リアリティ度 [雑文]

皆さま、こんにちは。

少しずつあったかくなってきておりますね。
どうお過ごしでございましょうか!

さて、今日は小説における「リアリティ度」について
ちょっとお話しようかなと思います。

先日、わが夫なのですが、お気に入りの作家さんの小説を読んでいて
「今回のは、こう言うのも残念なのだが、どーもよろしくない!」
と夕飯の席でこうおっしゃるのですねぇ。

うちの旦那さんはものすごく寛容な人でだいたい90%ぐらいの人が「だめじゃん!」
と思うものでも「いやいや、○○がすごくよかったし、それでいいよ」
といってくれる人なんですよね。

その彼がごひいきの作家さんをディスっているのでちょっとびっくりしました。
「どこがあかんの?」
「いやね、小説の中に京都が出て来るシーンがあるんだけど、あれはちょっと」
と言うのです。

わたしたち、京都に住んでいますので、京都の日常は肌感覚で知っているのですね。
それも庶民感覚で。
京都って場所が京都っていうだけで、
いまどき「いちげんさん」も「京のぶぶづけ」も「京おんなのイケズ」っていうのも
ほとんど消滅したと思っています。
(一部に生息している可能性もありますが、わたしは知らない)

で、件の小説に京都に住む若い女性が「ほんまどすなぁ」とか言うらしい。
いまどき、「ほんまどすなぁ」っていう若い子は舞妓さんぐらいなモンです。

「いやね、現代のアートの世界の話なんだけどさ、銀座の画廊のことなんかは比較的シビアに書いてはあるんだけど、京都の部分だけなんか昔の川端康成の小説読んでるような気がする」


でも小説って、だいたいどこか誇張されたりデタラメなもんですわ。
でも、そのデタラメがデタラメと思えなくなる「鍵」は、時代と距離だなぁと思うんです。
時代を遡れば遡るほど、
距離も自分の住んでいるところから離れれれば離れるほど、
ホラを吹いても「まあ、そんなこともあるかもなぁ」と信じられる確率は高い。

だから、現代モノより時代もののほうが、デタラメが描きやすい。
デタラメでも信じてもらいやすい。


そして距離です。

なんだったかなぁ。なんかで読んだのだけど、(誰かのブログだったかもしれない)
三国志や水滸伝に出て来る中国の豪傑は、冷静に読むと「そんなバケモンみたいな人間おるかい!」
って思うんだけど、間ぁ、中国って犬でもまさかのチベタン・マスティフみたいなのもいますからねぇ。
もしかしたら、こういう人間離れして空手チョップで岩をも砕く人間もいるかもしれないって思ったりするもんですよ。
ま、中国はよくも悪くも白髪三千丈の国だし、大袈裟な表現が好きだよね。


それに比べて、宮本武蔵などは分が悪い。一乗寺下がり松の吉岡一門との決闘で
宮本武蔵ひとりで何十人も切り殺したってなると、「そんなん嘘に決まってる、誇張や!」
ってすぐ見破られてしまうんですね。

本当かもしれないけど、本当じゃない確率のほうが高い。


まぁ、与太話だったとしても、上手にだまされていたい。
気分はそんなところですかね。



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