イイオトコの系譜 ⑥ [イイオトコの系譜]

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皆さま、こんにちは。

最近、ちょっとマニアックなトピばっかり上げていたら、
閲覧数すくな~い!

わたしのブログの中で結構人気があるカテゴリはこの「イイオトコの系譜」ですね。
では、久しぶりにこれをやらねばなりますまい!


⑤はさいとうちほさんの三神弦で終わっていたのだから、
もうちょっとさいとうちほさん色で行きましょうかね。

三神弦が前なら、次はこれかな。

アレクサンドル・プーシキン! & ジョルジュ・ダンテス!


さいとうちほさん特有のかっこよさを持つキャラクターですね。
このふたり、甲乙つけがたくかっこいいので、今回は二人まとめてってことで(笑)

なんに出て来るかといいますと、『ブロンズの天使』っていう漫画ですね。

ブロンズの天使 文庫版 コミック 全5巻完結セット (小学館文庫)

ブロンズの天使 文庫版 コミック 全5巻完結セット (小学館文庫)

  • 作者: さいとう ちほ
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2014/06/20
  • メディア: 文庫






さいとうさんのマンガってわりとひとりの女に男がふたり、っていう図式が多いです。
まぁ、それでひとりは黒髪でひとりは金髪って感じ。

時により、白(金髪)が主役だったり、黒が主役だったりするのですが、
たいていの場合、主役のほうがもう一方よりずば抜けて魅力的で、あきらかに読者の視点が
イケてるほうに注がれるのに対し、

この作品は黒も白もそれなりに力が拮抗していて、どちらがいいとも判じがたいのが特徴ですかね。

あ、今考えたけど、黒白拮抗している漫画は他にもあったわw
(それは『円舞曲は白いドレスで』『白木蘭円舞曲』『紫丁香夜想曲』のシリーズをお読みだください)

お話は、ロシアの押しも押されぬ大文豪、プーシキンとその妻ナターリア。そしてそのナターリアと道ならぬ恋をしてしまうフランス軍人のジョルジュ・ダンテスです。

プーシキンは若い頃から、サンクトペテルブルクの社交界に情熱的なプレイボーイとしてその名をはせていましたが、あるとき信じられないような美少女に出会ってしまうのです。
彼女の名はナターリア・ゴンチャローワ。

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そのとき、ナターリア16歳、プーシキン29歳かな。
すでにプーシキンは名達の恋の猛者なので、
本来なら恋もしたことのないような小便くさい小娘なんか、
洟もひっかけないはずなのですが、
その超弩級の美貌の前には陥落して跪くしかすべがなかった。

真っ白で透き通るような肌に完璧な美貌、黒黒としたブルネット。
そして、これまた完璧なプロポーション。

一説によりますと、ナターリアの美貌というのは、
おばあ様が北欧の人だったからというのがあります。
スラヴ美人もなかなか美しいと思うのですが、
すこし北欧のニュアンスが入っているとさらに美しかったのかなぁって思います。

実際に彼女の肖像画がありますので、貼っておきます。

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たしかにキレイですね。

ま、ナターリアがどんなにキレイだったかということはそこらへんまでにしておいて、
プーシキンはもうその美しさに心を打たれたのです。そして心奪われたのです。

プーシキンは作家ですから、常にインスピレーションが下りてくるのを待っているのです。
そして彼女を見てこう思うのです「ナターリアはこの世の美の概念の具現だ!」
彼女こそが天の啓示そのものだ!と。
大袈裟なようですが、彼女を見て、常にインスピレーションが湧きだすのであれば
そうなんでしょうね。


そして彼女がまだまだ子供で、恋を知らないことにとてつもなく安堵するのですね。
というのも、プーシキンは彼女を大事に大事に自分だけのものにしておきたいのです。
恋なんてなまじ知らないほうがいい。

う~ん、源氏と紫の上って8歳差でしたっけ?
ところが、プーシキンとナターリアはさらに13歳ほど差があるんですよ。
ロリコンだったんですかね。(笑)

ナターリアは紫の上と違って、美貌は超弩級でも中身はわりと平凡な女なのですね。
それなのに、若年にしてすでに大作家として有名だったプーシキンに乞われて、お嫁に行くのです。
(まぁ、それもすんなり嫁に行ったわけじゃないですけどね⇒詳しくは漫画を)



で、しばらくは平和な夫婦生活が続くんですよ。
ナターリアは夫婦になって、プーシキンがすごく優しい夫であることにホッとする反面
なんとなく失望に近いものも心に抱く。
「結婚って、なんだこんなものか、って感じ」

本当は、破天荒な生き方をこれまでしてきたプーシキンにとって、
ひとりの妻のために自分自身の貞操も守って、妻一人だけに愛をささげる
良き夫として生きるなんてこと自体が、
この人の本来性質に沿わない信条を自ら課していた、ミラクルなことだったのですが、
そういういきさつを知らないナターリアにとっては、
刺激のない夫であったことは確かなのですね。


かといって、ナターリアは精神病を患って軟禁されていた父親、
そして絶えず自分の不運を呪う母親を見て育っていたので、
自分から、この穏やかな家庭を壊そうという気はさらさらなかったのでした。
こういうナターリアを、プーシキンはもう嘗め転がすようにして、可愛に可愛がる。
なんでもかんでも、自分以上にうまくやりとげてしまうプーシキンをみて
ナターリアは早々と降参してしまうのですよ。
「もはや、わたしなんかの出る幕はないわ」
とこのように対して自己主張もせず、彼女はずっとプーシキンの可愛いお人形さんでありつづけたのでした。


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ところが、
ところがですよ。
運命はいつまでもナターリアをナターリアのままでおいてはくれなかった。

ナターリアが22歳のとき、目の前に美貌のフランス人将校が現れるんです。
すらりとした長身で、輝くような金髪に真っ白の軍服に身を包んだ彼の名こそ

ジョルジュ・ダンテス。

ダンテスはフランスの王党派だったのですが、マリー・カロリーヌ王大后が
不倫で失脚したのを見て、失意のうちに故国を去るのです。

しかし、もともとフランス人としての矜持を強く持っているダンテスは、このロシア行にはあまり乗り気ではありませんでした。
やはりダンテスにとってはロシアなんてフランスから遠く離れた、ヨーロッパの片田舎の三流国にしか過ぎなかったのです。

そこでダンテスはナターリアの完璧な美貌を見て、少し驚きはしましたが、
それよりも彼女の会話の野暮ったさに辟易してしまうのでした。


「フランス女ならば、こんなとき機転を利かせて、当意即妙でエスプリ溢れた会話が楽しめるのに、
 なんだろう、この野暮ったさは…」と思っちゃうのですね。それに彼女の夫は文豪で名高いプーシキンなのに、なぜ?

