境界の旅人 33 [境界の旅人]
第八章 父娘
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その日もいつものように茶道部の連中は、新部長である鈴木千晶の厳しい指導のもとに集い、散会した。小山の代わりにとなった千晶は母親が茶の湯の師範でその関係上、五歳のころより茶の湯の稽古を始めた。実にその道十年以上のベテランである。ブリリアントさでは遠く及ばないものの、多少エキセントリックな言動が多かった小山とは違い、千秋は逆に手堅いお点前をすることで定評があった。
いつもなら一緒に帰るはずの美月は、めずらしく用事ができたからといって先に帰って行った。だいたいいつも六時を過ぎたころに校門を後にするのだが、その日に限って早い時間に稽古が終わった。時計を見ると、まだ五時半を過ぎたところだった。
「そうだ・・・。そういえばここんところ、ずっと彼とは話していない」
船岡山で喧嘩別れして以来、由利は常磐井とメールもしていなければ、まともに口を利いてさえいなかった。
「弓道部はまだ練習しているのかな?」
そう思うと由利は無性に常磐井の弓を打つ姿を見たくなった。キリキリと弦を引くときの力強い全体のフォルム、的に狙いを定めているときの眼光鋭く厳しい精悍な表情。そんなピンと緊張した瞬間の常磐井は、由利の目にたまらなく魅力的に映った。そんな彼を遠巻きに見つめているのが好きだった。
由利は中の人間には分らぬように、そっと弓道場の外の窓から中を伺い見ていた。弓道部員たちは由利がこっそりと垣間見ていることなど露知らず、黙々と弓をひたすら打っていた。
「小野さん」
そんな由利の背後から聞き覚えのある声がする。どきりとして振り向くと、それは春奈だった。
「ああ、田中さん・・・」
「どうしたの、小野さん。弓道部に何か用? それとも誰かお目当ての人でもいるの?」
春奈は空とぼけたふりをして、恋敵を牽制するためか、由利がここを訪ねてきたわけを訊き出そうとした。
「えっ? ううん、別に。部活が早く終わったし、ちょっと通りすがりに何となく眺めていただけど?」
「へぇ、何となく見ていたにしては、えらく熱心だったような気がするけど?」
「あら、そう? そんなつもりはないけど?」
挑発には乗らず素知らぬ顔をして、由利は春奈の問いに応じた。
「そうなんだ。あたしね、常磐井君を待っているのよ」
春奈は由利にことさらにひけらかすように言った。その口調もどこか得意そうだった。
「そうなの?」
悔しそうな顔を見られると期待していた春奈は、由利の動かぬ表情を見て少し調子が狂ったようだ。
「小野さん、あなた以前言ったわよね、あなたは常磐井君には全く関心がないって。だからたとえあたしが常磐井君と付き合ったとしても、それに文句を言ったりしないって」
「ああ、たしかにそんなことを言った覚えもあったかな。それが一体どうかしたの?」
春奈がじっと由利を疑い深げに凝視していると、そこに他の部員に交じって練習を終えた常磐井が、弓を携えながら道着姿で戸口に現れた。
「常磐井君!」
春奈が救われたような顔をして常磐井のほうへ転ぶように駆けて行くと、由利にことさらに誇示するように常磐井の腕に取りすがった。常磐井は向かい側にいる人物が由利だと判ると目が泳いだ。だがそれも一瞬で、またもとの表情に戻った。
「こんばんは、常磐井君」
由利は常磐井に、他人行儀なあいさつをした。
「お、おう」
「うん、部活の帰りにちょうど田中さんとそこで会ったから、お話をしていたの」
「ああ、そうなんだな」
常磐井はぶっきらぼうに答えたが、ごくんと唾を飲んだのか、喉ぼとけが動くのが見えた。
「実はね、あたしたち、これから三条へ行って映画を見ることになっているんだ!」
春奈は昂った声で宣言した。
「ああ、今日は金曜日だものね。花金ってわけね。ステキ」
由利はふふっと口元をほころばせた。
「ねえっ、悠季君?」
春奈はいかにも親しげに常磐井の名前を呼び、同意を求めるようにちらっと見上げた。
「あ、ああ」
「何を見るの?」
由利は春奈に訊ねた。
「ラ・ラ・ランドよ」
