境界の旅人19 [境界の旅人]

みなさま、こんにちは。

いつも『境界の旅人』をお読みいただきましてありがとうございます。

今回はちょっと訳がありまして、noteのほうからお読みください。


https://note.mu/sadafusa_neo/n/n8de664b45367
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境界の旅人18 [境界の旅人]

五章 捜索



 東京から京都へ戻って翌日学校へ行ってみると、美月が手ぐすねを引いて待ち構えていた。補講が終わる昼休みになると、わざわざふたりきりになれるように、日ごろは使われていない茶道部の顧問室に入り、中から鍵を掛けた。

「ね、ね、由利! どうだった?」

 美月は興奮にわくわくした調子で尋ねた。

「うん。お母さんの出張中に家探ししてみた」
「それで? なんかヒントになるものは出てきたの?」
「うん。確証はないんだけど、お母さんが当時勤務していた研究所の職員名簿が出て来てね、お母さんの恋人らしい人が載っていた」

 由利はそういいながら、スマホに収めた写真を見せた。美月はそれを見ると少し顔を曇らせた。

「あら・・・ん、いやあねぇ。白黒で小さいし、それにこれ、えらく不鮮明な写真じゃん。由利、こんなのしかなかったの?」
「うん、だけどまぁ、ラディと呼ばれる可能性があって、かつうちのお母さんと恋愛対象になりそうな年回りの人物って言ったら、この人ぐらいしかいなかったんだもん」
「ふぅん。これ、何て読むの? ラシッド・カハドラ?」
「Hは読まないんじゃない? フランス語表記だと思うし。ラシッド・カドゥラだと思うけど」
「ふうん。ラシッド、ラシッド。どこかで聞いたことがあったような。あ、ハールーン=アル=ラシードか! 千夜一夜物語の!」
「そうそう、アッバース朝に君臨した偉大なる帝王のことだよ」
「出ました! 由利って世界史好きだもんなぁ」
「何よ。日本史オタクには言われたくありません」
「あ、ゴメン、由利。怒んないで」

 由利の機嫌を損ねると肝心の話の先が効けなくなるので、美月は低姿勢で謝った。

「まぁまぁ、そうかしこまらないでよ、美月。でもさ、地中海に面した北アフリカのイスラム文化圏の国は基本的にアラビア語を使うらしいから、こんな名前の男性は今も昔も結構いるんじゃない?」
「ふうん、そうなんかなぁ。それで由利のパパがこの人だと一応仮定したとして、これからどうすんの?」
「うん。まぁねぇ。それが問題なんだよね」
「由利、Facebookでこの人の名前、検索してみた?」
「うん。だけどラシッド・カドゥラ(Rashid Khadra)で検索してみたらさぁ、意外とありふれた名前らしくて相当な人数が引っかかるんだよね」
「どれ?」

 美月は、由利が差し出したスマホを受け取ってその画面を次々とスクロールしていった。
「う~ん、検索人数六十七か。ン? こんなハゲ散らかした油ギッシュなおっさんなんか、問題外ね。厚かましい、何おんなじ名前名乗ってんの!」

美月は明らかに同姓同名の別人物に向かって、悪態をついていた。

「そうはいってもね、美月。ラディは今、四十五歳のはずだよ、この名簿によれば。そりゃあね、二十代は髪の毛フサフサでスレンダーでも、この年齢層になるとハゲでデバラのデブって可能性は大いにあるんだよ」
「まぁ、あっちの人は劣化が激しいって言うからねぇ」
 美月も一応それには同意した。
「でもさ、このオヤジは歳が五十八だよ。多少の誤差はあるとしても、コイツは始めから想定外でしょう」

 美月はスマホの画面の中の、陽気に笑っている何の罪もないラシッド・カドゥラ氏を思い切り愚弄した。

「まぁ、明らかに別人と思われる人を除外していって、その中からもしかしたらこの人はって思われる人にDMを送るしか方法はないかな?」

 由利は美月の叩いた無駄口にはまったく関与せず、最善の連絡方法は何かを熟考していた。
 
「うん、あたしもとりあえずそうするのが一番だと思う」

 美月は唯の真剣な面持ちに気圧されて、真面目に答えた。

「えっと、文面はどうしようか?」

由利は考えながら、美月に訊いた。

「そうねぇ、あんまり込み入ったことを見ず知らずの他人に教えるのも物騒だから、最小限の情報だけでいいんじゃない?」
「ん、じゃ、『今から十六年前に、あなたがフランス国立研究所の研究員だった場合、わたしにご連絡ください。お報せしたいことがあります』とかは?」
「え~、由利。それガチで怪しい……。まるでフィッシング詐欺みたいじゃない?」

 いったんとダメ出した後に、美月もしばらく沈思黙考していた。

「でもさぁ、これが本当に由利のパパなら、由利の苗字が小野ってのを見れば、すぐにピンと来るんじゃない? 玲子さんと何らかの関わりがある人物だって。これぐらいにしておいたほうが無難かもよ」
「そうだね……。とりあえずはこれでDM出してみるか。英語でいいよね?」
「いいんじゃない?フランス語なんて、いくらグーグル翻訳サマに頼るにしても、こっちはまったくフランス語がわからないんだからさ。グーグルサマがよく仕出かすトンチンカンな翻訳には、こっちは手の入れようもないじゃん? それに向こうからフランス語で返事が返ってきたりしたら却って面倒じゃん?」
「そうだよね。じゃあ、そうしよっかな」

