境界の旅人 30 [境界の旅人]

第八章 父娘



「最近、ずいぶんと日が暮れるのが早くなったよねぇ」

 薄く日の名残りの残る窓の外を見て、美月がため息をついた。

「うーん。そりゃあ、ま、『秋の日はつるべ落とし』って昔から言うくらいだしね。でもさ、あたしは京都の夏の暑さがこたえていたから、むしろ涼しくなってくれてほっとしてる」

 お茶室の傍に設けられた水屋で、稽古で使った黒い楽茶碗を拭きながら由利は答えた。

「こないだ、炉開きもされたもんね。そっかぁ、もう十一月だもんね」
「うん」

 由利はことば少なに答えた。

「ね、あれからフランスのほうからは何か連絡があった?」
「ううん。何の音沙汰もなし」
「えっと、あの手紙を出したのはいつだっけ?」
「八月のお盆の頃かな。だから二か月半は丸々経ってる」

 顔色にこそ出していないが、由利ほどその手紙の返事が来るのを待ち望んでる人間はいないはずだ。気にならないはずがない。

「そっか・・・」

 美月は由利の恬淡とした表情から、かえって物事の深刻さを推し量った。

「でもさ、由利。もう少し待って何の反応も無かったらまた、次の案を考えようよ。何かいいこと思いつくかもしれないし」
「ありがとう。美月。気を遣ってくれて。だけどね『返事がない』ってことがひとつの立派な返事なんだよ。あの手紙は結局、あたしの父親にあたる人のところにたどり着けなかったか、あるいはたどり着いたとしても、当の本人が死んだか、それとも父親のくせにあたしやお母さんを捨てたことに一片の悔いもなければ、何の興味もない人間ってことなんだよ、きっと」

 由利のことばには、いつまで待っても名乗り出て来ない父親に対する恨みがこもっていた。

「由利・・・」
「ああ、もうこんな話よそうよ。気持ちが余計に暗くなっちゃう」

 由利の口調はサバサバしていたが、どこか表情が荒んでいた。



下足箱へ行って、由利が靴を履き替えるとつま先のほうに何かが入っているような違和感がある。脱いで調べると小さな紙きれが入っていた。さっと美月に悟られぬように文面に目を走らせると「いつものところで待ってる」とだけ記されていた。

 いつもならふたりで自転車を走らせながら北大路から堀川通りを抜けて南下して行く。だが由利は、自転車置き場のところで美月に言った。

「あっ、そうだ、美月。あたしうっかり忘れるところだったんだけどね、これからおじいちゃんの血圧の薬を取りに行かなきゃならなかったんだ。悪いんだけどあたし、道が反対方向だからここでバイバイしなくちゃ」

 由利がいかにも今思い出したように、もっともな口実を言った。それを聞いた美月は、目の端をきらりときらめかせながら口角を少し上げた。

 由利はさっと自転車にまたがると、そのまま行ってしまった。それを美月はじっと黙って見送ったあと、こっそりつぶやいた。

「由利…。女子校で鍛えられたあたしの目を欺けるとでも思ってんの? アイツはガチで肉食系だよ? 由利はただでさえ傷つきやすいのに…、痛い目に遭わなきゃいいけど」



 由利が向かったのは船岡山だった。船岡山公園のふもとで自転車を止めようとすると、先客はすでに来ているようで、黒くて大きな自転車が止められていた。それを見るやいなや由利は、急かされたように駆け足で頂上に続く階段を昇って行った。

 あらかじめ待ち合わせしていたのは昼間でもめったと人がこない場所で、その木立の影に潜ませるように相手は待っていた。

  由利は相手に、学校ではただのクラスメイトとしてしか自分に接してはいけないと固く約束させていた。まったく気のないそぶりをさせて、自分の席の脇や廊下をすれ違いざまに通り過ぎる相手の姿を見ているのが好きだったのだ。

「常磐井君!」
「由利!」

 ふたりはお互いの名前を呼びあったあとは、まるでN極とS極の磁石がくっつくように固く抱擁を交わした。

 常磐井の大きな温かい腕に抱きしめられながらキスされていると、まるで極上の真綿に包まれているかのような安心感がある。由利は緊張から解放されるこの一瞬がたまらなく好きだった。背の高さがコンプレックスである由利は常磐井が相手だと、幼い頃のように、素直に可愛い女の子に戻れるような気がする。今は目を閉じながら、自分を無条件にこうして受け入れ、抱きしめてくれる相手がもたらす陶酔感にうっとりと浸っていた。

 驚くほど長いキスのあと、やっとふたりは顔を離して会話した。

「ねぇ、オレって、いつまで他人のフリしてなきゃなんないの?」

 常磐井は不満げに漏らした。

「いつまでって、いつまでもよ」
「なんで?」
「なんでって、理由はないけど・・・。それにあたし、こんなふうに優しい顔もいいんだけど、学校では口許をきりっと引き締めている常磐井君を見ているほうが好きかも・・・。いわゆるギャップ萌えってヤツかな」

 由利はふふっと笑ったあと常磐井の胸に顔を埋めた。こんな態度に出られると常磐井は強く出ることができない。ちょっと困ったように由利の背中に手を当てた。

「こんなふうにデレデレしているところ、他の人には見られたくないの。誰にも知られていない秘密って甘美で、より恋に熱中できる気がする」
「それってさぁ、前世からのサガ?」
「まぁ、たしかに女御さまと中将は世を忍ぶ恋をしていたよね」
「由利・・・。ねぇ、いつまでこんなふうにキスだけなんだよ?」

 焦れに焦れたあげく、とうとうしびれを切らしたように常磐井は迫って来た。

「常磐井君、それは前にも何回も言ったよね。あたしは今のままの、この状態が好きなの」
「え、オレは嫌だ! 由利が好きだから、もっと触れていたい!」

「それは・・・常磐井君が男だから言えるセリフなんじゃない? 女は元には戻れないのよ」

「一度男を知ったら、元に戻れないってこと? もしかしてそれは遡逆性ってことを言ってるのか?」
「まぁ、それもあるけど・・・。あたしたち、まだたった十六歳の高校一年生なんだよ。行きつくところまで言ったからって、それでどうなるもんでもないじゃない?」
「由利・・・・・・。恋なんて、どうなる、こうなるって、理屈が先に来るもんじゃないっしょ。好きだからじゃ理由にならないの?」

常磐井は真顔で由利に懇願した。

「ねぇ、男の人ってとかく忘れがちなんだと思うけど、女の側にはこういう快楽には必ず妊娠っていう危険をはらんでいるんだよ」
「妊娠なんてそんなこと・・・絶対に由利にはさせないよ」

 常磐井のささやく声には幾分かいらだちが含まれていた。

「常磐井君・・・。こういうことにはね、絶対なんてこと、ありえないと思うの。そうすることは、まだお金も儲けたことのない子供のあたしたちがやることじゃないと思ってる。おのれの分をわきまえていないっていうか、不遜っていうか」
「そんなの、いつの時代でも、やってるヤツはもっと早くにでもやってるさ。不遜だの分不相応だのって、そんな理屈っぽいこと考えてるもんか」

常磐井は鼻白んだように言い放った。

「それにね、常磐井君にとって先に進むことは大事なのかもしれないけど、今のあたしには必要じゃないの。どうして恋愛のプロセスのひとつひとつを大事にしないで、先をそんなに急くのよ? あたしはね、常磐井君、いい? したくないのよ!」

由利は嫌悪の情も露わにして、常磐井を拒んだ。

「でもさ、少なくともキスはいいと思ってるんでしょ?」
「え、うん。まあね」
「じゃあ、きっとその先もいいよ」

 そうやって常磐井はもう一度由利を強く抱きしめ、気を引こうとした。だが由利は、そんな姑息な手を使った相手をぴしゃっと遮った。

「ねぇ、こんなにしつこいんなら、あたしもう帰る。あなたとは金輪際こういうことしない!」

 由利はさっさと元来た階段に通じる道へ戻ろうとした。

「ま、待てよ! せっかくやっとふたりきりになれたのに! 顔に似合わず気が短いんだからな、由利は」
「ねぇ、常磐井君って自分の将来はどう考えているの?」

 突然、由利はくるりと踵を返すと、まったく関係のなさそうな質問をした。

「オレの将来? そうだなぁ、まあ、どっか今の自分の成績に見合うような大学へ入って、やっぱ部活は武道系をやって、将来はオヤジの跡をついで道場を経営していくと思うけど?」

 戸惑ってはいたが、常磐井は誠実に答えた。

「ね? 常磐井君の中には、そんな明確な将来のビジョンがある。だけどその中にあたしはどう関わっていけるのかな? それを考えたことある?」
「えっ? 愛し合っててオレと一緒になって、オレの子供産んで・・・。道場主の妻として母として生きていくんじゃダメなの?」

 由利は呆れたようにじっと常磐井を見つめた。

「それってさ、要するに常磐井悠季の『妻』としての人生であって、小野由利としての人生っていう意味を為さないような気がするんだけど?」
「えっ? それ、どういう意味?」
「だからさ、極論を言うようだけど、あなたは道場主の妻なってくれるのなら、あたし以外の誰でも構わないんじゃない? たとえばさ、常磐井君のことが未だに大好きな田中春奈なら、きっとふたつ返事で妻になってくれるよ。それのどこにあたしの存在意義があるの?」
「えーっ。そんなぁ。オレにだって選ぶ権利っていうのがあるだろ? なってくれるなら誰でもいいなんてはずないじゃないか! 内助の功っていうのも、めっちゃくちゃ大事なことだと思うけど。愛を仲立ちにして、一生懸命夫婦して道場を切り盛りするっていうのはダメなわけ、由利にとっては?」
「まあね、だって道場をどうこうするのはあなたの夢であって、あたしの夢じゃないもん。まぁあたしも武道に精進しているのなら、まぁそれもあり得るかもしれないけどさ」
「じゃあ由利にも教えてあげるよ。今からなら十分に上達できるさ」

 常磐井は機嫌を損ねた由利を必死になってとりなした。

「人に言われてやるのは嫌なの! 自分が心の底からそう思えるんじゃなきゃ!」

 そのことばに常磐井はちょっとむっとしたようだった。

「じゃあ、由利の夢とか、やりたいことって何なんだよ? それをオレにまず教えてくれよ」
「あたしのやりたいこと・・・。そうね。今は茶道をやっているけど。でもそれが生きがいってところまでには行ってないかな? だからやりたいことはまだ見つかっていない・・・」
「それじゃ、オレの夢を一緒に叶えるっていうのの、どこがいけないわけ?」

由利は身体に巻き付いていた常磐井の腕を振りほどいた。

「ねぇ、常磐井君。あなたは前世のあたしたちがあの女御と中将という恋人同士だったと信じている。でも女御は帝の妃でしょ? おそらくふたりは前世では夫婦になれなかったんだよね。だから常磐井君は今生でこそ、女御の生まれ変わりのあたしと添い遂げるために生まれてきたんだと思ってるんでしょ? 出逢いは必然だったんだって」
「うん。そう思ってるよ。由利に出会ったことは奇跡だよ」
「だけどあたしは、あなたが信じているその『ミラクル・ロマンス』なんてもの、端から信じちゃいないのよ。あたしは結局、そういうことはどうでもいいの。今あるのは現実だけ。選択肢は星の数ほど広がっているの! あたしたちは自分の持って生まれてきた能力や努力のいかんで、その中から可能な限り最良のものを選択することができる! もしあたしたちが今結ばれたとしても、結婚なんてずっと先のことじゃない? その間にあなたやあたしが心変わりをしないって保障がどこにある? あたしはいったん、あなたとそういう関係を結んでから別れるのは嫌だ!」
「オレたちに限って、そんなこと絶対にあるはずないっ! 少なくともオレはそんなことには絶対にならない、絶対にだ!」

 若者らしい潔癖さを持ち合わせている常磐井は、怒気をはらんで言い切った。

「由利、おまえは今のこのオレの金無垢のように混じりけのない愛を、将来性とか保障と言う損得ずくの秤にかけて貶めようっていうのか? オレは由利を相対的に愛するなんてこと、これまで一度だって考えたことがない! どんなことがあっても由利に対するこの愛は変わらない! 絶対だ。由利が今考えてることこそ、そろばんづくで卑しいって思わないのか?」

 常磐井になじられると、由利の頬は平手を受けたように紅潮した。

「何よっ! もう、放して! 常磐井君はあたしの気持ちなんて、解りっこなんかないんだから!」
「由利! 由利! 待てってば!」

 由利は一度も振り返らず、一目散に坂を駆け下りて行った。






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やっと季節的に追いつきました…。
由利と常盤井って仲がいいのか悪いのかわからないですねぇ。

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境界の旅人 29 [境界の旅人]

第七章 前世



 たとえ相手から見て大して魅力的とは思えない文面だったとしても、少なくとも他のダイレクトメールよりは多少なりとも目立って、係員の手にとって開封され読んでもらえる努力はできると思う。


 由利はそう思って、寺町通にある和紙の店『紙司 柿本』へ行って、何かフランス人から見て「美しい」と思える便箋封筒はないかと探していた。

「あ、これ」

 由利が手に取ったのは、黒谷和紙で『草』と銘打ってある洋封筒と揃いの便箋だった。黒谷という名からして、左京区にある新選組で有名な『金戒光明寺』の付近なのかと思えば、どうもそうではないらしい。説明を聞くと綾部市黒谷町で作られた手漉きの紙とのこと。

 柔らかな薄緑の色が非常に美しい。

 本来なら一番格式のあるのは白だと思うのだが、それだとインパクトに欠ける。かといってあまりインパクトにこだわって柄が入ってしまうとキワモノに間違われて、またゴミ箱へ直行という可能性も考えられる。

 これがぎりぎりの由利の自己主張だった。

 買ってきた便箋をプリンターにセットして印字し、最後は自分の名前をアルファベットではなく漢字で『小野由利』と署名した。

「フランスまで料金はいくらかかるのかな?」

 由利が郵便局のウェブサイトまで行って調べると、フランスまでの定型郵便物で二十五グラムまでは、航空便で110円とあった。

 別に由利は切手を集める趣味もないので、近くの郵便局へ行って局員に相談した。

「あ、すみません。フランスに手紙を送るんですけど、何かあっちの人が喜びそうな切手ってありませんか?」

 受け付けてくれたのは人の好さそうな中年男性だった。

「そうねぇ、今のところこれしかないんだけど」

 局員は九十二円の慶弔用切手を取り出して来た。

「これね、本当は結納とか結婚式なんかに使われるんだけど、案外外人さんはこういう柄を好むんじゃないかな。それと差額用海外グリーティングっていうのがあるよ」
 なるほど、慶弔用切手は金色の扇の中に赤と青の松の模様が描かれていて、いかにも外人受けしそうだ。差額用グリーティング切手は葛飾北斎の『波』と「赤富士」こと『凱風快晴』をアレンジした二種類があった。

 どっちもいいなと思われたので、二枚購入して、足りない2円分はエゾユキウサギが描かれている二円切手を購入した。結局ずらずらと何枚も封筒に張ることになってしまったが、それがかえって受け取り手には良いインパクトを与えるかもしれない。

 最後に由利はバランスの良いように封筒に宛名のほうもひとつひとつ丁寧に書き、後ろには自分の住所や名前を書いた。

 由利はポストに投函する前に思わず手を合わせて祈った。

「必ず、ラディにこの手紙が渡りますように」




 五山の送り火の日に、結局由利は美月の家に行くことになった。

「由利!」
「ああ、由利ちゃん、いらっしゃい。ささ、どうぞ上がって」

 ビルの中の住居部分の玄関で、美月と芙蓉子が歓迎してくれた。

 
 美月にメッセージがあった翌朝、由利は辰造にそのことを申し出た。すると祖父はあっさりと許可してくれた。

「そうか、そんなふうに誘ってくださったんなら、ご厚意に甘えさせてもらって帯正さんところに寄せてもらったらええよ。あそこのビルは大きいから、大文字やら他の文字やらもよう見えるやろ」

 しかし自分が友人のところで楽しんでいる間、祖父は家でぽつねんとひとりですごしていなければならないのかと思うと、由利の心がとがめた。

「でも・・・、その間、おじいちゃんはどうするの?」
「ああ、わしのことか? わしも毎年、仕事先の能衣装のお店から他の仕事仲間と一緒に呼ばれとるのよ。だからおまえも心配しんと行ってきよし」



 まず由利は奥の間に通されると、すでに部屋には大きな姿見が備えられ着付け用の畳紙が敷かれていた。その横には長方形の乱れ箱に何枚かの浴衣と帯がきちんとたたまれて置かれてあった。芙蓉子はにこにこして由利に言った。

「由利ちゃんが好きそうなものをいくつか用意してみたの。好きなものを選んでみて」
「え、いいんですか? こんな高価なもの。おことばに甘えちゃってもいいのかなぁ」

 由利は遠慮がちに言った。

「何言ってるの、遠慮しないで。私が由利ちゃんに着せてみたいんだから」 

 そう言いながら、芙蓉子はたたまれてあった浴衣を一枚一枚広げていった。黄色地にスイカの模様のポップな柄、白地に美しくプリントされている紫陽花のもの、それと濃紺の地に白く染め抜かれた鉄砲百合があった。

「さあ、どれにする?」

 芙蓉子はが試すように由利に訊く。由利は迷わず答えた。

「じゃあ、この紺地に百合のものを・・・。涼しそうだし」
「あら、驚いた。大人の選択ね、由利ちゃん。とてもシックよ。昔はね、浴衣といったら藍で染めるのが一般的だったのよ。そして浴衣といえば東京染めと相場が決まっているのよ」
「えっ? 着物といえば京都じゃないんですか?」
「そうね、でも、『粋(いき)』で勝負するとしたら、お江戸の意匠には敵わないのよ。今でも『粋でいなせ』なのは東京染めなの」
「ああ、そうなんですね。じゃあ、どうして紺色一色なんですか?」

 ついでなので由利は後学のために芙蓉子に質問した。

「そうね、昔は藍が一番廉価に染められるってことが一番の原因だったと思うのだけど、それに何というのかしら、目で涼をとるというか、まぁ、涼しさを演出していたのよね。それに多色刷りになると、お金がかかるでしょ? だから白地に紺という二色、まぁ厳密に言えば一色で江戸っ子の心意気を表現したのだと思うわ」
「そうなんですか。昔の人も大変ですね」
「そうよ、昔は、ちょっと町人が派手な恰好をすると上から睨まれるの。やっぱりお江戸は将軍のお膝元でもあるけれど、それだけに支配階級が庶民に贅沢をせぬようにと圧力を掛けてきたから。でもね、だからってしおれてお上の言う通り、貧相な恰好するのなんて江戸っ子のプライドが許さないのよ。だからどんなに上からきついお達しがあろうと、その制限の中からびっくりするような斬新な意匠が生み出したのね。お江戸の文化は反骨精神に溢れているのよ」
「へぇ」

 口を動かしながらも芙蓉子はテキパキと由利の身体に浴衣を着つけていった。
 ささっと浴衣を着せ終えると、芙蓉子は箱から真っ白な中に字模様が浮かび上がる博多帯を取り出して、その上から締めた。

「昔なら、こういう場合は赤の独鈷柄にするはずなんだけどね、それだと野暮ったく感じるのよ。流行って不思議なものね。だけど今はこんな感じがクールなのよね」

 たしかに紺と白だけのツートンカラーの大人っぽいコーディネートは、背丈もある由利には似合っていた。

「それにね、最近はこんなふうに遊び感覚で、あえて帯にも帯締めをするの。するとね、全体が締るのよ」

 芙蓉子は帯の上に、黒に近い濃紺の帯締めを締め、その上に透明な紺色のガラスの帯留めを付けた。

「うわっ、ステキ! かっこいい!」

 由利は思わず歓声を上げた。

「ふふ、そうでしょ? さ、それじゃね、そこに座ってね。髪を軽くまとめてあげるわ」

 そう言って由利を鏡台の椅子に座らせると、由利は手慣れた手つきで由利の髪をまとめ始めた。「くるりんぱ」を三つ重ねてあっという間にふわっとしたアップになった。最後に芙蓉子は由利の髪に涼し気な水色の気泡入りのガラスのかんざしを付けた。

「うわ、芙蓉子さん、すごい! 魔法みたいです」
「ふふ。慣れればそんなの、すぐできるわよ」

 支度が終わったころに、美月が由利たちのところに顔を出した。
 美月はどうも自室で着替えたらしい。ピンクが多めであとは白と水色の花柄のレトロポップな浴衣に黄色と水色のツートンカラーの帯を可愛らしく蝶々結びにしていた。頭はトップの位置にツインテールにしてお団子にしていた。

 由利とは全く別路線の選択だったが、これは呉服屋の娘に生まれて、浴衣など生まれた頃から着尽くしたあとの究極の選択なのだろう。一見、何も着物のことをわかっていない素人のように見えて、それでいてぴたりと決まっている。

「どう、お母さん? 由利は?」
「ちょっと見てよ、美月。素敵でしょ?」

 芙蓉子はうれしそうに答えた。

「あら~、超正統派の装いですね~。着物雑誌の表紙にしたいくらい」
「でしょ? だけどこういうの、実は昔風のずんぐりむっくりした人には似合わないコーディネートよ。やはりね、こういうすらっと上背があって手足が長いモデル体型の人じゃないと」
「そうだよねぇ」
「そうそう、着せ甲斐があったわ。楽しいものね、きれいな子に着つけるのは」

 美月と芙蓉子は親子してプロの目で由利を見て喜んでいる。やはり長い間、着物に接している仕事をしているせいか、純粋に自分の考えたコーディネートが決まると嬉しいものらしい。

 由利もきれいな浴衣を着せてもらえたのが嬉しかったので、しばらくはしゃいでいたのだが、ふとぽろりと涙がこぼれた。

「ど、どうしたの、由利ちゃん?」

 由利が急に泣き出したので芙蓉子は慌てた。
「芙蓉子さん、あ、あたし、ごめんなさい。こんなによくしてもらったのに、泣いたりして。でも何だか情けなかったんです」
「どうして?」
「あたしには半分はどこの血が入っているのかわからないけど、もう半分は日本の血が入っているはずなのに日本文化さえきっちり享受しているとは言いがたいじゃないですか? それじゃ正々堂々と胸を張って『私は日本人です』って言えないような気がして」

 それを聞いて美月は一瞬ハッとした顔をしたが、横にいる芙蓉子に目顔で制した。

「まぁまぁ、由利ったら。何を言うかと思ったら・・・。今どき百パーセント純血の日本人の女の子だって、着物なんか自分で着られない子がほとんどだよ。だってそういう習慣が廃れてるんだもん。当然でしょ?」

 美月はわざとぶっきらぼうに言った。

「それにさ、自分のことをそういうふうに貶めるのは、どうかなって思うよ。聞き苦しいよ」
「美月、由利ちゃんにそこまで言わなくても・・・」

 芙蓉子は美月を止めにかかった。

「ううん、お母さん、止めないで。あたしは由利の親友だと思っているから、キツイことを承知であえて言わせてもらう。由利。そんなこと言ったって知ったら、きっと由利のおじいさんが悲しむよ。それにさ、誰も由利をそんなふうに見てなんかいないじゃん。もし自分で着物を着られるようになりたいんだったらさ、泣き言を言う前に自分で着られるように訓練すればいいだけの話。物事は理性で考えないと。別に異国の血を引いているから、着られないなんて馬鹿なこと考えてないよね?」

 美月の容赦ないことばが由利の心を打った。

「あたしもさ、着物屋の娘だから、一応自分で着物は着られるよ。それは何も特別な能力があったからじゃなくて、単に練習したからでしょ? そんなに着物をひとりで着れない自分が許せないんだったら、あたしが明日からでも特訓してあげるよ。毎日うちに通ってきなよ。ありがたいことに、新学期までお茶のお稽古もないことだし」
「・・・美月。あたしちょっとどうかしてた。ありがとう」

 由利は涙にふるえる声で謝った。

「うん。由利はさ、敏感で感受性に富んでいるだけど、時々誤作動を起こしちゃうんだよね。さあ、行こ行こ。八時に大文字が点灯するからそれまでにご飯を食べないと」

 美月の自社ビルの屋上は仕事の関係で招待された人で結構込み合っていた。さすがに皆、和装業界の人間だけあって、老若男女、それぞれ趣向を凝らした装いをしていて圧巻だった。

「ほら、由利! 見て! 『大文字』に灯りがついたよ」

 よくよく見ると『大』の文字に火が灯されたらしく、小さな灯りがどんどんと拡がって大きくなっていく。

「うわ、すごい。初めてみるなぁ」
「これは京都の四大伝統行事って言われているんだよ。京都にゆかりのある人間なら、これを見なきゃ」
「へぇ。そうなんだぁ」

 しばらくすると、今度は『妙』と『法』の字が同時に点火された。それに目を奪われているうちに、次は船形と左大文字が、そして最後に『鳥居形』に火が灯された。

「ねぇ、これってどんな意味があるの?」

 由利は歴女の美月に訊ねた。

「うん? 五山の送り火っていうのはね、もともとお精霊(しょうらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世に送り届けるために、焚かれるものなんだよね。まぁ、お精霊さんを送るやり方は各地によってそれぞれで、ほら、有名なところでは長崎の『精霊流し』っていうのもあるじゃない? でもまぁ、どれも基本的にはお盆にお迎えしたご先祖さまの霊が道に迷わないように火を灯して、お送りするためのものなんじゃないかな?」
「じゃあ、大の字にはどんな意味があるの?」
「大は『大日如来』のことじゃない? 密教では一番偉い仏さまのことだよ」
「じゃあ、妙は?」
「ああ、妙と法はたぶん、『妙法蓮華経』っていうお経のタイトルから来ているんだよ。だから主に信仰しているのは日蓮宗なんじゃないかな?」
「じゃあ、船形は?」
「ああ、船形? あれは小乗仏教に対する大乗仏教のシンボルだから日本の仏教全般にも言えることだと思うけど、まぁ、厳密に言えば浄土教、すなわち浄土宗とか浄土真宗を指すんじゃないかな」

 美月はどこどこまでも淀みがない。

「じゃあ、きっと鳥居は神社のシンボルだから神道を表しているんだろうね」

 それを受けて由利が言った。

「そうだね、まぁどんな宗教、宗派であろうと、ご先祖さまがあの世から来てくださって、また戻って行かれるってところでは一致しているんじゃない? 京都には、比叡山や東寺なんかの密教系や南禅寺や大徳寺なんかの禅宗、それに知恩院やら本願寺やらってそれこそ山のようにいろんな宗派の大本山があるから。みんな仲良く共存しているんだよ。またしていかなきゃ、生きていけなかったんだろうし」
「へぇ、そうなんだ・・・」

 ふたりはしばらく黙って文字を見つめていた。

「ああ、だんだん火が小さくなって消えていくね。ねぇ、美月、これっていつ頃からやっている風習なの?」
「うん。まぁ、諸説あって、あの『大』の字は弘法さんの字だっていう人もいるんだけど、空海って平安時代の人じゃない? そんな古い風習じゃないはずだよねぇ。あとはさ、近衛信尹(のぶただ)が書いたとかいろいろ言われてるけど、ようするに俗説で、本当のことはわからない」
「ねぇ、じゃあ、室町時代の人は五山の送り火って見てたのかなぁ?」
「うーん、どうだろ? 五山の送り火って謎が多いんだよね。一般的には近世、つまり江戸時代になってから始まったって言われてるからねぇ。中世の人っておそらくこの送り火は見てないんじゃないかな」
「ふうん。そうなんだ」
「うん。こういう大がかりな風習って平和なときじゃないと、できないものだから。どの時代も戦争になるととたんにこういう行事って中止にされちゃうものだし」
「そうなんだね・・・」

 ふたりは一番最後に灯された、西山の微かにともる鳥居形を見ながら、この夏の盆を送った。 











来週は一気に11月にお話は飛びます。それにしても長いお話ですねぇ。
作者の私自身がうんざりするほど、長いですわw

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境界の旅人 28 [境界の旅人]

第七章 前世



 気が付けば由利は常磐井の身体にもたれながら、タクシーに乗っていた。

「ん・・・、ここは?」
「あ、まだ眠っていていいよ。今はタクシーの中。もうすぐ家に着くから安心して」

 肩に回されていた手が小さな子どもをなだめるように、ぽんぽんと二回軽く打った。由利は体中が重たくて抗う力もなく、言われた通りに再び目を閉じた。
やがて車は家に到着したらしく、うっすらと目を開けると辰造が外で待っているのが見える。

「こんばんは。ぼくは由利さんのクラスメイトで常磐井悠季といいます」
「ああ、あんたが常磐井君か、名前だけは由利からうかごうてます。なんや合宿に連れて行ってもらって、えらいお世話になってしまって」
「いえ、そんな。とんでもないことですよ。ところでぼく、夕方に出町柳で偶然由利さんと出会ったんですが、由利さんはちょっと具合が悪そうだったんです。それで下鴨神社の参道で涼んでいたんですが、急に気を失ってしまわれて・・・。こんなことなら、神社なんかでぐずぐずしないで、もっと早くお家に返してあげるべきでした」

 常磐井はいつになく非常に礼儀正しい態度で、理路整然と尤もそうな口実を祖父に説明していた。由利はそれをぼうっと遠くで聞きながら「策士め。おじいちゃんまで取り込んじゃって・・・」と心の中で毒づいていた。

「まぁ、それにしても、よう由利を運んできてくれたなぁ。おおきに、ほんまにおおきに」

 しきりに祖父が礼を言っているのが聞こえる。

「いえ、そんなことは」
「由利、由利! 起きや! 着いたで!」

 辰造がタクシーの中にいる由利に声を掛けた。

「あ、おじいさん。今はそっとしてあげてください。由利さん、たぶん熱中症なんですよ。昼間、暑い中をずっと水分を取らないで歩いていたみたいだから。疲れているんじゃないかな?」

 そういうと常磐井はぐったりしている由利を赤ん坊でも抱えるようにひょいと抱き上げた。

「おじいさん、ぼくが中まで由利さんを運びますから」
「いや、そうかぁ? なんか悪いなぁ。ホレ、この子は大きいから、重たいやろ?」
「いいえ」

 きっぱりと常磐井は答えた。祖父は相手の筋骨隆々とした身体を見て、その答えに偽りはないと納得したようだ。





 由利が再び目を開けると、きらきらと銀のうろこを光らせながら、部屋の中を何かが悠然と泳いでいるのが見える。

「きれい・・・」

 由利はうっとりしてそれを眺めていた。

「あなたはだあれ? どうしてこんなところで泳いでいるの?」

 由利は夢見心地で、ぼんやりと心の中に沸き起こった疑問を声に出してつぶやいていた。すると銀のうろこで光るものは悲し気に言った。

「わたしのことをお忘れですか、女御さま? 何と情けない。中将殿のことは思い出していただけましたのに。わたしは名前さえも憶えておられない・・・。口惜しゅうございます。あなたさまにはあれほど心を込めてお仕えして参りましたものを・・・」

 声は恨めし気に掻き口説いた。

「えっ?」
「ではせめて、これをわたしのよすがとして偲んでくだされ」

 それから次の瞬間には由利はまばゆいばかりの神々しい光に身体を包まれていた。





 気が付けば由利は二階の自分の蒲団に寝かされていた。

「あれぇ?」

 由利は寝床から起き上がって、階段を下りて行った。下の居間では辰造がテレビを見ていた。

「お、由利。少しは元気になったか?」
「もしかして常磐井君がここまで連れて来てくれたの?」
「そうやで。突然おまえのケータイちゅうんかスマホちゅうんか知らんけど、そこから常磐井君が電話を掛けたらしい。てっきり由利からの電話やと思ったら、知らん男の声やろ? それにしてもたまげたわ」
「え、常磐井君から電話があったの?」
「そうなんや。この家の番号が判らんから、おまえの電話を借りたっちゅうことや。今どきの高校生にしてはえらい礼儀正しい子で、びっくりしたわ」

 それはおじいちゃんを懐柔させるための偽装に決まってるじゃないの、と由利は心の中で思ったが、今は黙っていることにした。

「へぇ、どうやってパスワードが判ったんだろ?」
「あ、それもなんか言い訳しよったで。とりあえずおまえの親指を当てて、解除したんだと」
「あ、なるほど。本人が気絶していても、親指の指紋さえ合っていれば、そういうことができるわけよね」

ーそのついでに、あちこちアプリを開いてあたしの秘密を嗅ぎ出そうとチェックしていたに違いないー

「そいで由利を家につれて帰りたいから、住所を教えてくれっちゅうってな。それにしても下鴨神社の参道なんかで倒れたら、表の車道までかなりの距離もあるし、負ぶってくるのは大変やろうと思って心配していたら、なんやタクシーから出てきよったんは雲を突くような大男でなぁ。軽々とおまえを担いでおったわ。あれが道場やってるちゅう家の息子か? 常磐井君を見たら、ほんまに金剛力士みたいなんでたまげたわ。最近の高校生はデカいんやなぁ」

 辰造はほれぼれと感心したように言う。

「いやいや。彼は特例中の特例だから。百八十八センチなんて、そうそう探したって見つからないよ」
「せやけど、由利とやったらお似合いやんか」

 常磐井の体育会系らしい爽やかで折り目正しい態度を気に入ったのか、辰造はやたらとほめる。

「背の高さだけで言えばね」

 由利は仏頂面で答えた。

「何や、由利。常磐井君はおまえの恩人とちゃうんか? もっと感謝せなあかんで」

ー神社の中で本当は何があったかおじいちゃんも知ったら、そんなに笑ってはいられないんだからー

「あー、はいはい」



「そっかぁ。常磐井君がここまでタクシーで連れて来てくれたのか」

 しばらくして由利がぽつんと言った。

「そうやで、ついでやしって二階のおまえの部屋まで運んでくれたわ」
「ふうん。ヤツはとうとうあたしの家どころか、あたしの部屋まで侵入してきたのか。『機を見るに敏なり』とはまさにこのことね・・・」

 くよくよしていても仕方がないので、由利はとりあえず冷たくなったお味噌汁を温めて、冷蔵庫にあったキムチと冷や奴で夕飯を済ませた。

「ふうん。何や知らんけど、食欲だけはあるみたいやな。とりあえず大丈夫みたいやな」

 祖父はほっとしたように言った。

「うん、おじいちゃん、いつも心配かけてごめんね」



 気が付けば身体中が汗でベッタベタだ。しかもおろしたてのコテラックのワンピースは倒れたのと、蒲団に寝かされていたので、しわくちゃになっていた。情けない姿に変わり果てた洋服を見て由利は鏡に向かってつぶやいた。

「何て可哀そうなあたしのコテラックちゃんなの。おお、よしよし。大丈夫。明日由利ちゃんがクリーニング屋さんに連れて行ってきれいにしてもらうから。それに小山さんとのデートには、しっかり役立ってくれたんだからいいのよ、よく頑張ってくれました! パチパチ」

 まず歯ブラシにクリニカを塗って歯を徹底的に磨き、最後はマウスウオッシュで念入りにうがいした。そのあと風呂に入ってさっぱりしたあと、快適な温度にまでコントロールされた部屋で、由利は蒲団に寝転がりながらスマホを開いた。
 美月からメッセージが入っていた。

「ねぇ、由利。びっくりよ。小山先輩が急にベルリンのほうへピアノの修行に出かけちゃったんだって! 知ってた?」 

 由利は初めてそれを聞いたように装った。

「ええっ? 小山さんがベルリンへ! それは初耳! 知らなかった~」
「あたしも寝耳に水だよ。何でも小山さんの肝入りで二年生の鈴木先輩が部長を務めることになったんだって!」
「へ~、しばらく小山さんはあっちにいるつもりなのかな?」

 由利は美月に白々しい質問をする。

「どうもそうらしいよ」
「そうなんだねぇ・・・。なんかショック・・・」

 由利は昼間小山に告白された内容を思い出していた。だがこれは誰にも言うつもりはなかった。

「ねぇ、あさっては『五山の送り火』だからあたしンちに来ない? 会社のビルの屋上からだとよく見えるよ。おかあさんもね、ぜひいらっしゃいって。ね、一緒に浴衣を着ない?」

 美月が次々と新しいメッセージを送って来る。

「ええっ、あたし浴衣なんて持ってないよ! それに今まで着たことないし」
「大丈夫。うちは着物屋だよ? 浴衣なんて腐るほど持ってるし。心配しないで。貸してあげる。お母さんは着付けの先生だから、そっちのほうも心配もないよ!」
「え~、何か申し訳ないような気が・・・。いいの?」
「うん。由利なら大歓迎だよ。ぜひ!」
「ところで『五山の送り火』って何?」
「知らない? ほら東の方向に『大』って文字が書いてある山が見えるでしょ? 送り火の日にはその字に火が灯されて、この世を訪れていたご先祖さまの霊をお送りするのよ」
「ああ、大文字焼きのことか!」
「ちょっと。その大文字焼きって言うのは、間違いだからね。どら焼きみたいに言わないで」

 また歴女の辛辣なクレームが入ったので、素直に謝った。

「ごめん、ゴメン。無知で~」
「ね、考えてみて? 決まったら返事ちょうだいね!」
「うん。とりあえず明日おじいちゃんに訊いてみるね。きょうはもう、寝ちゃったみたいだから」

 由利のコメントがいつもより若干短く乗ってこないのを見て、美月は早々と切り上げようと決めたらしかった。

「了解! じゃおやすみ」
 由利も心配している美月に悪いと思いつつ、会話を短めに終わらせてくれたのはありがたかった。感謝の気持ちを込めて、チップとデールのおやすみスタンプを押した。

 そしてやはりというべきか、常磐井からも当然のようにメッセージが入っていた。

「やぁ、由利ちゃん、少しは元気になったのかな? オレとのキスに気絶するほど感激してもらえたなんて、かえってこっちが恐縮しちゃいます。今度はもっと濃厚なのをしてあげるね♡ お蔭様で由利ちゃんの可愛いお部屋にも入らせてもらったし。由利ちゃんの愛読書が何かも知ることができてよかった。案外、硬いものを読んでいるんでびっくりです。高校生がモーパッサンって結構すごいなと思って帰ってきました。それじゃね(^^)/」

 視線をスマホから机に移すと、机の上にはモーパッサンの『ベラミ』が置いてあるのが見えた。

「何言ってんのよ、この筋肉バカ! ったく! 脳みそも筋肉でできてるんじゃないの? 能天気なことばっかり言ってくれちゃって! あたしはアンタの彼女じゃない! キスだって全然よくなかった。ってか、気持ち悪い! それに人の部屋に何勝手に入ってんの! アンタはあたしの一体何を解ってるっての! どうせスケベなアンタなんて考えてることはひとつよ! もうっ! 常磐井悠季のバカバカバカっ!」

 由利はむかむか来て、スマホを蒲団の外へと放り出した。

「ふうっ」

 由利は蒲団に大の字に寝転がって、ため息をついた。

「何だかすごい一日だったような気がする・・・。いや、気がするんじゃなくて実際、すごい日だった」

 日中は小山と一緒に世にも美しい茶碗を見て心を揺さぶられていた。小さな黒い茶碗の中には、ミクロコスモスといっていいほどの広大な宇宙が広がっていた。そのあまりの美しさにふたりはただ呆然としてことばもなく見惚れていた。

 あたしは、小山さんとは恋人同士にはなれないかもしれないけど、ほら、今日だって、あのお茶碗を一緒に見て美しいと感じることで、十分に意義のある時間を共有できたと思いませんか? 

