境界の旅人 32 [境界の旅人]

第八章 父娘



「おじいちゃん、大丈夫? タクシー乗り場まで歩ける?」

 由利は心配そうに祖父に訊ねた。

「申し訳ありません。弁護士さん。えろうご迷惑をかけてしもて。由利、大丈夫や。明日になったら病院へ行くさかい。今、救急へ行ってもやな、大学出たての半人前の当直医しかおらんやろうし」

 佐々木と由利が辰造の両端に立って身体を支えながら、ゆっくりとした足取りで一階までエレベーターを使って降りてから車回しまで行って、タクシーに乗り込んだ。

「由利さん、ひとりで大丈夫ですか?」

佐々木は心なしか心配そうに言った。自分にも由利と同じような年ごろの娘でもいるのだろう。

「あ、はい。とりあえず家で様子を見てみます。何かあれば家の近くには京都第二日赤病院の救急センターもありますから。でもたぶん、そんな大ごとにはならないと思います。佐々木さん、本当にお世話になりました」
「由利さん、気をつけてね」

 佐々木はたかだか十六歳の少女にしか過ぎない由利の大人びた冷静な態度に、いい意味でも悪い意味でも感心しているようだった。

「今日はありがとうございました」

 由利はタクシーの中から頭を下げて礼を言って、佐々木弁護士と別れた。
 車窓から外を見れば、街はクリスマスシーズンに突入したのか、金銀の華やかなデコレーションで飾られていた。

「ふう、もうクリスマスか・・・。季節が過ぎるのって早いね・・・」





 月曜の午前中は祖父に付き添って、近くにある行きつけの内科診療所へ行った。

「ふん・・・。まぁ、風邪だね。それに夏バテしてたんじゃないですかねぇ。暑い、暑いっていっているうちに、急にストーンと気温が下がったしね。だいたいの人は身体がついていけなんだよね」

 いつも世話になっている先生はそう診断をくだした。

「よかったぁ。おじいちゃん。風邪だって」

 それを聞いて、由利はほっと一息ついた。辰造も医師の見立てを聞いて安心したのか、軽口をたたいた。

「最近は地球温暖化の影響なのか、季節は夏と冬ばっかりになって、春と秋がなくなってきとるからねぇ」

「ま、お薬出しときます。あとは二三日、ゆっくり養生して身体を休めてください。小野さん、あんたもトシなんだし、いつまでも若いつもりでいたらあかんで」

 先生は笑いながら辰造に釘を刺した。





 由利は途中でパン屋によってサンドイッチと野菜ジュースを買ってから、学校へ出かけた。ちょうど四時間目が終わったらしく終業のチャイムが鳴った。

 後ろの席に座っていた常磐井は戸口に入って来た由利に気づいたのか、さっと鋭い視線を向けたが、それだけだった。何の感情も浮かべることなくすっと立ち上がり、目も合わすことなく由利の脇を真っすぐに通り過ぎるとと、学食のほうへと向かって行った。

 努めて何気ないふりをしてその姿を見ていたが、由利は瞬間的にこの間の船岡山で交わした熱い抱擁と焦れた相手の表情が思い出され、体中にカッと熱い血が駆け巡るのを感じた。

 常磐井は、今はこんなに冷たい表情をしているけど、それは単に由利の愛情を失いたくないがために演じている擬態にすぎない。何しろ人前では他人のふりをしろと常磐井に命じたのは由利なのだから。

 教室の外から田中春奈が常磐井を呼び止めている声が聞こえる。

「常磐井くぅーん」

 春奈のやけに甘ったれた声が響く。

「ん? 田中か? 何?」

 いつものように、常磐井のそっけない声が聞こえる。

「常磐井くん、学食へ行くの?」
「うん、そうだけど?」
「あたしも購買へ行くから、途中まで一緒に行こ?」
「あん? ま、いいけど」

 常磐井は春奈の誘いにまんざらでもない顔をして応じていた。そのふたりの後ろ姿を、由利は振り返って意地悪く見ていた。



ーきっとあの人の心は、今ここにいるあたしのことでいっぱいなはず。春奈が誘えば常磐井は、デートぐらいは付き合うのかもしれない。あたしに感じた欲望を代わりに春奈で満たそうと、それ以上のこともするかもしれない。だけど単にそれだけのこと。圧倒的な力を誇る彼も、結局あたしに勝つことができないー



 ひとりの人間の心を征服し屈服させて従わせてしまう自分に、ほの暗い喜びを覚えて有頂天になっていた。そして頭のてっぺんからつま先に至るまで、身体中が耐えがたい甘いうずきに支配されて、由利はふるえた。



「由利」

 ぼうっとしていると、美月が声を掛けて来た。

「あ、美月。おはよ」
「どうだったの、おじいちゃんの様子は?」
「うん。風邪だって。大したことなくて良かった」
「そっか~。一安心だね。昨日LINEもらったときは心配しちゃったよ。うちのお母さんに言ったら、『由利ちゃんひとりじゃ大変だろうから』って、夕飯前にお惣菜をたくさん作って由利んちへ持って行くって。レンジでチンしたら食べられるように全部しておくってさ。だから家に帰ったらまず冷蔵庫を点検してねって」
「えっ? 芙蓉子さんが? 芙蓉子さんだってお家の仕事で忙しいだろうに。何か申し訳ないなぁ」
「まぁさ、相手はベテラン主婦ですから。たまには頼ってもいいんじゃない?」
「ありがと、いつも美月と芙蓉子さんにはお世話になりっぱなしで」
「いいよ。そんなこと。うちのお母さんも好きでやってるんだしさ」

 突然、由利の表情が明るくなった。

「ねぇ、美月、ちょっと報告したいことがあるの!」
「えっ? もしかしたら、例の件?」

 由利がこっくんと首を縦に振ったとたん、美月の目がきらきらと輝きだした。



 いつものごとく茶道部の顧問室に鍵を掛けて、由利は日曜日に起こった佐々木弁護士がした一連の話を語って聞かせた。

「え~。良かったじゃん! 大進展じゃないの、由利! で、それでDNA鑑定はいつすることになったの?」
「うん、佐々木さんが早速手配をしてくれたみたいで、日曜日の夜に連絡が入って明日の夜に鑑定の人がウチに来ることになってるの」
「そっかぁ。で、それってどれぐらいで判るの?」
「ん~。なんか一か月ほどだって。本当はもっと早く出るらしいけど、日本とフランスってふたつの国をまたいでいるじゃん? 念のため、フランスと日本のふたつの機関で鑑定してもらうらしいよ。結果はあたしのところに直接来るんじゃなくて、弁護士さんのところへ来て、その結果をあたしが聞くって感じらしい」
「へぇ、そうなんだ! その人がお父さんだったらいいよねぇ、由利。何かいい人っぽいじゃない?」

 由利は一瞬無表情になったが、思い出したように顔が明るくなった。

「そんなことよりね、美月のアドヴァイスがすごく役に立ったの! 何と何と、さっき小山さんからメールが届いたんだよ」
「え、何て何て?」
「うん。これ見てよ!」

 由利は自分のスマホを美月に渡した。



 こんにちは、小野さん。

 ボクが日本からベルリンへ来て、約三か月が経ちました。
 加藤さんや、他の茶道部員の人たちが懐かしいです。みんな元気で新部長の鈴木さんについてお稽古に励んでいると確信しています。
 

 さて、今回はぜひともお知らせしたいことがあったので、このメールを書いています。
 ボクは十一月の頭にパリで行われるコンクールに向けて準備していたのですが、コンクールでのボクの評価は辛くも、一位なしの二位でした。


 相変わらず演奏のスタイルについて指摘を受けていて、指導通りに弾いていればきっと一位だったと言われるのですが、仕方がない。ボクはどんなにピアノの大家であろうと根本的に自分の信念を曲げる指導は受ける気が無いので、この結果は甘んじて受け入れるしかありません。


 いや実は、そんなことを小野さんに知らせたいために、メールしたのではありません。
 ボクとベルリンの先生とが一緒にパリに行ってコンクールを受けたあと、かなり大きな規模のレセプション・パーティが開かれました。パーティの主旨はあまりコンクールとは関係なく、『多分野の芸術家たちの文化交流』ということでした。 

 招待を受けたのは各分野で活躍している芸術家で、音楽家はもちろんのこと、美術分野の画家や彫刻家、そのほか写真家、ダンサー、俳優、作家などいろいろな方面の芸術家が集まっていました。

 そのパーティの席でベルリンの先生がボクの約束通り、フランス在住で、やはりピアノの大家で通っている知人に小野さんの手紙を見せました。
 パリの知人はこの手紙を読んでもさっぱりと心あたりがないらしく、頭を傾げていました。

『科学者とはあまりつながりがないのでね。でも必要とあらばパリの十六区にあるこの研究所に、ラシッド・カドゥラ氏を捜して、ユリ・オノに連絡を取るように働きかけてもよい』と言ってくれたのです。

 ですがそうこうしているうちに、ちょうど地方からパリに出張中でたまたまこのパーティに出席していた人が、先生たちの見ている写真がちょうど目に入ったらしく、驚いた様子で『ちょっとその手紙を見せてください』とひったくるようにして手紙と写真をもぎ取ると、しばらくの間、手紙と写真を代わる代わる穴が開くくらいじっと見つめているのです。

 ボクはその人の切羽詰まった様子にびっくりしてしまいしたが、その人は『この手紙と写真のコピーをとらせて欲しい』と先生の許可を一応得て、どこかへ消えてしまいました。

 三十分ほど経過したころでしょうか、その人はボクの先生に件の手紙を返すと『急に要件を思い出したから』といってそそくさとパーティの会場から去って行きました。

 その人はボクの目から見れば歳の頃は四十代半ば、背の高さは平均的フランス人にしてはやや高く、百八十センチくらい。痩身の白人男性でした。目や髪は黒っぽい色で、そしてどことなく風貌が小野さんに似ているように思えたのです。

 先生のフランスの知人に『あの人は一体誰ですか?』と尋ねても、『たまたまあなたと同じように、招かれた人と同行する形でパーティに来た人で名簿にも載っていないし、誰かから正式に紹介された人ではないから分からない』としか返事がありませんでした。ですがそれでも先生の知り合いは親切な人で、パーティ会場であちこちの人にその人が誰かを訊いて廻ってくれました。

 その結果『どうも画家で、どこかの都市のエコール・ド・ボザール(美術大学)で教鞭をとっている人ではないか』という話でした。

 それでボクは思い出したのですが、この人が小野さんの探していたお父さんであるとすれば、あれほどに鋭い小野さんの美的感覚は、やはりお父さん譲りのものだったのだと合点がいくような気がしました。

 小野さんをぬか喜びさせたあとで失望させたくないので、あまり断定的なことは言えないのですが、その人はたしかに手紙を見て驚愕していました。しかしその驚きの中には、隠そうとしても隠しきれぬ喜びの表情が入っていたようにボクには見受けられたのです。

 その人から何らかの連絡が小野さんのほうにあればいいのですが。ものごとがよい方向へ行くことを願っています。


 それでは元気で。 ボクもセンター試験には間に合うように日本へ帰国するつもりです。茶道部のみんなにもよろしくお伝えください。

 ごあいさつがてらお知らせまで。

                      
 小山 薫





「何これ、何これ! どういうこと?」

 美月は感動のあまり、スマホを持って顧問室の中を踊るようにくるくると駆け回った。

「やっぱり、この人、十中、八九、由利のお父さんなんじゃないかな!」
「うん。そんな気がする。たしかに小山さんの言う通り悪い人じゃなさそうな感じはするけどさ。だけどさ」
「何、由利?」
「お母さんとはどんな別れ方をしたのかはよく分からないけど、たとえうちのお母さんと恋仲である間は誠実な恋人だったとしてもさ、別れて十六年以上経っているんだよ。もうとっくに奥さんや子供がいるのかもしれない」
「でもよ、由利! その人のほうからがDNA鑑定したいって言いだしたんでしょ? 決して悪い方向には行かないんじゃない? たとえ法的に親子関係になるとかそういうんじゃなくても、その人と血の繋がりが確認できたら、由利ははっきりとした自分の父方のルーツが判るわけじゃない。それはそれでいいと思うよ」
nice!(2)  コメント(6) 

境界の旅人 31 [境界の旅人]


第八章 父娘



「ただいまー」

 玄関の戸を開けると、中から湯気に包まれた温かい空気が由利を包んだ。

「おう、由利か」

 祖父の辰造が夕餉の用意をしていたようだ。

「あ、おじいちゃん。ゴメンね。遅くなって。あたしも手伝うよ」

「ああ、もうじきに出来上がるから、ええで。そこに座っとき」

 達造が味噌汁の鍋をおたまでかき回しながら、思い出したように言った。

「ああ、由利。そういえば、ようわからんけど、どこかの法律事務所から書留を由利宛に送ってきおったんや。ちゃぶ台の上にあるさかい、見てみい」

「法律事務所? へぇ、何だろ?」

 たしかにちゃぶ台には一通の封書が置いてあった。宛名はたしかに祖父の言った通り、由利宛だ。

「どこの法律事務所・・・? 佐々木俊哉法律事務所・・・?」

 由利は頭を傾げながら後ろの所書きを見た。

「東京都大田区? 何? 一体この佐々木法律事務所サマはあたしに何の用なんだろ?」

「由利、棚にハサミがあるやろ、それで開封してみいや」

「うん」

 由利は封筒の端をハサミで切って開封し、中を読んだ。手紙の文面は手書きだった。



 突然のお便り、失礼いたします。

 私は佐々木法律事務所を営んでおります弁護士、佐々木俊哉と申します。
 私はある方より依頼の命を受けてこの手紙を書いております。

 なぜならば依頼人は、由利さんが八月の中頃にフランス国立研究所に宛てて出されたラシッド・カドゥラ氏の消息を尋ねる手紙を偶然ご覧になる機会があり、ご自分がもしかしたら、お母さまの玲子さん、そしてお嬢さまの由利さんとのご縁につながる人間かもしれないと思われたからです。

 依頼人は由利さんのお母さまの玲子さんがフランス国立研究所に在籍されていたおり、一時期交際されたことがありました。ですが由利さんの手紙をお読みになるまで、由利さんという存在自体をまったくご存じではありませんでした。

 つまり依頼人は由利さんの手紙を読んで初めて、玲子さんにお嬢さまがいらっしゃったことをお知りになったのです。

 手紙と一緒に同封されたお母さまの玲子さんと一緒に写っておられる男性をラシッド・カドゥラ氏だと、由利さんは認識されていますでしょうか?

