境界の旅人 5 [境界の旅人]



「ありゃりゃ、しもたなぁ。白みそを切らしていたんやったなぁ」 
   通り庭にしつらえてある台所の棚を見て、辰造がひとりごとを言った。
   最近は由利も、辰造のそばで晩御飯の手伝いをするようになった。本当ならば辰造ひとりで作ってしまった方がさっさとできて早いのだが、横で孫娘が手伝いともいえぬような手伝いをしていても、ちっとも嫌な顔もせず丁寧に教えてくれる。その甲斐もあって手伝いを始めた当初は手伝いというよりも邪魔しているのに過ぎなかったのだが、最近は御汁の上に浮かせるネギぐらいならさっさと切れるようになってきた。
 今晩はパリパリに焼いたお揚げと分葱の「ぬた」を作ろうとしていたところだった。
「どうしたの、おじいちゃん?」
「う~ん、しもたなぁ、白みそがないわ」
 祖父と暮らすようになってから、献立に白みそを使ったものが多くなった。辰造が作るものはお揚げや豆腐と季節の野菜といったシンプルな素材のものが多かったけれど、由利にはそれが妙においしく感じられた。
「じゃあ、あたしが今からスーパーまで、ひとっ走りしてくるよ」
「ああ、あかん、あかん。スーパーのはな、なんや知らん、味のうて」
「味のうて?」
   由利はぽかんとして訊き返した。
「味ないってこっちゃ」
 祖父は言い直した。
「味ない?」
「はは、由利は『味ない』は解らんか?『おいしくない』ということや」
「ああ、だから味が無いのか。なるほど、なるほど」 
 由利はようやく祖父の言っている意味が解った。
「じゃあ、どこで買ってきたらいいの? 大丸? それとも錦? まだ五時前だし、時間は十分にあるよ」
「そうやな。ほな、行ってきてもらおうかな。うちら上京に住んでいるもんは、昔から白みそっちゅうたら、本田さんの白みそに決まっているんや」
「へ~ぇ、でもおじいちゃん。それは権高い京都人の一種の京都ブランド信仰ってヤツじゃない?」
 由利は少し意地悪く質問した。
「いやいや、由利。京都人はそんな酔狂な見栄っ張りじゃないわ。みそっちゅうもんは生きているんや。麹を使って昔ながらの製法で作られたもんは、何や知らんが旨い。高いと言ってもな、せいぜいスーパーで売ってるもんとでは何百円ぐらいかの違いやろう?」
「そうなのかな?」
「そうやで。人間、生きてる限りは腹が空く。三度三度の飯を粗末にしていると、人は人生の悦びというものを忘れてしまうんや」
 由利はそれを聞いて東京で一生懸命働いていた母、玲子のことを瞬間的に思い出した。もちろん祖父の言うことも一理ある。きれいに掃き清められた部屋。きちんとたたまれた洗濯物。心を込めて作った料理。それを盛り付けるための吟味された器。だがそんなふうに日常の細々とした些末なことにばかりに比重置いていると、大局的な人生の目的を見失ってしまう。
   マルチビタミン・ゼリーとカロリーメイトを食べながら、仕事で徹夜している母の姿が目に浮かんだ。
   祖父の言い分もわかるが、母がそれに反抗する気持ちも理解できる気がして、由利の胸中は複雑だった。
「場所はな、一条通りを御所に向かって、室町通に面しとるし、すぐや」
「室町通り・・・」
   祖父に教えられた通りに行くと、比較的広い通りの角にひときわ大きな白壁の店が現れた。玄関には柿渋色に、『丸に丹』の字を染め抜いたのれんが下がっている。
「うひゃ~、すごい。高級そう」
 高校生がひとりで入るには気おくれしそうな外観だったが、なにせ祖父に頼まれたお小遣いなので引き返すわけにはいかない。
 店に一歩足を踏み入れた途端、ずらっと大きな樽にさまざまな味噌が盛られており、店の中はふわっと麹のいい香りで満たされていた。
「おいでやす。何にいたしまひょ?」
 三角巾をきりっと被った、それでいて優しい物腰の店員さんに訊ねられた。はんなりした京ことばがよく似合っている。由利はここにいる自分がひどく場違いでいたたまれない気がしたが、勇気を振り絞った。
