境界の旅人 21 [境界の旅人]

第五章 捜索



 すさまじい地獄のような聖滝からの合宿を終えて戻ると、京の街はアスファルトから陽炎が立つほど熱く、今度は灼熱地獄にいるような気がする。

「あ、暑い・・・」

 たったの一週間しか留守にしていないのに、妙に家が懐かしかった。

「おじいちゃん! ただいま帰りましたぁ」

 玄関で孫娘の声が聞こえると、 辰造は機を織る手を止めて、走り庭の方まで顔を出した。

「由利か、おかえり」

「おじいちゃん、ただいま」

由利は冷蔵庫から麦茶を出して、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干した。

「どうやった、合宿は?」

「うん、やっぱり体育会系っていうか、武道家たちの集まりだけあって、結構ハードだった」
「そうか。まぁ、ほんなら夕飯まで自分の部屋でほっこりしとき。晩御飯はわしが用意するから」

 由利は申し訳ないと思いながら、祖父のことばに甘えた。



 ずっと自分だけには難しい顔をしていた行者が、帰りがけにマイクロバスに乗ろうとしている由利に声を掛けた。

「ちょっと、小野さん」

 行者は遠くのほうから由利に手招きをして呼びかけた。

「あ、はい」

 由利は行者にいい印象を与えていないのだと感じていたので、呼び止められたのは意外だった。

「小野さんね、ちょっとこっちまで来てくれるか?」

 行者は由利に声をかけたあと、門下生の男子にこう命じた。

「あ、君ら、わしは小野さんに少し話があるから、出発するのを五分ほど遅らせてくれるか?」

 人目の付かないところまで行者は由利を連れて行くと、懐から懐紙に包まれた短冊のようなものを渡した。

「これは、わしが小野さんのために書いた護符や。これをこれから必ず肌身離さず身に着けておきなさい。わかったね?」
「あ、わざわざ私のために? ありがとうございます」

 驚きながらも由利は行者にお礼を言った。

「本来、行者というものは頼まれてもいないことを人に為すことはないんやが、少し気になってね。脅かすようで恐縮なんだが、小野さんはどうも因縁が絡み合った業の深い生まれのようや。何か気が付いていたかね?」
「えっ、それは・・・はい。気が付いていました。四月に京都に引っ越してきたのですが、それからいろいろと不思議な目に遭って・・・。今回、門外漢だったあたしがこの滝行へ参加した理由もそれです」
「ふむ・・・。それはおそらくあなたのみ魂さんがこの土地に御縁があったからやろうな。あなたは要するに呼ばれたんやな」
「呼ばれた?」
「そう。それにあなたの身体には、うろこが銀色に輝く大きい蛇が空中を泳ぎながら幾重にも巻き付いて見えるんや・・」
「へ・・・び、ですか?」

 それを聞いて由利はぶるっと身体を震わせた。

「蛇と一言で言ってもいろいろあってな。非常に霊格の高いものもいる。神様として祀っている神社もあるくらいだ。ましてや銀色に輝いているのだから、小野さんに憑いているものは決して悪いものではないとは思う。むしろ非常に守られているとも言えるのだが、どうもな、何か引っかかるんでな」

 由利は不安な気持ちで行者の話を聞いていた。

「しかし人生を恐れてばかりではあかんのや。これからは努めて、正しい行いをするように心がけなさい。結局今生において善行を施して徳を積むことだけが、過去世に犯した罪障を消すんでな。まぁ、そんなことを急に言われても、小野さんには信じられないかもしれないが・・・。また何か困ったことがあったら、遠慮なくまたわしのところに来なさい。力になれることがあったら協力するから」
「あ、ありがとうございます。そんなに気にかけていただいて」

 由利は蒲団の上に転がりながら、帰り間際の行者とのやりとりを思い出していた。

「まぁ、蛇まで憑りついているのが行者さんに見えたのなら、そりゃたまげるよねぇ・・・」

 しばらくするとまたスマホのバイブレーターが鳴った。常磐井からだった。

「由利ちゃん、お疲れ~。もしかしたら道場の行衣持ち帰ってない?」

 また常磐井は第二の人格のものいいで尋ねてきた。
 そう言われてみれば由利は行者に気を取られて、うっかりしほりに行衣を返すのを忘れていたかもしれない。カバンを見ると、濡れたままの行衣が水着と一緒にビニール袋に入っていた。それを確認すると、由利は常磐井に返信した。