ですが~。恋っていうのは、往々にして、こういうネガティブな心情から入っていくものなのですね。
嫌い、というのは好きの裏返しなのです。いわゆるギャップ萌えというヤツでしょうか。

1%も脈がない場合というのは、無関心な場合をいうのです。
フランス女性のように自分が美貌であることを百も承知でコケットリーを振り回すのに対して、
このロシアの美女、ナターリアのなんとも素朴は風情はどうしたことだろう。
まるで、自分自身の美しさも知らず、人のいない森に咲いているすみれのようだと
ダンテスは却って自分をことさらに飾ろうともしない、ナターリアの純朴さに一種の穢れの無さというか、神聖さを感じて、心を打たれてしまうんですね。

そしてプーシキンが自分の妻をあえて機転が利くような教育しないでおくのか、実はそこにはしたたかな色好みのプレイボーイの究極の選択だったことにも気が付くのです。

はぁ、なにがきっかけで人は恋という深い迷路に迷うか知れたものではありません。



もともとダンテスもナターリアもそうですが、
恋愛体質ではないのですね。

だから理性では、
「プーシキンの美人妻なんか、最も恋愛に不適当な女だ、やめておいたほうがいい」
と思っているし、ナターリアはナターリアで
「あたしはそんな恋愛をして楽しめるタイプの女じゃない。あの人は危険だ」
と思っているのです。

ですが、ですが、運命はこれでもか、これでもかといったふうに、
心ならずも二人を近づけて行ってしまうのです。

ナターリアもダンテスもこれまで本当の身を焦がすような恋というものをしたことがない。

そして、この不可解な恋という火だるまの中にふたりして突っ込んでいくのですねぇ~。
そこらへんの心理描写がまた、何とも言えず、手に汗を握るような展開でして、
読ませるんですよねぇ。

それで、彼らは一度は駆け落ちを結構するのですが、
あまりに緊張しているのか、ナターリアはその晩、熱を出すのですよね。

ダンテスが彼女を抱こうとすると、ナターリアは今さらながら不義を実行することを恐れて
退けるのです。

そして、うわごとで「サーシャ…(プーシキンのクリスチャンネームであるアレクサンドルの相性)」と夫の名前を呼ぶのです。

ダンテスはこのとき、諦めてしまったのです。
きっと駆け落ちをして彼女をフランスへ連れて行ったとしても、決して彼女はそこで幸せにはなれないと。きっと故国から離れたら、子供や夫を捨ててきたことを責め抜き、罪悪感に縛られる一生を過ごさせることになるだろうと…。

そこで、思いっきり残酷な言葉で彼女を突き放すのです。

そこからは…もう、漫画を読むしかないですね。
こんなに緻密で深い心理描写を漫画で描きえた、っていうことにまず脱帽です。

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ナターリアにとって、プーシキンの結婚とは、身を焦がす大恋愛の末に結ばれたものではない。
ですが、この稀代の天才が夫であった家庭には常にやさしい春の日差しのような愛に包まれていた。
ナターリアも子供たちも親鳥が大きな翼を広げて守るように、いつもいつも彼の庇護下にいてぬくぬくとすることができた。

これほどの大きな愛を、裏切ろうとしている自分はなんと身勝手な人非人なのかと、ナターリアは戦慄するのです。

ですが、プーシキンも自分の妻の恋に気づいていたのですが、嫉妬ゆえなのか、彼女をわざとダンテスのもとへ向かわせて、その愛を試そうとするのです。
「ぼくは君のダンテスへの恋心は知っているよ。だけど約束してくれるね、きっと君は無事にぼくのところへ戻ってくる」
こんなふうに追い詰める方も実はどうかしていると思うのですが、バカですね…。


こうなるとナターリアも、これまでのようにと春の日差しを浴びながらウトウトまどろんでいる状態でなんかいられないですね。
そこでナターリアもまた、己自身さえもが知らなかった自己というものに目覚めるのです。
そうなると、プーシキンも善人面した夫なんて演じてられないのです。
己の全身全霊をかけた、ふたりの抜き差しならぬ会話がなんともすさまじい。

そして、三者三様にまっさかさに皆、悲劇の中へと突き落されていくのです。

最後の最後、ナターリアが夫のプーシキンを、彼の偉大な才能ごと愛していることに気づき、
彼とダンテスの和解を求めるためにした裏切りが、読者の胸を打ちます。
天才作家は持ち前の鋭い観察眼で、妻の、そつのなく見える答えや顔つきをみて、瞬時に何事かを悟ってしまうのですよ。


これは本当に傑作中の傑作です。
一読することをオススメします。

こちらは過去のプーシキン視点のブログです。併せてご一読ください。

https://sadafusa.blog.so-net.ne.jp/2012-02-19-1




オネーギンについて語っているブログ。これはプーシキンが結婚前に書いた作品なのですが、作中のふたり男と同じ運命をダンテスとプーシキンがたどってしまうというのも皮肉な話です。

https://sadafusa.blog.so-net.ne.jp/2012-10-22





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いつまでも寝ていられる [雑文]

皆さま、こんにちは。

涼しくていい気候になりましたよね~。

わたし、今年の夏には本当に参りました。
京都は風水的にも地質学的にも、災害が起こりにくいそうです…。
それは大変ありがたいのですが、とにかく盆地特有の夏の暑さだけは耐えがたく、
ガンガン冷房を効かせてはいたのですが、今度は身体が悲鳴をあげたのですね。

だいぶよくなりましたが、やはり人工的に身体を冷やすと筋肉の柔軟性を失いますね。

それに比べて、今の季節のきもちいいこと。

もう、暇さえあれば惰眠をむさぼっております。
それがまぁ、夏なんて全然眠れなくて四苦八苦していたのに、
どこまでも、どこまでも眠れてしまう自分が怖いです。

でもまぁ、夏の疲れを今睡眠で補っているのかもしれず、

無為自然ということにしておきましょう。
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隠された暗黒史 『検証 四谷怪談』 [読書・映画感想]

