境界の旅人 11 [境界の旅人]

第三章 異変



 いつもはおとなしい由利が、人が変わったように、いきなり激昂したのを見て、常磐井を含め、まわりの人間は虚をつかれ、ぽかんとしていた。
 由利はとっさに立ち上がって、口を押えながら一目散に洗面所のほうへと走って行った。急に吐き気がしてトイレでゲーゲーと戻した。お昼食べたものはほとんど消化されていたので、ほとんど胃液しか出て来なかった。
 真っ青な顔をして女子トイレから出て来ると、出口付近で美月が心配そうな顔をして待っていた。

「由利・・・。大丈夫なの?」
「うん・・・。どうしちゃったのかな、あたし」
「もしかして、アレじゃないよね?」
「まさか! 違うよ、美月。そんなはずないでしょ。変な冗談言わないでよ!」

 美月の見当はずれな質問に、由利は少なからず気を悪くした。

「由利、今ね、うちのお母さんに車出してもらうように頼んだから」
「えっ、そんな悪いよ。わざわざ車で迎えに来てもらうだなんて・・・」
「いいよ。こんなときは、素直に人の好意に甘えるもんだよ」

 人の親切に慣れていない由利を、美月は叱った。だがそうやって親身に案じてくれることばが今の由利にはうれしく感じられる。

「うん、そう言ってくれるなら。ありがと、美月」

 

 四月の日も落ちて、辺りがうっすらと夕闇に染まるころ、ふたりは美月の母親の車を待った。しばらくするとマスタード色のゴルフが校門近くに止まった。そこからセミロングの髪にベージュのワンピースを着た女性が下りて来た。誰かを捜すように辺りをキョロキョロと顔を巡らせている。

「お母さん! こっちこっち!」
 美月が手招きすると、その女性は小走りになって駆けてきた。

「お友だちの具合が悪くなったんだって?」
「そうなのよ。ありがと、お母さん」
「申し訳ありません、お忙しい時間にわざわざ車まで出していただいて・・・」

 うつむいていた由利は、さらにぺこりと頭を下げた。

「いえ、いいのよ。遠慮しないで。ちっとも構わないわ。それよりどうお、具合は?」
「はい、だいぶ良くなりました」
「そう? 病院へ行ってみる?」
「いえ、一旦、家に帰ります・・・。ちょっと横になりたくて」
「それなら家に行きましょうか」

 美月の母親は、そう言いながら再びキーホルダーを手にすると、車のほうへ向かおうとした。

「お母さん、彼女があたしの新しいクラスメートで、名前が小野ゆ・・・」

 紹介しようと名前を言いかけた途端、顔を上げた由利を見た美月の母親の顔色が変わった。

「れ、玲子!?」



「まぁ、それにしてもびっくりしちゃったわぁ。一瞬目の前に玲子が立っているんじゃないかと思ったのよ。さすが親子ね、よく似てるわ。まさか美月が入学した高校のクラスメイトが、玲子のひとり娘だったなんて・・・。何という偶然かしら!」

 美月の母親は笑いながらハンドルを切った。美人の母親と似ていると言われて、由利は複雑な気分だった。

「うちの母をご存じだったんですね?」
「ふふ、ご存じも何も。小学校から高校まで一緒よ。親友だったわ」
「ええっ? 本当なの? お母さん、そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったのよ!」

 美月が母親に向かってブツブツ文句を言った。

「だって、小野さんってだけじゃ、玲子の子ってわかりこっないでしょう? だってこっちは東京の学校へ行っていると信じているんですもの」
「そうですよね。小野なんて名前はありふれていますから」

 由利は美月の母親に助け船を出した。

「そうそう、そういうところなんて玲子にそっくりよ。玲子もよくそんな感じで私を助けてくれたわ」

 美月の母親は昔を懐かしむように言った。

「えっ? うちの母がですか? 信じられない。いつもあたしには小言ばっかりで。うっとしい母親です」
「まぁ、玲子も親となって自分の子を育てるとなったら、いつもいつも優しいばっかりではいられないでしょ。わが子なら、叱るのも親の務めよ。うちの美月なんかは、そりゃもう・・・」

 自分にお鉢が回って来て、美月はどきりとした顔をした。

「もう~、やめてよ、お母さん。今はあたしのことなんかいいから!」
「あ~、はいはい」

 この人は小さい頃から母のことを知っている。もしかしたら、辰造の知らない玲子のことも知っているかもしれない。もちろん由利には決して打ち明けることのない玲子の秘密も。この偶然と出会って、由利の胸は不安と期待で早鐘のように高鳴った。
 しばらく沈黙が続いてから、美月の母が口を切った。

「ああ、自己紹介がまだだったわね、由利ちゃん。私は加藤芙蓉子(ふゆこ)です。私のことはこれから美月のお母さんじゃなくて、芙蓉子と呼んでね」

 芙蓉子は美月と同じように、可愛らしい外見ながらも、しゃきしゃきとものを言う人間のようだった。

「それにしても月日が経つのは早いものね・・・。大きいお腹を抱えてきた玲子に会ったのは、ついこの間のことのように思えるのにね・・・」

 ワンテンポ遅れて、芙蓉子はハッと自分が不用意に口を滑らせたことに気付た。だがつとめて何事もなかったかのようにふるまった。改めて由利は芙蓉子が母の秘密の共犯者なのを知った。
 ほどなく車は由利の家の前で止まった。玄関先で連絡を受けたのか、辰造が心配そうに立っていた。

「ありゃりゃ、これはこれは! 誰やと思うたら、帯正さんとこの芙蓉ちゃんやったんか! わざわざ由利のために車を出してもろうたそうで、ほんま、すまんことでしたわ」
「まあ、小野のおじさん。何をおっしゃいますやら。小さい時は本当にご厄介になってばっかりでしたのに、最近はご無沙汰ばかりしてしまって」

 芙蓉子は辰造に向かって深々と礼をした。

「いやいや、そんなことちっとも構へんよ。忙しゅうしておられるんやさかい」

 口下手で実直な辰造は照れくさそうな顔をしながら、手を横にふった。

「それにしても由利のクラスメイトっちゅうんは、芙蓉ちゃんのお嬢さんやったんか。ちっとも気が付かんと失礼なことをしました」
「いいえ、私もさっき、由利ちゃんが玲子のお嬢さんだと知ったところなんです。ほら、今は個人情報保護法とかで昔のようにクラスメイトの名簿も配らないし、連絡するのも本人同士がスマホで連絡とるでしょう? 親もなかなか自分の子供がどんな友達と付き合っているのかは把握できないものなんですわ」
「まぁ、わしらには因果なご時世やねぇ」



 一通りあいさつが済むと芙蓉子は車の後ろの扉を開き、ぐったりと座っていた由利を身体を包み込むようにして道路に立たせた。

「あら、由利ちゃん。やっぱり顔色があんまりよくないわね」
「大丈夫か、由利」

 辰造も心配そうに尋ねた。

「由利ちゃんのように背の高い子は、循環器が身体の成長に追いつけないから、よくこんなふうに倒れたりするものなのよね。だけど吐いたっていうのがちょっと気になるわ。おじさん、差し出がましいとは思いますが、今夜一晩由利ちゃんをわたくしどものところでお預かりしても構いませんでしょうか? 年ごろのお嬢さんだから、実のおじいさまといえど、頼みにくいこともあるでしょうし・・・」
「どうする、由利? おまえさえそれでよければ、芙蓉ちゃんに甘えさせてもらってもいいんやで? わしに気兼ねすることなんかあらへん」
「はい、お気遣いありがとうございます。でもたぶん大丈夫だと思います」

 由利は小さな声で芙蓉子に礼を言った。

「そう? でも万が一のことを考えて、明日は府立医大の病院に検査に行きましょう。私が病院まで付き添うから。保険証を持って、八時二十分になったら出かけられるように支度をしておいてね」