「あ、ゴメン。持ち帰っちゃったみたい。家でもう一度洗って、干してから道場まで届けるんでいいかな?」
「あ、届けてくれるの? サンキュ。こっちに持って来てくれるのは助かります。ぼくが由利ちゃんちに採りに行ってもよかったんだけど(笑)。別に急ぐものじゃないじゃないから、時間のあるときでいいから。道場のほうはいつも三時に開くので、それ以前なら自宅のほうにお願いします(^^♪」



 由利はわざわざこのために誂えた帖紙に、これまた祖父に押し付けられた菓子折りを風呂敷に包んで、常磐井の家に行こうとしていた。
 由利が洗濯機で洗濯して干した行衣をそのまま畳んで風呂敷に包もうとしたら、祖父に見咎められた。

「由利、よそさんからお借りしたもんを、そういうふうにぞんざいに扱うもんやない。そういうのは、貸してくれたその人の顔を下駄で踏むように失礼なことなんやで」
「え、じゃあ、おじいちゃん。どうしたらいいの?」
「面倒やと思うやろうけど、もう一度、糊がけしてキチンとアイロンをかけるんや。それから新品の帖紙にきれいに畳んで入れて、感謝の気持ちを表すために菓子折りのひとつも付けにゃ」
「ええ? だってあたし、常磐井君にはちゃんと合宿費用も渡したし、それでいいんじゃないの?」

 東京育ちで今どきのドライな考え方に慣れた由利は反論した。

「せやけどな、由利。よう考えてみい。むこうさんは道場さんなんやろ? それやのに、何の関係もない由利に声を掛けてくれはったんやから、先方さんのご厚意に感謝せな。それがご縁を繋ぐってことなんや」
「ご縁・・・?」
「そやで。この世間で一番大事なんはご縁やで。わしがこの歳でこうやって機を織っておられるのも、ご縁があったればこそや」
「そんなものなのかねぇ。うん、解ったよ。ありがと。おじいちゃん」

 ここは素直に祖父の言いつけに従った。



「ここらへんだっけな」

 203号系統のバスを出町柳で下車すると、由利はグーグル・マップを片手に常磐井の家を確かめていた。彼の家と道場は鴨川を越えて下鴨神社の近くにあった。
 由利は初めて下鴨神社の参道を通ったときの感動を思い出した。その感激は今も薄れていない。

この神社の境内に茂る森は『糺(ただす)の森』と言われ、この土地に平安京を定めるより以前、山城の国といわれていた頃よりもはるかに昔から生えている原生林なのだという。じりじりと照り付ける太陽も、ここだけは天然の天蓋のように鬱蒼と茂る背の高い木々に遮断され心地よい風が吹き抜けていく。さらに参道に沿って流れる小川のせせらぎも清らかで、ここだけは常な清澄な空気で満たされている。

 せっかく下鴨神社の近くまできたので、多少遠回りでも由利は途中までこの参道を通り、途中からそこを抜けて、常磐井の家へと向かった。

「えっと、三時までは道場は開いてないってことだから、ご自宅のほうへ行けばいいのね。きっと常磐井君のお母さんが出て来られるんだろうなぁ。ああ、何だか緊張する」

 由利は玄関の前でもう一度みだしなみを整えて深呼吸をした。すると突然玄関の引き戸が開いて常磐井が出てきた。どうも出かけるところだったらしい。

「あ、常磐井君!」

 すると常磐井は目を大きく見張って、由利を見た。

「ああ、あなたはいつぞやの! 桃園高校で見かけたクール・ビューティ! どうしたんですか、こんなところにまで?」

 それは常磐井ではなく、どうも兄のほうらしかった。常磐井の兄は小走りで由利のほうへ駆けてきて、由利が持っている荷物をさっと持ってくれた。間近でよく見ればたしかに常磐井とはよく似ているけれど、多少顔のパーツのニュアンスが異なる。

「ああ、常盤井君のお兄さまですね。こんにちは」

 由利は少し気遅れしながら、相手に向かって頭を下げた。

「えっとこの間、合宿に参加させていただいたのですけど、行衣をお返しするのを忘れていて・・・。それをお返しにあがりに・・・」
「ああ、そうなの? じゃあえっと、きみの名前は?」
「あ、小野です。小野由利といいます」
「ふうん。由利さんね。ちょっと待っててくれる?」

