オーストラリア [読書・映画感想]

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昨日、以前から「いいよ」と言われていた「グレイテスト・ショーマン」を見ようと
アマゾン・プライムに行ってみると
残念なことにもう終了していました。

本当はドラマを見てもよかったのですが、
でもドラマって見るまでがなんとなくおっくうになりがちです。



というわけで、HULUでもうすぐ終了になる『オーストラリア』を見ました。

主演はニコール・キッドマン。
わたしの大好きな女優さんです。

結構男勝りの女傑、みたいな役どころをさせるとうまい。

彼女は長身で、おそらく180センチと世間的には公表されているけれど、
おそらく逆サバを読んで本当のところは182センチくらいだろうというのが
世間で通っている噂らしいです。

それにただ美しくて勇ましいというだけじゃなくて、
こう包み込むような母性溢れた演技力、
そして、持ち前の何とも言えないかわいらしさっていうのが
この女優さんにはありますね。

しかもやはり主役を張れるだけの、
華ってものを持ち合わせているように思いますし、
途中でダンス・パーティのシーンがあるのですが、
スタイルのよい彼女が素敵なドレスを着ていると映えます。

そして見るまでは知らなかったのですが、
ニコール・キッドマンの恋人役には
まさかのヒュー・ジャックマンでした。
ニコール・キッドマンのお相手をする男性って
ほとんど190センチ近い超高身長の男性がほとんどですw

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さて、ですね。

この『オーストラリア』という映画ですが
タイトルの通り、第二次世界大戦中のオーストラリアを舞台に、
話は進んでいきます。

この映画はレディ・アシュレイことニコールキッドマンと
ドローヴァー(牛追い)こと、ヒュー・ジャックマンの恋を縦軸にして
いろんな話が重層的に織りなされているのです。
大きく言えば、この映画のテーマは『差別』でしょうか?


ふたりの素敵な恋の話は、実際映画を見て楽しんでいただくとして
ここでは差別について少し、語っていきたいと思います。

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いろいろとこの映画には差別が出てきます。
女への差別、人種差別、階層的な差別 。などなどなど。

差別というのは「差別する側」が「差別してやろう」とか「悪いことをしてやろう」という
意識が全くない、というのが一番罪深いっことなのですね。


「やって当然」とか「そうするしか自分たちの安寧は守られない」
あるいは「こうするのが相手側にとっても幸せはなず」
「社会的な秩序が守られるためには仕方がなかったんだ」

ってことを言いがちです。
ですがこういう意識が行きつくところまで行くと
戦争になる、ってことをよく覚えていてほしいのです。

戦争とはどちらの側にも「大儀」があり、どちらの側にとっても「聖戦」です。
どちらも自分たちのほうが「正しい」と信じて戦っているのですよ。

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で、このオーストラリアで取り上げている大きな差別とは何なのか?
それを少し説明したいと思います。



オーストラリアは『白豪主義』っていうのを 貫いていました。

『白豪主義』って聞きなれない方のために、一応説明いたしますと、
「オーストラリアにおける白人最優先主義とそれに基づく非白人への排除政策」とのことです。
つまり、白人が入植するまでオーストラリアには先住民族であるアポリジニの土地でした。
ですが、白人が様々な手段でアポリジニを駆逐していこうとしていたのですね。




で、この映画の大きな骨子になるのですが、
『盗まれた世代』と呼ばれた人々がいます。
どういう人たちかというと、アポリジニと白人の間にハーフの人たちのことです。

国はこういう混血の子供をアポリジニの親元から引き離して
一か所にまとめ、
白人と同じ価値観の教育を受けさせようとします。


でも一見、無知蒙昧なアポリジニにから文明の開けた環境で育ててやるんだから
結果的にいいじゃないかと思われるかもしれませんが、 本当はそうではありませんね。

だいたいにしてアポリジニの人々を「無知蒙昧」とか「文明を持たない」と思っているのは
上から目線の白人たちなのであって、
アポリジニの人たちは自分たちの伝統や文化に沿って 生きているのです。