 芙蓉子はおそらく東京で気を揉んでいるに違いない玲子に代わって、母親のように甲斐甲斐しく由利の面倒をみるつもりのようだった。



「由利、おかいさんでも作るか?」

 に二階で蒲団を敷いて寝ている由利の枕元に、心配げに辰造が来て尋ねた。

「ううん、さっきちょっと気持ち悪くなって吐いちゃったから、今はいいかな」
「そうか、それじゃほうじ茶でも淹れて持って来てやるわ。何か水分をとらんとな」

 祖父はそう言い残して、階下へ降りて行こうとした。

「おじいちゃん。心配かけてごめんね。あたしったら、部活動の勧誘活動が楽しすぎて、ついはしゃぎすぎたのね。うん、たぶんそれだけだから」
「そうか、でもまぁ、大事を取って静かに寝とき。具合悪うなったら、我慢しんと言うんやで」
「うん。ありがとね、おじいちゃん」

 トントンと祖父が階段を下りていく音が響いた。由利は弓道場でほんの一二分意識が途切れた時に見たビジョンを天井を見つめながら、思い返していた。

「あれは単なる夢だったの?」
 この間の妙に生々しいセンシュアルな夢といい、今日の突然の過去へのトリップといい、京都に来てからの由利は、かなり変だった。

「あたしはいつの時代かはわからないけど、十二単みたいな装束を着ていて、女御と呼ばれていた。その段で行くとたぶん、横に座っていた人は帝ね。だってあたしが中に入っていた女の人は『主上』と呼び掛けていたし」

 由利は自分の見たビジョンをひとつひとつ口に出して、整理しようとしていた。

「でもあのカップルは仲がよさそうでいて、実はそうでもなかったような気がする。帝の口調がどことなくとげを含んでいて、あの女御と臣下の男の間を疑って嫉妬しているような感じだった・・・」

 いかにも武官らしく巻纓冠(けんえいのかん)を被り、顔面の左右を緌(おいかけ)でおおい、帖紙(たとう)にくるまれた矢を背に抱いた、凛々しい男の姿を見て、女御が心の底から喜んでいたのを由利は知っている。でも巧妙に扇で顔を隠し、傍らの帝や周囲の人間に自分の気持ちを悟られぬよう細心の注意を払いながらだったのだが。
 たしかに女御とあの武官とは、ただならぬ関係のように由利には思えた。

「これって三郎と関係あるのかしら?」

 ふと唯は、妖怪たちから三郎に助けてもらったことを思い出した。
 それに常磐井のことも・・・。
 御簾の内から見た公卿の顔。彼の容貌こそまったく見知らぬ男のものだったが、女御である由利を見上げたあの目の色は―。

「あれは常磐井君の・・・? いや、まさか。そんな・・・」

 まるで姿かたちは似ていないのだが、あの男の切迫した目の表情は、常磐井をどことなく彷彿とさせた。
 最近由利は、常磐井のことを考えるとドキドキする。

 ―なぜだろう―

 ピンチを助けられて彼を意識しているうちに、感謝が好意に代わりいつしか恋情になるパターンが存在することは、知識として知っていた。ありえないことではない。今の自分もその恋愛パターンに陥っているのかもしれない。だが常磐井は親切心で助け起こそうとしただけなのに、由利はそんな彼を満身の力を込めて突き飛ばしてしまった・・・。

「どうしてあんなことしてしまったんだろう」

 由利は蒲団の端をぎゅっと握りしめながら、ため息をついた。


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境界の旅人 10 [境界の旅人]

第三章 異変



「じゃあ、オレたちは稽古があるから。これで」

 男子弓道部員は、弓道場の入口まで由利と美月を連れてくると、そこに待機していた女子弓道部員に引き渡した。
 ふたりは女子弓道部員に誘導されて、二回にある見学席へと向かった。

「えっと、入部希望ですか?」

 二階の階段を一緒に昇りながら、女子部員が少し怪訝な顔をして尋ねた。

「え、は、はい。少し興味があったので」

 本当は違う、と答えても良かった。だがそれでは、弓道部そのものを貶めているような気がしたので、一応ふたりはこの場では気のあるそぶりをした。

「あらぁ、変ねぇ。どうして男子ったらこんなに気が利かないのかしら?」

 女子部員はボソッとぼやいた。

「どうかされたんですか?」

 美月はすかさず訊いた。

「ええ。もう女子の練習は終わってしまったんですよ。これからは男子の練習が始まるんです。どうせ来てもらうんだったら明日でもよかったのにねぇ・・・」

だがそう言ったあとで、せっかくここまで足を運んでくれた由利たちに申し訳ないとでも思ったのか、こう付け加えた。

「でも男子が弓を打つのは、女子とは違って、矢の通る道は真っ直ぐだし、何といっても速いです。やはり迫力のあるものですから是非見て行ってくださいね」

 由利たちが案内された見学席から下の方を見下ろすと、二十人足らずの男子部員が射場の奥のほうに固まってきちんと正座していた。そこへ遅れて常磐井が入って来ると、皆のほうへ一礼してから末席ので正座した。するとそれまで静かだった会場のあちこちが少しざわついた気がした。

「今日は、練習というより、新入部員勧誘のための一種のデモンストレーションなんです」

 女子部員はふたりに説明した。

「あの、男子部員の方たちが右手に付けている手袋みたいなものは何ですか?」

 由利がふと気になって女子部員に訊ねた。

「ああ、あれは『かけ』って言います。弓を引くときは親指を弦に引っかけて、他の指で親指を押さえるようにするんです。で、かけには親指のところには木型が入っていて、弦を引っ張ったとき、指に食い込まないようにできてるんですよ。やはり弓を引くときは相当な力が一点に集中しますからね、かけなしではすぐに親指を痛めてしまうんです。ですからかけは、弓を引くときにはなくてはならない大事なものです」
「へぇ~」

 由利と美月が感心すると、女子部員は少し気をよくしたらしい。

「ほら今でもものすごく大事なものを『かけがえのない』っていうでしょう? あれは『かけ』から来ているんです。「かけ」の替えがない。つまり今使っている「かけ」しかないってことです。つまりそれこそがかけがえのない大事なものじゃないですか」
「そうなんですか!」

 由利と美月は異口同音に叫んだ。

「日常でも、私たちは知らず知らずのうちに弓と関連したことばって案外たくさん使ってるんですよ」
「たとえば、他には? 是非この機会に教えてください。知りたいです」

 ワクワクしたように美月が女子部員をせっついた。女子部員はそれを見て少しほほを緩めた。

「ふふ、そうですねぇ、私たち、普段『やばい』ってよく言いますよね?」
「はい、やばい。ええ、普通に使いますね」
「当たり前のことを言うようですが、弓は今でも歴とした武器なんですよ。もともとは人を殺傷するために使ったんですから。弓を放つ場所というのは『射場』と今は言うんですけど、昔は『矢場』と言ったんです。で、的から矢を抜くときは、一旦矢場から人を退かせるんですよ。そうしないと万が一、矢を放ってしまう人がいたりしますからね。そうなることを防ぐんですよ」
「はぁあ、そうなんですね」

 美月が相づちを打った。

「だから、矢場に人がいる、すなわち『矢場居』とは的場に入る人にとっては非常に危険な状態にある、ってことなんです」
「へぇ~」
「もうね、『手の内を見せる』とか『ズバリ』とか。そういった感じで日常生活に浸透していることばって結構あるんですよ」

 女子部員は笑いながらそう説明した。

「うわぁ、今のを教えていただいただけでもここに来てよかったって思います。本当に勉強になります。ありがとうございます!」

 美月は知的好奇心が満たされ、またキラキラした目で礼を言った。

「いえいえ、とんでもない。弓道って武道の中では一番女子に人気があるんですよ。もし今日の男子の演武を見て興味がわいたのであれば、ご足労ですけど明日、もう一度ここに足を運んでもらって女子の練習を見てもらうのが一番なんですけど」

 女子部員はやはり武道をたしなんでいるせいか非常に礼儀正しく、隙なくぴしりとした印象が残る。

「それにね、うちの部の流派は競技に勝つことより、儀礼とか精神性を重んじるんですよね。もともと神事から派生した流派なんです」
「神事から派生したって、どういうことですか?」

 美月は質問した。

「例えば、神社よく神社などで弓を射ることがあるでしょう? あれは神さまに捧げるものなんですよ。だからとても形には厳しいです。でもこれから見ていてもらうとわかると思うのですが、とても端正なものですよ」



