境界の旅人 38 [境界の旅人]
第11章 跳躍
1
由利はコンビニの自動扉が開くと、勢いよく外へ飛び出した。
もはや二十一世紀の現代の京都ではなく、そこには以前タイムスリップしたままの変わらぬ風景が広がっていた。昭和二十一年の京都の町は、やはり疲弊してすすけていた。
「やった、タイムスリップに成功したんだ!」
由利は心の中で快哉を叫んだ。だがそうやって、いつまでも感慨に浸ってばかりはいられない。
転落するはずの電車が来たときに、祖父たちが電車に乗り込むのを何としても阻止しなければ。
由利は今いる堀川中立売から、一気に大宮中立売の電停まで走った。距離にして二百メートル強といったところだろう。
始発の北野駅から、電車がひっきりなしにやって来る。この時代は市電だけが人々の由利一の公共の交通機関だった。
辰造たちらしき二人組の少年は、まだ通りに現れる気配すらない。由利はどきどきして待っていた。だが当の本人たちが来ないのであれば、電車を見過ごすしかない。
「乗られないんですか?」
入口のステップのところに立っている車掌は、電停に立っている由利を見て声をかけた。
「あの、すみません。乗りません」
由利は小さな声で答えた。車掌はいぶかしげな面持ちで由利を見つめたが、すぐに自分の職務に立ち戻った。
「お乗りの方はいらっしゃいませんか? お降りの方はいらっしゃいませんか?」
確認し終えるとチンチンと手元にある小さな鐘を二回鳴らし、大きな声で「出発!」と運転手に声をかけた。
由利は何人もの車掌に同じ質問をされながらも電停に立って、何台もの電車をイライラしながら見送った。
たとえ手持ちの衣装の中では、一番この時代にしっくりくるものだとしても、水色のカッター・シャツにエンブレム付きでグレイのフラノ地のブレザー、ロイヤル・ブルーのタータンチェックのスカート、牛角のついたダッフルコートに黒革のローファーという出で立ちは、この貧しい時代にあって、あまりに鮮やかすぎ、人目に付きすぎる。行き交う人々はどういった素性の少女なのだろうと、贅沢な装いの由利を遠巻きながらじっと観察していた。
「はぁっ、行く前は遅れちゃいけないってことばかり気を取られていたけど、結構早く着きすぎちゃったのかなぁ。一体、今何時なんだろう?」
由利は思い切って、すぐ傍にいた勤め人らしい男性に時間を尋ねた。
「あの、恐れ入りますが、時間を教えていだだけますでしょうか?」
相手の男は自分の時計を見た。
「ああ、五時十五分を過ぎたころだね」
「ありがとうございます」
由利はそっとため息をつきながら、頭を下げた。
「ということは……」
由利は素早く頭を巡らせた。二月八日の日没は、たしか五時半を少し過ぎる時分のはずだ。それはあらかじめ調べておいた。
「以前にここに来たときは、日没は過ぎていたかもしれないけど、真っ暗だったわけじゃない。京都は周りを山に囲まれているから、はっきりとした日没の時間がつかみにくいんだけど……。せいぜいであと十分ほどすれば、おじいちゃんたちが来るはず」
由利はじりじりしながら、祖父たちが現れるのを待った。
やがて大宮通りのほうから、小さな子供がふたり、手をつなぎながらこっちへやって来る。
「来た!」
子供たちは電停のプラットフォームに上って、電車が来るのを待った。由利はなるべくふたりの視覚に入らないところに立ち、少し離れた場所で見守った。
「もうすぐ、この子たちを引き留める女学生が現れるのよね……」
