境界の旅人 30 [境界の旅人]

第八章 父娘



「最近、ずいぶんと日が暮れるのが早くなったよねぇ」

 薄く日の名残りの残る窓の外を見て、美月がため息をついた。

「うーん。そりゃあ、ま、『秋の日はつるべ落とし』って昔から言うくらいだしね。でもさ、あたしは京都の夏の暑さがこたえていたから、むしろ涼しくなってくれてほっとしてる」

 お茶室の傍に設けられた水屋で、稽古で使った黒い楽茶碗を拭きながら由利は答えた。

「こないだ、炉開きもされたもんね。そっかぁ、もう十一月だもんね」
「うん」

 由利はことば少なに答えた。

「ね、あれからフランスのほうからは何か連絡があった?」
「ううん。何の音沙汰もなし」
「えっと、あの手紙を出したのはいつだっけ?」
「八月のお盆の頃かな。だから二か月半は丸々経ってる」

 顔色にこそ出していないが、由利ほどその手紙の返事が来るのを待ち望んでる人間はいないはずだ。気にならないはずがない。

「そっか・・・」

 美月は由利の恬淡とした表情から、かえって物事の深刻さを推し量った。

「でもさ、由利。もう少し待って何の反応も無かったらまた、次の案を考えようよ。何かいいこと思いつくかもしれないし」
「ありがとう。美月。気を遣ってくれて。だけどね『返事がない』ってことがひとつの立派な返事なんだよ。あの手紙は結局、あたしの父親にあたる人のところにたどり着けなかったか、あるいはたどり着いたとしても、当の本人が死んだか、それとも父親のくせにあたしやお母さんを捨てたことに一片の悔いもなければ、何の興味もない人間ってことなんだよ、きっと」

 由利のことばには、いつまで待っても名乗り出て来ない父親に対する恨みがこもっていた。

「由利・・・」
「ああ、もうこんな話よそうよ。気持ちが余計に暗くなっちゃう」

 由利の口調はサバサバしていたが、どこか表情が荒んでいた。



下足箱へ行って、由利が靴を履き替えるとつま先のほうに何かが入っているような違和感がある。脱いで調べると小さな紙きれが入っていた。さっと美月に悟られぬように文面に目を走らせると「いつものところで待ってる」とだけ記されていた。

 いつもならふたりで自転車を走らせながら北大路から堀川通りを抜けて南下して行く。だが由利は、自転車置き場のところで美月に言った。

「あっ、そうだ、美月。あたしうっかり忘れるところだったんだけどね、これからおじいちゃんの血圧の薬を取りに行かなきゃならなかったんだ。悪いんだけどあたし、道が反対方向だからここでバイバイしなくちゃ」

 由利がいかにも今思い出したように、もっともな口実を言った。それを聞いた美月は、目の端をきらりときらめかせながら口角を少し上げた。

 由利はさっと自転車にまたがると、そのまま行ってしまった。それを美月はじっと黙って見送ったあと、こっそりつぶやいた。

「由利…。女子校で鍛えられたあたしの目を欺けるとでも思ってんの? アイツはガチで肉食系だよ? 由利はただでさえ傷つきやすいのに…、痛い目に遭わなきゃいいけど」



 由利が向かったのは船岡山だった。船岡山公園のふもとで自転車を止めようとすると、先客はすでに来ているようで、黒くて大きな自転車が止められていた。それを見るやいなや由利は、急かされたように駆け足で頂上に続く階段を昇って行った。

 あらかじめ待ち合わせしていたのは昼間でもめったと人がこない場所で、その木立の影に潜ませるように相手は待っていた。

  由利は相手に、学校ではただのクラスメイトとしてしか自分に接してはいけないと固く約束させていた。まったく気のないそぶりをさせて、自分の席の脇や廊下をすれ違いざまに通り過ぎる相手の姿を見ているのが好きだったのだ。

「常磐井君!」
「由利!」

 ふたりはお互いの名前を呼びあったあとは、まるでN極とS極の磁石がくっつくように固く抱擁を交わした。

 常磐井の大きな温かい腕に抱きしめられながらキスされていると、まるで極上の真綿に包まれているかのような安心感がある。由利は緊張から解放されるこの一瞬がたまらなく好きだった。背の高さがコンプレックスである由利は常磐井が相手だと、幼い頃のように、素直に可愛い女の子に戻れるような気がする。今は目を閉じながら、自分を無条件にこうして受け入れ、抱きしめてくれる相手がもたらす陶酔感にうっとりと浸っていた。

