境界の旅人 28 [境界の旅人]

第七章 前世



 気が付けば由利は常磐井の身体にもたれながら、タクシーに乗っていた。

「ん・・・、ここは?」
「あ、まだ眠っていていいよ。今はタクシーの中。もうすぐ家に着くから安心して」

 肩に回されていた手が小さな子どもをなだめるように、ぽんぽんと二回軽く打った。由利は体中が重たくて抗う力もなく、言われた通りに再び目を閉じた。
やがて車は家に到着したらしく、うっすらと目を開けると辰造が外で待っているのが見える。

「こんばんは。ぼくは由利さんのクラスメイトで常磐井悠季といいます」
「ああ、あんたが常磐井君か、名前だけは由利からうかごうてます。なんや合宿に連れて行ってもらって、えらいお世話になってしまって」
「いえ、そんな。とんでもないことですよ。ところでぼく、夕方に出町柳で偶然由利さんと出会ったんですが、由利さんはちょっと具合が悪そうだったんです。それで下鴨神社の参道で涼んでいたんですが、急に気を失ってしまわれて・・・。こんなことなら、神社なんかでぐずぐずしないで、もっと早くお家に返してあげるべきでした」

 常磐井はいつになく非常に礼儀正しい態度で、理路整然と尤もそうな口実を祖父に説明していた。由利はそれをぼうっと遠くで聞きながら「策士め。おじいちゃんまで取り込んじゃって・・・」と心の中で毒づいていた。

「まぁ、それにしても、よう由利を運んできてくれたなぁ。おおきに、ほんまにおおきに」

 しきりに祖父が礼を言っているのが聞こえる。

「いえ、そんなことは」
「由利、由利! 起きや! 着いたで!」

 辰造がタクシーの中にいる由利に声を掛けた。

「あ、おじいさん。今はそっとしてあげてください。由利さん、たぶん熱中症なんですよ。昼間、暑い中をずっと水分を取らないで歩いていたみたいだから。疲れているんじゃないかな?」

 そういうと常磐井はぐったりしている由利を赤ん坊でも抱えるようにひょいと抱き上げた。

「おじいさん、ぼくが中まで由利さんを運びますから」
「いや、そうかぁ? なんか悪いなぁ。ホレ、この子は大きいから、重たいやろ?」
「いいえ」

 きっぱりと常磐井は答えた。祖父は相手の筋骨隆々とした身体を見て、その答えに偽りはないと納得したようだ。





 由利が再び目を開けると、きらきらと銀のうろこを光らせながら、部屋の中を何かが悠然と泳いでいるのが見える。

「きれい・・・」

 由利はうっとりしてそれを眺めていた。

「あなたはだあれ? どうしてこんなところで泳いでいるの?」

 由利は夢見心地で、ぼんやりと心の中に沸き起こった疑問を声に出してつぶやいていた。すると銀のうろこで光るものは悲し気に言った。

「わたしのことをお忘れですか、女御さま? 何と情けない。中将殿のことは思い出していただけましたのに。わたしは名前さえも憶えておられない・・・。口惜しゅうございます。あなたさまにはあれほど心を込めてお仕えして参りましたものを・・・」

 声は恨めし気に掻き口説いた。

「えっ?」
「ではせめて、これをわたしのよすがとして偲んでくだされ」

 それから次の瞬間には由利はまばゆいばかりの神々しい光に身体を包まれていた。





 気が付けば由利は二階の自分の蒲団に寝かされていた。

「あれぇ?」

 由利は寝床から起き上がって、階段を下りて行った。下の居間では辰造がテレビを見ていた。

「お、由利。少しは元気になったか?」
「もしかして常磐井君がここまで連れて来てくれたの?」
「そうやで。突然おまえのケータイちゅうんかスマホちゅうんか知らんけど、そこから常磐井君が電話を掛けたらしい。てっきり由利からの電話やと思ったら、知らん男の声やろ? それにしてもたまげたわ」
「え、常磐井君から電話があったの?」
「そうなんや。この家の番号が判らんから、おまえの電話を借りたっちゅうことや。今どきの高校生にしてはえらい礼儀正しい子で、びっくりしたわ」