 だとすれば残念ながら、その男性はカドゥラ氏ではありません。

 ともかく当方は、由利さんのことについて何一つ知りません。また由利さんが一体どういう目的で、あのお手紙を出されたのかも、一切承知しておりません。

 そんなわけで私は、まずは由利さんから細かい事情を詳しくお伺いするように、依頼人に命じられております。

 つきましては一度、ご都合のつく日に私がそちらに参りまして、お話を少しばかりお聞かせくださる時間を作っていただけますでしょうか。

 なお、お返事はこちらのメールのほうへお返しくださいませ。





 由利は手紙を読んで真っ青になった。

「どうしよう・・・」

 由利はぺたんと畳に尻をついてつぶやいた。

「どうした、由利?」

 辰造は由利がちゃぶ台に放り出した手紙を手に取って読んだ。

「由利、これはどういうこっちゃ? きちんとわしに説明してみなさい。何、怒りゃあせん。どうせ玲子の相手のことやろ? 玲子は由利にまったく父親のことを言っていないんと違うか?」

「うん・・・」

 由利は秘して黙っていたこれまでのいきさつをすべて祖父に説明した。それを辰造はふんふんと真剣な顔でひとつひとつ聞いたあと、ため息をつきながらこう言った。

「そうか・・・。由利も難儀なこっちゃな。せやけどな、こういうことは、たとえいっとき嫌な思いをしたとしても、知らないよりは知ってしまったほうが、後々楽なもんやで。そりゃあ、由利だって自分の父親がどんな人間かは知りたいやろ。それに知る権利があると思うで」

「おじいちゃん、これって・・・。もしかしてフランスのあたしのお父さんにあたる人がすでに結婚もして子供もいて幸せに暮らしているところに、この手紙を目にして不愉快に感じているんだとしたら? どうしよう・・・だから弁護士を自分の代理人に立てて、交渉しようとしているとも考えられるよね?」

 由利は最悪のシナリオを想定して、思わず泣きだした。

「もしかしたらそんなこともあるかもしれん。しかしな、ここまで来たんや。しっかり物事を見定めなあかんやろ。そんならな、わしも一緒にその佐々木さんという弁護士に会(お)うたるわ。何、可愛い孫娘にばかり辛い思いはさせんて」





 そのあと由利は何度か東京の佐々木弁護士とメールのやりとりをしたあと、学校のない日曜日の午後に京都駅に隣接しているホテル・グランヴィアの一室にて祖父を交えて会うことになった。

 由利と辰造が指定された番号の部屋に入ると、佐々木弁護士が椅子から立ち上がって、ふたりにあいさつした。

「はじめまして、小野さん。そして由利さん。私が弁護士の佐々木俊哉と申します」

 由利たちに自己紹介した佐々木は、歳の頃は四十半ばぐらいのいかにも弁護士然とした知的な感じの男だった。

「今日は、依頼人の要請に応じてこちらにご足労いただきまして、誠にありがとうございます」

「いえ、とんでもないことです。弁護士さんもわざわざ東京からおいでなさったんでしょ?」

 由利に付き添ってきた辰造は、佐々木と名乗った男に深々とお辞儀した。

「いえいえ。これが私どもの仕事ですから。ではお座りください」

 由利と辰造は部屋に設置されたソファに腰を下ろした。佐々木はテーブルに自分が必要な書類を拡げてから言った。

「では、早速ですがお話に移らせてくださいね。これから伺うお話は個人情報にあたることですので、私たちには守秘義務というのがあります。従って関係のない第三者には漏らすことはありません。またもしこの話し合いが終わった時点で、依頼人と由利さんの接点が確認できなかった場合は、依頼人のほうへ『該当せず』としてあなたの報告を控えまして、お借りいたしました書類などはすべてお返しし、またこちらが持っている由利さんに関するすべての資料を破棄いたします。まずそれを事前に申し上げておきます。よろしいですか」

「はい」

 ちょっと緊張して居住まいを正しながら、由利は答えた。

「では、メールでお知らせしておりました、戸籍謄本、母子手帳を持ってきていただけましたでしょうか?」

「はい。ここに」

「では、お預かりしますね」

 由利がテーブルにファイルを差し出すと、それを見て不備がないか佐々木はチェックしていた。

「それでは由利さん、あなたの生年月日を教えていただけますか?」

「はい。20○×年の▽月□日です」

 佐々木は由利の戸籍謄本を見ながら、うなずいた。

「とすると・・・お母さまの玲子さんはあなたがお腹にいたときには、ちょうどフランスで勤務されていた頃と重なりますね・・・。お母さまはそのとき、結婚されていなかったということですか?」

「はい。母は未婚であたしを産みました」

「では、あなたの法的な父親にあたる人はいないということですかね」

「はい、そうです」

「失礼ですが、これまでの家族形態を教えていただけますか?」

「生まれてからずっと母と私だけです」

「ということは、お母さまはこれまで結婚なさっていないのですね?」

「はい、一度もありません」

「なるほど、なるほど」

「では由利さん、あなたはどのような動機で、フランス国立研究所宛てにラシッド・カドゥラ氏の消息を求める手紙を書かれたのでしょうか?」

「はい。それは・・・、あたしが自分の父親のことを知りたかったからです」

「しかしそのことは、お母さまに訊けば、ある程度のことは判るのでは?」

「はい、たしかにその通りなのです・・・。でも理由はまったく分からないのですが、母は絶対にあたしの父親のことを教えようとしませんでした」

「ほぉ、そうなのですね。お母さまはあなたの父親にあたる方を、どう思っていらっしゃると感じますか?」

「・・・判りません。ただあたしの父親にあたる人とのことは、結果的に母にとっては苦い思い出になっているような気がします」

「そうなんですね。ではどうしてあなたは、カドゥラ氏をご自分の父親ではないかと考えられたのでしょうか?」

「はい、あたしは自分のことを生粋の日本人ではないと思っています。それも韓国や中国といったアジア系の人とのハーフではなく、おそらくコーカソイド系の人とのハーフではないかと・・・。それにさっき弁護士さんがおっしゃったように、母があたしを妊娠している時期とフランスに滞在している時期が重なるんです。ですからフランス国籍を持つ人か母のような外国人かは判りませんが、少なくともその当時パリに住んでいた男性との間の子供なのではないかと思っているのです」

「ほうほう。まぁ、それはしごく妥当なお考えですね。ではどうやって、カドゥラ氏という人物を特定したのですか?」

「はい、まずあたしの母の親友である人から、あたしの父親にあたる人はムスリムで、母から『ラディ』と呼ばれていたと聞きました。そしてフランス国立研究所宛てに出した手紙に添付しました写真ですが、それも母の親友が所持していたものを譲り受けたものです。そこには母とあたしの父親と思われる男性が写っています。で、今年の夏のことになりますが、あたしは東京の自宅へわざと母の出張中を狙って忍び込み、在職当時の研究所の職員名簿を見つけ出しました。その中からラディと呼べそうなイスラム文化圏の名前の男性で、この写真に似た人を捜したのです。写真を撮られた当時の母はおそらく二十五歳ぐらいだと思いますが、男性もそれほど歳が離れているとは思えません。ですから母の年齢にプラス・マイナス五歳ぐらいの人を条件として捜しました。そしてそれをすべて満たす人がラシッド・カドゥラ氏でした」

「ははぁ、そうでしたか・・・。なるほどねぇ」

 しばらくじっと自分の手帖をみて佐々木は考えこんでいたが、やがてこう切り出した。

「それでは、あなたのカドゥラ氏の消息を尋ねる理由というのは、ご自分のお父さんではないかと思ったいうことで、よろしいですね?」

「はい、そうです」

「では今日、わたしがこちらに来ました本当の主旨を申し上げましょう。依頼人はやはりあなたのことをご自分の娘ではないかと思われたそうなのです。今、由利さんのお話や生まれたときの時期や状況などを聞くと、親子関係である可能性が十分にあると考えられますね」

「ええ? そうなのですか? じゃあ、その方はラシッド・カドゥラさんではないとおっしゃるのなら、一体どんな方なのですか? お名前を教えてください」

「はい、それがですね。残念ながらまだお名前をお聞かせすることはできないのです」

「な…なぜですか?」

「何よりも先にDNAの鑑定を受けていただいて、その結果をお待ちください。依頼人はまずは、彼とあなたがはっきりと親子関係であるということを証明させるべきだと考えています。依頼人もあなたの手紙を読まれたあと、一刻も早くあなたに会いたいと思われたようです。ですが、よく調べもせずに仲良くなったあとで、親子ではなかったという事実が判明したとなれば、結局あなたは二度父親を失うことになるからと思いとどまられたのです。ですから今は名前や身元を伏せさせていただいているのです」

「それは先方さんがおっしゃることは、もっともやと思いますわ。よう確かめもせずに父親や言うて来られても、あとで違(ちご)うてたとなると、由利の傷つき方も、半端ないもんやと思いますわ」

 辰造はしょんぼりとうなだれている由利の肩を、なだめるように叩いた。

「な、由利。先方さんは深謀遠慮のあるお人やと、おじいちゃんは思うで。ここは少し冷静になって結果を待たんとあかんやろ。何にしても話はそれからや」

「うん」

「なぁ、なにをがっかりしてるんや、ええ? 由利。依頼人さんが実のある人でよかったとわしゃ思うで。どちらにしろ、一歩前進やろうが?」

「うん・・・」

「本当にお疲れさまでした。由利さんはまだお若いですし、さぞ緊張されてお疲れになったでしょう。今ルームサービスでお茶とケーキを運ばせますから。どうぞ一服なさってください。由利さん、今日はいろいろと言いづらいことを根ほり葉ほり伺って、申し訳ありませんでしたね。私も双方にとっていい結果が出ることを望んではいますが・・・。小野さんも付き添っていただきまして本日はありがとうございました」

 そこで佐々木弁護士は由利に言った。

「ここでお写真を一枚、撮らせてもらっていいですか? もし鑑定の結果、あなたと依頼人の親子関係が成立するとすれば、あなたの写真をぜひ見たいと希望されているのです。どうです、由利さん? 依頼人がお父さまだと判れば、送らせてもらってもいいですか?」

「はい、もちろんです」

 由利は少し不安が混じった顔で、返事した。

「それでは、その白い壁のところをバックにして撮りましょうか? 由利さん、。もっとにっこり笑っていただけますか?」

 由利はできるだけにっこりと微笑もうとしたが、その表情はどことなくぎこちないものとなった。


 
 ホテルの人間がお茶とケーキを運んできたので、三人はしばしの間、当たり障りのない世間話をした。
 由利の緊張がほぐれてきたのを見て、佐々木はさらっとスマホのシャッターを何枚か切った。

「ああ、やっぱりさっきの写真よりこっちのほうが、断然生き生きとしていますね。ほら、ご覧ください。こっちを使いましょう」

 佐々木は自分が撮った写真を由利と辰造に見せた後、心持ち嬉しそうに言った。そしてこれからのスケジュールを告げた。

「ではこちらで用意しましたDNA鑑定をする人間が近日中にお宅をおじゃましますので、そのときはまたよろしくお願いしますね。学校もあるでしょうし、夜の七時ぐらいに伺いたいと思います」

「えっ。自宅にですか?」

「ああ、検査自体は非常に簡単でしてね。綿棒で由利さんの口の中を拭えばそれでおしまいですよ。まぁ、せいぜい十分もあれば充分でしょう」

「そんな簡単なことで?」

「ええ、人の体液で調べるのが一番確実です。九十五パーセントの確率ですよ」

「へぇ、そうなんですね」

「ええ。そうなんですよ。まぁ、伺うときはあらかじめ前日に電話を差し上げますので」

「わかりました、ではよろしくお願いします」





 要件が済んだので、由利と辰造が部屋を辞するために立ち上がろうとした。しかし由利の傍に終始黙って座っていた辰造は、ふらりとよろめいた。

「おじいちゃん!」

「小野さん、大丈夫ですか?」

 佐々木がつつっと近寄って、辰造を支えた。

「小野さん、とりあえず、こちらのソファで横になられては?」

「いやぁ、お世話をかけてすまんこってす。わしもちょっと緊張しとったんかなぁ。ハハハ」

 辰造は冗談めかして笑おうとしたが、その顔は真っ青だった。
nice!(3)  コメント(4) 

境界の旅人 30 [境界の旅人]

第八章 父娘



「最近、ずいぶんと日が暮れるのが早くなったよねぇ」

 薄く日の名残りの残る窓の外を見て、美月がため息をついた。

「うーん。そりゃあ、ま、『秋の日はつるべ落とし』って昔から言うくらいだしね。でもさ、あたしは京都の夏の暑さがこたえていたから、むしろ涼しくなってくれてほっとしてる」

 お茶室の傍に設けられた水屋で、稽古で使った黒い楽茶碗を拭きながら由利は答えた。

「こないだ、炉開きもされたもんね。そっかぁ、もう十一月だもんね」
「うん」

 由利はことば少なに答えた。

「ね、あれからフランスのほうからは何か連絡があった?」
「ううん。何の音沙汰もなし」
「えっと、あの手紙を出したのはいつだっけ?」
「八月のお盆の頃かな。だから二か月半は丸々経ってる」

 顔色にこそ出していないが、由利ほどその手紙の返事が来るのを待ち望んでる人間はいないはずだ。気にならないはずがない。

「そっか・・・」

 美月は由利の恬淡とした表情から、かえって物事の深刻さを推し量った。

「でもさ、由利。もう少し待って何の反応も無かったらまた、次の案を考えようよ。何かいいこと思いつくかもしれないし」
「ありがとう。美月。気を遣ってくれて。だけどね『返事がない』ってことがひとつの立派な返事なんだよ。あの手紙は結局、あたしの父親にあたる人のところにたどり着けなかったか、あるいはたどり着いたとしても、当の本人が死んだか、それとも父親のくせにあたしやお母さんを捨てたことに一片の悔いもなければ、何の興味もない人間ってことなんだよ、きっと」

 由利のことばには、いつまで待っても名乗り出て来ない父親に対する恨みがこもっていた。

「由利・・・」
「ああ、もうこんな話よそうよ。気持ちが余計に暗くなっちゃう」

 由利の口調はサバサバしていたが、どこか表情が荒んでいた。



下足箱へ行って、由利が靴を履き替えるとつま先のほうに何かが入っているような違和感がある。脱いで調べると小さな紙きれが入っていた。さっと美月に悟られぬように文面に目を走らせると「いつものところで待ってる」とだけ記されていた。

 いつもならふたりで自転車を走らせながら北大路から堀川通りを抜けて南下して行く。だが由利は、自転車置き場のところで美月に言った。

「あっ、そうだ、美月。あたしうっかり忘れるところだったんだけどね、これからおじいちゃんの血圧の薬を取りに行かなきゃならなかったんだ。悪いんだけどあたし、道が反対方向だからここでバイバイしなくちゃ」

 由利がいかにも今思い出したように、もっともな口実を言った。それを聞いた美月は、目の端をきらりときらめかせながら口角を少し上げた。

 由利はさっと自転車にまたがると、そのまま行ってしまった。それを美月はじっと黙って見送ったあと、こっそりつぶやいた。

「由利…。女子校で鍛えられたあたしの目を欺けるとでも思ってんの? アイツはガチで肉食系だよ? 由利はただでさえ傷つきやすいのに…、痛い目に遭わなきゃいいけど」



 由利が向かったのは船岡山だった。船岡山公園のふもとで自転車を止めようとすると、先客はすでに来ているようで、黒くて大きな自転車が止められていた。それを見るやいなや由利は、急かされたように駆け足で頂上に続く階段を昇って行った。