 射場には本座と呼ばれる位置に、七つの白木白布の胡床(きしょう)が一列に等間隔に並べられていた。
 奥の控えで正座して待機していた男子部員のうち七人が立ち上がり、射場のほうへと向かって行った。
 よく見れば皆、弓道着におろしたての真っ白な足袋をつけている。そして左手に長い弓の先端である、上弭(うわはず)と言われる部分を地に向け、右手には二本の矢を手に携えていた。彼らは射場に足を踏み入れる前にまず一礼し、しずしずと摺り足で胡床の後ろを進んで所定の本座の位置につくと、皆同時に胡床に腰を下ろした。
 やがて「起立」の声と共に一斉に立ち上がり、「礼」という声にまた一糸乱れぬことなく頭を下げた。
 それから射手たちは一旦座って、また立ち上がり、また座るという動作を繰り返した。

「どうして立ったり座ったりを繰り返しているのかしら?」

 それを聞いて横の女子部員が苦笑しながら言った。

「これは座射(ざしゃ)一手っていう弓を射る形式です。射位といって、射場内の弓を射る位置のところで一度座って、矢をつがえ、その後立って矢を射るんです」

 それから射手たちは座りながらそれまで携えて来たふたつの矢を互い違いに持つと、再び立ち上がった。そして複雑な作法で後で矢を射るためのもう一本の矢を右手で持ちながら、矢を放った。

「うわぁ、難しそう。ただでさえ的に矢を当てるのに集中しなければならないのに」

 美月が遠慮なく思ったことを言う。

「すみません、勝手なことを言っちゃって。美月、そんなふうに茶化しちゃ失礼じゃない」

 由利が珍しく美月たしなめた。だが女子部員は笑ってとりなした。

「いいえ、構いませんよ。実際、あなたが言う通りなんです。弓道は礼儀を重んじますから、一般の大会、審査はこの坐射で行われるのが基本です。勝つために的に当てることばかりにかまけてこの練習を日頃怠っていると、いざ本番ってときに複雑な作法の手順に気を取られ、本来の目的である弓を引くことに集中できなくなるんですよ。だけどそうなってしまったら、それこそ本末転倒もいいところでしょう? だから試合で平常心を保つためにも、普段から常にこの作法を練習して、体にその手順を染み込ませることが大事なんですよね」



「中り(あたり)!」
「外れ!」

 審判員の声が辺りに響いた。

「ねぇ、弓道って『あたり』と『はずれ』しかないの?」

 美月がこそっと由利に訊いた。

「うーん、さあねぇ。まぁ、武道だからねぇ。アーチェリーみたいなゲーム感覚ではないのかもね。○か×かの二択しかないんじゃない?」
「そっか、生きるか死ぬか、それだけなんだね、たぶん」

 それを横で聞いていた女子部員がまた美月に解説した。

「弓道はね、競技として大きく分けると、近的(きんてき)と遠的(えんてき)のふたつに分かれます。今、おふたりに見てもらっているのは近的です。最近は競技と言えば近的がほとんどです。近的は射位から二十八メートル先の直径三十六センチの的を射ます。射る矢の数は大会によって異なるんですけど、だいたい二本から多くて十二本程度かしら。今おふたりがおっしゃったように、的に中ればどこに刺さろうとも○、外れれば×です。真ん中が何点といった得点的(まと)使われません。的に矢が数多く中った人が勝ちです」
「へぇ、そうなんですね」

 

 選手が二回交代したあと、常磐井が他の部員と共に射場に入って来た。とたんに女子生徒の黄色い声援が弓道場に響き渡った。

「あらぁ。常磐井君ったら新入部員のくせにもう女生徒にこんなに人気があるんですね」

 女子部員がやれやれといったように首を振った。

「常磐井君って新入部員なんでしょ? それなのになんでもう迎える側になってデモンストレーションなんかしてるんだろ?」

 美月はまた、ぼそっとつぶやいた。

「彼はね、すでに中学のときに弓道大会の中学生の部で個人優勝もしてるし、上位入賞を何度もしているんですよ。うちの上級生の部員にはそんな華々しい戦果を挙げた人っていませんしね。彼は特別です」

 常磐井は射場に入る前に一礼した後、定められた位置につくと、やはり他の男子部員と同様に複雑な作法で、矢を二本つがえた。
 大きく足を扇のように広げて床をぐっと踏みしめると、今度はゆっくりと視線を矢筋に沿って的の中心に移し、顔を的の正面へと向けた。それから両手で弓を頭の少し上あたりまで捧げ持った。矢と両肩の水平な線がきれいに並行の線を描きながら、両腕が大きく均等に左右に開かれギリギリと矢が引き絞られる。
 由利は常磐井から遠く離れた見学席にいるはずなのに、彼のすぐ傍らで見ているような錯覚にとらわれた。
 今、矢をまさに放たんとしている姿は、この上もなく静かだ。決して猛々しく叫んだり、大袈裟な身振りや動作で表現しなくても、緊張した全身の筋肉は力強く膨張し、内に秘められた闘志は青い炎となって全身を包んでいるようだった。
 満身の力を込めながら集中して狙いを定めると、矢は放たれた。

バァーン!

 放つと同時に右手が勢いよく後方へと放たれ、両腕が横に一直線に伸び、身体が大の字になった。
 矢を放ったそのままの姿勢が数秒続いた。
「中(あた)り!」

 どっとその場が湧いた。

「!・・・」

 気が付けば由利は両の眼はうっすらと涙の膜におおわれていた。だがなぜか急に額から、冷や汗がしたたり落ちた。

「すごい! ど真ん中に命中だ!」

 だが人々の喝采がくぐもって遠くから聞こえる・・・。
 それを聞きながらふっと由利は意識が薄れていくような気がした。



「皆中(かいちゅう)! 各々方、**さまが放たれた矢、二十本すべて皆中でござりまする!」

 やはり弓道場と同じく、人々の驚きどよめく声が聞こえる。

「なんと、また!」
「さすがじゃ! やはり天下に名のとどろいた豪傑にござりまするなぁ!」

 気が付けば由利はまったく別の場所に座っていた。



ーえっ? あ、あたしは・・・?ー



 由利は御簾が降ろされた大床に金や紅が鮮やかな繧繝縁(うんげんへり)の厚畳の上に座っていた。五色の飾り紐が付いた桧扇で顔の半ばまでかざし、身体が埋まってしまうほど幾重にも重なった襲(かさね)の色目も麗しいたもとの大きい着物を着ていた。

ー重たい・・・ー

 つぶやこうとしたのだが、口が自分の思うように開いてくれない。
 大床の前の庭には、弓を持ち片肌を脱いだ男が遠くに立っていた。どうもあの男が今、矢を放って的に当たったらしい。由利はそう推測した。
 だが肝心の皆中にした当人の名前だけが、どういうわけだが聞き取れない。

「ほう、女御、そこもとのひいきの**がまた、的中であるぞ」 

 由利は隣の男の声にハッとなった。横にゆっくりと顔を巡らすと、やはり同じような厚畳の上に座り、冠を付け直衣を着用していた。「女御」とこの男は自分を呼んだ。するとこの男は帝で、自分はその妃ということになる。

 天下に並ぶべくもない男にどう応えるべきかと考えていたのだが、今度は口から勝手にことばがすらすらと出て来る。

「まあ、主上(おかみ)。酷い言われようでございます。わたくしは主上の妃なれば、すでに身も心も主上だけに捧げて参りましたのに」

「はは、まあまあ。よいではないか。やつはそなたを自分の命を呈して、窮地から救い出してくれた男ぞ。もそっとうれしそうな顔をしてもよいと思うがの」
「そんな・・・。主上。もちろんそれは、うれしいともありがたいとも思うておりますとも」
「さようか」

