんだ」
「なぜあなたがこんなところにあたしといるの? それにどうしてそんなこと知ってるの?」 
「前にも言ったろ? 一度にふたつ以上の質問はするなって」
「だ、だって・・・」
「おれは、時間と空間がお互いに絡みあわないように、まっすぐ進んで行くのを見張っている。まぁ、それがおれの使命だ」
「誰に?」
「誰に? さぁ、それはおれにも解らない。ただ解っているのは、そういう使命を背負わされているってことだ」
「じゃあ、三郎。あなたは日本中、世界中の、えっと何だっけ、その、言うところの『時間と空間』とやらを見張っているってわけ?」
「そんなはずないだろ。おれひとりの力でできることなんぞ、たかだか知れている。世界中にはそれぞれの場所ごとにポイントがあって、おれのような番人がいるはずさ。おれは単にここの担当ってだけ」
「なんで以前、変電所を見ていたときに、そのことを教えてくれなかったのよ?」
「おれは他人の人生になるべく介入しない。介入すればその人が本来たどるべき運命が狂ってしまう。となると当然、歴史そのものも変わっていくだろうからな」
「人の運命って決まっているの?」
「人っていうのは、あらかじめ越えなければならない試練というものをきちんとプログラミングされてこの世に送り出されるもんなんだ。歴史が変わると本来その人が受けなければならない試練というものが受けられなくなる可能性があるからな。そうなっては生まれてくる意味がない」
「じゃあ、どうして今になって教えてくれるのよ」
「それはおまえが、本来は体験するべきはずのないタイムスリップをしているからに決まっているだろ?」
「あたしがタイムスリップするのは、どうして?」
「さあな。それはおまえがこの土地の感情になにか強く働きかけて、時空のひずみを引き起こしているのかもしれない。おまえが京都御苑で出会ったものたち、あれは普通の人間だったら、決して見ることができないものだった。同じ場所に存在しても、次元が違うんだ。同じ場所に異なる階層が重なっているんだよ」
「あたしが普通に暮らしている場所は、どういう階層?」
「ま、おまえらのことばで言えば『この世』なんじゃないの?」
「じゃあ、あたしが近衛邸であったあの化け物たちがいる階層は?」
「ああ、ああいうのは、本来死んだら次のステージに移行しなければならないのに、この世に未練や執着やらで固執しているやつらの留まっている場所さ」
「あなたはあの時、何をしていたの」
「ああいうやつらは放っておくと、グレるっていうかな。悪しき想念がひとつになり巨大化して『この世』に悪さをすることがあるから、時々ああやって機嫌を取ってやらなければならないんだ。ま、厄介なしろものさ」
「でも・・・あたしがこんな目にあったのは、京都に来てからよ」
「土地にも記憶があり、思念があるんだ・・・。おまえはそういう土地の感情を揺るがすような要因があるのかもな。特にこの辺は土地にパワーがあるから、なおさらだ」
「そ、そんな・・・」
「とにかく、おれはこういうことが度々起こって欲しくない。それでおまえをずっと見張って来たんだけど、あんまりこういうことが起きるとなぁ。ほら、ゲームにもバグってものがあるだろ? おまえゲームやったことあるか?」
「うん。ときどきなら」
「ゲームにバグがあると、時々想定外の誤作動が起こったりするだろ? チャージしていたはずのパワーがなぜか0%になっていたり、本来ならありもしない空間にゲームの中の登場人物が落ち込んだりするヤツ。もしそういうことになるとプレイヤーは下手すりゃ、はじめっからやり直さなきゃならない羽目になる」
「じゃあ、あたしが京都に来たことはゲームのバグみたいなものだっていいたいの?」
「まあね」
「じゃあ、三郎はあたしをどうするつもり?」
「おまえがこういうふうに何度も時空のひずみを引き起こすことになると、それを取り除かなきゃならなくなる。バグは本来あってはならないものだからな」
「じゃ、じゃあ、何? あたしの存在自体は間違いだっていうの?」

 由利は自分の存在自体が全否定されているような気がして、ヒステリックに叫んだ。

「まぁまぁ、そういきり立つな」

 三郎は由利をなだめようとした。だが由利の目からは、後から後から涙が溢れてくる。

「そうと決まったわけじゃないさ」
「でも今、三郎はそう言ったじゃないの!」
「判断を下すのはおれじゃない。それにまだ、そういうふうに命令が下されたわけでもない」
「誰が判断するの?」
「さあ、しかとは解らないけど、おれたちなんかより、はるかに高次元の存在さ。まぁ、安心しろ。高次元の存在っていうのは、人間みたいに非道なことはしない。まぁだからと言って、甘やかしてくれるわけでもないけどな。もっと理性的なものだ。人間の及びもつかない深い慈愛と思慮に基づいて判断は下されるものだから。どんな人間も生まれてきたことには、きちんとした理由があるものさ。もちろん、おまえだってだ。まずはそれを信じろ」
「じゃあ、あたしは否定されているわけじゃないのね。間違って生まれてきたわけじゃないんだね」

 由利は三郎に確かめるように訊いた。

「そりゃそうさ。だから今、おれが原因を探っている」

三郎は諭すように言った。

「さあ、おまえは元の世界へ帰れ。そしておまえの為すべきことをやれ」

 三郎は由利に命じた。

「帰るって言ったってどうやって?」

 ふたりは一条戻り橋の前まで来た。

「この橋はこの世とあの世を繋ぐ橋なんだ。昔からおまえみたいな人間っていうのは一定数いたらしいな。この橋はそのためのツールさ。そういう場合はこの橋を通れば、また元の世界に戻れる。さ、行くんだ」

 三郎の声にはどこか由利に対する憐みが含まれていた。それを聞くと由利の身体はいいようのないやるせなさに包まれた。

「三郎は?」
「おれのことは気にするな。さ、行け」

 由利は言われた通り、一条戻り橋を渡った。すると黒い家並みは消え、堀川通りの信号が青緑色に点滅しているのが見えた。通りには車が流れるように走っていく。
 振り向くと、やっぱりそこには三郎の姿はなかった。


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境界の旅人12 [境界の旅人]

第三章 異変



「ああ、あと二週間足らずで期末試験だねぇ。もう七月か」

 しみじみと美月が言った。

「ホントに早いねぇ、この間入学式をしたような気がするのに」
「なんだかんだで、あれからもう三か月が経っちゃったんだよ」

 ふたりは靴を履き替えると、自転車置き場のほうへ向かった。京都の街はバスなどの交通機関を使うよりも自転車のほうが、時間の融通も利いて便利だった。

「ねぇ、今から今宮神社の茅野輪(ちのわ)をくぐりに行かない?」
「え、いいけど。茅野輪って何?」

 由利はこの手の習俗習慣については何も知らない。ふたりの間には、すでに「教える」「教わる」という一定のパターンが定着しつつあった。

「茅野輪っていうのは、文字通り、茅(ちがや)っていう植物で編まれた大きな輪のことを言うのよ。今どこの神社へ行っても、たいてい入口に茅野輪が置いてあるはずだけどね。東京にだってあるはずだよ」
「東京に住んでいたときは、そもそも神社ってところに縁がなかった」
「ふうん、そうだったんだ。でね、一年のほぼ真ん中にあたる六月の末に、この輪を通ることで、正月から半年分についた厄を祓うのよ。これを夏越の祓えって言うんだよ」
「へぇ、よくそんなこと細々と覚えてるもんだね」

 つくづく感心したように由利が言った。

「あら、面白いじゃないの。興味あることなら、すぐに頭に入るものじゃない?」

 由利は美月の持論には、あえて逆らわなかった。

「そっか、じゃあ行ってみるとしましょうか?」

 今宮神社は京都市の北部紫野の地にあり、かなり大きな神社で大徳寺とも地続きだ。
 ふたりが今宮神社の境内に入ると、拝殿の前に竹で作られた鳥居の下に、大きく編まれた茅野輪が下げられていた。

