読書・映画感想 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

燃ゆる女の肖像 [読書・映画感想]

今年はコロナのせいで年末年始といえど、めったに人とあうこともないし、
つまらないので、映画ばかり観ています。

とはいっても、ハリウッド製の面白そうなものは全く上映されないので、
最近はヨーロピアンで芸術性の高いフィルム系のものをよく見ています。

今回観たのは、『燃ゆる女の肖像』という映画。

ダウンロード (9).jpg

この映画は、評価が高くてですね、なんでも2019年・第72回カンヌ国際映画祭で脚本賞とクィアパルム賞を受賞したという作品だそうです。

確かに非常に映像は美しく、繊細な女性の気持ちを描いた作品として、秀逸なのかなとは思うものの、
何ていうかな、同性愛について描かれたものなので、ちょっとそこらへんはわかんなかったというか、私には共感できなかった部分がありました。


あらすじをさらりといいますと、時代は18世紀、解説にはそれだけしか書かれていないけど、女性の髪型や服装、そして男性がまだ三角帽を被っているのを見ると、多分時代は1750年代ぐらいじゃないかなぁというのが、私の思うところです。

ある女性画家がブルターニュの小島から仕事の依頼を受けます。
ブルターニュって言ったら、フランスの北西のほうで、イギリスと海峡に挟まれているところで、タダでさえ、ブルターニュってどえりゃあ田舎なのに、さらに島ってことだから、それがどれだけ、不便なところかが推し量られるよね。

劇中では、島のお城に住んでいる奥様から、娘をミラノに嫁に行かせたいので、肖像画を描いてくれって依頼されたんですよね。

でも、そこにはいくつか問題があったのです。

このお嬢様はつい最近まで修道院ぐらしをしていました。
貴族の娘が適齢期になるまで修道院で育つというのは別段珍しくもないのですが、実はこの結婚話というのは本来彼女に来た話ではなく、彼女の姉にあたる娘にもたらされた話なのですね。

ですが、おそらく結婚相手のミラノの男性はひどく年が離れているかなんかで、(おそらくベルばらのシャルロットのように)姉がその結婚を嫌がり、世を儚んで自殺してしまったのです。それで本来は一生修道院にいるはずの妹のほうにお鉢が回ってきたというわけ。

で、観ているこっちは妹娘って十五、六の少女なのかなって思うじゃないですか。

しかし、実際に女性画家が会ったお嬢様って、結構おばさん臭い、とうのたった女性なんですよね。
おそらく当時の感覚で言えば完全に行き遅れの年齢なんだと思います。

なぜ、こんなふうに一人しか結婚できないのかといえば、恐らく彼女の家は貴族なんですよ。
だけど、ひどく貧乏なのよね。だから二人も結婚させられなかったんでしょう。
要するに持参金が一人分しか用意できなかったというわけです。


それが証拠に、お城もボロボロだし、食事もひどく質素だし、
召使いは一人の少女しかいない。


行き遅れの歳で娑婆に急に戻されたお嬢様は、ひどく頑固で扱いにくいんですよね。

彼女もいまさらミラノにお嫁に行くのは嫌なんです。
だから、母親は一計を案じ、彼女の散歩に付き添ってそれとなく観察して
肖像画を描いてほしいと頼むのです。


ダウンロード (10).jpg


女性画家のほうも、お嬢様と一緒でとっくに行き遅れの年齢ではあるし、また画家と言っても、女性はまだまだ世の中に進出できない時代であるし、結構苦労しているようです。

そして何回か散歩しているうちに、ふたりは除々に気持ちが打ち解けてきて、親しくなっていくんですね。

で、突然、レズビアン行為ですよ。

日本人の私が見ていると、「え、なんで急に?」と思うのだけれど、




この時代の女性同士の愛って、今の同性愛とはちょっと違うんですよね。
彼女らだって、できるものなら自由恋愛したいです。
でも、世の中がソレを許さないんですよね。
バレたりすると、女性だけがそしりを受ける。
罪というなら男だってあるはずなのにね。

リスクは常に女性側にあり、下手をすると妊娠という決定的な不名誉を負ってしまう。

実際、劇中でも島の男性と恋愛していたメイドが妊娠してしまい、どうしようもなくなって、村の堕胎専門の女に堕ろしてもらうシーンもあります。
そのことに対して、女性画家もお嬢様も同情的で、「女って辛いねぇ」って態度なんですよね。


ここでちょっとね、プルーストの『失われた時を求めて』の後半に出て来るヒロイン、アルベルチーヌを思い出すのですよ。







消え去ったアルベルチーヌ (光文社古典新訳文庫)

消え去ったアルベルチーヌ (光文社古典新訳文庫)

  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2008/05/13
  • メディア: 文庫





アルベルチーヌは、主人公マルセルの愛人でした。アルベルチーヌは聡明でものすごく美人だったけれど、両親が早くに亡くなってしまい、持参金が全くないのです。
で、親戚のおばさんにお情けで女学校だけは出してもらったのだけれど、つまるところ、彼女はこの先、一生、金持ちの子供の家庭教師をして行きていかなきゃならなかったのですね。

全くの庶民だったら、自由恋愛もできるのだけれど、なまじっかいい家に生まれてたりすると、それもままならない。

こういう女性たちってとても孤独なんですよ。
それで、こんなふうに人恋しさのあまりにレズビアンに走ってしまうものだったらしいです。
アルベルチーヌは、身寄りが全くないので、DVのマルセルの体の良いおもちゃで我慢していたのですが、あるとき耐えきれなくなって、マルセルの家から飛び出して行って、その後、事故死するんですね。
で、マルセルはアルベルチーヌの死後、彼女が本当にレズビアンだったのかどうか、確かめようとするのです。(そんなことどうだっていいだろう?って読んでいて辟易するのですが)


この女性画家とお嬢様の間にも、そういう孤独な者同士、温かい肌にふれあいたいという欲求がわいてきたように思えます。



~~~~~~~~~~~~~~~~~

で、まぁ、この映画のタイトルは『燃ゆる女の肖像』というくらいだから、絵が結構大きなモチーフになるわけよ。

でさ、時代はロココなわけでしょ?
だけど、描かれた絵が全くロココっぽくないんだな。

images (2).jpg


全くのリアリズムっていうかさ、クソ真面目な絵だと思うんよね。
貧乏なのは解るけど、本当にきれいなレースひとつ、アクセサリーひとつつけていない。


ロココって、何ていうかな、この時代独特のコケッティッシュな可愛らしさが求められると思うんだけど、それも皆無だよね。もっと骨格は華奢で、肌はやわらかそうで透き通るように白くって輝いていて、目はキラキラと輝き、ほっぺたもピンクに描かれてないとな~と観ていて思ったわw

こんなふうに描かれたら、依頼主は激怒しそう。
どこの百姓女よ、って思われそう。


ロココ時代を代表する画家は、ちょっと思いつくところを言えば、ワトーとかブーシェとか、あるいはナティエ、ルブラン。

François_Boucher_021.jpg

o0335040013408331226.jpg

vigecc81e-le-brun-autoportrait-1790.jpg


やっぱり、似せて描いたとしても、人間というのはどこまでいっても、自分の生きている時代の美意識から逃れられるものではないな~と別の面から観て、感心しました。

nice!(5)  コメント(2) 

運命の学問・インド占星術 『流水りんこのインド占星術は深いぞ~!』 [読書・映画感想]

皆様、こんにちは。


最近はすっかり流水りんこさんのマンガにどっぷりハマっております。
この方、マンガのジャンルは特に決まっておられないようですが、エッセイマンガが面白いんですよ。

エッセイマンガの中には前回紹介した、ご自分のご家族、人生を題材にした『インド夫婦茶碗』ももちろん面白いのですが、

この方の描かれる、オカルト・スピリチュアル・精神世界に携わる方々を取材したマンガが、決定的に面白いです。

今回ご紹介するのは、これです!!


流水りんこのインド占星術は深いぞ~!





sadafusaはですね、これらの精神世界というのは、どっぷり信じていません。
特にですね、『引き寄せの法則』などは端っから信じていません。

ですから、よくスピリチュアルを信奉している人の中には、
「ああ、夕日の雲の形が◯◯に見えるから、(自分にとって)きっといいことがある」
など一喜一憂されている人を見かけます。ですが、私はそういう立場の方々とははっきりと境界線を引いています。
「神」「上位的存在」はおそらく、「わたし」という一個人に対して、常に味方して有利に働いてくれるとは思えません。
それに、人の生き死にに関しても、もっと俯瞰的というか、大きな目で見ているような気がします。
ぶっちゃけて言えば、あんまり気にしてないっていうか、ね。
そうじゃなきゃあ、これまで幾多の善人が大虐殺や大災害で亡くなったのか、わからないじゃないですか。

またですね、「目に見えないし、何も感じないから、精神世界とか、あの世を否定する」っていう考えにも、懐疑的であります。
なぜなら、五感に訴えないという意味では電磁波なども同じじゃないですか?



だから、こういう世界が存在する、しないと考えるのはそれぞれの自由であります。
しかしまぁ、私のような凡人には「わからない」という一応の結論を出しておきたい、と思います。
それは、このマンガの作者である流水りんこさんも同じで、彼女もこれまで様々な霊能者や精神世界の権威の方にインタビューされてこられましたが、立場は「中立」です。

わからないものは、わからない。
それに無理にわかったフリをしないっていうのも、読者に好印象を与えると思います。




~~~~~~~~~~~~~~

さて、なぜ作者の流水りんこさんが、インド占星術とご自分のマンガの題材として
選ばれたのかというのは、それなりに経緯があります。

前回も書いたかとは思いますが、彼女はマンガ家となってから10年以上、1年の何ヶ月かはインドの各地を放浪する生活を続けてきました。そして、バラナシで出会ったインド人男性と結婚することになったのですね。

ご主人のサッシーさんは、日本に来て、練馬で南インドカレー屋さんを開業するのですが、やはりね、一国一城の主になるというのは大変なことであるらしく、常にキリキリと働いて休む間がなかったのですね。

