境界の旅人 7 [境界の旅人]



 由利は二階にある自分の部屋となった和室で蒲団を敷き、身をその上に横たえていた。もう日付はとっくに変わっていた。
    眠ろうとしても日中のことが頭に残り目が冴えて、なかなか眠りに入れない。寝がえりを打とうとして止めた。隣の部屋では辰造が寝ている。バタバタ寝返りを打ってしまえば、いっぺんで眠れてないことがバレてしまう。ただでさえいろいろと気を遣わせているのに、これ以上心配をかけては可哀そうだ。
 堀川の川岸で三郎は夕日を逆光に浴びながら、何か物思いにふけっていた。
「あの子の正体は一体何なんだろ?」
 由利は納得が行かないと言ったふうにつぶやいた。
「御所へ桜見に行ったら、いきなり妖怪みたいなのに襲われた。そのとき、あの子は妖怪たちの間で舞を舞っていた・・・。じゃああの子は化け物の仲間ってことなの? ううん、違う。三郎は他の化け物みたいに変身もせず、襲われそうになったあたしを助けてくれた・・・。あれは何らかの理由があって、化け物たちをコントールしていたのかもしれない」
 由利は天井を睨みながら、さまざまなことを頭に巡らせた。
「夕方あたしはあそこで三郎にいろんなことを訊こうとした。だけどどれもこれも三郎は、のらりくらりとかわして、まともに答えてくれなかった。でもあの子、名前は不必要なものだって言ってた。あれはどういう意味? もう呼ばれることもないから、名前なんか要らないってことなのかな」
 自分の名前を呼ばれることもない環境とはどういうものだろう。どんな人間にも肉親であれ、育ての親であれ、親はいる。なぜなら生まれてすぐに立って歩ける他の動物と違い、人間は二足歩行をするようになって、未熟児として生まれることを余儀なくされたからだ。だから何もできない赤ん坊はそのまま放置されては生きていけない。親の庇護下に置かれていた赤ん坊は育つにつれ少しずつ親元を離れ、そこからじょじょに友だちを作り、長じるに従って自分の世界を拡げ、各々の人間関係を構築していくものだろう。だが三郎にはおそらく通常の人間のように帰属するなにものをも持たない。三郎のひどく孤独な横顔を由利は思い出した。
 
 ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がしてな。

「あれってどういう意味だったんだろう。そういえば昔を偲んでいたって言ってた」
   まだ十五や十六で昔を偲ぶという感覚が由利には全くわからない。すると突然ハッと脳裏にひらめくものがあった。
「もしかして・・・実はあの子は見かけだけが少年なのだとしたら?」
 これまで由利は三郎を何らかのサイキッカーなのだと考えていた。普通の人間が見ることもないものを見ることができ、操ることができるような。だがそのような超能力者でなく遠い昔から連綿と続く時の中をひとりで生きてきたのだとすれば・・・?
   由利はその先を考えるのが怖くなって、無理やり目を閉じた。

   すっぽりと包まれるように知らない誰かに強く抱きしめられていた。
 気が付けば身に着けていた帯はすでに解かれ、はだけられた衿の中からやわらかな稜線で縁取られたほの白い胸がのぞいて見えた。片側の胸乳は大きく指を広げられた手に掬い上げられていた。すっぽりと相手の掌に中に収まっている乳房の先端は、感応して固く収斂されていく。ゾクゾクとした感覚が背中を伝って腰にまで及んだ。
「ああ・・・」
 思わず吐息と共に声が漏れ出てしまう。
「お慕いしているのです。誰にもあなたを渡さない」
 自分を抱きしめている男がそう耳元でささやいた。

 由利は目を覚ますと同時にガバっと飛び起き、被っていた蒲団をはねのけた。
「え? 何だったの、今のは?」
 由利は蒲団の端を冷や汗を掻いた手で握りしめていた。由利は一旦、深呼吸をしてから努めて冷静になろうとして、今自分が見たなまめかし過ぎる夢の分析をしようとした。
 認めたくはなかったが、これまでわれ知らず甘くうずくような夢を見ることはたしかに何度かあった。だがそれは、自分も性欲という本能を持った人間という動物であれば致し方ないことだと納得できる。しかしこんなふうに、生々しい夢を見るのは初めてだった。今でも身体に夢の男の手の触感が残っている。
「こんなことってあるのかな?」
 当然のことだが、ついこの間まで内向的な性格の中学生だった由利はこれまで好きになった異性もいなかったのはもちろんのこと、ましてや異性と深い関係になるはずもない。つまりその手のことはまったく経験がないのだ。それなのにこれは妄想の範疇を超えている。だがただの夢とも思えない。
   これは記憶だ、と由利は直観した。
   だがそれは、いつの記憶?
   それによくよく考えてみると夢の中の自分は、今の時代の人間ではなかった。
  