 さっそくノートに英文を書いているとと美月は、さりげなく探りを入れた。

「ねぇ、さっき、田中春奈がね、由利と常磐井君のことで騒いでいたけど?」
「へ? 何て?」

 ドキリとして由利は美月に訊き返した。

「なんか由利のこと、清滝のほうへ自分を差し置いて、抜け駆けでデートへ行くって騒いでいたわよ」
「え~、耳ざとい! どうやって知ったんだろ?」
「じゃあ、本当なの?」
「ううん、清滝へ行くのは本当だけど、デートはデマ」

 美月は遠慮してこれ以上は訊いてこないだろうが、変に勘繰られても困る。由利は、ここはきちんと説明するべきだと判断した。

「ほら、前にも美月もあたしに指摘したことがあったじゃん? あたしが何か超常現象でも見えるんじゃないのって?」
「ああ、あったね。たしかに」

 美月は同意した。

「実はね、美月。あたし、最近本当に変なものが見えるんだよ」
「え、マジで?」

 美月は心底驚いたような顔をした。

「うん。だけどこういうの、京都に来てからだったんだよね。それでどうしていいのか分からなくて誰にも言えずに悩んでいたら、常磐井君も実は霊感っていうの? そういうのが強い人だったみたいで」
「常磐井君って霊感があるの? ガチで?」
「どうもそうみたいよ」
「それで彼は、あたしがそれに悩んでいるのが判ったみたい」
「そんなの、どうやったら判るわけ?」

 美月はちょっと意地悪な質問をしてきた。

「さあ、それは何とも。彼は元からそういう力が備わっていたみたいだし。よく解んないけど、霊能者独特の勘が働くんじゃない?」
「ふうん、そういうもんなのかな?」
「ま、それはともかく、彼の家って合気道の道場なんだってさ」
「なあに、常磐井君って合気道の家に生まれたくせに、その上、弓道もしているってこと?」
「どうもそうらしい」
「何で? 霊能力と関係あんの、それって?」

 美月は興味に駆られて、根ほり葉ほり訊いてくる。

「さあ。解んない。そんなこと訊いたことないもん。で、常磐井君がそういう超常現象みたいなのには『滝行』が効くって教えてくれたの。だから道場の人達と一緒に八月の頭に一週間ほど合宿に行かないかって誘われたんだけど?」

 由利は美月の前では、努めてさりげなくふるまった。

「合宿? じゃあ大勢で行くの?」
「うん。マイクロバスで行くって。中には女の子も何人かは混じっているらしいよ」
「ふうん。でさ、田中春奈は常磐井君をデートに誘ったら、断られたってめちゃくちゃ怒りまくってたよ。それは絶対に、由利の差し金だって」
「まぁ、あたしは田中さんに常磐井君にアタックすることは邪魔はしないって言ったけど、それに対して常磐井君がどうリアクションするかまでは、責任は持てないよ」

 唯はちょっと美月には憤慨したように答えた。春奈がたぶんこっぴどく常磐井に振られた場面を想像して、半ば春奈に同情しながらも心の中で喜んでいる自分がいることに、由利はひどく動揺を覚えた。

 こんなに醜い感情を抱いたのは初めてだ。

 だが心の奥底では理解していた、恋情というものがひとたび絡むと、人はこんなにも身勝手になれるものなのだと。



 由利は部室へ行く前に本を返却するため、図書室や職員室のある本館へと向かった。そのあと女子トイレへ入った。

 茶道部は図書室と同じ本館にある。普段本館にはほとんど人気(ひとけ)がないのだが、今日に限ってトイレには先客がいた。用を済ませ、由利は洗面所で備え付けの青い液体石鹸で手を洗っていた。すると先にトイレに入っていた人間も、手を洗いに由利の傍に近づいて来た。

「やぁ、小野さん」

 由利はその声に一瞬違和感を覚えた。そしてその声が誰のものかわかると、腰を抜かしそうになった。

「えっ、え! 小山部長!」

 由利は泡だらけの手で、小山のほうへ振り向いた。

「な、何で部長がこんなところにいるんですか! ここは女子トイレですよ!」

 由利が気色ばんで相手を詰問していると、部室からその声を聞きつけて、部員たちが何ごとかと駆けつけてきた。

「由利! どうしたの!」
「だ、だって小山部長が、男なのに、に女子トイレに入っていて……」

 部員たちは、本来なら当然糾弾されるべきはずの部長を責めるでもなく、かといって由利を慰めるでもなく、どう言うべきかを考えあぐねたように、むっつりと押し黙っていた。

「あー。小野さんは知らなかったんですね。おことばですが、ボクは、あなたが思っておられるような変態ではありません」 

 小山は妙に冷めた口調で説明しだした。こんな口調のときは、部長が激怒しているときだ。茶道部員は全員、身をもってそれを知り抜いていた。

「ボクは普段こういう恰好をしていますが、性別は女です」
「え、え? おんな…?」

 由利は目が点になった。

「だって、だって小山部長はどう見たって、お、男……じゃあないですか」

 ふっと小山は嗤った。

「ほらね、あなたが今言ったことばの中に、答えはすでに隠されています。現代社会で『男に見える=男である』という定義は、もはや成立しませんよ、小野さん。まぁ、ボクは身長が180センチありますからねぇ。体形も肩幅も男並みにありますし、どっちかと言えば、いかついほうです。だからでしょうか、ブレザーにスカートだとよく誤解を受けるのですねぇ、男が女装をしているって」

 由利は目だけを大きく見開き、凍り付いたように固まっていた。

「ですからブレザーにスラックスのほうが、ボクにとっても、見る側にとってもストレスがないんですね。つまりですね、ボクは本来生まれ持った性と合致する恰好をするより、男の恰好をするほうが無難なんだと、ある段階で気づいたんです」
「えっ? なっ…」