 帝は女御の完璧すぎる返答にぽつりと返したきり、しばらく沈黙していた。が、持っていた扇でどこか苛立たし気にぴしゃりと膝を打った。

「しかしそれにしても一度も外さぬとは、ソツがなさ過ぎて小癪な奴じゃ。それでは今しばらく続けさせようかの。あと何回放てば、的を逸らすであろうのかの? のう、女御」

 女御は帝のことばの端々に弓を放った男に対する嫉妬がにじみ出ていることに気が付いた。そしてやんわりと取り成した。

「主上・・・。さりながらもうよいではありませぬか。ご自分の大事な臣下を、それ、そのように試すような真似をなさらずとも」
「ほれ、そこもとは何かと、あやつをかばい立てする。そこがどうも気に入らぬ」
「ほほ、お戯れもそこまでになさいまし。どうぞ、主上からも褒めてやってくださりませ。すべては主上の栄えのためでございますよ。今日の宴に花を添えてくれたのです。ほかの殿ばらではこうはいかなかったでしょうから」

 女は努めて声を抑えてはいるが、誇らしげな気持ちでいっぱいだった。女の身体の中にいる由利にはそれがわかった。

「おお、そうよ。**は朕にとってたしかに大事な男。そうじゃの。女御の言うとおり、朕からもねぎらってやるとするか」
「それでこそ、わが君さまでござります」

 女御は頭を下げた。

 それから女はそばに控えている女房にそっとささやいた。 

「さあ、**を御前に連れて参れ。主上からお褒めのおことばがあるゆえ。妾(わらわ)からも褒美を取らせよう」
「かしこまりました」 

 しばらくすると件の男は大床の前に現れ膝をついた。

「主上、参上いたしました」

 帝はそれを聞いて機嫌よく声を掛けた。

「**よ、ようやった。さすがじゃ。それ、褒美を取らそう」

 帝は自分が今着ている着物を脱いで、それをそばの女房に渡した。

「主上から御衣(おんぞ)を賜りました」

 取次の女房が帝から手渡された衣をまた捧げ持ち、その男に手渡した。

「これは身に余る光栄!」

 拝領された御衣を押し頂きながら、男は深々とこうべを垂れた。

「ほれ、女御、なにかことばをかけてやれ。女御が口を閉じていては、**も皆中にした甲斐がなというものじゃ」

 由利もこの女が胸を高鳴らせながら何を言うのだろうかと、じっと耳をそばだてた。

「このたびそなたは、類なき弓の技でもって畏(かしこ)くも尊い主上を寿いだ。まことにめでたくも天晴なこと・・・。九重(宮中のこと)も二重(矢が二十本皆中したこと)の歓びに包まれておりましょうぞ」

 静かに女はそう言った。

「ありがたきおことば、身に沁みましてでございます」

 またしても男は深々と頭を下げたが、ふいに御簾ごしに顔をこちらに向けた。当然のことだが、初めて見る顔だ。やはり武勇の誉が高いとはいえ、典型的な貴人の容貌だと由利は思った。
 だがその男の目を見た瞬間、由利は心の中で思わず声を上げた。

「あっ!」





「由利! 由利!」

 身体を揺さぶられて、由利はうっすらと目を開けた。

「美月・・・?」

 由利はまたもとの世界に戻ったのだとわかった。

「由利、気分はどう?」

 美月が心配そうに尋ねた。

「あ、あれ? どうしちゃったのかな、あたし」
「うん、急に様子がおかしいなと思ってたら、ふら~と椅子から倒れて失神してた」
「失神? どのくらい?」
「うん、失神って言ってもほんの一、二分のことだけどね」

ーたったそれだけの間にあれだけの夢を見ていたんだー

 由利は身震いした。

「大丈夫ですか?」

 さきほどの女子弓道部員もそばに駆け寄って、心配そうに見ていた。

「あ、大丈夫・・・だと思います」

 由利は後ろに両手をついて、上半身をそろりと起こした。

「今日はいろんなところに見学に行っていて、皆さんの活動が素晴らしいので感激しすぎちゃって・・・」
「そうだよ、由利は感受性が強すぎるんだよ。何でもかんでも感動しちゃってたからさぁ、テンション高くなりすぎて、身体がそれについていけなかったんじゃない?」

 しばらくすると常磐井が血相を変えて由利たちのほうへ駆けつけて来た。

「倒れたんだって? おい、大丈夫か?」

 そういいながら常磐井は床に倒れていた由利を抱き起こそうとしてかがんだ。だが再び、肩に常磐井の掌が置かれた瞬間、由利は一瞬だったが、体が青白く光る雷で貫かれたように感じ身ぶるいした。そして思わずその手を乱暴に振り払った。

「やめて! あたしに触らないで!」


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境界の旅人 9 [境界の旅人]

第二章 疑問



 ほかにも、地学部、生物部と理科系もあり、ブラスバンド部、そして京都ならではの箏曲部もあった。ふたりはさすがに食傷気味になってぐったりしていた。

「ほんとにこの学校、よくもっていうほど、いっぱいクラブがあるね」
「ほかにもダンス部やアフレコ部もあるのよ」
「クッキング部もある。ワンダーフォーゲル部も!」
「いやぁ。もうこれ以上はムリっ! 目が見ることを拒絶してるよ~。もう感動する心の喫水線を超えたよ、完全に!」
「たしかにね・・・。なんかアクション映画を続けて五本ぐらい見ましたってカンジ・・・」

 ふたりが校庭に面したベンチに座りながら、それでも上級生にもらったチラシにチェックを入れていると、向こうから鎧兜の衣裳をつけた一軍に出くわした。

「美月、あれ、何? なにかのお祭り?」
「シッ! 違うわよ!」

 美月は黙れといったふうに、くちびるに指をあてて素早くたしなめた。

「うわぁ、彼女、タッパあるねぇ。いいねぇ。ウチに入らない?」

 戦国武将は由利を見るなり大声で叫んだ。

「あら、こっちの子もカワイイね。お姫さまなんかぴったりだね」

 普通の時代衣装の装束とは違い、いかにもゲームから飛び出てきましたといった恰好をした部員が口を開いた。

「えっ、え? 何をする部なんですか?」
「あ、うちのはね、まだ部には昇格してないの。コスプレ同好会なんだ~」
「・・・コスプレ・・・」
「楽しいよ。やってみない? 衣裳は自分たちで作るから洋裁の腕は向上するよ。ビジュアル的な美しさが求められるからね、化粧もするから当然、化粧技術も向上するよ。それからかなり難しいポーズもとらなきゃなんないんだ。だから体幹を鍛えるために運動も必要だよ。なんたってコスプレは自分の身体で表現しなければならないからね。もちろん演技力も必要」

 青いカラコンをいれた戦国武将は、立て板に水としゃべり出した。

「自分の写真も撮ってもらう代わりに他の人の写真も撮るわけだから、カメラの専門的な知識も身に着けられるし、ひとつの作品が出来上がるまでには総合的な知識や能力が求められるし、柔軟な思考力もつくから、ここで培った能力は社会に出ても還元できるよ、どうお?」

 たしかにそう思ってみれば、コスプレといえど、一口では言えないほど時間と力と努力とがかかっているように思える。そして燃えるような情熱も。

「へぇ~。すごいです・・・」
「じゃあ、コスプレ同好会に入ろうよ!」

 かなり押しが強い。

「だけどもうちょっと他の部も回ってから、考えさせてください」
 美月はことばに詰まっている由利に代わって、京都人らしく「考えさせてくれ」と婉曲に断った。
「彼女たちぃ~、いい返事、待ってるからねぇ~」

 コスプレ同好会の上級生は、まったくめげることなくフレンドリーに大きく手を振るという戦国武将にあるまじき姿で見送ってくれた。態度と装束にギャップがありすぎてシュールだ。

「どうするの、由利?」
「ええ? どうするって・・・? もちろん入らないけど・・・?」
「お姉さんたち、あなたにロックオンしてたじゃない?」
「いやいや、たしかにコスプレも面白そうだとは思うよ。だけどコスプレするためにわざわざ東京くんだりから京都へ来たんじゃないもん」
「うふふ、そうなの? 断るの大変そうだね」

 美月はさもおかしそうに笑った。



 向こうから小柄な少年がズボンのポケットに手を突っ込んでこっちへ向かってくる。それを見たとたん、由利の身体は凍りついた。

「あ、あれは・・・三郎・・・」

 隣にいた美月は別段驚きもせず、あたかも普段親しく接しているクラスメイトのように、三郎に声をかけた。

「あら、椥辻(なぎつじ)君」

 美月が三郎のことを、当たり前のようになんの躊躇もなく「椥辻」と呼んだことで由利は驚いた。先日あんなにしつこく名前を聞いても三郎は決して口を割ろうとしなかった。なのにいつの間に美月は三郎とこんなに仲良くなって、しかも苗字まで知っているのだろう? 

