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オーストラリア [読書・映画感想]

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昨日、以前から「いいよ」と言われていた「グレイテスト・ショーマン」を見ようと
アマゾン・プライムに行ってみると
残念なことにもう終了していました。

本当はドラマを見てもよかったのですが、
でもドラマって見るまでがなんとなくおっくうになりがちです。



というわけで、HULUでもうすぐ終了になる『オーストラリア』を見ました。

主演はニコール・キッドマン。
わたしの大好きな女優さんです。

結構男勝りの女傑、みたいな役どころをさせるとうまい。

彼女は長身で、おそらく180センチと世間的には公表されているけれど、
おそらく逆サバを読んで本当のところは182センチくらいだろうというのが
世間で通っている噂らしいです。

それにただ美しくて勇ましいというだけじゃなくて、
こう包み込むような母性溢れた演技力、
そして、持ち前の何とも言えないかわいらしさっていうのが
この女優さんにはありますね。

しかもやはり主役を張れるだけの、
華ってものを持ち合わせているように思いますし、
途中でダンス・パーティのシーンがあるのですが、
スタイルのよい彼女が素敵なドレスを着ていると映えます。

そして見るまでは知らなかったのですが、
ニコール・キッドマンの恋人役には
まさかのヒュー・ジャックマンでした。
ニコール・キッドマンのお相手をする男性って
ほとんど190センチ近い超高身長の男性がほとんどですw

~~~~~~~~~~~~

さて、ですね。

この『オーストラリア』という映画ですが
タイトルの通り、第二次世界大戦中のオーストラリアを舞台に、
話は進んでいきます。

この映画はレディ・アシュレイことニコールキッドマンと
ドローヴァー(牛追い)こと、ヒュー・ジャックマンの恋を縦軸にして
いろんな話が重層的に織りなされているのです。
大きく言えば、この映画のテーマは『差別』でしょうか?


ふたりの素敵な恋の話は、実際映画を見て楽しんでいただくとして
ここでは差別について少し、語っていきたいと思います。

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いろいろとこの映画には差別が出てきます。
女への差別、人種差別、階層的な差別 。などなどなど。

差別というのは「差別する側」が「差別してやろう」とか「悪いことをしてやろう」という
意識が全くない、というのが一番罪深いっことなのですね。


「やって当然」とか「そうするしか自分たちの安寧は守られない」
あるいは「こうするのが相手側にとっても幸せはなず」
「社会的な秩序が守られるためには仕方がなかったんだ」

ってことを言いがちです。
ですがこういう意識が行きつくところまで行くと
戦争になる、ってことをよく覚えていてほしいのです。

戦争とはどちらの側にも「大儀」があり、どちらの側にとっても「聖戦」です。
どちらも自分たちのほうが「正しい」と信じて戦っているのですよ。

~~~~~~~~~~~~~~~
で、このオーストラリアで取り上げている大きな差別とは何なのか?
それを少し説明したいと思います。



オーストラリアは『白豪主義』っていうのを 貫いていました。

『白豪主義』って聞きなれない方のために、一応説明いたしますと、
「オーストラリアにおける白人最優先主義とそれに基づく非白人への排除政策」とのことです。
つまり、白人が入植するまでオーストラリアには先住民族であるアポリジニの土地でした。
ですが、白人が様々な手段でアポリジニを駆逐していこうとしていたのですね。




で、この映画の大きな骨子になるのですが、
『盗まれた世代』と呼ばれた人々がいます。
どういう人たちかというと、アポリジニと白人の間にハーフの人たちのことです。

国はこういう混血の子供をアポリジニの親元から引き離して
一か所にまとめ、
白人と同じ価値観の教育を受けさせようとします。


でも一見、無知蒙昧なアポリジニにから文明の開けた環境で育ててやるんだから
結果的にいいじゃないかと思われるかもしれませんが、 本当はそうではありませんね。

だいたいにしてアポリジニの人々を「無知蒙昧」とか「文明を持たない」と思っているのは
上から目線の白人たちなのであって、
アポリジニの人たちは自分たちの伝統や文化に沿って 生きているのです。

文化の多様性というのを全くもって認めようとしない きわめて視野の狭いものの見方でしたが、
当時はそれが当たりまえでした。


そしてまたこれには裏の側面がありまして、
白人はこういう中途半端な人間をそばに置いておきたくなくて、
「教化する」という体のいい名目を使って
アウシュビッツのように収容していただけなのですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

レディ・アシュレイの牧場には
ひとりのアポリジニと白人のハーフの子供がいるのです。
名前は『ナラ』といいました。

どうやって生まれたかというと、白人男性がアポリジニの女性を強姦した結果、
生まれた子供なのです。

レディ・アシュレイはこのナラを非常に愛しく思い、
わが子同様に育てます。
でも当局の手が伸びて、
執拗にナラとレディ・アシュレイを引き離そうとするのですね。



レディ・アシュレイが「正式に縁組してこの子は、私の子供として
責任をもって育てる」と言っているのに、
「女のたわごと」として世間は非常に身分が高いレディ・アシュレイといえど、
本気で取り合おうとしないのです。

それがまぁ、女への差別ですよね。


レディ・アシュレイで『伝道の島(世間から隔離された一種の収容所)』に連れていかれそうになっているナラに取りすがって、話されまいと懸命になっているのに、それを見守っている人々の目は冷ややかです。
「貴族のくせにみっともない。みんなの前で愁嘆場をやらかして」
こういう場合、女性のほうがさらに差別に追い打ちをかけますね。



ですが、反対に言えば、
白人で男性でさえあれば、こういった力の頂点に立つことができるので、
結構悪辣なことをしても、世間が容認しているってことが
非常に恐ろしいなと思いましたね。

ちょっと前の世の中というのは、そういうことが当たり前の世の中だったんですよ。

今じゃ生まれたときから参政権はあるし、財産の相続も認められる、
男と同等な教育も受けることができる。
(とはいえ、まだまだ差別というものは、この世からなくなってはいませんが)

ですが、これは過去にレディ・アシュレイのような女性たちが
孤独に耐えながらもひとつひとつ、勝ち取ってきた尊い権利なのです。




そして一度はアポリジニの女性と結婚していた
世間的に見れば脱落者であるドローヴァー(ヒュー・ジャックマン)
とナラを取り返しに行くという話でもあるのです。

この三人は全く血のつながりはありませんが、心情においては
レディ・アシュレイは母親だし、ドローヴァーは父親なんですよ。

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~~~~~~~~~~~~~~

そしてもうひとつ、大事なことがあります。
アポリジニとしてのアイデンティティということでしょうか。

実はナラのお祖父さんは、なんというのかなぁ、
一種の賢人というか、魔法使いというか、
そういう神聖な人なのですね。

裸にふんどし一丁という姿ですが、
荒れ果てた大地にフラミンゴのように片足だけで立っている姿は
威厳に満ち溢れています。


この人は神の声が聞ける人なのですね。
ま、一種の預言者なのです。




アポリジニの子供はある年齢に達すると
旅に出なければならないのです。

それはアポリジニとして生まれた男の子なら
どんな子でも体験しなければならない
通過儀礼でもあるし、
またそれを潜り抜けたことで、
一人前の男になっていくのですね。

レディ・アシュレイは母性の人ですから
自分の息子から引き離されるのを拒みます。

ですが、ドローヴァーは男ですから
そういう通過儀礼の大切さを身をもってよく理解しています。

「行かせなければならない」って
レディ・アシュレイを諭すんですね。

やはり男と女の役割ってそれぞれあるんだなぁって
見ていて決壊していました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ニコール・キッドマンは『ライオン』っていう映画でも
インド人の孤児を引き取るオーストラリアの女性の役をしていました。

また実生活においても、養子をふたり育て上げています。

血がたとえつながらなくても、親子の絆はつなぐことができる、
そしてまた、実際の血縁というものよりもずっと、
そういう精神的なつながりのほうが大事なんだと
映画を見る人に訴えかけているようにも思えるのですね。


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天正少年遣欧使節『MAGI』 ファンタジックに語られる四人の少年の物語 [読書・映画感想]

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こんにちは~。今年は桜の花のモチが異様に長くて本当にいい春でした。
私は三月の下旬ごろに、『錦帯橋』の絵をかいて欲しいという、オーダーが入った
娘について行って岩国まで行ってきました。岩国の春も本当に美しかったです。
今年はいつも行っている吉野はやめにして、三井寺に行ってきたのですが、
三井寺ってこんなに桜が美しい所だったのですね、三井寺の山全体が桜色に染まって本当に
きれいでしたし、さすがに昔から名刹として名高いお寺だけに
伽藍も非常に立派でした。

ちょっとお茶目なのは「るろうに剣心」の看板が立っていて、
「ここで撮影されましたよ」って書いてあったの。
私は映画を見ていて「ここって高野山?」と思っていたので、
疑問が解けてスッキリしました。

京都は昔から何度も何度も火事で街が焼けてしまって、
意外とふるーいものって残ってなかったりしますが、
比叡山を越した、坂本あたりは、室町時代以来の古い以降とか
庭園などが残されていて結構面白いところです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

さて!
1月からずうっとずうっとパソコンに張り付いて、
来る日も来る日も小説を書いていたのですが、
三か月も書いていると、頭の中にあるものはすっかり出尽くした感じがします。
やはり気候がよいこれからの季節は
しっかりと外へ出かけたり、本を読んだり、ドラマや映画を見て、
内面を肥やすことに時間を費やしたいと思います。

さて、そういうわけで脱稿したあと、さっそくドラマを見ました。
それはじゃ~ん『MAGI』です。

これは私がAmazonプライムに入会しているので
見られる特典なのですが、
このドラマはAmazonが作ったもののようです?
(よくわからないのですが)

2019年1月から世界に向けて同時公開と書いてありましたので
比較的新しい作品でしょうか。

このドラマの主人公は戦国時代にイエズス会によって西洋に派遣された
四人の少年です。
「天正遣欧使節」ですね。

伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアン、千々和ミゲルという四人の少年です。
これって、歴史の教科書にもちらりと書かれていると思うからみんな一応名前だけは
聞いたことがあるわって思う人が多いと思うんですよ。

あたしもそれと全く同じで、
へぇーそういうのがあったんだ。ってぐらいしか知りませんでした。

で、今から10年ほど前かなぁ、
この四人の少年たちについて書かれた本があって
それで初めて、この少年たちがどうしていたのか全貌をつかむことができました。




クアトロ・ラガッツィ 上 天正少年使節と世界帝国 (集英社文庫)

クアトロ・ラガッツィ 上 天正少年使節と世界帝国 (集英社文庫)

  • 作者: 若桑 みどり
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2008/03/19
  • メディア: 文庫