皆さま、こんにちは。

最近、永久保貴一センセイ・ラブが止まりません。
先日、街へ行ったついでに本屋によって、このようなものを買いました。


検証 四谷怪談 (ほん怖コミックス)

検証 四谷怪談 (ほん怖コミックス)

  • 作者: 永久保貴一
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2013/07/05
  • メディア: コミック




これは、ただのコケ脅かしのオカルト漫画ではなく、
タイトルに「検証」という言葉が付いている通り、
人口に膾炙された有名な怪談の実相はどうなのか?を考察した作品です。

いやぁ~、これを読んで心底永久保先生を尊敬します。
まるで漫画界の松本清張ですね。

本には三作品収録されておりまして、
本当に有名な「四谷怪談」「番町皿屋敷」そして「累が渕」ですね。

わたしは、この中の「番町皿屋敷」が抜群に面白かったので、
ここにはそれを取り上げたいと思いますね。

まぁ、「番町皿屋敷」って知らない人はいないと思うほど有名な怪談です。
東京の番町という、以前千姫が住んでいたいわくつきの場所に青山主膳という侍が住んでいて、
そこに女中のお菊というのがいたんですね。
そのお菊が家宝である1セットが10枚の皿の一枚割ってしまうのです。

そこから、悲劇が…。
可哀そうにお菊は縛り付けられ、井戸に投げられて死んでしまいます。

するとしばらくすると、夜中に「一枚、二枚、三枚…」と井戸のほうから、女の声がするのです。
そして「九枚」といってから「一枚足りぬ、かなしやのう…」とおんなの姿が…。

ざっとまぁ、こういう話ですが、
これは、お江戸の話でしょ?

わたし、姫路城へ行った時、「お菊井戸」をそこで発見しました。
「あれえ、お菊の話って播州の話だっけ?」みたいに思ったり、
「ああ、こういう話って全国各地に広まってるんだなぁ~」ぐらいにしか思ってなかったんですが、

永久保先生は、文献を古いほうへ、古いほうへと調べていくと、
今の群馬県の妙義山山麓の小幡氏には室町時代から、
この「お菊伝説」があるということがわかるのです。

だんだんとお菊と小幡氏はセットになっているんじゃないかって
わかってくるんですね。

そして…小幡一族が戦国時代を経て、日本の各地に散らばるにつれて、
この伝説も拡散されていくのです…。


さらに調べていくと、お菊伝説には必ず、その後ろに曹洞宗と白山信仰が垣間見えるのですね…。

そして、その白山信仰の神様は「ククリヒメ=菊理姫」なのです。
そしてこの伝説はいろんなヴァリエーションがありながら、
必ず「お菊が水に入って死ぬ」ことになっている。

水と蛇との関連も考えられるそうです。

で、そこで永久保先生が出した結論は…、うわ~恐ろしい!


菊理姫は処刑にかかわった人たちに祀られていた神だった


個人的に昔から「磔、獄門」っていう言葉にも、なにかマジカルなものがあるんじゃないかって
思っていたんですよね。
確かに罪人は処刑されなければならないのですが、それは果たして「みせしめ」だけのものだったのだろうかって。
そして「獄門」っていう文字もなんだか、わかったようなわからないような漢字がついているなぁって思っていたんですよ。これって絶対に中国から来た熟語だよねって。



すみません、脱線しました。

では、この神はどこからやってきたのかというと、
大陸からダイレクトに日本海側へ稲作が渡来したとき、一緒にやってきたというのです。
古代中国の長江上流域で行われていた「人頭祭」が日本に普及した記憶だろうと。
これって紀元前六世紀ぐらいに行われていた祭りらしいです。

つまり、農耕の神である蛇神さまへ、人間をいけにえに捧げていたのだろうとのこと。

この記憶は、日本神話にも残されておりまして、それはヤマタノオロチにいけにえとして捧げられようとして、スサノオノミコトに助けられた、クシナダヒメ=奇稲田姫だろうとのこと。

つまり、お菊とはククリヒメあるいはクシナダヒメの末裔なのだろうと。


で、ここでわたしは、生贄といいましたが、よく読むとそういうことではないらしいです。

昔、人を殺すというのは、もちろん神様に捧げる生贄の意味もありましたが、
殺して、神そのものにしてしまうという考えもあるのですね。

要するに、人を殺して祀って、たんぼの守り神にしてしまう…
つまり殺される人自身がダイレクトに蛇の神様になってしまうのですね。

でも…。それにしたって大陸から日本に伝わったきたのは弥生時代ぐらいだとして、
こういう伝説になったのは室町時代ですよ。
この1000年間のタイムラグは、どうするのか?
それは、たぶん中世の農村は相も変わらず、こういうことをこっそりやっていたのではないか…。
まぁ、ありそうなことです。
誰も口を拭っていいませんが。



というのがこの作品の推測であり、結論です。





ぱぱぱ~っとしか話しませんでした。
だって、すごっく難しいんだもん。
でも、興味湧いたでしょ?

面白いと思った方は、ぜひ漫画をじっくり読んでください。

やはり正史には決して語られることのない、負の記憶というものは
こんな思いもかけない形で残ることもあるってことですね。

本当に面白いです。
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樹木希林の遺作 『日々是好日』 [読書・映画感想]

皆さま、こんにちは。

昨日ですね、先ごろみなさまに惜しまれて亡くなった樹木希林さんの遺作である
『日々是好日』を見に行ってきました。

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これ、見るまでどんな映画かわからなかったのですが、
全く茶道を知らない女の子たちのタハハなリポート的ノリの映画なのかなと思ったら、
そんなことなくて、結構重たくて考えさせられるものでした。

劇中で、樹木希林がお茶の先生に扮するのですが、
お稽古のとき、割り稽古だけじゃなくて、お手前のときに
「まず、左足を出して」とか「入口から風炉まで六歩で歩く」
とか、細かくイチイチ指導するのですね。

それで、黒木華と多部未華子が一生懸命、それを理解して暗記しようとするの。
だけど樹木希林先生は
「そういうのは、頭で考えるんじゃなくて、すっと身体が動くようになるまで練習するしかないの」
って叱るんですよね。

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う~ん、
Don't think Just feel
ブルース・リー先生ですか。

