境界の旅人 23 [境界の旅人]
第六章 告白
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由利は一生懸命電子辞書とグーグル翻訳を駆使しながら、フランス国立研究所に宛てて、英文の手紙を書いた。
本当は手書きのほうが、より親密さが伝わって好感度が増すのかもしれない。だがやはりここは何よりも読みやすさを優先に考えると、英文はワープロ書きにして最後の署名だけを自筆にするのが最良だという結論に至った。
その翌日、由利は小山部長へ謝りに音楽室へと向かった。階段の途中からピアノの音が響いて来る。
聞き覚えのある曲だ。
「ショパンの革命のエチュード?」
虹色に輝く真珠を思わせる、粒のそろった柔らかな音色の連なり。
小山がこんなピアノを弾くとは知らなった。由利は音楽室のドアの傍に立って、じっと耳を澄ませていた。
小山は弾き終わるとドアの陰に潜む気配を感じ取り、誰何するために椅子から立ち上がった。
「ああ、小野さん。来てくれたんだね…」
「部長……、あたし……、いろいろと不躾なことを言っちゃって…、その、申し訳ありませんでした」
由利は小山に向かって深々と頭を下げた。
「いや、いいんだよ。ボクこそ悪かったね。最初からきちんと説明すべきだったんだ」
小山は由利の目が濡れているのに気が付いた。
「小野さん……泣いていたの?」
「あ、あたしったら……」
由利は自分の目の縁をごしごしと手でこすった。
「どうしたの? 何かイヤなことでもあった?」
「あ、そんなんじゃないんです! 小山さんのピアノがものすごく心に響いて。こんな革命って、初めて聞きました。普通はもっとぱぁっと派手に弾くじゃないですか。あ、あたし、門外漢なんで、頓珍漢なことを言ってるのかもしれないですけど、こう、苦悩に耐えに耐えているような、そんな感じがして」
「ハハ、そんなふうに聞いてくれてたなんて、光栄だね。先生からは奏法がオールド・ファッションだから、もっとクールに弾けって言われるんだけど、どうもね」
「オールド・ファッションだなんて。あたし、ピアノでこんなに感動したの、初めてです」
「へぇ、小野さんは感受性がものすごく鋭いんだね。初めてお茶室に来たときも、お茶碗の美しさに心奪われていたものね。たいていの人はよほどその曲を聴き込まない限り、ピアノのこんな微細なタッチなんて聞き分けられないもんだよ」
「そんなこと、これまで考えたこともなかったです……」
「そう? でも小野さんのこんな芸術的気質は、きっとご両親のどちらかから譲られた天賦のものだと思うけどね」
由利はハッとしたように顔をあげ、またポロポロと涙をこぼした。
「どうしたの、小野さん。ボクはまた、キミを傷つけるようなこと、言っちゃったのかな?」
「い、いいえ。いいえ!」
ふと由利は、小山なら自分の今の気持ちを理解してくれる気がした。
「す、すみません。小山先輩。と、唐突なことを言うようですが、じ、実はお願いがあるんです」
緊張のあまり、ことばが震えた。
「落ち着いて、小野さん。ボクは何にも気分を害してないから。ゆっくりでいいから話してごらん」
「あ、あたし……今、自分の父親が誰なのかを捜しているんです。それで小山さんにお力を借りられたらと思って……」
「それ、どういうこと? 詳しく聞かせてもらっていいかな?」
由利は母親の玲子とラディに関するこれまでの経緯を話した。小山は真剣な面持ちで、黙って最後まで聞いていた。
「ふぅん、なるほど。で、キミはボクにどうしてもらいたいの?」
「実は、美月……いえ、加藤さんにも相談したんです。そしたら彼女、部長は英語に堪能だから、これを見せて添削をしてもらうようにって、助言してくれて」
眼鏡の奥にある小山の目が、キラリと光った。
「ふうん、その英語の手紙、今持ってる?」
「あ、はい」
由利は、昨日自分が書いた手紙のファイルを渡した。小山はファイルからA4用紙の紙を取り出すと、しばらくそれにじっと目を注いでいた。
「うん、そうだね。よく書けていると思うよ。これでいいんじゃない? ……強いて言うなら、ここの助動詞のcan を過去形に換えると、よりポライトな表現になるかな?」
小山は譜面台に紙を当てて、カチっとボールペンの芯を出すと、アカで訂正した。
「はい、これ」
「あ、ありがとうございます」
「うん。どういたしまして」