 驚くほど長いキスのあと、やっとふたりは顔を離して会話した。

「ねぇ、オレって、いつまで他人のフリしてなきゃなんないの?」

 常磐井は不満げに漏らした。

「いつまでって、いつまでもよ」
「なんで?」
「なんでって、理由はないけど・・・。それにあたし、こんなふうに優しい顔もいいんだけど、学校では口許をきりっと引き締めている常磐井君を見ているほうが好きかも・・・。いわゆるギャップ萌えってヤツかな」

 由利はふふっと笑ったあと常磐井の胸に顔を埋めた。こんな態度に出られると常磐井は強く出ることができない。ちょっと困ったように由利の背中に手を当てた。

「こんなふうにデレデレしているところ、他の人には見られたくないの。誰にも知られていない秘密って甘美で、より恋に熱中できる気がする」
「それってさぁ、前世からのサガ?」
「まぁ、たしかに女御さまと中将は世を忍ぶ恋をしていたよね」
「由利・・・。ねぇ、いつまでこんなふうにキスだけなんだよ?」

 焦れに焦れたあげく、とうとうしびれを切らしたように常磐井は迫って来た。

「常磐井君、それは前にも何回も言ったよね。あたしは今のままの、この状態が好きなの」
「え、オレは嫌だ! 由利が好きだから、もっと触れていたい!」

「それは・・・常磐井君が男だから言えるセリフなんじゃない? 女は元には戻れないのよ」

「一度男を知ったら、元に戻れないってこと? もしかしてそれは遡逆性ってことを言ってるのか?」
「まぁ、それもあるけど・・・。あたしたち、まだたった十六歳の高校一年生なんだよ。行きつくところまで言ったからって、それでどうなるもんでもないじゃない?」
「由利・・・・・・。恋なんて、どうなる、こうなるって、理屈が先に来るもんじゃないっしょ。好きだからじゃ理由にならないの?」

常磐井は真顔で由利に懇願した。

「ねぇ、男の人ってとかく忘れがちなんだと思うけど、女の側にはこういう快楽には必ず妊娠っていう危険をはらんでいるんだよ」
「妊娠なんてそんなこと・・・絶対に由利にはさせないよ」

 常磐井のささやく声には幾分かいらだちが含まれていた。

「常磐井君・・・。こういうことにはね、絶対なんてこと、ありえないと思うの。そうすることは、まだお金も儲けたことのない子供のあたしたちがやることじゃないと思ってる。おのれの分をわきまえていないっていうか、不遜っていうか」
「そんなの、いつの時代でも、やってるヤツはもっと早くにでもやってるさ。不遜だの分不相応だのって、そんな理屈っぽいこと考えてるもんか」

常磐井は鼻白んだように言い放った。

「それにね、常磐井君にとって先に進むことは大事なのかもしれないけど、今のあたしには必要じゃないの。どうして恋愛のプロセスのひとつひとつを大事にしないで、先をそんなに急くのよ? あたしはね、常磐井君、いい? したくないのよ!」

由利は嫌悪の情も露わにして、常磐井を拒んだ。

「でもさ、少なくともキスはいいと思ってるんでしょ?」
「え、うん。まあね」
「じゃあ、きっとその先もいいよ」

 そうやって常磐井はもう一度由利を強く抱きしめ、気を引こうとした。だが由利は、そんな姑息な手を使った相手をぴしゃっと遮った。

「ねぇ、こんなにしつこいんなら、あたしもう帰る。あなたとは金輪際こういうことしない!」

 由利はさっさと元来た階段に通じる道へ戻ろうとした。

「ま、待てよ! せっかくやっとふたりきりになれたのに! 顔に似合わず気が短いんだからな、由利は」
「ねぇ、常磐井君って自分の将来はどう考えているの?」

 突然、由利はくるりと踵を返すと、まったく関係のなさそうな質問をした。

「オレの将来? そうだなぁ、まあ、どっか今の自分の成績に見合うような大学へ入って、やっぱ部活は武道系をやって、将来はオヤジの跡をついで道場を経営していくと思うけど?」