 心でつながっているんです、芸術を愛することを媒体にして。

 たとえまっとうな男だったしても、誰でもこんな風になれるなんて思っていません。そう思えば単なる身体のつながりなんて空しい。

 由利は昼間、小山に告げたことばを思い出した。
 黒い夜空に瞬く天の川のような碗。小山はその価値を由利ならきっと理解できると思って一緒に行くことを決意したという。

 由利は本当の意味での「愛し合う」ってどんなことだろうと天井を見つめながら考えた。

 同じ価値観を共有できる人と感動を共にすること。これも間違っていないと思う。でもこれは比較的穏やかで理知的な愛だ。

 真実を知らされてたとしても、由利の心の中で未だに小山は、燦然と輝く王子さまの位置を失っていなかった。小山が身に着けている人を圧倒するような知性のパワー。それにまだ世に出ていないにせよ、彼女自身がすでに本物の芸術家であり茶道家だった。昼間、由利は小山に「あなたは奇跡が生ましめた油滴天目茶碗だ」と言った。

 ―そのことばに嘘偽りはないー。


 だが由利はその同じ日に、まったく正反対の「性愛」の有無を言わせない理屈抜きの力強さにも触れてしまった。

 たしかに由利は以前から、常磐井が弓を打つときのことばでは表現できない緊張感、的に向かうときの真剣な表情を好ましいと見ていた。だがそれだけで、内面はほとんど理解できているとは言いがたい。

彼が何を信じ、何を大事に生きているのかー。それすら知らない。

 お互い理解しあっているならともかく、そんなろくに知らない異性とくちびるという最も敏感な部分を接触させるだなんて、理性的に考えれば不快感を覚えて当然な行為のはずだ。それなのにずっと触れられていたいと思った自分は、一体どうしたというのだろう。

 由利は自分のくちびるに指で触れてあのときの常磐井のくちびるの感触を思い出していた。

 ほんのわずかの時間だけれど、それをきっかけにして常磐井とふたりで時代を飛び越えてしまった。

 飛び越えた先の時代の女御も臣下である中将に懸想され、思いがけず抱きすくめられていた。そして恐怖に怯えながらも、男の愛撫に恍惚となったことに戸惑っていた。今の由利には女御の気持ちがよく分かる。

 常磐井と中将には、立ち振る舞いそして佇まいに隙がない。そこに一種の男らしいなまめかしさがにじみ出ていた。自分もそんなセンシュアルな力に惹かれてしまったのだろうか。

 由利は苦々しげにくちびるを噛んだ。

「あたしと常磐井君が、前世では室町時代の女御と中将だった? まさか! それじゃまんま、『セーラームーン』じゃないの! クィーン・セレニティとエンディミオンってか? アホくさ。そんなはずないじゃない!」

 由利はひとつ世代が上の『セーラームーン』のアニメが好きだった。

 ※出逢ったときの懐かしい まなざし忘れないー。
  不思議な奇跡クロスして 何度も巡り合う
(※『美少女戦士 セーラームーン』『ムーンライト伝説』より引用)

「そんなバカな! 昔の人間の身体に入ったからって、どうしてそれが自分の前世だと断定できるの! たまたまよ、たまたま! 常磐井君はあんまり自分の体験が生々しすぎて、それにつられてあたしを愛していると思い込んでいるだけよ!」

 由利はむしゃくしゃする気持ちを抑えかねて、今度は蒲団からむくっと上半身だけを起こした。

「あれっ?」

 短パンをはいている右の太ももの内側に今まで見たこともないようなあざができていたのを見つけた。真っ白な皮膚にピンク色の、何か不思議な文様が浮き上がって見えるのだ。突然、由利はあっと叫んだ。

「もしかして、これって・・・ウロコの形?」

 由利は夢うつつでみた、不思議なヴィジョンを思い出した。

―ではせめて、これをわたしのよすがとして偲んでくだされ―


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境界の旅人 27 [境界の旅人]

第七章 前世



「お放しください、中将どの。あなたさまは宮中をお守りする武人ではございませんか! 今ご自分がなさっていることが、どういうことかお分かりですか? このようなけしからぬことをなさるなどと・・・。 人を呼びますよ!」
「いいえ、放しません。わたしがどんなにあなたに想い焦がれていたか、このたぎるような思いを知っていただくまでは・・・」

 中将は女性の黒髪をつかむという乱暴なことをやめ、今度は姫の細い肩を抱き寄せると、姫の細い身体をすっぽりと両腕に包んで抱きしめた。

「初めてお見掛けしたときから、あなたに憧れ続けてきたのです。このようなむくつけき大男がまた、なにをかいわんやと思召されているのでしょう? でもあなたさまを忘れることができないのです! たとえあなたが主上のものであったとしても!」

 恐怖を感じるその一方で、中将のたくましい腕の中で身をも焦がすような熱いことばに酔いしれて、姫は陶然としていた。身体の奥からぞくぞくするような甘美な疼きが、泉のようにあふれ出しくる。

「中将どの、後生でございます、その手をお放しくださりませ」

 姫の抵抗も虚しく、中将は相手の朱に染まったこめかみからおとがいにかけて、情熱的に唇をなんどもさ迷わせたあと、蜂がようやく花芯へとたどり着くように、自分の唇を相手に押し当てた。その瞬間、橘姫は帝の妃という立場も何もかもすべてを忘れて、自分の身体を相手に委ねていた。

「あなたがわたしの目の前で扇を落とされたとき・・・、神仏は我が願いを聞き届けてくださったと思いました・・・。お慕いしているのです、橘の君。こんなにも自分をおさえられなくなるほど・・・」