「えっと料理用の白みそが欲しいんです」
「どないなお料理でひょ?」
「えっとぉ、分葱とお揚げのぬたを作っていたんですけど・・・」
「ああ、かしこまりました。そんなら、これどすやろなぁ」
 店員があらかじめパックに充填されたものを手渡してくれた。

 無事に買い物を終えると緊張から解放されて、帰路はぶらぶらとそこらへんを探索しながら歩いて行った。ここいらはただ歩いているだけでも、ひどく楽しい。さっきのような古い老舗の味噌屋もあれば、ものすごくモダンなパティスリーやお洒落なベーカリーもある。
 由利は縦方向に伸びる室町通を一条通りから、中立売まで下がって行った。それからその角を曲がって西へ行き、途中でスマホを検索してみると『楽美術館』といって茶道で使う楽焼きの茶碗を扱う専門の小さな美術館があることも発見した。
「へぇ、今度行ってみよ」
 由利はスマホのリマインダーに『楽美術館』とタイピングした。

 堀川通りに出ようとした手前あたりで、由利は思いがけず赤レンガでできた古い建物を見つけた。
 その建物は補修工事もこれまで施されることもなかったのか、うらぶれてぼろぼろだがその昔には由緒ある建物だったに違いないある種の風格をにじませていた。
 由利はこの赤レンガの朽ち果てた建物を見て、英国児童文学の傑作と言われているフィリッパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』を思い出した。この目の前の建物からはピアスの作品の中に出て来るような、時代を経て安アパートに成り下がった貴族のマナーハウスの威厳のようなものが漂ってくるのだ。
「ここって何なんだろう?」
 興味に駆られて思わず近寄ってみると、赤いレンガの壁に今はさまざまなエアコンの室外機がぶら下がっている。本来は窓も縦方向に大きく取られていた。だがそれが東側に向いているせいで眩しすぎて朝もゆっくり眠れないためなのか、あるいは断熱材として用いられたのか、内側から改めて別の木の板で小さく囲われていた。それがかえってこの建物をひどく貧乏くさいものにさせていた。建物の後ろは駐車場になっている。よく見ればすべてアスファルトで舗装されておらず、ある部分だけは大きな御影石がいくつもはめ込まれていた。
 表に回って建物の正面を見てみたいと思い、由利は中立売通りを一端出て東堀川通りを下がると、その建物の入口はどこかと探した。だが由利の予想に反して、そこには建物に似つかわしい大きな入口はなく、普段歩いていたなら見逃してしまうほどの、細い細い路地が奥へと続いていた。由利は恐る恐るその奥へと進んで行くと、建物の入口に「白梅寮」と書かれた看板が取り付けてあった。扉もない入口をくぐると玄関先に十個ほどの郵便受けがあった。その中に投函されているダイレクトメールや不動産屋のチラシを見れば、つい最近のものだとわかる。
「あ、ここってたぶんアパートなんだ。少なくとも今でも人が住んでいるみたい」
 もう一度、東堀川通りに戻って建物の全体を見ると、外壁の塗装はボロボロだけれど、入り口の上にアーチ型の窓が設けられており、その上に何かの紋章らしき飾りが剥がれ落ちた形跡がある。アングロサクソン系のプロテスタント教会のような形からして、同支社大学のアーモスト館か、烏丸下立売の角にある聖アグネス教会などと同時代、同傾向の建物と思われる。おそらく作ったのは明治時代に活躍したヴォーリスかガーディナー。あるいはそれに準ずる位置にあった日本人建築家だろう。察するに、それが以前は別の目的で作られた何かだったことだけは解るのだ。

   そうやって頭をひねりながら、その場所から離れようとしたとき、中立売橋を渡って歩道を少し北へあがったところに、やはり桃園高校の制服を着た、御所で妖怪どもから救ってくれた例の少年が佇んでいた。
