明日から最後の推敲 [雑文]

去年の4月に約半年掛けて書いたものを
二か月寝かせて、その三分の二を削り取り、
いわば、ぶよぶよとしたぜい肉的部分を切り落とした。


これに約二か月かかって、
それが終わったのが、今年の一月末。


人間っていうのは、自分が一生懸命書いたものに
固執しがちでバサっと削除したり直したりすることが
なかなかできないものなので、

それから約一か月ほど寝かせておいて、
その間、編み物や読書などしていた。

だけど、頭のどこかで気になっているんですねぇ。
今日、ありがたいことに主人がプリントアウトしてくれて、
私はまったく他人が書いたものを読むような気持で
原稿にアカを入れなければならない。

結構、今、緊張しています。



そして四月にはプロが文体なり構成なりを批評していれる
有料のサイトに預けます。

今回は時代劇なので、もしかしたら致命的に間違っているところもあると思うので、
かなりのお叱りも受ける覚悟でいます。


それを直して、全体の使う漢字、ひらがなにすることばなどを統一し、チェックをしたあと、
さる新人賞に応募するつもりでいます。


小説を作るって、結構体力がいるので、趣味だといっても
いつまでこれができるんだろうと不安になりますが、
できるところまでやろうと思います。


書いているときは孤独でとても苦しいのですが、しかし
それでも一つの作品をゼロから作り出す作業というのは、
やはり何とも言えない達成感があります。


私、高校では日本史は取ってないので、
とにかく戦国時代の通史、それから
「天下人になるということはどういうことか」
「江戸幕府とはどういうしくみか」
「江戸初期の人の風俗、楽しみとはなにか」

などまったく知らなかったので、本は軽く50冊以上読みました。
これまで、歴史は書物を中心に考察されてきたのですが、
新に図像学といって、当時描かれた絵を基にして、
歴史を考えるという新たな分野も出てきたりして、
絵を見ながら、本に描かれているところを探して理解するのが
本当に大変でした。


でも、本を書くという目的がなければ、こんな面倒くさいことは金輪際やらなかったと思います。

本を書くことは、旅をすることに似ている、、、、と思います。
思いっきり想像力を働かせて、自分でその世界を作り、その中を歩いているような感覚。


あしたからは精神を集中してコトに当たろうと思っています。
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癒したがりの卑しさ [雑文]

最近、仏教の歴史の本を読んでいる。

大雑把にいって、タイやチベット、中国、日本の宗教が
ひとくくりに「仏教」と言ってしまえるのなら、

「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」なんか
もっと狭義のひとつの宗教と言えそうだ。

だいたい、三つとも「旧約聖書」(旧約聖書という言い方はキリスト教だけで通じるものだけど)
という同じ聖典を使っているわけだし。



仏教の始祖と言われる、ゴータマ・ブッダは
おそらく、自分が新しい宗教の始祖だと思って活動してないと思う。
(そういう意味ではイエスも同じかな)

たぶんゴータマさんは自分はバラモン教を信奉していて、
その教義にある「輪廻転生」から解脱して、二度と今生に生まれ変わらない涅槃へ
いくために修行していたのだ。


だから、生きているときには、「涅槃」へ行くためのハウツーを説いていたのであって、
まさか自分がホトケとして拝まれるようになるとは思いもしなかったに違いない。


原始仏教からテーラワーダ仏教ぐらいは、ブッダの教えの片鱗ぐらいは残しているが、
大乗仏教となると、これはもう別の宗教というか、
カトリックでいえば、カタリ派ぐらいの異端宗教へと変容していくのだねぇ。



だけど不思議なことに仏教って、「異端審問」ってことをやらないんだわw
昔カトリックなんかはキリストをどう位置付けするかで侃々諤々の論争をしていた。

神に最も近い人間とする「アリウス派」は論争に敗れ、異端。
母マリアの神性を認めていた「ネストリウス派」も異端。
これは景教として日本にまで来ているよ。(太秦寺はもともと景教寺院ではなかったかといわれている)


だけど仏教ってどんどん変容しても、
「まぁ、それが好きならそれを信仰すれば? こっちはこっちでやりまっさ」
って感じでどんどんお経も増えるのよね~。
(浄土三部経のひとつ、大無量寿経で実は中国製って言われてる)
(あと、父母恩重経は、儒教色の強い中国で生まれた偽経であって、
 そもそもインドには「孝行」という考えはなかったとか)