 小山は、唯にひとことも口を挟ませなかった。

「ですが男に見えるからと言って、ボクは心まで男だと認識しておりません。まだボクには恋愛経験がないんで、自分のセクシャル・ディレクション、すなわち性的指向も完全には把握しきれてはおりませんが、おそらくホモセクシャルでもなく、バイセクシャルでもなく、ヘテロセクシャルだと確信しています」
「セ、セ、セクシャル・ディレクションですか?」
「そうです。ボクはセクシャル・マイノリティの方々を差別するつもりはありません。ですが、自分は同性愛者ではないと、ここではっきりあなたに申し上げておきましょう。ですから性的倒錯趣味があってこのトイレを拝借していたのではなく、ボクは身体的生理欲求に従って、ここに入ったまでです」

 小山は憮然と言い放ち、茶道部全員の衆人環視の中でも、何食わぬ顔で手を洗った。

「皆さん、いつまでそんなふうにボケっと突っ立ってるんですか? さあ、お茶のお稽古を始めますよ」

 小山は部員を叱ると、さっさとひとりで部室へ行ってしまった。女子トイレには美月と由利だけが残された。

「由利、ちょっと大丈夫? まさか由利がまだ小山先輩の正体に気づいてなかったなんて。だけどまた気絶しないでね」
「・・・マジですか・・・。そんなの無理」

 そう言って虚脱したように由利はつぶやいた切り、ガクッとこうべをうなだれた。


 

 誰もがじっと見ているいたたまれない雰囲気の中で、お点前をやらされ、おそらく怒りが頂点に達していた小山の容赦ないチェックが止めどなく入り、その日の由利はボロボロだった。

「普通の人はだいたい小山さんに会ってしばらくすると、気づくもんなんだけどねぇ」

 今さらながら美月がまた、言い訳した。

「だって最初から男だって信じて疑わなかったんだから、仕方ないよ! 美月、どうしてそんな大事なことあたしに教えてくれなかったの? 今日ほど茶道部のみんなを恨めしく思った日なんてなかったよ!」

 泣きながら、取り返しのつかないことをやってしまったと由利は自責の念に駆られていた。

「由利・・・。小山さんは別にそれほど気を悪くなんかしていないよ。あとできちんと謝れば赦してくれるに決まってるって」

 美月は精一杯慰めようとした。しかしそれがかえって由利の逆鱗に触れた。

「もう、みんな嫌い! なんであたしだけが、バカみたいに本当のこと、知らされてなかったのよっ! ひとりだけ仲間外れにされていた気分だよ! 嫌い、嫌い! 美月も、理沙ちゃんも他の茶道部の連中も!」
「由利! 待ってってば!」

 美月が止めるのも聞かず、由利はひとり走り去っていった。



 由利は帰るなり、蒲団を敷いて寝床の中にもぐりこんだ。

「おい、由利、どないしたんや。調子でも悪いんか」
「うん」
怒気のはらんだ声で由利は返事をした。

「そうか、ほんならお汁とおかずを残しておくしな、お腹が減ったら食べるんやで」

 祖父はこういったことには慣れていると見え、あまり深く由利を追求しないでいてくれるのがありがたかった。 



 タオルケットにくるまって、混乱した気持ちを抱えながら目をつぶっていると、突然由利のスマホのバイブレーションが鳴った。取り上げてみるとLINEのアイコンに未読メッセージを示す②の赤いマークが付いていた。

「ん、誰?」

 泣いて帰ってしまった由利を気遣って、美月がメッセージを送って来てくれたのかもしれない。画面を開いて確かめると、意外なことにそれは何と常磐井悠季からだった。

「はろー、由利ちゃん。元気ぃ?」

 いつものぶっきらぼうな態度とはひどくかけ離れた文面に、由利はたまげた。しかもその下にはディズニーのオーロラ姫が投げキスをすると画面がハートで包まれるという、手の込んだスタンプが張り付けてあった。

「何これ? これ本当にあの常磐井君なの?」

 由利は信じられないものを見たかのように、画面に向かってつぶやいていた。

「こんにちは、常磐井君」

 半ばおっかなびっくりで由利は生真面目に返事を返した。するとすぐに返事は既読に変わった。

「由利ちゃん、滝に行く準備はできた?」

 一瞬これはLINEのなりすまし詐欺かと疑ったが、滝のことを話題しているので、どうやら本人に間違いなさそうだった。

「はい、水着はアシックスで競泳用の脚付き水着の黒を二枚買いました」
「そっか。滝行はうちの道場の毎年の恒例行事なので、行衣は道場でたくさん保管してるから大丈夫よ。夏の滝行といっても結構水は冷たいので、長袖の上着はマストアイテムよ(⋈◍>◡<◍)。✧♡  それじゃ体調を整えておいてね」

 それを見て思わず由利は吹き出した。

「別の人格に憑依されてるんじゃないの、この人?」

 しかし常磐井にこんなふうにメッセージを送られてきただけで、さっきまでの沈んだ気持ちが嘘のように晴れて来る。

「わかりました。当日はどうすればいいの?」

「ぼくんちの道場に八時に集合です。修行に必要な持ち物や道場へ行くまでの地図は添付しておきますので、それで確認してください。解らないことがあればいつでもLineして♪」




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境界の旅人17 [境界の旅人]

第四章 秘密



 由利は持っていた合鍵で、春まで自分が住んでいたマンションの一室のドアを解錠した。
 一階に常駐している管理人は、十二時から十二時半までの三十分間、全館見回りのため、入り口にある管理人室の席をはずす。万が一にも玲子の帰宅よりも前に管理人に出くわして、由利が家に入って行くところを不用意に見られたくない。管理人がいなくなったのを見計らって、由利は入口を無事通過した。
 