「ああ、加藤さん」

 三郎はこれまで見たこともないほど親し気な笑顔を返した。

「椥辻君も部活を見学?」
「まあ、そういうわけでもないんだけどね。じゃあ加藤さんや小野さんたちも?」
「うん。一応茶道部に入ろうってふたりで決めたんだけど、一度、入部しちゃうと他の部がどんな活動をしているかわかんないから。見聞を広げるためにも一応できる範囲で、見学できるものは見学しておこうかなって思って」
「ああ、それはいいよね。いかにも加藤さんらしい」

 三郎はウンウンといった調子で同意した。

「椥辻君はどこの部に入るつもり?」
「う~ん、部活もしたくないわけじゃないんだけど・・・。実はうちはね、ちっさい流派なんだけど能をやっているんだよね」
「あら、すごい。お家元なのね?」

 美月は感心したように言った。

「いやいや、家元なんて。そんな大それたもんじゃないよ。普段オヤジは会社勤めしてるし、お弟子さんといっても二十人ぐらいの細々としたもんなんだけどね。ただ室町時代から続く古い流派なんで、絶やしちゃもったいないっていう理由だけで存続しているようなモンなんだけど。だけどこの間オヤジがぎっくり腰になっちゃってさぁ、舞えないもんだからね。代わりにおれが師範代としてお弟子さんたちを教えなきゃならないんだな。だから放課後はまっすぐ家に帰らなきゃなんないんだよね」
「へえ、大変じゃないの! お父さん、大丈夫?」
「うん、まあまあ。レントゲンを撮ってもらったら、さしたる異常もなさそうだし。日にち薬で良くなっていくんじゃないかな?」

 一体何のこと? 三郎は能の家の跡取り? あの子は天涯孤独の身じゃなかったの? 由利は頭がおかしくなりそうだった。

「うん、まぁ一時的なことだからさ。オヤジの腰がよくなったら、ぼくもどっか入ろかなぁと思ってさ。一応目星ぐらいはつけておこうかなって思ってね。わりと気楽に参加できるものに限られるけど」
「そうね。ワンダーフォーゲル部とかリクリエーション的な部活もあるわよ」
「ああ、なんかよさそうだね」
 しばらく間が開いたあと、美月が改めて感心したように言った。
「それにしてもねぇ。椥辻君が能をねぇ。すでに師範代として教えてるわけなんでしょ? すごいねぇ」
「まぁさ、小さいころからやらされてるからねぇ。でもさ、家の中のことしか知らないのもどうかと思うよ」

 三郎のあまりの豹変ぶりに由利は口も利くこともできず、ただただあっけに取られてそれを見ていた。



 そこへ稽古着に着替え弓を携えた常磐井が、連れと思しき何人かと一緒に男子更衣室から由利たち三人のところへ通りかかった。常磐井は三郎を目にすると、ハッとなって一瞬表情が険しくなった。急に群れからひとり離れて、ずんずんと由利たちのほうへ駆けて寄ってくると声をかけた。

「やあ、加藤さん、小野さん。これから見学?」
「あら、常磐井君。え、ううん。もう帰ろうかなって思っていたとこ。ちょうど椥辻君に会っちゃって。えっとあなたは弓道部?」

 ものおじしない美月が答えた。

「ああ、オレたち今から稽古なんだけど、よかったら見てかない?」
「ううん、わたしたちもう茶道部に決めたところなのよ。せっかく誘ってくれたのに申し訳ないんだけど」

 常磐井はそれでも執拗に引き留めた。

「そんでもいいじゃん、せっかくいい機会なんだからさぁ。弓道って高校生の部活としては思いっきり珍しいんだぜ? 記念にオレが弓をまっすぐに命中させるからさ、オレのシビれるようにカッコいい雄姿を見てってよ」

 いつも無口で、愛想のない常磐井がこんなふうに冗談交じりに茶化しながら誘ってくること自体、尋常ではない。裏に何かあると由利は踏んだ。

「おーい、おまえら、この子たちが見学したいんだとさ! 弓道場の方へ連れて行ってやってくれないか!」

 常磐井は他の部員に声を掛けた。他の部員は分かったといったように「おう」と一声叫んで、大きく手を挙げた。

「あ、悪いけど先に行ってくんないかな? オレもあとですぐに行くからさ」

 そして美月と由利を三郎からさりげなく引き離そうとした。

「さあ、あっちへ」

 常磐井は仲間たちがいる向こうのほうへ送り出すために、由利の背中に手を押し当てた。



「!」

 この感触!


 由利はめまいを感じた。
 あたしはこの手を知っているような気がする・・・。
 なぜ? ついこの間知り合ったばかりなのに?

「あら、常磐井君、どうしたの? 一緒に来ないの?」

 美月が訊いた。

「あ、オレさ、アイツにちょっと用があるから・・・」

 常磐井は名前を言わずに目で三郎を制した。

「ちょっと言い出しっぺが何よ! 常磐井君! すぐに来てよ!」
「おお、解ってるって!」

 由利は気になりながらも三郎に近づいて行った常磐井の傍から離れた。

 常磐井は辺りに三郎の他に誰もいなくなったことを確かめると口を切った。

「おい、おまえ、どんな魂胆があってここにいる?」

 常磐井は小柄で華奢な三郎を見下ろしてすごんだ。

「何のことでしょう? 常磐井さん。ぼくはただ加藤さんたちと話をしていただけだけど?」

 三郎はそんなことはまったく意に介していないというふうに、すました顔で受け流した。

「フン・・・。みんなは騙せても、このオレは騙せないからな。術を掛けただろう?」
「ああ、あんたも術にかかってくれない面倒くさい人間のひとりなんだね」

 フンと三郎は鼻で嗤って、挑むような眼で常磐井を見上げた。
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境界の旅人 8 [境界の旅人]



 放課後になると、由利と美月は連れ立って、校内の部活動の勧誘活動を見学しに行った。

部活動の勧誘は新入生が入学した次の日から五日ほど行われる。
 上級生はみんなそれぞれ趣向を凝らしたチラシやパフォーマンスを考えて、新入部員の獲得に懸命だった。

 桃園高校は、部活の種類の多さでは他の学校よりも断然群を抜いていた。一学年につき、八ホームもある。一クラスにつき四十名だから、一学年でも三百二十名。三学年全部を合わせると千人近くもいることになり、部員割れすることはまずない。またOB・OGが地元の老舗の経営者であることが多く、結構な額の寄付を募ってくれるので、資金が潤沢なこともひとつの大きな要因だった。

 由利たちはまず、入部する心づもりにしていた茶道部へ一番に見学しに行った。

 『茶道部』と張り紙がされている部屋は、他の教室とはかなり雰囲気が違う。引き戸を開けて入ってみると、飛び石がはまっている空間があり、つくばいがある。その奥に大きな和室があった。

びびってしまって入口のところで固まってしまっている由利の手を、美月は軽く引っ張った。

「由利、どうしたの?」
「う、うん・・・。な、なんか・・・入りにくい・・・」

 今の由利のように、おそらく茶道のことにはまったく心得が無い新入生を誘導するためにだろう、入口には茶道部員らしい女子生徒が二三人ほど立っていた。

「見学ですか?」

 優しそうな上級生は由利たちに訊ねた。

「あ、は、はい」
「じゃあ、あちらの和室へ行って座ってください。部長がお茶を点てますので、どうぞ飲んでいってくださいね」

 ふたりは言われたとおり、上靴を脱いで作り付けの式台の上に上がった。

 茶室の床の間はきれいに飾り付けられていた。壁には、まったく読めないがリズミカルな運筆で書かれた草書の掛け軸が下がっており、その下には竹籠に雪柳と黄色いフリージアが投げ入れられてあった。