で、奥さんであるりんこさんが「これ以上働くとストレスで病気になってしまう」と思い、西洋医学の病院ではなく、ご主人と一緒に南インドにあるアーユルヴェーダの病院で療養することになったのですね。

まぁ、ここらへんの詳細は本書を読んで頂くとして、びっくりしたのが、アーユルヴェーダというのは、太古から現代にまで連綿として受け継がれてきた知の集大成だということです。一時期、それはなんの根拠もない迷信だと切り捨てられてきた時代もあったのですが、最近はまた、見直されてきているようです。

そして、アーユルヴェーダでは、個々人のホロスコープというものを非常に大事にするということなのです。今、目の前にいる患者さんがいつ、どこで生まれたかというのがとても大事なのですね。

で、ですがこのご主人のサッシーさん、さすがインド生まれというか、ご自分の生まれた年というものは把握しておられるのですが、生まれた月日というものが定かじゃないのですよ。それはなにもサッシーさんおひとりのことではなく、だいたいサッシーさんが育った地域はそういうのが当たり前なのだそうです。ですから、サッシーさんが小学校に上がったときに、学校の先生が「だいたいこんなもんだろう」とそれぞれの生徒の生年月日を決め、役所に届けたのだそうです。

だから、今もサッシーさんのパスポートなんかは、この学校の先生が決めた生年月日が使われています。

でも!
ここがインドの摩訶不思議なところというかなんというか、そんなに大雑把なのに、実は子供が生まれた瞬間、何年何月何日、何時何分までものすごく正確に記し、この子はこんな性格で、将来こうこうこうなるだろうと人生を克明に記したジャータガというものを作成するらしいのですね。
しかしこれは、一般の人には読めず、それを専門にする人間(パニキャーというらしいです)しか読めないのだとか。。。。

サッシーさんのお母さんは、ジャータガを作成してもらったことに安心して、そして大事なものだからと多分大事にしすぎて、どこか奥深いところにしまってしまって、行方不明になっていたそうなのです。
ですが、アーユルヴェーダというのは、治療する上でジャータガが結構参考にすることが多いらしく、本当の生年月日がわからないのは困る、ということで、探しに探したところ、とうとう見つかったんですよ。

そして、パニキャーに読み上げてもらったところ!
信じられないくらいいろいろなことが、当たっている!
妻のりんこさんがマンガ家であることも、実名とペンネームがふたつあるということもなぜか記されていた。
そしてふたりのお子さんである、アシタくんとアルナちゃんが留学すること書かれてあった~!

どっひゃあ~。これは、サッシーさんが生まれたとき書かれたことであって、そのときはもちろんりんこさんも生まれていなければ、おこさんたちも影も形もなかったはずです!
どうしてこんなに細かいことまでわかってしまうの?

そして、占星術師であるパニキャーさんはこうも言うのです。
「サッシーさん、りんこさん、あなたたち夫婦は、過去世のカルマで一緒になりました。そうでなければ出会えない縁です。それをよく理解してください」と。



りんこさんとサッシーさんもこの言葉には本当に驚きとともに、深い感銘をうけたのですね。


~~~~~~~~~~~~~~~
ここまで読んでですね、なんかこれに非常に似たような本を以前読んだ覚えがあるぞと。
そうだ、これは一昔前、結構巷で流行った『アガスティアの葉』『理性のゆらぎ』にそっくりではないか!
それに、りんこさんたちの担当医となる「シャシクマール」先生という名前もその本に出てきた覚えが…。シャシクマールってインドによくある名前なのかな?




アガスティアの葉―運命か自由意志か、そして星の科学とは何か

アガスティアの葉―運命か自由意志か、そして星の科学とは何か

  • 作者: 青山 圭秀
  • 出版社/メーカー: 三五館
  • 発売日: 2020/11/18
  • メディア: 単行本



理性のゆらぎ (幻冬舎文庫)

理性のゆらぎ (幻冬舎文庫)

  • 作者: 青山 圭秀
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2020/11/18
  • メディア: 文庫



それはどうも当たっていたらしく、
流水りんこさんの南インド探求シリーズの
『アーユルヴェーダはすごいぞ!』に、これとは別にアシスタントさんと一緒に、同じ病院に体験入院をレポートするマンガがあるんですが、



流水りんこのアーユルヴェーダはすごいぞ~!

流水りんこのアーユルヴェーダはすごいぞ~!

  • 作者: 流水りんこ
  • 出版社/メーカー: 主婦と生活社
  • 発売日: 2016/07/15
  • メディア: Kindle版



入院中にアシさんが、青山さんの『理性のゆらぎ』を読んでいて「あ、シャシクマール先生のことが書いてある!」って言ってます。

~~~~~~~~~~~~~~~

ま、アーユルヴェーダもインド占星術も深すぎて、それを詳らかに説明することができないです。
でも簡単にかいつまんで説明されるところによると、占星術といってもそれは非常に天文学に近いもので、非常に高度な計算が必要だとのことです。

ですが、この星の動きと人の運命はどうやら連動するものらしく、その人の正確な生まれた時間、場所さえわかれば、非常に熟練した占星学者であれば(そういう人は非常に稀なものらしいですが)おおよそのその人の一生、気質などもわかってしまうものらしいのです。
そして、その人が死を迎える瞬間でさえも…。

さらに言えば、その人が来世に生まれる場所や時間、そしてどんな人生を送るかでさえも!

こっわ~。怖くないですか?

もうすでに死ぬ前から来世の自分の運命って決まっているんですよ?




私は今、日本の京都にいて、自分の自由意志でありとあらゆることを選択していると思っていますが、
それが運命だったのだとしたら?

もっとも、人間はほとんど運命は避けられないものなのですが、それをどういった気持ちで迎えるかはその人の自由意志に任せられているとのことです。

また、人間というものは一生に積んだカルマ(業)によって、来世の運命も決まってくるものらしいですが、おおよその人というのは私も含めて愚かなものだから、負債のカルマばっかり増えていって、よい行いで負のカルマを返済なんてできず、どんどん雪だるま式にカルマが増えていっているような…?

恐ろしいことですよね。



インドの神話によりますと、現在クリシュナ神は地球を離れて故郷に帰っているので、この地上はカリユガ(暗黒の時代)なのだそうです。でも、また再びクリシュナはこの地上に戻ってきて、黄金の時代を迎えることができるのだそうで…。

