境界の旅人 37 [境界の旅人]
第十章 真実
3
結局ファレドは、二十二日に関空に到着してそのまま京都のホテルへ一泊することになった。一方玲子は娘の由利と会うため、ホテル・オークラ京都で十二時半に食事をするために京料理・入舟の個室で待ち合わせすることになった。
「あら、由利。どうしたの、あなた和食が好きだったかしら? 洋食にしてもいいのよ」
玲子はびっくりして由利に問い質した。
「ああ、いいのよ。たまにはこういうしっとりしたのもいいかなって。あたし、京都に来て、茶道部に入ったじゃない? 今、そういうのに凝っているの」
「そうなの?」
母は別にそれ以上は追求してこなかった。
由利は佐々木と相談して、ファレドが一応フランス育ちのリベラルなムスリムとはいえ、ハラルに則していない食材を使っている可能性が高い料理を食べさせるのは避けた方がいいだろうという一応の結論に達したため、日本食にしたのだ。だがこの場合ふたりが言い争って決裂せずに、仲良く食事をしてくれたらの話だったが。
あらかじめ部屋を二つ取って、一方の部屋で佐々木と通訳の女性と由利と辰造の四人が待機していた。
もう一方には先にファレドに入室してもらい、あとから玲子が入るという算段になっていた。その間、ファレドに接するのは、佐々木に一任した。最悪の場合を考慮して、あまり父と娘の双方に情が移りすぎないようにとの配慮からだった。
由利たちはファレドがレストランにやってくるちょっと前に先に個室へと入っていた。
「うわ、ドキドキする」
由利は胸を押さえて言った。
「まぁまぁ、そう言わんと。まずは成り行きを見守るこっちゃな。まぁ、せやけど玲子は依怙地になるところがあるからな。フランスさんがやって来ても、そう、すんなりと事が運ぶかどうかはわからんな」
辰造が達観したようなことを言う。
「そんなおじいちゃん! 初めから諦めたようなことを言わないでよ」
「まぁまぁ、おふたりとも落ち着いて」
佐々木がとりなすように言った。
「玲子さんだって、このセッティングをおふたりの娘である由利さんがしたんだと知ったら、そんなに無下には扱わないでしょう。やはり両親の仲が良いというのは子供の悲願ですからね。きっと落ち着いて話し合いをされると思いますよ」
由利は時計をみると十二時半を過ぎていた。玲子は必ず時間を守る人間なので、おそらくすでに部屋の中にいるはずだ。しばらくすると隣の部屋から、ガタっと乱暴に椅子を引く音がするので、佐々木は様子を見るために、立ち上がった。
「ちょっと様子を見てきましょう」
「佐々木さん、あたしも行きます! いえ、行かせてください」
由利と佐々木が、部屋の中へ入ると、憤った顔をした玲子が退室しようとしてか、戸口の前に立っていた。
「ママ・・・?」
「由利? どうしてこんなことをするの? ああ、こういう茶番劇を演じるように、あの男から言われてたの?」
強い口調で玲子が尋問した。
「ママ・・・」
由利はふと自分の視線を、テーブルの向こう側に立っている男性に向けた。ファレドは手紙の通りに誠実で温厚そうな紳士だった。
「オオ、アナタガ、ユリサンデスネ? オアイシタカッタデス」
ファレドはこの部屋にいる少女が初めて会う自分の娘だとわかったようで、感の極まった表情をしながら片言の日本語をしゃべった。
「よして、ラディ! あなたなんかに大事な由利は絶対に渡せないわ! 由利は、由利はね、私だけのものよ、私だけの娘なの! あなたなんか関係ないのよ。帰ってよ!」
玲子の目から涙がみるみるうちに溢れて来た。
「ママ、ママ! 落ち着いて。落ち着いてよ。きっとママはファレドさんのことを誤解しているんだと思うの。ね?」
「この人はね、由利。誠実そうな善人面で私に近づいてきて、さも真剣に愛しているかのように甘いことばで私を誘惑していたくせに、実は歴とした婚約者がいたのよ! それなのに、そんなことも知らず、私は由利をお腹に宿して・・・!」
玲子は床に膝間づいて号泣した。
「レイコ、オネガイデス、ワタシノハナシヲ、ドウカ、キイテクダサイ」
ファレドはそう言ってから、玲子の方へ歩み寄ろうとした。
「来ないで! 私と娘の傍に来ないでよ! ラディ、あなた何しに来たの? 早くフランスの奥さんのところへ帰って!」
「ママ、ママ! ファレドさんは独身よ。奥さんなんていらっしゃらないわ。一度も結婚したことがないの。ママのことを未だに愛してるって、おっしゃってるのよ」
「そんなの嘘よ! ラディ、帰って、帰って!」
由利はここまで取り乱した母を見たことがなかった。
「ママ・・・」
そこへ辰造が入って来た。
「玲子!」
辰造はいつにない大声で、娘の玲子を叱った。
「お、お父さん!」
玲子は思いがけない父親の出現に一瞬あっけにとられたようだった。
「玲子、よう聞きや。ファレドさんはわざわざフランスから、おまえに自分のことを釈明しに来はったんやで。それに由利がどんな気持ちでこの話し合いを取りまとめたかを想像してみい!」
「・・・・・・」
玲子はことばもなく、父の怒号に耐えていた。
「話は最後まできちんと聞くもんや。それからやろ、判断するんは! 子供の前で見苦しく取り乱すもんやないで!」
「おじいちゃん、お母さんを怒らないであげて」
「お母さん、さあ、立って」
由利は玲子に手を貸した。その横をよろよろと辰造が胸を苦しそうに押さえたまま歩いていく。その顔は真っ青だった。
「ダイジョウブデスカ?」
辰造を見てファレドが心配そうに声をかけた。
「み、水をくれ」
辰造はテーブルに乗せられた水の入ったコップを取って口に運ぼうとした。
「気分が悪い・・・」
そうひとこと言うと、辰造はいきなり、仰向けになってドーンと倒れた。
「おじいちゃん? おじいちゃん!」
由利は悲鳴に近い声で祖父を呼んだ。
「お父さん!」
それを後ろから見ていた佐々木は店のものに大声で言った。
「大変だ、すみません。救急車を呼んでください! お願いします!」
辰造が救急車で病院に運び入れられると、すぐにICUに運ばれた。
由利たちがタクシーに乗って病院へ着くと、救急車で運ばれた辰造に付き添って行った玲子が、がらんとした待合のほうでひとりポツンと座っていた。
「ママ・・・。おじいちゃんはどうなった?」
「救急車の中でもお父さんは、ものすごく悶え苦しんでいて・・・。今はICUに入れられて、どこが悪いのか調べているところらしいの」
「じゃあ、あたしたちはどうしてたらいいの?」
「一応家族は、病院で待機していてくださいって。おそらくどんなに早くても診断が終わるのは、二、三時間後だって」
これまでの一部始終を見ていた佐々木は、おずおずと申し出た。
「大変なことになりましたね。いろんな問題が山積みですが、まずはおじいさまのことが目下のところ、一番大事なことです。わたしたちはいったん、宿に引き上げることにします。何かありましたら、またご連絡ください。取り合えずファレドさんのことは我々がしっかりサポートすることにしましょう」
通訳の女性がこのことをファレドに告げた。ファレドは由利を見て、悲しそうな顔をした。
「ファレドさん、そんなにがっかりなさらないでください。あたしが母に何が起こったのかをあとでききちんと訊き出して見ます。今日はお会いできてうれしかったです」
