奈良 元興寺 極楽坊へ [ひとつの考察]
皆さま、こんにちは。
先日奈良へ行ってきました。
で、世界遺産にも登録されています『元興寺』っていうところへも行ってきたんですよ。
私は、歴史に詳しいと思っていらっしゃる方もいるかと思うけど、
実はそういうことは全くありませんで、
全体的な通史というものに非常に詳しいのは夫のほうです。
で、彼が「奈良へ行ったなら『元興寺』にも行ってみたい」
っていうので、
「『元興寺』? にゃんや、そりゃ?」
ってことで、真の歴史好きの夫からレクチャーを受ける。
なんでも『元興寺』っていうのは、もともと飛鳥にあった飛鳥寺(法興寺)が
奈良に移って『元興寺』となったそうなのであります。
飛鳥寺ができたのは588年のことだから六世紀。
仏教が伝わってすぐにできたお寺なのでしょう。
平城京にあってこの『元興寺』はもんのすごくでっかいお寺だった。
平城の一つの区画を坊条っていうんだっけ?
その一番小さい区画を8個分あったということです。
すごいなぁ、平安京にある京都御苑並みにでかかったということです。
しかし、こういう巨大なお寺って、本当はとてつもなく維持費が大変なんです。
だいたいにしてそこに修行しているお坊さんたちの三度三度の食費をどこから調達することができたかというと、それはバックにやっぱり巨大な荘園というものがあるからこそ、そういうことができたんですよね。
いつの時代も幅を利かせていたのは金の力です。
ところが、平安京へ遷都するとき、お寺は随行することを許されませんでした。
帝の覚えがめでたくない。ここで荒廃が始まるわけですよ。
で、時代が進んでいくと平重衡が南都を焼いたことにより、だんだんとこの壮大な『元興寺』も勢力を縮小していかざるを得なくなってのですね。
みてくだい。もともとあった、南大門も、お寺の心臓部ともいえる、金堂も講堂も、当時はふたつあった塔も焼亡してしまいました。
それでどうにか奇跡的に残ったのが、今日、極楽坊といわれる部分だけです。
この極楽坊というのは当時は東室南階大房の一部分のことを指しました。
極楽坊ってどういうところかというと、ひらたく言えば、お坊さんたちの宿坊ですね。
ところで、お坊さんっていえば、すぐにお寺の僧侶と結びつきますが、本当はこの宿坊に住んでいるから、「お坊さん」坊の主は「坊主」です。
坊って房だと思うんですよ。「房」って部屋っていう意味もあります。
(ことばの変遷って面白いですね)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
で、まぁ奈良時代は超巨大で勢力を持っていたお寺もだんだんと時代がたつにつれ、極楽坊だけが残されて非常に貧しいお寺となったのです。
本当はこのお寺は「真言律宗」というちゃんとした教派もあるにはあったのですが、
もう後ろ盾になってくれる天皇とか貴族とはいませんので、ともかく「寺」として生き延びていくことに必死になるんですね。
で、それを支えてくれていたのが、民衆です。
で『元興寺』はこの民衆に支えられて生きてきたわけですよ。
だから、なんていうか、曼荼羅もありゃ、阿弥陀さんもあったり、聖徳太子なんかも祭られていたりで、宗教のごった煮の寺と化していきました。
でも、案外とそういったごたまぜ状態が却ってよかったみたいで、元興寺ってお寺の仏像やなんかの修復の技術を身に着けて、全国の仏さんが痛んだところを直していくんですね。
で、今日「元興寺文化財研究所」って機関を持っているんですよねぇ。
実にひょうたんから駒というか、何がきっかけで
生き残れるかってのは思案のほかって感じがしました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まぁ、国宝として極楽堂ていうのと禅室(僧坊)っていうのが残っているんですね。これが非常に古い。
入ってみると、軒が非常に低くて、平均的日本人なら鴨居に頭が閊えてしまう。
昔の人って小さかったんだなぁって思います。
この極楽坊の周りはたぶん長い歴史の間に積み重なった、卒塔婆が一か所に集められています。
で、なんというかその姿がですね
手塚治虫の「どろろ」の漫画に出てくる「地獄堂」そっくり。
手塚先生はこれをモデルにされたのではないだろうか?って思いました。
名前も元興寺のほうは「極楽堂」どろろは「地獄堂」だし。
結構、奈良へ行くと京都の寺とはまた趣の違う面もたくさんあっ非常に興味深いです。
先日奈良へ行ってきました。
で、世界遺産にも登録されています『元興寺』っていうところへも行ってきたんですよ。
私は、歴史に詳しいと思っていらっしゃる方もいるかと思うけど、
実はそういうことは全くありませんで、
全体的な通史というものに非常に詳しいのは夫のほうです。
で、彼が「奈良へ行ったなら『元興寺』にも行ってみたい」
っていうので、
「『元興寺』? にゃんや、そりゃ?」
ってことで、真の歴史好きの夫からレクチャーを受ける。
なんでも『元興寺』っていうのは、もともと飛鳥にあった飛鳥寺(法興寺)が
奈良に移って『元興寺』となったそうなのであります。
飛鳥寺ができたのは588年のことだから六世紀。
仏教が伝わってすぐにできたお寺なのでしょう。
平城京にあってこの『元興寺』はもんのすごくでっかいお寺だった。
平城の一つの区画を坊条っていうんだっけ?