もし、それが本当ならカルマが積もりに積もった、業の深い私はそのとき、どうなっちゃうんでしょうかね???



~~~~~~~~~
ちょっと話は外れますが、日本の密教は大変にインドのバラモン教の影響を受けているといいますね。
私の浅はかな考えなのですが、密教って案外、真実を突いている結構高度な宗教体系だと前々から思っていたのですよ。

それでですね、密教っていうのは、未来仏っていう考え方があって、過去にお釈迦さまのように立派な悟りを開かれた方っていうのがいるはずなのだから、私達が知ることができない、遠い、遠い過去にもそういう偉い人がいただろうし、そして遠い、遠い、未来にもそういう人が現れるはずだっていう考えに基づくんですよ。
で、弥勒菩薩って方がその未来仏にあたるのよね~。

それって私、昔から不思議に思っていたのよ。
「なんの確証があって、そういうことがあるといえるのか?」
「やっぱ、宗教って胡散臭いな~」って。

弥勒菩薩はお釈迦さまの入滅後、56億7千万年後の未来に現れるってことです。
(こんなに長い間だと、太陽系自体がすでに滅亡してんじゃないの? [ウッシッシ]
お釈迦さまが生きている時代には、アーユルヴェーダもインド占星術もすでに歴とした学問として存在していたそうなので、もしかして、もしかしたら、シッダルダのジャータカを見て、古代の哲人、アガスティアのように計算した人もいるかもしれない…。


そんな不思議な気持ちにさせられた一冊でした。

nice!(4)  コメント(6) 

インド夫婦茶碗 [読書・映画感想]

inndo.jpg



最近、アマゾンのサブスクである、kindle unlimited を利用しています。
月額だいたい1000円、つまり単行本一冊ぐらいのお値段で
unlimitedと表示してあるものはどれだけ読んでもタダというシステムなんですね。

ちょっと前までは、unlimitedって表示してあるものが異様に少なく
全くお得感がなかったので、お試しだけをして延長はしなかったのですが、
最近、結構いろんな範囲に網羅していて、それなりにお得感があるので、
入会しています。

これのいいところは、普通だったら、絶対に買ってまで読まんわみたいなものが
月月千円で読めるのが、とてもいいところ。

最近、漫画も本当にいろんな種類のものが読めるようになりました。
そんなとき、見つけたのが、この本!

流水りん子さんの「インド夫婦茶碗」!!

インド夫婦茶碗 コミック 1-24巻 セット [コミック]

インド夫婦茶碗 コミック 1-24巻 セット [コミック]

  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2018/03/10
  • メディア: コミック



これね、本当にいい本です!
なんていうのかな、温かい家族っていうのは、こんな感じかなってしみじみさせられちゃう。

作者の流水りん子さんは、私と同い年の漫画家さんです。
彼女は若い頃から10年ほどは一年の3分の2を漫画家として一生懸命働き、
あとはひたすらインド放浪の旅。
そしてバラナシで出会ったインド人男性と結婚するのですね!!
で、お二人の間にはアシタ君という男の子と、アルナちゃんという女の子が生まれるのです。

結婚してから子供が生まれて、お兄ちゃんのアシタ君が大学を卒業するまでの家族エッセイなんですよ。

りん子さんはそれまでお母さんと二人暮らしだったので、ご主人のサッシーさんが
日本に来ることになったのですが、漫画家さんとインドカレー屋さんをしていて
ふたりは猛烈に忙しいんですよ。

っていうのも、やはり一年に一度か長くても2年に一度はインドのお母さんに会うために、ケララ州の郷里へと帰らなければならないため、お金をせっせと稼ぐ必要があったからです。
やっぱり、いくらインドは物価が安いとはいっても、家族四人が海外渡航するっていうのは
結構なお金がかかるもんですよね。

日印ハーフのふたりのお子さんは生まれてしばらくすると、
家の近くの保育園へと預けるのですね。

私ね、自分の子供はなんだか不憫で保育園に預けられなかったのですが、
今から考えると幼稚園へ預けるより、保育園に預けたほうがよかったかなぁって思うことが多いんですよ。
っていうのも、今は核家族だし、ともすれば狭い家に母親と子供だけっていうのもお互いにストレスがかかるっていうかね。
で、幼稚園っていうのは、9時頃に始まって、終わるのが1半ぐらいで、本当にあっという間なんですよ。掃除して洗濯してスーパーへお買い物行っていたら、お迎えの時間だったみたいな。
それだけならともかく、私がものすごくイヤだったのは、幼稚園のお友達同士でお約束してくるんですよね。誰々ちゃんの家に遊びに行く、誰々ちゃんがウチに遊びに来るってね。
なんかそれが妙に煩わしかったんですよ、ママ友たちのおつきあいとか。

それならいっそのこと、保育園で精一杯遊んでこ~い!とか思ったりして。
保育園というのは、幼稚園とは違って教育の場というよりも、幼児の生活の場であるから、それはそれで非常にありがたいって思ったりするんですよね。

もちろんお仕事してなきゃ、保育園には入れないんだけど、子供の教育費っていうのは、高校にもなると莫大にお金がかかってくるものだし、教育資金を作るためにも、自分の生活を充実させるためにも、働いていたほうがいいような気がするんですよ。


私の述懐はさておき、
りん子さんは好むと好まざるとにかかわらず、お子さんふたりを保育園に入れて、
日中は漫画を作っていたりするんですよ。

で、またりん子さんのお母さんとかお姉さん夫婦のご家族っていうのが、
本当に温かい人たちでね、家族みんなが仲がいいんですよ。
でね、この家族っていうのは、基本的にみなさん「自己肯定感」が強い人たちなんですよ。

だからなのかなぁ、人を偏見で見たりすることがないから
インドが好きになり、国際結婚もできるのかなぁって思うんです。

まぁ、もちろん漫画にかかれていないことで、ご苦労されたことも多いとは思いますが、
それでも、なんかとてもうらやましく思いました。

お兄ちゃんのアシタ君は、のんびり屋さんだけど、人付き合いがよく、生真面目な性格。
妹のアルナちゃんは、怖いもの知らずの剛毅な性格。
運動神経抜群だけど、細かい仕事も好き。おしゃれな大好きな女の子なんですね。

ときどき、お母さんであるりん子さんやお父さんのサッシーさんにめちゃくちゃ叱られたりもするんだけど、親の愛ってもので強く繋がれているから、信頼感ってものがありますよね。


アルナちゃんのことでものすごく感動した箇所が2つあって、
アルナちゃんが小学校の低学年ぐらいのときかな、学校で猫にひっかかれて
病院へ連れて行かれたっていうアクシデントがあったんですよね。
その顛末をおもしろおかしく、病院の先生や看護師さんに話しているのを見て
アルナちゃんはお母さんのりん子さんにこういうのです。
「ママ、アルちゃんね、ママのことが嫌いになったよ」
「どうして?」
「だって、ママはアルちゃんのことみんなの前で嗤ったもん」

いいですね~。子供にだってプライドはある。そうやって素直に訴えることができて、
ああ、そうか、悪かったな、ごめんね、と謝れる親。

素敵な関係だと思います。

その2
アルナちゃんは活発な女の子なので、よく学校のお友達とお外遊びをするのですね。
あるとき学校の近くの公園で、ギザギザに折れたツツジの幹に躓いて膝下を大怪我するのです。
それは遊んでいたお友達が恐ろしさのあまり、動けなくなるほど、スプラッタな光景だったらしいのですね。
はじめ、家にいたりん子さんのお母さん、つまりアルナちゃんのおばあちゃんが病院へと向かったのですが、アルナちゃんは絶対におばあちゃんを処置室に入れようとはしませんでした。
そして次々と駆けつけてきたりん子さんにもお父さんのサッシーさんにも
自分の傷を見せようとしなかったんです。
なぜか。
あまりにすごい傷だったので、親に見せると必要以上に心配をかけてしまうからと子供ごころに
子煩悩な親を思いやったんですね。
こんな10歳にもならない小さいこどもが、しかも自分が大怪我しているのに、親のことを心配しているんですよ。ものすごく痛かったらしいんですけど、泣けば親がまた心配するだろうって思って、泣かなかったっていうから、本当に大したものだなって読んでいるこっちのほうが、アルナちゃんが健気すぎてもらい泣きしてしまいました。

アルナちゃんは、普段は結構甘ったれで、親にはわがままを言い放題みたいなところがある子なんですが、こんなふうに肝心のところにくると、ぐっと我慢できる。人のことを思いやることができるって、すごいなぁって思うんです。

他にもアシタ君のことや、ご主人のサッシーさんのカレー屋さんの箇所も非常に読ませます。
とにかく、子育て中の親御さんには読んでもらいたい漫画かなと思います。





nice!(3)  コメント(10) 

スパイの妻 [読書・映画感想]


330.jpg




昨日、ロードショーで『スパイの妻』を見に行ってきました。
見ていて初めてきがついたんですけど、これって制作がNHKなんですよね。
え、NHKって映画作るんだって思ったんですが、実は8kドラマ用に放映したのを
映画用に編集し直ししたものらしいです。


この映画はたしかヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞したとかで、
海外からも高い評価を受けた作品だそうですよ。


映画はものすごくお金がかかるけど、でも潤沢にお金がかけると
確かにいいものができやすいと思う。

舞台は戦前戦中の神戸の上流階級の若い夫婦の話なんですが、
監督さんのおそらく大事にしたいのであろう世界観が非常によく作れていてよかったですね。


特に私の眼を引いたのが、ヒロイン聡子のお洋服ですね。
昔の人ってこんなふうにじっくりと時間をかけて洋服を吟味していたんだなぁって
思えるような作りでした。

昔の洋服って今のハイブランドの洋服みたいに「これみよがし」なっていうか、
人を威嚇するようなティストは一切ないんですよ。
プリンセスラインの、おそらく神戸の中国人のテイラーかなんかに作らせたような
控えめながらこだわりのワンピースとかスーツの数々。
さりげなくヒロインの聡子はおそらく今のお金にして何百万もするようなマベパールの耳飾りを日常につけたりしていて、ものすごく上品です。今の時代、冠婚葬祭以外にパールをつけるとなんか重たくなるものねぇ。

昔の上流階級の奥様はゆっくりと時間をかけて、髪を結って着付けをされていたんだろうなぁって
そんな空気がとても魅力的でした。

ヒロインの聡子は、蒼井優さんが演じておられました。
蒼井優さんは文句なく美しい人ですが、特にね、肢体のきれいな人でして、
四肢が長くて細い。手なんかも指が細くて長くて、手首もほっそりとしていて
そこがとても魅力的です。
で、後ろ姿で演技する人っていうかなぁ、後ろ姿だけでもほれぼれとしますね。
main_visual@2x.jpg



お屋敷もですね、赤レンガが積まれた塀があって、どっしりとした石を組んだチューダースタイル。
玄関に続く道までうっそうとした杉に囲まれています。

こんな贅沢な暮らしした人、戦前にいたの? 華族でもないのに?って思うのですが、
まぁ、でも実業家の中には、こういった庶民とは隔絶されたものすごく優雅な暮らしをしていた人もいました。知っているだけでも朝吹登水子さんの一族とか、白洲次郎さんの一族とか。

そういったブルジョワの優雅な生活を丁寧に描いていて、とてもリッチな気持ちになれる作品です。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、あらすじですが、
時代は太平洋戦争前夜です。
神戸の大きな商社を営んでいる福原は商用のため、甥と一緒に満州へと渡航するんです。
ですが、福原の妻の聡子は満州から帰ってきた福原の様子がおかしいことに気がつくのです。
妻の自分にさえも明かせないようななにかとんでもない秘密を隠し持っているような??

ある日、聡子は夫の秘密をついに知ってしまうのです。
それは満州で現地の人間にペスト菌を投与して生体実験をしているという恐ろしい事実でした。
福原は証拠として、入手した英文で書かれた当局の極秘文書と、まさに生体実験をしている当局のありさまを撮影していたのですね。

それを偶然発見して、夫のいない隙を見計らってフィルムを全て見た聡子はそのあまりの残酷さ、恐ろしさに戦慄します。

こんなことは、いくら戦争をしていると行っても人道的に許されることではない。
なんとかしてこれをやめさせなければと思った聡子はある決心をします。

ここから先は言わないでおきますね。
ぜひ、ご自分の目で確かめてほしいなと思います。


とはいえ、恐ろしいことではありますが、生体実験などというのはナチス・ドイツやソビエトでもやっていて、別段日本だけがやっていたことじゃないです。
日本がこういった生体実験をして生物兵器を作ろうとしていた頃、アメリカは核爆弾を作っていたんですよ。やっぱり国力の差っていうのかな、お金持ちの国はやることが違うっていうか。

結局大義といってもそれは所詮、自国民にとって利益があるから大義なのであって、敵国の人には通じないものです。
戦争っていうのは、そういう世界のパワーオブバランスが崩れて、武力でしか決着がつかないから勃発するもんですよね。
殺し合いで解決するなんて非常に野蛮ですが、
そうはいっても、今でに連綿として続いていますよね。


映画を見終わったあと、なんか硬いしこりが胸に残るんですよね。
これは愛なのだろうかって。
この福原夫妻は実のところ、本当に愛し合って、信頼しあっていたのだろうかって。

maxresdefault (2).jpg









nice!(3)  コメント(0) 

自己の充実をはかるには ① [読書・映画感想]

こんにちは。気持ちのいい日が続きますね。

昨日は中秋の名月でしたが、本当に大きくて美しい満月でした。

昨日はそれと同時に夫の誕生日でもありまして、
私達夫婦と娘夫婦と四人で美味しいものを食べて