由利がそう言うと、通訳がそれをファレドに伝えた。ファレドは由利の心遣いを理解して、口許を少しだけ上げてうなずいた。ファレドと佐々木たち一行は、その場を去って行った。
「お父さん、こんなふうになるんだったら、もっと早く会うんだった」
玲子が呆然として言った。
「そうよ、ママは頑固だと思ったよ。そりゃあ、おじいちゃんは昔人間だから、たしかに昔風のことをいうかもしれないけど、こんなに何十年も絶縁するほどのことはなかったと思う」
「そうかもしれない・・・。でも、人をそんなふうに責めるのは簡単よ、由利」
「ね、ママ。それより、この手紙読んでみて」
由利はファレドが自分によこした手紙を玲子に渡した。
「これは?」
「うん、ファレドさんが日本に来る前に、わたしに書いてくれた手紙だよ」
玲子は渡された手紙を最後まで目を通すと、深いため息をひとつ付いた。
「まさかラディが、ずっと独身を通していたなんて。どうして?」
玲子は信じられないといったようにつぶやいた。
「ママ。ママはさっき、ファレドさんには婚約者がいたって言ってたけど、あれはどういうことなの?」
玲子はしばらく考え込むようにじっと黙っていたが、ようやく決心がついたように口を開いた。
「もうこうなってしまったら、あなたには洗いざらい話さなきゃならなくなったってことよね。ごめんなさい。私、これまでずっと由利に無理強いをしてきたのかもしれない、自分の父親はどんな人なのかを考えちゃいけないって。だけどこういうのも子供に対する一種の暴力だったのかもしれないわね」
「ううん、ママ。そんなふうに自分ばかりを責めないで。あたしには理由は分からなかったけど、ママが苦しんでいたのは解っていたよ」
由利は玲子の手首をぎゅっとつかんでから、顔を見上げた。玲子の目には涙がにじんでいる。
「この手紙にも書いてある通り、私は最初、フランス国立研究所に勤務したてのとき、同じ職場で働いているラシッドと仲が良くなったのね。私はそれまでに日本でフランス語もある程度勉強していたんだけど、やはり現地にきて戸惑うことも多くて。で、彼のほうは大学時代からパリに住んでいたから、土地のことに詳しくて、よくいろんなことを相談していたの。あるとき、アルジェリア人同士の仲間内でパーティをするから遊びに来ないかと誘われたのが、そもそものラディとの出会いのなれそめなのよ」
「そっか。うん・・・そのことは手紙にも書いてあったね」
「そうね。それでラディとはすぐに恋仲になったの。当時ラディは駆け出しの新進画家だったんだけど、彼のような芸術家は私にとっては非常に新鮮で魅力的に映ったの。それまで知っていた小難しい理屈ばかりこねていた男性とは違って、とてもロマンティックでムードがあって優しくて。それでいて男らしい包容力もあってね。私はもうラディに夢中だったわ」
自分の美しい青春時代を語る玲子の横顔は、いつになく喜びに輝いているように由利には思えた。
「そう、ファレドさんはそんなに素敵な人だったのね、よかった。自分の父親にあたる人がそんなすばらしい人だって知ることができて」
「娘のあなたにこんなことを言うのは恥ずかしいんだけど、私たちが深い仲になるのはそう時間はかからなかったの。私は全然後悔なんかしてなかった」
「じゃあ、なぜ? ファレドさんはお母さんに指輪を用意して、プロポーズをするつもりだったって書いてあったけど」
「そうよね、今から考えると、なぜ彼に会ってきちんと事の真偽を確かめなかったのかと悔やまれるわ。だけど、わたしはあの女のことばを信じてしまったのよ!」
「ママ、あの女って?」
「ある日、研究所に電話がかかって来たの。電話を取った事務員に誰何すると『ヤスミーナ』と名乗る女性からだと言ったわ」
「ヤスミーナ?」
「そう、ヤスミーナってジャスミンのことよ。ムスリマの女性にはよくある名前なの。だから私はラディの知り合いか何かなのかと思って、警戒することなく電話に応じたの」
「それで?」
「ええ、その人は『大切なお話があるから、仕事がひけたら、ぜひ会いたい』って言ったきり、電話で要件を述べることはなかったわ。それで、私は研究所からほど近いカフェを指定して、そこで待ち合わせすることになった。それで実際に会ってみると、その人は『わたしからラディを返して欲しい』というのよ」
「ええ? それってどういうことなの?」
由利はびっくりして玲子を問い質した。
「ええ、そうなの、私も今、あなたが言ったのと同じことをヤスミーナと名乗る女性に言ったわ。ものすごい美女だったわね。ブロンズ色の肌で彫りが深くてね、それでいて瞳は真っ青な海のような色なの。まずこの人の美しさ、女王ように毅然とした態度に気圧されてしまっていたわね。聞くところによると、彼女はラディの生まれたときからの許嫁(いいなずけ)であって、アラブ人社会では親同士が決めたこの契約は絶対だっていうのよ。そのとき、こんな美しい人が婚約者なのだったら、今の話は本当かもしれないと一瞬心が怯んだのを覚えているわ。でも私はラディを愛していたし、信じていたから、そんなはずがないってヤスミーナに言い返したわ。でも」
「でも?」
「ヤスミーナは言ったの。『ラディがあなたに近づいたのは、あなたが異教徒だから』だって。『イスラム社会では、男性が同じイスラム教徒の女と不適切な関係を持つことは大きな罪だけど、レイコはムスリマじゃないから、その罪を問われることはない。だからラディが息抜きのために付き合っているのに過ぎない。ラディがあなたのようなブディストの東洋人と真面目に結婚など考えるはずがない』って。それで『もうすぐ私たちは結婚する。だから彼は今、自分の女関係の身辺整理をしている。だからわたしは彼に頼まれて、あなたに別れるように言って欲しいと命じられた』と言ってきたの」
「まさか、そんな話をママは信じたの?」
「ええ、そのまさかよ」
玲子はぽたりと涙をこぼした。
「ヤスミーナは言ったわ。『アルジェリア人の人間関係は一種の氏族社会が浸透しているから、親同士のこういった約束は絶対だって。もしレイコが意地を張ってラディと別れないののなら、ラディはもちろんのこと、ラディの父親もアラブ人同士の仲間内から信頼を失えば、面目も失うんだって。それにきちんと婚約もしないうちから、男に身体を任せてしまうようなふしだらな女は、誰も相手になんかしないものだって。ラディとあなたは絶対にうまくいきっこないのだ』と罵倒されたのよ」
「どうしてヤスミーナって人は、そんな込み入った事情まで知っていたのかしら?」
「そうよ、私も耳を疑ったわ。私とラディが真剣に付き合っていることなんて、ほとんどの人は知らないことだわ。深い関係だなんて、どうしてヤスミーナが知っているんだろうって思ったわ。だけどつぎの瞬間、これはラディが直接ヤスミーナに話したに違いないって思ったの。そのとき、逆上してしまったのよ。私はラディにとっては、単に尻軽のお気楽な遊び相手に過ぎなかったんだって。ちょうど私は時を重ねて、あなたを身ごもったことを悟ったの。で、決心したのよ。ここは一刻も早くパリから離れて、日本に生活の基盤を求めるべきだってね。職場には適当な理由をつけて辞めたのよ。それから東京の郊外に家を借りて、すぐに保育所へこれから生まれる子供が入れるように手続きを取ったわ。さいわいなことに日本の国は母子家庭を優先して子供を保育所に入れてくれるから、助かったのだけれどね」
