境界の旅人 6 [境界の旅人]

第二章 疑問
 


「ただいまー」
 由利は玄関の戸をガラガラと開けて家の中へ入ると、靴を脱がずにそのまま玄関と居間の間にかけられている目隠しののれんをくぐり、真っすぐ家の中へ一直線に引かれた土間の奥へと進んだ。祖父は台所へ入って来た由利を見て、安心したように声をかけた。
「おお、由利。帰って来たんか。何や、えろう遅かったやないか、なんぞあったんかと思うて、心配しとったところやで」
 辰造は味噌汁に入れるための大根を千六本に刻み終えたところだった。
「ああ、ゴメン、ゴメン。途中で学校の友だちにばったり会っちゃって。つい話し込んじゃったもんだから」
 由利は祖父の手伝をするために、流しで自分の手を洗いながら謝った。
「ああ、そうかぁ。もう友達もできたんか。それやったらええけどなぁ」
 由利が帰って来たので、辰造はあらかじめ頭とはらわたを取り除いたにぼしと昆布の入った鍋を火にかけた。

 居間でちゃぶ台を挟み、ふたりできちんと正座して晩御飯を食べた。
 献立は塩サバの焼き物、そして大根の千六本とわかめの味噌汁。そして件のお揚げと分葱のぬた。
 そして箸休めとして、昆布の佃煮と柴漬けが食卓に出された。至って質素。しかし家で作った湯気の立った食事は、一人で食べるコンビニご飯と違って格段においしい。
 夕餉を食べながら由利は辰造に訊いた。
「ねぇ、どうしてこの家って、こんなふうに家の一方にドスーンとまっすぐコンクリートで固められた土間があるの? 台所へ行くのにいちいちつっかけに履き替えなきゃならないの、面倒じゃない?」
「ああ、この土間はな、『通り庭』とか『走り庭』とか呼ばれるもんなんやで。昔から京都にある町屋は基本的にはみんなこんなふうな作りやで」
「何でなの?」
 由利は不思議に駆られて祖父に訊ねた。こんなふうに廊下もなくて、縦に長い続き部屋は奥の部屋まで行くには必ず途中の部屋を通らければならないので、プライバシーも保てず、使いづらいと思ったからだ。
「それはな、まぁ、理由もいろいろあんねんけどな。京町屋っちゅうんはたいてい間口が狭うて、奥行きが長い。由利は聞いたことないか? 『京の町屋はうなぎの寝床』ってな」
「ううん、聞いたことない」
「そうか、今の子は何にも知らんのやなぁ」
「うん。だってここに来るまで見たこともなかったんだから仕方ない」
 由利は少し口をとがらせて答えた。
「ま、いいわ。それはおまえたちの責任というより、わしら大人の責任や」
 祖父は機嫌を損じた孫娘をなだめるように言った。
「せやしな、こういう『うなぎの寝床』の京町屋は、奥行きばっかりがめっぽう長いやろ。それなのに京都は盆地やしな、夏はえろう暑い。だから夏はこういうふうに玄関から裏庭まで一直線に道を通して、風がすうっと家の奥まで入るようにしてあるんや。家に暑い空気が籠らんようにするためにな」
「そんなので涼しくなるの?」
「まぁ、昔は冷房みたいなしゃれたもんは無いからなぁ」
「ふうん。でも、そりゃそうだよね」
 由利はサバの身をほぐしながら相づちを打った。
「そんでもって昔は今みたいに台所に換気扇みたいなものもない。それにやな、そもそも京町屋はどこも隣の家とぴったりくっついておるやろ? だから換気扇を付けたとしても、煮炊きした空気を側面に逃がすわけにもいかんのや。それで昔の人も考えたんやろな。こういう作り庭の上は吹き抜けになっておって、『火袋』っちゅう一種の換気口が取付られたんや。まぁ、雨の日もあるよって、そこから雨が入ってきてはたまらんから、屋根の上に『煙出し』って小さい屋根がついている。由利も今度外に出たら、よく辺りを観察してみるといい。つまりかまどによって熱せられた空気は、天井に向かって上昇していく。そこから熱気は火袋を通って外へ出ると。そういうこっちゃ」
「ふうん、そうなんだね。たしかに夏なんかはクーラーもないところで熱気が籠っていたら住めないよ」
「そうやろ? それにたいていの場合、昔はへっつい(かまどのこと)の側には井戸が掘られていたもんやで。うちはだいぶ昔に井戸が枯れてしもうたんで、井戸を埋めてしまって、今はのうなってしもうたんやけどな」
「ふうん。たしかに井戸から水を汲み上げて濡れることも考えたら、やっぱり土間のほうが便利なんかなぁ」
「まあな、しかし京都も家というのは何事も冬よりも、夏のことを考えて作られているもんやから、冬は寒いんや。土間にストーブを置いてもな、ほとんど地面に熱が取られてしまって暖かくなりよらん。一月二月はしんしんと底冷えがするさかい、足先がじんじんと冷えてきよる。まぁ、これまでずっとそうやって過ごして来たけれど、冬場の炊事ってもんも、なかなかにあれは辛いもんがあるわ」
「ああ、だから兼好法師も『家の作りやうは夏をむねとすべし』って言っているんだね」