「入学したと思ったら、いきなり次の日は実力テストって、結構厳しくない?」
 お昼の弁当を食べながら由利が言った。
「まぁ、今のご時世、高校ってどこでもそうなんじゃないかな」
 美月は諦めたように言った。
「入学試験を突破したんだからさ、ある程度の実力なんてわかっているはずじゃないよねぇ」
 由利は四時間目の終わり間際に配られたプリントを開いた。
「これって成績上位者のプリントなの? こんなの配られるんだぁ。あたしこの中に入っているかなぁ」
「どうしたの、由利。妙に怖がっちゃって」
「だってあたし、かなり暴れてここに来たからさぁ。あんまりひどい成績だと親に申し訳が立たないっていうか・・・」
 由利はおそるおそる下の方から探していった。
「あー、あった。良かったぁ。かろうじて二十八位か。まぁまぁかな。んで・・・一位は誰かな?」
 由利は一番初めの欄を読み上げた。
「一位。国語、八十八点、数学、満点、英語満点、理科、九十九点、社会満点! すごいなぁ~。誰だろ、この加藤美月さんって・・・。え? え? もしかして美月なの?」
 美月は大してうれしくもなさそうな顔で答えた。
「たぶんこの学校に加藤美月って名前の人間は、あたししかいないと思うよ」
「すごいねぇ、美月って。一位だよ、一位」
「そんなの毎日毎日、わたしこそはって自己顕示欲の塊のガリ勉女子たちに囲まれて、しごかれていたら、こんなふうにもなるよ」
「美月の中学ってそんな進学校だったの?」
「まぁねぇ」
 由利は美月のおしゃべりを聞きながら、成績表を見ていたが、美月の次席にあたる人物の名前を見てハッとなった。
「ね、見て、見て。美月。この常磐井悠季ってこの間、あたしを助けてくれたあの背の高い人のことかな」
 美月はどれどれと由利の渡してくれたプリントをのぞき込んだ。
「うん、一年三ホームって書いてあるから間違いないんじゃない?」
「へぇ、常磐井君って結構ぞんざいな口を利いていたし、不良っぽい人なのかと思ったら、案外勉強もできるんだ」
 由利は意外といったふうな顔をした。
「うん。由利は東京から来たから知らないだろうけど常磐井君ってさ、結構レベルの高い中高一貫の男子校からここにきたみたいよ」
「へぇ~。中高一貫校から何でまた?」
「まぁさ、あの子も反逆児っぽいからさ。親や先生の言われるままに唯々諾々と従うのが嫌だったんじゃない? そりゃあね、頭が柔らかい若いうちにできるだけ勉強しておいたほうが、その後の人生においては有益だと思うけどね、だけどそれも程度問題なのよ。あたしたちの親世代って、何ていうのかな、権威主義的というのか、学歴信仰が半端ないっていうか」
 美月は弁当箱に納まっていた卵焼きを食べながらぼやいた。
「そりゃあね、お勉強ができることはさ、嫌なことでも我慢して努力できますってアピールできる材料になるとは思うけどね。ま、就職には学歴は必要かもしれないけどさ、おそらくそんときだけだよね。あとは本当の実力というか、人間力だよ。学ぶってことは、ただ教科書を丸暗記することじゃないよ。だから成長する過程で身に着けなきゃならないこと全てを犠牲にしてまで、受験勉強だけに打ち込む方が、むしろ社会生活を営む上で弊害を招くと恐れがあるよね。知らないことがありゃ、とりあえずはググればいいわけだし。今の時代、何も稗田阿礼みたいに何から何まで暗記してる必要なんかないんだよ」
「うん、あたしもそう思うな」
「でしょ、由利。マニュアル通りの硬直した考え方しかできない人って不幸だよ。世の中に出たら、それこそ柔軟な思考が求められるのに」
 とは言え、美月も由利も結局のところ、まぎれもなく受験秀才だった。

