境界の旅人15 [境界の旅人]



  ひとりきりで由利が校門から外へ出ると、プップーと車のクラクションが鳴った。音はマスタード色のゴルフから出されたものだった。

「由利ちゃん!」

 美月の母親の芙蓉子(ふゆこ)がドアのガラスを引き下げて由利の名前を呼んだ。

「芙蓉子さん!」

 由利は驚きながらも、芙蓉子の車のほうへ駆けよった。

「由利ちゃん、お昼まだでしょ? これから一緒に食べない?」
 にっこり笑って芙蓉子が誘った。

「ええ? いいんですか?」
「もちろん」

 美月が自分との約束をきちんと守ってくれたと、このとき由利はようやく悟った。

 
芙蓉子が立寄った先は、鴨川が一望できるしゃれたイタリアンの店だった。
川に臨む窓は大きなガラス張りになっていて、店内は明るい光で満たされていた。ふたりは案内された窓際の席に着いた。

「しばらくは雨ばかりだったけど、今日はお天気がいいから気持ちいいわね」
「ホントですね。川面が太陽にあたってキラキラ輝いていて・・・」

 外は身体にまとわりつくような暑さだったが店内はエアコンでほどよく除湿されているとみえ、カラッと乾いて気持ちがよかった。

「由利ちゃん、あなた何にする?」

 芙蓉子は手元のメニューを見ながら、、向かいの席に座った由利に訊ねた。だが由利は食欲などこれっぽっちもない。カラカラになった喉の渇きを癒すために、注がれたグラスの水を、ぐっと一気に飲み干した。

「ここはね、全般的にお食事もおいしいのだけど、お野菜がすべて地元の京野菜だけを使っているのよ。サラダがとってもカラフルできれいなの。これを是非由利ちゃんに食べさせてあげたいなって思って」
「へぇ、そうなんですね。それはとっても楽しみです」

 由利はまったく上の空で、機械的に口を動かしているだけだった。

「由利ちゃん、緊張しているの?」

 芙蓉子はそんな由利を気遣って、口許に少し笑みを浮かべた。

「え・・・あ、は、はい」
「ふふ。大丈夫よ、由利ちゃん。ちょっと深呼吸して。息を止めているじゃないの!」

 由利は言われた通りに大きく息を吸って吐き出した。

「いい? よく聞いて、由利ちゃん。これから私が話して聞かせる内容は、あなたがたぶん想像しているような恐ろしい秘密なんて、一切ないわ。玲子が性的に不品行だった結果とか、フランスに行って知らない男に乱暴されたとかそういうことはないから。だから安心しなさい」

 それを聞くと急に力の入っていた全身が一気に弛緩し、由利はぐったりと背もたれにもたれかかった。

「玲子からはお父さんのこと、どのくらい聞かされているの?」
「全く聞かされていないです。あたしの父親は行きずりのムスリムの男だったとしか・・・」
「ま、玲子ったら。そんなことを言ったら由利ちゃんがものすごく傷つくでしょうに。そんなこともわきまえていないなんて、困った人ね」

 やれやれといった調子で芙蓉子は首を振った。

「え、それじゃ、そうじゃなかったんですか?」
「もちろんそうよ。まぁまぁ、由利ちゃん、落ち着いて。ひとつひとつ話していってあげるから。あのクソ真面目な玲子が行きずりの恋なんて器用なマネができるはずないじゃないの。それは真っ赤な嘘よ」
「じゃ、なんで!」
「たぶん玲子は、あなたのお父さんと別れたことにものすごく打ちのめされて、まだその痛手から立ち直り切れてないのね。きっとその人のことを未だに愛していて、忘れられないのじゃないかしらね。だけど玲子は、もしそんな弱音をうっかりあなたの前で吐いてしまったら、もう二度と自分が立ち直れなくなるって思っているのかもしれない・・・」
「え、そんな」

 母親の親友だった芙蓉子から、母親の親友から、今まで思いつきもしなかった母の一面を聞かされ由利は戸惑った。ことばに詰まっていると、芙蓉子はカバンから一枚の写真を取り出した。

「これはね、玲子のフランス時代の写真。大学院を出てすぐに渡仏したときだと思うから、まだ二十四、五歳ぐらいの頃よ」

 由利はテーブルの上に置かれた写真を手に取ってまじまじと眺めた。

 どこかの白い建物の庭らしきところで、玲子が見知らぬ異国の男と一緒に写っていた。写真の玲子は生真面目な中にもどこかはにかんだ表情をして微笑んでいた。だが何より由利を瞠目させたのは、一緒に写っている若い男の玲子に対するしぐさだった。男は背後から玲子の両肩に両手を添えていた。そっと包み込むように肩に置かれた手の表情。それが何よりも雄弁にふたりの関係を物語っていた。

「この人・・・、いくつぐらいなんだろ?」

 写真の中の異国の青年は、いかにも育ちの良いエリートといった感じの、誠実そうな人間に見えた。

「そうね、玲子とそんなにいくつもは離れてはいないんじゃないかしら。まだ青年って感じだもの」

 ウェイトレスがアミューズとして聖護院蕪のスープを運んできた。

「ほらほら、由利ちゃん、食べて。食べて」

 由利は思っていたより自分が生まれた真相が悲惨な展開にならずに済んだのがわかって、少し食欲が戻って来た。サーブされたきれいな器に入ったスープを一口飲んだ。

「おいしい・・・」
「そうでしょ? きっと喜んでくれると思ってたわ」

 芙蓉子は優しく微笑んだ。

「玲子はね、フランスに行ってから私に『好きな人ができた』って言って、この写真を添えて手紙を送って来てくれたのよ。私が知る限りこの恋は、玲子にとって最初で最大のものだったと思うのよ。だいたいあの玲子が写真を送って来るだなんて。手紙の中でこの人のことを『ラディ』って呼んでいるの」
「ラディ? それはニック・ネームですよね?」
「おそらくはね」
「ママは相手はムスリムだって言ってたけど・・・。この人ってそうなのかな?」
「どうかしら? まぁ、ラディってあんまりフランス語っぽい響きがないのはたしかよね。でもフランスは第二次世界大戦までは北アフリカを植民地に持っていたから、イスラム圏の出身の人も結構多いの。それを考えあわせればこの人は、彫りが深くて肌も白いから、おそらくチュニジアとかモロッコあたりの出身じゃないかとも思うのよ。あるいはそんな人を親に持った二世か三世かもしれない」
「他には・・・? 芙蓉子さん、何かご存じのことってあるんですか」
「ごめんなさい、由利ちゃん。あとはその人が当時は玲子と同じ職場の同僚だってことぐらいしか・・・。あなたのお父さんに関しては、それぐらいしか知らさられてないのよ。玲子はとにかく小学生の頃から自分のことをペラペラとしゃべる子じゃなかったの。特にこんな自分の恋に関してはなおさらね」
「どうしてなんだろう?」
「たぶん、一途で内に秘めるタイプなのよ。由利ちゃんだって好きな人ができても、おそらく美月にだって即刻報告しないタイプに見えるけどな、どう?」
「それは、たぶんそうです・・・ね」
「ね? 結構古風なのよ、玲子も、由利ちゃんも。でも玲子はこのラディに相当夢中だったんだと思うのよ、今にして思えば」
「そうですか・・・」

 由利は沈んだ声で言った。

「でもね、由利ちゃん。玲子とあなたの父親にあたる人との間に何が起こって別れたのかは、たしかに私にもわからない。だけど一時であるにせよ、ふたりは本当に愛し合っていたことは真実よ。あなたは玲子とあなたのお父さんにあたる人が真剣に愛し合った末に生まれた子なの。だからあなたは自分の出自や玲子がシングル・マザーであることを恥に思う必要はないのよ。堂々としていらっしゃい」

 由利はそれを聞くと思わず、ぽろぽろと涙を流した。

「芙蓉子さん、あたし・・・ずっと母のお荷物なんだと思っていたんです。心ならずも妊娠したことをずっと悔やんでいるんじゃないかって。母はあんなふうに責任感の強い人だから、自分の中に命を授かったことを知って、使命感からあたしを産んでくれたんだろうって。でもあたしが生まれていなかったら、きっと母はこんなに苦しむこともなかっただろうって思っているのは辛かった・・・」
「由利ちゃん・・・。ずっとひとりで重いものを抱えて悩んでいたのね、可哀そうに。でもそうじゃない、そうじゃないのよ。真相は反対よ。おそらく玲子はきっとあなたがいなかったら生きていけなかったと思うわ。あなたを一人前に育てることが玲子の心の張りや支えになってきたと思うの。だけど玲子は不器用なところがあるから、自分の弱みを娘に見せられなかったのね」
「ふ、芙蓉子さん」