お祝いしました。

こんなふうに気のおけない人たちのために、昨晩から材料を仕込んで
朝から準備をし、自作のパンを焼き、オードブルやメインデッシュを作って
みんなで集まると会話が弾んで本当に楽しかったです。




~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて、私のライフワークのひとつに親との関係を乗り越えて
自分の人生の充実を図るということがあります。

私は長い間、親との関係に悩んできました。
最近でこそ、「毒親」ということばが定着しつつあり、
必ずしも親という存在は子供にとって愛情に溢れたものではないという
考えが定着してきた感がありますが、

私の若い頃などは、「親孝行」というのは当たり前のことであり、
自分の親を悪く言うだけでも、社会の常識にそれていると見なされていたような気がします。

どんなに親が子供を精神的、肉体的に虐待しようとも
「それでも親は何パーセントかの愛情を持って接しているはずだ」
「だから親に感謝すべき」
「だから親をいたわるべき」

っていうのが本当に根強い考えでありまして、それがどうにも苦しかったです。

ですが、1990年代に初めて「AC アダルト・チルドレン」ということばとともに、
親の加害性の犠牲になって、本来ならのびのびと幸せに包まれた幼児期・児童期を
取り上げられた子供たちを心理カウンセラーの方たちがそれを本にまとめて出版して
世に知らしめたんですね。

ACといわれる方々は成人になっても心の闇が深く、癒やされることもなく、
苦しみながら生きているのです。

そしてACは世の中には結構いるんですよ。





最近、また毒親サバイバーといわれる方たちの本をまとめて何冊か読みました。



毒親サバイバル (中経☆コミックス)

毒親サバイバル (中経☆コミックス)

  • 作者: 菊池 真理子
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/08/31
  • メディア: Kindle版






角川つばさ文庫版 母さんがどんなに僕を嫌いでも

角川つばさ文庫版 母さんがどんなに僕を嫌いでも

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/10/15
  • メディア: 新書





しんどい母から逃げる!! ~いったん親のせいにしてみたら案外うまくいった~

しんどい母から逃げる!! ~いったん親のせいにしてみたら案外うまくいった~

  • 作者: 田房永子
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2018/03/23
  • メディア: Kindle版



の三冊です。


これって基本的に三冊とも漫画なんですね。(「母さんがどんなに僕を嫌いでも」はもともと漫画だったのをノベライズ化したものを読みました)


どの本も、結構みんな衝撃的でですね、こんなものをまともに文章にしてしまうと、
重すぎてとてもじゃないけど、最後まで読みおおせないです。

「真実は小説よりも奇なり」をそのまま行ったような内容です。
簡単に内容を紹介しますと、「毒親サバイバル」は、いわゆる毒親に育てられた11人の方に
インタビューした内容をまとめたものですね。

子供はそれがどんなに苦しみに満ちたものであったとしても、他を知ることができないので、
自分の家庭が「当たり前」になるんですよ。
そして、当然のことながら、幼児というのは親に見捨てられればそれは即、死につながると
本能的に知っているので、どんなに親にひどいことをされても反撃することもなく、
親を無条件に愛するのです。

11人の方々は男女ともにいらっしゃって、中には漫画家、医療記者、文筆家、主婦など職業はさまざまです。
その方たちが親にされてきたことといえば、放置、過干渉、性的虐待、暴力、精神的虐待、もう、ありとあらゆる事が家庭という密室で起こっているのですね。

一昔前なら「これは家の恥になることだから、言えない」っていう気風が強かったのですが、
それでもこの漫画に出てこられる方たちのように、自分の家庭で何が起こっていたのかを詳らかにする人たちが現れるようになりました。

これって相当な勇気だと私には思えるのです。
子供にとって一番しんどいことがですね、おそらく親から屈辱的なことを言われることだと思うんですよ。そりゃあ、直接暴力という手段も酷いは酷いんですが、そこに恥をかかせるとでも言うんですかね~。親が子供が自尊心が保てないように、侮蔑のことばを投げかけるのがしんどいんです。

おそらくどの人も過去には虐待とともに屈辱的な思い出が蘇ってくるので、それにきちんと対峙できるのが本当に強いなって私などは思ってしまう。


 2冊目の「母さんがどんなに僕を嫌いでも」という本は、本当にこんな親っているのか?って思うほど鬼のような母親の話です。


たいてい不幸な家庭というのは、夫婦仲が悪いものなのですよ。
この本の主人公である、歌川さんの家庭もそうでした。

歌川さんは、どうやらお父さんが浮気している間に出来た子らしく、
それもお母さんが望んで妊娠したわけでなく、「家の跡とり=男の子を産め」という
圧力に負けて妊娠したらしいのです。

そして歌川さんのお母さんはどうしても歌川さんが可愛いと思えなかったみたいですね。
わかります、私の場合もそうでした。

歌川さんのお母さんは、近所でも評判の美人でしたので、
夫婦仲が悪くても、彼女の美貌に群がる男たちがいっぱい。

いつしかお母さんのほうも不倫をしていたのですが、
歌川さんのことが邪魔になって捨てるんですよね。そして施設に預けるのです。

はぁ~、いくら夫がよそに女を作って不仲であっても、
自分の子供が邪魔になって捨てたりできるもんなのかな~って
その所業に戦慄するのですが、


歌川さんが17歳の高校2年生のとき、お母さんが本気で包丁で歌川さんを殺そうとし、
あわやというところで難を逃れたのですが、

歌川さんはそのとき、心の中で何かが弾け、家出をして一人で暮らしていくのでした。
歌川さんはもともと賢く、人間力の合った人なのでしょう、自力で大検に合格し、
その後、通信教育制の大学へ行き、一流会社へと就職も決まるのです。

私が信じられないことに、歌川さんはその後、お母さんとの再会を果たすのですよ。
私ならいつまでも親とのことで怒りを持っているとこれからの人生を勧めなくなるので、
決着はつけたいと思いますが、絶対に再会はしないと思いますね。

だって包丁で切りつけて怪我させられて、下手したら殺されていたんですよ?
そんな人間には、見切りをつけたいと思います。
(私は昔から、ある意味ものすごくドライなところがある人間でした)


歌川さんがお母さんの実家のほうへ行ってリサーチしたところ、
お母さんの両親、つまり歌川さんにとって、祖父母にあたる人も
お母さんを虐待していたようです。

つまりですね、愛を十全にもらえなかった人というのは、
愛着障害というのに、陥るんですよ。
いつも見捨てられるのではないか、裏切られるのではないかと不安なのです。

子供の虐待の恐ろしさというのは、その限定された親子間だけのトラブルにとどまらず、
その子供が成人して結婚したとき、また子供を虐待してしまうという
負の連鎖が延々と続いてしまうことなんですね。

だから、誰かがどこかでそれを気づいて、
自分の歪んだ認知を正さなければ、永遠に止むことなないということです。

三番目の「しんどい母から逃げる!」というのは、
正直いって、他の2冊はまだ客観視することができるのですが、
この作者の田房永子さんのお母さんっていうのが、結構ウチの母親に
似たタイプの人で、読んでいて冷や汗をかいてしまいました。

それというのも、このお母さんって褒めては貶すってことの繰り返しをして
子供のやる気とか喜びを削いていくんですよ。
いわゆるダブルバインドな親です。


田房さんはお母さんの強い希望で、市立中学を受験するのですね。
初めは受験を勧めるお母さんに反対していた彼女なのですが、
あまりのしつこさに音を上げて、受験することを決意します。
死にものぐるいで勉強して志望校へ入学できたまではいいのですが、
それはあくまでも、母親の希望を叶えたに過ぎないのですよ。

ですが、母親が荒れ狂うとき、「せっかく、おまえが入りたいっていうから
授業料の高い私立へ入れてやったんだろ! それなのに、なんだ? この成績は?」
みたいに言うんですよ。

これね~、うちの親もよくやる手口でして
「あれ? 私そんなこと言ったんだっけ? ごめんなさい、お母さん」
ってなってしまうんですよ。
自分の言動に急に自信がなくなるんですね。
「そんなこと言ってないわ!」と強く出られないのです。

というのも、私は時々すっぽりと過去の記憶がなくなっていることがあったんです。

だから、自分自身っていうものでさえ、信用ならなかったんです。
(結局、人間は過去の記憶が自分にとってあまりに辛く耐え難いものになってしまうと、
一種の防衛本能が働いて、記憶を消去してしまうらしいです。)


私は、幼少期蓄膿症だったらしいのですが、それを察知できなかった母親が「何だ、おまえはいつもウスノロみたいに、口をぽか~んと開けやがって」とかなんとか言われて、ぶん殴られていたらしいのですが、今でも全く覚えていないのですね。
他にも頻尿でトイレにしょっちゅう行っていたので医者に連れて行ったところ、「精神不安定ですね」という診断だったらしいです。
このとき母は「私に恥をかかせやがって!」といって滅多叩きをしたらしいですが、記憶にはありません。
当時の写真を見ると、幼児の私はひとりで、ぽつんと座って砂いじりしている写真しかないんです。
「あんときのおまえはまるで浮浪児のようだった」
とよく母親は私を嘲笑っていましたが(よくも自分の落ち度になるはずのことをあざ笑うことができるものだとその精神構造を疑いますが、所詮はこういう人なので仕方がありません)、人がいることが怖かったのだと思います。

普通、良識的な親なら子供が「精神不安定です」って診断を受けたなら、反省するのでしょうが、ウチの親はまだ年端もいかぬ娘のせいにして殴ることで、精神の均衡が保てたようです。

本当にひどい親ですね~。


小さい子供のときの自分を抱きしめてやりたい、と思います。





田房さんのお母さんはまた、「ノノシラー(すごい暴言で罵りまくる人)」でありまして、田房さんが一番言われたくないことを敏感に察知し、完膚無きまでに罵り言葉で打ちのめすのです。

これも非常に似てます。

あと、お母さんだけでも厄介なのですが、新たに出来た恋人が筋金入りの「ノノシラー」なんですよ。
こんなふたりに精神的に炒め続けられたら、本当にどうにかなってしまいます。

私も実の兄が彼女の恋人の「ノノシラー」にあたりまして、兄は本当に怖い、怖い、暴君でした。
なにかあると、罵り言葉のほかに、お腹をドンっと足で力いっぱい蹴られるんです。

それをみて母親は
「子どもたちって無邪気でいいわね~。またふたりでじゃれ合っているわw」
と笑っていました。
いやいやいや、こっちは命の危険を感じていたのに、
全く助けようとしないのはどうなのか。


あと兄の嘲り方がすごかった。
「おまえの話はわけがわからない、バカ、死ねっ!」
「おまえはブスでデブ。だから2つ合わせてデブスだ! これからデブスと呼ぶからな!」
「おまえの頭の悪さは最悪。バカが移るから近寄るな、ブス!」

女の子に「ブス」って言っている息子をたしなめたりは絶対にしないのですよね。
どんなに母親に「辛い」といっても無駄でした。
それでも小さい時の私は、基本的には兄を恨むことはせず、
どうしたらブスでダメな自分を兄が受けていれくれるのか、
赦してくれるのか、
ず~っとそればっかりを考えていたような気がします。



読みながら、途中で何度も本を閉じて、ため息をついてしまいました。



普通は家庭というのは、安全な場所のはずです。
それなのに家庭でさえ、心の休まる場所ではなかったのですね。


私は小さい頃よく、真っ暗な部屋の学習机の下に潜り、蓋をするように自分の正面に椅子を置いてじっとしていたことが多かった気がします。そうしないと不安で不安でならなかったからです。
机と椅子でバリケードを作って自分を守っていたんでしょうね、おそらく。


田房さんはエキセントリックな両親と恋人から逃れ、漫画で身を立てていくことができるようになり、
自分で部屋を借ります。そしてネットで注文した自分の好みのケトルが届いたのを見て、感涙してしまうのです。
「自分の選んだもの…。なんていいんだろう!」って。
なぜなら、親や恋人の前ではさんざん自分の好みをバカにされてきたからです。

ここまで読んで、号泣してしまいました。
本当にわかりすぎて、辛かった。




田房さんも今は素敵なご夫君に出会うことができて、結婚され、お子さんもいらっしゃるようです。
こんどこそ、みんなで力をあわせてなごやかなご家庭を築かれることを祈ってやみません。









長くなりますので、これの続きは次回へとまわしたいと思います。




nice!(3)  コメント(2) 

幸せの定義 [読書・映画感想]

皆様こんにちは。

書くときは毎日書くのに、書かないときは全くかかないsadafusaです。
ちょっと前までは、こういうなんてのかなー、ブレのある自分が嫌いでどうしようもなかったんですが、
最近、「それも、ま、個性だわ」ということで諦めました。

前々から子供たちに「お母さんは二重人格だ」ってよく言われていたんですよね。
ま、たしかに自分って突然趣味なんかがコロっと変わったりするんですよ。

で、この間娘が私の生年月日を六星占星術とやらで調べたら、
木製と金星の霊合星人で、かつ、運命数が33なんだって。

それがどのくらい特異なのかどうかはわからないのですが、
あ、そうなんだって感じです。

私ね、自分がず~っと同じものを好きで居続けられないんですよ。
結構、熱しやすく冷めやすいっていうか。

どうしてなんでしょうね。