「わ、大きい」

 由利が感嘆してつぶやいた。

「ね、来てよかったでしょ?」
「うん」

 由利がさっそく輪をくぐり抜けようと、スタスタと茅野輪のほうへと向かった。

「ちょ、ちょっと待った! 由利」

 美月は由利の腕をひっぱった。

「何よ、せっかく厄を祓おうとしたのに」

 美月が人差し指を振り子のように、チッチと左右に振った。

「くぐるにもね、作法っていうのがあるの。さあ、今からあたしと一緒にやるのよ。輪はね、八の字を書くように三回廻るの。…まずは正面に向かってお辞儀」

 こうなったら、四の五の文句を言わず、美月の言われた通りにすべきなのを由利は比較的早い段階で学習していた。

「それから左足で茅野輪をまたぎ、左回りで正面に戻る」
「今度は右足でまたいで、右回り」
「三回目は一回目と一緒で左足から」

 それが終わると、美月は拝殿に向かって手を合わせながら唱えた。

「祓いたまえ 清めたまえ 守りたまえ 幸(さきわ)えたまえ」

 由利は黙って美月がそれを言うのをそばで聞き、美月が頭を下げると一緒になってぺこりと頭を下げた。

「さて、これでよしっと。半年分の厄や穢れは落ちました」
「そっかぁ、よかったぁ」

 由利はそれを聞いて、少し気持ちが楽になった。本当にあの気持ちの悪い一連のことから解放されればいいのだけれど。

「ねぇねぇ、由利。せっかくここまで来たんだから、あぶり餅食べてかない?」
「え、あぶり餅って?」
「もう、由利って本当に何にも知らないんだねぇ。今宮神社と言えば『あぶり餅』はつきものだよ」
「えっ、そうなの?」
「さ、行こ、行こ!」

 拝殿から行きに通った立派な朱塗りの楼門の方向へ引き返すと、今度はそこを通らずに、東門のほうへと向かった。

「この神社ってなかなか立派だね」
「そうだよ。ここは八坂神社とか下鴨神社ほど有名じゃないから観光客にはあまり知られてないけど、とても古くて格式のある神社なんだって。何でも平安京ができる前からあったらしいよ。それにここは、もともと疫病を鎮めるために作られた神社でもあるんだよね」
「へぇ、そうなの?」
「うん。昔はどうも桜の花が咲くころに、疫病が流行ったみたいでね。『やすらい祭り』って花鎮めのお祭りが今でも残っているんだけどさ、きれいな花傘を立てて踊るんだよね」
「ああ、花笠を頭に被って踊るやつ?」
「それは頭に被る笠。今宮のは差す傘。大きな赤い傘に造花をつけて街を練り歩くんだよね」
「ふうん」
「それがいわゆる『よりまし』っていうのかなぁ。疫病はきらびやかなものに憑りつくと昔の人は考えたんだよね」
「へ~え、面白い」
「そう。だから花傘を振り回して、疫病を取りつかせてから、川かなんかに流したんだよね」
「まぁ、昔は今みたいに薬がないから、そうやってお祀りするしか方法がなかったんだろうね」

 由利はひたすら関心して美月の説明を聞いていた。

「今日は講釈はこれぐらいにして、さ、早く食べに行こ!」

東門をくぐると、きれいな石畳の道が伸びており、神社の門を出てすぐに道を隔てて両側に、ほとんど同じような店があった。軒先には、小さな餅を突き刺すための竹を細かく割いた串が、たくさん並べられて干されていた。

「えっとね、北側が一和さんで、南側がかざりやさんかな」
「どっか違うの?」
「ううん、違わない。だけど、うちは昔から食べるなら一和さんと決まってるんだ」
「ハハハ。京都の人間は窮屈じゃのう、いちいちそんなもんまで決まっておるのか。それじゃ、あえていつもとは違うかざりやさんに入ろうよ」

 由利はお道化て由利に提案した。



「おいしい~」

 ふたりはお店の人にお茶を入れてもらって、お皿に盛ってあるあぶり餅を頬張った。

「うん、この白みそダレが何ともいえず絶妙!」
「でしょ?」

 またもや、ふたりは顔を見合わせ、にっこりと微笑みあった。

「テスト前だから、部活もないし、たまにふたりでこんなふうにのんびりと、道草喰っているのも悪くないないね」

 由利が、串にささった小さな餅をしごきながらしゃべった。

「あー、今の由利を小山部長が見たら大変だわ」

 それを聞いて、由利は餅でのどを詰まらせそうになった。

「ちょっと、美月! 変なこと言わないでよ! 小山先輩がそこいるのかと思って一瞬、ビビったじゃないの!」
「あは、ごめん、ごめん。だけどさぁ、小山先輩って本当に変わった人だよね」
「まぁ、真面目な求道者って感じだと思うけど。別に言うほど変わっていないんじゃない?」
「ああ、由利がそう思うのはさ、他のお茶の先生について習ったことがないからだよ」
「ん、なんで?」
「あたしが中学にいたころ、部活で教えに来てた先生はね『お茶というものは頭で考えるものじゃなくて、感じるものなんです』っていってさ」
「何、それ? ブルース・リー? 『Don’t think, Just feel』まるでジークンドーじゃん」

 由利はアハハと笑いながら、茶化した。

「あは、何それ、マジウケる。違うよ。あたしが言いたいのはね、お茶ってたいていの場合は、小山先輩が教えるように教わらないって言いたいの!」
「じゃあ、本来はどうなのよ?」
「まぁ、割り稽古するじゃない、それでさ、いろいろと変わった所作があるでしょ? なんでこんなことするんだろうって思う所作がいっぱいあるじゃない? それを質問すると『質問しちゃいけません』『意味を考えてはいけません』って言われるもんなんだよ」
「ああ、部長はそういうことは絶対に言わないよね。一番最初の日に何をするのかと思えば、茶室じゃなくて視聴覚教室に行って、自作のパワーポイント使って『茶の湯について』ってガイダンスをしてたもんね」
「そうそう、まずお茶の起源に始まって、中世あたりの闘茶とか唐物荘厳の末に、京や堺の町衆が『市中の散居』と称して自宅の離れに庵を作ったのが『茶の湯』の始まりとかなんとか、滔々と説明してたじゃん?」
「そうだっけ? うん。そうだった。金持ちが屋敷の離れに掘っ立て小屋みたいなのを建てて、貧乏ごっこしているような話だったね」
「そうだよ。それから冬と夏では炉と風炉があって、お点前の仕方が違うとかさ、あと建水とか茶杓とか棗とかさ、一番簡単な『平手前』のときの茶道具の説明とかしてたじゃない」
「うん、そうだね」

 由利はそんなことは、当たり前じゃないかという顔をした。

「でもね、お茶の世界ではそういうことが、当たり前じゃないんだよ、普通は。ひとつひとつ歩き方がなってない、建水を持っている位置がおかしい、座る位置が変とかさ。注意ばっかりされて、終わるころには、達成感もなく疲労感だけが残ってモヤモヤしてくるもんなんだよね」
「へぇ、そういうもんなの? ン~、ちょっとヤなカンジ。意味もなく叱られると、不必要にビクビクするし、あたしなんか小心者だから緊張して何も考えられなくなりそう」
「うん。だけど部長はさ、『本来茶の湯の、どんなに取るに足りないような所作であっても、それは先人が考えに考えた挙句のことだ』っていってたじゃん?」
「うん。そうだね。そこには意味があるってよく言ってるよね」
「そう、例えば割り稽古のとき、茶巾で茶碗を拭くときに『ゆ』の字を書け、って言われたじゃない? それで誰かがついどうして、『ゆ』の字なんんですか? って訊いたじゃない」
「ああ、そんなことがあったね」
「そしたらさ、部長は『本来茶碗の底をきれいに拭き取ることだけが目的なんだったら、どんなふうに拭いたとしても目的を達せられればそれでいいはずだ』って説明したでしょ」
「うん」
「しかしどうすれば、目的も達せられて、傍から見ても充分に美しいと思える所作になるのかと試行錯誤した末、それは『あ』でも『い』でも『う』でもなく、『ゆ』の字を茶碗の底に描くのが一番動作としては柔らかく優雅に映るという結論に至ったんだろうって。例えていうなら、昔の西洋の男性が、目上の人に敬意をこめて頭を下げるときに、手をくるくると旋回させる『レヴェランス』を見てみれば、『ゆ』の字の意味がわかるって」
「もうさ、『レヴェランス』とか。あの人の言うことは、イチイチ芸術的すぎて、却って混乱するような説明だったけどね」

「それにさ、小山先輩は『人間は新しいことを、三つ同時に覚えて実行することは、不可能だ』ってよく言うじゃない? 最初は歩き方だけを徹底的に練習させられたでしょ。まずやっちゃいけないことを教えるのよね。畳のへりは踏まない。摺り足で歩く、歩く歩幅も色分けしたシートを作ってきてその上を歩かせたじゃない? それをスマホでビデオ撮影して本人に見せてどこが悪いのか、どういうのがいいのか実際に画像で見せて納得させるでしょ、ああいうのってすごっく合理的だと思うな。口で注意されるのは、本当のとこ、何を言われているのかよく理解できないことが多いしね」