 炉が切られたところにひとりの生徒がきちんと膝に手を当てて正座している。どうもこの人物が部長のようだ。しかも紋のついた着物に袴を着用しており、まさに正装。

 部長はなんと男子だった。

 だが結婚式やお祭りなどで着用している真っ黒な紋付き袴でなく、緑がかったグレイのお召しにこげ茶の袴が、今のお茶事という場にふさわしい、洗練された装いだった。

「あ、キミたち、ようこそ。さあさあ、どうぞ。遠慮しなくていいですよ。そこに座ってねー」

 男子生徒にしては柔らかすぎることば遣いに由利は少し違和感を持った。だがとにかく言われるままにふたりは、青畳の香りも清々しい茶室に足を踏み入れた。新入生は由利たち以外には、まだ誰もいなかった。

「ああ、足は楽にしてね。経験のない人がいきなり正座するのは辛いから」

 美月はきちんと正座をしたが、由利は無理をして後で足が痺れて立てなくなることを恐れ、男子生徒のことばに甘えて横座りをさせてもらった。

「ボクが今、お茶を点てますので、それを飲んでいってくださいね。それにもちろん、おいしいお菓子もありますよ。そのあと入部するかどうかを決めてくださって構わないし。もちろんお菓子目当ての冷やかしでも大歓迎。ふふ・・・。どんな出会いでも一期一会(いちごいちえ)という貴重な機会なんです」

 それから袴男子はことばを続けた。
「えっと・・・申し遅れましたね。初めまして。ボクがここの部長を務めます、小山薫です。それで・・・え~っと、あなたは・・・」

 小山はこれから点てる茶碗に柄杓でお湯を入れながら尋ねた。しゃべりながらでも、動作は流れるように淀みがない。あたかも宙に見えない動線の軌道があるようだった。由利は我を忘れて小山の動作を見入った。横に座っていた美月が、陶然としている由利をそっと肘でつついた。

「由利、由利! 部長がお名前は何ですかって訊いてらっしゃるわよ・・・」

 ひそひそと声を潜めて返事を促す。

「え、えっと小野です」

 人見知りの強い由利は、ちょっとはにかみながら答えた。

「あ、小野サンね。初めまして」
「で、お隣のあなたは?」
「あ、加藤美月と申します、はじめまして」

 美月はきちんと手をそろえて頭を下げた。

「加藤サンね。はじめまして。あなたはどうもお茶の心得があるみたいですね・・・違うかな?」

 さすがに小山は部長を務めるだけあって、一発で美月が初心者ではないことを見抜いた。

「あ、はい。お恥ずかしいんですけど、中学のときも茶道部に入っていました」
「ああ、そう。道理でね。おじぎがきれいだと思いました」

 袴男子はにっこりわらうと、そばで控えている女子部員のひとりにお菓子を持ってくるよう指図した。

「じゃ、田中サン、この方たちにお菓子を差し上げてね」

 由利と美月の前に菓子器がうやうやしく置かれた。

「茶道ではね、お茶を飲む前にお菓子をいただきます。これからお渡しする白い紙、あ、これ懐紙っていうんですけどね、それにお菓子を置いて、黒いようじみたいなので、切って食べてください」

 再び別の女子部員が、懐紙と黒文字をふたりの新入生のところに持って来てくれた。

「どうぞ」
「あ、ありがとうございますっ」

 薄灰色の釉薬が掛けられた菓子器の中には薄い紫と緑に色付けされたきんとんがバランスよく収まっていた。

「なんて・・・きれい」

 由利は思わず、菓子器と主菓子の完璧な色調をうっとりと眺めた。

「おや、ずいぶんと気に入ってくれたみたいですね。ハハハ・・・。うれしいです。これは今日の日のために、ボクが特別にあつらえたお菓子なんですよ。そんなに感激してもらえたんだったら、苦労した甲斐もあったというわけです。このお菓子はね、『藤浪』といいます。桜の次は藤の花・・・。お茶はね、季節感が大事なんです。さぁ、どうぞ召し上がってください」

 一口食べるときんとんの優しい甘さがふわっと口の中に広がって喉を通って行った。由利たちがお菓子を食べたころを見計らって部長が口を開いた。

「お稽古は週に三回。月・水・金です。割り稽古から始めます。そして週に一度、先生がいらっしゃいます。あとの二回は部員たちで各自練習。月に一度は部内だけで茶会形式の練習があります」

 小山部長はまた流れるような手つきで棗(なつめ)から茶杓で緑色の抹茶を取り出し、茶碗の中に落とした。

「この部は季節、季節にお茶会をします・・・。まずは五月には新入生歓迎のための茶会、八月には浴衣を着て茶会をします。九月は文化祭があるので、当然お茶会を開きます。そして炉切りの茶会、新年になると初釜・・・。三月はひな祭りと卒業生をお見送りするためのお茶会。要するに一年中お茶会をしていることになりますね」

 由利は渡されたお茶碗からお茶を一口飲んだ。茶碗は貫入が入っており、金色と薄いトルコ・ブルーが器全体に細かく吹き付けられていた。だが寒色系の色使いなのに、どこか温かい印象だった。由利がじいっと茶碗を見つめているのに小山は気が付いた。

「小野さん、このお茶碗、気に入ったのかな?」
「はい、とてもきれいで・・・」
「そう、よかった・・・。このお茶碗はね、布引焼っていいます。高校の部活で使う茶碗だから、そんなに高いものではありません。だけど春らしくていい感じでしょう?」

 部長は、今度は美月の分のお茶を茶筅で点てながらそう説明した。由利はすっかり小山に魅了されてしまった。茶室という非日常的空間に身を置いた小山の緩急自在な動き、絶妙な間合い。これはひとつの芸術だと由利は思った。

 もう自分にはこれしかない。

 由利は今自分がいる空間に酔いしれてしまった。

ここは一杯のお茶を飲むためだけの空間のはずだ。だがただそれだけなのに、どうしてもこうも心が満たされて幸せな気持ちになれるのだろう。今飲んでいるものは、たしかにお茶の粉を湯で解いた液体にしかすぎない。だが実はその中にはぎゅっと凝縮した美の精神が詰められている。

 由利は飲みながら、魂の栄養のためには必要不可欠な緑色の宝石を液体にして、身体に溶かし入れているような気がした。





 茶道部を辞したあとふたりは、講堂でしばらく放心したように合唱を聞いた。それまで聞いたことのない曲だったが、男声と女声は、音程が乱れることなくきれいに交じり合ってハーモナイズされているのを聞くのは心地よかった。

 あとはオーソドックスなところで新聞部、文芸部、演劇部、ESS部、美術部だ。

 由利が美術室の壁に展示されているデッサンをまたしげしげと食い入るように見ているので、美月が声をかけた。

「どうしたの、由利」
「うん、デッサンもいいなぁと思う。こんなふうにさらりと一本の線を描くのに、この人はどれだけの修練を積んだのかなって思って」
「由利ったら。さっきは茶道部であんなに感動してたのに。今度は絵なの?」

 美月は、由利が意外と感激屋なのに驚いたようだった。

「うん・・・世の中にはすてきなものいっぱいあるね。何で今まで気が付かなかったんだろうね」
「もう由利ったら、小山部長にクラクラだったもんね」
「ちーがーう! 何言ってんの、美月!」

 由利は顔を真っ赤にして、美月の背中をバンっと叩いた。美月はおやっという顔をして由利を見た。

「小山部長はそりゃあ、ルックスの上でも素敵な人だったよ。だけどそのことばっかに魅せられたんじゃない! あたしが一番感動して、絶対にお茶をやろうと決めたのは、あのお点前のすばらしさよ!」

 それには美月も反対しなかった。

「そうよねぇ。小山部長は、たしかになんかすごかったよ」


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境界の旅人 7 [境界の旅人]