クアトロ・ラガッツィ 下 天正少年使節と世界帝国 (集英社文庫)

クアトロ・ラガッツィ 下 天正少年使節と世界帝国 (集英社文庫)

  • 作者: 若桑 みどり
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2008/03/19
  • メディア: 文庫




作者は若桑みどりさんという方で、この方は学者さんなのですね。美術史の。
だから、非常に詳しいのだけど、ちょっと文章が難しくてなかなか読むのに骨が折れた本です。
それでも、この本は学術論文ではなく、一般向けに書かれた教養書だったから
読めたような(他のは挫折しています 汗)


ドラマでは「マギ」というタイトルをついていますが、これって
バックグランドを全く知らない人がみて「なんでマギ?」ってことになると思うんですよね。

で、マギとはそもそも何かっていうと、
キリスト教ではイエスが生まれたとき、星が大きく輝いて、
それを見た東宝の三賢者が「救い主になるような偉大な人物が生まれた」ってことを知るんですね。
それで、わざわざ東からえっちらおっちらとイエスのところに来るのです。
名前が、バルタザール、ガスパール、メリキオールといいます。


当時、イエズス会の東洋の巡察師であったバリニャーノという人は
極東の日本人の少年を「東方三賢者に見立ててローマに派遣してはどうか?」という
壮大な夢を思いつくんですよ。

で、だけど四人の少年とこの東方三賢者となんのつながりがあるの?って思いますよね。
私も思っていました。
当時は船に乗って、日本からヨーロッパへ行くのはものすごい大旅行でした。
途中で死ぬことも多かったみたいです。
ですから、本当は三人でもよかったのですが、ひとりはなんと、「スペア」だったんです。

スペア!


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まぁ、外枠のハナシはこれくらいにしておきまして、
ドラマの中身を言いますね。

なんの前知識もなくても、このドラマって非常に楽しくて
ファンタジックでかわいらしいドラマだったと思います。

主人公の四人の少年はみんなイケメンでかわいらしい男の子ばっかりだったですし、
容貌が優れているので、日本人には結構恥ずかしい恰好である16世紀のヨーロッパの
エリザベス・カラーにカボチャズボンが非常によく似合っていた。

でも、貴人に拝謁するときは、皆本来の日本人の正装である裃を着るんですね。
それがまぁ、なんていうのかな、金襴で作ってあるのだけど、
みな花柄でピンクとか水色とか、まるで人形浄瑠璃に出てくる「お城の若さま」のような
かわいらしい恰好なんですよ。そこがまたよかったなぁと。

そして、四人の少年がいわゆる「カトリックの信仰に燃える日本人」という切り口ではなく、
「みんなそれぞれ他の目論見があって、カトリックを利用しているにすぎない」
というふうにきわめて現代的な視線で描かれていたのが、素直に共感できる気がしてよかったです。

マルティノは日本のコレジョ(英語のカレッジね)では一番の秀才で、
ポルトガルもラテン語もできました。
彼は広い世界に出て、いろんなことを吸収したいと思って出かけるんですね。

マンショは、戦乱の世で負けたある領主の息子だったようです。
ですが、一族郎党すべてを失った今、自分の生き方がわからず、こういう世を作った
信長に拝謁したいがためにキリシタンに近づいた少年として描かれていました。