「へぇ、オシャレじゃない? ミュージカル仕立てだしね。主役のエマ・ストーンもキュートだし、ライアン・ゴズリングもハンサムだし。デートで見るにはピッタリな映画ね」
「うふふ、でしょ?」
「でもね、ちょおっとネタバレになっちゃうんだけど、結末が悲しいの。結局のところお互いに思いあっていた恋人たちは結ばれないのよね」
そう言いながら、由利はさっと視線を常磐井の顔へと走らせた。
「あらっ、小野さん! だめよ、結末を言っちゃ!」
「ああ、ごめん、ごめん。つい。だけどこの映画は最後どうなるこうなるってことより、恋愛のプロセスを重点に描かれているから。結末をちょっとぐらい知っていてもまったく遜色はないはずよ。楽しんできてね」
「小野さんは、これからまっすぐお家に帰るの?」
「そうね、さっきまでそうしようかなって思ったけど、ちょっと気が変わったなぁ、実はね、いつも行く秘密の場所があるの。そこへ行ってから帰ろうかなって」
「秘密の場所? へぇ~」
春奈がバカにしたように訊いた。
「そう、いろんな意味で大事な場所なんだけどね、あたしにとっては。今日はそこで少しひとりでいたいなって気分かしら。ああ、邪魔してごめんね。じゃあ!」
由利はふたりのもとを離れた。
由利はひとりで船岡山へ到着すると、いつものように自転車をふもとに止めて、ひとりで階段を上がって行った。もう日もとっぷりと暮れて、道路の途中途中の街灯だけがひっそりと辺りを照らしていた。日中は比較的暖かいのだが、さすがに11月の中旬ともなれば日が落ちるととたんに気温が下がる。由利はコートの襟のボタンをきっちりと閉じて風が中に入らないようにした。
この山から見下ろす街の灯は、闇の中にで宝石箱をひっくり返したように赤、青、黄色、白、紫と様々な色が交じり合いきらきらと瞬いていた。いつもの由利なら、常磐井に背後からその身をすっぽりと繭のように包まれて、うっとりとその夜景を眺めているのに、ひとりきりで見るとなぜだかその光も非常に心細くて寂しいものに思える。
ふと目から一筋涙が流れた。
「おまえが言い出したことじゃないのか? 学校では他人のフリをしろとな。それなのに何で泣く?」
ふと気が付くと傍に三郎が立っていた。
「三郎!」
驚いたように由利が叫んだ。
「三郎君、あなた、調伏されたんじゃなかったの?」
「誰が調伏されたって? おれがか? ふふふっ、あんな生臭さ坊主に何ほどのことができる? 全く聞いて呆れるとはこのことだ」
由利はあの辛い滝行も結局、何の役にも立たなかったことを知って愕然とした。
「おれが調伏されて、この世から消えてしまえばよかったと思っているのか?」
確かめるように三郎は訊いた。三郎は死霊なのかもしれないが、由利にとって危機から救ってくれた恩人でもある。だがそれとはまた別に、曰く言い難い懐かしさを三郎に感じていた。
「ううん、そんなふうには思っていない・・・。やっぱり三郎に会えると嬉しいもん」
それを聞くと心なしか三郎の目許が和らいだように感じた。
「三郎・・・。あたし、あなたにいつか会ったことがあったのかしら?」
いつも不敵な三郎の顔に、初めて動揺の影が走った。
「いつかだと・・・? それはどういう意味だ?」
「あたしが生まれる前・・・。過去生であたしが女御だったときに・・・」
「おまえが女御だったとき? そんなこと、誰がおまえに教えた?」
三郎の目は怒りと驚きで大きく見開かれていた。
「ううん。誰にも教えてもらってなんかいない。何度かあたしの意識だけが昔に飛んだの。気が付けばあたしは今の小野由利じゃなくて、帝の女御だった・・・」
「そうだな。おまえはたしかにそうだった・・・。本当に美しくて、淑やかで、それでいて侵しがたい威厳があって・・・おれの誇り、おれの憧れだった・・・。傍近くかしずいているだけで、どれほど幸せだったことか・・・」
三郎は思いがけないことを言った。
「じゃあ、あれは本当のこと?」
三郎の瞳は潤んで夜景の光にキラキラときらめいていた。だがその問いには答えなかった。
「この船岡山はな、平安の昔から長らく死体捨て場だったんだぞ。未浄化霊がうようよしているんだ。そんな沈んだ気持ちでいると、また近衛邸のときみたいに化け物たちとお見合いすることになるぞ?」