もともとゴータマさんは輪廻転生を脱出する方法を編み出したのであって、
ゴータマさんを拝んだって、呪文を唱えたって、輪廻転生の輪から逃れることができないはず。

だけど、いつしか人はゴータマさんを拝む対象に変容させ、
なおかつ、実在しないもっともっと強力な仏がいると夢想する。


それは大日如来であったり、弥勒菩薩であったり、阿弥陀如来だったりするんだね。
なんかここらあたりは、仏教のグノーシス化なのではないかとすら思えてしまう。





でも、私はキリスト教で育ったんで、キリスト教には普通の人より
親しんでいるけど、
仏教はさっぱりだったんだよね。

だってさ、手塚治虫先生のあの超巨編「ブッダ」を読んだって、
なぜうちの仏壇には阿弥陀さんがいるのかはわからないじゃないの。



そこには大乗仏教の教えがあって、空の教えがあって、中国の善導さんというえらいお坊さんが
浄土思想というものを説かなければ、出て来ないものだったんだね。


でも、仏教世界って深淵で、なかなか華厳の教えとか、空の思想とか理解できないので、
まだまだ仏教関係の本は読み続けると思います。



でも私がなんとなく感じるのには、仏教はインドで信仰されなくなったのではなく、
ヒンズー教に同化していって、吸収されてしまったんでしょう。


だって、帝釈天なんてインドラだよ。
弁天さんだって、川の女神サラヴァスティ、
ブラフマーは梵天、
大黒さんはマハーカーラ、
お稲荷さんはダキニと
私達が拝んでいる神様のほとんどはインドのヒンズー教の神様なんだもん。


そしてついにブッダもヴィシュヌの化身(アバタール)のひとつと見なされているの。


非常に興味深い。

やっぱりもっともっと追求せずにはいられないよね。



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さて、ここまでが前ふりです。長いね。


私、たいてい編み物しているときは、ラジオを聴くみたいに、
YouTubeを流しながら仕事していることが多いんだけど、


この間、たしか松原タニシさんのラジオ番組で
融通念仏宗のお坊さんとの対談があったんですよね。


いろいろ面白い話をされていましたが、
そのとき、お坊さんが
「人はとかく可哀そうな人も見ると、親切をしたくなるものだ。
 で親切をするとどういうわけか、気持ちよくなれるものなんだ。
 ともすれば(自分が気持ちよくなりたいがために)人を癒そうとする卑しさがある。
 だから親切をするときは、気を付けなければならない。
 
 親切をしてあげた、と思ってはいけない、親切をさせてもらう機会を仏さまに与えてもらったと
 感謝するべきなので、決して驕ってはならないのだ」


 う~ん、めっちゃ深く、含蓄のあるお話で、私、思わず雷に打たれたようにハッとなりましたね。

 それにね、親切って、しているほうは親切と思っていても、
 相手にとってはすごぶる迷惑、ということも大いにある。


 歩いていて道を聞かれるぐらいなら、即答したらいいと思うけど、
 やっぱり人になにか特別なことをしようと思うときは、
 よくよく考えなきゃならないんだよね。


 うちの母は、よく贈り物で本当にがらくたみたいなものを送ってきたよ。
 だけどさ、「よかったでしょ? センスいいでしょ? 嬉しいでしょ?」

 で「ありがと、ありがと、ありがと」
 を三か月くらい言い続けないとめっちゃ怒りまくる人だったね。

 認証欲求が強すぎるのかなと今なら冷静に分析できるけど
 人に何かを上げるときはぶっちゃけ「何が欲しいか」聞いてみるのが一番いいと思う。

 サプライズがなくていや!っていう人もいると思うけど、
 私、サプライズのプレゼントで嬉しいと思ったこと一度もないもん。笑

 まぁ、嬉しいのは食べ物ぐらいかな。
 でも、今、ダイエット中なので、甘いものもらうと困るしね。


 話は脱線しまくりですが、とにかく、自分の今の行動は「偽善かもしれない」と
 一度疑ってみてもいいと思うよ。

 自分は善人だと信じて疑わない人は、自分は悪人だ、悪いことをあえて相手にやっているな、
 と意識的にやっている人より、鈍い分だけ罪が重いと私などは思うのであります。







 


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