「はぁ、見つからずに済んだ。よかったぁ」

 また誰かに見咎められるのが嫌で、一応が外出せずに済むように、駅の近くのコンビニでおにぎりとジュースは買っておいた。
 玄関で靴を脱ぐ前に、由利は自分の長い髪を真ん中で二つに分けてツインテールにすると、そこからさらに三つ編みにして最後にゴムで留めた。

「まだ帰ってきてもいないのに、廊下や部屋にあたしの長い髪が落ちていたら、やっぱりそれはおかしいでしょ?」

 髪を束ねたあと、上り口を見るともう髪の毛が落ちている。

「ヤバイ、やばい」

 由利は持ってきたガムテープで玄関口をぐるりと用心深く拭いた。それをやはり用意してきたビニール袋に捨てた。
 几帳面できれい好きな玲子らしく、しっかりどの部屋も掃除がいき届いていた。特に由利が京都へ行ってからは、汚す人間がいなくなったので、余計にすっきりと片付いているような気がした。
 キッチンと続きのリビングに入ると、備え付けのリビングボードには由利が赤ちゃんの頃からこれまでの成長の記録として、節目節目に撮られた写真がずらりと並んでいた。

「あれっ、これは?」

 由利の見たことのない写真がきれいなフォトフレームに入れられて飾られていた。それは中学校の卒業式の日の由利だった。額の中の自分は、幾分気弱げに口角を上げて写っていた。撮影された日からほんの五か月ほどしか経っていないはずなのに、過去の自分がずいぶんと幼く思えた。


 このマンションは3LDKで、十二畳の大きなリビングと続きの六畳のキッチンがあり、そのほかに部屋が三つあった。ひとつは由利の部屋。もうひとつは玲子の寝室。中学校に上がるまで由利は、母の部屋に置かれたダブルベッドで玲子と一緒に眠ることのほうが多かった。完全にひとりで眠るようになったのは中学校へ入ってからだ。
 そして残されたもうひとつの部屋は、玲子の書斎だった。この部屋には玲子の仕事関係の書類、研究資料などが置いてあった。実は由利が小学校三年生ぐらいに勝手にこの部屋に入り込んだことがあった。それでパソコンをいじって大事なデータを吹っ飛ばしたのだ。それ以来玲子は用心のために、この部屋には施錠するようになった。

「まさかわたしがいなくなっても、鍵をかけてるってことはないよね、ママ?」

 そう言いながらぐるっとドアのノブをまわすと、思った通り鍵は掛けられておらず、部屋のドアは開いた。

「うは、やった!」

 由利はバンザイをしながら歓声を上げた。

「だけど、待って、待って。迂闊なことはできないんだからね」

 由利は慎重に玲子の部屋の書棚の段を、ひとつひとつカメラに収めて行った。そして念には念を入れて、最初にどのような状態だったのか、部屋全体の写真を撮った。

「ママがフランスに行っていたときの、職員名簿みたいなものがあればいいんだけど」

 由利は玲子の戸棚にそれらしきものはないかと物色した。横文字の本がたくさん入れられており、それをひとつひとつ引っ張り出してはみるものの、ほとんどなんらかの研究書らしく、難しそうな数式か化学式のようなものが羅列されていた。

「うわっ、何これ? 呪文みたい・・・」

 数学の不得意な由利は顔をしかめた。

「変だなぁ。何かあっても良さそうなのに・・・」

 玲子は悲しい思い出のよすがになりそうなものはすべて処分したのだろうか。由利はがっかりして玲子の机の椅子にどっかと腰を下ろした。

「あれから何時間、ここで本棚から本を出したり入れたりしたんだろ。さすがに疲れた・・・」

 ふと足元に視線を落とすと、机の一番下の引き出しをまだ開けてないことに気づいた。

「もしかして・・・?」

 由利は取っ手を引いて開けようとした。だが引き出しには鍵がかかっていた。

「うん! 何なのよ、これ!」

 由利は机に突っ伏して頭を抱えた。鍵はどこにある? 玲子は鍵を捨ててしまったのだろうか?
 いや、そんなはずはない。もしここにフランス時代のものが入っていたとして、鍵を捨ててしまう可能性があるだろうか。

「そんな。鍵を捨ててしまうくらいなら、あたしなら初めから何も残さずに処分してる。でも捨てきれないからこそ、こうやって残してあるんだし。それなら絶対に開けられるようにしてあるはず」

 その鍵は一体どこにあるだろう?

 由利は稲妻に撃たれたように、突然脳裏に閃めくものがあった。

「ママは昔あたしの乳歯が抜けたとき、きれいな外国製のそれ用の箱に入れていた・・・。えっとあれは・・・真鍮製で 箱の上にティンカーベルみたいな妖精がついていたような」

 由利が保育園に通っていたころ、乳歯が抜けると他の園児たちの親は、屋根の上に放り投げていた。

それは「今度は生えてくる永久歯が丈夫でありますように」というおまじないなのだが、玲子はそうはしなかったのだ。

「こんなかわいい歯を捨てられるもんですか」

 由利にはそう言いながら玲子が、抜けた由利の乳歯をその箱に入れていた、薄っすらとした記憶が蘇った。内側はきれいな緋色のビロード張りで、指輪の箱のように畝が作ってあり、そこに乳歯を差し入れ固定させるようになっていた。