「おお、由利。『徒然草』か。よう知っとるな」
「うん、中学のとき、国語の時間で習った」
「そうやで。昔からこの日本ちゅうところは、それだけ夏は暑くて、大変やったっちゅうことやな」
「ふうん。他に特徴は?」
「あとは採光の問題や」
「採光?」
「そうや。由利は気が付いているか? 京町屋は側面に窓がない。こういうふうに両端がべったりと隣の家にくっついているとよその土地のように窓をつけるわけにはいかんのや。だから工夫せんと家の中は昼間でも真っ暗や。昔は今みたいに電気が通っているわけやないからな。電灯を点けるっちゅうこともできなかったんや」
「ああ、なるほど。それはそうだね」
「だからさっきの換気の話にもつながるわけやけど、要するに外光を求めるとすれば、それは自分とこの天井をどうするかしかなかったっちゅうことやな。それで天窓や」
「そうか、昔の京都の町屋は光をどうやって取り入れるかが最重要事項だったんだね。でもさ、機能性ってこともあるかもしれないけど、天窓ってきれいだよね」
 由利は初めて祖父の家に来たとき、天窓を通して暗い室内に明るい光が洩れ入るのを見て神秘的で美しいと思った。中学生のとき、訳もわからず読んだ谷崎純一郎の随筆『陰翳礼讃』で述べられている暗闇の中の底に浮かぶ光の美というものが、これで少し解った気がしたのだ。
「そうやねん。だから天窓を付けたり、細長い間取りでも裏庭や中庭を付けたりしてそこから光を取り入れるように設計されているんや。一口に京町屋いうてもいろいろと種類があってな、八百屋や魚屋みたいに店土間あるとこや、勤め人が住む仕舞屋、商家が使う町屋、いろいろあるんや。この家は西陣やさかい、わしのところは昔から機を織るのが生業(なりわい)やったやろ。だからこの家は京町屋の中でも「織屋建」ちゅうて、本来なら奥座敷にするような中庭に面した一番いい場所に重たい機でも耐えられるように土間にしてあるんや。そしてその機の上を明り取りのために吹き抜けにして、天窓を三つも付けてある。つまり機を織る人間のことを一番に考えて、なるべく光を多く取り入れた場所で仕事をしやすうしとるんや」
「そっか~。機織りも大変だね」
「まぁ、最近は、普通の和装用の帯なんかは予算のこともあるさかい、手機なんかでは織らんけどな。ほとんどが機械織や」
 辰造は今年七十九歳になるが、それでも毎日機に向かっている。
「じゃあ、今、おじいちゃんは何を織ってるの」
「まぁ、主に能衣装や歌舞伎のような舞台衣装、あとは婚礼衣装がほとんどやな。もう今はそれぐらいしか需要もあり、かつ採算も取れて、織る価値のあるもんはないっちゅうことなんやろうな」
「ふうん」
 ふと由利は夕方、三郎に説明されたことが頭をよぎった。
「ね、おじいちゃん。夕方にね。友達に会ったって言ったでしょ?」
「うん、そうやな。その友達がどうかしたんか?」
「でね、その人が教えてくれたんだけど、今の堀川通りって戦時中にできたもので、本来の堀川通りって東側のあの細い通りなんだって?」
「せやせや」
 辰造はうんうんと首を振った。
「で、その人が言うにはね、そこに昔はチンチン電車も走っていたって」
「そうやで。昔、わしらが若い頃の交通機関はバスじゃのうて、もっぱら市電やったもんや」
 そう言いながら、辰三はふと、宙に目を向け、箸を持つ手を止めた。
「どうしたの?」
「そうや、そうや。今までとんと思い出すことも無くて忘れておったけどな。わし、実はひょんなことで命拾いしたことがあってな」
「え? おじいちゃん、命拾い? 何それ?」
「あれはな、戦争が終わって、まだ間もない頃やったと思う。そやそや。わしがまだ小学校へ上がったばっかりの冬のことだったんかいなぁ。わしがまだ六、七歳の頃やったと思うんや」
「わしにはたくさん兄弟がおったんやけど、その当時、二番目の兄ちゃんがまだ旧制中学の学生やってんな」
「おじいちゃんてそんなに兄弟がいたの」
「そうや、わしは六人兄弟の五番目や。せやけど昔なんて、どこの家でもそんなもんやで」
 日本は明治から第二次世界大戦が終わるまで、政府の『富国強兵』政策で子だくさんが当たり前だった。
「けど終戦直後やさかい、食糧難でな。三度三度のご飯を食べるのが本当に大変やったんや。ほんで少しでも家族の口が潤うようにと学校が終わったあと兄ちゃんは、知り合いのつてで錦小路の八百屋で働らかせてもらいに行っとったんや。それで店が閉まったあと、給金のかわりに売れ残った野菜をもらって来てくれていた。だがその日兄ちゃんは、どういうわけかお母ちゃんが作ってくれた握り飯を玄関に忘れて行ったんや」
「それで?」
 由利は先を知りたがった。