 あらかじめ待ち合わせしていたのは昼間でもめったと人がこない場所で、その木立の影に潜ませるように相手は待っていた。

  由利は相手に、学校ではただのクラスメイトとしてしか自分に接してはいけないと固く約束させていた。まったく気のないそぶりをさせて、自分の席の脇や廊下をすれ違いざまに通り過ぎる相手の姿を見ているのが好きだったのだ。

「常磐井君!」
「由利!」

 ふたりはお互いの名前を呼びあったあとは、まるでN極とS極の磁石がくっつくように固く抱擁を交わした。

 常磐井の大きな温かい腕に抱きしめられながらキスされていると、まるで極上の真綿に包まれているかのような安心感がある。由利は緊張から解放されるこの一瞬がたまらなく好きだった。背の高さがコンプレックスである由利は常磐井が相手だと、幼い頃のように、素直に可愛い女の子に戻れるような気がする。今は目を閉じながら、自分を無条件にこうして受け入れ、抱きしめてくれる相手がもたらす陶酔感にうっとりと浸っていた。

 驚くほど長いキスのあと、やっとふたりは顔を離して会話した。

「ねぇ、オレって、いつまで他人のフリしてなきゃなんないの?」

 常磐井は不満げに漏らした。

「いつまでって、いつまでもよ」
「なんで?」
「なんでって、理由はないけど・・・。それにあたし、こんなふうに優しい顔もいいんだけど、学校では口許をきりっと引き締めている常磐井君を見ているほうが好きかも・・・。いわゆるギャップ萌えってヤツかな」

 由利はふふっと笑ったあと常磐井の胸に顔を埋めた。こんな態度に出られると常磐井は強く出ることができない。ちょっと困ったように由利の背中に手を当てた。

「こんなふうにデレデレしているところ、他の人には見られたくないの。誰にも知られていない秘密って甘美で、より恋に熱中できる気がする」
「それってさぁ、前世からのサガ?」
「まぁ、たしかに女御さまと中将は世を忍ぶ恋をしていたよね」
「由利・・・。ねぇ、いつまでこんなふうにキスだけなんだよ?」

 焦れに焦れたあげく、とうとうしびれを切らしたように常磐井は迫って来た。

「常磐井君、それは前にも何回も言ったよね。あたしは今のままの、この状態が好きなの」
「え、オレは嫌だ! 由利が好きだから、もっと触れていたい!」

「それは・・・常磐井君が男だから言えるセリフなんじゃない? 女は元には戻れないのよ」

「一度男を知ったら、元に戻れないってこと? もしかしてそれは遡逆性ってことを言ってるのか?」
「まぁ、それもあるけど・・・。あたしたち、まだたった十六歳の高校一年生なんだよ。行きつくところまで言ったからって、それでどうなるもんでもないじゃない?」
「由利・・・・・・。恋なんて、どうなる、こうなるって、理屈が先に来るもんじゃないっしょ。好きだからじゃ理由にならないの?」

常磐井は真顔で由利に懇願した。

「ねぇ、男の人ってとかく忘れがちなんだと思うけど、女の側にはこういう快楽には必ず妊娠っていう危険をはらんでいるんだよ」
「妊娠なんてそんなこと・・・絶対に由利にはさせないよ」

 常磐井のささやく声には幾分かいらだちが含まれていた。

「常磐井君・・・。こういうことにはね、絶対なんてこと、ありえないと思うの。そうすることは、まだお金も儲けたことのない子供のあたしたちがやることじゃないと思ってる。おのれの分をわきまえていないっていうか、不遜っていうか」
「そんなの、いつの時代でも、やってるヤツはもっと早くにでもやってるさ。不遜だの分不相応だのって、そんな理屈っぽいこと考えてるもんか」

常磐井は鼻白んだように言い放った。

「それにね、常磐井君にとって先に進むことは大事なのかもしれないけど、今のあたしには必要じゃないの。どうして恋愛のプロセスのひとつひとつを大事にしないで、先をそんなに急くのよ? あたしはね、常磐井君、いい? したくないのよ!」

由利は嫌悪の情も露わにして、常磐井を拒んだ。

「でもさ、少なくともキスはいいと思ってるんでしょ?」
「え、うん。まあね」
「じゃあ、きっとその先もいいよ」

 そうやって常磐井はもう一度由利を強く抱きしめ、気を引こうとした。だが由利は、そんな姑息な手を使った相手をぴしゃっと遮った。

「ねぇ、こんなにしつこいんなら、あたしもう帰る。あなたとは金輪際こういうことしない!」

 由利はさっさと元来た階段に通じる道へ戻ろうとした。

「ま、待てよ! せっかくやっとふたりきりになれたのに! 顔に似合わず気が短いんだからな、由利は」
「ねぇ、常磐井君って自分の将来はどう考えているの?」

 突然、由利はくるりと踵を返すと、まったく関係のなさそうな質問をした。

「オレの将来? そうだなぁ、まあ、どっか今の自分の成績に見合うような大学へ入って、やっぱ部活は武道系をやって、将来はオヤジの跡をついで道場を経営していくと思うけど?」

 戸惑ってはいたが、常磐井は誠実に答えた。

「ね? 常磐井君の中には、そんな明確な将来のビジョンがある。だけどその中にあたしはどう関わっていけるのかな? それを考えたことある?」
「えっ? 愛し合っててオレと一緒になって、オレの子供産んで・・・。道場主の妻として母として生きていくんじゃダメなの?」

 由利は呆れたようにじっと常磐井を見つめた。

「それってさ、要するに常磐井悠季の『妻』としての人生であって、小野由利としての人生っていう意味を為さないような気がするんだけど?」
「えっ? それ、どういう意味?」
「だからさ、極論を言うようだけど、あなたは道場主の妻なってくれるのなら、あたし以外の誰でも構わないんじゃない? たとえばさ、常磐井君のことが未だに大好きな田中春奈なら、きっとふたつ返事で妻になってくれるよ。それのどこにあたしの存在意義があるの?」
「えーっ。そんなぁ。オレにだって選ぶ権利っていうのがあるだろ? なってくれるなら誰でもいいなんてはずないじゃないか! 内助の功っていうのも、めっちゃくちゃ大事なことだと思うけど。愛を仲立ちにして、一生懸命夫婦して道場を切り盛りするっていうのはダメなわけ、由利にとっては?」
「まあね、だって道場をどうこうするのはあなたの夢であって、あたしの夢じゃないもん。まぁあたしも武道に精進しているのなら、まぁそれもあり得るかもしれないけどさ」
「じゃあ由利にも教えてあげるよ。今からなら十分に上達できるさ」

 常磐井は機嫌を損ねた由利を必死になってとりなした。

「人に言われてやるのは嫌なの! 自分が心の底からそう思えるんじゃなきゃ!」

 そのことばに常磐井はちょっとむっとしたようだった。

「じゃあ、由利の夢とか、やりたいことって何なんだよ? それをオレにまず教えてくれよ」
「あたしのやりたいこと・・・。そうね。今は茶道をやっているけど。でもそれが生きがいってところまでには行ってないかな? だからやりたいことはまだ見つかっていない・・・」
「それじゃ、オレの夢を一緒に叶えるっていうのの、どこがいけないわけ?」

由利は身体に巻き付いていた常磐井の腕を振りほどいた。

「ねぇ、常磐井君。あなたは前世のあたしたちがあの女御と中将という恋人同士だったと信じている。でも女御は帝の妃でしょ? おそらくふたりは前世では夫婦になれなかったんだよね。だから常磐井君は今生でこそ、女御の生まれ変わりのあたしと添い遂げるために生まれてきたんだと思ってるんでしょ? 出逢いは必然だったんだって」
「うん。そう思ってるよ。由利に出会ったことは奇跡だよ」
「だけどあたしは、あなたが信じているその『ミラクル・ロマンス』なんてもの、端から信じちゃいないのよ。あたしは結局、そういうことはどうでもいいの。今あるのは現実だけ。選択肢は星の数ほど広がっているの! あたしたちは自分の持って生まれてきた能力や努力のいかんで、その中から可能な限り最良のものを選択することができる! もしあたしたちが今結ばれたとしても、結婚なんてずっと先のことじゃない? その間にあなたやあたしが心変わりをしないって保障がどこにある? あたしはいったん、あなたとそういう関係を結んでから別れるのは嫌だ!」
「オレたちに限って、そんなこと絶対にあるはずないっ! 少なくともオレはそんなことには絶対にならない、絶対にだ!」

 若者らしい潔癖さを持ち合わせている常磐井は、怒気をはらんで言い切った。

「由利、おまえは今のこのオレの金無垢のように混じりけのない愛を、将来性とか保障と言う損得ずくの秤にかけて貶めようっていうのか? オレは由利を相対的に愛するなんてこと、これまで一度だって考えたことがない! どんなことがあっても由利に対するこの愛は変わらない! 絶対だ。由利が今考えてることこそ、そろばんづくで卑しいって思わないのか?」