 長い抱擁のあと中将は、姫に上ずった声でささやいた。
姫には直観的に自分の求めていたものに出会えたという確信があった。それはなんという歓喜に包まれた瞬間だったろう。だがかろうじて今はまだ、理性が本能より勝っていた。





~~~~~~~~~

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いつも応援してくださいましてありがとうございます。
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境界の旅人 26 [境界の旅人]

第七章 前世



 四時を過ぎても八月の太陽は衰えることもなく地表をじりじりと焦がしている。油を溶かし入れたような川面はそんな強烈な日差しを浴びて、ギラギラと強烈な光を反射していた。対岸に植えられた並木はその照り返しを受けて琥珀色に燃え立っていた。


「ありがとう、小野さん」

 小山は頬に涙の跡をつけたままで、そう言った。

「あは、恥ずかしいな。ボクときたら人前で泣いていたんだね」

 小山は手の甲で顔を拭った。

「そんな・・・。ちっとも恥ずかしくなんかないですよ」

「そう言えば、小野さん。ほら、ボクが『革命』を弾いていたとき、キミが音楽室に来ただろう?」

「ああ、はい」

「実はあのとき、かなり悩んでいたんだ。先生に今の自分のピアノのアプローチは古すぎて、一般受けしないって。でもいくら先生に言われたからって、唯々諾々と自分が納得できない演奏をするのはたまらなく嫌だったんだ・・・。結局のところ芸術家は、最後は自分の美意識を信じるしかない。そしてキミはそんなボクのピアノを感動をしながら聞いてくれた。ボクが信じる美しさを認めてくれたんだよ。そのときひらめいたんだ。小野さんならもしかして、ボクの世界をきちんと理解してくれるんじゃないかって」

「先輩・・・」

「あのときボクは苦しくて、無性に油滴天目茶碗が見たかったんだ。もちろんひとりで行くつもりだったんだけどね。でもキミと一緒に行ってみたくなったんだよ。キミが、ボクにとって世界一美しい茶碗を見て何て言うのか、それが知りたかった」

「ああ、それであんなに唐突に誘ってくれたんですね?」
「うん。ボクが思った通り、キミはあの茶碗を見て感動してくれた、これ以上ないほど。だからなのかな。ボクは気が緩んでしまったせいか、ついこんなみっともない告白をしてしまった・・・」
「みっともないだなんて、先輩。ちっともそんなことないです。人は誰しもひとりでなんか生きていけないものですもん。孤独にさいなまれるときはきっと、誰でもそんなふうになるもんじゃないかしら? もちろんあたしだってそうです」

「うん。相手がキミで良かったと心の底から思っているよ。しかもボクのことを解ってくれて、こんなふうに力づけて励ましてくれて。ボクは救われたよ」

 由利と小山はしばらく無言でお互いを見つめ合った。
 ふと由利は思い出したように、バッグから封筒をひとつ取り出した。

「小山さん、これ。思わず忘れるところでした。この間お約束していた、手紙と写真です」
「ああ、そうそう。大事なものだよ。これがなくっちゃベルリンの先生に、キミのお父さんの話が切り出せないからね」

 小山は笑いながら、ブレザーの内ポケットに封筒を仕舞った。

「まぁ、どれだけボクがこの件に関して役に立てるかは解らないけど。でもできるだけのことはやってみるつもりだよ」
「小山さん、本当にありがとうございます。ここまで親身になってもらえるなんて、本当にうれしいです」
「いやいや、それはお互いさまさ」

 それから小山は少し改まった口調で由利に言った。

「実はね・・・、ボクはこれからこの足で関空に行って、ベルリンへと立つ予定なんだ」

 由利はそれを聞いてびっくりした。

「えっ? 本当ですか! 一体何時のフライトなんですか」

 思わずバッグからスマホを取り出して時間を確認した。

「うん。八時かな」
「えっ、とすると時間的にギリギリじゃないですか! 急がなきゃ」
「まぁ、今から大阪駅に向かって関空快速に乗れば、着くのは五時半ぐらいになるかな。六時までに着けばいいんだから、楽勝さ」
「で、でも。小山先輩、手ぶらじゃないですか! 荷物は?」
「ああ、あらかじめ関空の方へ送ってあるんだ」
「じゃあ、本当に文字通り、あのお茶碗にあいさつしてから出発するつもりだったんですね!」
「ああ。今度の旅はいつもより少し長くなりそうなんだ。向こうでコンクールを受けるつもりでいるんでね。だから帰るのは年明けになるかな」
「そんなに長い間ですか?」

 由利は急に小山がいなくなることを聞いて少しショックを受けていた。

「うん。でも受験に間に合うように帰るつもりではいるんだ。ただ進路をまだはっきりと決めていない。東京の大学で音楽教育を受けるか、ヨーロッパにするか、あるいはアメリカにするかは。まぁどのみち音楽の道で生きていくつもりでいるんだけどね。でもとりあえず、選択肢はたくさんあったほうがいいと思うから」 

「加藤さんから作曲のほうへ進まれるって聞いています」

「うん。プレイヤーだけでやっていける自信がないっていうのが本音なんだ。でもまぁ、音楽を創ったりアレンジするほうが興味があるし。それに今更ピアノ科に進んでも意味がないような気がしてね」

「そうなんですね。でも・・・こんなに急にお別れになるなんて」

 由利は大きくため息をついた。

「そんな別れだなんて。大げさだな、小野さんは。単にしばらく日本を留守にするだけだよ」

 小山はそういうとまた誰に聞かせるでもなく、しゃべった。

「日本は本当に美しいもので溢れている。だけどやはり島国のせいか、排他的で同調圧力の強い国だし。自分の将来を考えると、他民族でいろんな価値観が混在している欧米みたいな多民族国家で暮らすほうが楽なんじゃないかとも思うんだけどね。だけどそれも実際に住んでみないと、自分にとって住みやすいかどうかなんて判らないことだし・・・。ハハ、変わり者だと、心配ごとが尽きなくてイヤになっちゃうよ」

 小山はまたいつもの穏やかな表情に戻っていた。

「小野さん、今日はありがとう。キミはボクに生きていく勇気を与えてくれたよ。まさにキミはボクの恩人さ。これで心置きなく出発することができる」
「こちらのほうこそ。小山先輩。本当にありがとうございました。道中お気をつけて。そして必ず元気な顔をみせてくださいね」
「うん。茶道部はボクの後任として二年生の鈴木さんにやってもらうことにした。話はすでにつけてあって、彼女のほうも部長を快く引き受けてくれた。まぁ、彼女もしっかりと手堅い人だから、安心して任せることができる。小野さん、しっかりお手前ができるように精進してね。帰って来たらボクの前でお点前をして見せてもらうよ」
「えっ、そんなぁ」
「いやいや。期待しているし。それに小野さんならできる」

 小山は励ますようににっこり笑った。

「はい、頑張ります。小山先輩」
「うん」
「行ってらっしゃい!」

 小山は由利に手を挙げて左右に振ると、くるりと回って大阪駅に向けて歩いて行った。



 出町柳駅に着くと、すでに五時を過ぎていた。由利は地下の改札から今出川通りに出る長い階段を伝って地上に出ると、アスファルトから立ち上る焼けつくような熱気にクラリとめまいがしそうだった。

「あ、暑い・・・」

 お昼に小山と一緒に紅茶を飲んで以来、由利は水分を取っていなかったことに気が付いた。
 普通なら美術館を出たあとで、付近のカフェに入ってお茶を飲むなりして、水分を補給すれば良かったのだろうが、小山の衝撃的な告白のせいでそれもままならなかった。

「あ、ヤバイ。脱水症状になっちゃう。水、水」

 地下の出口をすぐ出たところのファミマへ駆けこむようにして入ると、由利は迷うことなくいろはすのれもんスパークリングを買った。もう喉が渇いてヒリつき身体が干からびそうになっていた。お店を出るやいなやもどかし気にキャップを開け人目も気にせずぐぐぐと飲むと、ボトルの水の半分が一気に無くなっていた。

「ふぅっ。生き返った」

 思わず由利は安堵の息をついた。

「おいっ! 小野!」

 突然後ろの方で聞き覚えのある声がした。驚いて由利が振り向くと、それは常磐井だった。「桃園高等学校弓道部」と白く染め抜かれた紺色のTシャツを着、よれよれのジーンズを履いていた。先ほどの小山のファッショナブルな恰好とは真逆のベクトルを示したいでたちだった。紫の布袋を入れた弓を肩に預けながら右手に持ち、左手には旅行バッグを下げていた。

「あ、常磐井君!」

「あんたさぁ、何やってんの? 乙女がいくら何でもその飲み方はないっしょ? 腰に手を当ててラッパ飲みって、まるでオヤジじゃね?」

 常磐井は笑いながら半ば呆れたように言った。

「だって、喉がカッラカラだったんだもん」

 迂闊な姿を常磐井に見られて、由利は少しバツが悪かった。

「ん、まぁ。小野のありえないカッコの目撃者がオレだから許してやるけどぉ」
「うん。ゴメン。今のは見なかったことにして」

 傍の常磐井に構わず、また由利は相変わらずぐいぐいと残りの水を喉に流し込んだ。

「はあー、やっと身体の細胞のひとつひとつが潤いましたってカンジ!」

 それを見て常磐井は眉をひそめた。

「おい、大丈夫なのか? 京都の夏を甘く見んなよ、小野。家ン中にいてエアコン付けてたって熱中症になる人もいるんだかんな。外出するときは水を持ち歩いて、定期的に飲むのは関西の夏場の鉄則っしょ?」
「うん。今、水を飲みながら君の言う通りだなって実感してた」

 ひとごこちついた由利は、改めて常磐井のほうへ向き直った。

「あ、常磐井君ね。五日ぐらい前に行衣を返しにお家に行ったの。そしたらお母さんが出て来られて常磐井君は長野に合宿だっておっしゃってたけど?」
「ん? ああ。おふくろからLINEのメッセージがあったから知ってるよ」
「あ、じゃ、もしかして今、合宿の帰り?」
「ああ。それでやっと家の近くに着たと思ったら、小野が道の真ん中で仁王立ちで水を飲んでんのが見えて思わずびっくり」
「もう、そればっか言わないでよ!」
「いや、あんまりにもシュールな光景だったからさぁ」

 由利は文句を言ったあと、それでも合宿で世話になった礼をまだ常磐井に言ってないことに気が付いた。

「あ、でも、常磐井君。合宿のときはいろいろとありがとう。お蔭様ですっかり憑き物は落ちたんじゃないかな? あれから三郎にもまったく会わなくなったし」
「そのことでちょっとあんたに話があるんだけど・・・少し時間取れる?」
「え? うん。あんまり長くならない程度ならね」

 由利は念を押した。

「じゃさ、こんなふうにオバサンみたいに通りで立ち話っていうのもなんだし、ちょっと歩いて話さね?」

 一見冗談めかしている常磐井の顔の裏には何となく深刻そうな気配も感じられた。由利はこの話は意外と時間がかかりそうだと判断した。

「ん。じゃちょっと待ってね。おじいちゃんに電話するから。とりあえずあたしが今出町柳にいるって言っておかないと」

 由利は常磐井から少し離れて、家の黒電話に電話した。

「あ、おじいちゃん。うん。今ね、京阪に乗って出町柳に着いたところ。そうそう。すぐ帰るつもりではいるんだけど、ちょっと友達に会っちゃって、誰? ああ、この間、合宿に誘ってくれた子だけど。知ってるよね? クラスメイトの常磐井悠季君。お礼もまだ言ってなかったんで。うん。うん。あんまり遅くなるようだったらまた連絡するね」

 祖父と電話している間、常磐井は近くにあった自販機でお茶を二本かったらしく綾鷹を由利に手渡した。

「はい、これ」
「えっ? いいの? 待って待って。お金は払うから」

 由利がガサゴソと財布を取り出そうとすると、常磐井はそれを手で押しとどめた。

「いいよ、いいよ。こんなもんぐらい。それよかさ、さっきみたいに五百ミリリットルの水を急に摂取するのって、案外身体に負担掛けるかんな。これを歩きながらチビチビ飲んでおきなよ」
「あ、ありがとう!」

 常磐井のさりげない優しさが嬉しかった。歩きながら常磐井が由利に訊いた。

「ね、小野ってさ、いつもそうやってしょっちゅう連絡してんの、家の人に?」
「だっておじいちゃんが心配するもの」
「ふうん。女の子って大変なんだな」
「まぁ、最近は怖い事件が多いじゃない? うちはあたしとおじいちゃんのふたり暮らしだしさ。こんなふうにあたしが外に出れば、おじいちゃんが家にひとりで待っているでしょ、遅くなれば何かあったのかとずっと気を揉ませることになるじゃない? それって八十近くの老人には結構酷だと思うんだよね。だからやっぱりお互い、それなりに気遣いしないとね」
「ふうん。そんなもんなんかな」
「そりゃあ、そんなでっかい身体でおまけに武術の達人の常磐井君だったら、襲われるってこととはまったく無縁でしょうけど」
「ハハ。まあな」

 すぐそばの鴨川を見ると燃えるような日を浴びて水面が目が痛くなるほど鋭い光を放っていた。身体に不快な汗がまとわりついてくる。世界がじわっと湿ったオレンジ色の空気に包まれているようだった。今、このタイミングで家のある方向、すなわち西日をまともに受けて帰るのはためらわれた。

「ねぇ、常磐井君、京都の夏っていっつもこんなふうなの? まるで蒸し風呂の中にいるみたい」
「まぁ、そうだよな。そこは否定できないね」
「はぁ~あっつい! かといってお店に入るとそれはそれで凍えるほど寒いんだよね。赤道直下から北極へ急に行ったみたいで。。じゃあさ、せっかくここまで来たんだし、やっぱり下鴨神社に行こうよ。緑に包まれているからさ、ここよか少しは涼しそうじゃない?」

 由利は常磐井にも自分のお気に入りの場所へ行くことを提案した。

「ん。じゃそうするか」

 だが、夕方の下鴨神社の参道は、普段よりもなお一層ひっそりと静まり返って、より闇が濃いように感じた。林冠を通して地表に届く透明な木漏れ日も今は黄色く濁っていた。

「ねぇ、何だかいつもの清々しい雰囲気がなくなってない? どことなく不気味っていうか・・・?」
「そりゃ、神社に参拝するのは清澄なご神気が満ちている午前中って、昔から相場は決まっているんじゃね? 夜の神社は魔の領域と化すんだよ。しかも今は昼と夜の分かれ目、『たそがれどき』、『逢魔がどき』だしな。何かが出て来てもおかしかない時刻ではあるわなぁ」

 常磐井は由利が怖がっているのをどこか面白がっていた。

「何よ! 知っているならどうして、反対してくれなかったのよ」
「へぇ、お姫さまの『敢えて』の選択かと、オレは気を利かせたつもりだったんだけどな」
「何それ! 京男ってサイアクね、しんねりむっつりと意地悪でさ!」
「へへぇ、そりゃ、悪うござんした」
「悪いわよ!」

 しばらくお互いに不機嫌なのを隠そうともせずに黙り込んで歩いていたが、そのうち常磐井が半歩下がって由利をじろじろと観察しているのに気が付いた。

「あんた、今日はえらくめかしこんでんじゃね?」
「あら、ファッションとはまるきり縁のなさそうな常磐井君でも、そんなことわかるの? うん。今日はね、うんとオシャレして北浜でおデートしてたの」

 由利は少しあてつけがましく言った。

「ええっ、おデートぉ?」

 とたんに常磐井の顔色が変わった。

「由利ちゃんが他の男とおデート? 由利ちゃんがオレ以外の誰とそんなことするの? えっ、誰とよ?」

 相手がいきなり『由利ちゃん』となれなれしく呼び、尋問口調になったのが由利の癇に障った。

「何でそんな個人的なこと、常磐井君にいっちいち報告する必要があるの? あたしたち、タダのクラスメイトじゃなかったっけ?」

 由利は牽制する意味でそう言った。

「あれぇ? 由利ちゃん。オレって由利ちゃんのカレシじゃなかったのぉ?」
「あら、いつからそうことになってたの? 全然気が付かなかったわ。それにあたしのこと、『由利ちゃん』なんて気安く呼ばないでよ!」

 由利は媚びるような態度の常磐井を突っぱねた。

「ねぇ、今、誰か付き合っているヤツっているの? 由利ちゃん、それはねぇわ。頼む、教えてくれよぉ」

 どこか甘えてすねた口調とは裏腹に、常磐井の表情には激しい憤りが感じられた。自分の土地を不当に侵された領主のような。身体の大きな常磐井がこんなふうにいつもより間合いを狭めてくると、由利は思わず恐怖を感じた。

「あ、あたしが誰と付き合っていたって、常磐井君には関係ないでしょ?」

 由利はそれでも気丈に言い返した。だがいつもならどんなときでもヘラヘラと笑って斜に構えている常磐井の面ざしは、いつになく真剣だった。


「そいつが好きなのか?」

 常盤井の瞳は、青い炎が燃え盛っている。

「好きな人っていうか、別にそんなんじゃないし」
「じゃあ、誰なんだよ? オレの知ってるヤツ?」

 常磐井がじりじりと由利に迫ってくる。由利は思わず後ずさった。真後ろには大きな杉の木があった。

「茶道部の部長の小山さんよ。ふたりで北浜の東洋陶磁美術館へ行って、国宝って言われるお茶碗を見てきただけよ!」
「そうか・・・。小山って三年の? あいつ、男の恰好しているけど、たしか女だよな? へへっ、あいつってLGBTなの?」
「何よ、常磐井君ってそういう失礼なことしか言えないわけ? 今どきそんなこというと差別主義者になるんだからね! 小山さんはステキな人よ。センスもいいし、会話も面白いし、感性も豊かだし。誰かさんと違ってキチンと女の子をエスコートしてくれるし。そういう言い方はないんじゃないの?」
「ああ、別に相手が小山なら、あんたが何をしてようとオレは一向に構わないよ。そんなの、結局おままごとなんだし。所詮小山は女なんだから。あいつに一体何ができる? 男のオレに適うはずもねぇし」

 すると常磐井は有無を言わさないほどの強い力でゆっくりと由利の両肩を持って、傍にある太い木の幹に身体を押し付け、大きな腕を拡げて由利の全身を抱きしめた。

「由利ちゃん・・・」
「と、常磐井君! 放して!」

 力ではまったく及ばない由利は、叫ぶしかなかった。
 だがそんな懇願をまったく無視して、由利の顔に常磐井は自分の頭を近づけてきた。

 ーえっ? もしかして、これってキス?

 そう思ったのも束の間で次の瞬間には由利はどういうわけか目を閉じて、そのまま相手に身体ごとすべてを預けてしまっていた。

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境界の旅人 25 [境界の旅人]

第六章 告白



 気が付けばふたりが美術館を辞したのは、天目茶碗を見てからたっぷり一時間以上は経っていた。その間ずっと由利と小山はこの茶碗を見続けていたことになる。
 ふたりはしばらく土佐堀川の岸辺をぶらぶらと散歩した。

「ボクはね、何か気持ちが落ち着かなくなるとき、無性にこの茶碗を見たくなるんだ。あの茶碗には南宋時代の『士大夫』の心意気が詰まっているように思える」
「それってどういうことですか? たしか士大夫って宋時代以降の科挙官僚と地主と文人の三者を兼ね合わせた人のことを言うんじゃなかったでしたっけ? 要するにイギリスで言えば、ジェントリ階級の人かと?」
「あはは、そうだね。ジェントリとは言い得て妙だよね。士大夫は特権階級である貴族とは自ら一線を引いた存在でね。何者でもない人間が厳しい科挙を潜り抜けて、実力のみで権力をつかんだんだから。ボクはね、彼らの気骨ある精神にすごく惹かれるんだ。特に北宋の士大夫である『蘇軾(そしょく)』がボクのお気に入りでね。彼は北宋時代最高の芸術家と呼ばれ、詩・書の達人でもあるんだよ」
「そしょく? ですか」

 由利は西洋史には抜群に強くても、東洋史のことについてはあんまり知らなかった。

「ああ、彼って蘇東坡(そうとうば)とも言われているんだけど、ほら、小野さん、『トンポーロー』って知ってる?」
「ああ、あの豚の角煮のことですね?」
「そうそう。あれって、『東坡肉』って書いて、『トンポーロー』って読ませるんだ。この料理の発案者は、他ならぬこの蘇軾なんだ」
「えーっ! そうだったんですか! お料理の名前の由来まではまったく知りませんでした」
「彼の生きた時代、すなわち十一世紀の中国って、なぜか豚肉を食べる習慣が途絶えた時代でもあったんだよ」
「ホントに? 中国料理っていったら豚肉って、現代人は連想するのに」
「うん、だけどまぁ、宋の時代は羊の肉を食べるのが専らの習慣になっていたらしくてね。蘇軾は天下に並ぶものがいないほどの大秀才で、各地の知事を歴任し、文部大臣にまで出世した人なんだけど、かならずしも時の趨勢は彼の味方ではなくて、結構左遷とか島流しとか悲惨な目に遭っているんだよね」
「確かに優秀な人って時代を先取りするから、世間の人の理解を得るのは難しいって言いますよね」
「うん。彼は左遷された先の土地の人々が食べるものがなくて飢えで苦しんでいるとき、豚肉を食べる習慣がないことに気が付き、自ら野生の豚、すなわち猪を狩って捌き、この料理を作って広めたっていうんだ。そこで『食猪肉詩(豚肉の詩)』っていうのを作ってたりするんだよ」
「豚肉の詩? ふふっ、どんな内容なんですか?」
「豚肉はこんなにおいしいのに、どういうわけかめっちゃ安い。金持ちは見向きもしないし、貧乏人は食い方を知らない。少量の水でじっくりと火を通してごらん。びっくりするほど旨いぜ。オレは毎日、毎日喰ってるぜ! みんなも豚肉を食べようぜって、そんな感じ」
「うふふ。おかしい!」
「そう。彼は諧謔趣味の強い人で、自分のどんな過酷な運命に遭ってもこんなふうにすっとぼけた詩を作って楽観的に笑い飛ばすような、そんな強靭な精神力を持つ人だったんだ。晩年なんかは、海南島に息子ともども流されたりしたんだけど、紙はなくても字は書けるって、浜辺の砂に棒きれで字を書いて、息子に詩作の勉強をさせたりもしているんだ」
「不撓不屈 の魂ですね」
「そう、そういう蘇軾に憧れて、ボクもできるなら彼のように強い人でありたいと思ったんだ」

 由利は小山のセリフに不穏なものを感じて眉をひそめた。

「小山さんは十分に強いじゃないですか。それに蘇軾のように、悲惨な運命にあるわけでもないでしょう?」

  由利がそういうと、 小山は少し立ち止まって沈黙していた。

「実はね、ぼくが女子トイレで小野さんと鉢合わせしたとき、ボクはいつになく饒舌になって自分のことを弁護した。だけどそこにはかなり嘘も混じっていた・・・」
「えっ?」
「小野さん、ボクはあのときキミに偉そうに啖呵を切ったでしょ? 周囲から誤解を招きたくないからこんなふうに男の恰好をしているだけだって。何の他意もないって」
「はい、小山さんはあのとき、たしかにそう言われました」
「ボクはこう見えて、実は女でしょ? そしたらどんな格好をしていても男が好きになるのがノーマルだよね」
「ええ・・・そうですね」








小山は由利に衝撃的な告白をします。 それを受けて由利はどうするんでしょう?  ハラハラドキドキの回ですよ~。 続きはこちらで!!

https://note.mu/sadafusa_neo/n/n30c2f2d61b78


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境界の旅人 24 [境界の旅人]

第六章 告白



 由利は小山と日曜日の十一時に始発である出町柳の改札で、待ち合わせをすることにした。 
普段はほとんど身なりには無頓着な由利は、いつになくおしゃれをしてこの日に備えた。
 日ごろの練習時のお茶の道具の取合せでさえ神経質なほどうるさい小山のことだ、今日も絶対に完璧に決めて来るに違いない。おそらく小山の頭の中には、『センスがない=頭の回転がよろしくない』という図式が成り立っているはずだ。由利は小山に軽蔑されたくなかった。
 どんなコーディネートなら、小山とマッチできるか。それにはまず小山がどんな格好をしているかを予想しなければならない。
 小山は芸術家タイプなので、あまりトラディショナルすぎる恰好はしないと思う。おそらくコンサヴァ路線かもしれないが、それを程よく着崩したものではないかと考えられた。
 由利はこの前上京したときに、母親の玲子にねだって買ってもらった『コテラック』の白地のプリント・ワンピース、その上にワンピースに合わせて買った薄地のニットのピンクのカーディガンを着ていくことにした。コテラックは遊び心があるデザインとフランスらしい中間色のプリントのバランスが絶妙で、前々から着てみたかったブランドだった。日頃はポール・スチュアート、ブルックス・ブラザーズ、ジョゼフあたりの手堅いスーツを着ている玲子は「そんなものは中学生の分際では高級すぎる」とこれまで決して買おうとしなかった。しかし娘に四か月も分かれて独り暮らしを余儀なくされた玲子の財布のひもは、案外と緩く「仕方ないわねぇ」と苦笑しながらも買ってくれた。そのついでにHP(アシュペ)フランスに寄ってスザンナ・ハンターのバッグもまんまとせしめた。
 普通の高校生なら大人っぽすぎて、てんで似合わない服も、手足が長く上背のある由利は難なく着こなした。

 こうやって準備万端にして改札口で待っていると、小山もほどなくして現れた。
 思った通り今日はやはり私服だった。
 紺色の七分袖の麻のテーラードジャケットに白いスキニーパンツ、そしてインナーはV字衿のボーダーカットソー。そして素足にキャンパスシューズ。手には差し色として目にも鮮やかなトルコ・ブルーのオロビアンコのウェストバックを軽く肩にかけていた。全体的に白と紺ですっきりとまとめて、清潔感があるコーディネートだった。

「やあ、小野さん。待った?」

 小山は明るく声を掛けて来た。

「いえ、あたしも今来たばかりです」
「そう? じゃあ行こうか」

 小山は何気なく由利の装いに一瞥をくれると、満足げに微笑んだ。

「小野さん、今日はおしゃれして来たんだね」

 由利は小山にほめられて心の中でガッツポーズをした。

 

 約小一時間で電車は北浜へ到着した。時計を見るともうすぐ正午になる。

「もうすぐお昼だね。先にお昼食べてからにしようか?」

 小山が提案した。

「小野さんは可愛い感じのお店が好き? それとも大人っぽいのがいいのかな?」
「えっ? これからお昼を食べに行くお店のことですか?」
「うん。ボクの頭の中には二三の案があるんだけど、どれが小野さんの好みかなって思って」

―まるで本物のデートみたいー

 いや、たとえ本当の男子とデートしたとしても精神的に幼過ぎて、こんなふうにスマートには行かないだろう。

「あ、あたしが選んでいいんですか?」
「うん。お好きなティストでどうぞ」
「それじゃあ、可愛いコースで!」
「OK。それじゃあ、行こうか」

 小山が案内してくれたのは、北浜駅から歩いてすぐのところにある「北浜レトロ」という店だった。赤レンガ造りの古いビルを改造してティー・ルームにしたのだが、全体にブリティッシュ・ティストで統一されており、小山が言う通りどんな女の子でもキュンとするような可愛さだ。

 壁に設けられた羽目板には目に心地よいペパーミントグリーンに塗られており、一階がテイク・アウト用のケーキとこの店の自慢のひとつであるオリジナル・ブレンド・ティー、そしてお茶のときに使用するティー・スプーン、ティー・コゼー、トレイなどの小物が販売されていた。まるで女の子の夢やあこがれがぎゅっと凝縮してこの店に詰まっているかのようだ。

「うわっ、カワイイ!」

 由利は思わず、声を上げた。それを見て小山は口角を上げた。

「いつもはわびさびのティストの和のお茶ばっかり飲んでいるから、たまにはこんなふうに華やかな紅茶の専門店もいいかなと思ってね。そら、喫茶室は二階だよ」

 二階に昇っていくと、お昼どきとあって、そろそろ満席になりそうな気配だった。

 クラシックな白いエプロンを掛けたウェイトレスに案内された。

「何人さまですか?」
「ふたりです」

 小山がよく通るハスキーな声で答えた。その途端、店内で自分たちのおしゃべりに打ち興じていた女の子たちの視線が一斉に小山と由利に集まり一瞬の沈黙のあと、ほぅっとため息をつくのがあちこちで聞こえた。ファッション誌から飛び出したかのようなカップルがデートをしていると、そこにいる誰しもが思っただろう。
 喫茶室にはどのテーブルにもバラの花柄の臙脂のクロスがかかり、椅子も黒いニスが塗られて、いかにも英国製であると見て取れる。まるで十九世紀のヴィクトリア朝の時代にタイムスリップしたかのようだ。
 川沿いの窓際の席に案内されると、そこから土佐堀川の大きな流れが見えた。

「うわ、この建物、すごく雰囲気があってステキですね」
「そうだねぇ、この建物は二十世紀の初頭に株の仲買業者の事務所として建てられたらしいけど、いろいろと変遷があって、今から二十五年ほど前に空きビルになっていたところを今のオーナーが紅茶専門店として作り直したってことだよ。まぁだけど、もともといい建物なんだろうね。国の登録有形文化財に指定されているってことだし」
「へぇ、そうなんですね・・・。小山先輩、その、登録有形文化財に指定される条件って、何なんですか?」
「さあね、選定基準ってどうなんだろうね。ボクもそういう方面には明るくないんではっきりしたことは言えないけど、昔は趣があるいい建物って言うだけでは、文化的価値があるとはみなされなかったらしい。だから壊すのには惜しいと思われる建物も、結構容赦なく壊されたって話だけどね。このビルみたいに登録有形文化財として残ったものは、おそらくラッキーだったんだろうね」

 由利は瞬間的に家の近くの廃屋に近い変電所を思い浮かべた。

「うちの近くにボロボロの洋館があって、昔をよく知っている人に聞くと、どうもそれは変電所だったらしいっていうんですよ」
「ふうん、そうなんだね。それだったらその建物も産業遺産として登録されるべきだろうにね。蹴上の発電所もたしか産業遺産か何かに指定されていたんじゃなかったのかな」

 しかしあの変電所は歴とした産業遺産のはずなのに、何の保護もされずに打ち捨てられたままで朽ち果てていくだけだ。だが由利は感傷に浸るのをやめて、今は小山とのデートだけに集中した。

「ねぇ、先輩、あたし北浜って初めて来ましたけど、大阪でもこんなにクラシックな場所ってあるんですね」
「そうだね。ここは明治の洋風建築が立ち並んでいる一画だからね。東京の人たちなんかは、大阪っていうとすぐに道頓堀あたりを連想するみたいだけど、それは間違った先入観だよ。大阪だって東京や京都に匹敵するような垢抜けた場所はたくさんあるよ。ま、ボク的にはこの北浜界隈は日本の中で一番洗練された界隈だと思っているんだ。東京の日本橋も、昔はこんな感じだったのかもしれないけど、今は頭の上を高速道路の高架があるだろう?」
「それはそうですよね。あそこはこんなふうに空が広々としていませんもん」

 由利も小山の言うことに同意した。

「小山さん、ここってちょっとパリっぽくないですか? あ、中州にバラ園がありますね」
「ハハハ。ああ、あそこは中之島公園のバラ園だよ」
「五月ごろはバラが咲いてきれいでしょうねぇ。あたし、実は一度もパリに行ったことが無いけど、シテ島やサン・ルイ島ってセーヌ川の中州でしょう? あれにちょっと似ているような気がする」
「あはは、そう言われればそうかな。中州にある街って意味じゃ同じだものね」

 この店は紅茶の専門店だけあって、数えきれぬほどの紅茶の種類があった。紅茶だけが載っている専用のメニューを開くと、オレンジやザクロ、シナモンやクローブなどのフルーツや香辛料で味付けされたオリジナル・ブレンドがずらりと並んでいた。またその名前もいちいち「エリザベス・ガーデン」「ビクトリアン・ウェディング」「天使の歌声」など乙女心をくすぐるようなネーミングで、由利などは選ぶのにさんざ迷ってやっと「プリンセス・ローズ」というお茶に決めた。一方の小山はろくにメニューも見ずに「ああ、ミルクティが飲みたいから、アッサムで」とウェイトレスに告げた。
 しばらくして注文していたサンドイッチとお茶が銀のお盆に入れて運ばれてきた。由利はツナと野菜。小山はいかにもイギリスらしいティストのサーモンとクリームチーズのサンドイッチ。どちらもウェッジウッドのお皿に盛りつけられている。トマトの赤とレタスの緑のコントラストが食欲をそそる。

「おいしい!」

 由利は気持ちがよいほどパクパクと平らげていく。

「小野さんは苦労してきたわりに、生きる喜びとでも言えばいいかな、そういうのを率直に表現するから、一緒にいるボクも何だか幸せな気分になるよ。それってすごく大きな魅力だね」

 小山はテーブルに頬杖を突きながら、目を細めて由利を見ていた。

「え、そ、そうですか?」

 由利はドギマギしながら言った。

「うん。きっとお母さんの愛情を一身に浴びて育ったんじゃないかな」

 小山は玲子について、これまで由利が思っても見なかったことを言った。

 

 昼食を食べた後は、本来の目的である大阪市立東洋陶磁美術館へと向かった。

「ねぇ、先輩。あたし、うっかりして東洋陶磁美術館について、あんまり下調べをしてなかったんですけど、一体どんな美術館なんですか」
「ああ、この美術館は結構特殊でね。昔、安宅英一って実業家が自分の会社である安宅産業に東洋陶磁を収集させていたんだ。それを『安宅コレクション』って言うんだけど、それがもう超弩級の一級品ばっかりでね。その数何と千点あまり。その中には実際に二点の国宝と十三点の重要文化財があるから、聞いただけでもどれだけすごいかがわかるだろう?」
「ふうん、安宅コレクションですか・・・?」
「うん。まぁ、残念なことに安宅産業が破たんして、この膨大なコレクションも手放さなきゃならない羽目に陥ったんだ。だけど散逸することを恐れてなのか、住友グループは安宅コレクションを大阪市に一括寄贈することにしたんだね。こういう美術品って、ただそこらへんに仕舞っておくだけじゃ、本当の意味できちんと保管したことにならないんだ。芸術品の保持者っていうのは、単にそれを所有するだけではなく、次世代にも伝える義務があるんでね。常にコンディションをベストにしておかなきゃならない。それだったらただ保管するだけじゃなくて、いっそのこと美術館を作って、あまねく世間の人に門戸を開いてこの素晴らしい芸術品を見てもらった方がいいだろう?」

 由利はぽかんとして、小山が滔々と熱く語るのを聞いていた。小山はふと我に返って由利に言った。

「あ、ゴメン、つい話し込んじゃって。これぐらいにしとくよ。実際に大事なのは、自分の目できちんとものを見ることだからね」



 由利は小山に連れられて美術館の二階にある常設展示の中の中国陶磁室のエリアへと入っていった。
 中国エリアは三つの展示室に分けられており、一番手前の部屋が後漢から宋まで。真ん中は宋時代のみ。そして三番目は明から清にわたる陶磁が陳列されてある。

「小野さんはどんなのが好き?」

 後漢時代からひとつひとつ丹念に見ている由利に小山は尋ねた。

「そうですねぇ、明や清の時代のようにカラフルなものも技巧的には優れているとは思うんですけど、あたし、どっちかというとコバルトで染められた絵付けのものとか、白磁や青磁で細工されたものが好きかなぁ。フォルムに緊張感があるっていうのかしら。単にデコラティブだと言うだけでなく、精神性の高さみたいなものも感じるんです」

 それを聞くと、小山はわが意を得たりと言わんばかりに、にっこり笑った。

「さすがだね。やっぱり小野さんは審美眼があるんだね。たしかに明や清のものは、技巧的には非常に凝ったものが多い。でもこんなふうに華やかな絵付けっていうのは、漢民族本来の感性ではなく、やっぱり異民族のものなんだ」
「なるほど。清も征服王朝ですものね」
「うん。ボクは何と言っても陶磁器は宋の時代のものに極まると思っているよ」
「そうですね。そうかもしれないです」

一緒に歩いていると、由利はひとつの作品の前で足を止めた。

「ほら、小山さん。この南宋時代の『青磁鳳凰耳花生』って見てくださいよ。無駄のないフォルムなのに鳳凰をモチーフにされた持ち手だけが斬新にデフォルメされた意匠で。今見ても随分とモダンな感じがします」
「そうだね。これ重要文化財だよ」
「あ、ホントだ」
「小野さん、こっちに来てごらん。ボクがこの世の中で一番好きな陶磁器を見せてあげる」

 小山が少し興奮したように、由利をその部屋のある一画へといざなった。

「ほら、これだよ」

 それは一見すれば本当に黒くて小さな茶碗だった。だがよくよく見れば、黒い水の上に油を垂らしたように銀の雫が一面に細かく散っている。

「あっ・・・」

 由利は引き込まれるように茶碗の中をのぞいた。

「あ、底が青い・・・。小山さん、まるで夜空のようです! 天の川がぎゅっと凝縮されて、このお茶碗の中に閉じ込められたみたい」
「これをキミに見せたかったんだ・・・」

 由利はしばらくことばもなく、ただじっと小山と一緒にその茶碗を眺めていた。

「このお茶碗、何ていうんですか?」
「油滴天目茶碗っていうんだ。中国じゃ建盞(けんさん)って呼ばれているようだけど。国宝だよ」
「国宝・・・? そうなんですね。どうしたらこんなに美しいものが創れるんでしょうか?」
「茶碗にかけられた黒い釉薬の中に入っている鉄の成分が何かの拍子でこんなふうに油が散ったように浮かび上がるらしい」
「じゃあ、全くの偶然?」
「そう。もともと黒い茶碗を焼いていたはずなのに、ときどき何万分、いや何十万分の一の確率でこんな奇跡が起こるんだ。しかもこれは奇跡の中の奇跡。まさしく神が作ったものとしか思えない。他にも曜変天目とか灰被天目(はいかつぎてんもく)とかいろいろな種類があるにはあるんだけど、ボクはこの油滴天目が一番好きなんだ」
「このお茶碗の金色の縁がまたアクセントになっていていいですね」
「ああ、これって金覆輪(きんぷくりん)って言って、元来は縁が欠けないように補強するものなんだけどこのお茶碗ほど、この金覆輪が似合うものって他にはないと思う」

 うっとりと茶碗に見惚れたまま、小山は言った。

「油滴天目茶碗ってたしかに他にもあるけど、ひとつひとつの雫がこれまどまで細かく均等に散っているものってないんだ。今じゃこんな茶碗は、本家の中国ですら残っていない。おそらくこれは鎌倉時代に海を渡って伝えられたんだろうね。そして大事に大事にされて今日まで残っているんだ。見ているとこの茶碗に対するそんな歴代の所有者の愛情も感じ取れるような気がするよ」







読者のみなさまへ

この小説はフィクションですが、京都案内という意味を兼ねまして、一般の方々がご利用できるお店や場所・地名などは一部実名で書かせていただいております。一方、由利や美月の通う「桃園高校」および、宗教団体等はすべて架空です。そしてこの作品に出てくる宗教的概念もすべてフィクションであることを予めご了承ください。

※    ※    ※

本来なら魔界的京都観光が主なこの作品ですが、今回、京都から出て、私が日本で一番洗練されていると思っているロマンティックな都会、北浜を紹介させていただきました。並木が続く大きな川が流れていて、その周辺にはバラ園や、美術館、フェスティバルホール、そしてレトロな建物が点在しています。由利と小山みたいなおしゃれなカップルだったら、やっぱり北浜が似合うと思ったんですね。

由利と小山がデートに使った、英国式ティー・ルーム、北浜レトロは実在します。とてもチーズケーキがおいしい店です。北浜にはほかにも五感など、関西らしいおおらかさのある、本当にいろんなおしゃれなお店がありますが、ここはその一つです。北浜に行ったら、ぜひ訪ねて見てください。

そして、大阪市立東洋陶磁美術館。ここはお茶碗好きにはたまらない美術館でしょう。普段は東洋陶磁の常設だけですが、企画展では、ヘレンドの特集をしたり、オーストリアの女流陶芸家、ルーシー・リー展など開催されています。


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境界の旅人 23 [境界の旅人]

第六章 告白



 由利は一生懸命電子辞書とグーグル翻訳を駆使しながら、フランス国立研究所に宛てて、英文の手紙を書いた。
 本当は手書きのほうが、より親密さが伝わって好感度が増すのかもしれない。だがやはりここは何よりも読みやすさを優先に考えると、英文はワープロ書きにして最後の署名だけを自筆にするのが最良だという結論に至った。

 その翌日、由利は小山部長へ謝りに音楽室へと向かった。階段の途中からピアノの音が響いて来る。
 聞き覚えのある曲だ。

「ショパンの革命のエチュード?」

 虹色に輝く真珠を思わせる、粒のそろった柔らかな音色の連なり。
 小山がこんなピアノを弾くとは知らなった。由利は音楽室のドアの傍に立って、じっと耳を澄ませていた。
 小山は弾き終わるとドアの陰に潜む気配を感じ取り、誰何するために椅子から立ち上がった。

「ああ、小野さん。来てくれたんだね…」
「部長……、あたし……、いろいろと不躾なことを言っちゃって…、その、申し訳ありませんでした」

 由利は小山に向かって深々と頭を下げた。

「いや、いいんだよ。ボクこそ悪かったね。最初からきちんと説明すべきだったんだ」

 小山は由利の目が濡れているのに気が付いた。

「小野さん……泣いていたの?」
「あ、あたしったら……」

 由利は自分の目の縁をごしごしと手でこすった。

「どうしたの? 何かイヤなことでもあった?」
「あ、そんなんじゃないんです! 小山さんのピアノがものすごく心に響いて。こんな革命って、初めて聞きました。普通はもっとぱぁっと派手に弾くじゃないですか。あ、あたし、門外漢なんで、頓珍漢なことを言ってるのかもしれないですけど、こう、苦悩に耐えに耐えているような、そんな感じがして」
「ハハ、そんなふうに聞いてくれてたなんて、光栄だね。先生からは奏法がオールド・ファッションだから、もっとクールに弾けって言われるんだけど、どうもね」
「オールド・ファッションだなんて。あたし、ピアノでこんなに感動したの、初めてです」
「へぇ、小野さんは感受性がものすごく鋭いんだね。初めてお茶室に来たときも、お茶碗の美しさに心奪われていたものね。たいていの人はよほどその曲を聴き込まない限り、ピアノのこんな微細なタッチなんて聞き分けられないもんだよ」
「そんなこと、これまで考えたこともなかったです……」
「そう? でも小野さんのこんな芸術的気質は、きっとご両親のどちらかから譲られた天賦のものだと思うけどね」

 由利はハッとしたように顔をあげ、またポロポロと涙をこぼした。

「どうしたの、小野さん。ボクはまた、キミを傷つけるようなこと、言っちゃったのかな?」
「い、いいえ。いいえ!」

 ふと由利は、小山なら自分の今の気持ちを理解してくれる気がした。

「す、すみません。小山先輩。と、唐突なことを言うようですが、じ、実はお願いがあるんです」

 緊張のあまり、ことばが震えた。

「落ち着いて、小野さん。ボクは何にも気分を害してないから。ゆっくりでいいから話してごらん」
「あ、あたし……今、自分の父親が誰なのかを捜しているんです。それで小山さんにお力を借りられたらと思って……」
「それ、どういうこと? 詳しく聞かせてもらっていいかな?」

 由利は母親の玲子とラディに関するこれまでの経緯を話した。小山は真剣な面持ちで、黙って最後まで聞いていた。

「ふぅん、なるほど。で、キミはボクにどうしてもらいたいの?」
「実は、美月……いえ、加藤さんにも相談したんです。そしたら彼女、部長は英語に堪能だから、これを見せて添削をしてもらうようにって、助言してくれて」

 眼鏡の奥にある小山の目が、キラリと光った。

「ふうん、その英語の手紙、今持ってる?」
「あ、はい」

 由利は、昨日自分が書いた手紙のファイルを渡した。小山はファイルからA4用紙の紙を取り出すと、しばらくそれにじっと目を注いでいた。

「うん、そうだね。よく書けていると思うよ。これでいいんじゃない? ……強いて言うなら、ここの助動詞のcan を過去形に換えると、よりポライトな表現になるかな?」

 小山は譜面台に紙を当てて、カチっとボールペンの芯を出すと、アカで訂正した。

「はい、これ」
「あ、ありがとうございます」
「うん。どういたしまして」

 小山がファイルに入れて唯に返そうとしたとき、はらりと床に何かが落ちた。それは芙蓉子からもらった玲子とラディの写真だった。 
 それを小山がかがんで拾った。

「これ、お父さんとお母さん?」
「ええ、母です。男性のほうはまだ、父と決まったわけじゃないけど」

 小山はまじまじと、写真を見つめていた。

「でも……小野さんはどっちかというと、お母さんよりも、この男性にそっくりにボクには思えるけど……?」
「えっ?」
「ほら、このおでこの感じとか、フェイスラインとか。あとは全体的な顔の配置っていうかな……。よく似ているよ」
「ホントに?」

 小山は写真と由利を、もう一度交互に見比べた。

「うん。たぶんこの人が本当のお父さんで間違いないんじゃないかな?」

「あ、はい」

「それとね、次に会うときまでに、その手紙とその写真のコピーを一部ずつ、ボクにくれない? ピアノの世界って案外狭いもので、仲間内で情報が常に飛び交っているもんなんだ。安請け合いはできないけど、今度厄介になるベルリンの先生は、世間では情報通で知られているんだ。だから小野さんの事情を話して、物事がタイミングよく運べば、ひょっとして何かわかるかもしれない。先生のオーソリティに訴えれば、こんな研究機関の事務局でも動いてくれるような気がするんだ」

 小山は由利が想像もつかない方法で、父親捜しに協力してくれることを申し出てくれた。

「ええっ、本当にいいんですか? 小山さん、ありがとうございます!」

 由利は小山の私心のない望外の親切が、心に染みた。

「え、じゃあ、すぐに書面と写真のコピーをお持ちしますね」
「小野さん。次の日曜、何か予定が入ってる?」

 唐突に小山が尋ねた。

「えっ? 次の日曜ですか? ちょっと待ってくださいね」

 由利はスマホのカレンダー・アプリを見て確認した。

「ああ、今のところは何にも予定は入っていません」
「そう。それじゃあ、もし小野さんさえよければ、その日はボクに付き合ってくれないかな? 一緒に北浜まで行ってほしいんだ」
「き、北浜ですか?」
「うん。北浜に大阪市立東洋陶磁美術館ってのがあるんだ。そこへボクと行かない?」
「う、うれしいです!」

 由利は素直に喜んだ。
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境界の旅人 22 [境界の旅人]

第六章 告白



 由利は合宿の間はスマホを開かないことに決めていた。

祖父の辰造は、スマホはおろかガラケーですら使ったことがなく、未だに黒い固定電話一本切りでしのいでいた。

 だからもし緊急の用事があれば、一週間滞在する民宿のほうに連絡をくれるように、電話番号の控えを紙に書いて渡していた。母親の玲子にも合宿する建前の理由を話して、よほどのことがない限り連絡は控えてくれと頼んでいた。

 だいたいリアルな世界で交わるべき人がたくさんいる場面で、目の前にいる人たちとのやり取りをないがしろにしてまでSNSを優先してしまうのは本末転倒だと思うのだ。それに由利はこれ見よがしに自分の今の状況をいちいちSNSにさらすことも、どこかゆがんだ自己顕示欲が垣間見えているような気がして、好きではなかった。

 合宿から家に戻ると由利は落としてあった電源を入れて、スマホを再起動させた。
 美月からLINEのメッセージが届いていたので、まず真っ先に由利はそれを読んだ。

「由利、滝行頑張ってる? それともこれを読むのは滝行から帰って来たあとかな? 例の事件が起こって以来、茶道部のみんなが由利のことを心配しています。とくに部長の小山さんが『もともと自分が紛らわしい恰好をしたせいで、ナイーブな小野さんを混乱させたのは申し訳なかった』と悔やんでいました。とにかくいろいろ実際に会って話さなければならないことがいっぱいあります。合宿から帰って来たら、一度あたしにメッセしてね。」

 いかにも美月らしい、簡潔でいて、それでいて思いやりにあふれた文章だった。
 それから気になっていた、facebookを開いてみた。
 結局あれから、ラシッド・カドゥラという名前で、四十歳から五十歳までの男性という条件を満たしていれば、国籍がどうであろうとDMを送ることに決めたのだ。由利の探しているラシッド・カドゥラ氏は、玲子と同じように、留学生という可能性も捨てきれなかったからだ。
 これに該当する人間は十七名いた。DMには『今から十六年前にフランス国立研究所で研究員として働いているのであれば連絡がほしい』という文章を付けて一斉配信した。
 しかしそのほとんどどれもが由利を失望させるに足る内容だった。

「オウ、ユリ、ユー・アー・ヴェリィ・ビューティフル・ガール! ソー・キュート!」
 
「私は、フランス国立研究所の研究員ではないが、その側に住んでいた。これからも楽しい付き合いをしよう!」
 
「何だ、こりゃ? この人たち、あたしの書いた文章の主旨をちゃんと理解してる?」

 中には高校生の由利が読んでも、かなり怪しいと判るような英文で書かれたものもあって、読むのにかなり労力を要した。もし英語やフランス語が母語でない外国人だったとしても、曲がりなりにも天下のフランス国立研究所の研究員であれば、相当に高い知性の持ち主のはずだ。

 だから簡単な英語の単語のスペルが間違っていたり、三単現のSなど忘れるはずがない。要するにこれらすべてのラシッド・カドゥラ氏は、フランス国立研究所の研究員どころか、研究所にもフランスにも縁もなければゆかりもない人間ということになる。ただ彼らの目にはエキゾチックに映る由利のアイコンの写真に、性的な興味を掻き立てられて、送り返して来ただけに過ぎなかった。

 由利はこれには心底落胆した。いたたまれなくなって美月にLINE電話をした。すると美月はほどなく応答してくれた。

「あ、由利! 元気? 久しぶり! これでもう、十日ぐらい連絡とってなかったよ」

 いつものように電話に出た美月の声は、屈託がなく明るかった。その声を聞くと由利は、急に身体の奥から元気が湧き出て来るような気がした。

「うん。ごめんね。滝行ってやってみて初めて解ったんだけど、かなり危険を伴うものだったんだ。だから修行中は下界のことに気を取られて集中できないと怪我しそうな気がしたんで、ずっとスマホの電源を落としていたの」
「下界・・・? ふふ。そうなんだね。でも由利のことだから、おそらくそんなことだろうと思ってた」
「美月。メッセージ読んだよ。ありがとね。小山部長にも悪いことしちゃった」
「そうだねぇ、小山さん、ああ見えて繊細なところもあるから。由利があの日、泣いて帰ったって聞いたら、えらくショックを受けてた」
「そうなんだ。ああ、どうしよう? ね、美月、明日会えない? 時間あるかな?」
「いいけど? 相談?」
「うん。小山さんのことももちろんあるけど。他にもいろいろと困ったことが起こって・・・。どうしていいか分かんなくて途方にくれているとこ」
「いいよ、いいよ、この美月サンに任せなさいって。とりあえず今晩は、ひとりでヤキモキするのはナシにして。ね、いい?」

「うん、わかった。ありがとね、美月」



 そこで由利は美月と北大路ビブレの傍のスタバで翌日の十一時に待ち合わせすることになった。

 由利が店に入るとすでに美月は席に座っていて、季節のおすすめフラペチーノを飲んでいた。

「おはよ。由利も何か頼んできたら?」

 そこで由利はいろいろ迷ったあげく、豆乳アイスラテのグランデを選んだ。注文した豆乳ラテを選んで席に戻ると、美月はちょっとびっくりしたように言った。

「グランデ・サイズ? ちょっと大きすぎない?」
「うん。でもここで長居するにはちょうどいいサイズだと思うし」
「そっか。で、相談したいことって何?」

 美月は単刀直入に訊いてきた。

「ね、あたしが合宿へ行く前に、facebookで結構たくさんのラシッド・カドゥラさんにDM送ったじゃない?」
「うんうん。それで? 返事帰って来たの?」

 美月は突然目を輝かせた。

「それがね、全部バツみたい」
「ダメだったの?」

 輝いていた顔が途端にくもった。

「うん・・・。だって、その人たちには『フランス国立研究所に在籍していた研究員だった場合、連絡してください』って送ったのに、変な勘違いしていてさ。みんな援助交際か疑似恋愛かなんかだと思っているんだよね」
「何人返して来たの?」
「えっと、九人ぐらいかな」
「あとは?」
「返事がない」

 ふたりともしばらくうなだれて、無言でコーヒーをすすりながら考えていた。

「ねぇ、こうしたらいいんじゃない?」 

 ようやく美月が顔を上げて切り出した。

「ほら、facebookのDMっていう方法自体、お手軽すぎて相手にされないんだと思うんだよね。こんなんは読まれもせずに最初っから迷惑メールとみなされて、ゴミ箱直行なんだよ。やっぱりこれはきちんと書面にして、直接フランス国立研究所宛てに送るべきなんじゃないかな?」
「じゃ、どう書くの?」
「うんと。そうだな・・・。こういうのはどう? 『私は、十六年前に当研究所で研究員として在籍していた小野玲子の娘で、小野由利といいます。私は今、ある理由があって母と同時期に貴研究所に在籍していたラシッド・カドゥラ氏と連絡が取りたいのですが、もし貴研究所が現在のカドゥラ氏の住所をご存じであれば、カドゥラ氏に連絡を取っていただき、小野玲子の娘がカドゥラ氏からの連絡を望んでいるとお伝えして欲しいのです……』こんなのはどう?」
「うん・・・。でも、研究所に直接ラディの住所を教えてもらうことはできないのかな?」
「いや、それはできないと思うよ。個人情報だもん。見ず知らずの人間に、そうおいそれとは教えるはずないと思う。こんなふうに面倒でまだるっこしく見える方法しかないけど、それでも向こうからしたら、少なくともこっちの誠意は伝わるんじゃないかな・・・?」
「そうだね、やっぱり美月の言う通り、それでいいのかもしれない。あとはあたしの住所とメアドを書けばいい?」
「うん・・・。まぁ、これも一か八かだけど、少なくともfacebookよりも軽い扱いは受けないんじゃないかな? 事務局の人が親切な人だったら、調べてカドゥラさんに連絡を取ってくれる可能性はあると思う。ま、これもあんまり確実とは言いがたいけどね」
「そうだね、やるだけの価値はあるのかも」
「うん、そうだよ。何もやらないよりはマシだよ。もしダメだったらまた次の方法を一緒に考えようよ」

 美月はとかく暗い方向へ傾きがちな由利を励ました。

「ありがとう、美月。そうだね、まずはそれでやってみるよ。あとはね、今の茶道部っていうか、小山さんのこと。どうなってるのかきちんと教えてくれる?」
「うん。今んとこ茶道部はね、九月までお休みなんだ」
「ええっ? 今度、夏のお茶会あるんじゃなかったの?」
「うん。本来ならお盆は、浴衣を着てお茶会をするのが、毎年の恒例みたいなんだけど、小山部長がね『自分のせいで部員がひとり失意に駆られているのに、残された人間だけで楽しくお茶会を開いてお点前なんかできるはずがないって』って言ったんで、取りやめになったんだ」
「えっ、そうなの? あたしが合宿へ行っているうちにそんな深刻な事態になってたなんて。滝行へ行ったのは、ちゃんとした別な理由あるからだって部長は知ってるよね? あたし、ちゃんと小山さんに説明したはずだけど」
「うん。でもそれは単なる口実だと思ってるかもしれないね、小山さんは」
「あ、そんな…。あたし早く小山さんに会わなきゃ」
「うん。たしかに由利は、なるべく早く小山さんに会う必要があるね。誤解は早いとこ解かなきゃ。今は部はやってないけど、小山さんはたぶん毎日学校に来てるんじゃないかな?」
「どうして?」
「音楽室でピアノの練習しているって聞いたよ。小山さんは家にもグランドピアノがあるし、防音装置もあるらしくて、外に出る必要はないんだそうだけど、何ての、一種の気分転換なんだって」
「そうなんだ・・・。何かあたしの知らない間に、みんなにすごい迷惑を掛けちゃったんだね」

 しゅんとして由利が言った。

「そんな・・・あたしもみんなも由利に迷惑をかけられたなんて思っちゃいないよ。だけどさ、でもこんなことを言うと、由利が傷つくと思って今まで言うのを控えていたんだけどね。この際だからはっきり言っていいかな?」

 いつもの美月にしては、妙に歯切れの悪い尋ね方をした。

「え、何? 美月や部の他のみんなが思っていることを聞かせて。絶対に怒ったりしないし」
「うん・・・。小山さんのこと、たしかにあたしとか他の一年生は、由利がまったく気が付いていないって解ってた。そのことはあたしも他の子たちも由利に言おうとしたんだけど・・・」
「したんだけど・・・? 何?」
「うん。何てか由利は、いわゆるガールズ・トークっていうかさ、そういうのに水を向けても、鈍感っていうかさ、まったく乗ってこないんだよね。だけどあたしは女同士の秘密の共有っていうのも、それはそれで立派なコミュニケーション・スキルのひとつでもあると思っているんだよね。由利はもともと内向的だから、そんなちょっと悪意の入った根回しができないのはわかっていた。だけどそういうのをことさらに疎んじるのも、もしかしたら、由利の中にお母さんとの確執がトラウマになってるのかもって思っていたんだ・・・」

 美月は一度ことばを切って、相手の反応を確かめているようだった。

「うん…。ごめんね、美月。たしかにあたしは、そういうのにあんまりかかわらないようにしてたかもしれない…」

 由利はテーブルの一点に目を定めたまま、ぽそりとつぶやいた。

「ごめん。…たしかに毎日今度こそ言わなきゃって思っていたんだけど、結局タイミングを逃して、こんなことになってしまって。でもだれも由利を仲間外れにしようなんて思ってなかったんだ・・・。ホント、ごめん」
「そうなんだ・・・」

「でもね、あたし由利がさっきスタバに入って来たとき、これまでと何か雰囲気が違うなって気がしたんだ。少し大人になったっていうか。それにどことなくきれいになった気がした! それって精神的に成長した証なんじゃないの? おそらく滝行のお蔭とか?」

 美月がまた突然、思いがけないことを言い出した。

「何? それ? おだてても何にも出ないよ?」

「ううん。由利に今更お世辞を言ってどうするのよ? もしかしたら常磐井君と何かあったの?」

 探るように美月が訊いた。

「まさか。まぁ彼は合宿でも、相も変わらずオレさまでナルシストだったけど?」
「へぇ、なぁに、なぁに、それ?」

 由利の辛辣な口調に美月はふふと笑いながら質問した。

「道場の人達ってみんなめちゃくちゃ身体を鍛えていて、『北斗の拳』のケンシロウみたいにマッチョなんだよね。筋肉ムキムキでさぁ。びっくりする。それにさ常磐井君なんてさ、何を思ったのか上半身裸で濡れたままあたしに近づいてきて、『オレのこと見惚れた?』とかって訊いてくるの。もうバッカじゃないの? あんなゴツい身体で側をうろちょろされたら、どうしたって意識せざるを得ないじゃないの」
「あはは、カワイイじゃん? きっと由利にステキって褒めてもらいたかったんだよ。それで?」
「いやいや、ガン無視だよ」
「あたし思うんだけど、常磐井君、由利のこと、本当に好きなんじゃないかな?」
「えっ、どうして?」

 美月には話さなかったけれど、由利はそれでも滝行のあとで凍えている自分を案じて、常磐井がさりげなく温かいお茶を勧めてくれたことを思い出した。

「だって、常磐井君って由利を見つめるときの表情がね、いかにもって顔をしてるんだもん。見てるこっちのほうが切なくなってきちゃう」
「まさかぁ。そんなロマンティックな柄ですか? あの常磐井君が? 何かの間違いじゃないの?」

 冗談を言いながら由利は、兄の治季から教えられたことを思い出して、息苦しさを感じた。

「やっぱり男の子って、由利みたいに女子濃度が高くなくて、それでいて外見が大人っぽい子に憧れるんだね。なんとなく透明度が高くて、ミステリアスな感じがするもの」

 美月は心底羨ましそうに由利を見つめた。

「何言ってんの。あたしなんて中学のとき『デカ女』ってさんざバカにされてきたんだよ。こんなあたしに誰が・・・」
「ううん、それは違うよ、由利。もうみんなそろそろ大人になりかけている。これまでの由利はいわゆる『醜いアヒルの子』だったんだよ。だけど今は羽根も生え変わってきれいな白鳥に変わったんじゃないかな。あたしさっきも言ったでしょ? 由利はきれいになったって。ある意味うらやましいよ、そんな由利が」

 美月が真剣な調子で言うのを、由利は目を見張って聞いていた。

「たしかにね、入学したての頃は、由利はスタイルこそ抜群だったけど、こうクソ真面目で堅そうだなって言う印象は否めなかった。だけど今は違う。それだけはハッキリ分かるよ」
「そうかなぁ。それ、褒め過ぎじゃない? 自覚はまったくないけど・・・」
「そんなことないって。美月サンの言うことを信じなさいって」
「ありがと。そんなふうに美月に認められると、あたしも少しは自信が持てるような気がする」
「で、やっぱり滝に打たれるって危険なの?」

 美月は急に話題を変えた。

「うん。最初は夏に滝に打たれるなんて楽勝じゃん、涼しくてサイコーって思ってたんだけど、滝の落差が十二メートルあって、落ちるときの水圧が半端なくてね、ずっと鈍器に殴られ続けているような感じで痛いのなんのって・・・」
「それで修行自体の効果はあったの?」
「う~ん、どうかな? 滝行って近くのお寺の行者さんが付かないとやれないもんらしくて」
「やっぱり危険なんだね」
「で、帰り際にその行者さんにね、あたしは大きな白い蛇に憑かれているって言われたの」
「えーっ! マジで? それでどうすることになったの?」
「まぁまぁ、白い蛇は神聖だから、悪さはしないって言ってたけど。だけど念のため肌身離さず付けていなさいって、お札をくれたの」
「ひゃあ、そりゃ、『サスペリア』なんて見に行けないはずだよ」
「でしょ? でも大丈夫。帰って来てからは、超常現象には今のところ遭っていません」




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境界の旅人 21 [境界の旅人]

第五章 捜索



 すさまじい地獄のような聖滝からの合宿を終えて戻ると、京の街はアスファルトから陽炎が立つほど熱く、今度は灼熱地獄にいるような気がする。

「あ、暑い・・・」

 たったの一週間しか留守にしていないのに、妙に家が懐かしかった。

「おじいちゃん! ただいま帰りましたぁ」

 玄関で孫娘の声が聞こえると、 辰造は機を織る手を止めて、走り庭の方まで顔を出した。

「由利か、おかえり」

「おじいちゃん、ただいま」

由利は冷蔵庫から麦茶を出して、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干した。

「どうやった、合宿は?」

「うん、やっぱり体育会系っていうか、武道家たちの集まりだけあって、結構ハードだった」
「そうか。まぁ、ほんなら夕飯まで自分の部屋でほっこりしとき。晩御飯はわしが用意するから」

 由利は申し訳ないと思いながら、祖父のことばに甘えた。



 ずっと自分だけには難しい顔をしていた行者が、帰りがけにマイクロバスに乗ろうとしている由利に声を掛けた。

「ちょっと、小野さん」

 行者は遠くのほうから由利に手招きをして呼びかけた。

「あ、はい」

 由利は行者にいい印象を与えていないのだと感じていたので、呼び止められたのは意外だった。

「小野さんね、ちょっとこっちまで来てくれるか?」

 行者は由利に声をかけたあと、門下生の男子にこう命じた。

「あ、君ら、わしは小野さんに少し話があるから、出発するのを五分ほど遅らせてくれるか?」

 人目の付かないところまで行者は由利を連れて行くと、懐から懐紙に包まれた短冊のようなものを渡した。

「これは、わしが小野さんのために書いた護符や。これをこれから必ず肌身離さず身に着けておきなさい。わかったね?」
「あ、わざわざ私のために? ありがとうございます」

 驚きながらも由利は行者にお礼を言った。

「本来、行者というものは頼まれてもいないことを人に為すことはないんやが、少し気になってね。脅かすようで恐縮なんだが、小野さんはどうも因縁が絡み合った業の深い生まれのようや。何か気が付いていたかね?」
「えっ、それは・・・はい。気が付いていました。四月に京都に引っ越してきたのですが、それからいろいろと不思議な目に遭って・・・。今回、門外漢だったあたしがこの滝行へ参加した理由もそれです」
「ふむ・・・。それはおそらくあなたのみ魂さんがこの土地に御縁があったからやろうな。あなたは要するに呼ばれたんやな」
「呼ばれた?」
「そう。それにあなたの身体には、うろこが銀色に輝く大きい蛇が空中を泳ぎながら幾重にも巻き付いて見えるんや・・」
「へ・・・び、ですか?」

 それを聞いて由利はぶるっと身体を震わせた。

「蛇と一言で言ってもいろいろあってな。非常に霊格の高いものもいる。神様として祀っている神社もあるくらいだ。ましてや銀色に輝いているのだから、小野さんに憑いているものは決して悪いものではないとは思う。むしろ非常に守られているとも言えるのだが、どうもな、何か引っかかるんでな」