 由利は涙で顔がぐしゃぐしゃになった。芙蓉子さんは黙ってバッグからタオルハンカチを渡してやった。

「玲子はね、ある晩、大きなお腹を抱えて、私に会いに来たのよ」
「それはどういう?」
「玲子は大きな声で泣いていた、泣いていたの」

 芙蓉子は当時を思い出すように言った。

「どうしたの?ってわけを聞こうとしても玲子は『ラディとは結婚できなくなった』と答えてくれた以外は何も教えてくれなかった。だけどおそらく、私を頼るしか他に当てがなかったのね。玲子は私に手をついて頼んだわ。『お産をする間だけ、傍について欲しい』って」
「それで芙蓉子さんはどうなさったんですか?」
「私? 私もそのときすでにお腹に美月がいたの。だから女ひとりで子供を産まなければならない玲子の心細さは、痛いぐらい分かったわ。だから当時私が通っていた産院で、あなたを産むことができるように手続きをとって。幸い私の母の実家が山科にあって、祖母がその春に亡くなって空き家になっていたのよ。母に頼んでしばらくは玲子にそこで静養してもらっていたわ」
「え、本当に?」
「そう、そしてあなたが生まれて一か月になるのを待って新幹線に乗れるようになると、ふたりで東京へ戻って行ったわ。たぶん玲子はあなたの面倒を見てくれる保育園を捜した後、復職したんでしょうね」
「そうだったんですか」
「ええ。玲子にしてみれば、高校を卒業したあと、お父さんと大喧嘩して京都を飛び出したわけでしょう? 女ひとりでも生きて見せるって啖呵を切って家を出たのに、フランスで恋に破れて父親のいない子を出産しにおめおめと戻るなんて虫のいいことができなかったんでしょうね。私の母もそこらへんの事情をよく知っていたからね、玲子を可哀そうに思ったのか、山科の家に滞在することを承知してくれたの」
「そうだったんですか・・・。あたしそんなこと全然知らなくて」

 自分の出生にまつわることで思ってもみなかったドラマが展開されていた。そしてどういう偶然からか恩人であるこの人とそれとは知らずに再会していた。由利は運命の力に感動していた。

「ふふ。そうそう、由利ちゃんの名前を付けたのは、実はこの私なのよ」
「ええっ? そうだったんですか!」

 由利はまたひとつ思いがけない事実を知らされて、目を大きくまん丸に見開いていた。

「そうなのよ。生まれたばかりの由利ちゃんは色が透き通るように白くってね。ハーフの赤ちゃんって新生児の間は髪も金色で瞳も青みがかっているの。それが本当にきれいで可愛くてね。それでね、あなたが生まれたとき、産院のロビーに立派な鉄砲百合が何本も活けてあったの」
「鉄砲百合・・・?」
「ええ、鉄砲百合よ。それはそれは、真っ白で、凛としていてね。その花を見ているうちに赤ちゃんのあなたの姿と重なって見えたの。この子もこれから生きていく先々でいろんな困難が待ち構えているだろうけど、こんなふうに気高く毅然として、一本芯の通った女の子に育って欲しいと思ったの・・・。それで玲子に「ゆり」ってつけたらって提案したのよ」
「へぇ。そうだったんですね。じゃあ美月はおそらく・・・」
「そう、生まれたとき、月がね、満月できれいだったから」
「ふふふっ、あたしたちのネーミングの理由って結構単純なんですね」
「あら、名前なんてものはね、それぐらいでちょうどいいのよ。だけど由利ちゃんが名前に違わず、きれいな女の子に成長したのを見てうれしかったわ」
「そんな、あたしなんて」
「あら、何を言っているの、由利ちゃん、もっと自信を持ちなさい」
「でも・・・あたしなんて……こんなふうにあり得ないほど背が高くて…。この間も男子にからかわれて…。そういうのが、本当に嫌で…」
「由利ちゃん、ダメよ。自己憐憫は」

 今まで優しかった芙蓉子は、急にピシリと厳しい態度をとった。

「自己憐憫ですか?」
「そう。自己憐憫なんてまっとうな人間が最も犯してはならない愚行よ。きちんと自分と向き合って冷静に分析することも努力もせずに、可哀そうだなんて自分を甘やかしてはダメ」

 そう言われると由利は途端にしゅんとなった。

「背の高さなんてものは所詮、相対的なもの。たしかに由利ちゃんの身長は、ここ、日本では男並みに高いのかもしれない。だけどそれが一体何? きっとあなたのお父さんの国に行けば、女としてはやや背が高いかなって程度よ。あなたの悩みはフランスやイギリスへ行った時点で瞬時に解消されるの。それに北欧に行けば身長が百八十センチを越した女性なんてそこら中にゴロゴロしてるわ」
「そうなんですか!」
「そうよ。背の高さが自分を卑下する理由になんかならないわ。いい? そんなことで悩んでいること自体ナンセンスよ。そもそも美しさなんて時代と場所が変わればびっくりするくらい変わるものなの。そんなものに一喜一憂しているなんて馬鹿らしいと思うわ」
「・・・たしかにそうですよね」
「いい? よく聞いて。どんなに自分がすばらしいと思われる資質を持っていたとしても、当の本人がそれを認められなかったら、人の賞賛も心に響かないものよ。たとえば世の中の人にうらやましがられる金髪だって、それが美しいと認められない人は真っ黒に染めるものなの」
「え、そうなんですか?」

 それを聞いて由利はびっくりした。天然の金髪は人類の2パーセントしかないと何かで読んで覚えがある。たいていの人は憧れて金髪に染めるものだが、せっかく人もうらやむ金髪に生まれながら黒髪に染める人もいるなんて。

「そんな人は自分の良さが認められなくて、ないものねだりするのね。由利ちゃん、今のあなたがそうよ。あなたは長所をたくさん持っている。まずはその長所に自分自身が気づいてそれを認めてあげなくては」
「でも・・・何をやってもママには適わないし」
「ふふ。そういうところ、玲子にそっくり。よく玲子も高校生のころはそう言ってひがんでいた」
「ええっ、ママが?」
「そうよ。玲子だって高校生の頃は、自分の才能も、自分の美しさも、何にも気づいていなかったわね」
「でもママは・・・あたしなんかと違ってものすごく頭が良くて」
「それは違うわ。玲子は努力の人よ。高校に入ったときの成績は、実はこの私のほうが勝っていた。でも帝都大を目指すって決めてから、血のにじむような努力をしてきたのを私は知っているわ。だからその姿に心を動かされて周りの先生やクラスメイトも助けてやろうって気にさせたのよ」
「そうなんですか?」
「ええ、そう。そうなのよ。人間は意志の力が運命を左右するの」

 そのことばは由利の心に直に入って行って、慈雨のようにうるおした。由利はまた涙がじわりと出てきた。

「ありがとう、芙蓉子さん。あたし、もうちょっと自分のことを大事にしようと思います」

 それから何かが吹っ切れたのか、由利は芙蓉子が仰天するほどよく食べた。


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境界の旅人14 [境界の旅人]

第四章 秘密



 期末試験も残すところあと一日になった。三時間目で今日の試験が終わって、家に帰るとLineに未読のメッセージが入っていた。玲子からだ。

「今日は十時ごろには手が空くので、必ず電話してね」

ユーモアのセンスに乏しい玲子が選んだにしては可愛いスタンプが、メッセージの下に一緒に付けてあった。

 風呂に入ってから、軽く浴室を冷水で掃除したあと、時計を見れば十時を過ぎていた。由利は玲子に電話をあわてて電話をかけた。

「もしもし、ママ?」
「ああ、由利、元気にしてる?」

「うん」

 嬉しそうな玲子声が聞こえる。最後に電話してから二週間以上、間が空いていた。


「由利、学校はいつから休み?」
「えっと、今月の半ばぐらいかな」
「じゃあ、学校が終わったら、一旦、顔を見せに東京へ戻っていらっしゃい。久しぶりに親子水入らずでおいしいものでも食べましょうよ」
「うん!!!!!」
「それからショッピングにでも行ってお洋服でも買ってあげようかな。好きなのを買いなさい」
「わーい、ほんと?」
「ええ。由利、おねだりしていいわよ」
 玲子もひとりきりで寂しくなったらしい。
「いつ帰ろうか?」
「あ、そうだわ」
 玲子が思い出したように言った。
「言った傍から申し訳ないんだけど、ママね、七月の二十日までは学会でニューヨークに行かなきゃならないの。帰ってくるのが二十一になると思うから、それからにしてもらっていい?」
「二十一日? その日に成田に着くってこと?」
「時間はまだわからないけど、たぶんその日は遅くなると思うのね。だからそうね、二十二日以降にしてもらえると助かるんだけど・・・。由利は何か予定があった?」
「うん、たぶん部活が毎日入っているはずだけど、いいよ、そんなの。家庭の事情だし。ママは休みが取れそう?」
「そうね。じゃあ、二十二、二十三と休みを取らせてもらえるよう、職場に掛け合ってみるわ。何かあったらまた連絡するから」
「うん、ママも。いくら若く見えてもトシなんだから無理は禁物じゃぞ」