信長に拝謁したとき、「イエスの愛とは何か」「自分がまっすぐに立っていられるためにどういう手立てを成すべきなのか」をしかとヨーロッパへ行って学んで参れと送り出されたのですね。


~~~~~~~~~~~~~~
しかし、ヨーロッパへ行っても、そこには日本とは違う文明国家があるだけで、
キリスト教の宣教師たちが説く、イエスの愛を実践している天国はありませんでした。

そりゃそうですよね。キリスト教も仏教も根本的にはそんなに違わないものだと思います。
ただ、日本人が何に惹かれてキリスト教に改宗するかといえば、
宣教師の姿を見て、「キリストの愛の実践している」と思うからでしょうね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
少年たちは長崎からゴアへ行き、そこからアフリカの喜望峰を通り、北上して
ポルトガルのリスボンへいき、スペインのフェリペ二世に会い、
そこから、地中海で船に乗ってイタリアへいき、ボローニャに行き、フィレンツェへ行き、
ローマへ行ってローマ教皇に拝謁して帰るのですね。


史実では中浦ジュリアンは、マギに扮しているので、
教皇に拝謁できなかったとあります。

ですがドラマでは、教皇は「本当は三人ではなく、四人でやって来た」と知るのです。
すると、「なぜ、全員でやってこなかったのか。ぜひ私に会いに来なさい」
といって、中浦ジュリアンだけがひとりで、教皇に会うシーンがあります。

教皇はジュリアンをひしと抱いて「よくやって来た」と歓迎するのですよ。

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中浦ジュリアンは、本当は教皇に拝謁していません。
ですが、一番激しくキリシタンとして生きた人です。
たぶんですが、ローマに足を運んでいながら、
バチカンに行けなかったことが、彼の生涯に暗い影を落としていたのじゃないかなって
思うのです。

彼が、一番惨い方法で殉教される直前、こう叫んだといいます。
「われこそは、かつてローマに赴きし中浦ジュリアンぞ」と。

ですから、たとえフィクションでも
中浦ジュリアンが教皇に拝謁したシーンがあるのは、
ジュリアンにとって良かったと思えるのです。

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華麗なるある人生 ~デヴィ夫人の生き方~ [読書・映画感想]

皆さま、こんにちは。

寒かったり、ちょっと寒さが緩んだり。
三寒四温の毎日です。

うちのバラちゃんたちも芽が出てき始めました。

私は『バラの家』でよくバラ、およびバラ関連用品を買っているので
たまに販売促進のためのメールマガジンが届くのですが、
葉っぱがないこの時期に、消毒を念入りにやっておくと、
このあと、黒星病などになりにくいのだそうです。

去年は本当に黒星病に悩まされてましたから~。

今年はたくさん花が咲いてほしいなって思ってます。


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さて、日本テレビの『世界の果てまでイッテQ』が大好きな我が娘。
しょっちゅうこれまで見て面白かった動画をlineに張り付けて送って来るのです。

で、しょっちゅう出川さんとデヴィ夫人のものばっかりが。
(そもそもデヴィ夫人はイッテQのレギュラーなのかな、よくわからない)

いや、出川さんとデヴィ夫人の掛け合いがおかしすぎる。
それでも、セレブのデヴィ夫人が、しかももうすぐ80歳だというのに、
空中サーカス、
バンジー・ジャンプ
イルカと一緒に曲芸、

いやもう、ありえない!ってくらい、いろいろなことに挑戦しておられます。
本当にすばらしい!
その俯仰不屈の精神、見ているだけで拍手を送りたくなります。


ところで、最近当のデヴィ夫人が本を出されたそうで、
デヴィ夫人ファンの娘が、その本を買ってまず自分が読み、
そしてわたしに貸してくれました。

それがこの本。



選ばれる女におなりなさい デヴィ夫人の婚活論

選ばれる女におなりなさい デヴィ夫人の婚活論

  • 作者: ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/02/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



見てください、この表紙のデヴィ夫人の美貌。
もうこぼれんばかりの笑顔。

一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾く

傾国ってもともと、こういう絶世の美女のことを言うんだなぁって思います。

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デヴィ夫人ってインドネシアの国家元首であるスカルノ大統領と結婚するとき、
それまでの名前、根本七保子という名前を捨てて、
ラトナ・サリ・デヴィというサンスクリット語の名前を付けてもらったそうです。
意味は「神聖なる宝石の女神」という意味らしいですが。

多分、デヴィって英語の divine と同じ語源に突き当たると思います。

ああ、ついつい趣味の名前のほうを見てしまいました。

次行きましょう。
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本はふたつに分かれていまして、
自分のこれまでの人生についてと

まぁ、婚活に苦しんでいる最近の女子への
応援メッセージって感じですかね。


はじめのほうのスカルノ大統領とのなれそめのあたりは
読んでいると、あまりにきれいごとしか書かれていないので、
眉唾もんだなと思い、
そこはすら~っと読み流して、

婚活女子に対するアドヴァイスが満載です。
読む前は、どんなキテレツなことが書かれているんだろうって思いましたが、
やはり数々の恋愛の猛者、
結構、ドストライクなことをおっしゃっておられまして、

こじらせ女子の方々は是非ともこれをしっかり読んで
幸せになってほしいなと思う次第なのです。

あんなにどんなものでもドンと来い!みたいなデヴィ夫人が一番最初に
「男には、自分の絶対に強いところをみせてはいけない」
って書かれてあったのには、正直、おかしすぎて吹き出してしまいました。

ひとりでやっていけるみたいな態度は論外。
いや、絶対にひとりでやっていけるはずの女性であるからこそ、
「風にも、え堪えぬ」って風情を演出するべきだと。

そうすれば男は「何としてでも守ってやりたい!」っていう男らしい心境になるものらしいです。

それとか、いい男がいる場所へ出かけろとかさ。
男から求められるまで、「好きだという態度」を見せちゃいけないとか。
あるいは「男に浮気されたとしても、彼が自分にとって別れたくない男ならば、
見て見ぬふりをして、自分を高めていくしか解決法がない」とかさ。
当たり前のことだけど、それを案外忘れがち。



あと、社交界におけるラブゲームというのは
『魅力ある人を求め、お互いに刺激を受け、優雅さを堪能し、機知をたのしむところ』
なんだそうです。
実際にコトに及ぶより、男が魅力的な女性を素敵なことばで口説く、
だけど、それをどのように応酬するのか、それが楽しみなんでしょうね。

ラクロの小説読んでたりすると、そういうのがよくわかります。

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まぁ、面白いけど、それほど目新しい部分はなく、
若い頃のデヴィ夫人の震えるほど美しい写真がいっぱいあって、
みていて楽しい、その割には1200円なら安いなって感じの本です。


でも、これを読んだあと、
なんか前半のデヴィ夫人の語る自伝の部分が
あまりにもきれいごとすぎて
「こんなのほとんど嘘だ」って読んでいて思ったんですよ。

それと同時に浮かび上がるのが
デヴィ夫人よりちょっと年上の美女、岸恵子。

あの人も誰も当時は『君の名は』で一世を風靡した
伝説の美女。今でもお美しいんですよ。
たしか25歳のころ、フランスの映画監督であるイヴ・シャンピと結婚。

当時はなかなか一般人は海外にでることすらままならない時代。
ほとんど日本人もいない場所で、孤独に耐え、フランス語のRの発音が
できなくてヒステリーを起こしている等身大の岸恵子の姿が描かれて
なかなか面白い。
あと、朝吹登水子。
おじいさんが日露戦争の長岡外史であり、
父親の叔母さんが慶応義塾大学の創始者、福沢諭吉の姉と、
すごい一家で超お嬢さま。
だけど、やっぱり語られる自伝では、結構苦労してるんですよね。

うん、そういう生き生きとした描写がないんですよ。

それで調べていくと、一切、デヴィ夫人はそういう泣き言をいわないけど、
スカルノ大統領と出会わせて、インドネシアへ送り込んだのは
当局の差し金だったらしいんですよね。

デヴィ夫人がスカルノ大統領と出会ったとき、
デヴィ夫人19歳、かたやスカルノ大統領は61歳でした。
しかもスカルノ大統領は、妻が愛人がうようよいるような人で
政治家としても有能だったみたいですが、
要するに『英雄色を好む』という部類だったらしいです。

でも、当時の日本はどうしてもインドネシアの援助が欲しかったのです。
それで差し出されたいわば「人身御供」だったんですね。

そしてその結婚も、日東貿易社員として、
スカルノ大統領の秘書として働くという名目だったみたいだけど、
実際は愛人稼業だったみたいです。

そのおかげで日本にいる母親と弟を亡くしてしまった。
これについては本当にデヴィさんが可哀そうだと思います。

デヴィさんは、使い捨ての駒にされたんですよね。
それならせめて病気の母親と大学生の弟さんの立場ぐらい守ってやったら
よさそうなものだったのに。

今日の日本の繁栄っていうのは、
案外こんなふうに影でデヴィさんみたいな女性がたくさんいたのかもしれないです。
日本も、北朝鮮の拉致のことなんか悪くいえないですね。
こんなことをしてたんじゃ。




なんかこれ、すごく可哀そうな話だと思うんですよ。
たしかにデヴィ夫人は超弩級の美貌を誇っていた。
だけど、もしデヴィ夫人が岸恵子のように、きちんとしたエリートサラリーマンの娘だったら、
こういう人権をないがしろにした話は出て来なかったと思うんですよ。

そこへ喰うや喰わずの、さらわれても誰からも文句を付けられなかった
娘を選んで人身御供として差し出す。

日本もこういう時代があったんだなぁってシミジミします。



実際、デヴィ夫人の前にもこういう人身御供みたいなことはあったみたいですが、
あまりにスカルノさんの周りの愛人同士の人間関係が熾烈で
疲弊しちゃって亡くなったそうです。

そこへ持ち前の負けん気と、聡明さで、
愛人レースを勝ち抜いてたとえ第三夫人でも、
国家元首の妻の座をつかんだんだからたいしたものだと思います。

小さい時から、貧しさに堪え、いつかこの境遇から抜け出して
出世してキラキラと輝いて見せるという、強烈な上昇志向があったから、
抜け目なくお金を別の口座を作って守ったと言われてますし、
スカルノ大統領が亡くなったときに、妻として財産分与された時の
金額も20億を下らないだろうと言われているそうです。

だから、フランスの社交界で『東洋の真珠』と謳われて
君臨することができたのでしょうね。

いや、本当にすごい人です。
ただ、単にキレイだったというだけではすませられない人生です。

普通だったら、自分と過去の相手について、あることないこと書くのが普通なのに、
それらのことを一切お書きになっておられない。
「みんなそれぞれ素敵な人たち」っておっしゃっておられるところが
本当にごりっぱです。




でも人に言われるぬ苦労をなさってきたとしても、
一人娘さんとお婿さんの間に、お孫さんもたくさん生まれて
それぞれお幸せに過ごしておられるからよかったなって心から思います。




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『イノサン・ルージュ』9巻まで読みました。 [読書・映画感想]

皆さま、こんにちは。

先日の突然のあの、クソ長い文章は何だ?
と思っておられた方、それはこの記事を書くための前フリだったからなのですね。


さて、『イノサン・ルージュ』最新刊の9巻まで読了しました。

イノサンRougeルージュ 9 (ヤングジャンプコミックス)

イノサンRougeルージュ 9 (ヤングジャンプコミックス)

  • 作者: 坂本 眞一
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2018/11/19
  • メディア: コミック



これって、ヤングジャンプ連載なのか…。
一応少年誌ではなく、青年誌なわけですね。

この間の記事でフランスの死刑執行人、および、サンソン家の因縁みたいなものは
説明したと思います。

このサンソン家を思い出すとき必ずわたしが思い出す一家があるのですね。
それは「浅草弾座衛門」です。

弾座衛門は日本の穢多・非人の棟梁で、『弾座衛門』という名前自体襲名されるもので、
