境界の旅人 22 [境界の旅人]

第六章 告白



 由利は合宿の間はスマホを開かないことに決めていた。

祖父の辰造は、スマホはおろかガラケーですら使ったことがなく、未だに黒い固定電話一本切りでしのいでいた。

 だからもし緊急の用事があれば、一週間滞在する民宿のほうに連絡をくれるように、電話番号の控えを紙に書いて渡していた。母親の玲子にも合宿する建前の理由を話して、よほどのことがない限り連絡は控えてくれと頼んでいた。

 だいたいリアルな世界で交わるべき人がたくさんいる場面で、目の前にいる人たちとのやり取りをないがしろにしてまでSNSを優先してしまうのは本末転倒だと思うのだ。それに由利はこれ見よがしに自分の今の状況をいちいちSNSにさらすことも、どこかゆがんだ自己顕示欲が垣間見えているような気がして、好きではなかった。

 合宿から家に戻ると由利は落としてあった電源を入れて、スマホを再起動させた。
 美月からLINEのメッセージが届いていたので、まず真っ先に由利はそれを読んだ。

「由利、滝行頑張ってる? それともこれを読むのは滝行から帰って来たあとかな? 例の事件が起こって以来、茶道部のみんなが由利のことを心配しています。とくに部長の小山さんが『もともと自分が紛らわしい恰好をしたせいで、ナイーブな小野さんを混乱させたのは申し訳なかった』と悔やんでいました。とにかくいろいろ実際に会って話さなければならないことがいっぱいあります。合宿から帰って来たら、一度あたしにメッセしてね。」

 いかにも美月らしい、簡潔でいて、それでいて思いやりにあふれた文章だった。
 それから気になっていた、facebookを開いてみた。
 結局あれから、ラシッド・カドゥラという名前で、四十歳から五十歳までの男性という条件を満たしていれば、国籍がどうであろうとDMを送ることに決めたのだ。由利の探しているラシッド・カドゥラ氏は、玲子と同じように、留学生という可能性も捨てきれなかったからだ。
 これに該当する人間は十七名いた。DMには『今から十六年前にフランス国立研究所で研究員として働いているのであれば連絡がほしい』という文章を付けて一斉配信した。
 しかしそのほとんどどれもが由利を失望させるに足る内容だった。

「オウ、ユリ、ユー・アー・ヴェリィ・ビューティフル・ガール! ソー・キュート!」
 
「私は、フランス国立研究所の研究員ではないが、その側に住んでいた。これからも楽しい付き合いをしよう!」
 
「何だ、こりゃ? この人たち、あたしの書いた文章の主旨をちゃんと理解してる?」

 中には高校生の由利が読んでも、かなり怪しいと判るような英文で書かれたものもあって、読むのにかなり労力を要した。もし英語やフランス語が母語でない外国人だったとしても、曲がりなりにも天下のフランス国立研究所の研究員であれば、相当に高い知性の持ち主のはずだ。

 だから簡単な英語の単語のスペルが間違っていたり、三単現のSなど忘れるはずがない。要するにこれらすべてのラシッド・カドゥラ氏は、フランス国立研究所の研究員どころか、研究所にもフランスにも縁もなければゆかりもない人間ということになる。ただ彼らの目にはエキゾチックに映る由利のアイコンの写真に、性的な興味を掻き立てられて、送り返して来ただけに過ぎなかった。

 由利はこれには心底落胆した。いたたまれなくなって美月にLINE電話をした。すると美月はほどなく応答してくれた。

「あ、由利! 元気? 久しぶり! これでもう、十日ぐらい連絡とってなかったよ」

 いつものように電話に出た美月の声は、屈託がなく明るかった。その声を聞くと由利は、急に身体の奥から元気が湧き出て来るような気がした。

「うん。ごめんね。滝行ってやってみて初めて解ったんだけど、かなり危険を伴うものだったんだ。だから修行中は下界のことに気を取られて集中できないと怪我しそうな気がしたんで、ずっとスマホの電源を落としていたの」
「下界・・・? ふふ。そうなんだね。でも由利のことだから、おそらくそんなことだろうと思ってた」
「美月。メッセージ読んだよ。ありがとね。小山部長にも悪いことしちゃった」
「そうだねぇ、小山さん、ああ見えて繊細なところもあるから。由利があの日、泣いて帰ったって聞いたら、えらくショックを受けてた」
「そうなんだ。ああ、どうしよう? ね、美月、明日会えない? 時間あるかな?」
「いいけど? 相談?」
「うん。小山さんのことももちろんあるけど。他にもいろいろと困ったことが起こって・・・。どうしていいか分かんなくて途方にくれているとこ」
「いいよ、いいよ、この美月サンに任せなさいって。とりあえず今晩は、ひとりでヤキモキするのはナシにして。ね、いい?」

「うん、わかった。ありがとね、美月」



 そこで由利は美月と北大路ビブレの傍のスタバで翌日の十一時に待ち合わせすることになった。

 由利が店に入るとすでに美月は席に座っていて、季節のおすすめフラペチーノを飲んでいた。

「おはよ。由利も何か頼んできたら?」

 そこで由利はいろいろ迷ったあげく、豆乳アイスラテのグランデを選んだ。注文した豆乳ラテを選んで席に戻ると、美月はちょっとびっくりしたように言った。

「グランデ・サイズ? ちょっと大きすぎない?」
「うん。でもここで長居するにはちょうどいいサイズだと思うし」
「そっか。で、相談したいことって何?」

 美月は単刀直入に訊いてきた。

「ね、あたしが合宿へ行く前に、facebookで結構たくさんのラシッド・カドゥラさんにDM送ったじゃない?」
「うんうん。それで? 返事帰って来たの?」

 美月は突然目を輝かせた。

「それがね、全部バツみたい」
「ダメだったの?」

 輝いていた顔が途端にくもった。

「うん・・・。だって、その人たちには『フランス国立研究所に在籍していた研究員だった場合、連絡してください』って送ったのに、変な勘違いしていてさ。みんな援助交際か疑似恋愛かなんかだと思っているんだよね」
「何人返して来たの?」
「えっと、九人ぐらいかな」
「あとは?」
「返事がない」

 ふたりともしばらくうなだれて、無言でコーヒーをすすりながら考えていた。

「ねぇ、こうしたらいいんじゃない?」 

 ようやく美月が顔を上げて切り出した。

「ほら、facebookのDMっていう方法自体、お手軽すぎて相手にされないんだと思うんだよね。こんなんは読まれもせずに最初っから迷惑メールとみなされて、ゴミ箱直行なんだよ。やっぱりこれはきちんと書面にして、直接フランス国立研究所宛てに送るべきなんじゃないかな?」
「じゃ、どう書くの?」
「うんと。そうだな・・・。こういうのはどう? 『私は、十六年前に当研究所で研究員として在籍していた小野玲子の娘で、小野由利といいます。私は今、ある理由があって母と同時期に貴研究所に在籍していたラシッド・カドゥラ氏と連絡が取りたいのですが、もし貴研究所が現在のカドゥラ氏の住所をご存じであれば、カドゥラ氏に連絡を取っていただき、小野玲子の娘がカドゥラ氏からの連絡を望んでいるとお伝えして欲しいのです……』こんなのはどう?」
「うん・・・。でも、研究所に直接ラディの住所を教えてもらうことはできないのかな?」
「いや、それはできないと思うよ。個人情報だもん。見ず知らずの人間に、そうおいそれとは教えるはずないと思う。こんなふうに面倒でまだるっこしく見える方法しかないけど、それでも向こうからしたら、少なくともこっちの誠意は伝わるんじゃないかな・・・?」
「そうだね、やっぱり美月の言う通り、それでいいのかもしれない。あとはあたしの住所とメアドを書けばいい?」
「うん・・・。まぁ、これも一か八かだけど、少なくともfacebookよりも軽い扱いは受けないんじゃないかな? 事務局の人が親切な人だったら、調べてカドゥラさんに連絡を取ってくれる可能性はあると思う。ま、これもあんまり確実とは言いがたいけどね」
「そうだね、やるだけの価値はあるのかも」
「うん、そうだよ。何もやらないよりはマシだよ。もしダメだったらまた次の方法を一緒に考えようよ」

 美月はとかく暗い方向へ傾きがちな由利を励ました。

「ありがとう、美月。そうだね、まずはそれでやってみるよ。あとはね、今の茶道部っていうか、小山さんのこと。どうなってるのかきちんと教えてくれる?」
「うん。今んとこ茶道部はね、九月までお休みなんだ」
「ええっ? 今度、夏のお茶会あるんじゃなかったの?」
「うん。本来ならお盆は、浴衣を着てお茶会をするのが、毎年の恒例みたいなんだけど、小山部長がね『自分のせいで部員がひとり失意に駆られているのに、残された人間だけで楽しくお茶会を開いてお点前なんかできるはずがないって』って言ったんで、取りやめになったんだ」
「えっ、そうなの? あたしが合宿へ行っているうちにそんな深刻な事態になってたなんて。滝行へ行ったのは、ちゃんとした別な理由あるからだって部長は知ってるよね? あたし、ちゃんと小山さんに説明したはずだけど」
「うん。でもそれは単なる口実だと思ってるかもしれないね、小山さんは」
「あ、そんな…。あたし早く小山さんに会わなきゃ」
「うん。たしかに由利は、なるべく早く小山さんに会う必要があるね。誤解は早いとこ解かなきゃ。今は部はやってないけど、小山さんはたぶん毎日学校に来てるんじゃないかな?」
「どうして?」
「音楽室でピアノの練習しているって聞いたよ。小山さんは家にもグランドピアノがあるし、防音装置もあるらしくて、外に出る必要はないんだそうだけど、何ての、一種の気分転換なんだって」
「そうなんだ・・・。何かあたしの知らない間に、みんなにすごい迷惑を掛けちゃったんだね」

 しゅんとして由利が言った。

「そんな・・・あたしもみんなも由利に迷惑をかけられたなんて思っちゃいないよ。だけどさ、でもこんなことを言うと、由利が傷つくと思って今まで言うのを控えていたんだけどね。この際だからはっきり言っていいかな?」

 いつもの美月にしては、妙に歯切れの悪い尋ね方をした。

「え、何? 美月や部の他のみんなが思っていることを聞かせて。絶対に怒ったりしないし」
「うん・・・。小山さんのこと、たしかにあたしとか他の一年生は、由利がまったく気が付いていないって解ってた。そのことはあたしも他の子たちも由利に言おうとしたんだけど・・・」
「したんだけど・・・? 何?」
「うん。何てか由利は、いわゆるガールズ・トークっていうかさ、そういうのに水を向けても、鈍感っていうかさ、まったく乗ってこないんだよね。だけどあたしは女同士の秘密の共有っていうのも、それはそれで立派なコミュニケーション・スキルのひとつでもあると思っているんだよね。由利はもともと内向的だから、そんなちょっと悪意の入った根回しができないのはわかっていた。だけどそういうのをことさらに疎んじるのも、もしかしたら、由利の中にお母さんとの確執がトラウマになってるのかもって思っていたんだ・・・」

 美月は一度ことばを切って、相手の反応を確かめているようだった。

「うん…。ごめんね、美月。たしかにあたしは、そういうのにあんまりかかわらないようにしてたかもしれない…」

 由利はテーブルの一点に目を定めたまま、ぽそりとつぶやいた。

「ごめん。…たしかに毎日今度こそ言わなきゃって思っていたんだけど、結局タイミングを逃して、こんなことになってしまって。でもだれも由利を仲間外れにしようなんて思ってなかったんだ・・・。ホント、ごめん」
「そうなんだ・・・」

「でもね、あたし由利がさっきスタバに入って来たとき、これまでと何か雰囲気が違うなって気がしたんだ。少し大人になったっていうか。それにどことなくきれいになった気がした! それって精神的に成長した証なんじゃないの? おそらく滝行のお蔭とか?」

 美月がまた突然、思いがけないことを言い出した。

「何? それ? おだてても何にも出ないよ?」

「ううん。由利に今更お世辞を言ってどうするのよ? もしかしたら常磐井君と何かあったの?」

 探るように美月が訊いた。

「まさか。まぁ彼は合宿でも、相も変わらずオレさまでナルシストだったけど?」
「へぇ、なぁに、なぁに、それ?」

 由利の辛辣な口調に美月はふふと笑いながら質問した。

「道場の人達ってみんなめちゃくちゃ身体を鍛えていて、『北斗の拳』のケンシロウみたいにマッチョなんだよね。筋肉ムキムキでさぁ。びっくりする。それにさ常磐井君なんてさ、何を思ったのか上半身裸で濡れたままあたしに近づいてきて、『オレのこと見惚れた?』とかって訊いてくるの。もうバッカじゃないの? あんなゴツい身体で側をうろちょろされたら、どうしたって意識せざるを得ないじゃないの」
「あはは、カワイイじゃん? きっと由利にステキって褒めてもらいたかったんだよ。それで?」
「いやいや、ガン無視だよ」
「あたし思うんだけど、常磐井君、由利のこと、本当に好きなんじゃないかな?」
「えっ、どうして?」

 美月には話さなかったけれど、由利はそれでも滝行のあとで凍えている自分を案じて、常磐井がさりげなく温かいお茶を勧めてくれたことを思い出した。

「だって、常磐井君って由利を見つめるときの表情がね、いかにもって顔をしてるんだもん。見てるこっちのほうが切なくなってきちゃう」
「まさかぁ。そんなロマンティックな柄ですか? あの常磐井君が? 何かの間違いじゃないの?」

 冗談を言いながら由利は、兄の治季から教えられたことを思い出して、息苦しさを感じた。

「やっぱり男の子って、由利みたいに女子濃度が高くなくて、それでいて外見が大人っぽい子に憧れるんだね。なんとなく透明度が高くて、ミステリアスな感じがするもの」

 美月は心底羨ましそうに由利を見つめた。

「何言ってんの。あたしなんて中学のとき『デカ女』ってさんざバカにされてきたんだよ。こんなあたしに誰が・・・」
「ううん、それは違うよ、由利。もうみんなそろそろ大人になりかけている。これまでの由利はいわゆる『醜いアヒルの子』だったんだよ。だけど今は羽根も生え変わってきれいな白鳥に変わったんじゃないかな。あたしさっきも言ったでしょ? 由利はきれいになったって。ある意味うらやましいよ、そんな由利が」

 美月が真剣な調子で言うのを、由利は目を見張って聞いていた。

「たしかにね、入学したての頃は、由利はスタイルこそ抜群だったけど、こうクソ真面目で堅そうだなって言う印象は否めなかった。だけど今は違う。それだけはハッキリ分かるよ」
「そうかなぁ。それ、褒め過ぎじゃない? 自覚はまったくないけど・・・」
「そんなことないって。美月サンの言うことを信じなさいって」
「ありがと。そんなふうに美月に認められると、あたしも少しは自信が持てるような気がする」
「で、やっぱり滝に打たれるって危険なの?」

 美月は急に話題を変えた。

「うん。最初は夏に滝に打たれるなんて楽勝じゃん、涼しくてサイコーって思ってたんだけど、滝の落差が十二メートルあって、落ちるときの水圧が半端なくてね、ずっと鈍器に殴られ続けているような感じで痛いのなんのって・・・」
「それで修行自体の効果はあったの?」
「う~ん、どうかな? 滝行って近くのお寺の行者さんが付かないとやれないもんらしくて」
「やっぱり危険なんだね」
「で、帰り際にその行者さんにね、あたしは大きな白い蛇に憑かれているって言われたの」
「えーっ! マジで? それでどうすることになったの?」
「まぁまぁ、白い蛇は神聖だから、悪さはしないって言ってたけど。だけど念のため肌身離さず付けていなさいって、お札をくれたの」
「ひゃあ、そりゃ、『サスペリア』なんて見に行けないはずだよ」
「でしょ? でも大丈夫。帰って来てからは、超常現象には今のところ遭っていません」




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境界の旅人 21 [境界の旅人]