「そうだね。部長はだいたい六割できたところで次に移行する。『一度には絶対に完璧に理解できないから、らせん状に習得していくべきだ』ってね。それに部長よく言ってるよね、『これまでの教え方は、たいていの子なら一年か二年で終えることができるバイエルの教本を、十年かけて終えるようなものだって。それが終わったなら、次にツェルニー百番やら三十番や、バッハのインベンションなどぎっしり待っているのに、それをやる前に人生が終わってしまう』って」
「言い得て妙っていうか・・・。でもたしかに、そうなんだよね」

 美月は感心したように言った。

「小山部長は無意識のもろさを力説するじゃない? 普段楽々と何の造作もなくできていることが、いったん緊張する環境下に置かれると、いとも簡単にできなくなってしまうって。そこで『自分は今、こう動いている』と認識しながら聴覚も視覚も使って、もっとゆっくり所作をすることが大事だって。そうすることによって脳のいろいろな部分で記憶させることができるからって」

 美月が机に肘をつき掌にあごを乗っけながら、思い出すように言った。

「たしか緊張すると、頭が真っ白になるときってあるもんね」

 由利も同意した。

「そういうときは、もちろんこれまでやって来た、熟練の程度もものを言うだろうけどさ、意識して自分のやってきたこと、瞬時に思い出すことも、案外役には立つはずだって」
「彼って何かって言うと、小山先輩ってピアノの練習方法とお茶を対比させるよね」
「うん・・・。聞くところによると小山先輩は芸大を受験するみたいだよ」
「えっ、音楽のほう? だからかぁ」
「うん、一度音楽室でピアノ弾いているのを見たことがあったけど、めちゃっくちゃ上手かった。たしかリストの『波を渡るパオラの聖フランチェスコ』って曲、弾いてた」
「波を渡るパオラ・・・? なーに、その小難しいタイトル?」
「うん、これさ、うちの親戚の音大行ってたお姉さんが弾いてたから知ってるんだけど、よくコンコールかなんかで弾かれる曲なんだって。ピアノ科の音大生が弾くにしろ、かなり難易度が高いみたいだよ」
「そっかぁ。たしかにピアノは、ふっと途中で忘れちゃったりして、詰まったりしたら大変だもんね。そういう魔の瞬間に自分が襲われたとき、自分をどう立てなおすのかを小山先輩なりに模索して出した結論なんだろうね。それを茶道にも活かしているのかな」
「うん、そうかもしれない」
「ふうん。じゃあ、小山先輩は音大のピアノ科を受験するのかな?」

 ふと由利は訊ねた。

「いやぁ、作曲に行くって小耳にはさんだ気がする」
「美月って何? 耳がダンボなんじゃないの? すごい地獄耳!」
「何よ、たまたまよ、たまたま。別に人のことをコソコソと嗅ぎ出そうなんて思っていないって」
「そりゃまぁ、そうだろうけどさ・・・。でも作曲コースへ行くのは解る気がする。あの人、すっごく理屈っぽいもん。楽理とかめっちゃ詳しそう」

 

 しばらくして美月が改まった調子で由利に言った。

「ねぇ、由利。ここに入学したばかりのとき、うちのお母さんが由利を乗っけて家まで送って行ったことがあったじゃない?」
「うん・・・」

 急に周りの空気がぴんと張りつめた。

「あのとき、うちのお母さんは何か由利のお母さんのことについて知っているようだった。気が付いていた?」

 由利はそれには答えず、じっと美月の目を見つめた。

「ね、お母さんに直接由利に会ってもらうように、あたしから取り計らおうか?」
「それって・・・」
「うん、それって、とにかくデリケートな話だろうから、あたしは同席することを遠慮する。由利だって、どんなことをうちの母親から聞かせられるのかわからないし、あたしがいたら嫌でしょ。知られたくないことだって、きっとあるはず。だから、うちの母に直接尋ねて」
「いいの?」
「うん、うちの母が知っていることなら、とりあえず答えてくれると思う。それにあたしは、由利にはそれを知る権利があると思うよ。それがたとえいいことであっても、悪いことであっても」
「うん・・・。ありがと、美月」

 帰り道、自転車を押しながら、由利は美月に話しかけた。

「そういえば、ここんとこ、椥辻君見かけないね。一時はずっと教室にいたのに」
「え、椥辻君? 誰それ?」

 美月はぽかんとした顔をして、問い返した。

「え、だってほら、弓道部を見学したとき、美月は、椥辻君と親しそうにしゃべっていたじゃない? 椥辻君は、室町時代から続く小さい流派の家元の息子だって話していたでしょ?」
「ええ? 何のこと? だいたい由利、椥辻君なんて、うちのクラスにそんな子いないじゃない? いや、あたしの知る限り、そういう名前の子は全学年にすらいないよ」

 怪訝そうな顔をして、美月は言った。それを見て由利は何と答えていいのかわからなかった。
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無縁のふたり 『どろろ』 [読書・映画感想]

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みなさま、こんにちは。

今日もじっとりしています。

さて、私、二日にかけて新作アニメ『どろろ』を視聴いたしました。

私ね、昔、昔、テレビで放映されていた白黒アニメの『どろろ』ってリアルタイムで見ていたんですよ。まだ幼児の頃でした。

もう、白黒の画面が凄惨な陰影がある感じでねぇ、実際、妖怪が出てくる場面も怖いは怖いんですが、一番印象に残って眠れなかったのが、どろろの母親が寺で貧民を救済するために、炊き出しのお粥をふるまっているのに出会うシーンがあるんですよ。どろろの母親は粥を受け取る椀さえ持っていなかったので、素手で熱い熱いお粥を受け取るんです。

もう、何ていったらいいのかわかんないけど、可哀そうとかそういう甘っちょろい言葉で表現できないですね。もう本当にこの世の際を見てしまったっていう感じ。



この作品は五十年以上も前に執筆された手塚治虫の傑作中の傑作です。大人になってから改めて原作の「どろろ」を読んでみました。それにめっちゃ感銘を受けて、あたしはその後大学で中世の賎民史を主に学ぶことになるんですが。

手塚治虫の作品ってあの可愛らしい絵に騙されちゃうんですよ。いざ読みだすと実は結構グロい話とか、性について赤裸々に語られる話って多いんですよねぇ。あとこう、なんていうか業の深さみたいなものとかね。



どろろは見事にこの三つの要素が含まれていますね。

~~~~~~~~~~

で、要するにこの作品は、人口に膾炙されている誰でも知っている話なんですよ。

だから新しいアニメを作るにあたり、おそらく従来通りのプロットじゃ、周りは納得しないのですね。

そこで、この話はどう現代風に解釈するかっていうのが、結構、大事な要素かなって思いますね。

まず、父親が戦国武将の醍醐景光って人なのですよ。

今回の場所の設定がね、加賀の国のはずれということになっておりました。

へぇ~、なんか意外~。

私の中では、どろろの舞台はおそらく山陽地方なんではって思っていたんですよね、赤松とか毛利とかがいて、見える海は瀬戸内海。ですが、今回は北陸ということです。醍醐は朝倉と戦っていますので、おそらく時代は1560年あたり?かなとか。

で、設定がですね、百鬼丸の父親は、自分の野望のために、醍醐の領内にある地獄堂ってところに籠って、そこの鬼神と契約するのです。

「もしわしが天下を取るという野望をかなえてくれたなら、これから生まれてくるわしの子をおまえらにやろう」ってね。

それで生まれてきたのが、手足どころか、目も鼻も口も皮膚さえもない、蛆虫のようなわが子だったというわけです。

~~~~~~~

中世において「不具」というのは、どんなに身分の高い、それこそ天皇の皇子であったとしても、もうそれだけで不吉っていうか、触穢にあたるっていうか、捨てられなきゃならない運命にありました。

こうして百鬼丸は本来なら、お城の若さまのはずなのに、無縁の人となってしまう。

無縁の人というのは、自分の帰属するものが何もない人のこと。

どろろもそうです。彼(女)は、夜盗の夫婦の間に生まれた子です。だからどろろも所属するところがないという意味では百鬼丸と一緒で無縁の人。

で、こんな百鬼丸なのですが、原作では赤ひげみたいな医者に拾われて、教育を受け、自分の失われた身体を取り戻す旅に出るのですが、

新作になると、ちょっとこのシチュエーションが違うのかな。

原作の百鬼丸は、ちゃんと自分の意志を持った精神的に成熟し、思慮分別のある大人なんだけど、新作の百鬼丸はもっと無自覚なんだなぁ。

新作の百鬼丸は、五感が失われた代わりに、超感覚でもって世界を見ている(ゲームによくあるXレイーバイザーみたいな感覚を持っている)だけなので、閉じられた世界にいるんです。聞こえないし、見えないし、触感もないわけだから、教育のしようがないのよね。