代々続いているのです。因みに「浅草」というのは苗字ではなく、弾座衛門が浅草に住んでいたからです。

日本も『死における不浄』っていう概念はそうとうなもので、
日本の賤民っていうのは、非人系と穢多系の二つに分かれるのですが、
穢多系っていうのは、動物の皮や肉などを扱う人々です。
武具などの鎧などは必ず動物の皮を使いますから、武士がいるところ、絶対に穢多系の集団は必要だったし、いなければいるところから呼び寄せるほど必要なくせに、さげすまれ方も半端なかったのです。

しかしながら、弾左衛門家の格式は相当に高く、身分は最低で旗本一万石の同等の扱いをうけ、しかも財力は五万石だったというのですから大したものです。ここら辺も高等法院の官吏として、相当な俸給をもらっていたサンソン家に通じるものがあります。

歴史にはこういった社会にはなくてはならない汚れ役の
サンソン家とか、弾座衛門という影のスターが存在します。


さて、漫画のほうに移りましょう。

坂本真一さんが描かれる、サンソン一族の物語ですが、
絵は非常に精密で美しいです。
アイパッドで絵をものすごく大きく拡大しますから、
ペンなどの手描きでは絶対になしえないような細かい細工が見事です。
特に目ですね。まつげの細かさとか本当に、ミニアチュールを見ているようで
神職人といえそうです。

それでずっと続けて読んでいるとわからないのですが、
意外と坂本先生は服装の移り変わりにも忠実で、
始めの方の「イノサン」の人々が着ているコスチュームと
革命近く、革命後のコスチュームには違いがあります。
初めはみな三角帽子をかぶっているのですが、
イノサン・ルージュの後半ぐらいから、ナポレオンのような二つ折りの
帽子に代わっているし、マリー・ジョゼフのいでたちもなんとなく
ナポレオンチックになっていくのが非常に興味深いです。


これって本当に申し訳ないとは思うんだけど、
安達正勝先生の本を換骨奪胎したような作品で

本来ならどんなに大サンソンと呼ばれる、シャルル・アンリが
死刑を嫌がって、死刑のない世の中を望んでいたかを描かれるべきだと思うけど、
なんか変な方向へいっていると思うんですよね。

まぁ、話が面白ければそれはそれでいいとは思うけど、なんかなぁ~って
感じがします。

それなら、いっそのこと「サンソン」という名前を使わなければいいのにとも
思ったりするんだよね。

本来のタイトルの「イノサン」というのは英語の「イノセント(無垢)」のことで
大サンソンが「これまで流された血に対して私ほど、無垢(イノサン)な者はいない」といった
ところにこのタイトルの意味があると思うのです。


まぁ、漫画でもシャルル・アンリは悩んでい這いますが…。
どうも書き込み方が甘いというか。
キリスト教社会をイマイチ理解していないというか。
いや、そういう面倒くさいことを描くと読者が離れてしまうから
敢えて描かないのかもしれないけど。


それでですね。イノサン・ルージュに行きますと、
主人公はもはやシャルル・アンリじゃなくて妹の『マリー・ジョゼフ』に移行するんですよね。

名前好きの私が見ると非常にこの名前は面白い。
マリー・ジョゼフとは「処女マリアとその夫のジョゼフ』のことであります。
聖家族、すなわち、サグラダファミリアって教会もありますね。
イエスのお父さんとお母さんのお名前なのですね。
フランス革命以後、フランスはライシテ(宗教の世俗化)が進み、
あんまり宗教色がなくなった国となりましたが、
今も連綿とカトリック信仰の篤い国であるスペインなんかは
生まれて来た赤ちゃんには、判で押したように最初に男も女もすべて「ホセ(ジョゼフ)・マリア(マリー)」とつけるのです。そこで初めて本来赤ちゃんにつけようと思った名前を付けるのです。
まぁ、日本でいえば戒名の『釈ナントカ』の釈とおんなじニュアンスでしょうか。


話はすぐに趣味のほうにそれて脱線しました。

で、このマリー・ジョゼフですが、なんていうのかなオスカルさまをグレさせたような
感じの美女なのです。
長身で金髪碧眼、男装そこまでは麗しのオスカルさまと一緒なのですが、
髪型がモヒカンなんですよねぇ。
でも髪が生えている部分は長くて多毛なので、帽子をかぶっていると
「おお!」って感じです。

だけど、この人は「死」とか「人殺し」ということに対して、
別段、恐怖も嫌悪感もわかない人なのです。

じゃあ、一種のサイコパスとか、善悪の彼岸を超えた人なのかと思って読んでいたりも
するんだけど、どうも猟奇的行動ばかり目立ってよくわからない。

8巻で自分の子供をはらんでひとりで妊娠・出産し、その子に
ドレスを着せてかわいいリボンで結んでやっているのだけど、
顔に大きな鉄仮面をかぶせているので、
この子の本当の性というのは不明ということに、現在の設定ではなっております。


とにかく、革命がフランスに起きたあと、
国王が処刑されたことで、一種のタガが外れた状態に国は陥るのです。

ロベスピエールは恐怖政治をした人で有名な人ですが、
はじめ彼は死刑制度というものに不満を持っていました。

ですが、民衆というものは抑えが効かなくなると
暴走し始めるもので、一種の集団心理とでもいうのでしょうか、
気に入らないことがあると、理屈ではなく、
暴動、殺人を犯して自分たちの都合のいいように事をもっていこうとするのです。

で、示しがつかなくなったので、仕方なく恐怖政治に移行するのですね。

ナポレオンは、ある意味、ロベスピエールなんかより容赦がなかったので、
こういう暴民に対して、遠慮なくブドウ弾(クラスター爆弾)を使って
殺していました。


なんか読んでいると、これをそのまま、信じている人がいそうで怖いです。



余談ですが
それに最近、noteを始めて思ったのですが、
一部の人でしょうが、自己顕示欲が増大して半端ない人が多いような気がするのです。
そんな自己肥大化した人は
自分がちょっとでも複雑な人間に見せたくて、「自分はゲイだ」とか
「自分はバイセクシャルだ」とかすぐに公表していますが、ちょっと待ってくださいっていいたい。

世の中には本当のゲイの人がいて、そういう人たちが苦労して今の社会を作ってこられたことに
若い世代は感謝すべきだとは思うのですが、
人間の中には「アニマ・アニムス」といって男でも女でも
それぞれに男の部分、女の部分というものは持ち合わせているものです。

ですから、このわたしでさえ、男っぽい部分もあります。
それをすぐに早飲み込みして「わたしはゲイです」「わたしはレズです」ってい
宣言するのはちょっと危険な兆候かなぁとも思うのですよね。

そうやって、本当の男女の恋愛から逃げる口実に使っているのでは?と勘繰りたくもなるのです。

皆さん、よいことも悪いことも、経験は大事です。
失敗を恐れずに前に進みましょう。




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『死刑執行人サンソン ―国王ルイ16世の首を刎ねた男』 [読書・映画感想]

今回は『死刑執行人サンソン ―国王ルイ16世の首を刎ねた男』についてです。



この本は、小説でもなんでもなく、まったくの学術新書なのです。
しかし、まさに「事実は小説より奇なり」を地で行ったような内容で、
かつ非常に感銘を受けました。

筆者はフランス文学者の安達正勝さんとおっしゃる方です。
この方は、他にもフランス大革命期に活躍した人々について書かれた
著書が多くあります。

佐藤賢一さんの『小説 フランス革命』という小説がありますが
合わせて読むとより広い視野でフランス革命を理解できるかな、とも思います。

とにかく、フランス革命関連の本を読んでいて思うのは、
「革命」というものは、例えていえば、
鋭い切っ先の上にバランスを取りながら立つヤジロベエのようなもので、
一つ間違えれば「暴動」に転落してしまいかねないのです。

そうならないために、時は心を鬼にして
人々を粛正してしまわねばならない非情さが必要になるのですね。
あらぬ情をかけたりすると、それは単なる上部の人間の入れ替えにすぎなくなってしまう。
実際、あれほどの犠牲を払って断行したフランス革命ですが、その後たびたびのバックラッシュにあって王政に戻ったり、帝政になったりしていますね。

中心軸を失った国というのは、もろいものです。
うかうかしていると、他の国に侵略されてしまう。フランスと言う国は
そういう内憂外患の中を生き抜いてきたという歴史があるのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

パリの死刑執行人

さて、フランスにおける死刑執行人とはどんな人間なのか。
やはりどんな人間も死は恐ろしいものです。
ましてや、公衆の面前で顔色ひとつ変えるでなく、
人を殺してしまえる人間に恐怖すら感じしてしまうのは
自然な感情かもしれません。

死刑執行人というのは、単なる殺人者とは違います。
公の裁きを受けて、その罪状が「死刑」となったもののみ、
死刑執行人は自分に負わされた役を執行するのですね。
ですから、私情にかられて、怒りや憎しみをもって
人を殺めるのではない、ということをまず確認しておく必要があります。

しかし、死刑執行とは、言うは易いことながら、
ただ単に刀や斧を振り回していれば人は死ねるのかというとなかなかそうはいかないもののようです。
特に、斬首の場合、死刑執行人は毅然とその場に臨まなければなりません。
殺されるほうだって怖いに決まっています。

この殺すほうと殺されるほう、そうして衆人環視の何とも言えない緊張感の中で、
振り下ろす一撃のみで人を死に至らせるのは、かなりの熟練した技と度胸が必要だそうです。

とにかく、さっと殺してやらないと、どうせ助からない人間に何回も何回も切り付けなければならず、
いたずらにその人の尊厳を傷つけ、そして同時に苦痛も味合わせてしまうのです。

当時、斬首される人間というのは、貴族だけの特典!だったので、
死ぬ前にはみな盛装をしてその場に臨んだのです。

アン・ブーリンしかり。メアリー・スチュアートしかり。

こういった人々は美しく斬首してやらなければならないのです。
そうでなければ、場合によっては見ている人間の憎悪も引き起こし、
時には執行人が公衆から殺される場合もあったようです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

国王から授けられた秩序の執行者

しかしながら、細心の注意を払って刑を執行したとしても
それを喜び、いたわってくれる人間なんていないのが現実です。

死刑執行人には触れられるのも汚らわしい、おぞましいと思うのが当時のふつうの人々の
偽らざる感情だったようです。

しかも、死刑執行人というのは、世襲制でその役から逃れることができなかった。
王が生まれた時から王に生まれつくように、
死刑執行人も生まれた時から、死刑執行人だったということです。

とたえ、死刑執行人がイヤで、どこか遠くの地へ逃れ
何か別の商売を始めたとしても、
何かの拍子に彼らの氏素性を知ったとたん、
彼らは世間から締め出しを食らってしまいます。

つまり、早晩廃業に追い込まれてしまう。

また、隠しおおせたとして、子供がある時、親や先祖の素性を知ったとき、
子供はなんと思うでしょう?

きっと自分がそうとは知らずに受けついてしまった「死刑執行人」という血を呪うに違いありません。

そういう重責を担ってきたという先代の苦労を知らず、侮蔑に走るのはたやすいことです。
そうであってはならないのです。

天から定められた苦しい役目であっても、
それをきちんとまっとうしなければならない責任が自分たちにはある。
自分たちがいればこそ、この国の秩序が保たれる。

犯罪人は何が怖いといって、「死刑」と罪状が書かれてある判決文が怖いわけでもなく、
それを書いた羽ペンが怖いわけでもない。

彼らが恐れるものは死刑を遂行されることだけだ。

遂行されなければ、この国に秩序はもたらされない。
犯罪を罰し、無辜の民を守るために、神は国王の手に剣をゆだねた。

国王みずからがこれを実行することができないため、
国王はこの任務を死刑執行人たるべく私にゆだねられた。

そういう矜持がなければ、こんな仕事できるわけがないのです。

人間としてまっとうに生きるには、つらい現実に目を背けるのではなく、
しっかり見開いてそれをじっと見続けるという度胸が必要なのですね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

二律背反の中で生きて

ですが、この死刑執行人という立場の人間は常に二律背反の中で生きていかねばなりませんでした。
彼らは、ふつうの市井の人々から嫌われ、恐れられ、
食べ物などのごくごく普通の日用品を買うのも困難なときがありました。

そして、意外だと思われますでしょうが、やはり死刑執行人というのは、
きちんとその職務を果たすためには、体の構造もしっかり把握しなければならず、
かなり専門的な医学の知識も必要でした。

また、高等法院の末端に属していましたから、書類などもきちんと書けなければならず、
やはりそれなりに教養も必要だったのです。