 由利は不安な気持ちで行者の話を聞いていた。

「しかし人生を恐れてばかりではあかんのや。これからは努めて、正しい行いをするように心がけなさい。結局今生において善行を施して徳を積むことだけが、過去世に犯した罪障を消すんでな。まぁ、そんなことを急に言われても、小野さんには信じられないかもしれないが・・・。また何か困ったことがあったら、遠慮なくまたわしのところに来なさい。力になれることがあったら協力するから」
「あ、ありがとうございます。そんなに気にかけていただいて」

 由利は蒲団の上に転がりながら、帰り間際の行者とのやりとりを思い出していた。

「まぁ、蛇まで憑りついているのが行者さんに見えたのなら、そりゃたまげるよねぇ・・・」

 しばらくするとまたスマホのバイブレーターが鳴った。常磐井からだった。

「由利ちゃん、お疲れ~。もしかしたら道場の行衣持ち帰ってない?」

 また常磐井は第二の人格のものいいで尋ねてきた。
 そう言われてみれば由利は行者に気を取られて、うっかりしほりに行衣を返すのを忘れていたかもしれない。カバンを見ると、濡れたままの行衣が水着と一緒にビニール袋に入っていた。それを確認すると、由利は常磐井に返信した。

「あ、ゴメン。持ち帰っちゃったみたい。家でもう一度洗って、干してから道場まで届けるんでいいかな?」
「あ、届けてくれるの? サンキュ。こっちに持って来てくれるのは助かります。ぼくが由利ちゃんちに採りに行ってもよかったんだけど(笑)。別に急ぐものじゃないじゃないから、時間のあるときでいいから。道場のほうはいつも三時に開くので、それ以前なら自宅のほうにお願いします(^^♪」



 由利はわざわざこのために誂えた帖紙に、これまた祖父に押し付けられた菓子折りを風呂敷に包んで、常磐井の家に行こうとしていた。
 由利が洗濯機で洗濯して干した行衣をそのまま畳んで風呂敷に包もうとしたら、祖父に見咎められた。

「由利、よそさんからお借りしたもんを、そういうふうにぞんざいに扱うもんやない。そういうのは、貸してくれたその人の顔を下駄で踏むように失礼なことなんやで」
「え、じゃあ、おじいちゃん。どうしたらいいの?」
「面倒やと思うやろうけど、もう一度、糊がけしてキチンとアイロンをかけるんや。それから新品の帖紙にきれいに畳んで入れて、感謝の気持ちを表すために菓子折りのひとつも付けにゃ」
「ええ? だってあたし、常磐井君にはちゃんと合宿費用も渡したし、それでいいんじゃないの?」

 東京育ちで今どきのドライな考え方に慣れた由利は反論した。

「せやけどな、由利。よう考えてみい。むこうさんは道場さんなんやろ? それやのに、何の関係もない由利に声を掛けてくれはったんやから、先方さんのご厚意に感謝せな。それがご縁を繋ぐってことなんや」
「ご縁・・・?」
「そやで。この世間で一番大事なんはご縁やで。わしがこの歳でこうやって機を織っておられるのも、ご縁があったればこそや」
「そんなものなのかねぇ。うん、解ったよ。ありがと。おじいちゃん」

 ここは素直に祖父の言いつけに従った。



「ここらへんだっけな」

 203号系統のバスを出町柳で下車すると、由利はグーグル・マップを片手に常磐井の家を確かめていた。彼の家と道場は鴨川を越えて下鴨神社の近くにあった。
 由利は初めて下鴨神社の参道を通ったときの感動を思い出した。その感激は今も薄れていない。

この神社の境内に茂る森は『糺(ただす)の森』と言われ、この土地に平安京を定めるより以前、山城の国といわれていた頃よりもはるかに昔から生えている原生林なのだという。じりじりと照り付ける太陽も、ここだけは天然の天蓋のように鬱蒼と茂る背の高い木々に遮断され心地よい風が吹き抜けていく。さらに参道に沿って流れる小川のせせらぎも清らかで、ここだけは常な清澄な空気で満たされている。

 せっかく下鴨神社の近くまできたので、多少遠回りでも由利は途中までこの参道を通り、途中からそこを抜けて、常磐井の家へと向かった。

「えっと、三時までは道場は開いてないってことだから、ご自宅のほうへ行けばいいのね。きっと常磐井君のお母さんが出て来られるんだろうなぁ。ああ、何だか緊張する」

 由利は玄関の前でもう一度みだしなみを整えて深呼吸をした。すると突然玄関の引き戸が開いて常磐井が出てきた。どうも出かけるところだったらしい。

「あ、常磐井君!」

 すると常磐井は目を大きく見張って、由利を見た。

「ああ、あなたはいつぞやの! 桃園高校で見かけたクール・ビューティ! どうしたんですか、こんなところにまで?」

 それは常磐井ではなく、どうも兄のほうらしかった。常磐井の兄は小走りで由利のほうへ駆けてきて、由利が持っている荷物をさっと持ってくれた。間近でよく見ればたしかに常磐井とはよく似ているけれど、多少顔のパーツのニュアンスが異なる。

「ああ、常盤井君のお兄さまですね。こんにちは」

 由利は少し気遅れしながら、相手に向かって頭を下げた。

「えっとこの間、合宿に参加させていただいたのですけど、行衣をお返しするのを忘れていて・・・。それをお返しにあがりに・・・」
「ああ、そうなの? じゃあえっと、きみの名前は?」
「あ、小野です。小野由利といいます」
「ふうん。由利さんね。ちょっと待っててくれる?」

 常磐井の兄はもう一度玄関に入って、奥に向かって声を掛けた。

「叔母さん! 叔母さん! 悠季のお客さんだよ!」

廊下の奥のほうで「はぁーい」という女の声がする。常磐井の兄がこの家の主婦にあたる人に向かって『叔母さん』と呼び掛けるのを、由利は一瞬奇異に感じた。
 しばらくして奥からこの家の主婦らしい人が応対に玄関まで出てきた。小柄できれいな人だったが、あまり常磐井に似ているとは思えない。

 由利はあわててあらかじめ練習しておいた口上を述べた。

「は、初めまして。あ、あたし、常磐井悠季君のクラスメイトで小野由利と申します。この間は合宿にお誘いいただきまして本当にありがとうございます。今日はお借りしていた行衣をお届けに上がりました」

 すると主婦とおぼしき人は由利が息子のクラスメイトだとわかるとにっこりと笑って、行衣を受け取った。

「まあまあ、ご丁寧に。恐れ入ります。悠季はね、今度は高校の弓道のほうの合宿とやらで、長野のほうへ行って留守にしていますねんよ。何やしょっちゅう出たり入ったりしてせわしない子ですねん」

 常磐井の屈託のない笑顔に出会えるのをちょっぴり期待していただけに、少し由利はがっかりした。

「そうなんですか…。それでは常磐井君がお帰りになったらよろしくお伝えください。それからこれ、家の者がこちらさまへお渡しするようにと預かってまいりました。どうぞお納めください」

 ぺこんと由利はお辞儀をすると、風呂敷をさっとほどいて菓子折りを玄関に置き、相手のほうに手を添えて渡した。由利は内心、このときほど茶道を習ってよかったと思ったことはなかった。

「まあまあ、お気遣いいただいて、却ってこちらが恐れ入ります」

 常磐井の母親は、由利のきちんとしたあいさつに好印象を持ったようだった。それをすぐ傍で見ていた常磐井の兄がこう言った。

「叔母さん、ぼく、ちょうど家に帰るところだったし、ついでにこのお嬢さんを車に乗せて送っていくよ。こんなに暑かったらバス停まで歩くのも大変だろうし」
「ああ、治(はる)ちゃん。ほんならおことばに甘えてもいいやろか。こんなに暑いさかいなぁ。そうしてくれると助かるわ。ほな、小野さんでしたっけ? お気をつけてお帰りやす。こないに暑いところをほんまにおおきに」

 常磐井の母親ははんなりときれいな京ことばを話した。そして、「治ちゃん」と呼んだ常磐井の兄にもう一度声を掛けた。

「治ちゃん、お父さん、お母さんにもわたしからよろしく言っていたと伝えてな」
「うん、わかったよ。じゃあね、叔母さん。叔父さんや悠季にもよろしく」

 玄関を出たところで常磐井の兄は、少し改まった調子で由利に訊ねた。

「小野さん、これから少し時間が取れそうですか?」
「え? 時間ですか? ええ、まあ」
「このすぐ近くにわらび餅がめちゃくちゃおいしいお店があるんだけど、そこでお茶しませんか?」
 
 常磐井の兄が連れて行ってくれたところは、『宝泉』という茶寮だった。 

 茶寮と称される建物は新しく建てたものではなく元は普通に人が済む住宅だったらしい。だが京都の真ん中に建てられたにしては、庭も充分すぎるほど広く、しかも凝った作りだったので、古い建物を壊すことなく茶寮用に作り直したようだった。

表通りに面しておらず、奥まった住宅街にぽつんとあるので京都人だけが知っている秘密の隠れ家っぽい風情だが、それでも最近は「ぐるなび」などが宣伝しているせいで結構たくさんのお客で賑わっていた。
 由利たちは庭に面した奥の座敷に通された。中に通されると全館が夏向けの葦戸(よしど)に取り換えられ、それがいかにも目に涼し気に映る。だが実際それだけでは暑さをしのげるものではないので、きちんと空調と取り付けられていた。

 常磐井の兄は弟のように茶目っ気がない分、静かににこやかに話す態度はやはり大学生らしい落ち着きがあり、好感が持てた。

「最初にお見かけしたとき、小野さんが大人びたすごい美人だったから、思わず見入ってしまって、びっくりさせて申し訳ないです。それにしてもまだ高校生なのに、すっぴんでこうも完成された子っているんだなぁ」

「そんな。あたしなんか別に背が高いだけで、別段大したことなんかありません」

「あのときは不躾に声をかけて失礼しました。見ず知らずの男に突然あいさつされちゃったら、びっくりしたでしょう?」
「いいえ、あのとき後から常磐井君が歩きてきたんです。だから、なぜ常磐井君がふたりいるのって、そっちのほうに驚いてしまって・・」
「あはは、そうなんですね。でもこうして再び会えるなんて光栄です」

 常磐井の兄は静かな雰囲気の男だったが、会ったなりこんな気恥しいことばを難なく口にできるあたり、よほど経験豊かなプレイボーイなのかもしれない。由利はちょっと用心した。

「あ、ぼくは悠季の兄で、阿野治季(はるき)というんです」


 阿野という名前を聞いて、由利は心臓が跳ね上がるのではないかと思うほど驚愕した。

「え? 阿野・・・? 阿野さんとおっしゃるのですか、常磐井ではなく? でも治季さんは、常磐井君と実のご兄弟なんじゃないのですか?」

 驚きながら由利が問い詰めるのを聞くと、治季はハハハと笑いながら説明した。

「ああ。あなたはご存じないんですね。おっしゃる通り、ぼくたちは正真正銘、血の繋がった兄弟ですよ。第一そっくりでしょ? ですが常磐井の叔父、つまりこの人がぼくたちの母の弟にあたるんですが、この夫婦には長らく子供に恵まれなくてね。しかも道場をやっているんで、どうしても男の子の後継者が欲しかったんですよ。で、まぁ幸運なことにぼくも悠季も体格に恵まれて、武道をするための素養はあったものですから。でもさすがにぼくたちの実の父親に『道場を継がせるための跡取りにさせるから、長男を差し出せ』とは言えなかったみたいでね。それで次男坊の悠季が中学に上がるのを待って、正式に養子にして道場の跡を継がせることにしたんです。だから弟は小学生までは阿野悠季だったんですよ」
「じゃあ、さきほど治季さんが『叔母さん』と呼んでらした方は・・・?」
「ああ、あの人は要するに、叔父の連れ合いで、ぼくには義理の叔母にあたる人です。まぁ、弟は気を遣っているのかおふくろって呼んでいるみたいですけどね」

 由利は心に引っかかることを、用心しながら目の前の治季にそれとなく水を向けてみた。

「ご兄弟ともに『はるき』『ゆうき』って対になっているんですね。『それに季』っていう字も」
「ああ、治季に悠季ね。うちの家ってよくわかんないんですけど、昔は帝に仕える殿上人だったらしいんですよ」
「殿上人?」
「ああ、殿上人っていうのは、貴族でもランクがありましてね。たしか五位以上だったかなぁ、何でもその位がないと帝が住む御所には上がれなかったらしいんですよね」
「へぇ、そうなんですね」

 由利は治季に相づちを打った。

「ああ、それでまぁその時から、うちの家は代々、男には『季』っていう字をつけるのが、まぁ、一種の伝統っていうのかなぁ。うちの親父も実際、『煕季』と言うんです」

 由利は何喰わぬ顔をしながらも、びっしょりと冷や汗を掻きながらそれを聞いていた。

「京都ってこんなふうに伝統を守っていらっしゃるおうちが多くて、東京から来た新参者のあたしなんかはびっくりすることばっかりです」
「いやいや。何をおっしゃいます、由利さん。京都の人間は、それぐらいしか矜持を保つ術(すべ)がなかったっていうことですよ。実際ぼくらは、明治天皇がこの京都から江戸に行幸するときにさえ、随行されることを許されなかったんですよ」

 由利がどう返事をしていいのか黙っていると、助け船を出すように治季はまた話を元に戻した。

「でもね、ぼくたちの名前は、最初、『はるき』『ゆうき』ではなく、『はるすえ』『ひさすえ』って読ませたんですよ。それで母があまりにその読みは時代遅れだからって、途中でやめさせたって話です。戸籍謄本には名前の読みまで記載しなくてもいいらしいのでね」
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境界の旅人 20 [境界の旅人]

 こうやってどうにか滝行の一日が終わった。門下生の男子たちは腹筋で腹は割れ、首にも肩にも腕にも筋肉が付き、まるで全員が金剛力士のようだった。こんな男たちにとってもはや夏の滝行などはただの水遊びにすぎないらしい。由利のように騒ぎ立てる人間は誰一人としておらず、みな涼しい顔をしてシャワーでも浴びるかのように滝に打たれていた。あまつさえ滝行だけでは鍛え足りないのか、待っている間はたいていの人間は腹筋運動や腕立て伏せをして時間をつぶしていた。

「この人たち、同じ人間なの? 信じられない」

 自分と彼らの間に横たわる限りない基礎体力の差を思い知り、由利は密かにため息をついた。
 次の朝、起きてみるとしほりに言われた通り、体中が打撲したような痛みがあった。足の裏が何となくヒリヒリすると思って確かめると、踏ん張りすぎたせいなのか、ところどころ赤くなって水膨れができていた。

「ひぇ~、たったの一分のことなのに!」

 驚いている由利を見て、傍にいたしほりが言った。

「ああ、私も最初の年はそんなふうになったわよ。最後はずるりと全部足の裏の皮が剥がれたんだけどね」
「ええっ? 本当ですか?」
「まあ、何事も経験。私、小野さんが滝壺に入ったとき、この人はもう、恐怖に打ち勝ったんだなってものすごく感心したよ。見ていてわかったもの。結局ね、武道の効能っていうのは単に相手じゃなくて自分の弱さに克服することに尽きるのよ。こういう気持ちはね、社会に出たらあらゆる場面で必要とされる能力よ。たとえパワハラやセクハラする上司がいても、間合いを見て、堂々とことばで応酬することもできるようになるの。一歩自分を押し出す力が身につくのよ。だから今日も頑張りましょう」

 しほりはちゃんと由利のことを見ていた。それにそんなふうに激励されると非常にうれしかった。

 その日は昨日と全く同じ手順を踏んで滝行をした。だが昨日の滝壺に入った時点で、いみじくもしほりに褒められた通り、めそめそ泣きごとを言っても物事は好転しないと覚悟を決めてしまったので、昨日のような恐怖をさほどには感じなかった。
 二日目は朝に一回、昼に一回。その次の日は朝に二回、昼に一回と少しずつ行の回数を増やして、四日目には他の人間と同じように、朝二回、昼二回の行をこなせるようになった。しかも回数を増やしていくごとに滝に打たれている時間も、次第に長くなって途中からは皆と同じように五分ぐらいまで打たれていられるまでに進歩した。
 だが傍で指導している行者の由利を見る眼は、どこか厳しいものがあった。
 五日目までは、ほとんど何も変わらずただただ滝の水圧に耐えているだけの苦行に過ぎなかった。
 だが六日目になると、次第に恐れや痛み以外の何かが由利の心の中の空白に生ずるようになった。一瞬その正体を突き止めたと思うのだが、次の瞬間には空を切るように、するりと手の内から逃げ去ってしまう。由利は次第にもどかしさを募らせていた。


 しかし最終日の七日目の最後の行のときに、由利は目をつぶって「南無大日大聖不動明王」と唱えていた。だんだんと没我の状態になり、由利の意識は心の中の光っている一点に集中した。するとふっと意識が飛ぶのを感じた。



 気が付けばまた由利は、以前自分が気絶したときに見た時と同じ時間、同じ場所にいた。
 この間と同じように、由利は御簾が降ろされた大床に金や紅が鮮やかな繧繝縁(うんげんへり)の厚畳の上に座っていた。

「皆中(かいちゅう)! 各々方、中将さまが放たれた矢、二十本すべて皆中でござりまする!」


 大床の前の庭には、弓を持ち片肌を脱いだ男が遠くに立っていた。
この前はどう耳をすませても聞き取れなかったことばが、今の由利にはやすやすと理解できた。 
 そう、この男は「中将」だった。


「ほう、女御、そこもとのひいきの季温(すえはる)がまた、的中であるぞ」 


 自分の横に座っている帝も、今度は中将のことを「季温」と呼ぶのがわかった。

ーこの男の名は、季温というのか・・・ー 

 由利はだんだんと心が昂って来るのを感じた。

「まあ、主上(おかみ)。酷い言われようでございます。わたくしは主上の妃なれば、身も心も主上に捧げております」

 自分の横に座っている男に向かって 由利はやすやすと心にもない嘘をついた。

「はは、まあまあ。よいではないか。やつはそなたを自分の命を呈して窮地から救い出してくれた男ぞ。もそっとうれしそうな顔をしてもよいと思うがの」
「そんな・・・。主上。もちろんそれは、うれしいともありがたいとも思うておりますとも」
「さようか」

 帝は由利のそつのなさすぎる返答にぽつりと返したきり、しばらく沈黙していた。が、持っていた扇でどこか苛立たし気にぴしゃりと膝を打った。この男は自分と中将の関係にうすうす気が付いているのかもしれないと危ぶみ、由利は内心焦りを感じた。

「しかしそれにしても一度も外さぬとは、そつがなさ過ぎて小癪な奴じゃ。それでは今しばらく続けさせようかの。あと何回放てば、的を逸らすであろうのかの? のう、女御」

 帝のことばの端々に、中将に対する嫉妬がにじみ出ている。だが何事もなかったかのように、花のような笑顔でやんわりと帝を取り成した。

「主上・・・。しかしながら、もうよいではありませぬか。ご自分の大事な臣下を、それそのように試すような真似をなさらずとも」

 笑いかけると帝は思わずうっとりと自分に見惚れている。嫉妬に駆られていても、女御の美しさには平伏しているのだ。由利は自分の美しさの威力を充分に知っていた。

「ほれ、そこもとは何かと、あやつをかばい立てする。そこがどうも気に入らぬ」

 いかにもくやしそうに帝は、由利が中将の味方をすると腹を立てる。

「ほほ、お戯れもそこまでになさいまし。どうぞ主上からも褒めてやってくださりませ。すべては主上の栄えのためでございますよ。今日の宴に花を添えてくれたのです。ほかの殿ばらではこうはいかなかったでしょうから」

 由利は努めて声を抑えていたが、誇らしげな気持ちでいっぱいだった。

「おお、そうよ。季温は朕にとってたしかに大事な男。そうじゃの。女御の言うとおり、朕からもねぎらってやるとするか」
「それでこそ、わが君さまでござります」

 由利は頭を下げた。自分の想い人はこの帝も認めざるを得ないほど有能な男なのだと思うと、嬉しさと誇らしさで胸がはちきれそうになる。由利はまだ誰にも気づかれていない自分の膨らみつつある腹を、庇うように大きな袖で覆った。だが今は、この命運を懸けた秘密の恋を何としてでも周囲に悟られてはならない。由利は用心深くそばに控えている女房にそっとささやいた。

「さあ、阿野中将(あののちゅうじょう)を御前に連れて参れ。主上からお褒めのおことばがあるゆえ。妾(わらわ)からも褒美を取らせよう」

ー阿野中将ー

 自分が入っている女御の口からその名前を吐いた途端、由利は心がかき乱されるような気がした。これほど全身全霊で愛した人の懐かしい名前の響きを、なぜ自分はこれまで忘れてなんかいられたのだろうか。

「かしこまりました」

 しばらくすると阿野中将は大床の前に現れ膝をついた。

「主上、参上いたしました」

 帝はそれを聞いて、傍からはさも機嫌よく見えるように声を掛けた。

「季温よ、ようやった。さすがじゃ。それ、褒美を取らそう」

 帝は自分が今着ている着物を脱いで、それをそばの女房に渡した。

「主上から御衣(おんぞ)が賜りました」

 取次の女房が帝から手渡された衣をまた捧げ持ち、その男に手渡した。

「これは身に余る光栄!」

 拝領された御衣を押し頂きなら、阿野中将は深々とこうべを垂れた。

「ほれ、女御、なにかことばをかけてやれ。女御が口を閉じていては、季温も皆中にした甲斐がないというものじゃ」

 胸を高鳴らせながら、由利は中将を寿ぐことばを瞬時に探した。

「このたびそなたは、類なき弓の技でもって畏(かしこ)くも尊い主上を寿いだ。まことにめでたくも天晴なこと・・・。九重(宮中のこと)も二重(矢が二十本皆中したこと)の歓びに包まれておりましょうぞ」
「ありがたきおことば、身に沁みましてでございます。橘の女御さま」

 またしても中将は深々と頭を下げたが、ふいに御簾ごしに顔を由利のほうへ向けた。

「あっ!」

 目の前で見ている公卿の顔は、たしかに由利の生きている世界では知らない男だった。だが自分を見つめる瞳の中に宿る光は。

ーああ、あたしは忘れはしなかった。たとえ何度、姿や形を変えて生まれ変わろうと、この愛しい人を決して忘れるはずがないー


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こんにちは、作者のsadafusaです

もう、気づいていらっしゃる方もいらっしゃるかとは思いますが、
この話は『聖徴』の続編なのです。

もっと作品を楽しみたい! なになに? 知らなかった読みたい! と思われた方は
こちらのほうから!

https://note.mu/sadafusa_neo/n/n702354198f51?magazine_key=md221e51d5929

おかげ様で、大変ご好評をいただき、順調に売れております。

また、前回、この「境界の旅人」ですが、こちらのブログのほうの読者さまも
沢山ご購読いただきました。ありがとうございます!
このnoteは会員じゃない方も、簡単にお手続きでご購読できます。
お考え中の方は、この機会にぜひ!!


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境界の旅人19 [境界の旅人]

みなさま、こんにちは。

いつも『境界の旅人』をお読みいただきましてありがとうございます。

今回はちょっと訳がありまして、noteのほうからお読みください。


https://note.mu/sadafusa_neo/n/n8de664b45367
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境界の旅人18 [境界の旅人]

五章 捜索



 東京から京都へ戻って翌日学校へ行ってみると、美月が手ぐすねを引いて待ち構えていた。補講が終わる昼休みになると、わざわざふたりきりになれるように、日ごろは使われていない茶道部の顧問室に入り、中から鍵を掛けた。

「ね、ね、由利! どうだった?」

 美月は興奮にわくわくした調子で尋ねた。

「うん。お母さんの出張中に家探ししてみた」
「それで? なんかヒントになるものは出てきたの?」
「うん。確証はないんだけど、お母さんが当時勤務していた研究所の職員名簿が出て来てね、お母さんの恋人らしい人が載っていた」

 由利はそういいながら、スマホに収めた写真を見せた。美月はそれを見ると少し顔を曇らせた。

「あら・・・ん、いやあねぇ。白黒で小さいし、それにこれ、えらく不鮮明な写真じゃん。由利、こんなのしかなかったの?」
「うん、だけどまぁ、ラディと呼ばれる可能性があって、かつうちのお母さんと恋愛対象になりそうな年回りの人物って言ったら、この人ぐらいしかいなかったんだもん」
「ふぅん。これ、何て読むの? ラシッド・カハドラ?」
「Hは読まないんじゃない? フランス語表記だと思うし。ラシッド・カドゥラだと思うけど」
「ふうん。ラシッド、ラシッド。どこかで聞いたことがあったような。あ、ハールーン=アル=ラシードか! 千夜一夜物語の!」
「そうそう、アッバース朝に君臨した偉大なる帝王のことだよ」
「出ました! 由利って世界史好きだもんなぁ」
「何よ。日本史オタクには言われたくありません」
「あ、ゴメン、由利。怒んないで」

 由利の機嫌を損ねると肝心の話の先が効けなくなるので、美月は低姿勢で謝った。

「まぁまぁ、そうかしこまらないでよ、美月。でもさ、地中海に面した北アフリカのイスラム文化圏の国は基本的にアラビア語を使うらしいから、こんな名前の男性は今も昔も結構いるんじゃない?」
「ふうん、そうなんかなぁ。それで由利のパパがこの人だと一応仮定したとして、これからどうすんの?」
「うん。まぁねぇ。それが問題なんだよね」
「由利、Facebookでこの人の名前、検索してみた?」
「うん。だけどラシッド・カドゥラ(Rashid Khadra)で検索してみたらさぁ、意外とありふれた名前らしくて相当な人数が引っかかるんだよね」
「どれ?」

 美月は、由利が差し出したスマホを受け取ってその画面を次々とスクロールしていった。
「う~ん、検索人数六十七か。ン? こんなハゲ散らかした油ギッシュなおっさんなんか、問題外ね。厚かましい、何おんなじ名前名乗ってんの!」

美月は明らかに同姓同名の別人物に向かって、悪態をついていた。

「そうはいってもね、美月。ラディは今、四十五歳のはずだよ、この名簿によれば。そりゃあね、二十代は髪の毛フサフサでスレンダーでも、この年齢層になるとハゲでデバラのデブって可能性は大いにあるんだよ」
「まぁ、あっちの人は劣化が激しいって言うからねぇ」
 美月も一応それには同意した。
「でもさ、このオヤジは歳が五十八だよ。多少の誤差はあるとしても、コイツは始めから想定外でしょう」

 美月はスマホの画面の中の、陽気に笑っている何の罪もないラシッド・カドゥラ氏を思い切り愚弄した。

「まぁ、明らかに別人と思われる人を除外していって、その中からもしかしたらこの人はって思われる人にDMを送るしか方法はないかな?」

 由利は美月の叩いた無駄口にはまったく関与せず、最善の連絡方法は何かを熟考していた。
 
「うん、あたしもとりあえずそうするのが一番だと思う」

 美月は唯の真剣な面持ちに気圧されて、真面目に答えた。

「えっと、文面はどうしようか?」

由利は考えながら、美月に訊いた。

「そうねぇ、あんまり込み入ったことを見ず知らずの他人に教えるのも物騒だから、最小限の情報だけでいいんじゃない?」
「ん、じゃ、『今から十六年前に、あなたがフランス国立研究所の研究員だった場合、わたしにご連絡ください。お報せしたいことがあります』とかは?」
「え~、由利。それガチで怪しい……。まるでフィッシング詐欺みたいじゃない?」

 いったんとダメ出した後に、美月もしばらく沈思黙考していた。

「でもさぁ、これが本当に由利のパパなら、由利の苗字が小野ってのを見れば、すぐにピンと来るんじゃない? 玲子さんと何らかの関わりがある人物だって。これぐらいにしておいたほうが無難かもよ」
「そうだね……。とりあえずはこれでDM出してみるか。英語でいいよね?」
「いいんじゃない?フランス語なんて、いくらグーグル翻訳サマに頼るにしても、こっちはまったくフランス語がわからないんだからさ。グーグルサマがよく仕出かすトンチンカンな翻訳には、こっちは手の入れようもないじゃん? それに向こうからフランス語で返事が返ってきたりしたら却って面倒じゃん?」
「そうだよね。じゃあ、そうしよっかな」

 さっそくノートに英文を書いているとと美月は、さりげなく探りを入れた。

「ねぇ、さっき、田中春奈がね、由利と常磐井君のことで騒いでいたけど?」
「へ? 何て?」

 ドキリとして由利は美月に訊き返した。

「なんか由利のこと、清滝のほうへ自分を差し置いて、抜け駆けでデートへ行くって騒いでいたわよ」
「え~、耳ざとい! どうやって知ったんだろ?」
「じゃあ、本当なの?」
「ううん、清滝へ行くのは本当だけど、デートはデマ」

 美月は遠慮してこれ以上は訊いてこないだろうが、変に勘繰られても困る。由利は、ここはきちんと説明するべきだと判断した。

「ほら、前にも美月もあたしに指摘したことがあったじゃん? あたしが何か超常現象でも見えるんじゃないのって?」
「ああ、あったね。たしかに」

 美月は同意した。

「実はね、美月。あたし、最近本当に変なものが見えるんだよ」
「え、マジで?」

 美月は心底驚いたような顔をした。

「うん。だけどこういうの、京都に来てからだったんだよね。それでどうしていいのか分からなくて誰にも言えずに悩んでいたら、常磐井君も実は霊感っていうの? そういうのが強い人だったみたいで」
「常磐井君って霊感があるの? ガチで?」
「どうもそうみたいよ」
「それで彼は、あたしがそれに悩んでいるのが判ったみたい」
「そんなの、どうやったら判るわけ?」

 美月はちょっと意地悪な質問をしてきた。

「さあ、それは何とも。彼は元からそういう力が備わっていたみたいだし。よく解んないけど、霊能者独特の勘が働くんじゃない?」
「ふうん、そういうもんなのかな?」
「ま、それはともかく、彼の家って合気道の道場なんだってさ」
「なあに、常磐井君って合気道の家に生まれたくせに、その上、弓道もしているってこと?」
「どうもそうらしい」
「何で? 霊能力と関係あんの、それって?」

 美月は興味に駆られて、根ほり葉ほり訊いてくる。

「さあ。解んない。そんなこと訊いたことないもん。で、常磐井君がそういう超常現象みたいなのには『滝行』が効くって教えてくれたの。だから道場の人達と一緒に八月の頭に一週間ほど合宿に行かないかって誘われたんだけど?」

 由利は美月の前では、努めてさりげなくふるまった。

「合宿? じゃあ大勢で行くの?」
「うん。マイクロバスで行くって。中には女の子も何人かは混じっているらしいよ」
「ふうん。でさ、田中春奈は常磐井君をデートに誘ったら、断られたってめちゃくちゃ怒りまくってたよ。それは絶対に、由利の差し金だって」
「まぁ、あたしは田中さんに常磐井君にアタックすることは邪魔はしないって言ったけど、それに対して常磐井君がどうリアクションするかまでは、責任は持てないよ」

 唯はちょっと美月には憤慨したように答えた。春奈がたぶんこっぴどく常磐井に振られた場面を想像して、半ば春奈に同情しながらも心の中で喜んでいる自分がいることに、由利はひどく動揺を覚えた。

 こんなに醜い感情を抱いたのは初めてだ。

 だが心の奥底では理解していた、恋情というものがひとたび絡むと、人はこんなにも身勝手になれるものなのだと。



 由利は部室へ行く前に本を返却するため、図書室や職員室のある本館へと向かった。そのあと女子トイレへ入った。

 茶道部は図書室と同じ本館にある。普段本館にはほとんど人気(ひとけ)がないのだが、今日に限ってトイレには先客がいた。用を済ませ、由利は洗面所で備え付けの青い液体石鹸で手を洗っていた。すると先にトイレに入っていた人間も、手を洗いに由利の傍に近づいて来た。

「やぁ、小野さん」

 由利はその声に一瞬違和感を覚えた。そしてその声が誰のものかわかると、腰を抜かしそうになった。

「えっ、え! 小山部長!」

 由利は泡だらけの手で、小山のほうへ振り向いた。

「な、何で部長がこんなところにいるんですか! ここは女子トイレですよ!」

 由利が気色ばんで相手を詰問していると、部室からその声を聞きつけて、部員たちが何ごとかと駆けつけてきた。

「由利! どうしたの!」
「だ、だって小山部長が、男なのに、に女子トイレに入っていて……」

 部員たちは、本来なら当然糾弾されるべきはずの部長を責めるでもなく、かといって由利を慰めるでもなく、どう言うべきかを考えあぐねたように、むっつりと押し黙っていた。

「あー。小野さんは知らなかったんですね。おことばですが、ボクは、あなたが思っておられるような変態ではありません」 

 小山は妙に冷めた口調で説明しだした。こんな口調のときは、部長が激怒しているときだ。茶道部員は全員、身をもってそれを知り抜いていた。

「ボクは普段こういう恰好をしていますが、性別は女です」
「え、え? おんな…?」

 由利は目が点になった。

「だって、だって小山部長はどう見たって、お、男……じゃあないですか」

 ふっと小山は嗤った。

「ほらね、あなたが今言ったことばの中に、答えはすでに隠されています。現代社会で『男に見える=男である』という定義は、もはや成立しませんよ、小野さん。まぁ、ボクは身長が180センチありますからねぇ。体形も肩幅も男並みにありますし、どっちかと言えば、いかついほうです。だからでしょうか、ブレザーにスカートだとよく誤解を受けるのですねぇ、男が女装をしているって」

 由利は目だけを大きく見開き、凍り付いたように固まっていた。

「ですからブレザーにスラックスのほうが、ボクにとっても、見る側にとってもストレスがないんですね。つまりですね、ボクは本来生まれ持った性と合致する恰好をするより、男の恰好をするほうが無難なんだと、ある段階で気づいたんです」
「えっ? なっ…」

 小山は、唯にひとことも口を挟ませなかった。

「ですが男に見えるからと言って、ボクは心まで男だと認識しておりません。まだボクには恋愛経験がないんで、自分のセクシャル・ディレクション、すなわち性的指向も完全には把握しきれてはおりませんが、おそらくホモセクシャルでもなく、バイセクシャルでもなく、ヘテロセクシャルだと確信しています」
「セ、セ、セクシャル・ディレクションですか?」
「そうです。ボクはセクシャル・マイノリティの方々を差別するつもりはありません。ですが、自分は同性愛者ではないと、ここではっきりあなたに申し上げておきましょう。ですから性的倒錯趣味があってこのトイレを拝借していたのではなく、ボクは身体的生理欲求に従って、ここに入ったまでです」

 小山は憮然と言い放ち、茶道部全員の衆人環視の中でも、何食わぬ顔で手を洗った。

「皆さん、いつまでそんなふうにボケっと突っ立ってるんですか? さあ、お茶のお稽古を始めますよ」

 小山は部員を叱ると、さっさとひとりで部室へ行ってしまった。女子トイレには美月と由利だけが残された。

「由利、ちょっと大丈夫? まさか由利がまだ小山先輩の正体に気づいてなかったなんて。だけどまた気絶しないでね」
「・・・マジですか・・・。そんなの無理」

 そう言って虚脱したように由利はつぶやいた切り、ガクッとこうべをうなだれた。


 

 誰もがじっと見ているいたたまれない雰囲気の中で、お点前をやらされ、おそらく怒りが頂点に達していた小山の容赦ないチェックが止めどなく入り、その日の由利はボロボロだった。

「普通の人はだいたい小山さんに会ってしばらくすると、気づくもんなんだけどねぇ」

 今さらながら美月がまた、言い訳した。

「だって最初から男だって信じて疑わなかったんだから、仕方ないよ! 美月、どうしてそんな大事なことあたしに教えてくれなかったの? 今日ほど茶道部のみんなを恨めしく思った日なんてなかったよ!」

 泣きながら、取り返しのつかないことをやってしまったと由利は自責の念に駆られていた。

「由利・・・。小山さんは別にそれほど気を悪くなんかしていないよ。あとできちんと謝れば赦してくれるに決まってるって」

 美月は精一杯慰めようとした。しかしそれがかえって由利の逆鱗に触れた。

「もう、みんな嫌い! なんであたしだけが、バカみたいに本当のこと、知らされてなかったのよっ! ひとりだけ仲間外れにされていた気分だよ! 嫌い、嫌い! 美月も、理沙ちゃんも他の茶道部の連中も!」
「由利! 待ってってば!」

 美月が止めるのも聞かず、由利はひとり走り去っていった。



 由利は帰るなり、蒲団を敷いて寝床の中にもぐりこんだ。

「おい、由利、どないしたんや。調子でも悪いんか」
「うん」
怒気のはらんだ声で由利は返事をした。

「そうか、ほんならお汁とおかずを残しておくしな、お腹が減ったら食べるんやで」

 祖父はこういったことには慣れていると見え、あまり深く由利を追求しないでいてくれるのがありがたかった。 



 タオルケットにくるまって、混乱した気持ちを抱えながら目をつぶっていると、突然由利のスマホのバイブレーションが鳴った。取り上げてみるとLINEのアイコンに未読メッセージを示す②の赤いマークが付いていた。

「ん、誰?」

 泣いて帰ってしまった由利を気遣って、美月がメッセージを送って来てくれたのかもしれない。画面を開いて確かめると、意外なことにそれは何と常磐井悠季からだった。

「はろー、由利ちゃん。元気ぃ?」

 いつものぶっきらぼうな態度とはひどくかけ離れた文面に、由利はたまげた。しかもその下にはディズニーのオーロラ姫が投げキスをすると画面がハートで包まれるという、手の込んだスタンプが張り付けてあった。

「何これ? これ本当にあの常磐井君なの?」

 由利は信じられないものを見たかのように、画面に向かってつぶやいていた。

「こんにちは、常磐井君」

 半ばおっかなびっくりで由利は生真面目に返事を返した。するとすぐに返事は既読に変わった。

「由利ちゃん、滝に行く準備はできた?」

 一瞬これはLINEのなりすまし詐欺かと疑ったが、滝のことを話題しているので、どうやら本人に間違いなさそうだった。

「はい、水着はアシックスで競泳用の脚付き水着の黒を二枚買いました」
「そっか。滝行はうちの道場の毎年の恒例行事なので、行衣は道場でたくさん保管してるから大丈夫よ。夏の滝行といっても結構水は冷たいので、長袖の上着はマストアイテムよ(⋈◍>◡<◍)。✧♡  それじゃ体調を整えておいてね」

 それを見て思わず由利は吹き出した。

「別の人格に憑依されてるんじゃないの、この人?」

 しかし常磐井にこんなふうにメッセージを送られてきただけで、さっきまでの沈んだ気持ちが嘘のように晴れて来る。

「わかりました。当日はどうすればいいの?」

「ぼくんちの道場に八時に集合です。修行に必要な持ち物や道場へ行くまでの地図は添付しておきますので、それで確認してください。解らないことがあればいつでもLineして♪」




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境界の旅人17 [境界の旅人]

第四章 秘密



 由利は持っていた合鍵で、春まで自分が住んでいたマンションの一室のドアを解錠した。
 一階に常駐している管理人は、十二時から十二時半までの三十分間、全館見回りのため、入り口にある管理人室の席をはずす。万が一にも玲子の帰宅よりも前に管理人に出くわして、由利が家に入って行くところを不用意に見られたくない。管理人がいなくなったのを見計らって、由利は入口を無事通過した。
 
「はぁ、見つからずに済んだ。よかったぁ」

 また誰かに見咎められるのが嫌で、一応が外出せずに済むように、駅の近くのコンビニでおにぎりとジュースは買っておいた。
 玄関で靴を脱ぐ前に、由利は自分の長い髪を真ん中で二つに分けてツインテールにすると、そこからさらに三つ編みにして最後にゴムで留めた。

「まだ帰ってきてもいないのに、廊下や部屋にあたしの長い髪が落ちていたら、やっぱりそれはおかしいでしょ?」

 髪を束ねたあと、上り口を見るともう髪の毛が落ちている。

「ヤバイ、やばい」

 由利は持ってきたガムテープで玄関口をぐるりと用心深く拭いた。それをやはり用意してきたビニール袋に捨てた。
 几帳面できれい好きな玲子らしく、しっかりどの部屋も掃除がいき届いていた。特に由利が京都へ行ってからは、汚す人間がいなくなったので、余計にすっきりと片付いているような気がした。
 キッチンと続きのリビングに入ると、備え付けのリビングボードには由利が赤ちゃんの頃からこれまでの成長の記録として、節目節目に撮られた写真がずらりと並んでいた。

「あれっ、これは?」

 由利の見たことのない写真がきれいなフォトフレームに入れられて飾られていた。それは中学校の卒業式の日の由利だった。額の中の自分は、幾分気弱げに口角を上げて写っていた。撮影された日からほんの五か月ほどしか経っていないはずなのに、過去の自分がずいぶんと幼く思えた。


 このマンションは3LDKで、十二畳の大きなリビングと続きの六畳のキッチンがあり、そのほかに部屋が三つあった。ひとつは由利の部屋。もうひとつは玲子の寝室。中学校に上がるまで由利は、母の部屋に置かれたダブルベッドで玲子と一緒に眠ることのほうが多かった。完全にひとりで眠るようになったのは中学校へ入ってからだ。
 そして残されたもうひとつの部屋は、玲子の書斎だった。この部屋には玲子の仕事関係の書類、研究資料などが置いてあった。実は由利が小学校三年生ぐらいに勝手にこの部屋に入り込んだことがあった。それでパソコンをいじって大事なデータを吹っ飛ばしたのだ。それ以来玲子は用心のために、この部屋には施錠するようになった。

「まさかわたしがいなくなっても、鍵をかけてるってことはないよね、ママ?」

 そう言いながらぐるっとドアのノブをまわすと、思った通り鍵は掛けられておらず、部屋のドアは開いた。

「うは、やった!」

 由利はバンザイをしながら歓声を上げた。

「だけど、待って、待って。迂闊なことはできないんだからね」

 由利は慎重に玲子の部屋の書棚の段を、ひとつひとつカメラに収めて行った。そして念には念を入れて、最初にどのような状態だったのか、部屋全体の写真を撮った。

「ママがフランスに行っていたときの、職員名簿みたいなものがあればいいんだけど」

 由利は玲子の戸棚にそれらしきものはないかと物色した。横文字の本がたくさん入れられており、それをひとつひとつ引っ張り出してはみるものの、ほとんどなんらかの研究書らしく、難しそうな数式か化学式のようなものが羅列されていた。

「うわっ、何これ? 呪文みたい・・・」

 数学の不得意な由利は顔をしかめた。

「変だなぁ。何かあっても良さそうなのに・・・」

 玲子は悲しい思い出のよすがになりそうなものはすべて処分したのだろうか。由利はがっかりして玲子の机の椅子にどっかと腰を下ろした。

「あれから何時間、ここで本棚から本を出したり入れたりしたんだろ。さすがに疲れた・・・」

 ふと足元に視線を落とすと、机の一番下の引き出しをまだ開けてないことに気づいた。

「もしかして・・・?」

 由利は取っ手を引いて開けようとした。だが引き出しには鍵がかかっていた。

「うん! 何なのよ、これ!」

 由利は机に突っ伏して頭を抱えた。鍵はどこにある? 玲子は鍵を捨ててしまったのだろうか?
 いや、そんなはずはない。もしここにフランス時代のものが入っていたとして、鍵を捨ててしまう可能性があるだろうか。

「そんな。鍵を捨ててしまうくらいなら、あたしなら初めから何も残さずに処分してる。でも捨てきれないからこそ、こうやって残してあるんだし。それなら絶対に開けられるようにしてあるはず」

 その鍵は一体どこにあるだろう?

 由利は稲妻に撃たれたように、突然脳裏に閃めくものがあった。

「ママは昔あたしの乳歯が抜けたとき、きれいな外国製のそれ用の箱に入れていた・・・。えっとあれは・・・真鍮製で 箱の上にティンカーベルみたいな妖精がついていたような」

 由利が保育園に通っていたころ、乳歯が抜けると他の園児たちの親は、屋根の上に放り投げていた。

それは「今度は生えてくる永久歯が丈夫でありますように」というおまじないなのだが、玲子はそうはしなかったのだ。

「こんなかわいい歯を捨てられるもんですか」

 由利にはそう言いながら玲子が、抜けた由利の乳歯をその箱に入れていた、薄っすらとした記憶が蘇った。内側はきれいな緋色のビロード張りで、指輪の箱のように畝が作ってあり、そこに乳歯を差し入れ固定させるようになっていた。

「あそこに鍵が入っていたような気がする・・・」

 由利ははじかれたように立ち上がると、今度は玲子の寝室へ行ってクローゼットの戸を開けた。

「たしかママの慶弔用の真珠のイヤリングやネックレスをしまっている、日ごろめったに開かない引き出しがあったはず」

 クローゼットに備え付けられている引き出しは二重ひきだしになっていて、普段よく使う引き出しの後ろに、めったに使わない引き出しがあるのだ。由利は順番を間違わないように写真を撮った後、ひとつひとつ、奥に隠された引き出しを暴いていった。

一番下の奥の引き出しに、真珠のネックレスと共に妖精が付いた銀色の小箱が収められていた。

「神さま、お願いっ! どうぞ鍵が入っていますように!」

 そう言いながらふたを開けると、思った通り、小さい由利の乳歯のそばに鍵がひそませてあった。それを緊張にふるえる手でこわごわ掴んで、由利は机の鍵穴に差し込んだ。
 カチッと解錠の音がする。

「ビンゴ!」

 やはり由利が睨んだとおり、その鍵は机の鍵だったのだ。
 ドキドキしながら由利が机の引き出しを開けると、中にはほとんど横文字のものばかり入っていた。
 またもや写真を撮ったあとに、背表紙に印字されたタイトルを読んでいった。

「うへぇ、みんなフランス語だから、何て書いてあるのか、予想もつかないわ」

 だがその中に、ひとつの白くて分厚い年鑑のような冊子があった。由利はそれを見てピンと心に響くものがあった。

表紙には『Centre national de la recherche scientifique』と書かれてある。

「ん? Recherché って英語でいうところの、リサーチじゃないのかな。つまりこれって、英語に直すと『Scientific research national center 』って言う意味?」

 由利は自信がないので、グーグル翻訳を仏→英に直して確かめた。
 中をパラパラめくると、やはり研究者名簿のようだった。一ページには八人ぐらいの研究員ひとりひとり名前と写真が載っていた。

「だけどこんなに分厚い本の中を、どうやって調べたらいいの?」

 しばらく考えて由利はとりあえず、後ろの索引のほうを調べることにした。

「まずママの名前があるかどうかを調べないと」

 玲子は小野玲子だからOの索引で調べられるかどうか、それを確かめた。

「Ono, Reiko ああ、あった、あった。516ページか」

 516ページを調べると確かに玲子の写真と、フランス語で玲子の簡単な履歴と博士号取得時の論文のタイトルとその掲載誌名が載ってるようだった。

「これってどういう分類方法?」

 由利は見出しをの文字を読んでみた。

「Institut des sciences de l'ingénierie et des systems…? ママってそういえば『工学システム科学』ってところにいたって聞いたような気がする。多分ここがそうなんだ」

 由利はもう一度、芙蓉子がくれた写真を見た。

「あ、ここって」

 見出しの下に工学システム科学研究所の建物が写っていた。由利はじっとふたつの写真に写っている建物を見比べた。

「うーん、なるほど。ここって研究所の敷地内で撮られたものなんだわ。それじゃあやっぱり芙蓉子さんが言ってた通り、十中八九はラディはママと同じ研究所の同僚だったと考えていい。ふたりとも同じ職場で働いていたんなら、きっとラディもここにいるはず」

 玲子と同じ付近の写真を丹念に調べて行った。
「pierre? え、ぴ、ピエール・・・? 苗字は何て読むんだろ? いや、どっちにしろピエールなんて名前に用はないわ。これは? ギュスターヴか。違う、ラディのせめて苗字が判ればなぁ。こんなに苦労はしなくて済んだんだけどな」

 そうやってページをめくっていると一人の男の写真が目に留まった。

「え、この人・・・」

 名前を読んでみた。

「Rashid Khadra・・・ ラシッド・カ・・・ドラ?」

 自分が持参してきた芙蓉子から渡された写真を、ラシッド・カドゥラと表された人物の写真の側に置いて二つを見比べた。

「似てると思えば似てるけど、別人のような気もする。こんな小さな写真じゃ確信がもてないなぁ。でもラシッドって名前は、ニック・ネームとしてラディと呼ばれる可能性は捨てきれない」

 そしてカドゥラ氏のプロフィールに記載されている生年月日を見た。

「ママより三つ年上なんだ。とすると、この人は今四十五歳ってことか」

 とりあえず由利はその人物の写真と履歴の箇所を、何枚も写真に収めた。

「まぁ、解んないことは京都に帰ってから調べればいいし。収穫はあった」

 昼過ぎにこの家に入って来たのに、気が付けばとっくに時計は九時を回っていた。
 由利はともかく一旦玲子の部屋から出て、自分の部屋でコンビニで買ってきた、おにぎりとジュースを食べた。へとへとだったけれど、何かを食べると元気が出た。少し気力と体力が共に回復したところで、再び部屋に入り写真を慎重に確かめながら、まず研究者名簿を机の引き出しに元通りにしまい鍵を掛けた。その鍵を真鍮製の小箱に戻し、それをまたもとからあった真珠のネックスレスが入っている引き出しの箱に戻し、その引き出しをまた元通りの場所に収めた。由利は作業を黙々とこなしているうちに、何となしに入れ子状になっているマトリョーシカをひとつひとつ胎内に戻しているような気がして、ひとりで声に出して笑った。
 何もかも元の通りになっているかどうかを念入りに写真と見比べながら確認してから、最後にガムテープで丹念に自分の痕跡を消し去り、玲子の書斎から出た。

由利は思わず大きなため息をついた。

「ホントは泊っていきたいところなんだけど、やっぱり予定が繰り上がってママが突然帰って来たら大変だしなぁ。仕方ない。今日と明日はカプセルホテルで泊まるとしますか。あ、その前にラーメン食べに行こっと」
 由利は夜更けに再び、自分の家から外へ出た。
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境界の旅人16 [境界の旅人]



「あー、よく食べた。何食べたっけ? スープでしょ、前菜でしょ、サラダでしょ、それから当然スパゲティも食べたし・・・。それからビステッカを食べて、そうそう鯛のアクアパッツァも食べたんだっけ? 締めのドルチェはティラミスをふたつ食べたんだった~。あ~おいしかったぁ、幸せぇ・・・!」

 由利は芙蓉子に長らく自分が悩んできた出生にまつわる話を聞かせられた。どんな悲惨な真実が隠されているのかと思いきや、案外話は玲子の一途な純愛を証明するような内容だった。由利は安堵するあまり湧き出る食欲を抑えられず、バカ食いをしてしまったのだ。でも芙蓉子は「由利ちゃん、よかったわね」とニコニコして食べるのを見守ってくれていた。
 一気に解放されて気が緩んだせいか、どっと疲れを感じた。由利は家に帰ったなり、なおざりに蒲団を敷いてそのまま倒れこむように眠ってしまった。
 目が覚めて窓を開けると、まだ外は明るい。時計を見ると六時前だった。
 蒲団に入ったままでカバンを引き寄せ、中を開いてガサゴソと探ると昼間芙蓉子からもらった例の写真が入ったファイルを取り出した。

「これがもしかしたらというか、確実にわたしのお父さんにあたる人」

 由利はその写真をじっと見つめて、つぶやいてみた。

「パパ、初めまして。あたしが由利です」

写真の中の男は思いやりに溢れた優しそうな人物に見える。こんな人が無慈悲に自分の子供を妊娠している恋人を捨て去ったりできるのだろうか。由利は頭をひねった。

「ラディか・・・。それしか判らないのかな、本当に?」

 由利はふっと玲子が先日言ったことばを思い出した。

『ママね、七月の二十日までは学会でニューヨークに行かなきゃならないの。帰ってくるのが二十一になると思うから、それからにしてもらっていい?』

―ということは、少なくとも二十日はあの家にママは完全にいないはず・・・とすると?― 

 由利はニヤリと蒲団の中で笑った。



「暑いー。朝、温度計見たら、すでに二十六度あったよ。七月でこれだったら先が思いやられる・・・」

 朝食を食べながら、由利が開口一番にぼやいた。梅雨が明けた京都は猛烈に暑い。ただ暑いだけではなくてじっとりした湿気がどうにも気持ち悪い。

「まぁ、盆地やしな。仕方がないんや。」

 辰造はぼやく孫娘を慰めた。

「おじいちゃんがいつだか言っていた意味が解ったよ。やっぱり京都の家は、少しでも夏に涼しくする工夫がいるって。そうじゃなかったら、とってもじゃないけど住めないもん。だけどどうしてこんな冬は寒いわ、夏は暑いわってところを都にしようと昔の人は思ったんだろ?」
「そりゃあ、まぁ、桓武天皇に『ここに遷都しなはれ』と勧めた家来の和気清麻呂はんあたりに訊かんと、ほんまのことは判らんのとちゃうか? まぁ、風水的にここはよかったと言われとるみたいやけどな」
「風水?」
「そうや。この地はな、風水的に四神相応(しじんそうおう)ちゅう考えに適った土地なんや」
「四神相応? 何それ?」
「うん、何や知らんけど、北山からずっと山が連なっておるやろ? それが玄武、東山一体が青龍、そんで嵐山付近が白虎や。そんで今は埋められたけど南に巨椋池っていうのが昔あってな、それが朱雀や。土地に四つの神さんの力があるっちゅうて、ここを都にしようと決められたそうや」
「何だ、それ?」
「わしも風水や陰陽道のことは、よう知らん。がまぁ、そういう思想に基づいて、平城京から長岡京、そんで平安京に移されたっちゅう話やで」
「ふうん」

 由利は少し憮然とした様子で味噌汁をすすっていたが、おもむろに口を開いた。

「あ、おじいちゃん。あたしね、お母さんに会いに東京へ行ってくる」
「ふん、そうか」

 少しの間、ふたりには気まずい空気が流れた。玲子と辰造はまだ仲直りをしていないのだ。おそらくふたりともしようと思えばできるはずなのだろうが、ばつが悪くてそれもできないままでいるらしい。

「で、いつからいつまで?」
「えっとね。二十日から二十三日まで。だから二十日の日にここを出て行って、二十三日の夜までには帰ってくるから」
「そうかぁ。ほんなら気を付けて行きや。お土産はそうや、近為(きんため)の『柚こぼし』を買うといたるわ。玲子はあれが好きなんや」

 辰造は仲たがいしていると言っても、しっかり娘の好物は覚えていた。

 

 夏休みに入ってもしばらく学校は午前中に補講があった。そうでもしないと文科省が決めたコマ数では教科書全部の内容は網羅できない。だからその流れで昼食を挟んでその後は、だいたいの生徒は部活にいそしんでいた。

「ね、由利。あたしたちが映画を見ている間、うちのお母さんと話したんでしょ?」

 教室でお昼を食べながら、美月が興味津々といったふうに訊ねた。

「うん。美月、お母さんとあたしのセッティングをやってくれたんだね。サンキュ」
「で、どうだった?」
「どうって。芙蓉子さんから聞かされてるんじゃないの?」
「ああ、ダメダメ。あの人ああ見えて、口がめっちゃ堅いから。ただお母さんはさ、由利ちゃんは話が終わったあと、安心したのか、バカ食いしてたって笑って話してくれたから、結果的には明るい方向に行ったのかなって、あたしなりに忖度したんだよね」
「あ~、忖度、忖度ね! 大事だよね」

 由利は笑って言った。

「うん、結構びっくりなこといっぱいあった。でも一番良かったのは、わたしのお父さんらしき人の写真を芙蓉子さんが持っていて、それをあたしにくれたことかな!」
「へぇ! それって今持ってる?」
「うん。見る?」
「見る見る!」

 由利がカバンから写真の入っているファイルを取り出した。美月は待ちきれずにひったくるように由利からそれを取り上げると、食い入るようにその写真をのぞき込んだ。

「何これ! いや~ん、すてきぃ。ハンサムじゃーん!」
「そうかな?」
「そうだよ~。それで、それで? イケメンパパは何て名前なの?」
「ラディだって」
「ラディ? それしか判らないの? 何か犬みたいじゃん」

 美月は訝しげな顔をした。

「何よ、犬みたいって。失礼ねぇ」

 由利は軽く文句を言った。

「うん、うちのお母さん、どうも口が重いらしくてさ。親友の芙蓉子さんにさえ、きちんとした相手の本当の名前を言ってないらしいんだよね」
「ねぇ、それってさ、玲子さんに訊くわけにはいかないの?」
「本当はそれが一番いいんだろうけどね、だけど教えてくれるはずないだろうしな、今までのことを考えると」
「それもそうだよね」
「でも、あたしにはちょっとした作戦があるんだよね」
「どれどれ、どんな?」
「うん、今度東京に行ったとき、それを試してみようと思うんだ。もしそれが成功したら、美月に手伝ってもらうと思う。だから待ってて」
「う~ん、よく解んないけど、まあいいや」

 そこへ同級の茶道部員がやって来た。

「美月~。この間お茶会で使った建水どこへしまったの?」
「あれっ? 理沙ちゃんどうしたの? もとの場所に置いたはずだけどぉ?」
「うん、それがさ、探しても見つからないんだよねぇ。小山部長に今日はあれを使うからって言われてて、準備してるんだけどさ」
「え~、そうだった? 理沙ちゃん、ごめんね。おかしいなぁ、それじゃ今から探しに行くわ」

 美月は理沙と呼んだ女子生徒に謝ってから、由利に声を掛けた。

「じゃあ、そういうことだから。ゴメン、由利。理沙ちゃんと先に部室に行ってるわ」
「ん、じゃあ、美月。あとでね」

 美月はバタバタと弁当箱を片付けると、理沙と一緒に足早に去って行った。小山はいつも茶道具同士の取り合わせに細心の注意を払っているので、部員がちょっとでも自分の指示通りに動いてないと知ると、機嫌がとたんに悪くなる。だから周りの部員たちは小山のご機嫌取りに必死だった。
 由利は部室へ行く前に借りていた本を返そうと一旦、自分の教室のある棟を出て、図書室や職員室のある本館のほうへと向かった。



 放課後、由利が部室へ向かっている途中で、紺色の稽古着姿の常磐井を見かけた。
 いつもムスッとして愛想のない常磐井が、どういうわけか今は、目の前でぼうっと突っ立って、由利の顔を凝視していた。

「えっ?」

 あまりにありえない状況に、由利はびっくりして足を止めた。常磐井はハッと我に返ったようで、照れくさそうにさっと頭を下げると、その場からそそくさと立ち去って行った。

「何だろ。常磐井君、どうしちゃったのかしら?」

 不思議に思いながら歩いていると、また向こうから、先程反対方向へ行ったたはずの常磐井が、大股でスタスタと歩いて来る。今度はいつもの通りニコリともせず、目の端だけで由利を一瞥しただけだった。

「ええっ、ど、どうして?」

 驚愕のあまり、由利は思わず声を上げた。

「ん? 何だ、あんた。いきなり変な声を出すなよ」

 不審げな面持ちで常磐井が、由利の傍に近づいて来た。

「い、いやっ! こっちに来ないで!」
「小野、どうしたんだよ? 何かあったのか?」

 常磐井の真剣な表情を見て、やっと由利は目の前の人物が本物だと悟った。

「ち、ちょっと前に常磐井君にそっくりな人が通り過ぎて行って……。あ、あたしがさっき見た常磐井君って、一体……?」

 由利の顔がまた、恐怖に覆われていった。

「お、おい。小野。落ち着け、落ち着いてくれ」

 常磐井は恐慌を来し掛けている由利の両肩を揺さぶった。

「え?」

 由利と常磐井の視線と視線が重なった。由利の姿を映した常磐井の瞳には、単なる親切以上の何か切迫したニュアンスが感じ取れた。

「あんたがさっき見たのは、おそらくオレの兄貴」
「えっ? 兄…貴?」

 由利は狐につままれたような顔をした。

「そう。兄貴は今、大学の一回生だけど、ここのOBなんだ。オレと同じ弓道部だったんで、夏休みに入ったから後輩の指導に来ていたのさ。実際オレは兄貴とは三つ違うんだがな、他人が見るとそっくりに見えるらしい」
「そっくりなお兄さん?」
「そうだ。だけど性格は全然違う。兄貴は美人に目がないからな。だからどうせ、鼻の下を伸ばして、あんたに見惚れてでもいたんじゃじゃないのか?」

 常磐井の言う通りだった。

「さっきの人って、常磐井君のお兄さんだったの?」

 常磐井は呆れたような少し情けない顔をして、由利をしみじみと見つめた。

「あんた……」
「な、何?」

 こんなふうに至近距離でじっと見つめられると、由利はもう、どうしていいかわからない。カァっと頭に血が上っているのが自分でもわかる。由利は平静を保とうとぎゅっと目をつぶり、両手に力を入れてこぶしを握った。

「何してんの、それ?」

 目敏い常磐井は、面白がって由利の不思議な行動のわけを訊いてきた。

「自分を見失わないようにしているの!」

 由利は恥ずかしさのあまり、やぶれかぶれになって叫んだ。

「小野。あんた、案外、ドジなんだな」

 常磐井は突然こらえられないといったように、腹を抱えながら、笑い出した。

「だ、だって…もう、びっくりしちゃって」
「さっきのあんたの慌てふためいた顔! リプレイして見せてやりたいよ! ハハハ」
「あ、あ、あたしはまた、例の三郎の仕業かと……」

 三郎と言ってしまって、由利はハッと口をつぐんだ。急にふたりの間の空気が張りつめた。

「小野……。前々から気になっていたんだ。あんたも、もしかしたら、見えてるのかなってね」
「あんたもって、どういう意味?」

 由利は真剣に訊き返した。

「小野、見えるんだろ? 普通の人間には見えないものが」
「常磐井君……。ということは、あなたも見えていたのね、三郎のことが」
「あいつ……三郎って名乗っているのか」
「三郎のこと、知ってるの?」
「あいつは死霊だよ」

 常磐井は躊躇することなく断言した。

「死霊……?」

 由利も三郎が生身の人間ではないことはわかっていた。だが由利は、『死霊』ということばの重さに改めて愕然となった。はっきり死霊と認識することで、三郎と自分との間に決して超えることのできない境界ができたように感じた。

「おそらくあいつは、何等かの想念の力で動いているんだ」
「想念?」
「そうだな、三郎の命が尽きるときに、この世に残した未練や執着みたいなもの…かな」
「未練や執着……?」

 由利はかみ締めるように、常磐井の言ったことばを反芻した。

「小野、あんたはあいつになるべく関わらないようにしろ」
「関わらないようにしろって言ったって、別に好きでそうしているわけじゃ・・・」
「じゃあ、あんたの霊格を上げて、あいつに付け込られる隙を与えないようにしろ」

常磐井はこわい顔をして命令した。

「霊格? で、でも。だって、どうやって・・・」
「そうだな・・・」

 しばらく常磐井は考えていた。

「オレんちは実は合気道の道場で、夏の間は門下生の人間たちと一緒に滝行(たきぎょう)をしに行くんだけど、小野も一緒に来い!」
「滝行?」

 思いがけないことを言われ、由利は素っ頓狂な声で訊き返した。

「ああ。オレも中学生のころ、一時期変なのに憑かれて大変だったんだ。だけど滝行をやって一か月ぐらい経ったら、精神修養ができたっていうかな、精神のステージが上がるっていうんかな。それから大丈夫になったんだ。小野も一度試してみろ」
「それって、いつやるの?」
「まずはとりあえず、八月の頭に一週間かな。京都に愛宕山ってあるの、知ってるだろ?」

 由利は黙ってスマホを取り出すと、グーグル・マップで位置を検索した。

「あ、ここか。うん」
「ここに清滝川っていうのが流れているんだけど、その渓流に聖(ひじり)滝っていうのがあるんだ」
「聖滝? へぇ」

 由利は人差し指と中指を使って画面を拡大した。

「あれ? わかんなくなっちゃった」
「どれ、貸してみ」

 常磐井は由利の手からスマホを取り上げると自分が操作して、聖滝の場所を画面に出した。

「あ、ありがと」

 常磐井の意外な行動に半ば唖然としながら、由利は礼を言った。

「行くときはオレんちの道場から、マイクロバスで途中まで行くから。そこからは山を登って三十分ぐらいの行程かな」
「あたしみたいな門外漢も参加して大丈夫なの?」
「うん」
「ね、滝行ってどうするものなの? なんか白い着物みたいなのを着るのかな?」
「ん? そうねぇ。本来は素肌の上から着るみたいだけど、透けて見えるしな。せっかく世俗の垢を落とすために滝に打たれに来たのに、そんなのを見ちゃうと男どもはかえって煩悩を掻き立てられるわなぁ。ハハハ」
「ちょっと常磐井君! 人が真剣に質問しているのに!」
「いや、ワリィ、ワリィ。小野があんまり思い詰めているみたいだったからさ。ちょっと気分をほぐしてやったほうがいいかなって思って」
「何それ? 全然フォローになっていない気がする」

 由利は怒った口調でいったが、それでも常磐井が親しく話しかけてくれるのが内心うれしかった。