その一番小さい区画を8個分あったということです。
すごいなぁ、平安京にある京都御苑並みにでかかったということです。
しかし、こういう巨大なお寺って、本当はとてつもなく維持費が大変なんです。
だいたいにしてそこに修行しているお坊さんたちの三度三度の食費をどこから調達することができたかというと、それはバックにやっぱり巨大な荘園というものがあるからこそ、そういうことができたんですよね。
いつの時代も幅を利かせていたのは金の力です。
ところが、平安京へ遷都するとき、お寺は随行することを許されませんでした。
帝の覚えがめでたくない。ここで荒廃が始まるわけですよ。
で、時代が進んでいくと平重衡が南都を焼いたことにより、だんだんとこの壮大な『元興寺』も勢力を縮小していかざるを得なくなってのですね。
みてくだい。もともとあった、南大門も、お寺の心臓部ともいえる、金堂も講堂も、当時はふたつあった塔も焼亡してしまいました。
それでどうにか奇跡的に残ったのが、今日、極楽坊といわれる部分だけです。
この極楽坊というのは当時は東室南階大房の一部分のことを指しました。
極楽坊ってどういうところかというと、ひらたく言えば、お坊さんたちの宿坊ですね。
ところで、お坊さんっていえば、すぐにお寺の僧侶と結びつきますが、本当はこの宿坊に住んでいるから、「お坊さん」坊の主は「坊主」です。
坊って房だと思うんですよ。「房」って部屋っていう意味もあります。
(ことばの変遷って面白いですね)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
で、まぁ奈良時代は超巨大で勢力を持っていたお寺もだんだんと時代がたつにつれ、極楽坊だけが残されて非常に貧しいお寺となったのです。
本当はこのお寺は「真言律宗」というちゃんとした教派もあるにはあったのですが、
もう後ろ盾になってくれる天皇とか貴族とはいませんので、ともかく「寺」として生き延びていくことに必死になるんですね。
で、それを支えてくれていたのが、民衆です。
で『元興寺』はこの民衆に支えられて生きてきたわけですよ。
だから、なんていうか、曼荼羅もありゃ、阿弥陀さんもあったり、聖徳太子なんかも祭られていたりで、宗教のごった煮の寺と化していきました。
でも、案外とそういったごたまぜ状態が却ってよかったみたいで、元興寺ってお寺の仏像やなんかの修復の技術を身に着けて、全国の仏さんが痛んだところを直していくんですね。
で、今日「元興寺文化財研究所」って機関を持っているんですよねぇ。
実にひょうたんから駒というか、何がきっかけで
生き残れるかってのは思案のほかって感じがしました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まぁ、国宝として極楽堂ていうのと禅室(僧坊)っていうのが残っているんですね。これが非常に古い。
入ってみると、軒が非常に低くて、平均的日本人なら鴨居に頭が閊えてしまう。
昔の人って小さかったんだなぁって思います。
この極楽坊の周りはたぶん長い歴史の間に積み重なった、卒塔婆が一か所に集められています。
で、なんというかその姿がですね
手塚治虫の「どろろ」の漫画に出てくる「地獄堂」そっくり。
手塚先生はこれをモデルにされたのではないだろうか?って思いました。
名前も元興寺のほうは「極楽堂」どろろは「地獄堂」だし。
結構、奈良へ行くと京都の寺とはまた趣の違う面もたくさんあっ非常に興味深いです。