 由利は二階にある自分の部屋となった和室で蒲団を敷き、身をその上に横たえていた。もう日付はとっくに変わっていた。
    眠ろうとしても日中のことが頭に残り目が冴えて、なかなか眠りに入れない。寝がえりを打とうとして止めた。隣の部屋では辰造が寝ている。バタバタ寝返りを打ってしまえば、いっぺんで眠れてないことがバレてしまう。ただでさえいろいろと気を遣わせているのに、これ以上心配をかけては可哀そうだ。
 堀川の川岸で三郎は夕日を逆光に浴びながら、何か物思いにふけっていた。
「あの子の正体は一体何なんだろ?」
 由利は納得が行かないと言ったふうにつぶやいた。
「御所へ桜見に行ったら、いきなり妖怪みたいなのに襲われた。そのとき、あの子は妖怪たちの間で舞を舞っていた・・・。じゃああの子は化け物の仲間ってことなの? ううん、違う。三郎は他の化け物みたいに変身もせず、襲われそうになったあたしを助けてくれた・・・。あれは何らかの理由があって、化け物たちをコントールしていたのかもしれない」
 由利は天井を睨みながら、さまざまなことを頭に巡らせた。
「夕方あたしはあそこで三郎にいろんなことを訊こうとした。だけどどれもこれも三郎は、のらりくらりとかわして、まともに答えてくれなかった。でもあの子、名前は不必要なものだって言ってた。あれはどういう意味? もう呼ばれることもないから、名前なんか要らないってことなのかな」
 自分の名前を呼ばれることもない環境とはどういうものだろう。どんな人間にも肉親であれ、育ての親であれ、親はいる。なぜなら生まれてすぐに立って歩ける他の動物と違い、人間は二足歩行をするようになって、未熟児として生まれることを余儀なくされたからだ。だから何もできない赤ん坊はそのまま放置されては生きていけない。親の庇護下に置かれていた赤ん坊は育つにつれ少しずつ親元を離れ、そこからじょじょに友だちを作り、長じるに従って自分の世界を拡げ、各々の人間関係を構築していくものだろう。だが三郎にはおそらく通常の人間のように帰属するなにものをも持たない。三郎のひどく孤独な横顔を由利は思い出した。
 
 ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がしてな。

「あれってどういう意味だったんだろう。そういえば昔を偲んでいたって言ってた」
   まだ十五や十六で昔を偲ぶという感覚が由利には全くわからない。すると突然ハッと脳裏にひらめくものがあった。
「もしかして・・・実はあの子は見かけだけが少年なのだとしたら?」
 これまで由利は三郎を何らかのサイキッカーなのだと考えていた。普通の人間が見ることもないものを見ることができ、操ることができるような。だがそのような超能力者でなく遠い昔から連綿と続く時の中をひとりで生きてきたのだとすれば・・・?
   由利はその先を考えるのが怖くなって、無理やり目を閉じた。

   すっぽりと包まれるように知らない誰かに強く抱きしめられていた。
 気が付けば身に着けていた帯はすでに解かれ、はだけられた衿の中からやわらかな稜線で縁取られたほの白い胸がのぞいて見えた。片側の胸乳は大きく指を広げられた手に掬い上げられていた。すっぽりと相手の掌に中に収まっている乳房の先端は、感応して固く収斂されていく。ゾクゾクとした感覚が背中を伝って腰にまで及んだ。
「ああ・・・」
 思わず吐息と共に声が漏れ出てしまう。
「お慕いしているのです。誰にもあなたを渡さない」
 自分を抱きしめている男がそう耳元でささやいた。

 由利は目を覚ますと同時にガバっと飛び起き、被っていた蒲団をはねのけた。
「え? 何だったの、今のは?」
 由利は蒲団の端を冷や汗を掻いた手で握りしめていた。由利は一旦、深呼吸をしてから努めて冷静になろうとして、今自分が見たなまめかし過ぎる夢の分析をしようとした。
 認めたくはなかったが、これまでわれ知らず甘くうずくような夢を見ることはたしかに何度かあった。だがそれは、自分も性欲という本能を持った人間という動物であれば致し方ないことだと納得できる。しかしこんなふうに、生々しい夢を見るのは初めてだった。今でも身体に夢の男の手の触感が残っている。
「こんなことってあるのかな?」
 当然のことだが、ついこの間まで内向的な性格の中学生だった由利はこれまで好きになった異性もいなかったのはもちろんのこと、ましてや異性と深い関係になるはずもない。つまりその手のことはまったく経験がないのだ。それなのにこれは妄想の範疇を超えている。だがただの夢とも思えない。
   これは記憶だ、と由利は直観した。
   だがそれは、いつの記憶?
   それによくよく考えてみると夢の中の自分は、今の時代の人間ではなかった。
  
「入学したと思ったら、いきなり次の日は実力テストって、結構厳しくない?」
 お昼の弁当を食べながら由利が言った。
「まぁ、今のご時世、高校ってどこでもそうなんじゃないかな」
 美月は諦めたように言った。
「入学試験を突破したんだからさ、ある程度の実力なんてわかっているはずじゃないよねぇ」
 由利は四時間目の終わり間際に配られたプリントを開いた。
「これって成績上位者のプリントなの? こんなの配られるんだぁ。あたしこの中に入っているかなぁ」
「どうしたの、由利。妙に怖がっちゃって」
「だってあたし、かなり暴れてここに来たからさぁ。あんまりひどい成績だと親に申し訳が立たないっていうか・・・」
 由利はおそるおそる下の方から探していった。
「あー、あった。良かったぁ。かろうじて二十八位か。まぁまぁかな。んで・・・一位は誰かな?」
 由利は一番初めの欄を読み上げた。
「一位。国語、八十八点、数学、満点、英語満点、理科、九十九点、社会満点! すごいなぁ~。誰だろ、この加藤美月さんって・・・。え? え? もしかして美月なの?」
 美月は大してうれしくもなさそうな顔で答えた。
「たぶんこの学校に加藤美月って名前の人間は、あたししかいないと思うよ」
「すごいねぇ、美月って。一位だよ、一位」
「そんなの毎日毎日、わたしこそはって自己顕示欲の塊のガリ勉女子たちに囲まれて、しごかれていたら、こんなふうにもなるよ」
「美月の中学ってそんな進学校だったの?」
「まぁねぇ」
 由利は美月のおしゃべりを聞きながら、成績表を見ていたが、美月の次席にあたる人物の名前を見てハッとなった。
「ね、見て、見て。美月。この常磐井悠季ってこの間、あたしを助けてくれたあの背の高い人のことかな」
 美月はどれどれと由利の渡してくれたプリントをのぞき込んだ。
「うん、一年三ホームって書いてあるから間違いないんじゃない?」
「へぇ、常磐井君って結構ぞんざいな口を利いていたし、不良っぽい人なのかと思ったら、案外勉強もできるんだ」
 由利は意外といったふうな顔をした。
「うん。由利は東京から来たから知らないだろうけど常磐井君ってさ、結構レベルの高い中高一貫の男子校からここにきたみたいよ」
「へぇ~。中高一貫校から何でまた?」
「まぁさ、あの子も反逆児っぽいからさ。親や先生の言われるままに唯々諾々と従うのが嫌だったんじゃない? そりゃあね、頭が柔らかい若いうちにできるだけ勉強しておいたほうが、その後の人生においては有益だと思うけどね、だけどそれも程度問題なのよ。あたしたちの親世代って、何ていうのかな、権威主義的というのか、学歴信仰が半端ないっていうか」
 美月は弁当箱に納まっていた卵焼きを食べながらぼやいた。
「そりゃあね、お勉強ができることはさ、嫌なことでも我慢して努力できますってアピールできる材料になるとは思うけどね。ま、就職には学歴は必要かもしれないけどさ、おそらくそんときだけだよね。あとは本当の実力というか、人間力だよ。学ぶってことは、ただ教科書を丸暗記することじゃないよ。だから成長する過程で身に着けなきゃならないこと全てを犠牲にしてまで、受験勉強だけに打ち込む方が、むしろ社会生活を営む上で弊害を招くと恐れがあるよね。知らないことがありゃ、とりあえずはググればいいわけだし。今の時代、何も稗田阿礼みたいに何から何まで暗記してる必要なんかないんだよ」
「うん、あたしもそう思うな」
「でしょ、由利。マニュアル通りの硬直した考え方しかできない人って不幸だよ。世の中に出たら、それこそ柔軟な思考が求められるのに」
 とは言え、美月も由利も結局のところ、まぎれもなく受験秀才だった。