第五章 捜索



 すさまじい地獄のような聖滝からの合宿を終えて戻ると、京の街はアスファルトから陽炎が立つほど熱く、今度は灼熱地獄にいるような気がする。

「あ、暑い・・・」

 たったの一週間しか留守にしていないのに、妙に家が懐かしかった。

「おじいちゃん! ただいま帰りましたぁ」

 玄関で孫娘の声が聞こえると、 辰造は機を織る手を止めて、走り庭の方まで顔を出した。

「由利か、おかえり」

「おじいちゃん、ただいま」

由利は冷蔵庫から麦茶を出して、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干した。

「どうやった、合宿は?」

「うん、やっぱり体育会系っていうか、武道家たちの集まりだけあって、結構ハードだった」
「そうか。まぁ、ほんなら夕飯まで自分の部屋でほっこりしとき。晩御飯はわしが用意するから」

 由利は申し訳ないと思いながら、祖父のことばに甘えた。



 ずっと自分だけには難しい顔をしていた行者が、帰りがけにマイクロバスに乗ろうとしている由利に声を掛けた。

「ちょっと、小野さん」

 行者は遠くのほうから由利に手招きをして呼びかけた。

「あ、はい」

 由利は行者にいい印象を与えていないのだと感じていたので、呼び止められたのは意外だった。

「小野さんね、ちょっとこっちまで来てくれるか?」

 行者は由利に声をかけたあと、門下生の男子にこう命じた。

「あ、君ら、わしは小野さんに少し話があるから、出発するのを五分ほど遅らせてくれるか?」

 人目の付かないところまで行者は由利を連れて行くと、懐から懐紙に包まれた短冊のようなものを渡した。

「これは、わしが小野さんのために書いた護符や。これをこれから必ず肌身離さず身に着けておきなさい。わかったね?」
「あ、わざわざ私のために? ありがとうございます」

 驚きながらも由利は行者にお礼を言った。

「本来、行者というものは頼まれてもいないことを人に為すことはないんやが、少し気になってね。脅かすようで恐縮なんだが、小野さんはどうも因縁が絡み合った業の深い生まれのようや。何か気が付いていたかね?」
「えっ、それは・・・はい。気が付いていました。四月に京都に引っ越してきたのですが、それからいろいろと不思議な目に遭って・・・。今回、門外漢だったあたしがこの滝行へ参加した理由もそれです」
「ふむ・・・。それはおそらくあなたのみ魂さんがこの土地に御縁があったからやろうな。あなたは要するに呼ばれたんやな」
「呼ばれた?」
「そう。それにあなたの身体には、うろこが銀色に輝く大きい蛇が空中を泳ぎながら幾重にも巻き付いて見えるんや・・」
「へ・・・び、ですか?」

 それを聞いて由利はぶるっと身体を震わせた。

「蛇と一言で言ってもいろいろあってな。非常に霊格の高いものもいる。神様として祀っている神社もあるくらいだ。ましてや銀色に輝いているのだから、小野さんに憑いているものは決して悪いものではないとは思う。むしろ非常に守られているとも言えるのだが、どうもな、何か引っかかるんでな」

 由利は不安な気持ちで行者の話を聞いていた。

「しかし人生を恐れてばかりではあかんのや。これからは努めて、正しい行いをするように心がけなさい。結局今生において善行を施して徳を積むことだけが、過去世に犯した罪障を消すんでな。まぁ、そんなことを急に言われても、小野さんには信じられないかもしれないが・・・。また何か困ったことがあったら、遠慮なくまたわしのところに来なさい。力になれることがあったら協力するから」
「あ、ありがとうございます。そんなに気にかけていただいて」

 由利は蒲団の上に転がりながら、帰り間際の行者とのやりとりを思い出していた。

「まぁ、蛇まで憑りついているのが行者さんに見えたのなら、そりゃたまげるよねぇ・・・」

 しばらくするとまたスマホのバイブレーターが鳴った。常磐井からだった。

「由利ちゃん、お疲れ~。もしかしたら道場の行衣持ち帰ってない?」

 また常磐井は第二の人格のものいいで尋ねてきた。
 そう言われてみれば由利は行者に気を取られて、うっかりしほりに行衣を返すのを忘れていたかもしれない。カバンを見ると、濡れたままの行衣が水着と一緒にビニール袋に入っていた。それを確認すると、由利は常磐井に返信した。

「あ、ゴメン。持ち帰っちゃったみたい。家でもう一度洗って、干してから道場まで届けるんでいいかな?」
「あ、届けてくれるの? サンキュ。こっちに持って来てくれるのは助かります。ぼくが由利ちゃんちに採りに行ってもよかったんだけど(笑)。別に急ぐものじゃないじゃないから、時間のあるときでいいから。道場のほうはいつも三時に開くので、それ以前なら自宅のほうにお願いします(^^♪」



 由利はわざわざこのために誂えた帖紙に、これまた祖父に押し付けられた菓子折りを風呂敷に包んで、常磐井の家に行こうとしていた。
 由利が洗濯機で洗濯して干した行衣をそのまま畳んで風呂敷に包もうとしたら、祖父に見咎められた。

「由利、よそさんからお借りしたもんを、そういうふうにぞんざいに扱うもんやない。そういうのは、貸してくれたその人の顔を下駄で踏むように失礼なことなんやで」
「え、じゃあ、おじいちゃん。どうしたらいいの?」
「面倒やと思うやろうけど、もう一度、糊がけしてキチンとアイロンをかけるんや。それから新品の帖紙にきれいに畳んで入れて、感謝の気持ちを表すために菓子折りのひとつも付けにゃ」
「ええ? だってあたし、常磐井君にはちゃんと合宿費用も渡したし、それでいいんじゃないの?」

 東京育ちで今どきのドライな考え方に慣れた由利は反論した。

「せやけどな、由利。よう考えてみい。むこうさんは道場さんなんやろ? それやのに、何の関係もない由利に声を掛けてくれはったんやから、先方さんのご厚意に感謝せな。それがご縁を繋ぐってことなんや」
「ご縁・・・?」
「そやで。この世間で一番大事なんはご縁やで。わしがこの歳でこうやって機を織っておられるのも、ご縁があったればこそや」
「そんなものなのかねぇ。うん、解ったよ。ありがと。おじいちゃん」

 ここは素直に祖父の言いつけに従った。



「ここらへんだっけな」

 203号系統のバスを出町柳で下車すると、由利はグーグル・マップを片手に常磐井の家を確かめていた。彼の家と道場は鴨川を越えて下鴨神社の近くにあった。
 由利は初めて下鴨神社の参道を通ったときの感動を思い出した。その感激は今も薄れていない。

この神社の境内に茂る森は『糺(ただす)の森』と言われ、この土地に平安京を定めるより以前、山城の国といわれていた頃よりもはるかに昔から生えている原生林なのだという。じりじりと照り付ける太陽も、ここだけは天然の天蓋のように鬱蒼と茂る背の高い木々に遮断され心地よい風が吹き抜けていく。さらに参道に沿って流れる小川のせせらぎも清らかで、ここだけは常な清澄な空気で満たされている。

 せっかく下鴨神社の近くまできたので、多少遠回りでも由利は途中までこの参道を通り、途中からそこを抜けて、常磐井の家へと向かった。

「えっと、三時までは道場は開いてないってことだから、ご自宅のほうへ行けばいいのね。きっと常磐井君のお母さんが出て来られるんだろうなぁ。ああ、何だか緊張する」

 由利は玄関の前でもう一度みだしなみを整えて深呼吸をした。すると突然玄関の引き戸が開いて常磐井が出てきた。どうも出かけるところだったらしい。

「あ、常磐井君!」

 すると常磐井は目を大きく見張って、由利を見た。

「ああ、あなたはいつぞやの! 桃園高校で見かけたクール・ビューティ! どうしたんですか、こんなところにまで?」

 それは常磐井ではなく、どうも兄のほうらしかった。常磐井の兄は小走りで由利のほうへ駆けてきて、由利が持っている荷物をさっと持ってくれた。間近でよく見ればたしかに常磐井とはよく似ているけれど、多少顔のパーツのニュアンスが異なる。

「ああ、常盤井君のお兄さまですね。こんにちは」

 由利は少し気遅れしながら、相手に向かって頭を下げた。

「えっとこの間、合宿に参加させていただいたのですけど、行衣をお返しするのを忘れていて・・・。それをお返しにあがりに・・・」
「ああ、そうなの? じゃあえっと、きみの名前は?」
「あ、小野です。小野由利といいます」
「ふうん。由利さんね。ちょっと待っててくれる?」

 常磐井の兄はもう一度玄関に入って、奥に向かって声を掛けた。

「叔母さん! 叔母さん! 悠季のお客さんだよ!」

廊下の奥のほうで「はぁーい」という女の声がする。常磐井の兄がこの家の主婦にあたる人に向かって『叔母さん』と呼び掛けるのを、由利は一瞬奇異に感じた。
 しばらくして奥からこの家の主婦らしい人が応対に玄関まで出てきた。小柄できれいな人だったが、あまり常磐井に似ているとは思えない。

 由利はあわててあらかじめ練習しておいた口上を述べた。

「は、初めまして。あ、あたし、常磐井悠季君のクラスメイトで小野由利と申します。この間は合宿にお誘いいただきまして本当にありがとうございます。今日はお借りしていた行衣をお届けに上がりました」

 すると主婦とおぼしき人は由利が息子のクラスメイトだとわかるとにっこりと笑って、行衣を受け取った。

「まあまあ、ご丁寧に。恐れ入ります。悠季はね、今度は高校の弓道のほうの合宿とやらで、長野のほうへ行って留守にしていますねんよ。何やしょっちゅう出たり入ったりしてせわしない子ですねん」

 常磐井の屈託のない笑顔に出会えるのをちょっぴり期待していただけに、少し由利はがっかりした。

「そうなんですか…。それでは常磐井君がお帰りになったらよろしくお伝えください。それからこれ、家の者がこちらさまへお渡しするようにと預かってまいりました。どうぞお納めください」

 ぺこんと由利はお辞儀をすると、風呂敷をさっとほどいて菓子折りを玄関に置き、相手のほうに手を添えて渡した。由利は内心、このときほど茶道を習ってよかったと思ったことはなかった。

「まあまあ、お気遣いいただいて、却ってこちらが恐れ入ります」

 常磐井の母親は、由利のきちんとしたあいさつに好印象を持ったようだった。それをすぐ傍で見ていた常磐井の兄がこう言った。

「叔母さん、ぼく、ちょうど家に帰るところだったし、ついでにこのお嬢さんを車に乗せて送っていくよ。こんなに暑かったらバス停まで歩くのも大変だろうし」
「ああ、治(はる)ちゃん。ほんならおことばに甘えてもいいやろか。こんなに暑いさかいなぁ。そうしてくれると助かるわ。ほな、小野さんでしたっけ? お気をつけてお帰りやす。こないに暑いところをほんまにおおきに」

 常磐井の母親ははんなりときれいな京ことばを話した。そして、「治ちゃん」と呼んだ常磐井の兄にもう一度声を掛けた。

「治ちゃん、お父さん、お母さんにもわたしからよろしく言っていたと伝えてな」
「うん、わかったよ。じゃあね、叔母さん。叔父さんや悠季にもよろしく」

 玄関を出たところで常磐井の兄は、少し改まった調子で由利に訊ねた。

「小野さん、これから少し時間が取れそうですか?」
「え? 時間ですか? ええ、まあ」
「このすぐ近くにわらび餅がめちゃくちゃおいしいお店があるんだけど、そこでお茶しませんか?」
 
 常磐井の兄が連れて行ってくれたところは、『宝泉』という茶寮だった。 

 茶寮と称される建物は新しく建てたものではなく元は普通に人が済む住宅だったらしい。だが京都の真ん中に建てられたにしては、庭も充分すぎるほど広く、しかも凝った作りだったので、古い建物を壊すことなく茶寮用に作り直したようだった。

表通りに面しておらず、奥まった住宅街にぽつんとあるので京都人だけが知っている秘密の隠れ家っぽい風情だが、それでも最近は「ぐるなび」などが宣伝しているせいで結構たくさんのお客で賑わっていた。
 由利たちは庭に面した奥の座敷に通された。中に通されると全館が夏向けの葦戸(よしど)に取り換えられ、それがいかにも目に涼し気に映る。だが実際それだけでは暑さをしのげるものではないので、きちんと空調と取り付けられていた。

 常磐井の兄は弟のように茶目っ気がない分、静かににこやかに話す態度はやはり大学生らしい落ち着きがあり、好感が持てた。

「最初にお見かけしたとき、小野さんが大人びたすごい美人だったから、思わず見入ってしまって、びっくりさせて申し訳ないです。それにしてもまだ高校生なのに、すっぴんでこうも完成された子っているんだなぁ」

「そんな。あたしなんか別に背が高いだけで、別段大したことなんかありません」

「あのときは不躾に声をかけて失礼しました。見ず知らずの男に突然あいさつされちゃったら、びっくりしたでしょう?」
「いいえ、あのとき後から常磐井君が歩きてきたんです。だから、なぜ常磐井君がふたりいるのって、そっちのほうに驚いてしまって・・」
「あはは、そうなんですね。でもこうして再び会えるなんて光栄です」

 常磐井の兄は静かな雰囲気の男だったが、会ったなりこんな気恥しいことばを難なく口にできるあたり、よほど経験豊かなプレイボーイなのかもしれない。由利はちょっと用心した。

「あ、ぼくは悠季の兄で、阿野治季(はるき)というんです」


 阿野という名前を聞いて、由利は心臓が跳ね上がるのではないかと思うほど驚愕した。

「え? 阿野・・・? 阿野さんとおっしゃるのですか、常磐井ではなく? でも治季さんは、常磐井君と実のご兄弟なんじゃないのですか?」

 驚きながら由利が問い詰めるのを聞くと、治季はハハハと笑いながら説明した。

「ああ。あなたはご存じないんですね。おっしゃる通り、ぼくたちは正真正銘、血の繋がった兄弟ですよ。第一そっくりでしょ? ですが常磐井の叔父、つまりこの人がぼくたちの母の弟にあたるんですが、この夫婦には長らく子供に恵まれなくてね。しかも道場をやっているんで、どうしても男の子の後継者が欲しかったんですよ。で、まぁ幸運なことにぼくも悠季も体格に恵まれて、武道をするための素養はあったものですから。でもさすがにぼくたちの実の父親に『道場を継がせるための跡取りにさせるから、長男を差し出せ』とは言えなかったみたいでね。それで次男坊の悠季が中学に上がるのを待って、正式に養子にして道場の跡を継がせることにしたんです。だから弟は小学生までは阿野悠季だったんですよ」
「じゃあ、さきほど治季さんが『叔母さん』と呼んでらした方は・・・?」
「ああ、あの人は要するに、叔父の連れ合いで、ぼくには義理の叔母にあたる人です。まぁ、弟は気を遣っているのかおふくろって呼んでいるみたいですけどね」

 由利は心に引っかかることを、用心しながら目の前の治季にそれとなく水を向けてみた。

「ご兄弟ともに『はるき』『ゆうき』って対になっているんですね。『それに季』っていう字も」
「ああ、治季に悠季ね。うちの家ってよくわかんないんですけど、昔は帝に仕える殿上人だったらしいんですよ」
「殿上人?」
「ああ、殿上人っていうのは、貴族でもランクがありましてね。たしか五位以上だったかなぁ、何でもその位がないと帝が住む御所には上がれなかったらしいんですよね」
「へぇ、そうなんですね」

 由利は治季に相づちを打った。

「ああ、それでまぁその時から、うちの家は代々、男には『季』っていう字をつけるのが、まぁ、一種の伝統っていうのかなぁ。うちの親父も実際、『煕季』と言うんです」

 由利は何喰わぬ顔をしながらも、びっしょりと冷や汗を掻きながらそれを聞いていた。

「京都ってこんなふうに伝統を守っていらっしゃるおうちが多くて、東京から来た新参者のあたしなんかはびっくりすることばっかりです」
「いやいや。何をおっしゃいます、由利さん。京都の人間は、それぐらいしか矜持を保つ術(すべ)がなかったっていうことですよ。実際ぼくらは、明治天皇がこの京都から江戸に行幸するときにさえ、随行されることを許されなかったんですよ」