サンソン家が立派な教育を受けさせるだけの財力はありますが、
受け入れてくれる教育機関は皆無に近い
結局、遠くの学校へ素性を明かさずに入学させるか、
個人的に家庭教師をつけるしかない。

それですら、大変な困難が伴うのです。

とはいえ、もっとも卑しむべき職業といわれながら、国王からの特権や報酬などは
そこらへんの貴族にも引けは取らないくらい多く、
実際、彼らはブルジョワか貴族のような財産をもち、生活も豊かでした。

また、医者といしての腕前も一流だったので、
やはり、怖いとかいってられない重篤な病気の人もサンソンの家にやってきました。

サンソンは、この副業の医師に非常な喜びを覚えていたようです。
人の命をうばいもするが、その代わり、病気の人や大けがをした人を助けることができると。
サンソンは貴族からは結構な報酬を受け取ってはいましたが、
お金の無い人からは一銭もとらなかったということです。

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サンソン家の系譜

さて、このパリの死刑執行人の家系である
サンソン家は初代から六代続いています。

初代サンソンは、ふつうの家庭に育った軍人でしたが、
あろうことか、死刑執行人の娘にそれとは知らず、熱烈な恋をしてしまったのです。

恋をしたまではよかったのだけれど、彼はその娘に手を出したのです。
父親は、娘が貞操を失ったのをみて非常にけしからんことだと怒り、
自分の商売道具で娘を拷問にかけたのです。

普通死刑執行人の一族は、死刑執行人の家どうしとしか婚姻はできませんでした。
それなのにどこの誰ともわからない男に傷物にされた娘なんて嫁に出せない、と思ったからです。

それを見たサンソンは観念しました。もともと自分が悪かったのです。

拷問にかけられる娘が可哀そうでした。

そして処刑人の娘であろうと、自分は結婚しようと決心しました。
これは運命なのだと。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

シャルル・アンリの苦悩

さて、そうやって淡々と職務をこなしてきた
サンソン家の人たち。

この中でとくに有名なのは巷でも「大サンソン」といわれる
フランス大革命時代を生きた、シャルル・アンリ。

彼は初代から数えて四代目に当たります。
あるとき、彼は「八つ裂きの刑」を執行せよとの通達を受けます。

しかし、これは人間の四肢を四頭の馬に放射状にひかせるというなんとも酷い死刑の方法でして、
非常に苦しい割には、なかなか死ねない。

これまででも「車裂き」という刑を、何回か執行したことがありますが、
これもかなり残酷な刑でしたが、「八つ裂きの刑」の比ではありません。

実際に、シャルル・アンリは八つ裂きの刑を執行して、そのあまりの残酷さに
打ちひしがれる思いをしました。

彼は思います。
「いくら秩序を維持するといっても、これほどまでに非人道的な処刑というものが
あっていいはずがない」と。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ギロチンの発明とその功罪

今でこそ、ギロチンというとその残酷な処刑法で有名ですが、
それは相対的なもので、
やはり、車裂きの刑や八つ裂きの刑の残酷さ、死ぬまでの苦痛の持続の長さなどを考えれば、
ということを考慮しなければなりません。

ギロチンは、失敗が単なるサーベルで首を断つより少なく(誰もがやって成功できるわけではない)
そして、貴族だけが斬首できたことを思えば、どんな身分の人間でも適用されて
平等な温情ある処刑方法だ、と発明当時は思われたのです。

このギロチンの開発には、ギロチンの名前の由来のギヨタンとサンソン、そしてルイ16世が
関わっていました。

ルイ16世は、どうも鈍重な人のように思われがちですが、
結構理系で非常に精密科学への造詣が深く、頭脳明晰な人だったといいます。

ギロチンの刃についても、最初は丸い刃を採用するはずだったのですが、
ルイ16世が「それでは失敗する可能性がある」と指摘して
最終的には今日知られるような形になったといいます。

貴族のようにいざとなれば死ぬこともいとわないという胆力がある人ならいざ知らず、
普通の人間には、斬首という刑そのものを執行することが非常に難しいのです。

なぜなら、もう死刑台に上がった時点で、人間はもうあまりの恐怖に体を垂直に立っていられることすらできなくなるからなのです。

というわけで、ギロチンは寝そべらなければクビは刎ねられませんので、
それなりに合理的なものだったのでしょう。

しかし、確実にすばやく死刑ができるということが、災いしてしまうのです。

今まで、物理的に一日にそう何人も処刑することができませんでした。
しかし、ギロチンが出来たお蔭でスイスイ死刑が進みます。

フランス大革命のとき、シャルル・アンリが手をかけた人間は二千人とも三千人ともいわれいますが、
もし、ギロチンが発明されていなかったら、こうもたくさん殺されはしなかっただろうし、
人間が苦悶しながら、死んでいくのをみれば、やはり死刑というものは恐ろしいものだ、
と人々の脳裏にきざまれてしまうのでしょうが、

ギロチンはそういうことを考えさせるヒマもなかったようです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

敬愛する国王の処刑

シャルル・アンリもやはり革命の時代に生きた人間、
第三身分に対する圧制は身に染みるほどよくわかっていました。
ですが、国王に対して非常な敬愛を捧げていました。

この当時の人々のほとんどは、王政廃止は望んでいなかったのです。

ただ、第三身分に対する圧制を緩めて、ゆくゆくはイギリスのように
絶対王権ではなく、制限付きの立憲君主制であったら、と願っていたのでした。
ですが、革命はどんどんと進み、悪いことに国王一家がヴァレンヌで逃亡が発覚したことが
王政廃止につながってしまいます。

国民を捨てて、よその国に助けを求めるような国王はもういらない!

世論はこれまで国王を擁護していましたが、一変してしまいす。
シャルル・アンリはこれまで二度、国王に会ったことがありました。

それはもう、本当に国王としての神々しいばかりの威厳も身に着いた
すばらしい方、と言う風にシャルル・アンリの目には映りました。

この方のために大切な仕事を引き受けているのだとさえ、思えたのです。

ですが、とうとう議会は国王の死刑を確定してしまったのです。
シャルル・アンリは目の前が真っ暗になりました。

シャルル・アンリの不幸というのは、
死刑執行人という逃れられない運命ももちろんですが、
彼があまりにもまっとうすぎるほど、まっとうな人間で、
かつ、人に対して非常に情けがある、温かい人間だったということです。

国王が死刑になる前の日は妻の誕生日で、
彼はせめてその日ぐらいは愛する妻をねぎらい、
楽しく過ごしてほしい、と思っていた。

しかし、そんなわずかな願いも叶えられなくなってしまう。

妻が明日、夫が国王を処刑しなければならないことを知ってしまったから。
シャルル・アンリの妻は夫が真っ青な顔をして体を震わせているのをみて
本当に可哀そうに思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

今まで、国王の命で行っていた死刑なのに、
こんどはあろうことか、その国王のお命までも奪うことになろうとは。

シャルル・アンリは必死で神に祈りました。

だれか国王の死刑を反対して、当日は大乱闘になるかもしれない。
何か奇跡が起こるかもしれない。

しかし、奇跡は起こらず、シャルル・アンリは心が凍り付いたようにしびれたまま、
まるで悪夢をみているように、国王をこれまでの罪人と同じように処刑したのでした。

シャルル・アンリは自分が国王を手にかけたということでパニックになってしまう。
そして、人づてに聞いた革命に協力しないいう「非宣誓派」の僧侶を探して、
国王のための鎮魂のミサを挙げてもらおうとしたことでした。

非宣誓派の司祭に国王の鎮魂のミサを挙げてもらうなど、ばれてしまったら
サンソンすら処刑されるような大胆不敵な所業だったのですが、
とにかく、信仰に篤いシャルル・アンリはそうでもしないと、正気が保てそうになかった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

このときのシャルル・アンリの苦悩はバルザックが描いています。
バルザックはサンソン家の人から綿密な取材を経てこの作品を書いたということです。
これはたぶん、フランス文学者である安達さんが、訳しておられるのだと思います。

調べてみましたが、この本は翻訳されたものは見つけられませんでした。
あまりに素晴らしいので掲載します。

バルザック作『贖罪のミサ』

暖炉の二本の煙突の間に、二人の修道女は虫に食われた古いタンスを運び移していた。

そのタンスは非常に古い様式のものだったが、
祭壇に仕立てあげるために上からかけた緑色のモアレ織の布地で形が見えなくなっていた。

黒檀と象牙でできた大きな十字架が黄色い壁に取り付けられていたが、
そのために壁のむき出しさがよりいっそう際立ち、
どうしても視線が壁に引き付けられてしまうのだった。

ふたりの修道女は、すぐに冷えて固まる黄色い蠟を使って、
即興の祭壇の上にかぼそくて丈の低い四本のろうそくを固定させることに成功していた。
その四本のろうそくが弱い光を放ち、壁が少しだけ光を反射させていた。

光が弱いので、部屋の残りの部分はなんとかやっと見える程度だった。
しかし、聖なるものしか照らしていたないため、
その光は、飾り気ない祭壇に天から注がれてでもいるかのようだった。
タイル張りの床は湿っぽかった。

屋根裏の物置のように両側とも急勾配の屋根にはいくつか裂け目があり、
そこから凍てつくような隙間風が入り込んでいた。

この陰鬱な儀式以上にみすぼらしいものもなかったが、
しかしながら、これ以上に荘厳さにあふれるものもなかっただろう。

近くを通るドイツ街道で発せられるどんな小さい叫び越えでも聞き分けられるほどの深い静寂が、
この真夜中の儀式にある種の重々しい雰囲気を与えていた。

そして、これから行われる行為の持つ意味は非常に大きなものであるのに
周囲の事物があまりに貧弱という、そのコントラストから、
人に畏怖感を覚えさせるような宗教的雰囲気が醸し出されていた。

二人の世捨人の老婦人はそれぞれ祭壇の両側、床の八角形のタイルの上に跪いた。

床のタイルは身体に障るほどにひどく湿っていたが、それにかまうことなく、
二人の修道女は司祭と一緒に祈りの言葉を唱えていた。

司祭服を身にまとった司祭は、宝石で飾られた金の聖杯を安置していたが、
これはシェル修道院の略奪を免れた祭器なのだろう。

王にもふさわしい豪華さを持つ記念物と言っていい。

この聖餐杯の傍らには、ミサ聖祭のための水と葡萄酒が、
場末の居酒屋でも見られないような粗末な二つのコップに入れられていた。

ミサ典書がなかったので、司祭は祭壇の片隅に職務日課書を置いていた。
ありふれた一枚の皿が、無垢で血に汚れていない手を洗うために用意されていた。

すべてが壮大だったが、卑小だった。
貧弱だったが、高貴だった。
俗世間的でありながらも、神聖だった。

「見知らぬ男」は敬虔な態度で二人の修道女の間に跪いた。

しかし、聖杯と十字架に黒い布がかぶせられていることに――というのも、
この死のミサが誰のためののものかを告げるものが全くなかったので、
神自身を喪に服させたからなのだが――そのときになって気づき
あまりにも生々しい思い出に襲われたため、男の広い額に汗のしずくが浮かんだ。

この場面を演ずる四人の静かな役者は、神秘的な気持ちにとらえられてお互いを見つめ合った。
そして四人の魂は、この上もなく強く互いに作用しあったので、
感情が通じ合い、宗教的憐ぴんの中に溶け合った。

四人は、その遺骸が生石灰に蝕まれている殉教者を思い浮かべ、
殉教者の影が尊厳さにあふれて彼らの前に現れたかのようだった。
彼らは、亡き人の遺骸もなしに死者のミサを行っていた。

隙間だらけの屋根瓦と木ずりの下で、
四人のキリスト教徒はフランス国王のために神にとりなしを頼み、
なんの下心もなしに遂行された、忠誠の驚くべき行為であった。

神の目には、これは、最高の徳をも試練にかける、コップ一杯の水のようなものだった。

一人の司祭と憐れな修道女の祈りの中に、王政のすべてがあった。

そして、おそらくは革命もまたこの「見知らぬ男」によって代表されていたのであろうが、
その表情にはあまりにもはっきりした悔恨の情が浮かんでいたので、
男が心の底から悔い改めようとしていることを信じないわけにはいかなかった。

普通はミサの決まり文句をラテン語で
「さらばわれ、神の祭壇に行き、またわが慶び、喜ぶ神に行かん」と唱える習わしだが、
神的な霊感を受けた司祭はそれはせず、
キリスト教のフランスを象徴する三人の出席者を眺め渡して言った。

「われわれは、これより神の領域に入ります……!」

心に染み入るような語調で投げかけられたこの言葉に、