「ママ、大変だったのね。でも理解できる、その気持ち。あたしがママだったらきっと同じことをしていると思うよ。愛している人から裏切られたと思ったらそんなふうに自暴自棄になると思う。だけどママはちゃんとあたしをこの世に産み出して、育ててくれたじゃない?」
「由利、ありがとう」
母と娘はぎゅっとお互いを抱きしめあった。
4
四時過ぎぐらいに、玲子母娘はICUの看護師に呼ばれた。
「小野辰造さんのご家族の方でいらっしゃいますか?」
「あ、はい」
「五時過ぎくらいから担当となられた先生の説明がありますが、その前に患者さんと少しだけお話ができます。お話しされますか?」
「はい」
由利が答える前に玲子がすでに答えていた。
看護師に命じられる通り、部屋に入る前に頭にキャップをしマスクを着け、手をまず石鹸で洗い、そのあと再びアルコールで完全に消毒して、中へ通された。
看護師に誘導され、透明なビニールで仕切られた一画に通されると、複雑な機器に囲まれたベッドで辰造は横たわっていた。身体にはいろいろと点滴の袋が下がっていた。
「お父さん!」
玲子はすでに悲しみと自己嫌悪で決壊しそうになっていた。それを見て看護師は玲子に言った。
「患者さまは今、非常に重篤な状態にありますので、くれぐれを興奮させるようなことはおっしゃらないでくださいね。お時間は二三分もめどにお願いします」
玲子は辰造の手をしっかりと握り締めた。
「お父さん、わたしよ。玲子よ、玲子が来たわよ。由利も一緒よ」
「玲子か・・・」
「ええ、お父さん」
「よう戻って来てくれた」
「ごめんなさい。もっと早くに来るべきだった」
「ええ、ええ、玲子、謝らんかて。結局顔が見れたんやさかい。わしは満足やわ。せやけどな」
「お父さん、何?」
「玲子、意地を張らんと人を赦さな。分ったな」
「ええ、ラディのことね。ありがとう・・・」
この期に及んでも、辰造は娘のことを案じていた。玲子は涙ながらに大きくうなずいた。辰造はそれを見ると、今度は横にいた由利のほうに目を移した。
「由利か・・・」
「おじいちゃん・・・」
弱弱しい祖父を見て、由利は絶句した。
「由利・・・これまでのいろんなこと、ほんまにおおきにな」
「おじいちゃん!」
「おまえと一緒にいられて楽しかったわ」
看護師がタイミングを見計らって言った。
「これ以上話されると、患者さまの身体に負担がかかりすぎますので」
玲子と由利は涙ながらに退室した。
部屋の外に出ると、看護師が由利たちに向かって言った。
「これから担当医となられます先生からのお話があります。おそらく手術の話になると思います」
しばらくすると小部屋に通され、医師から説明があった。
「お父さまは『大動脈解離』ですね」
「それはどういう病気なのですか?」
「はい。大動脈は、外膜、中膜、内膜の三層構造となっているんですね。ですが、何らかの原因で内側にある内膜に裂け目ができ、その外側の中膜の中に血液が入り込んで長軸方向に大動脈が裂けることを大動脈解離と言うんです。辰造さんの場合はICUに入ってこられた段階で、まずは痛みを和らげ、収縮期血圧を100~120mmHg以下に保つことを目標に、十分な薬物療法が行なわれました。今のところは落ち着いてはいますが」
医師は液晶の画面に図を映し出して説明した。
「ですが裂け目が心臓に近い箇所にまで及んでいますので、手術は必至となります。手術では、裂け目がある部分の血管が人工血管に置き換えられます」
説明は一時間以上にわたった。
それだけでもへとへとになっていたのだが、さらに説明は辰造が倒れたときに脳挫傷した可能性もあるとかで脳外科医の見解、そして麻酔医からの麻酔をかけたときの生還のリスクなどそれぞれに一時間近くも話され、しかもそれらがノンストップで淀みなく行われるわけではなく、ひとつの話が終わったあと、またたっぷり三十分以上は待たされるので、疲れ方も半端なかった。その時点で時計はすでに八時を回っていた。
「ママ、これで全部話が終わったんだろうか?」
「どうなのかしらね。いずれにせよ、全部聞かなきゃ手術してもらえないんだから。聞くしかないのよ」
玲子は少し憮然とした面持ちで言った。
「ねぇ、ママ。お医者さん、ひとりひとり、言うことが微妙にずれてなかった?」
「まぁ、それぞれが専門とするところが違うから、そんなもんなんでしょ?」
「インフォームドコンセントってさ、あれってするだけムダじゃない? だってさ、それを聞いて、手術を拒否する力なんか家族のあたしたちにはないじゃない? ずうっと言われっぱなしでさ」
由利は母親に向かって不服そうに文句を言った。
「まぁ、この世の中、訴訟社会だからね、そうしないと万が一のとき、訴えられることもあるから、仕方ないのよ」
玲子は由利をなだめたが、ふと思いついたように言った。
「あ、由利。すっかり取り乱して忘れていたけど、私はとりあえず会社に電話しなきゃ。こんな状態じゃ、しばらくここにいるしかないでしょうしね。まさか由利をひとりにさせるわけにも行かないし。ここでちょっと待ってて」
玲子はいったんICUの病棟から離れて行った。
「うん」
由利は疲労困憊して、何をするでもなくぼうっと椅子に腰かけていた。だたでさえ祖父のことが心配なのに、状況や手術の説明をくどくどと聞いたり、入院や手術するための同意書などの煩雑な事務手続きをするのは身体を妙に疲弊させた。
すると向こうのほうから両手に買い物バッグを下げた男の人が近づいて来た。廊下が暗かったので判らなかったが、それはファレドだった。由利は驚いて、はじかれたように立ち上がった。
「ユリサン!」
「ファレドさん! どうして?」
「アナタタチ、オ昼カラ、何ニモ、食ベテナイノデハナイデスカ?」
ファレドは一方の手に提げていた買い物袋を由利に手渡した。中には手に持って食べやすいような手巻き寿司、咀嚼しやすいスフレなどの咀嚼しやすいお菓子、そして飲み物などがたくさん入っていた。
「うわぁ、ありがとうございます。早速ですけど、いただきますね」
「ドウゾ、ドウゾ」
由利はとりあえず、カラカラに喉が渇いていたので、グレープフルーツジュースを飲んだ。
「ファレドさん、ものすごく日本語がお上手なんですね」
ひとごこちついたあと、由利はファレドに言った。
「日常会話グライナラ、ドウニカコウニカ話セルミタイデス」
「せっかくはるばるフランスから来ていただいたのに、こんなことになってしまって」
「イエイエ。レイコヤ、アナタガピンチノトキニ、居合ワセルコトガデキテ、カエッテヨカッタノカモシレマセン」
そうこうしているうちに、玲子が帰って来た。由利の傍にファレドがいるのを見てびっくりしていた。
「ラディ!」
「ママ。ファレドさんが、あたしたちに差し入れを持って来てくれたの」
「そ・・・うなの? それはどうも御親切に。ありがとう。ラディ」
玲子はラディにどう接していいのかわからず、戸惑っていた。
「レイコ、コレハアナタニ」
