無縁のふたり 『どろろ』 [読書・映画感想]

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みなさま、こんにちは。

今日もじっとりしています。

さて、私、二日にかけて新作アニメ『どろろ』を視聴いたしました。

私ね、昔、昔、テレビで放映されていた白黒アニメの『どろろ』ってリアルタイムで見ていたんですよ。まだ幼児の頃でした。

もう、白黒の画面が凄惨な陰影がある感じでねぇ、実際、妖怪が出てくる場面も怖いは怖いんですが、一番印象に残って眠れなかったのが、どろろの母親が寺で貧民を救済するために、炊き出しのお粥をふるまっているのに出会うシーンがあるんですよ。どろろの母親は粥を受け取る椀さえ持っていなかったので、素手で熱い熱いお粥を受け取るんです。

もう、何ていったらいいのかわかんないけど、可哀そうとかそういう甘っちょろい言葉で表現できないですね。もう本当にこの世の際を見てしまったっていう感じ。



この作品は五十年以上も前に執筆された手塚治虫の傑作中の傑作です。大人になってから改めて原作の「どろろ」を読んでみました。それにめっちゃ感銘を受けて、あたしはその後大学で中世の賎民史を主に学ぶことになるんですが。

手塚治虫の作品ってあの可愛らしい絵に騙されちゃうんですよ。いざ読みだすと実は結構グロい話とか、性について赤裸々に語られる話って多いんですよねぇ。あとこう、なんていうか業の深さみたいなものとかね。



どろろは見事にこの三つの要素が含まれていますね。

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で、要するにこの作品は、人口に膾炙されている誰でも知っている話なんですよ。

だから新しいアニメを作るにあたり、おそらく従来通りのプロットじゃ、周りは納得しないのですね。

そこで、この話はどう現代風に解釈するかっていうのが、結構、大事な要素かなって思いますね。

まず、父親が戦国武将の醍醐景光って人なのですよ。

今回の場所の設定がね、加賀の国のはずれということになっておりました。

へぇ~、なんか意外~。

私の中では、どろろの舞台はおそらく山陽地方なんではって思っていたんですよね、赤松とか毛利とかがいて、見える海は瀬戸内海。ですが、今回は北陸ということです。醍醐は朝倉と戦っていますので、おそらく時代は1560年あたり?かなとか。

で、設定がですね、百鬼丸の父親は、自分の野望のために、醍醐の領内にある地獄堂ってところに籠って、そこの鬼神と契約するのです。

「もしわしが天下を取るという野望をかなえてくれたなら、これから生まれてくるわしの子をおまえらにやろう」ってね。

それで生まれてきたのが、手足どころか、目も鼻も口も皮膚さえもない、蛆虫のようなわが子だったというわけです。

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中世において「不具」というのは、どんなに身分の高い、それこそ天皇の皇子であったとしても、もうそれだけで不吉っていうか、触穢にあたるっていうか、捨てられなきゃならない運命にありました。

こうして百鬼丸は本来なら、お城の若さまのはずなのに、無縁の人となってしまう。

無縁の人というのは、自分の帰属するものが何もない人のこと。

どろろもそうです。彼(女)は、夜盗の夫婦の間に生まれた子です。だからどろろも所属するところがないという意味では百鬼丸と一緒で無縁の人。

で、こんな百鬼丸なのですが、原作では赤ひげみたいな医者に拾われて、教育を受け、自分の失われた身体を取り戻す旅に出るのですが、

新作になると、ちょっとこのシチュエーションが違うのかな。

原作の百鬼丸は、ちゃんと自分の意志を持った精神的に成熟し、思慮分別のある大人なんだけど、新作の百鬼丸はもっと無自覚なんだなぁ。

新作の百鬼丸は、五感が失われた代わりに、超感覚でもって世界を見ている(ゲームによくあるXレイーバイザーみたいな感覚を持っている)だけなので、閉じられた世界にいるんです。聞こえないし、見えないし、触感もないわけだから、教育のしようがないのよね。

ですから、なんというかな、百鬼丸は非常にイノセントです。素直だけど、善悪もわきまえないから、非常に残酷でもあるよね。ある意味、ずうっと赤ん坊のまま生きていた人とも言える。