「ああ、滝行に参加する仲間のうちには女子たちも二三人いるから大丈夫。みんなスクール水着を着て、その上から水垢離用の行衣を着てるよ。大丈夫、安心して」

 そして常磐井は由利のスマホの画面を一旦閉じると、今度はキーパッド画面を出して、ぱぱぱと素早く数字を打ち込んだ。途端に今度は常盤井の胸に付けられた胴着のポケットから、ブーンブーンとバイブレータの音が鳴り響いた。常磐井は自分の電話番号を由利のスマホからかけたらしい。にっと笑って発信番号を切ってから、スマホを由利に返した。

「ハイ、これでお互いの電話番号がわかりマシタ。小野、あとからきちんとオレの電話番号を登録しておけよ。そしたらお互いのLineが無事開通するから。まぁ、聖滝行きのことでわかんないことがあったら、オレにLineして。ま、別に何にもなくてもLineしてくれると、もっと嬉しいけど」
「え?」

 勝手に言いたいことだけいうと、常磐井は「じゃな」と手を挙げて弓道場のほうへ去って行った。


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境界の旅人15 [境界の旅人]



  ひとりきりで由利が校門から外へ出ると、プップーと車のクラクションが鳴った。音はマスタード色のゴルフから出されたものだった。

「由利ちゃん!」

 美月の母親の芙蓉子(ふゆこ)がドアのガラスを引き下げて由利の名前を呼んだ。

「芙蓉子さん!」

 由利は驚きながらも、芙蓉子の車のほうへ駆けよった。

「由利ちゃん、お昼まだでしょ? これから一緒に食べない?」
 にっこり笑って芙蓉子が誘った。

「ええ? いいんですか?」
「もちろん」

 美月が自分との約束をきちんと守ってくれたと、このとき由利はようやく悟った。

 
芙蓉子が立寄った先は、鴨川が一望できるしゃれたイタリアンの店だった。
川に臨む窓は大きなガラス張りになっていて、店内は明るい光で満たされていた。ふたりは案内された窓際の席に着いた。

「しばらくは雨ばかりだったけど、今日はお天気がいいから気持ちいいわね」
「ホントですね。川面が太陽にあたってキラキラ輝いていて・・・」

 外は身体にまとわりつくような暑さだったが店内はエアコンでほどよく除湿されているとみえ、カラッと乾いて気持ちがよかった。

「由利ちゃん、あなた何にする?」

 芙蓉子は手元のメニューを見ながら、、向かいの席に座った由利に訊ねた。だが由利は食欲などこれっぽっちもない。カラカラになった喉の渇きを癒すために、注がれたグラスの水を、ぐっと一気に飲み干した。

「ここはね、全般的にお食事もおいしいのだけど、お野菜がすべて地元の京野菜だけを使っているのよ。サラダがとってもカラフルできれいなの。これを是非由利ちゃんに食べさせてあげたいなって思って」
「へぇ、そうなんですね。それはとっても楽しみです」

 由利はまったく上の空で、機械的に口を動かしているだけだった。

「由利ちゃん、緊張しているの?」

 芙蓉子はそんな由利を気遣って、口許に少し笑みを浮かべた。

「え・・・あ、は、はい」
「ふふ。大丈夫よ、由利ちゃん。ちょっと深呼吸して。息を止めているじゃないの!」

 由利は言われた通りに大きく息を吸って吐き出した。

「いい? よく聞いて、由利ちゃん。これから私が話して聞かせる内容は、あなたがたぶん想像しているような恐ろしい秘密なんて、一切ないわ。玲子が性的に不品行だった結果とか、フランスに行って知らない男に乱暴されたとかそういうことはないから。だから安心しなさい」

 それを聞くと急に力の入っていた全身が一気に弛緩し、由利はぐったりと背もたれにもたれかかった。

「玲子からはお父さんのこと、どのくらい聞かされているの?」
「全く聞かされていないです。あたしの父親は行きずりのムスリムの男だったとしか・・・」
「ま、玲子ったら。そんなことを言ったら由利ちゃんがものすごく傷つくでしょうに。そんなこともわきまえていないなんて、困った人ね」

 やれやれといった調子で芙蓉子は首を振った。

「え、それじゃ、そうじゃなかったんですか?」
「もちろんそうよ。まぁまぁ、由利ちゃん、落ち着いて。ひとつひとつ話していってあげるから。あのクソ真面目な玲子が行きずりの恋なんて器用なマネができるはずないじゃないの。それは真っ赤な嘘よ」
「じゃ、なんで!」
「たぶん玲子は、あなたのお父さんと別れたことにものすごく打ちのめされて、まだその痛手から立ち直り切れてないのね。きっとその人のことを未だに愛していて、忘れられないのじゃないかしらね。だけど玲子は、もしそんな弱音をうっかりあなたの前で吐いてしまったら、もう二度と自分が立ち直れなくなるって思っているのかもしれない・・・」
「え、そんな」

 母親の親友だった芙蓉子から、母親の親友から、今まで思いつきもしなかった母の一面を聞かされ由利は戸惑った。ことばに詰まっていると、芙蓉子はカバンから一枚の写真を取り出した。

「これはね、玲子のフランス時代の写真。大学院を出てすぐに渡仏したときだと思うから、まだ二十四、五歳ぐらいの頃よ」

 由利はテーブルの上に置かれた写真を手に取ってまじまじと眺めた。

 どこかの白い建物の庭らしきところで、玲子が見知らぬ異国の男と一緒に写っていた。写真の玲子は生真面目な中にもどこかはにかんだ表情をして微笑んでいた。だが何より由利を瞠目させたのは、一緒に写っている若い男の玲子に対するしぐさだった。男は背後から玲子の両肩に両手を添えていた。そっと包み込むように肩に置かれた手の表情。それが何よりも雄弁にふたりの関係を物語っていた。

「この人・・・、いくつぐらいなんだろ?」

 写真の中の異国の青年は、いかにも育ちの良いエリートといった感じの、誠実そうな人間に見えた。

「そうね、玲子とそんなにいくつもは離れてはいないんじゃないかしら。まだ青年って感じだもの」

 ウェイトレスがアミューズとして聖護院蕪のスープを運んできた。

「ほらほら、由利ちゃん、食べて。食べて」

 由利は思っていたより自分が生まれた真相が悲惨な展開にならずに済んだのがわかって、少し食欲が戻って来た。サーブされたきれいな器に入ったスープを一口飲んだ。

「おいしい・・・」
「そうでしょ? きっと喜んでくれると思ってたわ」

 芙蓉子は優しく微笑んだ。

「玲子はね、フランスに行ってから私に『好きな人ができた』って言って、この写真を添えて手紙を送って来てくれたのよ。私が知る限りこの恋は、玲子にとって最初で最大のものだったと思うのよ。だいたいあの玲子が写真を送って来るだなんて。手紙の中でこの人のことを『ラディ』って呼んでいるの」
「ラディ? それはニック・ネームですよね?」
「おそらくはね」
「ママは相手はムスリムだって言ってたけど・・・。この人ってそうなのかな?」
「どうかしら? まぁ、ラディってあんまりフランス語っぽい響きがないのはたしかよね。でもフランスは第二次世界大戦までは北アフリカを植民地に持っていたから、イスラム圏の出身の人も結構多いの。それを考えあわせればこの人は、彫りが深くて肌も白いから、おそらくチュニジアとかモロッコあたりの出身じゃないかとも思うのよ。あるいはそんな人を親に持った二世か三世かもしれない」
「他には・・・? 芙蓉子さん、何かご存じのことってあるんですか」
「ごめんなさい、由利ちゃん。あとはその人が当時は玲子と同じ職場の同僚だってことぐらいしか・・・。あなたのお父さんに関しては、それぐらいしか知らさられてないのよ。玲子はとにかく小学生の頃から自分のことをペラペラとしゃべる子じゃなかったの。特にこんな自分の恋に関してはなおさらね」
「どうしてなんだろう?」
「たぶん、一途で内に秘めるタイプなのよ。由利ちゃんだって好きな人ができても、おそらく美月にだって即刻報告しないタイプに見えるけどな、どう?」
「それは、たぶんそうです・・・ね」
「ね? 結構古風なのよ、玲子も、由利ちゃんも。でも玲子はこのラディに相当夢中だったんだと思うのよ、今にして思えば」
「そうですか・・・」

 由利は沈んだ声で言った。

「でもね、由利ちゃん。玲子とあなたの父親にあたる人との間に何が起こって別れたのかは、たしかに私にもわからない。だけど一時であるにせよ、ふたりは本当に愛し合っていたことは真実よ。あなたは玲子とあなたのお父さんにあたる人が真剣に愛し合った末に生まれた子なの。だからあなたは自分の出自や玲子がシングル・マザーであることを恥に思う必要はないのよ。堂々としていらっしゃい」

 由利はそれを聞くと思わず、ぽろぽろと涙を流した。

「芙蓉子さん、あたし・・・ずっと母のお荷物なんだと思っていたんです。心ならずも妊娠したことをずっと悔やんでいるんじゃないかって。母はあんなふうに責任感の強い人だから、自分の中に命を授かったことを知って、使命感からあたしを産んでくれたんだろうって。でもあたしが生まれていなかったら、きっと母はこんなに苦しむこともなかっただろうって思っているのは辛かった・・・」
「由利ちゃん・・・。ずっとひとりで重いものを抱えて悩んでいたのね、可哀そうに。でもそうじゃない、そうじゃないのよ。真相は反対よ。おそらく玲子はきっとあなたがいなかったら生きていけなかったと思うわ。あなたを一人前に育てることが玲子の心の張りや支えになってきたと思うの。だけど玲子は不器用なところがあるから、自分の弱みを娘に見せられなかったのね」
「ふ、芙蓉子さん」

 由利は涙で顔がぐしゃぐしゃになった。芙蓉子さんは黙ってバッグからタオルハンカチを渡してやった。

「玲子はね、ある晩、大きなお腹を抱えて、私に会いに来たのよ」
「それはどういう?」
「玲子は大きな声で泣いていた、泣いていたの」

 芙蓉子は当時を思い出すように言った。

「どうしたの?ってわけを聞こうとしても玲子は『ラディとは結婚できなくなった』と答えてくれた以外は何も教えてくれなかった。だけどおそらく、私を頼るしか他に当てがなかったのね。玲子は私に手をついて頼んだわ。『お産をする間だけ、傍について欲しい』って」
「それで芙蓉子さんはどうなさったんですか?」
「私? 私もそのときすでにお腹に美月がいたの。だから女ひとりで子供を産まなければならない玲子の心細さは、痛いぐらい分かったわ。だから当時私が通っていた産院で、あなたを産むことができるように手続きをとって。幸い私の母の実家が山科にあって、祖母がその春に亡くなって空き家になっていたのよ。母に頼んでしばらくは玲子にそこで静養してもらっていたわ」
「え、本当に?」
「そう、そしてあなたが生まれて一か月になるのを待って新幹線に乗れるようになると、ふたりで東京へ戻って行ったわ。たぶん玲子はあなたの面倒を見てくれる保育園を捜した後、復職したんでしょうね」
「そうだったんですか」
「ええ。玲子にしてみれば、高校を卒業したあと、お父さんと大喧嘩して京都を飛び出したわけでしょう? 女ひとりでも生きて見せるって啖呵を切って家を出たのに、フランスで恋に破れて父親のいない子を出産しにおめおめと戻るなんて虫のいいことができなかったんでしょうね。私の母もそこらへんの事情をよく知っていたからね、玲子を可哀そうに思ったのか、山科の家に滞在することを承知してくれたの」
「そうだったんですか・・・。あたしそんなこと全然知らなくて」

 自分の出生にまつわることで思ってもみなかったドラマが展開されていた。そしてどういう偶然からか恩人であるこの人とそれとは知らずに再会していた。由利は運命の力に感動していた。

「ふふ。そうそう、由利ちゃんの名前を付けたのは、実はこの私なのよ」
「ええっ? そうだったんですか!」

 由利はまたひとつ思いがけない事実を知らされて、目を大きくまん丸に見開いていた。

「そうなのよ。生まれたばかりの由利ちゃんは色が透き通るように白くってね。ハーフの赤ちゃんって新生児の間は髪も金色で瞳も青みがかっているの。それが本当にきれいで可愛くてね。それでね、あなたが生まれたとき、産院のロビーに立派な鉄砲百合が何本も活けてあったの」
「鉄砲百合・・・?」
「ええ、鉄砲百合よ。それはそれは、真っ白で、凛としていてね。その花を見ているうちに赤ちゃんのあなたの姿と重なって見えたの。この子もこれから生きていく先々でいろんな困難が待ち構えているだろうけど、こんなふうに気高く毅然として、一本芯の通った女の子に育って欲しいと思ったの・・・。それで玲子に「ゆり」ってつけたらって提案したのよ」
「へぇ。そうだったんですね。じゃあ美月はおそらく・・・」
「そう、生まれたとき、月がね、満月できれいだったから」
「ふふふっ、あたしたちのネーミングの理由って結構単純なんですね」
「あら、名前なんてものはね、それぐらいでちょうどいいのよ。だけど由利ちゃんが名前に違わず、きれいな女の子に成長したのを見てうれしかったわ」
「そんな、あたしなんて」
「あら、何を言っているの、由利ちゃん、もっと自信を持ちなさい」
「でも・・・あたしなんて……こんなふうにあり得ないほど背が高くて…。この間も男子にからかわれて…。そういうのが、本当に嫌で…」
「由利ちゃん、ダメよ。自己憐憫は」

 今まで優しかった芙蓉子は、急にピシリと厳しい態度をとった。

「自己憐憫ですか?」
「そう。自己憐憫なんてまっとうな人間が最も犯してはならない愚行よ。きちんと自分と向き合って冷静に分析することも努力もせずに、可哀そうだなんて自分を甘やかしてはダメ」

 そう言われると由利は途端にしゅんとなった。

「背の高さなんてものは所詮、相対的なもの。たしかに由利ちゃんの身長は、ここ、日本では男並みに高いのかもしれない。だけどそれが一体何? きっとあなたのお父さんの国に行けば、女としてはやや背が高いかなって程度よ。あなたの悩みはフランスやイギリスへ行った時点で瞬時に解消されるの。それに北欧に行けば身長が百八十センチを越した女性なんてそこら中にゴロゴロしてるわ」
「そうなんですか!」
「そうよ。背の高さが自分を卑下する理由になんかならないわ。いい? そんなことで悩んでいること自体ナンセンスよ。そもそも美しさなんて時代と場所が変わればびっくりするくらい変わるものなの。そんなものに一喜一憂しているなんて馬鹿らしいと思うわ」
「・・・たしかにそうですよね」
「いい? よく聞いて。どんなに自分がすばらしいと思われる資質を持っていたとしても、当の本人がそれを認められなかったら、人の賞賛も心に響かないものよ。たとえば世の中の人にうらやましがられる金髪だって、それが美しいと認められない人は真っ黒に染めるものなの」
「え、そうなんですか?」

 それを聞いて由利はびっくりした。天然の金髪は人類の2パーセントしかないと何かで読んで覚えがある。たいていの人は憧れて金髪に染めるものだが、せっかく人もうらやむ金髪に生まれながら黒髪に染める人もいるなんて。

「そんな人は自分の良さが認められなくて、ないものねだりするのね。由利ちゃん、今のあなたがそうよ。あなたは長所をたくさん持っている。まずはその長所に自分自身が気づいてそれを認めてあげなくては」
「でも・・・何をやってもママには適わないし」
「ふふ。そういうところ、玲子にそっくり。よく玲子も高校生のころはそう言ってひがんでいた」
「ええっ、ママが?」
「そうよ。玲子だって高校生の頃は、自分の才能も、自分の美しさも、何にも気づいていなかったわね」
「でもママは・・・あたしなんかと違ってものすごく頭が良くて」
「それは違うわ。玲子は努力の人よ。高校に入ったときの成績は、実はこの私のほうが勝っていた。でも帝都大を目指すって決めてから、血のにじむような努力をしてきたのを私は知っているわ。だからその姿に心を動かされて周りの先生やクラスメイトも助けてやろうって気にさせたのよ」
「そうなんですか?」
「ええ、そう。そうなのよ。人間は意志の力が運命を左右するの」

 そのことばは由利の心に直に入って行って、慈雨のようにうるおした。由利はまた涙がじわりと出てきた。

「ありがとう、芙蓉子さん。あたし、もうちょっと自分のことを大事にしようと思います」

 それから何かが吹っ切れたのか、由利は芙蓉子が仰天するほどよく食べた。


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境界の旅人14 [境界の旅人]

第四章 秘密



 期末試験も残すところあと一日になった。三時間目で今日の試験が終わって、家に帰るとLineに未読のメッセージが入っていた。玲子からだ。

「今日は十時ごろには手が空くので、必ず電話してね」

ユーモアのセンスに乏しい玲子が選んだにしては可愛いスタンプが、メッセージの下に一緒に付けてあった。

 風呂に入ってから、軽く浴室を冷水で掃除したあと、時計を見れば十時を過ぎていた。由利は玲子に電話をあわてて電話をかけた。

「もしもし、ママ?」
「ああ、由利、元気にしてる?」

「うん」

 嬉しそうな玲子声が聞こえる。最後に電話してから二週間以上、間が空いていた。


「由利、学校はいつから休み?」
「えっと、今月の半ばぐらいかな」
「じゃあ、学校が終わったら、一旦、顔を見せに東京へ戻っていらっしゃい。久しぶりに親子水入らずでおいしいものでも食べましょうよ」
「うん!!!!!」
「それからショッピングにでも行ってお洋服でも買ってあげようかな。好きなのを買いなさい」
「わーい、ほんと?」
「ええ。由利、おねだりしていいわよ」
 玲子もひとりきりで寂しくなったらしい。
「いつ帰ろうか?」
「あ、そうだわ」
 玲子が思い出したように言った。
「言った傍から申し訳ないんだけど、ママね、七月の二十日までは学会でニューヨークに行かなきゃならないの。帰ってくるのが二十一になると思うから、それからにしてもらっていい?」
「二十一日? その日に成田に着くってこと?」
「時間はまだわからないけど、たぶんその日は遅くなると思うのね。だからそうね、二十二日以降にしてもらえると助かるんだけど・・・。由利は何か予定があった?」
「うん、たぶん部活が毎日入っているはずだけど、いいよ、そんなの。家庭の事情だし。ママは休みが取れそう?」
「そうね。じゃあ、二十二、二十三と休みを取らせてもらえるよう、職場に掛け合ってみるわ。何かあったらまた連絡するから」
「うん、ママも。いくら若く見えてもトシなんだから無理は禁物じゃぞ」

 お道化て由利が、母親を労わった。

「あはは、そうよね。ママもオバサンらしくおとなしくしておくわ。ありがと、由利。こっちに来るのを楽しみにしているから。それまで風邪をひかないように大事にしていてね。じゃね。おやすみなさい」
「うん、ママもね。おやすみなさい」

 玲子との電話での会話は、女同士につきもののだらだらとした長話もなく、実にあっさりとしたものだった。
 そのあとスマホのカレンダーアプリに帰省の予定を記入して、由利は明日の地理のテストの勉強をするためにノートと教科書を開いた。


 由利にとっては三郎の存在自体が、ひとつの大きな謎だった。
 三郎は自分のことを「時間と空間がお互いに絡みあわないように、まっすぐ進んで行くのを見張っている、ポイントごとの番人」だと説明した。

 美月は「椥辻(なぎつじ)三郎」と会話したことなどすっかり忘れていた。いや単に「忘れた」というより、まったく覚えていない。三郎が何らかの方法で美月やクラスメイトの記憶を改ざんしてしまっている。

「時間と空間の番人・・・。それって一体どういう意味よ?」

 まったく信じがたいことだが、その段で考えていくと、三郎は普通の人間ではないということになる。
 いつから番人になったのかは知らないが、少なくとも昨日や今日ではないはずだ。それならいつぞや『昔を偲んでいた』というセリフも理解できる。過去のある時点から何かをきっかけにして、必ず死ぬ運命にある人間を超えた存在として、三郎が今日まで生きてきたのであれば。
「三郎は、あたしのことを『土地の感情をゆるがすような要因がある』存在かもしれないって言ってた。それってどういう意味なんだろう? 解らない・・・そんなの解るはずがない」
 由利は京都に来てから自分の身の回りに起こった超常現象を、ひとつひとつ思い返してみた。
 最初は京都に来たばかりのとき、まず御所の近衛邸で妖怪たちに襲われた。
 三郎は化け物たちのことを、煩悩が強すぎてこの世にとどまっている者たちだと言った。由利はそのとき、何かのはずみで物の怪たちが棲息している次元のチャンネルに合ってしまったらしい。これは一応三郎の説明で納得できる。
 そしてふたつめは、中世の京(みやこ)に魂だけがタイムスリップしてでその時代の女御の身体の中へと入ってしまった。女御はおそらく帝の臣下と道ならぬ恋をしていた。
 最後のみっつめは、第二次世界大戦直後の京都へタイムスリップしたこと。
 この三つは、状況が似ているようで似ていない。 

 由利はふと弓道部を見学した日のことを思い出した。
 由利と美月が一緒になって三郎と話していたとき、常磐井が三郎に一瞬向けたあの険しい目つき。三郎を見たときの常磐井の反応はいつもと違い、明らかにおかしかった。たぶん常磐井は、三郎が尋常な人間でないことに勘づいている。

「あのとき、常磐井君は実はあたしと美月を三郎から引き離したくて、弓道部の見学をしろって言ったんじゃないかな?」

 地理の教科書を見つめながら、由利はぼんやり考えた。

「常磐井君なら、何か知ってるかもしれない」

 おそらく常磐井は由利の力になってくれるに違いない。とはいえ確固とした根拠はないのだが…。女御と公卿の秘密の恋には常磐井が、何らかの形で関わっているように思えてならない。それだけに常磐井に安易に近づくのはためらわれた。
 由利はここまで考えて、ほうーっと長いため息をひとつ付いた。

「いやいや、解決の糸口のつかないことでぐちゃぐちゃ悩んでいるより、明日のテストのことに集中しようっと」

 由利はイヤホンをつけ、今ハマっているジャスティンの『パーパス』のアルバムの音量をいつもより大きくした。





 一学期の期末試験も最終日を迎えた。
 精神的に開放された桃園高校の生徒たちの多くは、連れ立ってマックかモスバーガーで昼食を食べ、そのあと映画を見に行く。行先はJR二条駅近くの「東宝シネマズ二条」か、あるいは繁華街にある「Movix京都」だろう。おそらくはアイドル映画かアクション映画をみんなで見るはずだ。


 美月も出町の商店街に比較的新しくできた「出町座」で一緒に見ようと誘ってきた。

「ねぇ、由利。出町座で『サスペリア』見ない?」
「『サスペリア』? 何か聞いたことがあるような・・・?」

 由利は首をかしげた。

「そうだよ。1977年に作られた映画だもん」
「それ、どんな映画?」

 由利は嫌な予感に襲われて、質問した。

「ん~、オカルトかな? HDリマスター版なんだって。鬼才ダリオ・アルジェントが創造したゴシックホラーの金字塔だよ?」

 理屈の好きな美月は、また難しいことを言ってきた。

「却下。無理無理。怖いの、絶対に見ない主義」
「え~、そうなのぉ~。怖いの見るとすっきりしていいのに」

 いやいや、と由利は心の中で顔を横に振った。現実世界でもそうとう怖い思いをしているのに、映画まで怖いのはお断り。だがよくしたもので、やはりオカルト好きの友人が美月と一緒に見たいと申し出たらしく、しつこく誘ってこなかった。

 三時間目が終了するベルがなるや否や生徒たちは喜び勇んで帰る用意をした。

「美月! 出町座は座席指定できないんだから、早く行くよ!」
「うん、チカちゃん。わかった!」

 美月たちはあわてて教室を飛び出していった。

 気が付けば教室にはちらほらとしか人が残っていなかった。由利はこのあと予定がなかったので、のんびりと帰り支度していると、これまでほとんど話したことがないクラスメイトがおずおずと近づいて来た。
 それは、クラスの女子カーストでは最上位についている河本春奈だった。

「ねぇ、小野さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど・・・?」

 華やかな雰囲気があり、きゅんととがったあごと大きな瞳が印象的だった。だが由利にとって普段は、まったくと言っていいほど交わりの無い子だった。上目遣いで挑むようにじっとこちらを見上げて来る。その瞳の中に不穏なものが隠されていることを由利は感じ取った。

「河本さん。うん、聞きたいことって? なあに?」

 相手に自分が警戒していることを悟らせないように、少し鈍いふりを装った。

「あの・・・、小野さんってもしかしたら、常磐井君と付き合ってるの?」

 春奈は由利の心の内を探るように訊いた。春奈の鋭さに由利は驚いた。

「え、常磐井君? ううん。ないない、そんなの。付き合ってなんか」

 由利はとっさに両手を振って、全否定した。

「そうなの?」

 それでもどこか疑いを向けた目で、春奈は問い質した。

「うん」
「じゃあ、もしあたしが常磐井君にコクって、付き合うことになったとしても小野さんは別段あたしに文句はないよね?」
「え、うん。あたしと常磐井君とはそういう意味では、何の関係もないし。彼がどんな人と付き合おうが、あたしが文句言える筋合いはないのは確かだけど?」
「ふうん。そうなんだ。それ、本当?」

 春奈の目はそれでもどこか警戒の色があった。

「うん。そう。だけどどうして?」
「常磐井君の視線をたどっていくと、たいてい小野さんに突き当たるから。常磐井君、小野さんのことが好きなのかなって」
「常磐井君が実際にあたしをどう思っているかなんて・・・そんなこと、あたしにだって解らないよ。でもあたしは彼のことを何とも思ってないし。河本さんが気にすることないんじゃない?」

 実際は何とも思っていないどころか、相当常磐井のことが気になっていたが、春奈の前で自分の本心をさらすわけにはいかなかった。

「じゃあ、あたしがもし常磐井君と付き合うことになったとしても小野さん、邪魔してこないでね」
「もちろん。それはもう」

 由利の答えを聞いて春奈は、一応納得したようだ。

「あたし・・・絶対に彼のこと、振り向かせて見せるから!」

 春奈は由利に宣言した。しかし由利は心の中で、河本春奈の幼稚な態度にムカっと来ていた。ことばで恋敵から言質を取って牽制しようとしても、なるようにしかならないのが男女の仲だ。だからと言って今の自分は、春奈の恋敵ですらないのだが…。

「あ、うん。河本さん。頑張ってね」
「うん。言いたかったことはそれだけ。じゃね」

 由利から逃げ去るように春奈は、バタバタと教室を飛び出して行った。






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「コミュ障なんです」と自分から言うな! [雑文]

最近、話もしないうちから
「あたし、コミュ障なんです」と言ってくる人が多い。

BBAは世間のことに疎いから、
はっ? 『コミュ障』とはなんぞや?って思うわけですよ。

皆さまもご存じの通り、『コミュ障』とは『コミュニケーション障害』の略です。

ついBBAは意地が悪いので、
「ということは、アナタどこかで、『コミュニケーション障害』と診断を下されたのですか?」
って訊いてみたくなります。

たぶん、そうではないでしょう。
自分で『コミュ障』であると宣言しているのですよ。

そこで私は、ちょっとムカっと来るんですわw
だってさ、こういう人ってたぶん、
自分と話が合いそうもない人に『コミュ障』ですっていって
線引きしてるんだよね。つまり「あんたとはしゃべれませんですわ」って、
言ってるんだよね。

本当にド失礼だと思います。
そういう場合、
「あ、そう? じゃあ、私とおしゃべりするの苦痛だろうから、失礼しますね」
っていって別の席に移ります。
そんなめんどくさいヤツの面倒なんか誰が見るか。

たぶん、こういう人間はプライド高いくせに、努力しない。

おそらく自分の得意領域のことなら、
何時間でも微に入り細に入りしゃべっていられるのでしょう。

ですが、自分に共通の接点がないと見極めるや、
こういうふうに宣言してしまうんでしょうね。

まぁ、はにかみやさんも本当にいるから二十代前半ぐらいだったら
わたしも多めに見ます。

しかしね、30も過ぎたいい大人が
「わたし、『コミュ障』なんです」って恥ずかし気もなく言うな。
みっともない。

実をいうと、私だって知らない人と話すのは苦手です。
しかし、こういうもんは、あらかじめ時事ニュース見るとか、
共通の話題って常に仕入れておけば、何かしら話は1時間ぐらいならできますよ。

話するのが苦手なら、せめて聞き上手になるとかさ。

とにかく、無為無策でボケーっとして何の努力もしない癖に、
「あたしって神経質で繊細だから」
と言ってはばからない。どこがじゃ!
こういう人は、どっか何かが欠如している!


コミュニケーションを円滑に進めるには、
やはり不断の努力が必要なのです。
はじめっからうまい人間なんかおらんわ!

BBAは怒っています!



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境界の旅人13 [境界の旅人]


 
 その晩、由利は試験勉強に余念がなかった。だいたいどの科目も四十五分単位で切り上げて次に移ることに決めている。そんなふうに時間配分をしたほうが自分にとって効率的だと思っていたからだ。
 そのとき由利は、ジャスティン・ビーバーの『パーパス』を聞きながら、ボールペンを使って新聞の広告の裏に英単語のスペルの練習をしていた。漢字とか英語のスペルというのは、実際自分の手を使って覚えたほうが確実にものになる。

「あれっ?」

 今、『acquaintance(知り合い)』という単語を書いていた。こういうcとqがくっついている単語はとかく間違いやすいので、結構念入りに書いて、身体に染み込ませるように覚えなければならない。だが途中で書いている文字が徐々にかすれていき、とうとうインクが出なくなった。
 ボールペンを持ち上げ、ペン軸を見るとほとんどインクがない。

「ああ、なんでこう調子が乗ってきているときになくなるかな」

 イラっとした調子でぶつくさとひとりごとを言った。由利には密かなこだわりがあって、ボールペンにはうるさい。だがそのこだわりというのは「自分にとって書きやすいか否か」という一点にあるので、見栄えやブランドなどは一切関係ない。このボールペンは自宅よりちょっと離れたファミマで売っていたものをたまたま買ったのだが、それがなかなか使い勝手がいいということに気づいた。それ以来、ボールペンはとりあえずそこで買うことにしている。

「ん? 今何時?」

 時計を見ると十時半。祖父はすでに床に就いている。

「仕方ないなぁ。気分転換に夜中のお散歩と行きますか」

 由利は近場にお買い物専用のミニ・バッグに財布を投げ入れると、物音で祖父を起こさぬよう音を立てないように階段を降り、そっと玄関の引き戸を引いて、外へ出た。
 ファミマへ行くと、まだ人で結構にぎわっている時間のはずなのに、めずらしく店員のほかは誰もいなかった。とりあえずお目当てのボールペンの赤と黒を二本ずつ買い、眠気覚ましのためにコーヒーマシンに氷の入ったMサイズのカップをセットしてコーヒーを淹れると、蓋をして店の外に出た。

「ん?」

 外が妙に明るい。
 空を見ると西の空はオレンジ色に染まっていた。太陽はまだ沈んだばかりのようだ。

「え、なんで?」

 由利は思わず、もう一度ファミマのほうへ振り替えると、ついさっきまでそこにあったはずの店舗が跡形もなく消え去り、現れたのは映画でしか見たことのないような古い京都の街並みだった。
 びっくりして思わず横軸を走る中立売通りを見ると、目の前をガタゴトと音を立ててN軌道の市電が自分のそばを通り抜けて行った。

「え、どうして? あたしったらまた変な世界に来ちゃった?」

 そしていつぞや三郎が教えてくれた通り、市電は堀川に掛かっている橋梁を渡って、あの道幅の狭い東堀川通りへと向かって行った。

「今いる時代はいつごろなんだろう?」

 仕方がないのでとりあえず由利は、元来た道をたどって自分が住んでいる家のほうへと歩いた。たしかに道は変わっていないのだが、現れた街の風景はまったく違う。
 どの家も黒い瓦に玄関の横の窓には黒い桟が取り付けてあり、なんとなく町全体が黒っぽくすすけて、陰気に見えた。すれ違う人はたいてい男の人はカーキ色の開襟シャツ着て、女の人は和服にモンペを履きその上に割烹着を付けていた。

「男の人の恰好って、戦争中に着るよう義務づけられていた、いわゆる国民服ってものなのかな?」

 通る人、通る人みな一様に背が小さく小柄で、男でも百七十センチある人はほとんどいない。逆にそういう人たちからすれば、由利は雲を突くような大女に見えるはずだ。しかも二十一世紀の現代に生きる女子高生らしく、由利はユニクロで買ったバミューダ・パンツにブラ付きノースリーブを着、その上にシャツを羽織り素足にはナイキのスニーカーを履いていた。だがこんなごくありふれた格好でも七十年以上も昔の時代にあっては完全に周りから浮いていた。
 ひとりの小さな男の子が由利のほうへ駆けよって来た。

「ギブ・ミー・チョコレート」

 たどたどしい英語でチョコレートをねだった。だが由利は、生憎アイスコーヒーの他には食べるものを何も持っていなかった。

「あ、ごめんね。今チョコレート持ってなくて・・・。あ、そうだ、これ、アイスコーヒーだけど良かったら飲んでみない? ミルクもお砂糖も入ってなくて苦いとは思うんだけど」

 由利は少しかがんで、コーヒーのカップが入った白いビニール袋を差し出した。男の子は黙ってそのビニール袋を受け取ると、誰にも横取りされまいとして、ぎゅっとビニールの持ち手を握りしめ、抱えるように走り去っていった。それを見て由利は、この時代に生きる子供の厳しさというものを、肌身を通して直接感じた。

「まだほんの小さな子なのに・・・。あんな必死な感じ、『飽食の時代』って言われているあたしたちの世代には絶対に見られないもんだわ。日本もかつてはこんな時代があったんだ・・・」

 しみじみとそう言うと、ふと立ち止まって考えこんだ。

「ということは、あたしが今いる時代は、第二次世界大戦直後の京都ってこと? さっきのおじさんはたぶん戦後の物不足のせいで他に着るものがないから、国民服を着続けているってことなんじゃないかな」

 由利は少し冷静になって、こう類推した。

「じゃあ、あたしが住んでいる家はどうなっているの?」

 興味に駆られて、由利は小走りになって家のほうへと向かった。
 由利がもとの世界で住んでいた場所にいくと、見知らぬ家が建っていた。だがよくよく観察すると、家の形自体は、由利が祖父と住んでいた家と変わりがない。一見違って見えたのは、たぶん七十年も時代が経つうちに、玄関や窓などを修繕したせいなのだろう。
 なるほどと思いながら、家のほうをうかがうと中からこの家の主婦とおぼしき女性が玄関から出てきた。

「たっちゃーん! たっちゃーん!」

 女の人は口に手を当てて誰かを呼んでいる。

「おーい、たっちゃん! 辰造!」

 由利は主婦が口にした名前を聞いてハッとなった。「辰造」は祖父の名前だ。

ーするとこの人は、あたしのひいおばあちゃんなんだー

 曾祖母にあたるはずの主婦は、じっと様子を見ていた由利に気が付いたとみえ、不審そうな顔をして頭から足の先までさっと視線を走らせたあと尋ねた。

「あ、あの・・・。なんぞうちにご用でもありましたん?」
「あ、いいえ。何でもありません。すみません」

 そうやって由利が急いでその場を立ち去ろうとすると、通りの角からひとりの小さい男の子が由利のいる方向へ駆け寄って来た。
 まだ幼稚園児ぐらいの小さな子だ。学生帽を被りランニングに半ズボンを履いて、足は草履をつっかけていた。

「辰造! もうすぐ夕飯だから、もう家にお入り」

 どうやらこの子が祖父の辰造らしい。由利は祖父の可愛らしい姿に少し頬を緩めた。

「いやや! もうちょっと遊びたい!」
「あかん! 早ううちにお入り」

 曾祖母は目の端でちらっと由利の姿を見ながら、祖父の両肩に手を回して、急き立てるように家の奥へと入って行ってしまった。たぶん曾祖母は未来から来た由利のいでたちを見て何者かを類推することができず、警戒したのだろう。



 複雑な気持ちを抱えながらも由利は、堀川通りのほうへ歩いた。すれ違う人、すれ違う人がじろじろと由利を見ていく。居心地の悪さといったらない。だがふと由利は、ここに来たばかりの頃に見たあの赤いレンガの建物の姿を思い出した。今行けばきっと何のために建てられたものなのかがはっきり分かる気がした。だからそのまま今歩いている横の通りをまっすぐ直進して、堀川にかかる橋に足を踏み入れた。すると今は橋の下が公園となっている川には、滔々と水が流れていた。

「ああ、昔の堀川はちゃんと水が流れていたんだね」

 そのまま、東堀川通りを南に向かって中立売通に向かうと由利の住む世界では見られない用水路が通りに沿って走っており、それが堀川に流れ込んでいた。

「へぇ、中立売通りって昔はこんな用水路があったんだ・・・」

 たかだか時間が七十年を経ただけだというのに、街の様子がこれほど変わってしまったことに由利は少なからず驚いていた。
 例の場所へ行くと由利が春に見たときのように、見る影もなく落ちぶれ果てた老貴婦人のような姿は、そこにはなかった。代わりに目の前に現れたのは、こじんまりとしているが化粧漆喰が施された瀟洒な洋風建築だった。
 戦争に敗れたせいで手入れもされず、荒んだ民家ばかりがある中で、華やかな赤い色のレンガが組まれたこの建物だけは周囲にひときわ異彩を放っていた。入口までのアプローチも土地を切り売りされて人がかろうじて通れるだけのみすぼらしい路地ではなく、堂々として大きな石畳が敷き詰められていた。

 かつてはその石畳を縁取るように色鮮やかな植物も植えられていたに違いなかった。だが戦時中は花を愛でようという気持ちも贅沢と見なされていたのか、植物も根こそぎ抜き取られたらしく、そこだけ土がむき出しになっていた。それが由利の目には痛々しく移った。

「この建物って本当はこんなに立派だったのね」

 ひとりごとをつぶやいたはずなのに、そのつぶやきに対して答えが返って来た。

「ここはな、市電を走らせるために建てられた変電所だったんだ」

 いつの間に現れたのかすぐそばに三郎が立って、由利と一緒に変電所を眺めていた。

「三郎!」

 由利はあっけに取られ、しばらくは声も出せずに呆然と突っ立っていた。虚脱している由利をみて、三郎はニヤリと笑った。

「これが作られたのはもうすぐ二十世紀も訪れようかっていう1895年。明治28年のことだ。日本で最初に市電が通ったのがここ、京都だった。蹴上発電所で発電された電気を利用して市電を走らせたわけなんだが、いかんせん距離的に遠いからな。だからここに変電所を設けたんだ」
「なぜあなたがこんなところにあたしといるの? それにどうしてそんなこと知ってるの?」 
「前にも言ったろ? 一度にふたつ以上の質問はするなって」
「だ、だって・・・」
「おれは、時間と空間がお互いに絡みあわないように、まっすぐ進んで行くのを見張っている。まぁ、それがおれの使命だ」
「誰に?」
「誰に? さぁ、それはおれにも解らない。ただ解っているのは、そういう使命を背負わされているってことだ」
「じゃあ、三郎。あなたは日本中、世界中の、えっと何だっけ、その、言うところの『時間と空間』とやらを見張っているってわけ?」
「そんなはずないだろ。おれひとりの力でできることなんぞ、たかだか知れている。世界中にはそれぞれの場所ごとにポイントがあって、おれのような番人がいるはずさ。おれは単にここの担当ってだけ」
「なんで以前、変電所を見ていたときに、そのことを教えてくれなかったのよ?」
「おれは他人の人生になるべく介入しない。介入すればその人が本来たどるべき運命が狂ってしまう。となると当然、歴史そのものも変わっていくだろうからな」
「人の運命って決まっているの?」
「人っていうのは、あらかじめ越えなければならない試練というものをきちんとプログラミングされてこの世に送り出されるもんなんだ。歴史が変わると本来その人が受けなければならない試練というものが受けられなくなる可能性があるからな。そうなっては生まれてくる意味がない」
「じゃあ、どうして今になって教えてくれるのよ」
「それはおまえが、本来は体験するべきはずのないタイムスリップをしているからに決まっているだろ?」
「あたしがタイムスリップするのは、どうして?」
「さあな。それはおまえがこの土地の感情になにか強く働きかけて、時空のひずみを引き起こしているのかもしれない。おまえが京都御苑で出会ったものたち、あれは普通の人間だったら、決して見ることができないものだった。同じ場所に存在しても、次元が違うんだ。同じ場所に異なる階層が重なっているんだよ」
「あたしが普通に暮らしている場所は、どういう階層?」
「ま、おまえらのことばで言えば『この世』なんじゃないの?」
「じゃあ、あたしが近衛邸であったあの化け物たちがいる階層は?」
「ああ、ああいうのは、本来死んだら次のステージに移行しなければならないのに、この世に未練や執着やらで固執しているやつらの留まっている場所さ」
「あなたはあの時、何をしていたの」
「ああいうやつらは放っておくと、グレるっていうかな。悪しき想念がひとつになり巨大化して『この世』に悪さをすることがあるから、時々ああやって機嫌を取ってやらなければならないんだ。ま、厄介なしろものさ」
「でも・・・あたしがこんな目にあったのは、京都に来てからよ」
「土地にも記憶があり、思念があるんだ・・・。おまえはそういう土地の感情を揺るがすような要因があるのかもな。特にこの辺は土地にパワーがあるから、なおさらだ」
「そ、そんな・・・」
「とにかく、おれはこういうことが度々起こって欲しくない。それでおまえをずっと見張って来たんだけど、あんまりこういうことが起きるとなぁ。ほら、ゲームにもバグってものがあるだろ? おまえゲームやったことあるか?」
「うん。ときどきなら」
「ゲームにバグがあると、時々想定外の誤作動が起こったりするだろ? チャージしていたはずのパワーがなぜか0%になっていたり、本来ならありもしない空間にゲームの中の登場人物が落ち込んだりするヤツ。もしそういうことになるとプレイヤーは下手すりゃ、はじめっからやり直さなきゃならない羽目になる」
「じゃあ、あたしが京都に来たことはゲームのバグみたいなものだっていいたいの?」
「まあね」
「じゃあ、三郎はあたしをどうするつもり?」
「おまえがこういうふうに何度も時空のひずみを引き起こすことになると、それを取り除かなきゃならなくなる。バグは本来あってはならないものだからな」
「じゃ、じゃあ、何? あたしの存在自体は間違いだっていうの?」

 由利は自分の存在自体が全否定されているような気がして、ヒステリックに叫んだ。

「まぁまぁ、そういきり立つな」

 三郎は由利をなだめようとした。だが由利の目からは、後から後から涙が溢れてくる。

「そうと決まったわけじゃないさ」
「でも今、三郎はそう言ったじゃないの!」
「判断を下すのはおれじゃない。それにまだ、そういうふうに命令が下されたわけでもない」
「誰が判断するの?」
「さあ、しかとは解らないけど、おれたちなんかより、はるかに高次元の存在さ。まぁ、安心しろ。高次元の存在っていうのは、人間みたいに非道なことはしない。まぁだからと言って、甘やかしてくれるわけでもないけどな。もっと理性的なものだ。人間の及びもつかない深い慈愛と思慮に基づいて判断は下されるものだから。どんな人間も生まれてきたことには、きちんとした理由があるものさ。もちろん、おまえだってだ。まずはそれを信じろ」
「じゃあ、あたしは否定されているわけじゃないのね。間違って生まれてきたわけじゃないんだね」

 由利は三郎に確かめるように訊いた。

「そりゃそうさ。だから今、おれが原因を探っている」

三郎は諭すように言った。

「さあ、おまえは元の世界へ帰れ。そしておまえの為すべきことをやれ」

 三郎は由利に命じた。

「帰るって言ったってどうやって?」

 ふたりは一条戻り橋の前まで来た。

「この橋はこの世とあの世を繋ぐ橋なんだ。昔からおまえみたいな人間っていうのは一定数いたらしいな。この橋はそのためのツールさ。そういう場合はこの橋を通れば、また元の世界に戻れる。さ、行くんだ」

 三郎の声にはどこか由利に対する憐みが含まれていた。それを聞くと由利の身体はいいようのないやるせなさに包まれた。

「三郎は?」
「おれのことは気にするな。さ、行け」

 由利は言われた通り、一条戻り橋を渡った。すると黒い家並みは消え、堀川通りの信号が青緑色に点滅しているのが見えた。通りには車が流れるように走っていく。
 振り向くと、やっぱりそこには三郎の姿はなかった。


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境界の旅人12 [境界の旅人]

第三章 異変



「ああ、あと二週間足らずで期末試験だねぇ。もう七月か」

 しみじみと美月が言った。

「ホントに早いねぇ、この間入学式をしたような気がするのに」
「なんだかんだで、あれからもう三か月が経っちゃったんだよ」

 ふたりは靴を履き替えると、自転車置き場のほうへ向かった。京都の街はバスなどの交通機関を使うよりも自転車のほうが、時間の融通も利いて便利だった。

「ねぇ、今から今宮神社の茅野輪(ちのわ)をくぐりに行かない?」
「え、いいけど。茅野輪って何?」

 由利はこの手の習俗習慣については何も知らない。ふたりの間には、すでに「教える」「教わる」という一定のパターンが定着しつつあった。

「茅野輪っていうのは、文字通り、茅(ちがや)っていう植物で編まれた大きな輪のことを言うのよ。今どこの神社へ行っても、たいてい入口に茅野輪が置いてあるはずだけどね。東京にだってあるはずだよ」
「東京に住んでいたときは、そもそも神社ってところに縁がなかった」
「ふうん、そうだったんだ。でね、一年のほぼ真ん中にあたる六月の末に、この輪を通ることで、正月から半年分についた厄を祓うのよ。これを夏越の祓えって言うんだよ」
「へぇ、よくそんなこと細々と覚えてるもんだね」

 つくづく感心したように由利が言った。

「あら、面白いじゃないの。興味あることなら、すぐに頭に入るものじゃない?」

 由利は美月の持論には、あえて逆らわなかった。

「そっか、じゃあ行ってみるとしましょうか?」

 今宮神社は京都市の北部紫野の地にあり、かなり大きな神社で大徳寺とも地続きだ。
 ふたりが今宮神社の境内に入ると、拝殿の前に竹で作られた鳥居の下に、大きく編まれた茅野輪が下げられていた。

「わ、大きい」

 由利が感嘆してつぶやいた。

「ね、来てよかったでしょ?」
「うん」

 由利がさっそく輪をくぐり抜けようと、スタスタと茅野輪のほうへと向かった。

「ちょ、ちょっと待った! 由利」

 美月は由利の腕をひっぱった。

「何よ、せっかく厄を祓おうとしたのに」

 美月が人差し指を振り子のように、チッチと左右に振った。

「くぐるにもね、作法っていうのがあるの。さあ、今からあたしと一緒にやるのよ。輪はね、八の字を書くように三回廻るの。…まずは正面に向かってお辞儀」

 こうなったら、四の五の文句を言わず、美月の言われた通りにすべきなのを由利は比較的早い段階で学習していた。

「それから左足で茅野輪をまたぎ、左回りで正面に戻る」
「今度は右足でまたいで、右回り」
「三回目は一回目と一緒で左足から」

 それが終わると、美月は拝殿に向かって手を合わせながら唱えた。

「祓いたまえ 清めたまえ 守りたまえ 幸(さきわ)えたまえ」

 由利は黙って美月がそれを言うのをそばで聞き、美月が頭を下げると一緒になってぺこりと頭を下げた。

「さて、これでよしっと。半年分の厄や穢れは落ちました」
「そっかぁ、よかったぁ」

 由利はそれを聞いて、少し気持ちが楽になった。本当にあの気持ちの悪い一連のことから解放されればいいのだけれど。

「ねぇねぇ、由利。せっかくここまで来たんだから、あぶり餅食べてかない?」
「え、あぶり餅って?」
「もう、由利って本当に何にも知らないんだねぇ。今宮神社と言えば『あぶり餅』はつきものだよ」
「えっ、そうなの?」
「さ、行こ、行こ!」

 拝殿から行きに通った立派な朱塗りの楼門の方向へ引き返すと、今度はそこを通らずに、東門のほうへと向かった。

「この神社ってなかなか立派だね」
「そうだよ。ここは八坂神社とか下鴨神社ほど有名じゃないから観光客にはあまり知られてないけど、とても古くて格式のある神社なんだって。何でも平安京ができる前からあったらしいよ。それにここは、もともと疫病を鎮めるために作られた神社でもあるんだよね」
「へぇ、そうなの?」
「うん。昔はどうも桜の花が咲くころに、疫病が流行ったみたいでね。『やすらい祭り』って花鎮めのお祭りが今でも残っているんだけどさ、きれいな花傘を立てて踊るんだよね」
「ああ、花笠を頭に被って踊るやつ?」
「それは頭に被る笠。今宮のは差す傘。大きな赤い傘に造花をつけて街を練り歩くんだよね」
「ふうん」
「それがいわゆる『よりまし』っていうのかなぁ。疫病はきらびやかなものに憑りつくと昔の人は考えたんだよね」
「へ~え、面白い」
「そう。だから花傘を振り回して、疫病を取りつかせてから、川かなんかに流したんだよね」
「まぁ、昔は今みたいに薬がないから、そうやってお祀りするしか方法がなかったんだろうね」

 由利はひたすら関心して美月の説明を聞いていた。

「今日は講釈はこれぐらいにして、さ、早く食べに行こ!」

東門をくぐると、きれいな石畳の道が伸びており、神社の門を出てすぐに道を隔てて両側に、ほとんど同じような店があった。軒先には、小さな餅を突き刺すための竹を細かく割いた串が、たくさん並べられて干されていた。

「えっとね、北側が一和さんで、南側がかざりやさんかな」
「どっか違うの?」
「ううん、違わない。だけど、うちは昔から食べるなら一和さんと決まってるんだ」
「ハハハ。京都の人間は窮屈じゃのう、いちいちそんなもんまで決まっておるのか。それじゃ、あえていつもとは違うかざりやさんに入ろうよ」

 由利はお道化て由利に提案した。



「おいしい~」

 ふたりはお店の人にお茶を入れてもらって、お皿に盛ってあるあぶり餅を頬張った。

「うん、この白みそダレが何ともいえず絶妙!」
「でしょ?」

 またもや、ふたりは顔を見合わせ、にっこりと微笑みあった。

「テスト前だから、部活もないし、たまにふたりでこんなふうにのんびりと、道草喰っているのも悪くないないね」

 由利が、串にささった小さな餅をしごきながらしゃべった。

「あー、今の由利を小山部長が見たら大変だわ」

 それを聞いて、由利は餅でのどを詰まらせそうになった。

「ちょっと、美月! 変なこと言わないでよ! 小山先輩がそこいるのかと思って一瞬、ビビったじゃないの!」
「あは、ごめん、ごめん。だけどさぁ、小山先輩って本当に変わった人だよね」
「まぁ、真面目な求道者って感じだと思うけど。別に言うほど変わっていないんじゃない?」
「ああ、由利がそう思うのはさ、他のお茶の先生について習ったことがないからだよ」
「ん、なんで?」
「あたしが中学にいたころ、部活で教えに来てた先生はね『お茶というものは頭で考えるものじゃなくて、感じるものなんです』っていってさ」
「何、それ? ブルース・リー? 『Don’t think, Just feel』まるでジークンドーじゃん」

 由利はアハハと笑いながら、茶化した。

「あは、何それ、マジウケる。違うよ。あたしが言いたいのはね、お茶ってたいていの場合は、小山先輩が教えるように教わらないって言いたいの!」
「じゃあ、本来はどうなのよ?」
「まぁ、割り稽古するじゃない、それでさ、いろいろと変わった所作があるでしょ? なんでこんなことするんだろうって思う所作がいっぱいあるじゃない? それを質問すると『質問しちゃいけません』『意味を考えてはいけません』って言われるもんなんだよ」
「ああ、部長はそういうことは絶対に言わないよね。一番最初の日に何をするのかと思えば、茶室じゃなくて視聴覚教室に行って、自作のパワーポイント使って『茶の湯について』ってガイダンスをしてたもんね」
「そうそう、まずお茶の起源に始まって、中世あたりの闘茶とか唐物荘厳の末に、京や堺の町衆が『市中の散居』と称して自宅の離れに庵を作ったのが『茶の湯』の始まりとかなんとか、滔々と説明してたじゃん?」
「そうだっけ? うん。そうだった。金持ちが屋敷の離れに掘っ立て小屋みたいなのを建てて、貧乏ごっこしているような話だったね」
「そうだよ。それから冬と夏では炉と風炉があって、お点前の仕方が違うとかさ、あと建水とか茶杓とか棗とかさ、一番簡単な『平手前』のときの茶道具の説明とかしてたじゃない」
「うん、そうだね」

 由利はそんなことは、当たり前じゃないかという顔をした。

「でもね、お茶の世界ではそういうことが、当たり前じゃないんだよ、普通は。ひとつひとつ歩き方がなってない、建水を持っている位置がおかしい、座る位置が変とかさ。注意ばっかりされて、終わるころには、達成感もなく疲労感だけが残ってモヤモヤしてくるもんなんだよね」
「へぇ、そういうもんなの? ン~、ちょっとヤなカンジ。意味もなく叱られると、不必要にビクビクするし、あたしなんか小心者だから緊張して何も考えられなくなりそう」
「うん。だけど部長はさ、『本来茶の湯の、どんなに取るに足りないような所作であっても、それは先人が考えに考えた挙句のことだ』っていってたじゃん?」
「うん。そうだね。そこには意味があるってよく言ってるよね」
「そう、例えば割り稽古のとき、茶巾で茶碗を拭くときに『ゆ』の字を書け、って言われたじゃない? それで誰かがついどうして、『ゆ』の字なんんですか? って訊いたじゃない」
「ああ、そんなことがあったね」
「そしたらさ、部長は『本来茶碗の底をきれいに拭き取ることだけが目的なんだったら、どんなふうに拭いたとしても目的を達せられればそれでいいはずだ』って説明したでしょ」
「うん」
「しかしどうすれば、目的も達せられて、傍から見ても充分に美しいと思える所作になるのかと試行錯誤した末、それは『あ』でも『い』でも『う』でもなく、『ゆ』の字を茶碗の底に描くのが一番動作としては柔らかく優雅に映るという結論に至ったんだろうって。例えていうなら、昔の西洋の男性が、目上の人に敬意をこめて頭を下げるときに、手をくるくると旋回させる『レヴェランス』を見てみれば、『ゆ』の字の意味がわかるって」
「もうさ、『レヴェランス』とか。あの人の言うことは、イチイチ芸術的すぎて、却って混乱するような説明だったけどね」

「それにさ、小山先輩は『人間は新しいことを、三つ同時に覚えて実行することは、不可能だ』ってよく言うじゃない? 最初は歩き方だけを徹底的に練習させられたでしょ。まずやっちゃいけないことを教えるのよね。畳のへりは踏まない。摺り足で歩く、歩く歩幅も色分けしたシートを作ってきてその上を歩かせたじゃない? それをスマホでビデオ撮影して本人に見せてどこが悪いのか、どういうのがいいのか実際に画像で見せて納得させるでしょ、ああいうのってすごっく合理的だと思うな。口で注意されるのは、本当のとこ、何を言われているのかよく理解できないことが多いしね」

「そうだね。部長はだいたい六割できたところで次に移行する。『一度には絶対に完璧に理解できないから、らせん状に習得していくべきだ』ってね。それに部長よく言ってるよね、『これまでの教え方は、たいていの子なら一年か二年で終えることができるバイエルの教本を、十年かけて終えるようなものだって。それが終わったなら、次にツェルニー百番やら三十番や、バッハのインベンションなどぎっしり待っているのに、それをやる前に人生が終わってしまう』って」
「言い得て妙っていうか・・・。でもたしかに、そうなんだよね」

 美月は感心したように言った。

「小山部長は無意識のもろさを力説するじゃない? 普段楽々と何の造作もなくできていることが、いったん緊張する環境下に置かれると、いとも簡単にできなくなってしまうって。そこで『自分は今、こう動いている』と認識しながら聴覚も視覚も使って、もっとゆっくり所作をすることが大事だって。そうすることによって脳のいろいろな部分で記憶させることができるからって」

 美月が机に肘をつき掌にあごを乗っけながら、思い出すように言った。

「たしか緊張すると、頭が真っ白になるときってあるもんね」

 由利も同意した。

「そういうときは、もちろんこれまでやって来た、熟練の程度もものを言うだろうけどさ、意識して自分のやってきたこと、瞬時に思い出すことも、案外役には立つはずだって」
「彼って何かって言うと、小山先輩ってピアノの練習方法とお茶を対比させるよね」
「うん・・・。聞くところによると小山先輩は芸大を受験するみたいだよ」
「えっ、音楽のほう? だからかぁ」
「うん、一度音楽室でピアノ弾いているのを見たことがあったけど、めちゃっくちゃ上手かった。たしかリストの『波を渡るパオラの聖フランチェスコ』って曲、弾いてた」
「波を渡るパオラ・・・? なーに、その小難しいタイトル?」
「うん、これさ、うちの親戚の音大行ってたお姉さんが弾いてたから知ってるんだけど、よくコンコールかなんかで弾かれる曲なんだって。ピアノ科の音大生が弾くにしろ、かなり難易度が高いみたいだよ」
「そっかぁ。たしかにピアノは、ふっと途中で忘れちゃったりして、詰まったりしたら大変だもんね。そういう魔の瞬間に自分が襲われたとき、自分をどう立てなおすのかを小山先輩なりに模索して出した結論なんだろうね。それを茶道にも活かしているのかな」
「うん、そうかもしれない」
「ふうん。じゃあ、小山先輩は音大のピアノ科を受験するのかな?」

 ふと由利は訊ねた。

「いやぁ、作曲に行くって小耳にはさんだ気がする」
「美月って何? 耳がダンボなんじゃないの? すごい地獄耳!」
「何よ、たまたまよ、たまたま。別に人のことをコソコソと嗅ぎ出そうなんて思っていないって」
「そりゃまぁ、そうだろうけどさ・・・。でも作曲コースへ行くのは解る気がする。あの人、すっごく理屈っぽいもん。楽理とかめっちゃ詳しそう」

 

 しばらくして美月が改まった調子で由利に言った。

「ねぇ、由利。ここに入学したばかりのとき、うちのお母さんが由利を乗っけて家まで送って行ったことがあったじゃない?」
「うん・・・」

 急に周りの空気がぴんと張りつめた。

「あのとき、うちのお母さんは何か由利のお母さんのことについて知っているようだった。気が付いていた?」

 由利はそれには答えず、じっと美月の目を見つめた。

「ね、お母さんに直接由利に会ってもらうように、あたしから取り計らおうか?」
「それって・・・」
「うん、それって、とにかくデリケートな話だろうから、あたしは同席することを遠慮する。由利だって、どんなことをうちの母親から聞かせられるのかわからないし、あたしがいたら嫌でしょ。知られたくないことだって、きっとあるはず。だから、うちの母に直接尋ねて」
「いいの?」
「うん、うちの母が知っていることなら、とりあえず答えてくれると思う。それにあたしは、由利にはそれを知る権利があると思うよ。それがたとえいいことであっても、悪いことであっても」
「うん・・・。ありがと、美月」

 帰り道、自転車を押しながら、由利は美月に話しかけた。

「そういえば、ここんとこ、椥辻君見かけないね。一時はずっと教室にいたのに」
「え、椥辻君? 誰それ?」

 美月はぽかんとした顔をして、問い返した。

「え、だってほら、弓道部を見学したとき、美月は、椥辻君と親しそうにしゃべっていたじゃない? 椥辻君は、室町時代から続く小さい流派の家元の息子だって話していたでしょ?」
「ええ? 何のこと? だいたい由利、椥辻君なんて、うちのクラスにそんな子いないじゃない? いや、あたしの知る限り、そういう名前の子は全学年にすらいないよ」

 怪訝そうな顔をして、美月は言った。それを見て由利は何と答えていいのかわからなかった。
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無縁のふたり 『どろろ』 [読書・映画感想]

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みなさま、こんにちは。

今日もじっとりしています。

さて、私、二日にかけて新作アニメ『どろろ』を視聴いたしました。

私ね、昔、昔、テレビで放映されていた白黒アニメの『どろろ』ってリアルタイムで見ていたんですよ。まだ幼児の頃でした。

もう、白黒の画面が凄惨な陰影がある感じでねぇ、実際、妖怪が出てくる場面も怖いは怖いんですが、一番印象に残って眠れなかったのが、どろろの母親が寺で貧民を救済するために、炊き出しのお粥をふるまっているのに出会うシーンがあるんですよ。どろろの母親は粥を受け取る椀さえ持っていなかったので、素手で熱い熱いお粥を受け取るんです。

もう、何ていったらいいのかわかんないけど、可哀そうとかそういう甘っちょろい言葉で表現できないですね。もう本当にこの世の際を見てしまったっていう感じ。



この作品は五十年以上も前に執筆された手塚治虫の傑作中の傑作です。大人になってから改めて原作の「どろろ」を読んでみました。それにめっちゃ感銘を受けて、あたしはその後大学で中世の賎民史を主に学ぶことになるんですが。

手塚治虫の作品ってあの可愛らしい絵に騙されちゃうんですよ。いざ読みだすと実は結構グロい話とか、性について赤裸々に語られる話って多いんですよねぇ。あとこう、なんていうか業の深さみたいなものとかね。



どろろは見事にこの三つの要素が含まれていますね。

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で、要するにこの作品は、人口に膾炙されている誰でも知っている話なんですよ。

だから新しいアニメを作るにあたり、おそらく従来通りのプロットじゃ、周りは納得しないのですね。

そこで、この話はどう現代風に解釈するかっていうのが、結構、大事な要素かなって思いますね。

まず、父親が戦国武将の醍醐景光って人なのですよ。

今回の場所の設定がね、加賀の国のはずれということになっておりました。

へぇ~、なんか意外~。

私の中では、どろろの舞台はおそらく山陽地方なんではって思っていたんですよね、赤松とか毛利とかがいて、見える海は瀬戸内海。ですが、今回は北陸ということです。醍醐は朝倉と戦っていますので、おそらく時代は1560年あたり?かなとか。

で、設定がですね、百鬼丸の父親は、自分の野望のために、醍醐の領内にある地獄堂ってところに籠って、そこの鬼神と契約するのです。

「もしわしが天下を取るという野望をかなえてくれたなら、これから生まれてくるわしの子をおまえらにやろう」ってね。

それで生まれてきたのが、手足どころか、目も鼻も口も皮膚さえもない、蛆虫のようなわが子だったというわけです。

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中世において「不具」というのは、どんなに身分の高い、それこそ天皇の皇子であったとしても、もうそれだけで不吉っていうか、触穢にあたるっていうか、捨てられなきゃならない運命にありました。

こうして百鬼丸は本来なら、お城の若さまのはずなのに、無縁の人となってしまう。

無縁の人というのは、自分の帰属するものが何もない人のこと。

どろろもそうです。彼(女)は、夜盗の夫婦の間に生まれた子です。だからどろろも所属するところがないという意味では百鬼丸と一緒で無縁の人。

で、こんな百鬼丸なのですが、原作では赤ひげみたいな医者に拾われて、教育を受け、自分の失われた身体を取り戻す旅に出るのですが、

新作になると、ちょっとこのシチュエーションが違うのかな。

原作の百鬼丸は、ちゃんと自分の意志を持った精神的に成熟し、思慮分別のある大人なんだけど、新作の百鬼丸はもっと無自覚なんだなぁ。

新作の百鬼丸は、五感が失われた代わりに、超感覚でもって世界を見ている(ゲームによくあるXレイーバイザーみたいな感覚を持っている)だけなので、閉じられた世界にいるんです。聞こえないし、見えないし、触感もないわけだから、教育のしようがないのよね。

ですから、なんというかな、百鬼丸は非常にイノセントです。素直だけど、善悪もわきまえないから、非常に残酷でもあるよね。ある意味、ずうっと赤ん坊のまま生きていた人とも言える。

妖怪退治していくうちに、ひとつひとつ、手足や本来人間として備わっているはずの感覚を取り戻していくのね。味覚とか、触覚とか、また聴覚とか。

そうなると、百鬼丸は素直に「心地よい」とか「おいしい」とか「きれい」なものに感動して、少しでも早く、完全な人間になりたいと思うんですよ。

どろろが「兄貴、空がきれいだよ」とか「もみじが真っ赤に染まっているよ」っていうんです。

でも、視覚がないのだから、想像もできない。だけど、どろろがこんなに感動しているのだから、いいものなのだろうなぁって想像はする。ああ、俺も早く見えるようになりたいなって。

なんかそういう純真さが、たまらなく哀れで愛おしい。