 常磐井になじられると、由利の頬は平手を受けたように紅潮した。

「何よっ! もう、放して! 常磐井君はあたしの気持ちなんて、解りっこなんかないんだから!」
「由利! 由利! 待てってば!」

 由利は一度も振り返らず、一目散に坂を駆け下りて行った。






~~~~~~~~~~~~~~~

やっと季節的に追いつきました…。
由利と常盤井って仲がいいのか悪いのかわからないですねぇ。

nice!(2)  コメント(14) 

境界の旅人 29 [境界の旅人]

第七章 前世



 たとえ相手から見て大して魅力的とは思えない文面だったとしても、少なくとも他のダイレクトメールよりは多少なりとも目立って、係員の手にとって開封され読んでもらえる努力はできると思う。


 由利はそう思って、寺町通にある和紙の店『紙司 柿本』へ行って、何かフランス人から見て「美しい」と思える便箋封筒はないかと探していた。

「あ、これ」

 由利が手に取ったのは、黒谷和紙で『草』と銘打ってある洋封筒と揃いの便箋だった。黒谷という名からして、左京区にある新選組で有名な『金戒光明寺』の付近なのかと思えば、どうもそうではないらしい。説明を聞くと綾部市黒谷町で作られた手漉きの紙とのこと。

 柔らかな薄緑の色が非常に美しい。

 本来なら一番格式のあるのは白だと思うのだが、それだとインパクトに欠ける。かといってあまりインパクトにこだわって柄が入ってしまうとキワモノに間違われて、またゴミ箱へ直行という可能性も考えられる。

 これがぎりぎりの由利の自己主張だった。

 買ってきた便箋をプリンターにセットして印字し、最後は自分の名前をアルファベットではなく漢字で『小野由利』と署名した。

「フランスまで料金はいくらかかるのかな?」

 由利が郵便局のウェブサイトまで行って調べると、フランスまでの定型郵便物で二十五グラムまでは、航空便で110円とあった。

 別に由利は切手を集める趣味もないので、近くの郵便局へ行って局員に相談した。

「あ、すみません。フランスに手紙を送るんですけど、何かあっちの人が喜びそうな切手ってありませんか?」

 受け付けてくれたのは人の好さそうな中年男性だった。

「そうねぇ、今のところこれしかないんだけど」

 局員は九十二円の慶弔用切手を取り出して来た。

「これね、本当は結納とか結婚式なんかに使われるんだけど、案外外人さんはこういう柄を好むんじゃないかな。それと差額用海外グリーティングっていうのがあるよ」
 なるほど、慶弔用切手は金色の扇の中に赤と青の松の模様が描かれていて、いかにも外人受けしそうだ。差額用グリーティング切手は葛飾北斎の『波』と「赤富士」こと『凱風快晴』をアレンジした二種類があった。

 どっちもいいなと思われたので、二枚購入して、足りない2円分はエゾユキウサギが描かれている二円切手を購入した。結局ずらずらと何枚も封筒に張ることになってしまったが、それがかえって受け取り手には良いインパクトを与えるかもしれない。

 最後に由利はバランスの良いように封筒に宛名のほうもひとつひとつ丁寧に書き、後ろには自分の住所や名前を書いた。

 由利はポストに投函する前に思わず手を合わせて祈った。

「必ず、ラディにこの手紙が渡りますように」




 五山の送り火の日に、結局由利は美月の家に行くことになった。

「由利!」
「ああ、由利ちゃん、いらっしゃい。ささ、どうぞ上がって」

 ビルの中の住居部分の玄関で、美月と芙蓉子が歓迎してくれた。

 
 美月にメッセージがあった翌朝、由利は辰造にそのことを申し出た。すると祖父はあっさりと許可してくれた。

「そうか、そんなふうに誘ってくださったんなら、ご厚意に甘えさせてもらって帯正さんところに寄せてもらったらええよ。あそこのビルは大きいから、大文字やら他の文字やらもよう見えるやろ」

 しかし自分が友人のところで楽しんでいる間、祖父は家でぽつねんとひとりですごしていなければならないのかと思うと、由利の心がとがめた。

「でも・・・、その間、おじいちゃんはどうするの?」
「ああ、わしのことか? わしも毎年、仕事先の能衣装のお店から他の仕事仲間と一緒に呼ばれとるのよ。だからおまえも心配しんと行ってきよし」



 まず由利は奥の間に通されると、すでに部屋には大きな姿見が備えられ着付け用の畳紙が敷かれていた。その横には長方形の乱れ箱に何枚かの浴衣と帯がきちんとたたまれて置かれてあった。芙蓉子はにこにこして由利に言った。

「由利ちゃんが好きそうなものをいくつか用意してみたの。好きなものを選んでみて」
「え、いいんですか? こんな高価なもの。おことばに甘えちゃってもいいのかなぁ」

 由利は遠慮がちに言った。

「何言ってるの、遠慮しないで。私が由利ちゃんに着せてみたいんだから」 

 そう言いながら、芙蓉子はたたまれてあった浴衣を一枚一枚広げていった。黄色地にスイカの模様のポップな柄、白地に美しくプリントされている紫陽花のもの、それと濃紺の地に白く染め抜かれた鉄砲百合があった。

「さあ、どれにする?」

 芙蓉子はが試すように由利に訊く。由利は迷わず答えた。

「じゃあ、この紺地に百合のものを・・・。涼しそうだし」
「あら、驚いた。大人の選択ね、由利ちゃん。とてもシックよ。昔はね、浴衣といったら藍で染めるのが一般的だったのよ。そして浴衣といえば東京染めと相場が決まっているのよ」
「えっ? 着物といえば京都じゃないんですか?」
「そうね、でも、『粋(いき)』で勝負するとしたら、お江戸の意匠には敵わないのよ。今でも『粋でいなせ』なのは東京染めなの」
「ああ、そうなんですね。じゃあ、どうして紺色一色なんですか?」

 ついでなので由利は後学のために芙蓉子に質問した。

「そうね、昔は藍が一番廉価に染められるってことが一番の原因だったと思うのだけど、それに何というのかしら、目で涼をとるというか、まぁ、涼しさを演出していたのよね。それに多色刷りになると、お金がかかるでしょ? だから白地に紺という二色、まぁ厳密に言えば一色で江戸っ子の心意気を表現したのだと思うわ」
「そうなんですか。昔の人も大変ですね」
「そうよ、昔は、ちょっと町人が派手な恰好をすると上から睨まれるの。やっぱりお江戸は将軍のお膝元でもあるけれど、それだけに支配階級が庶民に贅沢をせぬようにと圧力を掛けてきたから。でもね、だからってしおれてお上の言う通り、貧相な恰好するのなんて江戸っ子のプライドが許さないのよ。だからどんなに上からきついお達しがあろうと、その制限の中からびっくりするような斬新な意匠が生み出したのね。お江戸の文化は反骨精神に溢れているのよ」
「へぇ」

 口を動かしながらも芙蓉子はテキパキと由利の身体に浴衣を着つけていった。
 ささっと浴衣を着せ終えると、芙蓉子は箱から真っ白な中に字模様が浮かび上がる博多帯を取り出して、その上から締めた。

「昔なら、こういう場合は赤の独鈷柄にするはずなんだけどね、それだと野暮ったく感じるのよ。流行って不思議なものね。だけど今はこんな感じがクールなのよね」

 たしかに紺と白だけのツートンカラーの大人っぽいコーディネートは、背丈もある由利には似合っていた。

「それにね、最近はこんなふうに遊び感覚で、あえて帯にも帯締めをするの。するとね、全体が締るのよ」

 芙蓉子は帯の上に、黒に近い濃紺の帯締めを締め、その上に透明な紺色のガラスの帯留めを付けた。

「うわっ、ステキ! かっこいい!」

 由利は思わず歓声を上げた。

「ふふ、そうでしょ? さ、それじゃね、そこに座ってね。髪を軽くまとめてあげるわ」

 そう言って由利を鏡台の椅子に座らせると、由利は手慣れた手つきで由利の髪をまとめ始めた。「くるりんぱ」を三つ重ねてあっという間にふわっとしたアップになった。最後に芙蓉子は由利の髪に涼し気な水色の気泡入りのガラスのかんざしを付けた。

「うわ、芙蓉子さん、すごい! 魔法みたいです」
「ふふ。慣れればそんなの、すぐできるわよ」

 支度が終わったころに、美月が由利たちのところに顔を出した。
 美月はどうも自室で着替えたらしい。ピンクが多めであとは白と水色の花柄のレトロポップな浴衣に黄色と水色のツートンカラーの帯を可愛らしく蝶々結びにしていた。頭はトップの位置にツインテールにしてお団子にしていた。

 由利とは全く別路線の選択だったが、これは呉服屋の娘に生まれて、浴衣など生まれた頃から着尽くしたあとの究極の選択なのだろう。一見、何も着物のことをわかっていない素人のように見えて、それでいてぴたりと決まっている。

「どう、お母さん? 由利は?」
「ちょっと見てよ、美月。素敵でしょ?」

 芙蓉子はうれしそうに答えた。

「あら~、超正統派の装いですね~。着物雑誌の表紙にしたいくらい」
「でしょ? だけどこういうの、実は昔風のずんぐりむっくりした人には似合わないコーディネートよ。やはりね、こういうすらっと上背があって手足が長いモデル体型の人じゃないと」
「そうだよねぇ」
「そうそう、着せ甲斐があったわ。楽しいものね、きれいな子に着つけるのは」

 美月と芙蓉子は親子してプロの目で由利を見て喜んでいる。やはり長い間、着物に接している仕事をしているせいか、純粋に自分の考えたコーディネートが決まると嬉しいものらしい。

 由利もきれいな浴衣を着せてもらえたのが嬉しかったので、しばらくはしゃいでいたのだが、ふとぽろりと涙がこぼれた。

「ど、どうしたの、由利ちゃん?」

 由利が急に泣き出したので芙蓉子は慌てた。
「芙蓉子さん、あ、あたし、ごめんなさい。こんなによくしてもらったのに、泣いたりして。でも何だか情けなかったんです」
「どうして?」
「あたしには半分はどこの血が入っているのかわからないけど、もう半分は日本の血が入っているはずなのに日本文化さえきっちり享受しているとは言いがたいじゃないですか? それじゃ正々堂々と胸を張って『私は日本人です』って言えないような気がして」

 それを聞いて美月は一瞬ハッとした顔をしたが、横にいる芙蓉子に目顔で制した。

「まぁまぁ、由利ったら。何を言うかと思ったら・・・。今どき百パーセント純血の日本人の女の子だって、着物なんか自分で着られない子がほとんどだよ。だってそういう習慣が廃れてるんだもん。当然でしょ?」

 美月はわざとぶっきらぼうに言った。

「それにさ、自分のことをそういうふうに貶めるのは、どうかなって思うよ。聞き苦しいよ」
「美月、由利ちゃんにそこまで言わなくても・・・」

 芙蓉子は美月を止めにかかった。

「ううん、お母さん、止めないで。あたしは由利の親友だと思っているから、キツイことを承知であえて言わせてもらう。由利。そんなこと言ったって知ったら、きっと由利のおじいさんが悲しむよ。それにさ、誰も由利をそんなふうに見てなんかいないじゃん。もし自分で着物を着られるようになりたいんだったらさ、泣き言を言う前に自分で着られるように訓練すればいいだけの話。物事は理性で考えないと。別に異国の血を引いているから、着られないなんて馬鹿なこと考えてないよね?」

 美月の容赦ないことばが由利の心を打った。

「あたしもさ、着物屋の娘だから、一応自分で着物は着られるよ。それは何も特別な能力があったからじゃなくて、単に練習したからでしょ? そんなに着物をひとりで着れない自分が許せないんだったら、あたしが明日からでも特訓してあげるよ。毎日うちに通ってきなよ。ありがたいことに、新学期までお茶のお稽古もないことだし」
「・・・美月。あたしちょっとどうかしてた。ありがとう」

 由利は涙にふるえる声で謝った。

「うん。由利はさ、敏感で感受性に富んでいるだけど、時々誤作動を起こしちゃうんだよね。さあ、行こ行こ。八時に大文字が点灯するからそれまでにご飯を食べないと」

 美月の自社ビルの屋上は仕事の関係で招待された人で結構込み合っていた。さすがに皆、和装業界の人間だけあって、老若男女、それぞれ趣向を凝らした装いをしていて圧巻だった。

「ほら、由利! 見て! 『大文字』に灯りがついたよ」

 よくよく見ると『大』の文字に火が灯されたらしく、小さな灯りがどんどんと拡がって大きくなっていく。

「うわ、すごい。初めてみるなぁ」
「これは京都の四大伝統行事って言われているんだよ。京都にゆかりのある人間なら、これを見なきゃ」
「へぇ。そうなんだぁ」

 しばらくすると、今度は『妙』と『法』の字が同時に点火された。それに目を奪われているうちに、次は船形と左大文字が、そして最後に『鳥居形』に火が灯された。

「ねぇ、これってどんな意味があるの?」

 由利は歴女の美月に訊ねた。

「うん? 五山の送り火っていうのはね、もともとお精霊(しょうらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世に送り届けるために、焚かれるものなんだよね。まぁ、お精霊さんを送るやり方は各地によってそれぞれで、ほら、有名なところでは長崎の『精霊流し』っていうのもあるじゃない? でもまぁ、どれも基本的にはお盆にお迎えしたご先祖さまの霊が道に迷わないように火を灯して、お送りするためのものなんじゃないかな?」
「じゃあ、大の字にはどんな意味があるの?」
「大は『大日如来』のことじゃない? 密教では一番偉い仏さまのことだよ」
「じゃあ、妙は?」
「ああ、妙と法はたぶん、『妙法蓮華経』っていうお経のタイトルから来ているんだよ。だから主に信仰しているのは日蓮宗なんじゃないかな?」
「じゃあ、船形は?」
「ああ、船形? あれは小乗仏教に対する大乗仏教のシンボルだから日本の仏教全般にも言えることだと思うけど、まぁ、厳密に言えば浄土教、すなわち浄土宗とか浄土真宗を指すんじゃないかな」

 美月はどこどこまでも淀みがない。

「じゃあ、きっと鳥居は神社のシンボルだから神道を表しているんだろうね」

 それを受けて由利が言った。

「そうだね、まぁどんな宗教、宗派であろうと、ご先祖さまがあの世から来てくださって、また戻って行かれるってところでは一致しているんじゃない? 京都には、比叡山や東寺なんかの密教系や南禅寺や大徳寺なんかの禅宗、それに知恩院やら本願寺やらってそれこそ山のようにいろんな宗派の大本山があるから。みんな仲良く共存しているんだよ。またしていかなきゃ、生きていけなかったんだろうし」
「へぇ、そうなんだ・・・」

 ふたりはしばらく黙って文字を見つめていた。

「ああ、だんだん火が小さくなって消えていくね。ねぇ、美月、これっていつ頃からやっている風習なの?」
「うん。まぁ、諸説あって、あの『大』の字は弘法さんの字だっていう人もいるんだけど、空海って平安時代の人じゃない? そんな古い風習じゃないはずだよねぇ。あとはさ、近衛信尹(のぶただ)が書いたとかいろいろ言われてるけど、ようするに俗説で、本当のことはわからない」
「ねぇ、じゃあ、室町時代の人は五山の送り火って見てたのかなぁ?」
「うーん、どうだろ? 五山の送り火って謎が多いんだよね。一般的には近世、つまり江戸時代になってから始まったって言われてるからねぇ。中世の人っておそらくこの送り火は見てないんじゃないかな」
「ふうん。そうなんだ」
「うん。こういう大がかりな風習って平和なときじゃないと、できないものだから。どの時代も戦争になるととたんにこういう行事って中止にされちゃうものだし」
「そうなんだね・・・」

 ふたりは一番最後に灯された、西山の微かにともる鳥居形を見ながら、この夏の盆を送った。 











来週は一気に11月にお話は飛びます。それにしても長いお話ですねぇ。
作者の私自身がうんざりするほど、長いですわw

nice!(3)  コメント(2) 

境界の旅人 28 [境界の旅人]

第七章 前世



 気が付けば由利は常磐井の身体にもたれながら、タクシーに乗っていた。

「ん・・・、ここは?」
「あ、まだ眠っていていいよ。今はタクシーの中。もうすぐ家に着くから安心して」

 肩に回されていた手が小さな子どもをなだめるように、ぽんぽんと二回軽く打った。由利は体中が重たくて抗う力もなく、言われた通りに再び目を閉じた。
やがて車は家に到着したらしく、うっすらと目を開けると辰造が外で待っているのが見える。

「こんばんは。ぼくは由利さんのクラスメイトで常磐井悠季といいます」
「ああ、あんたが常磐井君か、名前だけは由利からうかごうてます。なんや合宿に連れて行ってもらって、えらいお世話になってしまって」
「いえ、そんな。とんでもないことですよ。ところでぼく、夕方に出町柳で偶然由利さんと出会ったんですが、由利さんはちょっと具合が悪そうだったんです。それで下鴨神社の参道で涼んでいたんですが、急に気を失ってしまわれて・・・。こんなことなら、神社なんかでぐずぐずしないで、もっと早くお家に返してあげるべきでした」

 常磐井はいつになく非常に礼儀正しい態度で、理路整然と尤もそうな口実を祖父に説明していた。由利はそれをぼうっと遠くで聞きながら「策士め。おじいちゃんまで取り込んじゃって・・・」と心の中で毒づいていた。

「まぁ、それにしても、よう由利を運んできてくれたなぁ。おおきに、ほんまにおおきに」

 しきりに祖父が礼を言っているのが聞こえる。

「いえ、そんなことは」
「由利、由利! 起きや! 着いたで!」

 辰造がタクシーの中にいる由利に声を掛けた。

「あ、おじいさん。今はそっとしてあげてください。由利さん、たぶん熱中症なんですよ。昼間、暑い中をずっと水分を取らないで歩いていたみたいだから。疲れているんじゃないかな?」

 そういうと常磐井はぐったりしている由利を赤ん坊でも抱えるようにひょいと抱き上げた。

「おじいさん、ぼくが中まで由利さんを運びますから」
「いや、そうかぁ? なんか悪いなぁ。ホレ、この子は大きいから、重たいやろ?」
「いいえ」

 きっぱりと常磐井は答えた。祖父は相手の筋骨隆々とした身体を見て、その答えに偽りはないと納得したようだ。





 由利が再び目を開けると、きらきらと銀のうろこを光らせながら、部屋の中を何かが悠然と泳いでいるのが見える。

「きれい・・・」

 由利はうっとりしてそれを眺めていた。

「あなたはだあれ? どうしてこんなところで泳いでいるの?」

 由利は夢見心地で、ぼんやりと心の中に沸き起こった疑問を声に出してつぶやいていた。すると銀のうろこで光るものは悲し気に言った。

「わたしのことをお忘れですか、女御さま? 何と情けない。中将殿のことは思い出していただけましたのに。わたしは名前さえも憶えておられない・・・。口惜しゅうございます。あなたさまにはあれほど心を込めてお仕えして参りましたものを・・・」

 声は恨めし気に掻き口説いた。

「えっ?」
「ではせめて、これをわたしのよすがとして偲んでくだされ」

 それから次の瞬間には由利はまばゆいばかりの神々しい光に身体を包まれていた。





 気が付けば由利は二階の自分の蒲団に寝かされていた。

「あれぇ?」

 由利は寝床から起き上がって、階段を下りて行った。下の居間では辰造がテレビを見ていた。

「お、由利。少しは元気になったか?」
「もしかして常磐井君がここまで連れて来てくれたの?」
「そうやで。突然おまえのケータイちゅうんかスマホちゅうんか知らんけど、そこから常磐井君が電話を掛けたらしい。てっきり由利からの電話やと思ったら、知らん男の声やろ? それにしてもたまげたわ」
「え、常磐井君から電話があったの?」
「そうなんや。この家の番号が判らんから、おまえの電話を借りたっちゅうことや。今どきの高校生にしてはえらい礼儀正しい子で、びっくりしたわ」

 それはおじいちゃんを懐柔させるための偽装に決まってるじゃないの、と由利は心の中で思ったが、今は黙っていることにした。

「へぇ、どうやってパスワードが判ったんだろ?」
「あ、それもなんか言い訳しよったで。とりあえずおまえの親指を当てて、解除したんだと」
「あ、なるほど。本人が気絶していても、親指の指紋さえ合っていれば、そういうことができるわけよね」

ーそのついでに、あちこちアプリを開いてあたしの秘密を嗅ぎ出そうとチェックしていたに違いないー

「そいで由利を家につれて帰りたいから、住所を教えてくれっちゅうってな。それにしても下鴨神社の参道なんかで倒れたら、表の車道までかなりの距離もあるし、負ぶってくるのは大変やろうと思って心配していたら、なんやタクシーから出てきよったんは雲を突くような大男でなぁ。軽々とおまえを担いでおったわ。あれが道場やってるちゅう家の息子か? 常磐井君を見たら、ほんまに金剛力士みたいなんでたまげたわ。最近の高校生はデカいんやなぁ」

 辰造はほれぼれと感心したように言う。

「いやいや。彼は特例中の特例だから。百八十八センチなんて、そうそう探したって見つからないよ」
「せやけど、由利とやったらお似合いやんか」

 常磐井の体育会系らしい爽やかで折り目正しい態度を気に入ったのか、辰造はやたらとほめる。

「背の高さだけで言えばね」

 由利は仏頂面で答えた。

「何や、由利。常磐井君はおまえの恩人とちゃうんか? もっと感謝せなあかんで」

ー神社の中で本当は何があったかおじいちゃんも知ったら、そんなに笑ってはいられないんだからー

「あー、はいはい」



「そっかぁ。常磐井君がここまでタクシーで連れて来てくれたのか」

 しばらくして由利がぽつんと言った。

「そうやで、ついでやしって二階のおまえの部屋まで運んでくれたわ」
「ふうん。ヤツはとうとうあたしの家どころか、あたしの部屋まで侵入してきたのか。『機を見るに敏なり』とはまさにこのことね・・・」

 くよくよしていても仕方がないので、由利はとりあえず冷たくなったお味噌汁を温めて、冷蔵庫にあったキムチと冷や奴で夕飯を済ませた。

「ふうん。何や知らんけど、食欲だけはあるみたいやな。とりあえず大丈夫みたいやな」

 祖父はほっとしたように言った。

「うん、おじいちゃん、いつも心配かけてごめんね」



 気が付けば身体中が汗でベッタベタだ。しかもおろしたてのコテラックのワンピースは倒れたのと、蒲団に寝かされていたので、しわくちゃになっていた。情けない姿に変わり果てた洋服を見て由利は鏡に向かってつぶやいた。

「何て可哀そうなあたしのコテラックちゃんなの。おお、よしよし。大丈夫。明日由利ちゃんがクリーニング屋さんに連れて行ってきれいにしてもらうから。それに小山さんとのデートには、しっかり役立ってくれたんだからいいのよ、よく頑張ってくれました! パチパチ」

 まず歯ブラシにクリニカを塗って歯を徹底的に磨き、最後はマウスウオッシュで念入りにうがいした。そのあと風呂に入ってさっぱりしたあと、快適な温度にまでコントロールされた部屋で、由利は蒲団に寝転がりながらスマホを開いた。
 美月からメッセージが入っていた。

「ねぇ、由利。びっくりよ。小山先輩が急にベルリンのほうへピアノの修行に出かけちゃったんだって! 知ってた?」 

 由利は初めてそれを聞いたように装った。

「ええっ? 小山さんがベルリンへ! それは初耳! 知らなかった~」
「あたしも寝耳に水だよ。何でも小山さんの肝入りで二年生の鈴木先輩が部長を務めることになったんだって!」
「へ~、しばらく小山さんはあっちにいるつもりなのかな?」

 由利は美月に白々しい質問をする。

「どうもそうらしいよ」
「そうなんだねぇ・・・。なんかショック・・・」

 由利は昼間小山に告白された内容を思い出していた。だがこれは誰にも言うつもりはなかった。

「ねぇ、あさっては『五山の送り火』だからあたしンちに来ない? 会社のビルの屋上からだとよく見えるよ。おかあさんもね、ぜひいらっしゃいって。ね、一緒に浴衣を着ない?」

 美月が次々と新しいメッセージを送って来る。

「ええっ、あたし浴衣なんて持ってないよ! それに今まで着たことないし」
「大丈夫。うちは着物屋だよ? 浴衣なんて腐るほど持ってるし。心配しないで。貸してあげる。お母さんは着付けの先生だから、そっちのほうも心配もないよ!」
「え~、何か申し訳ないような気が・・・。いいの?」
「うん。由利なら大歓迎だよ。ぜひ!」
「ところで『五山の送り火』って何?」
「知らない? ほら東の方向に『大』って文字が書いてある山が見えるでしょ? 送り火の日にはその字に火が灯されて、この世を訪れていたご先祖さまの霊をお送りするのよ」
「ああ、大文字焼きのことか!」
「ちょっと。その大文字焼きって言うのは、間違いだからね。どら焼きみたいに言わないで」

 また歴女の辛辣なクレームが入ったので、素直に謝った。

「ごめん、ゴメン。無知で~」
「ね、考えてみて? 決まったら返事ちょうだいね!」
「うん。とりあえず明日おじいちゃんに訊いてみるね。きょうはもう、寝ちゃったみたいだから」

 由利のコメントがいつもより若干短く乗ってこないのを見て、美月は早々と切り上げようと決めたらしかった。

「了解! じゃおやすみ」
 由利も心配している美月に悪いと思いつつ、会話を短めに終わらせてくれたのはありがたかった。感謝の気持ちを込めて、チップとデールのおやすみスタンプを押した。

 そしてやはりというべきか、常磐井からも当然のようにメッセージが入っていた。

「やぁ、由利ちゃん、少しは元気になったのかな? オレとのキスに気絶するほど感激してもらえたなんて、かえってこっちが恐縮しちゃいます。今度はもっと濃厚なのをしてあげるね♡ お蔭様で由利ちゃんの可愛いお部屋にも入らせてもらったし。由利ちゃんの愛読書が何かも知ることができてよかった。案外、硬いものを読んでいるんでびっくりです。高校生がモーパッサンって結構すごいなと思って帰ってきました。それじゃね(^^)/」

 視線をスマホから机に移すと、机の上にはモーパッサンの『ベラミ』が置いてあるのが見えた。

「何言ってんのよ、この筋肉バカ! ったく! 脳みそも筋肉でできてるんじゃないの? 能天気なことばっかり言ってくれちゃって! あたしはアンタの彼女じゃない! キスだって全然よくなかった。ってか、気持ち悪い! それに人の部屋に何勝手に入ってんの! アンタはあたしの一体何を解ってるっての! どうせスケベなアンタなんて考えてることはひとつよ! もうっ! 常磐井悠季のバカバカバカっ!」

 由利はむかむか来て、スマホを蒲団の外へと放り出した。

「ふうっ」

 由利は蒲団に大の字に寝転がって、ため息をついた。

「何だかすごい一日だったような気がする・・・。いや、気がするんじゃなくて実際、すごい日だった」

 日中は小山と一緒に世にも美しい茶碗を見て心を揺さぶられていた。小さな黒い茶碗の中には、ミクロコスモスといっていいほどの広大な宇宙が広がっていた。そのあまりの美しさにふたりはただ呆然としてことばもなく見惚れていた。

 あたしは、小山さんとは恋人同士にはなれないかもしれないけど、ほら、今日だって、あのお茶碗を一緒に見て美しいと感じることで、十分に意義のある時間を共有できたと思いませんか? 

 心でつながっているんです、芸術を愛することを媒体にして。

 たとえまっとうな男だったしても、誰でもこんな風になれるなんて思っていません。そう思えば単なる身体のつながりなんて空しい。

 由利は昼間、小山に告げたことばを思い出した。
 黒い夜空に瞬く天の川のような碗。小山はその価値を由利ならきっと理解できると思って一緒に行くことを決意したという。

 由利は本当の意味での「愛し合う」ってどんなことだろうと天井を見つめながら考えた。

 同じ価値観を共有できる人と感動を共にすること。これも間違っていないと思う。でもこれは比較的穏やかで理知的な愛だ。

 真実を知らされてたとしても、由利の心の中で未だに小山は、燦然と輝く王子さまの位置を失っていなかった。小山が身に着けている人を圧倒するような知性のパワー。それにまだ世に出ていないにせよ、彼女自身がすでに本物の芸術家であり茶道家だった。昼間、由利は小山に「あなたは奇跡が生ましめた油滴天目茶碗だ」と言った。

 ―そのことばに嘘偽りはないー。


 だが由利はその同じ日に、まったく正反対の「性愛」の有無を言わせない理屈抜きの力強さにも触れてしまった。

 たしかに由利は以前から、常磐井が弓を打つときのことばでは表現できない緊張感、的に向かうときの真剣な表情を好ましいと見ていた。だがそれだけで、内面はほとんど理解できているとは言いがたい。

彼が何を信じ、何を大事に生きているのかー。それすら知らない。

 お互い理解しあっているならともかく、そんなろくに知らない異性とくちびるという最も敏感な部分を接触させるだなんて、理性的に考えれば不快感を覚えて当然な行為のはずだ。それなのにずっと触れられていたいと思った自分は、一体どうしたというのだろう。

 由利は自分のくちびるに指で触れてあのときの常磐井のくちびるの感触を思い出していた。

 ほんのわずかの時間だけれど、それをきっかけにして常磐井とふたりで時代を飛び越えてしまった。

 飛び越えた先の時代の女御も臣下である中将に懸想され、思いがけず抱きすくめられていた。そして恐怖に怯えながらも、男の愛撫に恍惚となったことに戸惑っていた。今の由利には女御の気持ちがよく分かる。

 常磐井と中将には、立ち振る舞いそして佇まいに隙がない。そこに一種の男らしいなまめかしさがにじみ出ていた。自分もそんなセンシュアルな力に惹かれてしまったのだろうか。

 由利は苦々しげにくちびるを噛んだ。

「あたしと常磐井君が、前世では室町時代の女御と中将だった? まさか! それじゃまんま、『セーラームーン』じゃないの! クィーン・セレニティとエンディミオンってか? アホくさ。そんなはずないじゃない!」

 由利はひとつ世代が上の『セーラームーン』のアニメが好きだった。

 ※出逢ったときの懐かしい まなざし忘れないー。
  不思議な奇跡クロスして 何度も巡り合う
(※『美少女戦士 セーラームーン』『ムーンライト伝説』より引用)

「そんなバカな! 昔の人間の身体に入ったからって、どうしてそれが自分の前世だと断定できるの! たまたまよ、たまたま! 常磐井君はあんまり自分の体験が生々しすぎて、それにつられてあたしを愛していると思い込んでいるだけよ!」

 由利はむしゃくしゃする気持ちを抑えかねて、今度は蒲団からむくっと上半身だけを起こした。

「あれっ?」

 短パンをはいている右の太ももの内側に今まで見たこともないようなあざができていたのを見つけた。真っ白な皮膚にピンク色の、何か不思議な文様が浮き上がって見えるのだ。突然、由利はあっと叫んだ。

「もしかして、これって・・・ウロコの形?」

 由利は夢うつつでみた、不思議なヴィジョンを思い出した。

―ではせめて、これをわたしのよすがとして偲んでくだされ―


nice!(2)  コメント(4) 

境界の旅人 27 [境界の旅人]

第七章 前世



「お放しください、中将どの。あなたさまは宮中をお守りする武人ではございませんか! 今ご自分がなさっていることが、どういうことかお分かりですか? このようなけしからぬことをなさるなどと・・・。 人を呼びますよ!」
「いいえ、放しません。わたしがどんなにあなたに想い焦がれていたか、このたぎるような思いを知っていただくまでは・・・」

 中将は女性の黒髪をつかむという乱暴なことをやめ、今度は姫の細い肩を抱き寄せると、姫の細い身体をすっぽりと両腕に包んで抱きしめた。

「初めてお見掛けしたときから、あなたに憧れ続けてきたのです。このようなむくつけき大男がまた、なにをかいわんやと思召されているのでしょう? でもあなたさまを忘れることができないのです! たとえあなたが主上のものであったとしても!」

 恐怖を感じるその一方で、中将のたくましい腕の中で身をも焦がすような熱いことばに酔いしれて、姫は陶然としていた。身体の奥からぞくぞくするような甘美な疼きが、泉のようにあふれ出しくる。

「中将どの、後生でございます、その手をお放しくださりませ」

 姫の抵抗も虚しく、中将は相手の朱に染まったこめかみからおとがいにかけて、情熱的に唇をなんどもさ迷わせたあと、蜂がようやく花芯へとたどり着くように、自分の唇を相手に押し当てた。その瞬間、橘姫は帝の妃という立場も何もかもすべてを忘れて、自分の身体を相手に委ねていた。

「あなたがわたしの目の前で扇を落とされたとき・・・、神仏は我が願いを聞き届けてくださったと思いました・・・。お慕いしているのです、橘の君。こんなにも自分をおさえられなくなるほど・・・」

 長い抱擁のあと中将は、姫に上ずった声でささやいた。
姫には直観的に自分の求めていたものに出会えたという確信があった。それはなんという歓喜に包まれた瞬間だったろう。だがかろうじて今はまだ、理性が本能より勝っていた。