ですから、なんというかな、百鬼丸は非常にイノセントです。素直だけど、善悪もわきまえないから、非常に残酷でもあるよね。ある意味、ずうっと赤ん坊のまま生きていた人とも言える。

妖怪退治していくうちに、ひとつひとつ、手足や本来人間として備わっているはずの感覚を取り戻していくのね。味覚とか、触覚とか、また聴覚とか。

そうなると、百鬼丸は素直に「心地よい」とか「おいしい」とか「きれい」なものに感動して、少しでも早く、完全な人間になりたいと思うんですよ。

どろろが「兄貴、空がきれいだよ」とか「もみじが真っ赤に染まっているよ」っていうんです。

でも、視覚がないのだから、想像もできない。だけど、どろろがこんなに感動しているのだから、いいものなのだろうなぁって想像はする。ああ、俺も早く見えるようになりたいなって。

なんかそういう純真さが、たまらなく哀れで愛おしい。



~~~~~~~~~~

もうひとつ、完全に原作を覆す設定がありますね。

それは、醍醐景光の野望というのは、なにも己ひとりのものではなかったということです。

息子ひとりを鬼神どもにくれてやったおかげで、醍醐の領地はしばらくは、戦もなく、飢饉もなく、国は栄え、領内に住む民たちは安寧でいられるんですよね。

ところが、百鬼丸が鬼神をひとり、またひとりと倒していくうちに、醍醐の領地は流行り病に侵されたり、イナゴの被害にあったりして、民は疲弊していくのです。

こうなるともう、なんていうのかな、もともと被害者だった百鬼丸は、醍醐側にとっては厄災以外のなにものでもなく、逆に民に被害をもたらす祟り神にほかならなくなるのですよ。

ここでね、価値の反転というか役割が入れ替わっているわけよ、原作はもっとシンプルに人間賛歌を謳ってるし、醍醐景光と弟の多宝丸は完全な悪役だったのね。

でも、新作は全くの悪者だった景光は、結構思慮深い領主と描かれているし、弟の多宝丸なんかも非常に聡明で、人に好かれる少年と描かれている。また多宝丸、百鬼丸共に容貌が酷似していて、しかも美女の誉れが高い奥方様の血が濃ゆいんですよ。

奥方は弟の多宝丸が聡明で美しくあればあるほど、まだ見ぬ失われた子のことを思い出してしまって、素直に息子を愛せないのです。

それに多宝丸もひそかに気づいており、母親の十全な愛を受け取れず、傷ついているのですね。

醍醐家は完全な機能不全に陥っている家庭なんです。



~~~~~~~

「民の安寧のため」犠牲にならなければならない存在である、とスパッと切り捨てられた百鬼丸なのですが、「生きたい」という強い意志に動かされ、結局は醍醐勢と対峙することとなります。

そうだなぁ、だから昔のように、勧善懲悪って話ではないです。

また物語は中世の農民たちの自治組織である惣村にまでふれておりまして、なかなか興味深い設定でした。

どろろの父親が残してくれた莫大な遺産は、戦乱で農村を追われた同じような浮浪児たちとともに、誰にも介入されない自分たちの自治組織である惣村を作るようにも思われました。