~~~~~~~~~~

もうひとつ、完全に原作を覆す設定がありますね。

それは、醍醐景光の野望というのは、なにも己ひとりのものではなかったということです。

息子ひとりを鬼神どもにくれてやったおかげで、醍醐の領地はしばらくは、戦もなく、飢饉もなく、国は栄え、領内に住む民たちは安寧でいられるんですよね。

ところが、百鬼丸が鬼神をひとり、またひとりと倒していくうちに、醍醐の領地は流行り病に侵されたり、イナゴの被害にあったりして、民は疲弊していくのです。

こうなるともう、なんていうのかな、もともと被害者だった百鬼丸は、醍醐側にとっては厄災以外のなにものでもなく、逆に民に被害をもたらす祟り神にほかならなくなるのですよ。

ここでね、価値の反転というか役割が入れ替わっているわけよ、原作はもっとシンプルに人間賛歌を謳ってるし、醍醐景光と弟の多宝丸は完全な悪役だったのね。

でも、新作は全くの悪者だった景光は、結構思慮深い領主と描かれているし、弟の多宝丸なんかも非常に聡明で、人に好かれる少年と描かれている。また多宝丸、百鬼丸共に容貌が酷似していて、しかも美女の誉れが高い奥方様の血が濃ゆいんですよ。

奥方は弟の多宝丸が聡明で美しくあればあるほど、まだ見ぬ失われた子のことを思い出してしまって、素直に息子を愛せないのです。

それに多宝丸もひそかに気づいており、母親の十全な愛を受け取れず、傷ついているのですね。

醍醐家は完全な機能不全に陥っている家庭なんです。



~~~~~~~

「民の安寧のため」犠牲にならなければならない存在である、とスパッと切り捨てられた百鬼丸なのですが、「生きたい」という強い意志に動かされ、結局は醍醐勢と対峙することとなります。

そうだなぁ、だから昔のように、勧善懲悪って話ではないです。

また物語は中世の農民たちの自治組織である惣村にまでふれておりまして、なかなか興味深い設定でした。

どろろの父親が残してくれた莫大な遺産は、戦乱で農村を追われた同じような浮浪児たちとともに、誰にも介入されない自分たちの自治組織である惣村を作るようにも思われました。



この世の中は光の中にも影が潜んでいるし、暗闇の中にもわずかな光が感じられる。

生きていくということは、完全に清らかなままではいられない。だから醍醐景光が悪い、百鬼丸が悪いと安直に決められない。

だけどそういう混沌とした世の中を必死で生きている命が非常に愛おしい、そんな話になっておりました。

狂言回し的な琵琶法師が言いますね。

仏と修羅の間を生きるのが人間だと。

~~~

余談ですが、どろろって本当は女の子なんですよね。

こんな戦乱の世の中ですから、両親は男の子としてどろろを育てたのかもしれません。

新作アニメのどろろは、幼いながらも自分の性をはっきり把握していたし、男女のことも知っていました。

どろろっていくつぐらいなんだろう?

ものの道理っていうのは、はっきりわかっていたから8つぐらいかなぁと思うんですよね。百鬼丸はそのとき16歳。

ってことは8つしかちがわないじゃないですか(源氏と紫の上と一緒)

七・八年経てば、どろろが15、百鬼丸は23。

おお、立派に夫婦としてやっていけそうじゃないですか。

無縁のふたりは孤独であるゆえに、すでに深く魂はつながっているように感じました。
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境界の旅人 11 [境界の旅人]

第三章 異変



 いつもはおとなしい由利が、人が変わったように、いきなり激昂したのを見て、常磐井を含め、まわりの人間は虚をつかれ、ぽかんとしていた。
 由利はとっさに立ち上がって、口を押えながら一目散に洗面所のほうへと走って行った。急に吐き気がしてトイレでゲーゲーと戻した。お昼食べたものはほとんど消化されていたので、ほとんど胃液しか出て来なかった。
 真っ青な顔をして女子トイレから出て来ると、出口付近で美月が心配そうな顔をして待っていた。

「由利・・・。大丈夫なの?」
「うん・・・。どうしちゃったのかな、あたし」
「もしかして、アレじゃないよね?」
「まさか! 違うよ、美月。そんなはずないでしょ。変な冗談言わないでよ!」

 美月の見当はずれな質問に、由利は少なからず気を悪くした。

「由利、今ね、うちのお母さんに車出してもらうように頼んだから」
「えっ、そんな悪いよ。わざわざ車で迎えに来てもらうだなんて・・・」
「いいよ。こんなときは、素直に人の好意に甘えるもんだよ」

 人の親切に慣れていない由利を、美月は叱った。だがそうやって親身に案じてくれることばが今の由利にはうれしく感じられる。

「うん、そう言ってくれるなら。ありがと、美月」

 

 四月の日も落ちて、辺りがうっすらと夕闇に染まるころ、ふたりは美月の母親の車を待った。しばらくするとマスタード色のゴルフが校門近くに止まった。そこからセミロングの髪にベージュのワンピースを着た女性が下りて来た。誰かを捜すように辺りをキョロキョロと顔を巡らせている。

「お母さん! こっちこっち!」
 美月が手招きすると、その女性は小走りになって駆けてきた。

「お友だちの具合が悪くなったんだって?」
「そうなのよ。ありがと、お母さん」
「申し訳ありません、お忙しい時間にわざわざ車まで出していただいて・・・」

 うつむいていた由利は、さらにぺこりと頭を下げた。

「いえ、いいのよ。遠慮しないで。ちっとも構わないわ。それよりどうお、具合は?」
「はい、だいぶ良くなりました」
「そう? 病院へ行ってみる?」
「いえ、一旦、家に帰ります・・・。ちょっと横になりたくて」
「それなら家に行きましょうか」

 美月の母親は、そう言いながら再びキーホルダーを手にすると、車のほうへ向かおうとした。

「お母さん、彼女があたしの新しいクラスメートで、名前が小野ゆ・・・」

 紹介しようと名前を言いかけた途端、顔を上げた由利を見た美月の母親の顔色が変わった。

「れ、玲子!?」



「まぁ、それにしてもびっくりしちゃったわぁ。一瞬目の前に玲子が立っているんじゃないかと思ったのよ。さすが親子ね、よく似てるわ。まさか美月が入学した高校のクラスメイトが、玲子のひとり娘だったなんて・・・。何という偶然かしら!」

 美月の母親は笑いながらハンドルを切った。美人の母親と似ていると言われて、由利は複雑な気分だった。

「うちの母をご存じだったんですね?」
「ふふ、ご存じも何も。小学校から高校まで一緒よ。親友だったわ」
「ええっ? 本当なの? お母さん、そんな大事なこと、どうして教えてくれなかったのよ!」

 美月が母親に向かってブツブツ文句を言った。

「だって、小野さんってだけじゃ、玲子の子ってわかりこっないでしょう? だってこっちは東京の学校へ行っていると信じているんですもの」
「そうですよね。小野なんて名前はありふれていますから」

 由利は美月の母親に助け船を出した。

「そうそう、そういうところなんて玲子にそっくりよ。玲子もよくそんな感じで私を助けてくれたわ」

 美月の母親は昔を懐かしむように言った。

「えっ? うちの母がですか? 信じられない。いつもあたしには小言ばっかりで。うっとしい母親です」
「まぁ、玲子も親となって自分の子を育てるとなったら、いつもいつも優しいばっかりではいられないでしょ。わが子なら、叱るのも親の務めよ。うちの美月なんかは、そりゃもう・・・」

 自分にお鉢が回って来て、美月はどきりとした顔をした。

「もう~、やめてよ、お母さん。今はあたしのことなんかいいから!」
「あ~、はいはい」

 この人は小さい頃から母のことを知っている。もしかしたら、辰造の知らない玲子のことも知っているかもしれない。もちろん由利には決して打ち明けることのない玲子の秘密も。この偶然と出会って、由利の胸は不安と期待で早鐘のように高鳴った。
 しばらく沈黙が続いてから、美月の母が口を切った。

「ああ、自己紹介がまだだったわね、由利ちゃん。私は加藤芙蓉子(ふゆこ)です。私のことはこれから美月のお母さんじゃなくて、芙蓉子と呼んでね」

 芙蓉子は美月と同じように、可愛らしい外見ながらも、しゃきしゃきとものを言う人間のようだった。

「それにしても月日が経つのは早いものね・・・。大きいお腹を抱えてきた玲子に会ったのは、ついこの間のことのように思えるのにね・・・」

 ワンテンポ遅れて、芙蓉子はハッと自分が不用意に口を滑らせたことに気付た。だがつとめて何事もなかったかのようにふるまった。改めて由利は芙蓉子が母の秘密の共犯者なのを知った。
 ほどなく車は由利の家の前で止まった。玄関先で連絡を受けたのか、辰造が心配そうに立っていた。

「ありゃりゃ、これはこれは! 誰やと思うたら、帯正さんとこの芙蓉ちゃんやったんか! わざわざ由利のために車を出してもろうたそうで、ほんま、すまんことでしたわ」
「まあ、小野のおじさん。何をおっしゃいますやら。小さい時は本当にご厄介になってばっかりでしたのに、最近はご無沙汰ばかりしてしまって」

 芙蓉子は辰造に向かって深々と礼をした。

「いやいや、そんなことちっとも構へんよ。忙しゅうしておられるんやさかい」

 口下手で実直な辰造は照れくさそうな顔をしながら、手を横にふった。

「それにしても由利のクラスメイトっちゅうんは、芙蓉ちゃんのお嬢さんやったんか。ちっとも気が付かんと失礼なことをしました」
「いいえ、私もさっき、由利ちゃんが玲子のお嬢さんだと知ったところなんです。ほら、今は個人情報保護法とかで昔のようにクラスメイトの名簿も配らないし、連絡するのも本人同士がスマホで連絡とるでしょう? 親もなかなか自分の子供がどんな友達と付き合っているのかは把握できないものなんですわ」
「まぁ、わしらには因果なご時世やねぇ」



 一通りあいさつが済むと芙蓉子は車の後ろの扉を開き、ぐったりと座っていた由利を身体を包み込むようにして道路に立たせた。

「あら、由利ちゃん。やっぱり顔色があんまりよくないわね」
「大丈夫か、由利」

 辰造も心配そうに尋ねた。

「由利ちゃんのように背の高い子は、循環器が身体の成長に追いつけないから、よくこんなふうに倒れたりするものなのよね。だけど吐いたっていうのがちょっと気になるわ。おじさん、差し出がましいとは思いますが、今夜一晩由利ちゃんをわたくしどものところでお預かりしても構いませんでしょうか? 年ごろのお嬢さんだから、実のおじいさまといえど、頼みにくいこともあるでしょうし・・・」
「どうする、由利? おまえさえそれでよければ、芙蓉ちゃんに甘えさせてもらってもいいんやで? わしに気兼ねすることなんかあらへん」
「はい、お気遣いありがとうございます。でもたぶん大丈夫だと思います」

 由利は小さな声で芙蓉子に礼を言った。

「そう? でも万が一のことを考えて、明日は府立医大の病院に検査に行きましょう。私が病院まで付き添うから。保険証を持って、八時二十分になったら出かけられるように支度をしておいてね」

 芙蓉子はおそらく東京で気を揉んでいるに違いない玲子に代わって、母親のように甲斐甲斐しく由利の面倒をみるつもりのようだった。



「由利、おかいさんでも作るか?」

 に二階で蒲団を敷いて寝ている由利の枕元に、心配げに辰造が来て尋ねた。

「ううん、さっきちょっと気持ち悪くなって吐いちゃったから、今はいいかな」
「そうか、それじゃほうじ茶でも淹れて持って来てやるわ。何か水分をとらんとな」

 祖父はそう言い残して、階下へ降りて行こうとした。

「おじいちゃん。心配かけてごめんね。あたしったら、部活動の勧誘活動が楽しすぎて、ついはしゃぎすぎたのね。うん、たぶんそれだけだから」
「そうか、でもまぁ、大事を取って静かに寝とき。具合悪うなったら、我慢しんと言うんやで」
「うん。ありがとね、おじいちゃん」

 トントンと祖父が階段を下りていく音が響いた。由利は弓道場でほんの一二分意識が途切れた時に見たビジョンを天井を見つめながら、思い返していた。

「あれは単なる夢だったの?」
 この間の妙に生々しいセンシュアルな夢といい、今日の突然の過去へのトリップといい、京都に来てからの由利は、かなり変だった。

「あたしはいつの時代かはわからないけど、十二単みたいな装束を着ていて、女御と呼ばれていた。その段で行くとたぶん、横に座っていた人は帝ね。だってあたしが中に入っていた女の人は『主上』と呼び掛けていたし」

 由利は自分の見たビジョンをひとつひとつ口に出して、整理しようとしていた。

「でもあのカップルは仲がよさそうでいて、実はそうでもなかったような気がする。帝の口調がどことなくとげを含んでいて、あの女御と臣下の男の間を疑って嫉妬しているような感じだった・・・」

 いかにも武官らしく巻纓冠(けんえいのかん)を被り、顔面の左右を緌(おいかけ)でおおい、帖紙(たとう)にくるまれた矢を背に抱いた、凛々しい男の姿を見て、女御が心の底から喜んでいたのを由利は知っている。でも巧妙に扇で顔を隠し、傍らの帝や周囲の人間に自分の気持ちを悟られぬよう細心の注意を払いながらだったのだが。
 たしかに女御とあの武官とは、ただならぬ関係のように由利には思えた。

「これって三郎と関係あるのかしら?」

 ふと唯は、妖怪たちから三郎に助けてもらったことを思い出した。
 それに常磐井のことも・・・。
 御簾の内から見た公卿の顔。彼の容貌こそまったく見知らぬ男のものだったが、女御である由利を見上げたあの目の色は―。

「あれは常磐井君の・・・? いや、まさか。そんな・・・」

 まるで姿かたちは似ていないのだが、あの男の切迫した目の表情は、常磐井をどことなく彷彿とさせた。
 最近由利は、常磐井のことを考えるとドキドキする。

 ―なぜだろう―

 ピンチを助けられて彼を意識しているうちに、感謝が好意に代わりいつしか恋情になるパターンが存在することは、知識として知っていた。ありえないことではない。今の自分もその恋愛パターンに陥っているのかもしれない。だが常磐井は親切心で助け起こそうとしただけなのに、由利はそんな彼を満身の力を込めて突き飛ばしてしまった・・・。

「どうしてあんなことしてしまったんだろう」

 由利は蒲団の端をぎゅっと握りしめながら、ため息をついた。


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境界の旅人 10 [境界の旅人]

第三章 異変



「じゃあ、オレたちは稽古があるから。これで」

 男子弓道部員は、弓道場の入口まで由利と美月を連れてくると、そこに待機していた女子弓道部員に引き渡した。
 ふたりは女子弓道部員に誘導されて、二回にある見学席へと向かった。

「えっと、入部希望ですか?」

 二階の階段を一緒に昇りながら、女子部員が少し怪訝な顔をして尋ねた。

「え、は、はい。少し興味があったので」

 本当は違う、と答えても良かった。だがそれでは、弓道部そのものを貶めているような気がしたので、一応ふたりはこの場では気のあるそぶりをした。

「あらぁ、変ねぇ。どうして男子ったらこんなに気が利かないのかしら?」

 女子部員はボソッとぼやいた。

「どうかされたんですか?」

 美月はすかさず訊いた。

「ええ。もう女子の練習は終わってしまったんですよ。これからは男子の練習が始まるんです。どうせ来てもらうんだったら明日でもよかったのにねぇ・・・」

だがそう言ったあとで、せっかくここまで足を運んでくれた由利たちに申し訳ないとでも思ったのか、こう付け加えた。

「でも男子が弓を打つのは、女子とは違って、矢の通る道は真っ直ぐだし、何といっても速いです。やはり迫力のあるものですから是非見て行ってくださいね」

 由利たちが案内された見学席から下の方を見下ろすと、二十人足らずの男子部員が射場の奥のほうに固まってきちんと正座していた。そこへ遅れて常磐井が入って来ると、皆のほうへ一礼してから末席ので正座した。するとそれまで静かだった会場のあちこちが少しざわついた気がした。

「今日は、練習というより、新入部員勧誘のための一種のデモンストレーションなんです」

 女子部員はふたりに説明した。

「あの、男子部員の方たちが右手に付けている手袋みたいなものは何ですか?」

 由利がふと気になって女子部員に訊ねた。

「ああ、あれは『かけ』って言います。弓を引くときは親指を弦に引っかけて、他の指で親指を押さえるようにするんです。で、かけには親指のところには木型が入っていて、弦を引っ張ったとき、指に食い込まないようにできてるんですよ。やはり弓を引くときは相当な力が一点に集中しますからね、かけなしではすぐに親指を痛めてしまうんです。ですからかけは、弓を引くときにはなくてはならない大事なものです」
「へぇ~」

 由利と美月が感心すると、女子部員は少し気をよくしたらしい。

「ほら今でもものすごく大事なものを『かけがえのない』っていうでしょう? あれは『かけ』から来ているんです。「かけ」の替えがない。つまり今使っている「かけ」しかないってことです。つまりそれこそがかけがえのない大事なものじゃないですか」
「そうなんですか!」

 由利と美月は異口同音に叫んだ。

「日常でも、私たちは知らず知らずのうちに弓と関連したことばって案外たくさん使ってるんですよ」
「たとえば、他には? 是非この機会に教えてください。知りたいです」

 ワクワクしたように美月が女子部員をせっついた。女子部員はそれを見て少しほほを緩めた。

「ふふ、そうですねぇ、私たち、普段『やばい』ってよく言いますよね?」
「はい、やばい。ええ、普通に使いますね」
「当たり前のことを言うようですが、弓は今でも歴とした武器なんですよ。もともとは人を殺傷するために使ったんですから。弓を放つ場所というのは『射場』と今は言うんですけど、昔は『矢場』と言ったんです。で、的から矢を抜くときは、一旦矢場から人を退かせるんですよ。そうしないと万が一、矢を放ってしまう人がいたりしますからね。そうなることを防ぐんですよ」
「はぁあ、そうなんですね」

 美月が相づちを打った。

「だから、矢場に人がいる、すなわち『矢場居』とは的場に入る人にとっては非常に危険な状態にある、ってことなんです」
「へぇ~」
「もうね、『手の内を見せる』とか『ズバリ』とか。そういった感じで日常生活に浸透していることばって結構あるんですよ」

 女子部員は笑いながらそう説明した。

「うわぁ、今のを教えていただいただけでもここに来てよかったって思います。本当に勉強になります。ありがとうございます!」

 美月は知的好奇心が満たされ、またキラキラした目で礼を言った。

「いえいえ、とんでもない。弓道って武道の中では一番女子に人気があるんですよ。もし今日の男子の演武を見て興味がわいたのであれば、ご足労ですけど明日、もう一度ここに足を運んでもらって女子の練習を見てもらうのが一番なんですけど」

 女子部員はやはり武道をたしなんでいるせいか非常に礼儀正しく、隙なくぴしりとした印象が残る。

「それにね、うちの部の流派は競技に勝つことより、儀礼とか精神性を重んじるんですよね。もともと神事から派生した流派なんです」
「神事から派生したって、どういうことですか?」

 美月は質問した。

「例えば、神社よく神社などで弓を射ることがあるでしょう? あれは神さまに捧げるものなんですよ。だからとても形には厳しいです。でもこれから見ていてもらうとわかると思うのですが、とても端正なものですよ」



 射場には本座と呼ばれる位置に、七つの白木白布の胡床(きしょう)が一列に等間隔に並べられていた。
 奥の控えで正座して待機していた男子部員のうち七人が立ち上がり、射場のほうへと向かって行った。
 よく見れば皆、弓道着におろしたての真っ白な足袋をつけている。そして左手に長い弓の先端である、上弭(うわはず)と言われる部分を地に向け、右手には二本の矢を手に携えていた。彼らは射場に足を踏み入れる前にまず一礼し、しずしずと摺り足で胡床の後ろを進んで所定の本座の位置につくと、皆同時に胡床に腰を下ろした。
 やがて「起立」の声と共に一斉に立ち上がり、「礼」という声にまた一糸乱れぬことなく頭を下げた。
 それから射手たちは一旦座って、また立ち上がり、また座るという動作を繰り返した。

「どうして立ったり座ったりを繰り返しているのかしら?」

 それを聞いて横の女子部員が苦笑しながら言った。

「これは座射(ざしゃ)一手っていう弓を射る形式です。射位といって、射場内の弓を射る位置のところで一度座って、矢をつがえ、その後立って矢を射るんです」

 それから射手たちは座りながらそれまで携えて来たふたつの矢を互い違いに持つと、再び立ち上がった。そして複雑な作法で後で矢を射るためのもう一本の矢を右手で持ちながら、矢を放った。

「うわぁ、難しそう。ただでさえ的に矢を当てるのに集中しなければならないのに」

 美月が遠慮なく思ったことを言う。

「すみません、勝手なことを言っちゃって。美月、そんなふうに茶化しちゃ失礼じゃない」

 由利が珍しく美月たしなめた。だが女子部員は笑ってとりなした。

「いいえ、構いませんよ。実際、あなたが言う通りなんです。弓道は礼儀を重んじますから、一般の大会、審査はこの坐射で行われるのが基本です。勝つために的に当てることばかりにかまけてこの練習を日頃怠っていると、いざ本番ってときに複雑な作法の手順に気を取られ、本来の目的である弓を引くことに集中できなくなるんですよ。だけどそうなってしまったら、それこそ本末転倒もいいところでしょう? だから試合で平常心を保つためにも、普段から常にこの作法を練習して、体にその手順を染み込ませることが大事なんですよね」



「中り(あたり)!」
「外れ!」

 審判員の声が辺りに響いた。

「ねぇ、弓道って『あたり』と『はずれ』しかないの?」

 美月がこそっと由利に訊いた。

「うーん、さあねぇ。まぁ、武道だからねぇ。アーチェリーみたいなゲーム感覚ではないのかもね。○か×かの二択しかないんじゃない?」
「そっか、生きるか死ぬか、それだけなんだね、たぶん」

 それを横で聞いていた女子部員がまた美月に解説した。

「弓道はね、競技として大きく分けると、近的(きんてき)と遠的(えんてき)のふたつに分かれます。今、おふたりに見てもらっているのは近的です。最近は競技と言えば近的がほとんどです。近的は射位から二十八メートル先の直径三十六センチの的を射ます。射る矢の数は大会によって異なるんですけど、だいたい二本から多くて十二本程度かしら。今おふたりがおっしゃったように、的に中ればどこに刺さろうとも○、外れれば×です。真ん中が何点といった得点的(まと)使われません。的に矢が数多く中った人が勝ちです」
「へぇ、そうなんですね」

 

 選手が二回交代したあと、常磐井が他の部員と共に射場に入って来た。とたんに女子生徒の黄色い声援が弓道場に響き渡った。

「あらぁ。常磐井君ったら新入部員のくせにもう女生徒にこんなに人気があるんですね」

 女子部員がやれやれといったように首を振った。

「常磐井君って新入部員なんでしょ? それなのになんでもう迎える側になってデモンストレーションなんかしてるんだろ?」

 美月はまた、ぼそっとつぶやいた。

「彼はね、すでに中学のときに弓道大会の中学生の部で個人優勝もしてるし、上位入賞を何度もしているんですよ。うちの上級生の部員にはそんな華々しい戦果を挙げた人っていませんしね。彼は特別です」

 常磐井は射場に入る前に一礼した後、定められた位置につくと、やはり他の男子部員と同様に複雑な作法で、矢を二本つがえた。
 大きく足を扇のように広げて床をぐっと踏みしめると、今度はゆっくりと視線を矢筋に沿って的の中心に移し、顔を的の正面へと向けた。それから両手で弓を頭の少し上あたりまで捧げ持った。矢と両肩の水平な線がきれいに並行の線を描きながら、両腕が大きく均等に左右に開かれギリギリと矢が引き絞られる。
 由利は常磐井から遠く離れた見学席にいるはずなのに、彼のすぐ傍らで見ているような錯覚にとらわれた。
 今、矢をまさに放たんとしている姿は、この上もなく静かだ。決して猛々しく叫んだり、大袈裟な身振りや動作で表現しなくても、緊張した全身の筋肉は力強く膨張し、内に秘められた闘志は青い炎となって全身を包んでいるようだった。
 満身の力を込めながら集中して狙いを定めると、矢は放たれた。

バァーン!