 由利がどう返事をしていいのか黙っていると、助け船を出すように治季はまた話を元に戻した。

「でもね、ぼくたちの名前は、最初、『はるき』『ゆうき』ではなく、『はるすえ』『ひさすえ』って読ませたんですよ。それで母があまりにその読みは時代遅れだからって、途中でやめさせたって話です。戸籍謄本には名前の読みまで記載しなくてもいいらしいのでね」
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境界の旅人 20 [境界の旅人]

 こうやってどうにか滝行の一日が終わった。門下生の男子たちは腹筋で腹は割れ、首にも肩にも腕にも筋肉が付き、まるで全員が金剛力士のようだった。こんな男たちにとってもはや夏の滝行などはただの水遊びにすぎないらしい。由利のように騒ぎ立てる人間は誰一人としておらず、みな涼しい顔をしてシャワーでも浴びるかのように滝に打たれていた。あまつさえ滝行だけでは鍛え足りないのか、待っている間はたいていの人間は腹筋運動や腕立て伏せをして時間をつぶしていた。

「この人たち、同じ人間なの? 信じられない」

 自分と彼らの間に横たわる限りない基礎体力の差を思い知り、由利は密かにため息をついた。
 次の朝、起きてみるとしほりに言われた通り、体中が打撲したような痛みがあった。足の裏が何となくヒリヒリすると思って確かめると、踏ん張りすぎたせいなのか、ところどころ赤くなって水膨れができていた。

「ひぇ~、たったの一分のことなのに!」

 驚いている由利を見て、傍にいたしほりが言った。

「ああ、私も最初の年はそんなふうになったわよ。最後はずるりと全部足の裏の皮が剥がれたんだけどね」
「ええっ? 本当ですか?」
「まあ、何事も経験。私、小野さんが滝壺に入ったとき、この人はもう、恐怖に打ち勝ったんだなってものすごく感心したよ。見ていてわかったもの。結局ね、武道の効能っていうのは単に相手じゃなくて自分の弱さに克服することに尽きるのよ。こういう気持ちはね、社会に出たらあらゆる場面で必要とされる能力よ。たとえパワハラやセクハラする上司がいても、間合いを見て、堂々とことばで応酬することもできるようになるの。一歩自分を押し出す力が身につくのよ。だから今日も頑張りましょう」

 しほりはちゃんと由利のことを見ていた。それにそんなふうに激励されると非常にうれしかった。

 その日は昨日と全く同じ手順を踏んで滝行をした。だが昨日の滝壺に入った時点で、いみじくもしほりに褒められた通り、めそめそ泣きごとを言っても物事は好転しないと覚悟を決めてしまったので、昨日のような恐怖をさほどには感じなかった。
 二日目は朝に一回、昼に一回。その次の日は朝に二回、昼に一回と少しずつ行の回数を増やして、四日目には他の人間と同じように、朝二回、昼二回の行をこなせるようになった。しかも回数を増やしていくごとに滝に打たれている時間も、次第に長くなって途中からは皆と同じように五分ぐらいまで打たれていられるまでに進歩した。
 だが傍で指導している行者の由利を見る眼は、どこか厳しいものがあった。
 五日目までは、ほとんど何も変わらずただただ滝の水圧に耐えているだけの苦行に過ぎなかった。
 だが六日目になると、次第に恐れや痛み以外の何かが由利の心の中の空白に生ずるようになった。一瞬その正体を突き止めたと思うのだが、次の瞬間には空を切るように、するりと手の内から逃げ去ってしまう。由利は次第にもどかしさを募らせていた。


 しかし最終日の七日目の最後の行のときに、由利は目をつぶって「南無大日大聖不動明王」と唱えていた。だんだんと没我の状態になり、由利の意識は心の中の光っている一点に集中した。するとふっと意識が飛ぶのを感じた。



 気が付けばまた由利は、以前自分が気絶したときに見た時と同じ時間、同じ場所にいた。
 この間と同じように、由利は御簾が降ろされた大床に金や紅が鮮やかな繧繝縁(うんげんへり)の厚畳の上に座っていた。

「皆中(かいちゅう)! 各々方、中将さまが放たれた矢、二十本すべて皆中でござりまする!」


 大床の前の庭には、弓を持ち片肌を脱いだ男が遠くに立っていた。
この前はどう耳をすませても聞き取れなかったことばが、今の由利にはやすやすと理解できた。 
 そう、この男は「中将」だった。


「ほう、女御、そこもとのひいきの季温(すえはる)がまた、的中であるぞ」 


 自分の横に座っている帝も、今度は中将のことを「季温」と呼ぶのがわかった。

ーこの男の名は、季温というのか・・・ー 

 由利はだんだんと心が昂って来るのを感じた。

「まあ、主上(おかみ)。酷い言われようでございます。わたくしは主上の妃なれば、身も心も主上に捧げております」

 自分の横に座っている男に向かって 由利はやすやすと心にもない嘘をついた。

「はは、まあまあ。よいではないか。やつはそなたを自分の命を呈して窮地から救い出してくれた男ぞ。もそっとうれしそうな顔をしてもよいと思うがの」
「そんな・・・。主上。もちろんそれは、うれしいともありがたいとも思うておりますとも」
「さようか」

 帝は由利のそつのなさすぎる返答にぽつりと返したきり、しばらく沈黙していた。が、持っていた扇でどこか苛立たし気にぴしゃりと膝を打った。この男は自分と中将の関係にうすうす気が付いているのかもしれないと危ぶみ、由利は内心焦りを感じた。

「しかしそれにしても一度も外さぬとは、そつがなさ過ぎて小癪な奴じゃ。それでは今しばらく続けさせようかの。あと何回放てば、的を逸らすであろうのかの? のう、女御」

 帝のことばの端々に、中将に対する嫉妬がにじみ出ている。だが何事もなかったかのように、花のような笑顔でやんわりと帝を取り成した。

「主上・・・。しかしながら、もうよいではありませぬか。ご自分の大事な臣下を、それそのように試すような真似をなさらずとも」

 笑いかけると帝は思わずうっとりと自分に見惚れている。嫉妬に駆られていても、女御の美しさには平伏しているのだ。由利は自分の美しさの威力を充分に知っていた。

「ほれ、そこもとは何かと、あやつをかばい立てする。そこがどうも気に入らぬ」

 いかにもくやしそうに帝は、由利が中将の味方をすると腹を立てる。

「ほほ、お戯れもそこまでになさいまし。どうぞ主上からも褒めてやってくださりませ。すべては主上の栄えのためでございますよ。今日の宴に花を添えてくれたのです。ほかの殿ばらではこうはいかなかったでしょうから」

 由利は努めて声を抑えていたが、誇らしげな気持ちでいっぱいだった。

「おお、そうよ。季温は朕にとってたしかに大事な男。そうじゃの。女御の言うとおり、朕からもねぎらってやるとするか」
「それでこそ、わが君さまでござります」

 由利は頭を下げた。自分の想い人はこの帝も認めざるを得ないほど有能な男なのだと思うと、嬉しさと誇らしさで胸がはちきれそうになる。由利はまだ誰にも気づかれていない自分の膨らみつつある腹を、庇うように大きな袖で覆った。だが今は、この命運を懸けた秘密の恋を何としてでも周囲に悟られてはならない。由利は用心深くそばに控えている女房にそっとささやいた。

「さあ、阿野中将(あののちゅうじょう)を御前に連れて参れ。主上からお褒めのおことばがあるゆえ。妾(わらわ)からも褒美を取らせよう」

ー阿野中将ー

 自分が入っている女御の口からその名前を吐いた途端、由利は心がかき乱されるような気がした。これほど全身全霊で愛した人の懐かしい名前の響きを、なぜ自分はこれまで忘れてなんかいられたのだろうか。

「かしこまりました」

 しばらくすると阿野中将は大床の前に現れ膝をついた。

「主上、参上いたしました」

 帝はそれを聞いて、傍からはさも機嫌よく見えるように声を掛けた。

「季温よ、ようやった。さすがじゃ。それ、褒美を取らそう」

 帝は自分が今着ている着物を脱いで、それをそばの女房に渡した。

「主上から御衣(おんぞ)が賜りました」

 取次の女房が帝から手渡された衣をまた捧げ持ち、その男に手渡した。

「これは身に余る光栄!」

 拝領された御衣を押し頂きなら、阿野中将は深々とこうべを垂れた。

「ほれ、女御、なにかことばをかけてやれ。女御が口を閉じていては、季温も皆中にした甲斐がないというものじゃ」

 胸を高鳴らせながら、由利は中将を寿ぐことばを瞬時に探した。

「このたびそなたは、類なき弓の技でもって畏(かしこ)くも尊い主上を寿いだ。まことにめでたくも天晴なこと・・・。九重(宮中のこと)も二重(矢が二十本皆中したこと)の歓びに包まれておりましょうぞ」
「ありがたきおことば、身に沁みましてでございます。橘の女御さま」

 またしても中将は深々と頭を下げたが、ふいに御簾ごしに顔を由利のほうへ向けた。

「あっ!」

 目の前で見ている公卿の顔は、たしかに由利の生きている世界では知らない男だった。だが自分を見つめる瞳の中に宿る光は。

ーああ、あたしは忘れはしなかった。たとえ何度、姿や形を変えて生まれ変わろうと、この愛しい人を決して忘れるはずがないー


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こんにちは、作者のsadafusaです

もう、気づいていらっしゃる方もいらっしゃるかとは思いますが、
この話は『聖徴』の続編なのです。

もっと作品を楽しみたい! なになに? 知らなかった読みたい! と思われた方は
こちらのほうから!

https://note.mu/sadafusa_neo/n/n702354198f51?magazine_key=md221e51d5929

おかげ様で、大変ご好評をいただき、順調に売れております。

また、前回、この「境界の旅人」ですが、こちらのブログのほうの読者さまも
沢山ご購読いただきました。ありがとうございます!
このnoteは会員じゃない方も、簡単にお手続きでご購読できます。
お考え中の方は、この機会にぜひ!!


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境界の旅人19 [境界の旅人]

みなさま、こんにちは。

いつも『境界の旅人』をお読みいただきましてありがとうございます。

今回はちょっと訳がありまして、noteのほうからお読みください。


https://note.mu/sadafusa_neo/n/n8de664b45367
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境界の旅人18 [境界の旅人]

五章 捜索



 東京から京都へ戻って翌日学校へ行ってみると、美月が手ぐすねを引いて待ち構えていた。補講が終わる昼休みになると、わざわざふたりきりになれるように、日ごろは使われていない茶道部の顧問室に入り、中から鍵を掛けた。

「ね、ね、由利! どうだった?」

 美月は興奮にわくわくした調子で尋ねた。

「うん。お母さんの出張中に家探ししてみた」
「それで? なんかヒントになるものは出てきたの?」
「うん。確証はないんだけど、お母さんが当時勤務していた研究所の職員名簿が出て来てね、お母さんの恋人らしい人が載っていた」

 由利はそういいながら、スマホに収めた写真を見せた。美月はそれを見ると少し顔を曇らせた。

「あら・・・ん、いやあねぇ。白黒で小さいし、それにこれ、えらく不鮮明な写真じゃん。由利、こんなのしかなかったの?」
「うん、だけどまぁ、ラディと呼ばれる可能性があって、かつうちのお母さんと恋愛対象になりそうな年回りの人物って言ったら、この人ぐらいしかいなかったんだもん」
「ふぅん。これ、何て読むの? ラシッド・カハドラ?」
「Hは読まないんじゃない? フランス語表記だと思うし。ラシッド・カドゥラだと思うけど」
「ふうん。ラシッド、ラシッド。どこかで聞いたことがあったような。あ、ハールーン=アル=ラシードか! 千夜一夜物語の!」
「そうそう、アッバース朝に君臨した偉大なる帝王のことだよ」
「出ました! 由利って世界史好きだもんなぁ」
「何よ。日本史オタクには言われたくありません」
「あ、ゴメン、由利。怒んないで」

 由利の機嫌を損ねると肝心の話の先が効けなくなるので、美月は低姿勢で謝った。

「まぁまぁ、そうかしこまらないでよ、美月。でもさ、地中海に面した北アフリカのイスラム文化圏の国は基本的にアラビア語を使うらしいから、こんな名前の男性は今も昔も結構いるんじゃない?」
「ふうん、そうなんかなぁ。それで由利のパパがこの人だと一応仮定したとして、これからどうすんの?」
「うん。まぁねぇ。それが問題なんだよね」
「由利、Facebookでこの人の名前、検索してみた?」
「うん。だけどラシッド・カドゥラ(Rashid Khadra)で検索してみたらさぁ、意外とありふれた名前らしくて相当な人数が引っかかるんだよね」
「どれ?」

 美月は、由利が差し出したスマホを受け取ってその画面を次々とスクロールしていった。
「う~ん、検索人数六十七か。ン? こんなハゲ散らかした油ギッシュなおっさんなんか、問題外ね。厚かましい、何おんなじ名前名乗ってんの!」

美月は明らかに同姓同名の別人物に向かって、悪態をついていた。

「そうはいってもね、美月。ラディは今、四十五歳のはずだよ、この名簿によれば。そりゃあね、二十代は髪の毛フサフサでスレンダーでも、この年齢層になるとハゲでデバラのデブって可能性は大いにあるんだよ」
「まぁ、あっちの人は劣化が激しいって言うからねぇ」
 美月も一応それには同意した。
「でもさ、このオヤジは歳が五十八だよ。多少の誤差はあるとしても、コイツは始めから想定外でしょう」

 美月はスマホの画面の中の、陽気に笑っている何の罪もないラシッド・カドゥラ氏を思い切り愚弄した。

「まぁ、明らかに別人と思われる人を除外していって、その中からもしかしたらこの人はって思われる人にDMを送るしか方法はないかな?」

 由利は美月の叩いた無駄口にはまったく関与せず、最善の連絡方法は何かを熟考していた。
 
「うん、あたしもとりあえずそうするのが一番だと思う」

 美月は唯の真剣な面持ちに気圧されて、真面目に答えた。

「えっと、文面はどうしようか?」

由利は考えながら、美月に訊いた。

「そうねぇ、あんまり込み入ったことを見ず知らずの他人に教えるのも物騒だから、最小限の情報だけでいいんじゃない?」
「ん、じゃ、『今から十六年前に、あなたがフランス国立研究所の研究員だった場合、わたしにご連絡ください。お報せしたいことがあります』とかは?」
「え~、由利。それガチで怪しい……。まるでフィッシング詐欺みたいじゃない?」

 いったんとダメ出した後に、美月もしばらく沈思黙考していた。

「でもさぁ、これが本当に由利のパパなら、由利の苗字が小野ってのを見れば、すぐにピンと来るんじゃない? 玲子さんと何らかの関わりがある人物だって。これぐらいにしておいたほうが無難かもよ」
「そうだね……。とりあえずはこれでDM出してみるか。英語でいいよね?」
「いいんじゃない?フランス語なんて、いくらグーグル翻訳サマに頼るにしても、こっちはまったくフランス語がわからないんだからさ。グーグルサマがよく仕出かすトンチンカンな翻訳には、こっちは手の入れようもないじゃん? それに向こうからフランス語で返事が返ってきたりしたら却って面倒じゃん?」
「そうだよね。じゃあ、そうしよっかな」

 さっそくノートに英文を書いているとと美月は、さりげなく探りを入れた。

「ねぇ、さっき、田中春奈がね、由利と常磐井君のことで騒いでいたけど?」
「へ? 何て?」

 ドキリとして由利は美月に訊き返した。

「なんか由利のこと、清滝のほうへ自分を差し置いて、抜け駆けでデートへ行くって騒いでいたわよ」
「え~、耳ざとい! どうやって知ったんだろ?」
「じゃあ、本当なの?」
「ううん、清滝へ行くのは本当だけど、デートはデマ」