文化の多様性というのを全くもって認めようとしない きわめて視野の狭いものの見方でしたが、
当時はそれが当たりまえでした。


そしてまたこれには裏の側面がありまして、
白人はこういう中途半端な人間をそばに置いておきたくなくて、
「教化する」という体のいい名目を使って
アウシュビッツのように収容していただけなのですね。

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レディ・アシュレイの牧場には
ひとりのアポリジニと白人のハーフの子供がいるのです。
名前は『ナラ』といいました。

どうやって生まれたかというと、白人男性がアポリジニの女性を強姦した結果、
生まれた子供なのです。

レディ・アシュレイはこのナラを非常に愛しく思い、
わが子同様に育てます。
でも当局の手が伸びて、
執拗にナラとレディ・アシュレイを引き離そうとするのですね。



レディ・アシュレイが「正式に縁組してこの子は、私の子供として
責任をもって育てる」と言っているのに、
「女のたわごと」として世間は非常に身分が高いレディ・アシュレイといえど、
本気で取り合おうとしないのです。

それがまぁ、女への差別ですよね。


レディ・アシュレイで『伝道の島(世間から隔離された一種の収容所)』に連れていかれそうになっているナラに取りすがって、話されまいと懸命になっているのに、それを見守っている人々の目は冷ややかです。
「貴族のくせにみっともない。みんなの前で愁嘆場をやらかして」
こういう場合、女性のほうがさらに差別に追い打ちをかけますね。



ですが、反対に言えば、
白人で男性でさえあれば、こういった力の頂点に立つことができるので、
結構悪辣なことをしても、世間が容認しているってことが
非常に恐ろしいなと思いましたね。

ちょっと前の世の中というのは、そういうことが当たり前の世の中だったんですよ。

今じゃ生まれたときから参政権はあるし、財産の相続も認められる、
男と同等な教育も受けることができる。
(とはいえ、まだまだ差別というものは、この世からなくなってはいませんが)

ですが、これは過去にレディ・アシュレイのような女性たちが
孤独に耐えながらもひとつひとつ、勝ち取ってきた尊い権利なのです。




そして一度はアポリジニの女性と結婚していた
世間的に見れば脱落者であるドローヴァー(ヒュー・ジャックマン)
とナラを取り返しに行くという話でもあるのです。

この三人は全く血のつながりはありませんが、心情においては
レディ・アシュレイは母親だし、ドローヴァーは父親なんですよ。

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そしてもうひとつ、大事なことがあります。
アポリジニとしてのアイデンティティということでしょうか。

実はナラのお祖父さんは、なんというのかなぁ、
一種の賢人というか、魔法使いというか、
そういう神聖な人なのですね。

裸にふんどし一丁という姿ですが、
荒れ果てた大地にフラミンゴのように片足だけで立っている姿は
威厳に満ち溢れています。


この人は神の声が聞ける人なのですね。
ま、一種の預言者なのです。




アポリジニの子供はある年齢に達すると
旅に出なければならないのです。

それはアポリジニとして生まれた男の子なら
どんな子でも体験しなければならない
通過儀礼でもあるし、
またそれを潜り抜けたことで、
一人前の男になっていくのですね。

レディ・アシュレイは母性の人ですから
自分の息子から引き離されるのを拒みます。

ですが、ドローヴァーは男ですから
そういう通過儀礼の大切さを身をもってよく理解しています。

「行かせなければならない」って
レディ・アシュレイを諭すんですね。

やはり男と女の役割ってそれぞれあるんだなぁって
見ていて決壊していました。

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ニコール・キッドマンは『ライオン』っていう映画でも
インド人の孤児を引き取るオーストラリアの女性の役をしていました。

また実生活においても、養子をふたり育て上げています。

血がたとえつながらなくても、親子の絆はつなぐことができる、
そしてまた、実際の血縁というものよりもずっと、
そういう精神的なつながりのほうが大事なんだと
映画を見る人に訴えかけているようにも思えるのですね。


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