「あそこに鍵が入っていたような気がする・・・」

 由利ははじかれたように立ち上がると、今度は玲子の寝室へ行ってクローゼットの戸を開けた。

「たしかママの慶弔用の真珠のイヤリングやネックレスをしまっている、日ごろめったに開かない引き出しがあったはず」

 クローゼットに備え付けられている引き出しは二重ひきだしになっていて、普段よく使う引き出しの後ろに、めったに使わない引き出しがあるのだ。由利は順番を間違わないように写真を撮った後、ひとつひとつ、奥に隠された引き出しを暴いていった。

一番下の奥の引き出しに、真珠のネックレスと共に妖精が付いた銀色の小箱が収められていた。

「神さま、お願いっ! どうぞ鍵が入っていますように!」

 そう言いながらふたを開けると、思った通り、小さい由利の乳歯のそばに鍵がひそませてあった。それを緊張にふるえる手でこわごわ掴んで、由利は机の鍵穴に差し込んだ。
 カチッと解錠の音がする。

「ビンゴ!」

 やはり由利が睨んだとおり、その鍵は机の鍵だったのだ。
 ドキドキしながら由利が机の引き出しを開けると、中にはほとんど横文字のものばかり入っていた。
 またもや写真を撮ったあとに、背表紙に印字されたタイトルを読んでいった。

「うへぇ、みんなフランス語だから、何て書いてあるのか、予想もつかないわ」

 だがその中に、ひとつの白くて分厚い年鑑のような冊子があった。由利はそれを見てピンと心に響くものがあった。

表紙には『Centre national de la recherche scientifique』と書かれてある。

「ん? Recherché って英語でいうところの、リサーチじゃないのかな。つまりこれって、英語に直すと『Scientific research national center 』って言う意味?」

 由利は自信がないので、グーグル翻訳を仏→英に直して確かめた。
 中をパラパラめくると、やはり研究者名簿のようだった。一ページには八人ぐらいの研究員ひとりひとり名前と写真が載っていた。

「だけどこんなに分厚い本の中を、どうやって調べたらいいの?」

 しばらく考えて由利はとりあえず、後ろの索引のほうを調べることにした。

「まずママの名前があるかどうかを調べないと」

 玲子は小野玲子だからOの索引で調べられるかどうか、それを確かめた。

「Ono, Reiko ああ、あった、あった。516ページか」

 516ページを調べると確かに玲子の写真と、フランス語で玲子の簡単な履歴と博士号取得時の論文のタイトルとその掲載誌名が載ってるようだった。

「これってどういう分類方法?」

 由利は見出しをの文字を読んでみた。

「Institut des sciences de l'ingénierie et des systems…? ママってそういえば『工学システム科学』ってところにいたって聞いたような気がする。多分ここがそうなんだ」

 由利はもう一度、芙蓉子がくれた写真を見た。

「あ、ここって」

 見出しの下に工学システム科学研究所の建物が写っていた。由利はじっとふたつの写真に写っている建物を見比べた。

「うーん、なるほど。ここって研究所の敷地内で撮られたものなんだわ。それじゃあやっぱり芙蓉子さんが言ってた通り、十中八九はラディはママと同じ研究所の同僚だったと考えていい。ふたりとも同じ職場で働いていたんなら、きっとラディもここにいるはず」

 玲子と同じ付近の写真を丹念に調べて行った。
「pierre? え、ぴ、ピエール・・・? 苗字は何て読むんだろ? いや、どっちにしろピエールなんて名前に用はないわ。これは? ギュスターヴか。違う、ラディのせめて苗字が判ればなぁ。こんなに苦労はしなくて済んだんだけどな」

 そうやってページをめくっていると一人の男の写真が目に留まった。

「え、この人・・・」

 名前を読んでみた。

「Rashid Khadra・・・ ラシッド・カ・・・ドラ?」

 自分が持参してきた芙蓉子から渡された写真を、ラシッド・カドゥラと表された人物の写真の側に置いて二つを見比べた。

「似てると思えば似てるけど、別人のような気もする。こんな小さな写真じゃ確信がもてないなぁ。でもラシッドって名前は、ニック・ネームとしてラディと呼ばれる可能性は捨てきれない」

 そしてカドゥラ氏のプロフィールに記載されている生年月日を見た。

「ママより三つ年上なんだ。とすると、この人は今四十五歳ってことか」

 とりあえず由利はその人物の写真と履歴の箇所を、何枚も写真に収めた。

「まぁ、解んないことは京都に帰ってから調べればいいし。収穫はあった」

 昼過ぎにこの家に入って来たのに、気が付けばとっくに時計は九時を回っていた。
 由利はともかく一旦玲子の部屋から出て、自分の部屋でコンビニで買ってきた、おにぎりとジュースを食べた。へとへとだったけれど、何かを食べると元気が出た。少し気力と体力が共に回復したところで、再び部屋に入り写真を慎重に確かめながら、まず研究者名簿を机の引き出しに元通りにしまい鍵を掛けた。その鍵を真鍮製の小箱に戻し、それをまたもとからあった真珠のネックスレスが入っている引き出しの箱に戻し、その引き出しをまた元通りの場所に収めた。由利は作業を黙々とこなしているうちに、何となしに入れ子状になっているマトリョーシカをひとつひとつ胎内に戻しているような気がして、ひとりで声に出して笑った。
 何もかも元の通りになっているかどうかを念入りに写真と見比べながら確認してから、最後にガムテープで丹念に自分の痕跡を消し去り、玲子の書斎から出た。

由利は思わず大きなため息をついた。

「ホントは泊っていきたいところなんだけど、やっぱり予定が繰り上がってママが突然帰って来たら大変だしなぁ。仕方ない。今日と明日はカプセルホテルで泊まるとしますか。あ、その前にラーメン食べに行こっと」
 由利は夜更けに再び、自分の家から外へ出た。
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境界の旅人16 [境界の旅人]