ラディは玲子にもう一方の手提げ袋を差し出した。
「レイコ、佐々木サンニ、聞キマシタ。レイコハ、日帰リデ京都ニ来タノダト。ダカラ、泊ル用意ハ、シテナイノデハナイカト思イ、差シ出ガマシイデスガ、通訳ノ女性ニ頼ンデ、身ノ回リノ物ヲ買ッテモラッタノデス。ワタシハ、レイコニ失礼ナノデ、中身ハドンナモノガハイッテイルカ、ハワカリマセンガ、タブン役ニ立ツト思イマス」
ファレドは玲子たちが病院に缶詰にされている間、玲子の身を案じておそらく自分のできることをしたのだろう。今の状況では病院から一歩も出られないのはたしかなので、この気遣いは女である玲子にとっては理屈抜きで非常にうれしかった。玲子はファレドの昔から変わらぬ優しさに触れて、ことばが出ないようだった。
「サアサア、レイコモ、ナニカ口ニイレタホウガイイデスヨ。レイコハ、コレガ好キデシタネ、好ミガ変ワッテナケレバイイノデスガ」
ファレドは玲子にオランジーナとオムレットを手渡した。
「ラディ、こんな些細なことまで覚えていたの?」
玲子は感激のあまりほろほろと涙を流した。玲子はファレドに昔の恋が決裂した原因を仔細に聞いて納得したわけではなかったけれど、すでにそんなことはどうでも良かったらしかった。少なくとも自分の一大事のときに、こうやって傍に寄り添ってくれているのだから。
ひんやりとしてのど越しのよいジュースと甘いお菓子は、それまで緊張して張り詰めた気持ちでいた玲子と由利には何よりおいしく感じられた。そんなふたりを見ているファレドの目は優しく和んでいた。
九時を過ぎたところで、看護師が玲子たちに手術の用意ができたと告げに来た。
「先生と手術室の用意ができ次第、オペを始めます」
しかしそうは言ってもなかなか、始まらなかった。由利はだんだんと焦って来た。
「どうしよう・・・」
由利たちは、手術前の家族が待つ専用の控室に留まるように言われていた。
由利は待合室で待機しているときは、何をするわけでもなく時間を持て余していたので、常磐井には祖父が倒れた状況を詳しく文章にしてLineで送っていた。常磐井も一応、由利が今どんな状態に置かれているかは理解したようだった。常磐井からは「十時を過ぎたら、あとはお母さんがついているのだから、とりあえずそこは任せておまえは家に戻って来い」と伝えてきた。
たっぷり一時間待って辰造は可動する寝台に乗せられ、三人の看護師に付き添われて、手術室までやってきた。
玲子はラディと辰造の傍に行った。
「お父さん、頑張ってね。私ずっとここで待っています」
辰造は玲子の傍にファレドがいるのを見ると、ふっと安心したようにわずかに微笑んだ。
「玲子、幸せになるんやで、幸せにな」
「ファレドさん。ほんまにありがとう。玲子をよろしくお頼申します」
「辰造サン・・・」
辰造はそれだけを言い残して、手術室に運ばれていった。
看護師は玲子たちに告げた。
「手術の目安ですが、一応手術は明日のお昼ぐらいまでかかると思っておいてください」
「そんなに時間がかかるのですか!」
玲子は驚いて看護師に訊いた。
「ええ、大手術ですよ、小野さん。病院には家族の方用の仮眠室もございますので、そこで待機してください。途中で緊急事態になるかもしれませんのでね」
「じゃあ、由利、そこへ行きましょうか?」
由利は勇気を出して母に告げた。
「ママ、ごめんなさい、あたし、ちょっと用を思い出したの! すぐにここに戻って来るから、いいかな?」
「用って何? そんなに急ぐこと?」
玲子は怪訝な顔をして訊いた。だが娘の顔からは必死なものが漂ってきたので、それ以上止めだてすることはできそうもなかった。
「すみません、ファレドさん。あたしがいない間、母と一緒にいてもらっていいですか?」
「モチロン、構イマセンヨ。ワタシハココニ、レイコトイマス」
「ありがとうございます! じゃあ!」
由利はそう言い残すと、その場を駆け出した。
病院の玄関の外に出ると、待機しているタクシーに乗り、由利は運転手に自分の家の住所を言った。スマホを見ると十時十五分を過ぎている。家に着くのがおそらく十分、制服はすでに用意されて自分の部屋に掛かっている。それに三つ折りのソックスも机の上にきちんと置かれている。たしかローファーの革靴も下駄箱のすぐ出るところに置いたのを今朝も確認していたはずだ。
「由利、落ち着け、落ち着くのよ」
由利はパニックになりそうな自分へ冷静になるように言い聞かせた。
タクシーが家の前に着くと、由利はバッグからキーホルダーを取り出して、鍵穴に差し込もうとした、だが手が震えてなかなか鍵穴に入らない。
「ううっ、もうあたしったら」
鍵穴に鍵を突っ込んで何度ガチャガチャやっても、くるりと解錠してくれない。
「もう、何やってんだよ、由利」
背後から、誰かが自分の手を取って鍵を回してくれた。だがもう声だけで、それが常磐井だと判った。
「常磐井君、来てくれたのね!」
「うん。大変だったな、おじいさんのこと。十時ぐらいからここでずっと待ってた。だけどもうここでのんびりしてる暇はねぇよ。早く着替えろ! おれは下で待ってる」
「うん」
由利は急いで、それまで着ている服を脱ぎ捨てると、学校の制服のブラウスを着、スカートを履き、最後にブレザーを着た。そしてこの日のためにわざわざ用意した、白いソックスを三つ折りにして、その上に紺のダッフルコートを着た。
由利が急いで降りてくると、常磐井は下駄箱にローファーがあるのを見つけておいてくれたのだろう、靴はすでに玄関に出ていた。
玄関を出ると、やはり常磐井が由利に代わって玄関に鍵を掛けてくれた。
「まだ、十時四十五分だ。ゆっくり行っても充分に間に合う。大丈夫だ。焦らなくていい。由利。今は雑念を振り払ってひとつのことだけに集中しろ、いいな」
「うん」
コンビニに着くと、やはり店の中には店員以外、人がいなかった。時計を見ると、まだ十一時になるまでには五分ほど時間の余裕があった。
気が付けば、常磐井はカウンターの前に置いてあるチロルチョコを五つほど買っていた。
「常磐井君。よくそんなチョコレートなんか買う気持ちの余裕があるね」
「いや、ピンチなときほど、こういうことが必要だとオレは思うけどね。はい、食べて」
常磐井はチロルチョコの紙を剥いて由利に手渡した。
「ふぅ、甘い・・・!」
「そう、今日の由利は頭の使い方が半端なかっただろう? だから甘いものが効くんだ」
そう言いながら自分もひとつ食べて、残りの三つを由利のポケットに入れた。
「じゃあ、打ち合わせ通り、おれは一条戻橋の西側に立って待っているから。しっかりやれよ!」
時計が十一時を指した。
「じゃあ、常磐井君、頑張ってくる!」
「おう!」
由利は常磐井の瞳を見つめて言った。常磐井は行けと言うようにうなずいた。
コンビニの自動扉を開けて由利は外へと駆け出して行った。
常磐井が遅れて外へ出ると、すでに由利の姿はそこにはなかった。
読者のみなさまへ
この小説はフィクションですが、京都案内という意味を兼ねまして、一般の方々がご利用できるお店や場所・地名などは一部実名で書かせていただいております。一方、由利や美月の通う「桃園高校」および、宗教団体等はすべて架空です。そしてこの作品に出てくる宗教的概念もすべてフィクションであることを予めご了承ください。
