境界の旅人2 [境界の旅人]

京都×青春×ファンタジー×ミステリー。 ページを繰る手が止まらない?





第一章 転機 


「由利、由利」
 リビングで玲子の呼ぶ声が聞こえる。自分のベッドでうとうとしていた由利は、枕元に置いてある目覚まし時計を取り上げた。
「ん・・・? 今何時?」
 時計の針を見ると夕方の五時半を指している。もうすぐ冬至なので部屋の中は真っ暗だ。それにしてもこんな中途半端な時間に玲子が家にいるのは珍しいことだった。
「由利! いないの?」
 玲子は声を荒立てた。由利は母親の機嫌がこれ以上悪くならないうちに、大声を張り上げた。
「はーい! いるよー。ママ!」
 由利は寝起きの顔のまま、母親のいるリビングまで行った。
「由利、いるならいるで、ちゃんと返事しなさい。このまま出かけちゃうところだったでしょ?」
「うん、ゴメン。ママ。気が付いたら寝てた」
「そうなの? うたた寝もいいけど、気を付けないと風邪を引くわよ。それよか、由利。クリーニング屋さんに行ってママのスーツ取って来てくれた?」
「ん・・・。ママの部屋のクローゼットに掛けてある」
「ああ、よかった。ありがと、由利。今度の金曜日には社外クライアントに向けてプレゼンがあるからね。顔映りのいいのにしないとね」
 母親の玲子は大和フィルムズ中央研究所に勤務している。
 難関大学の中でも最高峰といわれる帝都大学の工学部を難なく突破、大学院に進学、学位を取得した後フランス国立研究所に博士研究員として二年間の勤務を経て、現在の研究所で働くようになった。玲子はワーキングマザーと言えど、どこからどう見ても、一点の曇りもない華やかな経歴の持ち主だった。
 今年で四十二歳になるが、生まれついての硬質な美貌にはいささかの翳りもない。場合によっては三十代前半にも見られることがある。必ず週三回は体力づくりも兼ねて早朝にフィットネスジムに通って身体を鍛えているお蔭で、中年にありがちな余分な脂肪も身体についたこともなく、いつもシャキッと背筋も伸びて、七センチヒールも軽々と履きこなす姿はほれぼれとするくらいだ。
 そんな完璧な母親に対して由利はただ従うしかない。少なくとも、これまでは。
「ママ、どうしたの。こんな時間に家にいるなんて珍しいね」
「あら、由利。忘れちゃったの? 今日はあなたの塾で志望校を決めるための懇談だったじゃないの?」
「あ、そっか」
 由利は母親のことばの調子に不穏なものを感じた。
「まあ、そこにちょっと座りなさい」
「はーい」
 玲子はカバンからA4の分厚い封筒を取り出した。
「さっきね、塾の先生に成績表を見せてもらったんだけど、由利、あなたこの間の塾の全国模試、ものすごく番数が落ちているの。自覚ある? もう年末だし、本番は二月でしょ? で、志望校を決めなきゃならないんだけど、この調子だとこれまでの本命が危ないって塾の先生に言われたわよ。由利。でね、ママは思うんだけど・・・」
「うん、ママ。解ってるよ」
 由利は玲子の話を遮った。
「解っているじゃないでしょう? もうっ、あなたって子は本当に暢気なんだから。もうちょっとピリッと気を引き締めて勉強しなさい」
 玲子自身は、いわゆる進学校も塾へも通わず自分だけの実力で帝都大へ行ったにもかかわらず、一人娘の由利の教育に関しては過剰と言ってもいいくらい熱心で、これはもう立派な教育ママと言ってもよかった。
「・・・」
「今から集中して勉強すればまだ間に合うはずよ。滑り止めと日程さえ合えば、これまでの本命だって受けられるはず。今からきちんと日程を調整すれば・・・」
「うん、でも、ママ」
 いつになく由利は態度を硬化させ、自分のことばに従おうとしない。玲子は少しイラっとした。
「何なの? 言いたいことがあるはら、はっきり言いなさい」
「あの、あのね、ママ・・・。実はあたし、京都のおじいちゃんちへ行くつもりにしている」
「はあ・・・? 何ですって? 京都? おじいちゃん?」
 玲子は一瞬あっけにとられたような顔をした。
「うん」 
 消え入りそうな声で由利は答えた。
「由利、何を夢みたいなことを“ もうすぐ年も改まるっていうのに! 願書のことだってあるじゃない」
「うん。だけど九月頃に学校の担任の武田先生に相談したら、それもいいかもって、内申書も書いてくれた。過去問も取り寄せてくれたし、願書もあるよ。あとはママの承諾だけ」
「まっ、一体それはどこの高校なの?」
 由利はテーブルの上にクラスの担任が取り寄せてくれた願書と出願要項を置いた。玲子はそれを取り上げてまじまじと眺めた。
「桃園高等学校?」
 玲子は素っ頓狂な声を上げて、これから由利が行こうとした高校の名前を読んだ。桃園高校は京都にある玲子の母校だった。
「由利っ! これは一体何の悪い冗談なのっ! 誰にそそのかされたのかは知らないけど、ママは反対よ。他に選択肢がないのならともかく、桃園高校なんてそんなの、お話にもならない。第一、今受ける滑り止めよりずっとランクも下じゃないの? この環境より明らかにレベルの低い場所へ行く目的は何? それにいくら成績が下がったからって、何も今、あてつけがましくママから離れて京都へいくことはないじゃないの!」
 玲子は自分の娘をあしざまに罵った。
「ママ。そうじゃないの」
「なぜ? 由利? 私たちこれまでうまくやって来たじゃない? 何が気に入らないっていうの?」
 詰め寄るようにして玲子は由利に迫った。