~~~~~~~~~

so-netブログの読者のみなさま。
いつも応援してくださいましてありがとうございます。
課金しているのにもかかわらず、驚くほどたくさんの方が読んでくださっています。
本当に感謝、感謝。言葉もありません。


今日も、ここから先はnoteでお楽しみください。


https://note.mu/sadafusa_neo/n/n93f0bc2269be
nice!(3)  コメント(2) 

境界の旅人 26 [境界の旅人]

第七章 前世



 四時を過ぎても八月の太陽は衰えることもなく地表をじりじりと焦がしている。油を溶かし入れたような川面はそんな強烈な日差しを浴びて、ギラギラと強烈な光を反射していた。対岸に植えられた並木はその照り返しを受けて琥珀色に燃え立っていた。


「ありがとう、小野さん」

 小山は頬に涙の跡をつけたままで、そう言った。

「あは、恥ずかしいな。ボクときたら人前で泣いていたんだね」

 小山は手の甲で顔を拭った。

「そんな・・・。ちっとも恥ずかしくなんかないですよ」

「そう言えば、小野さん。ほら、ボクが『革命』を弾いていたとき、キミが音楽室に来ただろう?」

「ああ、はい」

「実はあのとき、かなり悩んでいたんだ。先生に今の自分のピアノのアプローチは古すぎて、一般受けしないって。でもいくら先生に言われたからって、唯々諾々と自分が納得できない演奏をするのはたまらなく嫌だったんだ・・・。結局のところ芸術家は、最後は自分の美意識を信じるしかない。そしてキミはそんなボクのピアノを感動をしながら聞いてくれた。ボクが信じる美しさを認めてくれたんだよ。そのときひらめいたんだ。小野さんならもしかして、ボクの世界をきちんと理解してくれるんじゃないかって」

「先輩・・・」

「あのときボクは苦しくて、無性に油滴天目茶碗が見たかったんだ。もちろんひとりで行くつもりだったんだけどね。でもキミと一緒に行ってみたくなったんだよ。キミが、ボクにとって世界一美しい茶碗を見て何て言うのか、それが知りたかった」

「ああ、それであんなに唐突に誘ってくれたんですね?」
「うん。ボクが思った通り、キミはあの茶碗を見て感動してくれた、これ以上ないほど。だからなのかな。ボクは気が緩んでしまったせいか、ついこんなみっともない告白をしてしまった・・・」
「みっともないだなんて、先輩。ちっともそんなことないです。人は誰しもひとりでなんか生きていけないものですもん。孤独にさいなまれるときはきっと、誰でもそんなふうになるもんじゃないかしら? もちろんあたしだってそうです」