3
結局ファレドは、二十二日に関空に到着してそのまま京都のホテルへ一泊することになった。一方玲子は娘の由利と会うため、ホテル・オークラ京都で十二時半に食事をするために京料理・入舟の個室で待ち合わせすることになった。
「あら、由利。どうしたの、あなた和食が好きだったかしら? 洋食にしてもいいのよ」
玲子はびっくりして由利に問い質した。
「ああ、いいのよ。たまにはこういうしっとりしたのもいいかなって。あたし、京都に来て、茶道部に入ったじゃない? 今、そういうのに凝っているの」
「そうなの?」
母は別にそれ以上は追求してこなかった。
由利は佐々木と相談して、ファレドが一応フランス育ちのリベラルなムスリムとはいえ、ハラルに則していない食材を使っている可能性が高い料理を食べさせるのは避けた方がいいだろうという一応の結論に達したため、日本食にしたのだ。だがこの場合ふたりが言い争って決裂せずに、仲良く食事をしてくれたらの話だったが。
あらかじめ部屋を二つ取って、一方の部屋で佐々木と通訳の女性と由利と辰造の四人が待機していた。
もう一方には先にファレドに入室してもらい、あとから玲子が入るという算段になっていた。その間、ファレドに接するのは、佐々木に一任した。最悪の場合を考慮して、あまり父と娘の双方に情が移りすぎないようにとの配慮からだった。
由利たちはファレドがレストランにやってくるちょっと前に先に個室へと入っていた。
「うわ、ドキドキする」
由利は胸を押さえて言った。
「まぁまぁ、そう言わんと。まずは成り行きを見守るこっちゃな。まぁ、せやけど玲子は依怙地になるところがあるからな。フランスさんがやって来ても、そう、すんなりと事が運ぶかどうかはわからんな」
辰造が達観したようなことを言う。
「そんなおじいちゃん! 初めから諦めたようなことを言わないでよ」
「まぁまぁ、おふたりとも落ち着いて」
佐々木がとりなすように言った。
「玲子さんだって、このセッティングをおふたりの娘である由利さんがしたんだと知ったら、そんなに無下には扱わないでしょう。やはり両親の仲が良いというのは子供の悲願ですからね。きっと落ち着いて話し合いをされると思いますよ」
由利は時計をみると十二時半を過ぎていた。玲子は必ず時間を守る人間なので、おそらくすでに部屋の中にいるはずだ。しばらくすると隣の部屋から、ガタっと乱暴に椅子を引く音がするので、佐々木は様子を見るために、立ち上がった。
「ちょっと様子を見てきましょう」
「佐々木さん、あたしも行きます! いえ、行かせてください」
由利と佐々木が、部屋の中へ入ると、憤った顔をした玲子が退室しようとしてか、戸口の前に立っていた。
「ママ・・・?」
「由利? どうしてこんなことをするの? ああ、こういう茶番劇を演じるように、あの男から言われてたの?」
強い口調で玲子が尋問した。
「ママ・・・」
由利はふと自分の視線を、テーブルの向こう側に立っている男性に向けた。ファレドは手紙の通りに誠実で温厚そうな紳士だった。
「オオ、アナタガ、ユリサンデスネ? オアイシタカッタデス」
ファレドはこの部屋にいる少女が初めて会う自分の娘だとわかったようで、感の極まった表情をしながら片言の日本語をしゃべった。
「よして、ラディ! あなたなんかに大事な由利は絶対に渡せないわ! 由利は、由利はね、私だけのものよ、私だけの娘なの! あなたなんか関係ないのよ。帰ってよ!」
玲子の目から涙がみるみるうちに溢れて来た。
「ママ、ママ! 落ち着いて。落ち着いてよ。きっとママはファレドさんのことを誤解しているんだと思うの。ね?」
「この人はね、由利。誠実そうな善人面で私に近づいてきて、さも真剣に愛しているかのように甘いことばで私を誘惑していたくせに、実は歴とした婚約者がいたのよ! それなのに、そんなことも知らず、私は由利をお腹に宿して・・・!」
玲子は床に膝間づいて号泣した。
「レイコ、オネガイデス、ワタシノハナシヲ、ドウカ、キイテクダサイ」
ファレドはそう言ってから、玲子の方へ歩み寄ろうとした。
「来ないで! 私と娘の傍に来ないでよ! ラディ、あなた何しに来たの? 早くフランスの奥さんのところへ帰って!」
「ママ、ママ! ファレドさんは独身よ。奥さんなんていらっしゃらないわ。一度も結婚したことがないの。ママのことを未だに愛してるって、おっしゃってるのよ」
「そんなの嘘よ! ラディ、帰って、帰って!」
由利はここまで取り乱した母を見たことがなかった。
「ママ・・・」
そこへ辰造が入って来た。
「玲子!」
辰造はいつにない大声で、娘の玲子を叱った。
「お、お父さん!」
玲子は思いがけない父親の出現に一瞬あっけにとられたようだった。
「玲子、よう聞きや。ファレドさんはわざわざフランスから、おまえに自分のことを釈明しに来はったんやで。それに由利がどんな気持ちでこの話し合いを取りまとめたかを想像してみい!」
「・・・・・・」
玲子はことばもなく、父の怒号に耐えていた。
「話は最後まできちんと聞くもんや。それからやろ、判断するんは! 子供の前で見苦しく取り乱すもんやないで!」
「おじいちゃん、お母さんを怒らないであげて」
「お母さん、さあ、立って」
由利は玲子に手を貸した。その横をよろよろと辰造が胸を苦しそうに押さえたまま歩いていく。その顔は真っ青だった。
「ダイジョウブデスカ?」
辰造を見てファレドが心配そうに声をかけた。
「み、水をくれ」
辰造はテーブルに乗せられた水の入ったコップを取って口に運ぼうとした。
「気分が悪い・・・」
そうひとこと言うと、辰造はいきなり、仰向けになってドーンと倒れた。
「おじいちゃん? おじいちゃん!」
由利は悲鳴に近い声で祖父を呼んだ。
「お父さん!」
それを後ろから見ていた佐々木は店のものに大声で言った。
「大変だ、すみません。救急車を呼んでください! お願いします!」
辰造が救急車で病院に運び入れられると、すぐにICUに運ばれた。
由利たちがタクシーに乗って病院へ着くと、救急車で運ばれた辰造に付き添って行った玲子が、がらんとした待合のほうでひとりポツンと座っていた。
「ママ・・・。おじいちゃんはどうなった?」
「救急車の中でもお父さんは、ものすごく悶え苦しんでいて・・・。今はICUに入れられて、どこが悪いのか調べているところらしいの」
「じゃあ、あたしたちはどうしてたらいいの?」
「一応家族は、病院で待機していてくださいって。おそらくどんなに早くても診断が終わるのは、二、三時間後だって」
これまでの一部始終を見ていた佐々木は、おずおずと申し出た。
「大変なことになりましたね。いろんな問題が山積みですが、まずはおじいさまのことが目下のところ、一番大事なことです。わたしたちはいったん、宿に引き上げることにします。何かありましたら、またご連絡ください。取り合えずファレドさんのことは我々がしっかりサポートすることにしましょう」
通訳の女性がこのことをファレドに告げた。ファレドは由利を見て、悲しそうな顔をした。
「ファレドさん、そんなにがっかりなさらないでください。あたしが母に何が起こったのかをあとでききちんと訊き出して見ます。今日はお会いできてうれしかったです」