 お道化て由利が、母親を労わった。

「あはは、そうよね。ママもオバサンらしくおとなしくしておくわ。ありがと、由利。こっちに来るのを楽しみにしているから。それまで風邪をひかないように大事にしていてね。じゃね。おやすみなさい」
「うん、ママもね。おやすみなさい」

 玲子との電話での会話は、女同士につきもののだらだらとした長話もなく、実にあっさりとしたものだった。
 そのあとスマホのカレンダーアプリに帰省の予定を記入して、由利は明日の地理のテストの勉強をするためにノートと教科書を開いた。


 由利にとっては三郎の存在自体が、ひとつの大きな謎だった。
 三郎は自分のことを「時間と空間がお互いに絡みあわないように、まっすぐ進んで行くのを見張っている、ポイントごとの番人」だと説明した。

 美月は「椥辻(なぎつじ)三郎」と会話したことなどすっかり忘れていた。いや単に「忘れた」というより、まったく覚えていない。三郎が何らかの方法で美月やクラスメイトの記憶を改ざんしてしまっている。

「時間と空間の番人・・・。それって一体どういう意味よ?」

 まったく信じがたいことだが、その段で考えていくと、三郎は普通の人間ではないということになる。
 いつから番人になったのかは知らないが、少なくとも昨日や今日ではないはずだ。それならいつぞや『昔を偲んでいた』というセリフも理解できる。過去のある時点から何かをきっかけにして、必ず死ぬ運命にある人間を超えた存在として、三郎が今日まで生きてきたのであれば。
「三郎は、あたしのことを『土地の感情をゆるがすような要因がある』存在かもしれないって言ってた。それってどういう意味なんだろう? 解らない・・・そんなの解るはずがない」
 由利は京都に来てから自分の身の回りに起こった超常現象を、ひとつひとつ思い返してみた。
 最初は京都に来たばかりのとき、まず御所の近衛邸で妖怪たちに襲われた。
 三郎は化け物たちのことを、煩悩が強すぎてこの世にとどまっている者たちだと言った。由利はそのとき、何かのはずみで物の怪たちが棲息している次元のチャンネルに合ってしまったらしい。これは一応三郎の説明で納得できる。
 そしてふたつめは、中世の京(みやこ)に魂だけがタイムスリップしてでその時代の女御の身体の中へと入ってしまった。女御はおそらく帝の臣下と道ならぬ恋をしていた。
 最後のみっつめは、第二次世界大戦直後の京都へタイムスリップしたこと。
 この三つは、状況が似ているようで似ていない。 

 由利はふと弓道部を見学した日のことを思い出した。
 由利と美月が一緒になって三郎と話していたとき、常磐井が三郎に一瞬向けたあの険しい目つき。三郎を見たときの常磐井の反応はいつもと違い、明らかにおかしかった。たぶん常磐井は、三郎が尋常な人間でないことに勘づいている。

「あのとき、常磐井君は実はあたしと美月を三郎から引き離したくて、弓道部の見学をしろって言ったんじゃないかな?」

 地理の教科書を見つめながら、由利はぼんやり考えた。

「常磐井君なら、何か知ってるかもしれない」

 おそらく常磐井は由利の力になってくれるに違いない。とはいえ確固とした根拠はないのだが…。女御と公卿の秘密の恋には常磐井が、何らかの形で関わっているように思えてならない。それだけに常磐井に安易に近づくのはためらわれた。
 由利はここまで考えて、ほうーっと長いため息をひとつ付いた。

「いやいや、解決の糸口のつかないことでぐちゃぐちゃ悩んでいるより、明日のテストのことに集中しようっと」

 由利はイヤホンをつけ、今ハマっているジャスティンの『パーパス』のアルバムの音量をいつもより大きくした。





 一学期の期末試験も最終日を迎えた。
 精神的に開放された桃園高校の生徒たちの多くは、連れ立ってマックかモスバーガーで昼食を食べ、そのあと映画を見に行く。行先はJR二条駅近くの「東宝シネマズ二条」か、あるいは繁華街にある「Movix京都」だろう。おそらくはアイドル映画かアクション映画をみんなで見るはずだ。


 美月も出町の商店街に比較的新しくできた「出町座」で一緒に見ようと誘ってきた。

「ねぇ、由利。出町座で『サスペリア』見ない?」
「『サスペリア』? 何か聞いたことがあるような・・・?」

 由利は首をかしげた。

「そうだよ。1977年に作られた映画だもん」
「それ、どんな映画?」

 由利は嫌な予感に襲われて、質問した。

「ん~、オカルトかな? HDリマスター版なんだって。鬼才ダリオ・アルジェントが創造したゴシックホラーの金字塔だよ?」

 理屈の好きな美月は、また難しいことを言ってきた。

「却下。無理無理。怖いの、絶対に見ない主義」
「え~、そうなのぉ~。怖いの見るとすっきりしていいのに」

 いやいや、と由利は心の中で顔を横に振った。現実世界でもそうとう怖い思いをしているのに、映画まで怖いのはお断り。だがよくしたもので、やはりオカルト好きの友人が美月と一緒に見たいと申し出たらしく、しつこく誘ってこなかった。

 三時間目が終了するベルがなるや否や生徒たちは喜び勇んで帰る用意をした。

「美月! 出町座は座席指定できないんだから、早く行くよ!」
「うん、チカちゃん。わかった!」

 美月たちはあわてて教室を飛び出していった。

 気が付けば教室にはちらほらとしか人が残っていなかった。由利はこのあと予定がなかったので、のんびりと帰り支度していると、これまでほとんど話したことがないクラスメイトがおずおずと近づいて来た。
 それは、クラスの女子カーストでは最上位についている河本春奈だった。

「ねぇ、小野さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど・・・?」

 華やかな雰囲気があり、きゅんととがったあごと大きな瞳が印象的だった。だが由利にとって普段は、まったくと言っていいほど交わりの無い子だった。上目遣いで挑むようにじっとこちらを見上げて来る。その瞳の中に不穏なものが隠されていることを由利は感じ取った。

「河本さん。うん、聞きたいことって? なあに?」

 相手に自分が警戒していることを悟らせないように、少し鈍いふりを装った。

「あの・・・、小野さんってもしかしたら、常磐井君と付き合ってるの?」

 春奈は由利の心の内を探るように訊いた。春奈の鋭さに由利は驚いた。

「え、常磐井君? ううん。ないない、そんなの。付き合ってなんか」

 由利はとっさに両手を振って、全否定した。

「そうなの?」

 それでもどこか疑いを向けた目で、春奈は問い質した。

「うん」
「じゃあ、もしあたしが常磐井君にコクって、付き合うことになったとしても小野さんは別段あたしに文句はないよね?」
「え、うん。あたしと常磐井君とはそういう意味では、何の関係もないし。彼がどんな人と付き合おうが、あたしが文句言える筋合いはないのは確かだけど?」
「ふうん。そうなんだ。それ、本当?」

 春奈の目はそれでもどこか警戒の色があった。

「うん。そう。だけどどうして?」
「常磐井君の視線をたどっていくと、たいてい小野さんに突き当たるから。常磐井君、小野さんのことが好きなのかなって」
「常磐井君が実際にあたしをどう思っているかなんて・・・そんなこと、あたしにだって解らないよ。でもあたしは彼のことを何とも思ってないし。河本さんが気にすることないんじゃない?」

 実際は何とも思っていないどころか、相当常磐井のことが気になっていたが、春奈の前で自分の本心をさらすわけにはいかなかった。

「じゃあ、あたしがもし常磐井君と付き合うことになったとしても小野さん、邪魔してこないでね」
「もちろん。それはもう」

 由利の答えを聞いて春奈は、一応納得したようだ。

「あたし・・・絶対に彼のこと、振り向かせて見せるから!」

 春奈は由利に宣言した。しかし由利は心の中で、河本春奈の幼稚な態度にムカっと来ていた。ことばで恋敵から言質を取って牽制しようとしても、なるようにしかならないのが男女の仲だ。だからと言って今の自分は、春奈の恋敵ですらないのだが…。