この世の中は光の中にも影が潜んでいるし、暗闇の中にもわずかな光が感じられる。

生きていくということは、完全に清らかなままではいられない。だから醍醐景光が悪い、百鬼丸が悪いと安直に決められない。

だけどそういう混沌とした世の中を必死で生きている命が非常に愛おしい、そんな話になっておりました。

狂言回し的な琵琶法師が言いますね。

仏と修羅の間を生きるのが人間だと。

~~~

余談ですが、どろろって本当は女の子なんですよね。

こんな戦乱の世の中ですから、両親は男の子としてどろろを育てたのかもしれません。

新作アニメのどろろは、幼いながらも自分の性をはっきり把握していたし、男女のことも知っていました。

どろろっていくつぐらいなんだろう?

ものの道理っていうのは、はっきりわかっていたから8つぐらいかなぁと思うんですよね。百鬼丸はそのとき16歳。

ってことは8つしかちがわないじゃないですか(源氏と紫の上と一緒)

七・八年経てば、どろろが15、百鬼丸は23。

おお、立派に夫婦としてやっていけそうじゃないですか。

無縁のふたりは孤独であるゆえに、すでに深く魂はつながっているように感じました。
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境界の旅人 11 [境界の旅人]

第三章 異変



 いつもはおとなしい由利が、人が変わったように、いきなり激昂したのを見て、常磐井を含め、まわりの人間は虚をつかれ、ぽかんとしていた。
 由利はとっさに立ち上がって、口を押えながら一目散に洗面所のほうへと走って行った。急に吐き気がしてトイレでゲーゲーと戻した。お昼食べたものはほとんど消化されていたので、ほとんど胃液しか出て来なかった。
 真っ青な顔をして女子トイレから出て来ると、出口付近で美月が心配そうな顔をして待っていた。

「由利・・・。大丈夫なの?」
「うん・・・。どうしちゃったのかな、あたし」
「もしかして、アレじゃないよね?」
「まさか! 違うよ、美月。そんなはずないでしょ。変な冗談言わないでよ!」

 美月の見当はずれな質問に、由利は少なからず気を悪くした。

「由利、今ね、うちのお母さんに車出してもらうように頼んだから」
「えっ、そんな悪いよ。わざわざ車で迎えに来てもらうだなんて・・・」
「いいよ。こんなときは、素直に人の好意に甘えるもんだよ」

 人の親切に慣れていない由利を、美月は叱った。だがそうやって親身に案じてくれることばが今の由利にはうれしく感じられる。

「うん、そう言ってくれるなら。ありがと、美月」

 

 四月の日も落ちて、辺りがうっすらと夕闇に染まるころ、ふたりは美月の母親の車を待った。しばらくするとマスタード色のゴルフが校門近くに止まった。そこからセミロングの髪にベージュのワンピースを着た女性が下りて来た。誰かを捜すように辺りをキョロキョロと顔を巡らせている。

「お母さん! こっちこっち!」
 美月が手招きすると、その女性は小走りになって駆けてきた。

「お友だちの具合が悪くなったんだって?」
「そうなのよ。ありがと、お母さん」
「申し訳ありません、お忙しい時間にわざわざ車まで出していただいて・・・」

 うつむいていた由利は、さらにぺこりと頭を下げた。

「いえ、いいのよ。遠慮しないで。ちっとも構わないわ。それよりどうお、具合は?」
「はい、だいぶ良くなりました」
「そう? 病院へ行ってみる?」
「いえ、一旦、家に帰ります・・・。ちょっと横になりたくて」
「それなら家に行きましょうか」

 美月の母親は、そう言いながら再びキーホルダーを手にすると、車のほうへ向かおうとした。

「お母さん、彼女があたしの新しいクラスメートで、名前が小野ゆ・・・」

 紹介しようと名前を言いかけた途端、顔を上げた由利を見た美月の母親の顔色が変わった。

「れ、玲子!?」



「まぁ、それにしてもびっくりしちゃったわぁ。一瞬目の前に玲子が立っているんじゃないかと思ったのよ。さすが親子ね、よく似てるわ。まさか美月が入学した高校のクラスメイトが、玲子のひとり娘だったなんて・・・。何という偶然かしら!」

 美月の母親は笑いながらハンドルを切った。美人の母親と似ていると言われて、由利は複雑な気分だった。

「うちの母をご存じだったんですね?」
「ふふ、ご存じも何も。小学校から高校まで一緒よ。親友だったわ」
「ええっ? 本当なの? お母さん、そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったのよ!」

 美月が母親に向かってブツブツ文句を言った。

「だって、小野さんってだけじゃ、玲子の子ってわかりこっないでしょう? だってこっちは東京の学校へ行っていると信じているんですもの」
「そうですよね。小野なんて名前はありふれていますから」

 由利は美月の母親に助け船を出した。

「そうそう、そういうところなんて玲子にそっくりよ。玲子もよくそんな感じで私を助けてくれたわ」

 美月の母親は昔を懐かしむように言った。

「えっ? うちの母がですか? 信じられない。いつもあたしには小言ばっかりで。うっとしい母親です」
「まぁ、玲子も親となって自分の子を育てるとなったら、いつもいつも優しいばっかりではいられないでしょ。わが子なら、叱るのも親の務めよ。うちの美月なんかは、そりゃもう・・・」

 自分にお鉢が回って来て、美月はどきりとした顔をした。

「もう~、やめてよ、お母さん。今はあたしのことなんかいいから!」
「あ~、はいはい」

 この人は小さい頃から母のことを知っている。もしかしたら、辰造の知らない玲子のことも知っているかもしれない。もちろん由利には決して打ち明けることのない玲子の秘密も。この偶然と出会って、由利の胸は不安と期待で早鐘のように高鳴った。
 しばらく沈黙が続いてから、美月の母が口を切った。

「ああ、自己紹介がまだだったわね、由利ちゃん。私は加藤芙蓉子(ふゆこ)です。私のことはこれから美月のお母さんじゃなくて、芙蓉子と呼んでね」

 芙蓉子は美月と同じように、可愛らしい外見ながらも、しゃきしゃきとものを言う人間のようだった。

「それにしても月日が経つのは早いものね・・・。大きいお腹を抱えてきた玲子に会ったのは、ついこの間のことのように思えるのにね・・・」

 ワンテンポ遅れて、芙蓉子はハッと自分が不用意に口を滑らせたことに気付た。だがつとめて何事もなかったかのようにふるまった。改めて由利は芙蓉子が母の秘密の共犯者なのを知った。
 ほどなく車は由利の家の前で止まった。玄関先で連絡を受けたのか、辰造が心配そうに立っていた。

「ありゃりゃ、これはこれは! 誰やと思うたら、帯正さんとこの芙蓉ちゃんやったんか! わざわざ由利のために車を出してもろうたそうで、ほんま、すまんことでしたわ」
「まあ、小野のおじさん。何をおっしゃいますやら。小さい時は本当にご厄介になってばっかりでしたのに、最近はご無沙汰ばかりしてしまって」

 芙蓉子は辰造に向かって深々と礼をした。

「いやいや、そんなことちっとも構へんよ。忙しゅうしておられるんやさかい」

 口下手で実直な辰造は照れくさそうな顔をしながら、手を横にふった。

「それにしても由利のクラスメイトっちゅうんは、芙蓉ちゃんのお嬢さんやったんか。ちっとも気が付かんと失礼なことをしました」
「いいえ、私もさっき、由利ちゃんが玲子のお嬢さんだと知ったところなんです。ほら、今は個人情報保護法とかで昔のようにクラスメイトの名簿も配らないし、連絡するのも本人同士がスマホで連絡とるでしょう? 親もなかなか自分の子供がどんな友達と付き合っているのかは把握できないものなんですわ」
「まぁ、わしらには因果なご時世やねぇ」



 一通りあいさつが済むと芙蓉子は車の後ろの扉を開き、ぐったりと座っていた由利を身体を包み込むようにして道路に立たせた。

「あら、由利ちゃん。やっぱり顔色があんまりよくないわね」
「大丈夫か、由利」

 辰造も心配そうに尋ねた。

「由利ちゃんのように背の高い子は、循環器が身体の成長に追いつけないから、よくこんなふうに倒れたりするものなのよね。だけど吐いたっていうのがちょっと気になるわ。おじさん、差し出がましいとは思いますが、今夜一晩由利ちゃんをわたくしどものところでお預かりしても構いませんでしょうか? 年ごろのお嬢さんだから、実のおじいさまといえど、頼みにくいこともあるでしょうし・・・」
「どうする、由利? おまえさえそれでよければ、芙蓉ちゃんに甘えさせてもらってもいいんやで? わしに気兼ねすることなんかあらへん」
「はい、お気遣いありがとうございます。でもたぶん大丈夫だと思います」

 由利は小さな声で芙蓉子に礼を言った。

「そう? でも万が一のことを考えて、明日は府立医大の病院に検査に行きましょう。私が病院まで付き添うから。保険証を持って、八時二十分になったら出かけられるように支度をしておいてね」

 芙蓉子はおそらく東京で気を揉んでいるに違いない玲子に代わって、母親のように甲斐甲斐しく由利の面倒をみるつもりのようだった。



「由利、おかいさんでも作るか?」

 に二階で蒲団を敷いて寝ている由利の枕元に、心配げに辰造が来て尋ねた。

「ううん、さっきちょっと気持ち悪くなって吐いちゃったから、今はいいかな」
「そうか、それじゃほうじ茶でも淹れて持って来てやるわ。何か水分をとらんとな」

 祖父はそう言い残して、階下へ降りて行こうとした。

「おじいちゃん。心配かけてごめんね。あたしったら、部活動の勧誘活動が楽しすぎて、ついはしゃぎすぎたのね。うん、たぶんそれだけだから」
「そうか、でもまぁ、大事を取って静かに寝とき。具合悪うなったら、我慢しんと言うんやで」