「うん。相手がキミで良かったと心の底から思っているよ。しかもボクのことを解ってくれて、こんなふうに力づけて励ましてくれて。ボクは救われたよ」

 由利と小山はしばらく無言でお互いを見つめ合った。
 ふと由利は思い出したように、バッグから封筒をひとつ取り出した。

「小山さん、これ。思わず忘れるところでした。この間お約束していた、手紙と写真です」
「ああ、そうそう。大事なものだよ。これがなくっちゃベルリンの先生に、キミのお父さんの話が切り出せないからね」

 小山は笑いながら、ブレザーの内ポケットに封筒を仕舞った。

「まぁ、どれだけボクがこの件に関して役に立てるかは解らないけど。でもできるだけのことはやってみるつもりだよ」
「小山さん、本当にありがとうございます。ここまで親身になってもらえるなんて、本当にうれしいです」
「いやいや、それはお互いさまさ」

 それから小山は少し改まった口調で由利に言った。

「実はね・・・、ボクはこれからこの足で関空に行って、ベルリンへと立つ予定なんだ」

 由利はそれを聞いてびっくりした。

「えっ? 本当ですか! 一体何時のフライトなんですか」

 思わずバッグからスマホを取り出して時間を確認した。

「うん。八時かな」
「えっ、とすると時間的にギリギリじゃないですか! 急がなきゃ」
「まぁ、今から大阪駅に向かって関空快速に乗れば、着くのは五時半ぐらいになるかな。六時までに着けばいいんだから、楽勝さ」
「で、でも。小山先輩、手ぶらじゃないですか! 荷物は?」
「ああ、あらかじめ関空の方へ送ってあるんだ」
「じゃあ、本当に文字通り、あのお茶碗にあいさつしてから出発するつもりだったんですね!」
「ああ。今度の旅はいつもより少し長くなりそうなんだ。向こうでコンクールを受けるつもりでいるんでね。だから帰るのは年明けになるかな」
「そんなに長い間ですか?」

 由利は急に小山がいなくなることを聞いて少しショックを受けていた。

「うん。でも受験に間に合うように帰るつもりではいるんだ。ただ進路をまだはっきりと決めていない。東京の大学で音楽教育を受けるか、ヨーロッパにするか、あるいはアメリカにするかは。まぁどのみち音楽の道で生きていくつもりでいるんだけどね。でもとりあえず、選択肢はたくさんあったほうがいいと思うから」 

「加藤さんから作曲のほうへ進まれるって聞いています」

「うん。プレイヤーだけでやっていける自信がないっていうのが本音なんだ。でもまぁ、音楽を創ったりアレンジするほうが興味があるし。それに今更ピアノ科に進んでも意味がないような気がしてね」

「そうなんですね。でも・・・こんなに急にお別れになるなんて」

 由利は大きくため息をついた。

「そんな別れだなんて。大げさだな、小野さんは。単にしばらく日本を留守にするだけだよ」

 小山はそういうとまた誰に聞かせるでもなく、しゃべった。

「日本は本当に美しいもので溢れている。だけどやはり島国のせいか、排他的で同調圧力の強い国だし。自分の将来を考えると、他民族でいろんな価値観が混在している欧米みたいな多民族国家で暮らすほうが楽なんじゃないかとも思うんだけどね。だけどそれも実際に住んでみないと、自分にとって住みやすいかどうかなんて判らないことだし・・・。ハハ、変わり者だと、心配ごとが尽きなくてイヤになっちゃうよ」

 小山はまたいつもの穏やかな表情に戻っていた。

「小野さん、今日はありがとう。キミはボクに生きていく勇気を与えてくれたよ。まさにキミはボクの恩人さ。これで心置きなく出発することができる」
「こちらのほうこそ。小山先輩。本当にありがとうございました。道中お気をつけて。そして必ず元気な顔をみせてくださいね」
「うん。茶道部はボクの後任として二年生の鈴木さんにやってもらうことにした。話はすでにつけてあって、彼女のほうも部長を快く引き受けてくれた。まぁ、彼女もしっかりと手堅い人だから、安心して任せることができる。小野さん、しっかりお手前ができるように精進してね。帰って来たらボクの前でお点前をして見せてもらうよ」
「えっ、そんなぁ」
「いやいや。期待しているし。それに小野さんならできる」

 小山は励ますようににっこり笑った。

「はい、頑張ります。小山先輩」
「うん」
「行ってらっしゃい!」

 小山は由利に手を挙げて左右に振ると、くるりと回って大阪駅に向けて歩いて行った。



 出町柳駅に着くと、すでに五時を過ぎていた。由利は地下の改札から今出川通りに出る長い階段を伝って地上に出ると、アスファルトから立ち上る焼けつくような熱気にクラリとめまいがしそうだった。

「あ、暑い・・・」

 お昼に小山と一緒に紅茶を飲んで以来、由利は水分を取っていなかったことに気が付いた。
 普通なら美術館を出たあとで、付近のカフェに入ってお茶を飲むなりして、水分を補給すれば良かったのだろうが、小山の衝撃的な告白のせいでそれもままならなかった。

「あ、ヤバイ。脱水症状になっちゃう。水、水」

 地下の出口をすぐ出たところのファミマへ駆けこむようにして入ると、由利は迷うことなくいろはすのれもんスパークリングを買った。もう喉が渇いてヒリつき身体が干からびそうになっていた。お店を出るやいなやもどかし気にキャップを開け人目も気にせずぐぐぐと飲むと、ボトルの水の半分が一気に無くなっていた。

「ふぅっ。生き返った」

 思わず由利は安堵の息をついた。

「おいっ! 小野!」

 突然後ろの方で聞き覚えのある声がした。驚いて由利が振り向くと、それは常磐井だった。「桃園高等学校弓道部」と白く染め抜かれた紺色のTシャツを着、よれよれのジーンズを履いていた。先ほどの小山のファッショナブルな恰好とは真逆のベクトルを示したいでたちだった。紫の布袋を入れた弓を肩に預けながら右手に持ち、左手には旅行バッグを下げていた。

「あ、常磐井君!」

「あんたさぁ、何やってんの? 乙女がいくら何でもその飲み方はないっしょ? 腰に手を当ててラッパ飲みって、まるでオヤジじゃね?」

 常磐井は笑いながら半ば呆れたように言った。

「だって、喉がカッラカラだったんだもん」

 迂闊な姿を常磐井に見られて、由利は少しバツが悪かった。

「ん、まぁ。小野のありえないカッコの目撃者がオレだから許してやるけどぉ」
「うん。ゴメン。今のは見なかったことにして」

 傍の常磐井に構わず、また由利は相変わらずぐいぐいと残りの水を喉に流し込んだ。

「はあー、やっと身体の細胞のひとつひとつが潤いましたってカンジ!」

 それを見て常磐井は眉をひそめた。

「おい、大丈夫なのか? 京都の夏を甘く見んなよ、小野。家ン中にいてエアコン付けてたって熱中症になる人もいるんだかんな。外出するときは水を持ち歩いて、定期的に飲むのは関西の夏場の鉄則っしょ?」
「うん。今、水を飲みながら君の言う通りだなって実感してた」

 ひとごこちついた由利は、改めて常磐井のほうへ向き直った。

「あ、常磐井君ね。五日ぐらい前に行衣を返しにお家に行ったの。そしたらお母さんが出て来られて常磐井君は長野に合宿だっておっしゃってたけど?」
「ん? ああ。おふくろからLINEのメッセージがあったから知ってるよ」
「あ、じゃ、もしかして今、合宿の帰り?」
「ああ。それでやっと家の近くに着たと思ったら、小野が道の真ん中で仁王立ちで水を飲んでんのが見えて思わずびっくり」
「もう、そればっか言わないでよ!」
「いや、あんまりにもシュールな光景だったからさぁ」

 由利は文句を言ったあと、それでも合宿で世話になった礼をまだ常磐井に言ってないことに気が付いた。

「あ、でも、常磐井君。合宿のときはいろいろとありがとう。お蔭様ですっかり憑き物は落ちたんじゃないかな? あれから三郎にもまったく会わなくなったし」
「そのことでちょっとあんたに話があるんだけど・・・少し時間取れる?」
「え? うん。あんまり長くならない程度ならね」

 由利は念を押した。

「じゃさ、こんなふうにオバサンみたいに通りで立ち話っていうのもなんだし、ちょっと歩いて話さね?」

 一見冗談めかしている常磐井の顔の裏には何となく深刻そうな気配も感じられた。由利はこの話は意外と時間がかかりそうだと判断した。

「ん。じゃちょっと待ってね。おじいちゃんに電話するから。とりあえずあたしが今出町柳にいるって言っておかないと」

 由利は常磐井から少し離れて、家の黒電話に電話した。

「あ、おじいちゃん。うん。今ね、京阪に乗って出町柳に着いたところ。そうそう。すぐ帰るつもりではいるんだけど、ちょっと友達に会っちゃって、誰? ああ、この間、合宿に誘ってくれた子だけど。知ってるよね? クラスメイトの常磐井悠季君。お礼もまだ言ってなかったんで。うん。うん。あんまり遅くなるようだったらまた連絡するね」

 祖父と電話している間、常磐井は近くにあった自販機でお茶を二本かったらしく綾鷹を由利に手渡した。

「はい、これ」
「えっ? いいの? 待って待って。お金は払うから」

 由利がガサゴソと財布を取り出そうとすると、常磐井はそれを手で押しとどめた。

「いいよ、いいよ。こんなもんぐらい。それよかさ、さっきみたいに五百ミリリットルの水を急に摂取するのって、案外身体に負担掛けるかんな。これを歩きながらチビチビ飲んでおきなよ」
「あ、ありがとう!」

 常磐井のさりげない優しさが嬉しかった。歩きながら常磐井が由利に訊いた。

「ね、小野ってさ、いつもそうやってしょっちゅう連絡してんの、家の人に?」
「だっておじいちゃんが心配するもの」
「ふうん。女の子って大変なんだな」
「まぁ、最近は怖い事件が多いじゃない? うちはあたしとおじいちゃんのふたり暮らしだしさ。こんなふうにあたしが外に出れば、おじいちゃんが家にひとりで待っているでしょ、遅くなれば何かあったのかとずっと気を揉ませることになるじゃない? それって八十近くの老人には結構酷だと思うんだよね。だからやっぱりお互い、それなりに気遣いしないとね」
「ふうん。そんなもんなんかな」
「そりゃあ、そんなでっかい身体でおまけに武術の達人の常磐井君だったら、襲われるってこととはまったく無縁でしょうけど」
「ハハ。まあな」

 すぐそばの鴨川を見ると燃えるような日を浴びて水面が目が痛くなるほど鋭い光を放っていた。身体に不快な汗がまとわりついてくる。世界がじわっと湿ったオレンジ色の空気に包まれているようだった。今、このタイミングで家のある方向、すなわち西日をまともに受けて帰るのはためらわれた。

「ねぇ、常磐井君、京都の夏っていっつもこんなふうなの? まるで蒸し風呂の中にいるみたい」
「まぁ、そうだよな。そこは否定できないね」
「はぁ~あっつい! かといってお店に入るとそれはそれで凍えるほど寒いんだよね。赤道直下から北極へ急に行ったみたいで。。じゃあさ、せっかくここまで来たんだし、やっぱり下鴨神社に行こうよ。緑に包まれているからさ、ここよか少しは涼しそうじゃない?」

 由利は常磐井にも自分のお気に入りの場所へ行くことを提案した。

「ん。じゃそうするか」

 だが、夕方の下鴨神社の参道は、普段よりもなお一層ひっそりと静まり返って、より闇が濃いように感じた。林冠を通して地表に届く透明な木漏れ日も今は黄色く濁っていた。

「ねぇ、何だかいつもの清々しい雰囲気がなくなってない? どことなく不気味っていうか・・・?」
「そりゃ、神社に参拝するのは清澄なご神気が満ちている午前中って、昔から相場は決まっているんじゃね? 夜の神社は魔の領域と化すんだよ。しかも今は昼と夜の分かれ目、『たそがれどき』、『逢魔がどき』だしな。何かが出て来てもおかしかない時刻ではあるわなぁ」

 常磐井は由利が怖がっているのをどこか面白がっていた。

「何よ! 知っているならどうして、反対してくれなかったのよ」
「へぇ、お姫さまの『敢えて』の選択かと、オレは気を利かせたつもりだったんだけどな」
「何それ! 京男ってサイアクね、しんねりむっつりと意地悪でさ!」
「へへぇ、そりゃ、悪うござんした」
「悪いわよ!」

 しばらくお互いに不機嫌なのを隠そうともせずに黙り込んで歩いていたが、そのうち常磐井が半歩下がって由利をじろじろと観察しているのに気が付いた。

「あんた、今日はえらくめかしこんでんじゃね?」
「あら、ファッションとはまるきり縁のなさそうな常磐井君でも、そんなことわかるの? うん。今日はね、うんとオシャレして北浜でおデートしてたの」

 由利は少しあてつけがましく言った。

「ええっ、おデートぉ?」

 とたんに常磐井の顔色が変わった。

「由利ちゃんが他の男とおデート? 由利ちゃんがオレ以外の誰とそんなことするの? えっ、誰とよ?」

 相手がいきなり『由利ちゃん』となれなれしく呼び、尋問口調になったのが由利の癇に障った。

「何でそんな個人的なこと、常磐井君にいっちいち報告する必要があるの? あたしたち、タダのクラスメイトじゃなかったっけ?」

 由利は牽制する意味でそう言った。

「あれぇ? 由利ちゃん。オレって由利ちゃんのカレシじゃなかったのぉ?」
「あら、いつからそうことになってたの? 全然気が付かなかったわ。それにあたしのこと、『由利ちゃん』なんて気安く呼ばないでよ!」

 由利は媚びるような態度の常磐井を突っぱねた。

「ねぇ、今、誰か付き合っているヤツっているの? 由利ちゃん、それはねぇわ。頼む、教えてくれよぉ」

 どこか甘えてすねた口調とは裏腹に、常磐井の表情には激しい憤りが感じられた。自分の土地を不当に侵された領主のような。身体の大きな常磐井がこんなふうにいつもより間合いを狭めてくると、由利は思わず恐怖を感じた。

「あ、あたしが誰と付き合っていたって、常磐井君には関係ないでしょ?」

 由利はそれでも気丈に言い返した。だがいつもならどんなときでもヘラヘラと笑って斜に構えている常磐井の面ざしは、いつになく真剣だった。


「そいつが好きなのか?」

 常盤井の瞳は、青い炎が燃え盛っている。

「好きな人っていうか、別にそんなんじゃないし」
「じゃあ、誰なんだよ? オレの知ってるヤツ?」

 常磐井がじりじりと由利に迫ってくる。由利は思わず後ずさった。真後ろには大きな杉の木があった。

「茶道部の部長の小山さんよ。ふたりで北浜の東洋陶磁美術館へ行って、国宝って言われるお茶碗を見てきただけよ!」
「そうか・・・。小山って三年の? あいつ、男の恰好しているけど、たしか女だよな? へへっ、あいつってLGBTなの?」
「何よ、常磐井君ってそういう失礼なことしか言えないわけ? 今どきそんなこというと差別主義者になるんだからね! 小山さんはステキな人よ。センスもいいし、会話も面白いし、感性も豊かだし。誰かさんと違ってキチンと女の子をエスコートしてくれるし。そういう言い方はないんじゃないの?」
「ああ、別に相手が小山なら、あんたが何をしてようとオレは一向に構わないよ。そんなの、結局おままごとなんだし。所詮小山は女なんだから。あいつに一体何ができる? 男のオレに適うはずもねぇし」

 すると常磐井は有無を言わさないほどの強い力でゆっくりと由利の両肩を持って、傍にある太い木の幹に身体を押し付け、大きな腕を拡げて由利の全身を抱きしめた。

「由利ちゃん・・・」
「と、常磐井君! 放して!」

 力ではまったく及ばない由利は、叫ぶしかなかった。
 だがそんな懇願をまったく無視して、由利の顔に常磐井は自分の頭を近づけてきた。

 ーえっ? もしかして、これってキス?