「あ、うん。河本さん。頑張ってね」
「うん。言いたかったことはそれだけ。じゃね」

 由利から逃げ去るように春奈は、バタバタと教室を飛び出して行った。






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「コミュ障なんです」と自分から言うな! [雑文]

最近、話もしないうちから
「あたし、コミュ障なんです」と言ってくる人が多い。

BBAは世間のことに疎いから、
はっ? 『コミュ障』とはなんぞや?って思うわけですよ。

皆さまもご存じの通り、『コミュ障』とは『コミュニケーション障害』の略です。

ついBBAは意地が悪いので、
「ということは、アナタどこかで、『コミュニケーション障害』と診断を下されたのですか?」
って訊いてみたくなります。

たぶん、そうではないでしょう。
自分で『コミュ障』であると宣言しているのですよ。

そこで私は、ちょっとムカっと来るんですわw
だってさ、こういう人ってたぶん、
自分と話が合いそうもない人に『コミュ障』ですっていって
線引きしてるんだよね。つまり「あんたとはしゃべれませんですわ」って、
言ってるんだよね。

本当にド失礼だと思います。
そういう場合、
「あ、そう? じゃあ、私とおしゃべりするの苦痛だろうから、失礼しますね」
っていって別の席に移ります。
そんなめんどくさいヤツの面倒なんか誰が見るか。

たぶん、こういう人間はプライド高いくせに、努力しない。

おそらく自分の得意領域のことなら、
何時間でも微に入り細に入りしゃべっていられるのでしょう。

ですが、自分に共通の接点がないと見極めるや、
こういうふうに宣言してしまうんでしょうね。

まぁ、はにかみやさんも本当にいるから二十代前半ぐらいだったら
わたしも多めに見ます。

しかしね、30も過ぎたいい大人が
「わたし、『コミュ障』なんです」って恥ずかし気もなく言うな。
みっともない。

実をいうと、私だって知らない人と話すのは苦手です。
しかし、こういうもんは、あらかじめ時事ニュース見るとか、
共通の話題って常に仕入れておけば、何かしら話は1時間ぐらいならできますよ。

話するのが苦手なら、せめて聞き上手になるとかさ。

とにかく、無為無策でボケーっとして何の努力もしない癖に、
「あたしって神経質で繊細だから」
と言ってはばからない。どこがじゃ!
こういう人は、どっか何かが欠如している!


コミュニケーションを円滑に進めるには、
やはり不断の努力が必要なのです。
はじめっからうまい人間なんかおらんわ!

BBAは怒っています!



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境界の旅人13 [境界の旅人]


 
 その晩、由利は試験勉強に余念がなかった。だいたいどの科目も四十五分単位で切り上げて次に移ることに決めている。そんなふうに時間配分をしたほうが自分にとって効率的だと思っていたからだ。
 そのとき由利は、ジャスティン・ビーバーの『パーパス』を聞きながら、ボールペンを使って新聞の広告の裏に英単語のスペルの練習をしていた。漢字とか英語のスペルというのは、実際自分の手を使って覚えたほうが確実にものになる。

「あれっ?」

 今、『acquaintance(知り合い)』という単語を書いていた。こういうcとqがくっついている単語はとかく間違いやすいので、結構念入りに書いて、身体に染み込ませるように覚えなければならない。だが途中で書いている文字が徐々にかすれていき、とうとうインクが出なくなった。
 ボールペンを持ち上げ、ペン軸を見るとほとんどインクがない。

「ああ、なんでこう調子が乗ってきているときになくなるかな」

 イラっとした調子でぶつくさとひとりごとを言った。由利には密かなこだわりがあって、ボールペンにはうるさい。だがそのこだわりというのは「自分にとって書きやすいか否か」という一点にあるので、見栄えやブランドなどは一切関係ない。このボールペンは自宅よりちょっと離れたファミマで売っていたものをたまたま買ったのだが、それがなかなか使い勝手がいいということに気づいた。それ以来、ボールペンはとりあえずそこで買うことにしている。

「ん? 今何時?」

 時計を見ると十時半。祖父はすでに床に就いている。

「仕方ないなぁ。気分転換に夜中のお散歩と行きますか」

 由利は近場にお買い物専用のミニ・バッグに財布を投げ入れると、物音で祖父を起こさぬよう音を立てないように階段を降り、そっと玄関の引き戸を引いて、外へ出た。
 ファミマへ行くと、まだ人で結構にぎわっている時間のはずなのに、めずらしく店員のほかは誰もいなかった。とりあえずお目当てのボールペンの赤と黒を二本ずつ買い、眠気覚ましのためにコーヒーマシンに氷の入ったMサイズのカップをセットしてコーヒーを淹れると、蓋をして店の外に出た。

「ん?」

 外が妙に明るい。
 空を見ると西の空はオレンジ色に染まっていた。太陽はまだ沈んだばかりのようだ。

「え、なんで?」

 由利は思わず、もう一度ファミマのほうへ振り替えると、ついさっきまでそこにあったはずの店舗が跡形もなく消え去り、現れたのは映画でしか見たことのないような古い京都の街並みだった。
 びっくりして思わず横軸を走る中立売通りを見ると、目の前をガタゴトと音を立ててN軌道の市電が自分のそばを通り抜けて行った。

「え、どうして? あたしったらまた変な世界に来ちゃった?」

 そしていつぞや三郎が教えてくれた通り、市電は堀川に掛かっている橋梁を渡って、あの道幅の狭い東堀川通りへと向かって行った。

「今いる時代はいつごろなんだろう?」

 仕方がないのでとりあえず由利は、元来た道をたどって自分が住んでいる家のほうへと歩いた。たしかに道は変わっていないのだが、現れた街の風景はまったく違う。
 どの家も黒い瓦に玄関の横の窓には黒い桟が取り付けてあり、なんとなく町全体が黒っぽくすすけて、陰気に見えた。すれ違う人はたいてい男の人はカーキ色の開襟シャツ着て、女の人は和服にモンペを履きその上に割烹着を付けていた。

「男の人の恰好って、戦争中に着るよう義務づけられていた、いわゆる国民服ってものなのかな?」

 通る人、通る人みな一様に背が小さく小柄で、男でも百七十センチある人はほとんどいない。逆にそういう人たちからすれば、由利は雲を突くような大女に見えるはずだ。しかも二十一世紀の現代に生きる女子高生らしく、由利はユニクロで買ったバミューダ・パンツにブラ付きノースリーブを着、その上にシャツを羽織り素足にはナイキのスニーカーを履いていた。だがこんなごくありふれた格好でも七十年以上も昔の時代にあっては完全に周りから浮いていた。
 ひとりの小さな男の子が由利のほうへ駆けよって来た。

「ギブ・ミー・チョコレート」

 たどたどしい英語でチョコレートをねだった。だが由利は、生憎アイスコーヒーの他には食べるものを何も持っていなかった。

「あ、ごめんね。今チョコレート持ってなくて・・・。あ、そうだ、これ、アイスコーヒーだけど良かったら飲んでみない? ミルクもお砂糖も入ってなくて苦いとは思うんだけど」

 由利は少しかがんで、コーヒーのカップが入った白いビニール袋を差し出した。男の子は黙ってそのビニール袋を受け取ると、誰にも横取りされまいとして、ぎゅっとビニールの持ち手を握りしめ、抱えるように走り去っていった。それを見て由利は、この時代に生きる子供の厳しさというものを、肌身を通して直接感じた。

「まだほんの小さな子なのに・・・。あんな必死な感じ、『飽食の時代』って言われているあたしたちの世代には絶対に見られないもんだわ。日本もかつてはこんな時代があったんだ・・・」

 しみじみとそう言うと、ふと立ち止まって考えこんだ。

「ということは、あたしが今いる時代は、第二次世界大戦直後の京都ってこと? さっきのおじさんはたぶん戦後の物不足のせいで他に着るものがないから、国民服を着続けているってことなんじゃないかな」

 由利は少し冷静になって、こう類推した。

「じゃあ、あたしが住んでいる家はどうなっているの?」

 興味に駆られて、由利は小走りになって家のほうへと向かった。
 由利がもとの世界で住んでいた場所にいくと、見知らぬ家が建っていた。だがよくよく観察すると、家の形自体は、由利が祖父と住んでいた家と変わりがない。一見違って見えたのは、たぶん七十年も時代が経つうちに、玄関や窓などを修繕したせいなのだろう。
 なるほどと思いながら、家のほうをうかがうと中からこの家の主婦とおぼしき女性が玄関から出てきた。