「うん。ママが一生懸命働いて、育ててくれたのは、あたしだって解っているし、感謝しているよ」
 由利が小さいときは、玲子の職場環境は相当に過酷だった。
 病気になるたび、玲子は自分が看病するために職場を休むわけにもいかず、結局、病気で保育園や小学校へ行けない場合は看護師の資格を持つベビー・シッターさんに来てもらうことも度々だった。
 そのための出費があまりに多すぎて、月給も右から左に消えることも珍しくなかった。一時期はこれでは何のために働いているのかわからないほどだった。何より子供か仕事か、いつも二者択一をさせられていることは精神的にもかなりきつく、毎日が綱渡りだったのだ。
 だからそんな玲子の苦労を知っているだけに、由利はこれまで母親に対して強く出ることができなかった。
「だけどあたしはママみたいにバリバリ勉強して、バリバリ働いてっていうキャリア・ウーマンタイプじゃないもん。たとえママの言う通り勉強しても、帝都大学なんか逆立ちしたって無理だし。それにそこそこの大学へ入ったとしても、あたしはママみたいな理系女子じゃないし。かといって法学部とか経済学部なんかへ進学するのなんか絶対に嫌。興味ないもの」
「由利・・・」
「うん。それにママは最近、平日は仕事を一生懸命して、お休みは信彦さんと過ごようになったじゃない? あたしはひとりで家で過ごすわけだから、結局のところどこにいたって一緒じゃないかな?」
 痛いところを突かれて玲子はくちびるをかんだ。玲子は六歳年下の男と交際しており、そこは娘も納得してくれていると簡単に考えていた。しかしまだ思春期のただ中にいる娘は、そんな母親のあけっぴろげな態度に傷ついていた。
「由利! 信彦のことは謝るわ。前にも言ってあるでしょ? 信彦が嫌なんなら、嫌と言ってちょうだい」
「違うの、ママ。あたしは何もママたちの仲を邪魔したいんじゃないの。だけどもう、こんな生活、正直疲れた」
 たしかに玲子ひとりでは掃除や洗濯など日常のこまごまとした家事までには手が回らず、家政婦を雇っていた。だからといって、それで家にひとり残された由利の孤独が癒せるわけではない。玲子は自分の愚かさ加減にほぞをかみたい気分だった。
 もっと娘と一緒にいるべきだった。だが今更後悔しても仕方がないことは、玲子が一番よく解っていた。
「あたしはもう、これ以上ママを待ちたくない。初めからママに期待さえしなければ、もっと気持ちも楽になれるはず」
 聞き分けのいい娘は、初めて本音を漏らした。
「・・・だからといって何も京都へいくことはないでしょう」
 どうにかして玲子は娘を引き留めようと必死だった。
「お願い、由利。どうか考え直してちょうだいよ。信彦とは絶対に結婚しないし、別れろっていうなら、今すぐにでも別れるわ。ママにとってこの世の中で一番大事なのは、由利以外にはないのよ」
 玲子の懇願を聞いているのは身が刻まれるように辛かった。だがここで負けてはならないと由利は自分に言い聞かせた。
「うん・・・うん。ママ。ありがとう。あたしもママのことが大好きよ。そこは誓って本当。信じて」
 由利は興奮している玲子をなだめるように言った。
「でもね、そんなふうにママに何かを押し付けるのは嫌なの。ママはこれまであたしを育てるのに、ものすごく苦労してきたんだから、信彦さんと結婚するのもちっとも嫌じゃない。ママには幸せになってほしい。でもママのあたしに対する期待っていうのは、正直重い。あたしはママの希望通りの人間にはなれそうもない・・・だから、だから今は少しママから離れて、これから先の自分の将来についてひとりで考えてみたいの。これまでみたいにママにレールを引かれてその上を歩くんじゃなくて、自分の本当にしたいことは何かをじっくり考えてみたいの。ほら、ママはいつも自分の人生に主体性を持てって言ってたじゃん? それにあたし、自分のおじいちゃんにも会ったことないし」
 玲子とその実の父親である辰造は、絶縁状態にあった。
「そう、京都のおじいちゃんだって、あなたに急に来られたんじゃびっくりするわよ。まぁ、あの人にはあの人の都合があるだろうし」
「ん。でも手紙書いてみた」
 由利はひとりでもぬかりなく、着々と計画を立てて実行していた。これはもう引き留めることはできないのかもしれないと話している中で玲子は次第に観念したようだった。
「まぁ。それで、おじいちゃんは何て?」
「いつでも大歓迎だって。遠慮なく来なさいって」
「由利・・・。本当に私から離れて行ってしまうの?」
 いつもきりっと表情を崩さない玲子が、いつになく涙ぐんでいた。
「ママ、いつもありがと。感謝してる」
「感謝だなんて、由利。親子でしょ?」
「でも京都へ行ったって、親子であることは変わりがないんだし、あたしだって十五歳で半分大人でしょ? 自分のこれからは自分で決める権利があると思う」
 玲子は椅子から立ち上がって由利の傍まで行き、今では自分よりも背が高くなった娘の身体をぎゅっと抱きしめた。
「もう何でもできる大人ね。由利、わたしの可愛いユリちゃん。いつまでも小さい子供だと思っていたら、いつの間にかもうこんなに大きくなってしまって。でも誤解しないで。ママは確かにいい母親じゃなかったけど、由利を心から愛していることだけは本当よ。学費や京都での生活費はママがきちんと払うからね。それにお小遣いだって必要でしょ? お金が必要になったら、遠慮なく連絡してね」
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予兆