由利がそう言うと、通訳がそれをファレドに伝えた。ファレドは由利の心遣いを理解して、口許を少しだけ上げてうなずいた。ファレドと佐々木たち一行は、その場を去って行った。
「お父さん、こんなふうになるんだったら、もっと早く会うんだった」
玲子が呆然として言った。
「そうよ、ママは頑固だと思ったよ。そりゃあ、おじいちゃんは昔人間だから、たしかに昔風のことをいうかもしれないけど、こんなに何十年も絶縁するほどのことはなかったと思う」
「そうかもしれない・・・。でも、人をそんなふうに責めるのは簡単よ、由利」
「ね、ママ。それより、この手紙読んでみて」
由利はファレドが自分によこした手紙を玲子に渡した。
「これは?」
「うん、ファレドさんが日本に来る前に、わたしに書いてくれた手紙だよ」
玲子は渡された手紙を最後まで目を通すと、深いため息をひとつ付いた。
「まさかラディが、ずっと独身を通していたなんて。どうして?」
玲子は信じられないといったようにつぶやいた。
「ママ。ママはさっき、ファレドさんには婚約者がいたって言ってたけど、あれはどういうことなの?」
玲子はしばらく考え込むようにじっと黙っていたが、ようやく決心がついたように口を開いた。
「もうこうなってしまったら、あなたには洗いざらい話さなきゃならなくなったってことよね。ごめんなさい。私、これまでずっと由利に無理強いをしてきたのかもしれない、自分の父親はどんな人なのかを考えちゃいけないって。だけどこういうのも子供に対する一種の暴力だったのかもしれないわね」
「ううん、ママ。そんなふうに自分ばかりを責めないで。あたしには理由は分からなかったけど、ママが苦しんでいたのは解っていたよ」
由利は玲子の手首をぎゅっとつかんでから、顔を見上げた。玲子の目には涙がにじんでいる。
「この手紙にも書いてある通り、私は最初、フランス国立研究所に勤務したてのとき、同じ職場で働いているラシッドと仲が良くなったのね。私はそれまでに日本でフランス語もある程度勉強していたんだけど、やはり現地にきて戸惑うことも多くて。で、彼のほうは大学時代からパリに住んでいたから、土地のことに詳しくて、よくいろんなことを相談していたの。あるとき、アルジェリア人同士の仲間内でパーティをするから遊びに来ないかと誘われたのが、そもそものラディとの出会いのなれそめなのよ」
「そっか。うん・・・そのことは手紙にも書いてあったね」
「そうね。それでラディとはすぐに恋仲になったの。当時ラディは駆け出しの新進画家だったんだけど、彼のような芸術家は私にとっては非常に新鮮で魅力的に映ったの。それまで知っていた小難しい理屈ばかりこねていた男性とは違って、とてもロマンティックでムードがあって優しくて。それでいて男らしい包容力もあってね。私はもうラディに夢中だったわ」
自分の美しい青春時代を語る玲子の横顔は、いつになく喜びに輝いているように由利には思えた。
「そう、ファレドさんはそんなに素敵な人だったのね、よかった。自分の父親にあたる人がそんなすばらしい人だって知ることができて」
「娘のあなたにこんなことを言うのは恥ずかしいんだけど、私たちが深い仲になるのはそう時間はかからなかったの。私は全然後悔なんかしてなかった」
「じゃあ、なぜ? ファレドさんはお母さんに指輪を用意して、プロポーズをするつもりだったって書いてあったけど」
「そうよね、今から考えると、なぜ彼に会ってきちんと事の真偽を確かめなかったのかと悔やまれるわ。だけど、わたしはあの女のことばを信じてしまったのよ!」
「ママ、あの女って?」
「ある日、研究所に電話がかかって来たの。電話を取った事務員に誰何すると『ヤスミーナ』と名乗る女性からだと言ったわ」
「ヤスミーナ?」
「そう、ヤスミーナってジャスミンのことよ。ムスリマの女性にはよくある名前なの。だから私はラディの知り合いか何かなのかと思って、警戒することなく電話に応じたの」
「それで?」
「ええ、その人は『大切なお話があるから、仕事がひけたら、ぜひ会いたい』って言ったきり、電話で要件を述べることはなかったわ。それで、私は研究所からほど近いカフェを指定して、そこで待ち合わせすることになった。それで実際に会ってみると、その人は『わたしからラディを返して欲しい』というのよ」
「ええ? それってどういうことなの?」
由利はびっくりして玲子を問い質した。
「ええ、そうなの、私も今、あなたが言ったのと同じことをヤスミーナと名乗る女性に言ったわ。ものすごい美女だったわね。ブロンズ色の肌で彫りが深くてね、それでいて瞳は真っ青な海のような色なの。まずこの人の美しさ、女王ように毅然とした態度に気圧されてしまっていたわね。聞くところによると、彼女はラディの生まれたときからの許嫁(いいなずけ)であって、アラブ人社会では親同士が決めたこの契約は絶対だっていうのよ。そのとき、こんな美しい人が婚約者なのだったら、今の話は本当かもしれないと一瞬心が怯んだのを覚えているわ。でも私はラディを愛していたし、信じていたから、そんなはずがないってヤスミーナに言い返したわ。でも」
「でも?」
「ヤスミーナは言ったの。『ラディがあなたに近づいたのは、あなたが異教徒だから』だって。『イスラム社会では、男性が同じイスラム教徒の女と不適切な関係を持つことは大きな罪だけど、レイコはムスリマじゃないから、その罪を問われることはない。だからラディが息抜きのために付き合っているのに過ぎない。ラディがあなたのようなブディストの東洋人と真面目に結婚など考えるはずがない』って。それで『もうすぐ私たちは結婚する。だから彼は今、自分の女関係の身辺整理をしている。だからわたしは彼に頼まれて、あなたに別れるように言って欲しいと命じられた』と言ってきたの」
「まさか、そんな話をママは信じたの?」
「ええ、そのまさかよ」
玲子はぽたりと涙をこぼした。
「ヤスミーナは言ったわ。『アルジェリア人の人間関係は一種の氏族社会が浸透しているから、親同士のこういった約束は絶対だって。もしレイコが意地を張ってラディと別れないののなら、ラディはもちろんのこと、ラディの父親もアラブ人同士の仲間内から信頼を失えば、面目も失うんだって。それにきちんと婚約もしないうちから、男に身体を任せてしまうようなふしだらな女は、誰も相手になんかしないものだって。ラディとあなたは絶対にうまくいきっこないのだ』と罵倒されたのよ」
「どうしてヤスミーナって人は、そんな込み入った事情まで知っていたのかしら?」
「そうよ、私も耳を疑ったわ。私とラディが真剣に付き合っていることなんて、ほとんどの人は知らないことだわ。深い関係だなんて、どうしてヤスミーナが知っているんだろうって思ったわ。だけどつぎの瞬間、これはラディが直接ヤスミーナに話したに違いないって思ったの。そのとき、逆上してしまったのよ。私はラディにとっては、単に尻軽のお気楽な遊び相手に過ぎなかったんだって。ちょうど私は時を重ねて、あなたを身ごもったことを悟ったの。で、決心したのよ。ここは一刻も早くパリから離れて、日本に生活の基盤を求めるべきだってね。職場には適当な理由をつけて辞めたのよ。それから東京の郊外に家を借りて、すぐに保育所へこれから生まれる子供が入れるように手続きを取ったわ。さいわいなことに日本の国は母子家庭を優先して子供を保育所に入れてくれるから、助かったのだけれどね」
