境界の旅人 8 [境界の旅人]



 放課後になると、由利と美月は連れ立って、校内の部活動の勧誘活動を見学しに行った。

部活動の勧誘は新入生が入学した次の日から五日ほど行われる。
 上級生はみんなそれぞれ趣向を凝らしたチラシやパフォーマンスを考えて、新入部員の獲得に懸命だった。

 桃園高校は、部活の種類の多さでは他の学校よりも断然群を抜いていた。一学年につき、八ホームもある。一クラスにつき四十名だから、一学年でも三百二十名。三学年全部を合わせると千人近くもいることになり、部員割れすることはまずない。またOB・OGが地元の老舗の経営者であることが多く、結構な額の寄付を募ってくれるので、資金が潤沢なこともひとつの大きな要因だった。

 由利たちはまず、入部する心づもりにしていた茶道部へ一番に見学しに行った。

 『茶道部』と張り紙がされている部屋は、他の教室とはかなり雰囲気が違う。引き戸を開けて入ってみると、飛び石がはまっている空間があり、つくばいがある。その奥に大きな和室があった。

びびってしまって入口のところで固まってしまっている由利の手を、美月は軽く引っ張った。

「由利、どうしたの?」
「う、うん・・・。な、なんか・・・入りにくい・・・」

 今の由利のように、おそらく茶道のことにはまったく心得が無い新入生を誘導するためにだろう、入口には茶道部員らしい女子生徒が二三人ほど立っていた。

「見学ですか?」

 優しそうな上級生は由利たちに訊ねた。

「あ、は、はい」
「じゃあ、あちらの和室へ行って座ってください。部長がお茶を点てますので、どうぞ飲んでいってくださいね」

 ふたりは言われたとおり、上靴を脱いで作り付けの式台の上に上がった。

 茶室の床の間はきれいに飾り付けられていた。壁には、まったく読めないがリズミカルな運筆で書かれた草書の掛け軸が下がっており、その下には竹籠に雪柳と黄色いフリージアが投げ入れられてあった。

 炉が切られたところにひとりの生徒がきちんと膝に手を当てて正座している。どうもこの人物が部長のようだ。しかも紋のついた着物に袴を着用しており、まさに正装。

 部長はなんと男子だった。

 だが結婚式やお祭りなどで着用している真っ黒な紋付き袴でなく、緑がかったグレイのお召しにこげ茶の袴が、今のお茶事という場にふさわしい、洗練された装いだった。

「あ、キミたち、ようこそ。さあさあ、どうぞ。遠慮しなくていいですよ。そこに座ってねー」

 男子生徒にしては柔らかすぎることば遣いに由利は少し違和感を持った。だがとにかく言われるままにふたりは、青畳の香りも清々しい茶室に足を踏み入れた。新入生は由利たち以外には、まだ誰もいなかった。

「ああ、足は楽にしてね。経験のない人がいきなり正座するのは辛いから」

 美月はきちんと正座をしたが、由利は無理をして後で足が痺れて立てなくなることを恐れ、男子生徒のことばに甘えて横座りをさせてもらった。

「ボクが今、お茶を点てますので、それを飲んでいってくださいね。それにもちろん、おいしいお菓子もありますよ。そのあと入部するかどうかを決めてくださって構わないし。もちろんお菓子目当ての冷やかしでも大歓迎。ふふ・・・。どんな出会いでも一期一会(いちごいちえ)という貴重な機会なんです」

 それから袴男子はことばを続けた。
「えっと・・・申し遅れましたね。初めまして。ボクがここの部長を務めます、小山薫です。それで・・・え~っと、あなたは・・・」

 小山はこれから点てる茶碗に柄杓でお湯を入れながら尋ねた。しゃべりながらでも、動作は流れるように淀みがない。あたかも宙に見えない動線の軌道があるようだった。由利は我を忘れて小山の動作を見入った。横に座っていた美月が、陶然としている由利をそっと肘でつついた。

「由利、由利! 部長がお名前は何ですかって訊いてらっしゃるわよ・・・」

 ひそひそと声を潜めて返事を促す。

「え、えっと小野です」

 人見知りの強い由利は、ちょっとはにかみながら答えた。

「あ、小野サンね。初めまして」
「で、お隣のあなたは?」
「あ、加藤美月と申します、はじめまして」

 美月はきちんと手をそろえて頭を下げた。

「加藤サンね。はじめまして。あなたはどうもお茶の心得があるみたいですね・・・違うかな?」

 さすがに小山は部長を務めるだけあって、一発で美月が初心者ではないことを見抜いた。

「あ、はい。お恥ずかしいんですけど、中学のときも茶道部に入っていました」
「ああ、そう。道理でね。おじぎがきれいだと思いました」

 袴男子はにっこりわらうと、そばで控えている女子部員のひとりにお菓子を持ってくるよう指図した。

「じゃ、田中サン、この方たちにお菓子を差し上げてね」

 由利と美月の前に菓子器がうやうやしく置かれた。

「茶道ではね、お茶を飲む前にお菓子をいただきます。これからお渡しする白い紙、あ、これ懐紙っていうんですけどね、それにお菓子を置いて、黒いようじみたいなので、切って食べてください」