男と二人の修道女は聖なる畏れの気持ちに捉えられた。

ローマのサン・ピエトロ寺院のドームの下といえども、
このキリスト教徒たちの目に、この貧困の隠れ家における以上に
神が尊厳さにあふれて姿をあらわしたことはなかったろう。

それほどに、人間と神との間にはいかなる仲介者も不要であり、
神はその偉大さを自分自身からのみ引き出すものなのである。

「見知らぬ男」の熱意は真実のものであった。

それゆえに神と国王の奉仕者たる、この四人の祈りを一体化する感情も共有されていた。
静寂の中、聖なる言葉は天上のように響いていた。
「見知らぬ男」が涙に捉えられた瞬間があった。

それは「我らが父よ(パーテル・ノストル)」のところだった。

司祭はさらにそこに次のラテン語の祈りの言葉を付け加えたが、
男にもその意味はわかったことだろう。

「また、弑逆者たちを、ルイ十六世自身が赦したように、赦したまえ」

二人の修道女は「見知らぬ男」の雄々しい頬を伝って大粒の涙が湿った道を描き、
床にしたたり落ちるのを見た。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

文豪の筆が冴えわたりますね。

さて、ここからが本書の最大の頂点なのですが、
しばし、本書を抜粋させていただきます。

ミサが終わった後、司祭は二人の修道女に合図して隣の部屋へ行ってもらい、「見知らぬ男」と
ふたりきりになった。

「わが息子よ、もしあなたが殉教の国王の血に手で染めたのなら、私に正直にいってほしい…。
神の目には、あなたが抱いているほどの感動的で誠実な改悛の情によって
帳消しにならない過ちなどというものはないのです」

「殉教の国王の血に手で染めたなら」と言う言葉をみみにしたとき、
サンソンは一瞬ぎくりとし、我知らずに体を痙攣させてしまった。
自分の正体がばれてしまったのかと思った。

しかし、司祭は死刑評決をした国会議員たちのことを思い浮かべたに過ぎなかった。

司祭は「見知らぬ男」が自分の言葉に異様な動揺を見せたことに驚いていたが、
サンソンは気を取り直し、落ち着いた目で司祭を見つめながらいった。

「神父様、流された血に対して、私ほど無垢なものはいません…」

なんとか、こうは答えたものの、声は完全に裏返っていた。
確かに国王の死を決定したのはサンソンではなかった。ただ、道具にされただけだった。
それでも、国王の死刑執行は自分の責任においてなされた。たとえ意に反してであろうとも、

国王の処刑に関わってしまった自分は、やはり大きな罪を犯してしまったのではないだろうか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こうした経緯を経て、シャルル・アンリは死刑廃絶を望むのです。

やはり、人を裁くことは人にはできない。
なんとなれば、善悪の基準はその時、その時の人間の価値観で変わるものだからだ。

人を裁くことができるのは神のみ。

しかし、実際にフランスで死刑廃絶になったのは、1981年。

長い道のりだった。





死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)

死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)

  • 作者: 安達 正勝
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2003/12/17
  • メディア: 新書





このトピックは過去の記事を再録したものです。
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母と息子の関係  『無垢の領域』 [読書・映画感想]

皆さま、こんにちは。

こないだまで暑い、暑いとふうふう言っていたのに、
今はこんなに寒い。

夫は羽根布団二枚重ねて、寒い寒い、と震えています。


最近、ぼんやりしていることが多いので、なかなか本が読めなかったのですが、
久しぶりに大好きな桜木紫乃さんの『無垢の領域』っていうのを読みました。


無垢の領域 (新潮文庫)

無垢の領域 (新潮文庫)

  • 作者: 桜木 紫乃
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2016/01/28
  • メディア: 文庫



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桜木さんはわたしが大好きな作家のひとりです。
舞台はたいてい釧路などの近郊の街です。

わたしは、北海道は一度しか行ったことがないのですが、
札幌は結構華やかな都会であっても、
道東といわれる釧路などは、札幌から電車で4時間ほど。

京都・東京間が新幹線で3時間足らずで到着することを思えば、
それが心理的にどんなに遠いところかわかります。

実際に住んだことがないので、わかりませんが、
道東の天候は夏は湿度が高く、冬はカラカラに乾いていて、
しかも、夏と冬の寒暖差がプラスマイナス20度というあたり、
もはや京都に住んでいる私の想像の範疇外にあります。


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劇中には四人の男女が出てきます。


ひとりは釧路で活動している売れない書家秋津龍生。

釧路で書家をやっているってあたりで、
わたしなどはたじろいでしまうのですが、
非常に不遜な言い方で申し訳ないのですが、
そんな田舎で字を書いていても仕方ないだろうと思うんですよね。
やはり東京か、京都に出ないとと。

しかし、桜木さんの作中の人物は芸術家っていうことが多い。

片田舎でも、文化に携わる人はいるのです。

しかしながら、この人は書家としての登竜門である 墨龍会の公募展に
これまで入選すらしていないようなのですね。

私も娘が絵を描いているから、ここら辺の事情っていうのがよく解るのですが、
一応、世の中で「私は画家をしています」とか「書をしています」「彫刻をしています」
というなら、少なくとも一度は何等かの権威ある公募展に出品して、
入賞しなければならないのです。

公募展に入選してから、プロの書家と言えるのですね。
だから、秋津は40歳を過ぎても、まだスタート地点にもついていないのです。

そしてその妻、伶子。
彼女は高校の養護教諭をしているので、
一応、普通の男並みの給料を稼いできます。
そして、家で書と格闘しながら、6年前に倒れた姑(男にとっては実の母親)の面倒を見ている
夫の家計を女ながら一手にサポートしています。

もう、一方の男女は、指定管理者制度のため民間が管理するようになった図書館へ
札幌から赴任してきた男、林原。そしてその恋人の里奈。

やはり、林原も書に関わって来た人間で、彼自身はしないのですが、
祖母と母親が書家でした。
母親は、才能ある書家でしたが、あるとき自分の才能に絶望を感じ
自殺してしまいます。

そしてもうひとり残された、父親違いの娘、純香。
林原も妹の純香も、いわば、母親の私生児なのであって、
父親の顔も知りません。

林原自身は非常に優れた人間なのですが、こういった生い立ちから
自分の人生を前向きに進んでいくことができないのです。

そして、妹の純香はおそらくの自閉症なのだと思います。
彼女は一度みた書をホンモノそっくりにコピーする才能があるのです。
たぶん、頭の中にカメラがあって、パチッとシャッターを切った後、
その画像をいつでも自分の頭の中に再生させることができるのでしょうね。

ですが、彼女は精神年齢は異常に幼く、おそらく抽象思考ができるようになる
「9歳の壁」というのを超えられなかったような気がします。


この二組の男女の間に共通するものは、
寝たきりの母、そしてハンディキャップのある妹がいる、ということです。

こういう重たいものを抱えていると、やはり人間は自分のやりたいようには
生きていけないものなのでしょうねぇ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

交わるはずのなかったこの二人の男女が、書を通じて、
あるとき、交わるのですね。


図書館長である、林原と秋津の妻の伶子。

この秋津の妻の伶子なのですが、いかにも作者である桜木さんらしい、
造詣で、つかみどころのない、どんなことにも心を動かされることもない
冷めた人物として描写されます。

彼女は実は、夫の秋津と結婚する前、同じ学校で働く同僚と不倫をしていました。
でも、それはその同僚が燃えるような恋をしたわけでもない。
ちょっとした心の隙間を埋めるための単なる情事にすぎないのでしょうね。

桜木さんのこのタイプのキャラクターには、よくあることなのですが、
たぶん、世の中の底というものをつぶさに見て来たため、
彼女は明るい夢を見ないのですね。

そして自分の身のほどというものを、客観的に把握して
世の中に目立たないように生きていくのです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



このふたりは、一見、どうと言うこともないような、つきあいともいえないような
つきあいをするのですが、

あるとき、林原が伶子にポール・ボウルズ作の『シェルタリング・スカイ』の翻訳本と
映像化された映画を貸すのです。


『シェルタリング・スカイ』ってご存知ですか?



シェルタリング・スカイ (新潮文庫)

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  • 作者: ポール ボウルズ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1991/01
  • メディア: 文庫






シェルタリング・スカイ [Blu-ray]

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  • 出版社/メーカー: キングレコード
  • メディア: Blu-ray



もう、本当に一度見ると忘れられないような映画で、
美しいけれどあの絶望的な映像は忘れることは出来ません。
そして、音楽は、坂本龍一が担当しているのですが、
あの、曲の中のちょっとわざと外した音が、
囲われた空の下で生きる夫婦の、息の合わなさっていうものを
象徴しているような気がして、非常に印象的でした。

この『シェルタリング・スカイ』を小道具に使ったのはうまい演出だなぁと思います。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

まぁ、あらすじは非常に複雑で、ここで語ることはしませんが、
印象に残ったのは、

出て来る登場人物のほとんどが
親の犠牲になっている、ということです。

主人公のひとりである秋津もそうです。
彼の母親も地元では結構有名な書家でした。

母親は小さい頃から、書家となるべく育てられたのです。
しかしながら、私からみると、秋津はそこそこの素養というものを持っていたかもしれないけれど、
一人前の書家となるには、才能が足りなかったのです。

そこを母親が自分の我欲で、彼を、彼の人生をがんじがらめにしてしまうのですね。

果ては、おそらく『詐病』という恐ろしい手段を使ってまで、息子を自分のいいなりにさせようとする。
これは、息子を愛しているようで愛していない。
結局は自分のために息子を道具として使っているのです。

他にも、妻の伶子の母親。
彼女も、毒親です。

そして林原兄妹の母親も。
彼女は育児放棄した末に、勝手に自殺してしまう。
当時13歳だった林原の内面にいいようのないダメージが与えられてしまう。

そして、伶子の学校の生徒である沙奈。
彼女も男の子ばかりを溺愛する娘として、いいようのない虐待を受けています。

さらには、秋津の書道教室に通ってきている、母親が画家である少年。
彼も、秋津の母親と同じ、小さい時から画の英才教育を施していたのです。
書道教室も「筆の使い方を覚えるための教育の一環」だったのですね。

そして、彼も小中学生の画のコンクールで入賞。
しかし、彼もわかっていました。この入賞は、画家である母親の力によるものなのだと。
おそらく、自分は画家として大成することはないのだと。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

読んでいてため息が出ます。
なんと、母親と子供って厄介なのだろうと。

子供は自分の生き方を決める権利があります。
それがたとえ、母親である自分の意に沿わないものであっても、
子供は自分とは別の人格であることを知るべきなのです。

いつも思うのですが、桜木さんはきっと
機能不全家族の中で育たれたのではないだろうかと思うのです。

お写真を見ると、とても知的で静かな雰囲気の方ですが、
心の中でどれだけ、どろどろとしたものと葛藤されてきたのでしょうか。

きっと聡明な方だったので、作中の沙奈や令子と同じように、
自分の力だけで生き抜いてこられたのではないでしょうか。