「ね、由利。立ち入ったこと、訊いてもいい?」
「いいよ」
「あたしの質問が不愉快だったら、答えないで」
「ううん、大丈夫。遠慮しないで訊いて」
 だが由利の顔は、緊張でこわばっていた。
「ひとりで東京からわざわざ京都に来たんだよね、由利は。なんで?」
「ああ、そのことか。うん、話せば長くなるんだけど・・・。うちは母子家庭なんだよね」
「ご両親は離婚されたの?」
「ううん。うちの母親は最初っからシングル・マザー」
「へぇ。なんか悪いこと訊いちゃったのかな、あたし」
「ううん。別にいいよ。ママ・・・いや、あたしのお母さんはね、もともとここの高校のOGなんだけど、なんかめちゃめちゃ頭がよかったんだよね。お母さんってさ、遅くにできたひとり娘だったんだって。それでおじいちゃんとおばあちゃんは、お母さんをずっと手元に置いておきたかったみたい。それで女はどっか地元の女子大の家政学部にでも行って花嫁修業でもしたらいいみたいな考えだったらしいんだ。だから東京の大学進学については大反対でおじいちゃんたちと相当もめたらしいんだよね」
「まぁ、昔はさ、今なんかと違って、どんな場合でも親の立場のほうが強かったんだよ。女は学問なんかせずに早く嫁に行って夫を立てろみたいな風潮だったらしいしさ、ま、時代もあるよ」
「でも、そこからがうちのお母さんのすごいとこでさ。普通はさ、やっぱり学習塾ぐらい行くじゃない? だけどお母さんの両親は東京に進学することに反対しているじゃない? だからお母さんは、自宅で受験勉強しただけで帝都大の工学部を一発合格したんだよ」
「帝都大の工学部? すっげー。賢い!」
 秀才の美月も大きく目を見開いた。
「そうなの。あたしもすごいと思うよ、わが母ながら」
「それでさ、なんの支障もなく院まで行って、それからフランスの研究機関で働いていたんだよ。そこまではもう順風満帆を絵にかいたような感じなんだよねぇ」
「うん、それで?」
 美月は目を輝かせて訊いた。
「だけどさ、そこからお母さんは人生に大きくつまずいたんだよね。しかもそのつまずきの元がこのあたし」
「そんなの、由利にはどうしようもないことでしょう?」
 美月はちょっと怒ったように言った。
「あたしさ、みんなの前でフランス人のハーフだって言ったけどね。あれって半分本当で半分は嘘」
「え、どういうこと」
「お母さんはあたしがどんなにお父さんはどんな人なのって訊いても絶対に教えてくれないんだよ。で、一夜限りの相手と致したら、あたしができたっていうんだよね。なんでも相手はムスリムの男だったって」
「まぁ、それでも・・・フランス国籍だったらフランス人ではあるよね。嘘じゃないじゃん」
「でもみんなが頭に思い浮かべるような金髪碧眼のシャルルとかピエールみたいな名前の父親じゃなかったわけよ。それでね、あるとき自分の父親の名前ぐらい知る権利があるってしつこく訊いたらさ、ファルーク・バルサラだとかしれっとした顔で言うんだよね、うちのお母さん」
「やぁだ、なぁに? それってクィーンのフレディの本名じゃない? マジウケるんですけど」
「そうだよ。あたしそれ知らなくて、中学の友だちにそれを言ったら大笑いされちゃってさ。すごい恥をかいちゃったよ」
「うはっ。なんか気の毒~」 
 美月はもはや笑って済ませられない由利の状況にもあえて、ハハっと声をあげて笑ってくれた。
「でもさ、お母さんって本来生真面目で潔癖な性格だからさ。そんな一夜限りとか、行きずりの恋とかそういう軽はずみなことする人にはどうしても思えないんだよね」
由利はちょっと憂鬱そうに答えた。
「ふうん。まぁ、でも男と女の仲には、理屈では説明できないこともあるだろうしなぁ」
 美月は解ったようなことを言って由利を慰めた。
「うん、少なくともお母さんにとっては、あたしの父親のことは娘のあたしにさえも教えたくないほど、苦い思い出だってことだけは分かったよ」
 由利は、はぁとため息をついた。
「でもさぁ、由利。娘だからこそ言えないこともあるんじゃないかな」
 美月は励ますように由利の手をぎゅっと握って、ささやくように言った。