~~~~~~~~~

さて、以前も紹介したけど、この本
「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!

「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!

  • 作者: 苫米地英人
  • 出版社/メーカー: コグニティブリサーチラボ株式会社
  • 発売日: 2014/04/14
  • メディア: Kindle版




って本に確か幸せの定義なるものが載っていたのですよ。

この方の経歴ってすごくて、
認知科学者(機能脳科学、計算言語学、認知心理学、分析哲学)。計算機科学者(計算機科学、離散数値、人工知能)カーネギーメロン大学博士、CyLab兼任フェロー、株式会社ドクター苫米地ワークス代表、、、、

ずらずらと続くんだけど、まぁ、脳科学の権威なのですね。
で、この方が書かれていたんだけどね、だけどさ、なんかすんごく胡散臭いんよ。
言うなれば、ちょっと新興宗教のような感じもするんよね。

博士は「頭のゴミ」を捨てろっていうけど、
どうあったらその有害なゴミが捨てられるのかは書かれていない。
やり方さえわかったら、私だってこれまでの黒歴史を全部闇の中に捨て去って、
安心して夜眠れるはずなのにサ。



~~~~~~~~~~~

幸せには、抽象度の高い低いっていうのがあるらしく、
私にはこの「抽象度」って博士がいうところのものが、頭わるいんでイマイチ腑に落ちないんですよね。

抽象度の低い幸せっていうのは、
「おいしいものを食べて満腹になる」とか
「身体を動かして気持ちいい」とかいうのは、
脳でいうと、大脳辺緑系の扁桃体の情報処理とやらで、
サルやゴリラなみの幸せなんだそうです。

そうではなく、抽象度を上げたいと思うと、
「料理を家族のために作って、その結果おいしいといわれて嬉しかった」というふうに
人と関わることが大事らしいです。

で、最後になると、コロナ禍で一生懸命働いているお医者さんや
看護師さんたち、その他のスタッフさんたちに、クッキングカーっていうのかな
お料理できる設備のついたバンで現地に赴き、おいしいごはんを振る舞うとか
そういうことをするのが、抽象度で言えば、最大の幸せになるらしいです。

よく企業なんかはこういうことをよくやっておられますね。
たしか、先日「カンブリア宮殿」みてたら、丸亀製麺が病院へ行って、さぬきうどんを
病院スタッフに配ってたわw

大きく成長する会社というのは、ただ単に儲けるだけでなく、
自分たちが成長する先には、不特定多数の人間の幸せを必ず考えているものなのですね。

ま、それはなるほどとわかる。

自分以外の人も一緒に幸せになってこそ、人間の幸せである。

とこのように博士は説かれるわけですよ。

そこまではいい、わたしにだって解る。それは。

博士はこうもおっしゃっておられます。
「自分はもうすぐ60歳だが、今後もマラソン大会に出続けて、同年代の人たちに元気を与えるランナーになる」とか
「ボクシングの試合に出て、観衆に勇気を与えられるような戦いをみせる」

とかなると、ゴリラから少し人間のレベルに近づいているそうですよ。


博士によると、自分だけの幸せというのはありえないそうです。


しかし、こうなると全く私は受け付けられなくなるのよね。


よく、私も下手の横好きで、小説書いてたりします。
で、小説家の卵の人たちの多くにはこんな動機で書いている人って結構いるのよね。

「ボクの小説を読んで、たとえ一人でも感動してくれる人がいるなら、ボクはそのために書いている」

私、こういう言葉大嫌いなんだよね。

というのも、この動機はおそらく欺瞞だから。
人の心を動かす芸術というのは、善意だけで成り立つも者じゃなくて、才能が必要なんですよ。

たとえばですね、幼少の頃から毎日毎日ピアノを一日8時間以上練習して、最難関というわれる東京藝術大学の音楽部ピアノ科に在籍した人でさえ、人を唸らせる演奏できる人はそうはいない。

だれもがランランのように神業みたいなピアノが弾けるわけじゃない。
ミューズの神っていうのは残酷なものなんです。
努力したからって達成できるもんでもないんですよ。



かようにですね、プロになるためには、たしかに多くの人に支持される感性とスキルがいる。
しかし、小説や絵や音楽などというものは、自分の奥のどうしようもない衝動のマグマが燃え盛っていて、抑えきれずに書くもんじゃないかな。

アルタミラの洞窟の絵だって、描いた人は自分の内なる衝動に従って創作したんであって、
後世まで残る傑作を残そう!と思って描いたんじゃないんだろうなって思ったりするんよね。

私はなんで書いてるのかなって自己分析をしたんだけど、それはね、
親の支配を完全に逃れて、今まで洗脳されてきた自分自身の不甲斐なさに腹をたてて、
その怒りを創作物という形を借りて、アウトプットしたことで自身を浄化できたんだなって
思ってます。



私は自分のために作品を書いています。
それでいいと思っている。




話はもとに戻るけど、創作の原点っておそらく内発的動機がすべてじゃないかって確信している。
その結果、世に出ることが出来る人はできるんであってさ。

「人の感動できるものを書きたい」なんていうのは、体の良いいいわけであって、
実は「有名になりたい」って思っていることの裏返しなんじゃないかなって思う。
手段なんだよね。それって。

まぁ、そう思っていても成功出来る人もいるから、全部が全部悪いわけでもないだろうけど。
しかし、戦略的にプロデビューしたいと思っている人は、こんなみっともないことはいわないだろうと思うんだよね。

ま、私は内向的な性格なんで、ついついこんなふうに考えるけど、
外向的な人はまた違う動機で動くかも知んないし、人はそれぞれなんかな、それは。

だけどさ、私は思うんだけど、世のため人のためって思ってやってることって、
案外実は、はた迷惑なことって多いような気がするの。

だってさ、人のティストって本当にそれぞれだしね。
強制される、それ自身を嫌う人もいる。

件のマラソンがどうちゃらこうちゃらっていうのも、
まず、マラソン出るとしても60歳近くにもなると自己管理することも非常に大事になるわけよ。

厳密な健康管理とかさ。
どっちかというと、克己心というか、そっちが大事で目標になるよね。
で、やりおおせたとき、そういうメンタル、フィジカルを含めてコントロール出来たって思う、達成感がものすごくあるだろうなって思う。

でその次に、マラソン大会に出ることができた結果、副産物的に人々に勇気と希望を与えられることができると思うんだよね。

だけどさ、こういうことって遂行するまでは非常に孤独だよね。
一度世間が騒ぎ出すとうるさいけどさ。


で、最初にある、ゴリラ的な幸せであるところの
「おいしいものを食べたら、幸せを感じる」とか「身体を動かすことで幸せを感じる」っていうのは
私にとって、最近非常に大事なことだと思っているの。

だってさ、ともすれば現代人はそういうゴリラ並の幸せだって
わかんなくなっている人も多いじゃない。

嫌がる他人を巻き込まず、己一人で達成できるこのシンプルな幸せを
もっと大事にすべきだと思っているの。









nice!(5)  コメント(8) 

自分を大事にして生きる BUTTER [読書・映画感想]

今回もまた、すばらしい小説を紹介します。


BUTTER (新潮文庫 ゆ 14-3)

BUTTER (新潮文庫 ゆ 14-3)

  • 作者: 柚木 麻子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2020/01/29
  • メディア: 文庫







柚木さんの作品は初読みでしたが、本当に素晴らしい作品です。お話自体がミルフィーユのお菓子のように何層にもわたって重層的であり、また文章もクリームのようになめらかで大変に美しい日本語を堪能しました。また大好きな作家がひとり増えました。

この作品は、タイトルの通り、全編を通していろんなバターが出てきます。まずはエシレ、そしてカルピス・バター、よつ葉バターなどなどなど。

そしてそのバターをふんだんに使った数々のお料理が登場します。ブフ・ブルギヨン。カトル・カール。白アスパラのオランデーズソースがけ。そして七面鳥の丸焼きなどなどなど…。

食べ物の描写って非常に難しいものだと思うのですが、ワインの品評会のように気どりすぎて聞いているこっちのほうがはずかしくなるような浮いた表現など一切なく、読んでいると目の前に湯気が立っているお料理が現れるかのようでした。

いや、本当に美味しそうでお腹がぐーぐーなって大変でした。こういうところはさすがだなーって唸ってしまいますね。



さて、この作品はですね、かの有名な首都圏連続不審死事件の犯人である木嶋佳苗をモデルに作られています。

この事件は2007年から2009年にかけて、木嶋が次々と婚活によって知り合った男性らを次々と死に至らしめた事件です。

で、なんでこの事件がこんなに騒がれていたかというと、こんなにもたくさんの男性を骨抜きにして死に至らしめた当の木嶋が若くもなければ、美しくもない。もっと深くいうなら、たいていの男性が「ええ?」って思うほど肥満していたことにあるんですね(ああ、耳が痛い言葉だわ~)

なんと言っても、世の中の男性は若くてすらしとした美人が好きですから。なのに、そういった世の中の趣向とは全く別のベクトル上にある木嶋になぜ、これほど男性が執着をみせたのかというのが、世間を賑わせることにもなったのですね。

しかしただ、これだけなら、そうも世間の耳目を集めたりはしなかったのでしょうが、木嶋はものすごく美味しいものが好きで、食べ歩きが趣味。そして自身も相当お料理ができる人で、ブログに日々何を食べたか、何を作ったかが克明に記してあるのですね、

ま、この作品のベースはこの木嶋佳苗を元に、作者が創造した『梶井真奈子』というのが出てきますね。