 美月は遠慮してこれ以上は訊いてこないだろうが、変に勘繰られても困る。由利は、ここはきちんと説明するべきだと判断した。

「ほら、前にも美月もあたしに指摘したことがあったじゃん? あたしが何か超常現象でも見えるんじゃないのって?」
「ああ、あったね。たしかに」

 美月は同意した。

「実はね、美月。あたし、最近本当に変なものが見えるんだよ」
「え、マジで?」

 美月は心底驚いたような顔をした。

「うん。だけどこういうの、京都に来てからだったんだよね。それでどうしていいのか分からなくて誰にも言えずに悩んでいたら、常磐井君も実は霊感っていうの? そういうのが強い人だったみたいで」
「常磐井君って霊感があるの? ガチで?」
「どうもそうみたいよ」
「それで彼は、あたしがそれに悩んでいるのが判ったみたい」
「そんなの、どうやったら判るわけ?」

 美月はちょっと意地悪な質問をしてきた。

「さあ、それは何とも。彼は元からそういう力が備わっていたみたいだし。よく解んないけど、霊能者独特の勘が働くんじゃない?」
「ふうん、そういうもんなのかな?」
「ま、それはともかく、彼の家って合気道の道場なんだってさ」
「なあに、常磐井君って合気道の家に生まれたくせに、その上、弓道もしているってこと?」
「どうもそうらしい」
「何で? 霊能力と関係あんの、それって?」

 美月は興味に駆られて、根ほり葉ほり訊いてくる。

「さあ。解んない。そんなこと訊いたことないもん。で、常磐井君がそういう超常現象みたいなのには『滝行』が効くって教えてくれたの。だから道場の人達と一緒に八月の頭に一週間ほど合宿に行かないかって誘われたんだけど?」

 由利は美月の前では、努めてさりげなくふるまった。

「合宿? じゃあ大勢で行くの?」
「うん。マイクロバスで行くって。中には女の子も何人かは混じっているらしいよ」
「ふうん。でさ、田中春奈は常磐井君をデートに誘ったら、断られたってめちゃくちゃ怒りまくってたよ。それは絶対に、由利の差し金だって」
「まぁ、あたしは田中さんに常磐井君にアタックすることは邪魔はしないって言ったけど、それに対して常磐井君がどうリアクションするかまでは、責任は持てないよ」

 唯はちょっと美月には憤慨したように答えた。春奈がたぶんこっぴどく常磐井に振られた場面を想像して、半ば春奈に同情しながらも心の中で喜んでいる自分がいることに、由利はひどく動揺を覚えた。

 こんなに醜い感情を抱いたのは初めてだ。

 だが心の奥底では理解していた、恋情というものがひとたび絡むと、人はこんなにも身勝手になれるものなのだと。



 由利は部室へ行く前に本を返却するため、図書室や職員室のある本館へと向かった。そのあと女子トイレへ入った。

 茶道部は図書室と同じ本館にある。普段本館にはほとんど人気(ひとけ)がないのだが、今日に限ってトイレには先客がいた。用を済ませ、由利は洗面所で備え付けの青い液体石鹸で手を洗っていた。すると先にトイレに入っていた人間も、手を洗いに由利の傍に近づいて来た。

「やぁ、小野さん」

 由利はその声に一瞬違和感を覚えた。そしてその声が誰のものかわかると、腰を抜かしそうになった。

「えっ、え! 小山部長!」

 由利は泡だらけの手で、小山のほうへ振り向いた。

「な、何で部長がこんなところにいるんですか! ここは女子トイレですよ!」

 由利が気色ばんで相手を詰問していると、部室からその声を聞きつけて、部員たちが何ごとかと駆けつけてきた。

「由利! どうしたの!」
「だ、だって小山部長が、男なのに、に女子トイレに入っていて……」

 部員たちは、本来なら当然糾弾されるべきはずの部長を責めるでもなく、かといって由利を慰めるでもなく、どう言うべきかを考えあぐねたように、むっつりと押し黙っていた。

「あー。小野さんは知らなかったんですね。おことばですが、ボクは、あなたが思っておられるような変態ではありません」 

 小山は妙に冷めた口調で説明しだした。こんな口調のときは、部長が激怒しているときだ。茶道部員は全員、身をもってそれを知り抜いていた。

「ボクは普段こういう恰好をしていますが、性別は女です」
「え、え? おんな…?」

 由利は目が点になった。

「だって、だって小山部長はどう見たって、お、男……じゃあないですか」

 ふっと小山は嗤った。

「ほらね、あなたが今言ったことばの中に、答えはすでに隠されています。現代社会で『男に見える=男である』という定義は、もはや成立しませんよ、小野さん。まぁ、ボクは身長が180センチありますからねぇ。体形も肩幅も男並みにありますし、どっちかと言えば、いかついほうです。だからでしょうか、ブレザーにスカートだとよく誤解を受けるのですねぇ、男が女装をしているって」

 由利は目だけを大きく見開き、凍り付いたように固まっていた。

「ですからブレザーにスラックスのほうが、ボクにとっても、見る側にとってもストレスがないんですね。つまりですね、ボクは本来生まれ持った性と合致する恰好をするより、男の恰好をするほうが無難なんだと、ある段階で気づいたんです」
「えっ? なっ…」

 小山は、唯にひとことも口を挟ませなかった。

「ですが男に見えるからと言って、ボクは心まで男だと認識しておりません。まだボクには恋愛経験がないんで、自分のセクシャル・ディレクション、すなわち性的指向も完全には把握しきれてはおりませんが、おそらくホモセクシャルでもなく、バイセクシャルでもなく、ヘテロセクシャルだと確信しています」
「セ、セ、セクシャル・ディレクションですか?」
「そうです。ボクはセクシャル・マイノリティの方々を差別するつもりはありません。ですが、自分は同性愛者ではないと、ここではっきりあなたに申し上げておきましょう。ですから性的倒錯趣味があってこのトイレを拝借していたのではなく、ボクは身体的生理欲求に従って、ここに入ったまでです」

 小山は憮然と言い放ち、茶道部全員の衆人環視の中でも、何食わぬ顔で手を洗った。

「皆さん、いつまでそんなふうにボケっと突っ立ってるんですか? さあ、お茶のお稽古を始めますよ」

 小山は部員を叱ると、さっさとひとりで部室へ行ってしまった。女子トイレには美月と由利だけが残された。

「由利、ちょっと大丈夫? まさか由利がまだ小山先輩の正体に気づいてなかったなんて。だけどまた気絶しないでね」
「・・・マジですか・・・。そんなの無理」

 そう言って虚脱したように由利はつぶやいた切り、ガクッとこうべをうなだれた。


 

 誰もがじっと見ているいたたまれない雰囲気の中で、お点前をやらされ、おそらく怒りが頂点に達していた小山の容赦ないチェックが止めどなく入り、その日の由利はボロボロだった。

「普通の人はだいたい小山さんに会ってしばらくすると、気づくもんなんだけどねぇ」

 今さらながら美月がまた、言い訳した。

「だって最初から男だって信じて疑わなかったんだから、仕方ないよ! 美月、どうしてそんな大事なことあたしに教えてくれなかったの? 今日ほど茶道部のみんなを恨めしく思った日なんてなかったよ!」

 泣きながら、取り返しのつかないことをやってしまったと由利は自責の念に駆られていた。

「由利・・・。小山さんは別にそれほど気を悪くなんかしていないよ。あとできちんと謝れば赦してくれるに決まってるって」

 美月は精一杯慰めようとした。しかしそれがかえって由利の逆鱗に触れた。

「もう、みんな嫌い! なんであたしだけが、バカみたいに本当のこと、知らされてなかったのよっ! ひとりだけ仲間外れにされていた気分だよ! 嫌い、嫌い! 美月も、理沙ちゃんも他の茶道部の連中も!」
「由利! 待ってってば!」

 美月が止めるのも聞かず、由利はひとり走り去っていった。



 由利は帰るなり、蒲団を敷いて寝床の中にもぐりこんだ。

「おい、由利、どないしたんや。調子でも悪いんか」
「うん」
怒気のはらんだ声で由利は返事をした。

「そうか、ほんならお汁とおかずを残しておくしな、お腹が減ったら食べるんやで」

 祖父はこういったことには慣れていると見え、あまり深く由利を追求しないでいてくれるのがありがたかった。 



 タオルケットにくるまって、混乱した気持ちを抱えながら目をつぶっていると、突然由利のスマホのバイブレーションが鳴った。取り上げてみるとLINEのアイコンに未読メッセージを示す②の赤いマークが付いていた。

「ん、誰?」

 泣いて帰ってしまった由利を気遣って、美月がメッセージを送って来てくれたのかもしれない。画面を開いて確かめると、意外なことにそれは何と常磐井悠季からだった。

「はろー、由利ちゃん。元気ぃ?」

 いつものぶっきらぼうな態度とはひどくかけ離れた文面に、由利はたまげた。しかもその下にはディズニーのオーロラ姫が投げキスをすると画面がハートで包まれるという、手の込んだスタンプが張り付けてあった。

「何これ? これ本当にあの常磐井君なの?」

 由利は信じられないものを見たかのように、画面に向かってつぶやいていた。

「こんにちは、常磐井君」

 半ばおっかなびっくりで由利は生真面目に返事を返した。するとすぐに返事は既読に変わった。

「由利ちゃん、滝に行く準備はできた?」

 一瞬これはLINEのなりすまし詐欺かと疑ったが、滝のことを話題しているので、どうやら本人に間違いなさそうだった。

「はい、水着はアシックスで競泳用の脚付き水着の黒を二枚買いました」
「そっか。滝行はうちの道場の毎年の恒例行事なので、行衣は道場でたくさん保管してるから大丈夫よ。夏の滝行といっても結構水は冷たいので、長袖の上着はマストアイテムよ(⋈◍>◡<◍)。✧♡  それじゃ体調を整えておいてね」

 それを見て思わず由利は吹き出した。

「別の人格に憑依されてるんじゃないの、この人?」

 しかし常磐井にこんなふうにメッセージを送られてきただけで、さっきまでの沈んだ気持ちが嘘のように晴れて来る。

「わかりました。当日はどうすればいいの?」

「ぼくんちの道場に八時に集合です。修行に必要な持ち物や道場へ行くまでの地図は添付しておきますので、それで確認してください。解らないことがあればいつでもLineして♪」




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境界の旅人17 [境界の旅人]

第四章 秘密



 由利は持っていた合鍵で、春まで自分が住んでいたマンションの一室のドアを解錠した。
 一階に常駐している管理人は、十二時から十二時半までの三十分間、全館見回りのため、入り口にある管理人室の席をはずす。万が一にも玲子の帰宅よりも前に管理人に出くわして、由利が家に入って行くところを不用意に見られたくない。管理人がいなくなったのを見計らって、由利は入口を無事通過した。
 
「はぁ、見つからずに済んだ。よかったぁ」

 また誰かに見咎められるのが嫌で、一応が外出せずに済むように、駅の近くのコンビニでおにぎりとジュースは買っておいた。
 玄関で靴を脱ぐ前に、由利は自分の長い髪を真ん中で二つに分けてツインテールにすると、そこからさらに三つ編みにして最後にゴムで留めた。

「まだ帰ってきてもいないのに、廊下や部屋にあたしの長い髪が落ちていたら、やっぱりそれはおかしいでしょ?」

 髪を束ねたあと、上り口を見るともう髪の毛が落ちている。

「ヤバイ、やばい」

 由利は持ってきたガムテープで玄関口をぐるりと用心深く拭いた。それをやはり用意してきたビニール袋に捨てた。
 几帳面できれい好きな玲子らしく、しっかりどの部屋も掃除がいき届いていた。特に由利が京都へ行ってからは、汚す人間がいなくなったので、余計にすっきりと片付いているような気がした。
 キッチンと続きのリビングに入ると、備え付けのリビングボードには由利が赤ちゃんの頃からこれまでの成長の記録として、節目節目に撮られた写真がずらりと並んでいた。

「あれっ、これは?」

 由利の見たことのない写真がきれいなフォトフレームに入れられて飾られていた。それは中学校の卒業式の日の由利だった。額の中の自分は、幾分気弱げに口角を上げて写っていた。撮影された日からほんの五か月ほどしか経っていないはずなのに、過去の自分がずいぶんと幼く思えた。


 このマンションは3LDKで、十二畳の大きなリビングと続きの六畳のキッチンがあり、そのほかに部屋が三つあった。ひとつは由利の部屋。もうひとつは玲子の寝室。中学校に上がるまで由利は、母の部屋に置かれたダブルベッドで玲子と一緒に眠ることのほうが多かった。完全にひとりで眠るようになったのは中学校へ入ってからだ。
 そして残されたもうひとつの部屋は、玲子の書斎だった。この部屋には玲子の仕事関係の書類、研究資料などが置いてあった。実は由利が小学校三年生ぐらいに勝手にこの部屋に入り込んだことがあった。それでパソコンをいじって大事なデータを吹っ飛ばしたのだ。それ以来玲子は用心のために、この部屋には施錠するようになった。

「まさかわたしがいなくなっても、鍵をかけてるってことはないよね、ママ?」

 そう言いながらぐるっとドアのノブをまわすと、思った通り鍵は掛けられておらず、部屋のドアは開いた。

「うは、やった!」

 由利はバンザイをしながら歓声を上げた。

「だけど、待って、待って。迂闊なことはできないんだからね」

 由利は慎重に玲子の部屋の書棚の段を、ひとつひとつカメラに収めて行った。そして念には念を入れて、最初にどのような状態だったのか、部屋全体の写真を撮った。

「ママがフランスに行っていたときの、職員名簿みたいなものがあればいいんだけど」

 由利は玲子の戸棚にそれらしきものはないかと物色した。横文字の本がたくさん入れられており、それをひとつひとつ引っ張り出してはみるものの、ほとんどなんらかの研究書らしく、難しそうな数式か化学式のようなものが羅列されていた。

「うわっ、何これ? 呪文みたい・・・」

 数学の不得意な由利は顔をしかめた。

「変だなぁ。何かあっても良さそうなのに・・・」

 玲子は悲しい思い出のよすがになりそうなものはすべて処分したのだろうか。由利はがっかりして玲子の机の椅子にどっかと腰を下ろした。

「あれから何時間、ここで本棚から本を出したり入れたりしたんだろ。さすがに疲れた・・・」

 ふと足元に視線を落とすと、机の一番下の引き出しをまだ開けてないことに気づいた。

「もしかして・・・?」

 由利は取っ手を引いて開けようとした。だが引き出しには鍵がかかっていた。

「うん! 何なのよ、これ!」

 由利は机に突っ伏して頭を抱えた。鍵はどこにある? 玲子は鍵を捨ててしまったのだろうか?
 いや、そんなはずはない。もしここにフランス時代のものが入っていたとして、鍵を捨ててしまう可能性があるだろうか。

「そんな。鍵を捨ててしまうくらいなら、あたしなら初めから何も残さずに処分してる。でも捨てきれないからこそ、こうやって残してあるんだし。それなら絶対に開けられるようにしてあるはず」

 その鍵は一体どこにあるだろう?