不幸ですが、母親にねじ伏せられていいように操られている男たちより
ある意味、有意義な生き方かもしれません。


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『ボヘミアン・ラプソディ』を観て [読書・映画感想]

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皆さま、こんにちは。

今日は娘とふたりで久しぶりにデート。
往年のロックの大スターであるバンドQueenのボーカリストである
フレディ・マーキュリーを主人公にした『ボヘミアン・ラプソディ』を見に行ってまいりました!

このフレディをというか、Queenを映画化するという話は、結構昔からあってですね、
サシャ・バロン・コーエンをフレディにとか、
いや、ジョニデがフレディをやればいいとかいろいろ話はあったみたいですが、
どれも途中で頓挫したみたいですね。

それが、今回のこの快挙。
主役のラミ・マレックさんにしろ、他のメンバーの役者さんにしろ、
素顔は全然別の人です。
ですが、演技でここまで似ることができるのかっていう迫真の演技でした。

ボヘ・ラプのメイキング・ヴィデオを見ていると、
フレディはもちろん、他のメンバーさんにも
彼らの演奏するときのクセとか、しゃべるときのクセとか
すべてにわたってコーチする人が付いたみたいですね。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、フレディ・マーキュリーですが、
彼は、インド生まれなのですが、
実は古い時代にペルシャから、ムスリムたちに国を追われて
インドから逃げてきたパールシー(ペルシャ人という意味)といわれている
ゾロアスター教徒の末裔なのですね。

フレディの一家は、アフリカのザンジバルに住んでいたのですが、
(インドもザンジバルのイギリスの統治下という理由からだと思うけど)
フレディがたしか17歳ぐらいに、当地で革命が起きて、
着の身着のまま、難民としてイギリスに逃げてきた一家なのですよ。

わたしは、Queenが現役の時から知っていて、兄が買っていた「ミュージック・ライフ」
をよく読んでいたのですが、
その時、フレディは外交官の息子として紹介されていて、「へぇ、すごいエリートなんだな」
と感心していた覚えがあります。
当時の日本人の女の子から見たら、長髪のフレディって、本当に王子様に見えたと思うんですよ。

少し話は変わりますが、当時の芸能界の、沢田研二、西城秀樹、野口五郎などの衣裳は
絶対的に当時のQueenやレッド・ツェッペリンなど、有名なロックバンドの影響を
受けていると思うのですね。

そして、もっと言えば、『ベルサイユのばら』をはじめとして
『エロイカより愛をこめて』などのファッションなども、
実はロココのものでも、革命後のものでもなく、1970年代のブリティッシュロックの
ファッションの影響がものすごく強いと私は思っています。

フレディの魅力は、結構アンビバレンツな複雑なものだ、と私は思っています。
彼は、ルックスが決して万全じゃないんですよね。

妙に高くてとんがった鼻、そして出っ歯で、えらが張ったしもぶくれの顔。
最初は「えっ、ドラキュラみたい」とか「気持ち悪い」っていう印象なんです。
でも、なんていうのかなぁ、フレディには果物のドリアンとか、クサヤのひもの的な
魅力があって、何とも言えない異臭がするけど、それに一度ハマってしまったら
もうのめり込むように、それにおぼれてしまうような、そんな悪魔的な魅力があるんですよね。


芸術家らしく、ピュアでセンシティヴなシャイな面と、ずうずうしいくらい高飛車で自信満々な面。
最初の恋人だったメアリーを「生涯の恋人」と愛したのも本当なのですが、
ゲイとして男色におぼれていたのも確かなことなのです。

フレディはいわば、自分の中に飼いならすことのできない猛獣のようなものが潜んでいて、
全生涯、それと葛藤して、そして死んだような気がするのですね。


美しい曲の数々。
Queenの曲は、毎日だれかにカヴァーされて、耳にします。
それも一曲や二曲じゃない。
ボヘミアン・ラプソディ、サムバディ・トゥ・ラヴ、
サムワン・バイツ・ザ・ダスト、
バイシクル・レース、ウィ・アー・ザ。チャンピオン、などなどなど。
数えれば、キリがないほどです。


有名なレディ・ガガの芸名も実は「レディオ・ガガ」から来てますしね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
フレディは、自身がバイセクシャルだと自覚したあたりから、
恋人のメアリーとステディな仲を解消します。
それからがもう、放埓に放埓を極めた生活をしていて
おそらく、このころ、エイズに感染したと言われています。

昨日、ソロで作った曲である「you don't fool me」ってのを聞いたんだけど、
声とか曲の調子が重くて、荒んだ感じがして、聞いてられないんですよね。
たぶん、彼はこのころ、自分の死というものを受け入れられずに
苦しんでいたのかと思ったりします。

ですが、最後のアルバム「イニュエンドウ」になりますと、
もうフレディは、身体は現世にありながら、心は彼岸に行っているみたいで、
突き抜けているんですよ、すべてが。
妙に明るい曲の後には、この世の人々すべてにさようならを告げているかのような
悲しい曲。また、明るい曲、また、暗い曲と交互に入っています。

ですが、どの曲もどの曲も、声は澄み切って、エイズに侵され、やつれ切った身体のどこから
そんなに力が潜んでいたのだと思うくらい、力強く熱唱しているのです。

イニュエンドウを聞いていると必ず、その声のワンフレーズ、ワンフレーズから、
魂のほとばしりというか、命のかけらのようなものが天に向かっているような
そんなゾクゾクするようなそんな感触を受けます。

最後、映画が終わって、クレジットであの名曲
「show must go on』が流れてくると、なにか胸に熱いものが突き上げて来て
涙が止まりませんでした。

そして、どんなに迫真の演技を見せているにせよ、それはやはり演技であって
フレディの不在というものを、改めて知って、彼の歌と共にあった自分の青春というものが
二度と帰らないものであるということを強く感じてしまいました。

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アラブ女子の生態 『サトコとナダ』 [読書・映画感想]

今、うちの娘のところにトルコから男の子が遊びに来ています。
なんと知り合ったきっかけはSNSなんですよね。

今年の1月ぐらいに、知り合ったのですが、
うちの娘がなんでそんな見ず知らずの外国人男性を受け入れるようになったかと言うと
画家なので、絵を売るためには、ある程度知名度を必要とされるものらしいのですね。

それで、今はやめましたが一時期、誰でも無差別に承認していたらしいです。

その中のひとりだったのがトルコ人の彼です。
初めはただのひやかしなのかなと思ったのだそうですが、
彼はトルコの片田舎に住んでいて、日本語学校はおろか
周りに日本人がひとりもいないところで
一人で日本語を独学で学び、
今は、あるところへ面接のために来日したのでした。

発音なんかも非常に違和感なく、外国人独特の変なイントネーションもなく
立派なものだなと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まぁ、上記のような理由で最近、わたくしも
世界で一番人口が多い、ムスリム(ムスリマ)世界はどうなっているのか
知りたいと思うようになったのですね。

そんなとき、あるツィートを読んでいて知ったのがこの本。
『サトコとナダ』

サトコとナダ(1) (星海社コミックス)

サトコとナダ(1) (星海社コミックス)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/07/08
  • メディア: Kindle版



サトコとナダ(2) (星海社コミックス)

サトコとナダ(2) (星海社コミックス)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/12/08
  • メディア: Kindle版



サトコとナダ(3) (星海社コミックス)

サトコとナダ(3) (星海社コミックス)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/04/28
  • メディア: Kindle版



漫画の形態はストーリーがずっと流れているのでなく、
エピソードをつづった四コマ漫画なので、
結構ゆるゆると楽しく読むことができました。

イスラム世界というととかくわたしたち日本人は「怖い、厳しい」と思うものですが、
本当に戒律に従って生活しなければならないのは、
いわゆる「アラビアの方たち」なのだそうで、件のトルコ青年なんかは
毎日、きっちりきっちり一日五回お祈りなんかしないらしいし(それでも夜寝る前にはするらしい)
食べ物もアラビアほどには、うるさく言われないらしい。
服も日本人と全く変わらないごく普通の恰好です。

というように、一口にイスラム世界といっても
地域によりいろいろだということです。

日本だって、仏教の国のカテゴリには一応入っているかもしれないけど
上座部仏教の人たちと比べてみると、「同じ仏教徒です」って言えないと思うほど
かけ離れているものでしょ?


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、本題。

サトコとナダは、アメリカに留学した者同士なのです。
ナダが一緒に住んでくれるルームメイトを探していたのですが、
案の定、ナダが黒いのをすっぽりかぶったイスラム女性だと知ると、
誰も一緒に住もう!と言ってくれる人がいなくて
困っていたんですね。

そこへ来たのが、日本人のサトコ。
サトコもはじめ、目だけを露出して、あとはすっぽり黒い覆いで包まれているナダを見て
一瞬たじろぎましたが、
「でも、これが国の外へ出るってことなんじゃないかな」と思い、一緒に住むようになるのですね。

男性がいる家の外に出る時は、黒い覆いをかぶらなければならないナダですが、
サトコとふたりっきりのときは、おしゃれが大好きで流行のものにとても敏感な
普通の感覚の女の子に戻っています。

イスラム世界では、肌や顔を露出させてはいけないというきまりがあるので、
ナダたちはその教えに従っているのですね。

それに対してどう思っているのかとサトコがナダに訊くと
意外な答えが返ってくるのですね。

というのも「こうやって顔の美醜を隠しているお蔭で、不美人だからという差別を
男の人から受けることはない」とのこと。

なるほどなぁ~と思いました。

あと、一夫多妻制の制度のこと、
女性の在り方のことなど、
いろいろと出てきます。

サウジアラビアは、女子の教育はありますが、
学校に「体育」の時間がなく、
ナダは身体を動かすことを怖がります。

身体を動かす快感というものは、男女限らずあると思うので、
それは惜しいことだなと思うのです。

あと、アラブの男女の結婚というのは、
たいてい父親と当事者の男兄弟が決めるものなのだそうです。

アラブは男女交際というものは基本的になくて、
いきなり結婚式から始まることが多いらしい。

ただ、じゃあ、それで夫婦仲が悪いのかというと
案外擦れてない分、「これが宿命」と思っている人も多いせいか、
結婚してから、恋愛をしている夫婦も多く、結構仲睦まじいカップルは多いと聞きます。

それは、父親と兄弟が一生懸命、娘、あるいは妹に出来る限り、
見目好く、お金持ちで、性格もよい男性を探すからだと思います。

選択の中に限りなく肉親の情愛があって、なされるものなのだろうと思いますが、
やはり、人って付き合ってみないとわからないところもあるので、
場合によっては、「不幸な結婚」「DVの旦那」ということもあります。

でも、イスラム教ってカトリックみたいに一生結婚を強いることもないらしく、
離婚はできるのだそうです。


まぁ、こういう恋愛観を持っていた、ナダですが、
やはりというか、お父さんとお兄さんが、
まったく見ず知らずの男性と結婚を決めてしまったとき、
非常に立腹するんですね。

「結局、わたしは売られていくのね」

まぁ、昔女は家畜とおんなじ扱いというか、「財産」だったんですよね。

女は持参金をつけて嫁にも行くけど、男側のほうだって、嫁の家のほうに
結納金を払わなくちゃいけない。
つまり、貧乏な男は結婚できないってこともあるんじゃないかな。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
アラブ社会は、つい最近まで女性に参政権がなく、
自動車を運転することも禁止。

つまりは男性が庇護しなければならない存在だったのですね。
まぁ、そういう意味で夫に非常に大事にされている女性も多いのですが、
反対に、夫に死なれて、職もなく、道端で物乞いをするしか生きる道がないというのも
アラブ世界の一面であったりするのですよね。