 暗くて少し湿っぽい匂いのする古い玄関。それでも下駄箱の上には、祖父が自己流で活けた花が飾ってある。それは春の到来を控えめに由利に教えてくれていた。
 まだ馴染んだとは到底いいがたい式台に腰を下ろして、由利は三和土にきちんと揃えてあるスニーカーを履こうとした。初めてここへ訪れたとき、無造作に脱ぎ散らしたスニーカーを、祖父がなにも言わずにきれいに並べ直してくれたのだ。これまで全く気にもかけてこなかったが、祖父の生活ぶりを見て、改めて自分の行儀の悪さを自覚せずにはいられなかった。
 スニーカーに足を突っ込んだとき、ふとこれまでのように野放図に暮らしてはいけないことに気づいた。もはやひとりきりではないのだから。家の奥の方からカターン、カターンとリズミカルに響く手機の音がする。
「そうだ・・・。おじいちゃんに出かけるって言ってなかった・・・」
 由利はひとりごとを言うと、上がり框に腰を押し付けながら身体をひねり、奥に向かって叫んだ。
「おじいちゃん! おじいちゃん!」
「あいよー」
 孫娘の声に気づいたらしく、祖父の辰造は仕事の手を止めて返事をした。
「おじいちゃん? ねぇ、今からあたし、ちょっと散歩してくるから!」
「ほう、散歩か・・・」
「うん」
「どこへ行くんや?」
「えっ? とりたててどことは決めてないけど・・・」
 祖父はしばらく手を止めて考えごとをしていたらしく、会話に間が空いた。
「そんなら、御所のほうへ行ったらどうや? 児童公園の桜も、きっときれいに咲いてる頃やろ」
「御所? 児童公園ってどこ?」
「御所はな、京都御苑のことやで。児童公園ちゅうんは、昔、近衛さんの屋敷があったところや。そこの桜がな、糸桜ちゅうて昔から有名なんや。あすこは咲くのが早いから、そろそろ見ごろやないかな」
 由利はポケットに入っていたスマホで場所を検索した。
「ああ、おじいちゃん。児童公園って京都御苑の一番北の場所だね」
「そうや。今出川通りを挟んで道の反対側には、同志社大学と相国寺があるんやで。すぐにわかる。けど、あんまり遅うならんようにな、由利。晩ご飯までには帰って来るんやで」
 晩ご飯。
 由利は昨日、祖父が台所に立って手料理を作っているのを見た。これまでの由利にとって食事というものは晩ご飯に限らず、コンビニやスーパーで弁当を買い、ひとりで食べる行為だった。
「夕ご飯作るの、おじいちゃん? それじゃ、あたしもご飯作るの、手伝わなくても大丈夫?」
「ええ、ええ、かまへん。今日は豆腐屋がこっちへ回って来よったからな。晩は湯豆腐やし、簡単や。そんなん、気にしんと行ってきよし」
 この辺りは驚いたことに、昭和の時代さながらに、パープーとラッパを鳴らして豆腐屋が豆腐や油揚げの入った台車を押しながら売りに来る。それに辰造がそれとなく自分に気を配ってくれるのが、今の由利にはうれしかった。
「うん。じゃあ行ってくる!」
「気ぃ付けてな」