 再び別の女子部員が、懐紙と黒文字をふたりの新入生のところに持って来てくれた。

「どうぞ」
「あ、ありがとうございますっ」

 薄灰色の釉薬が掛けられた菓子器の中には薄い紫と緑に色付けされたきんとんがバランスよく収まっていた。

「なんて・・・きれい」

 由利は思わず、菓子器と主菓子の完璧な色調をうっとりと眺めた。

「おや、ずいぶんと気に入ってくれたみたいですね。ハハハ・・・。うれしいです。これは今日の日のために、ボクが特別にあつらえたお菓子なんですよ。そんなに感激してもらえたんだったら、苦労した甲斐もあったというわけです。このお菓子はね、『藤浪』といいます。桜の次は藤の花・・・。お茶はね、季節感が大事なんです。さぁ、どうぞ召し上がってください」

 一口食べるときんとんの優しい甘さがふわっと口の中に広がって喉を通って行った。由利たちがお菓子を食べたころを見計らって部長が口を開いた。

「お稽古は週に三回。月・水・金です。割り稽古から始めます。そして週に一度、先生がいらっしゃいます。あとの二回は部員たちで各自練習。月に一度は部内だけで茶会形式の練習があります」

 小山部長はまた流れるような手つきで棗(なつめ)から茶杓で緑色の抹茶を取り出し、茶碗の中に落とした。

「この部は季節、季節にお茶会をします・・・。まずは五月には新入生歓迎のための茶会、八月には浴衣を着て茶会をします。九月は文化祭があるので、当然お茶会を開きます。そして炉切りの茶会、新年になると初釜・・・。三月はひな祭りと卒業生をお見送りするためのお茶会。要するに一年中お茶会をしていることになりますね」

 由利は渡されたお茶碗からお茶を一口飲んだ。茶碗は貫入が入っており、金色と薄いトルコ・ブルーが器全体に細かく吹き付けられていた。だが寒色系の色使いなのに、どこか温かい印象だった。由利がじいっと茶碗を見つめているのに小山は気が付いた。

「小野さん、このお茶碗、気に入ったのかな?」
「はい、とてもきれいで・・・」
「そう、よかった・・・。このお茶碗はね、布引焼っていいます。高校の部活で使う茶碗だから、そんなに高いものではありません。だけど春らしくていい感じでしょう?」

 部長は、今度は美月の分のお茶を茶筅で点てながらそう説明した。由利はすっかり小山に魅了されてしまった。茶室という非日常的空間に身を置いた小山の緩急自在な動き、絶妙な間合い。これはひとつの芸術だと由利は思った。

 もう自分にはこれしかない。

 由利は今自分がいる空間に酔いしれてしまった。

ここは一杯のお茶を飲むためだけの空間のはずだ。だがただそれだけなのに、どうしてもこうも心が満たされて幸せな気持ちになれるのだろう。今飲んでいるものは、たしかにお茶の粉を湯で解いた液体にしかすぎない。だが実はその中にはぎゅっと凝縮した美の精神が詰められている。

 由利は飲みながら、魂の栄養のためには必要不可欠な緑色の宝石を液体にして、身体に溶かし入れているような気がした。





 茶道部を辞したあとふたりは、講堂でしばらく放心したように合唱を聞いた。それまで聞いたことのない曲だったが、男声と女声は、音程が乱れることなくきれいに交じり合ってハーモナイズされているのを聞くのは心地よかった。

 あとはオーソドックスなところで新聞部、文芸部、演劇部、ESS部、美術部だ。

 由利が美術室の壁に展示されているデッサンをまたしげしげと食い入るように見ているので、美月が声をかけた。

「どうしたの、由利」
「うん、デッサンもいいなぁと思う。こんなふうにさらりと一本の線を描くのに、この人はどれだけの修練を積んだのかなって思って」
「由利ったら。さっきは茶道部であんなに感動してたのに。今度は絵なの?」

 美月は、由利が意外と感激屋なのに驚いたようだった。

「うん・・・世の中にはすてきなものいっぱいあるね。何で今まで気が付かなかったんだろうね」
「もう由利ったら、小山部長にクラクラだったもんね」
「ちーがーう! 何言ってんの、美月!」

 由利は顔を真っ赤にして、美月の背中をバンっと叩いた。美月はおやっという顔をして由利を見た。

「小山部長はそりゃあ、ルックスの上でも素敵な人だったよ。だけどそのことばっかに魅せられたんじゃない! あたしが一番感動して、絶対にお茶をやろうと決めたのは、あのお点前のすばらしさよ!」

 それには美月も反対しなかった。

「そうよねぇ。小山部長は、たしかになんかすごかったよ」


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Yui

今朝、読ませていただきました。
出勤前なので、手短に。
栗きんとんの素晴らしく美味しい店が近所にあったのですが、残念ながら閉店してしまいました。高齢のお爺さんがやっていて、80円とかなのに素っ気ない佇まいなのに味も舌触りも香りもとても良いのです。夏にはいつも「暫く休みます」という直筆の札が書いてあって、いつ復活するか誰にもわかりません。

小山部長は自分であつらえたんですね。繊細で綺麗で美味しいお菓子、大好きです。
by Yui (2019-06-10 08:43) 

sadafusa

そうなんですかー。80円って言うのが信じられないですね。
欲のない老父婦が営んでいるお菓子屋さんでたまにこういうとこ、ありますね。宣伝もしてないからほとんどの人が知らないけどめちゃくちゃ美味しいのね。

だいたい京都ではこういうお菓子は一個350円ぐらいします。

小山先輩は、こだわり屋なのでいろんな注文つけてお菓子屋さんに作らせたんでしょう。

小山さんは結構重要な人物ですよ。楽しみにしておいてください。

by sadafusa (2019-06-10 11:45) 

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