由利は辺りをぐるりと見渡した。だがそれらしき女学生は、中立売通りを見ても、大宮通りの上がりの方向、下がりの方向どちらを見ても、今のところ現れる兆しはない。
「どうしたんだろう……?」
またもや由利はだんだんと不安に駆られてきた。だがそんな気持ちにはおかまいなく、通りの向こうから電車がやって来るのが見えた。
「女学生は来ない……」
由利は真冬だというのに、脇の下にじっとりと冷や汗を掻いているのがわかった。だが大宮通りのほうから、小学校の五、六年生ぐらいの女の子が何やら叫びながらこっちへ駆けて来た。
「あ、もしかしたら、あの子なのかな?」
祖父のことば通りなら女学生が現れるはずなのだが、長い年月の間に知らず知らずのうちに記憶が改ざんされることはよくある。今度のこともそれに違いないと由利は思った。
現れるべき人間が現れたので由利は束の間、ホッとしていたが、ちょうどそのとき大宮通りを大八車にたくさんの家財道具を積んで横切る男がいた。何しろひとりで大荷物を引っ張っているので、なかなか前に進まない。走って来た女の子は、壁のような大八車に行く手を阻まれ、立ち往生していた。
「あっ。そんな……!」
由利は絶望的な気持ちになった。
とうとう電車はプラットフォームに入って来た。今から女の子を捕まえてここに戻ってくるのでは間に合わない。
前の扉からは、一日の労働で疲れた顔をした人間が、ぞろぞろと降りて来る。後ろの扉へは、これまた仕事を終えたばかりの男たちが、順序良く電車に乗って行った。辰造たちもおとなしく、列の一番後ろについて皆が乗るのを待っている。このままでは辰造たち兄弟は電車に乗ってしまう。
「待って!」
突然、見ず知らずの女学生が声を掛けてきたので、ふたりの少年はびっくりして目を大きく見開いた。
「やっちゃん、たっちゃんだよね。こんばんは」
由利は必死だった。
「何やこいつ? 何でぼくらの名前を知っとんねん?」
辰造の兄である康夫が、乱暴な口を利いた。女学生とはいえ見知らぬ人間に声をかけられたことに、ふたりとも警戒しているのだ。
「ねぇ、この電車には、乗っちゃダメ!」
「何でやねん? ぼくら、お母ちゃんに頼まれて、にいちゃんに弁当を届けに行くんや! 邪魔せんといてや」
康夫はそう言いながら、電車のステップに足を乗せようとした。瞬間的にむしろに並べられた、冷たくなった小さな体を思い出して、由利はすくみ上がった。
「お願い、お願いよ。電車に乗らないで」
由利の声は震えていた。由利の懇願の仕方があまりに切羽詰まっているので、このふたりの少年は足を止めて、どうしようかとお互い顔を見合わせた。
「だけど、お母ちゃんに……」
「うん、お母さんにおつかいを頼まれたのよね。だけどわたしも、あなたたちのお母さんに頼まれて、ここに来たのよ。もうお弁当は届けなくてもいいからって」
ふたりはじっと由利の顔を見つめた。
「あ、ぼく、こいつのこと知ってるで、にいちゃん」
今度は弟の辰造が、敵愾心も露わに由利をねめつけた。
「だいぶ前にも一度、うちの近くで会うたことがあったんや。そしたらお母ちゃんがな、何や怪しい、うさんくさい人やから、近づかんときって言わはったんやで。それにやな、お母ちゃんが言うとったけど、こいつ、アメリカとのあいの子やって」
由利が一瞬ひるんだ顔をしたのを見て、兄の康夫のほうがすかさず、さらに追い打ちをかけた。
「嘘つかんときや! うっとこのお母ちゃんが、あんたみたいな見ず知らずの人に、そんなことを頼むはずないわ!」
そこまで看破されて、由利は進退が極まった。
―お願いっ、助けて!