 由利はグーグル・マップを見て御所への道順を確認した。御所は由利の家から見て東にある。
「ン・・・と。ここが堀川通り、そして烏丸通りか・・・」
 京都は知っての通り、東西が碁盤の目のように区画がなされている。由利が住んでいるところは西陣といわれ、いわゆる織物の街である。昭和三十年代の西陣は、都市銀行がずらりと並んだ活気ある街だったらしいが、現在はかつての賑わいを想像することさえ難しい。
 家から東のほうへ向かうと、すぐに大きな通りに出る。そこが堀川通りだ。
 信号を待ちながら由利は手元にあるスマホの画面を見て場所を確認していたが、ふと顔を上げるとなんだか周りの空気が変わったように思えた。
「あれ・・・。ここってこんな感じだっけ?」
 由利は今自分が見ている風景に、どこか違和感を覚えた。
「ここってずいぶんとクラシックな街だったんだなぁ・・・」
 堀川通りに掛かった横断歩道を渡り、京都御苑のほうへ向かうにつれ、街はどんどん鍾馗の魔除けが付いた黒瓦に格子の桟の純然たる日本家屋ばかりになってきた。これがずっと京都に住んでいる人間だったら、今自分が歩いている空間がいかに異様であるかを一発で気づけただろうが、あいにく由利は、昨日、東京からこの京都に来たばかりだった。

 さらに烏丸通りを越えて、京都御苑の入り口のひとつである、乾(いぬい)御門をくぐると、鬱蒼とした木立の中に見事としかいいようのない桜の木がいくつもいくつも植えられている。この御苑の桜は日ごろよく見かけるソメイヨシノとは違い、そのほとんどが色の濃い枝垂れ桜だった。それぞれに微妙に色調が違い、中には紫に近いものもあった。しかしどれもこれも小さな花弁が上から下へと滝のように流れている。
「うわぁ、キレイ・・・」
 由利は思わず感嘆の声を上げた。
 だがこれほど壮麗な桜の苑なのにもかかわらず、由利の他にも人の影ひとつ見られない。普段なら家の外へ一歩でようものなら、観光客があふれているものなのに。
「うーん、なんか変だなぁ。ここって観光客も知らない穴場なのかな・・・」
 由利は思わず首を傾げた。
 それに先ほどスマホで確認した、児童公園らしきものも見当たらない。不審に思いながら先を急ぐと、急に視界が開けた。
 ここはどうも公家の邸の敷地内のようだった。よく見れば、庭に向かって開け放されている屋敷の大床に、この邸の当主と思しき男が奥方らしき女と一緒に座っていた。
 広く手入れ行き届いた庭には、大の男が両手で抱えてもなお届かぬほどの太い幹を持つ桜が幾本もあった。それらのいずれもが長い花房をつけた枝を幾本も垂らしていた。その傍には朱に塗られ内側を五色の糸でかがられている野点傘が、花の木ごとにいくつも掲げられていた。
 そして鮮やかな緋毛氈の上には、絢爛豪華な打掛の衣裳の女性や、直衣に烏帽子を付けた男性が座っていた。そして三々五々と酒を酌み交わしながら、この壮麗な花見の宴を楽しんでいる。
「なに、これ? コスプレ大会?」
 コスプレと一口にいっても随分とお金がかかっていそうだ。衣裳も見るからに高そうな金襴が使ってあるようだし、鬘もそんじょそこらの安物には見えない。それに紅毛氈に広げられている杯やお重は、黒い漆に金の蒔絵が施されていた。由利は関心しながら邪魔にならぬよう、花見を楽しむ人々の周囲を遠巻きにして歩いて行った。
「へぇ~、本格的! みんな役になり切っているじゃない」
 人々を観察していると、単に衣裳が本格的というだけでなく、所作も板についていた。箸やお皿の扱い方、そしてたもとに手をやるさりげない動きはまるで時代劇を見ているようだ。これは一朝一夕にできるものではないことぐらい、素人の由利の目からみても明らかだった。
「すごい・・・! これってもしかしたら、コスプレじゃなくて何かのドラマのロケなのかな」
 だがドラマのロケにはつきものの照明やカメラを操る人々の姿もない。
少し遠くのほうへ目をやると池があった。そのすぐ脇には一段高く作られた場所があり、そこには三味線、琴、尺八と和楽器を前にした奏者が三人座っていた。三味線を手にした女がおもむろに歌い出した。