~~~~~~~~~~

本題に入りますね。

主人公は町田里佳。32歳の週刊誌記者です。彼女は身長が166センチ、体重は48キロの長身でかつスレンダーな美人。女子高時代など、彼女のボーイッシュな風貌に憧れた同級生や下級生なんかがいっぱいいました。いわゆるハンサム・ウーマンなんですね。

のめり込むように仕事をする彼女は、日々の食事はおざなり。まぁ、それでもこの業界、女ひとりがいきていくには非常に過酷なので、見てくれには人一倍気を使って、太らないようにしていました。

そんな彼女は今、世間を騒がせている『梶井真奈子』に取材を申し入れていたのです。

あるとき友人である伶子夫婦の家へ招待されました。食事の席で、梶井に面会を要望する手紙を書いているのだけど、うんとうなずいてくれないとこぼすと伶子がこうアドバイスしてくれました。

「梶井が逮捕される前に作っていたビーフ・シチューのレシピを教えて下さいって手紙に書いてごらん。きっと会ってくれる」

「なぜ?」

「料理好きな女ってレシピを聞かれると喜んでいろいろと聞かれていないことまで話してしまうものだもん。これは絶対の法則だよ」

伶子のアドバイスが功を奏して、里佳は梶井真奈子の面会にこぎつけるのです。ですが真奈子によって里佳は自分の価値観を根本から揺すぶられるのですね。

まず、世間では憧れられているスレンダーな肢体について侮蔑されるのです。小柄なのに、軽く70キロは越えていそうな真奈子は「ダイエットなんて卑しい行為だ」「もともと男というものは、ふくよかな女性が好きなものなのだ」と自信満々に放言するのですね。

すると自分にどこか自信のない里佳はだんだんと真奈子の術中にハマり、催眠術にかかったみたいに、これまで真奈子がやってきたようなグルメ・グルマンの道をひた走りに走っていくのです。

一番最初に真奈子は里佳に「あなたはマーガリンとバターの味の違いすらわからない。まずはエシレバターを買って、炊きたてのごはんに冷たいままのせて、それにちょっとお醤油をかけて食べてご覧なさい」と命令するんですよね。

里佳は、キチンと真摯に真奈子に付き合わないと到底取材に至るまでには行かないと腹をくくるのです。そしてめちゃくちゃ高カロリーな食事を夜中にとるんですよね~。

そして次はたらことバターのパスタを食べてみろ、それができたらどこそこの有名店のバターケーキを食べてみろ、ジョエル・ロブションのフルコースを食べろ、どこそこの塩バターラーメンを夜中に食べに行け、と少しずつハードルを上げていくのです。

気がつけば、里佳は5キロ太っていました。

いや、なんかすごいです。油ってものすごくカロリー高いですから。雪印の切れてるバターってあるでしょ?あれって10グラムずつ、切れ目が入っているのですが10グラム摂取するとそれだけで78カロリーです。

ですが、バターの魅力にとりつかれた里佳は気がつけば、ものすごい量の炭水化物とともにバターを食べるようになったのですね。



と、このようにマインドコントロールされていくのです。

~~~~~~~~~~~~

ま、あらすじはこれぐらいにしておいて、感想を言っていきましょう。

この作品は大きいテーマとして「自分のために人生はある」ってことなんじゃないかなって思うのですね。

犯人の真奈子はもちろんのこと、主人公の里佳、そして友人の伶子、そしてその他の人間たちの多くが、人生においてなんらかの苦い体験をしています。

里佳の父親は彼女が中学校へ上る前に母親から離婚をされています。そして自暴自棄になって、荒んだ生活をして亡くなっているのです。亡くなる直前に里佳が父親に会うのを拒んだため、それで心の傷を負ってしまうのです。

「私がお父さんを殺してしまった」と。

真奈子も才能やよいセンスはあったのでしょうが、外見の悪さゆえ、バカにされてきました。

しかし自分は人にバカなされるばかりの人間じゃないと信じていた彼女は、お金はあるけれど寂しい男たちに近づいていって、甲斐甲斐しく尽くし、胃袋でもって男たちのハートを捉えるのですね。しかし、「自分は女を超えて女神になったのだ」とうそぶいてはいても、心の奥の奥を探っていけば欺瞞にすぎないのです。自分に嘘をついているのです。

事実、真奈子は自分ひとりのときは、凝った料理は作らないのです。自分のために手によりをかけておいしいものを作らない。



~~~~~~~~~~~~~

このお話の最後に、スタッフド・ターキーをお料理する箇所が出てきます。このお料理は、アメリカの料理で、収穫感謝祭に親族一同集まって属するものなのですね。

6キロほどの凍った七面鳥を3日かけて解凍し、それから全体に塩やスパイスを漬け込み、当日は中に栗やひき肉や松の実を入れたもち米を詰め、オーブンで焼きながら、何度も何度もたっぷりのバターを全体に回しがけするのです。

だいたいこの分量で10人分だそうです。

つまり、これほど手間がかかって、高カロリーなお料理というのは、めったに食べられないごちそうなんですよね。普段は食べられないハレのお料理ということです。

この小説は、他人と比べることの愚かしさというものをそれとなく私達に教えてくれていると思うのですよ。

自分を大事にして生きるということは、自分本位で生きるということです。昨日の自分より、今日の自分が少しでも成長できるように生きるということです。

男であろうと、女であろうと、自分の日常のご飯ぐらいなら、きちんと作ることはできるし、それが自分の体調管理にも繋がり、よりよい毎日を送る基本でもあるのですね。

自分だけの食事であっても、自分の気に入った食器を使うなどすることはぜいたくじゃないです。

男の人の場合、奥さんにすべてを丸投げにして、妻に「かあちゃん」の役割を押し付ける。離婚されたとしても、きちんと自分の面倒ぐらいみるのが当然だと思いますね。

劇中で里佳は言います。

「ちゃんと暮らしてくれないのって暴力だと思うんですね。自分を粗末に扱うことは、誰かに怒りをぶつけることだと思うから」

家父長制度の時代はとっくに終わっています。


nice!(3)  コメント(16) 

ベル・エポックのパリへようこそ! [読書・映画感想]

ダウンロード (1).jpg




みなさま、こんにちは。

さて、わたくし、先日、『響けユーフォニアム』ファンの聖地、出町は桝形商店街にある出町座へと行ってまいりました。

出町とは、京都は上京区の鴨川の端にある町のことです。

昔の京都の境界とはここまでで、鴨川を渡ると、もはやそこは京都ではなかったのです。ここはまぁ、鯖街道の拠点でもあり、まぁ、旅の出発点でもあったので、町を出る、つまり、出町となったのではないかと予想されます。

もとい、この出町座はですねぇ、ちょっと面白い映画館でして、京都にもアート系の映画館は二、三ありますが、出町座はそれの二番館みたいな役割をしています。京都の京都シネマで1週間しかやらなくて見そびれた映画などがこの出町座で上映されていたりします。

さて、わたくしがこれから紹介しようと思います、『ディリリとパリの時間旅行』っていうのもその類なのですね。

これは、実はフランスのアニメでして、最初から最後までフランスらしい美意識で打ち抜かれた作品なのです。

かてて加えて、ベル・エポック(美しい時代)と銘打たれたころのパリを舞台にして、すてきな冒険が繰り広げられます。

第一次世界大戦がはじまると、世の中、ものすごく様変わりしちゃうんですよ。それまで時間はゆったりと進んでいました。

それまでは貴婦人は長い髪の毛を結いあげ、ドレスを着つけるのに、二時間、三時間ほど時間をかけていたのです。

しかし、戦争になってマシンガンや戦車が出て来ますと、とてもじゃないけど、そんなことをしている時間の余裕がなくなり、長い髪の毛を切って断髪にし、さっさと機敏な行動をするために、コルセットなどという窮屈なものははずし、裳裾を引くようなドレスは丈を詰めて、ひざ下のスカートになるわけなのですね。


ECacVT2U0AAPBY-.jpg




 (原題は『パリのディリリ』というみたいですね)

ちょっとこのポスターをよく見ると、ん?と思われた方もいらっしゃいますでしょうか?