 それはおじいちゃんを懐柔させるための偽装に決まってるじゃないの、と由利は心の中で思ったが、今は黙っていることにした。

「へぇ、どうやってパスワードが判ったんだろ?」
「あ、それもなんか言い訳しよったで。とりあえずおまえの親指を当てて、解除したんだと」
「あ、なるほど。本人が気絶していても、親指の指紋さえ合っていれば、そういうことができるわけよね」

ーそのついでに、あちこちアプリを開いてあたしの秘密を嗅ぎ出そうとチェックしていたに違いないー

「そいで由利を家につれて帰りたいから、住所を教えてくれっちゅうってな。それにしても下鴨神社の参道なんかで倒れたら、表の車道までかなりの距離もあるし、負ぶってくるのは大変やろうと思って心配していたら、なんやタクシーから出てきよったんは雲を突くような大男でなぁ。軽々とおまえを担いでおったわ。あれが道場やってるちゅう家の息子か? 常磐井君を見たら、ほんまに金剛力士みたいなんでたまげたわ。最近の高校生はデカいんやなぁ」

 辰造はほれぼれと感心したように言う。

「いやいや。彼は特例中の特例だから。百八十八センチなんて、そうそう探したって見つからないよ」
「せやけど、由利とやったらお似合いやんか」

 常磐井の体育会系らしい爽やかで折り目正しい態度を気に入ったのか、辰造はやたらとほめる。

「背の高さだけで言えばね」

 由利は仏頂面で答えた。

「何や、由利。常磐井君はおまえの恩人とちゃうんか? もっと感謝せなあかんで」

ー神社の中で本当は何があったかおじいちゃんも知ったら、そんなに笑ってはいられないんだからー

「あー、はいはい」



「そっかぁ。常磐井君がここまでタクシーで連れて来てくれたのか」

 しばらくして由利がぽつんと言った。

「そうやで、ついでやしって二階のおまえの部屋まで運んでくれたわ」
「ふうん。ヤツはとうとうあたしの家どころか、あたしの部屋まで侵入してきたのか。『機を見るに敏なり』とはまさにこのことね・・・」

 くよくよしていても仕方がないので、由利はとりあえず冷たくなったお味噌汁を温めて、冷蔵庫にあったキムチと冷や奴で夕飯を済ませた。

「ふうん。何や知らんけど、食欲だけはあるみたいやな。とりあえず大丈夫みたいやな」

 祖父はほっとしたように言った。

「うん、おじいちゃん、いつも心配かけてごめんね」



 気が付けば身体中が汗でベッタベタだ。しかもおろしたてのコテラックのワンピースは倒れたのと、蒲団に寝かされていたので、しわくちゃになっていた。情けない姿に変わり果てた洋服を見て由利は鏡に向かってつぶやいた。

「何て可哀そうなあたしのコテラックちゃんなの。おお、よしよし。大丈夫。明日由利ちゃんがクリーニング屋さんに連れて行ってきれいにしてもらうから。それに小山さんとのデートには、しっかり役立ってくれたんだからいいのよ、よく頑張ってくれました! パチパチ」

 まず歯ブラシにクリニカを塗って歯を徹底的に磨き、最後はマウスウオッシュで念入りにうがいした。そのあと風呂に入ってさっぱりしたあと、快適な温度にまでコントロールされた部屋で、由利は蒲団に寝転がりながらスマホを開いた。
 美月からメッセージが入っていた。

「ねぇ、由利。びっくりよ。小山先輩が急にベルリンのほうへピアノの修行に出かけちゃったんだって! 知ってた?」 

 由利は初めてそれを聞いたように装った。

「ええっ? 小山さんがベルリンへ! それは初耳! 知らなかった~」
「あたしも寝耳に水だよ。何でも小山さんの肝入りで二年生の鈴木先輩が部長を務めることになったんだって!」
「へ~、しばらく小山さんはあっちにいるつもりなのかな?」