 放つと同時に右手が勢いよく後方へと放たれ、両腕が横に一直線に伸び、身体が大の字になった。
 矢を放ったそのままの姿勢が数秒続いた。
「中(あた)り!」

 どっとその場が湧いた。

「!・・・」

 気が付けば由利は両の眼はうっすらと涙の膜におおわれていた。だがなぜか急に額から、冷や汗がしたたり落ちた。

「すごい! ど真ん中に命中だ!」

 だが人々の喝采がくぐもって遠くから聞こえる・・・。
 それを聞きながらふっと由利は意識が薄れていくような気がした。



「皆中(かいちゅう)! 各々方、**さまが放たれた矢、二十本すべて皆中でござりまする!」

 やはり弓道場と同じく、人々の驚きどよめく声が聞こえる。

「なんと、また!」
「さすがじゃ! やはり天下に名のとどろいた豪傑にござりまするなぁ!」

 気が付けば由利はまったく別の場所に座っていた。



ーえっ? あ、あたしは・・・?ー



 由利は御簾が降ろされた大床に金や紅が鮮やかな繧繝縁(うんげんへり)の厚畳の上に座っていた。五色の飾り紐が付いた桧扇で顔の半ばまでかざし、身体が埋まってしまうほど幾重にも重なった襲(かさね)の色目も麗しいたもとの大きい着物を着ていた。

ー重たい・・・ー

 つぶやこうとしたのだが、口が自分の思うように開いてくれない。
 大床の前の庭には、弓を持ち片肌を脱いだ男が遠くに立っていた。どうもあの男が今、矢を放って的に当たったらしい。由利はそう推測した。
 だが肝心の皆中にした当人の名前だけが、どういうわけだが聞き取れない。

「ほう、女御、そこもとのひいきの**がまた、的中であるぞ」 

 由利は隣の男の声にハッとなった。横にゆっくりと顔を巡らすと、やはり同じような厚畳の上に座り、冠を付け直衣を着用していた。「女御」とこの男は自分を呼んだ。するとこの男は帝で、自分はその妃ということになる。

 天下に並ぶべくもない男にどう応えるべきかと考えていたのだが、今度は口から勝手にことばがすらすらと出て来る。

「まあ、主上(おかみ)。酷い言われようでございます。わたくしは主上の妃なれば、すでに身も心も主上だけに捧げて参りましたのに」

「はは、まあまあ。よいではないか。やつはそなたを自分の命を呈して、窮地から救い出してくれた男ぞ。もそっとうれしそうな顔をしてもよいと思うがの」
「そんな・・・。主上。もちろんそれは、うれしいともありがたいとも思うておりますとも」
「さようか」

 帝は女御の完璧すぎる返答にぽつりと返したきり、しばらく沈黙していた。が、持っていた扇でどこか苛立たし気にぴしゃりと膝を打った。

「しかしそれにしても一度も外さぬとは、ソツがなさ過ぎて小癪な奴じゃ。それでは今しばらく続けさせようかの。あと何回放てば、的を逸らすであろうのかの? のう、女御」

 女御は帝のことばの端々に弓を放った男に対する嫉妬がにじみ出ていることに気が付いた。そしてやんわりと取り成した。

「主上・・・。さりながらもうよいではありませぬか。ご自分の大事な臣下を、それ、そのように試すような真似をなさらずとも」
「ほれ、そこもとは何かと、あやつをかばい立てする。そこがどうも気に入らぬ」
「ほほ、お戯れもそこまでになさいまし。どうぞ、主上からも褒めてやってくださりませ。すべては主上の栄えのためでございますよ。今日の宴に花を添えてくれたのです。ほかの殿ばらではこうはいかなかったでしょうから」

 女は努めて声を抑えてはいるが、誇らしげな気持ちでいっぱいだった。女の身体の中にいる由利にはそれがわかった。

「おお、そうよ。**は朕にとってたしかに大事な男。そうじゃの。女御の言うとおり、朕からもねぎらってやるとするか」
「それでこそ、わが君さまでござります」

 女御は頭を下げた。

 それから女はそばに控えている女房にそっとささやいた。 

「さあ、**を御前に連れて参れ。主上からお褒めのおことばがあるゆえ。妾(わらわ)からも褒美を取らせよう」
「かしこまりました」 

 しばらくすると件の男は大床の前に現れ膝をついた。

「主上、参上いたしました」

 帝はそれを聞いて機嫌よく声を掛けた。

「**よ、ようやった。さすがじゃ。それ、褒美を取らそう」

 帝は自分が今着ている着物を脱いで、それをそばの女房に渡した。

「主上から御衣(おんぞ)を賜りました」

 取次の女房が帝から手渡された衣をまた捧げ持ち、その男に手渡した。

「これは身に余る光栄!」

 拝領された御衣を押し頂きながら、男は深々とこうべを垂れた。

「ほれ、女御、なにかことばをかけてやれ。女御が口を閉じていては、**も皆中にした甲斐がなというものじゃ」

 由利もこの女が胸を高鳴らせながら何を言うのだろうかと、じっと耳をそばだてた。

「このたびそなたは、類なき弓の技でもって畏(かしこ)くも尊い主上を寿いだ。まことにめでたくも天晴なこと・・・。九重(宮中のこと)も二重(矢が二十本皆中したこと)の歓びに包まれておりましょうぞ」

 静かに女はそう言った。

「ありがたきおことば、身に沁みましてでございます」

 またしても男は深々と頭を下げたが、ふいに御簾ごしに顔をこちらに向けた。当然のことだが、初めて見る顔だ。やはり武勇の誉が高いとはいえ、典型的な貴人の容貌だと由利は思った。
 だがその男の目を見た瞬間、由利は心の中で思わず声を上げた。

「あっ!」





「由利! 由利!」

 身体を揺さぶられて、由利はうっすらと目を開けた。

「美月・・・?」

 由利はまたもとの世界に戻ったのだとわかった。

「由利、気分はどう?」

 美月が心配そうに尋ねた。

「あ、あれ? どうしちゃったのかな、あたし」
「うん、急に様子がおかしいなと思ってたら、ふら~と椅子から倒れて失神してた」
「失神? どのくらい?」
「うん、失神って言ってもほんの一、二分のことだけどね」

ーたったそれだけの間にあれだけの夢を見ていたんだー

 由利は身震いした。

「大丈夫ですか?」

 さきほどの女子弓道部員もそばに駆け寄って、心配そうに見ていた。

「あ、大丈夫・・・だと思います」

 由利は後ろに両手をついて、上半身をそろりと起こした。

「今日はいろんなところに見学に行っていて、皆さんの活動が素晴らしいので感激しすぎちゃって・・・」
「そうだよ、由利は感受性が強すぎるんだよ。何でもかんでも感動しちゃってたからさぁ、テンション高くなりすぎて、身体がそれについていけなかったんじゃない?」

 しばらくすると常磐井が血相を変えて由利たちのほうへ駆けつけて来た。

「倒れたんだって? おい、大丈夫か?」

 そういいながら常磐井は床に倒れていた由利を抱き起こそうとしてかがんだ。だが再び、肩に常磐井の掌が置かれた瞬間、由利は一瞬だったが、体が青白く光る雷で貫かれたように感じ身ぶるいした。そして思わずその手を乱暴に振り払った。

「やめて! あたしに触らないで!」


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境界の旅人 9 [境界の旅人]

第二章 疑問



 ほかにも、地学部、生物部と理科系もあり、ブラスバンド部、そして京都ならではの箏曲部もあった。ふたりはさすがに食傷気味になってぐったりしていた。

「ほんとにこの学校、よくもっていうほど、いっぱいクラブがあるね」
「ほかにもダンス部やアフレコ部もあるのよ」
「クッキング部もある。ワンダーフォーゲル部も!」
「いやぁ。もうこれ以上はムリっ! 目が見ることを拒絶してるよ~。もう感動する心の喫水線を超えたよ、完全に!」
「たしかにね・・・。なんかアクション映画を続けて五本ぐらい見ましたってカンジ・・・」

 ふたりが校庭に面したベンチに座りながら、それでも上級生にもらったチラシにチェックを入れていると、向こうから鎧兜の衣裳をつけた一軍に出くわした。

「美月、あれ、何? なにかのお祭り?」
「シッ! 違うわよ!」

 美月は黙れといったふうに、くちびるに指をあてて素早くたしなめた。

「うわぁ、彼女、タッパあるねぇ。いいねぇ。ウチに入らない?」

 戦国武将は由利を見るなり大声で叫んだ。

「あら、こっちの子もカワイイね。お姫さまなんかぴったりだね」

 普通の時代衣装の装束とは違い、いかにもゲームから飛び出てきましたといった恰好をした部員が口を開いた。

「えっ、え? 何をする部なんですか?」
「あ、うちのはね、まだ部には昇格してないの。コスプレ同好会なんだ~」
「・・・コスプレ・・・」
「楽しいよ。やってみない? 衣裳は自分たちで作るから洋裁の腕は向上するよ。ビジュアル的な美しさが求められるからね、化粧もするから当然、化粧技術も向上するよ。それからかなり難しいポーズもとらなきゃなんないんだ。だから体幹を鍛えるために運動も必要だよ。なんたってコスプレは自分の身体で表現しなければならないからね。もちろん演技力も必要」

 青いカラコンをいれた戦国武将は、立て板に水としゃべり出した。

「自分の写真も撮ってもらう代わりに他の人の写真も撮るわけだから、カメラの専門的な知識も身に着けられるし、ひとつの作品が出来上がるまでには総合的な知識や能力が求められるし、柔軟な思考力もつくから、ここで培った能力は社会に出ても還元できるよ、どうお?」

 たしかにそう思ってみれば、コスプレといえど、一口では言えないほど時間と力と努力とがかかっているように思える。そして燃えるような情熱も。

「へぇ~。すごいです・・・」
「じゃあ、コスプレ同好会に入ろうよ!」

 かなり押しが強い。

「だけどもうちょっと他の部も回ってから、考えさせてください」
 美月はことばに詰まっている由利に代わって、京都人らしく「考えさせてくれ」と婉曲に断った。
「彼女たちぃ~、いい返事、待ってるからねぇ~」

 コスプレ同好会の上級生は、まったくめげることなくフレンドリーに大きく手を振るという戦国武将にあるまじき姿で見送ってくれた。態度と装束にギャップがありすぎてシュールだ。

「どうするの、由利?」
「ええ? どうするって・・・? もちろん入らないけど・・・?」
「お姉さんたち、あなたにロックオンしてたじゃない?」
「いやいや、たしかにコスプレも面白そうだとは思うよ。だけどコスプレするためにわざわざ東京くんだりから京都へ来たんじゃないもん」
「うふふ、そうなの? 断るの大変そうだね」

 美月はさもおかしそうに笑った。



 向こうから小柄な少年がズボンのポケットに手を突っ込んでこっちへ向かってくる。それを見たとたん、由利の身体は凍りついた。

「あ、あれは・・・三郎・・・」

 隣にいた美月は別段驚きもせず、あたかも普段親しく接しているクラスメイトのように、三郎に声をかけた。

「あら、椥辻(なぎつじ)君」

 美月が三郎のことを、当たり前のようになんの躊躇もなく「椥辻」と呼んだことで由利は驚いた。先日あんなにしつこく名前を聞いても三郎は決して口を割ろうとしなかった。なのにいつの間に美月は三郎とこんなに仲良くなって、しかも苗字まで知っているのだろう? 

「ああ、加藤さん」

 三郎はこれまで見たこともないほど親し気な笑顔を返した。

「椥辻君も部活を見学?」
「まあ、そういうわけでもないんだけどね。じゃあ加藤さんや小野さんたちも?」
「うん。一応茶道部に入ろうってふたりで決めたんだけど、一度、入部しちゃうと他の部がどんな活動をしているかわかんないから。見聞を広げるためにも一応できる範囲で、見学できるものは見学しておこうかなって思って」
「ああ、それはいいよね。いかにも加藤さんらしい」

 三郎はウンウンといった調子で同意した。

「椥辻君はどこの部に入るつもり?」
「う~ん、部活もしたくないわけじゃないんだけど・・・。実はうちはね、ちっさい流派なんだけど能をやっているんだよね」
「あら、すごい。お家元なのね?」

 美月は感心したように言った。

「いやいや、家元なんて。そんな大それたもんじゃないよ。普段オヤジは会社勤めしてるし、お弟子さんといっても二十人ぐらいの細々としたもんなんだけどね。ただ室町時代から続く古い流派なんで、絶やしちゃもったいないっていう理由だけで存続しているようなモンなんだけど。だけどこの間オヤジがぎっくり腰になっちゃってさぁ、舞えないもんだからね。代わりにおれが師範代としてお弟子さんたちを教えなきゃならないんだな。だから放課後はまっすぐ家に帰らなきゃなんないんだよね」
「へえ、大変じゃないの! お父さん、大丈夫?」
「うん、まあまあ。レントゲンを撮ってもらったら、さしたる異常もなさそうだし。日にち薬で良くなっていくんじゃないかな?」

 一体何のこと? 三郎は能の家の跡取り? あの子は天涯孤独の身じゃなかったの? 由利は頭がおかしくなりそうだった。

「うん、まぁ一時的なことだからさ。オヤジの腰がよくなったら、ぼくもどっか入ろかなぁと思ってさ。一応目星ぐらいはつけておこうかなって思ってね。わりと気楽に参加できるものに限られるけど」
「そうね。ワンダーフォーゲル部とかリクリエーション的な部活もあるわよ」
「ああ、なんかよさそうだね」
 しばらく間が開いたあと、美月が改めて感心したように言った。
「それにしてもねぇ。椥辻君が能をねぇ。すでに師範代として教えてるわけなんでしょ? すごいねぇ」
「まぁさ、小さいころからやらされてるからねぇ。でもさ、家の中のことしか知らないのもどうかと思うよ」

 三郎のあまりの豹変ぶりに由利は口も利くこともできず、ただただあっけに取られてそれを見ていた。



 そこへ稽古着に着替え弓を携えた常磐井が、連れと思しき何人かと一緒に男子更衣室から由利たち三人のところへ通りかかった。常磐井は三郎を目にすると、ハッとなって一瞬表情が険しくなった。急に群れからひとり離れて、ずんずんと由利たちのほうへ駆けて寄ってくると声をかけた。

「やあ、加藤さん、小野さん。これから見学?」
「あら、常磐井君。え、ううん。もう帰ろうかなって思っていたとこ。ちょうど椥辻君に会っちゃって。えっとあなたは弓道部?」

 ものおじしない美月が答えた。

「ああ、オレたち今から稽古なんだけど、よかったら見てかない?」
「ううん、わたしたちもう茶道部に決めたところなのよ。せっかく誘ってくれたのに申し訳ないんだけど」

 常磐井はそれでも執拗に引き留めた。

「そんでもいいじゃん、せっかくいい機会なんだからさぁ。弓道って高校生の部活としては思いっきり珍しいんだぜ? 記念にオレが弓をまっすぐに命中させるからさ、オレのシビれるようにカッコいい雄姿を見てってよ」

 いつも無口で、愛想のない常磐井がこんなふうに冗談交じりに茶化しながら誘ってくること自体、尋常ではない。裏に何かあると由利は踏んだ。

「おーい、おまえら、この子たちが見学したいんだとさ! 弓道場の方へ連れて行ってやってくれないか!」

 常磐井は他の部員に声を掛けた。他の部員は分かったといったように「おう」と一声叫んで、大きく手を挙げた。

「あ、悪いけど先に行ってくんないかな? オレもあとですぐに行くからさ」

 そして美月と由利を三郎からさりげなく引き離そうとした。

「さあ、あっちへ」

 常磐井は仲間たちがいる向こうのほうへ送り出すために、由利の背中に手を押し当てた。



「!」

 この感触!


 由利はめまいを感じた。
 あたしはこの手を知っているような気がする・・・。
 なぜ? ついこの間知り合ったばかりなのに?

「あら、常磐井君、どうしたの? 一緒に来ないの?」

 美月が訊いた。

「あ、オレさ、アイツにちょっと用があるから・・・」

 常磐井は名前を言わずに目で三郎を制した。

「ちょっと言い出しっぺが何よ! 常磐井君! すぐに来てよ!」
「おお、解ってるって!」

 由利は気になりながらも三郎に近づいて行った常磐井の傍から離れた。

 常磐井は辺りに三郎の他に誰もいなくなったことを確かめると口を切った。

「おい、おまえ、どんな魂胆があってここにいる?」

 常磐井は小柄で華奢な三郎を見下ろしてすごんだ。

「何のことでしょう? 常磐井さん。ぼくはただ加藤さんたちと話をしていただけだけど?」

 三郎はそんなことはまったく意に介していないというふうに、すました顔で受け流した。

「フン・・・。みんなは騙せても、このオレは騙せないからな。術を掛けただろう?」
「ああ、あんたも術にかかってくれない面倒くさい人間のひとりなんだね」

 フンと三郎は鼻で嗤って、挑むような眼で常磐井を見上げた。
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境界の旅人 8 [境界の旅人]



 放課後になると、由利と美月は連れ立って、校内の部活動の勧誘活動を見学しに行った。

部活動の勧誘は新入生が入学した次の日から五日ほど行われる。
 上級生はみんなそれぞれ趣向を凝らしたチラシやパフォーマンスを考えて、新入部員の獲得に懸命だった。

 桃園高校は、部活の種類の多さでは他の学校よりも断然群を抜いていた。一学年につき、八ホームもある。一クラスにつき四十名だから、一学年でも三百二十名。三学年全部を合わせると千人近くもいることになり、部員割れすることはまずない。またOB・OGが地元の老舗の経営者であることが多く、結構な額の寄付を募ってくれるので、資金が潤沢なこともひとつの大きな要因だった。

 由利たちはまず、入部する心づもりにしていた茶道部へ一番に見学しに行った。

 『茶道部』と張り紙がされている部屋は、他の教室とはかなり雰囲気が違う。引き戸を開けて入ってみると、飛び石がはまっている空間があり、つくばいがある。その奥に大きな和室があった。

びびってしまって入口のところで固まってしまっている由利の手を、美月は軽く引っ張った。

「由利、どうしたの?」
「う、うん・・・。な、なんか・・・入りにくい・・・」

 今の由利のように、おそらく茶道のことにはまったく心得が無い新入生を誘導するためにだろう、入口には茶道部員らしい女子生徒が二三人ほど立っていた。

「見学ですか?」

 優しそうな上級生は由利たちに訊ねた。

「あ、は、はい」
「じゃあ、あちらの和室へ行って座ってください。部長がお茶を点てますので、どうぞ飲んでいってくださいね」

 ふたりは言われたとおり、上靴を脱いで作り付けの式台の上に上がった。

 茶室の床の間はきれいに飾り付けられていた。壁には、まったく読めないがリズミカルな運筆で書かれた草書の掛け軸が下がっており、その下には竹籠に雪柳と黄色いフリージアが投げ入れられてあった。

 炉が切られたところにひとりの生徒がきちんと膝に手を当てて正座している。どうもこの人物が部長のようだ。しかも紋のついた着物に袴を着用しており、まさに正装。

 部長はなんと男子だった。

 だが結婚式やお祭りなどで着用している真っ黒な紋付き袴でなく、緑がかったグレイのお召しにこげ茶の袴が、今のお茶事という場にふさわしい、洗練された装いだった。

「あ、キミたち、ようこそ。さあさあ、どうぞ。遠慮しなくていいですよ。そこに座ってねー」

 男子生徒にしては柔らかすぎることば遣いに由利は少し違和感を持った。だがとにかく言われるままにふたりは、青畳の香りも清々しい茶室に足を踏み入れた。新入生は由利たち以外には、まだ誰もいなかった。

「ああ、足は楽にしてね。経験のない人がいきなり正座するのは辛いから」

 美月はきちんと正座をしたが、由利は無理をして後で足が痺れて立てなくなることを恐れ、男子生徒のことばに甘えて横座りをさせてもらった。

「ボクが今、お茶を点てますので、それを飲んでいってくださいね。それにもちろん、おいしいお菓子もありますよ。そのあと入部するかどうかを決めてくださって構わないし。もちろんお菓子目当ての冷やかしでも大歓迎。ふふ・・・。どんな出会いでも一期一会(いちごいちえ)という貴重な機会なんです」

 それから袴男子はことばを続けた。
「えっと・・・申し遅れましたね。初めまして。ボクがここの部長を務めます、小山薫です。それで・・・え~っと、あなたは・・・」

 小山はこれから点てる茶碗に柄杓でお湯を入れながら尋ねた。しゃべりながらでも、動作は流れるように淀みがない。あたかも宙に見えない動線の軌道があるようだった。由利は我を忘れて小山の動作を見入った。横に座っていた美月が、陶然としている由利をそっと肘でつついた。

「由利、由利! 部長がお名前は何ですかって訊いてらっしゃるわよ・・・」

 ひそひそと声を潜めて返事を促す。

「え、えっと小野です」

 人見知りの強い由利は、ちょっとはにかみながら答えた。

「あ、小野サンね。初めまして」
「で、お隣のあなたは?」
「あ、加藤美月と申します、はじめまして」

 美月はきちんと手をそろえて頭を下げた。

「加藤サンね。はじめまして。あなたはどうもお茶の心得があるみたいですね・・・違うかな?」

 さすがに小山は部長を務めるだけあって、一発で美月が初心者ではないことを見抜いた。

「あ、はい。お恥ずかしいんですけど、中学のときも茶道部に入っていました」
「ああ、そう。道理でね。おじぎがきれいだと思いました」

 袴男子はにっこりわらうと、そばで控えている女子部員のひとりにお菓子を持ってくるよう指図した。

「じゃ、田中サン、この方たちにお菓子を差し上げてね」

 由利と美月の前に菓子器がうやうやしく置かれた。

「茶道ではね、お茶を飲む前にお菓子をいただきます。これからお渡しする白い紙、あ、これ懐紙っていうんですけどね、それにお菓子を置いて、黒いようじみたいなので、切って食べてください」

 再び別の女子部員が、懐紙と黒文字をふたりの新入生のところに持って来てくれた。

「どうぞ」
「あ、ありがとうございますっ」

 薄灰色の釉薬が掛けられた菓子器の中には薄い紫と緑に色付けされたきんとんがバランスよく収まっていた。

「なんて・・・きれい」

 由利は思わず、菓子器と主菓子の完璧な色調をうっとりと眺めた。

「おや、ずいぶんと気に入ってくれたみたいですね。ハハハ・・・。うれしいです。これは今日の日のために、ボクが特別にあつらえたお菓子なんですよ。そんなに感激してもらえたんだったら、苦労した甲斐もあったというわけです。このお菓子はね、『藤浪』といいます。桜の次は藤の花・・・。お茶はね、季節感が大事なんです。さぁ、どうぞ召し上がってください」

 一口食べるときんとんの優しい甘さがふわっと口の中に広がって喉を通って行った。由利たちがお菓子を食べたころを見計らって部長が口を開いた。

「お稽古は週に三回。月・水・金です。割り稽古から始めます。そして週に一度、先生がいらっしゃいます。あとの二回は部員たちで各自練習。月に一度は部内だけで茶会形式の練習があります」

 小山部長はまた流れるような手つきで棗(なつめ)から茶杓で緑色の抹茶を取り出し、茶碗の中に落とした。

「この部は季節、季節にお茶会をします・・・。まずは五月には新入生歓迎のための茶会、八月には浴衣を着て茶会をします。九月は文化祭があるので、当然お茶会を開きます。そして炉切りの茶会、新年になると初釜・・・。三月はひな祭りと卒業生をお見送りするためのお茶会。要するに一年中お茶会をしていることになりますね」

 由利は渡されたお茶碗からお茶を一口飲んだ。茶碗は貫入が入っており、金色と薄いトルコ・ブルーが器全体に細かく吹き付けられていた。だが寒色系の色使いなのに、どこか温かい印象だった。由利がじいっと茶碗を見つめているのに小山は気が付いた。

「小野さん、このお茶碗、気に入ったのかな?」
「はい、とてもきれいで・・・」
「そう、よかった・・・。このお茶碗はね、布引焼っていいます。高校の部活で使う茶碗だから、そんなに高いものではありません。だけど春らしくていい感じでしょう?」

 部長は、今度は美月の分のお茶を茶筅で点てながらそう説明した。由利はすっかり小山に魅了されてしまった。茶室という非日常的空間に身を置いた小山の緩急自在な動き、絶妙な間合い。これはひとつの芸術だと由利は思った。

 もう自分にはこれしかない。

 由利は今自分がいる空間に酔いしれてしまった。

ここは一杯のお茶を飲むためだけの空間のはずだ。だがただそれだけなのに、どうしてもこうも心が満たされて幸せな気持ちになれるのだろう。今飲んでいるものは、たしかにお茶の粉を湯で解いた液体にしかすぎない。だが実はその中にはぎゅっと凝縮した美の精神が詰められている。

 由利は飲みながら、魂の栄養のためには必要不可欠な緑色の宝石を液体にして、身体に溶かし入れているような気がした。





 茶道部を辞したあとふたりは、講堂でしばらく放心したように合唱を聞いた。それまで聞いたことのない曲だったが、男声と女声は、音程が乱れることなくきれいに交じり合ってハーモナイズされているのを聞くのは心地よかった。

 あとはオーソドックスなところで新聞部、文芸部、演劇部、ESS部、美術部だ。

 由利が美術室の壁に展示されているデッサンをまたしげしげと食い入るように見ているので、美月が声をかけた。

「どうしたの、由利」
「うん、デッサンもいいなぁと思う。こんなふうにさらりと一本の線を描くのに、この人はどれだけの修練を積んだのかなって思って」
「由利ったら。さっきは茶道部であんなに感動してたのに。今度は絵なの?」

 美月は、由利が意外と感激屋なのに驚いたようだった。

「うん・・・世の中にはすてきなものいっぱいあるね。何で今まで気が付かなかったんだろうね」
「もう由利ったら、小山部長にクラクラだったもんね」
「ちーがーう! 何言ってんの、美月!」

 由利は顔を真っ赤にして、美月の背中をバンっと叩いた。美月はおやっという顔をして由利を見た。

「小山部長はそりゃあ、ルックスの上でも素敵な人だったよ。だけどそのことばっかに魅せられたんじゃない! あたしが一番感動して、絶対にお茶をやろうと決めたのは、あのお点前のすばらしさよ!」

 それには美月も反対しなかった。

「そうよねぇ。小山部長は、たしかになんかすごかったよ」


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境界の旅人 7 [境界の旅人]



 由利は二階にある自分の部屋となった和室で蒲団を敷き、身をその上に横たえていた。もう日付はとっくに変わっていた。
    眠ろうとしても日中のことが頭に残り目が冴えて、なかなか眠りに入れない。寝がえりを打とうとして止めた。隣の部屋では辰造が寝ている。バタバタ寝返りを打ってしまえば、いっぺんで眠れてないことがバレてしまう。ただでさえいろいろと気を遣わせているのに、これ以上心配をかけては可哀そうだ。
 堀川の川岸で三郎は夕日を逆光に浴びながら、何か物思いにふけっていた。
「あの子の正体は一体何なんだろ?」
 由利は納得が行かないと言ったふうにつぶやいた。
「御所へ桜見に行ったら、いきなり妖怪みたいなのに襲われた。そのとき、あの子は妖怪たちの間で舞を舞っていた・・・。じゃああの子は化け物の仲間ってことなの? ううん、違う。三郎は他の化け物みたいに変身もせず、襲われそうになったあたしを助けてくれた・・・。あれは何らかの理由があって、化け物たちをコントールしていたのかもしれない」
 由利は天井を睨みながら、さまざまなことを頭に巡らせた。
「夕方あたしはあそこで三郎にいろんなことを訊こうとした。だけどどれもこれも三郎は、のらりくらりとかわして、まともに答えてくれなかった。でもあの子、名前は不必要なものだって言ってた。あれはどういう意味? もう呼ばれることもないから、名前なんか要らないってことなのかな」
 自分の名前を呼ばれることもない環境とはどういうものだろう。どんな人間にも肉親であれ、育ての親であれ、親はいる。なぜなら生まれてすぐに立って歩ける他の動物と違い、人間は二足歩行をするようになって、未熟児として生まれることを余儀なくされたからだ。だから何もできない赤ん坊はそのまま放置されては生きていけない。親の庇護下に置かれていた赤ん坊は育つにつれ少しずつ親元を離れ、そこからじょじょに友だちを作り、長じるに従って自分の世界を拡げ、各々の人間関係を構築していくものだろう。だが三郎にはおそらく通常の人間のように帰属するなにものをも持たない。三郎のひどく孤独な横顔を由利は思い出した。
 
 ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がしてな。

「あれってどういう意味だったんだろう。そういえば昔を偲んでいたって言ってた」
   まだ十五や十六で昔を偲ぶという感覚が由利には全くわからない。すると突然ハッと脳裏にひらめくものがあった。
「もしかして・・・実はあの子は見かけだけが少年なのだとしたら?」
 これまで由利は三郎を何らかのサイキッカーなのだと考えていた。普通の人間が見ることもないものを見ることができ、操ることができるような。だがそのような超能力者でなく遠い昔から連綿と続く時の中をひとりで生きてきたのだとすれば・・・?
   由利はその先を考えるのが怖くなって、無理やり目を閉じた。

   すっぽりと包まれるように知らない誰かに強く抱きしめられていた。
 気が付けば身に着けていた帯はすでに解かれ、はだけられた衿の中からやわらかな稜線で縁取られたほの白い胸がのぞいて見えた。片側の胸乳は大きく指を広げられた手に掬い上げられていた。すっぽりと相手の掌に中に収まっている乳房の先端は、感応して固く収斂されていく。ゾクゾクとした感覚が背中を伝って腰にまで及んだ。
「ああ・・・」
 思わず吐息と共に声が漏れ出てしまう。
「お慕いしているのです。誰にもあなたを渡さない」
 自分を抱きしめている男がそう耳元でささやいた。

 由利は目を覚ますと同時にガバっと飛び起き、被っていた蒲団をはねのけた。
「え? 何だったの、今のは?」
 由利は蒲団の端を冷や汗を掻いた手で握りしめていた。由利は一旦、深呼吸をしてから努めて冷静になろうとして、今自分が見たなまめかし過ぎる夢の分析をしようとした。
 認めたくはなかったが、これまでわれ知らず甘くうずくような夢を見ることはたしかに何度かあった。だがそれは、自分も性欲という本能を持った人間という動物であれば致し方ないことだと納得できる。しかしこんなふうに、生々しい夢を見るのは初めてだった。今でも身体に夢の男の手の触感が残っている。
「こんなことってあるのかな?」
 当然のことだが、ついこの間まで内向的な性格の中学生だった由利はこれまで好きになった異性もいなかったのはもちろんのこと、ましてや異性と深い関係になるはずもない。つまりその手のことはまったく経験がないのだ。それなのにこれは妄想の範疇を超えている。だがただの夢とも思えない。
   これは記憶だ、と由利は直観した。
   だがそれは、いつの記憶?
   それによくよく考えてみると夢の中の自分は、今の時代の人間ではなかった。
  
「入学したと思ったら、いきなり次の日は実力テストって、結構厳しくない?」
 お昼の弁当を食べながら由利が言った。
「まぁ、今のご時世、高校ってどこでもそうなんじゃないかな」
 美月は諦めたように言った。
「入学試験を突破したんだからさ、ある程度の実力なんてわかっているはずじゃないよねぇ」
 由利は四時間目の終わり間際に配られたプリントを開いた。
「これって成績上位者のプリントなの? こんなの配られるんだぁ。あたしこの中に入っているかなぁ」
「どうしたの、由利。妙に怖がっちゃって」
「だってあたし、かなり暴れてここに来たからさぁ。あんまりひどい成績だと親に申し訳が立たないっていうか・・・」
 由利はおそるおそる下の方から探していった。
「あー、あった。良かったぁ。かろうじて二十八位か。まぁまぁかな。んで・・・一位は誰かな?」
 由利は一番初めの欄を読み上げた。
「一位。国語、八十八点、数学、満点、英語満点、理科、九十九点、社会満点! すごいなぁ~。誰だろ、この加藤美月さんって・・・。え? え? もしかして美月なの?」
 美月は大してうれしくもなさそうな顔で答えた。
「たぶんこの学校に加藤美月って名前の人間は、あたししかいないと思うよ」
「すごいねぇ、美月って。一位だよ、一位」
「そんなの毎日毎日、わたしこそはって自己顕示欲の塊のガリ勉女子たちに囲まれて、しごかれていたら、こんなふうにもなるよ」
「美月の中学ってそんな進学校だったの?」
「まぁねぇ」
 由利は美月のおしゃべりを聞きながら、成績表を見ていたが、美月の次席にあたる人物の名前を見てハッとなった。
「ね、見て、見て。美月。この常磐井悠季ってこの間、あたしを助けてくれたあの背の高い人のことかな」
 美月はどれどれと由利の渡してくれたプリントをのぞき込んだ。
「うん、一年三ホームって書いてあるから間違いないんじゃない?」
「へぇ、常磐井君って結構ぞんざいな口を利いていたし、不良っぽい人なのかと思ったら、案外勉強もできるんだ」
 由利は意外といったふうな顔をした。
「うん。由利は東京から来たから知らないだろうけど常磐井君ってさ、結構レベルの高い中高一貫の男子校からここにきたみたいよ」
「へぇ~。中高一貫校から何でまた?」
「まぁさ、あの子も反逆児っぽいからさ。親や先生の言われるままに唯々諾々と従うのが嫌だったんじゃない? そりゃあね、頭が柔らかい若いうちにできるだけ勉強しておいたほうが、その後の人生においては有益だと思うけどね、だけどそれも程度問題なのよ。あたしたちの親世代って、何ていうのかな、権威主義的というのか、学歴信仰が半端ないっていうか」
 美月は弁当箱に納まっていた卵焼きを食べながらぼやいた。
「そりゃあね、お勉強ができることはさ、嫌なことでも我慢して努力できますってアピールできる材料になるとは思うけどね。ま、就職には学歴は必要かもしれないけどさ、おそらくそんときだけだよね。あとは本当の実力というか、人間力だよ。学ぶってことは、ただ教科書を丸暗記することじゃないよ。だから成長する過程で身に着けなきゃならないこと全てを犠牲にしてまで、受験勉強だけに打ち込む方が、むしろ社会生活を営む上で弊害を招くと恐れがあるよね。知らないことがありゃ、とりあえずはググればいいわけだし。今の時代、何も稗田阿礼みたいに何から何まで暗記してる必要なんかないんだよ」
「うん、あたしもそう思うな」
「でしょ、由利。マニュアル通りの硬直した考え方しかできない人って不幸だよ。世の中に出たら、それこそ柔軟な思考が求められるのに」
 とは言え、美月も由利も結局のところ、まぎれもなく受験秀才だった。

「ね、由利。立ち入ったこと、訊いてもいい?」
「いいよ」
「あたしの質問が不愉快だったら、答えないで」
「ううん、大丈夫。遠慮しないで訊いて」
 だが由利の顔は、緊張でこわばっていた。
「ひとりで東京からわざわざ京都に来たんだよね、由利は。なんで?」
「ああ、そのことか。うん、話せば長くなるんだけど・・・。うちは母子家庭なんだよね」
「ご両親は離婚されたの?」
「ううん。うちの母親は最初っからシングル・マザー」
「へぇ。なんか悪いこと訊いちゃったのかな、あたし」
「ううん。別にいいよ。ママ・・・いや、あたしのお母さんはね、もともとここの高校のOGなんだけど、なんかめちゃめちゃ頭がよかったんだよね。お母さんってさ、遅くにできたひとり娘だったんだって。それでおじいちゃんとおばあちゃんは、お母さんをずっと手元に置いておきたかったみたい。それで女はどっか地元の女子大の家政学部にでも行って花嫁修業でもしたらいいみたいな考えだったらしいんだ。だから東京の大学進学については大反対でおじいちゃんたちと相当もめたらしいんだよね」
「まぁ、昔はさ、今なんかと違って、どんな場合でも親の立場のほうが強かったんだよ。女は学問なんかせずに早く嫁に行って夫を立てろみたいな風潮だったらしいしさ、ま、時代もあるよ」
「でも、そこからがうちのお母さんのすごいとこでさ。普通はさ、やっぱり学習塾ぐらい行くじゃない? だけどお母さんの両親は東京に進学することに反対しているじゃない? だからお母さんは、自宅で受験勉強しただけで帝都大の工学部を一発合格したんだよ」
「帝都大の工学部? すっげー。賢い!」
 秀才の美月も大きく目を見開いた。
「そうなの。あたしもすごいと思うよ、わが母ながら」
「それでさ、なんの支障もなく院まで行って、それからフランスの研究機関で働いていたんだよ。そこまではもう順風満帆を絵にかいたような感じなんだよねぇ」
「うん、それで?」
 美月は目を輝かせて訊いた。
「だけどさ、そこからお母さんは人生に大きくつまずいたんだよね。しかもそのつまずきの元がこのあたし」
「そんなの、由利にはどうしようもないことでしょう?」
 美月はちょっと怒ったように言った。
「あたしさ、みんなの前でフランス人のハーフだって言ったけどね。あれって半分本当で半分は嘘」
「え、どういうこと」
「お母さんはあたしがどんなにお父さんはどんな人なのって訊いても絶対に教えてくれないんだよ。で、一夜限りの相手と致したら、あたしができたっていうんだよね。なんでも相手はムスリムの男だったって」
「まぁ、それでも・・・フランス国籍だったらフランス人ではあるよね。嘘じゃないじゃん」
「でもみんなが頭に思い浮かべるような金髪碧眼のシャルルとかピエールみたいな名前の父親じゃなかったわけよ。それでね、あるとき自分の父親の名前ぐらい知る権利があるってしつこく訊いたらさ、ファルーク・バルサラだとかしれっとした顔で言うんだよね、うちのお母さん」
「やぁだ、なぁに? それってクィーンのフレディの本名じゃない? マジウケるんですけど」
「そうだよ。あたしそれ知らなくて、中学の友だちにそれを言ったら大笑いされちゃってさ。すごい恥をかいちゃったよ」
「うはっ。なんか気の毒~」 
 美月はもはや笑って済ませられない由利の状況にもあえて、ハハっと声をあげて笑ってくれた。
「でもさ、お母さんって本来生真面目で潔癖な性格だからさ。そんな一夜限りとか、行きずりの恋とかそういう軽はずみなことする人にはどうしても思えないんだよね」
由利はちょっと憂鬱そうに答えた。
「ふうん。まぁ、でも男と女の仲には、理屈では説明できないこともあるだろうしなぁ」
 美月は解ったようなことを言って由利を慰めた。
「うん、少なくともお母さんにとっては、あたしの父親のことは娘のあたしにさえも教えたくないほど、苦い思い出だってことだけは分かったよ」
 由利は、はぁとため息をついた。
「でもさぁ、由利。娘だからこそ言えないこともあるんじゃないかな」
 美月は励ますように由利の手をぎゅっと握って、ささやくように言った。
「まぁ、それでもよ、たとえあたしが、苦い思い出になった男との間にできた娘だったとしてもよ、お母さんは一生懸命あたしを愛して育ててくれた、そこは紛れもなく本当。だけどさ、お母さんは頭良すぎて、こう、どう言ったらいいの、できない人間の気持ちがわからないっていうか、あたしだってさ、一生懸命自分の気持ちを説明しようとはしたんだけど・・・。なんてか、次元の違う永遠に交わることのない二直線って感じで、分かり合えないって言うかぁ。そもそも感性が違うんだよね。最終的にはいっつも命令する側と従う側の関係しか構築できないっていうかなぁ。だからお母さんもあたしに命令するのにほとほとうんざりしたみたいで、そのうち年下の恋人を作っちゃってね。週末になると出かけるようになって」
「へぇ、由利のお母さんって大胆」
「まあね、でもお母さんって、娘のあたしが言うのもナンなんだけど、四二歳とは思えないほどキレイだしね。一種の美魔女なんだよねえ。はたから見ていても周りにはお母さんのこと、好きなんだろうなぁって男の人はホント多くて。それはいいんだけど、お母さんを見てると本気で今の相手に惚れているようには、とてもじゃないけど思えなくて・・・。生きる情熱を掻き立てるために、あえて自分をそういう状況に追い込んでいるとでもいうか・・・。そんなふうに懸命に自分を奮い立たせているのを見てるのが、たまんなく辛くなってきちゃって」
「そうかぁ、いろいろあったんだね、由利」
「うん。ごめんね、美月。なんか暗い話になっちゃって。でも美月に話せてよかった。気持ちがだいぶ軽くなった」
「ううん、いいよ。教えてっていったのは、あたしのほうなんだもん。辛い気持ちをひとりで抱えていたんだね。あたしはそんな目に遭ったことはないけど、でも想像することはできるよ」
「ありがとう。ちょっと怖かった。軽蔑されるんじゃないかと思ってたから」
「まさか・・・。由利はちっとも悪くない。誰だって間違いのひとつやふたつあるでしょ? それに由利のお母さんって立派じゃない? なんだかんだ言っても、誰にも頼らずちゃんとひとりでも責任をもって由利をこの世に産み出してくれたんだし。もっと利己的で自分ばっかり可愛い人間なら、何のためらいもなく中絶すると思うけど」
「まあね。そうかもしれないね」
 美月はしばらくしたあと、話を変えた。
「ね、由利。今日、学校の放課後、新入生への部活の勧誘があるよ。どう? 一緒に行ってみない?」
「部活か。いいね」
「由利は中学のとき、部活してたの?」
「うん」
 ちょっと由利は気の乗らない返事をした。
「なになに、部活のキーワードは、また由利の黒歴史に抵触するわけ?」
「んもぅ、美月ったら! そんなんじゃないの」
 由利は茶化す美月を軽くいなした。
「うーん。お母さんがね、人生を成功させようと思うなら基礎体力が必要だからスポーツにしろってうるさかったのよね。それで陸上してた」
「へぇ~。陸上部!」
「うん。あたし、球技とか全然ダメなの。センスなくて。だから消極的選択なんだ。それにやっててもさほど楽しいとも思えなかったし。そのせいかどうかは知らないけど、バカみたいに背も伸びちゃったし」
「じゃあ、どんな部に入りたいの?」
「うん、あたしさ、こんなこと言うと嗤われちゃうかもしれないけど、京都に来れば、もしかしてあたしが探しているまだ見ぬステキなものに出会えるんじゃないかって思ったんだよね」
「へえ~。由利って意外とロマンティスト」
「母親が理詰めで生きていると、娘は反発して違う道に行きたくなるもんなのかもね」
「じゃあ、美術部とかのぞいてみる?」
「うん。それもいいかも。だけど、あたしはどっちかって言うと伝統とか様式美みたいなのに憧れているんだよね。そういうの、やってみたい」
「へぇ、それじゃあたしと一緒に茶道部っていうのはどう?」
 美月は由利を誘った。
「それ、いいよね。誘ってくれるの、実は待ってた」
 そういうとふたりはまた顔を見合わせて微笑んだ。
「まぁ、最終的にはそれでもいいけど、とりあえずはいろいろ見たいよね」
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境界の旅人 6 [境界の旅人]

第二章 疑問
 


「ただいまー」
 由利は玄関の戸をガラガラと開けて家の中へ入ると、靴を脱がずにそのまま玄関と居間の間にかけられている目隠しののれんをくぐり、真っすぐ家の中へ一直線に引かれた土間の奥へと進んだ。祖父は台所へ入って来た由利を見て、安心したように声をかけた。
「おお、由利。帰って来たんか。何や、えろう遅かったやないか、なんぞあったんかと思うて、心配しとったところやで」
 辰造は味噌汁に入れるための大根を千六本に刻み終えたところだった。
「ああ、ゴメン、ゴメン。途中で学校の友だちにばったり会っちゃって。つい話し込んじゃったもんだから」
 由利は祖父の手伝をするために、流しで自分の手を洗いながら謝った。
「ああ、そうかぁ。もう友達もできたんか。それやったらええけどなぁ」
 由利が帰って来たので、辰造はあらかじめ頭とはらわたを取り除いたにぼしと昆布の入った鍋を火にかけた。