「うん。だけど・・・」
「おまえ、あいつのことをどう思っているんだ? 好きなのか、それとも嫌いなのか?」
「判らない」
由利はポツリと答えた。
「常磐井君は、自分じゃおそらく自覚していなんだろうけど、ものすごくセクシーなんだと思う。あたしはたぶん、彼のそういうところに惹かれているんだろうとは思うけど・・・」
三郎はどこか由利を心配そうに見やった。
「常磐井君は本当に親切で優しいし、いつも思いやってもくれている。だけどあたしには、彼の生き方やものの考え方には違和感があるの。それに早熟な彼の性急な愛の求め方っていうのにも」
「そうだな、たしかにあいつは、おまえに欲望を抱いている」
「うん。それもわかってる。常磐井君は太陽みたいな人よ。強烈すぎるの。遠くで神のように仰ぎ見ている分にはいいの。だけど近くに寄ってこられるとその熱さでこっちが焼け死んでしまう、イカロスのようにね。だから今のあたしは応じられない」
そういいながら由利は傍らの三郎には、常磐井の情熱とはまた別な日だまりのような優しさを感じていた。
「それじゃあ、さっきみたいに適当に他の女と遊ばせておけばいいじゃないか?」
三郎は由利をなぐさめるように言った。
「理屈で言えばそうよ。だけど実際ああいうふうにされちゃうと、解っていても悲しくなるもんなんだね」
「ふうん。困ったお姫さまだな」
だが突然三郎は、何かを聞きつけたようにビクンと身体を震わせた。
「おやおや、そろそろ若君のご登場らしい。おれはあいつに嫌われているからな。じゃあな」
そう言うと三郎は姿が見えなくなった。ほどなく常磐井が息せき切って、由利がいる場所へ来た。
「由利!」
「あら、常磐井君」
由利は何事もなかったかのようにふるまった。
「どうしたの? もう映画は終わったの?」
「バカっ! こんな人気のいない寂しい場所へおまえみたいな女の子がひとりで来ちゃダメだろ? もし変質者に襲われでもしたらどうするんだ? 何かあったらと思うとオレはもう生きた心地もしなかった」
実際に船岡山は京都市内でも物騒なところで、過去にいくつか殺人事件も起こっていた。だがだからこそ、高校生同士が人に知られることなく会うには格好の場所でもあったのだ。
「あら、血相変えて駆けつけて来るから、何があったかと思いきや、そんなことだったの? それに田中さんはどうしたの?」
「由利! どうしてこんなあてつけがましい真似をするんだよ! 田中との約束なんて、そんなのクソ喰らえだよ。あの場で即座に断った」
「あたしのことは気にしないで、あなたはあなたで田中さんと楽しくデートすればよかったじゃない? あたしはそれで一向に構わないんだけど」
それを聞くと思わず常磐井は、激しい怒りに駆られてパシッと由利の頬をぶった。
「きゃっ」
常磐井としては相当手加減して軽く平手うちしたつもりなのだろうが、しまったと思ったときには由利の身体はその衝撃に耐えられず、吹っ飛ばされるように倒れた。
「由利! すまん、大丈夫か?」
地面に倒れ込む前に、常磐井はとっさに身体が動いて由利を受け止めた。抱き起こすと、由利は今の衝撃で鼻と口の中の血管が切れたらしく血を流していた。急いで常磐井はポケットからハンカチを出してその血を拭いた。
「すごいね、常磐井君の力って。一瞬意識が飛んでた。常盤君ならあっという間に、素手であたしを殺せちゃうね・・・。こんな目に遭うとあながち常磐井君の心配っていうのも、間違っていないんだなって今、実感しちゃった・・・」
そう言いながら、由利は常磐井の腕の中で、思わず顔に手を当ててぽろぽろと涙をこぼした。
「由利、お願いだ。だからもう、これ以上オレを弄ぶようなことはしないでくれ、頼む」
常磐井は由利に懇願した。
「ごめんなさい。だけど田中さんが勝ち誇ったようにあなたの傍にいるのを見ると、なんだか急に常磐井君が遠い存在に思えて」
「そうさせているのはおまえじゃないか、由利!」
「めちゃくちゃを言っているのは、自分でもよく分かっているのよ」
「おまえは本当に女王さまだよ、由利。オレは結局、いつもおまえの言いなりだ、だから何でも言うことを聞く。どうすればいいんだ、言ってくれ」