「仕方がない、それでお母ちゃんが、つまり由利のひいおばあちゃんにあたる人のことやけどな、わしのすぐ上の、二つ違いの小さい兄ちゃんに、大きい兄ちゃんに弁当を持っていってやってくれと遣いを頼んたんや。家には他にもまだ小さい妹がいたし、夕ご飯の支度もあったしな。その当時は今みたいにガスみたいな便利なもんもない。まず火を起こすっちゅうことが大変だったんや。それでお母ちゃんは自分で届けてやることができなかったんやろう」
「だが小学三年生だった小さい兄ちゃんは、ひとりで市電に乗ってそんな遠くまで行ったことがない。そやから小さい兄ちゃんに頼まれて、わしも付き添って行ったんや」
「うん。小学三年生だったら、夕方ひとりで遠くにお遣いに行くのは、ちょっとおっかないかもね」
「まあ、わしら昔の子供は今の子供たちと違うて、おぼこかったからな。だが家から大宮中立売の停留所で電車を来るのを待っていると、どこからともなく見知らぬお姉ちゃんが現れてな。『この電車に乗ったらあかん』とわしら兄弟が電車に乗るのを何度も何度もしつこいぐらいに引き留めるんや。普段ならそんな見ず知らずの他人の言うことなんか、わしらも聞かへん。せやけどそのお姉ちゃんの顔は、こう、言うに言われんような、何かしら切迫した様子が見て取れたんやなぁ。それでわしと兄ちゃんはとうとうそのお姉ちゃんに逆らえなくて、結局電車には乗らなんだ。だがな、その電車はなんと停留所を出てすぐ、堀川を渡るときに転落してしもうたんや」
「ええっ、それでどうなったの?」
 由利はそれを聞いたびっくりした。昔、あの川でそんな大惨事が起きていようとは。
「それがえろう大変な事故でな。大怪我をした人、死んだ人もたくさんいたんや。事故が起こったあと、騒ぎを聞きつけてお母ちゃんが血相を変えて現場に駆けつけて来たんや。だかどこを探しても、わしら兄弟はおらん。お母ちゃんはもしやと思って、大宮中立売の停留所まで探しに来たんや。案の定そこには取り残されたわしらがおったっちゅうわけや。わしらももし、あの電車に乗っていたら、今頃はここにおらんかったかもしれん。思わぬ命拾いをしたもんや」
「へえっ、そんなことがあったの?」
「そうなんや。本当に不思議なことやった。あのお姉ちゃん、子供のわしにはすっかり大人に見えたけど、本当はいくつぐらいやったんかなぁ。何とのう制服みたいなんを着ていたように思うし、まだ女学生ぐらいやったんかなぁ。そうやったら生きていたらもう九十を越しているはずや。ずいぶんと色の白うてほっそりした別嬪さんやった。そうや、由利。おまえにちょっと似ておったかもしれんなぁ」
 アハハと辰造は笑った。
「もう、おじいちゃんたら!」
 そう言って祖父が茶化して来たのをいさめると、改めて由利は祖父に問い直した。
「で、おじいちゃん、その女の人は結局どういう素性の人かわかったの?」
「いや、それがな、皆目判らんかった」
 辰造は口に柴漬けを放り込むとポリポリと美味しそうな音を立てた。そのあと、湯飲みから由利が淹れたお茶をぐいっとひとくち飲んで、再び話を続けた。
「そのお姉ちゃんのことを話したら、お母ちゃんは息子たちの命の恩人にひとことお礼が言いたい言うてなぁ、いろいろと近所の知り合いや親せきにも心当たりを聞いて回ってくれたんや。そやけど誰もそんな女の子は知らんと言うんやな・・・。しかもあのとき、電車は満員で人がぎょうさん乗っていたというのに、その女学生を停留所で見かけたという人もおらん。しかしどういうわけで、あのお姉ちゃんは、わしら兄弟だけを引き留めたのか・・・。不思議なことやが、あの人は未来を見ていたんや。そうとしか考えられん。今思うとあれは神さんかご先祖さんが、ああいう形でわしと兄ちゃんを守ってくれたのかもしれん・・・」

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Yui

ずいぶんご無沙汰をしてしまいました。こんばんは、Yuiです。
お祖父ちゃんの昔語りですね。sadafusaさまは建築とか服装にお詳しいので京都の情景が浮かび上がってきて面白いです。
子どもの頃のお祖父ちゃんを助けたのは由利だったのでしょうか?
タイムトラベラーみたいな展開になるのかな?
続きが楽しみです。

by Yui (2019-05-27 20:27) 

sadafusa

Yuiさま

ここは興味のない人には、退屈な箇所かもしれないですが、
この作品のコンセプトのひとつには
読みながら学べる京都っていうのもありますので、
かなりページを割きました。




ふふふ、おじいちゃんの語りを読まれた人は
誰しも、そう思うはずです。

でもただ、それだけだったらありきたりすぎて全然面白くないよね。

アッとびっくりな展開になっていきますので、よろしくお願いします。
by sadafusa (2019-05-28 09:45) 

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