「うん。ありがとね、おじいちゃん」

 トントンと祖父が階段を下りていく音が響いた。由利は弓道場でほんの一二分意識が途切れた時に見たビジョンを天井を見つめながら、思い返していた。

「あれは単なる夢だったの?」
 この間の妙に生々しいセンシュアルな夢といい、今日の突然の過去へのトリップといい、京都に来てからの由利は、かなり変だった。

「あたしはいつの時代かはわからないけど、十二単みたいな装束を着ていて、女御と呼ばれていた。その段で行くとたぶん、横に座っていた人は帝ね。だってあたしが中に入っていた女の人は『主上』と呼び掛けていたし」

 由利は自分の見たビジョンをひとつひとつ口に出して、整理しようとしていた。

「でもあのカップルは仲がよさそうでいて、実はそうでもなかったような気がする。帝の口調がどことなくとげを含んでいて、あの女御と臣下の男の間を疑って嫉妬しているような感じだった・・・」

 いかにも武官らしく巻纓冠(けんえいのかん)を被り、顔面の左右を緌(おいかけ)でおおい、帖紙(たとう)にくるまれた矢を背に抱いた、凛々しい男の姿を見て、女御が心の底から喜んでいたのを由利は知っている。でも巧妙に扇で顔を隠し、傍らの帝や周囲の人間に自分の気持ちを悟られぬよう細心の注意を払いながらだったのだが。
 たしかに女御とあの武官とは、ただならぬ関係のように由利には思えた。

「これって三郎と関係あるのかしら?」

 ふと唯は、妖怪たちから三郎に助けてもらったことを思い出した。
 それに常磐井のことも・・・。
 御簾の内から見た公卿の顔。彼の容貌こそまったく見知らぬ男のものだったが、女御である由利を見上げたあの目の色は―。

「あれは常磐井君の・・・? いや、まさか。そんな・・・」

 まるで姿かたちは似ていないのだが、あの男の切迫した目の表情は、常磐井をどことなく彷彿とさせた。
 最近由利は、常磐井のことを考えるとドキドキする。

 ―なぜだろう―

 ピンチを助けられて彼を意識しているうちに、感謝が好意に代わりいつしか恋情になるパターンが存在することは、知識として知っていた。ありえないことではない。今の自分もその恋愛パターンに陥っているのかもしれない。だが常磐井は親切心で助け起こそうとしただけなのに、由利はそんな彼を満身の力を込めて突き飛ばしてしまった・・・。

「どうしてあんなことしてしまったんだろう」

 由利は蒲団の端をぎゅっと握りしめながら、ため息をついた。


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境界の旅人 10 [境界の旅人]

第三章 異変



「じゃあ、オレたちは稽古があるから。これで」

 男子弓道部員は、弓道場の入口まで由利と美月を連れてくると、そこに待機していた女子弓道部員に引き渡した。
 ふたりは女子弓道部員に誘導されて、二回にある見学席へと向かった。

「えっと、入部希望ですか?」

 二階の階段を一緒に昇りながら、女子部員が少し怪訝な顔をして尋ねた。

「え、は、はい。少し興味があったので」

 本当は違う、と答えても良かった。だがそれでは、弓道部そのものを貶めているような気がしたので、一応ふたりはこの場では気のあるそぶりをした。

「あらぁ、変ねぇ。どうして男子ったらこんなに気が利かないのかしら?」

 女子部員はボソッとぼやいた。

「どうかされたんですか?」

 美月はすかさず訊いた。

「ええ。もう女子の練習は終わってしまったんですよ。これからは男子の練習が始まるんです。どうせ来てもらうんだったら明日でもよかったのにねぇ・・・」

だがそう言ったあとで、せっかくここまで足を運んでくれた由利たちに申し訳ないとでも思ったのか、こう付け加えた。

「でも男子が弓を打つのは、女子とは違って、矢の通る道は真っ直ぐだし、何といっても速いです。やはり迫力のあるものですから是非見て行ってくださいね」

 由利たちが案内された見学席から下の方を見下ろすと、二十人足らずの男子部員が射場の奥のほうに固まってきちんと正座していた。そこへ遅れて常磐井が入って来ると、皆のほうへ一礼してから末席ので正座した。するとそれまで静かだった会場のあちこちが少しざわついた気がした。

「今日は、練習というより、新入部員勧誘のための一種のデモンストレーションなんです」

 女子部員はふたりに説明した。

「あの、男子部員の方たちが右手に付けている手袋みたいなものは何ですか?」

 由利がふと気になって女子部員に訊ねた。

「ああ、あれは『かけ』って言います。弓を引くときは親指を弦に引っかけて、他の指で親指を押さえるようにするんです。で、かけには親指のところには木型が入っていて、弦を引っ張ったとき、指に食い込まないようにできてるんですよ。やはり弓を引くときは相当な力が一点に集中しますからね、かけなしではすぐに親指を痛めてしまうんです。ですからかけは、弓を引くときにはなくてはならない大事なものです」
「へぇ~」

 由利と美月が感心すると、女子部員は少し気をよくしたらしい。

「ほら今でもものすごく大事なものを『かけがえのない』っていうでしょう? あれは『かけ』から来ているんです。「かけ」の替えがない。つまり今使っている「かけ」しかないってことです。つまりそれこそがかけがえのない大事なものじゃないですか」
「そうなんですか!」

 由利と美月は異口同音に叫んだ。

「日常でも、私たちは知らず知らずのうちに弓と関連したことばって案外たくさん使ってるんですよ」
「たとえば、他には? 是非この機会に教えてください。知りたいです」

 ワクワクしたように美月が女子部員をせっついた。女子部員はそれを見て少しほほを緩めた。

「ふふ、そうですねぇ、私たち、普段『やばい』ってよく言いますよね?」
「はい、やばい。ええ、普通に使いますね」
「当たり前のことを言うようですが、弓は今でも歴とした武器なんですよ。もともとは人を殺傷するために使ったんですから。弓を放つ場所というのは『射場』と今は言うんですけど、昔は『矢場』と言ったんです。で、的から矢を抜くときは、一旦矢場から人を退かせるんですよ。そうしないと万が一、矢を放ってしまう人がいたりしますからね。そうなることを防ぐんですよ」
「はぁあ、そうなんですね」

 美月が相づちを打った。

「だから、矢場に人がいる、すなわち『矢場居』とは的場に入る人にとっては非常に危険な状態にある、ってことなんです」
「へぇ~」
「もうね、『手の内を見せる』とか『ズバリ』とか。そういった感じで日常生活に浸透していることばって結構あるんですよ」

 女子部員は笑いながらそう説明した。

「うわぁ、今のを教えていただいただけでもここに来てよかったって思います。本当に勉強になります。ありがとうございます!」

 美月は知的好奇心が満たされ、またキラキラした目で礼を言った。

「いえいえ、とんでもない。弓道って武道の中では一番女子に人気があるんですよ。もし今日の男子の演武を見て興味がわいたのであれば、ご足労ですけど明日、もう一度ここに足を運んでもらって女子の練習を見てもらうのが一番なんですけど」

 女子部員はやはり武道をたしなんでいるせいか非常に礼儀正しく、隙なくぴしりとした印象が残る。

「それにね、うちの部の流派は競技に勝つことより、儀礼とか精神性を重んじるんですよね。もともと神事から派生した流派なんです」
「神事から派生したって、どういうことですか?」

 美月は質問した。

「例えば、神社よく神社などで弓を射ることがあるでしょう? あれは神さまに捧げるものなんですよ。だからとても形には厳しいです。でもこれから見ていてもらうとわかると思うのですが、とても端正なものですよ」



 射場には本座と呼ばれる位置に、七つの白木白布の胡床(きしょう)が一列に等間隔に並べられていた。
 奥の控えで正座して待機していた男子部員のうち七人が立ち上がり、射場のほうへと向かって行った。
 よく見れば皆、弓道着におろしたての真っ白な足袋をつけている。そして左手に長い弓の先端である、上弭(うわはず)と言われる部分を地に向け、右手には二本の矢を手に携えていた。彼らは射場に足を踏み入れる前にまず一礼し、しずしずと摺り足で胡床の後ろを進んで所定の本座の位置につくと、皆同時に胡床に腰を下ろした。
 やがて「起立」の声と共に一斉に立ち上がり、「礼」という声にまた一糸乱れぬことなく頭を下げた。
 それから射手たちは一旦座って、また立ち上がり、また座るという動作を繰り返した。

「どうして立ったり座ったりを繰り返しているのかしら?」

 それを聞いて横の女子部員が苦笑しながら言った。

「これは座射(ざしゃ)一手っていう弓を射る形式です。射位といって、射場内の弓を射る位置のところで一度座って、矢をつがえ、その後立って矢を射るんです」

 それから射手たちは座りながらそれまで携えて来たふたつの矢を互い違いに持つと、再び立ち上がった。そして複雑な作法で後で矢を射るためのもう一本の矢を右手で持ちながら、矢を放った。

「うわぁ、難しそう。ただでさえ的に矢を当てるのに集中しなければならないのに」

 美月が遠慮なく思ったことを言う。

「すみません、勝手なことを言っちゃって。美月、そんなふうに茶化しちゃ失礼じゃない」

 由利が珍しく美月たしなめた。だが女子部員は笑ってとりなした。

「いいえ、構いませんよ。実際、あなたが言う通りなんです。弓道は礼儀を重んじますから、一般の大会、審査はこの坐射で行われるのが基本です。勝つために的に当てることばかりにかまけてこの練習を日頃怠っていると、いざ本番ってときに複雑な作法の手順に気を取られ、本来の目的である弓を引くことに集中できなくなるんですよ。だけどそうなってしまったら、それこそ本末転倒もいいところでしょう? だから試合で平常心を保つためにも、普段から常にこの作法を練習して、体にその手順を染み込ませることが大事なんですよね」