思わず由利は、何者かに祈った。
それから努めて何事も無かったかのように、ふたりの少年に向かってにっこりと微笑んだ。
「うん、わかってる。それじゃあ、この一本だけ見送ってくれないかな。どうしても行きたいのなら、次の電車に乗ればいい。言うことを聞いてくれたら、お姉さん、君たちにいいものあげようと思うんだけど」
由利は魅惑的なことばで少年たちを釣ろうとした。そしてとっさに自分のポケットの中に手を突っ込んで、子供たちが喜ぶようなものはないかとまさぐった。すると指先にサイコロ状のものが当たった。
―あっ、常盤井君がくれたチロル・チョコだ―
「ねぇ、君たち、チョコレート食べたくない?」
由利はポケットにあったチロル・チョコをひとつ取り出し、手品でよくやるようにチョコを親指と人差し指に挟んで、少年たちの目の前をゆっくりと横切らせた。
その場にいた人は誰しも、その小さな四角い粒に目を吸い寄せられた。光沢のある赤い紙で包まれたチロル・チョコは、戦後まもないこの時代にあって、抗うことのできない強烈な力を発揮した。たちまち少年たちは、うっとりと目の前に差し出された小さな粒を見て、ごくんと唾を飲み込んだ。
「もしこの電車に乗らないでくれたら、このチョコレート、君たちにあげるよ」
少年たちはもう一度顔を見合わせた。そうこうしているうちに戸口に立つ車掌が、少年たちに言った。
「あんたたち、乗るの? それとも乗らないの?」
由利はポケットにあった残りのチョコレートを両手に載せ、少年たちの目の前に差し出した。
「ほらっ、どう? このチョコ、君たちに全部あげるから! ね、お願い、この電車だけには乗らないで! お願い! ほかのことは言うことを聞かなくていいから!」
少年たちの目は由利の手に載せられた三粒のチロル・チョコにくぎ付けになった。由利は少しずつゆっくりと後ずさりして、ふたりが電車のステップから離れるように誘導した。幼い男の子たちは催眠術でも掛けられたかのように、ふらふらとついてきた。
やがて人であふれかえっている電車の戸は閉まり、動き出した。それと同時に先ほど大宮通りで通せんぼされていた少女が電停に駆け寄ってきた。少年たちはその少女を見ると、声を挙げた。
「ねぇちゃんや! ねぇちゃん!」
駆け寄ってきた少女は、どうも辰造たちの姉らしかった。
「ああ、しんど。よかった、間に合ったんやね。やっちゃん、たっちゃん、お母ちゃんがな、お弁当を届けなくてもいいって言わはってんよ。となりの小父さんが街へ行く用事があるさかい、代わりに届けてくれるんやて」
「ほなら、約束やで! チョコレート、ちょうだいな」
「ああ、そうだったわね、はい、どうぞ」
チョコレートを手渡すと、辰造たち兄弟三人はうれしさのあまり、飛び跳ねるように家に帰って行った。それを見て由利は、安堵のあまり深く息を吐いた。
それから事故が起きて人垣に囲まれる前に一条戻り橋を目指して駆けだそうとしたが、どういうわけかまた、突然自分の視界が狭まり紫色になって立っていられくなった。
―ああ、どうしよう。こんなところで気絶したら元の世界へ戻れなくなってしまうのに―
本来ならそのまま道路に頭から真っ逆さまに激突したのだろうが、そのとき由利をさっと受け止めてくれる人間がいた。
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由利はコンビニの自動扉が開くと、勢いよく外へ飛び出した。
もはや二十一世紀の現代の京都ではなく、そこには以前タイムスリップしたままの変わらぬ風景が広がっていた。昭和二十一年の京都の町は、やはり疲弊してすすけていた。
「やった、タイムスリップに成功したんだ!」
由利は心の中で快哉を叫んだ。だがそうやって、いつまでも感慨に浸ってばかりはいられない。
転落するはずの電車が来たときに、祖父たちが電車に乗り込むのを何としても阻止しなければ。