 九重に咲けども花の八重桜
 幾代の春を重ぬらむ
 然るに花の名高きは
 まず初花を急ぐなる近衛殿の糸桜
 見渡せば柳桜をこき交ぜて
 都は春の錦燦爛(さんらん)たり

 曲に合わせて目にも綾な衣裳を身にまとったひとりの男が、扇を手にして舞い始めた。歌われている詞(ことば)は文語体なので、高校にもまだ入学していない由利にはよく理解できなかった。だが『近衛殿の糸桜』というのは、かろうじて聞き取れた。
「へぇ、ここって歌にも謳われるような有名なところなんだ・・・」
由利は非日常的空間が突如として現れたことにあっけにとられながらも、半ば陶然としてその光景に見入った。
 だが日ごろ慎重な由利は、そこでいつもの彼女にあるまじき決定的な誤りを犯してしまった。
 もっと舞をそばで見たくなり、つい太秦の撮影所の中にでもいるような気になって、大胆にも座っている人の中へ足を踏み入れてしまったのだ。すぐにいきり立った侍の恰好をした男に咎められた。
「女! おのれは一体誰の許しを得て、この場に入った?」
「えっ? 京都御苑って入るのに許可が要ったんですか? ごめんなさい、知らなくて・・・」
 男の度外れに高圧的な態度に気圧されながらも、もしやこれは主催者側のその場の雰囲気を壊さぬためのパフォーマンスなのであって、近年流行りだしたコスプレ必須で高額な有料制の花見の宴に紛れ込んでしまったのかもと、由利はとっさに思った。
「下﨟が! なんと心得る? ここは近衛さまのお屋敷じゃぞ? しかもそんな珍妙な恰好をして・・・」
 男は由利の無礼をなじっていたが、一瞬ことばに詰まると、ハッとして由利の顔へ目を走らせた。
「おい、おまえ。もしかして人間なのか?」
 気が付くと、周りの人間がしゃべるのをやめて、一斉にじっと自分に目を注いでいる。由利はそこになにか異常なものを感じ取り戦慄を覚えた。
「おい! 各々方、聞し召されい、こいつは生身の人間じゃ!」
 男は叫んだ。すると周囲は急に色めき立った。
「なんじゃと? 生身の人間? とすると生きの良い肝を食らうことができるのか?」
「おお、おお。生き胆など、久方ぶりじゃのう。思わず生唾が湧いてくるわ」
 そこに集った者たちが一様にさざめきあったかと思うと、優雅な花見の客から一転して、気味の悪い物の怪に変わった。
「きゃ~っ! 」
 あまりのことに、由利は思わず悲鳴を上げていた。
「な、な、何なの、これ?」
 その場から逃れようとしたが、むんずと足首を物の怪のひとりに掴まれて転んでしまった。物の怪の一群はじわじわと由利に近づいてくる。
「た、た、助けてえっ! だれか!」
 頭を手で覆い、ぎゅっと目をつむっていた由利の傍で声が聞こえた。
「おい、立て!」
 恐る恐る目を開けると、先ほどまで地唄に合わせて舞を踊っていた男が、自分に声をかけているのだとわかった。よく見れば、それは自分とさして年も違わないような少年だった。
「おまえ・・・なんだってこんなところに来たんだ・・・?」
 少年は呆れたように尋ねた。
 この人はあたしを助けてくれるんだろうか、由利は微かな希望の光をその声に見出そうとした。だがそれにしては、少年の顔はいやに冴え冴えと冷たい。
「なんだってって、言われても・・・。あたしだってこんなとこ、来たくて来たんでは・・・」
「まぁ、そりゃ、そうだろうな・・・」
「お、おまえ・・・」
 少年は自分のほうへ向けた由利の顔を見ると、一瞬驚いたように目を見張った。だが次の瞬間には、表情はもとの冷ややかなものに戻り、そして決心したように言った。
「参ったな・・・普段は決して助けたりしないんだが・・・今回だけは例外だ」 
「何をぐずぐずしておる、三郎! その娘をよこせ!」
 少年は倒れたまま由利の前にさっと立ち、物の怪たちを相手にした。
「これは、わたくしめが自分のために用立てて、召し使っている者にございます。今回は何卒ご容赦を」
「いや、人間の生き胆を食らうと二十は若返るというでな。三郎、黙ってそれをわしらによこせ!」
 物の怪たちは狂ったように叫んだが、三郎と呼ばれた少年は、胸元から扇を取り出すと、片手でぱっと広げて謡を謡った。