「たっちゃーん! たっちゃーん!」

 女の人は口に手を当てて誰かを呼んでいる。

「おーい、たっちゃん! 辰造!」

 由利は主婦が口にした名前を聞いてハッとなった。「辰造」は祖父の名前だ。

ーするとこの人は、あたしのひいおばあちゃんなんだー

 曾祖母にあたるはずの主婦は、じっと様子を見ていた由利に気が付いたとみえ、不審そうな顔をして頭から足の先までさっと視線を走らせたあと尋ねた。

「あ、あの・・・。なんぞうちにご用でもありましたん?」
「あ、いいえ。何でもありません。すみません」

 そうやって由利が急いでその場を立ち去ろうとすると、通りの角からひとりの小さい男の子が由利のいる方向へ駆け寄って来た。
 まだ幼稚園児ぐらいの小さな子だ。学生帽を被りランニングに半ズボンを履いて、足は草履をつっかけていた。

「辰造! もうすぐ夕飯だから、もう家にお入り」

 どうやらこの子が祖父の辰造らしい。由利は祖父の可愛らしい姿に少し頬を緩めた。

「いやや! もうちょっと遊びたい!」
「あかん! 早ううちにお入り」

 曾祖母は目の端でちらっと由利の姿を見ながら、祖父の両肩に手を回して、急き立てるように家の奥へと入って行ってしまった。たぶん曾祖母は未来から来た由利のいでたちを見て何者かを類推することができず、警戒したのだろう。



 複雑な気持ちを抱えながらも由利は、堀川通りのほうへ歩いた。すれ違う人、すれ違う人がじろじろと由利を見ていく。居心地の悪さといったらない。だがふと由利は、ここに来たばかりの頃に見たあの赤いレンガの建物の姿を思い出した。今行けばきっと何のために建てられたものなのかがはっきり分かる気がした。だからそのまま今歩いている横の通りをまっすぐ直進して、堀川にかかる橋に足を踏み入れた。すると今は橋の下が公園となっている川には、滔々と水が流れていた。

「ああ、昔の堀川はちゃんと水が流れていたんだね」

 そのまま、東堀川通りを南に向かって中立売通に向かうと由利の住む世界では見られない用水路が通りに沿って走っており、それが堀川に流れ込んでいた。

「へぇ、中立売通りって昔はこんな用水路があったんだ・・・」

 たかだか時間が七十年を経ただけだというのに、街の様子がこれほど変わってしまったことに由利は少なからず驚いていた。
 例の場所へ行くと由利が春に見たときのように、見る影もなく落ちぶれ果てた老貴婦人のような姿は、そこにはなかった。代わりに目の前に現れたのは、こじんまりとしているが化粧漆喰が施された瀟洒な洋風建築だった。
 戦争に敗れたせいで手入れもされず、荒んだ民家ばかりがある中で、華やかな赤い色のレンガが組まれたこの建物だけは周囲にひときわ異彩を放っていた。入口までのアプローチも土地を切り売りされて人がかろうじて通れるだけのみすぼらしい路地ではなく、堂々として大きな石畳が敷き詰められていた。

 かつてはその石畳を縁取るように色鮮やかな植物も植えられていたに違いなかった。だが戦時中は花を愛でようという気持ちも贅沢と見なされていたのか、植物も根こそぎ抜き取られたらしく、そこだけ土がむき出しになっていた。それが由利の目には痛々しく移った。

「この建物って本当はこんなに立派だったのね」

 ひとりごとをつぶやいたはずなのに、そのつぶやきに対して答えが返って来た。

「ここはな、市電を走らせるために建てられた変電所だったんだ」

 いつの間に現れたのかすぐそばに三郎が立って、由利と一緒に変電所を眺めていた。

「三郎!」

 由利はあっけに取られ、しばらくは声も出せずに呆然と突っ立っていた。虚脱している由利をみて、三郎はニヤリと笑った。

「これが作られたのはもうすぐ二十世紀も訪れようかっていう1895年。明治28年のことだ。日本で最初に市電が通ったのがここ、京都だった。蹴上発電所で発電された電気を利用して市電を走らせたわけなんだが、いかんせん距離的に遠いからな。だからここに変電所を設けたんだ」
「なぜあなたがこんなところにあたしといるの? それにどうしてそんなこと知ってるの?」 
「前にも言ったろ? 一度にふたつ以上の質問はするなって」
「だ、だって・・・」
「おれは、時間と空間がお互いに絡みあわないように、まっすぐ進んで行くのを見張っている。まぁ、それがおれの使命だ」
「誰に?」
「誰に? さぁ、それはおれにも解らない。ただ解っているのは、そういう使命を背負わされているってことだ」
「じゃあ、三郎。あなたは日本中、世界中の、えっと何だっけ、その、言うところの『時間と空間』とやらを見張っているってわけ?」
「そんなはずないだろ。おれひとりの力でできることなんぞ、たかだか知れている。世界中にはそれぞれの場所ごとにポイントがあって、おれのような番人がいるはずさ。おれは単にここの担当ってだけ」
「なんで以前、変電所を見ていたときに、そのことを教えてくれなかったのよ?」
「おれは他人の人生になるべく介入しない。介入すればその人が本来たどるべき運命が狂ってしまう。となると当然、歴史そのものも変わっていくだろうからな」
「人の運命って決まっているの?」
「人っていうのは、あらかじめ越えなければならない試練というものをきちんとプログラミングされてこの世に送り出されるもんなんだ。歴史が変わると本来その人が受けなければならない試練というものが受けられなくなる可能性があるからな。そうなっては生まれてくる意味がない」
「じゃあ、どうして今になって教えてくれるのよ」
「それはおまえが、本来は体験するべきはずのないタイムスリップをしているからに決まっているだろ?」
「あたしがタイムスリップするのは、どうして?」
「さあな。それはおまえがこの土地の感情になにか強く働きかけて、時空のひずみを引き起こしているのかもしれない。おまえが京都御苑で出会ったものたち、あれは普通の人間だったら、決して見ることができないものだった。同じ場所に存在しても、次元が違うんだ。同じ場所に異なる階層が重なっているんだよ」
「あたしが普通に暮らしている場所は、どういう階層?」
「ま、おまえらのことばで言えば『この世』なんじゃないの?」
「じゃあ、あたしが近衛邸であったあの化け物たちがいる階層は?」
「ああ、ああいうのは、本来死んだら次のステージに移行しなければならないのに、この世に未練や執着やらで固執しているやつらの留まっている場所さ」
「あなたはあの時、何をしていたの」
「ああいうやつらは放っておくと、グレるっていうかな。悪しき想念がひとつになり巨大化して『この世』に悪さをすることがあるから、時々ああやって機嫌を取ってやらなければならないんだ。ま、厄介なしろものさ」
「でも・・・あたしがこんな目にあったのは、京都に来てからよ」
「土地にも記憶があり、思念があるんだ・・・。おまえはそういう土地の感情を揺るがすような要因があるのかもな。特にこの辺は土地にパワーがあるから、なおさらだ」
「そ、そんな・・・」
「とにかく、おれはこういうことが度々起こって欲しくない。それでおまえをずっと見張って来たんだけど、あんまりこういうことが起きるとなぁ。ほら、ゲームにもバグってものがあるだろ? おまえゲームやったことあるか?」
「うん。ときどきなら」
「ゲームにバグがあると、時々想定外の誤作動が起こったりするだろ? チャージしていたはずのパワーがなぜか0%になっていたり、本来ならありもしない空間にゲームの中の登場人物が落ち込んだりするヤツ。もしそういうことになるとプレイヤーは下手すりゃ、はじめっからやり直さなきゃならない羽目になる」
「じゃあ、あたしが京都に来たことはゲームのバグみたいなものだっていいたいの?」
「まあね」
「じゃあ、三郎はあたしをどうするつもり?」
「おまえがこういうふうに何度も時空のひずみを引き起こすことになると、それを取り除かなきゃならなくなる。バグは本来あってはならないものだからな」
「じゃ、じゃあ、何? あたしの存在自体は間違いだっていうの?」