だから、こうすればいい、という提言は作品の中で一切されていません。
日本人はただ、事実をありのままにみている観察者なのです。


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『オスマン帝国外伝』season2 を見終えて [読書・映画感想]

皆さま、こんにちは、sadafusaです。

もうすっかり秋も深まりましたね。

さて、今日はまたまた『オスマン帝国外伝』について語ろうと思うわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今まで日本には西洋の歴史などはよく知られているものの、
中東の歴史ってあんまりよくわかんないって感じだったと思うんですよね。

でも、トルコ側から見たトルコの歴史および、西洋のキリスト社会の歴史など
トルコ側の人間がどう思っているかっていうのは、これまでわからなかったのです。

ですから、なんとく、砂漠、夜空、ハーレム、モスク、ベールなどと
こうエキゾチックでスパイシーな幻想を見ていただけに過ぎないのですが、
これはある意味、日本人にとってトルコの歴史の啓蒙ドラマかなぁって思うわけですよ。



ですが、とっても不思議に思うのは、
オスマン帝国の後宮の在り方っていうか、
もっと広く言えば、帝国の身分制っていうものですね、
日本人には不思議に思うところがいっぱいあるのです。

例えていうなら、江戸城ですね、
あそこには、将軍と御台所サマと側室、そして瀧山のようなお局さまが控えております。

それがだいたい、中国か朝鮮でひっとらえてきた奴隷だったとしたら?
なんか不思議じゃありませんか?

要するに、将軍さまはそうやって、
中国や朝鮮からひっとらえてきた美女を御台や側室にしていると、
将軍サマご自身だって、いつしか日本人の血統っていうものは
薄く薄くなっていくものじゃありませんか?

その一方で、お江戸の城下では代々続く、生粋の日本人ばかりなのです。

また、家来にも同じことが言えたりして、老中は井伊直弼みたいな殿様じゃなくて
フィリピンなどでひっとらえてきた奴隷だったりしたら?

なんか一般庶民にとって、お城ってところは、
気ごころの知れない場所になるような気がするのですが。

まぁ、それが世界宗教であり、現在も信者数ナンバーワンのイスラムの国だったから、
そして、三大陸にまたがる帝国だったから、
そういうことも実現できたって言えるかもしれないです。

そこらへんは非常にローマ帝国の在り方にも似ているような気がしますね。
たしかローマ帝王は、シリア出身の皇帝もいたんじゃないかな。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

というわけで、本題。

たぶん、主人公はヒュッレム・スルタンなんだと思うんですよ。
彼女はルテニアっていう、今でいうウクライナにある場所で生まれたのですね。
しかも正教徒の司祭の娘だったそうです。(清教徒は司祭でも妻帯できた)
そして幼なじみの男の子がいいなずけだった。

もし、ヒュッレムが突然運命を狂わせられなかったら、
ルテニアの地で、生涯、よき妻、よき母として
穏やかな人生が遅れたに違いないと推測するのですね。

しかし彼女が14歳のとき、タタール人に村が襲撃され、
親きょうだいは皆殺しにされた。
ヒュッレムは美少女だったので、金になると思われて
奴隷船に載せられ、イスタンブールに送られたのでした。

ヒュッレムは、そこでこれまでの人生が終わったんですよ。
彼女は一度そこで死んでいるんですね、精神的に。

で、イスタンブールに着いてからの人生というのは、
正教徒の司祭の娘であった彼女のこれまでの価値観とか
倫理観とかをすべてぶち破ったものだったのです。


ヒュッレムは、日本人の私たちから見ると、決して正直でもないし、
結構姦計を巡らして、宿敵である寵姫マヒデブランや他の女性を
次々と倒していくのです。

そして皇帝の愛をわがものだけにしようとするのですね。

それは一見、ものすごく日本人から見れば、容赦のない姿なのだけれど、

でも考えようによれば、否応なく故郷から引き離され、
理不尽に奴隷として売られてしまった彼女の
この世における復讐ともいえると思うのです。

一夫一婦制ではなく、オスマン帝国のハレムという世界。

あまたの奴隷女がひとりの皇帝に、侍って愛を乞う世界。

そういう世界に彼女は一糸報いてやらねば、気が済まなかったのでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

宰相であるイブラヒム。彼も当時ベネチア領だったパルガという島の漁師の息子でした。
やはり、幼い時に、さらわれて奴隷にされて聡明で勇敢だったのを買われて
皇帝の側近になった人物です。


ヒュッレムとイブラヒムは、男と女という違いだけで、資質においては
大変よく似ているもの同士だと思う。
けれど、結束すればこれほど、強い絆はないとは思うものの、
彼らはお互いを嫌い抜き、いずれは亡き者にしようと虎視眈々と
チャンスをうかがっているわけです。

その容赦のない姿勢っていうのは、本当に戦慄するほど残酷なものなのですが…。

ヒュッレムはあるとき、イブラヒムにこういいますね。
「おまえはいつか、おまえ自身の血の海の中でおぼれ死ぬ」と。

なにかこう、皇帝も含めて、このドラマの登場人物は繋がっているようで繋がっておらず、
みんな砂のようにバラバラで、孤独です。

皇帝の愛を繋ぎ留められたと思っても、それはほんの瞬間で
永遠ではない。

ヒュッレムは皇帝の間に五人の子供を成しますが、
それでも、ホンモノの夫婦の情愛とはちょっと違う。

皇帝は、皇帝であるがゆえに、常に公正であろうとし、
公正であろうとするがゆえに、ヒュッレムやイブラヒムを何度も何度も試すのです。







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ひそやかな吐息のような恋 『シリウスの伝説』 [読書・映画感想]

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皆さま、こんにちは。


このアニメーション映画はあのサンリオが20周年記念として
1981年に作ったものなのだそうです。
ええ~、40年近く昔のものなんだ~!そりゃ、わたしも歳もとるはずだわw

しかもなんかすっかり忘れていましたが、サンリオとは!

サンリオというと、どうしてもわたしは「マイメロディ」を思い出してしまって。
あれはあれで柊センパイのウサミミ仮面とマイメロのギャップ萌えがすごい、
ある意味で傑作ではあるんですが(笑)

今は宮崎駿さんのジブリ・アニメが世の中を席巻していますが、
またちがった趣のこんな傑作があったのですね。

なんかまぁ、見ているとディズニーの「リトル・マーメイド」なんかと
設定が似ているんです。アリエルもとってもイノセントでキュートなんですが、
このアニメはね、もっとひそやか。でもうちょっと色調がダークだね。
まぁ、だいたいハッピーエンドじゃないし。
でも、わたしとしては
「それから王女サマと王子サマは幸せにくらしましたとさ、めでたし、めでたし」
って話は好きじゃないんですよ。

たとえば王女さまの中には、
ダイアナみたいな哀しい最期を迎える人もいるじゃないですか。
ある意味、こういうふうに悲しく美しく終わった恋は、
ずっと美しいままに、永遠に輝いていられるって思うんですね。

40年近くのことだから今どういう感じになっているのかわからないけど、
サンリオもまた、頑張ってこんな美しい作品を作ってほしいなあって思うし、
若い人はまったくこの作品の存在さえ、知らない人が多くいるみたいだから
今日は頑張って、『シリウスの伝説』の魅力をお伝えしたい!と思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
このお話はかの有名な『ロミオとジュリエット』を下敷きにしています。
それを幻想的な妖精の世界に置き換えたのです。

昔、昔、火と水は本当に仲のよい姉弟で、お互いが混沌と交じり合うほど
深く愛し合っていたのだけれど、
だれかが心ない中傷をして、
それを真に受けてしまったふたりは、なまじ仲がよかっただけに、
それ以降深く憎しみ合うようになってしまった。

そして水は海へ、そして火は陸へとお互いたもとを分かちあって、
再び相まみえることはなかった。

そしてはるかに時代が下がったそんなとき、水の子の王子と火の女王の娘が、突然に出会って、
恋に陥ってしまうのです。

もうもうもう、そのシーンが本当に美しい。
なんていうのかなぁ、キャラクターデザインをした人は本当に優秀な人で
どことなくカイ・イカールを思わせるような洒脱で洗練されたものです。
ふたりは原作のロミオとジュリエットのように思春期の美しい少年と少女なんですよね。

そうだなぁ、まだお互い14歳から15歳ぐらいでしょうか。
大人の世界に足を入りかけているようなそんな時期。
まだ本当に若くて、青くて、純粋。そして一途。


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水の子のシリウスは太陽の光に当たれば死んでしまうし、
火の子のマルタは水に入れば死んでしまう。

だからふたりが会えるのは、太陽が沈んで、かがり火が美しくともされる夜だけなんです。

始めは今まで一族の中で伝えられてきた相手の一族の悪口をまともに信じていたふたりは
敵側の人間なんだと猜疑心でいっぱいでしたが、だんだんとそれが誤解であったことに
気が付くのです。
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ふたりは運命に導かれるように、やがて一時も離れがたいと思うほどに
深く、深く愛し合うようになるのです。
ですが、ふたりはいずれ一族の長になることを運命づけられていた身なのでした。

自分に責任を感じているふたりは、会うのをお互いに禁じるのですが、
燃えるような恋心はそれを許さなかった。


ふたりは一緒に結ばれる道を模索しますが、それはどうしても実現不可能でした。

やがて、ふたりはある伝説を聞きつけます。
90年に一度、ある植物が芽吹いて胞子を空に向かって吐く。
それは、愛し合うことの許されない恋人たちを
シリウスの星へといざなってくれるのだと。

約束の時間にマルタはその胞子植物の丘へ行くのですが、
シリウスはどういうわけか来ない。
その間にどんどんと胞子は開いて、空へと飛び立ってしまう…。

ああ、わたしたちの胞子は飛んで行ってしまった…。
絶望にくれて横たわるマルタ。

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もう、その描写が繊細でねぇ、
群青色の夜空、銀色に揺れるしずく、明々と灯される優しいかがり火の色。

まるで、菱明の中のかそけき光にきらめく、樹氷かつららのようです。
すべてがとても繊細で、それでいてどこか硬質なきらめきがあるのです。


そしてこの作品はすぎやまこういちさんが作曲しておられまして
この繊細な画風にピッタリの、清らかで少しセンチメンタルな
音楽が付いています。

オープニングとエンディングテーマは「サーカス」っていうグループの
コーラスなのですが、
グレゴリアン・チャントみたいにいつも、
三度五度ときっちり移行するような堅苦しさなのではなく、
ユニゾンにはじまって、ぱぁっと花が開くように、ハーモニーが広がっていくんですねぇ。

そして、歌声がとてもリリックで、ささやくように歌っているのです。
本当に美しいです。

火の子と水の子の、初々しくも激しい恋。



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水の子の少年は、視力を失って、「マルタ、マルタ。ぼくはマルタが好きだ!」
といいながら、日の中へ入って死んでしまうのです。

そのとき、変態して、大人の女性に変身したマルタは、
(この乙女の姿がまた、美しいながらもそこはかとなく官能的で、素晴らしい造形に驚くのですが)
死んでしまった恋人を抱いて、自らもまた命とりになるはずの水の中へと沈んでいくのですね。
恋人たちは死もおそれず、恋の成就を願うのです。

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人間は生きていく限り、こんなに美しい恋に生きることはできないのです。

こんなふうに永遠に美しくて清らかな少年少女の姿のままで、
その熱い恋ごころをいつまでも変わることなく
抱えて生きていくことは到底できない。

それは人間は必ず死ぬという運命を背負っているし、
それに現実の生活は、こんなふうにセンチメンタルな心情を吹き飛ばしてしまうほど、
無情で世知辛いなものです。

だからこそ、こんな美しい寓話の一瞬のきらめきの中に永遠を見い出して、
泣いてしまうものなのでしょうね。






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