「まぁ、それでもよ、たとえあたしが、苦い思い出になった男との間にできた娘だったとしてもよ、お母さんは一生懸命あたしを愛して育ててくれた、そこは紛れもなく本当。だけどさ、お母さんは頭良すぎて、こう、どう言ったらいいの、できない人間の気持ちがわからないっていうか、あたしだってさ、一生懸命自分の気持ちを説明しようとはしたんだけど・・・。なんてか、次元の違う永遠に交わることのない二直線って感じで、分かり合えないって言うかぁ。そもそも感性が違うんだよね。最終的にはいっつも命令する側と従う側の関係しか構築できないっていうかなぁ。だからお母さんもあたしに命令するのにほとほとうんざりしたみたいで、そのうち年下の恋人を作っちゃってね。週末になると出かけるようになって」
「へぇ、由利のお母さんって大胆」
「まあね、でもお母さんって、娘のあたしが言うのもナンなんだけど、四二歳とは思えないほどキレイだしね。一種の美魔女なんだよねえ。はたから見ていても周りにはお母さんのこと、好きなんだろうなぁって男の人はホント多くて。それはいいんだけど、お母さんを見てると本気で今の相手に惚れているようには、とてもじゃないけど思えなくて・・・。生きる情熱を掻き立てるために、あえて自分をそういう状況に追い込んでいるとでもいうか・・・。そんなふうに懸命に自分を奮い立たせているのを見てるのが、たまんなく辛くなってきちゃって」
「そうかぁ、いろいろあったんだね、由利」
「うん。ごめんね、美月。なんか暗い話になっちゃって。でも美月に話せてよかった。気持ちがだいぶ軽くなった」
「ううん、いいよ。教えてっていったのは、あたしのほうなんだもん。辛い気持ちをひとりで抱えていたんだね。あたしはそんな目に遭ったことはないけど、でも想像することはできるよ」
「ありがとう。ちょっと怖かった。軽蔑されるんじゃないかと思ってたから」
「まさか・・・。由利はちっとも悪くない。誰だって間違いのひとつやふたつあるでしょ? それに由利のお母さんって立派じゃない? なんだかんだ言っても、誰にも頼らずちゃんとひとりでも責任をもって由利をこの世に産み出してくれたんだし。もっと利己的で自分ばっかり可愛い人間なら、何のためらいもなく中絶すると思うけど」
「まあね。そうかもしれないね」
 美月はしばらくしたあと、話を変えた。
「ね、由利。今日、学校の放課後、新入生への部活の勧誘があるよ。どう? 一緒に行ってみない?」
「部活か。いいね」
「由利は中学のとき、部活してたの?」
「うん」
 ちょっと由利は気の乗らない返事をした。
「なになに、部活のキーワードは、また由利の黒歴史に抵触するわけ?」
「んもぅ、美月ったら! そんなんじゃないの」
 由利は茶化す美月を軽くいなした。
「うーん。お母さんがね、人生を成功させようと思うなら基礎体力が必要だからスポーツにしろってうるさかったのよね。それで陸上してた」
「へぇ~。陸上部!」
「うん。あたし、球技とか全然ダメなの。センスなくて。だから消極的選択なんだ。それにやっててもさほど楽しいとも思えなかったし。そのせいかどうかは知らないけど、バカみたいに背も伸びちゃったし」
「じゃあ、どんな部に入りたいの?」
「うん、あたしさ、こんなこと言うと嗤われちゃうかもしれないけど、京都に来れば、もしかしてあたしが探しているまだ見ぬステキなものに出会えるんじゃないかって思ったんだよね」
「へえ~。由利って意外とロマンティスト」
「母親が理詰めで生きていると、娘は反発して違う道に行きたくなるもんなのかもね」
「じゃあ、美術部とかのぞいてみる?」
「うん。それもいいかも。だけど、あたしはどっちかって言うと伝統とか様式美みたいなのに憧れているんだよね。そういうの、やってみたい」
「へぇ、それじゃあたしと一緒に茶道部っていうのはどう?」
 美月は由利を誘った。
「それ、いいよね。誘ってくれるの、実は待ってた」
 そういうとふたりはまた顔を見合わせて微笑んだ。
「まぁ、最終的にはそれでもいいけど、とりあえずはいろいろ見たいよね」
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