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その日もいつものように茶道部の連中は、新部長である鈴木千晶の厳しい指導のもとに集い、散会した。小山の代わりにとなった千晶は母親が茶の湯の師範でその関係上、五歳のころより茶の湯の稽古を始めた。実にその道十年以上のベテランである。ブリリアントさでは遠く及ばないものの、多少エキセントリックな言動が多かった小山とは違い、千秋は逆に手堅いお点前をすることで定評があった。
いつもなら一緒に帰るはずの美月は、めずらしく用事ができたからといって先に帰って行った。だいたいいつも六時を過ぎたころに校門を後にするのだが、その日に限って早い時間に稽古が終わった。時計を見ると、まだ五時半を過ぎたところだった。
「そうだ・・・。そういえばここんところ、ずっと彼とは話していない」
船岡山で喧嘩別れして以来、由利は常磐井とメールもしていなければ、まともに口を利いてさえいなかった。
「弓道部はまだ練習しているのかな?」
そう思うと由利は無性に常磐井の弓を打つ姿を見たくなった。キリキリと弦を引くときの力強い全体のフォルム、的に狙いを定めているときの眼光鋭く厳しい精悍な表情。そんなピンと緊張した瞬間の常磐井は、由利の目にたまらなく魅力的に映った。そんな彼を遠巻きに見つめているのが好きだった。
由利は中の人間には分らぬように、そっと弓道場の外の窓から中を伺い見ていた。弓道部員たちは由利がこっそりと垣間見ていることなど露知らず、黙々と弓をひたすら打っていた。
「小野さん」
そんな由利の背後から聞き覚えのある声がする。どきりとして振り向くと、それは春奈だった。
「ああ、田中さん・・・」
「どうしたの、小野さん。弓道部に何か用? それとも誰かお目当ての人でもいるの?」
春奈は空とぼけたふりをして、恋敵を牽制するためか、由利がここを訪ねてきたわけを訊き出そうとした。
「えっ? ううん、別に。部活が早く終わったし、ちょっと通りすがりに何となく眺めていただけど?」
「へぇ、何となく見ていたにしては、えらく熱心だったような気がするけど?」
「あら、そう? そんなつもりはないけど?」
挑発には乗らず素知らぬ顔をして、由利は春奈の問いに応じた。
「そうなんだ。あたしね、常磐井君を待っているのよ」
春奈は由利にことさらにひけらかすように言った。その口調もどこか得意そうだった。
「そうなの?」
悔しそうな顔を見られると期待していた春奈は、由利の動かぬ表情を見て少し調子が狂ったようだ。
「小野さん、あなた以前言ったわよね、あなたは常磐井君には全く関心がないって。だからたとえあたしが常磐井君と付き合ったとしても、それに文句を言ったりしないって」
「ああ、たしかにそんなことを言った覚えもあったかな。それが一体どうかしたの?」
春奈がじっと由利を疑い深げに凝視していると、そこに他の部員に交じって練習を終えた常磐井が、弓を携えながら道着姿で戸口に現れた。
「常磐井君!」
春奈が救われたような顔をして常磐井のほうへ転ぶように駆けて行くと、由利にことさらに誇示するように常磐井の腕に取りすがった。常磐井は向かい側にいる人物が由利だと判ると目が泳いだ。だがそれも一瞬で、またもとの表情に戻った。
「こんばんは、常磐井君」
由利は常磐井に、他人行儀なあいさつをした。
「お、おう」
「うん、部活の帰りにちょうど田中さんとそこで会ったから、お話をしていたの」
「ああ、そうなんだな」
常磐井はぶっきらぼうに答えたが、ごくんと唾を飲んだのか、喉ぼとけが動くのが見えた。
「実はね、あたしたち、これから三条へ行って映画を見ることになっているんだ!」
春奈は昂った声で宣言した。
「ああ、今日は金曜日だものね。花金ってわけね。ステキ」
由利はふふっと口元をほころばせた。
「ねえっ、悠季君?」
春奈はいかにも親しげに常磐井の名前を呼び、同意を求めるようにちらっと見上げた。
「あ、ああ」
「何を見るの?」
由利は春奈に訊ねた。
「ラ・ラ・ランドよ」