 由利は稲妻に撃たれたように、突然脳裏に閃めくものがあった。

「ママは昔あたしの乳歯が抜けたとき、きれいな外国製のそれ用の箱に入れていた・・・。えっとあれは・・・真鍮製で 箱の上にティンカーベルみたいな妖精がついていたような」

 由利が保育園に通っていたころ、乳歯が抜けると他の園児たちの親は、屋根の上に放り投げていた。

それは「今度は生えてくる永久歯が丈夫でありますように」というおまじないなのだが、玲子はそうはしなかったのだ。

「こんなかわいい歯を捨てられるもんですか」

 由利にはそう言いながら玲子が、抜けた由利の乳歯をその箱に入れていた、薄っすらとした記憶が蘇った。内側はきれいな緋色のビロード張りで、指輪の箱のように畝が作ってあり、そこに乳歯を差し入れ固定させるようになっていた。

「あそこに鍵が入っていたような気がする・・・」

 由利ははじかれたように立ち上がると、今度は玲子の寝室へ行ってクローゼットの戸を開けた。

「たしかママの慶弔用の真珠のイヤリングやネックレスをしまっている、日ごろめったに開かない引き出しがあったはず」

 クローゼットに備え付けられている引き出しは二重ひきだしになっていて、普段よく使う引き出しの後ろに、めったに使わない引き出しがあるのだ。由利は順番を間違わないように写真を撮った後、ひとつひとつ、奥に隠された引き出しを暴いていった。

一番下の奥の引き出しに、真珠のネックレスと共に妖精が付いた銀色の小箱が収められていた。

「神さま、お願いっ! どうぞ鍵が入っていますように!」

 そう言いながらふたを開けると、思った通り、小さい由利の乳歯のそばに鍵がひそませてあった。それを緊張にふるえる手でこわごわ掴んで、由利は机の鍵穴に差し込んだ。
 カチッと解錠の音がする。

「ビンゴ!」

 やはり由利が睨んだとおり、その鍵は机の鍵だったのだ。
 ドキドキしながら由利が机の引き出しを開けると、中にはほとんど横文字のものばかり入っていた。
 またもや写真を撮ったあとに、背表紙に印字されたタイトルを読んでいった。

「うへぇ、みんなフランス語だから、何て書いてあるのか、予想もつかないわ」

 だがその中に、ひとつの白くて分厚い年鑑のような冊子があった。由利はそれを見てピンと心に響くものがあった。

表紙には『Centre national de la recherche scientifique』と書かれてある。

「ん? Recherché って英語でいうところの、リサーチじゃないのかな。つまりこれって、英語に直すと『Scientific research national center 』って言う意味?」

 由利は自信がないので、グーグル翻訳を仏→英に直して確かめた。
 中をパラパラめくると、やはり研究者名簿のようだった。一ページには八人ぐらいの研究員ひとりひとり名前と写真が載っていた。

「だけどこんなに分厚い本の中を、どうやって調べたらいいの?」

 しばらく考えて由利はとりあえず、後ろの索引のほうを調べることにした。

「まずママの名前があるかどうかを調べないと」

 玲子は小野玲子だからOの索引で調べられるかどうか、それを確かめた。

「Ono, Reiko ああ、あった、あった。516ページか」

 516ページを調べると確かに玲子の写真と、フランス語で玲子の簡単な履歴と博士号取得時の論文のタイトルとその掲載誌名が載ってるようだった。

「これってどういう分類方法?」

 由利は見出しをの文字を読んでみた。

「Institut des sciences de l'ingénierie et des systems…? ママってそういえば『工学システム科学』ってところにいたって聞いたような気がする。多分ここがそうなんだ」

 由利はもう一度、芙蓉子がくれた写真を見た。

「あ、ここって」

 見出しの下に工学システム科学研究所の建物が写っていた。由利はじっとふたつの写真に写っている建物を見比べた。

「うーん、なるほど。ここって研究所の敷地内で撮られたものなんだわ。それじゃあやっぱり芙蓉子さんが言ってた通り、十中八九はラディはママと同じ研究所の同僚だったと考えていい。ふたりとも同じ職場で働いていたんなら、きっとラディもここにいるはず」

 玲子と同じ付近の写真を丹念に調べて行った。
「pierre? え、ぴ、ピエール・・・? 苗字は何て読むんだろ? いや、どっちにしろピエールなんて名前に用はないわ。これは? ギュスターヴか。違う、ラディのせめて苗字が判ればなぁ。こんなに苦労はしなくて済んだんだけどな」

 そうやってページをめくっていると一人の男の写真が目に留まった。

「え、この人・・・」

 名前を読んでみた。

「Rashid Khadra・・・ ラシッド・カ・・・ドラ?」

 自分が持参してきた芙蓉子から渡された写真を、ラシッド・カドゥラと表された人物の写真の側に置いて二つを見比べた。

「似てると思えば似てるけど、別人のような気もする。こんな小さな写真じゃ確信がもてないなぁ。でもラシッドって名前は、ニック・ネームとしてラディと呼ばれる可能性は捨てきれない」

 そしてカドゥラ氏のプロフィールに記載されている生年月日を見た。

「ママより三つ年上なんだ。とすると、この人は今四十五歳ってことか」

 とりあえず由利はその人物の写真と履歴の箇所を、何枚も写真に収めた。

「まぁ、解んないことは京都に帰ってから調べればいいし。収穫はあった」

 昼過ぎにこの家に入って来たのに、気が付けばとっくに時計は九時を回っていた。
 由利はともかく一旦玲子の部屋から出て、自分の部屋でコンビニで買ってきた、おにぎりとジュースを食べた。へとへとだったけれど、何かを食べると元気が出た。少し気力と体力が共に回復したところで、再び部屋に入り写真を慎重に確かめながら、まず研究者名簿を机の引き出しに元通りにしまい鍵を掛けた。その鍵を真鍮製の小箱に戻し、それをまたもとからあった真珠のネックスレスが入っている引き出しの箱に戻し、その引き出しをまた元通りの場所に収めた。由利は作業を黙々とこなしているうちに、何となしに入れ子状になっているマトリョーシカをひとつひとつ胎内に戻しているような気がして、ひとりで声に出して笑った。
 何もかも元の通りになっているかどうかを念入りに写真と見比べながら確認してから、最後にガムテープで丹念に自分の痕跡を消し去り、玲子の書斎から出た。

由利は思わず大きなため息をついた。

「ホントは泊っていきたいところなんだけど、やっぱり予定が繰り上がってママが突然帰って来たら大変だしなぁ。仕方ない。今日と明日はカプセルホテルで泊まるとしますか。あ、その前にラーメン食べに行こっと」
 由利は夜更けに再び、自分の家から外へ出た。
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境界の旅人16 [境界の旅人]



「あー、よく食べた。何食べたっけ? スープでしょ、前菜でしょ、サラダでしょ、それから当然スパゲティも食べたし・・・。それからビステッカを食べて、そうそう鯛のアクアパッツァも食べたんだっけ? 締めのドルチェはティラミスをふたつ食べたんだった~。あ~おいしかったぁ、幸せぇ・・・!」

 由利は芙蓉子に長らく自分が悩んできた出生にまつわる話を聞かせられた。どんな悲惨な真実が隠されているのかと思いきや、案外話は玲子の一途な純愛を証明するような内容だった。由利は安堵するあまり湧き出る食欲を抑えられず、バカ食いをしてしまったのだ。でも芙蓉子は「由利ちゃん、よかったわね」とニコニコして食べるのを見守ってくれていた。
 一気に解放されて気が緩んだせいか、どっと疲れを感じた。由利は家に帰ったなり、なおざりに蒲団を敷いてそのまま倒れこむように眠ってしまった。
 目が覚めて窓を開けると、まだ外は明るい。時計を見ると六時前だった。
 蒲団に入ったままでカバンを引き寄せ、中を開いてガサゴソと探ると昼間芙蓉子からもらった例の写真が入ったファイルを取り出した。

「これがもしかしたらというか、確実にわたしのお父さんにあたる人」

 由利はその写真をじっと見つめて、つぶやいてみた。

「パパ、初めまして。あたしが由利です」

写真の中の男は思いやりに溢れた優しそうな人物に見える。こんな人が無慈悲に自分の子供を妊娠している恋人を捨て去ったりできるのだろうか。由利は頭をひねった。

「ラディか・・・。それしか判らないのかな、本当に?」

 由利はふっと玲子が先日言ったことばを思い出した。

『ママね、七月の二十日までは学会でニューヨークに行かなきゃならないの。帰ってくるのが二十一になると思うから、それからにしてもらっていい?』

―ということは、少なくとも二十日はあの家にママは完全にいないはず・・・とすると?― 

 由利はニヤリと蒲団の中で笑った。



「暑いー。朝、温度計見たら、すでに二十六度あったよ。七月でこれだったら先が思いやられる・・・」

 朝食を食べながら、由利が開口一番にぼやいた。梅雨が明けた京都は猛烈に暑い。ただ暑いだけではなくてじっとりした湿気がどうにも気持ち悪い。

「まぁ、盆地やしな。仕方がないんや。」

 辰造はぼやく孫娘を慰めた。

「おじいちゃんがいつだか言っていた意味が解ったよ。やっぱり京都の家は、少しでも夏に涼しくする工夫がいるって。そうじゃなかったら、とってもじゃないけど住めないもん。だけどどうしてこんな冬は寒いわ、夏は暑いわってところを都にしようと昔の人は思ったんだろ?」
「そりゃあ、まぁ、桓武天皇に『ここに遷都しなはれ』と勧めた家来の和気清麻呂はんあたりに訊かんと、ほんまのことは判らんのとちゃうか? まぁ、風水的にここはよかったと言われとるみたいやけどな」
「風水?」
「そうや。この地はな、風水的に四神相応(しじんそうおう)ちゅう考えに適った土地なんや」
「四神相応? 何それ?」
「うん、何や知らんけど、北山からずっと山が連なっておるやろ? それが玄武、東山一体が青龍、そんで嵐山付近が白虎や。そんで今は埋められたけど南に巨椋池っていうのが昔あってな、それが朱雀や。土地に四つの神さんの力があるっちゅうて、ここを都にしようと決められたそうや」
「何だ、それ?」
「わしも風水や陰陽道のことは、よう知らん。がまぁ、そういう思想に基づいて、平城京から長岡京、そんで平安京に移されたっちゅう話やで」
「ふうん」

 由利は少し憮然とした様子で味噌汁をすすっていたが、おもむろに口を開いた。

「あ、おじいちゃん。あたしね、お母さんに会いに東京へ行ってくる」
「ふん、そうか」

 少しの間、ふたりには気まずい空気が流れた。玲子と辰造はまだ仲直りをしていないのだ。おそらくふたりともしようと思えばできるはずなのだろうが、ばつが悪くてそれもできないままでいるらしい。

「で、いつからいつまで?」
「えっとね。二十日から二十三日まで。だから二十日の日にここを出て行って、二十三日の夜までには帰ってくるから」
「そうかぁ。ほんなら気を付けて行きや。お土産はそうや、近為(きんため)の『柚こぼし』を買うといたるわ。玲子はあれが好きなんや」

 辰造は仲たがいしていると言っても、しっかり娘の好物は覚えていた。

 

 夏休みに入ってもしばらく学校は午前中に補講があった。そうでもしないと文科省が決めたコマ数では教科書全部の内容は網羅できない。だからその流れで昼食を挟んでその後は、だいたいの生徒は部活にいそしんでいた。

「ね、由利。あたしたちが映画を見ている間、うちのお母さんと話したんでしょ?」

 教室でお昼を食べながら、美月が興味津々といったふうに訊ねた。

「うん。美月、お母さんとあたしのセッティングをやってくれたんだね。サンキュ」
「で、どうだった?」
「どうって。芙蓉子さんから聞かされてるんじゃないの?」
「ああ、ダメダメ。あの人ああ見えて、口がめっちゃ堅いから。ただお母さんはさ、由利ちゃんは話が終わったあと、安心したのか、バカ食いしてたって笑って話してくれたから、結果的には明るい方向に行ったのかなって、あたしなりに忖度したんだよね」
「あ~、忖度、忖度ね! 大事だよね」

 由利は笑って言った。

「うん、結構びっくりなこといっぱいあった。でも一番良かったのは、わたしのお父さんらしき人の写真を芙蓉子さんが持っていて、それをあたしにくれたことかな!」
「へぇ! それって今持ってる?」
「うん。見る?」
「見る見る!」

 由利がカバンから写真の入っているファイルを取り出した。美月は待ちきれずにひったくるように由利からそれを取り上げると、食い入るようにその写真をのぞき込んだ。

「何これ! いや~ん、すてきぃ。ハンサムじゃーん!」
「そうかな?」
「そうだよ~。それで、それで? イケメンパパは何て名前なの?」
「ラディだって」
「ラディ? それしか判らないの? 何か犬みたいじゃん」

 美月は訝しげな顔をした。

「何よ、犬みたいって。失礼ねぇ」

 由利は軽く文句を言った。

「うん、うちのお母さん、どうも口が重いらしくてさ。親友の芙蓉子さんにさえ、きちんとした相手の本当の名前を言ってないらしいんだよね」
「ねぇ、それってさ、玲子さんに訊くわけにはいかないの?」
「本当はそれが一番いいんだろうけどね、だけど教えてくれるはずないだろうしな、今までのことを考えると」
「それもそうだよね」
「でも、あたしにはちょっとした作戦があるんだよね」
「どれどれ、どんな?」
「うん、今度東京に行ったとき、それを試してみようと思うんだ。もしそれが成功したら、美月に手伝ってもらうと思う。だから待ってて」
「う~ん、よく解んないけど、まあいいや」

 そこへ同級の茶道部員がやって来た。

「美月~。この間お茶会で使った建水どこへしまったの?」
「あれっ? 理沙ちゃんどうしたの? もとの場所に置いたはずだけどぉ?」
「うん、それがさ、探しても見つからないんだよねぇ。小山部長に今日はあれを使うからって言われてて、準備してるんだけどさ」
「え~、そうだった? 理沙ちゃん、ごめんね。おかしいなぁ、それじゃ今から探しに行くわ」

 美月は理沙と呼んだ女子生徒に謝ってから、由利に声を掛けた。

「じゃあ、そういうことだから。ゴメン、由利。理沙ちゃんと先に部室に行ってるわ」
「ん、じゃあ、美月。あとでね」

 美月はバタバタと弁当箱を片付けると、理沙と一緒に足早に去って行った。小山はいつも茶道具同士の取り合わせに細心の注意を払っているので、部員がちょっとでも自分の指示通りに動いてないと知ると、機嫌がとたんに悪くなる。だから周りの部員たちは小山のご機嫌取りに必死だった。
 由利は部室へ行く前に借りていた本を返そうと一旦、自分の教室のある棟を出て、図書室や職員室のある本館のほうへと向かった。



 放課後、由利が部室へ向かっている途中で、紺色の稽古着姿の常磐井を見かけた。
 いつもムスッとして愛想のない常磐井が、どういうわけか今は、目の前でぼうっと突っ立って、由利の顔を凝視していた。

「えっ?」

 あまりにありえない状況に、由利はびっくりして足を止めた。常磐井はハッと我に返ったようで、照れくさそうにさっと頭を下げると、その場からそそくさと立ち去って行った。

「何だろ。常磐井君、どうしちゃったのかしら?」

 不思議に思いながら歩いていると、また向こうから、先程反対方向へ行ったたはずの常磐井が、大股でスタスタと歩いて来る。今度はいつもの通りニコリともせず、目の端だけで由利を一瞥しただけだった。

「ええっ、ど、どうして?」

 驚愕のあまり、由利は思わず声を上げた。

「ん? 何だ、あんた。いきなり変な声を出すなよ」

 不審げな面持ちで常磐井が、由利の傍に近づいて来た。

「い、いやっ! こっちに来ないで!」
「小野、どうしたんだよ? 何かあったのか?」

 常磐井の真剣な表情を見て、やっと由利は目の前の人物が本物だと悟った。

「ち、ちょっと前に常磐井君にそっくりな人が通り過ぎて行って……。あ、あたしがさっき見た常磐井君って、一体……?」

 由利の顔がまた、恐怖に覆われていった。

「お、おい。小野。落ち着け、落ち着いてくれ」

 常磐井は恐慌を来し掛けている由利の両肩を揺さぶった。

「え?」

 由利と常磐井の視線と視線が重なった。由利の姿を映した常磐井の瞳には、単なる親切以上の何か切迫したニュアンスが感じ取れた。

「あんたがさっき見たのは、おそらくオレの兄貴」
「えっ? 兄…貴?」

 由利は狐につままれたような顔をした。

「そう。兄貴は今、大学の一回生だけど、ここのOBなんだ。オレと同じ弓道部だったんで、夏休みに入ったから後輩の指導に来ていたのさ。実際オレは兄貴とは三つ違うんだがな、他人が見るとそっくりに見えるらしい」
「そっくりなお兄さん?」
「そうだ。だけど性格は全然違う。兄貴は美人に目がないからな。だからどうせ、鼻の下を伸ばして、あんたに見惚れてでもいたんじゃじゃないのか?」

