小説を書く時、仲間は必要か [雑文]

こんにちは。

残暑も厳しいですねぇ。気温が高くてしんどいというより、
蒸し暑くて辟易しますね。

今日は私の悩みを聞いてください。
出口のないループのような愚痴になる予感もあります…。

私は八月の終わりぐらいに、それまで書いていた小説をやっと脱稿できました。
時代は江戸で徳川家の家門である殿様とその殿様の注文を受けた絵師の話がメインなのです。

そもそもこの小説は娘に「こんな面白い画家をNHKの日曜美術館で紹介されていたから、この人の小説を書いてみたら?」と勧められたことにあります。


それを言われるまでその画家の名前すら知りませんでした。
ですが名前こそ、知られていなかったものの、描いている絵がことごとく、
国宝か重要文化財に指定されているので、上手い画家だったことには違いないのですね。

わたくし、日本史にはほとんど興味がなくて、
というのも日本の武家社会には片諱という習慣がございまして、
例えば、信長の家来だったら信長の「信」という字を貰うか、あるいは「長」という字を貰う人が続出するので、みんな同じような信康とか、信雄とか、似たような名前ばっかり。
覚えにくいんですよ。

未だに京都所司代を務めていた人の名前が板倉重勝なのか、勝重なのか覚えられないし、






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あ、そうそう、すぐに脱線しますね。

小説の話だったです。

で、四月の頭から書き始めて、八月いっぱいまで書いていました。
字数にして約20万字あまり。

その前の半年は関連する本を約50冊ほど読んで勉強していました。
いやぁ、日本史って難しいですねぇ。
政治史と徳川家の話と、絵画史ですかね~。
あと、17世紀初頭の、人々の暮らしとか、お金の値とか…。


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まぁ、そんなことはモノを書くなら当たり前なんですけどね。


私は、小さい頃から小説を書きたいなぁと思ったことは一切ありませんでした。
本を読むのは好きでしたが、だからといって高尚な本が好きだったわけじゃありません。

小説書いてみたいなと思ったのは、子育てが終わった四十代後半からです。
初めは人称などどうやって決めていっていいのかすらわからず、本当に暗中模索でした。

結局、誰にも教えてもらわないで一人で書いていたんですよね。
でもさ、ひとりで書いていると自分が本当に正しい道を歩いているのかどうかでさえ、
覚束ないものなんですよ。


それでプロになりたいわけじゃないですが、公募に出すわけですね。
最初なんか、一次選考なんて通りすらしないです。

でも、誰かに読んでもらってなにがしかの反応が知りたいわけですよ。

でもね、私、ある時わかったんです。
素人の人に批評してもらうのは、あまりにも無謀だということを。
モノを書いたことすらない人になにがしか利益のあることを聞こうとしても無駄です。

なぜなら彼らはその道に精通しているわけじゃないから。

また、批評してもらうのに、ただのところも危険だと思いました。
noteを検索していたら、それはどういうシステムなのかわからないのですが、
あるセミプロみたいな方に、自分の書いた小説を批評してもらい、それをnoteに掲載しているのがありました。

読んでいて、怖くて鳥肌立ちました。
もしこの批評される方が100パーセント正しいとしても、
放たれる言葉がどうしようもなく、きつい。

こんな批評を頂戴したら、私なら自殺したくなりますね。

しかもその方は駄目であることを、きちんと「こういう表現がダメだからやめましょう」
とはおっしゃらないで「稚拙すぎて読むに堪えない。こんなものをまともな思考を持った人間が書いたとは思えない」ってすごいですね…。


これね、感覚的に「駄目だ、とか、面白くない」なら誰でも言えるんですよ。
いくら文章がダメだからといって「まともな思考を持った人間が書いたものとは思えない」なんて
人格攻撃じゃないですか。

そうではなく、ダメなところをきちんとわかりやすく指摘し、どうすれば改善できるのか、
詳しく相手に伝えることができるのが、ものを教える人の基本的な姿勢だと思います。
もちろん、改善したからといってプロの書く作品には遠く及ばないでしょう。
しかし上達するように指導するのが、この場合一番大事なことです。
文章がダメなら内容を云々しなくても、まずそのことを何よりも先に伝えてあげるべきなのです。

私はそう、強く思いましたね。



まぁね、私も日ごろ思うところはあって、
それはイラストや漫画を添削されているペガサスハイドさんも仰っていることなのですが、
「出来ないことを無理してやることよりも、今、自分ができることは、100パーセントできるようにしておく」ってことです。

