境界の旅人2 [境界の旅人]

京都×青春×ファンタジー×ミステリー。 ページを繰る手が止まらない?





第一章 転機 


「由利、由利」
 リビングで玲子の呼ぶ声が聞こえる。自分のベッドでうとうとしていた由利は、枕元に置いてある目覚まし時計を取り上げた。
「ん・・・? 今何時?」
 時計の針を見ると夕方の五時半を指している。もうすぐ冬至なので部屋の中は真っ暗だ。それにしてもこんな中途半端な時間に玲子が家にいるのは珍しいことだった。
「由利! いないの?」
 玲子は声を荒立てた。由利は母親の機嫌がこれ以上悪くならないうちに、大声を張り上げた。
「はーい! いるよー。ママ!」
 由利は寝起きの顔のまま、母親のいるリビングまで行った。
「由利、いるならいるで、ちゃんと返事しなさい。このまま出かけちゃうところだったでしょ?」
「うん、ゴメン。ママ。気が付いたら寝てた」
「そうなの? うたた寝もいいけど、気を付けないと風邪を引くわよ。それよか、由利。クリーニング屋さんに行ってママのスーツ取って来てくれた?」
「ん・・・。ママの部屋のクローゼットに掛けてある」
「ああ、よかった。ありがと、由利。今度の金曜日には社外クライアントに向けてプレゼンがあるからね。顔映りのいいのにしないとね」
 母親の玲子は大和フィルムズ中央研究所に勤務している。
 難関大学の中でも最高峰といわれる帝都大学の工学部を難なく突破、大学院に進学、学位を取得した後フランス国立研究所に博士研究員として二年間の勤務を経て、現在の研究所で働くようになった。玲子はワーキングマザーと言えど、どこからどう見ても、一点の曇りもない華やかな経歴の持ち主だった。
 今年で四十二歳になるが、生まれついての硬質な美貌にはいささかの翳りもない。場合によっては三十代前半にも見られることがある。必ず週三回は体力づくりも兼ねて早朝にフィットネスジムに通って身体を鍛えているお蔭で、中年にありがちな余分な脂肪も身体についたこともなく、いつもシャキッと背筋も伸びて、七センチヒールも軽々と履きこなす姿はほれぼれとするくらいだ。
 そんな完璧な母親に対して由利はただ従うしかない。少なくとも、これまでは。
「ママ、どうしたの。こんな時間に家にいるなんて珍しいね」
「あら、由利。忘れちゃったの? 今日はあなたの塾で志望校を決めるための懇談だったじゃないの?」
「あ、そっか」
 由利は母親のことばの調子に不穏なものを感じた。
「まあ、そこにちょっと座りなさい」
「はーい」
 玲子はカバンからA4の分厚い封筒を取り出した。
「さっきね、塾の先生に成績表を見せてもらったんだけど、由利、あなたこの間の塾の全国模試、ものすごく番数が落ちているの。自覚ある? もう年末だし、本番は二月でしょ? で、志望校を決めなきゃならないんだけど、この調子だとこれまでの本命が危ないって塾の先生に言われたわよ。由利。でね、ママは思うんだけど・・・」
「うん、ママ。解ってるよ」
 由利は玲子の話を遮った。
「解っているじゃないでしょう? もうっ、あなたって子は本当に暢気なんだから。もうちょっとピリッと気を引き締めて勉強しなさい」
 玲子自身は、いわゆる進学校も塾へも通わず自分だけの実力で帝都大へ行ったにもかかわらず、一人娘の由利の教育に関しては過剰と言ってもいいくらい熱心で、これはもう立派な教育ママと言ってもよかった。
「・・・」
「今から集中して勉強すればまだ間に合うはずよ。滑り止めと日程さえ合えば、これまでの本命だって受けられるはず。今からきちんと日程を調整すれば・・・」
「うん、でも、ママ」