「中り(あたり)!」
「外れ!」

 審判員の声が辺りに響いた。

「ねぇ、弓道って『あたり』と『はずれ』しかないの?」

 美月がこそっと由利に訊いた。

「うーん、さあねぇ。まぁ、武道だからねぇ。アーチェリーみたいなゲーム感覚ではないのかもね。○か×かの二択しかないんじゃない?」
「そっか、生きるか死ぬか、それだけなんだね、たぶん」

 それを横で聞いていた女子部員がまた美月に解説した。

「弓道はね、競技として大きく分けると、近的(きんてき)と遠的(えんてき)のふたつに分かれます。今、おふたりに見てもらっているのは近的です。最近は競技と言えば近的がほとんどです。近的は射位から二十八メートル先の直径三十六センチの的を射ます。射る矢の数は大会によって異なるんですけど、だいたい二本から多くて十二本程度かしら。今おふたりがおっしゃったように、的に中ればどこに刺さろうとも○、外れれば×です。真ん中が何点といった得点的(まと)使われません。的に矢が数多く中った人が勝ちです」
「へぇ、そうなんですね」

 

 選手が二回交代したあと、常磐井が他の部員と共に射場に入って来た。とたんに女子生徒の黄色い声援が弓道場に響き渡った。

「あらぁ。常磐井君ったら新入部員のくせにもう女生徒にこんなに人気があるんですね」

 女子部員がやれやれといったように首を振った。

「常磐井君って新入部員なんでしょ? それなのになんでもう迎える側になってデモンストレーションなんかしてるんだろ?」

 美月はまた、ぼそっとつぶやいた。

「彼はね、すでに中学のときに弓道大会の中学生の部で個人優勝もしてるし、上位入賞を何度もしているんですよ。うちの上級生の部員にはそんな華々しい戦果を挙げた人っていませんしね。彼は特別です」

 常磐井は射場に入る前に一礼した後、定められた位置につくと、やはり他の男子部員と同様に複雑な作法で、矢を二本つがえた。
 大きく足を扇のように広げて床をぐっと踏みしめると、今度はゆっくりと視線を矢筋に沿って的の中心に移し、顔を的の正面へと向けた。それから両手で弓を頭の少し上あたりまで捧げ持った。矢と両肩の水平な線がきれいに並行の線を描きながら、両腕が大きく均等に左右に開かれギリギリと矢が引き絞られる。
 由利は常磐井から遠く離れた見学席にいるはずなのに、彼のすぐ傍らで見ているような錯覚にとらわれた。
 今、矢をまさに放たんとしている姿は、この上もなく静かだ。決して猛々しく叫んだり、大袈裟な身振りや動作で表現しなくても、緊張した全身の筋肉は力強く膨張し、内に秘められた闘志は青い炎となって全身を包んでいるようだった。
 満身の力を込めながら集中して狙いを定めると、矢は放たれた。

バァーン!

 放つと同時に右手が勢いよく後方へと放たれ、両腕が横に一直線に伸び、身体が大の字になった。
 矢を放ったそのままの姿勢が数秒続いた。
「中(あた)り!」

 どっとその場が湧いた。

「!・・・」

 気が付けば由利は両の眼はうっすらと涙の膜におおわれていた。だがなぜか急に額から、冷や汗がしたたり落ちた。

「すごい! ど真ん中に命中だ!」

 だが人々の喝采がくぐもって遠くから聞こえる・・・。
 それを聞きながらふっと由利は意識が薄れていくような気がした。



「皆中(かいちゅう)! 各々方、**さまが放たれた矢、二十本すべて皆中でござりまする!」

 やはり弓道場と同じく、人々の驚きどよめく声が聞こえる。

「なんと、また!」
「さすがじゃ! やはり天下に名のとどろいた豪傑にござりまするなぁ!」

 気が付けば由利はまったく別の場所に座っていた。



ーえっ? あ、あたしは・・・?ー



 由利は御簾が降ろされた大床に金や紅が鮮やかな繧繝縁(うんげんへり)の厚畳の上に座っていた。五色の飾り紐が付いた桧扇で顔の半ばまでかざし、身体が埋まってしまうほど幾重にも重なった襲(かさね)の色目も麗しいたもとの大きい着物を着ていた。

ー重たい・・・ー

 つぶやこうとしたのだが、口が自分の思うように開いてくれない。
 大床の前の庭には、弓を持ち片肌を脱いだ男が遠くに立っていた。どうもあの男が今、矢を放って的に当たったらしい。由利はそう推測した。
 だが肝心の皆中にした当人の名前だけが、どういうわけだが聞き取れない。

「ほう、女御、そこもとのひいきの**がまた、的中であるぞ」 

 由利は隣の男の声にハッとなった。横にゆっくりと顔を巡らすと、やはり同じような厚畳の上に座り、冠を付け直衣を着用していた。「女御」とこの男は自分を呼んだ。するとこの男は帝で、自分はその妃ということになる。

 天下に並ぶべくもない男にどう応えるべきかと考えていたのだが、今度は口から勝手にことばがすらすらと出て来る。

「まあ、主上(おかみ)。酷い言われようでございます。わたくしは主上の妃なれば、すでに身も心も主上だけに捧げて参りましたのに」

「はは、まあまあ。よいではないか。やつはそなたを自分の命を呈して、窮地から救い出してくれた男ぞ。もそっとうれしそうな顔をしてもよいと思うがの」
「そんな・・・。主上。もちろんそれは、うれしいともありがたいとも思うておりますとも」
「さようか」

 帝は女御の完璧すぎる返答にぽつりと返したきり、しばらく沈黙していた。が、持っていた扇でどこか苛立たし気にぴしゃりと膝を打った。

「しかしそれにしても一度も外さぬとは、ソツがなさ過ぎて小癪な奴じゃ。それでは今しばらく続けさせようかの。あと何回放てば、的を逸らすであろうのかの? のう、女御」

 女御は帝のことばの端々に弓を放った男に対する嫉妬がにじみ出ていることに気が付いた。そしてやんわりと取り成した。

「主上・・・。さりながらもうよいではありませぬか。ご自分の大事な臣下を、それ、そのように試すような真似をなさらずとも」
「ほれ、そこもとは何かと、あやつをかばい立てする。そこがどうも気に入らぬ」
「ほほ、お戯れもそこまでになさいまし。どうぞ、主上からも褒めてやってくださりませ。すべては主上の栄えのためでございますよ。今日の宴に花を添えてくれたのです。ほかの殿ばらではこうはいかなかったでしょうから」

 女は努めて声を抑えてはいるが、誇らしげな気持ちでいっぱいだった。女の身体の中にいる由利にはそれがわかった。

「おお、そうよ。**は朕にとってたしかに大事な男。そうじゃの。女御の言うとおり、朕からもねぎらってやるとするか」
「それでこそ、わが君さまでござります」

 女御は頭を下げた。

 それから女はそばに控えている女房にそっとささやいた。 

「さあ、**を御前に連れて参れ。主上からお褒めのおことばがあるゆえ。妾(わらわ)からも褒美を取らせよう」
「かしこまりました」 

 しばらくすると件の男は大床の前に現れ膝をついた。

「主上、参上いたしました」

 帝はそれを聞いて機嫌よく声を掛けた。

「**よ、ようやった。さすがじゃ。それ、褒美を取らそう」

 帝は自分が今着ている着物を脱いで、それをそばの女房に渡した。

「主上から御衣(おんぞ)を賜りました」

 取次の女房が帝から手渡された衣をまた捧げ持ち、その男に手渡した。

「これは身に余る光栄!」

 拝領された御衣を押し頂きながら、男は深々とこうべを垂れた。

「ほれ、女御、なにかことばをかけてやれ。女御が口を閉じていては、**も皆中にした甲斐がなというものじゃ」

 由利もこの女が胸を高鳴らせながら何を言うのだろうかと、じっと耳をそばだてた。

「このたびそなたは、類なき弓の技でもって畏(かしこ)くも尊い主上を寿いだ。まことにめでたくも天晴なこと・・・。九重(宮中のこと)も二重(矢が二十本皆中したこと)の歓びに包まれておりましょうぞ」

 静かに女はそう言った。

「ありがたきおことば、身に沁みましてでございます」

 またしても男は深々と頭を下げたが、ふいに御簾ごしに顔をこちらに向けた。当然のことだが、初めて見る顔だ。やはり武勇の誉が高いとはいえ、典型的な貴人の容貌だと由利は思った。
 だがその男の目を見た瞬間、由利は心の中で思わず声を上げた。

「あっ!」





「由利! 由利!」

 身体を揺さぶられて、由利はうっすらと目を開けた。

「美月・・・?」

 由利はまたもとの世界に戻ったのだとわかった。

「由利、気分はどう?」

 美月が心配そうに尋ねた。

「あ、あれ? どうしちゃったのかな、あたし」
「うん、急に様子がおかしいなと思ってたら、ふら~と椅子から倒れて失神してた」
「失神? どのくらい?」
「うん、失神って言ってもほんの一、二分のことだけどね」

ーたったそれだけの間にあれだけの夢を見ていたんだー

 由利は身震いした。

「大丈夫ですか?」

 さきほどの女子弓道部員もそばに駆け寄って、心配そうに見ていた。

「あ、大丈夫・・・だと思います」

 由利は後ろに両手をついて、上半身をそろりと起こした。

「今日はいろんなところに見学に行っていて、皆さんの活動が素晴らしいので感激しすぎちゃって・・・」
「そうだよ、由利は感受性が強すぎるんだよ。何でもかんでも感動しちゃってたからさぁ、テンション高くなりすぎて、身体がそれについていけなかったんじゃない?」

 しばらくすると常磐井が血相を変えて由利たちのほうへ駆けつけて来た。

「倒れたんだって? おい、大丈夫か?」

 そういいながら常磐井は床に倒れていた由利を抱き起こそうとしてかがんだ。だが再び、肩に常磐井の掌が置かれた瞬間、由利は一瞬だったが、体が青白く光る雷で貫かれたように感じ身ぶるいした。そして思わずその手を乱暴に振り払った。