「あれは・・・三郎?」
 由利は急いで道を横切り、その少年のところへ駆けて行った。三郎は土手に掛かった背の高いガードレールに肘をついて上半身をもたれさせ、物思いにふけっているようだった。群れから一羽だけはぐれた鳥のような横顔に由利の胸はうずいた。
「ねぇ、ちょっと! あなた!」
 びっくりしたように少年が振り返った。
「また、おまえなのか?」
 少年は大きく目を見開いて由利を凝視したきり、絶句した。
「おれともあろう者がおまえの気配だけはどうも察知できないらしい・・・。何でなんだろうな」
 そんな三郎の困惑などものともせず、由利は自分の心の中にあった疑問を集中砲火のように浴びせかけた。
「ねぇ、あなた。桃園高校の生徒だったのね! 入学式の日にあなたを見たわよ!」
「ああ、そうだったな・・・。おまえにはおれのことが見えるようだからな、・・・どういうわけだか」
 三郎は不機嫌そうな低い声でつぶやいた。由利にはそれが聞こえなかったらしい。
「え、今なんて言ったの? あたしがあなたを会うと何か不都合なことでもあるの? ねぇ、この間の御所の近衛邸で出会ったお化けは一体何だったの?」
 三郎は呆れたように言った。
「そういっぺんにたくさんの質問をするなよ、どれから答えたらいいんだ?」
 そう言いながら、三郎は苦笑した。笑うと案外と年相応に可愛かった。
「ねぇ、あなた。うちの学校の生徒なんでしょ?」
「ふふ。うん、まぁ、そういうことにしておこうか」
 三郎はまた曖昧な答えをして、由利を煙に巻いた。
「なあに? 『そういうことにしておこうか』って? じゃあ、違うって言うの? だけど、現にあなた、今うちの学校の制服を着ているじゃない?」
「まぁ、人間の中では、おまえのようにごくごくまれに、おれのことが見えるヤツもいるからな。そんなときは、こういう恰好をしているほうが、今の街になじんで怪しまれなくて済む」
「生きてる人間? じゃあ、あなたって何なの? ユーレイ? 妖怪?」
 その問いには、三郎は終始無言だった。もともと端から答える気が無いらしい。仕方なく由利は話題を変えた。
「あなた三郎って呼ばれていたわよね」
「ん? 何?」
「あたしはね、あなたの名前は三郎なのかって訊いているの!」
「ああ、おれの名前を尋ねているのか? 今のおれには名前なんて不必要なものだ。そうだな、おまえが三郎と呼びたいなら、そう呼べばいい」
 また質問をはぐらかされ、正直由利はイライラしてきて大きくため息をついた。でもここで諦めては真実は聞き出せなくなる。それで思い直し、なるべく冷静さを取り戻そうとした。
「・・・しょうがないわね。じゃあ、本当はどうだか知らないけど、あなたは三郎よ」
「うん、三郎。それでいいんじゃないか?」
「では三郎クン、ここで何をしていたの?」
「ああ、おれか? ここで昔を偲んでいた」
 三郎はまた、由利の予想していた答えとはかなりかけ離れたことを言った。
「昔?」
「そうだ・・・。ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がしてな・・・。どんなに懐かしい、そこに留まっていたいと願っていても、時の流れには何人と言えど、逆らえない。それと同時に過去へも決して逆行することはできない」
 三郎が急にいわくありげなことを言うので、由利は何と答えていいかわからなかった。それに三郎はこんな制服を着ていても、どこか俗人離れしたようなところがあった。
「時代が移りゆくにつれ、たとえ地理的には同じ場所に立っていたとしても、目に映る景色はまった違っているものだ。解ってはいるが、ときどきそれが、妙に切なくなってな・・・」
 三郎は由利の気持ちを知ってか知らずか、こんなことを言った。