妖怪退治していくうちに、ひとつひとつ、手足や本来人間として備わっているはずの感覚を取り戻していくのね。味覚とか、触覚とか、また聴覚とか。

そうなると、百鬼丸は素直に「心地よい」とか「おいしい」とか「きれい」なものに感動して、少しでも早く、完全な人間になりたいと思うんですよ。

どろろが「兄貴、空がきれいだよ」とか「もみじが真っ赤に染まっているよ」っていうんです。

でも、視覚がないのだから、想像もできない。だけど、どろろがこんなに感動しているのだから、いいものなのだろうなぁって想像はする。ああ、俺も早く見えるようになりたいなって。

なんかそういう純真さが、たまらなく哀れで愛おしい。



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もうひとつ、完全に原作を覆す設定がありますね。

それは、醍醐景光の野望というのは、なにも己ひとりのものではなかったということです。

息子ひとりを鬼神どもにくれてやったおかげで、醍醐の領地はしばらくは、戦もなく、飢饉もなく、国は栄え、領内に住む民たちは安寧でいられるんですよね。

ところが、百鬼丸が鬼神をひとり、またひとりと倒していくうちに、醍醐の領地は流行り病に侵されたり、イナゴの被害にあったりして、民は疲弊していくのです。

こうなるともう、なんていうのかな、もともと被害者だった百鬼丸は、醍醐側にとっては厄災以外のなにものでもなく、逆に民に被害をもたらす祟り神にほかならなくなるのですよ。

ここでね、価値の反転というか役割が入れ替わっているわけよ、原作はもっとシンプルに人間賛歌を謳ってるし、醍醐景光と弟の多宝丸は完全な悪役だったのね。

でも、新作は全くの悪者だった景光は、結構思慮深い領主と描かれているし、弟の多宝丸なんかも非常に聡明で、人に好かれる少年と描かれている。また多宝丸、百鬼丸共に容貌が酷似していて、しかも美女の誉れが高い奥方様の血が濃ゆいんですよ。

奥方は弟の多宝丸が聡明で美しくあればあるほど、まだ見ぬ失われた子のことを思い出してしまって、素直に息子を愛せないのです。

それに多宝丸もひそかに気づいており、母親の十全な愛を受け取れず、傷ついているのですね。

醍醐家は完全な機能不全に陥っている家庭なんです。



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「民の安寧のため」犠牲にならなければならない存在である、とスパッと切り捨てられた百鬼丸なのですが、「生きたい」という強い意志に動かされ、結局は醍醐勢と対峙することとなります。

そうだなぁ、だから昔のように、勧善懲悪って話ではないです。

また物語は中世の農民たちの自治組織である惣村にまでふれておりまして、なかなか興味深い設定でした。

どろろの父親が残してくれた莫大な遺産は、戦乱で農村を追われた同じような浮浪児たちとともに、誰にも介入されない自分たちの自治組織である惣村を作るようにも思われました。



この世の中は光の中にも影が潜んでいるし、暗闇の中にもわずかな光が感じられる。

生きていくということは、完全に清らかなままではいられない。だから醍醐景光が悪い、百鬼丸が悪いと安直に決められない。

だけどそういう混沌とした世の中を必死で生きている命が非常に愛おしい、そんな話になっておりました。

狂言回し的な琵琶法師が言いますね。

仏と修羅の間を生きるのが人間だと。

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余談ですが、どろろって本当は女の子なんですよね。

こんな戦乱の世の中ですから、両親は男の子としてどろろを育てたのかもしれません。

新作アニメのどろろは、幼いながらも自分の性をはっきり把握していたし、男女のことも知っていました。

どろろっていくつぐらいなんだろう?

ものの道理っていうのは、はっきりわかっていたから8つぐらいかなぁと思うんですよね。百鬼丸はそのとき16歳。

ってことは8つしかちがわないじゃないですか(源氏と紫の上と一緒)

七・八年経てば、どろろが15、百鬼丸は23。

おお、立派に夫婦としてやっていけそうじゃないですか。

無縁のふたりは孤独であるゆえに、すでに深く魂はつながっているように感じました。
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