 常磐井の言う通りだった。

「さっきの人って、常磐井君のお兄さんだったの?」

 常磐井は呆れたような少し情けない顔をして、由利をしみじみと見つめた。

「あんた……」
「な、何?」

 こんなふうに至近距離でじっと見つめられると、由利はもう、どうしていいかわからない。カァっと頭に血が上っているのが自分でもわかる。由利は平静を保とうとぎゅっと目をつぶり、両手に力を入れてこぶしを握った。

「何してんの、それ?」

 目敏い常磐井は、面白がって由利の不思議な行動のわけを訊いてきた。

「自分を見失わないようにしているの!」

 由利は恥ずかしさのあまり、やぶれかぶれになって叫んだ。

「小野。あんた、案外、ドジなんだな」

 常磐井は突然こらえられないといったように、腹を抱えながら、笑い出した。

「だ、だって…もう、びっくりしちゃって」
「さっきのあんたの慌てふためいた顔! リプレイして見せてやりたいよ! ハハハ」
「あ、あ、あたしはまた、例の三郎の仕業かと……」

 三郎と言ってしまって、由利はハッと口をつぐんだ。急にふたりの間の空気が張りつめた。

「小野……。前々から気になっていたんだ。あんたも、もしかしたら、見えてるのかなってね」
「あんたもって、どういう意味?」

 由利は真剣に訊き返した。

「小野、見えるんだろ? 普通の人間には見えないものが」
「常磐井君……。ということは、あなたも見えていたのね、三郎のことが」
「あいつ……三郎って名乗っているのか」
「三郎のこと、知ってるの?」
「あいつは死霊だよ」

 常磐井は躊躇することなく断言した。

「死霊……?」

 由利も三郎が生身の人間ではないことはわかっていた。だが由利は、『死霊』ということばの重さに改めて愕然となった。はっきり死霊と認識することで、三郎と自分との間に決して超えることのできない境界ができたように感じた。

「おそらくあいつは、何等かの想念の力で動いているんだ」
「想念?」
「そうだな、三郎の命が尽きるときに、この世に残した未練や執着みたいなもの…かな」
「未練や執着……?」

 由利はかみ締めるように、常磐井の言ったことばを反芻した。

「小野、あんたはあいつになるべく関わらないようにしろ」
「関わらないようにしろって言ったって、別に好きでそうしているわけじゃ・・・」
「じゃあ、あんたの霊格を上げて、あいつに付け込られる隙を与えないようにしろ」

常磐井はこわい顔をして命令した。

「霊格? で、でも。だって、どうやって・・・」
「そうだな・・・」

 しばらく常磐井は考えていた。

「オレんちは実は合気道の道場で、夏の間は門下生の人間たちと一緒に滝行(たきぎょう)をしに行くんだけど、小野も一緒に来い!」
「滝行?」

 思いがけないことを言われ、由利は素っ頓狂な声で訊き返した。

「ああ。オレも中学生のころ、一時期変なのに憑かれて大変だったんだ。だけど滝行をやって一か月ぐらい経ったら、精神修養ができたっていうかな、精神のステージが上がるっていうんかな。それから大丈夫になったんだ。小野も一度試してみろ」
「それって、いつやるの?」
「まずはとりあえず、八月の頭に一週間かな。京都に愛宕山ってあるの、知ってるだろ?」

 由利は黙ってスマホを取り出すと、グーグル・マップで位置を検索した。

「あ、ここか。うん」
「ここに清滝川っていうのが流れているんだけど、その渓流に聖(ひじり)滝っていうのがあるんだ」
「聖滝? へぇ」

 由利は人差し指と中指を使って画面を拡大した。

「あれ? わかんなくなっちゃった」
「どれ、貸してみ」

 常磐井は由利の手からスマホを取り上げると自分が操作して、聖滝の場所を画面に出した。

「あ、ありがと」

 常磐井の意外な行動に半ば唖然としながら、由利は礼を言った。

「行くときはオレんちの道場から、マイクロバスで途中まで行くから。そこからは山を登って三十分ぐらいの行程かな」
「あたしみたいな門外漢も参加して大丈夫なの?」
「うん」
「ね、滝行ってどうするものなの? なんか白い着物みたいなのを着るのかな?」
「ん? そうねぇ。本来は素肌の上から着るみたいだけど、透けて見えるしな。せっかく世俗の垢を落とすために滝に打たれに来たのに、そんなのを見ちゃうと男どもはかえって煩悩を掻き立てられるわなぁ。ハハハ」
「ちょっと常磐井君! 人が真剣に質問しているのに!」
「いや、ワリィ、ワリィ。小野があんまり思い詰めているみたいだったからさ。ちょっと気分をほぐしてやったほうがいいかなって思って」
「何それ? 全然フォローになっていない気がする」

 由利は怒った口調でいったが、それでも常磐井が親しく話しかけてくれるのが内心うれしかった。

「ああ、滝行に参加する仲間のうちには女子たちも二三人いるから大丈夫。みんなスクール水着を着て、その上から水垢離用の行衣を着てるよ。大丈夫、安心して」

 そして常磐井は由利のスマホの画面を一旦閉じると、今度はキーパッド画面を出して、ぱぱぱと素早く数字を打ち込んだ。途端に今度は常盤井の胸に付けられた胴着のポケットから、ブーンブーンとバイブレータの音が鳴り響いた。常磐井は自分の電話番号を由利のスマホからかけたらしい。にっと笑って発信番号を切ってから、スマホを由利に返した。

「ハイ、これでお互いの電話番号がわかりマシタ。小野、あとからきちんとオレの電話番号を登録しておけよ。そしたらお互いのLineが無事開通するから。まぁ、聖滝行きのことでわかんないことがあったら、オレにLineして。ま、別に何にもなくてもLineしてくれると、もっと嬉しいけど」
「え?」

 勝手に言いたいことだけいうと、常磐井は「じゃな」と手を挙げて弓道場のほうへ去って行った。


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境界の旅人15 [境界の旅人]



  ひとりきりで由利が校門から外へ出ると、プップーと車のクラクションが鳴った。音はマスタード色のゴルフから出されたものだった。

「由利ちゃん!」

 美月の母親の芙蓉子(ふゆこ)がドアのガラスを引き下げて由利の名前を呼んだ。

「芙蓉子さん!」

 由利は驚きながらも、芙蓉子の車のほうへ駆けよった。

「由利ちゃん、お昼まだでしょ? これから一緒に食べない?」
 にっこり笑って芙蓉子が誘った。

「ええ? いいんですか?」
「もちろん」

 美月が自分との約束をきちんと守ってくれたと、このとき由利はようやく悟った。

 
芙蓉子が立寄った先は、鴨川が一望できるしゃれたイタリアンの店だった。
川に臨む窓は大きなガラス張りになっていて、店内は明るい光で満たされていた。ふたりは案内された窓際の席に着いた。

「しばらくは雨ばかりだったけど、今日はお天気がいいから気持ちいいわね」
「ホントですね。川面が太陽にあたってキラキラ輝いていて・・・」

 外は身体にまとわりつくような暑さだったが店内はエアコンでほどよく除湿されているとみえ、カラッと乾いて気持ちがよかった。

「由利ちゃん、あなた何にする?」

 芙蓉子は手元のメニューを見ながら、、向かいの席に座った由利に訊ねた。だが由利は食欲などこれっぽっちもない。カラカラになった喉の渇きを癒すために、注がれたグラスの水を、ぐっと一気に飲み干した。

「ここはね、全般的にお食事もおいしいのだけど、お野菜がすべて地元の京野菜だけを使っているのよ。サラダがとってもカラフルできれいなの。これを是非由利ちゃんに食べさせてあげたいなって思って」
「へぇ、そうなんですね。それはとっても楽しみです」

 由利はまったく上の空で、機械的に口を動かしているだけだった。

「由利ちゃん、緊張しているの?」

 芙蓉子はそんな由利を気遣って、口許に少し笑みを浮かべた。

「え・・・あ、は、はい」
「ふふ。大丈夫よ、由利ちゃん。ちょっと深呼吸して。息を止めているじゃないの!」

 由利は言われた通りに大きく息を吸って吐き出した。

「いい? よく聞いて、由利ちゃん。これから私が話して聞かせる内容は、あなたがたぶん想像しているような恐ろしい秘密なんて、一切ないわ。玲子が性的に不品行だった結果とか、フランスに行って知らない男に乱暴されたとかそういうことはないから。だから安心しなさい」

 それを聞くと急に力の入っていた全身が一気に弛緩し、由利はぐったりと背もたれにもたれかかった。

「玲子からはお父さんのこと、どのくらい聞かされているの?」
「全く聞かされていないです。あたしの父親は行きずりのムスリムの男だったとしか・・・」
「ま、玲子ったら。そんなことを言ったら由利ちゃんがものすごく傷つくでしょうに。そんなこともわきまえていないなんて、困った人ね」

 やれやれといった調子で芙蓉子は首を振った。

「え、それじゃ、そうじゃなかったんですか?」
「もちろんそうよ。まぁまぁ、由利ちゃん、落ち着いて。ひとつひとつ話していってあげるから。あのクソ真面目な玲子が行きずりの恋なんて器用なマネができるはずないじゃないの。それは真っ赤な嘘よ」
「じゃ、なんで!」
「たぶん玲子は、あなたのお父さんと別れたことにものすごく打ちのめされて、まだその痛手から立ち直り切れてないのね。きっとその人のことを未だに愛していて、忘れられないのじゃないかしらね。だけど玲子は、もしそんな弱音をうっかりあなたの前で吐いてしまったら、もう二度と自分が立ち直れなくなるって思っているのかもしれない・・・」
「え、そんな」

 母親の親友だった芙蓉子から、母親の親友から、今まで思いつきもしなかった母の一面を聞かされ由利は戸惑った。ことばに詰まっていると、芙蓉子はカバンから一枚の写真を取り出した。

「これはね、玲子のフランス時代の写真。大学院を出てすぐに渡仏したときだと思うから、まだ二十四、五歳ぐらいの頃よ」

 由利はテーブルの上に置かれた写真を手に取ってまじまじと眺めた。

 どこかの白い建物の庭らしきところで、玲子が見知らぬ異国の男と一緒に写っていた。写真の玲子は生真面目な中にもどこかはにかんだ表情をして微笑んでいた。だが何より由利を瞠目させたのは、一緒に写っている若い男の玲子に対するしぐさだった。男は背後から玲子の両肩に両手を添えていた。そっと包み込むように肩に置かれた手の表情。それが何よりも雄弁にふたりの関係を物語っていた。

「この人・・・、いくつぐらいなんだろ?」

 写真の中の異国の青年は、いかにも育ちの良いエリートといった感じの、誠実そうな人間に見えた。

「そうね、玲子とそんなにいくつもは離れてはいないんじゃないかしら。まだ青年って感じだもの」

 ウェイトレスがアミューズとして聖護院蕪のスープを運んできた。

「ほらほら、由利ちゃん、食べて。食べて」

 由利は思っていたより自分が生まれた真相が悲惨な展開にならずに済んだのがわかって、少し食欲が戻って来た。サーブされたきれいな器に入ったスープを一口飲んだ。

「おいしい・・・」
「そうでしょ? きっと喜んでくれると思ってたわ」

 芙蓉子は優しく微笑んだ。

「玲子はね、フランスに行ってから私に『好きな人ができた』って言って、この写真を添えて手紙を送って来てくれたのよ。私が知る限りこの恋は、玲子にとって最初で最大のものだったと思うのよ。だいたいあの玲子が写真を送って来るだなんて。手紙の中でこの人のことを『ラディ』って呼んでいるの」
「ラディ? それはニック・ネームですよね?」
「おそらくはね」
「ママは相手はムスリムだって言ってたけど・・・。この人ってそうなのかな?」
「どうかしら? まぁ、ラディってあんまりフランス語っぽい響きがないのはたしかよね。でもフランスは第二次世界大戦までは北アフリカを植民地に持っていたから、イスラム圏の出身の人も結構多いの。それを考えあわせればこの人は、彫りが深くて肌も白いから、おそらくチュニジアとかモロッコあたりの出身じゃないかとも思うのよ。あるいはそんな人を親に持った二世か三世かもしれない」
「他には・・・? 芙蓉子さん、何かご存じのことってあるんですか」
「ごめんなさい、由利ちゃん。あとはその人が当時は玲子と同じ職場の同僚だってことぐらいしか・・・。あなたのお父さんに関しては、それぐらいしか知らさられてないのよ。玲子はとにかく小学生の頃から自分のことをペラペラとしゃべる子じゃなかったの。特にこんな自分の恋に関してはなおさらね」
「どうしてなんだろう?」
「たぶん、一途で内に秘めるタイプなのよ。由利ちゃんだって好きな人ができても、おそらく美月にだって即刻報告しないタイプに見えるけどな、どう?」
「それは、たぶんそうです・・・ね」
「ね? 結構古風なのよ、玲子も、由利ちゃんも。でも玲子はこのラディに相当夢中だったんだと思うのよ、今にして思えば」
「そうですか・・・」

 由利は沈んだ声で言った。

「でもね、由利ちゃん。玲子とあなたの父親にあたる人との間に何が起こって別れたのかは、たしかに私にもわからない。だけど一時であるにせよ、ふたりは本当に愛し合っていたことは真実よ。あなたは玲子とあなたのお父さんにあたる人が真剣に愛し合った末に生まれた子なの。だからあなたは自分の出自や玲子がシングル・マザーであることを恥に思う必要はないのよ。堂々としていらっしゃい」

 由利はそれを聞くと思わず、ぽろぽろと涙を流した。

「芙蓉子さん、あたし・・・ずっと母のお荷物なんだと思っていたんです。心ならずも妊娠したことをずっと悔やんでいるんじゃないかって。母はあんなふうに責任感の強い人だから、自分の中に命を授かったことを知って、使命感からあたしを産んでくれたんだろうって。でもあたしが生まれていなかったら、きっと母はこんなに苦しむこともなかっただろうって思っているのは辛かった・・・」
「由利ちゃん・・・。ずっとひとりで重いものを抱えて悩んでいたのね、可哀そうに。でもそうじゃない、そうじゃないのよ。真相は反対よ。おそらく玲子はきっとあなたがいなかったら生きていけなかったと思うわ。あなたを一人前に育てることが玲子の心の張りや支えになってきたと思うの。だけど玲子は不器用なところがあるから、自分の弱みを娘に見せられなかったのね」
「ふ、芙蓉子さん」

 由利は涙で顔がぐしゃぐしゃになった。芙蓉子さんは黙ってバッグからタオルハンカチを渡してやった。

「玲子はね、ある晩、大きなお腹を抱えて、私に会いに来たのよ」
「それはどういう?」
「玲子は大きな声で泣いていた、泣いていたの」

 芙蓉子は当時を思い出すように言った。

「どうしたの?ってわけを聞こうとしても玲子は『ラディとは結婚できなくなった』と答えてくれた以外は何も教えてくれなかった。だけどおそらく、私を頼るしか他に当てがなかったのね。玲子は私に手をついて頼んだわ。『お産をする間だけ、傍について欲しい』って」
「それで芙蓉子さんはどうなさったんですか?」
「私? 私もそのときすでにお腹に美月がいたの。だから女ひとりで子供を産まなければならない玲子の心細さは、痛いぐらい分かったわ。だから当時私が通っていた産院で、あなたを産むことができるように手続きをとって。幸い私の母の実家が山科にあって、祖母がその春に亡くなって空き家になっていたのよ。母に頼んでしばらくは玲子にそこで静養してもらっていたわ」
「え、本当に?」
「そう、そしてあなたが生まれて一か月になるのを待って新幹線に乗れるようになると、ふたりで東京へ戻って行ったわ。たぶん玲子はあなたの面倒を見てくれる保育園を捜した後、復職したんでしょうね」
「そうだったんですか」
「ええ。玲子にしてみれば、高校を卒業したあと、お父さんと大喧嘩して京都を飛び出したわけでしょう? 女ひとりでも生きて見せるって啖呵を切って家を出たのに、フランスで恋に破れて父親のいない子を出産しにおめおめと戻るなんて虫のいいことができなかったんでしょうね。私の母もそこらへんの事情をよく知っていたからね、玲子を可哀そうに思ったのか、山科の家に滞在することを承知してくれたの」
「そうだったんですか・・・。あたしそんなこと全然知らなくて」