これには私は苦い思い出があって、
若い時ちょっとだけかじったことがあったのですね、
私も。

やっぱり同じこと言われましたよ。
だけどね、それじゃあ、いつまでたっても覚えられないんですよ。
おおきな流れっていうのがいつまでたってもわからないんです。

今の人って、私のようにパラシュート型の思考をする人って多いんじゃないかな?
まず、なにをするのか大きくつかんで細部を細かく見ていく。

初めから細かいことをイチイチ指摘されちゃうと、わたしなんてビビりなもんで、
緊張しちゃってダメなんですよね。

茶道って音楽の稽古と全く別のアプローチだと思うの。
ピアノは逆に「無意識に弾いているということは、なにも思考していないってこと」
だから、まず、ざっと読譜してどんな音楽なのかを知って、それから全体に弾いて、
それから、右手は右手、左手は左手っていうふうに細かく練習していくもんでしたよ。

こういうふうに練習したほうが、両手一緒に何も考えないで、間違わなくなるまで練習するより、
各段に早く習得できるようになったと思うんですよね。

こういう教え方って、現代人にはそぐわない教え方だと思うんだよね、個人的に。

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お茶って結局のところ、なにをしてるのっていうと、ただ、お茶を点てて飲むだけだよね。

まぁ、それだけの行為なんだけど、そこにはいろんな意味がある。
平安時代からずっと遣唐使を廃止したあとも、中国と貿易をしていました。
で、日本人のお金持ち、すなわち、貴族たちなんかは「唐物」っていってそれをすごく珍重しだすんですよね。
今の舶来主義と一緒よ。
で、そのうち、そういう唐物をどうやってかっこよく飾り付けるかっていうのを競うようになって、
「唐物荘厳」っていうのができた。

で、それから闘茶っていうのが流行ったの。
闘うお茶って何?って感じだけど。
お茶を飲んで、お茶の産地を当てるゲームね。
で、そういうのが時代が下がって、茶の湯になるのね、
禅宗が起こるのと同時なのかな。
まぁ、それが鎌倉、室町時代ですね。

要するに、ですね。
お点前というのは、各派でそれぞれ違うものですが、
あれは、ですね、私が思うに、
どうやったら動作が美しく見えるか、それを極めつくした最終形なんだと思うんですね。

利休のお茶がわびさびの頂点を極めたものなら、
武家茶の「きれいさび」みたいなものも出て来るし、
まぁ、美の形は一つじゃないので、
それぞれ、思うところがあって、今の形になったんだと思うのですね。

どうしてお茶碗の底にふきんで「ゆ」の字を書くか、
それは底を拭くだけなら、どんなふうに拭いても間違いじゃない。
「三」って書いても拭くという動作はできる。
しかし、それが「ゆ」になったのは、非常に美しい曲線がそこに描かれていて
それが傍目に見て、「美しい」と思えるからなのでしょう。

まぁ、本来の茶の湯は美の集大成だった、というか今もそうです。


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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ですけど、今の世の中、茶の湯で身を立てている人なんていないと思うのですね。
なにか仕事があって、心の楽しみに習っている人がほとんどなんじゃないかなぁって思うの。

映画の主人公の黒木華は20歳から始めて、
だんだんと茶の湯の世界に惹かれていくんですね。

たしかに、それは美しい世界だと思う。
だけど、それは言ってみれば、逆転の発想であって、
嵐が吹き荒れる日でも、茶室に座って目を閉じ、外の風を聞き、自分が大気と一心同体になって
野分の激しさ、水の流れるさまを聴いているわけです。
必ずしも、そこには風光明媚でうららかな日ばかりがよし、という考えではない。

だからこそタイトルが『日日(にちにち)これ、好き日」となるのです。



こういう考えはたしかに美しい。だけど、さびしい。

人生はうららかな日差しのもとにバラが咲き誇る日があってもいいはず。
お茶にはバラの花って合わないんだなぁ。


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最後に樹木希林先生のお教室はお初釜の茶会をする。

茶会をするにあたって、先生はこうあいさつする。
「去年も同じように、ここでみなさんとお初釜をいたしました。
 歳がめぐって同じことをする、それは一見平凡なことのように思いますが、
 でも、その同じことをすることは、なんと平和でありがたいことでありましょうか」

そう、樹木希林先生は端正な表情で美しくあいさつをされた。
これは彼女のこの世の人にむかってのメッセージだったんだなと胸が熱くなりました。

去年も今年も同じように、とおっしゃったけれど、皮肉なことに、彼女はもうこの世の人ではない。

なにごとも「一期一会」という意味をしみじみとかみしめて家路につきました。

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シニカルな語り口 『純愛小説』 篠田節子② [読書・映画感想]

皆さま、こんにちは。

今日は篠田節子さんの『純愛小説』の中に収められている
『蜂蜜色の女神』についてお話したいと思います。


純愛小説 (角川文庫)

純愛小説 (角川文庫)

  • 作者: 篠田 節子
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2011/01/25
  • メディア: 文庫



東京のおしゃれなビルにメンタルクリニックを開く女医のもとに、ある一人の女性が訪ねてきます。
その女性は自分自身のことではなく、実は夫について相談にきたのでした。

その女性がいうには、夫は一回り歳の違う女性と浮気をしているようだが、それはただの浮気じゃなくてどうも、精神に恐慌をきたしているのではないかというもの。

こういうこじゃれた土地のメンタルクリニックを訪れる患者というのは、たいていの場合深刻なものではなく、この女性のケースのように、夫の浮気で悩んでいるとか、姑、あるいは嫁と折り合いが悪いなど、いわゆる外に吐き出せない愚痴を言いに来るものがほとんどだった。

こんなふうに妻からの愚痴を一方的に聞いているだけではらちが明かないと思い、女医は女性にいいます。

「今度はぜひ旦那さんもご一緒においでください。カウンセリングはご夫婦一緒になさったほうがよいと思われます」と言ったのだった。

だがそれからしばらく、この夫婦がクリニックを訪れることはなかった。
女医はたぶん、夫婦の仲が回復したのだろうとそこはあまり深く考えなかったのだが、
あるとき再び、件の女性から電話がかってきたのだ。