 戸惑ってはいたが、常磐井は誠実に答えた。

「ね? 常磐井君の中には、そんな明確な将来のビジョンがある。だけどその中にあたしはどう関わっていけるのかな? それを考えたことある?」
「えっ? 愛し合っててオレと一緒になって、オレの子供産んで・・・。道場主の妻として母として生きていくんじゃダメなの?」

 由利は呆れたようにじっと常磐井を見つめた。

「それってさ、要するに常磐井悠季の『妻』としての人生であって、小野由利としての人生っていう意味を為さないような気がするんだけど?」
「えっ? それ、どういう意味?」
「だからさ、極論を言うようだけど、あなたは道場主の妻なってくれるのなら、あたし以外の誰でも構わないんじゃない? たとえばさ、常磐井君のことが未だに大好きな田中春奈なら、きっとふたつ返事で妻になってくれるよ。それのどこにあたしの存在意義があるの?」
「えーっ。そんなぁ。オレにだって選ぶ権利っていうのがあるだろ? なってくれるなら誰でもいいなんてはずないじゃないか! 内助の功っていうのも、めっちゃくちゃ大事なことだと思うけど。愛を仲立ちにして、一生懸命夫婦して道場を切り盛りするっていうのはダメなわけ、由利にとっては?」
「まあね、だって道場をどうこうするのはあなたの夢であって、あたしの夢じゃないもん。まぁあたしも武道に精進しているのなら、まぁそれもあり得るかもしれないけどさ」
「じゃあ由利にも教えてあげるよ。今からなら十分に上達できるさ」

 常磐井は機嫌を損ねた由利を必死になってとりなした。

「人に言われてやるのは嫌なの! 自分が心の底からそう思えるんじゃなきゃ!」

 そのことばに常磐井はちょっとむっとしたようだった。

「じゃあ、由利の夢とか、やりたいことって何なんだよ? それをオレにまず教えてくれよ」
「あたしのやりたいこと・・・。そうね。今は茶道をやっているけど。でもそれが生きがいってところまでには行ってないかな? だからやりたいことはまだ見つかっていない・・・」
「それじゃ、オレの夢を一緒に叶えるっていうのの、どこがいけないわけ?」

由利は身体に巻き付いていた常磐井の腕を振りほどいた。

「ねぇ、常磐井君。あなたは前世のあたしたちがあの女御と中将という恋人同士だったと信じている。でも女御は帝の妃でしょ? おそらくふたりは前世では夫婦になれなかったんだよね。だから常磐井君は今生でこそ、女御の生まれ変わりのあたしと添い遂げるために生まれてきたんだと思ってるんでしょ? 出逢いは必然だったんだって」
「うん。そう思ってるよ。由利に出会ったことは奇跡だよ」
「だけどあたしは、あなたが信じているその『ミラクル・ロマンス』なんてもの、端から信じちゃいないのよ。あたしは結局、そういうことはどうでもいいの。今あるのは現実だけ。選択肢は星の数ほど広がっているの! あたしたちは自分の持って生まれてきた能力や努力のいかんで、その中から可能な限り最良のものを選択することができる! もしあたしたちが今結ばれたとしても、結婚なんてずっと先のことじゃない? その間にあなたやあたしが心変わりをしないって保障がどこにある? あたしはいったん、あなたとそういう関係を結んでから別れるのは嫌だ!」
「オレたちに限って、そんなこと絶対にあるはずないっ! 少なくともオレはそんなことには絶対にならない、絶対にだ!」

 若者らしい潔癖さを持ち合わせている常磐井は、怒気をはらんで言い切った。

「由利、おまえは今のこのオレの金無垢のように混じりけのない愛を、将来性とか保障と言う損得ずくの秤にかけて貶めようっていうのか? オレは由利を相対的に愛するなんてこと、これまで一度だって考えたことがない! どんなことがあっても由利に対するこの愛は変わらない! 絶対だ。由利が今考えてることこそ、そろばんづくで卑しいって思わないのか?」

 常磐井になじられると、由利の頬は平手を受けたように紅潮した。

「何よっ! もう、放して! 常磐井君はあたしの気持ちなんて、解りっこなんかないんだから!」
「由利! 由利! 待てってば!」

 由利は一度も振り返らず、一目散に坂を駆け下りて行った。






~~~~~~~~~~~~~~~

やっと季節的に追いつきました…。
由利と常盤井って仲がいいのか悪いのかわからないですねぇ。

nice!(2)  コメント(14) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。