「あー、よく食べた。何食べたっけ? スープでしょ、前菜でしょ、サラダでしょ、それから当然スパゲティも食べたし・・・。それからビステッカを食べて、そうそう鯛のアクアパッツァも食べたんだっけ? 締めのドルチェはティラミスをふたつ食べたんだった~。あ~おいしかったぁ、幸せぇ・・・!」

 由利は芙蓉子に長らく自分が悩んできた出生にまつわる話を聞かせられた。どんな悲惨な真実が隠されているのかと思いきや、案外話は玲子の一途な純愛を証明するような内容だった。由利は安堵するあまり湧き出る食欲を抑えられず、バカ食いをしてしまったのだ。でも芙蓉子は「由利ちゃん、よかったわね」とニコニコして食べるのを見守ってくれていた。
 一気に解放されて気が緩んだせいか、どっと疲れを感じた。由利は家に帰ったなり、なおざりに蒲団を敷いてそのまま倒れこむように眠ってしまった。
 目が覚めて窓を開けると、まだ外は明るい。時計を見ると六時前だった。
 蒲団に入ったままでカバンを引き寄せ、中を開いてガサゴソと探ると昼間芙蓉子からもらった例の写真が入ったファイルを取り出した。

「これがもしかしたらというか、確実にわたしのお父さんにあたる人」

 由利はその写真をじっと見つめて、つぶやいてみた。

「パパ、初めまして。あたしが由利です」

写真の中の男は思いやりに溢れた優しそうな人物に見える。こんな人が無慈悲に自分の子供を妊娠している恋人を捨て去ったりできるのだろうか。由利は頭をひねった。

「ラディか・・・。それしか判らないのかな、本当に?」

 由利はふっと玲子が先日言ったことばを思い出した。

『ママね、七月の二十日までは学会でニューヨークに行かなきゃならないの。帰ってくるのが二十一になると思うから、それからにしてもらっていい?』

―ということは、少なくとも二十日はあの家にママは完全にいないはず・・・とすると?― 

 由利はニヤリと蒲団の中で笑った。



「暑いー。朝、温度計見たら、すでに二十六度あったよ。七月でこれだったら先が思いやられる・・・」

 朝食を食べながら、由利が開口一番にぼやいた。梅雨が明けた京都は猛烈に暑い。ただ暑いだけではなくてじっとりした湿気がどうにも気持ち悪い。

「まぁ、盆地やしな。仕方がないんや。」

 辰造はぼやく孫娘を慰めた。

「おじいちゃんがいつだか言っていた意味が解ったよ。やっぱり京都の家は、少しでも夏に涼しくする工夫がいるって。そうじゃなかったら、とってもじゃないけど住めないもん。だけどどうしてこんな冬は寒いわ、夏は暑いわってところを都にしようと昔の人は思ったんだろ?」
「そりゃあ、まぁ、桓武天皇に『ここに遷都しなはれ』と勧めた家来の和気清麻呂はんあたりに訊かんと、ほんまのことは判らんのとちゃうか? まぁ、風水的にここはよかったと言われとるみたいやけどな」
「風水?」
「そうや。この地はな、風水的に四神相応(しじんそうおう)ちゅう考えに適った土地なんや」
「四神相応? 何それ?」
「うん、何や知らんけど、北山からずっと山が連なっておるやろ? それが玄武、東山一体が青龍、そんで嵐山付近が白虎や。そんで今は埋められたけど南に巨椋池っていうのが昔あってな、それが朱雀や。土地に四つの神さんの力があるっちゅうて、ここを都にしようと決められたそうや」
「何だ、それ?」
「わしも風水や陰陽道のことは、よう知らん。がまぁ、そういう思想に基づいて、平城京から長岡京、そんで平安京に移されたっちゅう話やで」
「ふうん」

 由利は少し憮然とした様子で味噌汁をすすっていたが、おもむろに口を開いた。

「あ、おじいちゃん。あたしね、お母さんに会いに東京へ行ってくる」
「ふん、そうか」

 少しの間、ふたりには気まずい空気が流れた。玲子と辰造はまだ仲直りをしていないのだ。おそらくふたりともしようと思えばできるはずなのだろうが、ばつが悪くてそれもできないままでいるらしい。

「で、いつからいつまで?」
「えっとね。二十日から二十三日まで。だから二十日の日にここを出て行って、二十三日の夜までには帰ってくるから」
「そうかぁ。ほんなら気を付けて行きや。お土産はそうや、近為(きんため)の『柚こぼし』を買うといたるわ。玲子はあれが好きなんや」

 辰造は仲たがいしていると言っても、しっかり娘の好物は覚えていた。

 

 夏休みに入ってもしばらく学校は午前中に補講があった。そうでもしないと文科省が決めたコマ数では教科書全部の内容は網羅できない。だからその流れで昼食を挟んでその後は、だいたいの生徒は部活にいそしんでいた。

「ね、由利。あたしたちが映画を見ている間、うちのお母さんと話したんでしょ?」

 教室でお昼を食べながら、美月が興味津々といったふうに訊ねた。

「うん。美月、お母さんとあたしのセッティングをやってくれたんだね。サンキュ」
「で、どうだった?」
「どうって。芙蓉子さんから聞かされてるんじゃないの?」
「ああ、ダメダメ。あの人ああ見えて、口がめっちゃ堅いから。ただお母さんはさ、由利ちゃんは話が終わったあと、安心したのか、バカ食いしてたって笑って話してくれたから、結果的には明るい方向に行ったのかなって、あたしなりに忖度したんだよね」
「あ~、忖度、忖度ね! 大事だよね」