「すみません、先生。主人をそちらへ連れて行きたかったのですが、実は主人は身体を悪くして入院していたものですから」とのこと。

話を聞いているうちに、女医は抜き差しならぬものを感じて女性に命じた。
「なるべく早く、ご主人と一緒にクリニックに来てくださいね」

ほどなく、その夫婦はクリニックにあらわれた。
そして、夫が妻に席を外させて語った話がすごい。

妻は今風の美白を熱心にしているまあまあみてくれのいい女だけど、
ぼくが出会った人はそういうんじゃないんですよ。って語るんですよね。

47歳の女性は、そういうのととは真逆な日によく当たった、蜂蜜色の美女だったんだと。
それも、日本人には珍しい彫りが深い容貌で、って話し出すんです。

なにかこう話を聞いていると、まるでインドのヤクシニーか、ゴーギャンの絵の中に出て来るようなそんな幻想的な女性のような、この世の人間じゃなくて、まるで女神なんですよね。

そんな女神に魅せられてしまって、抗いようがないのだと。

篠田さんが、こういう官能的な描写ってしないのかって思ったんですけど、さすが直木賞作家、すごいんですよ。これはもう、ホンモノを読むしかないな。夫とその女神とのシーンは圧巻です。


女医さんはそんなファビュラスな人が相手なら、それも仕方がないのかなぁと思う。

ですが、しばらくして夫の弟と妻がその女の家に押しかけて行って実際、どんな女なのかを確かめに行ったんですね。

そうすると二人は口をそろえてこき下ろすんですよ。
「真っ黒でゲジゲジ眉毛でたらこくちびるのとんでもないみっともない女なんですよ」と。
で、ものすごく太っていて、それはもう、なんだか遮光器土偶のようだったと。

ヤクシニーかと思ったら、遮光器土偶って何ですか、それって話です。

で、女医さんはなにか幻覚作用を起こすものを飲まされたのかもしれないと疑いだすんですよね~。

と、こんなふうになにかとんでもないものに取りつかれた人ってこんな感じなのかなぁって思うんです。

でも、一方で「美しさ」なんて非常い主観的なものだから、こんなふうに回りが醜女としか思えない女性とも、これほど官能的な夢に酔うことができるのなら、それはそれで幸せなんじゃないかって読んでいて思うのです。

このお話はどうなるのか、ってハラハラして読むのがよいので、これ以上、ネタばれはやめておきましょう。








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シニカルな語り口 『純愛小説』 篠田節子① [読書・映画感想]

皆さま、こんにちは。

ここによく来てくださる方はお分かりかもしれませんが、
わたしは大甘な恋愛小説は好きじゃないのです。

ちょっとドライでシニカルな語り口っていうのが好きです。
だいたい幸せな話って、どっか嘘くさくて、読んでてちっともときめかないのね。
そういう意味で篠田節子さんの小説はどれをとっても好きですね。


今回読んだ篠田節子さんの『純愛小説』っていうのも
そういう意味では非常にインパクトがあるお話でした。

純愛っていうのは、若くて美しい男女ばかりの専売特許ではないんですよね。
どんな醜い人も、どんな年齢であっても純愛というものはあるよ、と。
しかし、たいていの場合は悲惨な結果に終わってしまうものが多いけれど…。


純愛小説 (角川文庫)

純愛小説 (角川文庫)

  • 作者: 篠田 節子
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2011/01/25
  • メディア: 文庫



この小説は、「純愛」をテーマにした短編集なんですね。
四つのお話が入っています。

でも、この四つの中で非常に心を打たれたお話を二つ紹介したいと思います。

ひとつめは『鞍馬』ってお話。

ある東京出身で今は孤島に定年退職して住んでいる女性が狂言まわしなのですね。
この人には東京に一人暮らしの姉がいるのですが、
あるとき、電話をしても全く通じなくなってしまったのです。
もしかしたら、家で倒れて死んでいるのかもしれない。
嫌な予感に駆られて、もどかしい思いで孤島からはるばる東京の実家へ行ってみると、
実家はあとかたもなくなって、その敷地は更地になっていました。

で、初めはご近所さんに行って行方不明になった姉の消息をたずねるも、なんの情報もない。
最終的に、登記簿を取ってみると、やはりこの地は売却されていました。
実家の家を買い取った業者を最終的に突き止め、姉が実家を売ったお金、約八千万を振り込まれた銀行にたどり着き、どうにか細い、細い姉の消息の糸口が出てきたのですね。

どうやら、世間とは隔絶されて生きていた姉は、母の死後、あるカルチャースクールの書道教室へ通っていたことを突き止めました。

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さて、この姉を探していた狂言まわしの次女は孤島の小学校で校長先生をしてきた人で、情熱的に教育っていうものにかかわってきて、そこに強く生きがいを感じてきたのですね。

で、この人は定年後、都会の学校に疲れた引きこもりになってしまった子供のためのフリー・スクールを作ろうと思ったのですが、あと300万ほど資金が足りなかったために、発足できなかったのです。
ですから一旦、相続放棄はしたものの、今東京で80坪ほどの土地に一人暮らししている姉に少し、庭を切り売りして300万ほどを用立ててほしいと思っていたのです。
今になって、相続放棄したことはちょっと惜しかったなぁと思っていたのです。


ですが、実家の土地はすでに全部売却されて、その当の姉が行方不明になってしまったとは。
慌てるんです。

で、とうとう探し出すと、もうぼろぼろのアパートに、もうどう見ても80ぐらいの老婆にしか見えない老いさらばえた姉が、ほとんど家具もない部屋にポツンと呆けたようにして座っているのを見つけて驚愕するんですね。それに姉は少し頭のほうに変調があるようなのです。

この姉に何があったのか―。
この人からみたら、姉は自分というものがなく、流れるままに生きて来て、人生の醍醐味とか、理想とかなにも持っていない詰まらない人、その上、引っ込み思案で、行動力がなく、なんの趣味もない人ということになっているのです。




ですが、姉には姉の、心の真実があったのです。
この主人公の姉にあたるこの人は、三人姉妹の長女で、ちょうど高校を卒業するころに父親が倒れ、
自分は恋のひとつもせず、妹たちの大学へ行くための学資のためにずっと働き続け、
その後はかけおちしてシングルマザーになった末の妹の子供の面倒を見続け、
その後、ひとりになった母親の介護を死ぬまでしてきた人なんですね。
人に尽くしてばかりの人生だったのです。

ですから、嫁に行きたくてもこんな事情があって、身持ちが硬いまま60代の後半を迎えてしまった人なんです。
だって、妹たちは自分の情熱とか理想といういわば、「錦の御旗」を掲げて、実家から遠く離れてしまったのですから。