小山がファイルに入れて唯に返そうとしたとき、はらりと床に何かが落ちた。それは芙蓉子からもらった玲子とラディの写真だった。
それを小山がかがんで拾った。
「これ、お父さんとお母さん?」
「ええ、母です。男性のほうはまだ、父と決まったわけじゃないけど」
小山はまじまじと、写真を見つめていた。
「でも……小野さんはどっちかというと、お母さんよりも、この男性にそっくりにボクには思えるけど……?」
「えっ?」
「ほら、このおでこの感じとか、フェイスラインとか。あとは全体的な顔の配置っていうかな……。よく似ているよ」
「ホントに?」
小山は写真と由利を、もう一度交互に見比べた。
「うん。たぶんこの人が本当のお父さんで間違いないんじゃないかな?」
「あ、はい」
「それとね、次に会うときまでに、その手紙とその写真のコピーを一部ずつ、ボクにくれない? ピアノの世界って案外狭いもので、仲間内で情報が常に飛び交っているもんなんだ。安請け合いはできないけど、今度厄介になるベルリンの先生は、世間では情報通で知られているんだ。だから小野さんの事情を話して、物事がタイミングよく運べば、ひょっとして何かわかるかもしれない。先生のオーソリティに訴えれば、こんな研究機関の事務局でも動いてくれるような気がするんだ」
小山は由利が想像もつかない方法で、父親捜しに協力してくれることを申し出てくれた。
「ええっ、本当にいいんですか? 小山さん、ありがとうございます!」
由利は小山の私心のない望外の親切が、心に染みた。
「え、じゃあ、すぐに書面と写真のコピーをお持ちしますね」
「小野さん。次の日曜、何か予定が入ってる?」
唐突に小山が尋ねた。
「えっ? 次の日曜ですか? ちょっと待ってくださいね」
由利はスマホのカレンダー・アプリを見て確認した。
「ああ、今のところは何にも予定は入っていません」
「そう。それじゃあ、もし小野さんさえよければ、その日はボクに付き合ってくれないかな? 一緒に北浜まで行ってほしいんだ」
「き、北浜ですか?」
「うん。北浜に大阪市立東洋陶磁美術館ってのがあるんだ。そこへボクと行かない?」
「う、うれしいです!」
由利は素直に喜んだ。
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由利は一生懸命電子辞書とグーグル翻訳を駆使しながら、フランス国立研究所に宛てて、英文の手紙を書いた。
本当は手書きのほうが、より親密さが伝わって好感度が増すのかもしれない。だがやはりここは何よりも読みやすさを優先に考えると、英文はワープロ書きにして最後の署名だけを自筆にするのが最良だという結論に至った。
その翌日、由利は小山部長へ謝りに音楽室へと向かった。階段の途中からピアノの音が響いて来る。
聞き覚えのある曲だ。
「ショパンの革命のエチュード?」
虹色に輝く真珠を思わせる、粒のそろった柔らかな音色の連なり。
小山がこんなピアノを弾くとは知らなった。由利は音楽室のドアの傍に立って、じっと耳を澄ませていた。
小山は弾き終わるとドアの陰に潜む気配を感じ取り、誰何するために椅子から立ち上がった。
「ああ、小野さん。来てくれたんだね…」
「部長……、あたし……、いろいろと不躾なことを言っちゃって…、その、申し訳ありませんでした」
由利は小山に向かって深々と頭を下げた。
「いや、いいんだよ。ボクこそ悪かったね。最初からきちんと説明すべきだったんだ」
小山は由利の目が濡れているのに気が付いた。
「小野さん……泣いていたの?」
「あ、あたしったら……」
由利は自分の目の縁をごしごしと手でこすった。
「どうしたの? 何かイヤなことでもあった?」
「あ、そんなんじゃないんです! 小山さんのピアノがものすごく心に響いて。こんな革命って、初めて聞きました。普通はもっとぱぁっと派手に弾くじゃないですか。あ、あたし、門外漢なんで、頓珍漢なことを言ってるのかもしれないですけど、こう、苦悩に耐えに耐えているような、そんな感じがして」
「ハハ、そんなふうに聞いてくれてたなんて、光栄だね。先生からは奏法がオールド・ファッションだから、もっとクールに弾けって言われるんだけど、どうもね」
「オールド・ファッションだなんて。あたし、ピアノでこんなに感動したの、初めてです」