 居間でちゃぶ台を挟み、ふたりできちんと正座して晩御飯を食べた。
 献立は塩サバの焼き物、そして大根の千六本とわかめの味噌汁。そして件のお揚げと分葱のぬた。
 そして箸休めとして、昆布の佃煮と柴漬けが食卓に出された。至って質素。しかし家で作った湯気の立った食事は、一人で食べるコンビニご飯と違って格段においしい。
 夕餉を食べながら由利は辰造に訊いた。
「ねぇ、どうしてこの家って、こんなふうに家の一方にドスーンとまっすぐコンクリートで固められた土間があるの? 台所へ行くのにいちいちつっかけに履き替えなきゃならないの、面倒じゃない?」
「ああ、この土間はな、『通り庭』とか『走り庭』とか呼ばれるもんなんやで。昔から京都にある町屋は基本的にはみんなこんなふうな作りやで」
「何でなの?」
 由利は不思議に駆られて祖父に訊ねた。こんなふうに廊下もなくて、縦に長い続き部屋は奥の部屋まで行くには必ず途中の部屋を通らければならないので、プライバシーも保てず、使いづらいと思ったからだ。
「それはな、まぁ、理由もいろいろあんねんけどな。京町屋っちゅうんはたいてい間口が狭うて、奥行きが長い。由利は聞いたことないか? 『京の町屋はうなぎの寝床』ってな」
「ううん、聞いたことない」
「そうか、今の子は何にも知らんのやなぁ」
「うん。だってここに来るまで見たこともなかったんだから仕方ない」
 由利は少し口をとがらせて答えた。
「ま、いいわ。それはおまえたちの責任というより、わしら大人の責任や」
 祖父は機嫌を損じた孫娘をなだめるように言った。
「せやしな、こういう『うなぎの寝床』の京町屋は、奥行きばっかりがめっぽう長いやろ。それなのに京都は盆地やしな、夏はえろう暑い。だから夏はこういうふうに玄関から裏庭まで一直線に道を通して、風がすうっと家の奥まで入るようにしてあるんや。家に暑い空気が籠らんようにするためにな」
「そんなので涼しくなるの?」
「まぁ、昔は冷房みたいなしゃれたもんは無いからなぁ」
「ふうん。でも、そりゃそうだよね」
 由利はサバの身をほぐしながら相づちを打った。
「そんでもって昔は今みたいに台所に換気扇みたいなものもない。それにやな、そもそも京町屋はどこも隣の家とぴったりくっついておるやろ? だから換気扇を付けたとしても、煮炊きした空気を側面に逃がすわけにもいかんのや。それで昔の人も考えたんやろな。こういう作り庭の上は吹き抜けになっておって、『火袋』っちゅう一種の換気口が取付られたんや。まぁ、雨の日もあるよって、そこから雨が入ってきてはたまらんから、屋根の上に『煙出し』って小さい屋根がついている。由利も今度外に出たら、よく辺りを観察してみるといい。つまりかまどによって熱せられた空気は、天井に向かって上昇していく。そこから熱気は火袋を通って外へ出ると。そういうこっちゃ」
「ふうん、そうなんだね。たしかに夏なんかはクーラーもないところで熱気が籠っていたら住めないよ」
「そうやろ? それにたいていの場合、昔はへっつい(かまどのこと)の側には井戸が掘られていたもんやで。うちはだいぶ昔に井戸が枯れてしもうたんで、井戸を埋めてしまって、今はのうなってしもうたんやけどな」
「ふうん。たしかに井戸から水を汲み上げて濡れることも考えたら、やっぱり土間のほうが便利なんかなぁ」
「まあな、しかし京都も家というのは何事も冬よりも、夏のことを考えて作られているもんやから、冬は寒いんや。土間にストーブを置いてもな、ほとんど地面に熱が取られてしまって暖かくなりよらん。一月二月はしんしんと底冷えがするさかい、足先がじんじんと冷えてきよる。まぁ、これまでずっとそうやって過ごして来たけれど、冬場の炊事ってもんも、なかなかにあれは辛いもんがあるわ」
「ああ、だから兼好法師も『家の作りやうは夏をむねとすべし』って言っているんだね」
「おお、由利。『徒然草』か。よう知っとるな」
「うん、中学のとき、国語の時間で習った」
「そうやで。昔からこの日本ちゅうところは、それだけ夏は暑くて、大変やったっちゅうことやな」
「ふうん。他に特徴は?」
「あとは採光の問題や」
「採光?」
「そうや。由利は気が付いているか? 京町屋は側面に窓がない。こういうふうに両端がべったりと隣の家にくっついているとよその土地のように窓をつけるわけにはいかんのや。だから工夫せんと家の中は昼間でも真っ暗や。昔は今みたいに電気が通っているわけやないからな。電灯を点けるっちゅうこともできなかったんや」
「ああ、なるほど。それはそうだね」
「だからさっきの換気の話にもつながるわけやけど、要するに外光を求めるとすれば、それは自分とこの天井をどうするかしかなかったっちゅうことやな。それで天窓や」
「そうか、昔の京都の町屋は光をどうやって取り入れるかが最重要事項だったんだね。でもさ、機能性ってこともあるかもしれないけど、天窓ってきれいだよね」
 由利は初めて祖父の家に来たとき、天窓を通して暗い室内に明るい光が洩れ入るのを見て神秘的で美しいと思った。中学生のとき、訳もわからず読んだ谷崎純一郎の随筆『陰翳礼讃』で述べられている暗闇の中の底に浮かぶ光の美というものが、これで少し解った気がしたのだ。
「そうやねん。だから天窓を付けたり、細長い間取りでも裏庭や中庭を付けたりしてそこから光を取り入れるように設計されているんや。一口に京町屋いうてもいろいろと種類があってな、八百屋や魚屋みたいに店土間あるとこや、勤め人が住む仕舞屋、商家が使う町屋、いろいろあるんや。この家は西陣やさかい、わしのところは昔から機を織るのが生業(なりわい)やったやろ。だからこの家は京町屋の中でも「織屋建」ちゅうて、本来なら奥座敷にするような中庭に面した一番いい場所に重たい機でも耐えられるように土間にしてあるんや。そしてその機の上を明り取りのために吹き抜けにして、天窓を三つも付けてある。つまり機を織る人間のことを一番に考えて、なるべく光を多く取り入れた場所で仕事をしやすうしとるんや」
「そっか~。機織りも大変だね」
「まぁ、最近は、普通の和装用の帯なんかは予算のこともあるさかい、手機なんかでは織らんけどな。ほとんどが機械織や」
 辰造は今年七十九歳になるが、それでも毎日機に向かっている。
「じゃあ、今、おじいちゃんは何を織ってるの」
「まぁ、主に能衣装や歌舞伎のような舞台衣装、あとは婚礼衣装がほとんどやな。もう今はそれぐらいしか需要もあり、かつ採算も取れて、織る価値のあるもんはないっちゅうことなんやろうな」
「ふうん」
 ふと由利は夕方、三郎に説明されたことが頭をよぎった。
「ね、おじいちゃん。夕方にね。友達に会ったって言ったでしょ?」
「うん、そうやな。その友達がどうかしたんか?」
「でね、その人が教えてくれたんだけど、今の堀川通りって戦時中にできたもので、本来の堀川通りって東側のあの細い通りなんだって?」
「せやせや」
 辰造はうんうんと首を振った。
「で、その人が言うにはね、そこに昔はチンチン電車も走っていたって」
「そうやで。昔、わしらが若い頃の交通機関はバスじゃのうて、もっぱら市電やったもんや」
 そう言いながら、辰三はふと、宙に目を向け、箸を持つ手を止めた。
「どうしたの?」
「そうや、そうや。今までとんと思い出すことも無くて忘れておったけどな。わし、実はひょんなことで命拾いしたことがあってな」
「え? おじいちゃん、命拾い? 何それ?」
「あれはな、戦争が終わって、まだ間もない頃やったと思う。そやそや。わしがまだ小学校へ上がったばっかりの冬のことだったんかいなぁ。わしがまだ六、七歳の頃やったと思うんや」
「わしにはたくさん兄弟がおったんやけど、その当時、二番目の兄ちゃんがまだ旧制中学の学生やってんな」
「おじいちゃんてそんなに兄弟がいたの」
「そうや、わしは六人兄弟の五番目や。せやけど昔なんて、どこの家でもそんなもんやで」
 日本は明治から第二次世界大戦が終わるまで、政府の『富国強兵』政策で子だくさんが当たり前だった。
「けど終戦直後やさかい、食糧難でな。三度三度のご飯を食べるのが本当に大変やったんや。ほんで少しでも家族の口が潤うようにと学校が終わったあと兄ちゃんは、知り合いのつてで錦小路の八百屋で働らかせてもらいに行っとったんや。それで店が閉まったあと、給金のかわりに売れ残った野菜をもらって来てくれていた。だがその日兄ちゃんは、どういうわけかお母ちゃんが作ってくれた握り飯を玄関に忘れて行ったんや」
「それで?」
 由利は先を知りたがった。
「仕方がない、それでお母ちゃんが、つまり由利のひいおばあちゃんにあたる人のことやけどな、わしのすぐ上の、二つ違いの小さい兄ちゃんに、大きい兄ちゃんに弁当を持っていってやってくれと遣いを頼んたんや。家には他にもまだ小さい妹がいたし、夕ご飯の支度もあったしな。その当時は今みたいにガスみたいな便利なもんもない。まず火を起こすっちゅうことが大変だったんや。それでお母ちゃんは自分で届けてやることができなかったんやろう」
「だが小学三年生だった小さい兄ちゃんは、ひとりで市電に乗ってそんな遠くまで行ったことがない。そやから小さい兄ちゃんに頼まれて、わしも付き添って行ったんや」
「うん。小学三年生だったら、夕方ひとりで遠くにお遣いに行くのは、ちょっとおっかないかもね」
「まあ、わしら昔の子供は今の子供たちと違うて、おぼこかったからな。だが家から大宮中立売の停留所で電車を来るのを待っていると、どこからともなく見知らぬお姉ちゃんが現れてな。『この電車に乗ったらあかん』とわしら兄弟が電車に乗るのを何度も何度もしつこいぐらいに引き留めるんや。普段ならそんな見ず知らずの他人の言うことなんか、わしらも聞かへん。せやけどそのお姉ちゃんの顔は、こう、言うに言われんような、何かしら切迫した様子が見て取れたんやなぁ。それでわしと兄ちゃんはとうとうそのお姉ちゃんに逆らえなくて、結局電車には乗らなんだ。だがな、その電車はなんと停留所を出てすぐ、堀川を渡るときに転落してしもうたんや」
「ええっ、それでどうなったの?」
 由利はそれを聞いたびっくりした。昔、あの川でそんな大惨事が起きていようとは。
「それがえろう大変な事故でな。大怪我をした人、死んだ人もたくさんいたんや。事故が起こったあと、騒ぎを聞きつけてお母ちゃんが血相を変えて現場に駆けつけて来たんや。だかどこを探しても、わしら兄弟はおらん。お母ちゃんはもしやと思って、大宮中立売の停留所まで探しに来たんや。案の定そこには取り残されたわしらがおったっちゅうわけや。わしらももし、あの電車に乗っていたら、今頃はここにおらんかったかもしれん。思わぬ命拾いをしたもんや」
「へえっ、そんなことがあったの?」
「そうなんや。本当に不思議なことやった。あのお姉ちゃん、子供のわしにはすっかり大人に見えたけど、本当はいくつぐらいやったんかなぁ。何とのう制服みたいなんを着ていたように思うし、まだ女学生ぐらいやったんかなぁ。そうやったら生きていたらもう九十を越しているはずや。ずいぶんと色の白うてほっそりした別嬪さんやった。そうや、由利。おまえにちょっと似ておったかもしれんなぁ」
 アハハと辰造は笑った。
「もう、おじいちゃんたら!」
 そう言って祖父が茶化して来たのをいさめると、改めて由利は祖父に問い直した。
「で、おじいちゃん、その女の人は結局どういう素性の人かわかったの?」
「いや、それがな、皆目判らんかった」
 辰造は口に柴漬けを放り込むとポリポリと美味しそうな音を立てた。そのあと、湯飲みから由利が淹れたお茶をぐいっとひとくち飲んで、再び話を続けた。
「そのお姉ちゃんのことを話したら、お母ちゃんは息子たちの命の恩人にひとことお礼が言いたい言うてなぁ、いろいろと近所の知り合いや親せきにも心当たりを聞いて回ってくれたんや。そやけど誰もそんな女の子は知らんと言うんやな・・・。しかもあのとき、電車は満員で人がぎょうさん乗っていたというのに、その女学生を停留所で見かけたという人もおらん。しかしどういうわけで、あのお姉ちゃんは、わしら兄弟だけを引き留めたのか・・・。不思議なことやが、あの人は未来を見ていたんや。そうとしか考えられん。今思うとあれは神さんかご先祖さんが、ああいう形でわしと兄ちゃんを守ってくれたのかもしれん・・・」

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境界の旅人 5 [境界の旅人]



「ありゃりゃ、しもたなぁ。白みそを切らしていたんやったなぁ」 
   通り庭にしつらえてある台所の棚を見て、辰造がひとりごとを言った。
   最近は由利も、辰造のそばで晩御飯の手伝いをするようになった。本当ならば辰造ひとりで作ってしまった方がさっさとできて早いのだが、横で孫娘が手伝いともいえぬような手伝いをしていても、ちっとも嫌な顔もせず丁寧に教えてくれる。その甲斐もあって手伝いを始めた当初は手伝いというよりも邪魔しているのに過ぎなかったのだが、最近は御汁の上に浮かせるネギぐらいならさっさと切れるようになってきた。
 今晩はパリパリに焼いたお揚げと分葱の「ぬた」を作ろうとしていたところだった。
「どうしたの、おじいちゃん?」
「う~ん、しもたなぁ、白みそがないわ」
 祖父と暮らすようになってから、献立に白みそを使ったものが多くなった。辰造が作るものはお揚げや豆腐と季節の野菜といったシンプルな素材のものが多かったけれど、由利にはそれが妙においしく感じられた。
「じゃあ、あたしが今からスーパーまで、ひとっ走りしてくるよ」
「ああ、あかん、あかん。スーパーのはな、なんや知らん、味のうて」
「味のうて?」
   由利はぽかんとして訊き返した。
「味ないってこっちゃ」
 祖父は言い直した。
「味ない?」
「はは、由利は『味ない』は解らんか?『おいしくない』ということや」
「ああ、だから味が無いのか。なるほど、なるほど」 
 由利はようやく祖父の言っている意味が解った。
「じゃあ、どこで買ってきたらいいの? 大丸? それとも錦? まだ五時前だし、時間は十分にあるよ」
「そうやな。ほな、行ってきてもらおうかな。うちら上京に住んでいるもんは、昔から白みそっちゅうたら、本田さんの白みそに決まっているんや」
「へ~ぇ、でもおじいちゃん。それは権高い京都人の一種の京都ブランド信仰ってヤツじゃない?」
 由利は少し意地悪く質問した。
「いやいや、由利。京都人はそんな酔狂な見栄っ張りじゃないわ。みそっちゅうもんは生きているんや。麹を使って昔ながらの製法で作られたもんは、何や知らんが旨い。高いと言ってもな、せいぜいスーパーで売ってるもんとでは何百円ぐらいかの違いやろう?」
「そうなのかな?」
「そうやで。人間、生きてる限りは腹が空く。三度三度の飯を粗末にしていると、人は人生の悦びというものを忘れてしまうんや」
 由利はそれを聞いて東京で一生懸命働いていた母、玲子のことを瞬間的に思い出した。もちろん祖父の言うことも一理ある。きれいに掃き清められた部屋。きちんとたたまれた洗濯物。心を込めて作った料理。それを盛り付けるための吟味された器。だがそんなふうに日常の細々とした些末なことにばかりに比重置いていると、大局的な人生の目的を見失ってしまう。
   マルチビタミン・ゼリーとカロリーメイトを食べながら、仕事で徹夜している母の姿が目に浮かんだ。
   祖父の言い分もわかるが、母がそれに反抗する気持ちも理解できる気がして、由利の胸中は複雑だった。
「場所はな、一条通りを御所に向かって、室町通に面しとるし、すぐや」
「室町通り・・・」
   祖父に教えられた通りに行くと、比較的広い通りの角にひときわ大きな白壁の店が現れた。玄関には柿渋色に、『丸に丹』の字を染め抜いたのれんが下がっている。
「うひゃ~、すごい。高級そう」
 高校生がひとりで入るには気おくれしそうな外観だったが、なにせ祖父に頼まれたお小遣いなので引き返すわけにはいかない。
 店に一歩足を踏み入れた途端、ずらっと大きな樽にさまざまな味噌が盛られており、店の中はふわっと麹のいい香りで満たされていた。
「おいでやす。何にいたしまひょ?」
 三角巾をきりっと被った、それでいて優しい物腰の店員さんに訊ねられた。はんなりした京ことばがよく似合っている。由利はここにいる自分がひどく場違いでいたたまれない気がしたが、勇気を振り絞った。
「えっと料理用の白みそが欲しいんです」
「どないなお料理でひょ?」
「えっとぉ、分葱とお揚げのぬたを作っていたんですけど・・・」
「ああ、かしこまりました。そんなら、これどすやろなぁ」
 店員があらかじめパックに充填されたものを手渡してくれた。

 無事に買い物を終えると緊張から解放されて、帰路はぶらぶらとそこらへんを探索しながら歩いて行った。ここいらはただ歩いているだけでも、ひどく楽しい。さっきのような古い老舗の味噌屋もあれば、ものすごくモダンなパティスリーやお洒落なベーカリーもある。
 由利は縦方向に伸びる室町通を一条通りから、中立売まで下がって行った。それからその角を曲がって西へ行き、途中でスマホを検索してみると『楽美術館』といって茶道で使う楽焼きの茶碗を扱う専門の小さな美術館があることも発見した。
「へぇ、今度行ってみよ」
 由利はスマホのリマインダーに『楽美術館』とタイピングした。

 堀川通りに出ようとした手前あたりで、由利は思いがけず赤レンガでできた古い建物を見つけた。
 その建物は補修工事もこれまで施されることもなかったのか、うらぶれてぼろぼろだがその昔には由緒ある建物だったに違いないある種の風格をにじませていた。
 由利はこの赤レンガの朽ち果てた建物を見て、英国児童文学の傑作と言われているフィリッパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』を思い出した。この目の前の建物からはピアスの作品の中に出て来るような、時代を経て安アパートに成り下がった貴族のマナーハウスの威厳のようなものが漂ってくるのだ。
「ここって何なんだろう?」
 興味に駆られて思わず近寄ってみると、赤いレンガの壁に今はさまざまなエアコンの室外機がぶら下がっている。本来は窓も縦方向に大きく取られていた。だがそれが東側に向いているせいで眩しすぎて朝もゆっくり眠れないためなのか、あるいは断熱材として用いられたのか、内側から改めて別の木の板で小さく囲われていた。それがかえってこの建物をひどく貧乏くさいものにさせていた。建物の後ろは駐車場になっている。よく見ればすべてアスファルトで舗装されておらず、ある部分だけは大きな御影石がいくつもはめ込まれていた。
 表に回って建物の正面を見てみたいと思い、由利は中立売通りを一端出て東堀川通りを下がると、その建物の入口はどこかと探した。だが由利の予想に反して、そこには建物に似つかわしい大きな入口はなく、普段歩いていたなら見逃してしまうほどの、細い細い路地が奥へと続いていた。由利は恐る恐るその奥へと進んで行くと、建物の入口に「白梅寮」と書かれた看板が取り付けてあった。扉もない入口をくぐると玄関先に十個ほどの郵便受けがあった。その中に投函されているダイレクトメールや不動産屋のチラシを見れば、つい最近のものだとわかる。
「あ、ここってたぶんアパートなんだ。少なくとも今でも人が住んでいるみたい」
 もう一度、東堀川通りに戻って建物の全体を見ると、外壁の塗装はボロボロだけれど、入り口の上にアーチ型の窓が設けられており、その上に何かの紋章らしき飾りが剥がれ落ちた形跡がある。アングロサクソン系のプロテスタント教会のような形からして、同支社大学のアーモスト館か、烏丸下立売の角にある聖アグネス教会などと同時代、同傾向の建物と思われる。おそらく作ったのは明治時代に活躍したヴォーリスかガーディナー。あるいはそれに準ずる位置にあった日本人建築家だろう。察するに、それが以前は別の目的で作られた何かだったことだけは解るのだ。

   そうやって頭をひねりながら、その場所から離れようとしたとき、中立売橋を渡って歩道を少し北へあがったところに、やはり桃園高校の制服を着た、御所で妖怪どもから救ってくれた例の少年が佇んでいた。
「あれは・・・三郎?」
 由利は急いで道を横切り、その少年のところへ駆けて行った。三郎は土手に掛かった背の高いガードレールに肘をついて上半身をもたれさせ、物思いにふけっているようだった。群れから一羽だけはぐれた鳥のような横顔に由利の胸はうずいた。
「ねぇ、ちょっと! あなた!」
 びっくりしたように少年が振り返った。
「また、おまえなのか?」
 少年は大きく目を見開いて由利を凝視したきり、絶句した。
「おれともあろう者がおまえの気配だけはどうも察知できないらしい・・・。何でなんだろうな」
 そんな三郎の困惑などものともせず、由利は自分の心の中にあった疑問を集中砲火のように浴びせかけた。
「ねぇ、あなた。桃園高校の生徒だったのね! 入学式の日にあなたを見たわよ!」
「ああ、そうだったな・・・。おまえにはおれのことが見えるようだからな、・・・どういうわけだか」
 三郎は不機嫌そうな低い声でつぶやいた。由利にはそれが聞こえなかったらしい。
「え、今なんて言ったの? あたしがあなたを会うと何か不都合なことでもあるの? ねぇ、この間の御所の近衛邸で出会ったお化けは一体何だったの?」
 三郎は呆れたように言った。
「そういっぺんにたくさんの質問をするなよ、どれから答えたらいいんだ?」
 そう言いながら、三郎は苦笑した。笑うと案外と年相応に可愛かった。
「ねぇ、あなた。うちの学校の生徒なんでしょ?」
「ふふ。うん、まぁ、そういうことにしておこうか」
 三郎はまた曖昧な答えをして、由利を煙に巻いた。
「なあに? 『そういうことにしておこうか』って? じゃあ、違うって言うの? だけど、現にあなた、今うちの学校の制服を着ているじゃない?」
「まぁ、人間の中では、おまえのようにごくごくまれに、おれのことが見えるヤツもいるからな。そんなときは、こういう恰好をしているほうが、今の街になじんで怪しまれなくて済む」
「生きてる人間? じゃあ、あなたって何なの? ユーレイ? 妖怪?」
 その問いには、三郎は終始無言だった。もともと端から答える気が無いらしい。仕方なく由利は話題を変えた。
「あなた三郎って呼ばれていたわよね」
「ん? 何?」
「あたしはね、あなたの名前は三郎なのかって訊いているの!」
「ああ、おれの名前を尋ねているのか? 今のおれには名前なんて不必要なものだ。そうだな、おまえが三郎と呼びたいなら、そう呼べばいい」
 また質問をはぐらかされ、正直由利はイライラしてきて大きくため息をついた。でもここで諦めては真実は聞き出せなくなる。それで思い直し、なるべく冷静さを取り戻そうとした。
「・・・しょうがないわね。じゃあ、本当はどうだか知らないけど、あなたは三郎よ」
「うん、三郎。それでいいんじゃないか?」
「では三郎クン、ここで何をしていたの?」
「ああ、おれか? ここで昔を偲んでいた」
 三郎はまた、由利の予想していた答えとはかなりかけ離れたことを言った。
「昔?」
「そうだ・・・。ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がしてな・・・。どんなに懐かしい、そこに留まっていたいと願っていても、時の流れには何人と言えど、逆らえない。それと同時に過去へも決して逆行することはできない」
 三郎が急にいわくありげなことを言うので、由利は何と答えていいかわからなかった。それに三郎はこんな制服を着ていても、どこか俗人離れしたようなところがあった。
「時代が移りゆくにつれ、たとえ地理的には同じ場所に立っていたとしても、目に映る景色はまった違っているものだ。解ってはいるが、ときどきそれが、妙に切なくなってな・・・」
 三郎は由利の気持ちを知ってか知らずか、こんなことを言った。
「もともとこの堀川は鴨川の元流だったんだ。その昔、鴨川は暴れ川でしょっちゅう氾濫を繰り返していた。だが桓武天皇がこの山城の地に平安京を造営される際、市中にこのような大河があるのはよろしくないと仰せになったので、,出町の辺りで高野川と合流させたんだ」
 三郎は由利に中立売より北に上がった堀川を指さした。
「それでもともと鴨川の水路だったここに掘割の運河を作ったんだ。この堀川は、今いる中立売から一条戻り橋にかけて川幅は広く取られているし、しかも川底が深い。運河にしては他には例もないほど、ものすごく深く掘られていて、だいたい長さにして四丈・・・いや、十二メートルぐらいかな。だからまぁ、いわば人為的に作られた渓谷だったんだ。だが今はどこぞの価値もわからない小役人がこういう由緒ある運河を、どういう意図でやったのかは知らんが、大枚をはたいてこんなつまらない公園もどきに作り変えてしまったんだけどな」
「あ、ほんとだ」
 堀川をのぞくと、セメントで塗り固められたせせらぎが流れ、その脇には遊歩道がつけられている。だが掃除を十分されておらず通る人もないその場所は、ひどく猥雑で汚らしく見えた。それをじっと眺め続けている三郎の姿はなぜか容易にことばをかけられない厳しさを漂わせていた。由利は声をかけることもできず、仕方がないのでしばらく辺りを見渡していた。
「すごいね。三郎クン。ここら辺の地理と歴史に詳しいんだね」
 少し間が開いたあと、由利は改めて三郎に話しかけた。
「いや、別に。ここに長く住んでいれば、自然と事情にも詳しくなる」
「長く住んでいたらって・・・。三郎クン、それじゃまるで何百年も生きてた仙人みたいじゃないの」
 それを聞いて三郎はすこしやるせない顔をした。残念なことにわずかな徴に気づかなかった由利は、地元の歴史に詳しそうな三郎に質問した。
「ねぇ、三郎クン。不思議に思っていたんだけど、ここって西側に大きな堀川通りがあるのに、東側には一方通行しかできそうもないこんな細い道があるのはなぜなの?」
 三郎は思いがけない質問をされて、気がそがれたようだった。
「あ、ああ。こっちの大きな通りは戦時中に類焼を防ぐためと、軍用の車を迅速に通すために家を壊してできた道だ。他にも御池通りと五条通りもそうだ。あの通りだって二車線あって広いだろ? だから元来の堀川通りとはそっちの側の細い道のことなのさ」
「え、この道?」
「そうだ。これだけで驚いていてはだめだ。しかもこっちの細い道路はなんと今から六十年も前まではそれこそチンチン電車が走ってたんだぜ?」
「え、そうなの? こんなせまい道なのに?」
「ああ、そうだ」
 三郎は場所を移動して、中立売橋を少し下がった場所を指さした。
「ほら、あれを見てみろ」
「ん? あ、なんか斜めに赤レンガが敷き詰められた跡があるけど? これって橋の跡?」
「そうだ、これが昔の北野線の電車が走っていた橋梁の跡なのさ」
「へぇ~」
 由利は三郎の知識の深さに感心しながら、歩道から今は東堀川通りと呼ばれている、かつての堀川通りをしげしげと眺めた。
「さ、もう帰れよ。家でおじいさんが白みそを買ってくるのを待っているんじゃなかったのか?」
 ぶっきらぼうにしか話さない三郎の声にわずかだが優しさが含まれていた。
「うん! ああ、そうそう。もう帰んなきゃ」
「そうだ、今頃、家でおじいさんが心配しておられるだろう。早く帰ってやれ」
.   家路を一歩踏みかけて、由利はふと心の中で疑問が沸き起こった。なぜ三郎は由利の家のそんな立ち入った事情まで知っているのかと。
「え、三郎クン! どうしてそんなことまで、あなたが知っているの?」
 もう一度後ろを振り返ったときには、三郎は既にそこにはいなかった。








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境界の旅人4 [境界の旅人]



 常磐井はそのあと何事もなかったかのように、のっそりと自分の席へと向かっていたが、さっきから固まったように突っ立っている由利のところまで来ると、ふっと足を止めた。
「おい、そこの背の高い彼女」
「え、え? あ、あたしのことですか?」
「決まってんじゃん。ねぇ、あんた以外に背の高い人、他にいないっしょ?」
「あ・・・」
 辛辣な常磐井の口の利き方に由利は再びうつむいた。
「な、あんた。どうしてオレがこうやって話しかけてんのに、人の顔をちゃんと見ようとしないのよ?」
 由利はそう言われると、おずおずと顔を半分だけ上げて相手を見た。
「そりゃあさ、もちろんいじめる側が悪いは悪いに決まっちゃいるけどよぉ。だけどあんたもいけないっていっちゃ、いけないんだぜ。どうしてそんなにウジウジ自信なさげに背を丸めてるの? な、ああいうヤツラに隙を見せちゃいけないんだよ。いじめる奴らってのは、人の弱みを嗅ぎ当てるのが天才的にうまい。実際それがその人にとって本当に長所か短所かは別にしてな」
 そのことばを聞くと由利はハッとなって、相手の顔を見つめた。常磐井も由利の瞳をしばらくの間じっと見つめると、ふっと表情を緩めた。
「あんたさ、見たとこ、スタイルよさげじゃん。もっとすっと背を伸ばして。オレみたいによ。もっと自信をもって堂々としてろや、な?」
 常磐井はそう言い残して、また来た時のように大股で自分の席へと戻っていった。

 激動のホームルームが終わると美月は由利のところへ近づいて来た。
「大丈夫だった? 小野さん」
「うん、ありがとう。でもまぁ、ああいうことって今までにも結構あったし。だけど最後びっくり」
「ああ、常磐井君ね。あたしもびっくりした」
 美月もそれには同意した。
「うん・・・彼のおかげで助かったのはたしかだけど・・・でもなんか・・・見た目もやることも派手な人だったね」
「だけどさぁ、スカッと爽快だったよ。あんな中二病のチビが、ネチネチ言いがかりつけてきてさぁ。みっともないったらないわ。それにしてもすごかったね。常磐井君、机が」
「そう、あれってそうとう固いはずだよ。あんなことってある?」
 信じられないと言った面持ちで由利がつぶやいた。
「だけど割れてた!」
 そういうと、クスクスとふたりとも顔を見合わせて笑った。
「ね、小野さん、これからあたしのこと、美月って呼んで。加藤さんなんて呼ばれるとなんか他人行儀で」
「じゃあ、あたしは由利ね」
 またふたりはにっこり微笑みあった。呼び方を変えただけなのにふたりの距離はぐっと縮まった。

「でも自業自得ね。ハメ外して調子に乗るからああいうことになんのよ」
 美月は当然と言った顔をした。
「でも、ちょっとハメを外したにしては、可哀そうすぎるくらいの制裁だったんじゃないかな?」
「何言ってんの、由利。あなた、いじめられた当事者だよ? 何事もはじめが肝心。ああいう手合いにはあれくらいきびしいので丁度いいのよ」
 美月も可愛らしい見かけによらず、結構手厳しかった。
「ね、由利のおうちはどこ? あたしはね、二条城の近くなんだ」
「へぇ、二条城?」
「行ったことない?」
「うん、まだね」
「じゃあ、今度一緒に行こう。あたしが案内したげる。で、由利のおうちはどこらへんなの?」
「えっと、あたしは堀川を下がって今出川まで行った辺りかな」
「ああ、西陣織会館があるところね! あたしのお母さん、あそこで着付けの先生してんの」
「へぇ~、着付けの先生? 美月のお母さんってすごいね」
「ううん、そうでもないよ。だってあたしんち、着物の会社だからさ、これも販売促進活動の一環かな」
「でも、改めて考えてみればそうだよねぇ、あたしたちが着物着る機会って言ったら、成人式ぐらいしかないもんね」
「でしょ? やっぱり自分で着られないってところに和服の限界があるのよ。やっぱりそういった意味でも和装業界も努力しないとね」
 そういいながら、下足箱にたどり着くと、由利は靴を履き替えた。見れば美月は何やらスニーカーのひもをごそごそいじっている。
「あ、美月。あたし外出たところで待ってるね」
「うん、お願い! ゴメン。何だかスニーカーのひもが緩いのよ。直したらすぐに行くから!」
「いいよ、いいよ。気にしないでゆっくり直してきて。あたしは大丈夫だし」
 由利が外に出て、玄関から校庭を眺めた。すでに桜の季節も過ぎ、あたりの木々は柔らかな黄緑色の新緑に覆われていた。清々しい気持ちでゆっくり腕をのぼしながら、もう一度辺りを見渡すと、校門近くのすずかけの木の下にひとりの小柄な男子生徒が佇んでいるのを見かけた。
 どこかで見たことのある顔のような気がして、じっと彼の顔に目を注いだ。
「!」
 相手も由利が自分のことに気が付いたことを悟って、すぐに視線をこっちのほうに向けて来た。わずかだが、その瞳の中にはいわく言いがたい敵意がにじんでいた。
「なんで・・・?」
 由利の顔がみるみるうちに青ざめて行った。
「あれは・・・三郎?」
 由利は信じられないといった口調でつぶやいた。
「どうしてあの子が? あの子もここの高校の生徒だっていうの?」
 ちょうどそのとき、美月が由利のもとへやって来た。
「お待たせ~。ごめんね、待った?」
「う、ううん」
「どうしたの、由利? 顔が真っ青よ」
「ううん、何でもないの。大丈夫」
 もう一度由利が視点をもとの場所へと戻すと、三郎の姿はかき消されたようにいなくなっていた。





読者のみなさまへ

この小説はフィクションですが、京都案内という意味を兼ねまして、一般の方々がご利用できるお店や場所・地名などは一部実名で書かせていただいております。一方、由利や美月の通う「桃園高校」および、宗教団体等はすべて架空です。そしてこの作品に出てくる宗教的概念もすべてフィクションであることを予めご了承ください。


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境界の旅人3 [境界の旅人]



「本当に入学式にはわしが付いて行かなくてもいいんか?」
 朝食を食べながら辰造は由利に訊いた。
「うん、もう高校生だもん。そんないつまでも保護者に付き添われるような歳でもないし。大丈夫」
「まぁ、そうやな」
 辰造は味噌汁をすすりながら答えた。
「学校へは歩いてだって行ける距離だもん。京都って本当に東京と違って楽よね。街がこじんまりとコンパクトにまとまっているもん」
「まぁ、四方が山に囲まれている土地やしな、そりゃ東京みたいに広がりようもないわな」
 由利は居間に掛かっている年代物の柱時計を見た。
「うわ、もうこんな時間? 急がないと」
 由利はバタバタと自分が食べていたご飯茶碗と汁椀を重ねて、隣の土間の流しへと運んだ。
「ああ、由利。急いでやると粗相するからわしがやっとく。おまえはもう学校へ行き」
「うん、おじいちゃん、ごめんね!」
 バタバタとカバンを抱えて由利は玄関へと走った。
「由利、あんまり慌てたらあかんで。事故にあったらどないするんや? 気ぃ付けて行きや!」
「うん、おじいちゃん! 行ってきまーす」

 入学式も済ませ、新しく桃園高校の新一年生となった生徒たちは、クラスごとに担任となる教師に引率されて教室へと向かって行った。他の生徒たちは中学校か塾かで一緒だったらしく、それぞれ見知った顔を見つけてはほっとしたように声を掛け合っていた。由利はまるっきり京都に地縁もないので、黙って歩いていた。そこへ誰かが後ろからタタタと駆け寄ってきてポンと背中を叩いた。びっくりして振り返ると、それはどうも新しくクラスメイトになるはずのひとりの女子生徒だった。小柄でちまっとしている佇まいは、リスのような小動物か、あるいはゆるキャラを彷彿とさせる独特の愛嬌があった。
「こんにちは」
 突然、こんなふうにあいさつをされると、どんなふうに返していいものか、由利には見当もつかない。
「あ、こ、こんにちは」
 仕方なく相手の言ったことばをオウム返しした。
「あたし、加藤美月っていいます。よろしくね」
 にっこり笑って相手が自己紹介した。
「あ、あ。あたしは小野由利」
 由利はドギマギしながら、自分の名前を言った。
「あ、あなた、小野さんっていうんだね。ああ、この列ってあいうえお順に並んでいるんだ。小野さんの苗字が『お』だから、『か』で始まる名前のあたしがその後ろ」
なるほど、と言うように美月はまた由利に向かって、にっこりと微笑んだ。げっ歯目っぽいつぶらな瞳がきらきらと輝いている。
「さっきからすごく気になっていたの。すごく背が高いんだなって」
 たしかに由利は女子としてはずば抜けて身長が高く、百七十二センチある。中学生のとき、百六十五センチを過ぎた辺りから、これ以上伸びませんようにと祈り続けていたにもかかわらず、結局こんなに伸びてしまった。
「え、うん。まぁ」
「いいなぁ、憧れちゃう」
「え? 憧れる?」
「うん、そう。すらっとしていて素敵だなぁって。式の間中、うっとりして見てた! まるでランウェイを歩くファッション・モデルみたいじゃない? あ~、いいなぁ。あたしなんて百五十五センチしかないんだよ。超チビじゃん。うちのお兄ちゃんがね、『おまえは走るより転がったほうが早い』って言うんだよ? ひどくない? もう、いやんなる。小野さんみたいに背が高かったら、世界も違って見えるだろうね」
「え、そんなことないと思うけど」
 たしかに背が高い美女は素敵だろうと思う。だが背が高いだけじゃ、美女にはなれない。
「え~。ご謙遜!」
 美月は由利の肩をポンと叩こうとしたが、背が高すぎてできなかったので、わざわざ伸び上がった。初対面にしては妙に距離感が近いのだが、その遠慮ない無邪気さが由利には心地よく、悪い気はしなかった。
あれこれふたりが話しているうちに教室に到着した。担任は廊下で待っている生徒たちに向かって行った。
「え~、皆さん。静かに! これから君たちは一年間、ぼくが受け持つ一年三ホームの生徒となります。教室に入ると机の左側に各々の名前が書いてあるから、そこにまず座るように。解ったら返事して」
「はーい」
 まるで気のない返事がユニゾンとなって廊下に響いた。
「じゃ、小野さん、またあとでね。このホームルームが終わったら。いいかな?」
「え、うん。いいけど」
「うん、良かった。じゃあね!」
 美月は小さく手を振りながら、自分に割り当てられた席に向かって行った。

「はい、皆さん、それでは改めてぼくから祝いのことばを言わせてもらいます。入学おめでとう! ようこそ、桃園高校へ。わが校は今宮神社や大徳寺も近く、学校も百年以上の歴史があります。ぼくは担任の篠崎雅宏といいます。君たちはこれから一年間、ぼくと一緒にすごすわけです。ぼくが教える教科は社会科領域。ですから君たちとはこの三年の間に地理、日本史、世界史、あるいは公民を教えることになります。これからもよろしく」
 篠崎と名乗る担任はこうあいさつした。篠崎は年の頃、三十代半ば、ベテランの中堅教師といったところだった。
「さてと。ぼくが自己紹介したところで、これからみんなにも自己紹介をしてもらおうかな」
 篠崎が提案した。クラスの中は一気にざわめいた。
「まあ、みんなの中にはお互いにどこかで顔見知りの人間もいるだろうけど、それでも中には全く知らない人もいるだろうからね。じゃあ、まず、自分の名前、そして出身中学。あとはそうだな、自分の好きなものとか、趣味とか、なんでもいいや。一言言ってください」 
クラスの中は再び騒然としたが、担任はそういうとこには慣れっこなのだろう、軽く手を叩いて鎮めた。
「はーい、みんな。静粛に。じゃあ、一番右側の列から行きます」
篠崎は一番前に座っている女子生徒の机に近寄って行って、机のそばに貼られている名前を一瞬じっと見つめ、読み上げようとした。
「じゃあ、あなたね。えっと山下・・・さいかさんと呼ぶのかな?」
「あ、あやかと呼びます」
最近の名前は親の願いがこもった凝った名前が多く、読むのにも苦労する。しかしこの程度では、苦労の内にも入らなかった。
「そうか、どうもありがとう。じゃ、山下さんからね」
 山下と呼ばれた女子生徒は、おずおずと立ち上がって自己紹介した。
「あ、こんにちは。一条中学から来ました、山下彩加といます。中学のときは卓球部に入ってました。あ、あとジャニーズの『嵐』の大野クンと『トワイス』が好きです。よろしくお願いします」
 次は男子生徒が立ち上がった。
「あ~、あざ~っす。あれは鴨東中学から来た斎藤卓也といいます。中学は、えっと、そのサッカー部で、ポジションはセンターバックをやっていました! 引き続き高校でもサッカーやろうと思っています。一年間よろしくっす」
 斎藤と名乗った男子生徒は、ぺこりと恥ずかしそうに頭を下げた。こうやってどんどん自己紹介が進んでいった。
 真ん中ぐらいに来ると、美月が立ち上がった。
「えっと、洛桜女子中学から来ました、加藤美月といいます」
 そう言った途端、クラスからほうっといったため息のような声があちこちから漏れ聞こえた。
「え~っと、あたしは中学のときは茶道部でした。それでいわゆる世間でいうところの歴女ですので、趣味は御朱印集めです」
 篠崎はそれを聞いて嬉しそうに、茶々を入れた。
「御朱印集めかぁ。それは頼もしい。それじゃ、加藤さんはどんな時代が好きなの? やっぱり戦国時代か幕末?」
「いいえ、先生。中世です。鎌倉と室町。現代日本の根底にある精神文化が成立した時代ですから」
「すばらしい! ぼくも君みたいな生徒がいると、授業のやりがいがあるよ。加藤さん、一年間よろしく」
 美月が自分の紹介が終わったので席に着こうとすると、ひとりの男子が手を挙げた。
「あ、質問でーす」
 美月が促した。
「あ、どうぞ」
「加藤さんは中学から大学まである名門女子高の洛女から、なんでまた、ここへ入学してきたんですかぁ」
 美月はああ、といった顔をして、澄まして答えた。
「それはぁ、女ばっかだと息が詰まるからです。それに中学から大学まで一緒に学ぶ人間がずうっと同じっていうのは、コミュニケーションスキルが鍛えられないって意味では残念な環境なのかなって考えたんです。あたしはこの高校に在学する間、なるべくこれまでとは違うタイプの人達と接することで、変化と刺激を自らに課して、人間力を鍛えたいんですよ。こんなあたしですが一年間よろしくお願いします」
 美月がちょこんと頭をさげるとへぇとクラスのあちこちから感嘆したような声が聞こえた。美月は可愛らしい見かけによらず、結構はきはきした頭の切れる子だった。
 こうやってとうとう由利の番になった。由利は少し緊張の面持ちで席から立ち上がった。その途端、男子から声が上がった。
「すげ~っ、背たけーっ!」
 予想していた反応とはいえ、由利の身体はビクッと震えた。 
「えっと・・・小野由利といいます。東京から来ました。まだこちらに来たばかりなので・・・京都のことはまったくわかりません」
 由利はボソボソとほとんど聞き取れないような声であいさつした。
 そこでまた見るからに中二病チックな男子生徒の何人かが挙手した。
「あ、ハイハイ、ハーイ、質問ですっ」
「あんまり変な質問を女子にするなよ、坂本」
 篠崎は何となくこれから発する質問の内容が察しられたと見えて、坂本と呼んだ男子生徒にそれとなく牽制した。
「小野さんは身長何センチあるんですか?」
 実に気分の悪い質問だ。ちらりと横目を走らすと、坂本はそれほど背が高くない。おそらく由利より低いだろう。結局こういう質問というのは、相手を貶めて自分のコンプレックスを正当化しようとする卑劣な手段だ。由利は質問の本当のねらいを理解していた、だから失礼な質問を無視して、あえて答えないでおく選択肢も頭に浮かんだ。だが相手をそれとなく観察するに、クラスのみんなの面前で恥をかかせては禍根を残す面倒なタイプのような気がした。仕方なくここは少し譲って正直に答えた。
「百七十二センチです」
「あはは、やべっ!」
 坂本が笑い出すと、その雰囲気に引きずられて、急にクラスの雰囲気が悪い方向へと向かった。
「いるんだよなぁ、こんなヤツ!」
「そうそ、いるいるっ! クラスには必ずひとりいはいる、バカでかい女!」
 由利を容赦なく揶揄する声が響き渡る。クラス中が由利を嘲笑する声で充満した。
「ちょ、ちょっと君たち、いい加減にしなさい! ほらっ、みんな! そこまでにしないか!」
 だがもはや、篠崎の注意は男子生徒たちの耳には届かない。
「はい、はい。質問、しつもーん」
 別の男子生徒が懲りずにまた手を挙げた。よきにつれ悪きにつれ、この場で一度強い結束が生まれてしまうと、もはや担任といえど生徒たちを抑えることはできなかった。
「小野さんてハーフなんですか?」
「ちょっと、あんたたち! やめなさいよ! これってもう、歴然としたいじめじゃないの!」
 美月は立ち上がって、男子生徒たちに向かって叫んだ。
「うるせーな、このガリ勉チビ! おまえはすっこんでろ!」
 また先ほどの失礼な質問をした坂本が、美月にヤジを浴びせた。
 たしかに母親の玲子ははっきりと教えてくれなかったけれど、由利を身ごもったのはフランスに行った時代と重なる。由利はどう考えても純粋な日本人ではなかった。身長の高いのももちろんそうだったし、顔の彫りも深く、色も抜けるように白かった。それに髪や目の色も真っ黒とはいいがたい。
「あ、そうです・・・」
 由利は消え入るような声で答えた。怒りと恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
 自分のクラスメイトの中に異国の血が混じっている人間がいるとわかると、急にクラス中は好奇心に駆られた目をして由利の一挙手一投足を観察していた。
「どこの国なんですかぁ」
「・・・・・・」
「どこの国って訊いているんですけどぉ~」
 男子たちは是が非でも由利に答えさせようと迫った。
「・・・フランス・・・です」
「すっげー、かっけー」
 クラス中がどっと沸いた。
 そのとき、部屋のうしろのほうでひっそりと席についていたひとりの男子生徒が、すっと立ち上がった。
 ものすごく背が高い。どう見ても百八十センチは軽く超えていた。少年は由利を執拗にからかっていた生徒たちの中心だった坂本の許へ、無言では足早に近づいて行った。
それに気が付かずに他の生徒たちと一緒にげらげらと笑い転げていた坂本は、ふいに横を見ると長身の同級生が席の横に立っていたので、その威圧的な態度に驚いてはじかれたように立ち上がった。
「な、何だよ、文句でもあんのか、おまえ」
 坂本は目の前の相手に向かって精一杯の虚勢を張った。
「なぁ、おまえ。坂本って言ったっけ? これもせっかくの機会だしさぁ、是非、オレの身長も訊いてくンないかなぁ」
 ふたりの身長差は二十センチ以上あった。これではまるで大人と子供だ。
「えっ・・・?」
「だからさぁ、オレにもよ、さっきの彼女にやったみたいに訊いてくれっつって頼んでんだよ、ああ?」
 長身の男子生徒は敵意をむき出しにして言った。それから坂本の胸倉をグイっとつかんで自分のほうへ引き寄せた。
「何なら体重のほうも訊いてくれてもいいんだぜ? オレって見かけよりずっと重いの。筋トレ欠かしたことねぇからな。へへっ」
 相手は身体が小さいので、つま先だちにならざるを得ない。
「世の中には、いろんな人間がいんだよ。おまえみたいにコンパクトなチビもいれば、オレのようにバカでかい人間もいんのよ。ほらっ、『みんな違って、みんないい』っつうでしょ? わかってンのか、ええっ?」
 こうやってすごむと十五歳の少年とは思えないほどの迫力がある。突然彼はクラスメイトに向かって自己紹介をし始めた。
「オレは常磐井悠季。身長は百八十八センチ。体重は八十キロ。で、趣味はそうだな・・・。喧嘩?」
 そういうと、狂暴な目をぎらりと件の男子生徒のほうに向けた。
「だがそれをしちゃうと、相手に必ず大けがをさせて病院送りになっちまうんで、シャレになんねぇ。だから今は自主的に止めてます・・・」
 常磐井と名乗った少年は、つかんでいた相手の胸倉をもう一度自分のほうへもう一度ぎゅっと引き寄せてから、座っていた席へと乱暴に放り投げた。
「だが理不尽なこととか、弱いものいじめが大嫌いなんで、今後この部屋で同じようなことが起きたら、誰だろうと絶対に許しません。オレが必ず天誅を下すってことを覚えといてください。ってことでそこンとこ、どうぞよろしくっ」
 そういうと、坂本が座っていた机に、拳を作り満身の力を込めて振り下ろした。

「うおぉおおおおお~ッ!」

 常磐井が発した奇声と同時に部屋中にガーンという破壊音が響き渡った。
「以上です」
 教室は水を打ったように静まり返った。


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