こんなふうに介護などというしんどいだけで、なにが報わるというでもない大きなものを一人だけで抱えて来て、それでいざ、その障害となっていた母親が死んでしまうと、この人はもう、どう生きていいかわからなくなるのですよ。


妹たちは、八千万相当する家屋敷を財産放棄してくれた。
「これからお姉さんだけの人生なんだから、しっかりね」
そして
「なにか困ったら連絡ちょうだい」という。
でも、それは反対に
「なにも困ったことがなければ、連絡なんかしないでね」
「自分のことは自分だけで解決して、わたしたちに迷惑かけないで」ってひとりぼっちになった姉には妹たちのセリフはこんな風に冷たく聞こえるのですね。

このとき、虚無感がこの人を襲うんです。
ああ、このまま死んでしまいたい、わたしの人生、一体なんだったのかなって思うんですね。

そんな心に冷たいすき間風を感じたとき、カルチャー・スクールの書道教室で
ステキな紳士に出会うのです。

姉は、もう自分も老境に差し掛かっているのだし、こんな老いさらばえた姿でなにが恋愛だろうと思うと居ても立っても居られないほど自分があさましくて恥ずかしいと思うのです。

でも、そう思う反面、こういった心を沸き立たたせてくれる恋心に力強さも感じてしまうのです。
その紳士は、押しつけがましいことは何一つなく、実に繊細に優しい。
傷つき干からびた枯れ井戸のような姉の心は、再び清水がこんこんとわき出すように情感が備わっていき、生きる意欲が湧いてくるのですね。

ここらへんの描写は、さすがだなぁと思いましたね。

そうやって、少しずつ少しずつ、老いた姉の心の中に、その男の存在が大きく占めるようになるのです。

やがて、抜き差しならぬ男女の仲になってしまうと、姉はその恋に酔いしれしまうのですね。
そして、その紳士に見えた男が実は、お金目当てで近づいているということも。

冷静に考えてみれば、男に騙されているという時点で別れを告げてもよかったのです。
ですが、生きる気力すらわかなかった自分にここまで活力を与えてくれたことも事実。
今さら、この男に去られてしまったら、自分はどうなってしまうのだろう、と思うのです。
そうやってすべてのことを承知で、姉は深い深い恋の渕へと落ちて行ってしまうのですね。

これを純愛といわずしてなんという。

『鞍馬』というタイトルは、最初読んでいるとき「なんで?」と思うのですが、
最後の最後で得心するのですね。


夫といっしょに孤島に移り住んで、見ず知らずの子供を幾人も教育し、希望を持たせて羽ばたかせてきた次女は、はたから見れば、非常に立派な女性かもしれません。
ですが、大して歳の違わない姉に生きる希望も見つけられないほど精神的に疲弊させて、家庭に引きこもらせた罪は深いと思います。

この人はまず、もっと独り身の姉に対して、もっと親身になってあげるべきだった。
ただ、姉の犠牲というのはあまりにさりげなく行われていて、誰も彼女が追い詰められていたとは気が付かなかった。


つくづく人間はエゴイスティックなものだなと痛感せずにはいられません…。


いやぁ、短編ってキュッとエッセンスが詰まっていて、こんなふうにコンパクトに仕上げるのは
非常に難しいと思うのです。


明日はもうひとつのお話を紹介したいなと思います。




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19世紀のイギリスの階級社会 [ひとつの考察]

皆さま、こんにちは。

この間、『高慢と偏見』のレビューを書いていて、
ふと「ダーシーさんって、どういう身分なんだろう?」と疑問を感じてしまいました。
わたし、原作も読んでいるのに、時代背景には無頓着でした。

初めはてっきり貴族かなと思ったのですが、英語で「ミスター・ダーシー」と呼ばれているし、
爵位の中で身分が低い准男爵のバロネットでさえ、イギリスでは敬意を払われて
「サー・ジョン(この場合はファーストネームが入る)」と呼ばれているのに、
貴族だったら絶対にミスターなんて呼ばれないはずなのです。

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ダーシーさんの叔母でレディ・キャサリンって本当に高慢ちきな人がいて
この人は自分の娘を大金持ちの甥のもとへ嫁がせようという心づもりだったので、
ダーシー氏がエリザベスを見初めて結婚するかもしれないという噂を耳にし、
エリザベスに結婚を辞退させようと乗り込んでくるシーンがあります。

そのとき、エリザベスは
「あなたは身分の低い家の娘と私を貶められますが、私は紳士の娘です。
ジェントルマンであるダーシーさんとの身分の隔たりはありません。
わたしは自分が幸福になれるかもしれない有利な申し出をお断りする必要はないと思っています」
ってカンジで啖呵切るんですよね。

これ、ドラマを見ていた限りは「うん? なんだろ?」ぽかーんとみていたのですが、

確かにレディ・キャサリンっていうのは「レディ」とついてはいるものの、
夫の身分というのは「サー」の称号がつく「ナイト(騎士)」に過ぎないのですよ。
つまり、レディという敬称はついたとしても、彼女は貴族じゃないってことです。

当時のイギリスは大きくいって、三つの階級にわけられたようです。
「上流階級」
「中流階級」
「労働者階級」
ですね。

で、この上流階級ですが、どういう人たちなのかというと、
まぁ、王室に出入りできる、王室貴族ですね。それともう一つ、ジェントリです。
貴族は皆さまもよくご存じのように、伯爵とか公爵とかタイトルを持っている人たちです。
ジェントリがこの場合ちょっと難しくて、一応爵位を持たない地主と規定できるのだそうです。
とはいえ、全く爵位がないわけでなく、伯爵(Earl)、子爵、男爵。つまり、これらの人は爵位を持っていたとしても王室に出入りできない貴族なんでしょうねぇ、おそらく。

さらにジェントリには階級がありまして、
准男爵(バロネット)、騎士(サー)、従騎士(エクスワイヤ)、そして紳士(ジェントルマン)となるわけですね。

まぁ、それでもレディ・キャサリンは自分は騎士の妻であるってことにものすごく誇りをもっているわけ。

ですが、ダーシーさんは金持ちかもしれないけど、地位的にはただの『ジェントルマン」にすぎないわけですよ。


ですからエリザベスはこういったんですよ。
「まぁ、うちと比べて多少お金を持ってるかもしんないけど、あんただって実のところ、貴族じゃないんだよ。身分としては同じジェントリなんだよ。騎士ぐらいでモタモタ言わないで」

