樹木希林の遺作 『日々是好日』 [読書・映画感想]
皆さま、こんにちは。
昨日ですね、先ごろみなさまに惜しまれて亡くなった樹木希林さんの遺作である
『日々是好日』を見に行ってきました。
これ、見るまでどんな映画かわからなかったのですが、
全く茶道を知らない女の子たちのタハハなリポート的ノリの映画なのかなと思ったら、
そんなことなくて、結構重たくて考えさせられるものでした。
劇中で、樹木希林がお茶の先生に扮するのですが、
お稽古のとき、割り稽古だけじゃなくて、お手前のときに
「まず、左足を出して」とか「入口から風炉まで六歩で歩く」
とか、細かくイチイチ指導するのですね。
それで、黒木華と多部未華子が一生懸命、それを理解して暗記しようとするの。
だけど樹木希林先生は
「そういうのは、頭で考えるんじゃなくて、すっと身体が動くようになるまで練習するしかないの」
って叱るんですよね。
う~ん、
Don't think Just feel
ブルース・リー先生ですか。
これには私は苦い思い出があって、
若い時ちょっとだけかじったことがあったのですね、
私も。
やっぱり同じこと言われましたよ。
だけどね、それじゃあ、いつまでたっても覚えられないんですよ。
おおきな流れっていうのがいつまでたってもわからないんです。
今の人って、私のようにパラシュート型の思考をする人って多いんじゃないかな?
まず、なにをするのか大きくつかんで細部を細かく見ていく。
初めから細かいことをイチイチ指摘されちゃうと、わたしなんてビビりなもんで、
緊張しちゃってダメなんですよね。
茶道って音楽の稽古と全く別のアプローチだと思うの。
ピアノは逆に「無意識に弾いているということは、なにも思考していないってこと」
だから、まず、ざっと読譜してどんな音楽なのかを知って、それから全体に弾いて、
それから、右手は右手、左手は左手っていうふうに細かく練習していくもんでしたよ。
こういうふうに練習したほうが、両手一緒に何も考えないで、間違わなくなるまで練習するより、
各段に早く習得できるようになったと思うんですよね。
こういう教え方って、現代人にはそぐわない教え方だと思うんだよね、個人的に。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お茶って結局のところ、なにをしてるのっていうと、ただ、お茶を点てて飲むだけだよね。
まぁ、それだけの行為なんだけど、そこにはいろんな意味がある。
平安時代からずっと遣唐使を廃止したあとも、中国と貿易をしていました。
で、日本人のお金持ち、すなわち、貴族たちなんかは「唐物」っていってそれをすごく珍重しだすんですよね。
今の舶来主義と一緒よ。
で、そのうち、そういう唐物をどうやってかっこよく飾り付けるかっていうのを競うようになって、
「唐物荘厳」っていうのができた。
で、それから闘茶っていうのが流行ったの。
闘うお茶って何?って感じだけど。
お茶を飲んで、お茶の産地を当てるゲームね。
で、そういうのが時代が下がって、茶の湯になるのね、
禅宗が起こるのと同時なのかな。
まぁ、それが鎌倉、室町時代ですね。
要するに、ですね。
お点前というのは、各派でそれぞれ違うものですが、
あれは、ですね、私が思うに、
どうやったら動作が美しく見えるか、それを極めつくした最終形なんだと思うんですね。
利休のお茶がわびさびの頂点を極めたものなら、
武家茶の「きれいさび」みたいなものも出て来るし、
まぁ、美の形は一つじゃないので、
それぞれ、思うところがあって、今の形になったんだと思うのですね。
どうしてお茶碗の底にふきんで「ゆ」の字を書くか、
それは底を拭くだけなら、どんなふうに拭いても間違いじゃない。
「三」って書いても拭くという動作はできる。
しかし、それが「ゆ」になったのは、非常に美しい曲線がそこに描かれていて
それが傍目に見て、「美しい」と思えるからなのでしょう。
まぁ、本来の茶の湯は美の集大成だった、というか今もそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ですけど、今の世の中、茶の湯で身を立てている人なんていないと思うのですね。
なにか仕事があって、心の楽しみに習っている人がほとんどなんじゃないかなぁって思うの。
映画の主人公の黒木華は20歳から始めて、
だんだんと茶の湯の世界に惹かれていくんですね。
たしかに、それは美しい世界だと思う。
だけど、それは言ってみれば、逆転の発想であって、
嵐が吹き荒れる日でも、茶室に座って目を閉じ、外の風を聞き、自分が大気と一心同体になって
野分の激しさ、水の流れるさまを聴いているわけです。
必ずしも、そこには風光明媚でうららかな日ばかりがよし、という考えではない。
だからこそタイトルが『日日(にちにち)これ、好き日」となるのです。
こういう考えはたしかに美しい。だけど、さびしい。
人生はうららかな日差しのもとにバラが咲き誇る日があってもいいはず。
お茶にはバラの花って合わないんだなぁ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最後に樹木希林先生のお教室はお初釜の茶会をする。
茶会をするにあたって、先生はこうあいさつする。
「去年も同じように、ここでみなさんとお初釜をいたしました。
歳がめぐって同じことをする、それは一見平凡なことのように思いますが、
でも、その同じことをすることは、なんと平和でありがたいことでありましょうか」
そう、樹木希林先生は端正な表情で美しくあいさつをされた。
これは彼女のこの世の人にむかってのメッセージだったんだなと胸が熱くなりました。
去年も今年も同じように、とおっしゃったけれど、皮肉なことに、彼女はもうこの世の人ではない。
なにごとも「一期一会」という意味をしみじみとかみしめて家路につきました。
昨日ですね、先ごろみなさまに惜しまれて亡くなった樹木希林さんの遺作である
『日々是好日』を見に行ってきました。
これ、見るまでどんな映画かわからなかったのですが、
全く茶道を知らない女の子たちのタハハなリポート的ノリの映画なのかなと思ったら、
そんなことなくて、結構重たくて考えさせられるものでした。
劇中で、樹木希林がお茶の先生に扮するのですが、
お稽古のとき、割り稽古だけじゃなくて、お手前のときに
「まず、左足を出して」とか「入口から風炉まで六歩で歩く」
とか、細かくイチイチ指導するのですね。
それで、黒木華と多部未華子が一生懸命、それを理解して暗記しようとするの。
だけど樹木希林先生は
「そういうのは、頭で考えるんじゃなくて、すっと身体が動くようになるまで練習するしかないの」
って叱るんですよね。
う~ん、
Don't think Just feel
ブルース・リー先生ですか。
これには私は苦い思い出があって、
若い時ちょっとだけかじったことがあったのですね、
私も。
やっぱり同じこと言われましたよ。
だけどね、それじゃあ、いつまでたっても覚えられないんですよ。
おおきな流れっていうのがいつまでたってもわからないんです。
今の人って、私のようにパラシュート型の思考をする人って多いんじゃないかな?