 そう思ったのも束の間で次の瞬間には由利はどういうわけか目を閉じて、そのまま相手に身体ごとすべてを預けてしまっていた。

nice!(3)  コメント(2) 

境界の旅人 25 [境界の旅人]

第六章 告白



 気が付けばふたりが美術館を辞したのは、天目茶碗を見てからたっぷり一時間以上は経っていた。その間ずっと由利と小山はこの茶碗を見続けていたことになる。
 ふたりはしばらく土佐堀川の岸辺をぶらぶらと散歩した。

「ボクはね、何か気持ちが落ち着かなくなるとき、無性にこの茶碗を見たくなるんだ。あの茶碗には南宋時代の『士大夫』の心意気が詰まっているように思える」
「それってどういうことですか? たしか士大夫って宋時代以降の科挙官僚と地主と文人の三者を兼ね合わせた人のことを言うんじゃなかったでしたっけ? 要するにイギリスで言えば、ジェントリ階級の人かと?」
「あはは、そうだね。ジェントリとは言い得て妙だよね。士大夫は特権階級である貴族とは自ら一線を引いた存在でね。何者でもない人間が厳しい科挙を潜り抜けて、実力のみで権力をつかんだんだから。ボクはね、彼らの気骨ある精神にすごく惹かれるんだ。特に北宋の士大夫である『蘇軾(そしょく)』がボクのお気に入りでね。彼は北宋時代最高の芸術家と呼ばれ、詩・書の達人でもあるんだよ」
「そしょく? ですか」

 由利は西洋史には抜群に強くても、東洋史のことについてはあんまり知らなかった。

「ああ、彼って蘇東坡(そうとうば)とも言われているんだけど、ほら、小野さん、『トンポーロー』って知ってる?」
「ああ、あの豚の角煮のことですね?」
「そうそう。あれって、『東坡肉』って書いて、『トンポーロー』って読ませるんだ。この料理の発案者は、他ならぬこの蘇軾なんだ」
「えーっ! そうだったんですか! お料理の名前の由来まではまったく知りませんでした」
「彼の生きた時代、すなわち十一世紀の中国って、なぜか豚肉を食べる習慣が途絶えた時代でもあったんだよ」
「ホントに? 中国料理っていったら豚肉って、現代人は連想するのに」
「うん、だけどまぁ、宋の時代は羊の肉を食べるのが専らの習慣になっていたらしくてね。蘇軾は天下に並ぶものがいないほどの大秀才で、各地の知事を歴任し、文部大臣にまで出世した人なんだけど、かならずしも時の趨勢は彼の味方ではなくて、結構左遷とか島流しとか悲惨な目に遭っているんだよね」
「確かに優秀な人って時代を先取りするから、世間の人の理解を得るのは難しいって言いますよね」
「うん。彼は左遷された先の土地の人々が食べるものがなくて飢えで苦しんでいるとき、豚肉を食べる習慣がないことに気が付き、自ら野生の豚、すなわち猪を狩って捌き、この料理を作って広めたっていうんだ。そこで『食猪肉詩(豚肉の詩)』っていうのを作ってたりするんだよ」
「豚肉の詩? ふふっ、どんな内容なんですか?」
「豚肉はこんなにおいしいのに、どういうわけかめっちゃ安い。金持ちは見向きもしないし、貧乏人は食い方を知らない。少量の水でじっくりと火を通してごらん。びっくりするほど旨いぜ。オレは毎日、毎日喰ってるぜ! みんなも豚肉を食べようぜって、そんな感じ」
「うふふ。おかしい!」
「そう。彼は諧謔趣味の強い人で、自分のどんな過酷な運命に遭ってもこんなふうにすっとぼけた詩を作って楽観的に笑い飛ばすような、そんな強靭な精神力を持つ人だったんだ。晩年なんかは、海南島に息子ともども流されたりしたんだけど、紙はなくても字は書けるって、浜辺の砂に棒きれで字を書いて、息子に詩作の勉強をさせたりもしているんだ」
「不撓不屈 の魂ですね」
「そう、そういう蘇軾に憧れて、ボクもできるなら彼のように強い人でありたいと思ったんだ」

 由利は小山のセリフに不穏なものを感じて眉をひそめた。

「小山さんは十分に強いじゃないですか。それに蘇軾のように、悲惨な運命にあるわけでもないでしょう?」

  由利がそういうと、 小山は少し立ち止まって沈黙していた。

「実はね、ぼくが女子トイレで小野さんと鉢合わせしたとき、ボクはいつになく饒舌になって自分のことを弁護した。だけどそこにはかなり嘘も混じっていた・・・」
「えっ?」
「小野さん、ボクはあのときキミに偉そうに啖呵を切ったでしょ? 周囲から誤解を招きたくないからこんなふうに男の恰好をしているだけだって。何の他意もないって」
「はい、小山さんはあのとき、たしかにそう言われました」
「ボクはこう見えて、実は女でしょ? そしたらどんな格好をしていても男が好きになるのがノーマルだよね」
「ええ・・・そうですね」








小山は由利に衝撃的な告白をします。 それを受けて由利はどうするんでしょう?  ハラハラドキドキの回ですよ~。 続きはこちらで!!

https://note.mu/sadafusa_neo/n/n30c2f2d61b78


nice!(2)  コメント(0) 

境界の旅人 24 [境界の旅人]

第六章 告白



 由利は小山と日曜日の十一時に始発である出町柳の改札で、待ち合わせをすることにした。 
普段はほとんど身なりには無頓着な由利は、いつになくおしゃれをしてこの日に備えた。
 日ごろの練習時のお茶の道具の取合せでさえ神経質なほどうるさい小山のことだ、今日も絶対に完璧に決めて来るに違いない。おそらく小山の頭の中には、『センスがない=頭の回転がよろしくない』という図式が成り立っているはずだ。由利は小山に軽蔑されたくなかった。
 どんなコーディネートなら、小山とマッチできるか。それにはまず小山がどんな格好をしているかを予想しなければならない。
 小山は芸術家タイプなので、あまりトラディショナルすぎる恰好はしないと思う。おそらくコンサヴァ路線かもしれないが、それを程よく着崩したものではないかと考えられた。
 由利はこの前上京したときに、母親の玲子にねだって買ってもらった『コテラック』の白地のプリント・ワンピース、その上にワンピースに合わせて買った薄地のニットのピンクのカーディガンを着ていくことにした。コテラックは遊び心があるデザインとフランスらしい中間色のプリントのバランスが絶妙で、前々から着てみたかったブランドだった。日頃はポール・スチュアート、ブルックス・ブラザーズ、ジョゼフあたりの手堅いスーツを着ている玲子は「そんなものは中学生の分際では高級すぎる」とこれまで決して買おうとしなかった。しかし娘に四か月も分かれて独り暮らしを余儀なくされた玲子の財布のひもは、案外と緩く「仕方ないわねぇ」と苦笑しながらも買ってくれた。そのついでにHP(アシュペ)フランスに寄ってスザンナ・ハンターのバッグもまんまとせしめた。
 普通の高校生なら大人っぽすぎて、てんで似合わない服も、手足が長く上背のある由利は難なく着こなした。

 こうやって準備万端にして改札口で待っていると、小山もほどなくして現れた。
 思った通り今日はやはり私服だった。
 紺色の七分袖の麻のテーラードジャケットに白いスキニーパンツ、そしてインナーはV字衿のボーダーカットソー。そして素足にキャンパスシューズ。手には差し色として目にも鮮やかなトルコ・ブルーのオロビアンコのウェストバックを軽く肩にかけていた。全体的に白と紺ですっきりとまとめて、清潔感があるコーディネートだった。

「やあ、小野さん。待った?」

 小山は明るく声を掛けて来た。

「いえ、あたしも今来たばかりです」
「そう? じゃあ行こうか」

 小山は何気なく由利の装いに一瞥をくれると、満足げに微笑んだ。

「小野さん、今日はおしゃれして来たんだね」

 由利は小山にほめられて心の中でガッツポーズをした。

 

 約小一時間で電車は北浜へ到着した。時計を見るともうすぐ正午になる。

「もうすぐお昼だね。先にお昼食べてからにしようか?」

 小山が提案した。

「小野さんは可愛い感じのお店が好き? それとも大人っぽいのがいいのかな?」
「えっ? これからお昼を食べに行くお店のことですか?」
「うん。ボクの頭の中には二三の案があるんだけど、どれが小野さんの好みかなって思って」

―まるで本物のデートみたいー

 いや、たとえ本当の男子とデートしたとしても精神的に幼過ぎて、こんなふうにスマートには行かないだろう。

「あ、あたしが選んでいいんですか?」
「うん。お好きなティストでどうぞ」
「それじゃあ、可愛いコースで!」
「OK。それじゃあ、行こうか」

 小山が案内してくれたのは、北浜駅から歩いてすぐのところにある「北浜レトロ」という店だった。赤レンガ造りの古いビルを改造してティー・ルームにしたのだが、全体にブリティッシュ・ティストで統一されており、小山が言う通りどんな女の子でもキュンとするような可愛さだ。

 壁に設けられた羽目板には目に心地よいペパーミントグリーンに塗られており、一階がテイク・アウト用のケーキとこの店の自慢のひとつであるオリジナル・ブレンド・ティー、そしてお茶のときに使用するティー・スプーン、ティー・コゼー、トレイなどの小物が販売されていた。まるで女の子の夢やあこがれがぎゅっと凝縮してこの店に詰まっているかのようだ。

「うわっ、カワイイ!」

 由利は思わず、声を上げた。それを見て小山は口角を上げた。

「いつもはわびさびのティストの和のお茶ばっかり飲んでいるから、たまにはこんなふうに華やかな紅茶の専門店もいいかなと思ってね。そら、喫茶室は二階だよ」

 二階に昇っていくと、お昼どきとあって、そろそろ満席になりそうな気配だった。

 クラシックな白いエプロンを掛けたウェイトレスに案内された。

「何人さまですか?」
「ふたりです」

 小山がよく通るハスキーな声で答えた。その途端、店内で自分たちのおしゃべりに打ち興じていた女の子たちの視線が一斉に小山と由利に集まり一瞬の沈黙のあと、ほぅっとため息をつくのがあちこちで聞こえた。ファッション誌から飛び出したかのようなカップルがデートをしていると、そこにいる誰しもが思っただろう。
 喫茶室にはどのテーブルにもバラの花柄の臙脂のクロスがかかり、椅子も黒いニスが塗られて、いかにも英国製であると見て取れる。まるで十九世紀のヴィクトリア朝の時代にタイムスリップしたかのようだ。
 川沿いの窓際の席に案内されると、そこから土佐堀川の大きな流れが見えた。

「うわ、この建物、すごく雰囲気があってステキですね」
「そうだねぇ、この建物は二十世紀の初頭に株の仲買業者の事務所として建てられたらしいけど、いろいろと変遷があって、今から二十五年ほど前に空きビルになっていたところを今のオーナーが紅茶専門店として作り直したってことだよ。まぁだけど、もともといい建物なんだろうね。国の登録有形文化財に指定されているってことだし」
「へぇ、そうなんですね・・・。小山先輩、その、登録有形文化財に指定される条件って、何なんですか?」
「さあね、選定基準ってどうなんだろうね。ボクもそういう方面には明るくないんではっきりしたことは言えないけど、昔は趣があるいい建物って言うだけでは、文化的価値があるとはみなされなかったらしい。だから壊すのには惜しいと思われる建物も、結構容赦なく壊されたって話だけどね。このビルみたいに登録有形文化財として残ったものは、おそらくラッキーだったんだろうね」

 由利は瞬間的に家の近くの廃屋に近い変電所を思い浮かべた。

「うちの近くにボロボロの洋館があって、昔をよく知っている人に聞くと、どうもそれは変電所だったらしいっていうんですよ」
「ふうん、そうなんだね。それだったらその建物も産業遺産として登録されるべきだろうにね。蹴上の発電所もたしか産業遺産か何かに指定されていたんじゃなかったのかな」

 しかしあの変電所は歴とした産業遺産のはずなのに、何の保護もされずに打ち捨てられたままで朽ち果てていくだけだ。だが由利は感傷に浸るのをやめて、今は小山とのデートだけに集中した。

「ねぇ、先輩、あたし北浜って初めて来ましたけど、大阪でもこんなにクラシックな場所ってあるんですね」
「そうだね。ここは明治の洋風建築が立ち並んでいる一画だからね。東京の人たちなんかは、大阪っていうとすぐに道頓堀あたりを連想するみたいだけど、それは間違った先入観だよ。大阪だって東京や京都に匹敵するような垢抜けた場所はたくさんあるよ。ま、ボク的にはこの北浜界隈は日本の中で一番洗練された界隈だと思っているんだ。東京の日本橋も、昔はこんな感じだったのかもしれないけど、今は頭の上を高速道路の高架があるだろう?」
「それはそうですよね。あそこはこんなふうに空が広々としていませんもん」

 由利も小山の言うことに同意した。

「小山さん、ここってちょっとパリっぽくないですか? あ、中州にバラ園がありますね」
「ハハハ。ああ、あそこは中之島公園のバラ園だよ」
「五月ごろはバラが咲いてきれいでしょうねぇ。あたし、実は一度もパリに行ったことが無いけど、シテ島やサン・ルイ島ってセーヌ川の中州でしょう? あれにちょっと似ているような気がする」
「あはは、そう言われればそうかな。中州にある街って意味じゃ同じだものね」