ここには、20世紀初頭にパリで活躍した有名人が載っていると思うのです。一番前の白い服をきた肌の浅黒い女のコが主人公のディリリ。そしてその隣の背の高い男のコがディリリのボーイフレンド、オレル。そして、もう反対側に立っている貴婦人が当時のパリで大変有名だった歌姫エマ・カルヴェです。

というようにですね、時系列にすれば10年や20年ほどのタイムラグがあって、本当はすれ違わなかったかもしれないけれど、当時パリで大変有名だった、あるいは現代において大変有名になった人々がぞろぞろと登場します。

ポスターを見て「おや?」と思う人がいますか?

わたくし、三分の一もわからなかったかもしれないですが、「ああ、この人ってもしかしたら、〇〇じゃないかなぁ」と思いながら見ているのは楽しいです。

(ちなみにボーイフレンドの横にいる、青いドレスをきた女性は、かの高名な物理学者、マリー・キュリー夫人です。学習漫画の偉人伝ではおなじみの人ですよね)



~~~~~~~~~~

1900年にパリは万国博覧会を開いたことはご存じでしょうか?

日本からは川上音二郎と妻の貞奴が招かれていたようです。

ダウンロード.jpg

当時のヨーロッパはジャポニズムって、日本風な芸術が流行っていたので、新劇の女優である貞奴さんはあちこちでモテモテだったみたいです。



さて、簡単なあらすじ。

1900年にパリで万国博覧会が行われたことは前述しました。

その中には、カヤック族のパビリオンも含まれていました。そこではカヤック族の模擬家族がカヤック族の一日を再現していました。そこへ木に登ってするするとカヤック族の女の子に近づいてきた少年がいました。名前をオレル。

「ねぇ、キミ。フランス語話せるかな?」

「ええ、カヤック語より得意なくらいよ」

 そうやって、約束の時間に現れた女の子はなんと、フランス風の真っ白なドレスを着て現れました。少年はびっくり。

ディリリはフランスにわたる前はニュー・カレドニアできちんとしたフランス風の教育を受けていたのですが、こっそり興味をひかれた忍び込んだ船が出航してしまい、そのままフランスに来てしまったとのこと。

でも、ディリリはフランスに憧れていたので、このことには満足していました。そして、ディリリは実はフランス人と現地人の混血児でした。

「いつも、窮屈な思いをしていたの。明るい肌をしているから、のけ者にされていた。だからフランスに来たら、すんなり受け入れてもらえるかなって思ったら、今度は『肌が黒い』といって差別される」

どうも、ディリリは万国博覧会が終わったら、ふるさとへ帰ろうと思っていたようです。でも、ずっと博覧会で働いていたので、パリをじっくり見物したことがないのが残念だとオレルに言いました。

「それなら、ボクに任せなよ。ボクはお届けもの屋をしているから、パリの隅から隅まで知っているよ」

というふうに、ディリリとオレルはパリのいろんなところを冒険します。

で、ですね、アニメの作りが非常に変わっていて、ところどころ、背景は写真なんですよ(加工はされていると思うけど)。それがなんだか非常に不思議な世界を構築しているんですよね。

オレルは華やかな表通りから、普段はまっとうな人なら物騒だからと近づかない裏通りまで、まさにパリの隅から隅まで、ディリリに案内してくれるのです。それが、見ている側にとって非常に面白い。

1015873_03.jpg



ところが、パリには誘拐事件が立て続けに起こっていました。さらわれるのはだいたいみんなディリリのような年端も行かない少女ばかり。

しかし、これは近年女性の地位があがり、世の中に台頭してきたことをよく思わない「男性支配団」という秘密結社の秘密だということがわかったのです…。



~~~~~~~~~

ここからしゃべってしまうと、面白くないので、ここまでにしておきますが、これって多少、フランスの歴史に関係あるのかなって思う所見を述べさせていただきます。

みなさん、ご存じのように、フランスは世界で初めて「人権宣言」をした国ですよね。

フランス革命は、人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖などを唱えました。

ね、自由、平等、友愛、がフランス革命のスローガンでしたよね。すべての人が平等であるべきだ、っていうのは、当時差別があって当たり前という世の中にあっては天地がひっくりかえるほどの価値観の転換だったわけよ。

ですが、この平等というのは、女性とか、有色人種とか入っていなかったのです。

ディリリは女の子で、カヤック族とのハーフですから、そこらへんが思いっきり抵触しているわけよね。

画像3



まぁ、いきなり女性もどんな人種も平等、というふうにはならなかったのです。

そしてこんな国でありながら、一皮めくるとフランスって国は、結構家父長制の強い国でありまして、フランス革命後、台頭してきたナポレオンなんてその権化であって、彼は女が出しゃばってるのが本当に許せなかったみたいですね。「女は家でつつましやかに、家事や裁縫でもしているのが望ましい」って思っていたみたいです。案外、こういう考え方って根強く一定のフランス人の中にあるみたいですね。

男性支配団というのは、そういった女が世の中に出しゃばっているのが、気に入らない男たちばっかで作られた秘密結社で、女の子をさらってきては、その子を男に従順な存在となるよう、家畜化というかペット化というか、奴隷化させようとしていたのよね。

まぁ、これは物語だからかなりわかりやすくカリカチュアライズされてあるけど、いまだにDV男が結構な数で存在しているフランスは、このことにもっと留意すべきなのかもしれないと思いました。もちろん、フランス以上に、男が幅を利かせている日本も同様です。

男も女あってこその男だし、また反対に女だって、男あっての女なんですよ。

女を否定することは、結局は男である自分をも否定することになる、とよくよく考えてみればわかることだと思います。





でも、お話はやはり最後はハッピーエンドになって、女の子たちは、ぶじ救出されるのだけど、その方法がまた、非常に美しい。

なんとレッド・ツェッペリン号が救出に来てくれるんですよ。

その部分が、なんていうのかなぁ、日本のアニメとも、アメリカのディズニーとも違うアプローチで、非常にフランス的演出なんですね。

行ってみれば、ローラン・プティ・バレエの美術を見ているようだった。非常に人工的でありながらも、繊細なんですよねぇ。

う~ん、さすが、フランス!

ビバ、フランス!

って感じで、フランスの底意地みたいなものを感じました。

最後のエンドロールで、ディリリと救出された女の子たちで踊るシーンが非常にかわいいので、載せておきますね。

https://www.youtube.com/watch?v=P56ALdTzmC4
nice!(4)  コメント(6) 

無縁のふたり 『どろろ』 [読書・映画感想]

Dw4ako1XQAIbYpi.jpg





みなさま、こんにちは。

今日もじっとりしています。

さて、私、二日にかけて新作アニメ『どろろ』を視聴いたしました。

私ね、昔、昔、テレビで放映されていた白黒アニメの『どろろ』ってリアルタイムで見ていたんですよ。まだ幼児の頃でした。

もう、白黒の画面が凄惨な陰影がある感じでねぇ、実際、妖怪が出てくる場面も怖いは怖いんですが、一番印象に残って眠れなかったのが、どろろの母親が寺で貧民を救済するために、炊き出しのお粥をふるまっているのに出会うシーンがあるんですよ。どろろの母親は粥を受け取る椀さえ持っていなかったので、素手で熱い熱いお粥を受け取るんです。

もう、何ていったらいいのかわかんないけど、可哀そうとかそういう甘っちょろい言葉で表現できないですね。もう本当にこの世の際を見てしまったっていう感じ。



この作品は五十年以上も前に執筆された手塚治虫の傑作中の傑作です。大人になってから改めて原作の「どろろ」を読んでみました。それにめっちゃ感銘を受けて、あたしはその後大学で中世の賎民史を主に学ぶことになるんですが。

手塚治虫の作品ってあの可愛らしい絵に騙されちゃうんですよ。いざ読みだすと実は結構グロい話とか、性について赤裸々に語られる話って多いんですよねぇ。あとこう、なんていうか業の深さみたいなものとかね。



どろろは見事にこの三つの要素が含まれていますね。

~~~~~~~~~~

で、要するにこの作品は、人口に膾炙されている誰でも知っている話なんですよ。

だから新しいアニメを作るにあたり、おそらく従来通りのプロットじゃ、周りは納得しないのですね。

そこで、この話はどう現代風に解釈するかっていうのが、結構、大事な要素かなって思いますね。

まず、父親が戦国武将の醍醐景光って人なのですよ。

今回の場所の設定がね、加賀の国のはずれということになっておりました。

へぇ~、なんか意外~。

私の中では、どろろの舞台はおそらく山陽地方なんではって思っていたんですよね、赤松とか毛利とかがいて、見える海は瀬戸内海。ですが、今回は北陸ということです。醍醐は朝倉と戦っていますので、おそらく時代は1560年あたり?かなとか。

で、設定がですね、百鬼丸の父親は、自分の野望のために、醍醐の領内にある地獄堂ってところに籠って、そこの鬼神と契約するのです。

「もしわしが天下を取るという野望をかなえてくれたなら、これから生まれてくるわしの子をおまえらにやろう」ってね。

それで生まれてきたのが、手足どころか、目も鼻も口も皮膚さえもない、蛆虫のようなわが子だったというわけです。

~~~~~~~

中世において「不具」というのは、どんなに身分の高い、それこそ天皇の皇子であったとしても、もうそれだけで不吉っていうか、触穢にあたるっていうか、捨てられなきゃならない運命にありました。