「もともとこの堀川は鴨川の元流だったんだ。その昔、鴨川は暴れ川でしょっちゅう氾濫を繰り返していた。だが桓武天皇がこの山城の地に平安京を造営される際、市中にこのような大河があるのはよろしくないと仰せになったので、,出町の辺りで高野川と合流させたんだ」
 三郎は由利に中立売より北に上がった堀川を指さした。
「それでもともと鴨川の水路だったここに掘割の運河を作ったんだ。この堀川は、今いる中立売から一条戻り橋にかけて川幅は広く取られているし、しかも川底が深い。運河にしては他には例もないほど、ものすごく深く掘られていて、だいたい長さにして四丈・・・いや、十二メートルぐらいかな。だからまぁ、いわば人為的に作られた渓谷だったんだ。だが今はどこぞの価値もわからない小役人がこういう由緒ある運河を、どういう意図でやったのかは知らんが、大枚をはたいてこんなつまらない公園もどきに作り変えてしまったんだけどな」
「あ、ほんとだ」
 堀川をのぞくと、セメントで塗り固められたせせらぎが流れ、その脇には遊歩道がつけられている。だが掃除を十分されておらず通る人もないその場所は、ひどく猥雑で汚らしく見えた。それをじっと眺め続けている三郎の姿はなぜか容易にことばをかけられない厳しさを漂わせていた。由利は声をかけることもできず、仕方がないのでしばらく辺りを見渡していた。
「すごいね。三郎クン。ここら辺の地理と歴史に詳しいんだね」
 少し間が開いたあと、由利は改めて三郎に話しかけた。
「いや、別に。ここに長く住んでいれば、自然と事情にも詳しくなる」
「長く住んでいたらって・・・。三郎クン、それじゃまるで何百年も生きてた仙人みたいじゃないの」
 それを聞いて三郎はすこしやるせない顔をした。残念なことにわずかな徴に気づかなかった由利は、地元の歴史に詳しそうな三郎に質問した。
「ねぇ、三郎クン。不思議に思っていたんだけど、ここって西側に大きな堀川通りがあるのに、東側には一方通行しかできそうもないこんな細い道があるのはなぜなの?」
 三郎は思いがけない質問をされて、気がそがれたようだった。
「あ、ああ。こっちの大きな通りは戦時中に類焼を防ぐためと、軍用の車を迅速に通すために家を壊してできた道だ。他にも御池通りと五条通りもそうだ。あの通りだって二車線あって広いだろ? だから元来の堀川通りとはそっちの側の細い道のことなのさ」
「え、この道?」
「そうだ。これだけで驚いていてはだめだ。しかもこっちの細い道路はなんと今から六十年も前まではそれこそチンチン電車が走ってたんだぜ?」
「え、そうなの? こんなせまい道なのに?」
「ああ、そうだ」
 三郎は場所を移動して、中立売橋を少し下がった場所を指さした。
「ほら、あれを見てみろ」
「ん? あ、なんか斜めに赤レンガが敷き詰められた跡があるけど? これって橋の跡?」
「そうだ、これが昔の北野線の電車が走っていた橋梁の跡なのさ」
「へぇ~」
 由利は三郎の知識の深さに感心しながら、歩道から今は東堀川通りと呼ばれている、かつての堀川通りをしげしげと眺めた。
「さ、もう帰れよ。家でおじいさんが白みそを買ってくるのを待っているんじゃなかったのか?」
 ぶっきらぼうにしか話さない三郎の声にわずかだが優しさが含まれていた。
「うん! ああ、そうそう。もう帰んなきゃ」
「そうだ、今頃、家でおじいさんが心配しておられるだろう。早く帰ってやれ」
.   家路を一歩踏みかけて、由利はふと心の中で疑問が沸き起こった。なぜ三郎は由利の家のそんな立ち入った事情まで知っているのかと。
「え、三郎クン! どうしてそんなことまで、あなたが知っているの?」
 もう一度後ろを振り返ったときには、三郎は既にそこにはいなかった。








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