「やめて! あたしに触らないで!」


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境界の旅人 9 [境界の旅人]

第二章 疑問



 ほかにも、地学部、生物部と理科系もあり、ブラスバンド部、そして京都ならではの箏曲部もあった。ふたりはさすがに食傷気味になってぐったりしていた。

「ほんとにこの学校、よくもっていうほど、いっぱいクラブがあるね」
「ほかにもダンス部やアフレコ部もあるのよ」
「クッキング部もある。ワンダーフォーゲル部も!」
「いやぁ。もうこれ以上はムリっ! 目が見ることを拒絶してるよ~。もう感動する心の喫水線を超えたよ、完全に!」
「たしかにね・・・。なんかアクション映画を続けて五本ぐらい見ましたってカンジ・・・」

 ふたりが校庭に面したベンチに座りながら、それでも上級生にもらったチラシにチェックを入れていると、向こうから鎧兜の衣裳をつけた一軍に出くわした。

「美月、あれ、何? なにかのお祭り?」
「シッ! 違うわよ!」

 美月は黙れといったふうに、くちびるに指をあてて素早くたしなめた。

「うわぁ、彼女、タッパあるねぇ。いいねぇ。ウチに入らない?」

 戦国武将は由利を見るなり大声で叫んだ。

「あら、こっちの子もカワイイね。お姫さまなんかぴったりだね」

 普通の時代衣装の装束とは違い、いかにもゲームから飛び出てきましたといった恰好をした部員が口を開いた。

「えっ、え? 何をする部なんですか?」
「あ、うちのはね、まだ部には昇格してないの。コスプレ同好会なんだ~」
「・・・コスプレ・・・」
「楽しいよ。やってみない? 衣裳は自分たちで作るから洋裁の腕は向上するよ。ビジュアル的な美しさが求められるからね、化粧もするから当然、化粧技術も向上するよ。それからかなり難しいポーズもとらなきゃなんないんだ。だから体幹を鍛えるために運動も必要だよ。なんたってコスプレは自分の身体で表現しなければならないからね。もちろん演技力も必要」

 青いカラコンをいれた戦国武将は、立て板に水としゃべり出した。

「自分の写真も撮ってもらう代わりに他の人の写真も撮るわけだから、カメラの専門的な知識も身に着けられるし、ひとつの作品が出来上がるまでには総合的な知識や能力が求められるし、柔軟な思考力もつくから、ここで培った能力は社会に出ても還元できるよ、どうお?」

 たしかにそう思ってみれば、コスプレといえど、一口では言えないほど時間と力と努力とがかかっているように思える。そして燃えるような情熱も。

「へぇ~。すごいです・・・」
「じゃあ、コスプレ同好会に入ろうよ!」

 かなり押しが強い。

「だけどもうちょっと他の部も回ってから、考えさせてください」
 美月はことばに詰まっている由利に代わって、京都人らしく「考えさせてくれ」と婉曲に断った。
「彼女たちぃ~、いい返事、待ってるからねぇ~」

 コスプレ同好会の上級生は、まったくめげることなくフレンドリーに大きく手を振るという戦国武将にあるまじき姿で見送ってくれた。態度と装束にギャップがありすぎてシュールだ。

「どうするの、由利?」
「ええ? どうするって・・・? もちろん入らないけど・・・?」
「お姉さんたち、あなたにロックオンしてたじゃない?」
「いやいや、たしかにコスプレも面白そうだとは思うよ。だけどコスプレするためにわざわざ東京くんだりから京都へ来たんじゃないもん」
「うふふ、そうなの? 断るの大変そうだね」

 美月はさもおかしそうに笑った。



 向こうから小柄な少年がズボンのポケットに手を突っ込んでこっちへ向かってくる。それを見たとたん、由利の身体は凍りついた。

「あ、あれは・・・三郎・・・」

 隣にいた美月は別段驚きもせず、あたかも普段親しく接しているクラスメイトのように、三郎に声をかけた。

「あら、椥辻(なぎつじ)君」

 美月が三郎のことを、当たり前のようになんの躊躇もなく「椥辻」と呼んだことで由利は驚いた。先日あんなにしつこく名前を聞いても三郎は決して口を割ろうとしなかった。なのにいつの間に美月は三郎とこんなに仲良くなって、しかも苗字まで知っているのだろう? 

「ああ、加藤さん」

 三郎はこれまで見たこともないほど親し気な笑顔を返した。

「椥辻君も部活を見学?」
「まあ、そういうわけでもないんだけどね。じゃあ加藤さんや小野さんたちも?」
「うん。一応茶道部に入ろうってふたりで決めたんだけど、一度、入部しちゃうと他の部がどんな活動をしているかわかんないから。見聞を広げるためにも一応できる範囲で、見学できるものは見学しておこうかなって思って」
「ああ、それはいいよね。いかにも加藤さんらしい」

 三郎はウンウンといった調子で同意した。

「椥辻君はどこの部に入るつもり?」
「う~ん、部活もしたくないわけじゃないんだけど・・・。実はうちはね、ちっさい流派なんだけど能をやっているんだよね」
「あら、すごい。お家元なのね?」

 美月は感心したように言った。

「いやいや、家元なんて。そんな大それたもんじゃないよ。普段オヤジは会社勤めしてるし、お弟子さんといっても二十人ぐらいの細々としたもんなんだけどね。ただ室町時代から続く古い流派なんで、絶やしちゃもったいないっていう理由だけで存続しているようなモンなんだけど。だけどこの間オヤジがぎっくり腰になっちゃってさぁ、舞えないもんだからね。代わりにおれが師範代としてお弟子さんたちを教えなきゃならないんだな。だから放課後はまっすぐ家に帰らなきゃなんないんだよね」
「へえ、大変じゃないの! お父さん、大丈夫?」
「うん、まあまあ。レントゲンを撮ってもらったら、さしたる異常もなさそうだし。日にち薬で良くなっていくんじゃないかな?」

 一体何のこと? 三郎は能の家の跡取り? あの子は天涯孤独の身じゃなかったの? 由利は頭がおかしくなりそうだった。

「うん、まぁ一時的なことだからさ。オヤジの腰がよくなったら、ぼくもどっか入ろかなぁと思ってさ。一応目星ぐらいはつけておこうかなって思ってね。わりと気楽に参加できるものに限られるけど」
「そうね。ワンダーフォーゲル部とかリクリエーション的な部活もあるわよ」
「ああ、なんかよさそうだね」
 しばらく間が開いたあと、美月が改めて感心したように言った。
「それにしてもねぇ。椥辻君が能をねぇ。すでに師範代として教えてるわけなんでしょ? すごいねぇ」
「まぁさ、小さいころからやらされてるからねぇ。でもさ、家の中のことしか知らないのもどうかと思うよ」

 三郎のあまりの豹変ぶりに由利は口も利くこともできず、ただただあっけに取られてそれを見ていた。



 そこへ稽古着に着替え弓を携えた常磐井が、連れと思しき何人かと一緒に男子更衣室から由利たち三人のところへ通りかかった。常磐井は三郎を目にすると、ハッとなって一瞬表情が険しくなった。急に群れからひとり離れて、ずんずんと由利たちのほうへ駆けて寄ってくると声をかけた。

「やあ、加藤さん、小野さん。これから見学?」
「あら、常磐井君。え、ううん。もう帰ろうかなって思っていたとこ。ちょうど椥辻君に会っちゃって。えっとあなたは弓道部?」

 ものおじしない美月が答えた。

「ああ、オレたち今から稽古なんだけど、よかったら見てかない?」
「ううん、わたしたちもう茶道部に決めたところなのよ。せっかく誘ってくれたのに申し訳ないんだけど」

 常磐井はそれでも執拗に引き留めた。

「そんでもいいじゃん、せっかくいい機会なんだからさぁ。弓道って高校生の部活としては思いっきり珍しいんだぜ? 記念にオレが弓をまっすぐに命中させるからさ、オレのシビれるようにカッコいい雄姿を見てってよ」

 いつも無口で、愛想のない常磐井がこんなふうに冗談交じりに茶化しながら誘ってくること自体、尋常ではない。裏に何かあると由利は踏んだ。

「おーい、おまえら、この子たちが見学したいんだとさ! 弓道場の方へ連れて行ってやってくれないか!」

 常磐井は他の部員に声を掛けた。他の部員は分かったといったように「おう」と一声叫んで、大きく手を挙げた。

「あ、悪いけど先に行ってくんないかな? オレもあとですぐに行くからさ」

 そして美月と由利を三郎からさりげなく引き離そうとした。

「さあ、あっちへ」

 常磐井は仲間たちがいる向こうのほうへ送り出すために、由利の背中に手を押し当てた。



「!」

 この感触!


 由利はめまいを感じた。
 あたしはこの手を知っているような気がする・・・。
 なぜ? ついこの間知り合ったばかりなのに?

「あら、常磐井君、どうしたの? 一緒に来ないの?」

 美月が訊いた。

「あ、オレさ、アイツにちょっと用があるから・・・」

 常磐井は名前を言わずに目で三郎を制した。

「ちょっと言い出しっぺが何よ! 常磐井君! すぐに来てよ!」
「おお、解ってるって!」

 由利は気になりながらも三郎に近づいて行った常磐井の傍から離れた。

 常磐井は辺りに三郎の他に誰もいなくなったことを確かめると口を切った。

「おい、おまえ、どんな魂胆があってここにいる?」

 常磐井は小柄で華奢な三郎を見下ろしてすごんだ。

「何のことでしょう? 常磐井さん。ぼくはただ加藤さんたちと話をしていただけだけど?」

 三郎はそんなことはまったく意に介していないというふうに、すました顔で受け流した。

「フン・・・。みんなは騙せても、このオレは騙せないからな。術を掛けただろう?」
「ああ、あんたも術にかかってくれない面倒くさい人間のひとりなんだね」

 フンと三郎は鼻で嗤って、挑むような眼で常磐井を見上げた。
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