「ママ、大変だったのね。でも理解できる、その気持ち。あたしがママだったらきっと同じことをしていると思うよ。愛している人から裏切られたと思ったらそんなふうに自暴自棄になると思う。だけどママはちゃんとあたしをこの世に産み出して、育ててくれたじゃない?」
「由利、ありがとう」
母と娘はぎゅっとお互いを抱きしめあった。
4
四時過ぎぐらいに、玲子母娘はICUの看護師に呼ばれた。
「小野辰造さんのご家族の方でいらっしゃいますか?」
「あ、はい」
「五時過ぎくらいから担当となられた先生の説明がありますが、その前に患者さんと少しだけお話ができます。お話しされますか?」
「はい」
由利が答える前に玲子がすでに答えていた。
看護師に命じられる通り、部屋に入る前に頭にキャップをしマスクを着け、手をまず石鹸で洗い、そのあと再びアルコールで完全に消毒して、中へ通された。
看護師に誘導され、透明なビニールで仕切られた一画に通されると、複雑な機器に囲まれたベッドで辰造は横たわっていた。身体にはいろいろと点滴の袋が下がっていた。
「お父さん!」
玲子はすでに悲しみと自己嫌悪で決壊しそうになっていた。それを見て看護師は玲子に言った。
「患者さまは今、非常に重篤な状態にありますので、くれぐれを興奮させるようなことはおっしゃらないでくださいね。お時間は二三分もめどにお願いします」
玲子は辰造の手をしっかりと握り締めた。
「お父さん、わたしよ。玲子よ、玲子が来たわよ。由利も一緒よ」
「玲子か・・・」
「ええ、お父さん」
「よう戻って来てくれた」
「ごめんなさい。もっと早くに来るべきだった」
「ええ、ええ、玲子、謝らんかて。結局顔が見れたんやさかい。わしは満足やわ。せやけどな」
「お父さん、何?」
「玲子、意地を張らんと人を赦さな。分ったな」
「ええ、ラディのことね。ありがとう・・・」
この期に及んでも、辰造は娘のことを案じていた。玲子は涙ながらに大きくうなずいた。辰造はそれを見ると、今度は横にいた由利のほうに目を移した。
「由利か・・・」
「おじいちゃん・・・」
弱弱しい祖父を見て、由利は絶句した。
「由利・・・これまでのいろんなこと、ほんまにおおきにな」
「おじいちゃん!」
「おまえと一緒にいられて楽しかったわ」
看護師がタイミングを見計らって言った。
「これ以上話されると、患者さまの身体に負担がかかりすぎますので」
玲子と由利は涙ながらに退室した。
部屋の外に出ると、看護師が由利たちに向かって言った。
「これから担当医となられます先生からのお話があります。おそらく手術の話になると思います」
しばらくすると小部屋に通され、医師から説明があった。
「お父さまは『大動脈解離』ですね」
「それはどういう病気なのですか?」
「はい。大動脈は、外膜、中膜、内膜の三層構造となっているんですね。ですが、何らかの原因で内側にある内膜に裂け目ができ、その外側の中膜の中に血液が入り込んで長軸方向に大動脈が裂けることを大動脈解離と言うんです。辰造さんの場合はICUに入ってこられた段階で、まずは痛みを和らげ、収縮期血圧を100~120mmHg以下に保つことを目標に、十分な薬物療法が行なわれました。今のところは落ち着いてはいますが」
医師は液晶の画面に図を映し出して説明した。
「ですが裂け目が心臓に近い箇所にまで及んでいますので、手術は必至となります。手術では、裂け目がある部分の血管が人工血管に置き換えられます」
説明は一時間以上にわたった。
それだけでもへとへとになっていたのだが、さらに説明は辰造が倒れたときに脳挫傷した可能性もあるとかで脳外科医の見解、そして麻酔医からの麻酔をかけたときの生還のリスクなどそれぞれに一時間近くも話され、しかもそれらがノンストップで淀みなく行われるわけではなく、ひとつの話が終わったあと、またたっぷり三十分以上は待たされるので、疲れ方も半端なかった。その時点で時計はすでに八時を回っていた。
「ママ、これで全部話が終わったんだろうか?」
「どうなのかしらね。いずれにせよ、全部聞かなきゃ手術してもらえないんだから。聞くしかないのよ」
玲子は少し憮然とした面持ちで言った。
「ねぇ、ママ。お医者さん、ひとりひとり、言うことが微妙にずれてなかった?」
「まぁ、それぞれが専門とするところが違うから、そんなもんなんでしょ?」
「インフォームドコンセントってさ、あれってするだけムダじゃない? だってさ、それを聞いて、手術を拒否する力なんか家族のあたしたちにはないじゃない? ずうっと言われっぱなしでさ」
由利は母親に向かって不服そうに文句を言った。
「まぁ、この世の中、訴訟社会だからね、そうしないと万が一のとき、訴えられることもあるから、仕方ないのよ」
玲子は由利をなだめたが、ふと思いついたように言った。
「あ、由利。すっかり取り乱して忘れていたけど、私はとりあえず会社に電話しなきゃ。こんな状態じゃ、しばらくここにいるしかないでしょうしね。まさか由利をひとりにさせるわけにも行かないし。ここでちょっと待ってて」
玲子はいったんICUの病棟から離れて行った。
「うん」
由利は疲労困憊して、何をするでもなくぼうっと椅子に腰かけていた。だたでさえ祖父のことが心配なのに、状況や手術の説明をくどくどと聞いたり、入院や手術するための同意書などの煩雑な事務手続きをするのは身体を妙に疲弊させた。
すると向こうのほうから両手に買い物バッグを下げた男の人が近づいて来た。廊下が暗かったので判らなかったが、それはファレドだった。由利は驚いて、はじかれたように立ち上がった。
「ユリサン!」
「ファレドさん! どうして?」
「アナタタチ、オ昼カラ、何ニモ、食ベテナイノデハナイデスカ?」
ファレドは一方の手に提げていた買い物袋を由利に手渡した。中には手に持って食べやすいような手巻き寿司、咀嚼しやすいスフレなどの咀嚼しやすいお菓子、そして飲み物などがたくさん入っていた。
「うわぁ、ありがとうございます。早速ですけど、いただきますね」
「ドウゾ、ドウゾ」
由利はとりあえず、カラカラに喉が渇いていたので、グレープフルーツジュースを飲んだ。
「ファレドさん、ものすごく日本語がお上手なんですね」
ひとごこちついたあと、由利はファレドに言った。
「日常会話グライナラ、ドウニカコウニカ話セルミタイデス」
「せっかくはるばるフランスから来ていただいたのに、こんなことになってしまって」
「イエイエ。レイコヤ、アナタガピンチノトキニ、居合ワセルコトガデキテ、カエッテヨカッタノカモシレマセン」
そうこうしているうちに、玲子が帰って来た。由利の傍にファレドがいるのを見てびっくりしていた。
「ラディ!」
「ママ。ファレドさんが、あたしたちに差し入れを持って来てくれたの」
「そ・・・うなの? それはどうも御親切に。ありがとう。ラディ」
玲子はラディにどう接していいのかわからず、戸惑っていた。
「レイコ、コレハアナタニ」
ラディは玲子にもう一方の手提げ袋を差し出した。