由利は今いる堀川中立売から、一気に大宮中立売の電停まで走った。距離にして二百メートル強といったところだろう。
始発の北野駅から、電車がひっきりなしにやって来る。この時代は市電だけが人々の由利一の公共の交通機関だった。
辰造たちらしき二人組の少年は、まだ通りに現れる気配すらない。由利はどきどきして待っていた。だが当の本人たちが来ないのであれば、電車を見過ごすしかない。
「乗られないんですか?」
入口のステップのところに立っている車掌は、電停に立っている由利を見て声をかけた。
「あの、すみません。乗りません」
由利は小さな声で答えた。車掌はいぶかしげな面持ちで由利を見つめたが、すぐに自分の職務に立ち戻った。
「お乗りの方はいらっしゃいませんか? お降りの方はいらっしゃいませんか?」
確認し終えるとチンチンと手元にある小さな鐘を二回鳴らし、大きな声で「出発!」と運転手に声をかけた。
由利は何人もの車掌に同じ質問をされながらも電停に立って、何台もの電車をイライラしながら見送った。
たとえ手持ちの衣装の中では、一番この時代にしっくりくるものだとしても、水色のカッター・シャツにエンブレム付きでグレイのフラノ地のブレザー、ロイヤル・ブルーのタータンチェックのスカート、牛角のついたダッフルコートに黒革のローファーという出で立ちは、この貧しい時代にあって、あまりに鮮やかすぎ、人目に付きすぎる。行き交う人々はどういった素性の少女なのだろうと、贅沢な装いの由利を遠巻きながらじっと観察していた。
「はぁっ、行く前は遅れちゃいけないってことばかり気を取られていたけど、結構早く着きすぎちゃったのかなぁ。一体、今何時なんだろう?」
由利は思い切って、すぐ傍にいた勤め人らしい男性に時間を尋ねた。
「あの、恐れ入りますが、時間を教えていだだけますでしょうか?」
相手の男は自分の時計を見た。
「ああ、五時十五分を過ぎたころだね」
「ありがとうございます」
由利はそっとため息をつきながら、頭を下げた。
「ということは……」
由利は素早く頭を巡らせた。二月八日の日没は、たしか五時半を少し過ぎる時分のはずだ。それはあらかじめ調べておいた。
「以前にここに来たときは、日没は過ぎていたかもしれないけど、真っ暗だったわけじゃない。京都は周りを山に囲まれているから、はっきりとした日没の時間がつかみにくいんだけど……。せいぜいであと十分ほどすれば、おじいちゃんたちが来るはず」
由利はじりじりしながら、祖父たちが現れるのを待った。
やがて大宮通りのほうから、小さな子供がふたり、手をつなぎながらこっちへやって来る。
「来た!」
子供たちは電停のプラットフォームに上って、電車が来るのを待った。由利はなるべくふたりの視覚に入らないところに立ち、少し離れた場所で見守った。
「もうすぐ、この子たちを引き留める女学生が現れるのよね……」
由利は辺りをぐるりと見渡した。だがそれらしき女学生は、中立売通りを見ても、大宮通りの上がりの方向、下がりの方向どちらを見ても、今のところ現れる兆しはない。
「どうしたんだろう……?」
またもや由利はだんだんと不安に駆られてきた。だがそんな気持ちにはおかまいなく、通りの向こうから電車がやって来るのが見えた。
「女学生は来ない……」
由利は真冬だというのに、脇の下にじっとりと冷や汗を掻いているのがわかった。だが大宮通りのほうから、小学校の五、六年生ぐらいの女の子が何やら叫びながらこっちへ駆けて来た。
「あ、もしかしたら、あの子なのかな?」
祖父のことば通りなら女学生が現れるはずなのだが、長い年月の間に知らず知らずのうちに記憶が改ざんされることはよくある。今度のこともそれに違いないと由利は思った。
現れるべき人間が現れたので由利は束の間、ホッとしていたが、ちょうどそのとき大宮通りを大八車にたくさんの家財道具を積んで横切る男がいた。何しろひとりで大荷物を引っ張っているので、なかなか前に進まない。走って来た女の子は、壁のような大八車に行く手を阻まれ、立ち往生していた。