 由利は自分の存在自体が全否定されているような気がして、ヒステリックに叫んだ。

「まぁまぁ、そういきり立つな」

 三郎は由利をなだめようとした。だが由利の目からは、後から後から涙が溢れてくる。

「そうと決まったわけじゃないさ」
「でも今、三郎はそう言ったじゃないの!」
「判断を下すのはおれじゃない。それにまだ、そういうふうに命令が下されたわけでもない」
「誰が判断するの?」
「さあ、しかとは解らないけど、おれたちなんかより、はるかに高次元の存在さ。まぁ、安心しろ。高次元の存在っていうのは、人間みたいに非道なことはしない。まぁだからと言って、甘やかしてくれるわけでもないけどな。もっと理性的なものだ。人間の及びもつかない深い慈愛と思慮に基づいて判断は下されるものだから。どんな人間も生まれてきたことには、きちんとした理由があるものさ。もちろん、おまえだってだ。まずはそれを信じろ」
「じゃあ、あたしは否定されているわけじゃないのね。間違って生まれてきたわけじゃないんだね」

 由利は三郎に確かめるように訊いた。

「そりゃそうさ。だから今、おれが原因を探っている」

三郎は諭すように言った。

「さあ、おまえは元の世界へ帰れ。そしておまえの為すべきことをやれ」

 三郎は由利に命じた。

「帰るって言ったってどうやって?」

 ふたりは一条戻り橋の前まで来た。

「この橋はこの世とあの世を繋ぐ橋なんだ。昔からおまえみたいな人間っていうのは一定数いたらしいな。この橋はそのためのツールさ。そういう場合はこの橋を通れば、また元の世界に戻れる。さ、行くんだ」

 三郎の声にはどこか由利に対する憐みが含まれていた。それを聞くと由利の身体はいいようのないやるせなさに包まれた。

「三郎は?」
「おれのことは気にするな。さ、行け」

 由利は言われた通り、一条戻り橋を渡った。すると黒い家並みは消え、堀川通りの信号が青緑色に点滅しているのが見えた。通りには車が流れるように走っていく。
 振り向くと、やっぱりそこには三郎の姿はなかった。


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境界の旅人12 [境界の旅人]

第三章 異変



「ああ、あと二週間足らずで期末試験だねぇ。もう七月か」

 しみじみと美月が言った。

「ホントに早いねぇ、この間入学式をしたような気がするのに」
「なんだかんだで、あれからもう三か月が経っちゃったんだよ」

 ふたりは靴を履き替えると、自転車置き場のほうへ向かった。京都の街はバスなどの交通機関を使うよりも自転車のほうが、時間の融通も利いて便利だった。

「ねぇ、今から今宮神社の茅野輪(ちのわ)をくぐりに行かない?」
「え、いいけど。茅野輪って何?」

 由利はこの手の習俗習慣については何も知らない。ふたりの間には、すでに「教える」「教わる」という一定のパターンが定着しつつあった。

「茅野輪っていうのは、文字通り、茅(ちがや)っていう植物で編まれた大きな輪のことを言うのよ。今どこの神社へ行っても、たいてい入口に茅野輪が置いてあるはずだけどね。東京にだってあるはずだよ」
「東京に住んでいたときは、そもそも神社ってところに縁がなかった」
「ふうん、そうだったんだ。でね、一年のほぼ真ん中にあたる六月の末に、この輪を通ることで、正月から半年分についた厄を祓うのよ。これを夏越の祓えって言うんだよ」
「へぇ、よくそんなこと細々と覚えてるもんだね」

 つくづく感心したように由利が言った。

「あら、面白いじゃないの。興味あることなら、すぐに頭に入るものじゃない?」

 由利は美月の持論には、あえて逆らわなかった。

「そっか、じゃあ行ってみるとしましょうか?」

 今宮神社は京都市の北部紫野の地にあり、かなり大きな神社で大徳寺とも地続きだ。
 ふたりが今宮神社の境内に入ると、拝殿の前に竹で作られた鳥居の下に、大きく編まれた茅野輪が下げられていた。

「わ、大きい」

 由利が感嘆してつぶやいた。

「ね、来てよかったでしょ?」
「うん」

 由利がさっそく輪をくぐり抜けようと、スタスタと茅野輪のほうへと向かった。

「ちょ、ちょっと待った! 由利」

 美月は由利の腕をひっぱった。

「何よ、せっかく厄を祓おうとしたのに」

 美月が人差し指を振り子のように、チッチと左右に振った。

「くぐるにもね、作法っていうのがあるの。さあ、今からあたしと一緒にやるのよ。輪はね、八の字を書くように三回廻るの。…まずは正面に向かってお辞儀」

 こうなったら、四の五の文句を言わず、美月の言われた通りにすべきなのを由利は比較的早い段階で学習していた。

「それから左足で茅野輪をまたぎ、左回りで正面に戻る」
「今度は右足でまたいで、右回り」
「三回目は一回目と一緒で左足から」

 それが終わると、美月は拝殿に向かって手を合わせながら唱えた。

「祓いたまえ 清めたまえ 守りたまえ 幸(さきわ)えたまえ」

 由利は黙って美月がそれを言うのをそばで聞き、美月が頭を下げると一緒になってぺこりと頭を下げた。

「さて、これでよしっと。半年分の厄や穢れは落ちました」
「そっかぁ、よかったぁ」

 由利はそれを聞いて、少し気持ちが楽になった。本当にあの気持ちの悪い一連のことから解放されればいいのだけれど。

「ねぇねぇ、由利。せっかくここまで来たんだから、あぶり餅食べてかない?」
「え、あぶり餅って?」
「もう、由利って本当に何にも知らないんだねぇ。今宮神社と言えば『あぶり餅』はつきものだよ」
「えっ、そうなの?」
「さ、行こ、行こ!」

 拝殿から行きに通った立派な朱塗りの楼門の方向へ引き返すと、今度はそこを通らずに、東門のほうへと向かった。

「この神社ってなかなか立派だね」
「そうだよ。ここは八坂神社とか下鴨神社ほど有名じゃないから観光客にはあまり知られてないけど、とても古くて格式のある神社なんだって。何でも平安京ができる前からあったらしいよ。それにここは、もともと疫病を鎮めるために作られた神社でもあるんだよね」
「へぇ、そうなの?」
「うん。昔はどうも桜の花が咲くころに、疫病が流行ったみたいでね。『やすらい祭り』って花鎮めのお祭りが今でも残っているんだけどさ、きれいな花傘を立てて踊るんだよね」
「ああ、花笠を頭に被って踊るやつ?」
「それは頭に被る笠。今宮のは差す傘。大きな赤い傘に造花をつけて街を練り歩くんだよね」
「ふうん」
「それがいわゆる『よりまし』っていうのかなぁ。疫病はきらびやかなものに憑りつくと昔の人は考えたんだよね」
「へ~え、面白い」
「そう。だから花傘を振り回して、疫病を取りつかせてから、川かなんかに流したんだよね」
「まぁ、昔は今みたいに薬がないから、そうやってお祀りするしか方法がなかったんだろうね」

 由利はひたすら関心して美月の説明を聞いていた。

「今日は講釈はこれぐらいにして、さ、早く食べに行こ!」

東門をくぐると、きれいな石畳の道が伸びており、神社の門を出てすぐに道を隔てて両側に、ほとんど同じような店があった。軒先には、小さな餅を突き刺すための竹を細かく割いた串が、たくさん並べられて干されていた。

「えっとね、北側が一和さんで、南側がかざりやさんかな」
「どっか違うの?」
「ううん、違わない。だけど、うちは昔から食べるなら一和さんと決まってるんだ」
「ハハハ。京都の人間は窮屈じゃのう、いちいちそんなもんまで決まっておるのか。それじゃ、あえていつもとは違うかざりやさんに入ろうよ」

 由利はお道化て由利に提案した。



「おいしい~」

 ふたりはお店の人にお茶を入れてもらって、お皿に盛ってあるあぶり餅を頬張った。

「うん、この白みそダレが何ともいえず絶妙!」
「でしょ?」

 またもや、ふたりは顔を見合わせ、にっこりと微笑みあった。

「テスト前だから、部活もないし、たまにふたりでこんなふうにのんびりと、道草喰っているのも悪くないないね」

 由利が、串にささった小さな餅をしごきながらしゃべった。

「あー、今の由利を小山部長が見たら大変だわ」

 それを聞いて、由利は餅でのどを詰まらせそうになった。

「ちょっと、美月! 変なこと言わないでよ! 小山先輩がそこいるのかと思って一瞬、ビビったじゃないの!」
「あは、ごめん、ごめん。だけどさぁ、小山先輩って本当に変わった人だよね」
「まぁ、真面目な求道者って感じだと思うけど。別に言うほど変わっていないんじゃない?」
「ああ、由利がそう思うのはさ、他のお茶の先生について習ったことがないからだよ」
「ん、なんで?」
「あたしが中学にいたころ、部活で教えに来てた先生はね『お茶というものは頭で考えるものじゃなくて、感じるものなんです』っていってさ」
「何、それ? ブルース・リー? 『Don’t think, Just feel』まるでジークンドーじゃん」