たとえば話自体のセンスも悪く、構成も悪く、登場人物の魅力にも乏しいかもしれないです。
でも正しい日本語を書くことなら(文法として正しいのか)努力次第でできるわけですよ。

主語と述語がきちんとあっているのか、とか、修飾語は正しいのか、とか
文章がねじれていないか、とか。
単語を重複して使っていないかとか(これはね、推敲しても推敲しても、なかなか全部発見できない難しい作業なんだけど)

とりあえず、何度も何度も推敲します。
でも、それが多すぎるとは思いません。もっと徹底されている方はなんぼでもいらっしゃると思います。


あと、無知による思い込みっていうのも、払拭しなければならない大事なことだと思いました。
実はわたくし、ついこないだまで、薙刀と槍って同じようなもんだろうと思い込んでいました。
しかしふっと「薙刀という名称と槍という名称が違う以上、なにかが違うはずだ」と思い、調べてみました。薙刀というのは刀と一緒で、半身だけ刃なんですね。それに反して槍というのは、遠いところからグサッと相手を衝くので両側が刃なのです。

平安時代は薙刀が主流だったらしいですけど、戦国時代になると長槍オンリーになっていったらしいです。


とこのように、文章も難しいけど、時代に即したものの名称なんかも細かく調べて行ったほうがいいんんですよね~。文章を書き続けて行くと、そういうことを「疑ってみる」っていうセンスも培われていくような気がします。(最初はそういうものに疑問すら感じられないものです)


自分が思う小説というのは、ある時代、ある国、ある場所、さらには実在の人物の姿を借りて、
自分の世界観、自分の思考、自分の信念を書く作業であって、嘘の塊なんです。

しかしそういう大きな嘘をつく時は細かいところは真実を書かないと、読者には非常に薄っぺらい印象しか与えられないものなんじゃないかなぁと思っています。

ま、これは私の考えなのでそれとはまた別な考えをお持ちの方もいらっしゃいましょうが、
芸術には「これが正解」というものがないのが、非常に難しいところではありますね。






こないだ、noteでアマチュアの大人の文芸クラブの会員を募集していました。
しかし、募集の要綱のところに
「プロは目指さない文学好きが集まって、ワイワイ楽しくやりましょう」
ってところにちょっとひっかかりを感じてしまって…。

いや、プロにはおそらくなれないでしょう。
しかし、プロの書いたものに少しでもいいから、
近づくような努力はすべきだと思うんですよね。

正しい文章が書けたなら、もっと美しい文章を目指すべきだと思うし、
それが出来たなら、もっと上手な構成ができるように目指すべきだと思うし…。

「どうせアマチュアだから、下手でいい!」
で推敲もしない人とは仲良くなれない気がするんだなぁ…。
どうもそこらへんの温度差というのが気になる。

文章の上達の進捗状況なんて、本当に人それぞれなんで、
「この人はもう、プロと言ってもいいんじゃないか」と思う人もいれば、
「いやぁ、何から何まで全部できてない!」と思わされる人も中にはいるわけですよ。


ピアノだってさ、バイエルが覚束ない人と
ツェルニー50番とスクリャーピンのエチュードを習っている人とは
おのずと悩みが違うんですよね。

でも文章の世界って、ピアノほどはっきりとレベルの違いが人には判断つけにくいものなんだと思うのですよ。


と言う訳で、誰かに相談したいと思っても、できないのが現状です。
結局ね、自分が書いたものを後で読んでみて、
「あ、ここはいかんなぁ」と思えたなら、上達している証拠です。

で、まぁ、最終的な結論としてはですね、
作品をひとつ書いたなら、プロにお金を払って添削してもらう、あるいは講評してもらうことです。

決して安くはないです。しかし相手もお金というものが介在している以上、
「へたくそ!」とか「読むに堪えないので5ページで止めてしまった」とは言えない訳です。
まぁ、実に嫌な言い方になりますけど、そういう風に放言してしまうのが、
やはりプロになりきれていない人の忸怩たる思いというか、
ジレンマがそこに現れているような気がしないでもないですけどね…。




やはり「常に先達はあらまほしきものなり」、というようにですね、
プロに教えてもらうのが、一番近道のような気がします。
非常に孤独ですが…。






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