こうして百鬼丸は本来なら、お城の若さまのはずなのに、無縁の人となってしまう。

無縁の人というのは、自分の帰属するものが何もない人のこと。

どろろもそうです。彼(女)は、夜盗の夫婦の間に生まれた子です。だからどろろも所属するところがないという意味では百鬼丸と一緒で無縁の人。

で、こんな百鬼丸なのですが、原作では赤ひげみたいな医者に拾われて、教育を受け、自分の失われた身体を取り戻す旅に出るのですが、

新作になると、ちょっとこのシチュエーションが違うのかな。

原作の百鬼丸は、ちゃんと自分の意志を持った精神的に成熟し、思慮分別のある大人なんだけど、新作の百鬼丸はもっと無自覚なんだなぁ。

新作の百鬼丸は、五感が失われた代わりに、超感覚でもって世界を見ている(ゲームによくあるXレイーバイザーみたいな感覚を持っている)だけなので、閉じられた世界にいるんです。聞こえないし、見えないし、触感もないわけだから、教育のしようがないのよね。

ですから、なんというかな、百鬼丸は非常にイノセントです。素直だけど、善悪もわきまえないから、非常に残酷でもあるよね。ある意味、ずうっと赤ん坊のまま生きていた人とも言える。

妖怪退治していくうちに、ひとつひとつ、手足や本来人間として備わっているはずの感覚を取り戻していくのね。味覚とか、触覚とか、また聴覚とか。

そうなると、百鬼丸は素直に「心地よい」とか「おいしい」とか「きれい」なものに感動して、少しでも早く、完全な人間になりたいと思うんですよ。

どろろが「兄貴、空がきれいだよ」とか「もみじが真っ赤に染まっているよ」っていうんです。

でも、視覚がないのだから、想像もできない。だけど、どろろがこんなに感動しているのだから、いいものなのだろうなぁって想像はする。ああ、俺も早く見えるようになりたいなって。

なんかそういう純真さが、たまらなく哀れで愛おしい。



~~~~~~~~~~

もうひとつ、完全に原作を覆す設定がありますね。

それは、醍醐景光の野望というのは、なにも己ひとりのものではなかったということです。

息子ひとりを鬼神どもにくれてやったおかげで、醍醐の領地はしばらくは、戦もなく、飢饉もなく、国は栄え、領内に住む民たちは安寧でいられるんですよね。

ところが、百鬼丸が鬼神をひとり、またひとりと倒していくうちに、醍醐の領地は流行り病に侵されたり、イナゴの被害にあったりして、民は疲弊していくのです。

こうなるともう、なんていうのかな、もともと被害者だった百鬼丸は、醍醐側にとっては厄災以外のなにものでもなく、逆に民に被害をもたらす祟り神にほかならなくなるのですよ。

ここでね、価値の反転というか役割が入れ替わっているわけよ、原作はもっとシンプルに人間賛歌を謳ってるし、醍醐景光と弟の多宝丸は完全な悪役だったのね。

でも、新作は全くの悪者だった景光は、結構思慮深い領主と描かれているし、弟の多宝丸なんかも非常に聡明で、人に好かれる少年と描かれている。また多宝丸、百鬼丸共に容貌が酷似していて、しかも美女の誉れが高い奥方様の血が濃ゆいんですよ。

奥方は弟の多宝丸が聡明で美しくあればあるほど、まだ見ぬ失われた子のことを思い出してしまって、素直に息子を愛せないのです。

それに多宝丸もひそかに気づいており、母親の十全な愛を受け取れず、傷ついているのですね。

醍醐家は完全な機能不全に陥っている家庭なんです。



~~~~~~~

「民の安寧のため」犠牲にならなければならない存在である、とスパッと切り捨てられた百鬼丸なのですが、「生きたい」という強い意志に動かされ、結局は醍醐勢と対峙することとなります。

そうだなぁ、だから昔のように、勧善懲悪って話ではないです。

また物語は中世の農民たちの自治組織である惣村にまでふれておりまして、なかなか興味深い設定でした。

どろろの父親が残してくれた莫大な遺産は、戦乱で農村を追われた同じような浮浪児たちとともに、誰にも介入されない自分たちの自治組織である惣村を作るようにも思われました。



この世の中は光の中にも影が潜んでいるし、暗闇の中にもわずかな光が感じられる。

生きていくということは、完全に清らかなままではいられない。だから醍醐景光が悪い、百鬼丸が悪いと安直に決められない。

だけどそういう混沌とした世の中を必死で生きている命が非常に愛おしい、そんな話になっておりました。

狂言回し的な琵琶法師が言いますね。

仏と修羅の間を生きるのが人間だと。

~~~

余談ですが、どろろって本当は女の子なんですよね。

こんな戦乱の世の中ですから、両親は男の子としてどろろを育てたのかもしれません。

新作アニメのどろろは、幼いながらも自分の性をはっきり把握していたし、男女のことも知っていました。

どろろっていくつぐらいなんだろう?

ものの道理っていうのは、はっきりわかっていたから8つぐらいかなぁと思うんですよね。百鬼丸はそのとき16歳。

ってことは8つしかちがわないじゃないですか(源氏と紫の上と一緒)

七・八年経てば、どろろが15、百鬼丸は23。

おお、立派に夫婦としてやっていけそうじゃないですか。

無縁のふたりは孤独であるゆえに、すでに深く魂はつながっているように感じました。
nice!(4)  コメント(3) 

ハンガリーのクルチザンヌ 『薔薇は死んだ』 [読書・映画感想]

274333_1449772373_5962 (1).jpg



昨日、アマゾンプライムにて映画を視聴しておりました。

見ていたのは、コレです。
『薔薇は死んだ』って映画です。

制作はなんと珍しいことにハンガリーなのですね。
私はハンガリーの映画って初めて見るかもしれない。
結構雰囲気のある、素敵な映画でした。

このお話は第一次世界大戦前のハンガリーの話ですね。
だからまぁ、年代的に言えば、1915年ぐらいの話かな。
ハンガリーはその当時、ハプスブルグ帝国の一部に属していたのですね。


まぁ、出てくるのはクルチザンヌ(高級娼婦)、つまりヨーロッパにおいては
必要不可欠な人種、半世界のヒロインです。


ゾラの『ナナ』なんかを読んでみるとわかるんだけど、
たいていこの手の女って「女優」を名乗っているよね。
で、パトロンが大金持ちの旦那です。


映画を見ているうちに、いくつかのことと対比させていました。

これを見ていると、どうしてもジェレミー・アイアンズとオムネラ・ムーティが主演した
『スワンの恋』を思い出さずにはいられなかった。

これも同じ、高級娼婦とパトロンの話です。

どっちもおんなじ立場ながら、パリってところはやっぱり垢ぬけていて
ドレスにしろ、宝石にしろ、このハンガリーの娼婦のものより
どれも桁がひとつほど違うな、って感じがした。

『スワンの恋』をみたときは、私自身が二十歳ぐらいだったけど、
「うわぁ、素敵だなぁ」って素直に憧れました。


パリのほうでは、カルティエかショーメあたりであつらえた
ダイアモンドのネックレスをさらっと旦那がクルチザンヌプレゼントするのに対し、
ハンガリーの旦那のほうはなんとな~く暴君で、
それなりに高いんだろうけど、スワンがくれるようなデラックスなものはくれない。

パリの高級娼婦が住んでいる館は、小ぶりながらも
すんごくハイセンスなおうちで、オスマンのパリの大改革が終えたばかりのせいか
家具にしろ、床板にしろ、壁紙にしろ、きれいなのよ。新調されていてね。

でも、ハンガリーの館は贅沢なのかもしれないけど、
古いものをそのまま使っているような感じで、
なんとなぁく、全体的にぼろっちい感じがした。

なんとなくこれが当時の国力の差なのかなって
そういうことにずいぶんと感心しながら見ていました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ふたつめは、高級娼婦の館で下働きをすることになった少女のことね。
たぶん18歳ぐらいかなって思うんだけど、
そりゃあまあ、別嬪さんなの。
お肌がつるつるでピカピカで真っ白で、
こう匂い立つような清冽な美しさっていうのかな、
若さだけが持ち得る魅力というのかな、
そういうのがものすごく強調されていてよかったです。


でも、こういう「若さ」に付随した美しさって他の女優さんだってあるわけで
小川洋子原作の『薬指の標本』に主演していた、オリガ・キュリレンコや
『真珠の耳飾りの少女』に出演していたときのスカヨハも同等美しさがあったです。

でね、このカトゥちゃん、ものすごく目が大きくてかわいい顔をしているんだけど、
見ているうちに「あ、この顔、どこかで見たような顔だなぁ」って思っていて
それはね、ルーベンスの最初の妻、イザベラ・ブラントにそっくりなんですよ。


images.jpg
peter-paul-rubens-isabella-brant-rubens-first-wife-1621_u-L-P13UQX0.jpg


C2nhrwLUQAY5itM.jpg

この女の子、カトゥっていうんだけど、(ドリフターズのカトちゃん?)
おそらく、カトリーヌかキャサリンという名前をハンガリー風につづめたものだと思います。
この子は粗末な身なりで、編み上げブーツを履いているんだけど、
一瞬、その華奢で細い足首が写るんですよね。(ブーツ越しにですけど)
それがなんともいえないほど、魅力的なの。
脚で殿方を悩殺できるわってかんじかな。



まぁ、こういうたぐいの話はほかにもコレットの『シェリ』だとか
ほかにも探せば似たような話はあります。

たいていものすごい美少女だけど、貧しい娘が
こういうふうに貴族かブルジョアの男の妾になって
贅沢三昧するんだけど、

どうしたって、その美貌は歳とともに衰えていく。
この映画のヒロインである、クルチザンヌのエルザも35歳なのよね。
憂いを帯びた美人なんだけど、
もうすぐその賞味期限も切れそうだなって感じの美貌なんですよ。
崩壊一歩手前っていうかさ。

だからこういう終わり方、よくあるだろうなって感じでした。

そういう意味でも『スワンの恋』のオデットは、あの手この手で
スワンを惑わして、めでたく奥方の地位をゲットするんだから
やっぱりどえらい女だなって思ったの。
nice!(1)  コメント(0) 
前の10件 | 次の10件 読書・映画感想 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。