 由利は美月に白々しい質問をする。

「どうもそうらしいよ」
「そうなんだねぇ・・・。なんかショック・・・」

 由利は昼間小山に告白された内容を思い出していた。だがこれは誰にも言うつもりはなかった。

「ねぇ、あさっては『五山の送り火』だからあたしンちに来ない? 会社のビルの屋上からだとよく見えるよ。おかあさんもね、ぜひいらっしゃいって。ね、一緒に浴衣を着ない?」

 美月が次々と新しいメッセージを送って来る。

「ええっ、あたし浴衣なんて持ってないよ! それに今まで着たことないし」
「大丈夫。うちは着物屋だよ? 浴衣なんて腐るほど持ってるし。心配しないで。貸してあげる。お母さんは着付けの先生だから、そっちのほうも心配もないよ!」
「え~、何か申し訳ないような気が・・・。いいの?」
「うん。由利なら大歓迎だよ。ぜひ!」
「ところで『五山の送り火』って何?」
「知らない? ほら東の方向に『大』って文字が書いてある山が見えるでしょ? 送り火の日にはその字に火が灯されて、この世を訪れていたご先祖さまの霊をお送りするのよ」
「ああ、大文字焼きのことか!」
「ちょっと。その大文字焼きって言うのは、間違いだからね。どら焼きみたいに言わないで」

 また歴女の辛辣なクレームが入ったので、素直に謝った。

「ごめん、ゴメン。無知で~」
「ね、考えてみて? 決まったら返事ちょうだいね!」
「うん。とりあえず明日おじいちゃんに訊いてみるね。きょうはもう、寝ちゃったみたいだから」

 由利のコメントがいつもより若干短く乗ってこないのを見て、美月は早々と切り上げようと決めたらしかった。

「了解! じゃおやすみ」
 由利も心配している美月に悪いと思いつつ、会話を短めに終わらせてくれたのはありがたかった。感謝の気持ちを込めて、チップとデールのおやすみスタンプを押した。

 そしてやはりというべきか、常磐井からも当然のようにメッセージが入っていた。

「やぁ、由利ちゃん、少しは元気になったのかな? オレとのキスに気絶するほど感激してもらえたなんて、かえってこっちが恐縮しちゃいます。今度はもっと濃厚なのをしてあげるね♡ お蔭様で由利ちゃんの可愛いお部屋にも入らせてもらったし。由利ちゃんの愛読書が何かも知ることができてよかった。案外、硬いものを読んでいるんでびっくりです。高校生がモーパッサンって結構すごいなと思って帰ってきました。それじゃね(^^)/」

 視線をスマホから机に移すと、机の上にはモーパッサンの『ベラミ』が置いてあるのが見えた。

「何言ってんのよ、この筋肉バカ! ったく! 脳みそも筋肉でできてるんじゃないの? 能天気なことばっかり言ってくれちゃって! あたしはアンタの彼女じゃない! キスだって全然よくなかった。ってか、気持ち悪い! それに人の部屋に何勝手に入ってんの! アンタはあたしの一体何を解ってるっての! どうせスケベなアンタなんて考えてることはひとつよ! もうっ! 常磐井悠季のバカバカバカっ!」

 由利はむかむか来て、スマホを蒲団の外へと放り出した。

「ふうっ」

 由利は蒲団に大の字に寝転がって、ため息をついた。

「何だかすごい一日だったような気がする・・・。いや、気がするんじゃなくて実際、すごい日だった」

 日中は小山と一緒に世にも美しい茶碗を見て心を揺さぶられていた。小さな黒い茶碗の中には、ミクロコスモスといっていいほどの広大な宇宙が広がっていた。そのあまりの美しさにふたりはただ呆然としてことばもなく見惚れていた。

 あたしは、小山さんとは恋人同士にはなれないかもしれないけど、ほら、今日だって、あのお茶碗を一緒に見て美しいと感じることで、十分に意義のある時間を共有できたと思いませんか? 