 由利は笑って言った。

「うん、結構びっくりなこといっぱいあった。でも一番良かったのは、わたしのお父さんらしき人の写真を芙蓉子さんが持っていて、それをあたしにくれたことかな!」
「へぇ! それって今持ってる?」
「うん。見る?」
「見る見る!」

 由利がカバンから写真の入っているファイルを取り出した。美月は待ちきれずにひったくるように由利からそれを取り上げると、食い入るようにその写真をのぞき込んだ。

「何これ! いや~ん、すてきぃ。ハンサムじゃーん!」
「そうかな?」
「そうだよ~。それで、それで? イケメンパパは何て名前なの?」
「ラディだって」
「ラディ? それしか判らないの? 何か犬みたいじゃん」

 美月は訝しげな顔をした。

「何よ、犬みたいって。失礼ねぇ」

 由利は軽く文句を言った。

「うん、うちのお母さん、どうも口が重いらしくてさ。親友の芙蓉子さんにさえ、きちんとした相手の本当の名前を言ってないらしいんだよね」
「ねぇ、それってさ、玲子さんに訊くわけにはいかないの?」
「本当はそれが一番いいんだろうけどね、だけど教えてくれるはずないだろうしな、今までのことを考えると」
「それもそうだよね」
「でも、あたしにはちょっとした作戦があるんだよね」
「どれどれ、どんな?」
「うん、今度東京に行ったとき、それを試してみようと思うんだ。もしそれが成功したら、美月に手伝ってもらうと思う。だから待ってて」
「う~ん、よく解んないけど、まあいいや」

 そこへ同級の茶道部員がやって来た。

「美月~。この間お茶会で使った建水どこへしまったの?」
「あれっ? 理沙ちゃんどうしたの? もとの場所に置いたはずだけどぉ?」
「うん、それがさ、探しても見つからないんだよねぇ。小山部長に今日はあれを使うからって言われてて、準備してるんだけどさ」
「え~、そうだった? 理沙ちゃん、ごめんね。おかしいなぁ、それじゃ今から探しに行くわ」

 美月は理沙と呼んだ女子生徒に謝ってから、由利に声を掛けた。

「じゃあ、そういうことだから。ゴメン、由利。理沙ちゃんと先に部室に行ってるわ」
「ん、じゃあ、美月。あとでね」

 美月はバタバタと弁当箱を片付けると、理沙と一緒に足早に去って行った。小山はいつも茶道具同士の取り合わせに細心の注意を払っているので、部員がちょっとでも自分の指示通りに動いてないと知ると、機嫌がとたんに悪くなる。だから周りの部員たちは小山のご機嫌取りに必死だった。
 由利は部室へ行く前に借りていた本を返そうと一旦、自分の教室のある棟を出て、図書室や職員室のある本館のほうへと向かった。



 放課後、由利が部室へ向かっている途中で、紺色の稽古着姿の常磐井を見かけた。
 いつもムスッとして愛想のない常磐井が、どういうわけか今は、目の前でぼうっと突っ立って、由利の顔を凝視していた。

「えっ?」

 あまりにありえない状況に、由利はびっくりして足を止めた。常磐井はハッと我に返ったようで、照れくさそうにさっと頭を下げると、その場からそそくさと立ち去って行った。

「何だろ。常磐井君、どうしちゃったのかしら?」

 不思議に思いながら歩いていると、また向こうから、先程反対方向へ行ったたはずの常磐井が、大股でスタスタと歩いて来る。今度はいつもの通りニコリともせず、目の端だけで由利を一瞥しただけだった。

「ええっ、ど、どうして?」

 驚愕のあまり、由利は思わず声を上げた。

「ん? 何だ、あんた。いきなり変な声を出すなよ」

 不審げな面持ちで常磐井が、由利の傍に近づいて来た。

「い、いやっ! こっちに来ないで!」
「小野、どうしたんだよ? 何かあったのか?」

 常磐井の真剣な表情を見て、やっと由利は目の前の人物が本物だと悟った。

「ち、ちょっと前に常磐井君にそっくりな人が通り過ぎて行って……。あ、あたしがさっき見た常磐井君って、一体……?」

 由利の顔がまた、恐怖に覆われていった。

「お、おい。小野。落ち着け、落ち着いてくれ」

 常磐井は恐慌を来し掛けている由利の両肩を揺さぶった。

「え?」

 由利と常磐井の視線と視線が重なった。由利の姿を映した常磐井の瞳には、単なる親切以上の何か切迫したニュアンスが感じ取れた。

「あんたがさっき見たのは、おそらくオレの兄貴」
「えっ? 兄…貴?」

 由利は狐につままれたような顔をした。

「そう。兄貴は今、大学の一回生だけど、ここのOBなんだ。オレと同じ弓道部だったんで、夏休みに入ったから後輩の指導に来ていたのさ。実際オレは兄貴とは三つ違うんだがな、他人が見るとそっくりに見えるらしい」
「そっくりなお兄さん?」
「そうだ。だけど性格は全然違う。兄貴は美人に目がないからな。だからどうせ、鼻の下を伸ばして、あんたに見惚れてでもいたんじゃじゃないのか?」

 常磐井の言う通りだった。

「さっきの人って、常磐井君のお兄さんだったの?」

 常磐井は呆れたような少し情けない顔をして、由利をしみじみと見つめた。

「あんた……」
「な、何?」

 こんなふうに至近距離でじっと見つめられると、由利はもう、どうしていいかわからない。カァっと頭に血が上っているのが自分でもわかる。由利は平静を保とうとぎゅっと目をつぶり、両手に力を入れてこぶしを握った。