「へぇ、小野さんは感受性がものすごく鋭いんだね。初めてお茶室に来たときも、お茶碗の美しさに心奪われていたものね。たいていの人はよほどその曲を聴き込まない限り、ピアノのこんな微細なタッチなんて聞き分けられないもんだよ」
「そんなこと、これまで考えたこともなかったです……」
「そう? でも小野さんのこんな芸術的気質は、きっとご両親のどちらかから譲られた天賦のものだと思うけどね」
由利はハッとしたように顔をあげ、またポロポロと涙をこぼした。
「どうしたの、小野さん。ボクはまた、キミを傷つけるようなこと、言っちゃったのかな?」
「い、いいえ。いいえ!」
ふと由利は、小山なら自分の今の気持ちを理解してくれる気がした。
「す、すみません。小山先輩。と、唐突なことを言うようですが、じ、実はお願いがあるんです」
緊張のあまり、ことばが震えた。
「落ち着いて、小野さん。ボクは何にも気分を害してないから。ゆっくりでいいから話してごらん」
「あ、あたし……今、自分の父親が誰なのかを捜しているんです。それで小山さんにお力を借りられたらと思って……」
「それ、どういうこと? 詳しく聞かせてもらっていいかな?」
由利は母親の玲子とラディに関するこれまでの経緯を話した。小山は真剣な面持ちで、黙って最後まで聞いていた。
「ふぅん、なるほど。で、キミはボクにどうしてもらいたいの?」
「実は、美月……いえ、加藤さんにも相談したんです。そしたら彼女、部長は英語に堪能だから、これを見せて添削をしてもらうようにって、助言してくれて」
眼鏡の奥にある小山の目が、キラリと光った。
「ふうん、その英語の手紙、今持ってる?」
「あ、はい」
由利は、昨日自分が書いた手紙のファイルを渡した。小山はファイルからA4用紙の紙を取り出すと、しばらくそれにじっと目を注いでいた。
「うん、そうだね。よく書けていると思うよ。これでいいんじゃない? ……強いて言うなら、ここの助動詞のcan を過去形に換えると、よりポライトな表現になるかな?」
小山は譜面台に紙を当てて、カチっとボールペンの芯を出すと、アカで訂正した。
「はい、これ」
「あ、ありがとうございます」
「うん。どういたしまして」
小山がファイルに入れて唯に返そうとしたとき、はらりと床に何かが落ちた。それは芙蓉子からもらった玲子とラディの写真だった。
それを小山がかがんで拾った。
「これ、お父さんとお母さん?」
「ええ、母です。男性のほうはまだ、父と決まったわけじゃないけど」
小山はまじまじと、写真を見つめていた。
「でも……小野さんはどっちかというと、お母さんよりも、この男性にそっくりにボクには思えるけど……?」
「えっ?」
「ほら、このおでこの感じとか、フェイスラインとか。あとは全体的な顔の配置っていうかな……。よく似ているよ」
「ホントに?」
小山は写真と由利を、もう一度交互に見比べた。
「うん。たぶんこの人が本当のお父さんで間違いないんじゃないかな?」
「あ、はい」
「それとね、次に会うときまでに、その手紙とその写真のコピーを一部ずつ、ボクにくれない? ピアノの世界って案外狭いもので、仲間内で情報が常に飛び交っているもんなんだ。安請け合いはできないけど、今度厄介になるベルリンの先生は、世間では情報通で知られているんだ。だから小野さんの事情を話して、物事がタイミングよく運べば、ひょっとして何かわかるかもしれない。先生のオーソリティに訴えれば、こんな研究機関の事務局でも動いてくれるような気がするんだ」
小山は由利が想像もつかない方法で、父親捜しに協力してくれることを申し出てくれた。
「ええっ、本当にいいんですか? 小山さん、ありがとうございます!」
由利は小山の私心のない望外の親切が、心に染みた。
「え、じゃあ、すぐに書面と写真のコピーをお持ちしますね」
「小野さん。次の日曜、何か予定が入ってる?」
唐突に小山が尋ねた。
「えっ? 次の日曜ですか? ちょっと待ってくださいね」
由利はスマホのカレンダー・アプリを見て確認した。
「ああ、今のところは何にも予定は入っていません」
「そう。それじゃあ、もし小野さんさえよければ、その日はボクに付き合ってくれないかな? 一緒に北浜まで行ってほしいんだ」
「き、北浜ですか?」
「うん。北浜に大阪市立東洋陶磁美術館ってのがあるんだ。そこへボクと行かない?」
「う、うれしいです!」
由利は素直に喜んだ。