 心でつながっているんです、芸術を愛することを媒体にして。

 たとえまっとうな男だったしても、誰でもこんな風になれるなんて思っていません。そう思えば単なる身体のつながりなんて空しい。

 由利は昼間、小山に告げたことばを思い出した。
 黒い夜空に瞬く天の川のような碗。小山はその価値を由利ならきっと理解できると思って一緒に行くことを決意したという。

 由利は本当の意味での「愛し合う」ってどんなことだろうと天井を見つめながら考えた。

 同じ価値観を共有できる人と感動を共にすること。これも間違っていないと思う。でもこれは比較的穏やかで理知的な愛だ。

 真実を知らされてたとしても、由利の心の中で未だに小山は、燦然と輝く王子さまの位置を失っていなかった。小山が身に着けている人を圧倒するような知性のパワー。それにまだ世に出ていないにせよ、彼女自身がすでに本物の芸術家であり茶道家だった。昼間、由利は小山に「あなたは奇跡が生ましめた油滴天目茶碗だ」と言った。

 ―そのことばに嘘偽りはないー。


 だが由利はその同じ日に、まったく正反対の「性愛」の有無を言わせない理屈抜きの力強さにも触れてしまった。

 たしかに由利は以前から、常磐井が弓を打つときのことばでは表現できない緊張感、的に向かうときの真剣な表情を好ましいと見ていた。だがそれだけで、内面はほとんど理解できているとは言いがたい。

彼が何を信じ、何を大事に生きているのかー。それすら知らない。

 お互い理解しあっているならともかく、そんなろくに知らない異性とくちびるという最も敏感な部分を接触させるだなんて、理性的に考えれば不快感を覚えて当然な行為のはずだ。それなのにずっと触れられていたいと思った自分は、一体どうしたというのだろう。

 由利は自分のくちびるに指で触れてあのときの常磐井のくちびるの感触を思い出していた。

 ほんのわずかの時間だけれど、それをきっかけにして常磐井とふたりで時代を飛び越えてしまった。

 飛び越えた先の時代の女御も臣下である中将に懸想され、思いがけず抱きすくめられていた。そして恐怖に怯えながらも、男の愛撫に恍惚となったことに戸惑っていた。今の由利には女御の気持ちがよく分かる。

 常磐井と中将には、立ち振る舞いそして佇まいに隙がない。そこに一種の男らしいなまめかしさがにじみ出ていた。自分もそんなセンシュアルな力に惹かれてしまったのだろうか。

 由利は苦々しげにくちびるを噛んだ。

「あたしと常磐井君が、前世では室町時代の女御と中将だった? まさか! それじゃまんま、『セーラームーン』じゃないの! クィーン・セレニティとエンディミオンってか? アホくさ。そんなはずないじゃない!」

 由利はひとつ世代が上の『セーラームーン』のアニメが好きだった。

 ※出逢ったときの懐かしい まなざし忘れないー。
  不思議な奇跡クロスして 何度も巡り合う
(※『美少女戦士 セーラームーン』『ムーンライト伝説』より引用)

「そんなバカな! 昔の人間の身体に入ったからって、どうしてそれが自分の前世だと断定できるの! たまたまよ、たまたま! 常磐井君はあんまり自分の体験が生々しすぎて、それにつられてあたしを愛していると思い込んでいるだけよ!」

 由利はむしゃくしゃする気持ちを抑えかねて、今度は蒲団からむくっと上半身だけを起こした。

「あれっ?」

 短パンをはいている右の太ももの内側に今まで見たこともないようなあざができていたのを見つけた。真っ白な皮膚にピンク色の、何か不思議な文様が浮き上がって見えるのだ。突然、由利はあっと叫んだ。

「もしかして、これって・・・ウロコの形?」

 由利は夢うつつでみた、不思議なヴィジョンを思い出した。

―ではせめて、これをわたしのよすがとして偲んでくだされ―


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