 この店は紅茶の専門店だけあって、数えきれぬほどの紅茶の種類があった。紅茶だけが載っている専用のメニューを開くと、オレンジやザクロ、シナモンやクローブなどのフルーツや香辛料で味付けされたオリジナル・ブレンドがずらりと並んでいた。またその名前もいちいち「エリザベス・ガーデン」「ビクトリアン・ウェディング」「天使の歌声」など乙女心をくすぐるようなネーミングで、由利などは選ぶのにさんざ迷ってやっと「プリンセス・ローズ」というお茶に決めた。一方の小山はろくにメニューも見ずに「ああ、ミルクティが飲みたいから、アッサムで」とウェイトレスに告げた。
 しばらくして注文していたサンドイッチとお茶が銀のお盆に入れて運ばれてきた。由利はツナと野菜。小山はいかにもイギリスらしいティストのサーモンとクリームチーズのサンドイッチ。どちらもウェッジウッドのお皿に盛りつけられている。トマトの赤とレタスの緑のコントラストが食欲をそそる。

「おいしい!」

 由利は気持ちがよいほどパクパクと平らげていく。

「小野さんは苦労してきたわりに、生きる喜びとでも言えばいいかな、そういうのを率直に表現するから、一緒にいるボクも何だか幸せな気分になるよ。それってすごく大きな魅力だね」

 小山はテーブルに頬杖を突きながら、目を細めて由利を見ていた。

「え、そ、そうですか?」

 由利はドギマギしながら言った。

「うん。きっとお母さんの愛情を一身に浴びて育ったんじゃないかな」

 小山は玲子について、これまで由利が思っても見なかったことを言った。

 

 昼食を食べた後は、本来の目的である大阪市立東洋陶磁美術館へと向かった。

「ねぇ、先輩。あたし、うっかりして東洋陶磁美術館について、あんまり下調べをしてなかったんですけど、一体どんな美術館なんですか」
「ああ、この美術館は結構特殊でね。昔、安宅英一って実業家が自分の会社である安宅産業に東洋陶磁を収集させていたんだ。それを『安宅コレクション』って言うんだけど、それがもう超弩級の一級品ばっかりでね。その数何と千点あまり。その中には実際に二点の国宝と十三点の重要文化財があるから、聞いただけでもどれだけすごいかがわかるだろう?」
「ふうん、安宅コレクションですか・・・?」
「うん。まぁ、残念なことに安宅産業が破たんして、この膨大なコレクションも手放さなきゃならない羽目に陥ったんだ。だけど散逸することを恐れてなのか、住友グループは安宅コレクションを大阪市に一括寄贈することにしたんだね。こういう美術品って、ただそこらへんに仕舞っておくだけじゃ、本当の意味できちんと保管したことにならないんだ。芸術品の保持者っていうのは、単にそれを所有するだけではなく、次世代にも伝える義務があるんでね。常にコンディションをベストにしておかなきゃならない。それだったらただ保管するだけじゃなくて、いっそのこと美術館を作って、あまねく世間の人に門戸を開いてこの素晴らしい芸術品を見てもらった方がいいだろう?」

 由利はぽかんとして、小山が滔々と熱く語るのを聞いていた。小山はふと我に返って由利に言った。

「あ、ゴメン、つい話し込んじゃって。これぐらいにしとくよ。実際に大事なのは、自分の目できちんとものを見ることだからね」



 由利は小山に連れられて美術館の二階にある常設展示の中の中国陶磁室のエリアへと入っていった。
 中国エリアは三つの展示室に分けられており、一番手前の部屋が後漢から宋まで。真ん中は宋時代のみ。そして三番目は明から清にわたる陶磁が陳列されてある。

「小野さんはどんなのが好き?」

 後漢時代からひとつひとつ丹念に見ている由利に小山は尋ねた。

「そうですねぇ、明や清の時代のようにカラフルなものも技巧的には優れているとは思うんですけど、あたし、どっちかというとコバルトで染められた絵付けのものとか、白磁や青磁で細工されたものが好きかなぁ。フォルムに緊張感があるっていうのかしら。単にデコラティブだと言うだけでなく、精神性の高さみたいなものも感じるんです」

 それを聞くと、小山はわが意を得たりと言わんばかりに、にっこり笑った。

「さすがだね。やっぱり小野さんは審美眼があるんだね。たしかに明や清のものは、技巧的には非常に凝ったものが多い。でもこんなふうに華やかな絵付けっていうのは、漢民族本来の感性ではなく、やっぱり異民族のものなんだ」
「なるほど。清も征服王朝ですものね」
「うん。ボクは何と言っても陶磁器は宋の時代のものに極まると思っているよ」
「そうですね。そうかもしれないです」

一緒に歩いていると、由利はひとつの作品の前で足を止めた。

「ほら、小山さん。この南宋時代の『青磁鳳凰耳花生』って見てくださいよ。無駄のないフォルムなのに鳳凰をモチーフにされた持ち手だけが斬新にデフォルメされた意匠で。今見ても随分とモダンな感じがします」
「そうだね。これ重要文化財だよ」
「あ、ホントだ」
「小野さん、こっちに来てごらん。ボクがこの世の中で一番好きな陶磁器を見せてあげる」

 小山が少し興奮したように、由利をその部屋のある一画へといざなった。

「ほら、これだよ」

 それは一見すれば本当に黒くて小さな茶碗だった。だがよくよく見れば、黒い水の上に油を垂らしたように銀の雫が一面に細かく散っている。

「あっ・・・」

 由利は引き込まれるように茶碗の中をのぞいた。

「あ、底が青い・・・。小山さん、まるで夜空のようです! 天の川がぎゅっと凝縮されて、このお茶碗の中に閉じ込められたみたい」
「これをキミに見せたかったんだ・・・」

 由利はしばらくことばもなく、ただじっと小山と一緒にその茶碗を眺めていた。

「このお茶碗、何ていうんですか?」
「油滴天目茶碗っていうんだ。中国じゃ建盞(けんさん)って呼ばれているようだけど。国宝だよ」
「国宝・・・? そうなんですね。どうしたらこんなに美しいものが創れるんでしょうか?」
「茶碗にかけられた黒い釉薬の中に入っている鉄の成分が何かの拍子でこんなふうに油が散ったように浮かび上がるらしい」
「じゃあ、全くの偶然?」
「そう。もともと黒い茶碗を焼いていたはずなのに、ときどき何万分、いや何十万分の一の確率でこんな奇跡が起こるんだ。しかもこれは奇跡の中の奇跡。まさしく神が作ったものとしか思えない。他にも曜変天目とか灰被天目(はいかつぎてんもく)とかいろいろな種類があるにはあるんだけど、ボクはこの油滴天目が一番好きなんだ」
「このお茶碗の金色の縁がまたアクセントになっていていいですね」
「ああ、これって金覆輪(きんぷくりん)って言って、元来は縁が欠けないように補強するものなんだけどこのお茶碗ほど、この金覆輪が似合うものって他にはないと思う」

 うっとりと茶碗に見惚れたまま、小山は言った。

「油滴天目茶碗ってたしかに他にもあるけど、ひとつひとつの雫がこれまどまで細かく均等に散っているものってないんだ。今じゃこんな茶碗は、本家の中国ですら残っていない。おそらくこれは鎌倉時代に海を渡って伝えられたんだろうね。そして大事に大事にされて今日まで残っているんだ。見ているとこの茶碗に対するそんな歴代の所有者の愛情も感じ取れるような気がするよ」







読者のみなさまへ

この小説はフィクションですが、京都案内という意味を兼ねまして、一般の方々がご利用できるお店や場所・地名などは一部実名で書かせていただいております。一方、由利や美月の通う「桃園高校」および、宗教団体等はすべて架空です。そしてこの作品に出てくる宗教的概念もすべてフィクションであることを予めご了承ください。

※    ※    ※

本来なら魔界的京都観光が主なこの作品ですが、今回、京都から出て、私が日本で一番洗練されていると思っているロマンティックな都会、北浜を紹介させていただきました。並木が続く大きな川が流れていて、その周辺にはバラ園や、美術館、フェスティバルホール、そしてレトロな建物が点在しています。由利と小山みたいなおしゃれなカップルだったら、やっぱり北浜が似合うと思ったんですね。

由利と小山がデートに使った、英国式ティー・ルーム、北浜レトロは実在します。とてもチーズケーキがおいしい店です。北浜にはほかにも五感など、関西らしいおおらかさのある、本当にいろんなおしゃれなお店がありますが、ここはその一つです。北浜に行ったら、ぜひ訪ねて見てください。

そして、大阪市立東洋陶磁美術館。ここはお茶碗好きにはたまらない美術館でしょう。普段は東洋陶磁の常設だけですが、企画展では、ヘレンドの特集をしたり、オーストリアの女流陶芸家、ルーシー・リー展など開催されています。


nice!(2)  コメント(5) 

境界の旅人 23 [境界の旅人]

第六章 告白



 由利は一生懸命電子辞書とグーグル翻訳を駆使しながら、フランス国立研究所に宛てて、英文の手紙を書いた。
 本当は手書きのほうが、より親密さが伝わって好感度が増すのかもしれない。だがやはりここは何よりも読みやすさを優先に考えると、英文はワープロ書きにして最後の署名だけを自筆にするのが最良だという結論に至った。

 その翌日、由利は小山部長へ謝りに音楽室へと向かった。階段の途中からピアノの音が響いて来る。
 聞き覚えのある曲だ。

「ショパンの革命のエチュード?」

 虹色に輝く真珠を思わせる、粒のそろった柔らかな音色の連なり。
 小山がこんなピアノを弾くとは知らなった。由利は音楽室のドアの傍に立って、じっと耳を澄ませていた。
 小山は弾き終わるとドアの陰に潜む気配を感じ取り、誰何するために椅子から立ち上がった。

「ああ、小野さん。来てくれたんだね…」
「部長……、あたし……、いろいろと不躾なことを言っちゃって…、その、申し訳ありませんでした」

 由利は小山に向かって深々と頭を下げた。

「いや、いいんだよ。ボクこそ悪かったね。最初からきちんと説明すべきだったんだ」

 小山は由利の目が濡れているのに気が付いた。

「小野さん……泣いていたの?」
「あ、あたしったら……」

 由利は自分の目の縁をごしごしと手でこすった。

「どうしたの? 何かイヤなことでもあった?」
「あ、そんなんじゃないんです! 小山さんのピアノがものすごく心に響いて。こんな革命って、初めて聞きました。普通はもっとぱぁっと派手に弾くじゃないですか。あ、あたし、門外漢なんで、頓珍漢なことを言ってるのかもしれないですけど、こう、苦悩に耐えに耐えているような、そんな感じがして」
「ハハ、そんなふうに聞いてくれてたなんて、光栄だね。先生からは奏法がオールド・ファッションだから、もっとクールに弾けって言われるんだけど、どうもね」
「オールド・ファッションだなんて。あたし、ピアノでこんなに感動したの、初めてです」
「へぇ、小野さんは感受性がものすごく鋭いんだね。初めてお茶室に来たときも、お茶碗の美しさに心奪われていたものね。たいていの人はよほどその曲を聴き込まない限り、ピアノのこんな微細なタッチなんて聞き分けられないもんだよ」
「そんなこと、これまで考えたこともなかったです……」
「そう? でも小野さんのこんな芸術的気質は、きっとご両親のどちらかから譲られた天賦のものだと思うけどね」

 由利はハッとしたように顔をあげ、またポロポロと涙をこぼした。

「どうしたの、小野さん。ボクはまた、キミを傷つけるようなこと、言っちゃったのかな?」
「い、いいえ。いいえ!」

 ふと由利は、小山なら自分の今の気持ちを理解してくれる気がした。

「す、すみません。小山先輩。と、唐突なことを言うようですが、じ、実はお願いがあるんです」

 緊張のあまり、ことばが震えた。

「落ち着いて、小野さん。ボクは何にも気分を害してないから。ゆっくりでいいから話してごらん」
「あ、あたし……今、自分の父親が誰なのかを捜しているんです。それで小山さんにお力を借りられたらと思って……」
「それ、どういうこと? 詳しく聞かせてもらっていいかな?」

 由利は母親の玲子とラディに関するこれまでの経緯を話した。小山は真剣な面持ちで、黙って最後まで聞いていた。

「ふぅん、なるほど。で、キミはボクにどうしてもらいたいの?」
「実は、美月……いえ、加藤さんにも相談したんです。そしたら彼女、部長は英語に堪能だから、これを見せて添削をしてもらうようにって、助言してくれて」

 眼鏡の奥にある小山の目が、キラリと光った。

「ふうん、その英語の手紙、今持ってる?」
「あ、はい」

 由利は、昨日自分が書いた手紙のファイルを渡した。小山はファイルからA4用紙の紙を取り出すと、しばらくそれにじっと目を注いでいた。

「うん、そうだね。よく書けていると思うよ。これでいいんじゃない? ……強いて言うなら、ここの助動詞のcan を過去形に換えると、よりポライトな表現になるかな?」

 小山は譜面台に紙を当てて、カチっとボールペンの芯を出すと、アカで訂正した。

「はい、これ」
「あ、ありがとうございます」
「うん。どういたしまして」

 小山がファイルに入れて唯に返そうとしたとき、はらりと床に何かが落ちた。それは芙蓉子からもらった玲子とラディの写真だった。 
 それを小山がかがんで拾った。

「これ、お父さんとお母さん?」
「ええ、母です。男性のほうはまだ、父と決まったわけじゃないけど」

 小山はまじまじと、写真を見つめていた。

「でも……小野さんはどっちかというと、お母さんよりも、この男性にそっくりにボクには思えるけど……?」
「えっ?」
「ほら、このおでこの感じとか、フェイスラインとか。あとは全体的な顔の配置っていうかな……。よく似ているよ」
「ホントに?」

 小山は写真と由利を、もう一度交互に見比べた。

「うん。たぶんこの人が本当のお父さんで間違いないんじゃないかな?」

「あ、はい」

「それとね、次に会うときまでに、その手紙とその写真のコピーを一部ずつ、ボクにくれない? ピアノの世界って案外狭いもので、仲間内で情報が常に飛び交っているもんなんだ。安請け合いはできないけど、今度厄介になるベルリンの先生は、世間では情報通で知られているんだ。だから小野さんの事情を話して、物事がタイミングよく運べば、ひょっとして何かわかるかもしれない。先生のオーソリティに訴えれば、こんな研究機関の事務局でも動いてくれるような気がするんだ」

 小山は由利が想像もつかない方法で、父親捜しに協力してくれることを申し出てくれた。

「ええっ、本当にいいんですか? 小山さん、ありがとうございます!」

 由利は小山の私心のない望外の親切が、心に染みた。

「え、じゃあ、すぐに書面と写真のコピーをお持ちしますね」
「小野さん。次の日曜、何か予定が入ってる?」

 唐突に小山が尋ねた。

「えっ? 次の日曜ですか? ちょっと待ってくださいね」

 由利はスマホのカレンダー・アプリを見て確認した。

「ああ、今のところは何にも予定は入っていません」
「そう。それじゃあ、もし小野さんさえよければ、その日はボクに付き合ってくれないかな? 一緒に北浜まで行ってほしいんだ」
「き、北浜ですか?」
「うん。北浜に大阪市立東洋陶磁美術館ってのがあるんだ。そこへボクと行かない?」
「う、うれしいです!」

 由利は素直に喜んだ。
nice!(3)  コメント(6) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。