すごいです。はっきり言いますなぁ。



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ダーシーさんの年収は1万ポンド。親友のビングリー氏はその半分の5000ポンド、そしてレディ・キャサリンは6000ポンド。そしてエリザベスのベネット家は2000ポンドだそうです。


こう聞くと、ベネット家は貧乏なんだね、って思うでしょ。その日ぐらしなんだね、って思うじゃない?違うのね。

この人たちは、仕事をしないで、地代などで上がる年収入がこれだけなんですよ。
じゃあ、小作などの庶民はどれだけお金を稼いでいたかっていうと、だいたい100ポンド内外ということです。
それに比べたらすごいでしょ。20倍年収があるんだよね。

ですから、たとえ爵位はなかったとしても、イギリスのジェントルマンっていうのは、歴然としたお金持ち階級だったってことですね。

また、ダーシーさんは爵位こそないけれど、広大な荘園を持っていて財産は貴族並みにあったということです。


まぁ、今の日本の感覚でいえば、ベネットさんちのお父さんの年収入は2000万で、レディ・キャサリンの家の6000万にはおよばないかもしれないけど、平均的な年収のサラリーマン一家から比べたら、どっちもお金持ちじゃないですか。要はそういうことなんですよ。
それをことさらにレディ・キャサリンは「あなたの家のような低い地位の方と…」と貶めるけど、そんなの、本当の貴族から見たら、目くそ鼻くそって話だよね、ってこと。



でも、このまえ、書いた『ダウントン・アビー』のグランサム伯爵家というのは、たしかダーシーさんの年収より、ずっとずっと多かったような気もするんだけど…。(解説が書いてあったサイトが探しきれない!)
ジェントルマンのダーシーさんは財産は貴族並みにあったけど、
すごい貴族はもっとすごい!ってことです。