「ね、由利。立ち入ったこと、訊いてもいい?」
「いいよ」
「あたしの質問が不愉快だったら、答えないで」
「ううん、大丈夫。遠慮しないで訊いて」
 だが由利の顔は、緊張でこわばっていた。
「ひとりで東京からわざわざ京都に来たんだよね、由利は。なんで?」
「ああ、そのことか。うん、話せば長くなるんだけど・・・。うちは母子家庭なんだよね」
「ご両親は離婚されたの?」
「ううん。うちの母親は最初っからシングル・マザー」
「へぇ。なんか悪いこと訊いちゃったのかな、あたし」
「ううん。別にいいよ。ママ・・・いや、あたしのお母さんはね、もともとここの高校のOGなんだけど、なんかめちゃめちゃ頭がよかったんだよね。お母さんってさ、遅くにできたひとり娘だったんだって。それでおじいちゃんとおばあちゃんは、お母さんをずっと手元に置いておきたかったみたい。それで女はどっか地元の女子大の家政学部にでも行って花嫁修業でもしたらいいみたいな考えだったらしいんだ。だから東京の大学進学については大反対でおじいちゃんたちと相当もめたらしいんだよね」
「まぁ、昔はさ、今なんかと違って、どんな場合でも親の立場のほうが強かったんだよ。女は学問なんかせずに早く嫁に行って夫を立てろみたいな風潮だったらしいしさ、ま、時代もあるよ」
「でも、そこからがうちのお母さんのすごいとこでさ。普通はさ、やっぱり学習塾ぐらい行くじゃない? だけどお母さんの両親は東京に進学することに反対しているじゃない? だからお母さんは、自宅で受験勉強しただけで帝都大の工学部を一発合格したんだよ」
「帝都大の工学部? すっげー。賢い!」
 秀才の美月も大きく目を見開いた。
「そうなの。あたしもすごいと思うよ、わが母ながら」
「それでさ、なんの支障もなく院まで行って、それからフランスの研究機関で働いていたんだよ。そこまではもう順風満帆を絵にかいたような感じなんだよねぇ」
「うん、それで?」
 美月は目を輝かせて訊いた。
「だけどさ、そこからお母さんは人生に大きくつまずいたんだよね。しかもそのつまずきの元がこのあたし」
「そんなの、由利にはどうしようもないことでしょう?」
 美月はちょっと怒ったように言った。
「あたしさ、みんなの前でフランス人のハーフだって言ったけどね。あれって半分本当で半分は嘘」
「え、どういうこと」
「お母さんはあたしがどんなにお父さんはどんな人なのって訊いても絶対に教えてくれないんだよ。で、一夜限りの相手と致したら、あたしができたっていうんだよね。なんでも相手はムスリムの男だったって」
「まぁ、それでも・・・フランス国籍だったらフランス人ではあるよね。嘘じゃないじゃん」
「でもみんなが頭に思い浮かべるような金髪碧眼のシャルルとかピエールみたいな名前の父親じゃなかったわけよ。それでね、あるとき自分の父親の名前ぐらい知る権利があるってしつこく訊いたらさ、ファルーク・バルサラだとかしれっとした顔で言うんだよね、うちのお母さん」
「やぁだ、なぁに? それってクィーンのフレディの本名じゃない? マジウケるんですけど」
「そうだよ。あたしそれ知らなくて、中学の友だちにそれを言ったら大笑いされちゃってさ。すごい恥をかいちゃったよ」
「うはっ。なんか気の毒~」 
 美月はもはや笑って済ませられない由利の状況にもあえて、ハハっと声をあげて笑ってくれた。
「でもさ、お母さんって本来生真面目で潔癖な性格だからさ。そんな一夜限りとか、行きずりの恋とかそういう軽はずみなことする人にはどうしても思えないんだよね」
由利はちょっと憂鬱そうに答えた。
「ふうん。まぁ、でも男と女の仲には、理屈では説明できないこともあるだろうしなぁ」
 美月は解ったようなことを言って由利を慰めた。
「うん、少なくともお母さんにとっては、あたしの父親のことは娘のあたしにさえも教えたくないほど、苦い思い出だってことだけは分かったよ」
 由利は、はぁとため息をついた。
「でもさぁ、由利。娘だからこそ言えないこともあるんじゃないかな」
 美月は励ますように由利の手をぎゅっと握って、ささやくように言った。
「まぁ、それでもよ、たとえあたしが、苦い思い出になった男との間にできた娘だったとしてもよ、お母さんは一生懸命あたしを愛して育ててくれた、そこは紛れもなく本当。だけどさ、お母さんは頭良すぎて、こう、どう言ったらいいの、できない人間の気持ちがわからないっていうか、あたしだってさ、一生懸命自分の気持ちを説明しようとはしたんだけど・・・。なんてか、次元の違う永遠に交わることのない二直線って感じで、分かり合えないって言うかぁ。そもそも感性が違うんだよね。最終的にはいっつも命令する側と従う側の関係しか構築できないっていうかなぁ。だからお母さんもあたしに命令するのにほとほとうんざりしたみたいで、そのうち年下の恋人を作っちゃってね。週末になると出かけるようになって」
「へぇ、由利のお母さんって大胆」
「まあね、でもお母さんって、娘のあたしが言うのもナンなんだけど、四二歳とは思えないほどキレイだしね。一種の美魔女なんだよねえ。はたから見ていても周りにはお母さんのこと、好きなんだろうなぁって男の人はホント多くて。それはいいんだけど、お母さんを見てると本気で今の相手に惚れているようには、とてもじゃないけど思えなくて・・・。生きる情熱を掻き立てるために、あえて自分をそういう状況に追い込んでいるとでもいうか・・・。そんなふうに懸命に自分を奮い立たせているのを見てるのが、たまんなく辛くなってきちゃって」
「そうかぁ、いろいろあったんだね、由利」
「うん。ごめんね、美月。なんか暗い話になっちゃって。でも美月に話せてよかった。気持ちがだいぶ軽くなった」
「ううん、いいよ。教えてっていったのは、あたしのほうなんだもん。辛い気持ちをひとりで抱えていたんだね。あたしはそんな目に遭ったことはないけど、でも想像することはできるよ」
「ありがとう。ちょっと怖かった。軽蔑されるんじゃないかと思ってたから」
「まさか・・・。由利はちっとも悪くない。誰だって間違いのひとつやふたつあるでしょ? それに由利のお母さんって立派じゃない? なんだかんだ言っても、誰にも頼らずちゃんとひとりでも責任をもって由利をこの世に産み出してくれたんだし。もっと利己的で自分ばっかり可愛い人間なら、何のためらいもなく中絶すると思うけど」
「まあね。そうかもしれないね」
 美月はしばらくしたあと、話を変えた。
「ね、由利。今日、学校の放課後、新入生への部活の勧誘があるよ。どう? 一緒に行ってみない?」
「部活か。いいね」
「由利は中学のとき、部活してたの?」
「うん」
 ちょっと由利は気の乗らない返事をした。
「なになに、部活のキーワードは、また由利の黒歴史に抵触するわけ?」
「んもぅ、美月ったら! そんなんじゃないの」
 由利は茶化す美月を軽くいなした。
「うーん。お母さんがね、人生を成功させようと思うなら基礎体力が必要だからスポーツにしろってうるさかったのよね。それで陸上してた」
「へぇ~。陸上部!」
「うん。あたし、球技とか全然ダメなの。センスなくて。だから消極的選択なんだ。それにやっててもさほど楽しいとも思えなかったし。そのせいかどうかは知らないけど、バカみたいに背も伸びちゃったし」
「じゃあ、どんな部に入りたいの?」
「うん、あたしさ、こんなこと言うと嗤われちゃうかもしれないけど、京都に来れば、もしかしてあたしが探しているまだ見ぬステキなものに出会えるんじゃないかって思ったんだよね」
「へえ~。由利って意外とロマンティスト」
「母親が理詰めで生きていると、娘は反発して違う道に行きたくなるもんなのかもね」
「じゃあ、美術部とかのぞいてみる?」
「うん。それもいいかも。だけど、あたしはどっちかって言うと伝統とか様式美みたいなのに憧れているんだよね。そういうの、やってみたい」
「へぇ、それじゃあたしと一緒に茶道部っていうのはどう?」
 美月は由利を誘った。
「それ、いいよね。誘ってくれるの、実は待ってた」
 そういうとふたりはまた顔を見合わせて微笑んだ。
「まぁ、最終的にはそれでもいいけど、とりあえずはいろいろ見たいよね」
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