 常磐井の兄はもう一度玄関に入って、奥に向かって声を掛けた。

「叔母さん! 叔母さん! 悠季のお客さんだよ!」

廊下の奥のほうで「はぁーい」という女の声がする。常磐井の兄がこの家の主婦にあたる人に向かって『叔母さん』と呼び掛けるのを、由利は一瞬奇異に感じた。
 しばらくして奥からこの家の主婦らしい人が応対に玄関まで出てきた。小柄できれいな人だったが、あまり常磐井に似ているとは思えない。

 由利はあわててあらかじめ練習しておいた口上を述べた。

「は、初めまして。あ、あたし、常磐井悠季君のクラスメイトで小野由利と申します。この間は合宿にお誘いいただきまして本当にありがとうございます。今日はお借りしていた行衣をお届けに上がりました」

 すると主婦とおぼしき人は由利が息子のクラスメイトだとわかるとにっこりと笑って、行衣を受け取った。

「まあまあ、ご丁寧に。恐れ入ります。悠季はね、今度は高校の弓道のほうの合宿とやらで、長野のほうへ行って留守にしていますねんよ。何やしょっちゅう出たり入ったりしてせわしない子ですねん」

 常磐井の屈託のない笑顔に出会えるのをちょっぴり期待していただけに、少し由利はがっかりした。

「そうなんですか…。それでは常磐井君がお帰りになったらよろしくお伝えください。それからこれ、家の者がこちらさまへお渡しするようにと預かってまいりました。どうぞお納めください」

 ぺこんと由利はお辞儀をすると、風呂敷をさっとほどいて菓子折りを玄関に置き、相手のほうに手を添えて渡した。由利は内心、このときほど茶道を習ってよかったと思ったことはなかった。

「まあまあ、お気遣いいただいて、却ってこちらが恐れ入ります」

 常磐井の母親は、由利のきちんとしたあいさつに好印象を持ったようだった。それをすぐ傍で見ていた常磐井の兄がこう言った。

「叔母さん、ぼく、ちょうど家に帰るところだったし、ついでにこのお嬢さんを車に乗せて送っていくよ。こんなに暑かったらバス停まで歩くのも大変だろうし」
「ああ、治(はる)ちゃん。ほんならおことばに甘えてもいいやろか。こんなに暑いさかいなぁ。そうしてくれると助かるわ。ほな、小野さんでしたっけ? お気をつけてお帰りやす。こないに暑いところをほんまにおおきに」

 常磐井の母親ははんなりときれいな京ことばを話した。そして、「治ちゃん」と呼んだ常磐井の兄にもう一度声を掛けた。

「治ちゃん、お父さん、お母さんにもわたしからよろしく言っていたと伝えてな」
「うん、わかったよ。じゃあね、叔母さん。叔父さんや悠季にもよろしく」

 玄関を出たところで常磐井の兄は、少し改まった調子で由利に訊ねた。

「小野さん、これから少し時間が取れそうですか?」
「え? 時間ですか? ええ、まあ」
「このすぐ近くにわらび餅がめちゃくちゃおいしいお店があるんだけど、そこでお茶しませんか?」
 
 常磐井の兄が連れて行ってくれたところは、『宝泉』という茶寮だった。 

 茶寮と称される建物は新しく建てたものではなく元は普通に人が済む住宅だったらしい。だが京都の真ん中に建てられたにしては、庭も充分すぎるほど広く、しかも凝った作りだったので、古い建物を壊すことなく茶寮用に作り直したようだった。

表通りに面しておらず、奥まった住宅街にぽつんとあるので京都人だけが知っている秘密の隠れ家っぽい風情だが、それでも最近は「ぐるなび」などが宣伝しているせいで結構たくさんのお客で賑わっていた。
 由利たちは庭に面した奥の座敷に通された。中に通されると全館が夏向けの葦戸(よしど)に取り換えられ、それがいかにも目に涼し気に映る。だが実際それだけでは暑さをしのげるものではないので、きちんと空調と取り付けられていた。