 自分の出生にまつわることで思ってもみなかったドラマが展開されていた。そしてどういう偶然からか恩人であるこの人とそれとは知らずに再会していた。由利は運命の力に感動していた。

「ふふ。そうそう、由利ちゃんの名前を付けたのは、実はこの私なのよ」
「ええっ? そうだったんですか!」

 由利はまたひとつ思いがけない事実を知らされて、目を大きくまん丸に見開いていた。

「そうなのよ。生まれたばかりの由利ちゃんは色が透き通るように白くってね。ハーフの赤ちゃんって新生児の間は髪も金色で瞳も青みがかっているの。それが本当にきれいで可愛くてね。それでね、あなたが生まれたとき、産院のロビーに立派な鉄砲百合が何本も活けてあったの」
「鉄砲百合・・・?」
「ええ、鉄砲百合よ。それはそれは、真っ白で、凛としていてね。その花を見ているうちに赤ちゃんのあなたの姿と重なって見えたの。この子もこれから生きていく先々でいろんな困難が待ち構えているだろうけど、こんなふうに気高く毅然として、一本芯の通った女の子に育って欲しいと思ったの・・・。それで玲子に「ゆり」ってつけたらって提案したのよ」
「へぇ。そうだったんですね。じゃあ美月はおそらく・・・」
「そう、生まれたとき、月がね、満月できれいだったから」
「ふふふっ、あたしたちのネーミングの理由って結構単純なんですね」
「あら、名前なんてものはね、それぐらいでちょうどいいのよ。だけど由利ちゃんが名前に違わず、きれいな女の子に成長したのを見てうれしかったわ」
「そんな、あたしなんて」
「あら、何を言っているの、由利ちゃん、もっと自信を持ちなさい」
「でも・・・あたしなんて……こんなふうにあり得ないほど背が高くて…。この間も男子にからかわれて…。そういうのが、本当に嫌で…」
「由利ちゃん、ダメよ。自己憐憫は」

 今まで優しかった芙蓉子は、急にピシリと厳しい態度をとった。

「自己憐憫ですか?」
「そう。自己憐憫なんてまっとうな人間が最も犯してはならない愚行よ。きちんと自分と向き合って冷静に分析することも努力もせずに、可哀そうだなんて自分を甘やかしてはダメ」

 そう言われると由利は途端にしゅんとなった。

「背の高さなんてものは所詮、相対的なもの。たしかに由利ちゃんの身長は、ここ、日本では男並みに高いのかもしれない。だけどそれが一体何? きっとあなたのお父さんの国に行けば、女としてはやや背が高いかなって程度よ。あなたの悩みはフランスやイギリスへ行った時点で瞬時に解消されるの。それに北欧に行けば身長が百八十センチを越した女性なんてそこら中にゴロゴロしてるわ」
「そうなんですか!」
「そうよ。背の高さが自分を卑下する理由になんかならないわ。いい? そんなことで悩んでいること自体ナンセンスよ。そもそも美しさなんて時代と場所が変わればびっくりするくらい変わるものなの。そんなものに一喜一憂しているなんて馬鹿らしいと思うわ」
「・・・たしかにそうですよね」
「いい? よく聞いて。どんなに自分がすばらしいと思われる資質を持っていたとしても、当の本人がそれを認められなかったら、人の賞賛も心に響かないものよ。たとえば世の中の人にうらやましがられる金髪だって、それが美しいと認められない人は真っ黒に染めるものなの」
「え、そうなんですか?」

 それを聞いて由利はびっくりした。天然の金髪は人類の2パーセントしかないと何かで読んで覚えがある。たいていの人は憧れて金髪に染めるものだが、せっかく人もうらやむ金髪に生まれながら黒髪に染める人もいるなんて。

「そんな人は自分の良さが認められなくて、ないものねだりするのね。由利ちゃん、今のあなたがそうよ。あなたは長所をたくさん持っている。まずはその長所に自分自身が気づいてそれを認めてあげなくては」
「でも・・・何をやってもママには適わないし」
「ふふ。そういうところ、玲子にそっくり。よく玲子も高校生のころはそう言ってひがんでいた」
「ええっ、ママが?」
「そうよ。玲子だって高校生の頃は、自分の才能も、自分の美しさも、何にも気づいていなかったわね」
「でもママは・・・あたしなんかと違ってものすごく頭が良くて」
「それは違うわ。玲子は努力の人よ。高校に入ったときの成績は、実はこの私のほうが勝っていた。でも帝都大を目指すって決めてから、血のにじむような努力をしてきたのを私は知っているわ。だからその姿に心を動かされて周りの先生やクラスメイトも助けてやろうって気にさせたのよ」
「そうなんですか?」
「ええ、そう。そうなのよ。人間は意志の力が運命を左右するの」

 そのことばは由利の心に直に入って行って、慈雨のようにうるおした。由利はまた涙がじわりと出てきた。

「ありがとう、芙蓉子さん。あたし、もうちょっと自分のことを大事にしようと思います」

 それから何かが吹っ切れたのか、由利は芙蓉子が仰天するほどよく食べた。


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境界の旅人14 [境界の旅人]

第四章 秘密



 期末試験も残すところあと一日になった。三時間目で今日の試験が終わって、家に帰るとLineに未読のメッセージが入っていた。玲子からだ。

「今日は十時ごろには手が空くので、必ず電話してね」

ユーモアのセンスに乏しい玲子が選んだにしては可愛いスタンプが、メッセージの下に一緒に付けてあった。

 風呂に入ってから、軽く浴室を冷水で掃除したあと、時計を見れば十時を過ぎていた。由利は玲子に電話をあわてて電話をかけた。

「もしもし、ママ?」
「ああ、由利、元気にしてる?」

「うん」

 嬉しそうな玲子声が聞こえる。最後に電話してから二週間以上、間が空いていた。


「由利、学校はいつから休み?」
「えっと、今月の半ばぐらいかな」
「じゃあ、学校が終わったら、一旦、顔を見せに東京へ戻っていらっしゃい。久しぶりに親子水入らずでおいしいものでも食べましょうよ」
「うん!!!!!」
「それからショッピングにでも行ってお洋服でも買ってあげようかな。好きなのを買いなさい」
「わーい、ほんと?」
「ええ。由利、おねだりしていいわよ」
 玲子もひとりきりで寂しくなったらしい。
「いつ帰ろうか?」
「あ、そうだわ」
 玲子が思い出したように言った。
「言った傍から申し訳ないんだけど、ママね、七月の二十日までは学会でニューヨークに行かなきゃならないの。帰ってくるのが二十一になると思うから、それからにしてもらっていい?」
「二十一日? その日に成田に着くってこと?」
「時間はまだわからないけど、たぶんその日は遅くなると思うのね。だからそうね、二十二日以降にしてもらえると助かるんだけど・・・。由利は何か予定があった?」
「うん、たぶん部活が毎日入っているはずだけど、いいよ、そんなの。家庭の事情だし。ママは休みが取れそう?」
「そうね。じゃあ、二十二、二十三と休みを取らせてもらえるよう、職場に掛け合ってみるわ。何かあったらまた連絡するから」
「うん、ママも。いくら若く見えてもトシなんだから無理は禁物じゃぞ」

 お道化て由利が、母親を労わった。

「あはは、そうよね。ママもオバサンらしくおとなしくしておくわ。ありがと、由利。こっちに来るのを楽しみにしているから。それまで風邪をひかないように大事にしていてね。じゃね。おやすみなさい」
「うん、ママもね。おやすみなさい」

 玲子との電話での会話は、女同士につきもののだらだらとした長話もなく、実にあっさりとしたものだった。
 そのあとスマホのカレンダーアプリに帰省の予定を記入して、由利は明日の地理のテストの勉強をするためにノートと教科書を開いた。


 由利にとっては三郎の存在自体が、ひとつの大きな謎だった。
 三郎は自分のことを「時間と空間がお互いに絡みあわないように、まっすぐ進んで行くのを見張っている、ポイントごとの番人」だと説明した。

 美月は「椥辻(なぎつじ)三郎」と会話したことなどすっかり忘れていた。いや単に「忘れた」というより、まったく覚えていない。三郎が何らかの方法で美月やクラスメイトの記憶を改ざんしてしまっている。

「時間と空間の番人・・・。それって一体どういう意味よ?」

 まったく信じがたいことだが、その段で考えていくと、三郎は普通の人間ではないということになる。
 いつから番人になったのかは知らないが、少なくとも昨日や今日ではないはずだ。それならいつぞや『昔を偲んでいた』というセリフも理解できる。過去のある時点から何かをきっかけにして、必ず死ぬ運命にある人間を超えた存在として、三郎が今日まで生きてきたのであれば。
「三郎は、あたしのことを『土地の感情をゆるがすような要因がある』存在かもしれないって言ってた。それってどういう意味なんだろう? 解らない・・・そんなの解るはずがない」
 由利は京都に来てから自分の身の回りに起こった超常現象を、ひとつひとつ思い返してみた。
 最初は京都に来たばかりのとき、まず御所の近衛邸で妖怪たちに襲われた。
 三郎は化け物たちのことを、煩悩が強すぎてこの世にとどまっている者たちだと言った。由利はそのとき、何かのはずみで物の怪たちが棲息している次元のチャンネルに合ってしまったらしい。これは一応三郎の説明で納得できる。
 そしてふたつめは、中世の京(みやこ)に魂だけがタイムスリップしてでその時代の女御の身体の中へと入ってしまった。女御はおそらく帝の臣下と道ならぬ恋をしていた。
 最後のみっつめは、第二次世界大戦直後の京都へタイムスリップしたこと。
 この三つは、状況が似ているようで似ていない。 

 由利はふと弓道部を見学した日のことを思い出した。
 由利と美月が一緒になって三郎と話していたとき、常磐井が三郎に一瞬向けたあの険しい目つき。三郎を見たときの常磐井の反応はいつもと違い、明らかにおかしかった。たぶん常磐井は、三郎が尋常な人間でないことに勘づいている。

「あのとき、常磐井君は実はあたしと美月を三郎から引き離したくて、弓道部の見学をしろって言ったんじゃないかな?」

 地理の教科書を見つめながら、由利はぼんやり考えた。

「常磐井君なら、何か知ってるかもしれない」

 おそらく常磐井は由利の力になってくれるに違いない。とはいえ確固とした根拠はないのだが…。女御と公卿の秘密の恋には常磐井が、何らかの形で関わっているように思えてならない。それだけに常磐井に安易に近づくのはためらわれた。
 由利はここまで考えて、ほうーっと長いため息をひとつ付いた。

「いやいや、解決の糸口のつかないことでぐちゃぐちゃ悩んでいるより、明日のテストのことに集中しようっと」

 由利はイヤホンをつけ、今ハマっているジャスティンの『パーパス』のアルバムの音量をいつもより大きくした。





 一学期の期末試験も最終日を迎えた。
 精神的に開放された桃園高校の生徒たちの多くは、連れ立ってマックかモスバーガーで昼食を食べ、そのあと映画を見に行く。行先はJR二条駅近くの「東宝シネマズ二条」か、あるいは繁華街にある「Movix京都」だろう。おそらくはアイドル映画かアクション映画をみんなで見るはずだ。


 美月も出町の商店街に比較的新しくできた「出町座」で一緒に見ようと誘ってきた。

「ねぇ、由利。出町座で『サスペリア』見ない?」
「『サスペリア』? 何か聞いたことがあるような・・・?」

 由利は首をかしげた。

「そうだよ。1977年に作られた映画だもん」
「それ、どんな映画?」

 由利は嫌な予感に襲われて、質問した。

「ん~、オカルトかな? HDリマスター版なんだって。鬼才ダリオ・アルジェントが創造したゴシックホラーの金字塔だよ?」

 理屈の好きな美月は、また難しいことを言ってきた。

「却下。無理無理。怖いの、絶対に見ない主義」
「え~、そうなのぉ~。怖いの見るとすっきりしていいのに」

 いやいや、と由利は心の中で顔を横に振った。現実世界でもそうとう怖い思いをしているのに、映画まで怖いのはお断り。だがよくしたもので、やはりオカルト好きの友人が美月と一緒に見たいと申し出たらしく、しつこく誘ってこなかった。

 三時間目が終了するベルがなるや否や生徒たちは喜び勇んで帰る用意をした。

「美月! 出町座は座席指定できないんだから、早く行くよ!」
「うん、チカちゃん。わかった!」

 美月たちはあわてて教室を飛び出していった。

 気が付けば教室にはちらほらとしか人が残っていなかった。由利はこのあと予定がなかったので、のんびりと帰り支度していると、これまでほとんど話したことがないクラスメイトがおずおずと近づいて来た。
 それは、クラスの女子カーストでは最上位についている河本春奈だった。

「ねぇ、小野さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど・・・?」

 華やかな雰囲気があり、きゅんととがったあごと大きな瞳が印象的だった。だが由利にとって普段は、まったくと言っていいほど交わりの無い子だった。上目遣いで挑むようにじっとこちらを見上げて来る。その瞳の中に不穏なものが隠されていることを由利は感じ取った。

「河本さん。うん、聞きたいことって? なあに?」

 相手に自分が警戒していることを悟らせないように、少し鈍いふりを装った。

「あの・・・、小野さんってもしかしたら、常磐井君と付き合ってるの?」

 春奈は由利の心の内を探るように訊いた。春奈の鋭さに由利は驚いた。

「え、常磐井君? ううん。ないない、そんなの。付き合ってなんか」

 由利はとっさに両手を振って、全否定した。

「そうなの?」

 それでもどこか疑いを向けた目で、春奈は問い質した。

「うん」
「じゃあ、もしあたしが常磐井君にコクって、付き合うことになったとしても小野さんは別段あたしに文句はないよね?」
「え、うん。あたしと常磐井君とはそういう意味では、何の関係もないし。彼がどんな人と付き合おうが、あたしが文句言える筋合いはないのは確かだけど?」
「ふうん。そうなんだ。それ、本当?」

 春奈の目はそれでもどこか警戒の色があった。

「うん。そう。だけどどうして?」
「常磐井君の視線をたどっていくと、たいてい小野さんに突き当たるから。常磐井君、小野さんのことが好きなのかなって」
「常磐井君が実際にあたしをどう思っているかなんて・・・そんなこと、あたしにだって解らないよ。でもあたしは彼のことを何とも思ってないし。河本さんが気にすることないんじゃない?」

 実際は何とも思っていないどころか、相当常磐井のことが気になっていたが、春奈の前で自分の本心をさらすわけにはいかなかった。

「じゃあ、あたしがもし常磐井君と付き合うことになったとしても小野さん、邪魔してこないでね」
「もちろん。それはもう」

 由利の答えを聞いて春奈は、一応納得したようだ。

「あたし・・・絶対に彼のこと、振り向かせて見せるから!」

 春奈は由利に宣言した。しかし由利は心の中で、河本春奈の幼稚な態度にムカっと来ていた。ことばで恋敵から言質を取って牽制しようとしても、なるようにしかならないのが男女の仲だ。だからと言って今の自分は、春奈の恋敵ですらないのだが…。

「あ、うん。河本さん。頑張ってね」
「うん。言いたかったことはそれだけ。じゃね」

 由利から逃げ去るように春奈は、バタバタと教室を飛び出して行った。






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境界の旅人13 [境界の旅人]