 由利はアハハと笑いながら、茶化した。

「あは、何それ、マジウケる。違うよ。あたしが言いたいのはね、お茶ってたいていの場合は、小山先輩が教えるように教わらないって言いたいの!」
「じゃあ、本来はどうなのよ?」
「まぁ、割り稽古するじゃない、それでさ、いろいろと変わった所作があるでしょ? なんでこんなことするんだろうって思う所作がいっぱいあるじゃない? それを質問すると『質問しちゃいけません』『意味を考えてはいけません』って言われるもんなんだよ」
「ああ、部長はそういうことは絶対に言わないよね。一番最初の日に何をするのかと思えば、茶室じゃなくて視聴覚教室に行って、自作のパワーポイント使って『茶の湯について』ってガイダンスをしてたもんね」
「そうそう、まずお茶の起源に始まって、中世あたりの闘茶とか唐物荘厳の末に、京や堺の町衆が『市中の散居』と称して自宅の離れに庵を作ったのが『茶の湯』の始まりとかなんとか、滔々と説明してたじゃん?」
「そうだっけ? うん。そうだった。金持ちが屋敷の離れに掘っ立て小屋みたいなのを建てて、貧乏ごっこしているような話だったね」
「そうだよ。それから冬と夏では炉と風炉があって、お点前の仕方が違うとかさ、あと建水とか茶杓とか棗とかさ、一番簡単な『平手前』のときの茶道具の説明とかしてたじゃない」
「うん、そうだね」

 由利はそんなことは、当たり前じゃないかという顔をした。

「でもね、お茶の世界ではそういうことが、当たり前じゃないんだよ、普通は。ひとつひとつ歩き方がなってない、建水を持っている位置がおかしい、座る位置が変とかさ。注意ばっかりされて、終わるころには、達成感もなく疲労感だけが残ってモヤモヤしてくるもんなんだよね」
「へぇ、そういうもんなの? ン~、ちょっとヤなカンジ。意味もなく叱られると、不必要にビクビクするし、あたしなんか小心者だから緊張して何も考えられなくなりそう」
「うん。だけど部長はさ、『本来茶の湯の、どんなに取るに足りないような所作であっても、それは先人が考えに考えた挙句のことだ』っていってたじゃん?」
「うん。そうだね。そこには意味があるってよく言ってるよね」
「そう、例えば割り稽古のとき、茶巾で茶碗を拭くときに『ゆ』の字を書け、って言われたじゃない? それで誰かがついどうして、『ゆ』の字なんんですか? って訊いたじゃない」
「ああ、そんなことがあったね」
「そしたらさ、部長は『本来茶碗の底をきれいに拭き取ることだけが目的なんだったら、どんなふうに拭いたとしても目的を達せられればそれでいいはずだ』って説明したでしょ」
「うん」
「しかしどうすれば、目的も達せられて、傍から見ても充分に美しいと思える所作になるのかと試行錯誤した末、それは『あ』でも『い』でも『う』でもなく、『ゆ』の字を茶碗の底に描くのが一番動作としては柔らかく優雅に映るという結論に至ったんだろうって。例えていうなら、昔の西洋の男性が、目上の人に敬意をこめて頭を下げるときに、手をくるくると旋回させる『レヴェランス』を見てみれば、『ゆ』の字の意味がわかるって」
「もうさ、『レヴェランス』とか。あの人の言うことは、イチイチ芸術的すぎて、却って混乱するような説明だったけどね」

「それにさ、小山先輩は『人間は新しいことを、三つ同時に覚えて実行することは、不可能だ』ってよく言うじゃない? 最初は歩き方だけを徹底的に練習させられたでしょ。まずやっちゃいけないことを教えるのよね。畳のへりは踏まない。摺り足で歩く、歩く歩幅も色分けしたシートを作ってきてその上を歩かせたじゃない? それをスマホでビデオ撮影して本人に見せてどこが悪いのか、どういうのがいいのか実際に画像で見せて納得させるでしょ、ああいうのってすごっく合理的だと思うな。口で注意されるのは、本当のとこ、何を言われているのかよく理解できないことが多いしね」

「そうだね。部長はだいたい六割できたところで次に移行する。『一度には絶対に完璧に理解できないから、らせん状に習得していくべきだ』ってね。それに部長よく言ってるよね、『これまでの教え方は、たいていの子なら一年か二年で終えることができるバイエルの教本を、十年かけて終えるようなものだって。それが終わったなら、次にツェルニー百番やら三十番や、バッハのインベンションなどぎっしり待っているのに、それをやる前に人生が終わってしまう』って」
「言い得て妙っていうか・・・。でもたしかに、そうなんだよね」

 美月は感心したように言った。

「小山部長は無意識のもろさを力説するじゃない? 普段楽々と何の造作もなくできていることが、いったん緊張する環境下に置かれると、いとも簡単にできなくなってしまうって。そこで『自分は今、こう動いている』と認識しながら聴覚も視覚も使って、もっとゆっくり所作をすることが大事だって。そうすることによって脳のいろいろな部分で記憶させることができるからって」

 美月が机に肘をつき掌にあごを乗っけながら、思い出すように言った。

「たしか緊張すると、頭が真っ白になるときってあるもんね」

 由利も同意した。

「そういうときは、もちろんこれまでやって来た、熟練の程度もものを言うだろうけどさ、意識して自分のやってきたこと、瞬時に思い出すことも、案外役には立つはずだって」
「彼って何かって言うと、小山先輩ってピアノの練習方法とお茶を対比させるよね」
「うん・・・。聞くところによると小山先輩は芸大を受験するみたいだよ」
「えっ、音楽のほう? だからかぁ」
「うん、一度音楽室でピアノ弾いているのを見たことがあったけど、めちゃっくちゃ上手かった。たしかリストの『波を渡るパオラの聖フランチェスコ』って曲、弾いてた」
「波を渡るパオラ・・・? なーに、その小難しいタイトル?」
「うん、これさ、うちの親戚の音大行ってたお姉さんが弾いてたから知ってるんだけど、よくコンコールかなんかで弾かれる曲なんだって。ピアノ科の音大生が弾くにしろ、かなり難易度が高いみたいだよ」
「そっかぁ。たしかにピアノは、ふっと途中で忘れちゃったりして、詰まったりしたら大変だもんね。そういう魔の瞬間に自分が襲われたとき、自分をどう立てなおすのかを小山先輩なりに模索して出した結論なんだろうね。それを茶道にも活かしているのかな」
「うん、そうかもしれない」
「ふうん。じゃあ、小山先輩は音大のピアノ科を受験するのかな?」

 ふと由利は訊ねた。

「いやぁ、作曲に行くって小耳にはさんだ気がする」
「美月って何? 耳がダンボなんじゃないの? すごい地獄耳!」
「何よ、たまたまよ、たまたま。別に人のことをコソコソと嗅ぎ出そうなんて思っていないって」
「そりゃまぁ、そうだろうけどさ・・・。でも作曲コースへ行くのは解る気がする。あの人、すっごく理屈っぽいもん。楽理とかめっちゃ詳しそう」

 

 しばらくして美月が改まった調子で由利に言った。

「ねぇ、由利。ここに入学したばかりのとき、うちのお母さんが由利を乗っけて家まで送って行ったことがあったじゃない?」
「うん・・・」

 急に周りの空気がぴんと張りつめた。

「あのとき、うちのお母さんは何か由利のお母さんのことについて知っているようだった。気が付いていた?」

 由利はそれには答えず、じっと美月の目を見つめた。

「ね、お母さんに直接由利に会ってもらうように、あたしから取り計らおうか?」
「それって・・・」
「うん、それって、とにかくデリケートな話だろうから、あたしは同席することを遠慮する。由利だって、どんなことをうちの母親から聞かせられるのかわからないし、あたしがいたら嫌でしょ。知られたくないことだって、きっとあるはず。だから、うちの母に直接尋ねて」
「いいの?」
「うん、うちの母が知っていることなら、とりあえず答えてくれると思う。それにあたしは、由利にはそれを知る権利があると思うよ。それがたとえいいことであっても、悪いことであっても」
「うん・・・。ありがと、美月」

 帰り道、自転車を押しながら、由利は美月に話しかけた。

「そういえば、ここんとこ、椥辻君見かけないね。一時はずっと教室にいたのに」
「え、椥辻君? 誰それ?」

 美月はぽかんとした顔をして、問い返した。

「え、だってほら、弓道部を見学したとき、美月は、椥辻君と親しそうにしゃべっていたじゃない? 椥辻君は、室町時代から続く小さい流派の家元の息子だって話していたでしょ?」
「ええ? 何のこと? だいたい由利、椥辻君なんて、うちのクラスにそんな子いないじゃない? いや、あたしの知る限り、そういう名前の子は全学年にすらいないよ」