「何してんの、それ?」

 目敏い常磐井は、面白がって由利の不思議な行動のわけを訊いてきた。

「自分を見失わないようにしているの!」

 由利は恥ずかしさのあまり、やぶれかぶれになって叫んだ。

「小野。あんた、案外、ドジなんだな」

 常磐井は突然こらえられないといったように、腹を抱えながら、笑い出した。

「だ、だって…もう、びっくりしちゃって」
「さっきのあんたの慌てふためいた顔! リプレイして見せてやりたいよ! ハハハ」
「あ、あ、あたしはまた、例の三郎の仕業かと……」

 三郎と言ってしまって、由利はハッと口をつぐんだ。急にふたりの間の空気が張りつめた。

「小野……。前々から気になっていたんだ。あんたも、もしかしたら、見えてるのかなってね」
「あんたもって、どういう意味?」

 由利は真剣に訊き返した。

「小野、見えるんだろ? 普通の人間には見えないものが」
「常磐井君……。ということは、あなたも見えていたのね、三郎のことが」
「あいつ……三郎って名乗っているのか」
「三郎のこと、知ってるの?」
「あいつは死霊だよ」

 常磐井は躊躇することなく断言した。

「死霊……?」

 由利も三郎が生身の人間ではないことはわかっていた。だが由利は、『死霊』ということばの重さに改めて愕然となった。はっきり死霊と認識することで、三郎と自分との間に決して超えることのできない境界ができたように感じた。

「おそらくあいつは、何等かの想念の力で動いているんだ」
「想念?」
「そうだな、三郎の命が尽きるときに、この世に残した未練や執着みたいなもの…かな」
「未練や執着……?」

 由利はかみ締めるように、常磐井の言ったことばを反芻した。

「小野、あんたはあいつになるべく関わらないようにしろ」
「関わらないようにしろって言ったって、別に好きでそうしているわけじゃ・・・」
「じゃあ、あんたの霊格を上げて、あいつに付け込られる隙を与えないようにしろ」

常磐井はこわい顔をして命令した。

「霊格? で、でも。だって、どうやって・・・」
「そうだな・・・」

 しばらく常磐井は考えていた。

「オレんちは実は合気道の道場で、夏の間は門下生の人間たちと一緒に滝行(たきぎょう)をしに行くんだけど、小野も一緒に来い!」
「滝行?」

 思いがけないことを言われ、由利は素っ頓狂な声で訊き返した。

「ああ。オレも中学生のころ、一時期変なのに憑かれて大変だったんだ。だけど滝行をやって一か月ぐらい経ったら、精神修養ができたっていうかな、精神のステージが上がるっていうんかな。それから大丈夫になったんだ。小野も一度試してみろ」
「それって、いつやるの?」
「まずはとりあえず、八月の頭に一週間かな。京都に愛宕山ってあるの、知ってるだろ?」

 由利は黙ってスマホを取り出すと、グーグル・マップで位置を検索した。

「あ、ここか。うん」
「ここに清滝川っていうのが流れているんだけど、その渓流に聖(ひじり)滝っていうのがあるんだ」
「聖滝? へぇ」

 由利は人差し指と中指を使って画面を拡大した。

「あれ? わかんなくなっちゃった」
「どれ、貸してみ」

 常磐井は由利の手からスマホを取り上げると自分が操作して、聖滝の場所を画面に出した。

「あ、ありがと」

 常磐井の意外な行動に半ば唖然としながら、由利は礼を言った。

「行くときはオレんちの道場から、マイクロバスで途中まで行くから。そこからは山を登って三十分ぐらいの行程かな」
「あたしみたいな門外漢も参加して大丈夫なの?」
「うん」
「ね、滝行ってどうするものなの? なんか白い着物みたいなのを着るのかな?」
「ん? そうねぇ。本来は素肌の上から着るみたいだけど、透けて見えるしな。せっかく世俗の垢を落とすために滝に打たれに来たのに、そんなのを見ちゃうと男どもはかえって煩悩を掻き立てられるわなぁ。ハハハ」
「ちょっと常磐井君! 人が真剣に質問しているのに!」
「いや、ワリィ、ワリィ。小野があんまり思い詰めているみたいだったからさ。ちょっと気分をほぐしてやったほうがいいかなって思って」
「何それ? 全然フォローになっていない気がする」

 由利は怒った口調でいったが、それでも常磐井が親しく話しかけてくれるのが内心うれしかった。

「ああ、滝行に参加する仲間のうちには女子たちも二三人いるから大丈夫。みんなスクール水着を着て、その上から水垢離用の行衣を着てるよ。大丈夫、安心して」

 そして常磐井は由利のスマホの画面を一旦閉じると、今度はキーパッド画面を出して、ぱぱぱと素早く数字を打ち込んだ。途端に今度は常盤井の胸に付けられた胴着のポケットから、ブーンブーンとバイブレータの音が鳴り響いた。常磐井は自分の電話番号を由利のスマホからかけたらしい。にっと笑って発信番号を切ってから、スマホを由利に返した。

「ハイ、これでお互いの電話番号がわかりマシタ。小野、あとからきちんとオレの電話番号を登録しておけよ。そしたらお互いのLineが無事開通するから。まぁ、聖滝行きのことでわかんないことがあったら、オレにLineして。ま、別に何にもなくてもLineしてくれると、もっと嬉しいけど」
「え?」

 勝手に言いたいことだけいうと、常磐井は「じゃな」と手を挙げて弓道場のほうへ去って行った。


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