 いつになく由利は態度を硬化させ、自分のことばに従おうとしない。玲子は少しイラっとした。
「何なの? 言いたいことがあるはら、はっきり言いなさい」
「あの、あのね、ママ・・・。実はあたし、京都のおじいちゃんちへ行くつもりにしている」
「はあ・・・? 何ですって? 京都? おじいちゃん?」
 玲子は一瞬あっけにとられたような顔をした。
「うん」 
 消え入りそうな声で由利は答えた。
「由利、何を夢みたいなことを“ もうすぐ年も改まるっていうのに! 願書のことだってあるじゃない」
「うん。だけど九月頃に学校の担任の武田先生に相談したら、それもいいかもって、内申書も書いてくれた。過去問も取り寄せてくれたし、願書もあるよ。あとはママの承諾だけ」
「まっ、一体それはどこの高校なの?」
 由利はテーブルの上にクラスの担任が取り寄せてくれた願書と出願要項を置いた。玲子はそれを取り上げてまじまじと眺めた。
「桃園高等学校?」
 玲子は素っ頓狂な声を上げて、これから由利が行こうとした高校の名前を読んだ。桃園高校は京都にある玲子の母校だった。
「由利っ! これは一体何の悪い冗談なのっ! 誰にそそのかされたのかは知らないけど、ママは反対よ。他に選択肢がないのならともかく、桃園高校なんてそんなの、お話にもならない。第一、今受ける滑り止めよりずっとランクも下じゃないの? この環境より明らかにレベルの低い場所へ行く目的は何? それにいくら成績が下がったからって、何も今、あてつけがましくママから離れて京都へいくことはないじゃないの!」
 玲子は自分の娘をあしざまに罵った。
「ママ。そうじゃないの」
「なぜ? 由利? 私たちこれまでうまくやって来たじゃない? 何が気に入らないっていうの?」
 詰め寄るようにして玲子は由利に迫った。
「うん。ママが一生懸命働いて、育ててくれたのは、あたしだって解っているし、感謝しているよ」
 由利が小さいときは、玲子の職場環境は相当に過酷だった。
 病気になるたび、玲子は自分が看病するために職場を休むわけにもいかず、結局、病気で保育園や小学校へ行けない場合は看護師の資格を持つベビー・シッターさんに来てもらうことも度々だった。
 そのための出費があまりに多すぎて、月給も右から左に消えることも珍しくなかった。一時期はこれでは何のために働いているのかわからないほどだった。何より子供か仕事か、いつも二者択一をさせられていることは精神的にもかなりきつく、毎日が綱渡りだったのだ。
 だからそんな玲子の苦労を知っているだけに、由利はこれまで母親に対して強く出ることができなかった。
「だけどあたしはママみたいにバリバリ勉強して、バリバリ働いてっていうキャリア・ウーマンタイプじゃないもん。たとえママの言う通り勉強しても、帝都大学なんか逆立ちしたって無理だし。それにそこそこの大学へ入ったとしても、あたしはママみたいな理系女子じゃないし。かといって法学部とか経済学部なんかへ進学するのなんか絶対に嫌。興味ないもの」
「由利・・・」
「うん。それにママは最近、平日は仕事を一生懸命して、お休みは信彦さんと過ごようになったじゃない? あたしはひとりで家で過ごすわけだから、結局のところどこにいたって一緒じゃないかな?」
 痛いところを突かれて玲子はくちびるをかんだ。玲子は六歳年下の男と交際しており、そこは娘も納得してくれていると簡単に考えていた。しかしまだ思春期のただ中にいる娘は、そんな母親のあけっぴろげな態度に傷ついていた。
「由利! 信彦のことは謝るわ。前にも言ってあるでしょ? 信彦が嫌なんなら、嫌と言ってちょうだい」
「違うの、ママ。あたしは何もママたちの仲を邪魔したいんじゃないの。だけどもう、こんな生活、正直疲れた」