まず、なにをするのか大きくつかんで細部を細かく見ていく。
初めから細かいことをイチイチ指摘されちゃうと、わたしなんてビビりなもんで、
緊張しちゃってダメなんですよね。
茶道って音楽の稽古と全く別のアプローチだと思うの。
ピアノは逆に「無意識に弾いているということは、なにも思考していないってこと」
だから、まず、ざっと読譜してどんな音楽なのかを知って、それから全体に弾いて、
それから、右手は右手、左手は左手っていうふうに細かく練習していくもんでしたよ。
こういうふうに練習したほうが、両手一緒に何も考えないで、間違わなくなるまで練習するより、
各段に早く習得できるようになったと思うんですよね。
こういう教え方って、現代人にはそぐわない教え方だと思うんだよね、個人的に。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お茶って結局のところ、なにをしてるのっていうと、ただ、お茶を点てて飲むだけだよね。
まぁ、それだけの行為なんだけど、そこにはいろんな意味がある。
平安時代からずっと遣唐使を廃止したあとも、中国と貿易をしていました。
で、日本人のお金持ち、すなわち、貴族たちなんかは「唐物」っていってそれをすごく珍重しだすんですよね。
今の舶来主義と一緒よ。
で、そのうち、そういう唐物をどうやってかっこよく飾り付けるかっていうのを競うようになって、
「唐物荘厳」っていうのができた。
で、それから闘茶っていうのが流行ったの。
闘うお茶って何?って感じだけど。
お茶を飲んで、お茶の産地を当てるゲームね。
で、そういうのが時代が下がって、茶の湯になるのね、
禅宗が起こるのと同時なのかな。
まぁ、それが鎌倉、室町時代ですね。
要するに、ですね。
お点前というのは、各派でそれぞれ違うものですが、
あれは、ですね、私が思うに、
どうやったら動作が美しく見えるか、それを極めつくした最終形なんだと思うんですね。
利休のお茶がわびさびの頂点を極めたものなら、
武家茶の「きれいさび」みたいなものも出て来るし、
まぁ、美の形は一つじゃないので、
それぞれ、思うところがあって、今の形になったんだと思うのですね。
どうしてお茶碗の底にふきんで「ゆ」の字を書くか、
それは底を拭くだけなら、どんなふうに拭いても間違いじゃない。
「三」って書いても拭くという動作はできる。
しかし、それが「ゆ」になったのは、非常に美しい曲線がそこに描かれていて
それが傍目に見て、「美しい」と思えるからなのでしょう。
まぁ、本来の茶の湯は美の集大成だった、というか今もそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ですけど、今の世の中、茶の湯で身を立てている人なんていないと思うのですね。
なにか仕事があって、心の楽しみに習っている人がほとんどなんじゃないかなぁって思うの。
映画の主人公の黒木華は20歳から始めて、
だんだんと茶の湯の世界に惹かれていくんですね。
たしかに、それは美しい世界だと思う。
だけど、それは言ってみれば、逆転の発想であって、
嵐が吹き荒れる日でも、茶室に座って目を閉じ、外の風を聞き、自分が大気と一心同体になって
野分の激しさ、水の流れるさまを聴いているわけです。
必ずしも、そこには風光明媚でうららかな日ばかりがよし、という考えではない。
だからこそタイトルが『日日(にちにち)これ、好き日」となるのです。
こういう考えはたしかに美しい。だけど、さびしい。
人生はうららかな日差しのもとにバラが咲き誇る日があってもいいはず。
お茶にはバラの花って合わないんだなぁ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最後に樹木希林先生のお教室はお初釜の茶会をする。
茶会をするにあたって、先生はこうあいさつする。
「去年も同じように、ここでみなさんとお初釜をいたしました。
歳がめぐって同じことをする、それは一見平凡なことのように思いますが、
でも、その同じことをすることは、なんと平和でありがたいことでありましょうか」
そう、樹木希林先生は端正な表情で美しくあいさつをされた。
これは彼女のこの世の人にむかってのメッセージだったんだなと胸が熱くなりました。
去年も今年も同じように、とおっしゃったけれど、皮肉なことに、彼女はもうこの世の人ではない。
なにごとも「一期一会」という意味をしみじみとかみしめて家路につきました。