 怪訝そうな顔をして、美月は言った。それを見て由利は何と答えていいのかわからなかった。
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無縁のふたり 『どろろ』 [読書・映画感想]

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みなさま、こんにちは。

今日もじっとりしています。

さて、私、二日にかけて新作アニメ『どろろ』を視聴いたしました。

私ね、昔、昔、テレビで放映されていた白黒アニメの『どろろ』ってリアルタイムで見ていたんですよ。まだ幼児の頃でした。

もう、白黒の画面が凄惨な陰影がある感じでねぇ、実際、妖怪が出てくる場面も怖いは怖いんですが、一番印象に残って眠れなかったのが、どろろの母親が寺で貧民を救済するために、炊き出しのお粥をふるまっているのに出会うシーンがあるんですよ。どろろの母親は粥を受け取る椀さえ持っていなかったので、素手で熱い熱いお粥を受け取るんです。

もう、何ていったらいいのかわかんないけど、可哀そうとかそういう甘っちょろい言葉で表現できないですね。もう本当にこの世の際を見てしまったっていう感じ。



この作品は五十年以上も前に執筆された手塚治虫の傑作中の傑作です。大人になってから改めて原作の「どろろ」を読んでみました。それにめっちゃ感銘を受けて、あたしはその後大学で中世の賎民史を主に学ぶことになるんですが。

手塚治虫の作品ってあの可愛らしい絵に騙されちゃうんですよ。いざ読みだすと実は結構グロい話とか、性について赤裸々に語られる話って多いんですよねぇ。あとこう、なんていうか業の深さみたいなものとかね。



どろろは見事にこの三つの要素が含まれていますね。

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で、要するにこの作品は、人口に膾炙されている誰でも知っている話なんですよ。

だから新しいアニメを作るにあたり、おそらく従来通りのプロットじゃ、周りは納得しないのですね。

そこで、この話はどう現代風に解釈するかっていうのが、結構、大事な要素かなって思いますね。

まず、父親が戦国武将の醍醐景光って人なのですよ。

今回の場所の設定がね、加賀の国のはずれということになっておりました。

へぇ~、なんか意外~。

私の中では、どろろの舞台はおそらく山陽地方なんではって思っていたんですよね、赤松とか毛利とかがいて、見える海は瀬戸内海。ですが、今回は北陸ということです。醍醐は朝倉と戦っていますので、おそらく時代は1560年あたり?かなとか。

で、設定がですね、百鬼丸の父親は、自分の野望のために、醍醐の領内にある地獄堂ってところに籠って、そこの鬼神と契約するのです。

「もしわしが天下を取るという野望をかなえてくれたなら、これから生まれてくるわしの子をおまえらにやろう」ってね。

それで生まれてきたのが、手足どころか、目も鼻も口も皮膚さえもない、蛆虫のようなわが子だったというわけです。

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中世において「不具」というのは、どんなに身分の高い、それこそ天皇の皇子であったとしても、もうそれだけで不吉っていうか、触穢にあたるっていうか、捨てられなきゃならない運命にありました。

こうして百鬼丸は本来なら、お城の若さまのはずなのに、無縁の人となってしまう。

無縁の人というのは、自分の帰属するものが何もない人のこと。

どろろもそうです。彼(女)は、夜盗の夫婦の間に生まれた子です。だからどろろも所属するところがないという意味では百鬼丸と一緒で無縁の人。

で、こんな百鬼丸なのですが、原作では赤ひげみたいな医者に拾われて、教育を受け、自分の失われた身体を取り戻す旅に出るのですが、

新作になると、ちょっとこのシチュエーションが違うのかな。

原作の百鬼丸は、ちゃんと自分の意志を持った精神的に成熟し、思慮分別のある大人なんだけど、新作の百鬼丸はもっと無自覚なんだなぁ。

新作の百鬼丸は、五感が失われた代わりに、超感覚でもって世界を見ている(ゲームによくあるXレイーバイザーみたいな感覚を持っている)だけなので、閉じられた世界にいるんです。聞こえないし、見えないし、触感もないわけだから、教育のしようがないのよね。

ですから、なんというかな、百鬼丸は非常にイノセントです。素直だけど、善悪もわきまえないから、非常に残酷でもあるよね。ある意味、ずうっと赤ん坊のまま生きていた人とも言える。

妖怪退治していくうちに、ひとつひとつ、手足や本来人間として備わっているはずの感覚を取り戻していくのね。味覚とか、触覚とか、また聴覚とか。

そうなると、百鬼丸は素直に「心地よい」とか「おいしい」とか「きれい」なものに感動して、少しでも早く、完全な人間になりたいと思うんですよ。

どろろが「兄貴、空がきれいだよ」とか「もみじが真っ赤に染まっているよ」っていうんです。

でも、視覚がないのだから、想像もできない。だけど、どろろがこんなに感動しているのだから、いいものなのだろうなぁって想像はする。ああ、俺も早く見えるようになりたいなって。

なんかそういう純真さが、たまらなく哀れで愛おしい。



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もうひとつ、完全に原作を覆す設定がありますね。

それは、醍醐景光の野望というのは、なにも己ひとりのものではなかったということです。

息子ひとりを鬼神どもにくれてやったおかげで、醍醐の領地はしばらくは、戦もなく、飢饉もなく、国は栄え、領内に住む民たちは安寧でいられるんですよね。

ところが、百鬼丸が鬼神をひとり、またひとりと倒していくうちに、醍醐の領地は流行り病に侵されたり、イナゴの被害にあったりして、民は疲弊していくのです。

こうなるともう、なんていうのかな、もともと被害者だった百鬼丸は、醍醐側にとっては厄災以外のなにものでもなく、逆に民に被害をもたらす祟り神にほかならなくなるのですよ。

ここでね、価値の反転というか役割が入れ替わっているわけよ、原作はもっとシンプルに人間賛歌を謳ってるし、醍醐景光と弟の多宝丸は完全な悪役だったのね。

でも、新作は全くの悪者だった景光は、結構思慮深い領主と描かれているし、弟の多宝丸なんかも非常に聡明で、人に好かれる少年と描かれている。また多宝丸、百鬼丸共に容貌が酷似していて、しかも美女の誉れが高い奥方様の血が濃ゆいんですよ。

奥方は弟の多宝丸が聡明で美しくあればあるほど、まだ見ぬ失われた子のことを思い出してしまって、素直に息子を愛せないのです。

それに多宝丸もひそかに気づいており、母親の十全な愛を受け取れず、傷ついているのですね。

醍醐家は完全な機能不全に陥っている家庭なんです。



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「民の安寧のため」犠牲にならなければならない存在である、とスパッと切り捨てられた百鬼丸なのですが、「生きたい」という強い意志に動かされ、結局は醍醐勢と対峙することとなります。

そうだなぁ、だから昔のように、勧善懲悪って話ではないです。

また物語は中世の農民たちの自治組織である惣村にまでふれておりまして、なかなか興味深い設定でした。

どろろの父親が残してくれた莫大な遺産は、戦乱で農村を追われた同じような浮浪児たちとともに、誰にも介入されない自分たちの自治組織である惣村を作るようにも思われました。



この世の中は光の中にも影が潜んでいるし、暗闇の中にもわずかな光が感じられる。

生きていくということは、完全に清らかなままではいられない。だから醍醐景光が悪い、百鬼丸が悪いと安直に決められない。

だけどそういう混沌とした世の中を必死で生きている命が非常に愛おしい、そんな話になっておりました。

狂言回し的な琵琶法師が言いますね。

仏と修羅の間を生きるのが人間だと。

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余談ですが、どろろって本当は女の子なんですよね。

こんな戦乱の世の中ですから、両親は男の子としてどろろを育てたのかもしれません。

新作アニメのどろろは、幼いながらも自分の性をはっきり把握していたし、男女のことも知っていました。

どろろっていくつぐらいなんだろう?

ものの道理っていうのは、はっきりわかっていたから8つぐらいかなぁと思うんですよね。百鬼丸はそのとき16歳。

ってことは8つしかちがわないじゃないですか(源氏と紫の上と一緒)

七・八年経てば、どろろが15、百鬼丸は23。

おお、立派に夫婦としてやっていけそうじゃないですか。

無縁のふたりは孤独であるゆえに、すでに深く魂はつながっているように感じました。
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