でもよく考えてみると、このジェントリの人々っていうのは、もともと先祖が貴族の次男か三男であった可能性もあるわけで、だからこそ、爵位はなくとも、これだけの財産を残すことができるわけですよね。
つまり例えば、3世代前の先祖が貴族の長男でなく部屋住みに甘んじて、その後、ジェントルマンの身分で生きていたとしても、また原嗣相続のお蔭で、本家に女ばっかりしか生まれなかったりすると財産が転がり込んで来る可能性もあるわけですね。

~~~~~~~~~~~~

あ、それで今気が付きました。
このレディ・キャサリンこと、キャサリン・ド・バーグ夫人っていうのは未亡人なのですよ。
ということは、この人は娘しかいないので、ド・バーグ家の財産っていうのは誰か、他の親戚の男にもっていかれているってことですよね。
それはもしかしてダーシーさんかなぁと。
でも、年収がどうして女所帯なのに6000ポンドも入ってくるのだろう???

(不動産の相続の際、限嗣封土権(fee tail)は、「男子のみ相続可能(fee tail male)」「女子のみ相続可能(fee tail female)」「特定の者のみ相続(fee tail special)」とあったそうです。)
→他のサイトに書いてありました。

相続の仕方にも違いがあるってことか…。



それでも、レディ・キャサリンは甥のダーシーさんと自分の娘が結婚するのが道義的にも正しいはずだ、と思っているんですよ。
それなのに、どこの馬の骨ともわからないエリザベスが、まるでトンビが油揚げをかっさらうようにして、自分の甥と結婚するのが許せなかったんでしょう。
この人の結婚観というのは、家の財産のために結婚するのですよ。
だけど、エリザベスはもうちょっと啓蒙された人間で、お互いに尊敬しあい、理解しあい、愛し合える二人だからこそ、結婚するんですね。そりゃ財産があったほうがいいに決まってます。




もともとイギリスは上流階級の人口がフランスなんかと比べてものすごく少ないんだそうです。

で。じゃあ上流階級と中産階級とどこが違うと思うでしょ?
それはたぶん、「働いているか」どうかなんだと思うんですよね。
いくらお金もちでも、商売していたら「中産階級」。そこに身分の差が生じるんでしょうね。

たしか、「ミス・ポター」って映画みたとき、ベアトリクス・ポターはジェントリだったのに対し、ユアン・マクレガーが演じていた恋人は印刷屋さんで働いていたので、ポターの家の人が「あんな家の男と!」って軽蔑していたのを思い出しました。


まぁ、こういう状態が第一次世界大戦が終わるまで続くのですね。
自由・平等・友愛と一言で言いますが、なかなか実現するのには時間がかかったってことですよ。




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揺れる年ごろ  『17歳』 [読書・映画感想]

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皆さま、おはようございます。

今日は、趣向を変えておフランス映画を紹介したいなと思います。

タイトルはですね。『17歳』。
まぁ、多感な17歳の少女の『ヰタ・セクスアリス』的な話なのかな。
いかにも、フランスならではという、お国柄がしのばれるような映画ですね。

アメリカだったらこういうの『ジュノ』とか『青い珊瑚礁』みたいな話になるんだけど、
フランスはもうちょっと複雑かなぁ。

主人公のイザベルは17歳。結構裕福な家に育っている高校生です。そしてとてもきれい。
通っている高校が『アンリ四世』高校ってあるから、
すごく名門の進学校へ行っているんだと思うのね。
日本だったら、日比谷高校とか戸山高校とかそんな感じなのかな。

イザベルには一見なにも悩みがなさそうに見えるのですね。


イザベルは夏、一家で南のほうにヴァカンスへ行ったのだけど、
そのとき出会ったドイツ人の男の子といい仲になったんです。

イザベルはそのとき、ちょっとした失望を感じたのですね。
もうちょっと本に書いてあるような、スリリングでめくるめく快感があるかと思っていたのに。
相手の男の子は自分のことばかりに夢中で、ぜんぜん自分を女性として
大切に扱ってくれなかった…みたいな。
そこでイザベルはルックスがいい男の子への興味を失ってしまう。


イザベルの一家は弟と、義理の父親と母親といった構成です。
イザベルも美人ですが、母親もとてもきれいな人です。
母親も日本お母さんみたいに妙に厳格な教育ママではなく、かといって放置でもなく、
立派なお母さんだと思うんですね。
また、このお母さんは別に娘の若さや美貌や将来性に嫉妬しているわけでもないです。
だってこの人は、新しい伴侶に恵まれてるし、自分も仕事を持っているし、
未だに美しさを失っていないです。
家庭と仕事をきちんと両立していました。

「17歳だったら、当然そういう経験を積むべき」ぐらいに思っていて
別段、そのドイツ人の男の子とのことを禁止しているわけでもなかった。
「お母さんだって、若い頃はバカなことをいっぱいしてきたの」
って若い子の心理にも理解がある。

ですが、どういうわけか、別段お金にも困っているわけでもないのに、
イザベルは売春に走るようになったんですよね。
それも、おじさんばっかり。

結構、おじさんたちもお金払ったら、イザベルに「そこまでやらせるか?」みたいなことを
要求するんですよね。

だからといってイザベルは性の快感におぼれたとか、なにかコンプレックスがあって
おじさんが好きとか、そういうわけでもないのですね。
また、日本人で売春する子のよくある理由のひとつの
ブランドものがほしいからでもないらしい。


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結構もう、おじいさんといってもいい男が常連さんになっていたのですが、
その人がいわゆる腹上死をしてしまうのです。

びっくりしてなんとか自分がもっている知識を総動員して蘇生を図ろうとするイザベルですが
そうは問屋が卸さないのですね。
びっくりして、額を角にぶつけてけがをして、急いでその場を離れるのです。

そういう一件があって、イザベルの所業は親の知るところとなりました。
お母さんは大ショックです。

性の経験を積んだらいいとは思ったけど、それはあくまでも恋愛の範囲だけのこと。
こんな売春なんて想像してませんでした。

「どうして、こういうことをするの!」
「これは、あたしの人生でしょ? あたしの勝手じゃない」
「なんですって、わたしはあなたの母親なのよ、平静でいられるわけないでしょ?」
と言って、母親はイザベルを何度もたたく。
「あんたはピュタン(売女)! ピュタンが私の娘だなんて!」
 
母親は泣く。

フランスは未成年が売春すると、それは基本的には未成年者が被害者となるので、
強制的にカウンセリングを受けさせられるのですね。

イザベルはどうして、こんなふうな行為に走ったか。

それは本当の父親がいなかったから、疑似的父親が欲しかったからじゃないのか。
母親の愛が足りなかったからじゃないのか。


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などなど、カウセラーはあれこれと原因を探るのですが、本当のことはわからないんですね。
お母さんも「あたしがあの子に対して至らないところがあったのかしら」って結構悩むんですよね。
義理の父親が「まぁ、あの子はキレイだから…。いろいろと誘惑があるんだろうね」ともいい、
カウンセラーは「イザベルは限界を乗り越えようとしているチャレンジャーなんだ」
などと考えていたりするのですね。

映画は安易な結論を出さず、答えを見ている人にゆだねたまま、終わるのです。


人間の精神世界はもの善悪だけではとらえられない不可解もあるってことです。
監督はフランソワ・オゾンって人ですが、
「身体の衝動と心が結びついていない」少女と言ってました。
このまま、イザベルはちゃんとした女性になって幸せになる可能性もあるし、
また売春を重ねる可能性もある。

だけど、それは親の育て方が悪いとかそういうもんでもないんだね、ってそういうメッセージが含まれているのかも…。




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apple パスワード [雑文]

スマホを見ると、i cloudのストレージがいっぱいでアップデートできません、と
しつこく表示が出ます。

別にアップデートしなくてもいいのだけど、根負けしてしぶしぶ、アップデートできるようにしようかなと思うのだけど、これがなかなか。

要するに、金払って容量を大きくせいよ、とのことなのですが、アップルのパスワードがわからない。

いつも、忘れてしまうので、画像をとっておいて後で、と思うのだが、その画像ですらどこかへ行ってしまって~~。

で、アップルのパスワードは忘れたら、そのたび新しいパスワードに替えなければならない。
ってか、どれもこれもみんなパスワードばかり要求されるので、そんなにチマチマおぼえていられるはずもなく、みんな一緒にしてあるのに、なんかの表紙で一度替えてしまうと次、思い出すのが大変なのです。

まぁ、今回は変更したあと、几帳面な夫に「アップルのパスワードをノートにつけておいて」
と夫の手帖にわたしのパスワードを記入して事なきを得たのでした。

最終的には手書きが一番安全かもね。
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SNSの応答 [雑文]

皆さま、こんにちは。

急に寒くなってきましたね。体温調節にお気をつけください。





皆さまの中にもたくさんのSNSを閲覧されていたり、私のようにブログを作って日頃自分が考えていることなどを発信されている方も多いかなと思います。

日頃、私が気を付けていることがあるのですが、
それは「自分の意見が絶対に正しいと思わないこと」なのですね。

というのも、自分の経験からこの場で自分が
「こうなんじゃないのかなぁ」と書いたことに対して、
「いや、実はね、ここは本当はこうだと思いますよ」、
「文献はここに出ていますよ」
などと教えていただいて、それが本当に自分の血肉となったことが本当に数えきれないほどたくさんあったからなのです。


ですが、もともと自分の考えを他人にわかるように書き表そうとするには、結構字数がいるものなのです。ですので、「この景色キレイですね!」とか「面白いですね!」などと短いコメント以外では、ツィッターなどのツールはあんまり使わないようにしているのです。

というのも、やはりあの限られた字数では、読む人に誤解を与える危険も無きにしも非ずと思えるからなのです。

たまに、自分とは感性の違う人が、興味あるテーマで語っているのを見ることがあります。
そういうとき、ディベートしてみたい、と思うときがあるのです。
でも、たいていは、ほとんどしません。

というのは、人にもよるのですが、反論を提起したとしても、やはり人格を否定されたと思って、
雲行きが悪くなることもあります。

でも、よく考えれば見ず知らずの人に急に自分の思うことを反論などされると、やはり気分のよいものではないと思うのですね。
ですから、そこへ至るまでの距離感をつかむのが非常に難しいと思うのです。

まして、SNSはレスポンスをする相手のことが皆目わからないので、匿名性があってそれがよい方向に向かう場合とそうではない場合があると思うのですね。

まぁ、そう言っているわたしなども、今は冷静にこんなことを書いていますが、
やはり熱くなってブチギレてしまうことがあるので、
本当に慎重にしなくてはと、自分に言い聞かせているのです。


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