「あっ。そんな……!」
由利は絶望的な気持ちになった。
とうとう電車はプラットフォームに入って来た。今から女の子を捕まえてここに戻ってくるのでは間に合わない。
前の扉からは、一日の労働で疲れた顔をした人間が、ぞろぞろと降りて来る。後ろの扉へは、これまた仕事を終えたばかりの男たちが、順序良く電車に乗って行った。辰造たちもおとなしく、列の一番後ろについて皆が乗るのを待っている。このままでは辰造たち兄弟は電車に乗ってしまう。
「待って!」
突然、見ず知らずの女学生が声を掛けてきたので、ふたりの少年はびっくりして目を大きく見開いた。
「やっちゃん、たっちゃんだよね。こんばんは」
由利は必死だった。
「何やこいつ? 何でぼくらの名前を知っとんねん?」
辰造の兄である康夫が、乱暴な口を利いた。女学生とはいえ見知らぬ人間に声をかけられたことに、ふたりとも警戒しているのだ。
「ねぇ、この電車には、乗っちゃダメ!」
「何でやねん? ぼくら、お母ちゃんに頼まれて、にいちゃんに弁当を届けに行くんや! 邪魔せんといてや」
康夫はそう言いながら、電車のステップに足を乗せようとした。瞬間的にむしろに並べられた、冷たくなった小さな体を思い出して、由利はすくみ上がった。
「お願い、お願いよ。電車に乗らないで」
由利の声は震えていた。由利の懇願の仕方があまりに切羽詰まっているので、このふたりの少年は足を止めて、どうしようかとお互い顔を見合わせた。
「だけど、お母ちゃんに……」
「うん、お母さんにおつかいを頼まれたのよね。だけどわたしも、あなたたちのお母さんに頼まれて、ここに来たのよ。もうお弁当は届けなくてもいいからって」
ふたりはじっと由利の顔を見つめた。
「あ、ぼく、こいつのこと知ってるで、にいちゃん」
今度は弟の辰造が、敵愾心も露わに由利をねめつけた。
「だいぶ前にも一度、うちの近くで会うたことがあったんや。そしたらお母ちゃんがな、何や怪しい、うさんくさい人やから、近づかんときって言わはったんやで。それにやな、お母ちゃんが言うとったけど、こいつ、アメリカとのあいの子やって」
由利が一瞬ひるんだ顔をしたのを見て、兄の康夫のほうがすかさず、さらに追い打ちをかけた。
「嘘つかんときや! うっとこのお母ちゃんが、あんたみたいな見ず知らずの人に、そんなことを頼むはずないわ!」
そこまで看破されて、由利は進退が極まった。
―お願いっ、助けて!
思わず由利は、何者かに祈った。
それから努めて何事も無かったかのように、ふたりの少年に向かってにっこりと微笑んだ。
「うん、わかってる。それじゃあ、この一本だけ見送ってくれないかな。どうしても行きたいのなら、次の電車に乗ればいい。言うことを聞いてくれたら、お姉さん、君たちにいいものあげようと思うんだけど」
由利は魅惑的なことばで少年たちを釣ろうとした。そしてとっさに自分のポケットの中に手を突っ込んで、子供たちが喜ぶようなものはないかとまさぐった。すると指先にサイコロ状のものが当たった。
―あっ、常盤井君がくれたチロル・チョコだ―
「ねぇ、君たち、チョコレート食べたくない?」
由利はポケットにあったチロル・チョコをひとつ取り出し、手品でよくやるようにチョコを親指と人差し指に挟んで、少年たちの目の前をゆっくりと横切らせた。
その場にいた人は誰しも、その小さな四角い粒に目を吸い寄せられた。光沢のある赤い紙で包まれたチロル・チョコは、戦後まもないこの時代にあって、抗うことのできない強烈な力を発揮した。たちまち少年たちは、うっとりと目の前に差し出された小さな粒を見て、ごくんと唾を飲み込んだ。
「もしこの電車に乗らないでくれたら、このチョコレート、君たちにあげるよ」
少年たちはもう一度顔を見合わせた。そうこうしているうちに戸口に立つ車掌が、少年たちに言った。