 
 その晩、由利は試験勉強に余念がなかった。だいたいどの科目も四十五分単位で切り上げて次に移ることに決めている。そんなふうに時間配分をしたほうが自分にとって効率的だと思っていたからだ。
 そのとき由利は、ジャスティン・ビーバーの『パーパス』を聞きながら、ボールペンを使って新聞の広告の裏に英単語のスペルの練習をしていた。漢字とか英語のスペルというのは、実際自分の手を使って覚えたほうが確実にものになる。

「あれっ?」

 今、『acquaintance(知り合い)』という単語を書いていた。こういうcとqがくっついている単語はとかく間違いやすいので、結構念入りに書いて、身体に染み込ませるように覚えなければならない。だが途中で書いている文字が徐々にかすれていき、とうとうインクが出なくなった。
 ボールペンを持ち上げ、ペン軸を見るとほとんどインクがない。

「ああ、なんでこう調子が乗ってきているときになくなるかな」

 イラっとした調子でぶつくさとひとりごとを言った。由利には密かなこだわりがあって、ボールペンにはうるさい。だがそのこだわりというのは「自分にとって書きやすいか否か」という一点にあるので、見栄えやブランドなどは一切関係ない。このボールペンは自宅よりちょっと離れたファミマで売っていたものをたまたま買ったのだが、それがなかなか使い勝手がいいということに気づいた。それ以来、ボールペンはとりあえずそこで買うことにしている。

「ん? 今何時?」

 時計を見ると十時半。祖父はすでに床に就いている。

「仕方ないなぁ。気分転換に夜中のお散歩と行きますか」

 由利は近場にお買い物専用のミニ・バッグに財布を投げ入れると、物音で祖父を起こさぬよう音を立てないように階段を降り、そっと玄関の引き戸を引いて、外へ出た。
 ファミマへ行くと、まだ人で結構にぎわっている時間のはずなのに、めずらしく店員のほかは誰もいなかった。とりあえずお目当てのボールペンの赤と黒を二本ずつ買い、眠気覚ましのためにコーヒーマシンに氷の入ったMサイズのカップをセットしてコーヒーを淹れると、蓋をして店の外に出た。

「ん?」

 外が妙に明るい。
 空を見ると西の空はオレンジ色に染まっていた。太陽はまだ沈んだばかりのようだ。

「え、なんで?」

 由利は思わず、もう一度ファミマのほうへ振り替えると、ついさっきまでそこにあったはずの店舗が跡形もなく消え去り、現れたのは映画でしか見たことのないような古い京都の街並みだった。
 びっくりして思わず横軸を走る中立売通りを見ると、目の前をガタゴトと音を立ててN軌道の市電が自分のそばを通り抜けて行った。

「え、どうして? あたしったらまた変な世界に来ちゃった?」

 そしていつぞや三郎が教えてくれた通り、市電は堀川に掛かっている橋梁を渡って、あの道幅の狭い東堀川通りへと向かって行った。

「今いる時代はいつごろなんだろう?」

 仕方がないのでとりあえず由利は、元来た道をたどって自分が住んでいる家のほうへと歩いた。たしかに道は変わっていないのだが、現れた街の風景はまったく違う。
 どの家も黒い瓦に玄関の横の窓には黒い桟が取り付けてあり、なんとなく町全体が黒っぽくすすけて、陰気に見えた。すれ違う人はたいてい男の人はカーキ色の開襟シャツ着て、女の人は和服にモンペを履きその上に割烹着を付けていた。

「男の人の恰好って、戦争中に着るよう義務づけられていた、いわゆる国民服ってものなのかな?」

 通る人、通る人みな一様に背が小さく小柄で、男でも百七十センチある人はほとんどいない。逆にそういう人たちからすれば、由利は雲を突くような大女に見えるはずだ。しかも二十一世紀の現代に生きる女子高生らしく、由利はユニクロで買ったバミューダ・パンツにブラ付きノースリーブを着、その上にシャツを羽織り素足にはナイキのスニーカーを履いていた。だがこんなごくありふれた格好でも七十年以上も昔の時代にあっては完全に周りから浮いていた。
 ひとりの小さな男の子が由利のほうへ駆けよって来た。

「ギブ・ミー・チョコレート」

 たどたどしい英語でチョコレートをねだった。だが由利は、生憎アイスコーヒーの他には食べるものを何も持っていなかった。

「あ、ごめんね。今チョコレート持ってなくて・・・。あ、そうだ、これ、アイスコーヒーだけど良かったら飲んでみない? ミルクもお砂糖も入ってなくて苦いとは思うんだけど」

 由利は少しかがんで、コーヒーのカップが入った白いビニール袋を差し出した。男の子は黙ってそのビニール袋を受け取ると、誰にも横取りされまいとして、ぎゅっとビニールの持ち手を握りしめ、抱えるように走り去っていった。それを見て由利は、この時代に生きる子供の厳しさというものを、肌身を通して直接感じた。

「まだほんの小さな子なのに・・・。あんな必死な感じ、『飽食の時代』って言われているあたしたちの世代には絶対に見られないもんだわ。日本もかつてはこんな時代があったんだ・・・」

 しみじみとそう言うと、ふと立ち止まって考えこんだ。

「ということは、あたしが今いる時代は、第二次世界大戦直後の京都ってこと? さっきのおじさんはたぶん戦後の物不足のせいで他に着るものがないから、国民服を着続けているってことなんじゃないかな」

 由利は少し冷静になって、こう類推した。

「じゃあ、あたしが住んでいる家はどうなっているの?」

 興味に駆られて、由利は小走りになって家のほうへと向かった。
 由利がもとの世界で住んでいた場所にいくと、見知らぬ家が建っていた。だがよくよく観察すると、家の形自体は、由利が祖父と住んでいた家と変わりがない。一見違って見えたのは、たぶん七十年も時代が経つうちに、玄関や窓などを修繕したせいなのだろう。
 なるほどと思いながら、家のほうをうかがうと中からこの家の主婦とおぼしき女性が玄関から出てきた。

「たっちゃーん! たっちゃーん!」

 女の人は口に手を当てて誰かを呼んでいる。

「おーい、たっちゃん! 辰造!」

 由利は主婦が口にした名前を聞いてハッとなった。「辰造」は祖父の名前だ。

ーするとこの人は、あたしのひいおばあちゃんなんだー

 曾祖母にあたるはずの主婦は、じっと様子を見ていた由利に気が付いたとみえ、不審そうな顔をして頭から足の先までさっと視線を走らせたあと尋ねた。

「あ、あの・・・。なんぞうちにご用でもありましたん?」
「あ、いいえ。何でもありません。すみません」

 そうやって由利が急いでその場を立ち去ろうとすると、通りの角からひとりの小さい男の子が由利のいる方向へ駆け寄って来た。
 まだ幼稚園児ぐらいの小さな子だ。学生帽を被りランニングに半ズボンを履いて、足は草履をつっかけていた。

「辰造! もうすぐ夕飯だから、もう家にお入り」

 どうやらこの子が祖父の辰造らしい。由利は祖父の可愛らしい姿に少し頬を緩めた。

「いやや! もうちょっと遊びたい!」
「あかん! 早ううちにお入り」

 曾祖母は目の端でちらっと由利の姿を見ながら、祖父の両肩に手を回して、急き立てるように家の奥へと入って行ってしまった。たぶん曾祖母は未来から来た由利のいでたちを見て何者かを類推することができず、警戒したのだろう。



 複雑な気持ちを抱えながらも由利は、堀川通りのほうへ歩いた。すれ違う人、すれ違う人がじろじろと由利を見ていく。居心地の悪さといったらない。だがふと由利は、ここに来たばかりの頃に見たあの赤いレンガの建物の姿を思い出した。今行けばきっと何のために建てられたものなのかがはっきり分かる気がした。だからそのまま今歩いている横の通りをまっすぐ直進して、堀川にかかる橋に足を踏み入れた。すると今は橋の下が公園となっている川には、滔々と水が流れていた。

「ああ、昔の堀川はちゃんと水が流れていたんだね」

 そのまま、東堀川通りを南に向かって中立売通に向かうと由利の住む世界では見られない用水路が通りに沿って走っており、それが堀川に流れ込んでいた。

「へぇ、中立売通りって昔はこんな用水路があったんだ・・・」

 たかだか時間が七十年を経ただけだというのに、街の様子がこれほど変わってしまったことに由利は少なからず驚いていた。
 例の場所へ行くと由利が春に見たときのように、見る影もなく落ちぶれ果てた老貴婦人のような姿は、そこにはなかった。代わりに目の前に現れたのは、こじんまりとしているが化粧漆喰が施された瀟洒な洋風建築だった。
 戦争に敗れたせいで手入れもされず、荒んだ民家ばかりがある中で、華やかな赤い色のレンガが組まれたこの建物だけは周囲にひときわ異彩を放っていた。入口までのアプローチも土地を切り売りされて人がかろうじて通れるだけのみすぼらしい路地ではなく、堂々として大きな石畳が敷き詰められていた。

 かつてはその石畳を縁取るように色鮮やかな植物も植えられていたに違いなかった。だが戦時中は花を愛でようという気持ちも贅沢と見なされていたのか、植物も根こそぎ抜き取られたらしく、そこだけ土がむき出しになっていた。それが由利の目には痛々しく移った。

「この建物って本当はこんなに立派だったのね」

 ひとりごとをつぶやいたはずなのに、そのつぶやきに対して答えが返って来た。

「ここはな、市電を走らせるために建てられた変電所だったんだ」

 いつの間に現れたのかすぐそばに三郎が立って、由利と一緒に変電所を眺めていた。

「三郎!」

 由利はあっけに取られ、しばらくは声も出せずに呆然と突っ立っていた。虚脱している由利をみて、三郎はニヤリと笑った。

「これが作られたのはもうすぐ二十世紀も訪れようかっていう1895年。明治28年のことだ。日本で最初に市電が通ったのがここ、京都だった。蹴上発電所で発電された電気を利用して市電を走らせたわけなんだが、いかんせん距離的に遠いからな。だからここに変電所を設けたんだ」
「なぜあなたがこんなところにあたしといるの? それにどうしてそんなこと知ってるの?」 
「前にも言ったろ? 一度にふたつ以上の質問はするなって」
「だ、だって・・・」
「おれは、時間と空間がお互いに絡みあわないように、まっすぐ進んで行くのを見張っている。まぁ、それがおれの使命だ」
「誰に?」
「誰に? さぁ、それはおれにも解らない。ただ解っているのは、そういう使命を背負わされているってことだ」
「じゃあ、三郎。あなたは日本中、世界中の、えっと何だっけ、その、言うところの『時間と空間』とやらを見張っているってわけ?」
「そんなはずないだろ。おれひとりの力でできることなんぞ、たかだか知れている。世界中にはそれぞれの場所ごとにポイントがあって、おれのような番人がいるはずさ。おれは単にここの担当ってだけ」
「なんで以前、変電所を見ていたときに、そのことを教えてくれなかったのよ?」
「おれは他人の人生になるべく介入しない。介入すればその人が本来たどるべき運命が狂ってしまう。となると当然、歴史そのものも変わっていくだろうからな」
「人の運命って決まっているの?」
「人っていうのは、あらかじめ越えなければならない試練というものをきちんとプログラミングされてこの世に送り出されるもんなんだ。歴史が変わると本来その人が受けなければならない試練というものが受けられなくなる可能性があるからな。そうなっては生まれてくる意味がない」
「じゃあ、どうして今になって教えてくれるのよ」
「それはおまえが、本来は体験するべきはずのないタイムスリップをしているからに決まっているだろ?」
「あたしがタイムスリップするのは、どうして?」
「さあな。それはおまえがこの土地の感情になにか強く働きかけて、時空のひずみを引き起こしているのかもしれない。おまえが京都御苑で出会ったものたち、あれは普通の人間だったら、決して見ることができないものだった。同じ場所に存在しても、次元が違うんだ。同じ場所に異なる階層が重なっているんだよ」
「あたしが普通に暮らしている場所は、どういう階層?」
「ま、おまえらのことばで言えば『この世』なんじゃないの?」
「じゃあ、あたしが近衛邸であったあの化け物たちがいる階層は?」
「ああ、ああいうのは、本来死んだら次のステージに移行しなければならないのに、この世に未練や執着やらで固執しているやつらの留まっている場所さ」
「あなたはあの時、何をしていたの」
「ああいうやつらは放っておくと、グレるっていうかな。悪しき想念がひとつになり巨大化して『この世』に悪さをすることがあるから、時々ああやって機嫌を取ってやらなければならないんだ。ま、厄介なしろものさ」
「でも・・・あたしがこんな目にあったのは、京都に来てからよ」
「土地にも記憶があり、思念があるんだ・・・。おまえはそういう土地の感情を揺るがすような要因があるのかもな。特にこの辺は土地にパワーがあるから、なおさらだ」
「そ、そんな・・・」
「とにかく、おれはこういうことが度々起こって欲しくない。それでおまえをずっと見張って来たんだけど、あんまりこういうことが起きるとなぁ。ほら、ゲームにもバグってものがあるだろ? おまえゲームやったことあるか?」
「うん。ときどきなら」
「ゲームにバグがあると、時々想定外の誤作動が起こったりするだろ? チャージしていたはずのパワーがなぜか0%になっていたり、本来ならありもしない空間にゲームの中の登場人物が落ち込んだりするヤツ。もしそういうことになるとプレイヤーは下手すりゃ、はじめっからやり直さなきゃならない羽目になる」
「じゃあ、あたしが京都に来たことはゲームのバグみたいなものだっていいたいの?」
「まあね」
「じゃあ、三郎はあたしをどうするつもり?」
「おまえがこういうふうに何度も時空のひずみを引き起こすことになると、それを取り除かなきゃならなくなる。バグは本来あってはならないものだからな」
「じゃ、じゃあ、何? あたしの存在自体は間違いだっていうの?」

 由利は自分の存在自体が全否定されているような気がして、ヒステリックに叫んだ。

「まぁまぁ、そういきり立つな」

 三郎は由利をなだめようとした。だが由利の目からは、後から後から涙が溢れてくる。

「そうと決まったわけじゃないさ」
「でも今、三郎はそう言ったじゃないの!」
「判断を下すのはおれじゃない。それにまだ、そういうふうに命令が下されたわけでもない」
「誰が判断するの?」
「さあ、しかとは解らないけど、おれたちなんかより、はるかに高次元の存在さ。まぁ、安心しろ。高次元の存在っていうのは、人間みたいに非道なことはしない。まぁだからと言って、甘やかしてくれるわけでもないけどな。もっと理性的なものだ。人間の及びもつかない深い慈愛と思慮に基づいて判断は下されるものだから。どんな人間も生まれてきたことには、きちんとした理由があるものさ。もちろん、おまえだってだ。まずはそれを信じろ」
「じゃあ、あたしは否定されているわけじゃないのね。間違って生まれてきたわけじゃないんだね」

 由利は三郎に確かめるように訊いた。

「そりゃそうさ。だから今、おれが原因を探っている」

三郎は諭すように言った。

「さあ、おまえは元の世界へ帰れ。そしておまえの為すべきことをやれ」

 三郎は由利に命じた。

「帰るって言ったってどうやって?」

 ふたりは一条戻り橋の前まで来た。

「この橋はこの世とあの世を繋ぐ橋なんだ。昔からおまえみたいな人間っていうのは一定数いたらしいな。この橋はそのためのツールさ。そういう場合はこの橋を通れば、また元の世界に戻れる。さ、行くんだ」

 三郎の声にはどこか由利に対する憐みが含まれていた。それを聞くと由利の身体はいいようのないやるせなさに包まれた。

「三郎は?」
「おれのことは気にするな。さ、行け」

 由利は言われた通り、一条戻り橋を渡った。すると黒い家並みは消え、堀川通りの信号が青緑色に点滅しているのが見えた。通りには車が流れるように走っていく。
 振り向くと、やっぱりそこには三郎の姿はなかった。


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