 たしかに玲子ひとりでは掃除や洗濯など日常のこまごまとした家事までには手が回らず、家政婦を雇っていた。だからといって、それで家にひとり残された由利の孤独が癒せるわけではない。玲子は自分の愚かさ加減にほぞをかみたい気分だった。
 もっと娘と一緒にいるべきだった。だが今更後悔しても仕方がないことは、玲子が一番よく解っていた。
「あたしはもう、これ以上ママを待ちたくない。初めからママに期待さえしなければ、もっと気持ちも楽になれるはず」
 聞き分けのいい娘は、初めて本音を漏らした。
「・・・だからといって何も京都へいくことはないでしょう」
 どうにかして玲子は娘を引き留めようと必死だった。
「お願い、由利。どうか考え直してちょうだいよ。信彦とは絶対に結婚しないし、別れろっていうなら、今すぐにでも別れるわ。ママにとってこの世の中で一番大事なのは、由利以外にはないのよ」
 玲子の懇願を聞いているのは身が刻まれるように辛かった。だがここで負けてはならないと由利は自分に言い聞かせた。
「うん・・・うん。ママ。ありがとう。あたしもママのことが大好きよ。そこは誓って本当。信じて」
 由利は興奮している玲子をなだめるように言った。
「でもね、そんなふうにママに何かを押し付けるのは嫌なの。ママはこれまであたしを育てるのに、ものすごく苦労してきたんだから、信彦さんと結婚するのもちっとも嫌じゃない。ママには幸せになってほしい。でもママのあたしに対する期待っていうのは、正直重い。あたしはママの希望通りの人間にはなれそうもない・・・だから、だから今は少しママから離れて、これから先の自分の将来についてひとりで考えてみたいの。これまでみたいにママにレールを引かれてその上を歩くんじゃなくて、自分の本当にしたいことは何かをじっくり考えてみたいの。ほら、ママはいつも自分の人生に主体性を持てって言ってたじゃん? それにあたし、自分のおじいちゃんにも会ったことないし」
 玲子とその実の父親である辰造は、絶縁状態にあった。
「そう、京都のおじいちゃんだって、あなたに急に来られたんじゃびっくりするわよ。まぁ、あの人にはあの人の都合があるだろうし」
「ん。でも手紙書いてみた」
 由利はひとりでもぬかりなく、着々と計画を立てて実行していた。これはもう引き留めることはできないのかもしれないと話している中で玲子は次第に観念したようだった。
「まぁ。それで、おじいちゃんは何て?」
「いつでも大歓迎だって。遠慮なく来なさいって」
「由利・・・。本当に私から離れて行ってしまうの?」
 いつもきりっと表情を崩さない玲子が、いつになく涙ぐんでいた。
「ママ、いつもありがと。感謝してる」
「感謝だなんて、由利。親子でしょ?」
「でも京都へ行ったって、親子であることは変わりがないんだし、あたしだって十五歳で半分大人でしょ? 自分のこれからは自分で決める権利があると思う」
 玲子は椅子から立ち上がって由利の傍まで行き、今では自分よりも背が高くなった娘の身体をぎゅっと抱きしめた。
「もう何でもできる大人ね。由利、わたしの可愛いユリちゃん。いつまでも小さい子供だと思っていたら、いつの間にかもうこんなに大きくなってしまって。でも誤解しないで。ママは確かにいい母親じゃなかったけど、由利を心から愛していることだけは本当よ。学費や京都での生活費はママがきちんと払うからね。それにお小遣いだって必要でしょ? お金が必要になったら、遠慮なく連絡してね」
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おかもん