「へぇ、オシャレじゃない? ミュージカル仕立てだしね。主役のエマ・ストーンもキュートだし、ライアン・ゴズリングもハンサムだし。デートで見るにはピッタリな映画ね」
「うふふ、でしょ?」
「でもね、ちょおっとネタバレになっちゃうんだけど、結末が悲しいの。結局のところお互いに思いあっていた恋人たちは結ばれないのよね」
そう言いながら、由利はさっと視線を常磐井の顔へと走らせた。
「あらっ、小野さん! だめよ、結末を言っちゃ!」
「ああ、ごめん、ごめん。つい。だけどこの映画は最後どうなるこうなるってことより、恋愛のプロセスを重点に描かれているから。結末をちょっとぐらい知っていてもまったく遜色はないはずよ。楽しんできてね」
「小野さんは、これからまっすぐお家に帰るの?」
「そうね、さっきまでそうしようかなって思ったけど、ちょっと気が変わったなぁ、実はね、いつも行く秘密の場所があるの。そこへ行ってから帰ろうかなって」
「秘密の場所? へぇ~」
春奈がバカにしたように訊いた。
「そう、いろんな意味で大事な場所なんだけどね、あたしにとっては。今日はそこで少しひとりでいたいなって気分かしら。ああ、邪魔してごめんね。じゃあ!」
由利はふたりのもとを離れた。
由利はひとりで船岡山へ到着すると、いつものように自転車をふもとに止めて、ひとりで階段を上がって行った。もう日もとっぷりと暮れて、道路の途中途中の街灯だけがひっそりと辺りを照らしていた。日中は比較的暖かいのだが、さすがに11月の中旬ともなれば日が落ちるととたんに気温が下がる。由利はコートの襟のボタンをきっちりと閉じて風が中に入らないようにした。
この山から見下ろす街の灯は、闇の中にで宝石箱をひっくり返したように赤、青、黄色、白、紫と様々な色が交じり合いきらきらと瞬いていた。いつもの由利なら、常磐井に背後からその身をすっぽりと繭のように包まれて、うっとりとその夜景を眺めているのに、ひとりきりで見るとなぜだかその光も非常に心細くて寂しいものに思える。
ふと目から一筋涙が流れた。
「おまえが言い出したことじゃないのか? 学校では他人のフリをしろとな。それなのに何で泣く?」
ふと気が付くと傍に三郎が立っていた。
「三郎!」
驚いたように由利が叫んだ。
「三郎君、あなた、調伏されたんじゃなかったの?」
「誰が調伏されたって? おれがか? ふふふっ、あんな生臭さ坊主に何ほどのことができる? 全く聞いて呆れるとはこのことだ」
由利はあの辛い滝行も結局、何の役にも立たなかったことを知って愕然とした。
「おれが調伏されて、この世から消えてしまえばよかったと思っているのか?」
確かめるように三郎は訊いた。三郎は死霊なのかもしれないが、由利にとって危機から救ってくれた恩人でもある。だがそれとはまた別に、曰く言い難い懐かしさを三郎に感じていた。
「ううん、そんなふうには思っていない・・・。やっぱり三郎に会えると嬉しいもん」
それを聞くと心なしか三郎の目許が和らいだように感じた。
「三郎・・・。あたし、あなたにいつか会ったことがあったのかしら?」
いつも不敵な三郎の顔に、初めて動揺の影が走った。
「いつかだと・・・? それはどういう意味だ?」
「あたしが生まれる前・・・。過去生であたしが女御だったときに・・・」
「おまえが女御だったとき? そんなこと、誰がおまえに教えた?」
三郎の目は怒りと驚きで大きく見開かれていた。
「ううん。誰にも教えてもらってなんかいない。何度かあたしの意識だけが昔に飛んだの。気が付けばあたしは今の小野由利じゃなくて、帝の女御だった・・・」
「そうだな。おまえはたしかにそうだった・・・。本当に美しくて、淑やかで、それでいて侵しがたい威厳があって・・・おれの誇り、おれの憧れだった・・・。傍近くかしずいているだけで、どれほど幸せだったことか・・・」
三郎は思いがけないことを言った。
「じゃあ、あれは本当のこと?」
三郎の瞳は潤んで夜景の光にキラキラときらめいていた。だがその問いには答えなかった。
「この船岡山はな、平安の昔から長らく死体捨て場だったんだぞ。未浄化霊がうようよしているんだ。そんな沈んだ気持ちでいると、また近衛邸のときみたいに化け物たちとお見合いすることになるぞ?」