 花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎(とが ※)にはありける
     ※ 他人が非難するのももっともな、欠点・過ち、けしからぬ行い

 たもとを広げて静かに舞う三郎のもとへ、まるで引き寄せられたかのようにさらさらと、桜のはなびらが宙に風に舞い上がった。由利は恐怖に凍り付きながらも、金砂が蒔かれた色鮮やかな絵巻物のような光景に目を奪われていた。
 そしてそのあと、少年は誰に聞かせるでもなくつぶやいた。
「たとえ生身の人間が、花に引き寄せられてここに参ったとしても、それはそれであわれなこと。引き寄せた桜にも咎はなかろうが、引き寄せられた者とて咎はないはず。見逃してやれるほどの度量を持たなければ・・・。それがたとえ人外のものと成り果てたとしてもな」
 だが物の怪たちはそんなことには構っていられない。我も我もと由利をめがけて襲い掛かってこようとする。
「消えよ!」
 少年が一喝して扇をかざすと、物の怪たちは強い光に吹き飛ばされて、急に視界から消滅した。
「えっ? これは一体どういうこと? あなた、何をしたの?」
「結界を張って、違う次元に逃げ出したのさ。だがそれもほんの一時のこと。あまり時間がない。さあっ、立てっ! おれと一緒に走るんだ!」
 少年は疾風のように駆けていく。手を引かれながら由利も必死になってその後ろを走った。やがて通りに面した今出川門のところまで来た。
「今からおれの言うことをよく聞けよ。まずここから急いで鴨川まで走っていくんだ。いったん川を渡ってしまえば、あいつらは追って来られない。本当は幸神社(さいのかみのやしろ)に寄ってから、鴨川へ出て欲しいところなんだが」
「え、さいのかみのやしろ? そんなとこ、あたし知らない!」
 息を切らせ、由利は泣きそうになりながら答えた。少年はそれをちらりと横目で見た。
「ふ・・・。じゃあ、とりあえず東に向かって走るんだ、そしたら大きな川に出る。そこからタクシーを拾え!」
「えっ、だってお金持ってきてないよ」
「そんなの、後から家の人に払ってもらえ。いいな」
「うん」
 由利は黙って首を縦に振った。
「まず、車で北大路まで北上して、そこから西に向かって西大路まで行ってもらうんだ。そして一条通りまで下がったなら、そこから改めておまえの家へ向かってもらうように運転手に頼め」
「なんでそんなに大回りしなきゃいけないのよ?」
「さっきみたいな魑魅魍魎に、また襲われたいのか?」
 三郎はまたちらりと冷たい一瞥をくれた。
「い、いやよ!」
 由利は即答した。
「じゃあ、黙っておれの言うことを聞くんだな」
「あ、は、はい」
 そういわれてしまって由利は、三郎のことばに従うしかない。
 別れ際に少年は、由利の額に手を当てて不思議なことを言った。
「今のこと、そしてわれのことは忘れよ」
 気が付けば件(くだん)の少年の姿はかき消されたようになくなっていた。気が緩んだせいか涙が後から後からこぼれてくる。それでもとりあえず由利は言われた通り、鴨川にまで走ることにした。
「なに、今の? ただ『忘れよ』って言ったって、あんなこと、記憶喪失にでもならない限り、忘れられるわけないでしょ? 妖怪に襲われたんだよ、あたし」
 

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