こんにちは。
わーい! 新しい作品、ワクワクして読みました。 おじいさん子だった私には祖父との会話も楽しみです。ありがとうございます。続きもお待ちしています。
by おかもん (2019-05-01 13:36) 

Yui

こんにちは、新しい作品楽しみです。ちょっと複雑な家庭の少女だったんですね。これからどんな事件に巻き込まれていくのか、待っています。
by Yui (2019-05-01 16:52) 

sadafusa

おかもんさん

ありがとうございます。うれしいです。
おかもんさんはおじいちゃん子だったのですか。
なるほど。この小説のテーマのひとつには
『家族のありかた』っていうのがあります。


Yuiさん

この小説って結構テーマがいろいろと別れています。
だんだんと由利を取り巻いている環境っていうのが
わかっていくと思いますが、
ちょっとドキドキして読んでほしいなぁ。


by sadafusa (2019-05-01 19:22) 

ぶい

こんばんは。ご無沙汰しております。11話まで来ていろいろするすると動きだしてとても楽しみにしています。
あとでこれをまとめられるのでしたら、下記はちょっと修正したほうがよりリアルではないかと思いました。もしこれらも了解済でかかれていたのならすみません。先を楽しみにします。

ここのところ
「難関大学の中でも最高峰といわれる帝都大学の工学部を難なく突破、同院を卒業。その後フランス国立研究所に博士研究員として二年間の勤務を経て、現在の研究所で働くようになった。」この「同院を卒業」のところです。ここでお母さんは大学院の博士課程を修了し、博士号を取得されたのだと思います。まず大学院は卒業、でなくて修了、なのでここを変えるとリアリティが出ます。また博士後期課程を修了しただけでは博士号がとれなくて、学術論文を複数書いて、さらに博士論文を書いて審査に合格してとるので、博士号を取得、というのはまた大きな大きなイベントで、重箱の隅をつつくようなのですが博士号を取得、がないのが気になってました。(すいません、工学系の大学にいて会社勤めもしたことあったりするのでついつい。)
by ぶい (2019-07-03 20:28) 

sadafusa

ぶいさん

ありがとう。実はお母さんのモデルになった人は実在しておりまして、その人の経歴を参考にさせていただいたのですね。
なるほど、大学院は「修了」なのですね。

では、こう書けばいいでしょうか?
「同院を修了、博士号を取得した後、フランス国立研究所に…」
でしょうか?

こういうのは、本当に難しいです。自分じゃわからないので、こうやってぶい様のような方にチェックしてもらうのは本当に助かります。

また、ポカをしていたらご指摘、ご指導お願いします!



by sadafusa (2019-07-04 09:11) 

ぶい

sadafusa様、お返事ありがとうございます。さらに普段の言葉の使い方をしつこく、よーく考えてみました。

・大学院進学するときに、同院、とは改めていわない(国立の、特に有名大学では学部と同じ大学の大学院に進学することがほとんどなため、だと思います。)、
・博士号という語は実はほぼ使わなくて、学位取得、をふつうは使う。(履歴書に書くときは、”博士(工学)を取得”、になるのですが小説でそれはおかしいかなと思います。単に学位、学位取得、といったら博士を指します。修士(工学)の学位を取得、という文は正しい表現なのですが、博士は別格だからなのでしょう。)
・大学院修了、学位取得、とするより大学院進学、学位取得、のほうがなんとなくなじむ。どうしてかなと考えると、大学院にかよって学位を取得した場合には大学院は普通、修了しているから、かなあと思います。
・割とよくある学位取得のパターンに、修士課程(博士前期課程と呼ぶ大学もあります)修了後いったん就職し、そのあと博士(後期)課程に入学して企業に籍をおきながら学位取得するもの。でもお母さんはそうでなくて王道の”学部たたき上げ”(学部から修士課程に進学し、博士課程に進学する)である。

以上まとめますと、文学的表現は別として用語の用い方としては下記のようなのが自然かなと思います。
・・・工学部を難なく突破、大学院に進学、学位を取得した後フランス国立研究所に博士研究員として・・・

お母さん(モデルとなったお友達)、優秀だからもしかしたら”飛び級”かも、と思いました。学部3年で修士進学し修士1年終わったところで博士に進学して博士は2年で短期修了して学位取得したら24歳でポスドク研究員になれるので

by ぶい (2019-07-05 04:05) 

sadafusa

あれぇ?
書いたのに、反映されていない!

ごめんなさい、もう一度書きますね。

ぶいさま、本当にありがとうございます。
私の周りに理系の人っていないので、
こういうふうに丁寧にご指摘いただけると
本当にうれしいです。

さっそく訂正いたしましたよ~。

文系ってべつに博士号なんて取らなくても
大学の先生にはなれるのですが、

理系って理系なりのヒエラルキーがあるだろうけど
わたしにはさっぱり~。

モデルになった方は25歳ぐらいには渡仏していたので、
そんなもんなのかな?と推測、憶測?

うれしいです。

by sadafusa (2019-07-05 21:45) 

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