「うん。だけど・・・」
「おまえ、あいつのことをどう思っているんだ? 好きなのか、それとも嫌いなのか?」
「判らない」
由利はポツリと答えた。
「常磐井君は、自分じゃおそらく自覚していなんだろうけど、ものすごくセクシーなんだと思う。あたしはたぶん、彼のそういうところに惹かれているんだろうとは思うけど・・・」
三郎はどこか由利を心配そうに見やった。
「常磐井君は本当に親切で優しいし、いつも思いやってもくれている。だけどあたしには、彼の生き方やものの考え方には違和感があるの。それに早熟な彼の性急な愛の求め方っていうのにも」
「そうだな、たしかにあいつは、おまえに欲望を抱いている」
「うん。それもわかってる。常磐井君は太陽みたいな人よ。強烈すぎるの。遠くで神のように仰ぎ見ている分にはいいの。だけど近くに寄ってこられるとその熱さでこっちが焼け死んでしまう、イカロスのようにね。だから今のあたしは応じられない」
そういいながら由利は傍らの三郎には、常磐井の情熱とはまた別な日だまりのような優しさを感じていた。
「それじゃあ、さっきみたいに適当に他の女と遊ばせておけばいいじゃないか?」
三郎は由利をなぐさめるように言った。
「理屈で言えばそうよ。だけど実際ああいうふうにされちゃうと、解っていても悲しくなるもんなんだね」
「ふうん。困ったお姫さまだな」
だが突然三郎は、何かを聞きつけたようにビクンと身体を震わせた。
「おやおや、そろそろ若君のご登場らしい。おれはあいつに嫌われているからな。じゃあな」
そう言うと三郎は姿が見えなくなった。ほどなく常磐井が息せき切って、由利がいる場所へ来た。
「由利!」
「あら、常磐井君」
由利は何事もなかったかのようにふるまった。
「どうしたの? もう映画は終わったの?」
「バカっ! こんな人気のいない寂しい場所へおまえみたいな女の子がひとりで来ちゃダメだろ? もし変質者に襲われでもしたらどうするんだ? 何かあったらと思うとオレはもう生きた心地もしなかった」
実際に船岡山は京都市内でも物騒なところで、過去にいくつか殺人事件も起こっていた。だがだからこそ、高校生同士が人に知られることなく会うには格好の場所でもあったのだ。
「あら、血相変えて駆けつけて来るから、何があったかと思いきや、そんなことだったの? それに田中さんはどうしたの?」
「由利! どうしてこんなあてつけがましい真似をするんだよ! 田中との約束なんて、そんなのクソ喰らえだよ。あの場で即座に断った」
「あたしのことは気にしないで、あなたはあなたで田中さんと楽しくデートすればよかったじゃない? あたしはそれで一向に構わないんだけど」
それを聞くと思わず常磐井は、激しい怒りに駆られてパシッと由利の頬をぶった。
「きゃっ」
常磐井としては相当手加減して軽く平手うちしたつもりなのだろうが、しまったと思ったときには由利の身体はその衝撃に耐えられず、吹っ飛ばされるように倒れた。
「由利! すまん、大丈夫か?」
地面に倒れ込む前に、常磐井はとっさに身体が動いて由利を受け止めた。抱き起こすと、由利は今の衝撃で鼻と口の中の血管が切れたらしく血を流していた。急いで常磐井はポケットからハンカチを出してその血を拭いた。
「すごいね、常磐井君の力って。一瞬意識が飛んでた。常盤君ならあっという間に、素手であたしを殺せちゃうね・・・。こんな目に遭うとあながち常磐井君の心配っていうのも、間違っていないんだなって今、実感しちゃった・・・」
そう言いながら、由利は常磐井の腕の中で、思わず顔に手を当ててぽろぽろと涙をこぼした。
「由利、お願いだ。だからもう、これ以上オレを弄ぶようなことはしないでくれ、頼む」
常磐井は由利に懇願した。
「ごめんなさい。だけど田中さんが勝ち誇ったようにあなたの傍にいるのを見ると、なんだか急に常磐井君が遠い存在に思えて」
「そうさせているのはおまえじゃないか、由利!」
「めちゃくちゃを言っているのは、自分でもよく分かっているのよ」
「おまえは本当に女王さまだよ、由利。オレは結局、いつもおまえの言いなりだ、だから何でも言うことを聞く。どうすればいいんだ、言ってくれ」