「レイコ、佐々木サンニ、聞キマシタ。レイコハ、日帰リデ京都ニ来タノダト。ダカラ、泊ル用意ハ、シテナイノデハナイカト思イ、差シ出ガマシイデスガ、通訳ノ女性ニ頼ンデ、身ノ回リノ物ヲ買ッテモラッタノデス。ワタシハ、レイコニ失礼ナノデ、中身ハドンナモノガハイッテイルカ、ハワカリマセンガ、タブン役ニ立ツト思イマス」
ファレドは玲子たちが病院に缶詰にされている間、玲子の身を案じておそらく自分のできることをしたのだろう。今の状況では病院から一歩も出られないのはたしかなので、この気遣いは女である玲子にとっては理屈抜きで非常にうれしかった。玲子はファレドの昔から変わらぬ優しさに触れて、ことばが出ないようだった。
「サアサア、レイコモ、ナニカ口ニイレタホウガイイデスヨ。レイコハ、コレガ好キデシタネ、好ミガ変ワッテナケレバイイノデスガ」
ファレドは玲子にオランジーナとオムレットを手渡した。
「ラディ、こんな些細なことまで覚えていたの?」
玲子は感激のあまりほろほろと涙を流した。玲子はファレドに昔の恋が決裂した原因を仔細に聞いて納得したわけではなかったけれど、すでにそんなことはどうでも良かったらしかった。少なくとも自分の一大事のときに、こうやって傍に寄り添ってくれているのだから。
ひんやりとしてのど越しのよいジュースと甘いお菓子は、それまで緊張して張り詰めた気持ちでいた玲子と由利には何よりおいしく感じられた。そんなふたりを見ているファレドの目は優しく和んでいた。
九時を過ぎたところで、看護師が玲子たちに手術の用意ができたと告げに来た。
「先生と手術室の用意ができ次第、オペを始めます」
しかしそうは言ってもなかなか、始まらなかった。由利はだんだんと焦って来た。
「どうしよう・・・」
由利たちは、手術前の家族が待つ専用の控室に留まるように言われていた。
由利は待合室で待機しているときは、何をするわけでもなく時間を持て余していたので、常磐井には祖父が倒れた状況を詳しく文章にしてLineで送っていた。常磐井も一応、由利が今どんな状態に置かれているかは理解したようだった。常磐井からは「十時を過ぎたら、あとはお母さんがついているのだから、とりあえずそこは任せておまえは家に戻って来い」と伝えてきた。
たっぷり一時間待って辰造は可動する寝台に乗せられ、三人の看護師に付き添われて、手術室までやってきた。
玲子はラディと辰造の傍に行った。
「お父さん、頑張ってね。私ずっとここで待っています」
辰造は玲子の傍にファレドがいるのを見ると、ふっと安心したようにわずかに微笑んだ。
「玲子、幸せになるんやで、幸せにな」
「ファレドさん。ほんまにありがとう。玲子をよろしくお頼申します」
「辰造サン・・・」
辰造はそれだけを言い残して、手術室に運ばれていった。
看護師は玲子たちに告げた。
「手術の目安ですが、一応手術は明日のお昼ぐらいまでかかると思っておいてください」
「そんなに時間がかかるのですか!」
玲子は驚いて看護師に訊いた。
「ええ、大手術ですよ、小野さん。病院には家族の方用の仮眠室もございますので、そこで待機してください。途中で緊急事態になるかもしれませんのでね」
「じゃあ、由利、そこへ行きましょうか?」
由利は勇気を出して母に告げた。
「ママ、ごめんなさい、あたし、ちょっと用を思い出したの! すぐにここに戻って来るから、いいかな?」
「用って何? そんなに急ぐこと?」
玲子は怪訝な顔をして訊いた。だが娘の顔からは必死なものが漂ってきたので、それ以上止めだてすることはできそうもなかった。
「すみません、ファレドさん。あたしがいない間、母と一緒にいてもらっていいですか?」
「モチロン、構イマセンヨ。ワタシハココニ、レイコトイマス」
「ありがとうございます! じゃあ!」
由利はそう言い残すと、その場を駆け出した。
病院の玄関の外に出ると、待機しているタクシーに乗り、由利は運転手に自分の家の住所を言った。スマホを見ると十時十五分を過ぎている。家に着くのがおそらく十分、制服はすでに用意されて自分の部屋に掛かっている。それに三つ折りのソックスも机の上にきちんと置かれている。たしかローファーの革靴も下駄箱のすぐ出るところに置いたのを今朝も確認していたはずだ。
「由利、落ち着け、落ち着くのよ」
由利はパニックになりそうな自分へ冷静になるように言い聞かせた。
タクシーが家の前に着くと、由利はバッグからキーホルダーを取り出して、鍵穴に差し込もうとした、だが手が震えてなかなか鍵穴に入らない。
「ううっ、もうあたしったら」
鍵穴に鍵を突っ込んで何度ガチャガチャやっても、くるりと解錠してくれない。
「もう、何やってんだよ、由利」
背後から、誰かが自分の手を取って鍵を回してくれた。だがもう声だけで、それが常磐井だと判った。
「常磐井君、来てくれたのね!」
「うん。大変だったな、おじいさんのこと。十時ぐらいからここでずっと待ってた。だけどもうここでのんびりしてる暇はねぇよ。早く着替えろ! おれは下で待ってる」
「うん」
由利は急いで、それまで着ている服を脱ぎ捨てると、学校の制服のブラウスを着、スカートを履き、最後にブレザーを着た。そしてこの日のためにわざわざ用意した、白いソックスを三つ折りにして、その上に紺のダッフルコートを着た。
由利が急いで降りてくると、常磐井は下駄箱にローファーがあるのを見つけておいてくれたのだろう、靴はすでに玄関に出ていた。
玄関を出ると、やはり常磐井が由利に代わって玄関に鍵を掛けてくれた。
「まだ、十時四十五分だ。ゆっくり行っても充分に間に合う。大丈夫だ。焦らなくていい。由利。今は雑念を振り払ってひとつのことだけに集中しろ、いいな」
「うん」
コンビニに着くと、やはり店の中には店員以外、人がいなかった。時計を見ると、まだ十一時になるまでには五分ほど時間の余裕があった。
気が付けば、常磐井はカウンターの前に置いてあるチロルチョコを五つほど買っていた。
「常磐井君。よくそんなチョコレートなんか買う気持ちの余裕があるね」
「いや、ピンチなときほど、こういうことが必要だとオレは思うけどね。はい、食べて」
常磐井はチロルチョコの紙を剥いて由利に手渡した。
「ふぅ、甘い・・・!」
「そう、今日の由利は頭の使い方が半端なかっただろう? だから甘いものが効くんだ」
そう言いながら自分もひとつ食べて、残りの三つを由利のポケットに入れた。
「じゃあ、打ち合わせ通り、おれは一条戻橋の西側に立って待っているから。しっかりやれよ!」
時計が十一時を指した。
「じゃあ、常磐井君、頑張ってくる!」
「おう!」
由利は常磐井の瞳を見つめて言った。常磐井は行けと言うようにうなずいた。
コンビニの自動扉を開けて由利は外へと駆け出して行った。
常磐井が遅れて外へ出ると、すでに由利の姿はそこにはなかった。
読者のみなさまへ
この小説はフィクションですが、京都案内という意味を兼ねまして、一般の方々がご利用できるお店や場所・地名などは一部実名で書かせていただいております。一方、由利や美月の通う「桃園高校」および、宗教団体等はすべて架空です。そしてこの作品に出てくる宗教的概念もすべてフィクションであることを予めご了承ください。