 常磐井の兄は弟のように茶目っ気がない分、静かににこやかに話す態度はやはり大学生らしい落ち着きがあり、好感が持てた。

「最初にお見かけしたとき、小野さんが大人びたすごい美人だったから、思わず見入ってしまって、びっくりさせて申し訳ないです。それにしてもまだ高校生なのに、すっぴんでこうも完成された子っているんだなぁ」

「そんな。あたしなんか別に背が高いだけで、別段大したことなんかありません」

「あのときは不躾に声をかけて失礼しました。見ず知らずの男に突然あいさつされちゃったら、びっくりしたでしょう?」
「いいえ、あのとき後から常磐井君が歩きてきたんです。だから、なぜ常磐井君がふたりいるのって、そっちのほうに驚いてしまって・・」
「あはは、そうなんですね。でもこうして再び会えるなんて光栄です」

 常磐井の兄は静かな雰囲気の男だったが、会ったなりこんな気恥しいことばを難なく口にできるあたり、よほど経験豊かなプレイボーイなのかもしれない。由利はちょっと用心した。

「あ、ぼくは悠季の兄で、阿野治季(はるき)というんです」


 阿野という名前を聞いて、由利は心臓が跳ね上がるのではないかと思うほど驚愕した。

「え? 阿野・・・? 阿野さんとおっしゃるのですか、常磐井ではなく? でも治季さんは、常磐井君と実のご兄弟なんじゃないのですか?」

 驚きながら由利が問い詰めるのを聞くと、治季はハハハと笑いながら説明した。

「ああ。あなたはご存じないんですね。おっしゃる通り、ぼくたちは正真正銘、血の繋がった兄弟ですよ。第一そっくりでしょ? ですが常磐井の叔父、つまりこの人がぼくたちの母の弟にあたるんですが、この夫婦には長らく子供に恵まれなくてね。しかも道場をやっているんで、どうしても男の子の後継者が欲しかったんですよ。で、まぁ幸運なことにぼくも悠季も体格に恵まれて、武道をするための素養はあったものですから。でもさすがにぼくたちの実の父親に『道場を継がせるための跡取りにさせるから、長男を差し出せ』とは言えなかったみたいでね。それで次男坊の悠季が中学に上がるのを待って、正式に養子にして道場の跡を継がせることにしたんです。だから弟は小学生までは阿野悠季だったんですよ」
「じゃあ、さきほど治季さんが『叔母さん』と呼んでらした方は・・・?」
「ああ、あの人は要するに、叔父の連れ合いで、ぼくには義理の叔母にあたる人です。まぁ、弟は気を遣っているのかおふくろって呼んでいるみたいですけどね」

 由利は心に引っかかることを、用心しながら目の前の治季にそれとなく水を向けてみた。

「ご兄弟ともに『はるき』『ゆうき』って対になっているんですね。『それに季』っていう字も」
「ああ、治季に悠季ね。うちの家ってよくわかんないんですけど、昔は帝に仕える殿上人だったらしいんですよ」
「殿上人?」
「ああ、殿上人っていうのは、貴族でもランクがありましてね。たしか五位以上だったかなぁ、何でもその位がないと帝が住む御所には上がれなかったらしいんですよね」
「へぇ、そうなんですね」

 由利は治季に相づちを打った。

「ああ、それでまぁその時から、うちの家は代々、男には『季』っていう字をつけるのが、まぁ、一種の伝統っていうのかなぁ。うちの親父も実際、『煕季』と言うんです」

 由利は何喰わぬ顔をしながらも、びっしょりと冷や汗を掻きながらそれを聞いていた。

「京都ってこんなふうに伝統を守っていらっしゃるおうちが多くて、東京から来た新参者のあたしなんかはびっくりすることばっかりです」
「いやいや。何をおっしゃいます、由利さん。京都の人間は、それぐらいしか矜持を保つ術(すべ)がなかったっていうことですよ。実際ぼくらは、明治天皇がこの京都から江戸に行幸するときにさえ、随行されることを許されなかったんですよ」

 由利がどう返事をしていいのか黙っていると、助け船を出すように治季はまた話を元に戻した。

「でもね、ぼくたちの名前は、最初、『はるき』『ゆうき』ではなく、『はるすえ』『ひさすえ』って読ませたんですよ。それで母があまりにその読みは時代遅れだからって、途中でやめさせたって話です。戸籍謄本には名前の読みまで記載しなくてもいいらしいのでね」
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