「あんたたち、乗るの? それとも乗らないの?」
由利はポケットにあった残りのチョコレートを両手に載せ、少年たちの目の前に差し出した。
「ほらっ、どう? このチョコ、君たちに全部あげるから! ね、お願い、この電車だけには乗らないで! お願い! ほかのことは言うことを聞かなくていいから!」
少年たちの目は由利の手に載せられた三粒のチロル・チョコにくぎ付けになった。由利は少しずつゆっくりと後ずさりして、ふたりが電車のステップから離れるように誘導した。幼い男の子たちは催眠術でも掛けられたかのように、ふらふらとついてきた。
やがて人であふれかえっている電車の戸は閉まり、動き出した。それと同時に先ほど大宮通りで通せんぼされていた少女が電停に駆け寄ってきた。少年たちはその少女を見ると、声を挙げた。
「ねぇちゃんや! ねぇちゃん!」
駆け寄ってきた少女は、どうも辰造たちの姉らしかった。
「ああ、しんど。よかった、間に合ったんやね。やっちゃん、たっちゃん、お母ちゃんがな、お弁当を届けなくてもいいって言わはってんよ。となりの小父さんが街へ行く用事があるさかい、代わりに届けてくれるんやて」
「ほなら、約束やで! チョコレート、ちょうだいな」
「ああ、そうだったわね、はい、どうぞ」
チョコレートを手渡すと、辰造たち兄弟三人はうれしさのあまり、飛び跳ねるように家に帰って行った。それを見て由利は、安堵のあまり深く息を吐いた。
それから事故が起きて人垣に囲まれる前に一条戻り橋を目指して駆けだそうとしたが、どういうわけかまた、突然自分の視界が狭まり紫色になって立っていられくなった。
―ああ、どうしよう。こんなところで気絶したら元の世界へ戻れなくなってしまうのに―
本来ならそのまま道路に頭から真っ逆さまに激突したのだろうが、そのとき由利をさっと受け止めてくれる人間がいた。
2020-01-11 20:50
nice!(2)
コメント(4)
こんばんは。
更新ありがとうございます。
よかった、よかった、じいちゃんたちは無事だ!とまずは一安心ですがで由利はこれからどうなるのか、ちゃんと戻ってくるのか……またドキドキの一週間が始まるのだわ!とテンションがあがってしまいました。きちんとした感想が書けなくてすみません。これからも楽しみにしています。お身体に気をつけて下さいませ。
by おかもん (2020-01-11 22:03)
おかもんさま
なんだか読者さまたちってみんな、「じいちゃん、じいちゃん」って辰造の心配ばっかしてますよねぇ。結構隠れた人気キャラなのかな。(笑)
by sadafusa (2020-01-12 11:08)
ああ、更新あったんですね!もう今年は読めないのかなと思って、あまり覗きにこなかったら、あったーー!!タイムスリップから入っていた。じいちゃんは娘を信頼しているのか?いつのまにか子どもを妊娠した娘のことも受け入れ、孫を引き取って可愛がって育ててくれている、いまどき珍しい好々爺ですよ。そういう人に限って物語りの中では亡くなりやすい、それでハラハラしちゃうんですよ。
由利ちゃんはどうなるのか?これからも楽しみにしています。
by Yui (2020-01-15 15:09)
Yuiさま
あけましておめでとうございます。ってもう、成人式もすんじゃったんだですけどね…。
じいちゃんねぇ…。実はね、辰造って我々一族の理想なんですよ。っていうのも、一族の長老はもう、どれもこれも老害まき散らして、大変なご仁ばっかりで。もう本当にへきえきしちゃってて、どこまでもいい人みたいなおじいさん、いないかなぁ~って思いながら書いたの。
もうね、現実逃避なんだよね(笑)
話はクライマックスへと突入してますね、すでに。
あとしばらくですが、よろしくお願いします。
by sadafusa (2020-01-15 19:18)