ポジティブ・シンキング [雑文]

皆さま、こんにちは。

正月から、薔薇ちゃんたちを休眠させるために
はっばをむしる作業をしていたのですが、
まぁ、結構大変でした。

それに去年たくさん鉢も購入したので。

去年は春はともかく、秋は天候不順だったため
薔薇もイマイチな咲き方でした。

今年も剪定や植え替えをばっちりして
また大きな花を咲かせて欲しいと願っています。

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さて、今日のテーマは
『positive thinking: ポジティヴ・シンキング』についてちょこっと考えてみたいかなと
思います。


というのも、最近 twitterなんかで、
ハッシュタグをつけて「ポジティブ・シンキング」と書いて繋がろうとしている人を
多く見かけるようになったからです。

ポジティブ・シンキング、
それはものごとを悲観的に見るのではなく、楽観的に見ましょうという
そういうことだと思うのですが、
これっていいように見えて、実はなんとなく危ないものを感じてしまうのは
いつもうがった見方しか見られない私のサガなのでしょうか。

よく引き合いにだされるのが、
「コップに半分の水があります。あなたはこの水を見てどう感じますか」
ってものですね。

楽観的な人は「ああ、まだコップには半分も水がある」と見て、
悲観的な人は「ああ、もうコップに半分しか水がない」と思うんだそうです。

コップに半分水がある、そこにはそれだけの事実しかないけれど、
ひとの感情のフィルターをかけると、希望的観測や悲観的観測という感情がそこに
付け加えられてしまうということです。

まぁ、楽観的にとらえたほうが人生は生きやすいのかもしれませんが、
ちょっと待て!と私は思いますね。


世の中、ポジティブ、ポジティブと言い過ぎると思うんですよ。まるで
お題目のようにそれさえ唱えていれば、安心、安全とでも言うように。

私は、ですね。ポジティブとネガティブは両方あるべきだと思いますね。
楽観的になるのはそれはそれで結構なことだと思います。
むやみに悲観的になるよりはずっと健康的だとも思います。

ですが、ポジティブ、それはよいことだ、思考停止、になっているような気がするんですよ。

例えばさっき言った「コップに水が半分ある」という事実は
たしかに「水が半分もある」という楽観的なとらえ方もできますが、
それで全部安心、ってわけじゃないのですよ。

「でもやっぱり、半分しかないのだから、大事の飲もう」とか
「これが無くなる前に、新しいペットボトルを買っておこう」という用心深さが必要になるわけです。

ですから「コップに水が半分しかない!」と
悲観的になって「もうだめだ!」と思考停止になるのではなく、
「では、コップに水を満たすためにはどうしたらいいのだろうか」と
冷静な思考とか分析が必要になると思うんですね。


また、たとえば自分が悲しい気持ち、いわゆるネガティブな気持ちになっているとき、
「いえいえ、そういう感情は不健康です。もっとポジティブになりましょう」といって
「ポジティブなことを一つでも探してみましたか?
 そう、今日も朝ごはんはとてもおいしかった、それだけでもハッピーになれますね」
みたいなことをよく言われますが、
私は、「オイ、ちょっと待て!」と思います。「問題をすり替えんなよ」とも思いますね。
たしかに、どんなに世界が不幸でも、明けない夜はない。必ず朝日が街を照らすのです。
それはとりあえず、幸せともいえますが、それと今の惨めな感情を封印することとは違います。

なぜ、自分がこれほど、惨めで傷ついているのか、それをきちっと言語化して
自分を分析しないと、いつまでも心の中で言語化されないモヤモヤした気持ちで
自分が支配されているものなのです。

ですから、あながち、自分が嫌な気持ちになることが悪いことだと考えてはいません、私はね。

やはり、事実は事実として、冷静に感情を交えず分析してみる。

そこから本当のポジティブ・シンキングというものが生まれると思うのです。


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